2025/09/18 Thu 「これ、やる」 一人きりでポツンと川原の岩に座りこんでいた子供に、黒鋼は拾った石を差し出した。 金色の髪をしたその子供は、大きな青い瞳で黒鋼を見上げると、パチパチと睫毛を躍らせる。 「どうしてくれるの?」 「いいからやる。変な形だろ」 「わ、本当だー」 白くて小さな手の平に乗せてやると、彼は嬉しそうにそれを空に翳した。 「お月さまみたいだねー」 「名前だってあるんだぜ」 「名前? 石に名前があるの?」 首を傾げるその子供に、黒鋼はえへんと胸を張った。 「俺がつけた。蛍の石だ」 「ほたるいし?」 「おまえもあっちでキャンプ張ってたんだろ? 黄緑色でピカピカ光るやつ、見なかったか?」 「あ!」 途端に瞳を輝かせたその子供に、黒鋼は大きく頷いた。 本当は水面に投げたらよく飛ぶだろうと思って拾った石だった。けれど、一人ポツンといる彼を見て、どうしても話しかけてみたくなったのだ。 「黒鋼ー! 車に荷物を積むから手伝ってー!」 そのとき、遠くで母の声がした。父は張っていたテントを解体していたから、それが終わったのだろう。 「じゃ、俺行くから」 「あ、待って」 「?」 「ありがとう」 黒鋼がやった石を両手でしっかりと包み込んで、彼は笑った。なんだか照れ臭くなってしまって、黒鋼はただ小さく頷くだけだった。 「また会おうね。ボク、来年の夏休みもユゥイと来るって約束してるの」 「だったら会えるさ。俺も来年また来るって、父さんと約束した」 「じゃあ、またね」 「またな」 キラキラと輝く川のせせらぎの中で、黒鋼は名も知らぬ子供と手を振り合った。 青空の下で白い歯を見せながら幼く笑う彼を、そのときの黒鋼はいつまでも忘れないでいようと思った。 また会うために。 けれどその子供とは二度と会うことはなかった。 黒鋼が父とした約束も、果たされることがなかったのだ。 * どうして忘れていたのだろう。 黒鋼がそれを思い出したのは、あの雨の降る山で夜を明かした朝のことだった。 深く眠り込んでいるファイを起こさないようにそっと空洞から抜け出して、黒鋼は明るくなってきた空の下、ライトを片手に駄目もとで辺りを散策してみた。 見つかるはずはないだろうと思っていた。枯葉や小枝ばかりの地面をそれでも探して、やがて黒鋼が着地を果たした地点に辿りついたとき、見つけた。 よく見れば黒鋼が残した痕以外にも、地面が酷く抉れた場所がある。 おそらく、ファイはここに落下したのだろう。そしてその抉れた地点の近辺に、石があった。 それを拾い上げた瞬間、ふと思い出した。 輝く水面。晴天の空と小さな手の平。透き通る青と淡い金色。無邪気な笑顔。また会おうねと、交わした約束。 黒鋼の記憶に誤りがなければ、あれは確かにファイだった。 自分が今まで忘れていたように、あの男もまた忘れているのだろうか。 だがこの石は、『大切な人』がくれたものだとファイは言った。そしてその人物が、もうこの世にいないということも。 単にあのときの子供がファイとよく似ていただけかもしれない。 だがそう片付けてしまうには、『蛍石』という今にして思えばこじつけとしか思えない石の名前が、見事に引っかかる。 そしてそのときの黒鋼には、やはりまだファイが仮面を被り続ける理由も、そして最初に彼に対して感じていた違和感の正体も、何もかもが分からないことだらけだった。 * 「まさかあんときのガキが言ってたユゥイってのが、てめぇのことだったとはな」 黒鋼は病室の一角で不器用にリンゴを剥きながら、しみじみと呟いた。 歪なリンゴを片っ端から口に放り込んでいたファイが、「あー?」と間抜けな返事をする。 「ファイ、ってのが言ったんだよ。てめぇの名前を」 「……そっかぁ。でもオレだってビックリしたよ。この石が、もとを正せば君がくれたものだったなんてさー」 「分からねぇもんだな」 二人は揃ってベッドの脇に設置してある、引き出しの上の蛍石を見た。 本当に、世の中は分からないものだ。 黒鋼が石を渡した子供が本当のファイで、今目の前にいるのはその双子の弟だという。 兄は弟へ、黒鋼から受け取った石に願いを託して渡していた。そしてそんなことも知らずに、自分達は出会ってしまったのだ。 初めから黒鋼がファイに対して違和感を抱いたのは、おそらくそのせいだった。 彼らは双子というくらいだから瓜二つだ。けれど、纏う空気が異なっていたのだと思う。 それでも、あの石を渡した子供がもうこの世にいないということに、黒鋼は少なからずショックを受けていた。 本当に、世の中というものは分からない。 「ねぇ、黒たん」 「あん?」 再びおぼつかない手つきでリンゴを剥き始めた黒鋼に、ファイがポツリと声をかけた。 「この石。きっとファイが死ぬまでは本当にただの石ころだったんだろうね」 「?」 「うーんと……上手く言えないんだけど。ファイが、魂だけになってこの石に宿ってたのかなって。だから山で動けなくなっても君が来てくれたし……その、飛び降りてもオレ……掠り傷だったし……?」 飛び降りに関してのことを言う際、ファイは言いにくそうに語尾を弱めた。 あのときのことを思い出して、黒鋼の額に血管がぷっくりと浮かぶ。 そう、ファイは掠り傷一つで済んだのだ。何のクッション代わりも存在しない平地に落ちたというのに、それはまさに奇跡だった。 脳震盪を起こし、そして運悪く右手だけを強く捻って僅かに腫れたが、医師や現場を検証した警官も首を傾げていた。 「てめぇ退院したら覚えてろよ……? ここは病院だからな。今は勘弁してやってんだ」 「うぅ、怖いよぉ……オレ、いっそ死んだ方がマシってくらい酷い目に遭うんだきっと」 「嘘泣きすんじゃねぇ! あれから俺が言い訳すんのにどんだけ苦労したと……!」 「く、黒たん先生! お静かにーっ」 わたわたとして黒鋼を鎮めようとするファイにハッとして見ると、同室の入院患者が目をパチクリさせながらこちらを見ている。黒鋼がゴホンと咳払いすると、全員が目を逸らした。 「とにかくだ。生きた心地がしなかったんだ。俺ぁ許す気はねぇからな」 あのあとは本当に大変だった。落下の原因は、屋上への鍵が開いていたことや、フェンスが壊れていたのをたまたま発見し、確認していた際にファイが体勢を崩した……などと適当なことを言って誤魔化した。 ファイには紛い物にせよ人望があったので、逆に側にいた黒鋼がなぜ注意していてやらなかったのかと、主に女性教諭に思い切り責められた。突き落としたのではないかと疑われなかっただけ、マシだったかもしれない。 現在、ファイは念のために一週間ほどの検査入院をしている。 「ごめんなさい……」 しょんぼりと俯くファイに、ナイフに刺さったままのリンゴを差し出す。白い指先が、それでもリンゴを取って口に運ぶ。ショリショリと、控えめな音を立てて租借している様を見て、当分はこれで存分にイビってやろうと思った。 そんな黒鋼の思惑を知りもせず、全てを飲み込んだファイがぼんやりとした顔で視線を向けてくる。 「なんだ? もうねぇぞ」 「うん。もうリンゴはいいや」 「だったらなんだ」 「うん……あのね……」 煮え切らない態度のファイに、黒鋼は首を傾げた。まだ何か言い足りないことでもあるのだろうか。 彼のこれまでのことやそのきっかけについては、あらかた聞いたと思っていたが。 「なんだよ。言ってみろ」 「うん……あのさ、まだ会ったばっかりの頃にね、屋上でオレが言ったこと、覚えてるかなぁ?」 「あ?」 「その……オレ、君のこと嫌いって言った……」 「そんなこともあったかもな」 あの頃、黒鋼とファイは互いを相手に言葉遊びをしていたに過ぎない。まさか二人の出会いの裏側にこんな秘密が隠されていたことも、彼を好きになってしまうことも、何より彼があんな突飛な行動を起こすなんてことも、予想もしていなかった頃だった。 思えばまだ一年も経っていないのに、随分と昔のことのように思える。 「あれね、嘘だから……。多分、あのときにはもう……好き、だったと思うよ……?」 言うだけ言うと、ファイは黒鋼が反応する前に耳まで赤くして俯いた。思わず拍子抜けする。 「おまえ……案外純情で真面目だったんだな……」 思った通りのことを口にしたら、ファイは赤い顔のままムッとした顔を見せた。 *** 季節がいつの間にか移ろいを見せるように、その頃になると学校内での養護教諭への評価も、知らぬ間に変わっていた。 「ファイ先生って雰囲気がガラリと変わりましたよねー」 「そうねぇ。一皮剥けたというか……明るくなったわねぇ」 女性教諭たちの井戸端トークならぬ職員室トークにもすっかり慣れた。だが以前は耳に入るだけでイライラしていたのが嘘のように、黒鋼自身も少し興味が湧いてさりげなく耳を傾ける。 「紳士な振る舞いも素敵でしたけど、今はどちらかというとアイドルって雰囲気ですよね」 「やっぱり学校の先生より、芸能人にでもなった方が似合ってるんじゃないかしら」 「ようやくこの学校に馴染んだって証拠じゃないですかぁ?」 「あらあら、随分と時間がかかったものだわねぇ」 「繊細なんですよぉきっと」 黒鋼は内心やれやれと言った感じで席を立った。空になった湯飲み茶碗を給湯室に下げて適当に洗う。 ファイがどう変わっても、どうやら女性達の中で彼は王子様のままらしい。あの容姿であるからそれは仕方がないのかもしれないが。 黒鋼は洗った湯飲み茶碗を籠の中に伏せると、ふと腕時計を見やった。まだ少し余裕があることを確認する。 「ツラでも拝みに行くとするか」 校内では極力顔を合わせたがらなかった頃から、自分も随分と変わったものだ。 * 「先生ありがとうございました! 僕、頑張ります!!」 保健室の扉を開けた瞬間、男子生徒の一人がペコリと勢いよく頭を下げる光景に遭遇した。 そのまま部屋を出ようと振り返った生徒が黒鋼に気づき、またペコリと頭を下げる。そして小走りに出て行った。 「はーい。頑張ってねー」 デスクチェアに腰掛けたファイが、ひらひらと手を振って笑っている。 「なんだありゃあ」 「黒たん先生だー。どうかしたの? また猫に引っかかれた?」 「うるせぇよ。用がなきゃ来ちゃ悪いか」 むっとしたついでに開き直った黒鋼に、ファイがちょっと頬を赤らめて口をもごもごとさせた。それを無視して皮製の長椅子にどっかりと腕組みをして腰を下ろす。 「なんだ、今の奴は」 「あ、うん。まぁ詳細は秘密だけどね、恋のお悩みって感じ?」 ファイは少しだけ頬を染めたまま、嬉しそうにふにゃりと笑った。逆にむっつり顔の黒鋼は、僅かに片眉を上げる。 「それであの清々しい顔か」 「なんか最近、男の子たちがよく話しかけてくれるようになったんだよねー。オレもようやく馴染めたって感じかなー」 それは微妙に違うだろう、と黒鋼は思った。 自虐の極みではあったが、確かにファイは一皮剥けた。と、いうより本来の自分を取り戻し、分厚い仮面を取り払ったことにより、同時にファイの猫かぶりも終わりを告げた。 それによって単に気安く絡みやすくなったのだと思う。今のファイはのんびりとしていて、気取らないオーラが全開だ。 「可愛いよねー。進路のことをぼやきに来る子もいるけどね、やっぱりみんな恋愛に興味があるみたい。青春って感じだよねー」 女生徒に圧倒的な人気を誇るのは今も同じだが、ファイは悩める男子連中にとっていいアドバイザーだと認識されたらしい。彼の実際の恋愛遍歴は知らないし、知ろうとも思わないが、身近な友人よりも相手が経験豊富な同性の大人で、しかも気楽な相手と分かれば相談もしやすいのだろう。 「でもねー、やっぱ高校生くらいになると相談内容も結構際どいものが……って? 黒たん? 黒様? おーい先生ー」 「……あ? なんだって?」 「ちょっとー。なにぼんやりしてるの?」 小首を傾げたファイに、黒鋼は内心慌てて「なんでもねぇよ」と言った。 彼が本当の意味で万人に受け入れられることを喜ばしいと思う反面、なにやらそれもそれで面白くない……なんて口が裂けても言えない複雑な黒鋼だった。 *** 週末には、また以前のように二人で過ごすことが多くなっていた。 黒鋼がファイの暮らすマンションに出向くことも増えたし、夕飯の食材を一緒にスーパーへ買出しにも行くようになった。 そしてさらにファイに言わせると、「前より黒たん先生が手伝ってくれるから楽チンだなぁ」らしい。 確かに以前までの疑惑と駆け引きだけが絡み合った関係性に比べると、信じられない進歩だった。 まさか自分に同性の恋人が出来るとは夢にも思わなかった黒鋼だが、今の生活は心地がよく、ぶっちゃけてしまえば幸せだった。 ただ一つ、不満とまではいかないが何より大きく変わった点に首を捻る以外には。 食後にまったりしたあと適当にシャワーを浴びて、軽くビールを引っ掛けながら二人でテレビを眺めているとき。 アルコールがほどよく入れば、やはり側にある温もりに手を伸ばしたくて仕方がなくなる。動物的な本能かもなと、黒鋼はぼんやりと思った。 そしてその本能に逆らうことなく、横で料理番組を熱心に見つめているファイの頬に手を伸ばした。 「わっ!」 すると、ファイはよほど驚いたのか跳ね上がる勢いで肩を揺らし、大きく見開いた瞳で黒鋼を見た。 「なんだよ」 「なんだよ、はこっちの台詞だよー……。ビックリしたぁ」 「あ?」 悪そうに眉間の皺を深くして、黒鋼はそのままファイの肩を抱いて引き寄せた。 だが、以前ならふんわりと微笑んですんなり身を預けていたはずのファイが、僅かに抵抗を示した。黒鋼の胸に両手をついて、緩く押してくる。 「く、黒たん」 「なんだよ。具合でも悪ぃのか」 「ち、違うよー!」 ファイの頬はこちらが目を見張るほど赤くなっていて、それを間近に眺めた。すると、思いっきり目を逸らされる。きゅっと下唇を噛む様を見て、そこに触れたくて仕方がなくなる。 最近、こんなときのファイには余裕がない。何かに怯えているようにも、焦っているようにも見える。 無理強いは趣味ではないので強引に事を成そうという気はないが、言ってしまえば彼と身体を合わせたのは夏の別れのとき以来、めっきりなかった。 気持ちは完全に通じ合っている恋人同士なのだから、抱き合いたいと思うのは自然なことだと思う。猿のようにがっつく年齢ではないにしろ、その自然に沸き起こる衝動を貫きたいという気持ちは、黒鋼にだってある。 「嫌か?」 「ちが、い、イヤじゃ、ない、よ」 「ぎこちねぇぞてめぇ」 「ぎこちなくなんて、ないよ……?」 「だったら」 黒鋼はにやりと人の悪い笑みを浮かべて、ファイの細い顎を掴んで上向かせる。 ビクリと肩を震わせて一瞬の隙を見せた唇に、音を立てて口付けた。 「ふむっ……!?」 だが、決して深くは口付けず、ただ触れるだけにとどめてまた笑ってやった。 「こんぐれぇはいいだろ」 意地悪く笑う黒鋼を、しばし瞬きを繰り返すだけで見つめていたファイは、再び赤くなって俯くとぎゅっと目を閉じた。 「ば、ばかぁ……」 精一杯搾り出された声を「ふん」と馬鹿にしたように笑う黒鋼は、本当はなんとなく分かっていた。 最初こそ首を捻ったものだが、幾度かこういった状態が続くたびに「もしや」と思った。 ファイは、いや、『ユゥイ』はまともに恋愛をしたことがないのだ。 『ファイ』としては経験があっても、本当の意味でのそれはおそらく、ない。 生徒を相手にどんなアドバイスをしたとしても、それはファイが自分を偽り生きてきたなかで養った、一つのシナリオでしかないのだと思う。 役者がそれを失えば、そこにいるのはただの一人の人間にしかすぎない。 けれどそれは、まるで悪女のように黒鋼を翻弄し、なんの躊躇いもなく愛を囁きながら足を開いていた頃より、ずっと可愛げがあるような気がした。 例えあのときのファイがある程度『素』であったとしても、あくまで彼の中では『ゲーム』感覚だったのだから、演じる必要がないぶんどう曝け出せばいいのか、戸惑っているのかもしれない。 焦る必要はないのだから、ファイはファイのペースで自分の中で折り合いをつけて行けばいい。それは別に、身体の関係に限らず。 それに、ただ同じ寝床に入って眠るだけ、というのは決して悪いものではない。 基本的には体温の低いファイは、眠りにつくことで穏やかに熱を上げてゆく。それを腕の中に納めながら感じるひとときを、黒鋼は密かに気に入っているのだった。 「今夜はもう寝るぞ」 赤くなったまま口をもごもごとさせていたファイは、それでもどこか嬉しそうに「うん!」と元気に返事をした。 ←戻る ・ 次へ→
一人きりでポツンと川原の岩に座りこんでいた子供に、黒鋼は拾った石を差し出した。
金色の髪をしたその子供は、大きな青い瞳で黒鋼を見上げると、パチパチと睫毛を躍らせる。
「どうしてくれるの?」
「いいからやる。変な形だろ」
「わ、本当だー」
白くて小さな手の平に乗せてやると、彼は嬉しそうにそれを空に翳した。
「お月さまみたいだねー」
「名前だってあるんだぜ」
「名前? 石に名前があるの?」
首を傾げるその子供に、黒鋼はえへんと胸を張った。
「俺がつけた。蛍の石だ」
「ほたるいし?」
「おまえもあっちでキャンプ張ってたんだろ? 黄緑色でピカピカ光るやつ、見なかったか?」
「あ!」
途端に瞳を輝かせたその子供に、黒鋼は大きく頷いた。
本当は水面に投げたらよく飛ぶだろうと思って拾った石だった。けれど、一人ポツンといる彼を見て、どうしても話しかけてみたくなったのだ。
「黒鋼ー! 車に荷物を積むから手伝ってー!」
そのとき、遠くで母の声がした。父は張っていたテントを解体していたから、それが終わったのだろう。
「じゃ、俺行くから」
「あ、待って」
「?」
「ありがとう」
黒鋼がやった石を両手でしっかりと包み込んで、彼は笑った。なんだか照れ臭くなってしまって、黒鋼はただ小さく頷くだけだった。
「また会おうね。ボク、来年の夏休みもユゥイと来るって約束してるの」
「だったら会えるさ。俺も来年また来るって、父さんと約束した」
「じゃあ、またね」
「またな」
キラキラと輝く川のせせらぎの中で、黒鋼は名も知らぬ子供と手を振り合った。
青空の下で白い歯を見せながら幼く笑う彼を、そのときの黒鋼はいつまでも忘れないでいようと思った。
また会うために。
けれどその子供とは二度と会うことはなかった。
黒鋼が父とした約束も、果たされることがなかったのだ。
*
どうして忘れていたのだろう。
黒鋼がそれを思い出したのは、あの雨の降る山で夜を明かした朝のことだった。
深く眠り込んでいるファイを起こさないようにそっと空洞から抜け出して、黒鋼は明るくなってきた空の下、ライトを片手に駄目もとで辺りを散策してみた。
見つかるはずはないだろうと思っていた。枯葉や小枝ばかりの地面をそれでも探して、やがて黒鋼が着地を果たした地点に辿りついたとき、見つけた。
よく見れば黒鋼が残した痕以外にも、地面が酷く抉れた場所がある。
おそらく、ファイはここに落下したのだろう。そしてその抉れた地点の近辺に、石があった。
それを拾い上げた瞬間、ふと思い出した。
輝く水面。晴天の空と小さな手の平。透き通る青と淡い金色。無邪気な笑顔。また会おうねと、交わした約束。
黒鋼の記憶に誤りがなければ、あれは確かにファイだった。
自分が今まで忘れていたように、あの男もまた忘れているのだろうか。
だがこの石は、『大切な人』がくれたものだとファイは言った。そしてその人物が、もうこの世にいないということも。
単にあのときの子供がファイとよく似ていただけかもしれない。
だがそう片付けてしまうには、『蛍石』という今にして思えばこじつけとしか思えない石の名前が、見事に引っかかる。
そしてそのときの黒鋼には、やはりまだファイが仮面を被り続ける理由も、そして最初に彼に対して感じていた違和感の正体も、何もかもが分からないことだらけだった。
*
「まさかあんときのガキが言ってたユゥイってのが、てめぇのことだったとはな」
黒鋼は病室の一角で不器用にリンゴを剥きながら、しみじみと呟いた。
歪なリンゴを片っ端から口に放り込んでいたファイが、「あー?」と間抜けな返事をする。
「ファイ、ってのが言ったんだよ。てめぇの名前を」
「……そっかぁ。でもオレだってビックリしたよ。この石が、もとを正せば君がくれたものだったなんてさー」
「分からねぇもんだな」
二人は揃ってベッドの脇に設置してある、引き出しの上の蛍石を見た。
本当に、世の中は分からないものだ。
黒鋼が石を渡した子供が本当のファイで、今目の前にいるのはその双子の弟だという。
兄は弟へ、黒鋼から受け取った石に願いを託して渡していた。そしてそんなことも知らずに、自分達は出会ってしまったのだ。
初めから黒鋼がファイに対して違和感を抱いたのは、おそらくそのせいだった。
彼らは双子というくらいだから瓜二つだ。けれど、纏う空気が異なっていたのだと思う。
それでも、あの石を渡した子供がもうこの世にいないということに、黒鋼は少なからずショックを受けていた。
本当に、世の中というものは分からない。
「ねぇ、黒たん」
「あん?」
再びおぼつかない手つきでリンゴを剥き始めた黒鋼に、ファイがポツリと声をかけた。
「この石。きっとファイが死ぬまでは本当にただの石ころだったんだろうね」
「?」
「うーんと……上手く言えないんだけど。ファイが、魂だけになってこの石に宿ってたのかなって。だから山で動けなくなっても君が来てくれたし……その、飛び降りてもオレ……掠り傷だったし……?」
飛び降りに関してのことを言う際、ファイは言いにくそうに語尾を弱めた。
あのときのことを思い出して、黒鋼の額に血管がぷっくりと浮かぶ。
そう、ファイは掠り傷一つで済んだのだ。何のクッション代わりも存在しない平地に落ちたというのに、それはまさに奇跡だった。
脳震盪を起こし、そして運悪く右手だけを強く捻って僅かに腫れたが、医師や現場を検証した警官も首を傾げていた。
「てめぇ退院したら覚えてろよ……? ここは病院だからな。今は勘弁してやってんだ」
「うぅ、怖いよぉ……オレ、いっそ死んだ方がマシってくらい酷い目に遭うんだきっと」
「嘘泣きすんじゃねぇ! あれから俺が言い訳すんのにどんだけ苦労したと……!」
「く、黒たん先生! お静かにーっ」
わたわたとして黒鋼を鎮めようとするファイにハッとして見ると、同室の入院患者が目をパチクリさせながらこちらを見ている。黒鋼がゴホンと咳払いすると、全員が目を逸らした。
「とにかくだ。生きた心地がしなかったんだ。俺ぁ許す気はねぇからな」
あのあとは本当に大変だった。落下の原因は、屋上への鍵が開いていたことや、フェンスが壊れていたのをたまたま発見し、確認していた際にファイが体勢を崩した……などと適当なことを言って誤魔化した。
ファイには紛い物にせよ人望があったので、逆に側にいた黒鋼がなぜ注意していてやらなかったのかと、主に女性教諭に思い切り責められた。突き落としたのではないかと疑われなかっただけ、マシだったかもしれない。
現在、ファイは念のために一週間ほどの検査入院をしている。
「ごめんなさい……」
しょんぼりと俯くファイに、ナイフに刺さったままのリンゴを差し出す。白い指先が、それでもリンゴを取って口に運ぶ。ショリショリと、控えめな音を立てて租借している様を見て、当分はこれで存分にイビってやろうと思った。
そんな黒鋼の思惑を知りもせず、全てを飲み込んだファイがぼんやりとした顔で視線を向けてくる。
「なんだ? もうねぇぞ」
「うん。もうリンゴはいいや」
「だったらなんだ」
「うん……あのね……」
煮え切らない態度のファイに、黒鋼は首を傾げた。まだ何か言い足りないことでもあるのだろうか。
彼のこれまでのことやそのきっかけについては、あらかた聞いたと思っていたが。
「なんだよ。言ってみろ」
「うん……あのさ、まだ会ったばっかりの頃にね、屋上でオレが言ったこと、覚えてるかなぁ?」
「あ?」
「その……オレ、君のこと嫌いって言った……」
「そんなこともあったかもな」
あの頃、黒鋼とファイは互いを相手に言葉遊びをしていたに過ぎない。まさか二人の出会いの裏側にこんな秘密が隠されていたことも、彼を好きになってしまうことも、何より彼があんな突飛な行動を起こすなんてことも、予想もしていなかった頃だった。
思えばまだ一年も経っていないのに、随分と昔のことのように思える。
「あれね、嘘だから……。多分、あのときにはもう……好き、だったと思うよ……?」
言うだけ言うと、ファイは黒鋼が反応する前に耳まで赤くして俯いた。思わず拍子抜けする。
「おまえ……案外純情で真面目だったんだな……」
思った通りのことを口にしたら、ファイは赤い顔のままムッとした顔を見せた。
***
季節がいつの間にか移ろいを見せるように、その頃になると学校内での養護教諭への評価も、知らぬ間に変わっていた。
「ファイ先生って雰囲気がガラリと変わりましたよねー」
「そうねぇ。一皮剥けたというか……明るくなったわねぇ」
女性教諭たちの井戸端トークならぬ職員室トークにもすっかり慣れた。だが以前は耳に入るだけでイライラしていたのが嘘のように、黒鋼自身も少し興味が湧いてさりげなく耳を傾ける。
「紳士な振る舞いも素敵でしたけど、今はどちらかというとアイドルって雰囲気ですよね」
「やっぱり学校の先生より、芸能人にでもなった方が似合ってるんじゃないかしら」
「ようやくこの学校に馴染んだって証拠じゃないですかぁ?」
「あらあら、随分と時間がかかったものだわねぇ」
「繊細なんですよぉきっと」
黒鋼は内心やれやれと言った感じで席を立った。空になった湯飲み茶碗を給湯室に下げて適当に洗う。
ファイがどう変わっても、どうやら女性達の中で彼は王子様のままらしい。あの容姿であるからそれは仕方がないのかもしれないが。
黒鋼は洗った湯飲み茶碗を籠の中に伏せると、ふと腕時計を見やった。まだ少し余裕があることを確認する。
「ツラでも拝みに行くとするか」
校内では極力顔を合わせたがらなかった頃から、自分も随分と変わったものだ。
*
「先生ありがとうございました! 僕、頑張ります!!」
保健室の扉を開けた瞬間、男子生徒の一人がペコリと勢いよく頭を下げる光景に遭遇した。
そのまま部屋を出ようと振り返った生徒が黒鋼に気づき、またペコリと頭を下げる。そして小走りに出て行った。
「はーい。頑張ってねー」
デスクチェアに腰掛けたファイが、ひらひらと手を振って笑っている。
「なんだありゃあ」
「黒たん先生だー。どうかしたの? また猫に引っかかれた?」
「うるせぇよ。用がなきゃ来ちゃ悪いか」
むっとしたついでに開き直った黒鋼に、ファイがちょっと頬を赤らめて口をもごもごとさせた。それを無視して皮製の長椅子にどっかりと腕組みをして腰を下ろす。
「なんだ、今の奴は」
「あ、うん。まぁ詳細は秘密だけどね、恋のお悩みって感じ?」
ファイは少しだけ頬を染めたまま、嬉しそうにふにゃりと笑った。逆にむっつり顔の黒鋼は、僅かに片眉を上げる。
「それであの清々しい顔か」
「なんか最近、男の子たちがよく話しかけてくれるようになったんだよねー。オレもようやく馴染めたって感じかなー」
それは微妙に違うだろう、と黒鋼は思った。
自虐の極みではあったが、確かにファイは一皮剥けた。と、いうより本来の自分を取り戻し、分厚い仮面を取り払ったことにより、同時にファイの猫かぶりも終わりを告げた。
それによって単に気安く絡みやすくなったのだと思う。今のファイはのんびりとしていて、気取らないオーラが全開だ。
「可愛いよねー。進路のことをぼやきに来る子もいるけどね、やっぱりみんな恋愛に興味があるみたい。青春って感じだよねー」
女生徒に圧倒的な人気を誇るのは今も同じだが、ファイは悩める男子連中にとっていいアドバイザーだと認識されたらしい。彼の実際の恋愛遍歴は知らないし、知ろうとも思わないが、身近な友人よりも相手が経験豊富な同性の大人で、しかも気楽な相手と分かれば相談もしやすいのだろう。
「でもねー、やっぱ高校生くらいになると相談内容も結構際どいものが……って? 黒たん? 黒様? おーい先生ー」
「……あ? なんだって?」
「ちょっとー。なにぼんやりしてるの?」
小首を傾げたファイに、黒鋼は内心慌てて「なんでもねぇよ」と言った。
彼が本当の意味で万人に受け入れられることを喜ばしいと思う反面、なにやらそれもそれで面白くない……なんて口が裂けても言えない複雑な黒鋼だった。
***
週末には、また以前のように二人で過ごすことが多くなっていた。
黒鋼がファイの暮らすマンションに出向くことも増えたし、夕飯の食材を一緒にスーパーへ買出しにも行くようになった。
そしてさらにファイに言わせると、「前より黒たん先生が手伝ってくれるから楽チンだなぁ」らしい。
確かに以前までの疑惑と駆け引きだけが絡み合った関係性に比べると、信じられない進歩だった。
まさか自分に同性の恋人が出来るとは夢にも思わなかった黒鋼だが、今の生活は心地がよく、ぶっちゃけてしまえば幸せだった。
ただ一つ、不満とまではいかないが何より大きく変わった点に首を捻る以外には。
食後にまったりしたあと適当にシャワーを浴びて、軽くビールを引っ掛けながら二人でテレビを眺めているとき。
アルコールがほどよく入れば、やはり側にある温もりに手を伸ばしたくて仕方がなくなる。動物的な本能かもなと、黒鋼はぼんやりと思った。
そしてその本能に逆らうことなく、横で料理番組を熱心に見つめているファイの頬に手を伸ばした。
「わっ!」
すると、ファイはよほど驚いたのか跳ね上がる勢いで肩を揺らし、大きく見開いた瞳で黒鋼を見た。
「なんだよ」
「なんだよ、はこっちの台詞だよー……。ビックリしたぁ」
「あ?」
悪そうに眉間の皺を深くして、黒鋼はそのままファイの肩を抱いて引き寄せた。
だが、以前ならふんわりと微笑んですんなり身を預けていたはずのファイが、僅かに抵抗を示した。黒鋼の胸に両手をついて、緩く押してくる。
「く、黒たん」
「なんだよ。具合でも悪ぃのか」
「ち、違うよー!」
ファイの頬はこちらが目を見張るほど赤くなっていて、それを間近に眺めた。すると、思いっきり目を逸らされる。きゅっと下唇を噛む様を見て、そこに触れたくて仕方がなくなる。
最近、こんなときのファイには余裕がない。何かに怯えているようにも、焦っているようにも見える。
無理強いは趣味ではないので強引に事を成そうという気はないが、言ってしまえば彼と身体を合わせたのは夏の別れのとき以来、めっきりなかった。
気持ちは完全に通じ合っている恋人同士なのだから、抱き合いたいと思うのは自然なことだと思う。猿のようにがっつく年齢ではないにしろ、その自然に沸き起こる衝動を貫きたいという気持ちは、黒鋼にだってある。
「嫌か?」
「ちが、い、イヤじゃ、ない、よ」
「ぎこちねぇぞてめぇ」
「ぎこちなくなんて、ないよ……?」
「だったら」
黒鋼はにやりと人の悪い笑みを浮かべて、ファイの細い顎を掴んで上向かせる。
ビクリと肩を震わせて一瞬の隙を見せた唇に、音を立てて口付けた。
「ふむっ……!?」
だが、決して深くは口付けず、ただ触れるだけにとどめてまた笑ってやった。
「こんぐれぇはいいだろ」
意地悪く笑う黒鋼を、しばし瞬きを繰り返すだけで見つめていたファイは、再び赤くなって俯くとぎゅっと目を閉じた。
「ば、ばかぁ……」
精一杯搾り出された声を「ふん」と馬鹿にしたように笑う黒鋼は、本当はなんとなく分かっていた。
最初こそ首を捻ったものだが、幾度かこういった状態が続くたびに「もしや」と思った。
ファイは、いや、『ユゥイ』はまともに恋愛をしたことがないのだ。
『ファイ』としては経験があっても、本当の意味でのそれはおそらく、ない。
生徒を相手にどんなアドバイスをしたとしても、それはファイが自分を偽り生きてきたなかで養った、一つのシナリオでしかないのだと思う。
役者がそれを失えば、そこにいるのはただの一人の人間にしかすぎない。
けれどそれは、まるで悪女のように黒鋼を翻弄し、なんの躊躇いもなく愛を囁きながら足を開いていた頃より、ずっと可愛げがあるような気がした。
例えあのときのファイがある程度『素』であったとしても、あくまで彼の中では『ゲーム』感覚だったのだから、演じる必要がないぶんどう曝け出せばいいのか、戸惑っているのかもしれない。
焦る必要はないのだから、ファイはファイのペースで自分の中で折り合いをつけて行けばいい。それは別に、身体の関係に限らず。
それに、ただ同じ寝床に入って眠るだけ、というのは決して悪いものではない。
基本的には体温の低いファイは、眠りにつくことで穏やかに熱を上げてゆく。それを腕の中に納めながら感じるひとときを、黒鋼は密かに気に入っているのだった。
「今夜はもう寝るぞ」
赤くなったまま口をもごもごとさせていたファイは、それでもどこか嬉しそうに「うん!」と元気に返事をした。
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