2025/09/14 Sun 部屋に戻ると、待ちわびていたかのように雨が降り出した。 あと少しでも帰りが遅かったら、ふたりともずぶ濡れになっていただろう。 甲洋にはまず真っ先に風呂に入ってもらった。足の裏は幸い傷ついていなかったが、長いこと海風にさらされた身体が酷く冷え切っていたからだ。 彼が出てくるのを待ちながら、操は床に腰を落ち着けて自分の手の平をじっと見つめた。 (おれ、思いっきりイヌに触っちゃった) 今更だが、自分でも信じられない。1メートル半という距離を狭めたことすら驚きなのに、あんなふうに強引に手を引くなんて。 あのときは考える余裕がなかったからかもしれない。この機を逃せば、もう二度と彼を連れ戻すことはできないと思ったから。 ほっと息をついていると、風呂からあがった甲洋が居間に戻ってきた。紺のスウェット上下は一騎が持ってきてくれたもので、丈もぴったりだ。 しっかりドライヤーをかけるようにしつこく言ったからか、潮風でごわついていた髪と尻尾の毛も、ちゃんと乾いてふわふわになっている。 「肩まであったまった?」 「うん」 「いい子だね」 ホッとして笑う操に、甲洋は目をそらすだけで何も言わなかった。 操は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言って寝室へ向かった。ベッド脇にあるチェストの引き出しを漁り、目当てのものを見つけだすとまた居間に戻る。 甲洋は本棚の脇にあぐらをかいて、操が戻ってくるのを待っていた。 「近くに寄るよ。ビックリしないでね」 「?」 断りを入れてから、操は緊張を和らげるためにそっと深呼吸をした。それから、甲洋の目の前までゆっくり近づくと、その場にぺたりと座り込む。膝が触れそうなほど近い距離だ。 「な、なに?」 むしろ戸惑って身を引こうとしたのは甲洋の方だ。けれど背中が壁に当って、逃げ場がない。 操は持ってきた塗り薬の丸いケースの蓋を開けながら「手を出して」と言った。甲洋が探るような目を向けてくる。 「大丈夫。ねぇ、ほら早く」 おずおずと差し出された右手を取って、操はケースから指先ですくいあげた白いクリームを丁寧に塗り込めていく。未だに痣と傷が残る指の一本一本に。 「これ、消えるまで毎日するから。気づかなくて、ごめん」 操の指先は情けないほど震えていた。改めてこんなに近くで触れるとなると、本能的に刻み込まれた恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。 だけどそれは甲洋も同じなのかもしれない。こうしていると、触れられることに慣れていないのがよく分かる。彼は身を強張らせ、ずっと息を殺しているようだった。 右手が終わると、今度は左手だ。目で合図するだけで、甲洋は戸惑いながらもう片方を差し出してきた。 「……怖くないの?」 緊張した様子の声に問われて、操は少しだけ笑った。 「怖いよ、すごく」 「ならどうして」 「甲洋だから、だと思う」 左手にも軟膏を塗り込めながら言う。甲洋はわずかに息を呑んだだけだった。バタバタという雨音が、絶え間なく静かな空間に響き渡っている。 「だって甲洋は優しいもん」 優しすぎるから、傷つきやすい。 軽率な真似をして怯えさせてしまったのは操の方なのに、彼は自分を責めるのだ。もう傍にはいられないと言って、ひとりぼっちで雨に濡れようとしていた。 「あの公園で君を見つけたとき、君の背中が、海に消えてしまいそうで怖かった。君が部屋を飛び出してしまったときも、どうしたらいいか分からなくて」 容子の家を出たあと、海へ向かったのはイチかバチかの賭けだった。海が好きなのかと問いかけたとき、彼はほとんど反応を示さなかったけれど、あの食い入るような眼差しは印象深いものだった。 ここから比較的近い場所で海を臨める場所といえば、あの公園しかない。広大な敷地内を駆けずり回るのは骨が折れたが、彼がそこにいてくれて本当によかった。 「おれは、甲洋がいなくなることのほうがずっと怖い。それがわかったから、いいんだ」 子供の頃の体験は、決して忘れられるものではなかった。あと少しでも飼い主が駆けつけるのが遅ければ、どうなっていたか分からない。 初めて見た総士の泣き顔。傷ついて血が溢れ出す膝小僧。それでもなお吠え立て、飛びかかってこようとした犬の声。それは幼い操が、生まれて初めて『死』を意識させられた瞬間だった。 だけど甲洋は、操が抱えるものをただ静かに受け止めてくれた。こんな狭い家の中で、その領域を侵さないように注意を払ってくれた。 彼は操を怖がらせるような真似は絶対にしなかった。イヌというだけで無条件に恐れ、厚い壁を作っていたのは操自身だったのだ。 「おれ、甲洋のこと好きだよ。だからもう一人ぼっちにならないで。君が寂しいのは、嫌なんだ」 触れている甲洋の指が震えている。それは彼の心が震えているからなのだと思った。操は人間だから、読心能力は使えない。だけどなぜか、今はそれがハッキリと伝わってきたような気がした。 「……お前が、なぜそんなことを言うのか分からない」 声さえも震わせて、甲洋は言った。操はこの声を好きだと思った。柔らかで、とても繊細で。その心に、もっと触れてみたいと思う。 「俺にはそんな価値ないよ。役立たずで、なにも持ってない。優しいんじゃなくて、臆病なだけだ」 震えている甲洋の手を、操は両手で包み込んだ。しっとりとしたそれはとても温かい。骨ばっていて、大きな手だった。この手から、どれだけの幸せが通り抜けていったのだろう。 「それが君の心の中なんだね。話してくれて嬉しい。おれには、君たちのような力はないから」 ずっと無口だった彼が、初めて吐露した心情だ。 それがどんなに自己を否定するものだったとしても、何も言ってくれないよりずっといい。 「なにも持ってなくたっていいよ。それって、これから沢山なにかを掴めるってことでしょ? それにさ、おれは君に色んなものをもらったよ」 「もらった?」 「うん。誰かに食べてもらうためにご飯を作るのって、あんなに楽しいんだ。君がいなかったら、ずっと知らないままだった。台所にあの虫が出たときも、おれ一人だったらなにもできなかったし……あ、今そのくらいのことでって思った?」 「……少し」 正直な甲洋に、操は思わずムッとして唇を尖らせた。 「だってアイツ怖いじゃん。なんで平気なの?」 「なんでって言われても……別に無害だし」 「存在が有害だよ! なんであんなに黒くてテラテラしてなきゃいけないのぉ!?」 「わ、わかった。わかったから、泣かないで」 あの黒光りするフォルムを思いだすだけで涙が滲んでしまった操に、甲洋は珍しく焦ったように言った。 「じゃあ……またアイツが出たらやっつけてくれる?」 濡れた瞳で上目遣いに見ると、甲洋はなぜか目線を逸らしながら「いいよ」と言って頷いた。 操は安堵からふにゃりとした情けない笑みを浮かべる。 「よかったぁ。甲洋はカッコイイし優しいし、頼もしいね」 「よせ、俺はそんなんじゃ」 「おれはおれが思ったことを言ってるだけ。甲洋は綺麗な顔してるし、背も高くて手も足も長いし、虫もやっつけてくれるし、おれ甲洋の悪いとこ一個も言えないよ。だって思いつかないもん」 甲洋はいよいよ耐えきれなくなったとばかりに、空いている方の手で顔を覆い隠してしまった。それでも隠れきれていない頬や目元が、真っ赤に染まっている。 「甲洋?」 「……やめて」 蚊の鳴くような声だ。あまりにも見慣れない光景に、操はぽかんと口を開けてしまった。 そして気がつく。背にしている壁に挟まれて、その動きはだいぶ妨げられてはいるが、彼の黒く立派な尻尾が左右に大きく振られていることに。 総士と一緒にいるとき、一騎もよくこんなふうに尻尾を振っているのを思いだす。 「嬉しくなるから……それ以上は、言わないで……」 「ッ!」 操は一気に肌が粟立つような感覚に襲われた。釣られてこちらまで顔が熱くなってしまう。 なんだろうこれは。反則、という二文字が頭の中にぽかりと浮かんだ。 「……甲洋って、可愛いんだ」 これ以上は本気で嫌がるかもしれないと思いながら、つい口走ってしまう。 甲洋は指の隙間から揺れる瞳で操を睨みつけて「違う」と言った。それすらもなんだか可愛い。同時に、胸がやけに騒がしく跳ね上がるのを感じた。 (な、なんだこれ……なんか、ドキドキが止まらない……?) 朝方こっそりと彼の寝顔を覗き見たときに感じたものと、少し似ている。だけど、今はそれがより鮮明に感じられるような気がした。急に丸裸にされたみたいに、どうしたらいいか分からなくなってしまう。 すると、なぜか甲洋の手に触れていることが恥ずかしくなってきた。離さなくちゃと、そう思った瞬間、窓の外が白い光に包まれる。 「ぴゃッ!?」 一瞬遅れて、遠くから太鼓を乱れ撃つような音が響き渡った。 操は突然の轟音に驚き、ぴょんっと跳あがる勢いで身体を揺らす。咄嗟に甲洋の左手を胸に引き寄せ、肩を竦めると薄暗い窓の外を見た。激しさを増した雨の雫が、絶え間なくガラスに爪を立てている。 「雷だ」 「は、春って雷鳴るのぉ!?」 「春雷だよ」 天井を見上げるようにして言った甲洋の言葉にかぶさるように、再び雷鳴が轟いた。 「うわあぁッ! な、なんだよもうー!」 甲洋の手を強く抱きしめて叫ぶ操を、揺れる瞳が戸惑ったように見つめてくる。 「怖いの?」 「なんで怖くないのぉ!?」 背中を丸め、涙目で見上げた操に目を瞬かせて、甲洋が笑った。 ふ、と小さく吹きだすことから始まり、しまいには肩をくつくつと震わせはじめる。 「こ、こうよお?」 笑っている。どんなときも決して笑顔を見せなかった甲洋が。 なぜか再び尻尾を振りながら、楽しそうに、嬉しそうに。 「ごめん」 目尻を指先で拭いながら、彼はそれでもまだ笑っている。 「怖いものが沢山あるんだな、来主は」 泣けばいいのか、笑えばいいのか、操にはもう何もわからなくなってしまった。 こんなに綺麗な笑顔を初めて見た。そして、初めて名前を呼ばれた。 胸が痛い。何かに刺し貫かれたように。息ができない。 (ああ、手を──) 離さなければと思っていたのに。 三度雷鳴が轟いたのを理由に、操は温かな手を殊さら強く、両手で握りしめた。 ←戻る ・ 次へ→
あと少しでも帰りが遅かったら、ふたりともずぶ濡れになっていただろう。
甲洋にはまず真っ先に風呂に入ってもらった。足の裏は幸い傷ついていなかったが、長いこと海風にさらされた身体が酷く冷え切っていたからだ。
彼が出てくるのを待ちながら、操は床に腰を落ち着けて自分の手の平をじっと見つめた。
(おれ、思いっきりイヌに触っちゃった)
今更だが、自分でも信じられない。1メートル半という距離を狭めたことすら驚きなのに、あんなふうに強引に手を引くなんて。
あのときは考える余裕がなかったからかもしれない。この機を逃せば、もう二度と彼を連れ戻すことはできないと思ったから。
ほっと息をついていると、風呂からあがった甲洋が居間に戻ってきた。紺のスウェット上下は一騎が持ってきてくれたもので、丈もぴったりだ。
しっかりドライヤーをかけるようにしつこく言ったからか、潮風でごわついていた髪と尻尾の毛も、ちゃんと乾いてふわふわになっている。
「肩まであったまった?」
「うん」
「いい子だね」
ホッとして笑う操に、甲洋は目をそらすだけで何も言わなかった。
操は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言って寝室へ向かった。ベッド脇にあるチェストの引き出しを漁り、目当てのものを見つけだすとまた居間に戻る。
甲洋は本棚の脇にあぐらをかいて、操が戻ってくるのを待っていた。
「近くに寄るよ。ビックリしないでね」
「?」
断りを入れてから、操は緊張を和らげるためにそっと深呼吸をした。それから、甲洋の目の前までゆっくり近づくと、その場にぺたりと座り込む。膝が触れそうなほど近い距離だ。
「な、なに?」
むしろ戸惑って身を引こうとしたのは甲洋の方だ。けれど背中が壁に当って、逃げ場がない。
操は持ってきた塗り薬の丸いケースの蓋を開けながら「手を出して」と言った。甲洋が探るような目を向けてくる。
「大丈夫。ねぇ、ほら早く」
おずおずと差し出された右手を取って、操はケースから指先ですくいあげた白いクリームを丁寧に塗り込めていく。未だに痣と傷が残る指の一本一本に。
「これ、消えるまで毎日するから。気づかなくて、ごめん」
操の指先は情けないほど震えていた。改めてこんなに近くで触れるとなると、本能的に刻み込まれた恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。
だけどそれは甲洋も同じなのかもしれない。こうしていると、触れられることに慣れていないのがよく分かる。彼は身を強張らせ、ずっと息を殺しているようだった。
右手が終わると、今度は左手だ。目で合図するだけで、甲洋は戸惑いながらもう片方を差し出してきた。
「……怖くないの?」
緊張した様子の声に問われて、操は少しだけ笑った。
「怖いよ、すごく」
「ならどうして」
「甲洋だから、だと思う」
左手にも軟膏を塗り込めながら言う。甲洋はわずかに息を呑んだだけだった。バタバタという雨音が、絶え間なく静かな空間に響き渡っている。
「だって甲洋は優しいもん」
優しすぎるから、傷つきやすい。
軽率な真似をして怯えさせてしまったのは操の方なのに、彼は自分を責めるのだ。もう傍にはいられないと言って、ひとりぼっちで雨に濡れようとしていた。
「あの公園で君を見つけたとき、君の背中が、海に消えてしまいそうで怖かった。君が部屋を飛び出してしまったときも、どうしたらいいか分からなくて」
容子の家を出たあと、海へ向かったのはイチかバチかの賭けだった。海が好きなのかと問いかけたとき、彼はほとんど反応を示さなかったけれど、あの食い入るような眼差しは印象深いものだった。
ここから比較的近い場所で海を臨める場所といえば、あの公園しかない。広大な敷地内を駆けずり回るのは骨が折れたが、彼がそこにいてくれて本当によかった。
「おれは、甲洋がいなくなることのほうがずっと怖い。それがわかったから、いいんだ」
子供の頃の体験は、決して忘れられるものではなかった。あと少しでも飼い主が駆けつけるのが遅ければ、どうなっていたか分からない。
初めて見た総士の泣き顔。傷ついて血が溢れ出す膝小僧。それでもなお吠え立て、飛びかかってこようとした犬の声。それは幼い操が、生まれて初めて『死』を意識させられた瞬間だった。
だけど甲洋は、操が抱えるものをただ静かに受け止めてくれた。こんな狭い家の中で、その領域を侵さないように注意を払ってくれた。
彼は操を怖がらせるような真似は絶対にしなかった。イヌというだけで無条件に恐れ、厚い壁を作っていたのは操自身だったのだ。
「おれ、甲洋のこと好きだよ。だからもう一人ぼっちにならないで。君が寂しいのは、嫌なんだ」
触れている甲洋の指が震えている。それは彼の心が震えているからなのだと思った。操は人間だから、読心能力は使えない。だけどなぜか、今はそれがハッキリと伝わってきたような気がした。
「……お前が、なぜそんなことを言うのか分からない」
声さえも震わせて、甲洋は言った。操はこの声を好きだと思った。柔らかで、とても繊細で。その心に、もっと触れてみたいと思う。
「俺にはそんな価値ないよ。役立たずで、なにも持ってない。優しいんじゃなくて、臆病なだけだ」
震えている甲洋の手を、操は両手で包み込んだ。しっとりとしたそれはとても温かい。骨ばっていて、大きな手だった。この手から、どれだけの幸せが通り抜けていったのだろう。
「それが君の心の中なんだね。話してくれて嬉しい。おれには、君たちのような力はないから」
ずっと無口だった彼が、初めて吐露した心情だ。
それがどんなに自己を否定するものだったとしても、何も言ってくれないよりずっといい。
「なにも持ってなくたっていいよ。それって、これから沢山なにかを掴めるってことでしょ? それにさ、おれは君に色んなものをもらったよ」
「もらった?」
「うん。誰かに食べてもらうためにご飯を作るのって、あんなに楽しいんだ。君がいなかったら、ずっと知らないままだった。台所にあの虫が出たときも、おれ一人だったらなにもできなかったし……あ、今そのくらいのことでって思った?」
「……少し」
正直な甲洋に、操は思わずムッとして唇を尖らせた。
「だってアイツ怖いじゃん。なんで平気なの?」
「なんでって言われても……別に無害だし」
「存在が有害だよ! なんであんなに黒くてテラテラしてなきゃいけないのぉ!?」
「わ、わかった。わかったから、泣かないで」
あの黒光りするフォルムを思いだすだけで涙が滲んでしまった操に、甲洋は珍しく焦ったように言った。
「じゃあ……またアイツが出たらやっつけてくれる?」
濡れた瞳で上目遣いに見ると、甲洋はなぜか目線を逸らしながら「いいよ」と言って頷いた。
操は安堵からふにゃりとした情けない笑みを浮かべる。
「よかったぁ。甲洋はカッコイイし優しいし、頼もしいね」
「よせ、俺はそんなんじゃ」
「おれはおれが思ったことを言ってるだけ。甲洋は綺麗な顔してるし、背も高くて手も足も長いし、虫もやっつけてくれるし、おれ甲洋の悪いとこ一個も言えないよ。だって思いつかないもん」
甲洋はいよいよ耐えきれなくなったとばかりに、空いている方の手で顔を覆い隠してしまった。それでも隠れきれていない頬や目元が、真っ赤に染まっている。
「甲洋?」
「……やめて」
蚊の鳴くような声だ。あまりにも見慣れない光景に、操はぽかんと口を開けてしまった。
そして気がつく。背にしている壁に挟まれて、その動きはだいぶ妨げられてはいるが、彼の黒く立派な尻尾が左右に大きく振られていることに。
総士と一緒にいるとき、一騎もよくこんなふうに尻尾を振っているのを思いだす。
「嬉しくなるから……それ以上は、言わないで……」
「ッ!」
操は一気に肌が粟立つような感覚に襲われた。釣られてこちらまで顔が熱くなってしまう。
なんだろうこれは。反則、という二文字が頭の中にぽかりと浮かんだ。
「……甲洋って、可愛いんだ」
これ以上は本気で嫌がるかもしれないと思いながら、つい口走ってしまう。
甲洋は指の隙間から揺れる瞳で操を睨みつけて「違う」と言った。それすらもなんだか可愛い。同時に、胸がやけに騒がしく跳ね上がるのを感じた。
(な、なんだこれ……なんか、ドキドキが止まらない……?)
朝方こっそりと彼の寝顔を覗き見たときに感じたものと、少し似ている。だけど、今はそれがより鮮明に感じられるような気がした。急に丸裸にされたみたいに、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
すると、なぜか甲洋の手に触れていることが恥ずかしくなってきた。離さなくちゃと、そう思った瞬間、窓の外が白い光に包まれる。
「ぴゃッ!?」
一瞬遅れて、遠くから太鼓を乱れ撃つような音が響き渡った。
操は突然の轟音に驚き、ぴょんっと跳あがる勢いで身体を揺らす。咄嗟に甲洋の左手を胸に引き寄せ、肩を竦めると薄暗い窓の外を見た。激しさを増した雨の雫が、絶え間なくガラスに爪を立てている。
「雷だ」
「は、春って雷鳴るのぉ!?」
「春雷だよ」
天井を見上げるようにして言った甲洋の言葉にかぶさるように、再び雷鳴が轟いた。
「うわあぁッ! な、なんだよもうー!」
甲洋の手を強く抱きしめて叫ぶ操を、揺れる瞳が戸惑ったように見つめてくる。
「怖いの?」
「なんで怖くないのぉ!?」
背中を丸め、涙目で見上げた操に目を瞬かせて、甲洋が笑った。
ふ、と小さく吹きだすことから始まり、しまいには肩をくつくつと震わせはじめる。
「こ、こうよお?」
笑っている。どんなときも決して笑顔を見せなかった甲洋が。
なぜか再び尻尾を振りながら、楽しそうに、嬉しそうに。
「ごめん」
目尻を指先で拭いながら、彼はそれでもまだ笑っている。
「怖いものが沢山あるんだな、来主は」
泣けばいいのか、笑えばいいのか、操にはもう何もわからなくなってしまった。
こんなに綺麗な笑顔を初めて見た。そして、初めて名前を呼ばれた。
胸が痛い。何かに刺し貫かれたように。息ができない。
(ああ、手を──)
離さなければと思っていたのに。
三度雷鳴が轟いたのを理由に、操は温かな手を殊さら強く、両手で握りしめた。
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