2025/09/19 Fri 白猫、故郷へ戻るの巻 朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。 当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。 この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。 と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。 せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。 酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。 「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」 黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。 だが特に気にするでもなく続けた。 「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」 ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。 「これでよーし!」 これで正真正銘、彼は自分のものになった。 知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。 「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」 「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」 「あんまり鳴くな。隣にバレる」 「にゃう?」 「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」 「人間……かぁ~……」 とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。 考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。 今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。 けれどもし、黒鋼と話ができたら。 ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。 そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。 いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。 階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。 カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。 黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。 「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」 黒鋼は特に答えない。 「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」 しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。 「おい、チビ助」 「ちびすけ?」 「この辺で遊んでろよ」 「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」 「おら、ついてくんな」 足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。 「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」 「じゃあな」 「あっ」 座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。 そのまま少しの間睨めっこをした。 「……ダメ?」 なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。 再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。 一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。 これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。 「つまんにゃい」 やっぱり猫だから、なのか。 自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。 退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。 唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。 ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。 ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。 もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。 なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。 例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。 そんなのは嫌だ。寂しい。 「オレ、人間だったらよかった……」 立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。 そして、ピン、と思いつく。 「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」 彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。 それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。 漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。 +++ 「あった……!」 目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。 一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。 初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。 懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。 この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。 「んじゃ、行きまーす!」 ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。 グルグル~…… 来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。 スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。 お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。 「大成功……?」 起き上って辺りを見回した。 懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。 見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。 ここは故郷、猫の国。 「やったー!! うまくいったーーー!!!」 あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。 柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。 「よく帰ってきたね……ファイ……」 「!」 でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。 懐かしい声。けれど……低い。 「……ゆ、ユゥイ……?」 そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。 そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。 やっば……。 咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。 「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」 「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」 怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。 ファイは全身が凍りつくのを感じた……。 ←戻る ・ 次へ→
朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
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