2025/09/18 Thu 奇妙なゲームが始まった。 その口火は偽者のピストルによって切って落とされたのだ。 だが、だからといって自分がそれにまんまと興じることはなかった。 黒鋼はもとより、例えばその手の台詞を実際の恋人相手にだって、滅多なことで口にしたことがない。 それでも、ある程度の明確な理由付けにはなったかもしれない。 恋人でもなければ友達というわけでもない、ただの教師仲間である彼と続けていた不毛な関係に、名前をつけることがようやく出来た。 そう、これは『ゲーム』であり、そして、ただの『遊び』だ。 「大好きだよ黒様。誰よりも君を愛してる」 それなのに、だ。 蕩けそうに瞳を潤ませて、頬を染めながら熱っぽく囁くファイに口付けを乞われると、その明確な理由が一瞬、揺らぐ。 これは本当に演技なのか? これほどまでに熱烈に、実際は好きでもない相手に愛を囁くなんて真似が、本当に出来るものなのか? ただの遊びに、不覚にも心臓を高鳴らせている自分は一体なんなのだろう? 黒鋼はこの男ほど器用には出来ていないのだ。むしろ不器用な性質である。 ファイがほんの少しだけ背伸びをして唇を突き出してくるのを、黒鋼は首に絡み付いていた腕ごと払いのけた。 「てめぇ、ここがどこだか分かってんのか」 「学校の屋上だねぇ」 「場所を考えろ、場所を!」 「つまんないなぁ。学校だろうがどこだろうが、隠れてするなら別にいいじゃない」 「よかねぇよ!!」 「今時このくらい小学生でもやってるのに」 怒りで頭に血が上っているのか、それとも先刻のファイの熱烈な告白に勘違いをしそうになってるのか、とにもかくにも顔が赤くなってはいないかと黒鋼は慌てて彼に背を向けた。 「そんなことより」 「んー?」 腕を組んだ黒鋼は、首だけを僅かにファイの方へ向けながらジロリと睨みつける。 「てめぇの夢は料理人になることじゃなかったのかよ」 「へ? なんのこと?」 きょとんとして小首を傾げるファイに、黒鋼は先ほど耳にした会話の内容を思い出していた。 * 「先生って、子供の頃から保健の先生になるのが夢だったんですか~?」 それは見慣れた光景だった。 職員室の出入り口付近で、ファイが女子生徒数名に捕まっているのに気がついた。 だが会話の内容まで耳に入ってきたのは、全くの偶然だった。 「そうだね。学校の先生にはなりたかったよ。でも、保健室の先生になるのが夢ではなかった、かな?」 そう言って柔らかに微笑むファイに、女子生徒達は頬をぽっと赤らめて見惚れた。 内心ツバを吐きたい衝動に駆られた黒鋼だったが、それよりもファイの答えの方が引っかかった。 確か肉じゃがを作った夜に、あの男は料理人だか冒険家だかになりたかったと言っていたのではなかったか。無人島が云々という、くだらない理由付きで語っていたはずだった。 「じゃあ、どうして今は保健の先生なんですか?」 「うん。実はボク、動物のお医者さんにもなりたかったんだ。でも、それには動物を解剖しなくちゃいけないって分かって、諦めちゃったんだよ」 「あ、それで間を縫ったカンジですかぁ?」 「そう。そんなカンジ、だよ」 その微笑みは、まさに『王子様』と呼ばれるにふさわしいものだった。 * 「思い出したら胸焼けしてきやがったぜ」 「あ、もしかしてさっきの女の子たちとの話、聞こえてたー?」 「そうだ。それ。どこまで白々しいんだてめぇは。無人島に行くのが夢だったんじゃねぇのか」 呆れた顔をしてファイと向かい合った。 けれど、彼は目をパチクリとさせながら小首を傾げている。 「オレ、そんなこと言ったっけかなぁ? そもそも無人島になんて行ってどうするの? 危ないじゃん」 「あぁ? てめぇホラ吹きなだけでなく鳥頭だったのかよ」 「うわ、そんな言い方ってある? はい傷ついたー。オレのハート傷ついたー」 「付き合いきれねぇな」 つん、とそっぽを向いて唇を尖らせるファイに、黒鋼は背を向けるとそのまま屋上を後にした。 *** 本屋に足を運ぶなど、学生時代以来のことだった。 アパート及び高校からほど近い大型書店に、黒鋼は仕事帰りに立ち寄っていた。 店内では見知った顔の生徒と擦れ違うこともあり、本屋と黒鋼という図が彼らにとってもよほど珍しいのか、目を丸くしながらペコリと頭を下げられた。 おかげであまりいい心地がしない。あまり長居をしたいとも思えなくなった。 店員が、柄の悪い大男に怯えた表情を見せながら脇を通り抜けてゆく。 「くそ、なんだって俺が……」 文句を垂れてみたものの、これは他の誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思でここに足を運んだのだが。 黒鋼はともかく目当てのものを探すべく、所狭しと並ぶ本棚を見渡した。ジャンルに目星をつけて、そのゾーンへと足を向ける。 そして、幾つもある似たようなタイトルの中から、中身も確認せずに数冊を取ると、とっととレジを済ませて本屋を後にした。 エアコンのよく効いた店内から出ると、夏の外気が陽が沈んでもなおじっとりと肌を撫でる。 かなりの厚さになっている紙袋の中身が、やたらと重いものに感じた。 ただでさえ大きな歩幅で全速力で歩けば、自宅アパートに到着するのはあっという間だった。 途中で馴染みの黒猫と遭遇したが、チラリと目を合わせるだけで構ってやるのは後回しにした。 *** 「さっぱりだな」 纏わり付くような風が不快で、扇風機を止めながら黒鋼は手にしていた本を畳に放り投げた。 久しぶりに本など真剣に眺めたものだから、なんだか頭がぼんやりしている。 黒鋼は投げ出されているそれらを横目で睨む。 専門的な用語が並べば、それだけで解説でもない限り完全に理解することは不可能だ。こんなことなら、いっそ貯金でも崩してパソコンの一つでも購入しておくべきだったか。 かといって携帯を使ってでも調べる気にはなれなかった。なにしろ、黒鋼の手は身体と同様に平均よりも大きい。チマチマとした画面を見ながらチマチマとボタンを押すなど、ハッキリ言って面倒だ。メールを打つのでさえ実際のところ億劫で仕方がない。 ウンザリして、もはや本を手に取る気力もない。 中身はもちろん、価格さえ確認しないままにレジへ向かったせいで、給料日前の安月給にはそれなりに痛い出費となった。なおのこと腹立たしくて、黒鋼は立ち上がると台所へ向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。 その場で開けて、自棄になって半分ほどを一気に飲み干す。少し、立ちくらみがした。 黒鋼が購入した数冊の書籍は、どれも解離性同一性障害に関するものだった。 我ながら本当に愚かなことをしていると思う。ファイの多面性を、多重人格なのではないかと疑った結果が、この体たらくだった。 黒鋼は自分の腰の高さまでしかない冷蔵庫に体重をかけた。手の中にある缶の中身が、耳を澄ませばしゅわしゅわと音を立てているのが聞こえる。 「なにやってんだ一体……」 単に幾重にも裏表がある、ペテン師のような男だということは分かっていたはずだった。 だが、昼間の屋上で将来の夢についての食い違いを話している折、あの男は本当に忘れてしまっているようにも思えた。あるいはまるで知らないか、そのいずれかに。 まさにそれと同じ日から、くだらないゲームが始まったというのに。 少なくとも彼は黒鋼の前では猫をかぶらない。嘘をついたり、とぼけたりする必要はないはずだった。 だが、彼が演技派であることは重々承知しているはずだった。それなのに、気がつけばファイのことを気にかけている。もし万が一、あの豹変が本人にもどうにもならないところで起こっているのだとしたら。 「……だから何だってんだ」 そんな己の思考に咄嗟に冷めた突っ込みを入れた。 だからといって、自分に何が出来るというのか。何も出来やしないのではないか。 「つーか、何かしてやるつもりだったのかよ俺は……」 再び零れた突っ込みに、黒鋼は片手で額を覆い隠すと溜息を洩らした。 冗談じゃない。あの男はただ遊んでいるだけだ。他人を欺き、理想の自分像を演じているだけ。理由なんか知らない。知りたくもない。 そして自分は、そんなふざけた男に弄ばれているだけのはずだ。飽きるまでの間、彼が勝手に始めたゲームに付き合ってやっているだけのはず。 『大好きだよ。誰よりも君を愛してる…』 だが、あの泣き出しそうに潤んだ瞳から、嘘を見破ることは難しかった。だからこそ、腹立たしかった。 もしあれが彼の本心であったなら、自分は同じように返してやることが出来たのだろうか。あの薄っぺらい身体を抱きしめて、彼の望むままに口付けを与えながら……。 「……おい、嘘だろ?」 自分の立っている場所だけが、ぐにゃりと歪んだような錯覚を覚える。 こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。 *** 夏休みに差し掛かるころになっても、二人の関係は続いていた。 だがそれは黒鋼が了承したわけではなく、相手が勝手に始めてしまったことだ。それは同様に、黒鋼が勝手に幕を下ろすことも可能ということだった。 もう付き合いきれないと言い切ってしまえば、ファイはあっさり引くだろう。彼が自分に対して執着がないことくらい知っている。 それでも黒鋼は、激しい葛藤や苛立ちを抱きながらもまだ幕を引くことが出来ないでいた。 彼が「好き」だとか、「愛してる」だとかいう言葉を軽はずみに囁く度に、吐き気がするほど最悪な気持ちになった。幾度殴り倒してやろうかと本気で思ったか知れない。 ゲームというものは、本来であれば楽しむためのものではなかったか。 最初からこの『ゲーム』を心から楽しんでいたわけではないが、その言葉の根本を考えると頭が痛くなる。 ファイの軽々しい告白は、そんな彼への気持ちに気づかされてしまった黒鋼にとって鋭利な刃物でしかない。 それでもまだ終わらせる気にならない。だが、手に入れる気にもならない。 人の感情が理屈の上でだけ成り立っているわけではない、ということは知っている。 それでもファイの何が自分をここまで惹きつけるというのか、黒鋼は常に己の中の矛盾と、慣れない格闘を続けているのだった。 *** 「ねぇ見て」 それはいつものように抱き合ったあとのことだった。 黒鋼の腕枕にご満悦だったファイが、上機嫌で見せてくれたのは三日月のような形をした小さな石だった。 「なんだこれ」 ちょうど胸の上にコロリと置かれたそれを、黒鋼は手に取って翳した。 「御守りなんだよ。蛍石」 「ああ? こいつはただの石ころだろ」 昔、学生時代に博物館で実物を見たことがある。ガラスケースの中のそれは、透明なものや薄く黄色味がかったものなど様々なものがあったが、これはどう見てもその辺りの川べりにでも転がっている、ただの石ころにしか見えない。 幼い頃は、よくこういった少し変わった形の石を集めて遊んでいたものだ。時にはそれを川の水面に投げて、跳ねる回数を友人と競ったこともある。 これが蛍石かどうかは別として、どこか懐かしさを感じる石であることに違いはなかった。 けれどファイはゆるく首を振って笑っていた。 「でも、そうなんだよ。蛍が見れる川原で拾ったんだ。だから蛍石」 「そういう屁理屈か」 ファイの白い指が、黒鋼の手から石を奪った。そして、懐かしそうな表情でそれを眺める。 「昔ね、オレの大切な人がくれたんだ。これがあれば、オレは死なない」 透き通る青い瞳が、間接照明の淡い光を吸い込んで潤んでいる。その微笑みは驚くほど穏やかで優しく、普段見せるそれよりもずっと自然な印象を受けた。 こんな顔も出来るのか。そしてこんな顔をさせる存在を、彼は『大切な人』と呼んだ。 もやもやとしたものが煙のように胸中に立ち込めるのに、黒鋼は気づかないふりをする。 「ねぇ、気になる?」 「あ?」 「大切な人。気になる?」 内心むっとして、けれど何も言わない黒鋼にファイはぷっくりと唇を尖らせた。 「もー。恋人ごっこなんだから、嘘でもヤキモチ焼いてよー」 ジロリと睨みつけると、ファイはその石を鉛筆を持つように持ち替えて、こともあろうかそれで黒鋼の乳首をクリクリと弄った。 「こらてめぇ! 御守りだってんなら粗末にするんじゃねぇ!」 慌てて腕で払いのけると、ファイがはしゃいだ声で笑った。けれど、その弾みで手の中から石を転げ落ちた。 「あっ!」 「言わんこっちゃねぇ……」 カツン、と小気味よい音を立てて、月の形をした蛍石がベッドの下に落ちた。 「黒たん先生が意地悪だから、御守り落ちちゃったよー」 「俺のせいかよ」 子供みたいに唇を尖らせたファイが、黒鋼を跨ぐようにしてベッドから降りた。 さきほどからさんざん見ていたはずの裸体が、共有していたタオルケットからスルリと抜け出し、上を通り過ぎる様から黒鋼は思わず目を逸らす。 畳にぺったりと腰を下ろしたファイが、そのままさらに屈んでベッドの下に手を伸ばした。 「あったあった。……ん?」 「なんだよ」 ゴソゴソと音がして、黒鋼は身を起こした。ファイは、ベッドの下から取り出したそれをしげしげと眺めていた。 それは以前、黒鋼が本屋で購入した難解な書籍達だった。 しまった、と思ったがもう遅い。 「黒たん先生って、こういうの興味あったの?」 ファイは黒鋼を見上げるとコトリと小首を傾げた。不思議そうに瞬きを繰り返す様子に顔を顰める。 「ねぇよ。いいから仕舞っとけ」 吐き捨てるように言っても、ファイはやっぱり不思議そうな顔をしたまま、やがて合点がついたかのように「あ」と言った。 思わずギクリとする。 「もしかして、オレが原因……とか?」 「ッ!」 そのとき、なぜ息を呑んでしまったのだろう。思いあがるなと言って一蹴すれば、それで済んだはずだった。 妙な間が空いて、逆に気まずくなってしまった。 だが、その微妙な空気をファイの笑う声が払拭した。 「あはははは! 嘘でしょー? やだなぁ黒たん、オレ別にそんなんじゃないよ?」 「うるせぇな……もういいだろ……」 「こんな難しそうな本を読み漁っちゃうくらい、オレに夢中なんだねー?」 実に楽しそうにニヤニヤとしながら言うファイが、今この状況であっても『ゲーム』に興じているに過ぎないことを知っている。 けれど、それでも言い当てられたことに黒鋼は絶句した。 そうだ。自分はこの男に想いを寄せ、不覚にも夢中になりかけている。こんな高いばかりで得るもののなかった本を持て余すほどに。 黒鋼がいつまで経っても否定してこないことに、ファイは驚いて目を丸くした。 「えっと、黒たん?」 「……」 「え? あれ?」 今の自分は、きっとこっそり隠していた赤点の答案が見つかってしまったときのような、そんなバツの悪い表情をしている。 いっそ開き直るしかないような状況と全く同じ感覚で、黒鋼は自分でも信じがたい感情を肯定した。 「……悪いか」 「これ、ごっこ遊びだよ? もしかして、本気になっちゃった?」 首を傾げながら身を乗り出すファイに、黒鋼は何も言えなかった。自分の愚かさくらい、誰に言われるまでもなくよく分かっていた。 今更になってうまいこと立ち回ることの出来なかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。 ファイはそれを察したのか、思い切り全身を震わせながら大笑いした。涙さえ浮かべて腹を抱えている。 いい加減イライラが限界に達した黒鋼が口を開こうとしたとき、ファイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら「あーあ! 楽しかったのに」と言った。 「ゲーム、これで終わっちゃったね」 *** それから、ファイが黒鋼の部屋に訪れることはなくなった。 メールを寄越すことも、屋上で出くわすことも、狐や狸にでも化かされていたのかと思うほど、全てが跡形もなく消え去った。 何もかもが振り出しに戻ったのだ。ファイはあの黒鋼が苦手とする表向きの姿を完璧に演じ、決してそれ以外の顔を見せることはなかった。 否定しつつも夢中になっていた自分と、本気でゲーム感覚だったファイとの温度差。分かっていたはずなのに、自身でも驚くほどダメージを受けていた。 胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。 ←戻る ・ 次へ→
その口火は偽者のピストルによって切って落とされたのだ。
だが、だからといって自分がそれにまんまと興じることはなかった。
黒鋼はもとより、例えばその手の台詞を実際の恋人相手にだって、滅多なことで口にしたことがない。
それでも、ある程度の明確な理由付けにはなったかもしれない。
恋人でもなければ友達というわけでもない、ただの教師仲間である彼と続けていた不毛な関係に、名前をつけることがようやく出来た。
そう、これは『ゲーム』であり、そして、ただの『遊び』だ。
「大好きだよ黒様。誰よりも君を愛してる」
それなのに、だ。
蕩けそうに瞳を潤ませて、頬を染めながら熱っぽく囁くファイに口付けを乞われると、その明確な理由が一瞬、揺らぐ。
これは本当に演技なのか? これほどまでに熱烈に、実際は好きでもない相手に愛を囁くなんて真似が、本当に出来るものなのか?
ただの遊びに、不覚にも心臓を高鳴らせている自分は一体なんなのだろう?
黒鋼はこの男ほど器用には出来ていないのだ。むしろ不器用な性質である。
ファイがほんの少しだけ背伸びをして唇を突き出してくるのを、黒鋼は首に絡み付いていた腕ごと払いのけた。
「てめぇ、ここがどこだか分かってんのか」
「学校の屋上だねぇ」
「場所を考えろ、場所を!」
「つまんないなぁ。学校だろうがどこだろうが、隠れてするなら別にいいじゃない」
「よかねぇよ!!」
「今時このくらい小学生でもやってるのに」
怒りで頭に血が上っているのか、それとも先刻のファイの熱烈な告白に勘違いをしそうになってるのか、とにもかくにも顔が赤くなってはいないかと黒鋼は慌てて彼に背を向けた。
「そんなことより」
「んー?」
腕を組んだ黒鋼は、首だけを僅かにファイの方へ向けながらジロリと睨みつける。
「てめぇの夢は料理人になることじゃなかったのかよ」
「へ? なんのこと?」
きょとんとして小首を傾げるファイに、黒鋼は先ほど耳にした会話の内容を思い出していた。
*
「先生って、子供の頃から保健の先生になるのが夢だったんですか~?」
それは見慣れた光景だった。
職員室の出入り口付近で、ファイが女子生徒数名に捕まっているのに気がついた。
だが会話の内容まで耳に入ってきたのは、全くの偶然だった。
「そうだね。学校の先生にはなりたかったよ。でも、保健室の先生になるのが夢ではなかった、かな?」
そう言って柔らかに微笑むファイに、女子生徒達は頬をぽっと赤らめて見惚れた。
内心ツバを吐きたい衝動に駆られた黒鋼だったが、それよりもファイの答えの方が引っかかった。
確か肉じゃがを作った夜に、あの男は料理人だか冒険家だかになりたかったと言っていたのではなかったか。無人島が云々という、くだらない理由付きで語っていたはずだった。
「じゃあ、どうして今は保健の先生なんですか?」
「うん。実はボク、動物のお医者さんにもなりたかったんだ。でも、それには動物を解剖しなくちゃいけないって分かって、諦めちゃったんだよ」
「あ、それで間を縫ったカンジですかぁ?」
「そう。そんなカンジ、だよ」
その微笑みは、まさに『王子様』と呼ばれるにふさわしいものだった。
*
「思い出したら胸焼けしてきやがったぜ」
「あ、もしかしてさっきの女の子たちとの話、聞こえてたー?」
「そうだ。それ。どこまで白々しいんだてめぇは。無人島に行くのが夢だったんじゃねぇのか」
呆れた顔をしてファイと向かい合った。
けれど、彼は目をパチクリとさせながら小首を傾げている。
「オレ、そんなこと言ったっけかなぁ? そもそも無人島になんて行ってどうするの? 危ないじゃん」
「あぁ? てめぇホラ吹きなだけでなく鳥頭だったのかよ」
「うわ、そんな言い方ってある? はい傷ついたー。オレのハート傷ついたー」
「付き合いきれねぇな」
つん、とそっぽを向いて唇を尖らせるファイに、黒鋼は背を向けるとそのまま屋上を後にした。
***
本屋に足を運ぶなど、学生時代以来のことだった。
アパート及び高校からほど近い大型書店に、黒鋼は仕事帰りに立ち寄っていた。
店内では見知った顔の生徒と擦れ違うこともあり、本屋と黒鋼という図が彼らにとってもよほど珍しいのか、目を丸くしながらペコリと頭を下げられた。
おかげであまりいい心地がしない。あまり長居をしたいとも思えなくなった。
店員が、柄の悪い大男に怯えた表情を見せながら脇を通り抜けてゆく。
「くそ、なんだって俺が……」
文句を垂れてみたものの、これは他の誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思でここに足を運んだのだが。
黒鋼はともかく目当てのものを探すべく、所狭しと並ぶ本棚を見渡した。ジャンルに目星をつけて、そのゾーンへと足を向ける。
そして、幾つもある似たようなタイトルの中から、中身も確認せずに数冊を取ると、とっととレジを済ませて本屋を後にした。
エアコンのよく効いた店内から出ると、夏の外気が陽が沈んでもなおじっとりと肌を撫でる。
かなりの厚さになっている紙袋の中身が、やたらと重いものに感じた。
ただでさえ大きな歩幅で全速力で歩けば、自宅アパートに到着するのはあっという間だった。
途中で馴染みの黒猫と遭遇したが、チラリと目を合わせるだけで構ってやるのは後回しにした。
***
「さっぱりだな」
纏わり付くような風が不快で、扇風機を止めながら黒鋼は手にしていた本を畳に放り投げた。
久しぶりに本など真剣に眺めたものだから、なんだか頭がぼんやりしている。
黒鋼は投げ出されているそれらを横目で睨む。
専門的な用語が並べば、それだけで解説でもない限り完全に理解することは不可能だ。こんなことなら、いっそ貯金でも崩してパソコンの一つでも購入しておくべきだったか。
かといって携帯を使ってでも調べる気にはなれなかった。なにしろ、黒鋼の手は身体と同様に平均よりも大きい。チマチマとした画面を見ながらチマチマとボタンを押すなど、ハッキリ言って面倒だ。メールを打つのでさえ実際のところ億劫で仕方がない。
ウンザリして、もはや本を手に取る気力もない。
中身はもちろん、価格さえ確認しないままにレジへ向かったせいで、給料日前の安月給にはそれなりに痛い出費となった。なおのこと腹立たしくて、黒鋼は立ち上がると台所へ向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。
その場で開けて、自棄になって半分ほどを一気に飲み干す。少し、立ちくらみがした。
黒鋼が購入した数冊の書籍は、どれも解離性同一性障害に関するものだった。
我ながら本当に愚かなことをしていると思う。ファイの多面性を、多重人格なのではないかと疑った結果が、この体たらくだった。
黒鋼は自分の腰の高さまでしかない冷蔵庫に体重をかけた。手の中にある缶の中身が、耳を澄ませばしゅわしゅわと音を立てているのが聞こえる。
「なにやってんだ一体……」
単に幾重にも裏表がある、ペテン師のような男だということは分かっていたはずだった。
だが、昼間の屋上で将来の夢についての食い違いを話している折、あの男は本当に忘れてしまっているようにも思えた。あるいはまるで知らないか、そのいずれかに。
まさにそれと同じ日から、くだらないゲームが始まったというのに。
少なくとも彼は黒鋼の前では猫をかぶらない。嘘をついたり、とぼけたりする必要はないはずだった。
だが、彼が演技派であることは重々承知しているはずだった。それなのに、気がつけばファイのことを気にかけている。もし万が一、あの豹変が本人にもどうにもならないところで起こっているのだとしたら。
「……だから何だってんだ」
そんな己の思考に咄嗟に冷めた突っ込みを入れた。
だからといって、自分に何が出来るというのか。何も出来やしないのではないか。
「つーか、何かしてやるつもりだったのかよ俺は……」
再び零れた突っ込みに、黒鋼は片手で額を覆い隠すと溜息を洩らした。
冗談じゃない。あの男はただ遊んでいるだけだ。他人を欺き、理想の自分像を演じているだけ。理由なんか知らない。知りたくもない。
そして自分は、そんなふざけた男に弄ばれているだけのはずだ。飽きるまでの間、彼が勝手に始めたゲームに付き合ってやっているだけのはず。
『大好きだよ。誰よりも君を愛してる…』
だが、あの泣き出しそうに潤んだ瞳から、嘘を見破ることは難しかった。だからこそ、腹立たしかった。
もしあれが彼の本心であったなら、自分は同じように返してやることが出来たのだろうか。あの薄っぺらい身体を抱きしめて、彼の望むままに口付けを与えながら……。
「……おい、嘘だろ?」
自分の立っている場所だけが、ぐにゃりと歪んだような錯覚を覚える。
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。
***
夏休みに差し掛かるころになっても、二人の関係は続いていた。
だがそれは黒鋼が了承したわけではなく、相手が勝手に始めてしまったことだ。それは同様に、黒鋼が勝手に幕を下ろすことも可能ということだった。
もう付き合いきれないと言い切ってしまえば、ファイはあっさり引くだろう。彼が自分に対して執着がないことくらい知っている。
それでも黒鋼は、激しい葛藤や苛立ちを抱きながらもまだ幕を引くことが出来ないでいた。
彼が「好き」だとか、「愛してる」だとかいう言葉を軽はずみに囁く度に、吐き気がするほど最悪な気持ちになった。幾度殴り倒してやろうかと本気で思ったか知れない。
ゲームというものは、本来であれば楽しむためのものではなかったか。
最初からこの『ゲーム』を心から楽しんでいたわけではないが、その言葉の根本を考えると頭が痛くなる。
ファイの軽々しい告白は、そんな彼への気持ちに気づかされてしまった黒鋼にとって鋭利な刃物でしかない。
それでもまだ終わらせる気にならない。だが、手に入れる気にもならない。
人の感情が理屈の上でだけ成り立っているわけではない、ということは知っている。
それでもファイの何が自分をここまで惹きつけるというのか、黒鋼は常に己の中の矛盾と、慣れない格闘を続けているのだった。
***
「ねぇ見て」
それはいつものように抱き合ったあとのことだった。
黒鋼の腕枕にご満悦だったファイが、上機嫌で見せてくれたのは三日月のような形をした小さな石だった。
「なんだこれ」
ちょうど胸の上にコロリと置かれたそれを、黒鋼は手に取って翳した。
「御守りなんだよ。蛍石」
「ああ? こいつはただの石ころだろ」
昔、学生時代に博物館で実物を見たことがある。ガラスケースの中のそれは、透明なものや薄く黄色味がかったものなど様々なものがあったが、これはどう見てもその辺りの川べりにでも転がっている、ただの石ころにしか見えない。
幼い頃は、よくこういった少し変わった形の石を集めて遊んでいたものだ。時にはそれを川の水面に投げて、跳ねる回数を友人と競ったこともある。
これが蛍石かどうかは別として、どこか懐かしさを感じる石であることに違いはなかった。
けれどファイはゆるく首を振って笑っていた。
「でも、そうなんだよ。蛍が見れる川原で拾ったんだ。だから蛍石」
「そういう屁理屈か」
ファイの白い指が、黒鋼の手から石を奪った。そして、懐かしそうな表情でそれを眺める。
「昔ね、オレの大切な人がくれたんだ。これがあれば、オレは死なない」
透き通る青い瞳が、間接照明の淡い光を吸い込んで潤んでいる。その微笑みは驚くほど穏やかで優しく、普段見せるそれよりもずっと自然な印象を受けた。
こんな顔も出来るのか。そしてこんな顔をさせる存在を、彼は『大切な人』と呼んだ。
もやもやとしたものが煙のように胸中に立ち込めるのに、黒鋼は気づかないふりをする。
「ねぇ、気になる?」
「あ?」
「大切な人。気になる?」
内心むっとして、けれど何も言わない黒鋼にファイはぷっくりと唇を尖らせた。
「もー。恋人ごっこなんだから、嘘でもヤキモチ焼いてよー」
ジロリと睨みつけると、ファイはその石を鉛筆を持つように持ち替えて、こともあろうかそれで黒鋼の乳首をクリクリと弄った。
「こらてめぇ! 御守りだってんなら粗末にするんじゃねぇ!」
慌てて腕で払いのけると、ファイがはしゃいだ声で笑った。けれど、その弾みで手の中から石を転げ落ちた。
「あっ!」
「言わんこっちゃねぇ……」
カツン、と小気味よい音を立てて、月の形をした蛍石がベッドの下に落ちた。
「黒たん先生が意地悪だから、御守り落ちちゃったよー」
「俺のせいかよ」
子供みたいに唇を尖らせたファイが、黒鋼を跨ぐようにしてベッドから降りた。
さきほどからさんざん見ていたはずの裸体が、共有していたタオルケットからスルリと抜け出し、上を通り過ぎる様から黒鋼は思わず目を逸らす。
畳にぺったりと腰を下ろしたファイが、そのままさらに屈んでベッドの下に手を伸ばした。
「あったあった。……ん?」
「なんだよ」
ゴソゴソと音がして、黒鋼は身を起こした。ファイは、ベッドの下から取り出したそれをしげしげと眺めていた。
それは以前、黒鋼が本屋で購入した難解な書籍達だった。
しまった、と思ったがもう遅い。
「黒たん先生って、こういうの興味あったの?」
ファイは黒鋼を見上げるとコトリと小首を傾げた。不思議そうに瞬きを繰り返す様子に顔を顰める。
「ねぇよ。いいから仕舞っとけ」
吐き捨てるように言っても、ファイはやっぱり不思議そうな顔をしたまま、やがて合点がついたかのように「あ」と言った。
思わずギクリとする。
「もしかして、オレが原因……とか?」
「ッ!」
そのとき、なぜ息を呑んでしまったのだろう。思いあがるなと言って一蹴すれば、それで済んだはずだった。
妙な間が空いて、逆に気まずくなってしまった。
だが、その微妙な空気をファイの笑う声が払拭した。
「あはははは! 嘘でしょー? やだなぁ黒たん、オレ別にそんなんじゃないよ?」
「うるせぇな……もういいだろ……」
「こんな難しそうな本を読み漁っちゃうくらい、オレに夢中なんだねー?」
実に楽しそうにニヤニヤとしながら言うファイが、今この状況であっても『ゲーム』に興じているに過ぎないことを知っている。
けれど、それでも言い当てられたことに黒鋼は絶句した。
そうだ。自分はこの男に想いを寄せ、不覚にも夢中になりかけている。こんな高いばかりで得るもののなかった本を持て余すほどに。
黒鋼がいつまで経っても否定してこないことに、ファイは驚いて目を丸くした。
「えっと、黒たん?」
「……」
「え? あれ?」
今の自分は、きっとこっそり隠していた赤点の答案が見つかってしまったときのような、そんなバツの悪い表情をしている。
いっそ開き直るしかないような状況と全く同じ感覚で、黒鋼は自分でも信じがたい感情を肯定した。
「……悪いか」
「これ、ごっこ遊びだよ? もしかして、本気になっちゃった?」
首を傾げながら身を乗り出すファイに、黒鋼は何も言えなかった。自分の愚かさくらい、誰に言われるまでもなくよく分かっていた。
今更になってうまいこと立ち回ることの出来なかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。
ファイはそれを察したのか、思い切り全身を震わせながら大笑いした。涙さえ浮かべて腹を抱えている。
いい加減イライラが限界に達した黒鋼が口を開こうとしたとき、ファイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら「あーあ! 楽しかったのに」と言った。
「ゲーム、これで終わっちゃったね」
***
それから、ファイが黒鋼の部屋に訪れることはなくなった。
メールを寄越すことも、屋上で出くわすことも、狐や狸にでも化かされていたのかと思うほど、全てが跡形もなく消え去った。
何もかもが振り出しに戻ったのだ。ファイはあの黒鋼が苦手とする表向きの姿を完璧に演じ、決してそれ以外の顔を見せることはなかった。
否定しつつも夢中になっていた自分と、本気でゲーム感覚だったファイとの温度差。分かっていたはずなのに、自身でも驚くほどダメージを受けていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
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