2025/09/14 Sun 「だから私は最初から反対だったのよ! だけど貴方がどうしてもって言うから!」 「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」 「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」 「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」 ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。 苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。 甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。 しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。 あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。 裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。 店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。 怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。 帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。 なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。 その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。 用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。 それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。 光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。 ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。 晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。 彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。 けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。 そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。 やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。 ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。 家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。 その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。 けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。 翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。 翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。 まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。 夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。 跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。 彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。 けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。 人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。 厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。 翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。 どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。 どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。 甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。 「お前、死ぬのか」 薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。 「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」 母さん。 (ああ、君は──) 幸せなんだな。 * どこをどうやってここまで辿り着いたのか。 とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。 広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。 時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。 甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。 『甲洋、もしかして海が好きなの?』 あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。 多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。 ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。 今は、どうだろう。 目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。 全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。 曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。 身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。 甲洋は操の顔を思いだしていた。 子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。 誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。 彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。 そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。 本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。 だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。 不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。 彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。 読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。 (また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた) ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。 これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。 (俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない) 大きな音を立てて、風が吹き荒れた。 共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。 ──甲洋 どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。 だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。 「甲洋ッ!!」 はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。 そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。 「やっと、見つけた……ッ」 どうして。 甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。 「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」 どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。 「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」 「……なんで」 呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。 男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。 甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。 「帰れない」 「なんで?」 「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」 本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。 もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。 「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」 操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。 それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。 「わかってるよ、そんなこと」 声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。 「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」 だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。 「翔子は、もうどこにもいないよ」 「ッ……!」 「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」 操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。 「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」 甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。 幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。 (翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ) 本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。 それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。 だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。 (だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか) そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。 「ッ!?」 振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。 「なに、してるの……?」 「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」 「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」 「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」 操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。 拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。 他の誰でもない、甲洋のために。 「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」 初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。 ←戻る ・ 次へ→
「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」
「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」
「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」
ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。
苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。
甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。
しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。
あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。
裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。
店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。
怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。
帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。
なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。
その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。
用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。
それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。
光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。
ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。
晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。
彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。
けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。
そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。
やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。
ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。
家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。
その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。
けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。
翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。
翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。
まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。
夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。
跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。
彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。
けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。
人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。
厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。
翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。
どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。
どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。
甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。
「お前、死ぬのか」
薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。
「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」
母さん。
(ああ、君は──)
幸せなんだな。
*
どこをどうやってここまで辿り着いたのか。
とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。
広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。
時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。
甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。
『甲洋、もしかして海が好きなの?』
あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。
多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。
ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。
今は、どうだろう。
目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。
全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。
曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。
身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。
甲洋は操の顔を思いだしていた。
子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。
誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。
彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。
そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。
本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。
だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。
不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。
彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。
読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。
(また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた)
ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。
これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。
(俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない)
大きな音を立てて、風が吹き荒れた。
共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。
──甲洋
どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。
だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。
「甲洋ッ!!」
はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。
そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。
「やっと、見つけた……ッ」
どうして。
甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。
「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」
どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。
「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」
「……なんで」
呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。
男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。
甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。
「帰れない」
「なんで?」
「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」
本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。
もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。
「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」
操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。
それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。
「わかってるよ、そんなこと」
声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。
「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」
だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。
「翔子は、もうどこにもいないよ」
「ッ……!」
「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」
操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。
「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」
甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。
幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。
(翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ)
本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。
それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。
だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。
(だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか)
そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。
「ッ!?」
振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なに、してるの……?」
「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」
「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」
操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。
拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。
他の誰でもない、甲洋のために。
「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」
初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。
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