2025/09/18 Thu 黒鋼は、月に二度三度のペースで屋敷を空けることがあった。 そんな日は一日中、ファイの機嫌は最悪である。 大概の我儘は聞き入れてくれる黒鋼でも、こればかりは譲れないらしかった。 彼は、街の病院に入院する母親の見舞いに出かけていくのだから。 *** その日は朝から雨だった。 黒鋼は朝食を済ませ、少し庭に出たあと屋敷を出て行った。 出がけに不貞腐れるファイの頭を撫でながら、彼はほとんど表情を変えなかったけれど、なんとなく困らせているのだろうなということは分かった。 いってらっしゃいの代わりに、ファイは「早く帰って来てね」とだけ言った。彼はいつも夕食の前までには必ず戻って来たけれど、それよりも早く戻れるなら、そうして欲しくて。 雨のせいで屋敷全体は薄暗く、先の幽霊話の一件も手伝って、ファイは屋敷の中をブラつくこともせず部屋で一日中腐っていた。 サクラや小狼も常に側にいられるわけではなく、そういえば自分だけがこの屋敷にいて、何の役割も与えられていないことに気がついた。自分がここの主ならばまだしも、それはいまいちハッキリしない。 いくらなんでもそこまで隠す必要性を感じないファイは、ならばここの持ち主は、これほど大きな屋敷を放り投げて一体どこをほっつき歩いているのかと、不思議に感じた。 自分は何のためにここにいるのだろう。そして、ファイには黒鋼という存在が必要不可欠だけれど、彼は同じだけ求めてくれているのだろうか。 所有者が所有物をどう扱おうが、それが機械やただの道具だったら、気にも留めないことだった。けれど黒鋼は物じゃないし、万能な機械でもない。心を持った人間だ。好き嫌いがあれば、許容できる範囲だって限られているはず。 この妙な関係が契約のもと成り立っているのなら、黒鋼の心が別にあったとしても、ファイには分からない。 一人でいると、そんなことばかりが頭をチラついた。 *** 片時も止むことなく降り続いていた雨は、時間が経つにつれて雨足と、そして風を強めていった。 外が暗くなる頃には、ザーザーという音が耳を塞いでいても嫌でも耳に入って来るほどだった。 いつもなら、夕食の前には必ず戻って来るはずの黒鋼の帰宅が、今日に限って遅い。 おかげで食事もどことなく味気ない気がして、気がつくと手が止まり、ぼんやりしてしまう始末だった。 それでもサクラや小狼が気遣ってくれていることを知っていたから、どうにか腹に押し込めた。今はただひたすら胃の辺りが重苦しい。 ファイは窓辺に立ち尽くしたまま、ガラスにぺったりと手のひらを当てて、暗い庭を見つめていた。 「……遅すぎる」 はじめのうちはなかなか戻らない黒鋼に腹も立っていた。 けれど時計の針が進むにつれて、苛立ちはあらゆる不安へと姿を変える。 この大雨の中、もしかして何かあったのではないかと、嫌な想像ばかりが先刻から頭の中にこびりついて離れてくれなかった。 もし事故にでもあって大怪我をしていたら。 もし……もし怪我だけでは済まなかったら……もう会えなかったら……。 あるいは、本人の意思でもうここへは帰って来るつもりがないのだとしたら。 「そんなの……」 絶対に嫌だった。 約束は守っている。屋敷と庭でしか遊ばないし、森にだって一度も足を踏み入れていない。外へ出るなんてもっての外だ。そもそも、出て行ったところで行くあてだってない。 愛想を尽かされていたらどうしよう。見捨てられたら、置き去りにされたら、投げ出されたら、忘れられてしまったら。 何より怖いのは、一言の言葉も交わさず、突然失うこと。 二度と会えなくなること。 世界中どこを探しても、死んでしまったら、もう……。 「……嫌だな、なに考えてるんだろうオレ。死ぬなんてそんな、縁起でもないこと」 窓の外の木の枝が、豪風と雨に打たれてガラス窓にぶつかる。バタバタという雨音と、ゴツゴツという枝が窓を叩く音が、なんだかとても恐ろしいものに思えて、ファイはその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。 最悪だと思った。これも全部、黒鋼のせいだ。 いつまでも帰って来ないから、こんなにもマイナスの考えに取りつかれるし、結局は一日中不安なままだった。ベッドに入ったって、どうせ眠れるわけがない。 それでもただ床に蹲っているよりはと、ファイはのろのろと立ち上がりベッドへと向かおうとした。 そのとき、窓の外に何か光るものが映った気がした。 「……!」 遠く、庭の向こう側の門に小さく見えた明かりの正体は、車のライトだった。 「黒たん!」 慌てて部屋を飛び出し、玄関ホールへ行くと、そこにはずぶ濡れの黒鋼と、彼にタオルを差し出す小狼の姿があった。 「おう」 短く返事をしながら、受け取ったタオルを頭からかぶった黒鋼が、片手を上げる。 思わずカッとして、ファイは早足に近づくときっと睨みつけた。 「なんて顔してんだよ」 やれやれといった表情の黒鋼と、その隣では濡れた上着を受け取った小狼が、困った顔をしていた。 「遅いよ……! 連絡ぐらいくれたっていいのに!」 「しょうがねぇだろ……事故に巻き込まれちまったんだからよ」 「事故!?」 サァ、と青ざめたファイだったが、すかさず小狼が続けた。 「黒鋼さんは無事ですよ、ファイさん。ただ、交通規制がかかったせいで足止め状態だったそうで」 思い出したのか、黒鋼が苛立ったように舌打ちをすると、すっかりびしょ濡れになったタオルも小狼に渡した。 「冗談じゃねぇ。他に道はねぇわ腹は減るわで……」 「災難でしたね……。よければ夕食を温めなおしますか?」 「いや……」 黒鋼は申し出を左手で軽く遮ると、自分のシャツの裾を握り締めたまま俯くファイを見た。 「じゃあ、せめて風邪をひかいないうちにお風呂へ」 「おう。おまえもとっとと休めよ」 「わかりました。じゃあ、着替えだけ準備しておきます」 「だめ」 一連の会話をただ黙って聞いていたファイだったが、辛抱たまらず短く制すと、黒鋼の濡れた袖をぎゅっと掴んだ。 「お風呂、オレんとこで入るでしょ……? 着替えは、オレが準備するから」 ファイ以外の3人は、この屋敷の二階にあるゲストルームを適当に自室として使っている。黒鋼の部屋にはこれまで幾度か入ったことがあったので、勝手は知っていた。 もっとも、彼はほとんどファイの部屋で生活しているも同然だったので、せいぜい着替えに戻る程度だった。 「でも……」 「それも、ちょうだい」 戸惑う小狼に、濡れた黒鋼の上着を寄こせと手を差し出す。 今は誰にも彼のものを触らせたくなかった。彼は自分のものだ。なら、彼が身につけるものも何もかも、自分のものだ。 心底困り果てた表情で黒鋼とファイを交互に見ていた小狼に、黒鋼が頷いて見せる。 「着替えはいい。こいつの好きにさせる。それだけ頼む」 「……はぁ」 「黒たんっ」 声を荒げたファイに「行くぞ」と言って、黒鋼は部屋へ向かって歩き出した。仕方なく、ファイはそんな彼の背中を追った。 シャンデリアの煌煌と煌めく玄関ホールには、ずぶ濡れの上着とタオルを持った小狼と、そんな彼が零した溜息だけが残された。 * 黒鋼が浴室でシャワーを浴びる音を確かめると、ファイは黒鋼の部屋から適当な着替えを引っ掴んで自室に戻った。 持ってきたものを洗面所に置いてから、ファイはベッドにぼすんと音を立てて座った。 程なくして白いシャツとジャージの下だけを穿いた黒鋼が戻って来た。 彼が戻って来たことで解消されたはずの不安が、未だファイの中で渦巻いている。もちろん安心感はある。だからこその苛立ちもまた沸々と蘇って来て、ファイは膝の上で両手を握りしめたまま、微動だにできないでいた。 「そろそろ機嫌なおせよ。好きで立ち往生したわけじゃねぇんだ」 ファイの横に腰を下ろし、黒鋼が肩に腕を回すと抱き寄せてくる。大人しく身体を預ければ、石鹸の香りと熱いくらいの体温が感じられて、ファイは少し泣きたくなった。 「そのくらいわかってるよ……でも……でも、早く帰って来てって言った」 「そうだったな」 黒鋼の手がファイの頭に触れて、指が髪を梳く。そのままさらに引き寄せられて、黒鋼の首筋に額がぴったりとはまる。 「ご飯、毎日一緒じゃなきゃやだ」 「悪かった。本当に」 「本当は……出かけるのだって……」 「……わかってる」 黒鋼の指が優しく髪に触れれば触れるほど、ファイは情けなくて唇を噛みしめた。 本当は何事もなく無事に帰って来てくれたことが嬉しい。ただそれだけのはずだった。なのに口から出てくる言葉は、呆れるほどどうしようもないものばかりだった。 素直に欲しいものばかり声に出すことは出来るのに、労わる言葉の一つもかけられない。そんな自分を、彼はどう思っているのだろう。 ファイは黒鋼が屋敷を開ける日が、とても嫌だった。病に伏している家族がいるのなら、きっと毎日でも通って傍にいたいと思っているはずだ。それでも彼は月のうち、片手の指で足りるほどしか出かけない。自分が縛りつけているからなのだと、ちゃんと分かっているのに。 気持ちを制御できなくて、小狼にまで八つ当たりしてしまった。 「凄く嫌な奴だね……オレって」 「なんだよ、いきなり」 ふっと、黒鋼が笑った。そんな風に甘やかすからいけない。そうするように命じているのは、ファイ自身なのに。 試しているのかもしれないと、ふいに思う。 彼がどこまで自分の我儘を赦してくれるのか、もし本当に見限られるようなことがあれば、生きてなんていけないくせに。 そう、彼なしでは。 ファイは震える手を黒鋼の胸にぴたりと当てる。そして、白いシャツをぎゅっと握った。 「生きていけない」 「…………」 「君がいなくなったら、生きていけない」 顔を上げれば、黒鋼は僅かに瞳を見開いていた。頼りない照明の中でもわかる、紅蓮の瞳。 いっそ全て焼きつくしてくれたらいいと思った。こんな我儘な自分を、彼に依存しなければ生きていけない自分を、それ以外、空っぽの自分を。 「死んでやるから」 こんなときでさえ我儘しか言えないファイに、黒鋼は一度だけ目を閉じた。そして、ふと口元に微かな笑みを乗せる。そして言った。 「あのときと、同じようなことを言うんだな。おまえは」 「え……?」 黒鋼が呟いた言葉に目を見開いた。けれどその視界はすぐに黒い影に覆われてしまう。 唇を塞がれ、熱い舌が差し込まれた。 「ッ、ふ……」 一瞬だけ逃れようと肩をすくめたファイを、黒鋼は許さなかった。強く身体を抱きしめられて、ひたすら濃厚な口づけを与えられる。 戸惑う暇もないうちに、身体の奥に火を灯される。知らぬ間にファイも彼の背に腕を回して、もっともっとと深く求めていた。 何もかもどうでもよくなる。それは、本当はとても怖いことなのに。 どこまで堕ちていくのだろう。 糸を引きながら唇が離れていく。 シャツのボタンを一つ一つ外していく無骨な指先を、ぼんやりと見つめた。露わになった白い胸にも、口づけの雨が降り注ぐ。 がっしりとした肩に手を這わせて、怯えるように縋りついた。 じんわりと、舌の上で氷を溶かすような愛撫はどこまでも優しくて、ファイは震えながらか細い声で啼く。 「咥えろ」 黒鋼の人差し指と中指が、唇に宛がわれる。泣きそうに潤んだ瞳を揺らすファイは、言われるままそれを口に含んだ。 ゆるゆると出し入れされる指に、濡れた音を立てながら必死に舌を絡める。 夢中になっている間に、気がつけばファイは黒鋼に全てを曝け出していた。中途半端にシャツを両腕に引っ掛けるだけで、下肢はもともと何もなかったかのように、肌が剥き出しになっている。 「ぁふ……ッ! んんっ……や、ぁ」 「ガキみてぇだな。おまえのここは」 右手の指をファイの好きにさせている黒鋼は、左手の指でファイの淡い茂みをひと撫ですると、そのまま性器に絡めた。ビクンと背筋を反らせたファイの身体が崩れ落ちる。 柔らかなシーツに受け止められながら、両手でしっかりと黒鋼の手首を掴んだ。舌の上で二本の指がばらばらと蠢く度に、頭の中身ごと掻きまわされているような気がして、目が回った。 黒鋼は性器に絡めた指をゆるゆると動かしていく。彼の大きな手で包まれては、確かに自分の薄紅の性器など子供じみた拙いものに見えてしまう。 羞恥と駆け巡る快感を堪えるように、ファイは意地になって二本の指を愛撫する。わざと音を立てて、黒鋼の注意を引きつけるかのように。 「んぅ、ぅ……ッ、は、ぁ……」 二本の指にファイの唾液が滴るまでになると、もう余裕はなかった。性器を扱く黒鋼の指は一定のリズムを保ち続けている。ゆるゆるとした動きに弄ばれたそれは、完全に勃起して天を仰いでいた。 追いつめて、もっとずっと高い場所へ押し上げてほしい。 けれどそれを口に出して言えば、あっという間に解放させられてしまう。それを望んでいるくせに、今がずっと続けばいいとも思っている。 「もうイクか?」 「んくっ、ぁ、あッ、や、い、かな……ッ」 もはや指などしゃぶっていられる余裕のないファイは、黒鋼の手首を掴んだまま、ぶるぶると首を振った。 「辛いんだろ」 「だっ、て! おわっちゃう、から……!」 「終わらねぇよ」 「ッ―――!!」 黒鋼の親指が先走りに滑る鈴口を抉るように引っかいた。その刺激は到底耐えられるものではなく、ファイはあっけなく射精した。 はくはくと呼吸を繰り返し、痙攣するファイの両足がさらに開かれる。両手の中から黒鋼の腕が遠ざかっていく。 「何度でもしてやる。おまえが満足するまで、何度でも」 黒鋼の声が、耳の中でどろりと溶けていくような気がした。心も身体も、火で焙られた蝋燭の蝋のように。 彼の言葉はどこまでもファイを強欲にし、そして堕落させる。まだ底があるのかと思うくらい、深く深く、容赦なく。 「だ、め……」 唾液に濡れた指が精液をも絡め取り、至ったのはファイの身体の奥まった場所だった。 これまでも幾度か交わした行為により、もうすっかり覚え込んでいる身体は、挿入の衝撃を思い出して震えた。 「だめ……」 「どうして」 ぐちゅりと音がして、指が潜り込む。優しく解されていく感覚は、快楽と比例してなぜか酷く情けないものだった。 「何が駄目だ? 言えよ」 ファイは首を振った。自分でもよくわからなかった。黒鋼に抱かれるのは嫌じゃない。むしろ欲しくて欲しくて堪らないはずなのに。 「なぁ、どうすればおまえは怯えなくて済む? 何が不安だ?」 「ふ……あん……?」 「これ以上、何が足りない?」 俺は、どうしてやればいい? 黒鋼の表情の方が、ずっと不安げに見えるのはなぜだろう。 どうしてか、まるで泣きだす寸前の子供のように、ファイの目に映った。 そしてそのとき、ファイには少しだけ分かったような気がした。 自分には、何も役割がないと思っていた。だけど。 「黒たん……くろがね……」 両腕を伸ばし、誘うように彼を抱き寄せた。身体から指が引き抜かれる感覚に、背筋が震えたのは一度だけ。 「一人にしないで」 耳元で囁く。 「言って。愛してるって」 「……愛してる」 「オレの言うこと、聞いて。ずっと、永遠にオレのものだって、誓って」 「誓う。おまえのものだ」 「なら」 滅茶苦茶にしてと、ファイは言った。 そこはまだ十分に解されてはいない。けれどファイが「欲しい」と言えば、黒鋼は抗わない。 痛いも熱いも苦しいも、何もわからないで二人は夢中で繋がった。 これ以上は無理だと思えるくらい黒鋼が奥へと進んできても、ファイは欲しがることを止めなかった。突き破って、頭の中まで掻きまわして、壊すくらいに揺さぶって欲しい。 ファイは見つけた。ただ我儘を言って、欲しがるだけの自分を、どこかで恥じていたけれど、黒鋼の存在が自分の中の欠けた『何か』を満たしてくれるように、欲しがることで、彼を満たしているというのなら。 ようやく自分という存在に意味を見つけることが出来たような、そんな気がした。 *** 「わぁ、外白んでる」 それは酷くしゃがれていて、ファイは自分の声に驚いた。幾度か咳き込む背を黒鋼が苦笑しながら撫で摩る。 「雨も止んだな」 「うん……ケホッ」 天蓋つきのベッドに二人、裸でシーツに包まりながら、まだ薄暗い窓の外を眺めていた。 いい加減眠ればいいのに、なぜかお互いそうする気になれずに、ぽつりぽつりと会話を続けている。 激しく抱き合った余韻は、漆黒の闇が滲むようにゆっくりとベールを剥がし、やがて朝が訪れるのと同じく静かに過ぎ去って行った。 鉛のように重い身体も、ジンジンとした痺れる痛みも、なぜか清々しいほど心地いい。 「オレね……目が覚めたときから、何か足りないって、思ってたんだよね」 自分の中で何かが欠けているような、ここに確かに存在しているのに、大切なものをすっぽりと置き忘れているような。けれどそれが一体なんなのかが分からず、ただ闇雲に手を伸ばそうとしていたような気がする。 「空っぽだなって……でも、それはただオレに記憶がないからだって、そう思ってた」 するりと手が伸びて来て、いつの間にか解けていた長い金の髪を掬った。そのまま指に絡めたり、梳かしたりする仕草にクスリと笑う。 「……違ったのか?」 「わかんない。本当は、今もまだ欠けてるのかもしれない。けど、黒たんといるとね、埋まるの。こうしてると、オレの中、いっぱいになる」 溢れて零れだすくらい、ファイの中は黒鋼で満たされる。それでも彼は継ぎ足すのを止めないから、満たされすぎていっそ見失っていた。 「いっぱいになると、忘れちゃう。全部」 髪を弄んでいた指が、どこか満足げに今度はファイの頬をくすぐった。吐息のような笑い声を零しながら、ファイは肩を竦める。 「そうか」 黒鋼がファイを生かし、ファイが黒鋼を生かしている。そんな気がした。彼は花を愛でるのと同じ優しさで、ファイに触れるから。そこに言葉がなくても伝わった。 お互いに注ぎ合い、溢れだして止まらない。それは溺れていることと同じだった。抱き合うことに必死すぎて、泳ぐことも出来ずに深い水底へと堕ちていく。どこまでも、どこまでも。果てがない。 ファイはそれを、たった一人で溺れているのだと勘違いしていた。こんなにも強く抱き合っていたことに気付かずに。 「あ、そうだ。黒たん」 「ん?」 そういえば思いだした。もう一つ、彼に大切なことを言わなければならなかったことを。 ファイは重い半身を僅かに起こすと、黒鋼の胸板に肘を乗せて頬杖をついた。そして悪戯っ子のように笑った。 「次、帰って来るの遅くなったらお仕置き。しばらくお喋りしてあげない」 そう言うと、黒鋼はぱちぱちと幾度か瞬きをした。よく見ると、その瞳を縁取る睫毛は意外と長い。彼は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。 「そいつはキツイな」 本当にそう思っているのか、いないのか。もし本当にそのときが来れば、自分の方が持たないことを知っているファイは、しゃがれた声を上げて笑った。 ←戻る ・ 次へ→
そんな日は一日中、ファイの機嫌は最悪である。
大概の我儘は聞き入れてくれる黒鋼でも、こればかりは譲れないらしかった。
彼は、街の病院に入院する母親の見舞いに出かけていくのだから。
***
その日は朝から雨だった。
黒鋼は朝食を済ませ、少し庭に出たあと屋敷を出て行った。
出がけに不貞腐れるファイの頭を撫でながら、彼はほとんど表情を変えなかったけれど、なんとなく困らせているのだろうなということは分かった。
いってらっしゃいの代わりに、ファイは「早く帰って来てね」とだけ言った。彼はいつも夕食の前までには必ず戻って来たけれど、それよりも早く戻れるなら、そうして欲しくて。
雨のせいで屋敷全体は薄暗く、先の幽霊話の一件も手伝って、ファイは屋敷の中をブラつくこともせず部屋で一日中腐っていた。
サクラや小狼も常に側にいられるわけではなく、そういえば自分だけがこの屋敷にいて、何の役割も与えられていないことに気がついた。自分がここの主ならばまだしも、それはいまいちハッキリしない。
いくらなんでもそこまで隠す必要性を感じないファイは、ならばここの持ち主は、これほど大きな屋敷を放り投げて一体どこをほっつき歩いているのかと、不思議に感じた。
自分は何のためにここにいるのだろう。そして、ファイには黒鋼という存在が必要不可欠だけれど、彼は同じだけ求めてくれているのだろうか。
所有者が所有物をどう扱おうが、それが機械やただの道具だったら、気にも留めないことだった。けれど黒鋼は物じゃないし、万能な機械でもない。心を持った人間だ。好き嫌いがあれば、許容できる範囲だって限られているはず。
この妙な関係が契約のもと成り立っているのなら、黒鋼の心が別にあったとしても、ファイには分からない。
一人でいると、そんなことばかりが頭をチラついた。
***
片時も止むことなく降り続いていた雨は、時間が経つにつれて雨足と、そして風を強めていった。
外が暗くなる頃には、ザーザーという音が耳を塞いでいても嫌でも耳に入って来るほどだった。
いつもなら、夕食の前には必ず戻って来るはずの黒鋼の帰宅が、今日に限って遅い。
おかげで食事もどことなく味気ない気がして、気がつくと手が止まり、ぼんやりしてしまう始末だった。
それでもサクラや小狼が気遣ってくれていることを知っていたから、どうにか腹に押し込めた。今はただひたすら胃の辺りが重苦しい。
ファイは窓辺に立ち尽くしたまま、ガラスにぺったりと手のひらを当てて、暗い庭を見つめていた。
「……遅すぎる」
はじめのうちはなかなか戻らない黒鋼に腹も立っていた。
けれど時計の針が進むにつれて、苛立ちはあらゆる不安へと姿を変える。
この大雨の中、もしかして何かあったのではないかと、嫌な想像ばかりが先刻から頭の中にこびりついて離れてくれなかった。
もし事故にでもあって大怪我をしていたら。
もし……もし怪我だけでは済まなかったら……もう会えなかったら……。
あるいは、本人の意思でもうここへは帰って来るつもりがないのだとしたら。
「そんなの……」
絶対に嫌だった。
約束は守っている。屋敷と庭でしか遊ばないし、森にだって一度も足を踏み入れていない。外へ出るなんてもっての外だ。そもそも、出て行ったところで行くあてだってない。
愛想を尽かされていたらどうしよう。見捨てられたら、置き去りにされたら、投げ出されたら、忘れられてしまったら。
何より怖いのは、一言の言葉も交わさず、突然失うこと。
二度と会えなくなること。
世界中どこを探しても、死んでしまったら、もう……。
「……嫌だな、なに考えてるんだろうオレ。死ぬなんてそんな、縁起でもないこと」
窓の外の木の枝が、豪風と雨に打たれてガラス窓にぶつかる。バタバタという雨音と、ゴツゴツという枝が窓を叩く音が、なんだかとても恐ろしいものに思えて、ファイはその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。
最悪だと思った。これも全部、黒鋼のせいだ。
いつまでも帰って来ないから、こんなにもマイナスの考えに取りつかれるし、結局は一日中不安なままだった。ベッドに入ったって、どうせ眠れるわけがない。
それでもただ床に蹲っているよりはと、ファイはのろのろと立ち上がりベッドへと向かおうとした。
そのとき、窓の外に何か光るものが映った気がした。
「……!」
遠く、庭の向こう側の門に小さく見えた明かりの正体は、車のライトだった。
「黒たん!」
慌てて部屋を飛び出し、玄関ホールへ行くと、そこにはずぶ濡れの黒鋼と、彼にタオルを差し出す小狼の姿があった。
「おう」
短く返事をしながら、受け取ったタオルを頭からかぶった黒鋼が、片手を上げる。
思わずカッとして、ファイは早足に近づくときっと睨みつけた。
「なんて顔してんだよ」
やれやれといった表情の黒鋼と、その隣では濡れた上着を受け取った小狼が、困った顔をしていた。
「遅いよ……! 連絡ぐらいくれたっていいのに!」
「しょうがねぇだろ……事故に巻き込まれちまったんだからよ」
「事故!?」
サァ、と青ざめたファイだったが、すかさず小狼が続けた。
「黒鋼さんは無事ですよ、ファイさん。ただ、交通規制がかかったせいで足止め状態だったそうで」
思い出したのか、黒鋼が苛立ったように舌打ちをすると、すっかりびしょ濡れになったタオルも小狼に渡した。
「冗談じゃねぇ。他に道はねぇわ腹は減るわで……」
「災難でしたね……。よければ夕食を温めなおしますか?」
「いや……」
黒鋼は申し出を左手で軽く遮ると、自分のシャツの裾を握り締めたまま俯くファイを見た。
「じゃあ、せめて風邪をひかいないうちにお風呂へ」
「おう。おまえもとっとと休めよ」
「わかりました。じゃあ、着替えだけ準備しておきます」
「だめ」
一連の会話をただ黙って聞いていたファイだったが、辛抱たまらず短く制すと、黒鋼の濡れた袖をぎゅっと掴んだ。
「お風呂、オレんとこで入るでしょ……? 着替えは、オレが準備するから」
ファイ以外の3人は、この屋敷の二階にあるゲストルームを適当に自室として使っている。黒鋼の部屋にはこれまで幾度か入ったことがあったので、勝手は知っていた。
もっとも、彼はほとんどファイの部屋で生活しているも同然だったので、せいぜい着替えに戻る程度だった。
「でも……」
「それも、ちょうだい」
戸惑う小狼に、濡れた黒鋼の上着を寄こせと手を差し出す。
今は誰にも彼のものを触らせたくなかった。彼は自分のものだ。なら、彼が身につけるものも何もかも、自分のものだ。
心底困り果てた表情で黒鋼とファイを交互に見ていた小狼に、黒鋼が頷いて見せる。
「着替えはいい。こいつの好きにさせる。それだけ頼む」
「……はぁ」
「黒たんっ」
声を荒げたファイに「行くぞ」と言って、黒鋼は部屋へ向かって歩き出した。仕方なく、ファイはそんな彼の背中を追った。
シャンデリアの煌煌と煌めく玄関ホールには、ずぶ濡れの上着とタオルを持った小狼と、そんな彼が零した溜息だけが残された。
*
黒鋼が浴室でシャワーを浴びる音を確かめると、ファイは黒鋼の部屋から適当な着替えを引っ掴んで自室に戻った。
持ってきたものを洗面所に置いてから、ファイはベッドにぼすんと音を立てて座った。
程なくして白いシャツとジャージの下だけを穿いた黒鋼が戻って来た。
彼が戻って来たことで解消されたはずの不安が、未だファイの中で渦巻いている。もちろん安心感はある。だからこその苛立ちもまた沸々と蘇って来て、ファイは膝の上で両手を握りしめたまま、微動だにできないでいた。
「そろそろ機嫌なおせよ。好きで立ち往生したわけじゃねぇんだ」
ファイの横に腰を下ろし、黒鋼が肩に腕を回すと抱き寄せてくる。大人しく身体を預ければ、石鹸の香りと熱いくらいの体温が感じられて、ファイは少し泣きたくなった。
「そのくらいわかってるよ……でも……でも、早く帰って来てって言った」
「そうだったな」
黒鋼の手がファイの頭に触れて、指が髪を梳く。そのままさらに引き寄せられて、黒鋼の首筋に額がぴったりとはまる。
「ご飯、毎日一緒じゃなきゃやだ」
「悪かった。本当に」
「本当は……出かけるのだって……」
「……わかってる」
黒鋼の指が優しく髪に触れれば触れるほど、ファイは情けなくて唇を噛みしめた。
本当は何事もなく無事に帰って来てくれたことが嬉しい。ただそれだけのはずだった。なのに口から出てくる言葉は、呆れるほどどうしようもないものばかりだった。
素直に欲しいものばかり声に出すことは出来るのに、労わる言葉の一つもかけられない。そんな自分を、彼はどう思っているのだろう。
ファイは黒鋼が屋敷を開ける日が、とても嫌だった。病に伏している家族がいるのなら、きっと毎日でも通って傍にいたいと思っているはずだ。それでも彼は月のうち、片手の指で足りるほどしか出かけない。自分が縛りつけているからなのだと、ちゃんと分かっているのに。
気持ちを制御できなくて、小狼にまで八つ当たりしてしまった。
「凄く嫌な奴だね……オレって」
「なんだよ、いきなり」
ふっと、黒鋼が笑った。そんな風に甘やかすからいけない。そうするように命じているのは、ファイ自身なのに。
試しているのかもしれないと、ふいに思う。
彼がどこまで自分の我儘を赦してくれるのか、もし本当に見限られるようなことがあれば、生きてなんていけないくせに。
そう、彼なしでは。
ファイは震える手を黒鋼の胸にぴたりと当てる。そして、白いシャツをぎゅっと握った。
「生きていけない」
「…………」
「君がいなくなったら、生きていけない」
顔を上げれば、黒鋼は僅かに瞳を見開いていた。頼りない照明の中でもわかる、紅蓮の瞳。
いっそ全て焼きつくしてくれたらいいと思った。こんな我儘な自分を、彼に依存しなければ生きていけない自分を、それ以外、空っぽの自分を。
「死んでやるから」
こんなときでさえ我儘しか言えないファイに、黒鋼は一度だけ目を閉じた。そして、ふと口元に微かな笑みを乗せる。そして言った。
「あのときと、同じようなことを言うんだな。おまえは」
「え……?」
黒鋼が呟いた言葉に目を見開いた。けれどその視界はすぐに黒い影に覆われてしまう。
唇を塞がれ、熱い舌が差し込まれた。
「ッ、ふ……」
一瞬だけ逃れようと肩をすくめたファイを、黒鋼は許さなかった。強く身体を抱きしめられて、ひたすら濃厚な口づけを与えられる。
戸惑う暇もないうちに、身体の奥に火を灯される。知らぬ間にファイも彼の背に腕を回して、もっともっとと深く求めていた。
何もかもどうでもよくなる。それは、本当はとても怖いことなのに。
どこまで堕ちていくのだろう。
糸を引きながら唇が離れていく。
シャツのボタンを一つ一つ外していく無骨な指先を、ぼんやりと見つめた。露わになった白い胸にも、口づけの雨が降り注ぐ。
がっしりとした肩に手を這わせて、怯えるように縋りついた。
じんわりと、舌の上で氷を溶かすような愛撫はどこまでも優しくて、ファイは震えながらか細い声で啼く。
「咥えろ」
黒鋼の人差し指と中指が、唇に宛がわれる。泣きそうに潤んだ瞳を揺らすファイは、言われるままそれを口に含んだ。
ゆるゆると出し入れされる指に、濡れた音を立てながら必死に舌を絡める。
夢中になっている間に、気がつけばファイは黒鋼に全てを曝け出していた。中途半端にシャツを両腕に引っ掛けるだけで、下肢はもともと何もなかったかのように、肌が剥き出しになっている。
「ぁふ……ッ! んんっ……や、ぁ」
「ガキみてぇだな。おまえのここは」
右手の指をファイの好きにさせている黒鋼は、左手の指でファイの淡い茂みをひと撫ですると、そのまま性器に絡めた。ビクンと背筋を反らせたファイの身体が崩れ落ちる。
柔らかなシーツに受け止められながら、両手でしっかりと黒鋼の手首を掴んだ。舌の上で二本の指がばらばらと蠢く度に、頭の中身ごと掻きまわされているような気がして、目が回った。
黒鋼は性器に絡めた指をゆるゆると動かしていく。彼の大きな手で包まれては、確かに自分の薄紅の性器など子供じみた拙いものに見えてしまう。
羞恥と駆け巡る快感を堪えるように、ファイは意地になって二本の指を愛撫する。わざと音を立てて、黒鋼の注意を引きつけるかのように。
「んぅ、ぅ……ッ、は、ぁ……」
二本の指にファイの唾液が滴るまでになると、もう余裕はなかった。性器を扱く黒鋼の指は一定のリズムを保ち続けている。ゆるゆるとした動きに弄ばれたそれは、完全に勃起して天を仰いでいた。
追いつめて、もっとずっと高い場所へ押し上げてほしい。
けれどそれを口に出して言えば、あっという間に解放させられてしまう。それを望んでいるくせに、今がずっと続けばいいとも思っている。
「もうイクか?」
「んくっ、ぁ、あッ、や、い、かな……ッ」
もはや指などしゃぶっていられる余裕のないファイは、黒鋼の手首を掴んだまま、ぶるぶると首を振った。
「辛いんだろ」
「だっ、て! おわっちゃう、から……!」
「終わらねぇよ」
「ッ―――!!」
黒鋼の親指が先走りに滑る鈴口を抉るように引っかいた。その刺激は到底耐えられるものではなく、ファイはあっけなく射精した。
はくはくと呼吸を繰り返し、痙攣するファイの両足がさらに開かれる。両手の中から黒鋼の腕が遠ざかっていく。
「何度でもしてやる。おまえが満足するまで、何度でも」
黒鋼の声が、耳の中でどろりと溶けていくような気がした。心も身体も、火で焙られた蝋燭の蝋のように。
彼の言葉はどこまでもファイを強欲にし、そして堕落させる。まだ底があるのかと思うくらい、深く深く、容赦なく。
「だ、め……」
唾液に濡れた指が精液をも絡め取り、至ったのはファイの身体の奥まった場所だった。
これまでも幾度か交わした行為により、もうすっかり覚え込んでいる身体は、挿入の衝撃を思い出して震えた。
「だめ……」
「どうして」
ぐちゅりと音がして、指が潜り込む。優しく解されていく感覚は、快楽と比例してなぜか酷く情けないものだった。
「何が駄目だ? 言えよ」
ファイは首を振った。自分でもよくわからなかった。黒鋼に抱かれるのは嫌じゃない。むしろ欲しくて欲しくて堪らないはずなのに。
「なぁ、どうすればおまえは怯えなくて済む? 何が不安だ?」
「ふ……あん……?」
「これ以上、何が足りない?」
俺は、どうしてやればいい?
黒鋼の表情の方が、ずっと不安げに見えるのはなぜだろう。
どうしてか、まるで泣きだす寸前の子供のように、ファイの目に映った。
そしてそのとき、ファイには少しだけ分かったような気がした。
自分には、何も役割がないと思っていた。だけど。
「黒たん……くろがね……」
両腕を伸ばし、誘うように彼を抱き寄せた。身体から指が引き抜かれる感覚に、背筋が震えたのは一度だけ。
「一人にしないで」
耳元で囁く。
「言って。愛してるって」
「……愛してる」
「オレの言うこと、聞いて。ずっと、永遠にオレのものだって、誓って」
「誓う。おまえのものだ」
「なら」
滅茶苦茶にしてと、ファイは言った。
そこはまだ十分に解されてはいない。けれどファイが「欲しい」と言えば、黒鋼は抗わない。
痛いも熱いも苦しいも、何もわからないで二人は夢中で繋がった。
これ以上は無理だと思えるくらい黒鋼が奥へと進んできても、ファイは欲しがることを止めなかった。突き破って、頭の中まで掻きまわして、壊すくらいに揺さぶって欲しい。
ファイは見つけた。ただ我儘を言って、欲しがるだけの自分を、どこかで恥じていたけれど、黒鋼の存在が自分の中の欠けた『何か』を満たしてくれるように、欲しがることで、彼を満たしているというのなら。
ようやく自分という存在に意味を見つけることが出来たような、そんな気がした。
***
「わぁ、外白んでる」
それは酷くしゃがれていて、ファイは自分の声に驚いた。幾度か咳き込む背を黒鋼が苦笑しながら撫で摩る。
「雨も止んだな」
「うん……ケホッ」
天蓋つきのベッドに二人、裸でシーツに包まりながら、まだ薄暗い窓の外を眺めていた。
いい加減眠ればいいのに、なぜかお互いそうする気になれずに、ぽつりぽつりと会話を続けている。
激しく抱き合った余韻は、漆黒の闇が滲むようにゆっくりとベールを剥がし、やがて朝が訪れるのと同じく静かに過ぎ去って行った。
鉛のように重い身体も、ジンジンとした痺れる痛みも、なぜか清々しいほど心地いい。
「オレね……目が覚めたときから、何か足りないって、思ってたんだよね」
自分の中で何かが欠けているような、ここに確かに存在しているのに、大切なものをすっぽりと置き忘れているような。けれどそれが一体なんなのかが分からず、ただ闇雲に手を伸ばそうとしていたような気がする。
「空っぽだなって……でも、それはただオレに記憶がないからだって、そう思ってた」
するりと手が伸びて来て、いつの間にか解けていた長い金の髪を掬った。そのまま指に絡めたり、梳かしたりする仕草にクスリと笑う。
「……違ったのか?」
「わかんない。本当は、今もまだ欠けてるのかもしれない。けど、黒たんといるとね、埋まるの。こうしてると、オレの中、いっぱいになる」
溢れて零れだすくらい、ファイの中は黒鋼で満たされる。それでも彼は継ぎ足すのを止めないから、満たされすぎていっそ見失っていた。
「いっぱいになると、忘れちゃう。全部」
髪を弄んでいた指が、どこか満足げに今度はファイの頬をくすぐった。吐息のような笑い声を零しながら、ファイは肩を竦める。
「そうか」
黒鋼がファイを生かし、ファイが黒鋼を生かしている。そんな気がした。彼は花を愛でるのと同じ優しさで、ファイに触れるから。そこに言葉がなくても伝わった。
お互いに注ぎ合い、溢れだして止まらない。それは溺れていることと同じだった。抱き合うことに必死すぎて、泳ぐことも出来ずに深い水底へと堕ちていく。どこまでも、どこまでも。果てがない。
ファイはそれを、たった一人で溺れているのだと勘違いしていた。こんなにも強く抱き合っていたことに気付かずに。
「あ、そうだ。黒たん」
「ん?」
そういえば思いだした。もう一つ、彼に大切なことを言わなければならなかったことを。
ファイは重い半身を僅かに起こすと、黒鋼の胸板に肘を乗せて頬杖をついた。そして悪戯っ子のように笑った。
「次、帰って来るの遅くなったらお仕置き。しばらくお喋りしてあげない」
そう言うと、黒鋼はぱちぱちと幾度か瞬きをした。よく見ると、その瞳を縁取る睫毛は意外と長い。彼は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。
「そいつはキツイな」
本当にそう思っているのか、いないのか。もし本当にそのときが来れば、自分の方が持たないことを知っているファイは、しゃがれた声を上げて笑った。
←戻る ・ 次へ→