2025/09/19 Fri 白猫、ふと立ち止まるの巻 なんだかんだで先延ばしになっていたファイの靴を選ぶため、やって来たのは人通りの多い駅前の商店街だった。 そこは大きな百貨店を中心に様々な店や飲食店などが軒を連ね、行き交う人々で賑やかだった。 ここ最近はずっと外に出ていなかったこともあって、久しぶりに風に当たりながら歩くのは気持ちがいい。 こういった人通りのある場所へ改めて来るのは、初めてこの世界に足を踏み入れたあの夜のことで、あのときは雨が降っていたり、精神的にも肉体的にもボロボロだった。 だが、ああしてボロボロになりながら迷い込んだからこそ黒鋼と出会えたのもまた事実で、今にしてみればいい思い出、と呼べるのかもしれない。 ファイの気持ちは先刻のユゥイとの会話で曇りがちだったけれど、黒鋼とこんな場所まで足を運ぶことは初めてで、ただ純粋に嬉しかった。 今は、何も考えたくない。 「凄いねー! たくさんお店があるんだねー」 少し前を行く黒鋼の後ろで、ファイは物珍しげにキョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた。 「おまえ、迷子になっても知らねぇぞ」 「平気だよー」 なんて言いつつ知らない人と肩がぶつかって、ファイは慌てて頭を下げると小走りで黒鋼の隣にくっついた。 「言わんこっちゃねぇ」 「猫だったら擦り抜けるの簡単なのにねぇ」 「猫じゃねぇんだからもっと自覚持て」 「はーい」 ファイは指先でそっと黒鋼の服の袖を握った。 人目が気になるかもしれないと思いはしたが、行き交う人々は一々こちらに目を向けたりはしなかった。 携帯電話を耳に押し当てながら、どこかへ急ぐサラリーマン。 乳母車に子供を乗せた母親、杖をついて歩く老人。 友達同士でじゃれあっている学生や、恋人達の群れ。 色々な人間達がひしめきあっていて、それでも彼らは他の誰に干渉するでもなく、ましてや肩を触れ合わせることもなく、溶け込むようにして各々の世界を持っている。 不思議だなぁと思った。 こんなにたくさんの人たちがいて、こんなに広い世界の中にいて、ただすれ違うだけの人たちは、様々な年齢や、職種や、それぞれ帰る場所があって。 (こんなにいっぱい人がいるのに、オレが知ってて、オレが頼れるのはこの人だけなんだなぁ) ふと、ファイは黒鋼の横顔を見た。 (たくさんたくさん人がいるのに、俺はこの人を好きになったんだ) 少し頬を染めていると、視線に気づいた黒鋼がこちらに顔を向けた。 「歩きやすいだろ?」 そう問われて、慌てて首を縦に振る。 黒鋼が何足も持ちだしては選んでくれたカジュアルシューズは、しょっちゅう散歩をしたり、芝生や砂の上を歩くファイの行動パターンを考慮してのチョイスで、大きな靴を引きずるようにして歩いていたときに比べると、格段の歩きやすさだった。 「楽ちんになったよー。ありがとー」 「そうか。じゃあ、次は洋服だ」 「だからそれはいいって言ってるのにー」 「遠慮すんな。おまえ、あれだぞ、今日は給料日だ」 「さっきも聞いたよー」 少し自慢げな黒鋼に、思わず小さく吹き出した。 彼は何かしらおねだりをしてほしいらしい。 ファイにしてみれば黒鋼さえ傍にいてくれれば、それでいいのに。 「しょうがねぇな……じゃあ、なんか食ってくか?」 「お外でご飯食べるの?」 「初めてだろ?」 「うん! 初めて!」 「じゃあ決まりだな」 「うん!」 黒鋼が出した妥協案に素直に従う。 確かに遠慮しているというのもあるけれど。 「あ」 小さく声を上げたファイは、ショーウィンドウの前で足を止めた。 大きなガラスの向こう側には、無機質なマネキンがタキシードを着ている。そしてその隣には、純白のドレスにブーケを持ったマネキンがあった。 これは結婚式で着るもの。テレビで見たことがある。 静かに足を止めたファイの指から、黒鋼の服の裾が離れた。 ガラスに手をついて、美しいドレスに暫し見とれる。 (これを着れるのは、女の人だ) きらびやかなそれは、遠くへ押しやっていたファイの憂鬱を手繰り寄せた。 (これが欲しいって言ったら、黒たんは困るかな) きっと凄く高いし、何よりこんなものを買ったとしても、ファイは着ることができない。着れたとしても、結婚はできないのだ。 (オレだってバカじゃないよ。ねぇ、ユゥイ) 雑踏の中で少しだけ遠くなった黒鋼の背を見つめた。 泣きたくなって、慌てて目を逸らすと目線を上げる。そこには美しいドレスを纏うマネキンがある。 (お別れしなくちゃいけないのに、これ以上何か買ってなんて言えないよ) たくさんの人の声。足音。広い世界。 ファイは異端の存在で、帽子を取った途端に、これまで無関心を装っていた人々からおかしな目を向けられることを、知っている。 今のファイは人でもなければ猫でもなくて、こんな自分が黒鋼の傍にずっといるためには、完全に人間にでもなるか、猫の姿にでも戻ってペットとして暮らす以外にない。 どのみち結ばれることが出来ないならば、何よりも確実なのは後者なのだと思う。 もう言葉は通じないけれど、こんな風に一緒に買い物だってできないけれど。 やがて歳を取っていく黒鋼の傍にずっといて、それを看取って。 これからも変わらず長い時を生き続ける自分にとって、それは光の速さでしかない。 それくらいの我儘なら、ユゥイは許してくれるだろうか。 そしてそのときにはもう、彼は他の人と結ばれて子供が産まれているかもしれない。孫だっているかもしれない。 この雑踏の中に、黒鋼が結ばれるべき人がきっといる。 たくさんの人間たちの中から、ファイが彼を選んだように、彼に選ばれ、彼を選び取る人が、必ず。 「……ッ」 少し口元を歪めて、ファイは緩く首を振った。 「むずかしいよ……オレには」 見ていられるはずがない。 ただ傍にいるだけで幸せなんて、慎ましやかな願いなど、本当は嘘の塊だ。抱けるはずがない。 そんなものを見るくらいなら。 「おい」 声がして、ふと見れば黒鋼がすぐ傍にいた。 「おまえなぁ、迷子になっても知らねぇって……」 むっつりと顔を顰めていた黒鋼が、ファイの潤んだ目元を見て眉間の皺を色濃くした。 「なんだ? 腹でも空き過ぎたか?」 「もう……違うよー」 ファイは笑って首を振った。それから、身体ごと黒鋼に向かい合った。 「あのね、オレ……時々は遊びに来てもいいかなぁ?」 「あ?」 「ユゥイにお願いして、たまには遊びに来てもいい?」 二度と会わないなんて、そこまでの決意はまだ持てない。時々でいいから、黒鋼が独り身でいる間だけでもいいから、顔だけでも見に来られたらいいなと思った。 黙り込んだ黒鋼は、じっとファイの揺れる瞳を見つめた。 「春が終わったらね……」 ――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。 「帰ることにしたから」 ←戻る ・ 次へ→
なんだかんだで先延ばしになっていたファイの靴を選ぶため、やって来たのは人通りの多い駅前の商店街だった。
そこは大きな百貨店を中心に様々な店や飲食店などが軒を連ね、行き交う人々で賑やかだった。
ここ最近はずっと外に出ていなかったこともあって、久しぶりに風に当たりながら歩くのは気持ちがいい。
こういった人通りのある場所へ改めて来るのは、初めてこの世界に足を踏み入れたあの夜のことで、あのときは雨が降っていたり、精神的にも肉体的にもボロボロだった。
だが、ああしてボロボロになりながら迷い込んだからこそ黒鋼と出会えたのもまた事実で、今にしてみればいい思い出、と呼べるのかもしれない。
ファイの気持ちは先刻のユゥイとの会話で曇りがちだったけれど、黒鋼とこんな場所まで足を運ぶことは初めてで、ただ純粋に嬉しかった。
今は、何も考えたくない。
「凄いねー! たくさんお店があるんだねー」
少し前を行く黒鋼の後ろで、ファイは物珍しげにキョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた。
「おまえ、迷子になっても知らねぇぞ」
「平気だよー」
なんて言いつつ知らない人と肩がぶつかって、ファイは慌てて頭を下げると小走りで黒鋼の隣にくっついた。
「言わんこっちゃねぇ」
「猫だったら擦り抜けるの簡単なのにねぇ」
「猫じゃねぇんだからもっと自覚持て」
「はーい」
ファイは指先でそっと黒鋼の服の袖を握った。
人目が気になるかもしれないと思いはしたが、行き交う人々は一々こちらに目を向けたりはしなかった。
携帯電話を耳に押し当てながら、どこかへ急ぐサラリーマン。
乳母車に子供を乗せた母親、杖をついて歩く老人。
友達同士でじゃれあっている学生や、恋人達の群れ。
色々な人間達がひしめきあっていて、それでも彼らは他の誰に干渉するでもなく、ましてや肩を触れ合わせることもなく、溶け込むようにして各々の世界を持っている。
不思議だなぁと思った。
こんなにたくさんの人たちがいて、こんなに広い世界の中にいて、ただすれ違うだけの人たちは、様々な年齢や、職種や、それぞれ帰る場所があって。
(こんなにいっぱい人がいるのに、オレが知ってて、オレが頼れるのはこの人だけなんだなぁ)
ふと、ファイは黒鋼の横顔を見た。
(たくさんたくさん人がいるのに、俺はこの人を好きになったんだ)
少し頬を染めていると、視線に気づいた黒鋼がこちらに顔を向けた。
「歩きやすいだろ?」
そう問われて、慌てて首を縦に振る。
黒鋼が何足も持ちだしては選んでくれたカジュアルシューズは、しょっちゅう散歩をしたり、芝生や砂の上を歩くファイの行動パターンを考慮してのチョイスで、大きな靴を引きずるようにして歩いていたときに比べると、格段の歩きやすさだった。
「楽ちんになったよー。ありがとー」
「そうか。じゃあ、次は洋服だ」
「だからそれはいいって言ってるのにー」
「遠慮すんな。おまえ、あれだぞ、今日は給料日だ」
「さっきも聞いたよー」
少し自慢げな黒鋼に、思わず小さく吹き出した。
彼は何かしらおねだりをしてほしいらしい。
ファイにしてみれば黒鋼さえ傍にいてくれれば、それでいいのに。
「しょうがねぇな……じゃあ、なんか食ってくか?」
「お外でご飯食べるの?」
「初めてだろ?」
「うん! 初めて!」
「じゃあ決まりだな」
「うん!」
黒鋼が出した妥協案に素直に従う。
確かに遠慮しているというのもあるけれど。
「あ」
小さく声を上げたファイは、ショーウィンドウの前で足を止めた。
大きなガラスの向こう側には、無機質なマネキンがタキシードを着ている。そしてその隣には、純白のドレスにブーケを持ったマネキンがあった。
これは結婚式で着るもの。テレビで見たことがある。
静かに足を止めたファイの指から、黒鋼の服の裾が離れた。
ガラスに手をついて、美しいドレスに暫し見とれる。
(これを着れるのは、女の人だ)
きらびやかなそれは、遠くへ押しやっていたファイの憂鬱を手繰り寄せた。
(これが欲しいって言ったら、黒たんは困るかな)
きっと凄く高いし、何よりこんなものを買ったとしても、ファイは着ることができない。着れたとしても、結婚はできないのだ。
(オレだってバカじゃないよ。ねぇ、ユゥイ)
雑踏の中で少しだけ遠くなった黒鋼の背を見つめた。
泣きたくなって、慌てて目を逸らすと目線を上げる。そこには美しいドレスを纏うマネキンがある。
(お別れしなくちゃいけないのに、これ以上何か買ってなんて言えないよ)
たくさんの人の声。足音。広い世界。
ファイは異端の存在で、帽子を取った途端に、これまで無関心を装っていた人々からおかしな目を向けられることを、知っている。
今のファイは人でもなければ猫でもなくて、こんな自分が黒鋼の傍にずっといるためには、完全に人間にでもなるか、猫の姿にでも戻ってペットとして暮らす以外にない。
どのみち結ばれることが出来ないならば、何よりも確実なのは後者なのだと思う。
もう言葉は通じないけれど、こんな風に一緒に買い物だってできないけれど。
やがて歳を取っていく黒鋼の傍にずっといて、それを看取って。
これからも変わらず長い時を生き続ける自分にとって、それは光の速さでしかない。
それくらいの我儘なら、ユゥイは許してくれるだろうか。
そしてそのときにはもう、彼は他の人と結ばれて子供が産まれているかもしれない。孫だっているかもしれない。
この雑踏の中に、黒鋼が結ばれるべき人がきっといる。
たくさんの人間たちの中から、ファイが彼を選んだように、彼に選ばれ、彼を選び取る人が、必ず。
「……ッ」
少し口元を歪めて、ファイは緩く首を振った。
「むずかしいよ……オレには」
見ていられるはずがない。
ただ傍にいるだけで幸せなんて、慎ましやかな願いなど、本当は嘘の塊だ。抱けるはずがない。
そんなものを見るくらいなら。
「おい」
声がして、ふと見れば黒鋼がすぐ傍にいた。
「おまえなぁ、迷子になっても知らねぇって……」
むっつりと顔を顰めていた黒鋼が、ファイの潤んだ目元を見て眉間の皺を色濃くした。
「なんだ? 腹でも空き過ぎたか?」
「もう……違うよー」
ファイは笑って首を振った。それから、身体ごと黒鋼に向かい合った。
「あのね、オレ……時々は遊びに来てもいいかなぁ?」
「あ?」
「ユゥイにお願いして、たまには遊びに来てもいい?」
二度と会わないなんて、そこまでの決意はまだ持てない。時々でいいから、黒鋼が独り身でいる間だけでもいいから、顔だけでも見に来られたらいいなと思った。
黙り込んだ黒鋼は、じっとファイの揺れる瞳を見つめた。
「春が終わったらね……」
――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。
「帰ることにしたから」
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