2025/09/17 Wed 連れて来られたのは駅から程近い、高層マンションの一室だった。 明らかにセレブ感溢れるそこには、ガラス張りで夜景の見えるリビングと連なる寝室、カウンターによって仕切られたダイニングキッチンがあり、広い浴室までビューバスという有様だった。 とてもではないが、ごく普通の学生が暮らしているとは思えない。こんな場所を根城にしている人間が、なぜあのようなビデオに出演しているのかと、首を傾げざるをえなかった。 あれから、重たい身体を引きずられるようにしてここに連れて来られた花京院は、上着を剥ぎ取られて脱衣所に閉じ込められた。 シャワーを浴びろとだけ告げて遠ざかる承太郎の気配に唖然としながら、立ち尽くしているわけにもいかず従った。熱い湯を浴びて、身体はどうにか清潔さと熱を取り戻したものの、心臓は凍えたままだった。 風呂から上がるとすぐ、タオルと着替えが用意されていることに気づいた。自分が脱ぎ捨てたはずの衣服はなく、すぐ側で洗濯機が回っていた。 ますます不安と戸惑いを募らせながら、承太郎のものと思しき薄手のシャツとゆったりとしたズボンを穿く。シャツは袖が余り、身体が泳いでいるような状態だったが、ズボンはウエストが紐になっていたため、どうにかずり下がらずに済んでいる。が、裾は折らなければ引きずってしまうほど余っていた。 頭からタオルをかぶり、なんとなく足音を忍ばせながら廊下に出て、キッチンに恐る恐る顔を出す。するとカップに何やら白い液体を注ぎながら、承太郎が視線だけ寄越した。 彼はコートと帽子を脱いだだけの格好で、花京院に向かって「来い」と軽く顎をしゃくって見せる。 身が竦むような思いがしたが、俯きながらおずおずと近づいた。 「早かったな」 「はい……あの、すみません。着替えまで」 「気にすんな」 承太郎はカップを持つ手はそのままに、タオルをかぶっている花京院の頭に空いている方の手を伸ばす。思わず身を固くする花京院だったが、そのままぐしゃぐしゃと撫でられ、一体どういうことかと混乱した。 「あ、あの、承太郎さん?」 「しっかり乾かせ。ドライヤーがあっただろ」 「そんな、勝手にお借りするなんて」 「ガキが遠慮なんかするもんじゃあねーぜ」 少しだけムッとしたけれど、かといって何か言い返せるわけでもなく、ぐっと唇を引き結ぶだけにとどめる。 承太郎はそんな花京院にほんのりと苦笑しながら、温かなカップを差し出して来た。 咄嗟に両手で包み込むようにして持つと、その熱に指先がじんと痺れる。ゆらゆらと立ち上る湯気からは、甘い蜂蜜のような香りがした。中身はホットミルクだ。 「来い」 少し強引に肩を抱かれながら、間接照明だけが灯されたリビングにある、二人掛けの大きなソファに並んで座った。 飲めと言われて、戸惑いながらおずおずとカップに口をつける。おそらく甘いのだろうとは思うのだが、味わうだけの余裕はなかった。ただ少し、頭がくらくらするような気がした。 承太郎はふぅふぅと冷ましながらホットミルクを口に含む花京院を、しばらくただ静かに見守っていた。広いリビングに、沈黙だけが根を下ろす。 承太郎からは、先刻のようなヒリついたオーラは消えていた。その分なおのこと何を思っているのかが分からず、ホットミルクに集中するふりをしながらその表情を窺えないでいる。 やがて沈黙を破るように、承太郎が息を漏らした。 「だいぶ顔色が戻ってきたか」 緩く顎を掴まれたかと思うと、そのまま承太郎の方へ顔を上向かされる。近い距離で長い睫毛に縁どられた瞳と目が合って、花京院はただ息を飲むばかりだった。 暖色の光を反射する翡翠は、夕陽に照らされた海のように静かに凪いでいる。吸い込まれそうで、少し怖い。 「今夜はこのまま泊まってけ。寝室のベッドを使いな」 「そ、そんな」 咄嗟に首を左右に振ると、顎に添えられていた指先が離れる。 「遠慮すんなって言ったはずだぜ。着て帰る服もねーだろ」 「あ」 浴室から出てすぐに、洗濯機が回っていたことを思い出す。しゅんと項垂れた花京院の頭が、再びタオルごと掻き乱された。 さっきは混乱するばかりだったが、改めてされると心臓が跳ねるのと一緒に頬が熱くなる。 「じょ、承太郎さん」 「雫が垂れてる。待ってろ、今ドライヤーを」 「い、いいです!」 立ち上がりかけた承太郎の服の袖を、咄嗟に伸ばした片手で掴んで引き止めた。その拍子に頭からタオルが外れ、首にかかる。 僅かに腰を浮かせていた承太郎が、片眉を小さく顰めただけでソファに腰を落ち着けたのを確認してから手を離し、膝の上のカップへ戻す。 遠慮している、というのも勿論あるけれど、今は彼の意図が知りたいと思った。ここはあの撮影現場ではなく、あくまでも承太郎のプライベートな空間である。 ここで彼が花京院を相手によくしてやる義理はなく、なんのメリットもないはずだ。なのに。 「どうしてですか」 どこか不思議そうに、承太郎が瞬きを繰り返す。暖かな照明の中、長い睫毛が彼の頬に踊るような影を落としていた。 「承太郎さんが、こんな風によくしてくれる意味がわかりません。ここは撮影現場ではないのに……それに」 「……それに?」 「さっき、凄く怒ってた」 「…………」 項垂れて、両手で抱え込むようにして持っているカップの中身に視線を落とした。すでに温くなっているミルクは、まだ半分ほど残っている。 「ぼく、承太郎さんに嫌われてしまいましたよね」 何を言っているんだろう、と。 心の中で、もう一人の自分が呆れかえっている。分かり切っていたことを確かめることに、意味などないはずなのに。 承太郎は確かに優しく抱いてくれたが、あれは男優としての演技にすぎない。あの場にいたのが花京院じゃなくても、きっと彼は同じように振舞っただろう。 (バカみたいだ) 「すみません、忘れてください。今日はちょっと……おかしいんです。ぼく」 顔を上げて、どうにか笑顔を浮かべることに成功した。 承太郎は静かに鼻から息を漏らして、花京院を見つめると瞳を細める。 「最初に会ったときからおかしかったぜ。てめーはよ」 「……あはは、そうですよね」 「おれもな」 「……え?」 ふと顔を上げた花京院の頬を、長く武骨な指先がそっと掠める。その一瞬の触れ方がとても不器用に感じられて、花京院は遠ざかる指先を茫然としながら視線で追った。 「どうも調子が狂うぜ」 なにが、と問いかけようとして、承太郎の溜息に遮られた。彼の表情は不機嫌そうなのに、なぜか、戸惑いのようなものが感じられる。 初めて見る遊具を前に、遊び方が分からず困惑する子供のようにも見えて、花京院はその表情を不思議な面持ちで見つめた。 「嫌ってる相手をわざわざ家に連れ込むほど、おれは酔狂な人間じゃあねーよ」 「!」 承太郎は花京院が投じた子供じみた問いに、明確な答えを寄越した。 その噛んで言い含めるような言葉が、諦めに沈み込んでいた心の表面に触れ、滲むように溶けていく。 それから、承太郎はひとり考えるように無言になり、視線だけ下向けた。花京院はその長い睫毛が瞬きの度に震える様を、ただ惚けたように見つめる。やがて、肉感的な唇が薄く開かれた。 「怒ってるとか、怒ってねえとかって話な」 「……はい」 「おれにもようわからん」 「……?」 それはなんとも曖昧な答えだった。だけどどうしてか、さっきまでの胸が凍えるような感覚が薄らいでいくのを感じる。 承太郎が覗かせたのは、彼の本質の片鱗なのではないか。不器用だけど、とても優しい。多分、この瞬間まで花京院は承太郎を舞台役者か、テレビ俳優のような存在として偶像化していたのだと思う。厚い壁に隔たれた、遠い存在。けれど言葉を選びきれずに、自分の感情を曖昧に濁す様に感じられたのは、確かな人間味だった。 すると、不思議と心が温かくなっていくような気がして、花京院を抱いたあの腕の優しさに、偽りはなかったのかもしれないと、そう思えてくる。 「冷め切っちまう前にぜんぶ飲め」 言われて、かろうじて温もりを保つカップの中身を一気に飲み干す。今度はちゃんと、味が感じられた。ミルクそのものの優しい甘さと、ほのかな蜂蜜の風味。その中になにか不思議なものも混じっているように感じられて、また少し頭がくらくらした。身体から力が抜け、内側に沁み込むような熱に安堵の息が漏れる。 承太郎は花京院の手から空になったカップを取り上げると、すぐ側のローテーブルに静かに置いた。その光景を、どこかふわふわとした気持ちで見つめながら、身体が自然と傾いていく。 いけない、とどこか遠くで思ったときには、花京院は承太郎の肩に頭を預ける形でもたれかかっていた。 「このまま寝ちまえ」 低く呟きながら、大きな手に肩を抱かれる。ぼんやりと霧がかったような思考に浮かされながら、花京院は赤子がむずがるように首を横に振っていた。 「もう、少し」 「花京院」 「もう少しだけ……承太郎さん……」 瞼は重く、意識は半分以上沈みかかっていた。 それでもしがみついていたい。このぬくもりを手放したくない。あれほど不安だったのが嘘のように、心地がよかった。 「話が、したかったんです。承太郎さんに、ずっと、会いたかった」 自分がなにを言っているのかも、よくわからなかった。ただ、耳元で承太郎が喉を鳴らすような音を、聞いたような気がする。 「初めてだったんだ……優しく、してもらうの。こんな気持ちに、なるのも……」 ああ、もうダメだ。落ちる。 だけどどうしても知ってほしい。こんな風に包み込まれていてさえ、心の中にある根深い孤独の傷口を。ずっと忘れたふりをして抱え込んでいた、痛みと不安を。寂しさを。 「承太郎さん……ぼくのこと、嫌いにならない、で」 耐えがたい眠気に意識をさらわれる間際。 濡れた髪に触れる指先の優しさと拙さに、少しだけ、泣きたくなった。 * 花京院のことは、物怖じしない大人びた青年だと聞いていた。 そこそこタッパもあって、ノンケであるにも関わらずゲイ向けのアダルトビデオだと知っても、顔色ひとつ変えずに淡々としていたと。 それでも相手は初めてのビデオ出演で、性交渉の経験もない初心者だから、怖がらせないようにと念を押された。同じく初心者の男優が、承太郎のガタイのよさと威圧感に圧倒されて、一目で逃げ出してしまったのはまだ記憶に新しい。その場をぶち壊してしまうことは本意ではないし、どんな相手にしろすることは一つだ。だから自分を偽り、演じることに抵抗はなかった。 しかし蓋を開けて見れば、物怖じしない大人びた青年など、どこにもいなかった。 花京院典明という青年は、承太郎が抱いていた生意気で厚顔なイメージとは大きく異なっていた。 どこか憮然とした面持ちで唇を引き結んではいたが、承太郎を見つめるアメジストの瞳は諦観と憂心に心許なく揺れていた。 承太郎には彼が迷子の子供のように見えた。帰り道も行き先も分からず、ただ立ち尽くすだけの幼子に。それがなぜかは分からない。ただ、優しくしてやらなくてはという奇妙な保護欲が生まれたのを覚えている。 承太郎はそんな自身の感情に、内心ひどく戸惑っていた。 ずっと誰にも関心を抱けないまま生きてきた。 心を動かされるものといえば海に暮らす生物くらいなもので、物言わぬ彼らとの触れ合いだけが心安らぐものであり、同時に興味を掻き立てられる対象だった。 承太郎にとって他人という存在は、みな同じ顔をした生き物にすぎなかった。誰かを特別に思ったこともなければ、心惹かれたこともない。 それなのに。 「花京院」 無防備に預けられた体温と、規則正しい寝息に耳を傾けながら、確かめるようにその名を呼んだ。 少量のブランデーを混ぜたホットミルクが、花京院を深く眠りの世界へと引きずり込んでいる。 ほんのりと濡れたひと房だけ長い前髪に指先を絡め、承太郎は静かに息をついた。 髪に触れていた指を赤い頬へと走らせ、するりと撫でれば、高い体温が指先へと伝わった。じんと痺れるような熱に、こそばゆさを感じて瞳を細める。胸の内側を羽根でくすぐられているような、それでいて心の襞に小さな棘が刺さるような、不思議な感覚だ。 こんな気持ちは、初めてだった。 彼のなにがそう感じさせるのか、承太郎には分からない。 自分に向けられる数多の好意は、この生まれついての容姿と裕福な家柄へ対するものでしかなかった。金と、身体と、時には愛さえも。承太郎は多くのものを乞われて生きてきた。自ら他人に何かを求めたことは、一度もない。 そんな承太郎に花京院が求めたのは、拍子抜けするほど簡単で、ちっぽけなものだった。 褒めて、と。 彼は言った。 承太郎にはそれが、「寂しい」と言っているように聞こえた。 触れるほど蕩けていく素直な身体は、必死で承太郎に応えようとしていた。懸命にしがみついてくる姿に締め付けられた胸の痛みを、なんと呼べばいいのだろう。 ただ、求められることに慣れきっていた自分が、生まれて初めて与えることに悦びを感じた。それだけは、確かだった。 「花京院」 承太郎は、再びその名を呼んだ。 「何が怖い? おまえは、何をそんなに恐れている?」 深く眠りこんでいる花京院に、その問いは届かない。 だけど彼は意識を手放す間際、確かに言ったのだ。嫌わないで、と。 死んでしまいそうなほどか細い声だった。何をそんなに怯えているのだろう。承太郎には花京院を嫌う理由がない。むしろ好ましく感じているのだと思う。 上下する肩と、無防備に伏せられた睫毛の長さと、体温と。その何もかもが。 「可愛いな」 感じるままにそう呟いていた自分に、少し驚く。 偽りの自分を演じながら、彼が欲しがるままに与えた言葉の全ては紛れもなく本心だった。けれど正直、カメラの回っていない空間で彼にどう触れればいいのか、よくわからない。 自分は、こんなにも不器用な人間だったのか。 承太郎は睫毛を伏せ、ゆっくりと息を漏らすと花京院の肩を抱きなおした。もう片方の腕は両膝の裏に差し込み、抱え上げると同時に立ち上がる。 そのまま隣の寝室へと向うと、室内は月明かりにぼんやりと青く染まっていた。 キングサイズのベッドに花京院の身体をそっと沈ませ、シーツを引き上げようとした。けれど承太郎はふと動きを止める。 どこか幼い寝顔を浮かべる彼の首筋が、ささやかな月光に照らされて、青白く浮き上がっていた。そこに幾つもの鬱血の痕を見つけて、無意識に奥歯を噛み締める。 胸に、焼けるような何かが込み上げた。 さっきと同じだ。駅で力なくベンチに腰かけていた花京院は、初めて会ったあの日よりもずっと頼りなく、そして弱りきっていた。 彼が何をしてきたのか、聞かずともわかった。会話もそこそこに立ち去ろうとした花京院に、今と同じ感覚を味わった。気づいたら乱暴に手を引いていて、剥ぎ取った上着の内ポケットには、膨らんだ茶封筒が入っていた。 よく見れば、ずり上がった袖から伸びた両腕にも、掴み上げられたような痕がうっすらと残っている。ちりちりとした嫌な感覚が、凄まじい速さで増していく。 「一体どんな抱かれ方をしてきた? 花京院」 眠っている花京院は答えない。ただ、細く長い息を鼻から吐き出した。 気づけば、承太郎は彼の首筋に顔を埋めていた。薄い皮膚の下で、その鼓動を唇に感じながら、きつく吸い上げる。 「ん、ぅ」 見じろぐ花京院が、小さく呻く。ここに歯を立て、血と肉を断てば、簡単に命を奪うことができる。上書きするように自らを刻み付けながら、承太郎は胸が躍るような感覚を味わった。 けれどそれからすぐに、背筋を這う冷たい汗に顔を上げた。 承太郎から顔を背けるようにして首筋を曝す花京院は、少しだけ苦しげに眉を寄せていた。それでも目覚める気配がないことに安堵する。 大きく吐き出した息は震えていた。ベッドの縁に腰かけて、たったいま自分を絡めとった思考の罪深さに戦慄する。 「なんなんだ、これは」 額に手を当て、ちらりと背後に視線を走らせた。 掻き乱される感情を持て余し、承太郎の戸惑いはただ悪戯に膨らんでいく。 「花京院」 なぞるように名を呼べば、そこからじわりと、胸に狂おしい疼きが走った。 * (いい匂い……) うつ伏せの姿勢でふかふかの枕に顔の側面を埋めながら、すんと鼻を鳴らした。 食欲をそそる匂いに胃袋が刺激され、同時に思考も一緒に巡り出す。 これはこんがりと焼いたベーコンの香り、だろうか。くぅ、と腹の虫が鳴いた。 そういえば最後に食事をしたのはいつだったろう。昨日の朝、出かける間際に軽く菓子パンを齧っただけ、だったかもしれない。 もぞもぞとダンゴムシのようにシーツの山を作りながら身を起こし、ぼんやりと幾度か瞬きをする。首筋にチリ、とひりついたような感覚を覚え、無意識に手を這わせながら辺りを見回した。 見慣れない部屋の、見慣れない大きなベッド。 確か昨日は承太郎と話をしながら、そのままソファで眠ってしまった、はず。残り半分のミルクを飲みほしたあたりから、どうも記憶が曖昧だった。何かおかしなことを口走ってしまったような気がするのに、何も思い出せない。 自らの足でベッドに移動した記憶もなく、となると運んでくれたのは承太郎ということになる。大変な面倒をかけてしまったことに肝が冷え、いてもたってもいられず、花京院はベッドから抜け出した。隣の部屋へ駆け込むと、黒い薄手のセーターに白いパンツ姿の承太郎が、キッチンで朝食の準備をしている。 「承太郎さん……!」 「おう、起きたか。おはよう」 「お、おはようございます。すみません、ぼく昨日」 「まぁ座れ。パンで構わねえか?」 「え、ええ」 「悪い。その前に冷蔵庫からバターとジャムを出してくれ」 「ああ、はい」 すっかり承太郎のペースで、花京院は言われた通りのものを冷蔵庫から取り出すと、おとなしくテーブルについた。そこには少し焦げたベーコンと目玉焼き、トマトの乗った野菜サラダが二人分、用意されている。 「あ、朝ご飯……」 「ちょっぴり焦げたがな」 「いいえ、とても美味しそうです」 「そう言われると作り甲斐があるってもんだぜ」 承太郎はふっとささやかな笑みを浮かべ、こんがりと狐色に焼き上がったトーストを二枚、皿に乗せて花京院の目の前に追加した。 「残さず食いな」 「い、いいんですか……泊めてもらった上に、こんな……」 そんなことを言いつつ、花京院は目の前の食事に目を輝かせる。 こんな絵に描いたような朝食は、母が死んで以来初めてのことだ。それだって再婚した後にようやくといった具合だったし、実際のところ花京院がありつけたのは残り物ばかりだった。 そんな花京院にとって、これは堪らない光景である。 「ガキは遠慮すんなって言っただろ。とっとと食うぜ」 二人分のコーンスープを手にようやく席についた承太郎と向き合い、花京院は両手を合わせると神妙に「いただきます」と挨拶をした。 * 久しぶりに食べた温かみのある食事は、最高に美味しかった。 食器を一つ残らず空にしたとき、すでに食べ終えていた承太郎はコーヒーを飲みながら満足そうにふっと息を漏らした。 「ご馳走様でした。美味しかったです」 「そりゃよかった」 テーブル脇に置かれていた新聞を片手に、コーヒーに口をつける承太郎を見つめて、花京院はふわりと頬に集まる熱を持て余した。 昨夜、駅から手を引かれて連れ出されたときはどうしようかと思ったが、承太郎と過ごす穏やかな朝の空気に、胸が温かな安堵で満たされる。 こんな時間がいつまでも続けばいいのにと、欲張りなことを考えそうになる自分に戸惑った。 「おれの顔になにかついてるか?」 「ふぇッ!?」 無遠慮に見つめたまま頬を染めていた花京院は、前触れもなくかけられた言葉と向けられるエメラルドの視線に、妙な悲鳴をあげてしまった。 椅子から飛び跳ねそうな勢いで肩をビクつかせ、慌てて視線を下向ける。途端に胸の鼓動が加速して、少しだけ息が苦しくなった。 「すみません。誰かと一緒にこうして食事をするのって、こんなに楽しくて温かな気持ちになるんだなって。ちょっと浸ってしまいました」 「……おまえ、家族は?」 「いないんです。血の繋がらない父と兄ならいますが……他人です。母は二年前に、病気で」 「そうか……」 「あっ、ごめんなさい。湿っぽい話をしてしまいましたね」 「いや、いい」 承太郎は新聞を畳んでテーブル脇に戻し、両肘をついて両手の指を組むとそこに顎を添えた。 「なら一人暮らしか」 「はい」 「生活が苦しくてビデオに出た、ってところか?」 「それは……」 微妙なところだった。 確かに貯金はほぼ尽きた状態だったし、これから夏に向けて冷蔵庫は必需品だった。それでも一応仕事はあって、一人で細々と食っていく分には困っていない。 ビデオ出演に至った経緯はあくまで成り行きで、深く考えた結果ではなかった。 ただ、それを正直に話すのは躊躇われた。何も考えていない、頭の空っぽな人間だと思われるのは嫌だったのだ。格好をつけても仕方がないとは思うが、昨日の撮影でほとほと後悔していた花京院は、もしそれで承太郎に軽蔑されるようなことになれば、いよいよ立ち直れないだろうと思ってしまった。 ちっぽけでどうしようもない。ガキと言われてしまっても、これでは仕方がないと思う。 何も言わずに視線を俯ける花京院をどう捉えたかは分からないが、承太郎がひとつ深い息を漏らした。 「聞くまでもないとは思うが」 「はい」 「懲りたんじゃねえか? 昨日で」 「…………」 承太郎には昨日、どんな撮影が行われたのかは言っていない。それでもあの様を見ればろくな結果にならなかったであろうことは、察しがついているようだった。 花京院はただ力なく、こくりと頷く。 最初の撮影が上手くいったのは、相手が承太郎だったからだ。他の男に触れられるのはただおぞましいばかりで、思い出すだけで背筋が凍るような思いがした。 「てめーは」 組んでいた指先をテーブルに置き、腕を伸ばすようにして承太郎が深く椅子に背中を預ける。花京院はおずおずと視線をあげ、ふっくらと厚みのある唇の動きを見守った。 「向いてねーと思うぜ。この仕事」 「……そう、ですよね」 「もうやめときな」 頼まれても二度と出ないつもりだった。元々契約は2本だったし、昨日の有様を見れば、向こうもきっと二度と連絡は寄越さないだろう。 監督はリアリティのある作品が録れたと言って、花京院をべた褒めしてはいたけれど。 「そうします。承太郎さんの言う通りだと思うし」 その言葉に、承太郎は頷きながらふっと笑った。どこか満足そうにも見える表情を見つめながら、花京院はこの流れで気になっていたことを聞いてみることにした。 「承太郎さんは……どうしてああいった仕事を?」 失礼だったろうかとすぐに不安が押し寄せたが、承太郎は気にした様子もなく「あの監督」と低く呟き、腕を組む。 「監督さん?」 「高校から付き合いのある先輩だ。ヤツもおれも、当時はそこそこヤンチャしてた」 「やんちゃ? もしかして承太郎さん、不良だったんですか?」 「かもな。やらかす度に、なにかと世話になった。あれもゲイだからな。今にして思えば下心もあったんだろうが」 「そうだったんですか」 ビデオ出演を熱心に頼み込む監督の姿が、容易に想像できる。承太郎にとってはちょっとした恩返しのような感覚、ということだろうか。 話を聞いて、彼が義理堅い性格をしているのはよく分かった。だが同時に、新たな疑問も沸いてくる。 「承太郎さんも、ゲイなんですか?」 それは素朴な疑問だった。 いくら世話になった人間の頼みとはいえ、易々と同性を相手にセックスなどできるものだろうか。ましてやこれほどの美男子が、女性に不自由しているとも思えない。 承太郎は視線だけ僅かに伏せ、小さく唸ってから「ようわからん」と言った。 「わからない?」 小首を傾げる花京院に、彼はもう一度ふむ、と微かに唸る。 「男とか女とかって問題は、よくわからん。やることやっちまえば一緒としか思えねえし、言っちゃあなんだが興味がねえ」 「興味がない? それは性別にはこだわらない、ということですか?」 「……てめーはどうなんだ?」 「ぼ、ぼくは」 はぐらかされてしまったような気がするが、質問の矛先が自分に向いたことで、花京院は視線を泳がせながら考えた。 花京院にとって女性という生き物から連想されるのは母の姿で、無意識に避けていたということは考えられる。かといって同性に心惹かれた経験があるかといえば。 ふと、彷徨わせていた視線を承太郎に向ける。彼は冷めたコーヒーカップに口をつけながら、長い睫毛を伏せていた。 (例え同じ仕事でも、相手が女性であったなら……ぼくはどうしていただろう?) 想像するだけで吐き気がした。 おそらくどれほどの大金をチラつかされても、全力で拒否していたのではないか。 けれどゲイ向けのアダルトビデオだと告げられたとき、なぜか一切の嫌悪感が湧かなかった。むしろ初めての相手が承太郎でよかったとさえ思ったのだ。 その肉体美に魅せられ、興奮したのも確かで、あの逞しい腕にずっと抱かれていたいとすら思った。 (仮に、だ。ぼくにゲイの素質があるって可能性は、ないだろうか?) そう考えたとき。 「ッ……!」 何かが、胸の中でかちりとはまった。 あの日からずっと承太郎のことばかり考えていたのも、会いたくて仕方がなかったのも、胸がドキドキと高鳴ってしまうのも。 (そ、そんな……まさかこれって……) 一度はまったピースは、寸分のブレもなく胸に収まっている。けれど確かなのは、同じ男でも承太郎以外は考えられないということだ。 それは、つまり。 (ぼくは彼に……恋をしている……?) 「花京院?」 「ッ、へ!?」 「おいてめー、さてはまだ調子が戻ってねえな?」 眉間に皺を刻んだ承太郎が、長い腕を伸ばしてくる。ふと、サウナで焼石に水をかけて、蒸気を発生させる光景が頭に浮かんだ。今の花京院は、まさにそんな状態だった。 慌てて椅子から立ち上がることで距離をとり、両手と一緒に首を振る。茹蛸のように顔中が赤く染まっているのが、鏡を見なくても分かってしまう。 「だ、大丈夫です!」 (なんて……なんてタイミングで……!!) 自覚してしまったのだろう。 本人を目の前に初めての恋に気づかされるなんて、取り繕う間もないではないか。 とにかく、今は気持ちを落ち着かせることが先決だ。膨らみ切った戸惑いを、ぐっと喉を鳴らすことで押しとどめ、どうにか笑みを浮かべて見せた。突き破ってきそうなほど高鳴る胸の鼓動を、手の平を押しつけることでどうにか宥める。 承太郎は不思議そうに首を傾げていたが、「ならいいが」と言って自らも椅子から立ち上がると、空になった食器を重ねはじめた。 「あっ、ぼくも」 手伝います、と、手を出しかけて。承太郎が、少し困ったようにふっと笑った。 「いいから座ってな。顔が真っ赤だぜ」 「で、ですが……」 「もう少し休んでけ。おれはこのあと家を空けるが……好きにしてて構わない」 「な、そんなわけにはいきませんよ。ぼくは大丈夫ですから」 言ってから、少し惜しいことをしたかと思った。 承太郎はまだここにいてもいいと言った。好きにしていろと。それはつまり、彼の帰りを待っていても構わないという意味だ。 だけど、家主がいない部屋で好きにしていろと言われても、どうすればいいか分からない。それにこれ以上、どんな顔をしていればいいのかも分からなかった。 本当はまだ一緒にいたい。だけど胸が苦しくて、逃げ出したいとも思う。 (これが恋なら……なんて苦しい感情だろう) 承太郎は「そうか」と言って、再び手を動かしはじめた。節くれだった大きな手の動きにすら心が甘く締め付けられるような気がして、そっと息を吐き出しながら目を逸らす。 (だけど、好きだ) その気持ちが、とても尊いものに思えた。 ←戻る ・ 次へ→
明らかにセレブ感溢れるそこには、ガラス張りで夜景の見えるリビングと連なる寝室、カウンターによって仕切られたダイニングキッチンがあり、広い浴室までビューバスという有様だった。
とてもではないが、ごく普通の学生が暮らしているとは思えない。こんな場所を根城にしている人間が、なぜあのようなビデオに出演しているのかと、首を傾げざるをえなかった。
あれから、重たい身体を引きずられるようにしてここに連れて来られた花京院は、上着を剥ぎ取られて脱衣所に閉じ込められた。
シャワーを浴びろとだけ告げて遠ざかる承太郎の気配に唖然としながら、立ち尽くしているわけにもいかず従った。熱い湯を浴びて、身体はどうにか清潔さと熱を取り戻したものの、心臓は凍えたままだった。
風呂から上がるとすぐ、タオルと着替えが用意されていることに気づいた。自分が脱ぎ捨てたはずの衣服はなく、すぐ側で洗濯機が回っていた。
ますます不安と戸惑いを募らせながら、承太郎のものと思しき薄手のシャツとゆったりとしたズボンを穿く。シャツは袖が余り、身体が泳いでいるような状態だったが、ズボンはウエストが紐になっていたため、どうにかずり下がらずに済んでいる。が、裾は折らなければ引きずってしまうほど余っていた。
頭からタオルをかぶり、なんとなく足音を忍ばせながら廊下に出て、キッチンに恐る恐る顔を出す。するとカップに何やら白い液体を注ぎながら、承太郎が視線だけ寄越した。
彼はコートと帽子を脱いだだけの格好で、花京院に向かって「来い」と軽く顎をしゃくって見せる。
身が竦むような思いがしたが、俯きながらおずおずと近づいた。
「早かったな」
「はい……あの、すみません。着替えまで」
「気にすんな」
承太郎はカップを持つ手はそのままに、タオルをかぶっている花京院の頭に空いている方の手を伸ばす。思わず身を固くする花京院だったが、そのままぐしゃぐしゃと撫でられ、一体どういうことかと混乱した。
「あ、あの、承太郎さん?」
「しっかり乾かせ。ドライヤーがあっただろ」
「そんな、勝手にお借りするなんて」
「ガキが遠慮なんかするもんじゃあねーぜ」
少しだけムッとしたけれど、かといって何か言い返せるわけでもなく、ぐっと唇を引き結ぶだけにとどめる。
承太郎はそんな花京院にほんのりと苦笑しながら、温かなカップを差し出して来た。
咄嗟に両手で包み込むようにして持つと、その熱に指先がじんと痺れる。ゆらゆらと立ち上る湯気からは、甘い蜂蜜のような香りがした。中身はホットミルクだ。
「来い」
少し強引に肩を抱かれながら、間接照明だけが灯されたリビングにある、二人掛けの大きなソファに並んで座った。
飲めと言われて、戸惑いながらおずおずとカップに口をつける。おそらく甘いのだろうとは思うのだが、味わうだけの余裕はなかった。ただ少し、頭がくらくらするような気がした。
承太郎はふぅふぅと冷ましながらホットミルクを口に含む花京院を、しばらくただ静かに見守っていた。広いリビングに、沈黙だけが根を下ろす。
承太郎からは、先刻のようなヒリついたオーラは消えていた。その分なおのこと何を思っているのかが分からず、ホットミルクに集中するふりをしながらその表情を窺えないでいる。
やがて沈黙を破るように、承太郎が息を漏らした。
「だいぶ顔色が戻ってきたか」
緩く顎を掴まれたかと思うと、そのまま承太郎の方へ顔を上向かされる。近い距離で長い睫毛に縁どられた瞳と目が合って、花京院はただ息を飲むばかりだった。
暖色の光を反射する翡翠は、夕陽に照らされた海のように静かに凪いでいる。吸い込まれそうで、少し怖い。
「今夜はこのまま泊まってけ。寝室のベッドを使いな」
「そ、そんな」
咄嗟に首を左右に振ると、顎に添えられていた指先が離れる。
「遠慮すんなって言ったはずだぜ。着て帰る服もねーだろ」
「あ」
浴室から出てすぐに、洗濯機が回っていたことを思い出す。しゅんと項垂れた花京院の頭が、再びタオルごと掻き乱された。
さっきは混乱するばかりだったが、改めてされると心臓が跳ねるのと一緒に頬が熱くなる。
「じょ、承太郎さん」
「雫が垂れてる。待ってろ、今ドライヤーを」
「い、いいです!」
立ち上がりかけた承太郎の服の袖を、咄嗟に伸ばした片手で掴んで引き止めた。その拍子に頭からタオルが外れ、首にかかる。
僅かに腰を浮かせていた承太郎が、片眉を小さく顰めただけでソファに腰を落ち着けたのを確認してから手を離し、膝の上のカップへ戻す。
遠慮している、というのも勿論あるけれど、今は彼の意図が知りたいと思った。ここはあの撮影現場ではなく、あくまでも承太郎のプライベートな空間である。
ここで彼が花京院を相手によくしてやる義理はなく、なんのメリットもないはずだ。なのに。
「どうしてですか」
どこか不思議そうに、承太郎が瞬きを繰り返す。暖かな照明の中、長い睫毛が彼の頬に踊るような影を落としていた。
「承太郎さんが、こんな風によくしてくれる意味がわかりません。ここは撮影現場ではないのに……それに」
「……それに?」
「さっき、凄く怒ってた」
「…………」
項垂れて、両手で抱え込むようにして持っているカップの中身に視線を落とした。すでに温くなっているミルクは、まだ半分ほど残っている。
「ぼく、承太郎さんに嫌われてしまいましたよね」
何を言っているんだろう、と。
心の中で、もう一人の自分が呆れかえっている。分かり切っていたことを確かめることに、意味などないはずなのに。
承太郎は確かに優しく抱いてくれたが、あれは男優としての演技にすぎない。あの場にいたのが花京院じゃなくても、きっと彼は同じように振舞っただろう。
(バカみたいだ)
「すみません、忘れてください。今日はちょっと……おかしいんです。ぼく」
顔を上げて、どうにか笑顔を浮かべることに成功した。
承太郎は静かに鼻から息を漏らして、花京院を見つめると瞳を細める。
「最初に会ったときからおかしかったぜ。てめーはよ」
「……あはは、そうですよね」
「おれもな」
「……え?」
ふと顔を上げた花京院の頬を、長く武骨な指先がそっと掠める。その一瞬の触れ方がとても不器用に感じられて、花京院は遠ざかる指先を茫然としながら視線で追った。
「どうも調子が狂うぜ」
なにが、と問いかけようとして、承太郎の溜息に遮られた。彼の表情は不機嫌そうなのに、なぜか、戸惑いのようなものが感じられる。
初めて見る遊具を前に、遊び方が分からず困惑する子供のようにも見えて、花京院はその表情を不思議な面持ちで見つめた。
「嫌ってる相手をわざわざ家に連れ込むほど、おれは酔狂な人間じゃあねーよ」
「!」
承太郎は花京院が投じた子供じみた問いに、明確な答えを寄越した。
その噛んで言い含めるような言葉が、諦めに沈み込んでいた心の表面に触れ、滲むように溶けていく。
それから、承太郎はひとり考えるように無言になり、視線だけ下向けた。花京院はその長い睫毛が瞬きの度に震える様を、ただ惚けたように見つめる。やがて、肉感的な唇が薄く開かれた。
「怒ってるとか、怒ってねえとかって話な」
「……はい」
「おれにもようわからん」
「……?」
それはなんとも曖昧な答えだった。だけどどうしてか、さっきまでの胸が凍えるような感覚が薄らいでいくのを感じる。
承太郎が覗かせたのは、彼の本質の片鱗なのではないか。不器用だけど、とても優しい。多分、この瞬間まで花京院は承太郎を舞台役者か、テレビ俳優のような存在として偶像化していたのだと思う。厚い壁に隔たれた、遠い存在。けれど言葉を選びきれずに、自分の感情を曖昧に濁す様に感じられたのは、確かな人間味だった。
すると、不思議と心が温かくなっていくような気がして、花京院を抱いたあの腕の優しさに、偽りはなかったのかもしれないと、そう思えてくる。
「冷め切っちまう前にぜんぶ飲め」
言われて、かろうじて温もりを保つカップの中身を一気に飲み干す。今度はちゃんと、味が感じられた。ミルクそのものの優しい甘さと、ほのかな蜂蜜の風味。その中になにか不思議なものも混じっているように感じられて、また少し頭がくらくらした。身体から力が抜け、内側に沁み込むような熱に安堵の息が漏れる。
承太郎は花京院の手から空になったカップを取り上げると、すぐ側のローテーブルに静かに置いた。その光景を、どこかふわふわとした気持ちで見つめながら、身体が自然と傾いていく。
いけない、とどこか遠くで思ったときには、花京院は承太郎の肩に頭を預ける形でもたれかかっていた。
「このまま寝ちまえ」
低く呟きながら、大きな手に肩を抱かれる。ぼんやりと霧がかったような思考に浮かされながら、花京院は赤子がむずがるように首を横に振っていた。
「もう、少し」
「花京院」
「もう少しだけ……承太郎さん……」
瞼は重く、意識は半分以上沈みかかっていた。
それでもしがみついていたい。このぬくもりを手放したくない。あれほど不安だったのが嘘のように、心地がよかった。
「話が、したかったんです。承太郎さんに、ずっと、会いたかった」
自分がなにを言っているのかも、よくわからなかった。ただ、耳元で承太郎が喉を鳴らすような音を、聞いたような気がする。
「初めてだったんだ……優しく、してもらうの。こんな気持ちに、なるのも……」
ああ、もうダメだ。落ちる。
だけどどうしても知ってほしい。こんな風に包み込まれていてさえ、心の中にある根深い孤独の傷口を。ずっと忘れたふりをして抱え込んでいた、痛みと不安を。寂しさを。
「承太郎さん……ぼくのこと、嫌いにならない、で」
耐えがたい眠気に意識をさらわれる間際。
濡れた髪に触れる指先の優しさと拙さに、少しだけ、泣きたくなった。
*
花京院のことは、物怖じしない大人びた青年だと聞いていた。
そこそこタッパもあって、ノンケであるにも関わらずゲイ向けのアダルトビデオだと知っても、顔色ひとつ変えずに淡々としていたと。
それでも相手は初めてのビデオ出演で、性交渉の経験もない初心者だから、怖がらせないようにと念を押された。同じく初心者の男優が、承太郎のガタイのよさと威圧感に圧倒されて、一目で逃げ出してしまったのはまだ記憶に新しい。その場をぶち壊してしまうことは本意ではないし、どんな相手にしろすることは一つだ。だから自分を偽り、演じることに抵抗はなかった。
しかし蓋を開けて見れば、物怖じしない大人びた青年など、どこにもいなかった。
花京院典明という青年は、承太郎が抱いていた生意気で厚顔なイメージとは大きく異なっていた。
どこか憮然とした面持ちで唇を引き結んではいたが、承太郎を見つめるアメジストの瞳は諦観と憂心に心許なく揺れていた。
承太郎には彼が迷子の子供のように見えた。帰り道も行き先も分からず、ただ立ち尽くすだけの幼子に。それがなぜかは分からない。ただ、優しくしてやらなくてはという奇妙な保護欲が生まれたのを覚えている。
承太郎はそんな自身の感情に、内心ひどく戸惑っていた。
ずっと誰にも関心を抱けないまま生きてきた。
心を動かされるものといえば海に暮らす生物くらいなもので、物言わぬ彼らとの触れ合いだけが心安らぐものであり、同時に興味を掻き立てられる対象だった。
承太郎にとって他人という存在は、みな同じ顔をした生き物にすぎなかった。誰かを特別に思ったこともなければ、心惹かれたこともない。
それなのに。
「花京院」
無防備に預けられた体温と、規則正しい寝息に耳を傾けながら、確かめるようにその名を呼んだ。
少量のブランデーを混ぜたホットミルクが、花京院を深く眠りの世界へと引きずり込んでいる。
ほんのりと濡れたひと房だけ長い前髪に指先を絡め、承太郎は静かに息をついた。
髪に触れていた指を赤い頬へと走らせ、するりと撫でれば、高い体温が指先へと伝わった。じんと痺れるような熱に、こそばゆさを感じて瞳を細める。胸の内側を羽根でくすぐられているような、それでいて心の襞に小さな棘が刺さるような、不思議な感覚だ。
こんな気持ちは、初めてだった。
彼のなにがそう感じさせるのか、承太郎には分からない。
自分に向けられる数多の好意は、この生まれついての容姿と裕福な家柄へ対するものでしかなかった。金と、身体と、時には愛さえも。承太郎は多くのものを乞われて生きてきた。自ら他人に何かを求めたことは、一度もない。
そんな承太郎に花京院が求めたのは、拍子抜けするほど簡単で、ちっぽけなものだった。
褒めて、と。
彼は言った。
承太郎にはそれが、「寂しい」と言っているように聞こえた。
触れるほど蕩けていく素直な身体は、必死で承太郎に応えようとしていた。懸命にしがみついてくる姿に締め付けられた胸の痛みを、なんと呼べばいいのだろう。
ただ、求められることに慣れきっていた自分が、生まれて初めて与えることに悦びを感じた。それだけは、確かだった。
「花京院」
承太郎は、再びその名を呼んだ。
「何が怖い? おまえは、何をそんなに恐れている?」
深く眠りこんでいる花京院に、その問いは届かない。
だけど彼は意識を手放す間際、確かに言ったのだ。嫌わないで、と。
死んでしまいそうなほどか細い声だった。何をそんなに怯えているのだろう。承太郎には花京院を嫌う理由がない。むしろ好ましく感じているのだと思う。
上下する肩と、無防備に伏せられた睫毛の長さと、体温と。その何もかもが。
「可愛いな」
感じるままにそう呟いていた自分に、少し驚く。
偽りの自分を演じながら、彼が欲しがるままに与えた言葉の全ては紛れもなく本心だった。けれど正直、カメラの回っていない空間で彼にどう触れればいいのか、よくわからない。
自分は、こんなにも不器用な人間だったのか。
承太郎は睫毛を伏せ、ゆっくりと息を漏らすと花京院の肩を抱きなおした。もう片方の腕は両膝の裏に差し込み、抱え上げると同時に立ち上がる。
そのまま隣の寝室へと向うと、室内は月明かりにぼんやりと青く染まっていた。
キングサイズのベッドに花京院の身体をそっと沈ませ、シーツを引き上げようとした。けれど承太郎はふと動きを止める。
どこか幼い寝顔を浮かべる彼の首筋が、ささやかな月光に照らされて、青白く浮き上がっていた。そこに幾つもの鬱血の痕を見つけて、無意識に奥歯を噛み締める。
胸に、焼けるような何かが込み上げた。
さっきと同じだ。駅で力なくベンチに腰かけていた花京院は、初めて会ったあの日よりもずっと頼りなく、そして弱りきっていた。
彼が何をしてきたのか、聞かずともわかった。会話もそこそこに立ち去ろうとした花京院に、今と同じ感覚を味わった。気づいたら乱暴に手を引いていて、剥ぎ取った上着の内ポケットには、膨らんだ茶封筒が入っていた。
よく見れば、ずり上がった袖から伸びた両腕にも、掴み上げられたような痕がうっすらと残っている。ちりちりとした嫌な感覚が、凄まじい速さで増していく。
「一体どんな抱かれ方をしてきた? 花京院」
眠っている花京院は答えない。ただ、細く長い息を鼻から吐き出した。
気づけば、承太郎は彼の首筋に顔を埋めていた。薄い皮膚の下で、その鼓動を唇に感じながら、きつく吸い上げる。
「ん、ぅ」
見じろぐ花京院が、小さく呻く。ここに歯を立て、血と肉を断てば、簡単に命を奪うことができる。上書きするように自らを刻み付けながら、承太郎は胸が躍るような感覚を味わった。
けれどそれからすぐに、背筋を這う冷たい汗に顔を上げた。
承太郎から顔を背けるようにして首筋を曝す花京院は、少しだけ苦しげに眉を寄せていた。それでも目覚める気配がないことに安堵する。
大きく吐き出した息は震えていた。ベッドの縁に腰かけて、たったいま自分を絡めとった思考の罪深さに戦慄する。
「なんなんだ、これは」
額に手を当て、ちらりと背後に視線を走らせた。
掻き乱される感情を持て余し、承太郎の戸惑いはただ悪戯に膨らんでいく。
「花京院」
なぞるように名を呼べば、そこからじわりと、胸に狂おしい疼きが走った。
*
(いい匂い……)
うつ伏せの姿勢でふかふかの枕に顔の側面を埋めながら、すんと鼻を鳴らした。
食欲をそそる匂いに胃袋が刺激され、同時に思考も一緒に巡り出す。
これはこんがりと焼いたベーコンの香り、だろうか。くぅ、と腹の虫が鳴いた。
そういえば最後に食事をしたのはいつだったろう。昨日の朝、出かける間際に軽く菓子パンを齧っただけ、だったかもしれない。
もぞもぞとダンゴムシのようにシーツの山を作りながら身を起こし、ぼんやりと幾度か瞬きをする。首筋にチリ、とひりついたような感覚を覚え、無意識に手を這わせながら辺りを見回した。
見慣れない部屋の、見慣れない大きなベッド。
確か昨日は承太郎と話をしながら、そのままソファで眠ってしまった、はず。残り半分のミルクを飲みほしたあたりから、どうも記憶が曖昧だった。何かおかしなことを口走ってしまったような気がするのに、何も思い出せない。
自らの足でベッドに移動した記憶もなく、となると運んでくれたのは承太郎ということになる。大変な面倒をかけてしまったことに肝が冷え、いてもたってもいられず、花京院はベッドから抜け出した。隣の部屋へ駆け込むと、黒い薄手のセーターに白いパンツ姿の承太郎が、キッチンで朝食の準備をしている。
「承太郎さん……!」
「おう、起きたか。おはよう」
「お、おはようございます。すみません、ぼく昨日」
「まぁ座れ。パンで構わねえか?」
「え、ええ」
「悪い。その前に冷蔵庫からバターとジャムを出してくれ」
「ああ、はい」
すっかり承太郎のペースで、花京院は言われた通りのものを冷蔵庫から取り出すと、おとなしくテーブルについた。そこには少し焦げたベーコンと目玉焼き、トマトの乗った野菜サラダが二人分、用意されている。
「あ、朝ご飯……」
「ちょっぴり焦げたがな」
「いいえ、とても美味しそうです」
「そう言われると作り甲斐があるってもんだぜ」
承太郎はふっとささやかな笑みを浮かべ、こんがりと狐色に焼き上がったトーストを二枚、皿に乗せて花京院の目の前に追加した。
「残さず食いな」
「い、いいんですか……泊めてもらった上に、こんな……」
そんなことを言いつつ、花京院は目の前の食事に目を輝かせる。
こんな絵に描いたような朝食は、母が死んで以来初めてのことだ。それだって再婚した後にようやくといった具合だったし、実際のところ花京院がありつけたのは残り物ばかりだった。
そんな花京院にとって、これは堪らない光景である。
「ガキは遠慮すんなって言っただろ。とっとと食うぜ」
二人分のコーンスープを手にようやく席についた承太郎と向き合い、花京院は両手を合わせると神妙に「いただきます」と挨拶をした。
*
久しぶりに食べた温かみのある食事は、最高に美味しかった。
食器を一つ残らず空にしたとき、すでに食べ終えていた承太郎はコーヒーを飲みながら満足そうにふっと息を漏らした。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「そりゃよかった」
テーブル脇に置かれていた新聞を片手に、コーヒーに口をつける承太郎を見つめて、花京院はふわりと頬に集まる熱を持て余した。
昨夜、駅から手を引かれて連れ出されたときはどうしようかと思ったが、承太郎と過ごす穏やかな朝の空気に、胸が温かな安堵で満たされる。
こんな時間がいつまでも続けばいいのにと、欲張りなことを考えそうになる自分に戸惑った。
「おれの顔になにかついてるか?」
「ふぇッ!?」
無遠慮に見つめたまま頬を染めていた花京院は、前触れもなくかけられた言葉と向けられるエメラルドの視線に、妙な悲鳴をあげてしまった。
椅子から飛び跳ねそうな勢いで肩をビクつかせ、慌てて視線を下向ける。途端に胸の鼓動が加速して、少しだけ息が苦しくなった。
「すみません。誰かと一緒にこうして食事をするのって、こんなに楽しくて温かな気持ちになるんだなって。ちょっと浸ってしまいました」
「……おまえ、家族は?」
「いないんです。血の繋がらない父と兄ならいますが……他人です。母は二年前に、病気で」
「そうか……」
「あっ、ごめんなさい。湿っぽい話をしてしまいましたね」
「いや、いい」
承太郎は新聞を畳んでテーブル脇に戻し、両肘をついて両手の指を組むとそこに顎を添えた。
「なら一人暮らしか」
「はい」
「生活が苦しくてビデオに出た、ってところか?」
「それは……」
微妙なところだった。
確かに貯金はほぼ尽きた状態だったし、これから夏に向けて冷蔵庫は必需品だった。それでも一応仕事はあって、一人で細々と食っていく分には困っていない。
ビデオ出演に至った経緯はあくまで成り行きで、深く考えた結果ではなかった。
ただ、それを正直に話すのは躊躇われた。何も考えていない、頭の空っぽな人間だと思われるのは嫌だったのだ。格好をつけても仕方がないとは思うが、昨日の撮影でほとほと後悔していた花京院は、もしそれで承太郎に軽蔑されるようなことになれば、いよいよ立ち直れないだろうと思ってしまった。
ちっぽけでどうしようもない。ガキと言われてしまっても、これでは仕方がないと思う。
何も言わずに視線を俯ける花京院をどう捉えたかは分からないが、承太郎がひとつ深い息を漏らした。
「聞くまでもないとは思うが」
「はい」
「懲りたんじゃねえか? 昨日で」
「…………」
承太郎には昨日、どんな撮影が行われたのかは言っていない。それでもあの様を見ればろくな結果にならなかったであろうことは、察しがついているようだった。
花京院はただ力なく、こくりと頷く。
最初の撮影が上手くいったのは、相手が承太郎だったからだ。他の男に触れられるのはただおぞましいばかりで、思い出すだけで背筋が凍るような思いがした。
「てめーは」
組んでいた指先をテーブルに置き、腕を伸ばすようにして承太郎が深く椅子に背中を預ける。花京院はおずおずと視線をあげ、ふっくらと厚みのある唇の動きを見守った。
「向いてねーと思うぜ。この仕事」
「……そう、ですよね」
「もうやめときな」
頼まれても二度と出ないつもりだった。元々契約は2本だったし、昨日の有様を見れば、向こうもきっと二度と連絡は寄越さないだろう。
監督はリアリティのある作品が録れたと言って、花京院をべた褒めしてはいたけれど。
「そうします。承太郎さんの言う通りだと思うし」
その言葉に、承太郎は頷きながらふっと笑った。どこか満足そうにも見える表情を見つめながら、花京院はこの流れで気になっていたことを聞いてみることにした。
「承太郎さんは……どうしてああいった仕事を?」
失礼だったろうかとすぐに不安が押し寄せたが、承太郎は気にした様子もなく「あの監督」と低く呟き、腕を組む。
「監督さん?」
「高校から付き合いのある先輩だ。ヤツもおれも、当時はそこそこヤンチャしてた」
「やんちゃ? もしかして承太郎さん、不良だったんですか?」
「かもな。やらかす度に、なにかと世話になった。あれもゲイだからな。今にして思えば下心もあったんだろうが」
「そうだったんですか」
ビデオ出演を熱心に頼み込む監督の姿が、容易に想像できる。承太郎にとってはちょっとした恩返しのような感覚、ということだろうか。
話を聞いて、彼が義理堅い性格をしているのはよく分かった。だが同時に、新たな疑問も沸いてくる。
「承太郎さんも、ゲイなんですか?」
それは素朴な疑問だった。
いくら世話になった人間の頼みとはいえ、易々と同性を相手にセックスなどできるものだろうか。ましてやこれほどの美男子が、女性に不自由しているとも思えない。
承太郎は視線だけ僅かに伏せ、小さく唸ってから「ようわからん」と言った。
「わからない?」
小首を傾げる花京院に、彼はもう一度ふむ、と微かに唸る。
「男とか女とかって問題は、よくわからん。やることやっちまえば一緒としか思えねえし、言っちゃあなんだが興味がねえ」
「興味がない? それは性別にはこだわらない、ということですか?」
「……てめーはどうなんだ?」
「ぼ、ぼくは」
はぐらかされてしまったような気がするが、質問の矛先が自分に向いたことで、花京院は視線を泳がせながら考えた。
花京院にとって女性という生き物から連想されるのは母の姿で、無意識に避けていたということは考えられる。かといって同性に心惹かれた経験があるかといえば。
ふと、彷徨わせていた視線を承太郎に向ける。彼は冷めたコーヒーカップに口をつけながら、長い睫毛を伏せていた。
(例え同じ仕事でも、相手が女性であったなら……ぼくはどうしていただろう?)
想像するだけで吐き気がした。
おそらくどれほどの大金をチラつかされても、全力で拒否していたのではないか。
けれどゲイ向けのアダルトビデオだと告げられたとき、なぜか一切の嫌悪感が湧かなかった。むしろ初めての相手が承太郎でよかったとさえ思ったのだ。
その肉体美に魅せられ、興奮したのも確かで、あの逞しい腕にずっと抱かれていたいとすら思った。
(仮に、だ。ぼくにゲイの素質があるって可能性は、ないだろうか?)
そう考えたとき。
「ッ……!」
何かが、胸の中でかちりとはまった。
あの日からずっと承太郎のことばかり考えていたのも、会いたくて仕方がなかったのも、胸がドキドキと高鳴ってしまうのも。
(そ、そんな……まさかこれって……)
一度はまったピースは、寸分のブレもなく胸に収まっている。けれど確かなのは、同じ男でも承太郎以外は考えられないということだ。
それは、つまり。
(ぼくは彼に……恋をしている……?)
「花京院?」
「ッ、へ!?」
「おいてめー、さてはまだ調子が戻ってねえな?」
眉間に皺を刻んだ承太郎が、長い腕を伸ばしてくる。ふと、サウナで焼石に水をかけて、蒸気を発生させる光景が頭に浮かんだ。今の花京院は、まさにそんな状態だった。
慌てて椅子から立ち上がることで距離をとり、両手と一緒に首を振る。茹蛸のように顔中が赤く染まっているのが、鏡を見なくても分かってしまう。
「だ、大丈夫です!」
(なんて……なんてタイミングで……!!)
自覚してしまったのだろう。
本人を目の前に初めての恋に気づかされるなんて、取り繕う間もないではないか。
とにかく、今は気持ちを落ち着かせることが先決だ。膨らみ切った戸惑いを、ぐっと喉を鳴らすことで押しとどめ、どうにか笑みを浮かべて見せた。突き破ってきそうなほど高鳴る胸の鼓動を、手の平を押しつけることでどうにか宥める。
承太郎は不思議そうに首を傾げていたが、「ならいいが」と言って自らも椅子から立ち上がると、空になった食器を重ねはじめた。
「あっ、ぼくも」
手伝います、と、手を出しかけて。承太郎が、少し困ったようにふっと笑った。
「いいから座ってな。顔が真っ赤だぜ」
「で、ですが……」
「もう少し休んでけ。おれはこのあと家を空けるが……好きにしてて構わない」
「な、そんなわけにはいきませんよ。ぼくは大丈夫ですから」
言ってから、少し惜しいことをしたかと思った。
承太郎はまだここにいてもいいと言った。好きにしていろと。それはつまり、彼の帰りを待っていても構わないという意味だ。
だけど、家主がいない部屋で好きにしていろと言われても、どうすればいいか分からない。それにこれ以上、どんな顔をしていればいいのかも分からなかった。
本当はまだ一緒にいたい。だけど胸が苦しくて、逃げ出したいとも思う。
(これが恋なら……なんて苦しい感情だろう)
承太郎は「そうか」と言って、再び手を動かしはじめた。節くれだった大きな手の動きにすら心が甘く締め付けられるような気がして、そっと息を吐き出しながら目を逸らす。
(だけど、好きだ)
その気持ちが、とても尊いものに思えた。
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