2025/09/17 Wed そのあとの承太郎の甲斐甲斐しい世話の焼きようと言ったらなかった。 花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。 花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。 「あの、承太郎」 「ん」 「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」 承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。 いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。 とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。 しかも、一体いまは何時だろうか。 気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。 「じょ、承太郎ってば」 身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。 「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」 「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」 この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。 だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。 「なんだ、怒ってんのか」 「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」 俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。 「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」 「……うん」 「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」 ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。 承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。 その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。 彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。 だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。 同時に、自分に嫌悪感が沸いた。 (承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い) 一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。 信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。 花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。 優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。 思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。 それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。 「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」 気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。 「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」 「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」 「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」 「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」 「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」 大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。 「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」 「ピアス?」 「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」 言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。 「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」 その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。 「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」 花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。 一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。 「これで足りたかよ。言葉」 「…………」 花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。 だから少し、泣きたくなった。 承太郎は優しかった。最初からずっと。 強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。 (鈍いなぁ、ぼくは) 不器用なのか器用なのか。 承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。 「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」 「言うじゃあねえか」 つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。 彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。 「承太郎、もうそろそろ帰ろう」 「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」 「な、なに?」 「あの弁当はてめーの手作りか?」 「へ……?」 弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。 そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。 「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」 おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。 「え!? 食べたのか!?」 「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」 「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」 「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」 「そんなことは分かってる」 で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。 「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」 「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」 「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」 「……卵焼きだけだよ」 なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。 「どうりでやたらと甘かったわけだ」 甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。 * 「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」 朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。 「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」 「そうかしら?」 「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」 「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」 「あっ、あ、すみません!」 動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。 花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。 (どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!) 心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。 あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。 味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。 熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。 「なに? 母さん」 「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」 母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。 「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」 「ぼくが?」 「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」 「生まれてみたら、男だったんですね」 もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。 「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」 「そうだったんですか」 「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」 その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。 「女の子が生まれるか分からないのに?」 「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」 母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。 (ずっと諦められているのだと思っていたから) 入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。 それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。 父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。 違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。 (ごめんなさい) 花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。 きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。 それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。 「ピアス」 「なぁに? 典明さん」 「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」 キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。 目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。 これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。 はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。 「典明さん」 「はい」 「フライパン、黒こげですね?」 「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」 花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。 * (大失敗だ……) 学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。 幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。 が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。 (承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど) それにしても。 花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。 同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。 中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。 (なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……) とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。 かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。 そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。 「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」 「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」 「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」 (やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎) セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。 学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。 (一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな) 本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。 どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。 そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。 「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」 そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。 承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして 「花京院!」 と、こちらを見て名前を呼んだ。 「え!?」 突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。 承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。 (うわぁ……凄い睨まれてないか……?) 花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。 「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」 「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」 なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。 しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。 (あぁ……居心地が悪い……) やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。 「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」 承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。 その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。 「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」 「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」 「それは遠慮しておく」 保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。 「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」 「…………」 「な、なんだよ」 黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。 だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。 「三度目なら、とっくにあったぜ」 「……は?」 どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。 「なんの話だ?」 「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」 「はい?」 「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」 「な……」 なんだと……? 「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」 「途中まではな」 そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。 「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」 「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」 「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」 「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」 「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」 こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。 花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。 なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。 絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。 いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。 「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」 「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」 「言うかッ!!」 「てめーは一体なにが不満なんだ」 分かっていない。この男は何も分かっていない。 これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。 「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」 「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」 「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」 ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。 「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」 「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」 涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。 「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」 やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。 そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。 ←戻る ・ 次へ→
花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
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