2025/09/18 Thu 長閑な秋晴れの日。昼下がりの空の下、サクラとファイは庭に面したテラスでまったりと紅茶と焼き菓子を楽しんでいた。 「いい天気だねー」 「いい天気ですね」 二人の頭上にはぽわ~んと小花が浮かんでいる。 「今年の秋はポカポカ陽気だねー」 「でも、夜はちょっぴり寒いですね」 「あれれ?」 「はい?」 「サクラちゃん、小狼君と一緒に寝てないのー?」 「はい!?」 きょとんと小首を傾げながら、なにやらとんでもないことをサラリと言ってのけたファイに、サクラは思わず手の中の皿とカップを取り落としそうになった。 「にゃ、にゃにっ、を!?」 「あ、噛んだ」 「ファイさん!!」 顔が破裂するのではないかと思うほど真っ赤になりながら、サクラは精一杯声を張り上げる。ファイはふにゃりと笑った。 「寒い夜は、誰かと一緒に布団に入るとポカポカだよー?」 「ぽ、ぽかぽか……」 サクラは恋する、そして夢見る少女である。 あまりにもファイがなんでもないことのように言うものだから、思わず引っ張られるかのごとく妄想……想像してしまう。 例えば寒くて寒くて仕方がない夜。猫や犬が一緒に寝てくれたら、もふもふできっと温かい。さぞかし寝心地もいいだろう。 けれどそれが、もし小狼だったら……。 ……。 ……。 …………。 チュボムッという音がした。 それはサクラの頭の天辺から、煙と一緒に出た音だった。 流石のファイも慌てふためく。 「さ、サクラちゃん!? なんか爆発したよー!?」 「む、む、む、無理ですー!!」 考えるだけで、本当に爆発して弾け飛んでしまいそうだった。 万が一そんな状況になれば、ポカポカどころの騒ぎではない。火が噴きだすのではないか。小狼まで巻き込んで、火だるまになってしまう。 サクラは「はにゃーっ」とか「ほえーっ」という訳のわからない奇声を発しながら、両手で顔を覆い、髪を振り乱した。 なぜかじんわりと涙が浮かんできて、潤んだ瞳でファイを上目使いに見上げる。 「私……私……」 涙目のサクラに見上げられているファイは「うっ」と息を詰まらせている。 「小狼君と一緒に、ね、寝るなんて……駄目です……」 「な、なんで?」 「ドキドキして……緊張して……眠れない、です……」 今だって、例えば夜寝る前だとか、隣の部屋に小狼がいると思うだけでもドキドキしてしまうことがある。 もう寝たかなとか、どんな夢を見てるのかなとか、夢の中で会えるかな、とか。 そんなことを考えるだけで胸が熱くなって、そして同じくらい、幸せな気持ちになったりもする。 もし隔てるものがなくなってしまったら、ドキドキしすぎて心臓が止まってしまうかもしれない。 小さな子供の頃は一緒に寝るくらい平気だったのに、少しずつ成長するにつれて、それはとても難しいことのように思えた。 高熱を発する頬を冷やすように、無意識に両手で包む。 小狼への気持ちが恋であることは自覚しているつもりだった。彼も同じ気持ちでいてくれたらいいなと、そんな淡い期待もある。いつか伝えられたらいいなと。 それでも今はただ遠くから見つめているだけで、小狼を想っているだけで、十分幸せだったのだ。 「ドキド……キ……? きんちょお……?」 ファイは笑ったまま、動かなくなってしまった。口元は笑っているのに、目だけは笑っていないような気がする。 そのまま少しだけ間が開いた。やがて、随分と遅れて彼は頬を染めた。そして、もじもじと俯いてしまった。 「……ごめん」 「……いえ」 「オレ……いつの間にか爛れた大人になっちゃってたみたい……」 「た、ただれ……?」 「なんでもにゃい……」 あ、噛んだ……という突っ込みは胸にしまった。からかわれることの多いサクラの目には、頬を染めているファイはとても珍しいものに映った。 そういえばファイは黒鋼の姿を見つけると、迷いなくその胸に飛び込んでいく。まるで犬猫が飼い主に甘えるみたいで、いつも微笑ましい気持ちで眺めていたのだが。 さきほどの話の様子から、いくら鈍いサクラでも察しがつく。寒い日の夜、ファイは黒鋼と寝ているのか……。 そんなことが、本当に、ごくごく普通に、それこそ大人の恋人同士みたいに小狼とできたなら……。 ファイとこんな会話をするまでは、考えたこともなかったけれど。 再び『ボンッ』という音がした。自分の頭のてっぺんから。 「わぁ!? サクラちゃんがセカンドインパクト!!」 「う、う、羨ましくなんてにゃいですぅ!!」 「何が!?」 再び奇声を上げてモダモダしはじめたサクラに慌てたファイが、無理やり話の方向を切り替えた。 「そうだ! ねぇサクラちゃんはあの開かずの間って入ったことあるの!?」 開かずの間、というキーワードにピンと来ず、サクラはコトリと小首を傾げた。 ファイは一瞬ハッとしてバツの悪そうな顔をして見せたが、すぐにニコニコ顔に戻った。少し引き攣っていたようには見えたが。 「ほ、ほら……書庫がある方の通路の、突き当りの……」 「あ、奥の部屋ですか?」 「うん……」 「ないですけど……どうして?」 「く、黒たんが……あそこに近づくとお化けに食われるぞって……あ、別に怖くないよ? ただほら、大きいお屋敷ってさ、そんな感じの雰囲気あるでしょー? ね?」 ファイは何やらしきりに言い訳めいたことを口走っているようだが、サクラは人差し指を唇の下に当てて「んー」と小さく唸った。 「あそこには何もいませんけど……あ、でも地下の食糧庫には、いつも気さくに声をかけてくださる落ち武者さんが」 「ちょい待って!? なに!? おもむろに何!? 何の話!?」 「え? だから落ち武者さんが」 「キィーヤァー!!!」 ファイは思い切り両耳を塞いで、頭をぶんぶんと振っている。長い尻尾のような金の髪が左右に揺れていて、サクラはそれを可愛いなと思った。 「知らなかった……やっぱいる……いるよこの屋敷……」 ブツブツと何かを呟いているファイの心中も知らず、とりあえず笑って言った。 「でもファイさん。あそこは開かずの間ではないと思いますよ?」 「……そう、なの?」 「はい。ちゃんと開くと思います。入ったことはないですけど、鍵がある場所も、私知ってます」 一瞬ファイが肩を震わせて、これまでとは違う反応を示した気がした。けれど特に気にせず続ける。 「確か、今は小狼君が管理しているはずですよ」 「小狼君が……」 サクラも、あの部屋に何があるのかは知らない。 ただ分かることは、おそらく少し前まで……ファイが目を覚ますまでは、鍵を所持していたのは黒鋼だったということと、今は小狼が管理しているということだ。 以前、偶然ではあるが黒鋼が小狼に鍵を手渡しているのをちらりと見かけたことがある。二人は何か真剣な面持ちで話をしていたようだったが、その内容も勿論知らない。 あとはサクラから見て、というより感じる限り、あの部屋にファイが怖がるような何かはいないということだけだ。 「きっと、何かとても大切なものがしまってあるんだと思います」 そう言ってにっこり笑ったサクラに、けれどファイは「そうだね」と言いながら、少し戸惑ったような顔を見せた。 いつも通り笑ってはいるけれど、何か違うような、そんな気がする。 「ファイさん?」 「ん?」 「あの……どうかしましたか?」 温かな陽気ではあるが、風に当たり過ぎて調子が悪くなったのだろうかと心配したサクラに、ファイは首を振ると明るく笑った。 「なんでもないよー? あ、紅茶冷めちゃったねー」 「あ! 新しく淹れなおしますね!」 「ありがとー」 そこから、再び和やかなお茶会が始まった。 *** バッチョーン……という大きな音がして、太い枝がボトリと落ちた。 足元にばっさり転がったそれをじっと見つめたあと、脚立に腰かけて刈り込みバサミを持ったまま遠方を見つめる黒鋼を、小狼は見上げた。 「黒鋼さん」 「……なんだ」 「……思いっきり……切る必要のない枝を落としたようです」 「……らしいな」 物静かな二人のやり取りは、大体いつもこんなトーンだった。 小狼はこっそり溜息を零しながら、黒鋼の視線の先を追いかけた。 そして、ブワサッ……という音を立てて、焼却炉へ持っていくために腕の中に一纏めにして抱えていた枝や雑草の塊を、地面に落した。 「小僧」 「……はい」 「……ちゃんと掻き集めろよ」 「……すみませんでした」 「…………」 「……いい、光景ですよね」 「……そうだな」 二人の男の視線のずっと先の方向には、頭上にピンク色の小花を飛ばしながら何やらお喋りに夢中になっている、ファイとさくらの姿があった。 はっきり言って思い切り和む。こう言ってはなんだが、こちらが砂漠なら、あちらは緑豊かなオアシスだ。 小狼は楽しそうに表情を活き活きとさせて笑っているさくらを見て、自然と目元が和らぐのを感じた。 ファイが目覚めた当初、彼はまだどこかぼんやりとしていて気だるげで、話しかけにくい印象があった。さくらも自分もだいぶ緊張したものだが、今ではあの頃が嘘のように彼はよく喋り、笑い、そして黒鋼に忠犬のごとく懐く姿を惜しげもなく披露する。 犬というより、猫のように線の細いイメージは、今も変わらないけれど。 だがそれよりもっと変わったと思えるのは、黒鋼だった。 小狼は切り落としてしまった枝を見て舌打ちをしている男に、ちらりと視線を走らせる。 彼はもっと硬質なイメージの強い男だった。まるで幾つもの死線を潜り抜けてきたのかと思えるほどの、鋭い瞳を持っていた。 彼が眠り続けるファイを、窓の外からいつも気遣わしげに見つめていたのは知っている。そして、さきほど余計な枝を切り落としてしまった彼が、ファイを見て瞳を柔らかく細めていたことも。 基本的に感情を表に出さない彼だが、ファイが目覚めてからは少しずつ、表情に色を乗せるようになった。 決して長い付き合いではないが、小狼にとっては微笑ましく思えることの一つである。 「休憩ですか?」 密かに物思いに耽っていた小狼だったが、脚立から下りてハサミを適当に放り投げる黒鋼に我に返った。 黒鋼は「まぁな」と呟くと、両手の軍手まで外してハサミの横に放ってしまう。 彼の足ははっきりとテラスの方向へと向けられていた。 「喉が渇いたからな」 「ちょっかいかけに行くんですね」 低い声が「うるせぇ」と呟くのを、小狼は確かに聞いた。 そしてその背中を見送りながら、思わず小さく噴き出した。 * 黒鋼と小狼が大事な枝をぶった切ったり、目尻をデレデレとさせている頃、ファイとサクラのティータイムは続いていた。 まるで山の天気のごとく、その会話の内容はころころと移り変わっていく。 現在のテーマは、黒鋼は一体幾つなのかという話だった。 「うーんと……36歳くらい……? でしょうか?」 悩みに悩んだ末サクラが出した答えに、ファイは思わず紅茶を噴きだしかけた。 「ちょ、それはいくらなんでもー……」 「え? でも、大人の男の人って感じだし……なんだか最近は、お父さんぽいというか……」 「お父さんねぇ……サクラちゃんは今幾つだっけ?」 「16です。小狼君も」 「そっかそっか。若いなぁ」 16と言えば酒や煙草どころか、パチンコ屋にすら入れない年齢である。それだけ若ければ、ファイと目線が違っても仕方がない。もちろん自分が幾つなのかもファイは忘れてしまっているのだが、この少女にしてみれば、黒鋼は立派な『オジサン』に見えるのだろうか……なんて思うと、実に愉快だ。 「プッ」 指先を口元に当ててにんまりと笑ったファイに、サクラが首を傾げている。 それにしても36歳とは。おそらくそこまでは行っていないだろうが、ふとその年齢に達した黒鋼の姿を想像してみる。 今よりもさらに渋さが増して、ちょっぴりくたびれたような表情に、無精ヒゲなんかを生やしたりなんかして……。 「やばい……かっこよすぎる……」 「?」 思わずときめいた。頬がカッとなって、ファイは片手で口元を覆う。出来れば今のこの二ヤけた口元は、誰にも見られたくない。 「ファイさんは? 黒鋼さん、何歳だと思いますか?」 「そうだなぁ……」 ファイは腕を組むと、身体ごと首を傾げて深く唸った。 「オレは流石にまだ30は行ってないと思うんだー。20代中頃とかが無難かなぁ? でも実は前半ってことも……」 「私の予想とぜんぜん違う……」 「多分老け顔だからねぇ……あのタッパだし。サクラちゃんくらいになら、そう見えても仕方ない、のかなぁ?」 サクラが感心したような面持ちでふむふむと頷いている。 「あ、じゃあさー、オレはオレはー? 幾つくらいに見えるー?」 ウキウキとしながら聞くと、サクラはまた「うーん」と小さく唸りながら、まじまじとファイの顔を見つめた。 「ファイさんは……なんだかぜんぜん予想がつかないです」 「えー! そこをなんとか!」 身を乗り出すと、勢いに押されたサクラは少し身を引いた。それからまた少し唸ったあと、躊躇いがちに上目づかいで言った。 「えっと……19歳とか……はたち、くらい……?」 「え!? 10代!?」 その答えを聞いたファイは、一気に瞳を輝かせた。実のところ黒鋼の年齢の予想を聞いていたので、あまり期待はしていなかったのだが、思いのほか若い見解に思わず椅子から立ち上がった。 「19歳! 気に入った! うぅん今決めた! オレ19歳ってことにしよう!」 「あ、えっと……本当に、想像できないんですけど……なんとなく……若々しいので」 「そっかー、若々しいかー、えへへー」 「そいつは遠まわしにガキ臭ぇってことだろ」 「!?」 驚いて二人同時に声の方へ目をやれば、ファイの背後に黒鋼が仁王立ちしていた。 「あ、黒鋼さん。お疲れ様です」 サクラが立ちあがり、ぺこりと頭を下げるのに彼は片手を上げて「おう」と答えると、ファイの横の椅子を引いてどっかりと腰かけた。 「黒様ヒドいよー。オレのどこかガキ臭いのさー」 「つーか何の話だよ」 「黒鋼さんは何歳なのかってお話をしてたんです」 黒鋼の分の紅茶を準備しながら、サクラが答えた。ちなみにお茶を淹れる彼女の手元はいつもプルプルと震えていて、見ていると少しハラハラする。 「そーそー。年齢不詳だよねーって」 「はぁん」 黒鋼はそんなことかと、あたかも興味なさげにカップを受け取り、口をつけた。 「サクラちゃん予想では、黒たんは36歳なんだよ」 「ぶっ!!」 「うわ! きっちゃなーい!」 「ご、ごめんなさい黒鋼さん! やっぱり……違いますよ、ね?」 「当たりめーだ!!」 手の甲で乱暴に口元を拭いつつ怒鳴る黒鋼に、しゅーんとするサクラの頭を「よしよし」と撫でながら、ファイは勝ち誇ったように笑った。 「でねー、オレは19か20くらいに見えるんだって!」 「そいつはおまえ、ガキがガキに気ぃ使っただけだ」 「え!?」 そうなの……? と恐る恐るサクラを見ると、彼女は石のようにビキビキと硬くなりながら、ぶんぶんと首を左右に振った。なんだかもうそれだけで十分答えになっているような……。 「言っておくがな」 遠い目をするファイを見て、黒鋼はにやりと悪人のような顔をして笑った。 「てめぇは俺より年上だ」 「「ええぇぇぇ!?」」 ファイとサクラが同時に驚愕の声を上げた。それこそまさに予想外の展開である。 「じゃ、じゃあ……ファイさんは37歳……」 「!?」 「あのな……だから俺は30にさえまだなってねぇよ」 「あ、そうでした……」 「そんな……そんな……黒たんの方が若いなんて……そんな……」 ファイは凄まじいショックを受けていた。 年下を相手に甘えまくっていたのか……という、なんともむず痒いような照れ臭さもあった。かといって今更なので自重する気はないのだが、年齢云々というより、ファイにとって黒鋼はひたすら『大きな存在』だったため、どうも不思議な感覚だった。 ということは黒鋼が老け顔なら、自分はただの若造りということになるのだろうか……。 実際のところ36歳なのはこちらの方だったらどうしよう、と考えてファイは青褪めた。もしそうだとしたら、オッサンの域にほんのり片足を突っ込んでいるということになる。 「これは夢……きっと現実世界のオレは花の19歳……」 「思い切り殴ってみるか? 夢じゃねぇって理解できるぜ」 「なんのお話ですか?」 そのとき、今度は作業を終えた小狼がひょっこりと顔を出した。 律儀な彼は黒鋼のように適当に仕事を放り投げることなく、ある程度の仕事をきっちりこなしてきたようだ。額が少し汗ばんでいる。 「小狼君! お疲れ様!」 ぽっと頬を赤らめたサクラが、どこから取り出したのかタオルを小狼に差し出している。 俺のときとはえらい違いだな、と黒鋼の目がどこか据わっているが、それを口に出して言うつもりはないようだった。 「あの、ファイさんが物凄い負のオーラをまとっている気がするんですけど……」 「ほっとけ」 「え、でも……」 小狼が椅子に腰かけると、すっかり四人でテーブルを囲む形になった。 サクラは活き活きとしながらも相変わらず不安定な手つきで、小狼の分のカップに紅茶を注いでいる。 そういえばなんだかんだで、こうして四人がじっくりと顔を突き合わせて一つの場所に落ちくのは、珍しいような気がする。基本的に食事は大人組と子供組でバラバラだし、先日このテラスで揃って食事をした以来だろうか。 それでも不思議なもので、こうして四人が集うと、まるで家族が揃ったようにほっとする。 ファイにはサクラが、そして黒鋼には小狼がついているのがいつの間にか自然な形になっていたし、黒鋼とファイが一緒のとき、他の二人は滅多なことでは顔を出さない。 だからこそ、思えば小狼とはじっくり話をしたことがなかったことに気がついた。 彼も同じことを思ったのか、サクラが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ小狼が、ファイの方を見て言った。 「そういえばファイさん、ずいぶん髪が伸びましたね」 小狼の何気ない問いかけに、ファイはふにょりと笑って頷いた。 「そうなんだー。肩をちょっと過ぎるくらいだったのが、いつの間にか背中に届いちゃって」 ファイは後ろで一纏めにしている髪に手をやると、しゅるんと引っ張って前へ持ってきた。 「髪洗うのとか、実は結構めんどーなんだよねー。乾かすのも時間かかるし、地味に重いし」 「おれでよければ切りましょうか?」 「……!?」 「!?」 小狼がそう提案した瞬間、黒鋼とサクラがビクンと肩を揺らした。 「え? いいのー? ……って? 二人ともどうかした?」 「ファイさん……髪、切っちゃうんですか?」 サクラが残念そうに眉を下げている。いつもはぴょこんと元気に跳ねているアホ毛も、今は心なしかしょんぼりしているように見えた。 今も朝はいつもサクラが(寝坊したとき以外は)髪を結いにやってくる。最近ではすっかり手慣れたもので、時間の経過と共に解れてゴムが抜ける……ということも滅多になくなった。 サクラは紅一点ということもあるが、彼女のこういう悲しげな表情に、ファイも含めた男連中は滅法弱い。 黒鋼は目を逸らし、髪を切ることを提案した小狼はしまった、と口を噤む。 「ファイさんの髪、とっても綺麗で柔らかくてサラサラで……切っちゃうのは勿体ないです……」 「あー、うー、うん……でもさ、ほら、切ってもすぐに伸びるし、シャンプー代も節約になるでしょー?」 「この場所に果てしなく不釣り合いな単語ですね……節約って……」 「特にこいつが言うと妙に違和感があるな」 小狼と黒鋼の控えめな突っ込みが入った。 ここは大豪邸のテラスである。広大な洋風庭園を尻目に節約という庶民的な言葉は、確かに現実離れしているとは思うのだが。 黒鋼の突っ込みには、どこか棘が含まれている気がして、思わずムッとするファイ。 「そこ! 特に黒いの! うるさいなー。あ、ねぇサクラちゃん。オレなんかより、女の子のサクラちゃんが髪伸ばしてみたら? きっと可愛いと思うよー?」 「えぇ!? 私、ですか?」 「ねー? 可愛いよね? 小狼君」 「え!」 小狼は自分に話を振られるとは思っていなかったのか、ファイににっこり微笑まれて大袈裟に肩を揺らした。そして、ほんのりと頬を赤らめサクラを見やった。 サクラもまた頬を染めて、上目づかいに不安そうに小狼を見つめている。 「私……似合う、かな……?」 「!」 ほんのりどころか、茹でたタコのように顔全体を赤らめた小狼が、コクコクと大きく首を縦に振った。 「ほ、ほんと?」 「う、うん……はい……凄く……似合うと思う……ます……」 「!」 敬語とため語がない交ぜになりながら、どんどん語尾が弱くなっていく小狼の言葉に、サクラの髪がぴょこんと元気を取り戻した。そして、彼女は花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた。 「嬉しい……! じゃあ、伸ばしてみよう、かな?」 再びコクコクと頷いている小狼と、照れ笑いを浮かべるサクラの周りだけ、まるで秋も冬を通り越して春がきたように見えた。 「二人とも可愛いねー。ご馳走様ー」 すっかり和んだファイは、隣で黙々とカップに口をつけている黒鋼をチラリと見やった。 「……なんだよ」 「んー? 別にー。オレも一応はお伺いたててみよっかなーって」 「…………」 黒鋼は空になったカップを皿に戻すと「ふー」と息を吐き出した。まるで縁側のおじいちゃんみたいだなぁと、ファイは思った。 それから彼はこちらを見ると、表情一つ変えずに言った。 「好きにしろ」 「……うーん。不合格」 「あ?」 「もうぜんっぜん駄目ー。はーいやりなおしー」 ピキッ……と綺麗な青筋マークを浮かべた黒鋼が、面倒くさそうに溜息をつく。それから吐き捨てるように言った。 「だから、好きにしろって言ってんだ。てめぇが切りてぇっつったんだろ」 「だからー、黒様は長いのと短いのどっちがいいのかなーって思ったから、可愛く聞いてみたんじゃなーい!」 あからさまに「かわいく……? どこ……が……?」という顔をしている黒鋼に、ファイは思い切り唇を尖らせた。 「もういいよ! バカ! 黒たんのぶぁか!」 臍を曲げきったファイは、テーブルの中央の籠に可愛らしく収まっていた焼き菓子を手に取ると、もぐもぐと自棄食いしはじめる。 別に小狼とサクラのやり取りが羨ましかったわけではない。絶対ない。 短い方が似合うのか、長い方が似合うのか、ファイ自身としては自分の容姿に特別な拘りはなかった。ただちょっと好みを知りたかっただけだ。黒鋼はどちらが好きなのかと、ほんのちょっぴり、気になっただけ。 「小狼くんにバッサリザックリやってもらうもんね! ふん! ふんだ! ふんふん! 美味しいなぁコレ! ふん!」 「だからガキだってんだおまえは……」 「うるさいよもう!」 「…………」 ふんふん言いながら口をモグモグさせるファイの横顔を、黒鋼はテーブルに肩肘をついた手に頬を乗せながらじっと見つめる。 小狼とサクラが、そんな二人のやり取りをハラハラしながら見守っていた。 どうにか仲を取り持とうと小狼が口を開きかけたが、一瞬早く口を開いたのは黒鋼だった。 「別に……」 「?」 全員が黒鋼を見る。 「いいんじゃねぇのか。まだしばらく切らなくてもよ……」 「え?」 口の周りにカスを幾つもくっつけたファイは、食べかけの菓子をポロリと落とした。すかさず小狼が手を伸ばしてキャッチしている。 「長い方が、好きなんだ?」 「……だから……別に好きとかそーゆうんじゃなくてだな……」 「お気に入りなのー?」 「…………まぁな」 ボソリと言ってから即座にそっぽを向いてしまった黒鋼に、ファイは赤くなりながらみるみるうちに蕩けそうな笑顔を浮かべた。 「そっかー、お気に入りかー。うふふ」 何かのリズムに合わせたように、ファイはゆらゆらと左右に身体を揺らした。 本当のところを言えば、重いし洗うのは面倒だし、どちらかと言えば切る方向に気持ちは傾いていたのだが、黒鋼のお気に入りなら仕方がない。 ファイの機嫌が直ったことに、他の二人はほっとした様子だった。 もしかして、とファイは思った。 小狼とサクラのやり取りに便乗して訪ねてしまったが、この二人がいない場所で聞けば、もっと話はスムーズだったのかもしれないと。 先刻サクラが彼のことを「お父さんぽい」と言ったのを思い出す。 威厳、というわけではないが、子供たちの前では、なかなか照れ臭いのかもしれなかった。 (可愛いとこあるなぁ……) けれど彼は基本的に、決してファイを否定しない。ファイが望むことを第一に優先する。だからこそ、二人の前で聞いてよかったと、ファイは思う。 まぎれもない黒鋼の本音を聞くことが出来たような気がしたからだ。 ファイからの生温かい視線にいたたまれなくなったのか、珍しく耳を赤くした黒鋼が、乱暴に立ちあがった。 「そろそろ戻るぞ」 「うふふ。行ってらっしゃーい」 テーブルに頬杖をつき、小さく手を振って見送るファイと、大股で庭の方へ遠ざかっていく黒鋼に小さく噴き出しながら、小狼もまた「ご馳走様」と言って立ちあがった。 ←戻る ・ 次へ→
「いい天気だねー」
「いい天気ですね」
二人の頭上にはぽわ~んと小花が浮かんでいる。
「今年の秋はポカポカ陽気だねー」
「でも、夜はちょっぴり寒いですね」
「あれれ?」
「はい?」
「サクラちゃん、小狼君と一緒に寝てないのー?」
「はい!?」
きょとんと小首を傾げながら、なにやらとんでもないことをサラリと言ってのけたファイに、サクラは思わず手の中の皿とカップを取り落としそうになった。
「にゃ、にゃにっ、を!?」
「あ、噛んだ」
「ファイさん!!」
顔が破裂するのではないかと思うほど真っ赤になりながら、サクラは精一杯声を張り上げる。ファイはふにゃりと笑った。
「寒い夜は、誰かと一緒に布団に入るとポカポカだよー?」
「ぽ、ぽかぽか……」
サクラは恋する、そして夢見る少女である。
あまりにもファイがなんでもないことのように言うものだから、思わず引っ張られるかのごとく妄想……想像してしまう。
例えば寒くて寒くて仕方がない夜。猫や犬が一緒に寝てくれたら、もふもふできっと温かい。さぞかし寝心地もいいだろう。
けれどそれが、もし小狼だったら……。
……。
……。
…………。
チュボムッという音がした。
それはサクラの頭の天辺から、煙と一緒に出た音だった。
流石のファイも慌てふためく。
「さ、サクラちゃん!? なんか爆発したよー!?」
「む、む、む、無理ですー!!」
考えるだけで、本当に爆発して弾け飛んでしまいそうだった。
万が一そんな状況になれば、ポカポカどころの騒ぎではない。火が噴きだすのではないか。小狼まで巻き込んで、火だるまになってしまう。
サクラは「はにゃーっ」とか「ほえーっ」という訳のわからない奇声を発しながら、両手で顔を覆い、髪を振り乱した。
なぜかじんわりと涙が浮かんできて、潤んだ瞳でファイを上目使いに見上げる。
「私……私……」
涙目のサクラに見上げられているファイは「うっ」と息を詰まらせている。
「小狼君と一緒に、ね、寝るなんて……駄目です……」
「な、なんで?」
「ドキドキして……緊張して……眠れない、です……」
今だって、例えば夜寝る前だとか、隣の部屋に小狼がいると思うだけでもドキドキしてしまうことがある。
もう寝たかなとか、どんな夢を見てるのかなとか、夢の中で会えるかな、とか。
そんなことを考えるだけで胸が熱くなって、そして同じくらい、幸せな気持ちになったりもする。
もし隔てるものがなくなってしまったら、ドキドキしすぎて心臓が止まってしまうかもしれない。
小さな子供の頃は一緒に寝るくらい平気だったのに、少しずつ成長するにつれて、それはとても難しいことのように思えた。
高熱を発する頬を冷やすように、無意識に両手で包む。
小狼への気持ちが恋であることは自覚しているつもりだった。彼も同じ気持ちでいてくれたらいいなと、そんな淡い期待もある。いつか伝えられたらいいなと。
それでも今はただ遠くから見つめているだけで、小狼を想っているだけで、十分幸せだったのだ。
「ドキド……キ……? きんちょお……?」
ファイは笑ったまま、動かなくなってしまった。口元は笑っているのに、目だけは笑っていないような気がする。
そのまま少しだけ間が開いた。やがて、随分と遅れて彼は頬を染めた。そして、もじもじと俯いてしまった。
「……ごめん」
「……いえ」
「オレ……いつの間にか爛れた大人になっちゃってたみたい……」
「た、ただれ……?」
「なんでもにゃい……」
あ、噛んだ……という突っ込みは胸にしまった。からかわれることの多いサクラの目には、頬を染めているファイはとても珍しいものに映った。
そういえばファイは黒鋼の姿を見つけると、迷いなくその胸に飛び込んでいく。まるで犬猫が飼い主に甘えるみたいで、いつも微笑ましい気持ちで眺めていたのだが。
さきほどの話の様子から、いくら鈍いサクラでも察しがつく。寒い日の夜、ファイは黒鋼と寝ているのか……。
そんなことが、本当に、ごくごく普通に、それこそ大人の恋人同士みたいに小狼とできたなら……。
ファイとこんな会話をするまでは、考えたこともなかったけれど。
再び『ボンッ』という音がした。自分の頭のてっぺんから。
「わぁ!? サクラちゃんがセカンドインパクト!!」
「う、う、羨ましくなんてにゃいですぅ!!」
「何が!?」
再び奇声を上げてモダモダしはじめたサクラに慌てたファイが、無理やり話の方向を切り替えた。
「そうだ! ねぇサクラちゃんはあの開かずの間って入ったことあるの!?」
開かずの間、というキーワードにピンと来ず、サクラはコトリと小首を傾げた。
ファイは一瞬ハッとしてバツの悪そうな顔をして見せたが、すぐにニコニコ顔に戻った。少し引き攣っていたようには見えたが。
「ほ、ほら……書庫がある方の通路の、突き当りの……」
「あ、奥の部屋ですか?」
「うん……」
「ないですけど……どうして?」
「く、黒たんが……あそこに近づくとお化けに食われるぞって……あ、別に怖くないよ? ただほら、大きいお屋敷ってさ、そんな感じの雰囲気あるでしょー? ね?」
ファイは何やらしきりに言い訳めいたことを口走っているようだが、サクラは人差し指を唇の下に当てて「んー」と小さく唸った。
「あそこには何もいませんけど……あ、でも地下の食糧庫には、いつも気さくに声をかけてくださる落ち武者さんが」
「ちょい待って!? なに!? おもむろに何!? 何の話!?」
「え? だから落ち武者さんが」
「キィーヤァー!!!」
ファイは思い切り両耳を塞いで、頭をぶんぶんと振っている。長い尻尾のような金の髪が左右に揺れていて、サクラはそれを可愛いなと思った。
「知らなかった……やっぱいる……いるよこの屋敷……」
ブツブツと何かを呟いているファイの心中も知らず、とりあえず笑って言った。
「でもファイさん。あそこは開かずの間ではないと思いますよ?」
「……そう、なの?」
「はい。ちゃんと開くと思います。入ったことはないですけど、鍵がある場所も、私知ってます」
一瞬ファイが肩を震わせて、これまでとは違う反応を示した気がした。けれど特に気にせず続ける。
「確か、今は小狼君が管理しているはずですよ」
「小狼君が……」
サクラも、あの部屋に何があるのかは知らない。
ただ分かることは、おそらく少し前まで……ファイが目を覚ますまでは、鍵を所持していたのは黒鋼だったということと、今は小狼が管理しているということだ。
以前、偶然ではあるが黒鋼が小狼に鍵を手渡しているのをちらりと見かけたことがある。二人は何か真剣な面持ちで話をしていたようだったが、その内容も勿論知らない。
あとはサクラから見て、というより感じる限り、あの部屋にファイが怖がるような何かはいないということだけだ。
「きっと、何かとても大切なものがしまってあるんだと思います」
そう言ってにっこり笑ったサクラに、けれどファイは「そうだね」と言いながら、少し戸惑ったような顔を見せた。
いつも通り笑ってはいるけれど、何か違うような、そんな気がする。
「ファイさん?」
「ん?」
「あの……どうかしましたか?」
温かな陽気ではあるが、風に当たり過ぎて調子が悪くなったのだろうかと心配したサクラに、ファイは首を振ると明るく笑った。
「なんでもないよー? あ、紅茶冷めちゃったねー」
「あ! 新しく淹れなおしますね!」
「ありがとー」
そこから、再び和やかなお茶会が始まった。
***
バッチョーン……という大きな音がして、太い枝がボトリと落ちた。
足元にばっさり転がったそれをじっと見つめたあと、脚立に腰かけて刈り込みバサミを持ったまま遠方を見つめる黒鋼を、小狼は見上げた。
「黒鋼さん」
「……なんだ」
「……思いっきり……切る必要のない枝を落としたようです」
「……らしいな」
物静かな二人のやり取りは、大体いつもこんなトーンだった。
小狼はこっそり溜息を零しながら、黒鋼の視線の先を追いかけた。
そして、ブワサッ……という音を立てて、焼却炉へ持っていくために腕の中に一纏めにして抱えていた枝や雑草の塊を、地面に落した。
「小僧」
「……はい」
「……ちゃんと掻き集めろよ」
「……すみませんでした」
「…………」
「……いい、光景ですよね」
「……そうだな」
二人の男の視線のずっと先の方向には、頭上にピンク色の小花を飛ばしながら何やらお喋りに夢中になっている、ファイとさくらの姿があった。
はっきり言って思い切り和む。こう言ってはなんだが、こちらが砂漠なら、あちらは緑豊かなオアシスだ。
小狼は楽しそうに表情を活き活きとさせて笑っているさくらを見て、自然と目元が和らぐのを感じた。
ファイが目覚めた当初、彼はまだどこかぼんやりとしていて気だるげで、話しかけにくい印象があった。さくらも自分もだいぶ緊張したものだが、今ではあの頃が嘘のように彼はよく喋り、笑い、そして黒鋼に忠犬のごとく懐く姿を惜しげもなく披露する。
犬というより、猫のように線の細いイメージは、今も変わらないけれど。
だがそれよりもっと変わったと思えるのは、黒鋼だった。
小狼は切り落としてしまった枝を見て舌打ちをしている男に、ちらりと視線を走らせる。
彼はもっと硬質なイメージの強い男だった。まるで幾つもの死線を潜り抜けてきたのかと思えるほどの、鋭い瞳を持っていた。
彼が眠り続けるファイを、窓の外からいつも気遣わしげに見つめていたのは知っている。そして、さきほど余計な枝を切り落としてしまった彼が、ファイを見て瞳を柔らかく細めていたことも。
基本的に感情を表に出さない彼だが、ファイが目覚めてからは少しずつ、表情に色を乗せるようになった。
決して長い付き合いではないが、小狼にとっては微笑ましく思えることの一つである。
「休憩ですか?」
密かに物思いに耽っていた小狼だったが、脚立から下りてハサミを適当に放り投げる黒鋼に我に返った。
黒鋼は「まぁな」と呟くと、両手の軍手まで外してハサミの横に放ってしまう。
彼の足ははっきりとテラスの方向へと向けられていた。
「喉が渇いたからな」
「ちょっかいかけに行くんですね」
低い声が「うるせぇ」と呟くのを、小狼は確かに聞いた。
そしてその背中を見送りながら、思わず小さく噴き出した。
*
黒鋼と小狼が大事な枝をぶった切ったり、目尻をデレデレとさせている頃、ファイとサクラのティータイムは続いていた。
まるで山の天気のごとく、その会話の内容はころころと移り変わっていく。
現在のテーマは、黒鋼は一体幾つなのかという話だった。
「うーんと……36歳くらい……? でしょうか?」
悩みに悩んだ末サクラが出した答えに、ファイは思わず紅茶を噴きだしかけた。
「ちょ、それはいくらなんでもー……」
「え? でも、大人の男の人って感じだし……なんだか最近は、お父さんぽいというか……」
「お父さんねぇ……サクラちゃんは今幾つだっけ?」
「16です。小狼君も」
「そっかそっか。若いなぁ」
16と言えば酒や煙草どころか、パチンコ屋にすら入れない年齢である。それだけ若ければ、ファイと目線が違っても仕方がない。もちろん自分が幾つなのかもファイは忘れてしまっているのだが、この少女にしてみれば、黒鋼は立派な『オジサン』に見えるのだろうか……なんて思うと、実に愉快だ。
「プッ」
指先を口元に当ててにんまりと笑ったファイに、サクラが首を傾げている。
それにしても36歳とは。おそらくそこまでは行っていないだろうが、ふとその年齢に達した黒鋼の姿を想像してみる。
今よりもさらに渋さが増して、ちょっぴりくたびれたような表情に、無精ヒゲなんかを生やしたりなんかして……。
「やばい……かっこよすぎる……」
「?」
思わずときめいた。頬がカッとなって、ファイは片手で口元を覆う。出来れば今のこの二ヤけた口元は、誰にも見られたくない。
「ファイさんは? 黒鋼さん、何歳だと思いますか?」
「そうだなぁ……」
ファイは腕を組むと、身体ごと首を傾げて深く唸った。
「オレは流石にまだ30は行ってないと思うんだー。20代中頃とかが無難かなぁ? でも実は前半ってことも……」
「私の予想とぜんぜん違う……」
「多分老け顔だからねぇ……あのタッパだし。サクラちゃんくらいになら、そう見えても仕方ない、のかなぁ?」
サクラが感心したような面持ちでふむふむと頷いている。
「あ、じゃあさー、オレはオレはー? 幾つくらいに見えるー?」
ウキウキとしながら聞くと、サクラはまた「うーん」と小さく唸りながら、まじまじとファイの顔を見つめた。
「ファイさんは……なんだかぜんぜん予想がつかないです」
「えー! そこをなんとか!」
身を乗り出すと、勢いに押されたサクラは少し身を引いた。それからまた少し唸ったあと、躊躇いがちに上目づかいで言った。
「えっと……19歳とか……はたち、くらい……?」
「え!? 10代!?」
その答えを聞いたファイは、一気に瞳を輝かせた。実のところ黒鋼の年齢の予想を聞いていたので、あまり期待はしていなかったのだが、思いのほか若い見解に思わず椅子から立ち上がった。
「19歳! 気に入った! うぅん今決めた! オレ19歳ってことにしよう!」
「あ、えっと……本当に、想像できないんですけど……なんとなく……若々しいので」
「そっかー、若々しいかー、えへへー」
「そいつは遠まわしにガキ臭ぇってことだろ」
「!?」
驚いて二人同時に声の方へ目をやれば、ファイの背後に黒鋼が仁王立ちしていた。
「あ、黒鋼さん。お疲れ様です」
サクラが立ちあがり、ぺこりと頭を下げるのに彼は片手を上げて「おう」と答えると、ファイの横の椅子を引いてどっかりと腰かけた。
「黒様ヒドいよー。オレのどこかガキ臭いのさー」
「つーか何の話だよ」
「黒鋼さんは何歳なのかってお話をしてたんです」
黒鋼の分の紅茶を準備しながら、サクラが答えた。ちなみにお茶を淹れる彼女の手元はいつもプルプルと震えていて、見ていると少しハラハラする。
「そーそー。年齢不詳だよねーって」
「はぁん」
黒鋼はそんなことかと、あたかも興味なさげにカップを受け取り、口をつけた。
「サクラちゃん予想では、黒たんは36歳なんだよ」
「ぶっ!!」
「うわ! きっちゃなーい!」
「ご、ごめんなさい黒鋼さん! やっぱり……違いますよ、ね?」
「当たりめーだ!!」
手の甲で乱暴に口元を拭いつつ怒鳴る黒鋼に、しゅーんとするサクラの頭を「よしよし」と撫でながら、ファイは勝ち誇ったように笑った。
「でねー、オレは19か20くらいに見えるんだって!」
「そいつはおまえ、ガキがガキに気ぃ使っただけだ」
「え!?」
そうなの……? と恐る恐るサクラを見ると、彼女は石のようにビキビキと硬くなりながら、ぶんぶんと首を左右に振った。なんだかもうそれだけで十分答えになっているような……。
「言っておくがな」
遠い目をするファイを見て、黒鋼はにやりと悪人のような顔をして笑った。
「てめぇは俺より年上だ」
「「ええぇぇぇ!?」」
ファイとサクラが同時に驚愕の声を上げた。それこそまさに予想外の展開である。
「じゃ、じゃあ……ファイさんは37歳……」
「!?」
「あのな……だから俺は30にさえまだなってねぇよ」
「あ、そうでした……」
「そんな……そんな……黒たんの方が若いなんて……そんな……」
ファイは凄まじいショックを受けていた。
年下を相手に甘えまくっていたのか……という、なんともむず痒いような照れ臭さもあった。かといって今更なので自重する気はないのだが、年齢云々というより、ファイにとって黒鋼はひたすら『大きな存在』だったため、どうも不思議な感覚だった。
ということは黒鋼が老け顔なら、自分はただの若造りということになるのだろうか……。
実際のところ36歳なのはこちらの方だったらどうしよう、と考えてファイは青褪めた。もしそうだとしたら、オッサンの域にほんのり片足を突っ込んでいるということになる。
「これは夢……きっと現実世界のオレは花の19歳……」
「思い切り殴ってみるか? 夢じゃねぇって理解できるぜ」
「なんのお話ですか?」
そのとき、今度は作業を終えた小狼がひょっこりと顔を出した。
律儀な彼は黒鋼のように適当に仕事を放り投げることなく、ある程度の仕事をきっちりこなしてきたようだ。額が少し汗ばんでいる。
「小狼君! お疲れ様!」
ぽっと頬を赤らめたサクラが、どこから取り出したのかタオルを小狼に差し出している。
俺のときとはえらい違いだな、と黒鋼の目がどこか据わっているが、それを口に出して言うつもりはないようだった。
「あの、ファイさんが物凄い負のオーラをまとっている気がするんですけど……」
「ほっとけ」
「え、でも……」
小狼が椅子に腰かけると、すっかり四人でテーブルを囲む形になった。
サクラは活き活きとしながらも相変わらず不安定な手つきで、小狼の分のカップに紅茶を注いでいる。
そういえばなんだかんだで、こうして四人がじっくりと顔を突き合わせて一つの場所に落ちくのは、珍しいような気がする。基本的に食事は大人組と子供組でバラバラだし、先日このテラスで揃って食事をした以来だろうか。
それでも不思議なもので、こうして四人が集うと、まるで家族が揃ったようにほっとする。
ファイにはサクラが、そして黒鋼には小狼がついているのがいつの間にか自然な形になっていたし、黒鋼とファイが一緒のとき、他の二人は滅多なことでは顔を出さない。
だからこそ、思えば小狼とはじっくり話をしたことがなかったことに気がついた。
彼も同じことを思ったのか、サクラが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ小狼が、ファイの方を見て言った。
「そういえばファイさん、ずいぶん髪が伸びましたね」
小狼の何気ない問いかけに、ファイはふにょりと笑って頷いた。
「そうなんだー。肩をちょっと過ぎるくらいだったのが、いつの間にか背中に届いちゃって」
ファイは後ろで一纏めにしている髪に手をやると、しゅるんと引っ張って前へ持ってきた。
「髪洗うのとか、実は結構めんどーなんだよねー。乾かすのも時間かかるし、地味に重いし」
「おれでよければ切りましょうか?」
「……!?」
「!?」
小狼がそう提案した瞬間、黒鋼とサクラがビクンと肩を揺らした。
「え? いいのー? ……って? 二人ともどうかした?」
「ファイさん……髪、切っちゃうんですか?」
サクラが残念そうに眉を下げている。いつもはぴょこんと元気に跳ねているアホ毛も、今は心なしかしょんぼりしているように見えた。
今も朝はいつもサクラが(寝坊したとき以外は)髪を結いにやってくる。最近ではすっかり手慣れたもので、時間の経過と共に解れてゴムが抜ける……ということも滅多になくなった。
サクラは紅一点ということもあるが、彼女のこういう悲しげな表情に、ファイも含めた男連中は滅法弱い。
黒鋼は目を逸らし、髪を切ることを提案した小狼はしまった、と口を噤む。
「ファイさんの髪、とっても綺麗で柔らかくてサラサラで……切っちゃうのは勿体ないです……」
「あー、うー、うん……でもさ、ほら、切ってもすぐに伸びるし、シャンプー代も節約になるでしょー?」
「この場所に果てしなく不釣り合いな単語ですね……節約って……」
「特にこいつが言うと妙に違和感があるな」
小狼と黒鋼の控えめな突っ込みが入った。
ここは大豪邸のテラスである。広大な洋風庭園を尻目に節約という庶民的な言葉は、確かに現実離れしているとは思うのだが。
黒鋼の突っ込みには、どこか棘が含まれている気がして、思わずムッとするファイ。
「そこ! 特に黒いの! うるさいなー。あ、ねぇサクラちゃん。オレなんかより、女の子のサクラちゃんが髪伸ばしてみたら? きっと可愛いと思うよー?」
「えぇ!? 私、ですか?」
「ねー? 可愛いよね? 小狼君」
「え!」
小狼は自分に話を振られるとは思っていなかったのか、ファイににっこり微笑まれて大袈裟に肩を揺らした。そして、ほんのりと頬を赤らめサクラを見やった。
サクラもまた頬を染めて、上目づかいに不安そうに小狼を見つめている。
「私……似合う、かな……?」
「!」
ほんのりどころか、茹でたタコのように顔全体を赤らめた小狼が、コクコクと大きく首を縦に振った。
「ほ、ほんと?」
「う、うん……はい……凄く……似合うと思う……ます……」
「!」
敬語とため語がない交ぜになりながら、どんどん語尾が弱くなっていく小狼の言葉に、サクラの髪がぴょこんと元気を取り戻した。そして、彼女は花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた。
「嬉しい……! じゃあ、伸ばしてみよう、かな?」
再びコクコクと頷いている小狼と、照れ笑いを浮かべるサクラの周りだけ、まるで秋も冬を通り越して春がきたように見えた。
「二人とも可愛いねー。ご馳走様ー」
すっかり和んだファイは、隣で黙々とカップに口をつけている黒鋼をチラリと見やった。
「……なんだよ」
「んー? 別にー。オレも一応はお伺いたててみよっかなーって」
「…………」
黒鋼は空になったカップを皿に戻すと「ふー」と息を吐き出した。まるで縁側のおじいちゃんみたいだなぁと、ファイは思った。
それから彼はこちらを見ると、表情一つ変えずに言った。
「好きにしろ」
「……うーん。不合格」
「あ?」
「もうぜんっぜん駄目ー。はーいやりなおしー」
ピキッ……と綺麗な青筋マークを浮かべた黒鋼が、面倒くさそうに溜息をつく。それから吐き捨てるように言った。
「だから、好きにしろって言ってんだ。てめぇが切りてぇっつったんだろ」
「だからー、黒様は長いのと短いのどっちがいいのかなーって思ったから、可愛く聞いてみたんじゃなーい!」
あからさまに「かわいく……? どこ……が……?」という顔をしている黒鋼に、ファイは思い切り唇を尖らせた。
「もういいよ! バカ! 黒たんのぶぁか!」
臍を曲げきったファイは、テーブルの中央の籠に可愛らしく収まっていた焼き菓子を手に取ると、もぐもぐと自棄食いしはじめる。
別に小狼とサクラのやり取りが羨ましかったわけではない。絶対ない。
短い方が似合うのか、長い方が似合うのか、ファイ自身としては自分の容姿に特別な拘りはなかった。ただちょっと好みを知りたかっただけだ。黒鋼はどちらが好きなのかと、ほんのちょっぴり、気になっただけ。
「小狼くんにバッサリザックリやってもらうもんね! ふん! ふんだ! ふんふん! 美味しいなぁコレ! ふん!」
「だからガキだってんだおまえは……」
「うるさいよもう!」
「…………」
ふんふん言いながら口をモグモグさせるファイの横顔を、黒鋼はテーブルに肩肘をついた手に頬を乗せながらじっと見つめる。
小狼とサクラが、そんな二人のやり取りをハラハラしながら見守っていた。
どうにか仲を取り持とうと小狼が口を開きかけたが、一瞬早く口を開いたのは黒鋼だった。
「別に……」
「?」
全員が黒鋼を見る。
「いいんじゃねぇのか。まだしばらく切らなくてもよ……」
「え?」
口の周りにカスを幾つもくっつけたファイは、食べかけの菓子をポロリと落とした。すかさず小狼が手を伸ばしてキャッチしている。
「長い方が、好きなんだ?」
「……だから……別に好きとかそーゆうんじゃなくてだな……」
「お気に入りなのー?」
「…………まぁな」
ボソリと言ってから即座にそっぽを向いてしまった黒鋼に、ファイは赤くなりながらみるみるうちに蕩けそうな笑顔を浮かべた。
「そっかー、お気に入りかー。うふふ」
何かのリズムに合わせたように、ファイはゆらゆらと左右に身体を揺らした。
本当のところを言えば、重いし洗うのは面倒だし、どちらかと言えば切る方向に気持ちは傾いていたのだが、黒鋼のお気に入りなら仕方がない。
ファイの機嫌が直ったことに、他の二人はほっとした様子だった。
もしかして、とファイは思った。
小狼とサクラのやり取りに便乗して訪ねてしまったが、この二人がいない場所で聞けば、もっと話はスムーズだったのかもしれないと。
先刻サクラが彼のことを「お父さんぽい」と言ったのを思い出す。
威厳、というわけではないが、子供たちの前では、なかなか照れ臭いのかもしれなかった。
(可愛いとこあるなぁ……)
けれど彼は基本的に、決してファイを否定しない。ファイが望むことを第一に優先する。だからこそ、二人の前で聞いてよかったと、ファイは思う。
まぎれもない黒鋼の本音を聞くことが出来たような気がしたからだ。
ファイからの生温かい視線にいたたまれなくなったのか、珍しく耳を赤くした黒鋼が、乱暴に立ちあがった。
「そろそろ戻るぞ」
「うふふ。行ってらっしゃーい」
テーブルに頬杖をつき、小さく手を振って見送るファイと、大股で庭の方へ遠ざかっていく黒鋼に小さく噴き出しながら、小狼もまた「ご馳走様」と言って立ちあがった。
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