2025/09/14 Sun 07 夜、夕飯を済ませてから日野家に向かう途中、暉に会った。 「買い物帰りの遠見先輩と、美羽ちゃんにたまたま会ったんです。そしたら、今夜は花火をするんだって美羽ちゃんが……それで、その、俺もお邪魔することになりました」 聞いてもいないのに、暉はなぜか早口でまくしたてた。 彼は網に包まれた大玉のスイカを持っている。そういえば手ぶらで来てしまったなと思いながら、甲洋はソワソワと落ち着かない様子の後輩に微笑ましげな目を向けた。 今の暉はスイカの重みでかろうじて地に足がついている。放っておいたら、浮かれて飛んでいってしまいそうだった。 「それにしても、遠見先輩が驚いてましたよ」 なんのことかと、甲洋は隣を歩く暉に小さく首を傾げる。操はときどきよそ見をしながらも、甲洋のすぐ斜め後ろをぴったりとついて歩いていた。 「どんな魔法を使ったら、あそこまで操くんの心を掴めるんだろうって」 「魔法? ずいぶんロマンチックだな」 「可愛いですよね。女の人って、いちいちものの例え方が」 暉はパッと頬を赤らめて、なぜかとても嬉しそうな顔をして見せる。けれどすぐにハッとして、今度は照れくさそうに頬を掻きながら「すみません」と小声で呟き、はにかんだような笑みを浮かべた。 赤らんだままの頬や垂れ下がった目尻を見ながら、なんて幸せそうな顔をするのだろうかと、甲洋は思う。恋をしている人間は、こんなふうに笑うのだ。 「でも、本当に凄いです。たった一週間で、初日の夜はあんなだったのに」 「もともと人懐っこいヤツだって聞いてたよ。来主は」 「そうですけど、その、違ったじゃないですか。春日井先輩には」 まぁねと言って、甲洋はどこか曖昧に笑う。暉はもう一度、改めて「凄いですよ」と呟いた。 「だって、操くんが花火なんて。夏祭りの灯篭流しですら、一度も来たことなかったのに」 暉が操に目をやった。彼は山の起伏にかろうじて残っている夕焼けを眺めながら歩いていて、ほとんど話を聞いていない。けれど暉の視線に気づき、顔を向けると小首を傾げた。そんな操に、暉がにこりと笑って見せる。 「操くんは、春日井先輩が大好きなんだね」 目を瞬かせていた操は、暉の言葉が嬉しくて堪らないとでもいうように、蕩けた笑みを溢れさせる。そしてこくりと、迷いなく頷いた。 「うん、大好き」 ──大好き。 その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に、甲洋は静かに息を飲む。 操はさっきまでの暉と同じ顔をしていた。年齢よりもずっと幼い目元をひたむきに染め上げて、それだけで幸せだとばかりに笑っている。 暉がふふっと声をあげるのを聞きながら、咄嗟に見ていられなくて目を逸す。 目や耳の奥にカァっと熱が集まり、そのまま顔中がほてっていくのを感じた。内側から茹だったなにかがドッと溢れ出してきそうで、その甘ったるい激情は甲洋をひどく戸惑わせる。 (なんだ、これ) ふと、手にぬくもりが触れた。男にしては骨っぽさに欠けていて、まだ幼さを残す柔らかな感触だった。きゅっと握られると、甲洋の胸も締めつけられる。一瞬だけ迷ったあと、そっと握り返した。 暉は気づかず、なんやかんやと楽しそうに世間話をしながら前を向いて歩いている。 おもむろに鳴きはじめたひぐらしの声に切なさを覚えて、甲洋は静かに震える息を吐きだした。 (……今さら?) キスだけなら、もう何度したか分からない。セックスだってそう。あれほどの独占欲と執着に囚われておきながら。 今になって、どうしてこんな気持ちになるんだろう。この感情は、いつからここにあったのだろう。あるいは今この瞬間、降って湧いたように芽生えたものなのだろうか。 甲洋には分からない。 ただ言えることは、例えばこの感情に『恋』なんて名前をつけようものならば、それはとても狡くて、後ろめたいものであるということだった。 そんなものは、きっとただの後付けでしかない。 だってそうだろう。思いだしてもみろ。自分が操になにをしてきたかを。 恋だなんて綺麗なものに昇華させたところで、なにひとつ覆りはしないのだから。 (今さらこんなの、間違ってる) 甲洋は操のことが怖くて仕方がなかった。 怖くて憎くて、だから壊した。その心をバラバラに砕いて、でたらめに組み立てて、飢えを満たすための人形にした。 操は本来そこに有しているはずの大事なネジを失っていて、彼が甲洋に抱く感情は、全てが『嘘』でできている。 そして明日には、消えてしまうのだ。 そう、ぜんぶ嘘。嘘まみれ。 好きなんて感情は、本当はどこにもない。 操の心にも、きっと甲洋の心にも。だから嬉しくない。嬉しくなんか、ない。 繋いだ手と手は熱をこもらせ、しっとりと淡く汗ばんでいく。 早くこの手を離さなければ。じゃなきゃ後戻りできなくなってしまう。そう思うほどに、甲洋は操の手を強く強く握りしめて、離すことができなかった。 * 夜の闇の中に、色とりどりの火花が散っていた。 日野家の広い庭に、美羽の幼い笑い声が響き渡っている。 真矢と、暉と、美羽の両親が輪をなして花火に興じる光景を、甲洋と操は縁側に腰掛けて少し離れた位置から見守っていた。 「平気?」 甲洋が顔を覗き込むと、操はうんと頷いた。 彼はずっと甲洋の腕を抱き込んで、ぴったりと身を寄せている。最初のうちは肩を強張らせていたが、時が経つにつれて少しずつリラックスしていった。 それでも彼は甲洋から離れようとはしない。母猫の懐で守られている子猫のようだった。 「美羽たち、楽しそう」 小さく笑いながら、操がぽつりと言った。 「花火、綺麗だね」 鮮やかに目を射る煌めきが、その白煙すらも色とりどりに染め上げて、火薬の匂いを振りまきながら咲き乱れていた。 それを見つめる彼は、まるで夢を見ているかのようにゆったりと目を細めている。どこか懐かしんでいるようにも見えて、きっといなくなった家族との思い出を手繰り寄せているのだろうなと、甲洋は思った。 「……辛くなったら、すぐに言って」 膝のうえにあった甲洋の左手に、操の右手が触れた。手のひらをぴたりと合わせ、指の隙間を縫うようにして握りしめてくる。 「平気」 操は甲洋の方へと顔を向けた。そして、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて見せる。 「だっておれには、甲洋がいるもん」 操の頬は薄ぼんやりとした夜目にも分かるほど、赤くふわりと染まっていた。好きじゃないなんて言って釣り上げていたはずの瞳は、その面影すら感じさせないほど蕩けたようになっている。 ケーキのスポンジをふやかしたみたいに、柔らかくて甘ったるい笑顔がそこにはあった。 甲洋だけをその目に映して、それが偽りの恋とも気づかず頬を染め上げ、可愛く瞳を潤ませて。 「甲洋がいてくれて、嬉しい」 操がそう言った瞬間、甲洋はさっきとは違う不思議な感覚に捉われた。 ひび割れた箇所に熱い湯が流れ込んできたみたいに、深部で凍りついていたものがゆっくりと溶けだし、ほどけていく。 (なんだろう……この感じ……) 本当はずっと、心のどこかで思っていた。 例えば全てを捨て去って、この手を引いてどこか遠くへ逃げだしてしまえたら。誰も知らない場所まで、この子を連れだしてしまえたら。 どんなにいいだろう。そこにはどんな幸福が待っているのだろうかと。 だってそうすれば、操の瞳はずっと甲洋を映し続ける。 毎日ほんの少しずつ毒を注入していって、長い時間をかけて身体の中で血清へと作り変えていくように。嘘で縛られた彼の心を、いつか本当に手に入れることができるかもしれないと。 けれど嘘は嘘のままだ。真実なんかどこにもない。 そして甲洋は、真実の愛が欲しかった。自分だけの、特別な誰かが欲しかった。特別と思ってくれる誰かが欲しかった。愛されて、そして愛してみたかった。 だけど今だけは、今この瞬間だけは。別に嘘だっていいじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。 (ああ、そうか) だって今、甲洋の胸はこんなにも満たされてしまった。 操の笑顔。操の言葉。そのぬくもりがこんなにも愛しい。こんなにも嬉しい。こんなにも。こんなにも! (もう、充分なんだ──) 誰かを好きだと思う気持ち。存在を肯定されることの喜び。求められることの幸せ。甲洋が知らなかったもの。甲洋が欲しかったもの。ずっとずっと、焦がれていたもの。その全てを一度に与えられたことへの充足感が、爪の先まで満ちていく。 それは花火のように掻き消えてしまう、一瞬の幸福でしかない。けれど確かに感じた愛しさを、喜びを、甲洋は絶対に忘れない。 だからもう充分。だからもう、終わりにしよう。 「ありがとう、来主」 甲洋は同じように彼の手を握り返した。強く強く、想いを込めて。 「どうしたの、急に」 操がその改まった様子に首を傾げる。甲洋はなんの飾り気もない笑みを浮かべた。 「なんとなくさ。今日で最後だから、かな」 「最後って言い方、なんか嫌だな。まるでお別れしなくちゃいけないみたい」 「お別れなんだよ、来主」 「え……?」 甲洋は花火をする団欒に目をやった。原色の光が少し痛くて、瞳を眇める。 「明日、一騎と総士が帰ってくるよ」 「──っ!」 操が息を飲み込んだ気配がした。 「心配しなくても大丈夫。お前は捨てられたりなんかしないし、来主の居場所は、ちゃんとある」 甲洋はゆっくりと、操にかかった呪いの暗示を解いていく。 好き勝手に組み立ててしまったバラバラのパーツを、丁寧にひとつひとつ組み直して、大事なネジをあるべき場所に、返していった。 「ふたりが帰ってきたら、俺がお前にしたことを言えばいい。そうしたら、ちゃんと終わるから」 操の指から力が抜けていく。波が引いていくみたいに、するりと手が遠のいた。ぴったりと寄せ合っていたはずの身体が離れ、ぬくもりが消えていく。寂しかった。独りは、寂しい。 しゅう、という音と共に、甲高い歓声があがった。噴出花火が星のような火花を撒き散らしながら、白く噴き上がっている。 操がぎゅっと身を強張らせ、青い顔をしながらそれを凝視していた。胸元で握りしめた両手がガチガチと震えているのを見て、甲洋はよすがとしての役目を終えたことを理解した。 「帰ろう、来主」 息が荒くなりつつある操が、喉を鳴らしながらかろうじて小さく頷いた。 * 家まで続く真っすぐな道に沿うように、静かに水音を奏でる堀が伸びている。 ときおり水辺から舞い上がるホタルが、ゆらゆらと光の残像を描きながら暗い夜道を照らしていた。 ふたりは会話もなく歩き続けていた。クビキリギスの細く高い鳴き声だけが、辺りに切なく響き渡っている。 操は甲洋から数歩遅れた位置を歩いていた。震えもすっかり治まって、呼吸も安定しているようだった。 「──甲洋」 暗闇に小石を投じるように、小さな声で名前を呼ばれる。歩みは止めないまま「ん」と短くを返事をすると、操はしばらく逡巡を見せたがやがて静かに口を開いた。 「おれが総士に話したら、甲洋はどうなるの」 硬い声だった。甲洋は小さく笑う。 「島にはもういられないかな。総士と一騎が知ったら絶対に許さない、だろ?」 「……もしおれが何も言わなかったら?」 「出てくよ、それでも」 あれはただのレイプだった。そしてあまりにも一方的で、傲慢な支配だった。操がなにも言わないからって、黙って何事もなかったように振る舞えるほど甲洋の面の皮は厚くない。 然るべき罰を受けるつもりでいるし、今度こそ島に戻るつもりもなかった。 「ねぇ!」 操は少し焦った声をあげながら足を止めた。 「おれが……嫌じゃなかったって言ったら?」 甲洋は思わず足を止めて振り向いた。それから、眉を下げて苦笑する。 「なにお前、情でも移った?」 「茶化さないでよ」 「来主は騙されてただけだよ。そうだな……洗脳、って言えばわかるか?」 「わかんないよ!」 唐突に声を荒げた操に、甲洋は押し黙る。 彼は俯き、シャツの裾を両手で握りしめていた。ぐっと引っ張るものだから、襟が伸びて甲洋がつけたキスマークが剥き出しになっている。 操は噛み締めた唇を震わせて、今にも泣きそうな顔をしながら肩を怒らせていた。 「来主?」 「わかんないけど、でも甲洋が……すごく自分勝手な酷いやつだってことは、わかる」 「……ごめん」 「ひとりぼっちの寂しいやつだってことも、知ってたよ。初めて会う、ずっと前から」 吐き出された言葉の意味が理解できずに、甲洋はただ呆然とする。 「あのね、おれ甲洋に言ってないこと、いっぱいあるよ。言わなきゃいけないこと、いっぱい。甲洋はおれのこと、なんにも知らないんだ。だけど、おれは知ってる。多分、知ってるよ。君のこと」 「なに、言って……?」 操は顔をあげると歩みを進め、甲洋の手を掴んだ。そのまま強く引いて、どんどん前に進みはじめる。 「く、来主? ちょっと!」 「セックスしよう、甲洋」 「な……ッ?」 「君が知らないおれのこと、全部言うよ。教えてあげる」 操の手は熱かった。まるで有無を言わさぬとばかりの強引さに、甲洋はただ圧倒されて、流されていくのを感じるばかりだった。 「だって甲洋には、おれしかいないでしょ?」 ←戻る ・ 次へ→
夜、夕飯を済ませてから日野家に向かう途中、暉に会った。
「買い物帰りの遠見先輩と、美羽ちゃんにたまたま会ったんです。そしたら、今夜は花火をするんだって美羽ちゃんが……それで、その、俺もお邪魔することになりました」
聞いてもいないのに、暉はなぜか早口でまくしたてた。
彼は網に包まれた大玉のスイカを持っている。そういえば手ぶらで来てしまったなと思いながら、甲洋はソワソワと落ち着かない様子の後輩に微笑ましげな目を向けた。
今の暉はスイカの重みでかろうじて地に足がついている。放っておいたら、浮かれて飛んでいってしまいそうだった。
「それにしても、遠見先輩が驚いてましたよ」
なんのことかと、甲洋は隣を歩く暉に小さく首を傾げる。操はときどきよそ見をしながらも、甲洋のすぐ斜め後ろをぴったりとついて歩いていた。
「どんな魔法を使ったら、あそこまで操くんの心を掴めるんだろうって」
「魔法? ずいぶんロマンチックだな」
「可愛いですよね。女の人って、いちいちものの例え方が」
暉はパッと頬を赤らめて、なぜかとても嬉しそうな顔をして見せる。けれどすぐにハッとして、今度は照れくさそうに頬を掻きながら「すみません」と小声で呟き、はにかんだような笑みを浮かべた。
赤らんだままの頬や垂れ下がった目尻を見ながら、なんて幸せそうな顔をするのだろうかと、甲洋は思う。恋をしている人間は、こんなふうに笑うのだ。
「でも、本当に凄いです。たった一週間で、初日の夜はあんなだったのに」
「もともと人懐っこいヤツだって聞いてたよ。来主は」
「そうですけど、その、違ったじゃないですか。春日井先輩には」
まぁねと言って、甲洋はどこか曖昧に笑う。暉はもう一度、改めて「凄いですよ」と呟いた。
「だって、操くんが花火なんて。夏祭りの灯篭流しですら、一度も来たことなかったのに」
暉が操に目をやった。彼は山の起伏にかろうじて残っている夕焼けを眺めながら歩いていて、ほとんど話を聞いていない。けれど暉の視線に気づき、顔を向けると小首を傾げた。そんな操に、暉がにこりと笑って見せる。
「操くんは、春日井先輩が大好きなんだね」
目を瞬かせていた操は、暉の言葉が嬉しくて堪らないとでもいうように、蕩けた笑みを溢れさせる。そしてこくりと、迷いなく頷いた。
「うん、大好き」
──大好き。
その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に、甲洋は静かに息を飲む。
操はさっきまでの暉と同じ顔をしていた。年齢よりもずっと幼い目元をひたむきに染め上げて、それだけで幸せだとばかりに笑っている。
暉がふふっと声をあげるのを聞きながら、咄嗟に見ていられなくて目を逸す。
目や耳の奥にカァっと熱が集まり、そのまま顔中がほてっていくのを感じた。内側から茹だったなにかがドッと溢れ出してきそうで、その甘ったるい激情は甲洋をひどく戸惑わせる。
(なんだ、これ)
ふと、手にぬくもりが触れた。男にしては骨っぽさに欠けていて、まだ幼さを残す柔らかな感触だった。きゅっと握られると、甲洋の胸も締めつけられる。一瞬だけ迷ったあと、そっと握り返した。
暉は気づかず、なんやかんやと楽しそうに世間話をしながら前を向いて歩いている。
おもむろに鳴きはじめたひぐらしの声に切なさを覚えて、甲洋は静かに震える息を吐きだした。
(……今さら?)
キスだけなら、もう何度したか分からない。セックスだってそう。あれほどの独占欲と執着に囚われておきながら。
今になって、どうしてこんな気持ちになるんだろう。この感情は、いつからここにあったのだろう。あるいは今この瞬間、降って湧いたように芽生えたものなのだろうか。
甲洋には分からない。
ただ言えることは、例えばこの感情に『恋』なんて名前をつけようものならば、それはとても狡くて、後ろめたいものであるということだった。
そんなものは、きっとただの後付けでしかない。
だってそうだろう。思いだしてもみろ。自分が操になにをしてきたかを。
恋だなんて綺麗なものに昇華させたところで、なにひとつ覆りはしないのだから。
(今さらこんなの、間違ってる)
甲洋は操のことが怖くて仕方がなかった。
怖くて憎くて、だから壊した。その心をバラバラに砕いて、でたらめに組み立てて、飢えを満たすための人形にした。
操は本来そこに有しているはずの大事なネジを失っていて、彼が甲洋に抱く感情は、全てが『嘘』でできている。
そして明日には、消えてしまうのだ。
そう、ぜんぶ嘘。嘘まみれ。
好きなんて感情は、本当はどこにもない。
操の心にも、きっと甲洋の心にも。だから嬉しくない。嬉しくなんか、ない。
繋いだ手と手は熱をこもらせ、しっとりと淡く汗ばんでいく。
早くこの手を離さなければ。じゃなきゃ後戻りできなくなってしまう。そう思うほどに、甲洋は操の手を強く強く握りしめて、離すことができなかった。
*
夜の闇の中に、色とりどりの火花が散っていた。
日野家の広い庭に、美羽の幼い笑い声が響き渡っている。
真矢と、暉と、美羽の両親が輪をなして花火に興じる光景を、甲洋と操は縁側に腰掛けて少し離れた位置から見守っていた。
「平気?」
甲洋が顔を覗き込むと、操はうんと頷いた。
彼はずっと甲洋の腕を抱き込んで、ぴったりと身を寄せている。最初のうちは肩を強張らせていたが、時が経つにつれて少しずつリラックスしていった。
それでも彼は甲洋から離れようとはしない。母猫の懐で守られている子猫のようだった。
「美羽たち、楽しそう」
小さく笑いながら、操がぽつりと言った。
「花火、綺麗だね」
鮮やかに目を射る煌めきが、その白煙すらも色とりどりに染め上げて、火薬の匂いを振りまきながら咲き乱れていた。
それを見つめる彼は、まるで夢を見ているかのようにゆったりと目を細めている。どこか懐かしんでいるようにも見えて、きっといなくなった家族との思い出を手繰り寄せているのだろうなと、甲洋は思った。
「……辛くなったら、すぐに言って」
膝のうえにあった甲洋の左手に、操の右手が触れた。手のひらをぴたりと合わせ、指の隙間を縫うようにして握りしめてくる。
「平気」
操は甲洋の方へと顔を向けた。そして、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて見せる。
「だっておれには、甲洋がいるもん」
操の頬は薄ぼんやりとした夜目にも分かるほど、赤くふわりと染まっていた。好きじゃないなんて言って釣り上げていたはずの瞳は、その面影すら感じさせないほど蕩けたようになっている。
ケーキのスポンジをふやかしたみたいに、柔らかくて甘ったるい笑顔がそこにはあった。
甲洋だけをその目に映して、それが偽りの恋とも気づかず頬を染め上げ、可愛く瞳を潤ませて。
「甲洋がいてくれて、嬉しい」
操がそう言った瞬間、甲洋はさっきとは違う不思議な感覚に捉われた。
ひび割れた箇所に熱い湯が流れ込んできたみたいに、深部で凍りついていたものがゆっくりと溶けだし、ほどけていく。
(なんだろう……この感じ……)
本当はずっと、心のどこかで思っていた。
例えば全てを捨て去って、この手を引いてどこか遠くへ逃げだしてしまえたら。誰も知らない場所まで、この子を連れだしてしまえたら。
どんなにいいだろう。そこにはどんな幸福が待っているのだろうかと。
だってそうすれば、操の瞳はずっと甲洋を映し続ける。
毎日ほんの少しずつ毒を注入していって、長い時間をかけて身体の中で血清へと作り変えていくように。嘘で縛られた彼の心を、いつか本当に手に入れることができるかもしれないと。
けれど嘘は嘘のままだ。真実なんかどこにもない。
そして甲洋は、真実の愛が欲しかった。自分だけの、特別な誰かが欲しかった。特別と思ってくれる誰かが欲しかった。愛されて、そして愛してみたかった。
だけど今だけは、今この瞬間だけは。別に嘘だっていいじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。
(ああ、そうか)
だって今、甲洋の胸はこんなにも満たされてしまった。
操の笑顔。操の言葉。そのぬくもりがこんなにも愛しい。こんなにも嬉しい。こんなにも。こんなにも!
(もう、充分なんだ──)
誰かを好きだと思う気持ち。存在を肯定されることの喜び。求められることの幸せ。甲洋が知らなかったもの。甲洋が欲しかったもの。ずっとずっと、焦がれていたもの。その全てを一度に与えられたことへの充足感が、爪の先まで満ちていく。
それは花火のように掻き消えてしまう、一瞬の幸福でしかない。けれど確かに感じた愛しさを、喜びを、甲洋は絶対に忘れない。
だからもう充分。だからもう、終わりにしよう。
「ありがとう、来主」
甲洋は同じように彼の手を握り返した。強く強く、想いを込めて。
「どうしたの、急に」
操がその改まった様子に首を傾げる。甲洋はなんの飾り気もない笑みを浮かべた。
「なんとなくさ。今日で最後だから、かな」
「最後って言い方、なんか嫌だな。まるでお別れしなくちゃいけないみたい」
「お別れなんだよ、来主」
「え……?」
甲洋は花火をする団欒に目をやった。原色の光が少し痛くて、瞳を眇める。
「明日、一騎と総士が帰ってくるよ」
「──っ!」
操が息を飲み込んだ気配がした。
「心配しなくても大丈夫。お前は捨てられたりなんかしないし、来主の居場所は、ちゃんとある」
甲洋はゆっくりと、操にかかった呪いの暗示を解いていく。
好き勝手に組み立ててしまったバラバラのパーツを、丁寧にひとつひとつ組み直して、大事なネジをあるべき場所に、返していった。
「ふたりが帰ってきたら、俺がお前にしたことを言えばいい。そうしたら、ちゃんと終わるから」
操の指から力が抜けていく。波が引いていくみたいに、するりと手が遠のいた。ぴったりと寄せ合っていたはずの身体が離れ、ぬくもりが消えていく。寂しかった。独りは、寂しい。
しゅう、という音と共に、甲高い歓声があがった。噴出花火が星のような火花を撒き散らしながら、白く噴き上がっている。
操がぎゅっと身を強張らせ、青い顔をしながらそれを凝視していた。胸元で握りしめた両手がガチガチと震えているのを見て、甲洋はよすがとしての役目を終えたことを理解した。
「帰ろう、来主」
息が荒くなりつつある操が、喉を鳴らしながらかろうじて小さく頷いた。
*
家まで続く真っすぐな道に沿うように、静かに水音を奏でる堀が伸びている。
ときおり水辺から舞い上がるホタルが、ゆらゆらと光の残像を描きながら暗い夜道を照らしていた。
ふたりは会話もなく歩き続けていた。クビキリギスの細く高い鳴き声だけが、辺りに切なく響き渡っている。
操は甲洋から数歩遅れた位置を歩いていた。震えもすっかり治まって、呼吸も安定しているようだった。
「──甲洋」
暗闇に小石を投じるように、小さな声で名前を呼ばれる。歩みは止めないまま「ん」と短くを返事をすると、操はしばらく逡巡を見せたがやがて静かに口を開いた。
「おれが総士に話したら、甲洋はどうなるの」
硬い声だった。甲洋は小さく笑う。
「島にはもういられないかな。総士と一騎が知ったら絶対に許さない、だろ?」
「……もしおれが何も言わなかったら?」
「出てくよ、それでも」
あれはただのレイプだった。そしてあまりにも一方的で、傲慢な支配だった。操がなにも言わないからって、黙って何事もなかったように振る舞えるほど甲洋の面の皮は厚くない。
然るべき罰を受けるつもりでいるし、今度こそ島に戻るつもりもなかった。
「ねぇ!」
操は少し焦った声をあげながら足を止めた。
「おれが……嫌じゃなかったって言ったら?」
甲洋は思わず足を止めて振り向いた。それから、眉を下げて苦笑する。
「なにお前、情でも移った?」
「茶化さないでよ」
「来主は騙されてただけだよ。そうだな……洗脳、って言えばわかるか?」
「わかんないよ!」
唐突に声を荒げた操に、甲洋は押し黙る。
彼は俯き、シャツの裾を両手で握りしめていた。ぐっと引っ張るものだから、襟が伸びて甲洋がつけたキスマークが剥き出しになっている。
操は噛み締めた唇を震わせて、今にも泣きそうな顔をしながら肩を怒らせていた。
「来主?」
「わかんないけど、でも甲洋が……すごく自分勝手な酷いやつだってことは、わかる」
「……ごめん」
「ひとりぼっちの寂しいやつだってことも、知ってたよ。初めて会う、ずっと前から」
吐き出された言葉の意味が理解できずに、甲洋はただ呆然とする。
「あのね、おれ甲洋に言ってないこと、いっぱいあるよ。言わなきゃいけないこと、いっぱい。甲洋はおれのこと、なんにも知らないんだ。だけど、おれは知ってる。多分、知ってるよ。君のこと」
「なに、言って……?」
操は顔をあげると歩みを進め、甲洋の手を掴んだ。そのまま強く引いて、どんどん前に進みはじめる。
「く、来主? ちょっと!」
「セックスしよう、甲洋」
「な……ッ?」
「君が知らないおれのこと、全部言うよ。教えてあげる」
操の手は熱かった。まるで有無を言わさぬとばかりの強引さに、甲洋はただ圧倒されて、流されていくのを感じるばかりだった。
「だって甲洋には、おれしかいないでしょ?」
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