2025/09/17 Wed 確かめたいことがあった。 生活が苦しくてビデオに出たのかと聞いたとき、何も答えようとしない花京院の反応を、承太郎は肯定として受け止めた。 彼にはいざというとき頼れる家族もいないようだし、恵まれた家庭環境に身を置いていたとも思えない口振りだった。 あのとき、承太郎は花京院のためならば、いくらでも助けになろうと決めた。 同情からではない。単純に彼がこれ以上、他の男に抱かれるのが嫌だったからだ。もう二度とビデオに出ずに済むのならと。 連絡先を渡したのもそのためで、何かあれば必ず頼って来るだろうと思い込んでいたし、むしろそのときが待ち遠しかった。 だけどそれをせず、花京院は一度ならず二度も現場に姿を現した。 金のためでもなく、男が欲しいわけでもないのだとしたら、彼が求めるものはなんなのだろう。それは自分では与えることができないものなのか。 求められることには慣れている。だけど自ら手を伸ばそうとしたことがない承太郎は、今もなお彼にどう触れたらいいのか、分からないままだった。 だから話をしようと思った。彼に直接、聞いてみようと。 一人では埒が明かないことを、うじうじと悩み続けているのは性に合わない。 けれど訪ねていったコテージに、花京院の姿はなかった。 漠然と、胸騒ぎがした。 すぐにでも彼を見つけ出さなくてはいけない気がして、その場を離れた。承太郎はまず監督とカメラマンの元へ向かおうとしたが、そこでふと足を止めた。 花京院のコテージのすぐ隣。一回り大きな作りになっている建物から、大勢の騒ぐ声がしたのだ。 スタッフ全員がここを利用しているから、それ自体はなんらおかしくはなかった。だが、夜の闇と静けさに響くその声は、いやに承太郎の鼻につく。 妙な胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。承太郎は扉に近づき、ノブに手をかけた。 そして。 「何をしている?」 扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景は、異様なものだった。 暗い室内でつけっぱなしにされたテレビ画面には、何か映像が映し出されている。そこから漏れる音声は明らかに性交中と思われるもので、承太郎はそれを当たり前のように男女のものだと思った。 側では数人の男たちがベッドに群がっていた。彼らは突然の乱入者にハッとして顔を上げ、承太郎の存在に気がつくと顔を強張らせた。 「く、空条さん? どうかしたんですか?」 遮るように飛び出してきたのは、狐のように細く吊り上がった目をした、青いキャップをかぶった男だった。 彼は猫背で首の後ろを掻きながら、引き攣った笑みを浮かべている。 「何をしているのかと聞いている」 問いかけながらも、承太郎はテレビ画面に視線を張り付けたままだった。 古いビデオ。時々ノイズを走らせ、映像が乱れる。絡み合う二つの身体がくっきりと浮かび上がる瞬間、ぐっと目を凝らしてみた。 顔のハッキリしない男が、小さな白い身体に覆いかぶさって腰を振っていた。揺さぶられているのは……女性ではない。子供だ。 赤い、ひと房だけ長い前髪には見覚えがあった。 花京院によく似た少年。あるいは、本人か。 「いや、その……ちょっと遊んでただけですよ。あー、そうだ、なんなら一緒に」 「どけ」 「ちょ、ちょっと!?」 大きな歩幅で前へと進み出て、片手で男を退けるとベッドに近づいた。群がっていた男たちは怯えた表情で、蜘蛛の子を散らすようにさぁっと身を引く。 ベッドの上には、力なく四肢を投げ出す花京院の姿があった。その瞳は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まっていない状態だ。 彼は一糸纏わぬ姿をしていた。引き千切られたような衣服が、ベッドの下に散らばっている。 うっすらと開かれていた唇が、微かに動いた。 じょうたろうさん、と。 頭の中で、ドクン、という音がして。 耳鳴りがするのと同時に、目の前が赤く染まった。 「やだなぁ。どうしたんですか、おっかない顔しちゃって。減るもんじゃなし、商品の味見するくらい別にいいでしょ?」 キャップの男が、再び割り込むように間に入る。承太郎はその胸倉を掴み、ほぼ無意識にその顔面に拳を叩きこんでいた。一瞬の出来事だった。 「ッ!!」 悲鳴を上げる間もなく、男が吹っ飛んだ。その身体は不快な映像を垂れ流す画面にぶつかり、台の上からテレビが派手に落下する。映像が途切れ、砂嵐に切り替わった。同時に側に置かれていたビデオデッキも停止して、ガチャ、という機械音と共に、黒いテープが中から飛び出す。 ベッド付近に身を寄せ合っていた男たちが一気に青褪め、上擦った悲鳴をあげる。承太郎は血走った目で瞬きもせず、ボロ雑巾のように伸びて床に倒れる男へ近づき、尚も胸倉を掴んで引きずり上げると、拳を振り上げた。 「や、やべぇ! 誰か止めろ!!」 「空条さんッ!! あんたがこれ以上殴ったら、そいつ死んじまいますって!!」 男たちが一斉に承太郎を取り押さえようと、手をかけてきた。 承太郎はそれを歯牙にもかけず、口元に薄っすらと笑みを浮かべる。 「死ぬ? 結構なことじゃあねーか」 憎悪や殺意というものを、生まれて初めて感じていた。 「てめーらはおれを怒らせた」 このとき承太郎は、本当に相手が死んでしまっても構わないと思っていた。 どんな経緯でこういう状況が作り出されたのかなんて、今はどうでもいい。 どす黒い塊のような感情が砕けて、飛び散って、やがてその狂暴な闇は承太郎自身を飲み込んでいく。 ああ、やっぱりあのとき、歯を立てておくべきだったのだと。 月明かりに照らされた寝室で、眠っている花京院の首筋に散らされた幾つもの痕。あれを見たとき、承太郎は彼の全てを奪いたいと思った。 こんなふうに誰かの手に落ちるくらいなら、もっと早く、考えるよりも、戸惑うよりも先に、例えどんなに不器用であったとしても、手を伸ばしておくべきだった。 なぜなら、花京院に触れていいのはこの自分だけだからだ。 確信と、傲慢さと、子供じみてすらいる独占欲だけが、承太郎を突き動かす。絶対に、誰にも渡さないと。 衝動の赴くままに、ダラダラと鼻血を零して意識を失う男の顔に、今度こそ拳を突き入れようとした。 そのとき。 「なんか凄い音がしたけど、一体どうしたのー!?」 能天気な声が、室内に割って入った。 全員が息をのみ、そして凍り付いた空気が一気に解れる。 「か、監督うぅ……ッ!!」 承太郎に張り付いていた男たちが、一斉にベソをかきながら、扉から姿を現した監督に駆け寄り縋りついた。 「死ぬかと思ったです俺ぇ~~~ッ」 「あの人を止めてください監督ぅ~~ッ」 「え? え? なにこれモテ期? 承太郎、一体なにが……え、そいつ死んでる!?」 「……死んじゃあいねえ。これから殺す。そこにいる連中も全員だ」 「そりゃあ穏やかじゃないねぇ~~~ッ!!」 こんなときですらどこか呑気している監督の声と同時に、室内に灯りが灯された。のっそりと遅れて入って来たのは金髪のカメラマンで、彼は承太郎と、そしてベッドでぐったりしている裸の花京院を見て、 「とりあえず、殺人は未然に防げましたかね」 と、どこか他人事のように呟いた。 * 花京院は意識が混濁した様子で、とても話ができる状態ではなかった。 これ以上、彼をあの場に置いておきたくなかった承太郎は、その身体をシーツで包んで担ぎ上げると、一度自分のコテージに戻った。 そしてぴくりとも動かない花京院をベッドに横たえ「寝ていろ」とだけ声をかけ、すぐにスタッフ用のコテージにとんぼ返りした。 そこでは意識を取り戻した男を交え、事の経緯を全て吐かせた。 承太郎がコテージへ戻ると、シーツを身体に巻きつけたままの花京院が、ベッドの端に腰かけていた。 「花京院」 名前を呼ぶと、その肩が小さく揺れる。 ゆっくりと側へ近づいても、彼は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。 承太郎はそんな花京院を正面に見下ろし、ふわりとカーブを描く前髪に手を伸ばした。 「どうして助けたんですか?」 あと少しというところで宙に浮いたままの手を止め、ゆっくりとおろす。 その抑揚のない声が、彼の心の乾きを表しているのが伝わってくるようだった。 「ぼくは自分の意志で、ああいう行為に及んでいたのかもしれないのに」 「合意の上だったと?」 「……かもしれませんよ」 どこか自嘲的に言う彼は、音もなく腐っていく果実のようだった。荒んだ空気を隠そうともしない姿を見据え、承太郎はやれやれだ、と心の中で呟いて溜息を漏らす。 事の成り行きは、あの男から聞いている。だから花京院が匂わすような事実が存在しないことは、よく分かっていた。 「悪いが、あの野郎から大体の話は聞いてる」 「……ビデオも」 「チラッとな」 花京院は力なくふっと息を吐き出し、「そうですか」と言って笑った。諦め悟った人間特有の、干乾びた笑い方だった。 ログ調の温かみのある室内とは対照的に、落とされた沈黙がやけに寒々しい。 やがてその静寂を破ったのは、ぽつりと吐き出された花京院の声だった。 「寂しかったんですよね」 ぼうっと煙るように曇った瞳で、花京院は夢を見ているみたいにゆっくりと瞬きをしている。彼の意識は、まだあのテレビ画面の微かな光だけが点滅する、暗い部屋の中にあるのかもしれない。 だとしたらすぐにでも連れ戻したいという気持ちに、承太郎はあえて蓋をする。今はただ黙って、彼の声に耳を傾けたいと思った。 「母とは、最後まで良好な親子関係を築けませんでした。彼女が相手の男性に捨てられてしまったのは、ぼくがお腹にできてしまったせいだから」 抑揚のない声だった。 自分の内側を切り開いて、ひとつひとつ中の重石を放り捨てるように、彼は虚ろな瞳で言葉を漏らす。 「だから母はぼくを憎んでいた。いつも口癖みたいに言うんです。産みたくなかった、産まなければよかった、って。その度にぼくはいつも」 花京院は両手で自分の胸元を強く握りしめる。 「どうしたらいいか、分からなかった」 承太郎は、初めて花京院と出会った日のことを思い出していた。 彼の瞳は全て諦めたような色をしていた。だけどとても悲しそうだった。褒めて、という拙い訴えは、寂しいと言って泣いているようだった。 あのときの承太郎には、なぜかそれが分かってしまった。 「あのビデオを見せられるまで、ぼく自身忘れていたんです。でも思い出した。ぼくは寂しさを埋めてくれる人なら、誰でもよかったんだって」 「……あれは、ただの虐待だぜ」 顔を顰めながら言った承太郎に、彼はやんわりと曖昧に微笑んだ。 「だけどあの人は、何度も愛してると言ってくれた。可愛いって、いい子だって。ぼくはそれが、とても嬉しかった」 言うだけ言うと、花京院はふっと息を吐きながら「あはは」と乾いた笑い声をあげた。 「なんか痛いですね、ぼく。急に身の上話なんかしてしまって……恥ずかしいな」 取り繕ったような笑顔に、冷淡な空気が僅かに緩んだ。だが部屋の中は未だに寒々しいままだ。 彼はシーツを身体に巻きつけたまま、のろのろと立ち上がる。 「部屋に戻ります」 「待ちな」 「服、は……置いてきてしまったのかな。あれ、明日も着なくちゃいけなかったのに……困りましたね」 制止する承太郎の声をさらりと流し、花京院はぶつぶつと言いながらシーツを引きずって、逃げるように横を通り過ぎようとした。承太郎はその腕を掴んで強引に引き寄せる。 「わっ……!」 「待てと言ってる」 花京院は痛々しく眉間に皺を刻んで承太郎を見上げた。けれどすぐにぐっと目を閉じて俯いてしまう。 「どうかこれ以上、ぼくに構わないで」 辛い、と、彼は悲しげに掠れた声で漏らした。 「承太郎さんに優しくされるのは……耐えられない」 「……なぜだ」 「言ったでしょう? ぼくは優しくしてくれる相手なら誰だっていい。誰にでも縋ってしまう。だから、嫌だ」 承太郎はその言葉を聞いて、静かに溜息を漏らす。 あんな目に遭った直後だ。心を閉ざそうとする気持ちは、分からないでもない。 承太郎は事のあらましをあの男から聞いた。鼻から大量の血を流し、前歯が数本折れた状態で悶え苦しむ男は、承太郎が冷たく睨みをきかせるだけで、怯えながらペラペラと知っていることを全て吐いた。 その内容は、何もかもが胸糞悪いものでしかなかった。 花京院が深く傷つき、そしていまだに混乱しているのは分かる。 だから彼は、きっと気づいていない。 「言ってることが、矛盾しているぜ」 「……むじゅん?」 呆然と呟きながら、花京院はゆるりと顔を上げた。承太郎は片方の眉を少しだけ動かして、それを返事の代わりにする。 花京院は困惑に曇った表情で、震える息を吐き出した。 「何が、言いたいんですか」 「誰でもいいと言いながら、てめーはおれだけを拒絶する。おれにだけは優しくされたくないと言う」 「ッ……」 途端、息を飲んだ彼はひどく怯えた表情で弱々しく首を振り、「知らない」と吐き捨てると顔を背けてしまう。 「してない。矛盾なんか……」 「いいや、してるね。誰だって構わねえなら、おれに縋ったっていいはずだ。違うか?」 言葉を失くしている青白い頬に触れる。冷えた肌だった。 これを温めてやるには、どうすればいいだろう。そう考えたとき、承太郎の中にはたったひとつしか、答えがなかった。 「てめーを他の誰にも渡したくねえ」 「ッ、?」 「さっきも、おれはマジで人を殺すところだったぜ」 「じょ、承太郎さん」 「なぁ花京院。おれはこいつを、恋ってやつじゃあねえかと思っている。だとしたら、初恋だ」 顔をあげた花京院の目が丸く見開かれる。信じられないものでも見るように瞬きを繰り返す表情が、酷く幼いものに見えた。 今更のように、そういえばこいつはまだ二十歳にも満たないガキだったのだと思いだす。ともすれば、内面はもっと、幼い。 彼を初めて見たとき、承太郎はまるで迷子の子供のようだと思った。理不尽な母親の言葉に縛られたまま立ち止まる姿は、帰り道も分からず泣いている子供と同じだ。 承太郎はその孤独ごと、花京院を愛おしいと感じている自分に気づく。 彼の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。掌に感じていた肌の冷たさが、急激に熱を高めていく。 「てめーはどう思う? おれの予想で合ってると思うか?」 狡い問いかけ、かもしれない。 だけど自分たちはどこか似ているような気がしていた。 愛し方がわからない不器用な子供と、愛を知らない、迷子の子供。 花京院は酷く混乱した様子で、小さく首を左右に振る。 「言っている意味が、わかりません……だ、だってぼくは、承太郎さんに嫌われてしまったはずで、恋、なんて、そんな」 「嫌う? おれにはそんな覚えはないが」 「だ、って、だって、意味が、ぼくには、そんな価値……」 なおも驚き、信じられない様子の花京院は、今にも目を回して倒れそうなほど混乱している。やれやれだ、と呟いて、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せると至近距離でその瞳を直視した。 「自分に価値がねえと思っているなら、それはとんだお門違いというやつだぜ」 もし本当に花京院典明という人間に価値がないのなら、承太郎の中にあるこの感情も、無価値ということになってしまう。そんなのは、冗談じゃない。 「なぜなら、おれが選んだからだ。この空条承太郎がたったひとり選んだのが、花京院、てめーだからだ」 花京院の強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かる。 どこか放心した様子でその身体が傾くのを、胸に受け止めた。 空の水槽が新鮮な水で満たされたように、心の隙間が埋まるのを感じた。 ひとつ、弱々しくしゃくりあげた花京院の頬に触れ、顔を上向かせる。彼は引き結んだ唇を震わせて、目尻に溜まる涙を零すまいと堪えていた。 「だからおまえも、おれにしときな」 「ッ」 くしゃりと、花京院が顔の中心に皺を寄せた拍子に涙が零れる。 それを親指の腹を滑らせるようにして、そっと拭った。 「嘘だ、そんなの……」 堰を切ったように涙腺を崩壊させる花京院を、強く抱きしめる。花京院の身体は、まるであつらえたように承太郎の腕によく馴染んだ。この存在を知らないまま、今までよく生きてこられたものだと、これまでの人生を不可解にすら思えてしまう。 「ぼくは、都合のいい夢を見ているに決まってる」 「ここには都合のいい現実しかないぜ。さっさと受け入れな」 そう言いながら承太郎はふっと笑って、火が付いたように熱い唇にキスをする。 「言ったはずだぜ。おまえが欲しい、ってな」 ←戻る ・ 次へ→
生活が苦しくてビデオに出たのかと聞いたとき、何も答えようとしない花京院の反応を、承太郎は肯定として受け止めた。
彼にはいざというとき頼れる家族もいないようだし、恵まれた家庭環境に身を置いていたとも思えない口振りだった。
あのとき、承太郎は花京院のためならば、いくらでも助けになろうと決めた。
同情からではない。単純に彼がこれ以上、他の男に抱かれるのが嫌だったからだ。もう二度とビデオに出ずに済むのならと。
連絡先を渡したのもそのためで、何かあれば必ず頼って来るだろうと思い込んでいたし、むしろそのときが待ち遠しかった。
だけどそれをせず、花京院は一度ならず二度も現場に姿を現した。
金のためでもなく、男が欲しいわけでもないのだとしたら、彼が求めるものはなんなのだろう。それは自分では与えることができないものなのか。
求められることには慣れている。だけど自ら手を伸ばそうとしたことがない承太郎は、今もなお彼にどう触れたらいいのか、分からないままだった。
だから話をしようと思った。彼に直接、聞いてみようと。
一人では埒が明かないことを、うじうじと悩み続けているのは性に合わない。
けれど訪ねていったコテージに、花京院の姿はなかった。
漠然と、胸騒ぎがした。
すぐにでも彼を見つけ出さなくてはいけない気がして、その場を離れた。承太郎はまず監督とカメラマンの元へ向かおうとしたが、そこでふと足を止めた。
花京院のコテージのすぐ隣。一回り大きな作りになっている建物から、大勢の騒ぐ声がしたのだ。
スタッフ全員がここを利用しているから、それ自体はなんらおかしくはなかった。だが、夜の闇と静けさに響くその声は、いやに承太郎の鼻につく。
妙な胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。承太郎は扉に近づき、ノブに手をかけた。
そして。
「何をしている?」
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景は、異様なものだった。
暗い室内でつけっぱなしにされたテレビ画面には、何か映像が映し出されている。そこから漏れる音声は明らかに性交中と思われるもので、承太郎はそれを当たり前のように男女のものだと思った。
側では数人の男たちがベッドに群がっていた。彼らは突然の乱入者にハッとして顔を上げ、承太郎の存在に気がつくと顔を強張らせた。
「く、空条さん? どうかしたんですか?」
遮るように飛び出してきたのは、狐のように細く吊り上がった目をした、青いキャップをかぶった男だった。
彼は猫背で首の後ろを掻きながら、引き攣った笑みを浮かべている。
「何をしているのかと聞いている」
問いかけながらも、承太郎はテレビ画面に視線を張り付けたままだった。
古いビデオ。時々ノイズを走らせ、映像が乱れる。絡み合う二つの身体がくっきりと浮かび上がる瞬間、ぐっと目を凝らしてみた。
顔のハッキリしない男が、小さな白い身体に覆いかぶさって腰を振っていた。揺さぶられているのは……女性ではない。子供だ。
赤い、ひと房だけ長い前髪には見覚えがあった。
花京院によく似た少年。あるいは、本人か。
「いや、その……ちょっと遊んでただけですよ。あー、そうだ、なんなら一緒に」
「どけ」
「ちょ、ちょっと!?」
大きな歩幅で前へと進み出て、片手で男を退けるとベッドに近づいた。群がっていた男たちは怯えた表情で、蜘蛛の子を散らすようにさぁっと身を引く。
ベッドの上には、力なく四肢を投げ出す花京院の姿があった。その瞳は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まっていない状態だ。
彼は一糸纏わぬ姿をしていた。引き千切られたような衣服が、ベッドの下に散らばっている。
うっすらと開かれていた唇が、微かに動いた。
じょうたろうさん、と。
頭の中で、ドクン、という音がして。
耳鳴りがするのと同時に、目の前が赤く染まった。
「やだなぁ。どうしたんですか、おっかない顔しちゃって。減るもんじゃなし、商品の味見するくらい別にいいでしょ?」
キャップの男が、再び割り込むように間に入る。承太郎はその胸倉を掴み、ほぼ無意識にその顔面に拳を叩きこんでいた。一瞬の出来事だった。
「ッ!!」
悲鳴を上げる間もなく、男が吹っ飛んだ。その身体は不快な映像を垂れ流す画面にぶつかり、台の上からテレビが派手に落下する。映像が途切れ、砂嵐に切り替わった。同時に側に置かれていたビデオデッキも停止して、ガチャ、という機械音と共に、黒いテープが中から飛び出す。
ベッド付近に身を寄せ合っていた男たちが一気に青褪め、上擦った悲鳴をあげる。承太郎は血走った目で瞬きもせず、ボロ雑巾のように伸びて床に倒れる男へ近づき、尚も胸倉を掴んで引きずり上げると、拳を振り上げた。
「や、やべぇ! 誰か止めろ!!」
「空条さんッ!! あんたがこれ以上殴ったら、そいつ死んじまいますって!!」
男たちが一斉に承太郎を取り押さえようと、手をかけてきた。
承太郎はそれを歯牙にもかけず、口元に薄っすらと笑みを浮かべる。
「死ぬ? 結構なことじゃあねーか」
憎悪や殺意というものを、生まれて初めて感じていた。
「てめーらはおれを怒らせた」
このとき承太郎は、本当に相手が死んでしまっても構わないと思っていた。
どんな経緯でこういう状況が作り出されたのかなんて、今はどうでもいい。
どす黒い塊のような感情が砕けて、飛び散って、やがてその狂暴な闇は承太郎自身を飲み込んでいく。
ああ、やっぱりあのとき、歯を立てておくべきだったのだと。
月明かりに照らされた寝室で、眠っている花京院の首筋に散らされた幾つもの痕。あれを見たとき、承太郎は彼の全てを奪いたいと思った。
こんなふうに誰かの手に落ちるくらいなら、もっと早く、考えるよりも、戸惑うよりも先に、例えどんなに不器用であったとしても、手を伸ばしておくべきだった。
なぜなら、花京院に触れていいのはこの自分だけだからだ。
確信と、傲慢さと、子供じみてすらいる独占欲だけが、承太郎を突き動かす。絶対に、誰にも渡さないと。
衝動の赴くままに、ダラダラと鼻血を零して意識を失う男の顔に、今度こそ拳を突き入れようとした。
そのとき。
「なんか凄い音がしたけど、一体どうしたのー!?」
能天気な声が、室内に割って入った。
全員が息をのみ、そして凍り付いた空気が一気に解れる。
「か、監督うぅ……ッ!!」
承太郎に張り付いていた男たちが、一斉にベソをかきながら、扉から姿を現した監督に駆け寄り縋りついた。
「死ぬかと思ったです俺ぇ~~~ッ」
「あの人を止めてください監督ぅ~~ッ」
「え? え? なにこれモテ期? 承太郎、一体なにが……え、そいつ死んでる!?」
「……死んじゃあいねえ。これから殺す。そこにいる連中も全員だ」
「そりゃあ穏やかじゃないねぇ~~~ッ!!」
こんなときですらどこか呑気している監督の声と同時に、室内に灯りが灯された。のっそりと遅れて入って来たのは金髪のカメラマンで、彼は承太郎と、そしてベッドでぐったりしている裸の花京院を見て、
「とりあえず、殺人は未然に防げましたかね」
と、どこか他人事のように呟いた。
*
花京院は意識が混濁した様子で、とても話ができる状態ではなかった。
これ以上、彼をあの場に置いておきたくなかった承太郎は、その身体をシーツで包んで担ぎ上げると、一度自分のコテージに戻った。
そしてぴくりとも動かない花京院をベッドに横たえ「寝ていろ」とだけ声をかけ、すぐにスタッフ用のコテージにとんぼ返りした。
そこでは意識を取り戻した男を交え、事の経緯を全て吐かせた。
承太郎がコテージへ戻ると、シーツを身体に巻きつけたままの花京院が、ベッドの端に腰かけていた。
「花京院」
名前を呼ぶと、その肩が小さく揺れる。
ゆっくりと側へ近づいても、彼は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
承太郎はそんな花京院を正面に見下ろし、ふわりとカーブを描く前髪に手を伸ばした。
「どうして助けたんですか?」
あと少しというところで宙に浮いたままの手を止め、ゆっくりとおろす。
その抑揚のない声が、彼の心の乾きを表しているのが伝わってくるようだった。
「ぼくは自分の意志で、ああいう行為に及んでいたのかもしれないのに」
「合意の上だったと?」
「……かもしれませんよ」
どこか自嘲的に言う彼は、音もなく腐っていく果実のようだった。荒んだ空気を隠そうともしない姿を見据え、承太郎はやれやれだ、と心の中で呟いて溜息を漏らす。
事の成り行きは、あの男から聞いている。だから花京院が匂わすような事実が存在しないことは、よく分かっていた。
「悪いが、あの野郎から大体の話は聞いてる」
「……ビデオも」
「チラッとな」
花京院は力なくふっと息を吐き出し、「そうですか」と言って笑った。諦め悟った人間特有の、干乾びた笑い方だった。
ログ調の温かみのある室内とは対照的に、落とされた沈黙がやけに寒々しい。
やがてその静寂を破ったのは、ぽつりと吐き出された花京院の声だった。
「寂しかったんですよね」
ぼうっと煙るように曇った瞳で、花京院は夢を見ているみたいにゆっくりと瞬きをしている。彼の意識は、まだあのテレビ画面の微かな光だけが点滅する、暗い部屋の中にあるのかもしれない。
だとしたらすぐにでも連れ戻したいという気持ちに、承太郎はあえて蓋をする。今はただ黙って、彼の声に耳を傾けたいと思った。
「母とは、最後まで良好な親子関係を築けませんでした。彼女が相手の男性に捨てられてしまったのは、ぼくがお腹にできてしまったせいだから」
抑揚のない声だった。
自分の内側を切り開いて、ひとつひとつ中の重石を放り捨てるように、彼は虚ろな瞳で言葉を漏らす。
「だから母はぼくを憎んでいた。いつも口癖みたいに言うんです。産みたくなかった、産まなければよかった、って。その度にぼくはいつも」
花京院は両手で自分の胸元を強く握りしめる。
「どうしたらいいか、分からなかった」
承太郎は、初めて花京院と出会った日のことを思い出していた。
彼の瞳は全て諦めたような色をしていた。だけどとても悲しそうだった。褒めて、という拙い訴えは、寂しいと言って泣いているようだった。
あのときの承太郎には、なぜかそれが分かってしまった。
「あのビデオを見せられるまで、ぼく自身忘れていたんです。でも思い出した。ぼくは寂しさを埋めてくれる人なら、誰でもよかったんだって」
「……あれは、ただの虐待だぜ」
顔を顰めながら言った承太郎に、彼はやんわりと曖昧に微笑んだ。
「だけどあの人は、何度も愛してると言ってくれた。可愛いって、いい子だって。ぼくはそれが、とても嬉しかった」
言うだけ言うと、花京院はふっと息を吐きながら「あはは」と乾いた笑い声をあげた。
「なんか痛いですね、ぼく。急に身の上話なんかしてしまって……恥ずかしいな」
取り繕ったような笑顔に、冷淡な空気が僅かに緩んだ。だが部屋の中は未だに寒々しいままだ。
彼はシーツを身体に巻きつけたまま、のろのろと立ち上がる。
「部屋に戻ります」
「待ちな」
「服、は……置いてきてしまったのかな。あれ、明日も着なくちゃいけなかったのに……困りましたね」
制止する承太郎の声をさらりと流し、花京院はぶつぶつと言いながらシーツを引きずって、逃げるように横を通り過ぎようとした。承太郎はその腕を掴んで強引に引き寄せる。
「わっ……!」
「待てと言ってる」
花京院は痛々しく眉間に皺を刻んで承太郎を見上げた。けれどすぐにぐっと目を閉じて俯いてしまう。
「どうかこれ以上、ぼくに構わないで」
辛い、と、彼は悲しげに掠れた声で漏らした。
「承太郎さんに優しくされるのは……耐えられない」
「……なぜだ」
「言ったでしょう? ぼくは優しくしてくれる相手なら誰だっていい。誰にでも縋ってしまう。だから、嫌だ」
承太郎はその言葉を聞いて、静かに溜息を漏らす。
あんな目に遭った直後だ。心を閉ざそうとする気持ちは、分からないでもない。
承太郎は事のあらましをあの男から聞いた。鼻から大量の血を流し、前歯が数本折れた状態で悶え苦しむ男は、承太郎が冷たく睨みをきかせるだけで、怯えながらペラペラと知っていることを全て吐いた。
その内容は、何もかもが胸糞悪いものでしかなかった。
花京院が深く傷つき、そしていまだに混乱しているのは分かる。
だから彼は、きっと気づいていない。
「言ってることが、矛盾しているぜ」
「……むじゅん?」
呆然と呟きながら、花京院はゆるりと顔を上げた。承太郎は片方の眉を少しだけ動かして、それを返事の代わりにする。
花京院は困惑に曇った表情で、震える息を吐き出した。
「何が、言いたいんですか」
「誰でもいいと言いながら、てめーはおれだけを拒絶する。おれにだけは優しくされたくないと言う」
「ッ……」
途端、息を飲んだ彼はひどく怯えた表情で弱々しく首を振り、「知らない」と吐き捨てると顔を背けてしまう。
「してない。矛盾なんか……」
「いいや、してるね。誰だって構わねえなら、おれに縋ったっていいはずだ。違うか?」
言葉を失くしている青白い頬に触れる。冷えた肌だった。
これを温めてやるには、どうすればいいだろう。そう考えたとき、承太郎の中にはたったひとつしか、答えがなかった。
「てめーを他の誰にも渡したくねえ」
「ッ、?」
「さっきも、おれはマジで人を殺すところだったぜ」
「じょ、承太郎さん」
「なぁ花京院。おれはこいつを、恋ってやつじゃあねえかと思っている。だとしたら、初恋だ」
顔をあげた花京院の目が丸く見開かれる。信じられないものでも見るように瞬きを繰り返す表情が、酷く幼いものに見えた。
今更のように、そういえばこいつはまだ二十歳にも満たないガキだったのだと思いだす。ともすれば、内面はもっと、幼い。
彼を初めて見たとき、承太郎はまるで迷子の子供のようだと思った。理不尽な母親の言葉に縛られたまま立ち止まる姿は、帰り道も分からず泣いている子供と同じだ。
承太郎はその孤独ごと、花京院を愛おしいと感じている自分に気づく。
彼の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。掌に感じていた肌の冷たさが、急激に熱を高めていく。
「てめーはどう思う? おれの予想で合ってると思うか?」
狡い問いかけ、かもしれない。
だけど自分たちはどこか似ているような気がしていた。
愛し方がわからない不器用な子供と、愛を知らない、迷子の子供。
花京院は酷く混乱した様子で、小さく首を左右に振る。
「言っている意味が、わかりません……だ、だってぼくは、承太郎さんに嫌われてしまったはずで、恋、なんて、そんな」
「嫌う? おれにはそんな覚えはないが」
「だ、って、だって、意味が、ぼくには、そんな価値……」
なおも驚き、信じられない様子の花京院は、今にも目を回して倒れそうなほど混乱している。やれやれだ、と呟いて、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せると至近距離でその瞳を直視した。
「自分に価値がねえと思っているなら、それはとんだお門違いというやつだぜ」
もし本当に花京院典明という人間に価値がないのなら、承太郎の中にあるこの感情も、無価値ということになってしまう。そんなのは、冗談じゃない。
「なぜなら、おれが選んだからだ。この空条承太郎がたったひとり選んだのが、花京院、てめーだからだ」
花京院の強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
どこか放心した様子でその身体が傾くのを、胸に受け止めた。
空の水槽が新鮮な水で満たされたように、心の隙間が埋まるのを感じた。
ひとつ、弱々しくしゃくりあげた花京院の頬に触れ、顔を上向かせる。彼は引き結んだ唇を震わせて、目尻に溜まる涙を零すまいと堪えていた。
「だからおまえも、おれにしときな」
「ッ」
くしゃりと、花京院が顔の中心に皺を寄せた拍子に涙が零れる。
それを親指の腹を滑らせるようにして、そっと拭った。
「嘘だ、そんなの……」
堰を切ったように涙腺を崩壊させる花京院を、強く抱きしめる。花京院の身体は、まるであつらえたように承太郎の腕によく馴染んだ。この存在を知らないまま、今までよく生きてこられたものだと、これまでの人生を不可解にすら思えてしまう。
「ぼくは、都合のいい夢を見ているに決まってる」
「ここには都合のいい現実しかないぜ。さっさと受け入れな」
そう言いながら承太郎はふっと笑って、火が付いたように熱い唇にキスをする。
「言ったはずだぜ。おまえが欲しい、ってな」
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