2025/09/14 Sun 01 「総士、おれこの人あまり好きじゃない」 目の前の少年は大きな瞳で甲洋を睨みつけてそう言った。 視線を交わしてわずか数秒。出し抜けに吐き捨てられた言葉に、甲洋は思わず丸くした目を瞬かせる。 「な、なんだ? 来主、突然なにを言いだすんだお前は」 来主と呼ばれた少年の背後で、保護者である皆城総士が困惑の表情を浮かべた。華奢な肩を上から押さえつけるように抱き、その顔を覗き込んで窘める。 少年は総士を見て、不満そうな顔で「だって」と何かを言いかけたが、総士が首を左右に振ったのを見てむうっと唇を尖らせた。 「だってじゃない。今すぐ非礼を詫びるんだ」 「あはは、いいよ総士。俺は別に気にしないから」 「いやしかし……」 「いいって。ほら、それより座って」 甲洋は内心の動揺をひた隠し、何食わぬ素振りでふたりを席に促した。店内は無人とはいえ、いつまでも扉の前で立ち話というのもなんである。 「ふたりともアイスコーヒーでいい?」 「すまない。ひとつはオレンジジュースで頼む」 「了解」 ふたりを店の中央テーブルに座らせ、甲洋は一度カウンターの奥に引っ込んだ。手早く用意したドリンクを運びながら戻ると、彼らの向かいに腰掛ける。 「それにしても似てるな。昔のお前に」 甲洋は総士の横に座っている少年の顔を見つめると言った。 柔らかそうな亜麻色の髪と、青年の域に手が届くかどうかという膨らみを帯びた頬。少女と見紛うほどだった少年時代の総士と、瓜二つとまでは言わないがうっすらと面影がある。 「我が強くてわがままだ。少し甘やかしすぎた」 甲洋の言葉を暗に否定するように、総士がため息まじりに言った。ぶすっとした顔で目も合わせようとしない少年を見て、なるほど確かに面影があるのは外見だけだと甲洋は思う。総士がこのくらいの年の頃は、これよりも遥かに大人びて礼儀も弁えていた。 総士は不貞腐れた顔の少年を肘で軽くこついた。それから小声で「挨拶を」と促すと、彼は渋々といった様子で甲洋を見る。 「……来主操。はじめまして」 実に面白くなさそうにそう言うと、操はペコリと頭をさげた。そしてまたそっぽを向いてしまう。その態度や声、表情の全てからはっきりと甲洋への拒絶が伝わってきた。 果たしてなにが彼をそこまで不快にさせたのか。全く心当たりがないまま、甲洋はただやんわりと笑みを繕うにとどめる。 冷えたグラスの中で、オレンジジュースに溺れた氷が鋭くひび割れた音を立てた。 * 操がこの竜宮島へやってきたのは、今から二年ほど前のことだった。火事で家族を一度に亡くしたという彼には身寄りがなく、遠い親戚筋にあたる皆城家に引き取られる形で島に移住してきたのだという。 しかし甲洋は彼がここに来た頃のことを知らない。二年前といえば、甲洋は島の外で一人暮らしをしている真っ只中だったのだ。 甲洋が島を出たのは両親との親子関係の不和が主な理由だった。 父も母も息子にはまるで興味を示さず、甲洋は幼い頃からただの一度だって愛されているという実感を得たことがない。 高校を卒業したらここを出ると言ったときも、ただ冷たく「ああそう」と言われるだけだった。同様に島を離れる友人たちと船に乗り込んだとき、見送りに訪れなかったのは甲洋の両親だけだった。 父が初めて連絡をよこしたのは、それから五年も経ってからのことだった。そのとき母との離婚を知らされた。今後はそれぞれ島を出るつもりでいるということも。 彼らはもともと島の人間ではない。田舎暮らしへの憧れから移住してきたにすぎない、根っからの都会人だった。脱サラして喫茶店をオープンさせたが、想像以上に不便を強いられる島での暮らしに、長年の不満がついに爆発したといったところか。夫婦関係に軋轢が生じはじめていたことは、甲洋も薄々ながら感じていたことだった。 ふたりとも島を出る以上、当然店も畳むことになる。けれどもしお前にその気があるのなら好きにしろと、父は他人事のようにそう言った。 実際のところ、甲洋と彼らの間に血の繋がりはなかった。子宝に恵まれなかった夫婦が、店の跡取り欲しさに施設から引き取った、所詮は義理の息子でしかない。 けれどそれも必要なくなった。両親はこうなることをずいぶん前から予見していたのだろう。島を出ていくと言ったとき反対されなかったのは、その時点で甲洋が跡取りとしての存在理由を失っていたからなのだ。 甲洋は少し迷った。両親との家族らしい思い出はなくとも、故郷を懐かしむ気持ちだけはいつだって忘れたことがなかった。魚釣りをした海、雪合戦をした広場、駆け抜けたススキの小道。あれらの景色に、変わりはないか。 総士や一騎といった幼馴染の面々も、それぞれ島を出て進学や就職を経たものの、みなポツリポツリと引き寄せられるように島へ帰っていったことを知っていた。 ならば自分もまた、島に帰ることは必然なのだろうか。なにより甲洋を外の世界へと駆り立てた存在は、もういないのだ。 友人たちをはじめ、島の人たちはみな甲洋の帰りを喜んだ。懐かしい顔が一同に会して、まるで同窓会のような空間で酒を酌み交わしていたとき、総士の口から出たのが来主操の名前だった。 大きな子供を育てているのだと、総士はほろ酔いの赤い頬で言った。一騎や真矢にもよく懐いている。島の大人たちからも可愛がられていて、へらへらといつも笑っている元気のいいヤツだと。近いうち店に連れて行くと言うので、甲洋は笑って頷いた。 総士が予告通り操を連れて店を訪れたのは、それから一週間後の出来事だった。 * 来主操と出会った日から、ひと月ほどが経過していた。 あれから総士はたまにフラリと店を訪れるが、操とは一度も顔を合わせていない。偶然なのか、あるいは故意に避けられているのか。おそらく後者だろうと、甲洋は半ば確信している。 甲洋は自身がどちらかといえば人好きのする顔立ちだということを自覚していた。そこにやんわりと受け止めるような笑みを乗せれば、初対面で悪印象を与えることはまずないはずだった。少なくとも、今まではそうだったのだ。 しかしどういうわけか、あの少年には甲洋の処世術が通じなかった。まさか初対面であんなことを言われるとは思わなかったし、その理由だって謎のままだ。いや、あるいは理由なんて存在しないのかもしれない。 ただ相性が悪かった。単純にそう割り切ることができれば、どんなに楽か。 劣悪な家庭環境に身を置き、圧倒的な愛情不足で育ったことに付随して、甲洋は他人から向けられる好悪の念に敏感だった。さりげなく人の顔色を伺う癖は、かえしのついた釣り針のように、春日井甲洋という人間の根っこに喰らいついて離れない。 相手にとって好ましい存在であるために、甲洋はどんなときも優しい人間であり続ける必要があった。だから好い顔をして、人当たりよく、決して否とは言わずに受け止める。そうしなければ、きっと居場所なんかどこにもない。 そんな甲洋にとって、来主操の存在は苦痛と恐怖以外のなにものでもなかった。 あれはいけない。二度と関わってはいけない。あれは甲洋を酷く傷つけ、ただイタズラに怯えさせる。たった一度会っただけで、お前の居場所などないのだと無条件に突きつけてきた。 避けられているならむしろ都合がいい。できることなら、なかったことにしてしまいたかった。 けれどその願いが叶うことはなかった。総士からかかってきた一本の電話。彼は言った。酷く申し訳なさそうに。 一週間だけ、操を預かってくれないか、と。 * 一ヶ月と七日ぶりだ。総士に連れられて操が店を訪れたのは。 甲洋はあの日と同じように何食わぬ顔で彼らを席に座らせ、自身もその向かいに腰掛けている。以前と違うのは、コーヒーとオレンジジュースを運んできたのは店のコックである真壁一騎で、彼もそのまま甲洋の隣に腰を落ち着けたという点だった。 昼時を過ぎた店内には自分たち四人を除いて誰もいない。ホールスタッフを担う遠見真矢は遅い昼休憩を利用して、いったん自宅に戻っているため不在だった。 「急にすまない」 相変わらず不機嫌そうな操の隣で、総士が申し訳なさそうに肩をすくめた。 甲洋はそんな総士を安心させるように微笑んで首を振ったが、内心は決して穏やかではなかった。 (──冗談だろ?) 正直なところ、それが本音である。 総士から電話が入ったのは二日前の夜のことだった。仕事で一週間ほど島の外に出るため、その間だけ操を預かってほしいのだと、彼は言った。 総士の父、公蔵は島にひとつしかない中高一貫校の校長である。そして息子もまた後を追うように教職についていた。 世間は夏休み中といえど、教師にそんなものは存在しない。公蔵も大概忙しい人で、講演会やら発表会やらで島にいないことがほとんどだった。 皆城家には乙姫と織姫という双子の姉妹もいるにはいるが、彼女たちは進学のため島を出ており、母親は幼い頃に病死している。つまり総士の留守中、操は家で一人きりになってしまうのだ。 「剣司の都合がつかなくなった。咲良の具合があまりよくないらしい」 友人である近藤剣司・咲良夫婦もまた、総士と同じく教職についていた。彼らは一年ほど前に入籍し、現在咲良は身重の身体である。 総士の出張が決まったとき、事情をよく知る剣司が操を預かると申し出てくれたが、連日の猛暑で咲良が体調を崩し、無理に頼める状況ではなくなった。 真矢はこの店で仕事をする傍ら、子育て中の姉の手助けをしているし、一騎はというと── 「ねぇ、なんで一騎は一緒に行くのに、おれは駄目なの?」 ずっと顰め面をしていた操が、いよいよ耐えきれないとばかりに声をあげた。総士と一騎が同時にギクリと肩を強張らせたことに、甲洋は気づかないふりをする。 「ほんとはふたりで遊びに行くんだ。だからおれが邪魔なんだ」 「それは違う」 総士と一騎が声を揃えて否定した。 「来主、おれが総士についていくのは、こいつがお前と同じだからだよ」 「なんでおれと総士が同じなの」 一騎は眉をハの字にしながら、幼子に語りかけるような優しい声音で先を続ける。 「ほっとけないってことさ。こいつは基本的に食うのも寝るのも後回しにするようなヤツなんだ。お前がいる手前ずいぶんマシな生活習慣になったけど、一人にしたらどうせ無理するに決まってるだろ?」 総士が咳払いをする。不本意そうではあるが、反論はしない。 「だから俺も行くんだよ。総士を監視しとかないとな」 最もらしいことを言ってはいるが、操の指摘もあながち間違ってはいないのだろうなと、甲洋は思う。 彼らの関係は一部の人間の間で暗黙の了解になっている。総士の出張が決まってすぐ、一騎はわざわざ彼が宿泊予定のホテルの別室に宿をとった。 総士の世話を焼くためというのは事実だろうが、ついでにそこで『息抜き』をするつもりでいるのだ。確かにこんな大きな子供がいたのでは、普段から満足に恋人らしいこともできやしないだろう。この場において、それに気づかず空気を読まないのは当の操だけだった。 甲洋としても、たまにはふたりでのんびり過ごさせてやりたいという気持ちはある。しかしそのしわ寄せがこちらに来るとは思いもしなかった。 だいたい操はもう十六歳だ。自分のことは自分でできて当然なはずで、たかが一週間程度の留守番くらい、放っておいたって問題はないように思える。それは操も同じ考えだったようで、彼はなおも不満そうに言い募った。 「一緒に行くのが駄目なら、おれ一人でいい。ここは嫌だ。いたくない」 操はチラリと甲洋を睨みつけ、それからすぐに目をそらす。その態度に一騎が芯から驚いた様子で目を見張った。 「どうしたんだよ来主。だってお前、前から甲洋のこと──」 「す、好きじゃないからだよ!」 操は急に声を荒げ、戸惑う一騎の言葉を遮る。一騎がなにを言うつもりでいたのかは気になるものの、操の言葉が胸に刺さって甲洋はなにも言えなかった。思いきり顔をしかめた総士が、深々と長い嘆息をもらす。 「お前はまたそんなことを……だいたい、お前は火が使えないだろう。料理どころか一人で米も炊けないくせに、偉そうなことを言うんじゃない」 「そ、それくらいできるよ! ちゃんとできるったら!」 「嘘をつくな。排水口に米をぶちまけたのはどこのどいつだ?」 「うっ!」 「積み上げていた食器を一枚残らず割ったのは?」 「あうぅ……」 ああこいつ、家事がまるでできないんだ……と、甲洋はうんざりした気持ちになった。 甲洋は独り身で家族もいないし、一騎が不在の間は後輩の西尾暉がヘルプで入ってくれることになっている。食事は店でとることになるだろうから、間違っても操がキッチンに立つことはない。 操は悔しそうに唇を噛みしめながら黙り込んでしまった。冗談じゃない。こっちだって願い下げだ。人の気も知らず不満を顕にする操に、かすかな苛立ちが込みあげる。 きっと他にいくらでも当てはあるのだ。この島の人達はみんな親切で、操は大人たちからとても可愛がられている。それでも総士が甲洋を頼ったのは、彼にとってそれが最も安心できるからに他ならない。 信頼されているということだ。その期待を裏切れば、彼らを失望させることになる。だから電話をもらった時点で、甲洋は了承してしまったのだ。操のことなどどうでもいい。ただ彼らにとって、いい幼馴染であり続けたかった。 「あまりふたりを困らせちゃダメだよ、来主」 半ば諦めの境地で、甲洋は言った。 「彼のことは俺に任せて、ふたりは安心して行っておいで。この際だから、少しくらいのんびりしてきたらいいさ」 あらかじめ用意していたシナリオをなぞるように、理想的な幼馴染として笑って見せる。一騎と総士が浮かべた安堵の笑みに、甲洋もまた深く安堵した。これが正解だ。これで大丈夫。友達を失わずにすむ。嫌われずにすむ。だから、これでいい。 操から向けられる忌々しげな視線には、気づかないふりをする。指先が凍ったように冷えていく手を、テーブルの下で強く握りしめながら。 ←戻る ・ 次へ→
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
目の前の少年は大きな瞳で甲洋を睨みつけてそう言った。
視線を交わしてわずか数秒。出し抜けに吐き捨てられた言葉に、甲洋は思わず丸くした目を瞬かせる。
「な、なんだ? 来主、突然なにを言いだすんだお前は」
来主と呼ばれた少年の背後で、保護者である皆城総士が困惑の表情を浮かべた。華奢な肩を上から押さえつけるように抱き、その顔を覗き込んで窘める。
少年は総士を見て、不満そうな顔で「だって」と何かを言いかけたが、総士が首を左右に振ったのを見てむうっと唇を尖らせた。
「だってじゃない。今すぐ非礼を詫びるんだ」
「あはは、いいよ総士。俺は別に気にしないから」
「いやしかし……」
「いいって。ほら、それより座って」
甲洋は内心の動揺をひた隠し、何食わぬ素振りでふたりを席に促した。店内は無人とはいえ、いつまでも扉の前で立ち話というのもなんである。
「ふたりともアイスコーヒーでいい?」
「すまない。ひとつはオレンジジュースで頼む」
「了解」
ふたりを店の中央テーブルに座らせ、甲洋は一度カウンターの奥に引っ込んだ。手早く用意したドリンクを運びながら戻ると、彼らの向かいに腰掛ける。
「それにしても似てるな。昔のお前に」
甲洋は総士の横に座っている少年の顔を見つめると言った。
柔らかそうな亜麻色の髪と、青年の域に手が届くかどうかという膨らみを帯びた頬。少女と見紛うほどだった少年時代の総士と、瓜二つとまでは言わないがうっすらと面影がある。
「我が強くてわがままだ。少し甘やかしすぎた」
甲洋の言葉を暗に否定するように、総士がため息まじりに言った。ぶすっとした顔で目も合わせようとしない少年を見て、なるほど確かに面影があるのは外見だけだと甲洋は思う。総士がこのくらいの年の頃は、これよりも遥かに大人びて礼儀も弁えていた。
総士は不貞腐れた顔の少年を肘で軽くこついた。それから小声で「挨拶を」と促すと、彼は渋々といった様子で甲洋を見る。
「……来主操。はじめまして」
実に面白くなさそうにそう言うと、操はペコリと頭をさげた。そしてまたそっぽを向いてしまう。その態度や声、表情の全てからはっきりと甲洋への拒絶が伝わってきた。
果たしてなにが彼をそこまで不快にさせたのか。全く心当たりがないまま、甲洋はただやんわりと笑みを繕うにとどめる。
冷えたグラスの中で、オレンジジュースに溺れた氷が鋭くひび割れた音を立てた。
*
操がこの竜宮島へやってきたのは、今から二年ほど前のことだった。火事で家族を一度に亡くしたという彼には身寄りがなく、遠い親戚筋にあたる皆城家に引き取られる形で島に移住してきたのだという。
しかし甲洋は彼がここに来た頃のことを知らない。二年前といえば、甲洋は島の外で一人暮らしをしている真っ只中だったのだ。
甲洋が島を出たのは両親との親子関係の不和が主な理由だった。
父も母も息子にはまるで興味を示さず、甲洋は幼い頃からただの一度だって愛されているという実感を得たことがない。
高校を卒業したらここを出ると言ったときも、ただ冷たく「ああそう」と言われるだけだった。同様に島を離れる友人たちと船に乗り込んだとき、見送りに訪れなかったのは甲洋の両親だけだった。
父が初めて連絡をよこしたのは、それから五年も経ってからのことだった。そのとき母との離婚を知らされた。今後はそれぞれ島を出るつもりでいるということも。
彼らはもともと島の人間ではない。田舎暮らしへの憧れから移住してきたにすぎない、根っからの都会人だった。脱サラして喫茶店をオープンさせたが、想像以上に不便を強いられる島での暮らしに、長年の不満がついに爆発したといったところか。夫婦関係に軋轢が生じはじめていたことは、甲洋も薄々ながら感じていたことだった。
ふたりとも島を出る以上、当然店も畳むことになる。けれどもしお前にその気があるのなら好きにしろと、父は他人事のようにそう言った。
実際のところ、甲洋と彼らの間に血の繋がりはなかった。子宝に恵まれなかった夫婦が、店の跡取り欲しさに施設から引き取った、所詮は義理の息子でしかない。
けれどそれも必要なくなった。両親はこうなることをずいぶん前から予見していたのだろう。島を出ていくと言ったとき反対されなかったのは、その時点で甲洋が跡取りとしての存在理由を失っていたからなのだ。
甲洋は少し迷った。両親との家族らしい思い出はなくとも、故郷を懐かしむ気持ちだけはいつだって忘れたことがなかった。魚釣りをした海、雪合戦をした広場、駆け抜けたススキの小道。あれらの景色に、変わりはないか。
総士や一騎といった幼馴染の面々も、それぞれ島を出て進学や就職を経たものの、みなポツリポツリと引き寄せられるように島へ帰っていったことを知っていた。
ならば自分もまた、島に帰ることは必然なのだろうか。なにより甲洋を外の世界へと駆り立てた存在は、もういないのだ。
友人たちをはじめ、島の人たちはみな甲洋の帰りを喜んだ。懐かしい顔が一同に会して、まるで同窓会のような空間で酒を酌み交わしていたとき、総士の口から出たのが来主操の名前だった。
大きな子供を育てているのだと、総士はほろ酔いの赤い頬で言った。一騎や真矢にもよく懐いている。島の大人たちからも可愛がられていて、へらへらといつも笑っている元気のいいヤツだと。近いうち店に連れて行くと言うので、甲洋は笑って頷いた。
総士が予告通り操を連れて店を訪れたのは、それから一週間後の出来事だった。
*
来主操と出会った日から、ひと月ほどが経過していた。
あれから総士はたまにフラリと店を訪れるが、操とは一度も顔を合わせていない。偶然なのか、あるいは故意に避けられているのか。おそらく後者だろうと、甲洋は半ば確信している。
甲洋は自身がどちらかといえば人好きのする顔立ちだということを自覚していた。そこにやんわりと受け止めるような笑みを乗せれば、初対面で悪印象を与えることはまずないはずだった。少なくとも、今まではそうだったのだ。
しかしどういうわけか、あの少年には甲洋の処世術が通じなかった。まさか初対面であんなことを言われるとは思わなかったし、その理由だって謎のままだ。いや、あるいは理由なんて存在しないのかもしれない。
ただ相性が悪かった。単純にそう割り切ることができれば、どんなに楽か。
劣悪な家庭環境に身を置き、圧倒的な愛情不足で育ったことに付随して、甲洋は他人から向けられる好悪の念に敏感だった。さりげなく人の顔色を伺う癖は、かえしのついた釣り針のように、春日井甲洋という人間の根っこに喰らいついて離れない。
相手にとって好ましい存在であるために、甲洋はどんなときも優しい人間であり続ける必要があった。だから好い顔をして、人当たりよく、決して否とは言わずに受け止める。そうしなければ、きっと居場所なんかどこにもない。
そんな甲洋にとって、来主操の存在は苦痛と恐怖以外のなにものでもなかった。
あれはいけない。二度と関わってはいけない。あれは甲洋を酷く傷つけ、ただイタズラに怯えさせる。たった一度会っただけで、お前の居場所などないのだと無条件に突きつけてきた。
避けられているならむしろ都合がいい。できることなら、なかったことにしてしまいたかった。
けれどその願いが叶うことはなかった。総士からかかってきた一本の電話。彼は言った。酷く申し訳なさそうに。
一週間だけ、操を預かってくれないか、と。
*
一ヶ月と七日ぶりだ。総士に連れられて操が店を訪れたのは。
甲洋はあの日と同じように何食わぬ顔で彼らを席に座らせ、自身もその向かいに腰掛けている。以前と違うのは、コーヒーとオレンジジュースを運んできたのは店のコックである真壁一騎で、彼もそのまま甲洋の隣に腰を落ち着けたという点だった。
昼時を過ぎた店内には自分たち四人を除いて誰もいない。ホールスタッフを担う遠見真矢は遅い昼休憩を利用して、いったん自宅に戻っているため不在だった。
「急にすまない」
相変わらず不機嫌そうな操の隣で、総士が申し訳なさそうに肩をすくめた。
甲洋はそんな総士を安心させるように微笑んで首を振ったが、内心は決して穏やかではなかった。
(──冗談だろ?)
正直なところ、それが本音である。
総士から電話が入ったのは二日前の夜のことだった。仕事で一週間ほど島の外に出るため、その間だけ操を預かってほしいのだと、彼は言った。
総士の父、公蔵は島にひとつしかない中高一貫校の校長である。そして息子もまた後を追うように教職についていた。
世間は夏休み中といえど、教師にそんなものは存在しない。公蔵も大概忙しい人で、講演会やら発表会やらで島にいないことがほとんどだった。
皆城家には乙姫と織姫という双子の姉妹もいるにはいるが、彼女たちは進学のため島を出ており、母親は幼い頃に病死している。つまり総士の留守中、操は家で一人きりになってしまうのだ。
「剣司の都合がつかなくなった。咲良の具合があまりよくないらしい」
友人である近藤剣司・咲良夫婦もまた、総士と同じく教職についていた。彼らは一年ほど前に入籍し、現在咲良は身重の身体である。
総士の出張が決まったとき、事情をよく知る剣司が操を預かると申し出てくれたが、連日の猛暑で咲良が体調を崩し、無理に頼める状況ではなくなった。
真矢はこの店で仕事をする傍ら、子育て中の姉の手助けをしているし、一騎はというと──
「ねぇ、なんで一騎は一緒に行くのに、おれは駄目なの?」
ずっと顰め面をしていた操が、いよいよ耐えきれないとばかりに声をあげた。総士と一騎が同時にギクリと肩を強張らせたことに、甲洋は気づかないふりをする。
「ほんとはふたりで遊びに行くんだ。だからおれが邪魔なんだ」
「それは違う」
総士と一騎が声を揃えて否定した。
「来主、おれが総士についていくのは、こいつがお前と同じだからだよ」
「なんでおれと総士が同じなの」
一騎は眉をハの字にしながら、幼子に語りかけるような優しい声音で先を続ける。
「ほっとけないってことさ。こいつは基本的に食うのも寝るのも後回しにするようなヤツなんだ。お前がいる手前ずいぶんマシな生活習慣になったけど、一人にしたらどうせ無理するに決まってるだろ?」
総士が咳払いをする。不本意そうではあるが、反論はしない。
「だから俺も行くんだよ。総士を監視しとかないとな」
最もらしいことを言ってはいるが、操の指摘もあながち間違ってはいないのだろうなと、甲洋は思う。
彼らの関係は一部の人間の間で暗黙の了解になっている。総士の出張が決まってすぐ、一騎はわざわざ彼が宿泊予定のホテルの別室に宿をとった。
総士の世話を焼くためというのは事実だろうが、ついでにそこで『息抜き』をするつもりでいるのだ。確かにこんな大きな子供がいたのでは、普段から満足に恋人らしいこともできやしないだろう。この場において、それに気づかず空気を読まないのは当の操だけだった。
甲洋としても、たまにはふたりでのんびり過ごさせてやりたいという気持ちはある。しかしそのしわ寄せがこちらに来るとは思いもしなかった。
だいたい操はもう十六歳だ。自分のことは自分でできて当然なはずで、たかが一週間程度の留守番くらい、放っておいたって問題はないように思える。それは操も同じ考えだったようで、彼はなおも不満そうに言い募った。
「一緒に行くのが駄目なら、おれ一人でいい。ここは嫌だ。いたくない」
操はチラリと甲洋を睨みつけ、それからすぐに目をそらす。その態度に一騎が芯から驚いた様子で目を見張った。
「どうしたんだよ来主。だってお前、前から甲洋のこと──」
「す、好きじゃないからだよ!」
操は急に声を荒げ、戸惑う一騎の言葉を遮る。一騎がなにを言うつもりでいたのかは気になるものの、操の言葉が胸に刺さって甲洋はなにも言えなかった。思いきり顔をしかめた総士が、深々と長い嘆息をもらす。
「お前はまたそんなことを……だいたい、お前は火が使えないだろう。料理どころか一人で米も炊けないくせに、偉そうなことを言うんじゃない」
「そ、それくらいできるよ! ちゃんとできるったら!」
「嘘をつくな。排水口に米をぶちまけたのはどこのどいつだ?」
「うっ!」
「積み上げていた食器を一枚残らず割ったのは?」
「あうぅ……」
ああこいつ、家事がまるでできないんだ……と、甲洋はうんざりした気持ちになった。
甲洋は独り身で家族もいないし、一騎が不在の間は後輩の西尾暉がヘルプで入ってくれることになっている。食事は店でとることになるだろうから、間違っても操がキッチンに立つことはない。
操は悔しそうに唇を噛みしめながら黙り込んでしまった。冗談じゃない。こっちだって願い下げだ。人の気も知らず不満を顕にする操に、かすかな苛立ちが込みあげる。
きっと他にいくらでも当てはあるのだ。この島の人達はみんな親切で、操は大人たちからとても可愛がられている。それでも総士が甲洋を頼ったのは、彼にとってそれが最も安心できるからに他ならない。
信頼されているということだ。その期待を裏切れば、彼らを失望させることになる。だから電話をもらった時点で、甲洋は了承してしまったのだ。操のことなどどうでもいい。ただ彼らにとって、いい幼馴染であり続けたかった。
「あまりふたりを困らせちゃダメだよ、来主」
半ば諦めの境地で、甲洋は言った。
「彼のことは俺に任せて、ふたりは安心して行っておいで。この際だから、少しくらいのんびりしてきたらいいさ」
あらかじめ用意していたシナリオをなぞるように、理想的な幼馴染として笑って見せる。一騎と総士が浮かべた安堵の笑みに、甲洋もまた深く安堵した。これが正解だ。これで大丈夫。友達を失わずにすむ。嫌われずにすむ。だから、これでいい。
操から向けられる忌々しげな視線には、気づかないふりをする。指先が凍ったように冷えていく手を、テーブルの下で強く握りしめながら。
←戻る ・ 次へ→