2025/09/14 Sun 06 六日目の夕方。 甲洋は自室で一騎からの電話を受けていた。 「どう? そっちは。少しはゆっくりできてる?」 どろりと溶けたような夕焼けが室内を照らすなか、甲洋は携帯電話を耳に押し当て、ベッドの縁に腰掛けていた。 『おかげさまで。ごめんな、遠見や暉にまで迷惑かけて』 「迷惑なんて誰も思ってないよ。こっちはなんとかやってるし。それより総士は?」 『総士なら今ごろ家族で団欒してるよ。妹さんたちと親父さんも、こっちにいるから』 「なるほど。置いてきぼりで暇してるわけだ、一騎は」 そんなことないよと、一騎が苦笑する。それから少し声のトーンを落とし『来主はどうしてる?』と心配そうに問うてきた。 「ああ、来主なら──」 操は甲洋を跨ぐようにして傍にいた。 下半身はなにも身に着けず、たくし上げたシャツの裾を噛み締めて震えている。肌を赤く色づかせ、ふ、ふ、と苦しそうに息を漏らしていた。 ふたりの身体の中心では、操の幼い雄がけなげにそそり勃っている。限界まで高ぶらされたそれはピクピクと脈打ち、透明な涙を溢れさせていた。 けれどそれは操自身の手によってきつく握り込まれ、せき止められている。一人で勝手に出してしまわないように、話が終わるまで握っていろと甲洋が命じたからだ。 もとより達する寸前で幾度も焦らしながらその反応を楽しんでいたところに、一騎から電話が来てしまったのは事故にも等しい。小刻みに身を震わせながら必死で堪えている姿は、甲洋の中にあるサディスティックな感性を刺激してやまなかった。 「ぅ……ふ……っ、……ん、く……っ!」 操はぎゅうと肩をすくめ、苦しそうに眉根を寄せている。甲洋はイタズラな笑みを浮かべて、先走りを滲ませる先端を指先でくるくるとなぞってやった。 「んっ、くうぅっ、ん……ッ!」 びくんと腰を震わせながら、操は嫌々と首を振りたくった。くぐもった悲鳴が、噛み締めたシャツにじわりと染みを作っている。 性器を握り込んでいる指先は力みすぎて白く染まっていた。それでは痛いだけだろうと、甲洋はその手を外させて、代わりに自分の人差し指と親指で輪っかを作ると、絶妙な力加減で根本を戒めてやった。 「ッ、ひ……ぅ……!」 「元気にしてるよ、すごく」 『そっか、ならいいんだけど……なぁ甲洋、今ってそばに誰かいるのか?』 「ああ、ごめん。外でずっと猫が盛ってるんだ」 ああなるほどと、一騎はあっさり納得した。盛っているのはお前のところの子猫だよと、そう言ってやりたいような気持ちを押し込め、喉の奥で微かに笑う。 一番いいところで生殺しにされている操は、甲洋の肩に縋りながら必死で快感を堪えていたが、どうにかして気を引こうと考えたのか、手を下へ伸ばすと甲洋の身体の中心をまさぐりだした。 「あっ、こら来主……そこはダメだって」 『来主? そばにいるのか?』 「うん。ずっと俺の部屋にいるよ。イタズラ好きで困ってるところ」 操は不器用な手つきで甲洋のパンツのボタンとファスナーを外そうとしている。だがなかなかうまくできずに焦っている様子だった。 そうとも知らず、一騎が安堵と微笑ましさを滲ませながらくすりと笑った。 『よかった。うまくやってるんだな』 「まぁね。最初はどうなることかと思ったけど」 たった数日で変わってしまった関係性に、甲洋はしみじみと目を細める。毛を逆立てて威嚇する子猫のようだった姿が、今ではいっそ懐かしく感じられた。 「来主、イタズラばかりしてないで。ほら、お前の大好きな一騎だよ」 わざとらしいまでにうっそりと微笑み、歌うような軽やかさで言った。電話を耳から離し、そっと差しだす。操は手をとめ、とろりとした瞳でそれを見下ろした。だらしなく開かれた唇から、湿ったシャツの裾が落ちる。 さて、彼はどうするだろう。もし操がその手でこれに触れたなら。どうしてやろう。戒めている性器をめちゃくちゃに扱き上げて、一騎が聞いているなかでイカせてやろうか。 甲洋の中には破滅的ともいえる、奇妙で危うい衝動が沸き起こっていた。 穏やかに微笑むその裏で、細めた瞳は射抜くように操を捉えて離さない。 一秒、二秒。三秒目で、彼は電話を見下ろしたまま緩く小首を傾げて見せた。それからふっと視線を逸し、甲洋の頭を抱き込むようにして首に縋りついてくる。彼は甘えた仕草で耳たぶに鼻先を擦りつけて、吐息だけで「ねぇ早く」と、言った。 「ッ!」 ぞくりとして息をのむ。電話から『来主?』という一騎の声が漏れ聞こえた。 「あ、ああ。ごめん一騎……来主は、今ちょっと出られない」 『うん? そっか、いいよ別に』 上ずってしまいそうになる声でどうにか答えると、一騎は特に疑問を抱いたふうもなくさらりと流す。電話をよこしたのが彼でよかった。総士の方だったら、とっくに怪しまれていたに違いない。 えらく質の悪い遊びだ。この期に及んで、甲洋はまた操を試してしまった。そのくせ彼が期待に応えると面食らってしまう。面倒臭い矛盾を抱えているものだと、自分に呆れる。 けれど一拍おいて込み上げる喜びが、蕩け落ちてしまいそうなくらい甘美なものであることを、甲洋は知っていた。 『とにかく安心したよ。ずっと気になってたから』 それから一騎は一瞬だけ間を置いて『前にさ』と、静かな声で切り出した。 『来主のやつが、泣きながら帰ってきたことがあって』 「泣きながら?」 『──あ、ごめん甲洋、総士が戻ってきた』 一騎はいったん電話を離し、戻ってきた総士と二三言葉を交わしているようだった。 甲洋は傾けた首と肩で電話を挟んで固定した。自由になった腕で細腰を抱き寄せ、幾度かゆるゆると性器を扱いて刺激してやる。 「ふ……ッ、ぅ、くっ、ぅんん……っ」 操は背中を丸めて甲洋の肩口に額を擦りつけた。むずがるような声に興奮を覚えながらも、一騎が言いかけていた言葉の先も気になっている。 操が泣きながら帰ってきた。それはどういう意味で、そのとき彼の身になにが起こったというのだろう。あの流れで切り出されたからには、そこに自分も関係しているのだろうか。 本人に聞けば手っ取り早そうだが、今の操は口がきける状態ではない。 最近、こういうことが多いなと思った。総士たちが旅立つ当日、四人でテーブルを囲んだときも、一騎はなにかを言いかけていた。真矢だってそう。ずっと気になっていたが、この分だと今ここで確かめるのは難しそうだ。 総士も戻ってきたようだし、実のところ甲洋もあまり長くは遊んでいられない。下の階ではそろそろ夜の準備に忙しくなるころだ。 なにより、操がいよいよ限界だった。彼は真っ赤な顔ですすり泣き、期待に膨らんだ性器を充血させている。じわじわと加減しながらさらに扱いてやると、甲洋を跨いでいる内腿が可哀相なくらいプルプルと痙攣した。その痴態に、思わず熱のこもった息が漏れる。 「こぉ、よ……も、ゃぁぁ……っ」 「もう少しだから。待ってて」 『悪い甲洋、そろそろ切るよ。そっちもちょうど忙しくなる時間だろ?』 「うん。そうしてもらえると助かるかな」 平静を装って受け答えをしながらも、操を追い上げる手は止めない。 「ひ、っく……っ、ふ……うぅ……」 『明後日には帰るよ。午前中の船に乗るから』 「ああ、わかった」 「こ、ょ……ィッ、く、ぅ」 『じゃあ、来主によろしくな。いっぱいお土産買って帰るからさ。伝言頼むな』 「──ん、いいよ」 通話が切れると同時に、操が達した。彼は甲洋の首にしがみついたまま、大きく身をしならせて白濁を撒き散らす。 「──……ッ!! ふあぁ、ッ……ん……あぅ……あ、ぁー……っ」 引き攣れる呼吸の合間にか細い鳴き声を漏らし、女のようにビクビクと身を震わせながら、やがてぽっきりと枝が折れるように弛緩する。 はかはかと浅い呼吸を繰り返す痩躯を抱きとめ、甲洋は濡れた手のひらもそのままに熱っぽい身体をひっくり返してベッドへ押し倒した。 「ッ、んぁ……っ」 余韻の抜けない身体は神経が剥き出したように敏感で、断続的に痙攣しながらも覆いかぶさる甲洋の唇を受け止める。 舌を絡ませて、思うままに貪りながら吸い上げた。操は小さく痩せた舌でそれに応え、必死で甲洋の背にしがみつくと合間に上ずった呻きを漏らす。 夢中で狭い口腔を蹂躙しながらも、甲洋は頭の片隅で一騎の言葉を思いだしていた。明後日には、ふたりが七泊八日の滞在を終えて島に戻ってくる。こうして過ごせる操との時間は、今日を含めてあと二日しかない。 甲洋はその現実から逃げるように、より深くその唇に溺れていった。 「ふ、ぁ、んむ……ぅ、ッ、けほっ、けほ……っ!」 溢れた唾液を飲み込みきれず、操がむせた。名残惜しく糸をひきながら唇を開放すると、その呼吸が落ち着くまでのあいだ、乱れる前髪を掻き上げるようにして優しく撫でた。むき出しになった汗ばむ額に、そっと小さなキスをする。 「いい子だったね、来主」 「こぅ、よ」 操は物欲しそうに甲洋を見上げた。快楽の味を知って間もない少年が、いとけなく雄を誘うために瞳を潤ませている。密かに喉を鳴らしながら、甲洋はゆるゆると首を左右に振った。 「ダメ。そろそろ下に戻らないと」 本音を言えば、このまま深く抱き合いたい。初めてのときは酷くしてしまったから。今度は隅々まで丁寧に愛撫して、痛みなど感じさせないくらいとろとろに蕩けさせてから、貫いて欲を満たしたかった。 けれど時間がそれを許してくれそうにない。仕方なく離れようとした甲洋の首に、操の両腕が絡みつく。ぐっと力いっぱい引き寄せられて、咄嗟に体勢を崩してしまった。 「ぅわっ」 甲洋は思い切り操の上に倒れ込んでしまった。胸と胸が隙間なく合わさり、そこからドキドキという大きな鼓動が伝わってくる。 「あ、危ないだろ」 「だって、甲洋……」 赤い頬ととろけた瞳で、操が言った。もじもじと身じろぐ彼の太腿あたりに、硬くなった甲洋のものが当たっている。 「……しょうがないだろ」 照れ臭くなって、甲洋も思わず頬を染めた。 あんな姿を見せられれば、こうなってしまうのは仕方ない。情けないくらい膨らんだそこが、下着とパンツに押さえつけられて痛いほどだった。 これは一度すっきり出してしまわないと、店にも下りられないのではないか。時間を稼ぐ大義名分を得た甲洋は、机の上のデジタル時計にチラリと横目を走らせた。 あと10分だけ。簡単に処理するくらいなら、どうにかなるだろうか。こうやって、人は目先の快楽に堕落していくのだ。猿にでもなったような気分だった。 ほとんど諦めの境地で薄い身体を抱きしめると、操が嬉しそうに甲洋のこめかみに頬を擦りつける。 「春日井先輩! すみません、ちょっといいですか?」 そのとき、下から暉の声がした。 甲洋はハッと我に返り、慌てて「いま行くよ」と返事をすると、深い溜息をついた。これはなにがなんでも、根性だけでどうにか鎮めるしかなさそうだった。 「……やっぱりダメ。これ以上はサボれない」 情けなく苦笑しながら、寂しそうに尖った唇に小鳥のようなキスをする。 「汗かいたろ。ご飯ができたら呼ぶから、軽くシャワーでも浴びといで」 「……わかった」 「そんな顔しないで。続きは、夜になったらね」 身を起こし、指先で亜麻色の髪をサラサラと撫でながら言うと、操は赤かった頬を一層ぽうっと染め上げて「ん」と小さく頷いた。 * 毎週水曜日は、喫茶楽園の定休日になっている。 店内には午前中の明るい日差しが降り注ぎ、まったりとした静かな時だけが流れていた。 甲洋と操はいつもより少し遅めに起床して、店のカウンター席で朝食をとった。 トーストに塗るジャムの種類を聞くと、操は少し枯れた声で「りんご」と答える。甲洋はバターを塗ったパンを少しかじっただけで、あとはずっとコーヒーを飲んでいた。 「甲洋、元気ないね」 ジャムで口の端を汚した操が、隣に腰掛ける甲洋へ身体を向け、顔を覗き込んでくる。上の空だった甲洋は、目を丸くしたあと笑ってナプキンを手にとった。口の端をそれで拭ってやりながら「そう?」と小首を傾げると、操はどこか寂しそうな顔をしながら瞳を揺らした。 「寂しい?」 「……どうしてそう思うの?」 一瞬ドキリとしながら問いかけると、操は「だって」と口をもごもごさせながら少しだけ俯いた。 「ひとりぼっちでいるみたいな顔してるんだもん。甲洋」 落とされた言葉に芯を突かれたような気にさせられて、また心臓が跳ねる。顔にも態度にも出てしまっていたかなと、甲洋は苦笑した。 七日目の朝。 明日の午後には、総士たちが帰ってくる。 甲洋の嘘と支配は、彼らが島にいないということが前提の上に成り立っていた。甲洋は操の尊厳と無垢な心を踏みにじり、その場しのぎで飢えを満たしていたに過ぎないのだ。 けれど明日になればふたりは当然のように帰ってきて、そこで彼の心は正しく開放されるだろう。 そうして蜜月の時は終わりを告げる。 (年貢の納め時、ってやつかな) 蛮行を重ねたわが身をあざけりながら、甲洋はふと操の鎖骨あたりに幾つかの鬱血の痕が残っていることに気がついた。それは明け方近くまで抱き合いながら、甲洋が刻んだ印だった。明日にはまるで意味をなさなくなる所有の証に、どうしようもなく虚しさが込みあげる。 そこから目を逸らすように、さりげなく操の襟に手を伸ばすと位置のズレを直して上手い具合にマークを隠す。 すると俯いていた操が顔をあげ、揺れる瞳で甲洋を見上げた。それがどこか気遣わしげに見えて、どうして彼がこんな表情を見せるのか分からないまま、その頬に触れると唇に触れるだけのキスをした。 りんごの甘酸っぱい香りが広がって、操の顔がほんのりと桃色に染まる。 可愛いなと、甲洋は思った。子供っぽい丸い頬も、熱を帯びたような潤んだ瞳も。どうして俺のものじゃないんだろう。どうして、俺のものにはならないんだろう、と。 「大丈夫。寂しくないよ」 ひどい空虚感に押し潰されそうになりながら、甲洋はまたひとつ、操に嘘をついた。それでも彼は安堵したようにふにゃりと笑う。 「あのね甲洋」 「なに?」 「ずっと話したいと思ってたことがあるんだ。君に。聞いてくれる?」 「もちろん」 「おれ、前にね、ここで君の──」 ──コン、コン、コン そのとき、操の言葉を遮るようになにかをノックする音が聞こえた。 ふたり同時に音のする方へ目を向ける。するとガラス張りの窓の向こうで、買い物かごを下げた真矢が笑顔で手を振っている姿が見えた。その横にはぴょんぴょんと元気に飛び跳ねて店を覗き込んでいる、小さな女の子の姿もある。 「遠見?」 「美羽もいる」 またかこのパターンかと少しだけ溜息を漏らしたい気持ちになりながら、甲洋は席を立って店の出入り口へ行くと、鍵を外して扉を開けた。 「おはよう、遠見。どうかした?」 「春日井くんおはよ。ごめんね、通りがかったらふたりが見えたから」 その言葉に、少しドキリとする。見られていたかもしれない。キスをしているところを。けれどすぐに、もしそうだったら、彼女ならきっと見なかったふりをして、そのまま通り過ぎたはずだと思い直す。 「みさおちゃん! あそぼー!」 「あっ、美羽ちゃんたら!」 真矢の後ろから飛び出してきた美羽が、甲洋の横をすり抜けて店の中に入っていく。彼女はぷくぷくとした可愛らしい両腕をめいっぱい広げて、操に駆け寄っていった。 「美羽ちゃん、操くんと遊ぶんだってきかなくって。ごめんね、お休みの日に」 申し訳なさそうに眉をハの字にする真矢に、甲洋は笑って首を振る。 「いいよ、どうせすることもないし。それより遠見のほうこそ大変だな。買い物の帰り?」 「うん。お姉ちゃんに頼まれて、美羽ちゃんと一緒におつかい行ってきたとこ」 「それはお疲れ様。よければコーヒーでもどう? 美羽は来主と同じでいい?」 「ありがと、春日井くん」 真矢を店に招き入れ、彼女がカウンター席につくのに続いて甲洋はカウンターの向こうに立つ。そうしている間にも美羽が操の手を握り、中央テーブルへと引っ張っていった。 ふたりは向かい合うのではなく、仲良く隣同士の椅子に座ってなにやらお喋りをはじめる。 「仲がいいんだな、あのふたり」 「話が合うみたい。美羽ちゃんまだ三歳なんだけど……」 「来主は子供だからね」 「春日井くんてばそれ酷いよぉ」 そんなことを言うくせに、真矢はクスクスと肩を震わせて笑っている。甲洋はそんな彼女にコーヒーのグラスを手渡しながら、つられて少し笑ってしまった。 美羽は身振り手振りでなにかを一生懸命に話しているが、三歳の子供の拙い言語は支離滅裂でよく分からない。けれど操にはそれが理解できるのか、あっちこっちに飛んでいく話題にも楽しそうに受け答えをしている。適当に話を合わせているというふうでもなく、本当に同い年の子供同士がお喋りをしているようにしか見えなかった。 「ねぇみさおちゃん、きょうのよる、美羽のおうちくる?」 甲洋がふたりの席にオレンジジュースを運んでいくのと、美羽が操に唐突な誘いをかけるのは同時だった。 「どうして? なにかあるの?」 首を傾げた操が美羽の顔を覗き込む。彼女はにっこり笑って頷いた。 「きょうね、よるね、おにわでハナビするの。みさおちゃんもいっしょにやろ?」 コーヒーに口をつけていた真矢が、慌てた様子で振り返った。 「だ、ダメだよ美羽ちゃん。急に誘ったら迷惑でしょ?」 「なんで? なんでめーわくなの? 真矢おねえちゃん」 「それはえっと、その」 くるくるとした大きな瞳に見つめられ、真矢は言葉を詰まらせる。 甲洋はふたり分のジュースのグラスをテーブルに置きながら、ああそうかと納得した。 コンロの火にすら近づけない操が、花火を近くで見るなんてとても無理な話である。けれど当の操は真矢の心配をよそに、ケロリとした顔で「いいよ」と言った。 「え、でも操くん……」 操はすぐ傍らで成り行きを見守っていた甲洋を見上げる。 「甲洋も一緒なら、行く」 甲洋は思わず目を見開いた。 「花火、おれも見たい。だけど甲洋が行かないなら、おれも行かないよ」 選択は甲洋に委ねられ、ぽかんとした真矢が瞬きをしながらこちらを見ている。美羽は意味が分かっていないらしく、きょとんとした顔で小首を傾げていた。 琥珀色の瞳がゆらゆらと揺れながら甲洋を映し出している。差し迫る時の中で、そこには変わらず甲洋への絶対的な依存と信頼が浮かび上がっていた。 (ああ、まだ……大丈夫) もう少しだけ。あとほんの少しだけ。必要とされていることへの安堵と喜びが、甲洋をまたあの溺れるような多幸感で満たしていく。それは甲洋から思考する意思を奪っていった。 「いいよ。日野さんちがご迷惑でなければね」 ふわりと笑って、操の髪をくしゃりと乱した。 ←戻る ・ 次へ→
六日目の夕方。
甲洋は自室で一騎からの電話を受けていた。
「どう? そっちは。少しはゆっくりできてる?」
どろりと溶けたような夕焼けが室内を照らすなか、甲洋は携帯電話を耳に押し当て、ベッドの縁に腰掛けていた。
『おかげさまで。ごめんな、遠見や暉にまで迷惑かけて』
「迷惑なんて誰も思ってないよ。こっちはなんとかやってるし。それより総士は?」
『総士なら今ごろ家族で団欒してるよ。妹さんたちと親父さんも、こっちにいるから』
「なるほど。置いてきぼりで暇してるわけだ、一騎は」
そんなことないよと、一騎が苦笑する。それから少し声のトーンを落とし『来主はどうしてる?』と心配そうに問うてきた。
「ああ、来主なら──」
操は甲洋を跨ぐようにして傍にいた。
下半身はなにも身に着けず、たくし上げたシャツの裾を噛み締めて震えている。肌を赤く色づかせ、ふ、ふ、と苦しそうに息を漏らしていた。
ふたりの身体の中心では、操の幼い雄がけなげにそそり勃っている。限界まで高ぶらされたそれはピクピクと脈打ち、透明な涙を溢れさせていた。
けれどそれは操自身の手によってきつく握り込まれ、せき止められている。一人で勝手に出してしまわないように、話が終わるまで握っていろと甲洋が命じたからだ。
もとより達する寸前で幾度も焦らしながらその反応を楽しんでいたところに、一騎から電話が来てしまったのは事故にも等しい。小刻みに身を震わせながら必死で堪えている姿は、甲洋の中にあるサディスティックな感性を刺激してやまなかった。
「ぅ……ふ……っ、……ん、く……っ!」
操はぎゅうと肩をすくめ、苦しそうに眉根を寄せている。甲洋はイタズラな笑みを浮かべて、先走りを滲ませる先端を指先でくるくるとなぞってやった。
「んっ、くうぅっ、ん……ッ!」
びくんと腰を震わせながら、操は嫌々と首を振りたくった。くぐもった悲鳴が、噛み締めたシャツにじわりと染みを作っている。
性器を握り込んでいる指先は力みすぎて白く染まっていた。それでは痛いだけだろうと、甲洋はその手を外させて、代わりに自分の人差し指と親指で輪っかを作ると、絶妙な力加減で根本を戒めてやった。
「ッ、ひ……ぅ……!」
「元気にしてるよ、すごく」
『そっか、ならいいんだけど……なぁ甲洋、今ってそばに誰かいるのか?』
「ああ、ごめん。外でずっと猫が盛ってるんだ」
ああなるほどと、一騎はあっさり納得した。盛っているのはお前のところの子猫だよと、そう言ってやりたいような気持ちを押し込め、喉の奥で微かに笑う。
一番いいところで生殺しにされている操は、甲洋の肩に縋りながら必死で快感を堪えていたが、どうにかして気を引こうと考えたのか、手を下へ伸ばすと甲洋の身体の中心をまさぐりだした。
「あっ、こら来主……そこはダメだって」
『来主? そばにいるのか?』
「うん。ずっと俺の部屋にいるよ。イタズラ好きで困ってるところ」
操は不器用な手つきで甲洋のパンツのボタンとファスナーを外そうとしている。だがなかなかうまくできずに焦っている様子だった。
そうとも知らず、一騎が安堵と微笑ましさを滲ませながらくすりと笑った。
『よかった。うまくやってるんだな』
「まぁね。最初はどうなることかと思ったけど」
たった数日で変わってしまった関係性に、甲洋はしみじみと目を細める。毛を逆立てて威嚇する子猫のようだった姿が、今ではいっそ懐かしく感じられた。
「来主、イタズラばかりしてないで。ほら、お前の大好きな一騎だよ」
わざとらしいまでにうっそりと微笑み、歌うような軽やかさで言った。電話を耳から離し、そっと差しだす。操は手をとめ、とろりとした瞳でそれを見下ろした。だらしなく開かれた唇から、湿ったシャツの裾が落ちる。
さて、彼はどうするだろう。もし操がその手でこれに触れたなら。どうしてやろう。戒めている性器をめちゃくちゃに扱き上げて、一騎が聞いているなかでイカせてやろうか。
甲洋の中には破滅的ともいえる、奇妙で危うい衝動が沸き起こっていた。
穏やかに微笑むその裏で、細めた瞳は射抜くように操を捉えて離さない。
一秒、二秒。三秒目で、彼は電話を見下ろしたまま緩く小首を傾げて見せた。それからふっと視線を逸し、甲洋の頭を抱き込むようにして首に縋りついてくる。彼は甘えた仕草で耳たぶに鼻先を擦りつけて、吐息だけで「ねぇ早く」と、言った。
「ッ!」
ぞくりとして息をのむ。電話から『来主?』という一騎の声が漏れ聞こえた。
「あ、ああ。ごめん一騎……来主は、今ちょっと出られない」
『うん? そっか、いいよ別に』
上ずってしまいそうになる声でどうにか答えると、一騎は特に疑問を抱いたふうもなくさらりと流す。電話をよこしたのが彼でよかった。総士の方だったら、とっくに怪しまれていたに違いない。
えらく質の悪い遊びだ。この期に及んで、甲洋はまた操を試してしまった。そのくせ彼が期待に応えると面食らってしまう。面倒臭い矛盾を抱えているものだと、自分に呆れる。
けれど一拍おいて込み上げる喜びが、蕩け落ちてしまいそうなくらい甘美なものであることを、甲洋は知っていた。
『とにかく安心したよ。ずっと気になってたから』
それから一騎は一瞬だけ間を置いて『前にさ』と、静かな声で切り出した。
『来主のやつが、泣きながら帰ってきたことがあって』
「泣きながら?」
『──あ、ごめん甲洋、総士が戻ってきた』
一騎はいったん電話を離し、戻ってきた総士と二三言葉を交わしているようだった。
甲洋は傾けた首と肩で電話を挟んで固定した。自由になった腕で細腰を抱き寄せ、幾度かゆるゆると性器を扱いて刺激してやる。
「ふ……ッ、ぅ、くっ、ぅんん……っ」
操は背中を丸めて甲洋の肩口に額を擦りつけた。むずがるような声に興奮を覚えながらも、一騎が言いかけていた言葉の先も気になっている。
操が泣きながら帰ってきた。それはどういう意味で、そのとき彼の身になにが起こったというのだろう。あの流れで切り出されたからには、そこに自分も関係しているのだろうか。
本人に聞けば手っ取り早そうだが、今の操は口がきける状態ではない。
最近、こういうことが多いなと思った。総士たちが旅立つ当日、四人でテーブルを囲んだときも、一騎はなにかを言いかけていた。真矢だってそう。ずっと気になっていたが、この分だと今ここで確かめるのは難しそうだ。
総士も戻ってきたようだし、実のところ甲洋もあまり長くは遊んでいられない。下の階ではそろそろ夜の準備に忙しくなるころだ。
なにより、操がいよいよ限界だった。彼は真っ赤な顔ですすり泣き、期待に膨らんだ性器を充血させている。じわじわと加減しながらさらに扱いてやると、甲洋を跨いでいる内腿が可哀相なくらいプルプルと痙攣した。その痴態に、思わず熱のこもった息が漏れる。
「こぉ、よ……も、ゃぁぁ……っ」
「もう少しだから。待ってて」
『悪い甲洋、そろそろ切るよ。そっちもちょうど忙しくなる時間だろ?』
「うん。そうしてもらえると助かるかな」
平静を装って受け答えをしながらも、操を追い上げる手は止めない。
「ひ、っく……っ、ふ……うぅ……」
『明後日には帰るよ。午前中の船に乗るから』
「ああ、わかった」
「こ、ょ……ィッ、く、ぅ」
『じゃあ、来主によろしくな。いっぱいお土産買って帰るからさ。伝言頼むな』
「──ん、いいよ」
通話が切れると同時に、操が達した。彼は甲洋の首にしがみついたまま、大きく身をしならせて白濁を撒き散らす。
「──……ッ!! ふあぁ、ッ……ん……あぅ……あ、ぁー……っ」
引き攣れる呼吸の合間にか細い鳴き声を漏らし、女のようにビクビクと身を震わせながら、やがてぽっきりと枝が折れるように弛緩する。
はかはかと浅い呼吸を繰り返す痩躯を抱きとめ、甲洋は濡れた手のひらもそのままに熱っぽい身体をひっくり返してベッドへ押し倒した。
「ッ、んぁ……っ」
余韻の抜けない身体は神経が剥き出したように敏感で、断続的に痙攣しながらも覆いかぶさる甲洋の唇を受け止める。
舌を絡ませて、思うままに貪りながら吸い上げた。操は小さく痩せた舌でそれに応え、必死で甲洋の背にしがみつくと合間に上ずった呻きを漏らす。
夢中で狭い口腔を蹂躙しながらも、甲洋は頭の片隅で一騎の言葉を思いだしていた。明後日には、ふたりが七泊八日の滞在を終えて島に戻ってくる。こうして過ごせる操との時間は、今日を含めてあと二日しかない。
甲洋はその現実から逃げるように、より深くその唇に溺れていった。
「ふ、ぁ、んむ……ぅ、ッ、けほっ、けほ……っ!」
溢れた唾液を飲み込みきれず、操がむせた。名残惜しく糸をひきながら唇を開放すると、その呼吸が落ち着くまでのあいだ、乱れる前髪を掻き上げるようにして優しく撫でた。むき出しになった汗ばむ額に、そっと小さなキスをする。
「いい子だったね、来主」
「こぅ、よ」
操は物欲しそうに甲洋を見上げた。快楽の味を知って間もない少年が、いとけなく雄を誘うために瞳を潤ませている。密かに喉を鳴らしながら、甲洋はゆるゆると首を左右に振った。
「ダメ。そろそろ下に戻らないと」
本音を言えば、このまま深く抱き合いたい。初めてのときは酷くしてしまったから。今度は隅々まで丁寧に愛撫して、痛みなど感じさせないくらいとろとろに蕩けさせてから、貫いて欲を満たしたかった。
けれど時間がそれを許してくれそうにない。仕方なく離れようとした甲洋の首に、操の両腕が絡みつく。ぐっと力いっぱい引き寄せられて、咄嗟に体勢を崩してしまった。
「ぅわっ」
甲洋は思い切り操の上に倒れ込んでしまった。胸と胸が隙間なく合わさり、そこからドキドキという大きな鼓動が伝わってくる。
「あ、危ないだろ」
「だって、甲洋……」
赤い頬ととろけた瞳で、操が言った。もじもじと身じろぐ彼の太腿あたりに、硬くなった甲洋のものが当たっている。
「……しょうがないだろ」
照れ臭くなって、甲洋も思わず頬を染めた。
あんな姿を見せられれば、こうなってしまうのは仕方ない。情けないくらい膨らんだそこが、下着とパンツに押さえつけられて痛いほどだった。
これは一度すっきり出してしまわないと、店にも下りられないのではないか。時間を稼ぐ大義名分を得た甲洋は、机の上のデジタル時計にチラリと横目を走らせた。
あと10分だけ。簡単に処理するくらいなら、どうにかなるだろうか。こうやって、人は目先の快楽に堕落していくのだ。猿にでもなったような気分だった。
ほとんど諦めの境地で薄い身体を抱きしめると、操が嬉しそうに甲洋のこめかみに頬を擦りつける。
「春日井先輩! すみません、ちょっといいですか?」
そのとき、下から暉の声がした。
甲洋はハッと我に返り、慌てて「いま行くよ」と返事をすると、深い溜息をついた。これはなにがなんでも、根性だけでどうにか鎮めるしかなさそうだった。
「……やっぱりダメ。これ以上はサボれない」
情けなく苦笑しながら、寂しそうに尖った唇に小鳥のようなキスをする。
「汗かいたろ。ご飯ができたら呼ぶから、軽くシャワーでも浴びといで」
「……わかった」
「そんな顔しないで。続きは、夜になったらね」
身を起こし、指先で亜麻色の髪をサラサラと撫でながら言うと、操は赤かった頬を一層ぽうっと染め上げて「ん」と小さく頷いた。
*
毎週水曜日は、喫茶楽園の定休日になっている。
店内には午前中の明るい日差しが降り注ぎ、まったりとした静かな時だけが流れていた。
甲洋と操はいつもより少し遅めに起床して、店のカウンター席で朝食をとった。
トーストに塗るジャムの種類を聞くと、操は少し枯れた声で「りんご」と答える。甲洋はバターを塗ったパンを少しかじっただけで、あとはずっとコーヒーを飲んでいた。
「甲洋、元気ないね」
ジャムで口の端を汚した操が、隣に腰掛ける甲洋へ身体を向け、顔を覗き込んでくる。上の空だった甲洋は、目を丸くしたあと笑ってナプキンを手にとった。口の端をそれで拭ってやりながら「そう?」と小首を傾げると、操はどこか寂しそうな顔をしながら瞳を揺らした。
「寂しい?」
「……どうしてそう思うの?」
一瞬ドキリとしながら問いかけると、操は「だって」と口をもごもごさせながら少しだけ俯いた。
「ひとりぼっちでいるみたいな顔してるんだもん。甲洋」
落とされた言葉に芯を突かれたような気にさせられて、また心臓が跳ねる。顔にも態度にも出てしまっていたかなと、甲洋は苦笑した。
七日目の朝。
明日の午後には、総士たちが帰ってくる。
甲洋の嘘と支配は、彼らが島にいないということが前提の上に成り立っていた。甲洋は操の尊厳と無垢な心を踏みにじり、その場しのぎで飢えを満たしていたに過ぎないのだ。
けれど明日になればふたりは当然のように帰ってきて、そこで彼の心は正しく開放されるだろう。
そうして蜜月の時は終わりを告げる。
(年貢の納め時、ってやつかな)
蛮行を重ねたわが身をあざけりながら、甲洋はふと操の鎖骨あたりに幾つかの鬱血の痕が残っていることに気がついた。それは明け方近くまで抱き合いながら、甲洋が刻んだ印だった。明日にはまるで意味をなさなくなる所有の証に、どうしようもなく虚しさが込みあげる。
そこから目を逸らすように、さりげなく操の襟に手を伸ばすと位置のズレを直して上手い具合にマークを隠す。
すると俯いていた操が顔をあげ、揺れる瞳で甲洋を見上げた。それがどこか気遣わしげに見えて、どうして彼がこんな表情を見せるのか分からないまま、その頬に触れると唇に触れるだけのキスをした。
りんごの甘酸っぱい香りが広がって、操の顔がほんのりと桃色に染まる。
可愛いなと、甲洋は思った。子供っぽい丸い頬も、熱を帯びたような潤んだ瞳も。どうして俺のものじゃないんだろう。どうして、俺のものにはならないんだろう、と。
「大丈夫。寂しくないよ」
ひどい空虚感に押し潰されそうになりながら、甲洋はまたひとつ、操に嘘をついた。それでも彼は安堵したようにふにゃりと笑う。
「あのね甲洋」
「なに?」
「ずっと話したいと思ってたことがあるんだ。君に。聞いてくれる?」
「もちろん」
「おれ、前にね、ここで君の──」
──コン、コン、コン
そのとき、操の言葉を遮るようになにかをノックする音が聞こえた。
ふたり同時に音のする方へ目を向ける。するとガラス張りの窓の向こうで、買い物かごを下げた真矢が笑顔で手を振っている姿が見えた。その横にはぴょんぴょんと元気に飛び跳ねて店を覗き込んでいる、小さな女の子の姿もある。
「遠見?」
「美羽もいる」
またかこのパターンかと少しだけ溜息を漏らしたい気持ちになりながら、甲洋は席を立って店の出入り口へ行くと、鍵を外して扉を開けた。
「おはよう、遠見。どうかした?」
「春日井くんおはよ。ごめんね、通りがかったらふたりが見えたから」
その言葉に、少しドキリとする。見られていたかもしれない。キスをしているところを。けれどすぐに、もしそうだったら、彼女ならきっと見なかったふりをして、そのまま通り過ぎたはずだと思い直す。
「みさおちゃん! あそぼー!」
「あっ、美羽ちゃんたら!」
真矢の後ろから飛び出してきた美羽が、甲洋の横をすり抜けて店の中に入っていく。彼女はぷくぷくとした可愛らしい両腕をめいっぱい広げて、操に駆け寄っていった。
「美羽ちゃん、操くんと遊ぶんだってきかなくって。ごめんね、お休みの日に」
申し訳なさそうに眉をハの字にする真矢に、甲洋は笑って首を振る。
「いいよ、どうせすることもないし。それより遠見のほうこそ大変だな。買い物の帰り?」
「うん。お姉ちゃんに頼まれて、美羽ちゃんと一緒におつかい行ってきたとこ」
「それはお疲れ様。よければコーヒーでもどう? 美羽は来主と同じでいい?」
「ありがと、春日井くん」
真矢を店に招き入れ、彼女がカウンター席につくのに続いて甲洋はカウンターの向こうに立つ。そうしている間にも美羽が操の手を握り、中央テーブルへと引っ張っていった。
ふたりは向かい合うのではなく、仲良く隣同士の椅子に座ってなにやらお喋りをはじめる。
「仲がいいんだな、あのふたり」
「話が合うみたい。美羽ちゃんまだ三歳なんだけど……」
「来主は子供だからね」
「春日井くんてばそれ酷いよぉ」
そんなことを言うくせに、真矢はクスクスと肩を震わせて笑っている。甲洋はそんな彼女にコーヒーのグラスを手渡しながら、つられて少し笑ってしまった。
美羽は身振り手振りでなにかを一生懸命に話しているが、三歳の子供の拙い言語は支離滅裂でよく分からない。けれど操にはそれが理解できるのか、あっちこっちに飛んでいく話題にも楽しそうに受け答えをしている。適当に話を合わせているというふうでもなく、本当に同い年の子供同士がお喋りをしているようにしか見えなかった。
「ねぇみさおちゃん、きょうのよる、美羽のおうちくる?」
甲洋がふたりの席にオレンジジュースを運んでいくのと、美羽が操に唐突な誘いをかけるのは同時だった。
「どうして? なにかあるの?」
首を傾げた操が美羽の顔を覗き込む。彼女はにっこり笑って頷いた。
「きょうね、よるね、おにわでハナビするの。みさおちゃんもいっしょにやろ?」
コーヒーに口をつけていた真矢が、慌てた様子で振り返った。
「だ、ダメだよ美羽ちゃん。急に誘ったら迷惑でしょ?」
「なんで? なんでめーわくなの? 真矢おねえちゃん」
「それはえっと、その」
くるくるとした大きな瞳に見つめられ、真矢は言葉を詰まらせる。
甲洋はふたり分のジュースのグラスをテーブルに置きながら、ああそうかと納得した。
コンロの火にすら近づけない操が、花火を近くで見るなんてとても無理な話である。けれど当の操は真矢の心配をよそに、ケロリとした顔で「いいよ」と言った。
「え、でも操くん……」
操はすぐ傍らで成り行きを見守っていた甲洋を見上げる。
「甲洋も一緒なら、行く」
甲洋は思わず目を見開いた。
「花火、おれも見たい。だけど甲洋が行かないなら、おれも行かないよ」
選択は甲洋に委ねられ、ぽかんとした真矢が瞬きをしながらこちらを見ている。美羽は意味が分かっていないらしく、きょとんとした顔で小首を傾げていた。
琥珀色の瞳がゆらゆらと揺れながら甲洋を映し出している。差し迫る時の中で、そこには変わらず甲洋への絶対的な依存と信頼が浮かび上がっていた。
(ああ、まだ……大丈夫)
もう少しだけ。あとほんの少しだけ。必要とされていることへの安堵と喜びが、甲洋をまたあの溺れるような多幸感で満たしていく。それは甲洋から思考する意思を奪っていった。
「いいよ。日野さんちがご迷惑でなければね」
ふわりと笑って、操の髪をくしゃりと乱した。
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