2025/09/17 Wed 昼休みに入ってすぐ、教室に大勢の女子たちの悲鳴がこだました。 「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」 「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」 「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」 「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」 「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」 「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」 女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。 そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。 花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。 なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。 完全に嫌な予感しかしない。 (来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!) 頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。 が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。 「花京院」 そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。 来い、と。案の定、そういうことらしい。 (うわあああああ!!) その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。 * 「こ、困りますよ! ああいうのは!!」 人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。 当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。 「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」 「保健室にいねえおまえが悪い」 「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」 承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。 「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」 「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」 晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。 * それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。 晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。 使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。 そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。 (人気者は辛いよ、と言ったところかな) 承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。 それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。 (誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど) そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。 毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。 流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。 ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。 あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。 とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。 そして今。 花京院は体育館倉庫にいる。 今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。 倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。 花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。 厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。 (少し、慣れたかな) こんな風に、承太郎と過ごすことに。 まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。 どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。 「熱烈だな」 「……へ?」 承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。 「ッ!」 一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。 「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」 「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」 「おれだって人間なんだぜ」 「そうか、ごめん」 そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。 恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。 一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。 そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。 「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」 「……そ、それはどうも、ありがとう」 「自分で買ったのか」 「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」 ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。 だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。 「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」 「生きている証?」 こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。 「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」 嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。 自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。 耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。 だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。 厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。 生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。 「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」 そこまで話して、ハッとする。 「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」 途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。 熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。 「じょ、じょうたろ」 「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」 魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。 「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」 友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。 花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。 「そ、それより、君の方はどうなんだ」 「おれがなんだって?」 「だから、その……」 花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。 昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。 「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」 承太郎は。 屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。 今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。 この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。 女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。 例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。 だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。 だけど。 (それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?) 承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか? あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。 もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。 現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。 だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。 もしそうなのだとしたら。 (なんか、やだな……) 「そんなにあの女医が気になるか?」 いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。 「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」 そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。 今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。 これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。 (そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない) 承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。 後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。 「すまない……さっきのは、忘れてくれ」 「てめーだけだ」 「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」 「おれにはてめーだけだぜ。花京院」 ぽかん、と。 大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。 承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。 それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。 真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。 「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」 瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。 そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。 しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。 「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」 拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。 「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」 「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」 「褒めてんだろーが」 「どこがだッ!!」 やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。 花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。 本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。 だけど。 ――てめーだけだぜ。花京院。 (なにを期待しているんだろう) 嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。 例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。 (ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか) 少しずつ、少しずつ。 欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。 * それからさらに数日が経過した。 「あれ、今日はぼくが一番か」 昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。 珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。 その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。 (弁当を持参するのは、久しぶりだ) 中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。 承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。 だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。 今朝はいつもより早く目が覚めた。 キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。 だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。 (玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……) 専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。 そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。 我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。 母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。 (別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって) 心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。 誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。 「ふぅ……こんなもんかな……」 満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。 (お、乙女かッ!!!) 昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。 自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。 (あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?) いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。 そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。 いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。 それは十分に理解しているのだが。 (浮かれてる、よな……完全に) てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。 もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。 どうするだろう。どう思うのだろうか。 承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。 だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。 今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。 承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。 彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。 「それにしても遅いな」 自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。 耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。 何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。 今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。 「…………」 ふと、嫌な予感がした。 脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。 (行ってみる、か……?) 少し、様子を見るだけ。 そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。 やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。 * 行って、何もなければそれでいい。 何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。 承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。 もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。 頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。 何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。 本当は信じたいのではなく。 花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。 恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。 そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。 もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。 そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。 だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。 いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。 だから花京院は思い知ることになる。 そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。 特別な感情を抱くはずが、ないということを。 辿り着いた保健室のドア。 一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。 寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。 「じょう、たろう……?」 時間が、止まったような気がした。 その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。 「か、花京院くん……!?」 扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。 花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。 (キスを、していた) 承太郎と、女医。 二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。 あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。 面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。 それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。 「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」 女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。 だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。 どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。 心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。 「ッ……!」 何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。 「待て花京院ッ!!」 承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。 * どうしようもなく、打ちのめされていた。 呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。 廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。 立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。 途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。 『てめーだけだぜ。花京院』 承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。 からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。 (どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ) 勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。 (分かっていた。分かっていたんだ) それなのに。 (ぼくは) 本当は最初から。 保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。 この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。 けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。 だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。 恋だなんて。 そんな感情、知りたくなかった。 認めたくなかった。こんな、最悪の形で。 (好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……) いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。 大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。 キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。 ああ、なんて惨めなんだろう。 噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。 「花京院ッ!!」 「ッ!?」 強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。 勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。 あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。 「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」 「じょう、ッ、たろ」 校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。 いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。 激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。 「なんの、用だい」 「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」 「勘違い……?」 そうだ。自分は勘違いをしていた。 今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。 だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。 「離してくれ」 「誤解だ花京院」 「ふざけるなッ!」 あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。 花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。 「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」 「言ったはずだぜ。てめーだけだと」 「ッ……!」 頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。 どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。 母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。 「ッ、花京院?」 バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。 「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」 「おい、話を」 「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」 その先は続かなかった。 言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。 これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。 憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。 (もう、ぐちゃぐちゃだ) こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。 いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。 ←戻る ・ 次へ→
「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」
「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」
「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」
「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」
「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」
「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」
女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。
そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。
花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。
なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。
完全に嫌な予感しかしない。
(来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!)
頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。
が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。
「花京院」
そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。
来い、と。案の定、そういうことらしい。
(うわあああああ!!)
その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。
*
「こ、困りますよ! ああいうのは!!」
人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。
当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。
「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」
「保健室にいねえおまえが悪い」
「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」
承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。
「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」
「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」
晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。
*
それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。
晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。
使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。
そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。
(人気者は辛いよ、と言ったところかな)
承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。
それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。
(誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど)
そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。
毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。
流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。
ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。
あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。
とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。
そして今。
花京院は体育館倉庫にいる。
今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。
倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。
花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。
厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。
(少し、慣れたかな)
こんな風に、承太郎と過ごすことに。
まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。
どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。
「熱烈だな」
「……へ?」
承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。
「ッ!」
一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。
「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」
「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」
「おれだって人間なんだぜ」
「そうか、ごめん」
そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。
恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。
一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。
そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。
「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」
「……そ、それはどうも、ありがとう」
「自分で買ったのか」
「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」
ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。
だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。
「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」
「生きている証?」
こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。
「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」
嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。
自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。
耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。
だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。
厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。
生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。
「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」
そこまで話して、ハッとする。
「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」
途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。
熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。
「じょ、じょうたろ」
「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」
魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。
「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」
友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。
花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。
「そ、それより、君の方はどうなんだ」
「おれがなんだって?」
「だから、その……」
花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。
昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。
「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」
承太郎は。
屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。
今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。
この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。
女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。
例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。
だけど。
(それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?)
承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか?
あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。
もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。
現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。
だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。
もしそうなのだとしたら。
(なんか、やだな……)
「そんなにあの女医が気になるか?」
いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。
「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」
そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。
今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。
これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。
(そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない)
承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。
後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。
「すまない……さっきのは、忘れてくれ」
「てめーだけだ」
「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」
「おれにはてめーだけだぜ。花京院」
ぽかん、と。
大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。
承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。
それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。
「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」
瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。
そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。
しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。
「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」
拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。
「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」
「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」
「褒めてんだろーが」
「どこがだッ!!」
やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。
花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。
本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。
だけど。
――てめーだけだぜ。花京院。
(なにを期待しているんだろう)
嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。
例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。
(ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか)
少しずつ、少しずつ。
欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。
*
それからさらに数日が経過した。
「あれ、今日はぼくが一番か」
昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。
珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。
その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。
(弁当を持参するのは、久しぶりだ)
中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。
承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。
だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。
今朝はいつもより早く目が覚めた。
キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。
だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。
(玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……)
専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。
そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。
我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。
母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。
(別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって)
心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。
誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。
「ふぅ……こんなもんかな……」
満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。
(お、乙女かッ!!!)
昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。
自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。
(あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?)
いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。
そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。
いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。
それは十分に理解しているのだが。
(浮かれてる、よな……完全に)
てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。
もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。
どうするだろう。どう思うのだろうか。
承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。
だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。
今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。
承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。
彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。
「それにしても遅いな」
自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。
耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。
何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。
今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。
「…………」
ふと、嫌な予感がした。
脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。
(行ってみる、か……?)
少し、様子を見るだけ。
そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。
やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。
*
行って、何もなければそれでいい。
何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。
承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。
もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。
頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。
何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。
本当は信じたいのではなく。
花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。
恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。
そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。
もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。
そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。
だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。
いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。
だから花京院は思い知ることになる。
そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。
特別な感情を抱くはずが、ないということを。
辿り着いた保健室のドア。
一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。
寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。
「じょう、たろう……?」
時間が、止まったような気がした。
その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。
「か、花京院くん……!?」
扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。
花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。
(キスを、していた)
承太郎と、女医。
二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。
あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。
面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。
それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。
「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」
女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。
だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。
どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。
心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。
「ッ……!」
何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。
「待て花京院ッ!!」
承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。
*
どうしようもなく、打ちのめされていた。
呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。
廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。
立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。
途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。
『てめーだけだぜ。花京院』
承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。
からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。
(どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ)
勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
(分かっていた。分かっていたんだ)
それなのに。
(ぼくは)
本当は最初から。
保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。
この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。
けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。
だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。
恋だなんて。
そんな感情、知りたくなかった。
認めたくなかった。こんな、最悪の形で。
(好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……)
いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。
大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。
キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。
ああ、なんて惨めなんだろう。
噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。
「花京院ッ!!」
「ッ!?」
強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。
勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。
あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。
「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」
「じょう、ッ、たろ」
校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。
いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。
激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。
「なんの、用だい」
「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」
「勘違い……?」
そうだ。自分は勘違いをしていた。
今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。
だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。
「離してくれ」
「誤解だ花京院」
「ふざけるなッ!」
あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。
花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。
「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」
「言ったはずだぜ。てめーだけだと」
「ッ……!」
頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。
どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。
母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。
「ッ、花京院?」
バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。
「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」
「おい、話を」
「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」
その先は続かなかった。
言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。
これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。
憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。
(もう、ぐちゃぐちゃだ)
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。
いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。
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