2025/09/19 Fri 905号室の怪異 死んでやるから。 長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。 白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。 透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。 そんな不思議な感覚で。 死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。 生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。 とにかく疲れ切っていた。何もかもに。 心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。 死んでやる、死んでやる。 女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。 ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。 勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。 思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。 もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。 こんな風になってしまう以前は、確かに。 満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。 人間は本当に面倒な生き物だ。 結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。 分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。 馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。 そして、鮮血の飛沫が上がった。 黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。 這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。 * まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。 時刻は午前零時過ぎ。 駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。 等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。 黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。 残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。 人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。 営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。 冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。 忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。 いかんなと、黒鋼は思う。 ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。 今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。 しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。 常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。 次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。 とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。 そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。 駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。 煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。 大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。 黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。 「気の毒だとは思うがな……」 眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。 9階、905号室。 住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。 それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。 前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。 ただ一つ、ある問題を除いては。 * 「……またか」 暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。 遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。 深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。 今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。 リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。 テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。 苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。 だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。 冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。 ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。 ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。 「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」 自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。 テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。 真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。 明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。 それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。 思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。 もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。 * 管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。 元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。 毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。 ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。 毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。 自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。 彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。 「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」 すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。 朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。 あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。 「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」 そう言って、彼女は涙を流した。 悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。 前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。 念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。 * 管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。 ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。 「……明日だな」 こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。 明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。 携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。 ←戻る ・ 次へ→
死んでやるから。
長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。
白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。
透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。
そんな不思議な感覚で。
死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。
生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。
とにかく疲れ切っていた。何もかもに。
心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。
死んでやる、死んでやる。
女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。
ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。
勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。
思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。
もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。
こんな風になってしまう以前は、確かに。
満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。
人間は本当に面倒な生き物だ。
結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。
分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。
馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
そして、鮮血の飛沫が上がった。
黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。
這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。
*
まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。
時刻は午前零時過ぎ。
駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。
等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。
黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。
残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。
人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。
営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。
冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。
忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。
いかんなと、黒鋼は思う。
ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。
今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。
しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。
常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。
次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。
とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。
そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。
駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。
煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。
大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。
黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。
「気の毒だとは思うがな……」
眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。
9階、905号室。
住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。
それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。
前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。
ただ一つ、ある問題を除いては。
*
「……またか」
暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。
遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。
深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。
今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。
リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。
テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。
苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。
だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。
冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。
ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。
ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。
「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」
自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。
テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。
真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。
明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。
それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。
思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。
もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。
*
管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。
元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。
毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。
ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。
毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。
自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。
彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。
「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」
すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。
朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。
あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。
「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」
そう言って、彼女は涙を流した。
悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。
前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。
念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。
*
管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。
「……明日だな」
こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。
明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。
携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。
←戻る ・ 次へ→