2025/09/14 Sun 08 部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。 「お、おい来主!?」 激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。 「ッ、くる、す!」 「甲洋……こうよう……」 操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。 その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。 なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。 「やめろって、来主!」 ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。 甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。 「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」 さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。 彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。 「お前は、俺のことが嫌いだろ?」 だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。 「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」 「……それは嫌いなのと、どう違うの?」 「ぜんぜん違う!」 操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。 見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。 そして、見開いた目を瞬かせる。 そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは── 「……俺?」 甲洋がいた。 それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。 思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。 「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」 「……なんで、お前がこれを?」 「君が写ってるからだよ」 操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。 何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。 「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」 ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。 操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。 「好き、だった……?」 「そうだよ」 「お前が、俺を? なぜ?」 呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。 「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」 操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。 * 春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。 ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。 そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。 子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。 「懐かしいな」 そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。 そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。 誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。 懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。 甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。 それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。 本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。 それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。 すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。 ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。 あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。 そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。 操はなぜかとても不安になった。 もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。 あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。 * その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。 いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。 けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。 彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。 頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。 誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。 女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。 操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。 春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。 * あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。 島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。 なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。 島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。 だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。 店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。 カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。 「あら、いらっしゃい」 ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。 操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。 「ご注文は?」 そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。 (……似てないな、ぜんぜん) そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。 重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。 「はいどうぞ」 諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。 甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。 操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。 「ねぇ」 「……なにかしら?」 「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」 その瞬間、空気が変わった。 正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。 「……あのバカ息子がどうしたって?」 正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。 「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」 「うん。そうだけど」 「そんなのが、一体あれになんの用だい」 どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。 操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。 (この人たちは、嫌いだな……) 素直にそう感じた。 「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」 操の言葉を、正浩は鼻で笑った。 「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」 「わからない? 自分の子供のことなのに?」 「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」 正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。 「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」 うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。 「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」 「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」 「なんだと!?」 口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。 やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。 「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」 「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」 その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。 (おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ) 「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」 この人たちは、息子を愛していないのだろうか。 彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。 「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」 正浩がまた鼻で笑った。 「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」 「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」 「……あんた一体なにが言いたいんだ?」 飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。 「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」 「それは、ない、けど……でも」 操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。 みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。 (なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……) 自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。 「ハズレなんかじゃないよ」 やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。 正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。 「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」 * それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。 帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。 自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。 どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。 みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。 理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。 逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。 あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。 空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。 * 泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。 楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。 「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」 まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。 ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。 正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。 そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。 一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。 またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。 今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。 (……甲洋だけは、同じ顔) まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。 どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。 笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。 だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。 一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。 けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。 笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。 それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。 操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。 春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。 もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。 なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。 * それから一年──。 春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。 彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。 アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。 「総士、おれこの人あまり好きじゃない」 だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。 甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。 どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。 だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。 操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。 あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。 自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。 そしてあの夜。 ──総士に言いつけてやろうか? 操の世界はひっくり返った。 もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。 ──来主は、俺のことが嫌いだったね。 あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。 操はそこで、ようやく気づいた。 (違う、そうじゃない。そうじゃなくて……) 冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。 怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。 だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。 けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。 狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。 自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。 ──俺しかいないよ。 そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。 ──来主には、もう俺しかいない。 このひとは、怖い。 怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。 独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。 ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。 だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。 (好きって、言いたかったんだ) 初めて同じベッドで目を覚ました朝。 隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。 このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。 泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。 その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。 おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。 ←戻る ・ 次へ→
部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。
「お、おい来主!?」
激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。
「ッ、くる、す!」
「甲洋……こうよう……」
操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。
その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。
なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。
「やめろって、来主!」
ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。
甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。
「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」
さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。
彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。
「お前は、俺のことが嫌いだろ?」
だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。
「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」
「……それは嫌いなのと、どう違うの?」
「ぜんぜん違う!」
操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。
見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。
そして、見開いた目を瞬かせる。
そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは──
「……俺?」
甲洋がいた。
それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。
思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。
「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」
「……なんで、お前がこれを?」
「君が写ってるからだよ」
操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。
何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。
「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」
ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。
操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。
「好き、だった……?」
「そうだよ」
「お前が、俺を? なぜ?」
呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。
「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」
操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。
*
春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。
ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。
そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。
子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。
「懐かしいな」
そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。
そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。
誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。
懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。
甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。
それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。
本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。
それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。
すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。
ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。
あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。
そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。
操はなぜかとても不安になった。
もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。
あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。
*
その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。
いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。
けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。
彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。
頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。
誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。
女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。
操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。
春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。
*
あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。
島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。
なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。
島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。
だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。
店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。
カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。
「あら、いらっしゃい」
ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。
操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。
「ご注文は?」
そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。
(……似てないな、ぜんぜん)
そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。
重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。
「はいどうぞ」
諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。
甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。
操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。
「ねぇ」
「……なにかしら?」
「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」
その瞬間、空気が変わった。
正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。
「……あのバカ息子がどうしたって?」
正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。
「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」
「うん。そうだけど」
「そんなのが、一体あれになんの用だい」
どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。
操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。
(この人たちは、嫌いだな……)
素直にそう感じた。
「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」
操の言葉を、正浩は鼻で笑った。
「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」
「わからない? 自分の子供のことなのに?」
「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」
正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。
「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」
うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」
「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」
「なんだと!?」
口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。
やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。
「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」
「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」
その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。
(おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ)
「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」
この人たちは、息子を愛していないのだろうか。
彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。
「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」
正浩がまた鼻で笑った。
「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」
「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」
「……あんた一体なにが言いたいんだ?」
飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。
「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」
「それは、ない、けど……でも」
操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。
(なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……)
自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。
「ハズレなんかじゃないよ」
やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。
「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」
*
それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。
帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。
自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。
どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。
みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。
理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。
逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。
あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。
空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。
*
泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。
楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。
「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」
まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。
ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。
正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。
そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。
一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。
またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。
今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。
(……甲洋だけは、同じ顔)
まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。
どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。
笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。
だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。
一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。
けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。
笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。
それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。
操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。
春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。
もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。
なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。
*
それから一年──。
春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。
彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。
アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。
甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。
どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。
操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。
あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。
自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。
そしてあの夜。
──総士に言いつけてやろうか?
操の世界はひっくり返った。
もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。
──来主は、俺のことが嫌いだったね。
あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。
操はそこで、ようやく気づいた。
(違う、そうじゃない。そうじゃなくて……)
冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。
怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。
だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。
けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。
狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。
自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。
──俺しかいないよ。
そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。
──来主には、もう俺しかいない。
このひとは、怖い。
怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。
独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。
ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。
だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。
(好きって、言いたかったんだ)
初めて同じベッドで目を覚ました朝。
隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。
このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。
泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。
その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。
おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。
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