2025/09/17 Wed 少しひねた言い方をすれば、よくある話、なのかもしれない。 花京院の父にあたる男性は、母が妊娠したと知るや否や彼女を捨てた。 母はいずれ結婚するものと信じて交際していたが、相手の男にはその気がなかったのである。 深く絶望した母に、自分を捨てた男の子供を産む意志はなかった。 だが結果的に、彼女は出産することになってしまう。遅かったのだ。病院に駆け込んだときには、中絶手術が可能な時期をほんの僅かに過ぎていた。 生まれて来た子供は足枷でしかなかった。当然、愛情を注ぐこともできない。 やがて彼女は、我が子に逃げ出した男の影を重ねて憎むことでしか、自分を保つことができなくなっていった。 そんな母親のもと、花京院は圧倒的な愛情不足で育つことになる。 事あるごとに「産むのではなかった」「産みたくなかった」と存在を否定され、時にはなんの理由もなく折檻を受けることもあった。 花京院は母が笑った顔を見たことがなかった。 なぜなら彼女は、いつだって『不幸』という沼の底にいたからだ。 全ては自分が生まれてきたから。生きているだけで母を苦しめる、なんの価値もない不用品なのだと、花京院の心は孤独と自己否定の闇に囚われていった。 それでもどうにかこうにか生きていられたのは、最低限の食事は与えられていたからだ。母一人子一人の貧しい生活が透けて見えていたのか、近所の住民が時おり子供服のお古をくれることもあった。 そんな二人きりの暮らしは、母が一人の男性と知り合い、結婚したことで終わりを告げる。 花京院が小学校に上がる、少し前のことだった。 男には14歳になる男児の連れ子がいた。血の繋がらない父と兄。彼らはまだ幼い花京院に嫌な顔こそしなかったが、最低限の関わりしか持とうとはしなかった。 新しい環境や、形ばかりの家族に戸惑う息子を他所に、母は毎日幸せそうだった。 笑顔で家事をこなし、家族と接する。けれどその笑みが花京院に向けられることは、ついぞなかった。 その頃から、母の花京院に対する暴力はぱたりとなくなり、それらは無視や放置という形に変わった。 無償の愛というものを得られず育ってきた花京院は、対人関係においても否定的だった。血の繋がった唯一の母親からも疎まれる自分が、他人から快く思われるはずがない。そう思い込み、学校でも自ら心を閉ざして孤独に身を置いた。 やがて月日が巡り、花京院が高校一年生の年の冬。 母は死んだ。 風邪で寝込んだ数日後、真夜中に意識障害を起こして救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。肺炎で、あっけない最期だった。 ベッドに横たわる母の亡骸を見ても、どうしてかまるで悲しみが湧いてこなかった。 花京院は初めて彼女の手をそっと握った。小さな手だった。これがまだ温かいうちに、こうして触れることができたらよかったのにと、一瞬だけ思いかけてやめた。 そんな花京院はこの春高校を卒業し、学業の傍ら必死でバイトをして溜めた金で安い部屋を借りると、家を出た。 今はネットカフェに勤めて、一人細々と暮らしている。 * 「とんだ贅沢をしてしまった……」 六畳一間の畳の部屋に、真新しいテレビとゲーム機が置かれている。 花京院はその正面に正座をして、ピンと姿勢を伸ばしながら購入した品々を見つめた。ゲーム機の隣には新作のゲームソフトも数本あって、花京院は頬を染めながら肩を震わせる。 「ぼくはこんなにも欲深い人間だったのか」 なんだかとても悪いことをしてしまったような気もしつつ、にやけそうになる頬がひくひくと痙攣する。 誰が見ているわけでもないのに、花京院は口元を片手で覆ってひとつ咳払いをした。 身一つで家を飛び出し、このボロアパートに越してきて一ヶ月。初期費用をはじめ、最低限の生活用品を買い揃えた結果、貯金は底をついていた。 そんな中に降って湧いた例の仕事で得たギャラで、花京院は唯一買えずにいた冷蔵庫を購入するため、電気用品店に足を運んだ。それ以上の買い物をするつもりはなかったはずが、なぜか今この有様である。 「いけないな。今後はしっかり節制していかなくては」 正座を崩して胡坐をかき、腕を組むと少しばかり反省する。後悔はしていないのだが、欲求を満たすためだけにこれほど高い買い物をするのは初めてのことで、なんだかまだ胸がドキドキしていた。 花京院はふと、すぐ横に投げ出されていた携帯電話に目をやった。床にぽつんと置いてあるそれに手を伸ばし、カレンダーが待ち受けになっている画面を見つめる。 (あれからもう二週間、か) 見知らぬ男に声をかけられ、ゲイ向けのアダルトビデオというものに出演した。 これだけ高い買い物をしても釣りがくるくらいには稼がせてもらったのだから、やはり受けてよかったと思う。 なんとなく罪悪感に駆られることもあるにはあるが、まだこれからもう一本、出演しなくてはならない契約だ。多少の不安はあるものの、どちらかといえば期待の方が大きい。 なぜなら、またあの空条承太郎という男に会えるかもしれないから。 あれ以来、気がつくと彼のことばかり考えている。 こうして部屋にいてもつい思い出してしまって、花京院は幾度か自慰にふけった。 あれほど性に疎く、関心がなかった自分が嘘のようだ。今も彼にかけてもらった言葉の数々を思い出すだけで、胸の辺りが締め付けられるように疼いて、顔が熱くなる。 (会えるといいな。あの人に) もし会えたなら、今度はもう少しまともに話せるだろうか。承太郎のことを考えるだけで、こんなにもドキドキと心臓が高鳴る理由が、分かるだろうか。 孤独と寄り添いながら生きてきた花京院は、生まれて初めて抱く感覚に戸惑うばかりだ。 ただもう一度会いたい。話がしてみたい。それからどうしたいかなんて、そんな先のことは見えないけれど。 花京院は喉を鳴らすと、次の撮影日に思いを馳せた。 * 結果的に、目論見は大きく外れた。 あれから三日後。撮影現場を訪れた花京院は、後悔のどん底へ突き落されることになる。 「台詞は頭に入った? そんなに多くはないし、楽勝だよね?」 相変わらずぬいぐるみのような体系をした監督が、台本を片手に腕を組んでうんうんと頷いている。 前回と同じ赤いネクタイが、五月の爽やかな風に乗ってゆらゆらと揺れていた。 晴天に恵まれた今日、花京院がいるのは高速に乗って数時間で到着した、人気のない山の中だった。ここが今日の撮影現場になるらしい。 現在、花京院を失望させているのは、何も朝っぱらから長時間の移動を強いられたせいでもなければ、マイクロバスの中でブレザーの学生服に着替えさせられたことでも、なんでもない。 (承太郎さん、いないのか) そう、今日の面子の中に承太郎の姿がない、というのが最大の原因だった。 てっきりまた彼に会えるとばかり思ってそわそわしながら過ごしていた自分は、一体なんだったのか。 しかも今日の撮影内容も、花京院の失望感に拍車をかけていた。 花京院の隣には、同じく制服を着た若い男が2人いた。自分を含めたコスプレ3人組は、今日この場所で『レイプ』の被害者にならなければならない。 さらに監督を囲んで、いかにも柄の悪そうな私服の男たちが5人。彼らが強姦魔の役を務める。 大まかなストーリーは、仲のいい男子高校生3人が、学校帰りに不良グループに絡まれて、白昼堂々野外レイプされる……というものだった。 (ありえないだろそんな設定……まったくもって理解できない) 共演者たちはもちろん、今日初めて会った者ばかりだ。最初に軽く紹介はされた気がするが、覚える気がさらさらないため、もはや顔と名前が一致しない。ただ確かなのは、花京院以外の全員がどこか場馴れした雰囲気を醸し出していることだろうか。 帰りたい、と心からそう思った。純粋に金のためと割り切っているであろう彼らの中にあって、動機からして不純な自分という存在は、異質で場違いに思える。 だが、引き返すにはあまりにも遠くまで来すぎてしまった。しっかり着こんでしまった制服は、ワイシャツのサイズが微妙に合っていないせいでぴたりと肌に張り付くようで、少し苦しい。 げんなりと溜息を漏らす花京院を他所に、今日も大張り切りの監督指揮の元、撮影は容赦なくスタートするのだった。 * 地獄絵図だと、花京院は思った。 目の前で二人の青年が制服を乱され、男たちに組み敷かれている。 太陽が燦々と降り注ぐ大自然の下、その光景はあまりにも現実離れしていた。 「やめてください! お願いです!」 「うるせぇ! すぐに俺ら専用の肉便器にしてやる!」 「や、やめろよ! なんなんだあんた達!?」 「そんなこと言って、本当は期待してんだろ?」 (まずいな……このテンションは、ちょっとついて行けないぞ……?) 路上を歩いていた自分たち被害者組は、擦れ違いざまに加害者組に難癖をつけられて、そのまま藪の中に引きずり込まれた。 抵抗も虚しく、次々と好き者たちの手に落ちていく花京院以外の若者二人は、嫌がりつつも甘い吐息を漏らして、されるがままに嬲られている。 設定にも現実味がないが、目の前の光景も信じがたいものだった。なんというか、基本的に喘ぎ以外は棒読みというのが物悲しくすらある。 しばらくはただ地面に座り込んで茫然としていた花京院だったが、背後からその手は忍び寄って来た。 「おう、お兄ちゃんも見てねぇで、俺らと楽しいことしようや」 「ッ……!?」 思い切り抱きすくめられて、花京院は声にならない悲鳴を上げた。そうだった。自分もこの非現実という舞台の登場人物なのだった。 いやに黒々としたガタイのいい男が、少し窮屈そうに制服を押し上げる胸を揉みしだこうとして、蠢いている。 ゾッとして、無意識に繰り出そうとした肘鉄を強い力によって制されてしまう。二の腕を捻るように掴まれ、肩の関節が嫌な音を立てた。 「やめ、ろ……ッ」 耳元に感じる息遣いがあまりにも気色悪くて、喉が引き攣る。 言うべき台詞があった気がするし、最初は大きく抵抗するように指導を受けたような気もする。だが、強い力によって制服の前を引き裂かれ、シャツのボタンが弾けとんだ瞬間、全て消え失せてしまった。 男は剥き出しになった白い胸をまさぐりながら耳たぶに舌を這わせる。 「ヒッ……!」 全身にミミズが這うような寒気と不快感を覚える。台本云々ではなく、本能的に逃げなければという意志が動き出した。 「ッ、……はな、せッ、やめろ!!」 だが、どんなに身を捩っても花京院より一回りガタイのいい身体に羽交い絞めにされ、動きを封じられてしまう。そうしているうちに前方からもう一人、男がやって来た。バタつかせていた足をねじ伏せられ、ベルトを外されると一気に下着ごと下ろされる。 「ッ!?」 「お、綺麗な色してんじゃん。よし、しゃぶってやるよ」 嫌だ、と叫ぼうとした口を、後方の男に塞がれた。顎を掴まれ、無理に捩じられた首の関節が軋む。 唇を奪われ、即座に潜り込んできた舌が口腔を暴れまわる感覚に、サァッと全身から血の気を引いている間にも、性器が生温かいもので包まれた。 「んんぅ! んっ、ぅん――ッ!!」 (嫌だ……気持ちが悪い……!!) キスも、身体に触れられるのも。何もかもがおぞましい。 素質なんかどこにもないじゃあないかと、心の中で監督に悪態をついた。 あのときは、やっぱり承太郎だから気持ちがよかったんだと、こんな状況になって思い知る。 承太郎の手は優しかった。彼のキスは、こんな風にただ奪うだけのものではなかった。花京院の欲する言葉をくれながら、そっと包み込むように撫でながら、内側から溶かしてくれた。 たったいま口の中を暴れまわる舌はただぬるついていて、どこか生臭かった。口淫を受ける性器も不快感が込み上げるばかりで、ちっともよくならない。こんなことなら、承太郎のことを思い出しながら自分で慰める方が、ずっと気持ちがいいと思えた。 早く終わってくれとただ願うばかりの花京院の耳に、他二人の被害者たちの甘い嬌声が届く。うっすらと目を開けて見れば、彼らは思い思いの姿で暴漢の性器を口に含み、後孔を嬲られている。 吐き気がするのを、ぐっと堪えた。 「てめぇばっか楽しんでないで、俺のもしゃぶれや!」 唇を解放した男は、花京院のひと房だけ長い前髪を掴むと立ち上がった。そして、寛げたジーンズから黒光りした性器を取り出し、口元に押し付けてくる。嫌な臭いがむっと立ち込め、花京院はきつく目を閉じると顔を背けた。 冗談じゃない。こんなもの、絶対に口に含んでたまるか。だが相手は容赦しなかった。唇を噛み締める花京院の鼻を思い切り摘まみ、息ができなくなる瞬間を狙って強引に捻じ込んでくる。 「んぐぅ……ッ!?」 醜悪な肉の塊が口の中いっぱいを満たす。男は両手で花京院の頭を掴み、呻き声を上げながら腰を振る。先端が喉の奥にがつがつと当たり、えづきそうになる度に唾液が口の端から飛び散った。 (臭い……汚い……気持ち悪い……) もういっそ、死んだ方がましだ。 花京院は、ただ承太郎に会いたかっただけだ。あの優しい人に、もう一度触れてほしくて。だけど彼は、ここにはいなかった。 (ぼくは一体、なにを浮かれていたんだろう) 柄にもなく他人に興味を抱いて、関わろうなんて考えるから、罰が当たったのだろうか。 そのおこがましさに笑えてくる。もし自由に声が出せたなら、今ごろ腹を抱えて笑い転げていたかもしれない。 (呆れるよ、心底な) 苦痛でしかない行為の中、どこか遠くで達観しはじめる自分が生まれる。 諦めの境地に至った花京院は、ふっと身体の力を抜いた。無駄に抵抗なんかせず、大人しくしてさえいれば、きっとすぐに終わるはずだ。性的な意味合いに形を変えただけで、暴力には、慣れている。 性器をしゃぶっていた男が、後孔に触れる。いつのまにか体勢を変えられ、口の中を犯されながら尻を突き出していた。 おそらくローションで濡れているであろう指が、強引に捻じ込まれる。そこに労わりの欠片もなく、ただ激痛が走るばかりだった。 口の中を強引に出入りする性器が、舌の上で大きく脈打っている。呼吸の隙さえ与えられず、徐々に意識が遠のくのを感じた。 (あのときは、ずっと抱かれていたいって思ったのにな) 上手くやり過ごす方法を模索して、やがて花京院は答えにいきついた。 (……承太郎さん) 思い出すのは、やっぱり彼のことだった。 あの大きな手の感触を思い出すだけで、不思議と心が温かく満たされる。 きっとどんなに酷いことも、彼だったら受け入れられるような気さえした。 だからこの口の中を穿つ性器も、中を乱暴に探る指も、全て承太郎のものだったらいいのにと。 分かっている。何の意味もないことを。 だけど初めてだったから。あんな風に優しく触れられることも、言葉をかけられることも、全てが生まれて初めての経験だった。 花京院はこの似ても似つかない男たちに、必死で承太郎を重ねようとした。彼がかけてくれた言葉を、身体の内側から甘く蕩けるような感覚を。 『典明。お前は本当にいい子だね』 思い出そうとして……。 『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』 (……あれ?) 『そう、いい子だ。愛してるよ典明』 (これは) この声は、誰の声? * 真夜中の駅のホームは、終電を待つ人がちらほらと見えるだけだった。 花京院はぐったりと項垂れて、ベンチに腰かけていた。 身体が酷く重たい。できればすぐにでも身を横たえて、眠ってしまいたかった。胃の辺りがムカムカとして、吐き気がする。 今日は人生で最悪の日だったかもしれない。 思い出すだけで、耐えがたい屈辱に身体が震える。 あのあと、花京院は数人の男たちによって犯された。誰のものを咥えこんだのか、誰とキスをしたのか、受け入れたのか、なにも思い出せないくらい滅茶苦茶にされた。直接出されてしまった精液は、軽く清めただけでまだ中に残っているような気がする。 途中、堪え切れずに何度も吐いた。その度に撮影を中断させることになって、結局また、あの怪しげなサプリの世話にもなった。 花京院は、必死で承太郎を思いだそうとした。でも、できなかった。どうしてか、知らない男の声が何度も脳裏に浮かんだ。 『そう、いい子だ。愛してるよ典明』 (あれは、誰の声だったんだろう……?) しきりに花京院を褒め、愛してると囁く男の声。 誰のものかはさっぱり分からなかったが、どこか懐かしくもある。ふと、もしかしたら義父の声かもしれないと思った。けれどおかしい。一緒に暮らしている間は金銭的に世話にはなっていたが、母と同様、義父もまた花京院に対して無関心を貫いていた。だから、絶対にありえない。 ましてや愛を囁くなんて。 (もういいや。どうでもいい) なんにしろ今日のことは、悪い夢として処理する以外にないのだ。 必死で承太郎を思い出そうとしていたが、それも無駄でしかない。どうせ彼とはもう二度と会えないだろうし、むしろその方がいいのだと思う。 そのとき、ごう、という音がして、温い風が吹き抜けた。 アナウンスと同時に電車が滑り込んでくるのを見て、立ち上がろうとする。だが、身体がふらついて結局ベンチから離れられない。散々乱暴にされたせいで腰が重く、受け入れた場所もじりじりと痛んでいた。 (乗らなければ……これ、終電だ……) 気持ちだけは焦っていた。早く帰って、シャワーを浴びたい。上着の裏ポケットに入っている封筒はずっしりと重たかったが、ちっとも嬉しくなかった。 そうこうしているうちに、花京院は結局電車を逃した。 もうタクシーでも拾って帰るしかないかと、再びがっくりと項垂れた。そのときだった。 「おまえ、花京院か?」 頭上で声がした。 それは今日ずっと思い出したくて、思い出せなかった声だった。 目を見開いて顔を上げると、そこには黒い帽子をかぶり、コートを着た大柄な男の姿がある。 花京院は咄嗟に何も反応ができずに、ただ口をぽかんと開けた。 「やっぱりか。その変わった前髪、ひょっとしたらと思ったぜ」 男は軽く口端を持ち上げるようにして笑うと、隣にどっかりと腰かける。そして、明らかに顔色の悪い花京院を見て眉間に皺を刻んだ。 大きな手が額に触れた瞬間、花京院は肩を大きく跳ねさせた。彼は気にせず手の平で熱を測ると「少し熱い」と険しい表情を見せる。 「おいおまえ、家はどこだ? この辺りか?」 「……承太郎、さん?」 どうして彼が、ここにいるのだろう。 一度見れば決して忘れることのできない翡翠の瞳は、あの日と変わらず美しい。整いすぎた彫りの深い顔立ちも、肉厚な唇も、服の上からでも分かる鍛え上げられた大きくて逞しい肉体も。けれどまるで別人のような印象を受けるのは、 「てめー、忘れるにはちと早すぎるんじゃあねーのか?」 この、言葉使いのせいだ。 承太郎は呆れたように片眉をひょいと持ち上げ「やれやれだぜ」と言った。 (う、嘘だろ? だって全然、あの時と違うじゃないか) 初めて会ったあの日、彼は口調も振る舞いも穏やかで紳士的だった。だが今の承太郎は野性味溢れる印象で、口調も粗暴なら、表情はどこか不機嫌そうにも見える。紳士というよりは、いっそどこぞの組の若頭とでも言われたほうが、よほどしっくり来るだろうか。 「おい花京院」 低い声で名前を呼ばれて、思わず大きく肩を揺らした。 あの日と重なるようでいて重ならない承太郎の姿に、反応が疎かになっていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。 「はっ、あ、すみません、前に会った時と、印象が違っていたものですから」 「ああ、そういやそうか」 承太郎は納得したように言うと、黒い帽子の鐔を指先で摘まみ、ゆったりとした動作で頭から外す。その光景に目を見張る花京院に向かって、エメラルドの瞳を優しく細め、笑って見せた。 「!」 「半月と少しぶりだな、花京院くん。元気にしていたか?」 穏やかに微笑み、花京院をくん付けで呼ぶ男は、確かにあの日の承太郎の印象とピッタリ重なる。 一瞬で顔に血液が集まるのを感じた。信じられないようなことだがあの日、花京院はこの目の前にいる美しい男に、抱かれたのだ。 あのときのことを思い出すだけで思考が熱に浮かされ、つい呆けたような表情になってしまう。 「君はこちらの方がお好みということかな?」 承太郎は赤く染まる花京院の頬を、指先の背でするりと撫でた。熱したフライパンにでも触れてしまったかのように過剰に肩を跳ねさせる花京院に、少し困ったような笑みを浮かべる。 心臓が口から飛び出しそうな息苦しさを覚えながら、花京院は慌てて首を振った。 「い、いえ! 少し驚いてしまっただけで……どちらも、素敵、です」 実際、そう思う。 口調ひとつで印象はガラリと変わるが、彼のいっそ鬼のような美貌が損なわれるわけではない。むしろあの荒っぽい言葉使いの方が素なのかもしれないと思うと、それが何か特別なことのように思えて感動すら覚える。 承太郎は花京院の言葉を聞いて、ふっと小さな息を漏らしながら口端を持ち上げた。のけぞるようにベンチの背もたれに両肘を乗せ、嫌味なほど長い足をゆったりと組む。 「そいつは助かるぜ。慣れねえ口調は肩が凝って仕方ねえ」 「やっぱりこっちが素なんですね。あのときは、どうして?」 承太郎は指先で摘まんだままだった帽子をかぶりなおす。 「あんときゃあーゆうキャラでって頼まれてただけだ。てめーみてえな初心者ノンケが、おれを見て逃げ出したって前例があるからな。雰囲気と人当りだけでもせめてってやつだぜ」 「そう、だったのですか」 確かに、今の承太郎からは大柄な肉食獣のような印象を受ける。身体の大きさもあるだろうが、もし最初からこの威圧的な態度で来られていたら、花京院だってどうだったか分からない。逃げ出しはしないにしろ、反発心は抱いていたかもしれない。 だから理解はできる、のだが。 (なら全て演技だった、ってことなのか) あの優しさも労わりも、かけてくれた言葉も、全部。 嘘、ということだろうか。もしそうなのだとしたら。 (恥ずかしいな……) 偽りの態度と言葉に踊らされて、ずっと舞い上がっていたのかと思うと、胸の辺りが重く沈んでいくのを感じてしまう。あの耐えがたい屈辱の中、必死で彼を思い出そうとしていた自身にさらなる嫌悪感が募った。 込み上げる羞恥に耐えかねて、花京院はふらつく身体に鞭を打つようにして立ち上がる。 「それじゃあ、ぼくはこれで」 どうにか表情に笑顔を張り付け、軽く会釈をして一歩踏み出そうとした。けれどその手首を掴まれ、引き寄せられてのけぞってしまう。 「うわッ!」 「おいおまえ」 承太郎も立ち上がっていた。こうして並び立つと、本当に大きな男だ。 相手の意図がわからずただ目を見開く花京院を、彼は怒っているようにも見える険しい表情で見下ろす。 「仕事、してきたのか」 ドキリと、心臓が音を立てて軋んだ。 咄嗟に息をのんで目を泳がせれば、承太郎は盛大に舌打ちをして手首を掴む手に力を込める。 「じょ、承太郎さん、痛いですよ」 「うるせえ」 「ちょっと! 承太郎さん、どこへ!?」 花京院の手を引き、歩き出してしまった承太郎は「おれんちだ」と短く行先を告げる。 「な、どうして!?」 問うても、彼は何も言わなかった。承太郎はあきらかに苛立ちを覗かせている。どこかピリピリとしたオーラが、これ以上答えるつもりはないとハッキリ告げているようだった。 焦りと不安と、戸惑いと混乱。ただ分かるのは、自分が彼を不快にさせているということだ。四肢が冷え、加速する心音に身体が震える。 嫌われてしまった。ただ、そう感じる。 一体なにをしてしまったのだろうかと考えかけて、すぐにやめた。花京院にとって、相手に嫌悪されることにこれといった理由など必要ないからだ。それらは自分が生まれてきてしまったことに、全てが起因する。そう教えられて、育ってきた。 なるべくしてなったのだと思うしかない。そうやってずっと諦めて生きてきた。 けれどなぜだろう。この人にだけは、嫌われたくなかった。そんな風に思ってしまうのは。 「承太郎、さん……離して……」 蚊の鳴くような声は震えるばかりで、ほとんど音にならなかった。 承太郎の歩幅は、ただでさえ身長差のある花京院には辛すぎる。身体に受けたダメージも大きくて、本当は立っているだけでもやっとなのだ。 苦しげに息を弾ませ、足を縺れさせる花京院の震えに気がついたのか、改札間際で承太郎の歩調が僅かに緩んだ。 「別に取って食いやしねえ。安心しな」 それでも承太郎の手から解放されることはなく、花京院の中から絶望感が消えることもなかった。 ←戻る ・ 次へ→
花京院の父にあたる男性は、母が妊娠したと知るや否や彼女を捨てた。
母はいずれ結婚するものと信じて交際していたが、相手の男にはその気がなかったのである。
深く絶望した母に、自分を捨てた男の子供を産む意志はなかった。
だが結果的に、彼女は出産することになってしまう。遅かったのだ。病院に駆け込んだときには、中絶手術が可能な時期をほんの僅かに過ぎていた。
生まれて来た子供は足枷でしかなかった。当然、愛情を注ぐこともできない。
やがて彼女は、我が子に逃げ出した男の影を重ねて憎むことでしか、自分を保つことができなくなっていった。
そんな母親のもと、花京院は圧倒的な愛情不足で育つことになる。
事あるごとに「産むのではなかった」「産みたくなかった」と存在を否定され、時にはなんの理由もなく折檻を受けることもあった。
花京院は母が笑った顔を見たことがなかった。
なぜなら彼女は、いつだって『不幸』という沼の底にいたからだ。
全ては自分が生まれてきたから。生きているだけで母を苦しめる、なんの価値もない不用品なのだと、花京院の心は孤独と自己否定の闇に囚われていった。
それでもどうにかこうにか生きていられたのは、最低限の食事は与えられていたからだ。母一人子一人の貧しい生活が透けて見えていたのか、近所の住民が時おり子供服のお古をくれることもあった。
そんな二人きりの暮らしは、母が一人の男性と知り合い、結婚したことで終わりを告げる。
花京院が小学校に上がる、少し前のことだった。
男には14歳になる男児の連れ子がいた。血の繋がらない父と兄。彼らはまだ幼い花京院に嫌な顔こそしなかったが、最低限の関わりしか持とうとはしなかった。
新しい環境や、形ばかりの家族に戸惑う息子を他所に、母は毎日幸せそうだった。
笑顔で家事をこなし、家族と接する。けれどその笑みが花京院に向けられることは、ついぞなかった。
その頃から、母の花京院に対する暴力はぱたりとなくなり、それらは無視や放置という形に変わった。
無償の愛というものを得られず育ってきた花京院は、対人関係においても否定的だった。血の繋がった唯一の母親からも疎まれる自分が、他人から快く思われるはずがない。そう思い込み、学校でも自ら心を閉ざして孤独に身を置いた。
やがて月日が巡り、花京院が高校一年生の年の冬。
母は死んだ。
風邪で寝込んだ数日後、真夜中に意識障害を起こして救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。肺炎で、あっけない最期だった。
ベッドに横たわる母の亡骸を見ても、どうしてかまるで悲しみが湧いてこなかった。
花京院は初めて彼女の手をそっと握った。小さな手だった。これがまだ温かいうちに、こうして触れることができたらよかったのにと、一瞬だけ思いかけてやめた。
そんな花京院はこの春高校を卒業し、学業の傍ら必死でバイトをして溜めた金で安い部屋を借りると、家を出た。
今はネットカフェに勤めて、一人細々と暮らしている。
*
「とんだ贅沢をしてしまった……」
六畳一間の畳の部屋に、真新しいテレビとゲーム機が置かれている。
花京院はその正面に正座をして、ピンと姿勢を伸ばしながら購入した品々を見つめた。ゲーム機の隣には新作のゲームソフトも数本あって、花京院は頬を染めながら肩を震わせる。
「ぼくはこんなにも欲深い人間だったのか」
なんだかとても悪いことをしてしまったような気もしつつ、にやけそうになる頬がひくひくと痙攣する。
誰が見ているわけでもないのに、花京院は口元を片手で覆ってひとつ咳払いをした。
身一つで家を飛び出し、このボロアパートに越してきて一ヶ月。初期費用をはじめ、最低限の生活用品を買い揃えた結果、貯金は底をついていた。
そんな中に降って湧いた例の仕事で得たギャラで、花京院は唯一買えずにいた冷蔵庫を購入するため、電気用品店に足を運んだ。それ以上の買い物をするつもりはなかったはずが、なぜか今この有様である。
「いけないな。今後はしっかり節制していかなくては」
正座を崩して胡坐をかき、腕を組むと少しばかり反省する。後悔はしていないのだが、欲求を満たすためだけにこれほど高い買い物をするのは初めてのことで、なんだかまだ胸がドキドキしていた。
花京院はふと、すぐ横に投げ出されていた携帯電話に目をやった。床にぽつんと置いてあるそれに手を伸ばし、カレンダーが待ち受けになっている画面を見つめる。
(あれからもう二週間、か)
見知らぬ男に声をかけられ、ゲイ向けのアダルトビデオというものに出演した。
これだけ高い買い物をしても釣りがくるくらいには稼がせてもらったのだから、やはり受けてよかったと思う。
なんとなく罪悪感に駆られることもあるにはあるが、まだこれからもう一本、出演しなくてはならない契約だ。多少の不安はあるものの、どちらかといえば期待の方が大きい。
なぜなら、またあの空条承太郎という男に会えるかもしれないから。
あれ以来、気がつくと彼のことばかり考えている。
こうして部屋にいてもつい思い出してしまって、花京院は幾度か自慰にふけった。
あれほど性に疎く、関心がなかった自分が嘘のようだ。今も彼にかけてもらった言葉の数々を思い出すだけで、胸の辺りが締め付けられるように疼いて、顔が熱くなる。
(会えるといいな。あの人に)
もし会えたなら、今度はもう少しまともに話せるだろうか。承太郎のことを考えるだけで、こんなにもドキドキと心臓が高鳴る理由が、分かるだろうか。
孤独と寄り添いながら生きてきた花京院は、生まれて初めて抱く感覚に戸惑うばかりだ。
ただもう一度会いたい。話がしてみたい。それからどうしたいかなんて、そんな先のことは見えないけれど。
花京院は喉を鳴らすと、次の撮影日に思いを馳せた。
*
結果的に、目論見は大きく外れた。
あれから三日後。撮影現場を訪れた花京院は、後悔のどん底へ突き落されることになる。
「台詞は頭に入った? そんなに多くはないし、楽勝だよね?」
相変わらずぬいぐるみのような体系をした監督が、台本を片手に腕を組んでうんうんと頷いている。
前回と同じ赤いネクタイが、五月の爽やかな風に乗ってゆらゆらと揺れていた。
晴天に恵まれた今日、花京院がいるのは高速に乗って数時間で到着した、人気のない山の中だった。ここが今日の撮影現場になるらしい。
現在、花京院を失望させているのは、何も朝っぱらから長時間の移動を強いられたせいでもなければ、マイクロバスの中でブレザーの学生服に着替えさせられたことでも、なんでもない。
(承太郎さん、いないのか)
そう、今日の面子の中に承太郎の姿がない、というのが最大の原因だった。
てっきりまた彼に会えるとばかり思ってそわそわしながら過ごしていた自分は、一体なんだったのか。
しかも今日の撮影内容も、花京院の失望感に拍車をかけていた。
花京院の隣には、同じく制服を着た若い男が2人いた。自分を含めたコスプレ3人組は、今日この場所で『レイプ』の被害者にならなければならない。
さらに監督を囲んで、いかにも柄の悪そうな私服の男たちが5人。彼らが強姦魔の役を務める。
大まかなストーリーは、仲のいい男子高校生3人が、学校帰りに不良グループに絡まれて、白昼堂々野外レイプされる……というものだった。
(ありえないだろそんな設定……まったくもって理解できない)
共演者たちはもちろん、今日初めて会った者ばかりだ。最初に軽く紹介はされた気がするが、覚える気がさらさらないため、もはや顔と名前が一致しない。ただ確かなのは、花京院以外の全員がどこか場馴れした雰囲気を醸し出していることだろうか。
帰りたい、と心からそう思った。純粋に金のためと割り切っているであろう彼らの中にあって、動機からして不純な自分という存在は、異質で場違いに思える。
だが、引き返すにはあまりにも遠くまで来すぎてしまった。しっかり着こんでしまった制服は、ワイシャツのサイズが微妙に合っていないせいでぴたりと肌に張り付くようで、少し苦しい。
げんなりと溜息を漏らす花京院を他所に、今日も大張り切りの監督指揮の元、撮影は容赦なくスタートするのだった。
*
地獄絵図だと、花京院は思った。
目の前で二人の青年が制服を乱され、男たちに組み敷かれている。
太陽が燦々と降り注ぐ大自然の下、その光景はあまりにも現実離れしていた。
「やめてください! お願いです!」
「うるせぇ! すぐに俺ら専用の肉便器にしてやる!」
「や、やめろよ! なんなんだあんた達!?」
「そんなこと言って、本当は期待してんだろ?」
(まずいな……このテンションは、ちょっとついて行けないぞ……?)
路上を歩いていた自分たち被害者組は、擦れ違いざまに加害者組に難癖をつけられて、そのまま藪の中に引きずり込まれた。
抵抗も虚しく、次々と好き者たちの手に落ちていく花京院以外の若者二人は、嫌がりつつも甘い吐息を漏らして、されるがままに嬲られている。
設定にも現実味がないが、目の前の光景も信じがたいものだった。なんというか、基本的に喘ぎ以外は棒読みというのが物悲しくすらある。
しばらくはただ地面に座り込んで茫然としていた花京院だったが、背後からその手は忍び寄って来た。
「おう、お兄ちゃんも見てねぇで、俺らと楽しいことしようや」
「ッ……!?」
思い切り抱きすくめられて、花京院は声にならない悲鳴を上げた。そうだった。自分もこの非現実という舞台の登場人物なのだった。
いやに黒々としたガタイのいい男が、少し窮屈そうに制服を押し上げる胸を揉みしだこうとして、蠢いている。
ゾッとして、無意識に繰り出そうとした肘鉄を強い力によって制されてしまう。二の腕を捻るように掴まれ、肩の関節が嫌な音を立てた。
「やめ、ろ……ッ」
耳元に感じる息遣いがあまりにも気色悪くて、喉が引き攣る。
言うべき台詞があった気がするし、最初は大きく抵抗するように指導を受けたような気もする。だが、強い力によって制服の前を引き裂かれ、シャツのボタンが弾けとんだ瞬間、全て消え失せてしまった。
男は剥き出しになった白い胸をまさぐりながら耳たぶに舌を這わせる。
「ヒッ……!」
全身にミミズが這うような寒気と不快感を覚える。台本云々ではなく、本能的に逃げなければという意志が動き出した。
「ッ、……はな、せッ、やめろ!!」
だが、どんなに身を捩っても花京院より一回りガタイのいい身体に羽交い絞めにされ、動きを封じられてしまう。そうしているうちに前方からもう一人、男がやって来た。バタつかせていた足をねじ伏せられ、ベルトを外されると一気に下着ごと下ろされる。
「ッ!?」
「お、綺麗な色してんじゃん。よし、しゃぶってやるよ」
嫌だ、と叫ぼうとした口を、後方の男に塞がれた。顎を掴まれ、無理に捩じられた首の関節が軋む。
唇を奪われ、即座に潜り込んできた舌が口腔を暴れまわる感覚に、サァッと全身から血の気を引いている間にも、性器が生温かいもので包まれた。
「んんぅ! んっ、ぅん――ッ!!」
(嫌だ……気持ちが悪い……!!)
キスも、身体に触れられるのも。何もかもがおぞましい。
素質なんかどこにもないじゃあないかと、心の中で監督に悪態をついた。
あのときは、やっぱり承太郎だから気持ちがよかったんだと、こんな状況になって思い知る。
承太郎の手は優しかった。彼のキスは、こんな風にただ奪うだけのものではなかった。花京院の欲する言葉をくれながら、そっと包み込むように撫でながら、内側から溶かしてくれた。
たったいま口の中を暴れまわる舌はただぬるついていて、どこか生臭かった。口淫を受ける性器も不快感が込み上げるばかりで、ちっともよくならない。こんなことなら、承太郎のことを思い出しながら自分で慰める方が、ずっと気持ちがいいと思えた。
早く終わってくれとただ願うばかりの花京院の耳に、他二人の被害者たちの甘い嬌声が届く。うっすらと目を開けて見れば、彼らは思い思いの姿で暴漢の性器を口に含み、後孔を嬲られている。
吐き気がするのを、ぐっと堪えた。
「てめぇばっか楽しんでないで、俺のもしゃぶれや!」
唇を解放した男は、花京院のひと房だけ長い前髪を掴むと立ち上がった。そして、寛げたジーンズから黒光りした性器を取り出し、口元に押し付けてくる。嫌な臭いがむっと立ち込め、花京院はきつく目を閉じると顔を背けた。
冗談じゃない。こんなもの、絶対に口に含んでたまるか。だが相手は容赦しなかった。唇を噛み締める花京院の鼻を思い切り摘まみ、息ができなくなる瞬間を狙って強引に捻じ込んでくる。
「んぐぅ……ッ!?」
醜悪な肉の塊が口の中いっぱいを満たす。男は両手で花京院の頭を掴み、呻き声を上げながら腰を振る。先端が喉の奥にがつがつと当たり、えづきそうになる度に唾液が口の端から飛び散った。
(臭い……汚い……気持ち悪い……)
もういっそ、死んだ方がましだ。
花京院は、ただ承太郎に会いたかっただけだ。あの優しい人に、もう一度触れてほしくて。だけど彼は、ここにはいなかった。
(ぼくは一体、なにを浮かれていたんだろう)
柄にもなく他人に興味を抱いて、関わろうなんて考えるから、罰が当たったのだろうか。
そのおこがましさに笑えてくる。もし自由に声が出せたなら、今ごろ腹を抱えて笑い転げていたかもしれない。
(呆れるよ、心底な)
苦痛でしかない行為の中、どこか遠くで達観しはじめる自分が生まれる。
諦めの境地に至った花京院は、ふっと身体の力を抜いた。無駄に抵抗なんかせず、大人しくしてさえいれば、きっとすぐに終わるはずだ。性的な意味合いに形を変えただけで、暴力には、慣れている。
性器をしゃぶっていた男が、後孔に触れる。いつのまにか体勢を変えられ、口の中を犯されながら尻を突き出していた。
おそらくローションで濡れているであろう指が、強引に捻じ込まれる。そこに労わりの欠片もなく、ただ激痛が走るばかりだった。
口の中を強引に出入りする性器が、舌の上で大きく脈打っている。呼吸の隙さえ与えられず、徐々に意識が遠のくのを感じた。
(あのときは、ずっと抱かれていたいって思ったのにな)
上手くやり過ごす方法を模索して、やがて花京院は答えにいきついた。
(……承太郎さん)
思い出すのは、やっぱり彼のことだった。
あの大きな手の感触を思い出すだけで、不思議と心が温かく満たされる。
きっとどんなに酷いことも、彼だったら受け入れられるような気さえした。
だからこの口の中を穿つ性器も、中を乱暴に探る指も、全て承太郎のものだったらいいのにと。
分かっている。何の意味もないことを。
だけど初めてだったから。あんな風に優しく触れられることも、言葉をかけられることも、全てが生まれて初めての経験だった。
花京院はこの似ても似つかない男たちに、必死で承太郎を重ねようとした。彼がかけてくれた言葉を、身体の内側から甘く蕩けるような感覚を。
『典明。お前は本当にいい子だね』
思い出そうとして……。
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
(……あれ?)
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(これは)
この声は、誰の声?
*
真夜中の駅のホームは、終電を待つ人がちらほらと見えるだけだった。
花京院はぐったりと項垂れて、ベンチに腰かけていた。
身体が酷く重たい。できればすぐにでも身を横たえて、眠ってしまいたかった。胃の辺りがムカムカとして、吐き気がする。
今日は人生で最悪の日だったかもしれない。
思い出すだけで、耐えがたい屈辱に身体が震える。
あのあと、花京院は数人の男たちによって犯された。誰のものを咥えこんだのか、誰とキスをしたのか、受け入れたのか、なにも思い出せないくらい滅茶苦茶にされた。直接出されてしまった精液は、軽く清めただけでまだ中に残っているような気がする。
途中、堪え切れずに何度も吐いた。その度に撮影を中断させることになって、結局また、あの怪しげなサプリの世話にもなった。
花京院は、必死で承太郎を思いだそうとした。でも、できなかった。どうしてか、知らない男の声が何度も脳裏に浮かんだ。
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(あれは、誰の声だったんだろう……?)
しきりに花京院を褒め、愛してると囁く男の声。
誰のものかはさっぱり分からなかったが、どこか懐かしくもある。ふと、もしかしたら義父の声かもしれないと思った。けれどおかしい。一緒に暮らしている間は金銭的に世話にはなっていたが、母と同様、義父もまた花京院に対して無関心を貫いていた。だから、絶対にありえない。
ましてや愛を囁くなんて。
(もういいや。どうでもいい)
なんにしろ今日のことは、悪い夢として処理する以外にないのだ。
必死で承太郎を思い出そうとしていたが、それも無駄でしかない。どうせ彼とはもう二度と会えないだろうし、むしろその方がいいのだと思う。
そのとき、ごう、という音がして、温い風が吹き抜けた。
アナウンスと同時に電車が滑り込んでくるのを見て、立ち上がろうとする。だが、身体がふらついて結局ベンチから離れられない。散々乱暴にされたせいで腰が重く、受け入れた場所もじりじりと痛んでいた。
(乗らなければ……これ、終電だ……)
気持ちだけは焦っていた。早く帰って、シャワーを浴びたい。上着の裏ポケットに入っている封筒はずっしりと重たかったが、ちっとも嬉しくなかった。
そうこうしているうちに、花京院は結局電車を逃した。
もうタクシーでも拾って帰るしかないかと、再びがっくりと項垂れた。そのときだった。
「おまえ、花京院か?」
頭上で声がした。
それは今日ずっと思い出したくて、思い出せなかった声だった。
目を見開いて顔を上げると、そこには黒い帽子をかぶり、コートを着た大柄な男の姿がある。
花京院は咄嗟に何も反応ができずに、ただ口をぽかんと開けた。
「やっぱりか。その変わった前髪、ひょっとしたらと思ったぜ」
男は軽く口端を持ち上げるようにして笑うと、隣にどっかりと腰かける。そして、明らかに顔色の悪い花京院を見て眉間に皺を刻んだ。
大きな手が額に触れた瞬間、花京院は肩を大きく跳ねさせた。彼は気にせず手の平で熱を測ると「少し熱い」と険しい表情を見せる。
「おいおまえ、家はどこだ? この辺りか?」
「……承太郎、さん?」
どうして彼が、ここにいるのだろう。
一度見れば決して忘れることのできない翡翠の瞳は、あの日と変わらず美しい。整いすぎた彫りの深い顔立ちも、肉厚な唇も、服の上からでも分かる鍛え上げられた大きくて逞しい肉体も。けれどまるで別人のような印象を受けるのは、
「てめー、忘れるにはちと早すぎるんじゃあねーのか?」
この、言葉使いのせいだ。
承太郎は呆れたように片眉をひょいと持ち上げ「やれやれだぜ」と言った。
(う、嘘だろ? だって全然、あの時と違うじゃないか)
初めて会ったあの日、彼は口調も振る舞いも穏やかで紳士的だった。だが今の承太郎は野性味溢れる印象で、口調も粗暴なら、表情はどこか不機嫌そうにも見える。紳士というよりは、いっそどこぞの組の若頭とでも言われたほうが、よほどしっくり来るだろうか。
「おい花京院」
低い声で名前を呼ばれて、思わず大きく肩を揺らした。
あの日と重なるようでいて重ならない承太郎の姿に、反応が疎かになっていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。
「はっ、あ、すみません、前に会った時と、印象が違っていたものですから」
「ああ、そういやそうか」
承太郎は納得したように言うと、黒い帽子の鐔を指先で摘まみ、ゆったりとした動作で頭から外す。その光景に目を見張る花京院に向かって、エメラルドの瞳を優しく細め、笑って見せた。
「!」
「半月と少しぶりだな、花京院くん。元気にしていたか?」
穏やかに微笑み、花京院をくん付けで呼ぶ男は、確かにあの日の承太郎の印象とピッタリ重なる。
一瞬で顔に血液が集まるのを感じた。信じられないようなことだがあの日、花京院はこの目の前にいる美しい男に、抱かれたのだ。
あのときのことを思い出すだけで思考が熱に浮かされ、つい呆けたような表情になってしまう。
「君はこちらの方がお好みということかな?」
承太郎は赤く染まる花京院の頬を、指先の背でするりと撫でた。熱したフライパンにでも触れてしまったかのように過剰に肩を跳ねさせる花京院に、少し困ったような笑みを浮かべる。
心臓が口から飛び出しそうな息苦しさを覚えながら、花京院は慌てて首を振った。
「い、いえ! 少し驚いてしまっただけで……どちらも、素敵、です」
実際、そう思う。
口調ひとつで印象はガラリと変わるが、彼のいっそ鬼のような美貌が損なわれるわけではない。むしろあの荒っぽい言葉使いの方が素なのかもしれないと思うと、それが何か特別なことのように思えて感動すら覚える。
承太郎は花京院の言葉を聞いて、ふっと小さな息を漏らしながら口端を持ち上げた。のけぞるようにベンチの背もたれに両肘を乗せ、嫌味なほど長い足をゆったりと組む。
「そいつは助かるぜ。慣れねえ口調は肩が凝って仕方ねえ」
「やっぱりこっちが素なんですね。あのときは、どうして?」
承太郎は指先で摘まんだままだった帽子をかぶりなおす。
「あんときゃあーゆうキャラでって頼まれてただけだ。てめーみてえな初心者ノンケが、おれを見て逃げ出したって前例があるからな。雰囲気と人当りだけでもせめてってやつだぜ」
「そう、だったのですか」
確かに、今の承太郎からは大柄な肉食獣のような印象を受ける。身体の大きさもあるだろうが、もし最初からこの威圧的な態度で来られていたら、花京院だってどうだったか分からない。逃げ出しはしないにしろ、反発心は抱いていたかもしれない。
だから理解はできる、のだが。
(なら全て演技だった、ってことなのか)
あの優しさも労わりも、かけてくれた言葉も、全部。
嘘、ということだろうか。もしそうなのだとしたら。
(恥ずかしいな……)
偽りの態度と言葉に踊らされて、ずっと舞い上がっていたのかと思うと、胸の辺りが重く沈んでいくのを感じてしまう。あの耐えがたい屈辱の中、必死で彼を思い出そうとしていた自身にさらなる嫌悪感が募った。
込み上げる羞恥に耐えかねて、花京院はふらつく身体に鞭を打つようにして立ち上がる。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
どうにか表情に笑顔を張り付け、軽く会釈をして一歩踏み出そうとした。けれどその手首を掴まれ、引き寄せられてのけぞってしまう。
「うわッ!」
「おいおまえ」
承太郎も立ち上がっていた。こうして並び立つと、本当に大きな男だ。
相手の意図がわからずただ目を見開く花京院を、彼は怒っているようにも見える険しい表情で見下ろす。
「仕事、してきたのか」
ドキリと、心臓が音を立てて軋んだ。
咄嗟に息をのんで目を泳がせれば、承太郎は盛大に舌打ちをして手首を掴む手に力を込める。
「じょ、承太郎さん、痛いですよ」
「うるせえ」
「ちょっと! 承太郎さん、どこへ!?」
花京院の手を引き、歩き出してしまった承太郎は「おれんちだ」と短く行先を告げる。
「な、どうして!?」
問うても、彼は何も言わなかった。承太郎はあきらかに苛立ちを覗かせている。どこかピリピリとしたオーラが、これ以上答えるつもりはないとハッキリ告げているようだった。
焦りと不安と、戸惑いと混乱。ただ分かるのは、自分が彼を不快にさせているということだ。四肢が冷え、加速する心音に身体が震える。
嫌われてしまった。ただ、そう感じる。
一体なにをしてしまったのだろうかと考えかけて、すぐにやめた。花京院にとって、相手に嫌悪されることにこれといった理由など必要ないからだ。それらは自分が生まれてきてしまったことに、全てが起因する。そう教えられて、育ってきた。
なるべくしてなったのだと思うしかない。そうやってずっと諦めて生きてきた。
けれどなぜだろう。この人にだけは、嫌われたくなかった。そんな風に思ってしまうのは。
「承太郎、さん……離して……」
蚊の鳴くような声は震えるばかりで、ほとんど音にならなかった。
承太郎の歩幅は、ただでさえ身長差のある花京院には辛すぎる。身体に受けたダメージも大きくて、本当は立っているだけでもやっとなのだ。
苦しげに息を弾ませ、足を縺れさせる花京院の震えに気がついたのか、改札間際で承太郎の歩調が僅かに緩んだ。
「別に取って食いやしねえ。安心しな」
それでも承太郎の手から解放されることはなく、花京院の中から絶望感が消えることもなかった。
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