2025/09/18 Thu ――ボクはここだよ。ここにいるよ。 綿毛のたんぽぽの花言葉を知ったのは、黒鋼が初めてユゥイの部屋に足を踏み入れたときのことだった。 そして黒鋼は後悔する。 知らなければよかった。知らないままでいれば、泣けないままでいられたかもしれない。 花言葉の書かれた分厚い本。開かれたページにぽたりぽたりと、雫が落ちる。 『別離』 それが、ユゥイが口に出すことを拒んだ、ただ一つの答えだった。 *** 連絡を受けて病院へ駆けつけたとき、そこにいたのは薄暗い廊下、病室脇の壁に背を預けて、呆然と立ち尽くすファイだった。 あれほど大きな屋敷に住んでいながら、こうして駆けつけるのはたった一人の家族と、他人である黒鋼だけ。 彼らの両親は二人の息子を、ましてや片方は病に伏しているというのに国内にすらいないことを知っている。 いや、もう世界中どこを探しても、彼らはいない。 十数年前に旅先の事故で死亡しているのだ。遺体さえも帰国を果たしてはいなかった。どこでどう死んだのかまでは知らないが、見つからないのかもしれない。 「あいつは……!?」 ファイの姿を見つけるなり、黒鋼は彼の両肩を掴んで揺さぶった。 揺さぶられたことでようやくこちらの存在に気付いたらしい彼は、小さく唇を開いた。そして虚ろな瞳のまま、ゆらゆらと首を振る。 一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。それから、次に沸き起こった感情は、激しい怒りだった。 「どうしてだ!!」 細い身体をガクガクと揺さぶった。ファイはされるがまま、何も言わない。 「何か言え!! 何がどうして……っ、何が……っ」 何が起こった? ついほんの数日前ではなかったか。 いつもの場所で、彼に黄色の春薔薇を渡した。 たんぽぽの花ことばを聞いて、秋薔薇を渡す約束をした。 そして一瞬だけ、唇を触れ合わせた。 温かな唇だった。彼は、確かに生きていた。 生きていたのに――。 ほんの短い間だけ、どこからともなく沸き起こった怒りは、すぐに泡のように消え去った。 いや、そうではない。何もかもがない交ぜになって、もはやこれが感情と呼べるものなのかも、分からなくなっただけだった。 夢を見ているのだと思った。ぐにゃりと足元が歪んで、立っていることが出来なくなった黒鋼は、ファイに縋るようにして膝から崩れ落ちた。 「ごめんなさい」 抑揚のない声で、たった一言ファイが呟いた言葉も、そのときの黒鋼には届かなかった。 *** それから何日が経過したのか、ふとカレンダーを眺めても、実感が湧かなかった。 眠っていたのか、起きていたのか。 自宅には一度戻ったような気がするが、そのまま留まっていたのか、外へ飛び出したのかさえ、黒鋼の中では全てが曖昧なままだった。 ファイはどうしたのだろう。彼はどんな顔をしていた? 泣いていただろうか? 何も分からない。空っぽだった。 ただはっきりしているのは、眠るような表情で抜け殻になったユゥイの身体が、今はもう、真っ白の灰になっているだろうということ。 けれど頭で考えることに、気持ちが追いつかなかった。 気がつけば黒鋼は屋敷の前にいた。 よくこんな心理状態で車なんて運転できたものだと思いはしたが、ただユゥイに会いたいという思いだけが、黒鋼を生かしていた。 *** 持ち主を失った部屋は、ただ寂れたように色を失っていた。 花言葉が連なる分厚い本を手に、長いこと涙に身を震わせていた黒鋼は、ふと窓から吹き込んできた風に頬を撫でられ、顔をあげた。 そこで黒鋼は初めて、部屋の中から自分が長い間手入れをし続けていた庭を眺めた。 嘘みたいに晴れた空。日差しが強すぎて、たった今涙を零したばかりの瞳に、それは酷い痛みばかりをもたらした。まるで棘が深く皮膚を抉るように。 窓枠によって切り取られた外の世界は、あまりにも小さなものだった。 こんなに狭い世界が、ユゥイの全てだったのだ。 そしてこの窓から、幼い彼は広い世界を夢見てあの日、細い両腕を精一杯伸ばして笑っていた。 自分は、それをただ『外』から眺めるだけだった。彼が求めてやまなかった場所から、ただ見ているだけ。 何一つ願いなど叶えられない。叶える力もない。 交わしたたった一つの約束も、今では酷く遠い場所にある。 どんなに手を伸ばしても届かない。掴めないと分かっていて、それでも手を伸ばした彼は、どれほどの強さをあの小さな身体の中に宿していたのだろうか。 本当はずっと目を背け続けていた。 彼が死に近い場所にいることを知りながら、出会って今までが大丈夫だったのだからと、それだけのことで未来を疑いもしなかった自分は、唐突な彼の死を受け入れられずに、見動きさえもままならないというのに。 痛みに耐えきれず、黒鋼は開いたままだった分厚い本を閉じた。 そのとき、はらりと一枚の紙切れが滑るように床に落ちた。 しおりだろうかと手を伸ばした黒鋼は、それが『手紙』であることに気がついた。 誰が書いたものか、考えずともたった一人しか思い浮かばない。 二つに折りたたまれた、味気ない白の便せん。 黒鋼は少し迷ったのち、ゆっくりと、それを開いて見た。 そこにはユゥイの想いが、強さが、そして弱さが書き綴られていた。 彼は強かった。強いから弱かった。最初から、生きることを諦めていた。 だからこそ、笑いながら語った夢の話。幼く、遠い日の記憶。そして希望。 手紙を胸に抱きしめて、必死で込み上げる嗚咽を堪える。声を出して泣くのは嫌だった。そして泣くのは、これが最後だと決める。 今は叶えたい願いがある。彼の残した遺言。 託された最後の願いは、手の届く場所にあるはずだった。 * 淡い恋は淡いまま。 たった一度の口づけを最後に、終わってしまった。 黒鋼はユゥイを抱かなかった。 あの日、薔薇を渡したあのとき、たった一度くちづけただけで、はっきりと気持ちを告白したこともない。 触れるのが、本当は怖かったのかもしれない。 何かが大きく変わることが怖かった。 平穏であること、平坦であること。変わらない関係が揺るぎさえしなければ、そこにずっとユゥイがいる。 あの月の光のような柔らかい微笑みで、ずっと。そんな気がしていた。 心臓を患っている彼を、目に見えて痩せ細った身体を抱きしめるのが怖くて、ガラス細工のような時間が何よりも大切で、腫れ物を扱うようにしか触れられなかった。ただそっと抱きしめることさえ。 それでも、もしユゥイが望んだなら。 彼から一言でも「欲しい」という言葉を聞いていたなら。 自分は彼を、抱いたのだろうか。 *** 屋敷には今日、初めて足を踏み入れた。 玄関ホールに設置されている古時計だけが、一秒ごとに音を立てているだけで、薄暗い空間は真冬のように冷え切っていた。 黒鋼はファイの部屋がどこにあるのかを知らなかった。 けれど最愛のものを失った痛みだけは同じだった。だからといって、自分に何が出来るかは分からない。 それでもただ、傍にいようと思った。 一つ一つ、幾つもある部屋のドアを開けて行った。廊下を奥へ進む度に、ホールの古時計が時を刻む音が遠ざかる。 やがてとある部屋の前で、黒鋼はふと足を止めた。 ほぼ無音の世界に、くぐもった細い声が微かに聞こえたような気した。 ファイの声であることは分かった。泣いているのだろうかと。 けれど耳を澄ませば、それは嗚咽でも、すすり泣く声でもないことが分かる。 『 』 ファイが何かを呟いている。だがよくは聞こえなかった。 扉の向こうには、彼一人だけではないのだろうか。 黒鋼は、多少迷いはしたものの、扉を叩いてみることにした。 「おい、俺だ」 『 』 「おい」 妙な胸騒ぎがした。 少し大きな声を出しながら、黒鋼はついにドアノブに手をかけ、扉を開けた。 そしてカーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中に、壁を向いてへたり込むファイの姿を見つけた。 「……ゥイ……さい……ね……」 彼以外には誰もいない。けれどファイは扉が開いたことにも気がつかないのか、壁に向かって両手を伸ばして、ぶつぶつと何かを呟いている。 黒鋼は眉間の皺を深くしながら、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。 「何、してんだ」 「……ねがい……いで……かな……」 「おい」 すぐ側で足を止めて、ようやく黒鋼は気がついた。彼は壁に向かっていたのではなかった。 そこには大きな姿見が設置されていたのだ。 黒鋼は背筋に何か薄ら寒いものがゾクリと駆け抜けたのを感じて、息を飲む。 「ごめんね……ごめんなさい……ユゥイ……ごめんなさい……」 鏡に爪を立て、猫のようにカリカリと引っかきながら。 「お願いだから……ひとりにしないで……オレを置いてかないで……」 彼は、鏡に映る自分に向かって、必死で許しを求めていた。壊れたオモチャのように何度も、何度も、繰り返し。 薄闇の中でもわかる。彼の瞳は酷く虚ろで、そこにはもう鏡の中の『自分』しか映されていない。 「ッ、やめろ!!」 血の気が引くような思いだった。衝動的に声を荒げて、ファイの側に膝をつくと、痩せこけた手首を掴んだ。 そこでようやく、彼はピクリと肩を揺らした。ゆっくりと顔がこちらに向けられて、幾度かぼんやりと瞬きを繰り返す。 黒鋼には、かけてやれる言葉がなかった。 最後にまともにファイの顔を見たのは、ユゥイに薔薇を渡したあの日だった。そのとき初めてちゃんとした会話が成立した。 そして次に会ったのは、ユゥイが他界した日。あのときのことは、あまり覚えていない。 ただ分かることは、ファイがたった数日で、驚くほどやつれてしまったということだった。 髪が長く、大人びて見えた弟に比べると、彼は幼い頃のままだった。細身であることに代わりはないが、健康的にふっくらとした頬をしていた。 黒鋼の記憶の中にあるユゥイの姿より、今の彼はずっと病的なものに見える。だから、重ならない。 ファイは虚ろな瞳のままで小首を傾げた。口元が、嬉しそうに綻ぶ。 「やっと来た……遅いよ……」 「……悪い」 「君が来ないから、さっきからずっとユゥイがご機嫌ななめだよ」 「…………」 「大丈夫。君の大切な人は、ほら、ここにいるよ」 そう言うと、彼は掴まれていない方の手で鏡を指さした。よく見れば、その手には幾枚かの花弁を失い、色あせて枯れてしまった薔薇の花が一本、握られていた。 あの日、黒鋼がユゥイに贈った薔薇の花。 「ほらユゥイ。彼が来たよ? これでもう全部、元通りだよね……?」 やるせなさ。いたたまれなさ。 黒鋼は目を閉じて、叫び出したい感情をぐっと堪えた。 「……よせ」 「ユゥイ、ねぇ、ユゥイ。ここだよ。ここにいるよ」 ―――ボクはここだよ。ここにいるよ。 「もうやめろ!!」 「ッ……!」 ファイの肩が大きく跳ねる。黒鋼を見て、小刻みに震えだす。けれど震えていたのは、黒鋼も同じだった。 「あいつはもういない」 乱暴に彼の両肩を掴み、こちらを向かせる。 ふるふると、彼は首を振った。酷く怯えた表情で、唇を震わせていた。 「嘘だよ……ここにいるじゃない……ちゃんといるじゃない……ね? ユゥイ、なにか言って。オレとお話して。どうして答えてくれないの?」 弱々しく身を捩り、再び鏡と向き合おうとするのを、黒鋼は許さなかった。 「死んだんだ……もう、どこにもいない……おまえが一番、分かってることだろ」 真夜中に突然の発作を起こしたユゥイは、朝、ファイがいつものように部屋を訪れたときには、すでに息を引き取っていた。一人孤独に、逝かせてしまった。 ファイは焦点の定まらない瞳をゆらゆらと彷徨わせた。そして、徐々に呼吸を荒げていく。 瞬きを忘れた彼は、目を合わせようと根気よく見つめ続ける黒鋼をその目に捉えると、蚊の鳴くような声で言った。 「オレの、せいだよ……」 虚ろだったファイの瞳から、糸がプツリと切れてしまったように、涙が零れる。 「オレが、殺したんだ……オレのせいだ……オレが、オレが……」 ごめんなさいと、ファイは幾度も言った。子供のように大粒の涙で頬を濡らす彼に、黒鋼は強く首を左右に振った。 「違う。そうじゃねぇ。おまえは何も……」 「ユゥイなんか、いなくなればいいって……思ったから……」 「……!」 「ユゥイがいなければ……君は、オレのものになるって……思ってた……」 黒鋼は目を見開いた。 「だからユゥイ……いなくなっちゃった……」 黒鋼は力なく、彼の両肩を掴んでいた手を床に落とした。頭の中で整理しきれないことが多すぎる。 子供の頃は、どちらかと言えばむしろ嫌われているものとばかり思っていた。 それはきっと、仲のいい双子の間に自分が異物として割り込んだからだと、ユゥイへの独占欲なのだろうと、そうも思っていた。けれど違った。 彼の想いの矛先は、この自分だったというのか。 「君もオレを置いていくの?」 何も答えられないでいる黒鋼に、喪失の悲しみと罪悪感に毀れてしまった彼の心は、逃げ道を探している。 「生きていけない」 ファイの手が伸びてくる。けれどあと少しというところで黒鋼に触れることを躊躇い、宙を彷徨う。 薔薇の花は、冷たい床の上に落ちてしまった。 「君まで失ったら、生きていけないよ……」 愛する者と同じ姿で、声で、別たれた魂で。 彼は黒鋼を縛る。 「愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……」 そのときの黒鋼に、他にどんな選択肢が残されていたのだろうか。 選び取る以外に、手を、掴んでやること以外に。 黒鋼は、ファイの手を取った。 「ッ……!」 求めたのはファイなのに、彼は信じられないとでも言うように目を大きく見開いた。そしてまた涙を零す。 滲むように、虚ろだった彼の瞳が正気を取り戻していく。 「冷たかった……」 ぽつりと呟かれた声を皮切りに、泣き濡れた表情がくしゃりと歪む。そして幼子のようにしゃくり上げ始めた。 「ッ、ユゥイ、眠ってる、みたいだった……オレ、起きて、って……ユゥイ、起きてって……何度も、何度も、呼んだんだ……」 もう泣かないと、そう決めたはずなのに。 息を飲み、唇を噛みしめ、黒鋼は冷える指先と比例して、加熱してゆく胸の激痛を堪えた。 「ユゥイの身体、冷たかった……」 止めどなく流れる涙が、彼の膝に添えられている黒鋼の手の甲を濡らす。 「冷たかったんだ……」 痩せた手首。へし折ってしまうかもしれないと思いながらも、掴む手の力を緩めることが出来ない。 そのまま長い間、ひたすら泣き続けるファイを見守った。 叫びだしたかった。大きな声を上げて、受け入れがたい現実を否定したかった。黒鋼もまた、荒れ狂う感情を押しこめるのに必死だった。 どうして後悔することしか出来ないのだろう。もっと早くから、ファイの傍にいてやればよかった。どうして、たった一人で逃げ出してしまったのだろう。 ユゥイの名を呼びながら、動かなくなった身体を必死で揺らすファイの姿が目に浮かぶ。熱を、鼓動を確かめるように触れる、指先の震えが。 実際に見たわけでもないのに、そんな光景がありありと脳内に再生された。 「もう、眠りたい……」 やがて嗚咽がおさまった頃、吐き出された言葉と一緒に、ファイはガクリと項垂れた。 「消えて、いなくなりたい」 ここにいるのはユゥイではない。 だからこそ、 この狂おしいまでの切なさに名前をつけることは躊躇われた。 重ならない双子。似てるのに、似ていない彼ら。同じ魂。けれど違う人間。 閉じ込められていた小鳥は、ユゥイだけではなかった。 片方は自由を求めて空に手を伸ばした。あの日、優しい春風に乗って消えていった綿毛のように、彼は旅立ってしまった。 そして遺された番(つがい)の小鳥は今、生きる希望も気力も、何もかもを失っていた。 その孤独が、彼を殺してしまうくらいなら。 もしそれを繋ぎとめる力が、この腕に宿っているのだとしたら。 それを出来るのが、自分だけなのだとしたら。 「眠れよ……だから、消えるなんて許さねぇ」 黒鋼は手を伸ばした。ファイの二つの瞳にかぶせ、視界を奪う。長い睫毛と涙の感触。薄い瞼が震えているのを、手のひらに感じた。 「傍にいてやる。だから眠っちまえ。ずっと、見ててやるから」 ファイが倒れ込んだのか、それとも自分が引き寄せたのか。 ユゥイすら抱くことのなかったこの腕が、今はファイを抱きしめていた。 温かい。生きている。彼は、生きている。 「眠って、忘れて、起きたらあとは、ずっと笑ってろ。辛いも苦しいも、全部こっちに寄こせ。てめぇが笑ってられるなら、代わりに……俺でよけりゃあ、くれてやる。 ファイは少しだけ笑ったようだった。 「うれしい」 彼が笑ったことで、黒鋼の心はほんの少しだけ救われたような気がした。 おそらくユゥイが死んでからずっと眠っていなかったのであろうファイは、ゆっくりと身体から力を抜いていく。 「そうなったら、いいのにね……」 彼は最後に呟くと、やがて眠りに落ちた。 「なるさ。俺が全部、叶えてやる」 ユゥイの願いは何一つ叶えてやれなかった。 けれど全部預かって抱え込む代わりに、ファイの欲しいものならば、与えてやれる。 これはユゥイの望む形ではないかもしれない。愚かなことかもしれない。 けれど、例えそうだとしても、 ファイの心が本当に壊れて、消えてしまわないように。 「ここにいる。俺は、ここにいるぞ」 黒鋼は深い眠りの底へと旅立ったファイの身体を、強く強く、抱きしめた。 ←戻る ・ 次へ→
綿毛のたんぽぽの花言葉を知ったのは、黒鋼が初めてユゥイの部屋に足を踏み入れたときのことだった。
そして黒鋼は後悔する。
知らなければよかった。知らないままでいれば、泣けないままでいられたかもしれない。
花言葉の書かれた分厚い本。開かれたページにぽたりぽたりと、雫が落ちる。
『別離』
それが、ユゥイが口に出すことを拒んだ、ただ一つの答えだった。
***
連絡を受けて病院へ駆けつけたとき、そこにいたのは薄暗い廊下、病室脇の壁に背を預けて、呆然と立ち尽くすファイだった。
あれほど大きな屋敷に住んでいながら、こうして駆けつけるのはたった一人の家族と、他人である黒鋼だけ。
彼らの両親は二人の息子を、ましてや片方は病に伏しているというのに国内にすらいないことを知っている。
いや、もう世界中どこを探しても、彼らはいない。
十数年前に旅先の事故で死亡しているのだ。遺体さえも帰国を果たしてはいなかった。どこでどう死んだのかまでは知らないが、見つからないのかもしれない。
「あいつは……!?」
ファイの姿を見つけるなり、黒鋼は彼の両肩を掴んで揺さぶった。
揺さぶられたことでようやくこちらの存在に気付いたらしい彼は、小さく唇を開いた。そして虚ろな瞳のまま、ゆらゆらと首を振る。
一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。それから、次に沸き起こった感情は、激しい怒りだった。
「どうしてだ!!」
細い身体をガクガクと揺さぶった。ファイはされるがまま、何も言わない。
「何か言え!! 何がどうして……っ、何が……っ」
何が起こった?
ついほんの数日前ではなかったか。
いつもの場所で、彼に黄色の春薔薇を渡した。
たんぽぽの花ことばを聞いて、秋薔薇を渡す約束をした。
そして一瞬だけ、唇を触れ合わせた。
温かな唇だった。彼は、確かに生きていた。
生きていたのに――。
ほんの短い間だけ、どこからともなく沸き起こった怒りは、すぐに泡のように消え去った。
いや、そうではない。何もかもがない交ぜになって、もはやこれが感情と呼べるものなのかも、分からなくなっただけだった。
夢を見ているのだと思った。ぐにゃりと足元が歪んで、立っていることが出来なくなった黒鋼は、ファイに縋るようにして膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
抑揚のない声で、たった一言ファイが呟いた言葉も、そのときの黒鋼には届かなかった。
***
それから何日が経過したのか、ふとカレンダーを眺めても、実感が湧かなかった。
眠っていたのか、起きていたのか。
自宅には一度戻ったような気がするが、そのまま留まっていたのか、外へ飛び出したのかさえ、黒鋼の中では全てが曖昧なままだった。
ファイはどうしたのだろう。彼はどんな顔をしていた? 泣いていただろうか? 何も分からない。空っぽだった。
ただはっきりしているのは、眠るような表情で抜け殻になったユゥイの身体が、今はもう、真っ白の灰になっているだろうということ。
けれど頭で考えることに、気持ちが追いつかなかった。
気がつけば黒鋼は屋敷の前にいた。
よくこんな心理状態で車なんて運転できたものだと思いはしたが、ただユゥイに会いたいという思いだけが、黒鋼を生かしていた。
***
持ち主を失った部屋は、ただ寂れたように色を失っていた。
花言葉が連なる分厚い本を手に、長いこと涙に身を震わせていた黒鋼は、ふと窓から吹き込んできた風に頬を撫でられ、顔をあげた。
そこで黒鋼は初めて、部屋の中から自分が長い間手入れをし続けていた庭を眺めた。
嘘みたいに晴れた空。日差しが強すぎて、たった今涙を零したばかりの瞳に、それは酷い痛みばかりをもたらした。まるで棘が深く皮膚を抉るように。
窓枠によって切り取られた外の世界は、あまりにも小さなものだった。
こんなに狭い世界が、ユゥイの全てだったのだ。
そしてこの窓から、幼い彼は広い世界を夢見てあの日、細い両腕を精一杯伸ばして笑っていた。
自分は、それをただ『外』から眺めるだけだった。彼が求めてやまなかった場所から、ただ見ているだけ。
何一つ願いなど叶えられない。叶える力もない。
交わしたたった一つの約束も、今では酷く遠い場所にある。
どんなに手を伸ばしても届かない。掴めないと分かっていて、それでも手を伸ばした彼は、どれほどの強さをあの小さな身体の中に宿していたのだろうか。
本当はずっと目を背け続けていた。
彼が死に近い場所にいることを知りながら、出会って今までが大丈夫だったのだからと、それだけのことで未来を疑いもしなかった自分は、唐突な彼の死を受け入れられずに、見動きさえもままならないというのに。
痛みに耐えきれず、黒鋼は開いたままだった分厚い本を閉じた。
そのとき、はらりと一枚の紙切れが滑るように床に落ちた。
しおりだろうかと手を伸ばした黒鋼は、それが『手紙』であることに気がついた。
誰が書いたものか、考えずともたった一人しか思い浮かばない。
二つに折りたたまれた、味気ない白の便せん。
黒鋼は少し迷ったのち、ゆっくりと、それを開いて見た。
そこにはユゥイの想いが、強さが、そして弱さが書き綴られていた。
彼は強かった。強いから弱かった。最初から、生きることを諦めていた。
だからこそ、笑いながら語った夢の話。幼く、遠い日の記憶。そして希望。
手紙を胸に抱きしめて、必死で込み上げる嗚咽を堪える。声を出して泣くのは嫌だった。そして泣くのは、これが最後だと決める。
今は叶えたい願いがある。彼の残した遺言。
託された最後の願いは、手の届く場所にあるはずだった。
*
淡い恋は淡いまま。
たった一度の口づけを最後に、終わってしまった。
黒鋼はユゥイを抱かなかった。
あの日、薔薇を渡したあのとき、たった一度くちづけただけで、はっきりと気持ちを告白したこともない。
触れるのが、本当は怖かったのかもしれない。
何かが大きく変わることが怖かった。
平穏であること、平坦であること。変わらない関係が揺るぎさえしなければ、そこにずっとユゥイがいる。
あの月の光のような柔らかい微笑みで、ずっと。そんな気がしていた。
心臓を患っている彼を、目に見えて痩せ細った身体を抱きしめるのが怖くて、ガラス細工のような時間が何よりも大切で、腫れ物を扱うようにしか触れられなかった。ただそっと抱きしめることさえ。
それでも、もしユゥイが望んだなら。
彼から一言でも「欲しい」という言葉を聞いていたなら。
自分は彼を、抱いたのだろうか。
***
屋敷には今日、初めて足を踏み入れた。
玄関ホールに設置されている古時計だけが、一秒ごとに音を立てているだけで、薄暗い空間は真冬のように冷え切っていた。
黒鋼はファイの部屋がどこにあるのかを知らなかった。
けれど最愛のものを失った痛みだけは同じだった。だからといって、自分に何が出来るかは分からない。
それでもただ、傍にいようと思った。
一つ一つ、幾つもある部屋のドアを開けて行った。廊下を奥へ進む度に、ホールの古時計が時を刻む音が遠ざかる。
やがてとある部屋の前で、黒鋼はふと足を止めた。
ほぼ無音の世界に、くぐもった細い声が微かに聞こえたような気した。
ファイの声であることは分かった。泣いているのだろうかと。
けれど耳を澄ませば、それは嗚咽でも、すすり泣く声でもないことが分かる。
『 』
ファイが何かを呟いている。だがよくは聞こえなかった。
扉の向こうには、彼一人だけではないのだろうか。
黒鋼は、多少迷いはしたものの、扉を叩いてみることにした。
「おい、俺だ」
『 』
「おい」
妙な胸騒ぎがした。
少し大きな声を出しながら、黒鋼はついにドアノブに手をかけ、扉を開けた。
そしてカーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中に、壁を向いてへたり込むファイの姿を見つけた。
「……ゥイ……さい……ね……」
彼以外には誰もいない。けれどファイは扉が開いたことにも気がつかないのか、壁に向かって両手を伸ばして、ぶつぶつと何かを呟いている。
黒鋼は眉間の皺を深くしながら、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「何、してんだ」
「……ねがい……いで……かな……」
「おい」
すぐ側で足を止めて、ようやく黒鋼は気がついた。彼は壁に向かっていたのではなかった。
そこには大きな姿見が設置されていたのだ。
黒鋼は背筋に何か薄ら寒いものがゾクリと駆け抜けたのを感じて、息を飲む。
「ごめんね……ごめんなさい……ユゥイ……ごめんなさい……」
鏡に爪を立て、猫のようにカリカリと引っかきながら。
「お願いだから……ひとりにしないで……オレを置いてかないで……」
彼は、鏡に映る自分に向かって、必死で許しを求めていた。壊れたオモチャのように何度も、何度も、繰り返し。
薄闇の中でもわかる。彼の瞳は酷く虚ろで、そこにはもう鏡の中の『自分』しか映されていない。
「ッ、やめろ!!」
血の気が引くような思いだった。衝動的に声を荒げて、ファイの側に膝をつくと、痩せこけた手首を掴んだ。
そこでようやく、彼はピクリと肩を揺らした。ゆっくりと顔がこちらに向けられて、幾度かぼんやりと瞬きを繰り返す。
黒鋼には、かけてやれる言葉がなかった。
最後にまともにファイの顔を見たのは、ユゥイに薔薇を渡したあの日だった。そのとき初めてちゃんとした会話が成立した。
そして次に会ったのは、ユゥイが他界した日。あのときのことは、あまり覚えていない。
ただ分かることは、ファイがたった数日で、驚くほどやつれてしまったということだった。
髪が長く、大人びて見えた弟に比べると、彼は幼い頃のままだった。細身であることに代わりはないが、健康的にふっくらとした頬をしていた。
黒鋼の記憶の中にあるユゥイの姿より、今の彼はずっと病的なものに見える。だから、重ならない。
ファイは虚ろな瞳のままで小首を傾げた。口元が、嬉しそうに綻ぶ。
「やっと来た……遅いよ……」
「……悪い」
「君が来ないから、さっきからずっとユゥイがご機嫌ななめだよ」
「…………」
「大丈夫。君の大切な人は、ほら、ここにいるよ」
そう言うと、彼は掴まれていない方の手で鏡を指さした。よく見れば、その手には幾枚かの花弁を失い、色あせて枯れてしまった薔薇の花が一本、握られていた。
あの日、黒鋼がユゥイに贈った薔薇の花。
「ほらユゥイ。彼が来たよ? これでもう全部、元通りだよね……?」
やるせなさ。いたたまれなさ。
黒鋼は目を閉じて、叫び出したい感情をぐっと堪えた。
「……よせ」
「ユゥイ、ねぇ、ユゥイ。ここだよ。ここにいるよ」
―――ボクはここだよ。ここにいるよ。
「もうやめろ!!」
「ッ……!」
ファイの肩が大きく跳ねる。黒鋼を見て、小刻みに震えだす。けれど震えていたのは、黒鋼も同じだった。
「あいつはもういない」
乱暴に彼の両肩を掴み、こちらを向かせる。
ふるふると、彼は首を振った。酷く怯えた表情で、唇を震わせていた。
「嘘だよ……ここにいるじゃない……ちゃんといるじゃない……ね? ユゥイ、なにか言って。オレとお話して。どうして答えてくれないの?」
弱々しく身を捩り、再び鏡と向き合おうとするのを、黒鋼は許さなかった。
「死んだんだ……もう、どこにもいない……おまえが一番、分かってることだろ」
真夜中に突然の発作を起こしたユゥイは、朝、ファイがいつものように部屋を訪れたときには、すでに息を引き取っていた。一人孤独に、逝かせてしまった。
ファイは焦点の定まらない瞳をゆらゆらと彷徨わせた。そして、徐々に呼吸を荒げていく。
瞬きを忘れた彼は、目を合わせようと根気よく見つめ続ける黒鋼をその目に捉えると、蚊の鳴くような声で言った。
「オレの、せいだよ……」
虚ろだったファイの瞳から、糸がプツリと切れてしまったように、涙が零れる。
「オレが、殺したんだ……オレのせいだ……オレが、オレが……」
ごめんなさいと、ファイは幾度も言った。子供のように大粒の涙で頬を濡らす彼に、黒鋼は強く首を左右に振った。
「違う。そうじゃねぇ。おまえは何も……」
「ユゥイなんか、いなくなればいいって……思ったから……」
「……!」
「ユゥイがいなければ……君は、オレのものになるって……思ってた……」
黒鋼は目を見開いた。
「だからユゥイ……いなくなっちゃった……」
黒鋼は力なく、彼の両肩を掴んでいた手を床に落とした。頭の中で整理しきれないことが多すぎる。
子供の頃は、どちらかと言えばむしろ嫌われているものとばかり思っていた。
それはきっと、仲のいい双子の間に自分が異物として割り込んだからだと、ユゥイへの独占欲なのだろうと、そうも思っていた。けれど違った。
彼の想いの矛先は、この自分だったというのか。
「君もオレを置いていくの?」
何も答えられないでいる黒鋼に、喪失の悲しみと罪悪感に毀れてしまった彼の心は、逃げ道を探している。
「生きていけない」
ファイの手が伸びてくる。けれどあと少しというところで黒鋼に触れることを躊躇い、宙を彷徨う。
薔薇の花は、冷たい床の上に落ちてしまった。
「君まで失ったら、生きていけないよ……」
愛する者と同じ姿で、声で、別たれた魂で。
彼は黒鋼を縛る。
「愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……」
そのときの黒鋼に、他にどんな選択肢が残されていたのだろうか。
選び取る以外に、手を、掴んでやること以外に。
黒鋼は、ファイの手を取った。
「ッ……!」
求めたのはファイなのに、彼は信じられないとでも言うように目を大きく見開いた。そしてまた涙を零す。
滲むように、虚ろだった彼の瞳が正気を取り戻していく。
「冷たかった……」
ぽつりと呟かれた声を皮切りに、泣き濡れた表情がくしゃりと歪む。そして幼子のようにしゃくり上げ始めた。
「ッ、ユゥイ、眠ってる、みたいだった……オレ、起きて、って……ユゥイ、起きてって……何度も、何度も、呼んだんだ……」
もう泣かないと、そう決めたはずなのに。
息を飲み、唇を噛みしめ、黒鋼は冷える指先と比例して、加熱してゆく胸の激痛を堪えた。
「ユゥイの身体、冷たかった……」
止めどなく流れる涙が、彼の膝に添えられている黒鋼の手の甲を濡らす。
「冷たかったんだ……」
痩せた手首。へし折ってしまうかもしれないと思いながらも、掴む手の力を緩めることが出来ない。
そのまま長い間、ひたすら泣き続けるファイを見守った。
叫びだしたかった。大きな声を上げて、受け入れがたい現実を否定したかった。黒鋼もまた、荒れ狂う感情を押しこめるのに必死だった。
どうして後悔することしか出来ないのだろう。もっと早くから、ファイの傍にいてやればよかった。どうして、たった一人で逃げ出してしまったのだろう。
ユゥイの名を呼びながら、動かなくなった身体を必死で揺らすファイの姿が目に浮かぶ。熱を、鼓動を確かめるように触れる、指先の震えが。
実際に見たわけでもないのに、そんな光景がありありと脳内に再生された。
「もう、眠りたい……」
やがて嗚咽がおさまった頃、吐き出された言葉と一緒に、ファイはガクリと項垂れた。
「消えて、いなくなりたい」
ここにいるのはユゥイではない。
だからこそ、 この狂おしいまでの切なさに名前をつけることは躊躇われた。
重ならない双子。似てるのに、似ていない彼ら。同じ魂。けれど違う人間。
閉じ込められていた小鳥は、ユゥイだけではなかった。
片方は自由を求めて空に手を伸ばした。あの日、優しい春風に乗って消えていった綿毛のように、彼は旅立ってしまった。
そして遺された番(つがい)の小鳥は今、生きる希望も気力も、何もかもを失っていた。
その孤独が、彼を殺してしまうくらいなら。
もしそれを繋ぎとめる力が、この腕に宿っているのだとしたら。
それを出来るのが、自分だけなのだとしたら。
「眠れよ……だから、消えるなんて許さねぇ」
黒鋼は手を伸ばした。ファイの二つの瞳にかぶせ、視界を奪う。長い睫毛と涙の感触。薄い瞼が震えているのを、手のひらに感じた。
「傍にいてやる。だから眠っちまえ。ずっと、見ててやるから」
ファイが倒れ込んだのか、それとも自分が引き寄せたのか。
ユゥイすら抱くことのなかったこの腕が、今はファイを抱きしめていた。
温かい。生きている。彼は、生きている。
「眠って、忘れて、起きたらあとは、ずっと笑ってろ。辛いも苦しいも、全部こっちに寄こせ。てめぇが笑ってられるなら、代わりに……俺でよけりゃあ、くれてやる。
ファイは少しだけ笑ったようだった。
「うれしい」
彼が笑ったことで、黒鋼の心はほんの少しだけ救われたような気がした。
おそらくユゥイが死んでからずっと眠っていなかったのであろうファイは、ゆっくりと身体から力を抜いていく。
「そうなったら、いいのにね……」
彼は最後に呟くと、やがて眠りに落ちた。
「なるさ。俺が全部、叶えてやる」
ユゥイの願いは何一つ叶えてやれなかった。
けれど全部預かって抱え込む代わりに、ファイの欲しいものならば、与えてやれる。
これはユゥイの望む形ではないかもしれない。愚かなことかもしれない。
けれど、例えそうだとしても、 ファイの心が本当に壊れて、消えてしまわないように。
「ここにいる。俺は、ここにいるぞ」
黒鋼は深い眠りの底へと旅立ったファイの身体を、強く強く、抱きしめた。
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