2025/09/14 Sun 三月下旬。桜の花が咲きはじめた。 甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。 「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」 快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。 操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。 七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。 操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。 「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」 「うん、それいいな」 「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」 甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。 公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。 「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」 「うん」 木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。 少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。 花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。 その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。 彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。 新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。 イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。 だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。 「ねぇ甲洋」 「なに」 のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。 それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。 「耳、触ってみてもいい?」 最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。 甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。 「や、優しく触るね」 操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。 ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。 甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。 「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」 「そう?」 「うん。食べたら美味しそうだね」 「食べないでよ」 甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。 「た、食べないよぅ」 「どうだろう。来主は食いしん坊だから」 きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。 一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。 「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」 言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。 コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。 ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。 だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。 「ごめんって」 頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。 「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」 それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。 「来主」 「なぁに」 甲洋がふいに真剣な目をする。 「……俺も、触ってみていいか?」 「へ?」 今度は操が目を瞬かせる番だった。 甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。 「い、いいよ! 触って!」 慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。 操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。 「ッ!」 操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。 「……怖い?」 触れるか触れないかのところで、問いかけられる。 操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。 「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」 「やめておく?」 「平気。やめないでいいよ」 誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。 (他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?) ──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。 それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。 甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。 (甲洋の手、あったかくて、くすぐったい) 胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。 朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。 ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。 春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。 「ごめん」 「う、うぅん」 甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。 春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。 ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。 「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」 この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。 「何がいい? オレンジジュースでいい?」 操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。 「コーヒーがいい、かな」 操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。 * 風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。 クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。 甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。 「来主」 呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。 あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。 ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。 けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。 彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。 だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。 クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。 (運んだほうがいいのか……?) 抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。 急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。 「来主、起きて」 甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。 彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。 (綺麗な目だったな) 秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。 甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。 頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。 「……ッ」 狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。 昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。 甲洋は多分、この感覚を知っている。 けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。 甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。 「来主」 吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。 小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。 しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。 (ダメだ) 自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。 花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。 「ッ……!」 呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。 (……いつから?) ──いつから、思い出になっていたのだろう。 ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。 決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。 「──来主」 初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。 ←戻る ・ 次へ→
甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」
快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。
操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。
七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。
操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。
「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」
「うん、それいいな」
「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」
甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。
公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。
「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」
「うん」
木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。
少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。
花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。
その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。
彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。
新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。
イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。
だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。
「ねぇ甲洋」
「なに」
のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。
それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。
「耳、触ってみてもいい?」
最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。
甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。
「や、優しく触るね」
操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。
ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。
甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。
「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」
「そう?」
「うん。食べたら美味しそうだね」
「食べないでよ」
甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。
「た、食べないよぅ」
「どうだろう。来主は食いしん坊だから」
きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。
一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。
「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」
言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。
コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。
ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。
だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。
「ごめんって」
頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。
「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」
それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。
「来主」
「なぁに」
甲洋がふいに真剣な目をする。
「……俺も、触ってみていいか?」
「へ?」
今度は操が目を瞬かせる番だった。
甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。
「い、いいよ! 触って!」
慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。
操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。
「ッ!」
操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。
「……怖い?」
触れるか触れないかのところで、問いかけられる。
操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。
「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」
「やめておく?」
「平気。やめないでいいよ」
誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。
(他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?)
──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。
それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。
甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。
(甲洋の手、あったかくて、くすぐったい)
胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。
朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。
ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。
春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。
「ごめん」
「う、うぅん」
甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。
春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。
ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」
この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。
「何がいい? オレンジジュースでいい?」
操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。
「コーヒーがいい、かな」
操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。
*
風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。
クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。
甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。
「来主」
呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。
あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。
ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。
けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。
彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。
クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。
(運んだほうがいいのか……?)
抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。
急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。
「来主、起きて」
甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。
彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
(綺麗な目だったな)
秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。
甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。
頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。
「……ッ」
狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。
昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。
甲洋は多分、この感覚を知っている。
けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。
甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。
「来主」
吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。
小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。
しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。
(ダメだ)
自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。
花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。
「ッ……!」
呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。
(……いつから?)
──いつから、思い出になっていたのだろう。
ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。
決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。
「──来主」
初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。
←戻る ・ 次へ→