2025/09/14 Sun 甲洋がいなくなった。 彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。 操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。 外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。 どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。 何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。 「一騎!? 総士は!?」 『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』 尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。 しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。 「一騎、その声どうしたの……?」 彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。 『ちょっとな。風邪気味なんだ』 「風邪……」 『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』 「そ、っか」 『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』 明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。 しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。 「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」 『来主? 何かあるなら総士に』 「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」 受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。 操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。 彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。 「おれ、甲洋を傷つけた」 怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。 操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。 そこでふと、思いついた。 (まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?) きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。 * 総士と操が卒業した竜宮中学校。 その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。 「本当に空っぽだ」 二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。 家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。 (甲洋、どこ行っちゃったんだよ……) 空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。 春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。 「あら? あなたひょっとして……来主くん?」 そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。 そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。 「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」 この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。 懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。 「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」 「ええそうよ。ほら、ここが私の家」 容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。 * 物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。 よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。 「ごめんなさいね、何も用意できなくて」 リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。 「うぅん、ありがとう。いただきます」 白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。 容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。 「落ち着いたかしら?」 口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。 ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。 けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。 「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」 操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。 「その子、あなたのおうちの子?」 「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」 「皆城くん?」 「うん」 容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。 「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」 「え!? 容子知ってるの!?」 「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」 「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」 つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。 「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」 容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。 「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」 「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」 「昔からのね。大学が同じだったの」 甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。 だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。 「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」 「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」 それを聞いて、容子は目を丸くした。 「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」 「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」 「そうなの」 「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」 操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。 (甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?) 元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。 「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」 「うん……ありがとう」 気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。 それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。 「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」 「……近くで見てもいい?」 「ええ、いいわよ」 操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。 写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。 「白猫だったんだ。綺麗な子だね」 「翔子っていうのよ」 「え……?」 隣に並んだ容子の顔を見る。 翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。 (偶然? でも……) ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。 操は再び写真に視線を落とす。 (甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ) 飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。 きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。 「あらカノン? 戻ったの?」 そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。 「この子も、先生の娘?」 「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」 「ッ!」 カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。 「あ、行っちゃった」 「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」 操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。 幸せなんだなと、そう思う。 「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」 「そうだったんだ……!」 カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。 「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」 容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。 ←戻る ・ 次へ→
彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。
操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。
外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。
どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。
何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。
「一騎!? 総士は!?」
『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』
尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。
しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。
「一騎、その声どうしたの……?」
彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。
『ちょっとな。風邪気味なんだ』
「風邪……」
『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』
「そ、っか」
『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』
明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。
しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。
「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」
『来主? 何かあるなら総士に』
「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」
受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。
操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。
彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。
「おれ、甲洋を傷つけた」
怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。
そこでふと、思いついた。
(まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?)
きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。
*
総士と操が卒業した竜宮中学校。
その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。
「本当に空っぽだ」
二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。
家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。
(甲洋、どこ行っちゃったんだよ……)
空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。
春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。
「あら? あなたひょっとして……来主くん?」
そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。
そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。
「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」
この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。
懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。
「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」
「ええそうよ。ほら、ここが私の家」
容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。
*
物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。
よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。
「ごめんなさいね、何も用意できなくて」
リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。
「うぅん、ありがとう。いただきます」
白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。
容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。
「落ち着いたかしら?」
口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。
ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。
けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。
「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」
操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。
「その子、あなたのおうちの子?」
「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」
「皆城くん?」
「うん」
容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。
「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」
「え!? 容子知ってるの!?」
「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」
「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」
つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。
「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」
容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。
「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」
「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」
「昔からのね。大学が同じだったの」
甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。
だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。
「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」
「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」
それを聞いて、容子は目を丸くした。
「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」
「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」
「そうなの」
「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」
操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。
(甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?)
元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。
「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」
「うん……ありがとう」
気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。
それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。
「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」
「……近くで見てもいい?」
「ええ、いいわよ」
操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。
写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。
「白猫だったんだ。綺麗な子だね」
「翔子っていうのよ」
「え……?」
隣に並んだ容子の顔を見る。
翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。
(偶然? でも……)
ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。
操は再び写真に視線を落とす。
(甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ)
飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。
きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。
「あらカノン? 戻ったの?」
そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。
「この子も、先生の娘?」
「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」
「ッ!」
カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。
「あ、行っちゃった」
「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」
操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。
幸せなんだなと、そう思う。
「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」
「そうだったんだ……!」
カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。
「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」
容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。
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