2025/09/17 Wed ブルーとエメラルドグリーンのコントラスト。 鉛雲の空の下、美しく揺れる湖水面が視界いっぱいに広がっている。 (運がないな、ぼくは) 桟橋の手摺に手をかけて、花京院は物憂げな表情で溜息を漏らす。 微かに雨の匂いを乗せた風は冷たい。白いシャツの上から羽織っている、ゆったりとした深緑のカーディガンは薄手で、小さく竦めた肩を震わせた。 日曜日。 この日、朝から監督とスタッフ、共演者らと集った花京院は、緑の山々に囲まれた静かなリゾート地を訪れていた。 海と見紛うほどの大湖と、その周縁には牧場やアミューズメント施設はもちろん、ホテルをはじめキャンプ場やコテージなどの宿泊施設も点在している。 今回の撮影は、この地で二日がかりで行われることになっていた。 台本も前に比べると幾らかマシな作りになっていて、ここでも花京院は台詞を頭に叩き込むことに夢中になった。女性向けを意識した作品だと監督が言っていた言葉が、内容を見てなんとなく理解できた。 そして、撮影はもうすでに始まっていた。 桟橋に佇む花京院へ向かって、静かな足音が近づいてくる。 次第に大きくなっていくその音に一度そっと目を閉じながら、花京院は竦めていた肩から力を抜いた。 「風邪ひくぜ」 すぐ隣で立ち止まった気配が、低く気遣わし気な声を漏らす。花京院は声のした方へ身体を向けると、ぎこちなく微笑んだ。 そのまま湖に背を向け、手摺に背中を預けると向かい側に陣取るカメラマンや監督、ガンマイクを持つスタッフらの姿が視界に入り込む。ここからそれなりに長い会話シーンをワンカットで撮るため、可能な限り失敗は避けたい。 「大丈夫だよ。ありがとう」 台詞の第一声で喉が詰まらなくてよかった。 湖のエメラルドに背を向けてもなお、自分を見下ろす同色の瞳は美しく、そして深く沈んでいるように見える。 「承太郎」 震えそうになる声で名前を呼んだ。 彼はそれに反応したように微かに目を細め、花京院と同じように桟橋の手摺に背を預ける。 そう。運の悪いことに、今度の相手も承太郎だった。 薄手のシャツに黒皮のジャケットを羽織った彼は、いつもより幾分か解れて額にかかっていた前髪を、さりげなく掻き上げている。その横顔から目を逸らし、花京院はふっと息を吐いて笑った。 「君とこんな風に過ごすのも、これが最後なんだな」 「…………」 「……いいのか? ご両親には、何も言わずに来てしまったんだろう?」 「いい。構わねえよ」 そうか、と小さく零しながら、花京院は頭の中であらすじをなぞる。 登場人物である承太郎と花京院は大学生で、恋人同士という設定だ。 だがふとしたことがキッカケで互いの両親に関係がバレてしまい、花京院は強制的に海外留学をさせられることになってしまった。 承太郎は将来、父親の大会社を継ぐ立場にある。そのため花京院は、いずれ別れなくてはいけない日が来ることを、こうなる以前から覚悟はしていた。 せめて最後に忘れられない思い出を作ろうと、二人はこうして一泊二日の小旅行へ行くことになるのだが。 「典明」 下の名を呼ばれ、思わず心臓がドクンと跳ねる。 承太郎は肩を震わせる花京院へ身体を向けると、まっすぐに目を合わせて来た。自然と、花京院も手摺から背を離して彼と視線を絡ませる。 「行くな」 「なにを突然」 「アメリカだかどこだか知らねえが……おれはおまえを諦めきれねえ」 演技と知りつつ、熱のこもった瞳を見ていることができない。小さく顔を背けた花京院は、唇を噛み締めながら幾度か首を振った。 「ダメだ。ちゃんと二人で話し合ったじゃあないか。これが、お互いのためだって」 「おれは納得しちゃあいねーぜ。今日だっておれは、二度と家に帰らねえつもりでここに来ている」 「な……!」 驚きに目を見開く花京院の両肩を掴み、承太郎はなおも言う。 「おまえも、そのつもりで来たんじゃねえのか」 「ぼくは、そんなつもりは……」 (安っぽいシナリオに変わりはないな) 戸惑った表情で俯きながら、心の中で呆れてしまう。 『承太郎』と『典明』は、もうどうしようもないほど深く愛し合っている。どちらかが欠ける未来などありえないことを、彼らは痛いほど知っているのだ。互いを求め合う気持ちを、抑えることなどできない。 「ぼくは君に、幸せになってほしい。だから」 「だったらおれと来い。どこにも行くな」 「承太郎……ッ」 引き寄せられる寸前で、その胸に両手をついて突っぱねた。 「ぼくでは駄目なんだ! ぼくと一緒にいれば、いつか必ず君を不幸にしてしまう。だって君は、卒業したら父親の会社を継がなくちゃあならないんだろう? いずれは跡継ぎだって……」 「それがなんだ? おれの人生だ。おれが決める」 「どうしてそんなことが言えるんだ……君は将来を約束されているんだぞ……?」 花京院にとって、この茶番は苦痛でしかない。 けれど背けていた顔をあげ、『承太郎』と視線を交わらせる『典明』の目には涙が浮かぶ。馬鹿げていると思うのに、『承太郎』の真っ直ぐな思いは花京院の胸を打つ。役に入り込んでいく心を、止められなかった。 「愛しているからだ」 『承太郎』の言葉に、息を飲む。 「ッ……!」 「出会ったときから、ずっと」 (……ぼくだって) 「ぼくだって……君が好きだ……」 (この人が好きなのに) 「君と、ずっと一緒にいたい……ッ!!」 『承太郎』の腕が今度こそ『典明』を強く抱きしめた。温かくて大きな胸板に身を寄せながら、その広い背に両腕を回す。 ふわりと鼻先をくすぐる承太郎の匂いに、風が運んでくる優しい草木の香りが混ざりあう。 長い両腕と、広い肩幅と、厚い胸板と。決して小さくはない自分が、こうしてすっぽりと包み込まれてしまう。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろうか。これが演技ではなく、真実であったなら。 現実はなにもかもが逆だった。花京院はこの『典明』のように、真っ直ぐに気持ちを伝えることはできないし、承太郎に愛される自分の姿など、想像もできない。 だからもうこれ以上、彼の傍にいるのも、想い続けているのも辛かった。 (今度こそ、最後にするんだ) この撮影が終わったら、何もかも忘れなくては。 『承太郎』の唇を『典明』として受け止めながら、花京院は今にも逃げ出したい衝動をぐっと押し殺し、ただ静かに睫毛を震わせた。 * 撮影は日が暮れる頃にようやく終わった。 あのあと場所を変えて、ごく普通の恋人同士のように観光スポットを巡るシーンが幾つか撮られた。途中で雨に降られて中断する場面もあったが、初日の撮影は全て無事に終えることができた。 「疲れたな」 全員で食事を終えた後、自分用に宛がわれた小さなコテージに戻ると、すぐにベッドにぐったりと身を預けた。三角屋根の木目調の天井をぼんやりと見つめて、大きく息をつく。 撮影の本番はこれからだ。今日はストーリーパートだったが、明日はいよいよ濡れ場が控えている。何もかもを捨てて駆け落ちをすることを決めた二人が、濃密に愛し合うシーンを撮らなくてはいけない。 こうしている間にも、花京院の気持ちは滅入るばかりだった。 今回の相手も承太郎だと知らされたときは、正直すぐにでも逃げ出したいと思った。承太郎にはきっと、忠告も聞かずまたのこのこと金のためにやってきた、馬鹿なガキだと思われているに違いない。 証拠に、彼は撮影以外で一度も花京院と目を合わせようとしなかったし、一言も口をきかなかった。 だけどもう、そんなことを気にしても詮無い話だ。明日で全てが終わる。最後に彼に抱かれて、あとは何もかも忘れてしまうと決めたのだから。 これ以上はなにも考えたくなくて、花京院は静かに目を閉じる。まだシャワーも着替えも済んでいないが、このままじわりと込み上げる睡魔に縋ろうとした。 だがそのとき、コテージの扉がノックされる音がして目を開ける。 (なんだ……面倒臭いな……) できれば眠ってしまいたかったのだが。 それでも無視することはできず、のろのろと起き上がると扉へ向かう。ドアノブを回し、僅かに開けるとそこから顔を覗かせたのは。 「ああ、ごめん。寝てた?」 「……いえ」 あの青いキャップをかぶった、キツネ目のスタッフだった。 彼は肩を竦めてヘラリと笑った。なんとなく、その笑い方を不快に感じる。 「何か?」 「うん、明日のことでちょっとね。変更があったから、寝る前に打ち合わせするって、監督が」 「そうですか……わかりました」 「隣のコテージ。もうみんな集まってるから、すぐ来てくれよ」 正直なところ億劫でしかなかったが、頷くより他になかった。 先に行っているからと、キャップの男は去って行った。 撮影のことで話し合いがあるのなら、承太郎も必ず来るだろう。 彼と同じ空間に身を置くことは、今の花京院には苦痛でしかなかった。できることなら今日はもう、休んでしまいたかったのだが。 「しょうがない、か」 花京院は腹を括ると乱れていた髪を軽く整え、コテージを出た。 * 外はもうすっかり陽が沈み、暗く静まり返っていた。 花京院は指示通り、すぐ隣のコテージへ向かうと正面に見据え、ふと足を止める。 目の前の建物は、花京院のコテージよりも一回り大きい作りになっていた。 この辺り一帯には同じく似たような作りの建物が、幾つか点在している。 花京院と承太郎はそれぞれ一つずつ宛がわれたが、監督とカメラマンは二人で一つを、そしてその他のスタッフたちは全員、この大きなコテージを利用することになっていた。 (少し妙だな) ふと違和感を覚えた。 目の前に佇むコテージには大勢が集まっているはずなのだが、それにしてはしんと静まり返っている。 窓へ目を向けても灯りはなく、無人と言われても納得がいくほど人の気配が感じられない。 何かの間違いだろうかと思いかけたが、あのキャップのスタッフは確かに隣のコテージと言った。花京院のコテージはちょうど敷地の外れにあるため、隣といえばここしかないのだが。 なんとなく、胸騒ぎがした。漠然とではあるけれど、ここに近づいてはいけないような。 とはいえここで引き返すわけにはいかない。一瞬、監督とカメラマンが利用しているコテージへ行ってみようかとも思ったが、まずはスタッフの指示に従うことにした。 コンコン、と。 木製のドアを軽くノックしてみる。 反応がなければやはり監督の元へ行こうと考えていたが、すぐに 『どうぞ』 という、くぐもった男の声がした。 やはり間違っていなかったのだと、花京院はドアノブに手をかけて扉を開ける。 すると、中はやはり暗く静まり返っていた。 「……?」 確かに声もしたし、ここで間違いないはず。 けれど中に踏み込んでみても暗いばかりで、誰もいない。そのとき、背後でバタンと扉が閉まった。 「ッ!」 花京院がその音に肩を跳ねさせるのと、バチ、という何かスイッチが入るような音が聞こえたのは、同時だった。 室内が薄ぼんやりと照らされ、花京院の視線はおのずと光の出所へ向けられる。 そこには、古びたブラウン管テレビがあった。 テレビには何か映像が映し出されていて、花京院は引き寄せられるようにテレビへ向かって足を進める。 徐々に距離が狭まると、画面に映し出されている光景が幾らか鮮明になった。 真っ暗な空間に、ぼんやりと蝋燭が揺れている映像だ。 『典明』 心臓が、大きく跳ねる。 テレビから聞こえた声は男のもので、それがはっきりと花京院の名を呼んだ。 (これは、なんだ? ぼくはいったい、何を見せられている?) 何が起こっているのか、理解できなかった。だけど身体の奥深くで、これ以上は見るなともう一人の自分が叫んでいる。 見てはいけない。今すぐここから逃げろ。でなければきっと、なにか恐ろしいことが起こるぞと。 だけど視線は映し出される映像に釘づけで、金縛りにあったように身体が動かなかった。 『おまえは本当にいい子だね』 声と共に一瞬、画面が滲んだ。それからすぐに映し出されたのは。 「ッ!?」 裸でベッドに横たわる、幼い子どもの姿だった。 蝋燭の頼りない光だけに加えて、画質は相当古いのか、ガサガサと時折ノイズが走る。だけど幼い身体はいやに白く、そして痛々しく花京院の目に映った。 小さな火が揺れる度に、幼子の赤い髪が燃えるように浮かび上がる。 (これは……ぼく、か……?) 『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』 画面に映り込んでいるのは、幼子だけではなかった。 大人の男と分かる手がその白い胸に這わされる。その感触と声に反応して、幼い花京院はふっと微笑んだ。 そしてその唇が 『おとうさん』 と、男を呼んだ。 「おとう、さん……?」 瞬きすらできず、食い入るように見つめる先で、幼子が小枝のような両手を伸ばす。父と呼ばれた男は大きな身体で幼子に圧し掛かり、まるで恋人にするみたいに小さな唇に舌を這わせた。 幼子は懸命に男の首に両手を巻き付かせ、嫌に生々しい水音を響かせながら、応えようとしていた。 やがて男はベッドの縁に腰かけると、固定されたカメラに見せつけるようにして、露出した下半身を曝す。 『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』 問いかけに、幼い花京院は身を起こしながら濁った瞳で頷いた。 その手を男の勃起した性器に伸ばし、小さな手でゆるゆると扱きはじめる。そして、身体を倒すとその先端に躊躇なく口づけた。 口の中に納まりきらない性器に、キャンディーを舐めしゃぶるように舌を這わせる子供の頭を、大きな手がしきりに撫でる。 そうされる度に、花京院は嬉しそうに笑った。 (これ、は……なに……?) 『そう、いい子だ』 (あれは、あの人は) 義理の、父親だ。 「どうして……?」 母と結婚したはずの男。その息子共々、花京院とは深く関わりを持とうとしなかったはずの、他人も同然の家族。 それがどうして幼い自分と、あのような行為を……? 『愛してるよ典明』 びくん、と。 画面の中の小さな肩が跳ねる。同時にそれを見つめる花京院の肩も震えた。 ――愛してる。 それは、あの子供にとって大好きなチェリーよりも甘い、魔法の呪文だった。 (そうだ、ぼくは) 『ぼくもすき』 (ずっとこの人に) 『おとうさんが、すき』 (抱かれていた) 花京院の中で、何かが音を立てて崩れ去った。 それはずっと記憶を閉じ込めていた分厚い檻が、崩壊する音だった。 (いつも、甘い香りがしていたんだ) いちど解き放たれた記憶の断片が、とてつもない速さで元の形を構築していく。 時々、夜中になると義父が部屋まで迎えに来た。手を引かれて連れて行かれるのは彼の部屋で、そこはいつも花のような、砂糖菓子のような不思議な香りがしていた。 その匂いを嗅ぐと心も身体もふわふわとしてきて、何も分からなくなって。自分が自分では、なくなってしまう。 『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』 義父はいつも言っていた。明日には全て忘れているからと。だから大丈夫だと。 きっとこれはとても悪いことだと、心のどこかでは知っていた。だけど彼の大丈夫だという言葉を繰り返し聞いていると、暗示をかけられたように安心した。 「あれ、やっぱり君だよね?」 そのとき、全く別の男の声がした。 未だに動けないできる花京院の背後から、ゆるりと二本の腕が伸びてくる。抱き込まれてもなお、過去へ気をとられたままの花京院は画面に釘づけで、何も反応ができなかった。 「絶対にどこかで見たと思ってたんだ。髪型も変わってるし」 花京院を呼びに来た、あの青いキャップの男だ。彼は花京院の耳に、ふっと息を吹きかけた。 「どうして俺がこんなビデオを持ってるか、知りたいか?」 「ッ……な……?」 「兄貴だよ。あんたの義理の兄貴。昔ちょっと付き合いあってさ」 花京院の義理の兄。それは今、画面の向こう側で幼い子供を蹂躙する男の、実の息子だ。 「この親父、とんだ変態だな。わざわざ息子とのセックスをカメラに収めたりして。あんたの兄貴はそれをこっそり持ち出して、ダビングしたのをダチの間で回してたんだよ」 中学の頃の話だけど、と言いながら、男はヘラリと笑った。 テレビ画面からは甲高い声が漏れ聞こえ、そのおぞましい行為を垂れ流している。獣のように腰を振る義父の下で、幼い子供が薄く微笑みながら、揺さぶられていた。 足元から這い上がる寒気と同時に、腹の奥から何かが競り上がって来る。 思わず両手で口元を押さえ、花京院は身を震わせた。 「悪い子だよなぁ、花京院くん。あれ、義理でも一応は父親だろ?」 「ち、が……」 「お母さんに隠れて、いっつもあんなエッチなことしてたんだ?」 「知らない……ぼくは、知らない……ッ」 知らなかったのだ。 あの頃の花京院には、性行為という概念すらなかった。 ただ、義父に連れられて部屋に入ると甘い匂いがした。そして気がつくと自室のベッドに戻されていて、その間の記憶は何一つ残ってはいなかった。 「あんなに嬉しそうに股開いといて、よく言うよな」 男の言葉に、息をのむ。 何もかもお見通しとばかりに、彼はなおも続けた。 「好きとか愛してるって言ってくれる相手なら、誰でもいいんだろ?」 「違う、ぼくは、そんな人間じゃ」 「責めてるわけじゃないのさ。だって君、お母さんからネグレクトされてたんだろ? 可哀想に。さぞ寂しかったろうね」 「……それも」 「そう、兄貴から聞いて知ってるよ」 「だからなんだ。こんなものを見せて、ぼくを脅しているつもりか?」 偶然の巡りあわせに、内心動揺は隠せない。だが、仮にこの男が映像を公にすると言ったところで、痛くも痒くもないのだ。 花京院はすでに数本のビデオに出演している。それらはすでに出回っているし、今さら失うものなど何もない。 だから、本当は分かっている。この男は、ただこうして花京院に精神的な揺さぶりをかけて、反応を楽しんでいるだけなのだと。 噛みつくような目で睨む花京院を、男は馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。 「別に~? ただちょっと君と遊びたいだけだよ」 それを合図に、ギシギシと床板を踏みしめる音が幾つも聞こえた。 辺りを見ると、薄ぼんやりとした空間に5,6人の男たちがニヤニヤと笑みを浮かべているのが見える。今の今まで、息を殺して潜んでいたのか。彼らは全員、撮影に参加していたスタッフたちだった。 「俺たちみんな、花京院くんのこと大好きでさ」 「な……!?」 「だからいいだろ?」 逃げなくてはと。 思い立つにはあまりにも遅すぎた。幾本もの腕が一斉に伸びてきて、花京院を取り押さえると引きずるようにすぐ側のベッドへ投げ込まれる。 「ぅぐ……ッ!」 「やっとかよ。ずいぶん待ったぜ」 「さっさと服脱がしちまえって! こいつガキのくせにほんっとイイ身体してるんだよなぁ」 「いッ、やだ……いやだ、やめろ……ッ!!」 まるで揉みくちゃにするみたいに、洋服が引き剥がされていく。露わになる肌に汗ばんだ手が幾つも這わされ、花京院は激しく身を捩って抵抗を繰り返した。 頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からない。ただ、このまま好きにされるのだけは我慢ならなかった。逃げ場のない状況で、それでも闇雲に四肢をバタつかせる。 すると誰かが苛立ったように舌打ちをして、「うるせぇな」と吐き捨てた。 「どうせ明日にはデカいちんぽブチ込まれるんだからよ」 「そうそう、その前にオレらの粗チンでたっぷり慣らしといてあげるからねー」 「ガキの頃から使い込んでんだから、とっくにケツの穴なんかゆるゆるだろ?」 「典明く~ん、嘘ついちゃ駄目だよ~。初めてとか言って、最初の撮影の時とっくに経験済みだったんじゃ~ん」 次々と浴びせられる汚い言葉、にたにたと笑う顔。 それらが一瞬にして突き刺さり、凍てついた心が粉々に砕かれるのを感じた。 初めてだと思っていた。誰かに抱かれたのも、恋をしたのも。 だけど違っていた。この身体はとっくに男を知っていて、女性に興味を持てなかったのも、そういう身体にされていたから、だったのだろうか。 両耳を内側から塞がれたような圧迫感を覚える。そのまま尾をひくような耳鳴りがしだして、頭の中で、承太郎の声がした。 ――可愛いな、君は。 初めて会った日。 承太郎にそう言われると、心も身体もふわふわと舞い上がるような気がした。 彼は花京院を優しく抱いた。綺麗だと、具合がいいと、いい子だと言って、褒めてくれた。だけど。 ――それとも、ただ男が欲しかっただけか? (……あぁ、そうか) 優しい言葉をかけられれば、相手なんかどうでもよかったのかもしれない。 それを恋だなどと勘違いしてしまっただけ、だったのかもしれない。 承太郎だから特別なのだと、承太郎だから好きになったのだと。 でも、本当は。 (誰でも、よかったんだ……) 幼い頃から愛されたくて仕方がなかった。誰かに優しくしてほしくて、堪らなかった。ずっとずっと、寂しかった。 心の内側が、真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。その闇が濃くなるほどに瞳は虚ろに濁り、全身から力が抜けていく。 「お、急におとなしくなった」 「いい子だね~典明く~ん。優しくしてあげるからね~」 「いいからとっととブチ込んじまおうぜ」 人形のように力を失くした花京院の両足を、誰かが大きく割り開いた。 それをぼんやりと他人事のように見つめる視界の端に、あの蝋燭の頼りない光を映し出すテレビ画面がちらりと掠める。 その微かな暖色は、初めて承太郎の家を訪れた夜を思い出させた。 (承太郎さん……) なぜ怒りを感じていたのか、自分にもよくわからないと言って、不器用に触れてきた人。あの手の温もりを思い出すだけで、今もこんなに胸が苦しいのに。 (もう、いいや) 身体の奥まった場所に、誰かの勃起した性器が押し付けられる。 そのとき。 木製の扉が微かに軋んだ音を立てながら、開く音がした。 ←戻る ・ 次へ→
鉛雲の空の下、美しく揺れる湖水面が視界いっぱいに広がっている。
(運がないな、ぼくは)
桟橋の手摺に手をかけて、花京院は物憂げな表情で溜息を漏らす。
微かに雨の匂いを乗せた風は冷たい。白いシャツの上から羽織っている、ゆったりとした深緑のカーディガンは薄手で、小さく竦めた肩を震わせた。
日曜日。
この日、朝から監督とスタッフ、共演者らと集った花京院は、緑の山々に囲まれた静かなリゾート地を訪れていた。
海と見紛うほどの大湖と、その周縁には牧場やアミューズメント施設はもちろん、ホテルをはじめキャンプ場やコテージなどの宿泊施設も点在している。
今回の撮影は、この地で二日がかりで行われることになっていた。
台本も前に比べると幾らかマシな作りになっていて、ここでも花京院は台詞を頭に叩き込むことに夢中になった。女性向けを意識した作品だと監督が言っていた言葉が、内容を見てなんとなく理解できた。
そして、撮影はもうすでに始まっていた。
桟橋に佇む花京院へ向かって、静かな足音が近づいてくる。
次第に大きくなっていくその音に一度そっと目を閉じながら、花京院は竦めていた肩から力を抜いた。
「風邪ひくぜ」
すぐ隣で立ち止まった気配が、低く気遣わし気な声を漏らす。花京院は声のした方へ身体を向けると、ぎこちなく微笑んだ。
そのまま湖に背を向け、手摺に背中を預けると向かい側に陣取るカメラマンや監督、ガンマイクを持つスタッフらの姿が視界に入り込む。ここからそれなりに長い会話シーンをワンカットで撮るため、可能な限り失敗は避けたい。
「大丈夫だよ。ありがとう」
台詞の第一声で喉が詰まらなくてよかった。
湖のエメラルドに背を向けてもなお、自分を見下ろす同色の瞳は美しく、そして深く沈んでいるように見える。
「承太郎」
震えそうになる声で名前を呼んだ。
彼はそれに反応したように微かに目を細め、花京院と同じように桟橋の手摺に背を預ける。
そう。運の悪いことに、今度の相手も承太郎だった。
薄手のシャツに黒皮のジャケットを羽織った彼は、いつもより幾分か解れて額にかかっていた前髪を、さりげなく掻き上げている。その横顔から目を逸らし、花京院はふっと息を吐いて笑った。
「君とこんな風に過ごすのも、これが最後なんだな」
「…………」
「……いいのか? ご両親には、何も言わずに来てしまったんだろう?」
「いい。構わねえよ」
そうか、と小さく零しながら、花京院は頭の中であらすじをなぞる。
登場人物である承太郎と花京院は大学生で、恋人同士という設定だ。
だがふとしたことがキッカケで互いの両親に関係がバレてしまい、花京院は強制的に海外留学をさせられることになってしまった。
承太郎は将来、父親の大会社を継ぐ立場にある。そのため花京院は、いずれ別れなくてはいけない日が来ることを、こうなる以前から覚悟はしていた。
せめて最後に忘れられない思い出を作ろうと、二人はこうして一泊二日の小旅行へ行くことになるのだが。
「典明」
下の名を呼ばれ、思わず心臓がドクンと跳ねる。
承太郎は肩を震わせる花京院へ身体を向けると、まっすぐに目を合わせて来た。自然と、花京院も手摺から背を離して彼と視線を絡ませる。
「行くな」
「なにを突然」
「アメリカだかどこだか知らねえが……おれはおまえを諦めきれねえ」
演技と知りつつ、熱のこもった瞳を見ていることができない。小さく顔を背けた花京院は、唇を噛み締めながら幾度か首を振った。
「ダメだ。ちゃんと二人で話し合ったじゃあないか。これが、お互いのためだって」
「おれは納得しちゃあいねーぜ。今日だっておれは、二度と家に帰らねえつもりでここに来ている」
「な……!」
驚きに目を見開く花京院の両肩を掴み、承太郎はなおも言う。
「おまえも、そのつもりで来たんじゃねえのか」
「ぼくは、そんなつもりは……」
(安っぽいシナリオに変わりはないな)
戸惑った表情で俯きながら、心の中で呆れてしまう。
『承太郎』と『典明』は、もうどうしようもないほど深く愛し合っている。どちらかが欠ける未来などありえないことを、彼らは痛いほど知っているのだ。互いを求め合う気持ちを、抑えることなどできない。
「ぼくは君に、幸せになってほしい。だから」
「だったらおれと来い。どこにも行くな」
「承太郎……ッ」
引き寄せられる寸前で、その胸に両手をついて突っぱねた。
「ぼくでは駄目なんだ! ぼくと一緒にいれば、いつか必ず君を不幸にしてしまう。だって君は、卒業したら父親の会社を継がなくちゃあならないんだろう? いずれは跡継ぎだって……」
「それがなんだ? おれの人生だ。おれが決める」
「どうしてそんなことが言えるんだ……君は将来を約束されているんだぞ……?」
花京院にとって、この茶番は苦痛でしかない。
けれど背けていた顔をあげ、『承太郎』と視線を交わらせる『典明』の目には涙が浮かぶ。馬鹿げていると思うのに、『承太郎』の真っ直ぐな思いは花京院の胸を打つ。役に入り込んでいく心を、止められなかった。
「愛しているからだ」
『承太郎』の言葉に、息を飲む。
「ッ……!」
「出会ったときから、ずっと」
(……ぼくだって)
「ぼくだって……君が好きだ……」
(この人が好きなのに)
「君と、ずっと一緒にいたい……ッ!!」
『承太郎』の腕が今度こそ『典明』を強く抱きしめた。温かくて大きな胸板に身を寄せながら、その広い背に両腕を回す。
ふわりと鼻先をくすぐる承太郎の匂いに、風が運んでくる優しい草木の香りが混ざりあう。
長い両腕と、広い肩幅と、厚い胸板と。決して小さくはない自分が、こうしてすっぽりと包み込まれてしまう。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろうか。これが演技ではなく、真実であったなら。
現実はなにもかもが逆だった。花京院はこの『典明』のように、真っ直ぐに気持ちを伝えることはできないし、承太郎に愛される自分の姿など、想像もできない。
だからもうこれ以上、彼の傍にいるのも、想い続けているのも辛かった。
(今度こそ、最後にするんだ)
この撮影が終わったら、何もかも忘れなくては。
『承太郎』の唇を『典明』として受け止めながら、花京院は今にも逃げ出したい衝動をぐっと押し殺し、ただ静かに睫毛を震わせた。
*
撮影は日が暮れる頃にようやく終わった。
あのあと場所を変えて、ごく普通の恋人同士のように観光スポットを巡るシーンが幾つか撮られた。途中で雨に降られて中断する場面もあったが、初日の撮影は全て無事に終えることができた。
「疲れたな」
全員で食事を終えた後、自分用に宛がわれた小さなコテージに戻ると、すぐにベッドにぐったりと身を預けた。三角屋根の木目調の天井をぼんやりと見つめて、大きく息をつく。
撮影の本番はこれからだ。今日はストーリーパートだったが、明日はいよいよ濡れ場が控えている。何もかもを捨てて駆け落ちをすることを決めた二人が、濃密に愛し合うシーンを撮らなくてはいけない。
こうしている間にも、花京院の気持ちは滅入るばかりだった。
今回の相手も承太郎だと知らされたときは、正直すぐにでも逃げ出したいと思った。承太郎にはきっと、忠告も聞かずまたのこのこと金のためにやってきた、馬鹿なガキだと思われているに違いない。
証拠に、彼は撮影以外で一度も花京院と目を合わせようとしなかったし、一言も口をきかなかった。
だけどもう、そんなことを気にしても詮無い話だ。明日で全てが終わる。最後に彼に抱かれて、あとは何もかも忘れてしまうと決めたのだから。
これ以上はなにも考えたくなくて、花京院は静かに目を閉じる。まだシャワーも着替えも済んでいないが、このままじわりと込み上げる睡魔に縋ろうとした。
だがそのとき、コテージの扉がノックされる音がして目を開ける。
(なんだ……面倒臭いな……)
できれば眠ってしまいたかったのだが。
それでも無視することはできず、のろのろと起き上がると扉へ向かう。ドアノブを回し、僅かに開けるとそこから顔を覗かせたのは。
「ああ、ごめん。寝てた?」
「……いえ」
あの青いキャップをかぶった、キツネ目のスタッフだった。
彼は肩を竦めてヘラリと笑った。なんとなく、その笑い方を不快に感じる。
「何か?」
「うん、明日のことでちょっとね。変更があったから、寝る前に打ち合わせするって、監督が」
「そうですか……わかりました」
「隣のコテージ。もうみんな集まってるから、すぐ来てくれよ」
正直なところ億劫でしかなかったが、頷くより他になかった。
先に行っているからと、キャップの男は去って行った。
撮影のことで話し合いがあるのなら、承太郎も必ず来るだろう。
彼と同じ空間に身を置くことは、今の花京院には苦痛でしかなかった。できることなら今日はもう、休んでしまいたかったのだが。
「しょうがない、か」
花京院は腹を括ると乱れていた髪を軽く整え、コテージを出た。
*
外はもうすっかり陽が沈み、暗く静まり返っていた。
花京院は指示通り、すぐ隣のコテージへ向かうと正面に見据え、ふと足を止める。
目の前の建物は、花京院のコテージよりも一回り大きい作りになっていた。
この辺り一帯には同じく似たような作りの建物が、幾つか点在している。
花京院と承太郎はそれぞれ一つずつ宛がわれたが、監督とカメラマンは二人で一つを、そしてその他のスタッフたちは全員、この大きなコテージを利用することになっていた。
(少し妙だな)
ふと違和感を覚えた。
目の前に佇むコテージには大勢が集まっているはずなのだが、それにしてはしんと静まり返っている。
窓へ目を向けても灯りはなく、無人と言われても納得がいくほど人の気配が感じられない。
何かの間違いだろうかと思いかけたが、あのキャップのスタッフは確かに隣のコテージと言った。花京院のコテージはちょうど敷地の外れにあるため、隣といえばここしかないのだが。
なんとなく、胸騒ぎがした。漠然とではあるけれど、ここに近づいてはいけないような。
とはいえここで引き返すわけにはいかない。一瞬、監督とカメラマンが利用しているコテージへ行ってみようかとも思ったが、まずはスタッフの指示に従うことにした。
コンコン、と。
木製のドアを軽くノックしてみる。
反応がなければやはり監督の元へ行こうと考えていたが、すぐに
『どうぞ』
という、くぐもった男の声がした。
やはり間違っていなかったのだと、花京院はドアノブに手をかけて扉を開ける。
すると、中はやはり暗く静まり返っていた。
「……?」
確かに声もしたし、ここで間違いないはず。
けれど中に踏み込んでみても暗いばかりで、誰もいない。そのとき、背後でバタンと扉が閉まった。
「ッ!」
花京院がその音に肩を跳ねさせるのと、バチ、という何かスイッチが入るような音が聞こえたのは、同時だった。
室内が薄ぼんやりと照らされ、花京院の視線はおのずと光の出所へ向けられる。
そこには、古びたブラウン管テレビがあった。
テレビには何か映像が映し出されていて、花京院は引き寄せられるようにテレビへ向かって足を進める。
徐々に距離が狭まると、画面に映し出されている光景が幾らか鮮明になった。
真っ暗な空間に、ぼんやりと蝋燭が揺れている映像だ。
『典明』
心臓が、大きく跳ねる。
テレビから聞こえた声は男のもので、それがはっきりと花京院の名を呼んだ。
(これは、なんだ? ぼくはいったい、何を見せられている?)
何が起こっているのか、理解できなかった。だけど身体の奥深くで、これ以上は見るなともう一人の自分が叫んでいる。
見てはいけない。今すぐここから逃げろ。でなければきっと、なにか恐ろしいことが起こるぞと。
だけど視線は映し出される映像に釘づけで、金縛りにあったように身体が動かなかった。
『おまえは本当にいい子だね』
声と共に一瞬、画面が滲んだ。それからすぐに映し出されたのは。
「ッ!?」
裸でベッドに横たわる、幼い子どもの姿だった。
蝋燭の頼りない光だけに加えて、画質は相当古いのか、ガサガサと時折ノイズが走る。だけど幼い身体はいやに白く、そして痛々しく花京院の目に映った。
小さな火が揺れる度に、幼子の赤い髪が燃えるように浮かび上がる。
(これは……ぼく、か……?)
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
画面に映り込んでいるのは、幼子だけではなかった。
大人の男と分かる手がその白い胸に這わされる。その感触と声に反応して、幼い花京院はふっと微笑んだ。
そしてその唇が
『おとうさん』
と、男を呼んだ。
「おとう、さん……?」
瞬きすらできず、食い入るように見つめる先で、幼子が小枝のような両手を伸ばす。父と呼ばれた男は大きな身体で幼子に圧し掛かり、まるで恋人にするみたいに小さな唇に舌を這わせた。
幼子は懸命に男の首に両手を巻き付かせ、嫌に生々しい水音を響かせながら、応えようとしていた。
やがて男はベッドの縁に腰かけると、固定されたカメラに見せつけるようにして、露出した下半身を曝す。
『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』
問いかけに、幼い花京院は身を起こしながら濁った瞳で頷いた。
その手を男の勃起した性器に伸ばし、小さな手でゆるゆると扱きはじめる。そして、身体を倒すとその先端に躊躇なく口づけた。
口の中に納まりきらない性器に、キャンディーを舐めしゃぶるように舌を這わせる子供の頭を、大きな手がしきりに撫でる。
そうされる度に、花京院は嬉しそうに笑った。
(これ、は……なに……?)
『そう、いい子だ』
(あれは、あの人は)
義理の、父親だ。
「どうして……?」
母と結婚したはずの男。その息子共々、花京院とは深く関わりを持とうとしなかったはずの、他人も同然の家族。
それがどうして幼い自分と、あのような行為を……?
『愛してるよ典明』
びくん、と。
画面の中の小さな肩が跳ねる。同時にそれを見つめる花京院の肩も震えた。
――愛してる。
それは、あの子供にとって大好きなチェリーよりも甘い、魔法の呪文だった。
(そうだ、ぼくは)
『ぼくもすき』
(ずっとこの人に)
『おとうさんが、すき』
(抱かれていた)
花京院の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
それはずっと記憶を閉じ込めていた分厚い檻が、崩壊する音だった。
(いつも、甘い香りがしていたんだ)
いちど解き放たれた記憶の断片が、とてつもない速さで元の形を構築していく。
時々、夜中になると義父が部屋まで迎えに来た。手を引かれて連れて行かれるのは彼の部屋で、そこはいつも花のような、砂糖菓子のような不思議な香りがしていた。
その匂いを嗅ぐと心も身体もふわふわとしてきて、何も分からなくなって。自分が自分では、なくなってしまう。
『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』
義父はいつも言っていた。明日には全て忘れているからと。だから大丈夫だと。
きっとこれはとても悪いことだと、心のどこかでは知っていた。だけど彼の大丈夫だという言葉を繰り返し聞いていると、暗示をかけられたように安心した。
「あれ、やっぱり君だよね?」
そのとき、全く別の男の声がした。
未だに動けないできる花京院の背後から、ゆるりと二本の腕が伸びてくる。抱き込まれてもなお、過去へ気をとられたままの花京院は画面に釘づけで、何も反応ができなかった。
「絶対にどこかで見たと思ってたんだ。髪型も変わってるし」
花京院を呼びに来た、あの青いキャップの男だ。彼は花京院の耳に、ふっと息を吹きかけた。
「どうして俺がこんなビデオを持ってるか、知りたいか?」
「ッ……な……?」
「兄貴だよ。あんたの義理の兄貴。昔ちょっと付き合いあってさ」
花京院の義理の兄。それは今、画面の向こう側で幼い子供を蹂躙する男の、実の息子だ。
「この親父、とんだ変態だな。わざわざ息子とのセックスをカメラに収めたりして。あんたの兄貴はそれをこっそり持ち出して、ダビングしたのをダチの間で回してたんだよ」
中学の頃の話だけど、と言いながら、男はヘラリと笑った。
テレビ画面からは甲高い声が漏れ聞こえ、そのおぞましい行為を垂れ流している。獣のように腰を振る義父の下で、幼い子供が薄く微笑みながら、揺さぶられていた。
足元から這い上がる寒気と同時に、腹の奥から何かが競り上がって来る。
思わず両手で口元を押さえ、花京院は身を震わせた。
「悪い子だよなぁ、花京院くん。あれ、義理でも一応は父親だろ?」
「ち、が……」
「お母さんに隠れて、いっつもあんなエッチなことしてたんだ?」
「知らない……ぼくは、知らない……ッ」
知らなかったのだ。
あの頃の花京院には、性行為という概念すらなかった。
ただ、義父に連れられて部屋に入ると甘い匂いがした。そして気がつくと自室のベッドに戻されていて、その間の記憶は何一つ残ってはいなかった。
「あんなに嬉しそうに股開いといて、よく言うよな」
男の言葉に、息をのむ。
何もかもお見通しとばかりに、彼はなおも続けた。
「好きとか愛してるって言ってくれる相手なら、誰でもいいんだろ?」
「違う、ぼくは、そんな人間じゃ」
「責めてるわけじゃないのさ。だって君、お母さんからネグレクトされてたんだろ? 可哀想に。さぞ寂しかったろうね」
「……それも」
「そう、兄貴から聞いて知ってるよ」
「だからなんだ。こんなものを見せて、ぼくを脅しているつもりか?」
偶然の巡りあわせに、内心動揺は隠せない。だが、仮にこの男が映像を公にすると言ったところで、痛くも痒くもないのだ。
花京院はすでに数本のビデオに出演している。それらはすでに出回っているし、今さら失うものなど何もない。
だから、本当は分かっている。この男は、ただこうして花京院に精神的な揺さぶりをかけて、反応を楽しんでいるだけなのだと。
噛みつくような目で睨む花京院を、男は馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
「別に~? ただちょっと君と遊びたいだけだよ」
それを合図に、ギシギシと床板を踏みしめる音が幾つも聞こえた。
辺りを見ると、薄ぼんやりとした空間に5,6人の男たちがニヤニヤと笑みを浮かべているのが見える。今の今まで、息を殺して潜んでいたのか。彼らは全員、撮影に参加していたスタッフたちだった。
「俺たちみんな、花京院くんのこと大好きでさ」
「な……!?」
「だからいいだろ?」
逃げなくてはと。
思い立つにはあまりにも遅すぎた。幾本もの腕が一斉に伸びてきて、花京院を取り押さえると引きずるようにすぐ側のベッドへ投げ込まれる。
「ぅぐ……ッ!」
「やっとかよ。ずいぶん待ったぜ」
「さっさと服脱がしちまえって! こいつガキのくせにほんっとイイ身体してるんだよなぁ」
「いッ、やだ……いやだ、やめろ……ッ!!」
まるで揉みくちゃにするみたいに、洋服が引き剥がされていく。露わになる肌に汗ばんだ手が幾つも這わされ、花京院は激しく身を捩って抵抗を繰り返した。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からない。ただ、このまま好きにされるのだけは我慢ならなかった。逃げ場のない状況で、それでも闇雲に四肢をバタつかせる。
すると誰かが苛立ったように舌打ちをして、「うるせぇな」と吐き捨てた。
「どうせ明日にはデカいちんぽブチ込まれるんだからよ」
「そうそう、その前にオレらの粗チンでたっぷり慣らしといてあげるからねー」
「ガキの頃から使い込んでんだから、とっくにケツの穴なんかゆるゆるだろ?」
「典明く~ん、嘘ついちゃ駄目だよ~。初めてとか言って、最初の撮影の時とっくに経験済みだったんじゃ~ん」
次々と浴びせられる汚い言葉、にたにたと笑う顔。
それらが一瞬にして突き刺さり、凍てついた心が粉々に砕かれるのを感じた。
初めてだと思っていた。誰かに抱かれたのも、恋をしたのも。
だけど違っていた。この身体はとっくに男を知っていて、女性に興味を持てなかったのも、そういう身体にされていたから、だったのだろうか。
両耳を内側から塞がれたような圧迫感を覚える。そのまま尾をひくような耳鳴りがしだして、頭の中で、承太郎の声がした。
――可愛いな、君は。
初めて会った日。
承太郎にそう言われると、心も身体もふわふわと舞い上がるような気がした。
彼は花京院を優しく抱いた。綺麗だと、具合がいいと、いい子だと言って、褒めてくれた。だけど。
――それとも、ただ男が欲しかっただけか?
(……あぁ、そうか)
優しい言葉をかけられれば、相手なんかどうでもよかったのかもしれない。
それを恋だなどと勘違いしてしまっただけ、だったのかもしれない。
承太郎だから特別なのだと、承太郎だから好きになったのだと。
でも、本当は。
(誰でも、よかったんだ……)
幼い頃から愛されたくて仕方がなかった。誰かに優しくしてほしくて、堪らなかった。ずっとずっと、寂しかった。
心の内側が、真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。その闇が濃くなるほどに瞳は虚ろに濁り、全身から力が抜けていく。
「お、急におとなしくなった」
「いい子だね~典明く~ん。優しくしてあげるからね~」
「いいからとっととブチ込んじまおうぜ」
人形のように力を失くした花京院の両足を、誰かが大きく割り開いた。
それをぼんやりと他人事のように見つめる視界の端に、あの蝋燭の頼りない光を映し出すテレビ画面がちらりと掠める。
その微かな暖色は、初めて承太郎の家を訪れた夜を思い出させた。
(承太郎さん……)
なぜ怒りを感じていたのか、自分にもよくわからないと言って、不器用に触れてきた人。あの手の温もりを思い出すだけで、今もこんなに胸が苦しいのに。
(もう、いいや)
身体の奥まった場所に、誰かの勃起した性器が押し付けられる。
そのとき。
木製の扉が微かに軋んだ音を立てながら、開く音がした。
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