2025/09/17 Wed 手を引かれて、静かな暗い廊下を歩いていた。 『どこに行くの?』 ぼくの手を握って離さないその人は、問いかけに『いつもの部屋だよ』と、答えた。 そんなことを言われても、ぼくにはなんのことかよくわからない。 ぼくはその人に手を引かれながら、少しだけ怖くなって後ろを振り向く。お母さん、と呼ぼうとして、開きかけた唇を噛み締めた。 そんなことをしたって、意味がないから。 お母さんはぼくを見ない。お母さんはぼくの声を聞かない。 お母さんにとって、ぼくは幽霊と同じだ。ぼくは、どこにもいない。 誰も助けてくれないなら、自分でなんとかするしかなかった。 『ぼく、そっちへは行きたくない』 首を振りながら言った。だけど男の人は何も言ってくれなかった。 『行きたくないよ』 どうしてか、この人と一緒に行ってはいけないような気がした。夜も遅いし、子供は早く寝なくちゃいけない。 でも、その人はぼくの手を離してくれなかった。 扉がどんどん近づいてくる。逃げ出したいのに、ぼくの身体はただ引きずられていくばかりだった。 『いやだよ、いやだ……』 行きたくない。あの部屋には入りたくない。 だって、あそこへ行ってしまったら。 甘い匂いがして。 ぼくは、ぼくのことがわからなくなってしまう。 * 「ッ……!」 ふと、目を覚ます。 見慣れた天井に幾度か瞬きをして、怠い身を起こしながら大きく息をついた。 部屋の中は薄暗い。喉が張り付いたように乾いていたけれど、水を取りに立ち上がるのも億劫だった。 「またか」 最近、嫌な夢を見る。 だけどこうして目を覚ましても、それがどんな夢だったかはどうしても思い出せない。ただとても悪い夢だったということだけを、漠然と覚えているだけだ。 きっと気が滅入っているせいだという自覚はあった。こういう精神状態が、見たくもない悪夢を見せているに違いないのだと。 分かっていても、上手く切り替えができない。 『金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?』 あれからずっと、押し殺したような声が頭の中で螺旋を描き続けていた。 (……誤解、されたままなんだよな) 金や男欲しさに、もう出ないと言ったはずの現場に足を運んだのだと。承太郎には、そう思われたままだ。 それでもわざわざ連絡をとって、誤解を解こうとは思わなかった。本当の気持ちを伝える勇気のない自分に、言えることなど何もない。 花京院は両手を投げ出すようにして、再び布団に身を沈めた。目覚めたときよりも幾分か明るくなった室内に、朝の訪れを知る。 もう一度寝なおすには中途半端な気がして、だけど起き上がる気にもなれず、身体を横向きにすると胎児のように背中を丸めた。 それからふと、思い出す。 『おまえが欲しい。 いいか、おれだけだ。おれだけのものに』 意識を失う寸前に聞いた、台本にはなかったはずの台詞。 あれは自分の中にある浅ましい願望が見せた、都合のいい夢だったのだろうか。 だとしたら本当に救いようがない。承太郎の気持ちが、自分の感情と同じ形をしているわけがないことくらい、最初から知っていたはずなのに。 * ラブホでの撮影から、そろそろ一ヶ月ほどが経とうとしていた。 花京院はただ義務的に動くロボットのように仕事をして、何もない日はぼんやりとゲームをしたり、本を読んだりしながら静かな生活を送っていた。 それらに気を取られているふりをしていると、少しずつ承太郎のことを考える隙間が、埋まっていくような気がする。このまま本当に忘れていけたなら、それに越したことはなかった。 監督から電話がかかってきたのは、そんなある日の夜だった。 勤め先から帰路につく花京院の、普段は滅多に鳴らない携帯が鳴った。 アパートへ続く道の途中、誰かも確認せず着信に応じたことを後悔する。受話口から聞こえてきた能天気な声に、花京院は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら足を止めた。 『あ、花京院くん? 久しぶり~』 はぁどうも、という冴えない花京院の返答に、半ば食い気味で彼は要件を口にする。 『次の撮影日が決まったよ。来週の日曜日なんだけど、イケる?』 「はい?」 『今回はがっつり女性を意識した作品を作ろうってことになってさ、ほら、BLってやつ。ボーイズラブ。ファンタジーやメルヘンの世界』 「ちょ、ちょっと待ってください。藪から棒に……ぼくはまだ出るなんて一言も」 『はあ? なに言ってんの花京院くん』 寝ぼけてるの? と呆れ気味に言ったあと、監督は『ちゃんと約束したでしょ』と続けた。 「約束? なんの話です?」 『こないだの打ち上げのときさ。え、ホントに覚えてない系?』 「……覚えてません」 記憶のどこを探っても、そんな覚えはなかった。けれどあのラブホでの撮影のあと、打ち上げに参加させられた記憶は確かにあった。 花京院が初めて出演したあの作品が配信元で大好評だと、上機嫌の監督に背中を何度も叩かれた、ような気もする。 だけどあのときの花京院は承太郎の言葉に打ちのめされて、ほとんど抜け殻のようになっていた。まともに会話ができる状態ではなかったのだ。 『まぁ~、お酒もちょこっと飲ませちゃったしね。だいぶ疲れてたみたいだし、覚えてなくても仕方ないかな』 「……すみません」 『うん、いいよ。こっちは約束さえ守ってくれれば』 「あの、契約破棄は可能でしょうか? ぼくはもう、こういうバイトはしないって決めたので」 おずおずと口にすると、監督はあっさり『できるよ』と言った。 「よかった……じゃあ」 『百万円、すぐに払える?』 「……はい?」 『違約金だよ。当たり前でしょ。もう撮影場所も押さえちゃってるし、スタッフの手配も済んでるんだ。いつものメンバーだけどね』 「な、そんな大金、すぐになんて……!」 これまでのギャラは、初回分を除き全て手をつけずに口座に入れてある。 けれど当然、そこまでの金額なんてすぐに用意できるわけがない。 『ちゃんと耳を揃えて払えるなら、破棄できるよ。どうする?』 答えに窮した花京院は、咄嗟になにも言うことができなかった。 * 監督の指示通り、撮影は次の日曜日に決まった。 結局、今の花京院にそんな大金が払えるはずもなく、今度こそ最後にすることだけを条件に、出演することになってしまった。 電話を終え、ふらふらと自宅アパートに帰宅して、床に力なく座り込んでからふと、気がついた。 思い返せば、監督は『約束』と言ったのであって、『契約』とは言わなかった。自分はただ、あの打ち上げの席で口約束をさせられたにすぎなかったのではないか、と。 もしそうだとしたら、まんまとはめられてしまったのかもしれない。百万円なんて、子供が冗談で言うような金額を疑いもせず信じてしまうとは、我ながら情けない話だ。 とはいえ今さら折り返して契約書の有無を問うのは面倒だった。もとは全て自分が蒔いた種のようなものだったし、脳が考えることを拒絶している。 もうどうとでもなってしまえという、投げやりな気分だった。 次の撮影で絡む相手が、承太郎ではない他の誰かであることだけを、願いながら。 ←戻る ・ 次へ→
『どこに行くの?』
ぼくの手を握って離さないその人は、問いかけに『いつもの部屋だよ』と、答えた。
そんなことを言われても、ぼくにはなんのことかよくわからない。
ぼくはその人に手を引かれながら、少しだけ怖くなって後ろを振り向く。お母さん、と呼ぼうとして、開きかけた唇を噛み締めた。
そんなことをしたって、意味がないから。
お母さんはぼくを見ない。お母さんはぼくの声を聞かない。
お母さんにとって、ぼくは幽霊と同じだ。ぼくは、どこにもいない。
誰も助けてくれないなら、自分でなんとかするしかなかった。
『ぼく、そっちへは行きたくない』
首を振りながら言った。だけど男の人は何も言ってくれなかった。
『行きたくないよ』
どうしてか、この人と一緒に行ってはいけないような気がした。夜も遅いし、子供は早く寝なくちゃいけない。
でも、その人はぼくの手を離してくれなかった。
扉がどんどん近づいてくる。逃げ出したいのに、ぼくの身体はただ引きずられていくばかりだった。
『いやだよ、いやだ……』
行きたくない。あの部屋には入りたくない。
だって、あそこへ行ってしまったら。
甘い匂いがして。
ぼくは、ぼくのことがわからなくなってしまう。
*
「ッ……!」
ふと、目を覚ます。
見慣れた天井に幾度か瞬きをして、怠い身を起こしながら大きく息をついた。
部屋の中は薄暗い。喉が張り付いたように乾いていたけれど、水を取りに立ち上がるのも億劫だった。
「またか」
最近、嫌な夢を見る。
だけどこうして目を覚ましても、それがどんな夢だったかはどうしても思い出せない。ただとても悪い夢だったということだけを、漠然と覚えているだけだ。
きっと気が滅入っているせいだという自覚はあった。こういう精神状態が、見たくもない悪夢を見せているに違いないのだと。
分かっていても、上手く切り替えができない。
『金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?』
あれからずっと、押し殺したような声が頭の中で螺旋を描き続けていた。
(……誤解、されたままなんだよな)
金や男欲しさに、もう出ないと言ったはずの現場に足を運んだのだと。承太郎には、そう思われたままだ。
それでもわざわざ連絡をとって、誤解を解こうとは思わなかった。本当の気持ちを伝える勇気のない自分に、言えることなど何もない。
花京院は両手を投げ出すようにして、再び布団に身を沈めた。目覚めたときよりも幾分か明るくなった室内に、朝の訪れを知る。
もう一度寝なおすには中途半端な気がして、だけど起き上がる気にもなれず、身体を横向きにすると胎児のように背中を丸めた。
それからふと、思い出す。
『おまえが欲しい。
いいか、おれだけだ。おれだけのものに』
意識を失う寸前に聞いた、台本にはなかったはずの台詞。
あれは自分の中にある浅ましい願望が見せた、都合のいい夢だったのだろうか。
だとしたら本当に救いようがない。承太郎の気持ちが、自分の感情と同じ形をしているわけがないことくらい、最初から知っていたはずなのに。
*
ラブホでの撮影から、そろそろ一ヶ月ほどが経とうとしていた。
花京院はただ義務的に動くロボットのように仕事をして、何もない日はぼんやりとゲームをしたり、本を読んだりしながら静かな生活を送っていた。
それらに気を取られているふりをしていると、少しずつ承太郎のことを考える隙間が、埋まっていくような気がする。このまま本当に忘れていけたなら、それに越したことはなかった。
監督から電話がかかってきたのは、そんなある日の夜だった。
勤め先から帰路につく花京院の、普段は滅多に鳴らない携帯が鳴った。
アパートへ続く道の途中、誰かも確認せず着信に応じたことを後悔する。受話口から聞こえてきた能天気な声に、花京院は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら足を止めた。
『あ、花京院くん? 久しぶり~』
はぁどうも、という冴えない花京院の返答に、半ば食い気味で彼は要件を口にする。
『次の撮影日が決まったよ。来週の日曜日なんだけど、イケる?』
「はい?」
『今回はがっつり女性を意識した作品を作ろうってことになってさ、ほら、BLってやつ。ボーイズラブ。ファンタジーやメルヘンの世界』
「ちょ、ちょっと待ってください。藪から棒に……ぼくはまだ出るなんて一言も」
『はあ? なに言ってんの花京院くん』
寝ぼけてるの? と呆れ気味に言ったあと、監督は『ちゃんと約束したでしょ』と続けた。
「約束? なんの話です?」
『こないだの打ち上げのときさ。え、ホントに覚えてない系?』
「……覚えてません」
記憶のどこを探っても、そんな覚えはなかった。けれどあのラブホでの撮影のあと、打ち上げに参加させられた記憶は確かにあった。
花京院が初めて出演したあの作品が配信元で大好評だと、上機嫌の監督に背中を何度も叩かれた、ような気もする。
だけどあのときの花京院は承太郎の言葉に打ちのめされて、ほとんど抜け殻のようになっていた。まともに会話ができる状態ではなかったのだ。
『まぁ~、お酒もちょこっと飲ませちゃったしね。だいぶ疲れてたみたいだし、覚えてなくても仕方ないかな』
「……すみません」
『うん、いいよ。こっちは約束さえ守ってくれれば』
「あの、契約破棄は可能でしょうか? ぼくはもう、こういうバイトはしないって決めたので」
おずおずと口にすると、監督はあっさり『できるよ』と言った。
「よかった……じゃあ」
『百万円、すぐに払える?』
「……はい?」
『違約金だよ。当たり前でしょ。もう撮影場所も押さえちゃってるし、スタッフの手配も済んでるんだ。いつものメンバーだけどね』
「な、そんな大金、すぐになんて……!」
これまでのギャラは、初回分を除き全て手をつけずに口座に入れてある。
けれど当然、そこまでの金額なんてすぐに用意できるわけがない。
『ちゃんと耳を揃えて払えるなら、破棄できるよ。どうする?』
答えに窮した花京院は、咄嗟になにも言うことができなかった。
*
監督の指示通り、撮影は次の日曜日に決まった。
結局、今の花京院にそんな大金が払えるはずもなく、今度こそ最後にすることだけを条件に、出演することになってしまった。
電話を終え、ふらふらと自宅アパートに帰宅して、床に力なく座り込んでからふと、気がついた。
思い返せば、監督は『約束』と言ったのであって、『契約』とは言わなかった。自分はただ、あの打ち上げの席で口約束をさせられたにすぎなかったのではないか、と。
もしそうだとしたら、まんまとはめられてしまったのかもしれない。百万円なんて、子供が冗談で言うような金額を疑いもせず信じてしまうとは、我ながら情けない話だ。
とはいえ今さら折り返して契約書の有無を問うのは面倒だった。もとは全て自分が蒔いた種のようなものだったし、脳が考えることを拒絶している。
もうどうとでもなってしまえという、投げやりな気分だった。
次の撮影で絡む相手が、承太郎ではない他の誰かであることだけを、願いながら。
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