2025/09/19 Fri とても悪いもの 彼女と付き合っていて、上手くいっていたのはせいぜい最初の一年くらいなものだろうか。 少しずつどこかで歯車が狂いだして、気が付けば全て壊れていた。 当時から仕事に追われる日々を送っていた黒鋼は、それでもどうにかして彼女と過ごすための時間を作るように努力はしていた。 だがそれにも限界はあって、あらかじめしていた約束を守れないことは多々あったし、メールの返信すらできない日も当然あった。 寂しい思いをさせているという自覚はあった。どこかで埋め合わせが出来ればと。 そんな状態が続く中、何の連絡もなしに彼女が大荷物を持って、当時黒鋼が暮らしていたアパートへやってきた。仕事も辞めてきたと言って、そのまま部屋に住み着くようになった。 突然のことに面食らう黒鋼に、彼女は『あかちゃんができた』と言った。 嬉しくないはずがなかった。その時の黒鋼には彼女に対して愛情があったし、二十代も中盤にきて、そろそろ身を固めてもいい時期なのかもしれないと、そう感じていた。 だが、待てども暮らせども彼女の身体に妊娠による変化は見られなかった。 それどころか、一緒に暮らすようになってからすぐに彼女はその異常性を発揮し始めた。 定時を過ぎた段階で携帯電話に数十件ものメールと着信が入り、酷い時は百件を超えた。 残業が当たり前の職場だと説明しても、二言目には『もう私を愛してないのね』と言って泣き出し、膨らみのない腹をこれ見よがしに愛しげに摩った。 そんな状態が半年も続けば、流石に妊娠が偽りであることには気が付いていた。 彼女の執拗なまでの干渉と独占欲は日に日に増してゆき、職場や取引先にまで押しかけてくるようになった。 とてもではないが、そんな相手を両親に会わせる気にはなれなかった。黒鋼の中には、もはや結婚への意欲も彼女への愛情も薄れきっていた。 プライベートの崩壊に伴い、仕事も上手くいかないことが多くなった。知らず知らずのうちに、追い詰められた心が悲鳴を上げ始めていた。 何より互いの将来を考えても、このままでいいはずがなかった。 だから言った。『別れてくれ』と。 その話をするためだけに無理やり仕事を切り上げ、早々帰宅した黒鋼のために、上機嫌でカレーの具材を切る背中に向かって。 そこからはまさに修羅場というに相応しい展開だった。 彼女は泣きわめき、ついには手にしていた包丁を自らの首筋に当て、自殺未遂をはかった。 それが今年の一月、年が明けて間もない頃のこと。 今のマンションへ引っ越しを決めたのは、事件のあともアパートに住み続ける気になれなかったことが理由だった。 正直、当分は色恋沙汰は勘弁だった。 * 昼時をとうに過ぎた休憩室は、ほんの2~3人が遅い昼食をとっているだけで閑散としていた。 その光景を尻目に、自分以外は誰もいないガラス張りの喫煙所で黒鋼は咥えた煙草に火をつけると、携帯電話を取り出した。 電話帳の中から目当ての番号を呼び出すと、通話ボタンを押す。コール音を耳に押し当てながら白い煙を吐き出し、腕時計を見やった。 このあとすぐに訪問先の企業へ出向き、重要なプレゼンが控えている。あまり時間はないのだが、これを逃せばまたいつ時間が空くかわからない。 『はいはい、もしもし?』 ほどなくして受話器越しに聞こえてきた声に、黒鋼はふっと小さく口元を緩めた。 久しぶりに聞くその声は実家に暮らす母親のものだった。 「俺だ。今いいか?」 『もちろんよ。久しぶりね。あなたって子は何かあってからじゃないと連絡のひとつも寄越さないんだもの。せっかくメールを送っても返事してくれないし。だいたいこの間も』 母はこのご時世、最近になってようやく携帯電話を持つようになった。 メールは練習中らしく、たまに支離滅裂な文面が送られてくる。黒鋼がそれに返信したことは一度もなかった。 たまにしか連絡を寄越さない息子に言いたいことが山積みなのか、放っておくといつまでも小言を連ねそうな母の勢いに、黒鋼は再び腕時計を見やった。 「お袋、悪いがあんまり時間がねぇんだ」 『ええ、分かっているわ。あなた、このままじゃ身体を壊してしまうわよ』 「……分かるか?」 『当たり前でしょう? 可愛い息子のことだもの』 黒鋼の母は代々続く神社の家系で、父のもとに嫁ぐまでは巫女として神職の補助を務めていた。 幼い頃から人並み外れた霊感を持つ彼女は、普通の人間には見えないものを感じ、そして当たり前のように見ることができる。 幸か不幸かその能力は息子に受け継がれることはなかったが、黒鋼が基本的にこの手のものに恐怖心を抱かないのは、この母の存在があってこそだった。 子供の頃から『ほらあそこに赤い着物の女の子が』、なんて話を夕飯の献立を告げるようなトーンで聞かされ続ければ、嫌でも慣れてしまう。 『とても悪いものよ。すぐに帰っていらっしゃい』 「……そうしてぇのは山々なんだが」 なかなかすぐに、というのは難しい。電話だけで済むような対処法はないかと連絡をしたのだが、やはり難しいか。 気づけば、ほとんど吸わないうちに煙草が灰になって床に落ちていた。 しまったと思いながらそれを革靴の先でぐりぐりと払いのけ、灰皿に煙草を押し付ける。結局まともに吸うことができなかった。 言葉を濁す息子に、母は『しょうがないわね』と諦めたように息を漏らす。 『すぐにお守りを送ってあげるわ。ただ、あまり長くはもたないと思うけど……』 「いや、十分だ。なるべく時間作って帰るようにする」 『そうなさい。お父さんも喜ぶわよ』 あと、それから。 母はクスっと可愛らしく笑った。 『煙草、ほどほどになさい。嫌われちゃうわよ』 * それから数日後、母から手紙つきで荷物が届いた。 野菜や米、味噌や醤油などの調味料に、甘味を除いた煎餅などの菓子類。それらがいっぱいに詰まった箱の中に、数枚の札と黒を基調とした天眼石で紡がれたブレスレットが入っていた。 さっそく手紙の指示通りにリビングと寝室、トイレと風呂場にそれぞれ札を貼り付けた。 玄関の分がないのは、全ての通り道を塞がないためだ。遠ざけるために貼った札によって、逆に閉じ込めてしまっては意味がない。 ブレスレットは、なるべく肌身離さずつけているようにと書かれていた。 たったそれだけで、効果はすぐに表れた。 あれだけだるかった身体や肩の重みが、嘘のように消えてしまったのだ。 けれど、どういうわけか部屋の中の地味な怪異はおさまらなかった。母はあまり長くはもたないと話していたし、全てを防ぎきるほどの効果までは、期待できないということだろうか。 それでも身体の調子がよくなっただけで黒鋼にしてみれば十分だった。 実家に戻り、直接祓ってもらうための時間が確保できるまでもてば、それでいい。 心なしか仕事の方も順調で、定時とまではいかないものの、職場ビルから近い居酒屋で一杯引っかけて帰れるくらいには、余裕が生まれた。 あと少し仕事が片付けば、一日くらいはまとまった休みも取れそうだ。 だがそれを待たずしてある夜、驚くべき出来事が起こった。 「どういうことだ、こいつは……」 およそ一週間ぶりくらいに、仕事でトラブルが続いたその日。 なんとなく身体のだるさと肩の重さがぶり返したような気はしていた。久しぶりに嫌な疲労感を引きずりながら帰宅した黒鋼は、相変わらずテレビがつけっぱなしのリビングに真っ二つに裂かれた札が落ちているのを見て、愕然とした まさかと思い、寝室へ行き、トイレへ行き、最後に脱衣所へ向かう。 札はどれも同じように、切れ味のいい刃物で切り裂いたかのような有様で、すっかり剥がれ落ちていた。 「くそ……」 脱衣所に立ち尽くし、僅かに額に落ちる前髪ごと頭部をくしゃりと掻き乱す。 その拍子に、ふと腕に通していたブレスレットを見ると、白く丸い眼のように走っていたはずの模様が消え、ただの真っ黒な石に変わり果てていることに気が付いた。 そしてそれは、まるで黒鋼が気づくのを待っていたかのように弾け飛んだ。 「ッ!?」 バラバラと音を立てて、黒い石が幾つも床に叩きつけられる。 『とても悪いものよ』 母の言葉を思い出しながら、流石の黒鋼もゾッとした。 床の上を転がる石から目が離せずにいると、ずん、とまるで背後から人に圧し掛かられたように肩の重さが増した。 足元から異様な冷気が立ち込め、上へ上へと移動しながら身体を芯から凍らせてゆく。 脱衣所の灯りが幾度か点滅し、やがて完全に消える。湿った闇が皮膚を撫でる感触に、黒鋼はいよいよ身の危険を感じた。 ここにいるべきではない。本能が警告を発する。 けれど、どうしてか身体が動かない。セメントで固められたように、呼吸さえ奪われてゆくような圧迫感を覚えた。 だが、次の瞬間。 「なんか食べたいなー」 遠くでガサガサという音がして、同時にどこか能天気な男の声が聞こえた。 ハッとした瞬間、黒鋼の身体から縛り付けられているような感覚が消え、咄嗟に脱衣所を出る。廊下の向こうにあるリビングは停電していなかった。灯りがしっかり灯されていて、やはりガサガサという音がしていた。 「これ食べちゃおっかなー。ホントは甘いのがいいけどー……」 黒鋼は、ごくりと喉を鳴らした。 「ここの人って普段なに食べてるんだろー? ってくらい冷蔵庫も空だし、つまんないんだよねー」 少し高めの男の声は緊張感に欠けるものだったが、一歩一歩、確かめるように廊下を進む。 「うん、食べちゃおー。お煎餅もだーい好きー!」 「誰だ!!」 リビングに顔を出した瞬間、黒鋼は叫んだ。バサッという、何かが落ちたような音がする。 注意深く辺りを見回しながら、音がした方へじりじりと進めば、キッチンの床に煎餅の袋がぽつりと落ちているのを発見した。 開けた覚えのない煎餅の封が切られ、中身が割れて零れだしているのを見た途端にむかっ腹が立って、黒鋼はそれを拾い上げると無意識にぐしゃりと潰していた。 「こそこそ隠れてねぇで出てこい! いい加減、決着をつけてやる!!」 …………。 「毎晩毎晩、アホみてぇに嫌がらせしやがって! もう勘弁ならねぇ!!」 …………反応はない。 その時の黒鋼の形相は、鬼だろうが悪魔だろうが尻尾を巻いて逃げ出すほど凶悪なものだった。 元々目つきは悪いし、恵まれすぎた体格から発される威圧感から、街を歩けばチンピラ風の男たちに「ご苦労様です!」と頭を下げられることもしばしばあった。 これでも一応は企業に勤める営業マンなのだが……。 とにかく、そんな強烈なオーラを放つ男が凄んで『出てこい』などと言って、おとなしく出てくるバカはいないだろう。 わかってはいても、いい加減堪忍袋の緒が切れた状態の黒鋼には、穏便に事を済ませる気などさらさらなかった。 一発でもぶん殴ってやらなければ気が済まない。相手が幽霊だろうが宇宙人だろうが新種のUMAだろうが、この際もうなんだっていい。 「出て来いっつってんだろうが!!」 「……やだよぉ。出てったら絶対殴るでしょー」 「!?」 応じた。黒鋼の呼びかけに、ついに一連の怪異の犯人が。 「まぁムリだとは思うけどー、でもやっぱ怖いしー」 「どこだ!? どこにいやがる!?」 「もー、うるさいなー。ここだよ、ここー」 辺りを機敏に見渡しても、声のする方向が定まらない。 黒鋼はキッチンのカウンターを迂回して、リビングに出るとさらに周囲を見渡した。 「とっとと出て来い! 殺されてぇのか!!」 「もう死んでるよーぅ」 後方から聞こえた声に振り向けば、そこには天井からにゅるんと上半身だけを出した金髪男が、煎餅を齧っている姿があった。 ←戻る ・ 次へ→
彼女と付き合っていて、上手くいっていたのはせいぜい最初の一年くらいなものだろうか。
少しずつどこかで歯車が狂いだして、気が付けば全て壊れていた。
当時から仕事に追われる日々を送っていた黒鋼は、それでもどうにかして彼女と過ごすための時間を作るように努力はしていた。
だがそれにも限界はあって、あらかじめしていた約束を守れないことは多々あったし、メールの返信すらできない日も当然あった。
寂しい思いをさせているという自覚はあった。どこかで埋め合わせが出来ればと。
そんな状態が続く中、何の連絡もなしに彼女が大荷物を持って、当時黒鋼が暮らしていたアパートへやってきた。仕事も辞めてきたと言って、そのまま部屋に住み着くようになった。
突然のことに面食らう黒鋼に、彼女は『あかちゃんができた』と言った。
嬉しくないはずがなかった。その時の黒鋼には彼女に対して愛情があったし、二十代も中盤にきて、そろそろ身を固めてもいい時期なのかもしれないと、そう感じていた。
だが、待てども暮らせども彼女の身体に妊娠による変化は見られなかった。
それどころか、一緒に暮らすようになってからすぐに彼女はその異常性を発揮し始めた。
定時を過ぎた段階で携帯電話に数十件ものメールと着信が入り、酷い時は百件を超えた。
残業が当たり前の職場だと説明しても、二言目には『もう私を愛してないのね』と言って泣き出し、膨らみのない腹をこれ見よがしに愛しげに摩った。
そんな状態が半年も続けば、流石に妊娠が偽りであることには気が付いていた。
彼女の執拗なまでの干渉と独占欲は日に日に増してゆき、職場や取引先にまで押しかけてくるようになった。
とてもではないが、そんな相手を両親に会わせる気にはなれなかった。黒鋼の中には、もはや結婚への意欲も彼女への愛情も薄れきっていた。
プライベートの崩壊に伴い、仕事も上手くいかないことが多くなった。知らず知らずのうちに、追い詰められた心が悲鳴を上げ始めていた。
何より互いの将来を考えても、このままでいいはずがなかった。
だから言った。『別れてくれ』と。
その話をするためだけに無理やり仕事を切り上げ、早々帰宅した黒鋼のために、上機嫌でカレーの具材を切る背中に向かって。
そこからはまさに修羅場というに相応しい展開だった。
彼女は泣きわめき、ついには手にしていた包丁を自らの首筋に当て、自殺未遂をはかった。
それが今年の一月、年が明けて間もない頃のこと。
今のマンションへ引っ越しを決めたのは、事件のあともアパートに住み続ける気になれなかったことが理由だった。
正直、当分は色恋沙汰は勘弁だった。
*
昼時をとうに過ぎた休憩室は、ほんの2~3人が遅い昼食をとっているだけで閑散としていた。
その光景を尻目に、自分以外は誰もいないガラス張りの喫煙所で黒鋼は咥えた煙草に火をつけると、携帯電話を取り出した。
電話帳の中から目当ての番号を呼び出すと、通話ボタンを押す。コール音を耳に押し当てながら白い煙を吐き出し、腕時計を見やった。
このあとすぐに訪問先の企業へ出向き、重要なプレゼンが控えている。あまり時間はないのだが、これを逃せばまたいつ時間が空くかわからない。
『はいはい、もしもし?』
ほどなくして受話器越しに聞こえてきた声に、黒鋼はふっと小さく口元を緩めた。
久しぶりに聞くその声は実家に暮らす母親のものだった。
「俺だ。今いいか?」
『もちろんよ。久しぶりね。あなたって子は何かあってからじゃないと連絡のひとつも寄越さないんだもの。せっかくメールを送っても返事してくれないし。だいたいこの間も』
母はこのご時世、最近になってようやく携帯電話を持つようになった。
メールは練習中らしく、たまに支離滅裂な文面が送られてくる。黒鋼がそれに返信したことは一度もなかった。
たまにしか連絡を寄越さない息子に言いたいことが山積みなのか、放っておくといつまでも小言を連ねそうな母の勢いに、黒鋼は再び腕時計を見やった。
「お袋、悪いがあんまり時間がねぇんだ」
『ええ、分かっているわ。あなた、このままじゃ身体を壊してしまうわよ』
「……分かるか?」
『当たり前でしょう? 可愛い息子のことだもの』
黒鋼の母は代々続く神社の家系で、父のもとに嫁ぐまでは巫女として神職の補助を務めていた。
幼い頃から人並み外れた霊感を持つ彼女は、普通の人間には見えないものを感じ、そして当たり前のように見ることができる。
幸か不幸かその能力は息子に受け継がれることはなかったが、黒鋼が基本的にこの手のものに恐怖心を抱かないのは、この母の存在があってこそだった。
子供の頃から『ほらあそこに赤い着物の女の子が』、なんて話を夕飯の献立を告げるようなトーンで聞かされ続ければ、嫌でも慣れてしまう。
『とても悪いものよ。すぐに帰っていらっしゃい』
「……そうしてぇのは山々なんだが」
なかなかすぐに、というのは難しい。電話だけで済むような対処法はないかと連絡をしたのだが、やはり難しいか。
気づけば、ほとんど吸わないうちに煙草が灰になって床に落ちていた。
しまったと思いながらそれを革靴の先でぐりぐりと払いのけ、灰皿に煙草を押し付ける。結局まともに吸うことができなかった。
言葉を濁す息子に、母は『しょうがないわね』と諦めたように息を漏らす。
『すぐにお守りを送ってあげるわ。ただ、あまり長くはもたないと思うけど……』
「いや、十分だ。なるべく時間作って帰るようにする」
『そうなさい。お父さんも喜ぶわよ』
あと、それから。
母はクスっと可愛らしく笑った。
『煙草、ほどほどになさい。嫌われちゃうわよ』
*
それから数日後、母から手紙つきで荷物が届いた。
野菜や米、味噌や醤油などの調味料に、甘味を除いた煎餅などの菓子類。それらがいっぱいに詰まった箱の中に、数枚の札と黒を基調とした天眼石で紡がれたブレスレットが入っていた。
さっそく手紙の指示通りにリビングと寝室、トイレと風呂場にそれぞれ札を貼り付けた。
玄関の分がないのは、全ての通り道を塞がないためだ。遠ざけるために貼った札によって、逆に閉じ込めてしまっては意味がない。
ブレスレットは、なるべく肌身離さずつけているようにと書かれていた。
たったそれだけで、効果はすぐに表れた。
あれだけだるかった身体や肩の重みが、嘘のように消えてしまったのだ。
けれど、どういうわけか部屋の中の地味な怪異はおさまらなかった。母はあまり長くはもたないと話していたし、全てを防ぎきるほどの効果までは、期待できないということだろうか。
それでも身体の調子がよくなっただけで黒鋼にしてみれば十分だった。
実家に戻り、直接祓ってもらうための時間が確保できるまでもてば、それでいい。
心なしか仕事の方も順調で、定時とまではいかないものの、職場ビルから近い居酒屋で一杯引っかけて帰れるくらいには、余裕が生まれた。
あと少し仕事が片付けば、一日くらいはまとまった休みも取れそうだ。
だがそれを待たずしてある夜、驚くべき出来事が起こった。
「どういうことだ、こいつは……」
およそ一週間ぶりくらいに、仕事でトラブルが続いたその日。
なんとなく身体のだるさと肩の重さがぶり返したような気はしていた。久しぶりに嫌な疲労感を引きずりながら帰宅した黒鋼は、相変わらずテレビがつけっぱなしのリビングに真っ二つに裂かれた札が落ちているのを見て、愕然とした
まさかと思い、寝室へ行き、トイレへ行き、最後に脱衣所へ向かう。
札はどれも同じように、切れ味のいい刃物で切り裂いたかのような有様で、すっかり剥がれ落ちていた。
「くそ……」
脱衣所に立ち尽くし、僅かに額に落ちる前髪ごと頭部をくしゃりと掻き乱す。
その拍子に、ふと腕に通していたブレスレットを見ると、白く丸い眼のように走っていたはずの模様が消え、ただの真っ黒な石に変わり果てていることに気が付いた。
そしてそれは、まるで黒鋼が気づくのを待っていたかのように弾け飛んだ。
「ッ!?」
バラバラと音を立てて、黒い石が幾つも床に叩きつけられる。
『とても悪いものよ』
母の言葉を思い出しながら、流石の黒鋼もゾッとした。
床の上を転がる石から目が離せずにいると、ずん、とまるで背後から人に圧し掛かられたように肩の重さが増した。
足元から異様な冷気が立ち込め、上へ上へと移動しながら身体を芯から凍らせてゆく。
脱衣所の灯りが幾度か点滅し、やがて完全に消える。湿った闇が皮膚を撫でる感触に、黒鋼はいよいよ身の危険を感じた。
ここにいるべきではない。本能が警告を発する。
けれど、どうしてか身体が動かない。セメントで固められたように、呼吸さえ奪われてゆくような圧迫感を覚えた。
だが、次の瞬間。
「なんか食べたいなー」
遠くでガサガサという音がして、同時にどこか能天気な男の声が聞こえた。
ハッとした瞬間、黒鋼の身体から縛り付けられているような感覚が消え、咄嗟に脱衣所を出る。廊下の向こうにあるリビングは停電していなかった。灯りがしっかり灯されていて、やはりガサガサという音がしていた。
「これ食べちゃおっかなー。ホントは甘いのがいいけどー……」
黒鋼は、ごくりと喉を鳴らした。
「ここの人って普段なに食べてるんだろー? ってくらい冷蔵庫も空だし、つまんないんだよねー」
少し高めの男の声は緊張感に欠けるものだったが、一歩一歩、確かめるように廊下を進む。
「うん、食べちゃおー。お煎餅もだーい好きー!」
「誰だ!!」
リビングに顔を出した瞬間、黒鋼は叫んだ。バサッという、何かが落ちたような音がする。
注意深く辺りを見回しながら、音がした方へじりじりと進めば、キッチンの床に煎餅の袋がぽつりと落ちているのを発見した。
開けた覚えのない煎餅の封が切られ、中身が割れて零れだしているのを見た途端にむかっ腹が立って、黒鋼はそれを拾い上げると無意識にぐしゃりと潰していた。
「こそこそ隠れてねぇで出てこい! いい加減、決着をつけてやる!!」
…………。
「毎晩毎晩、アホみてぇに嫌がらせしやがって! もう勘弁ならねぇ!!」
…………反応はない。
その時の黒鋼の形相は、鬼だろうが悪魔だろうが尻尾を巻いて逃げ出すほど凶悪なものだった。
元々目つきは悪いし、恵まれすぎた体格から発される威圧感から、街を歩けばチンピラ風の男たちに「ご苦労様です!」と頭を下げられることもしばしばあった。
これでも一応は企業に勤める営業マンなのだが……。
とにかく、そんな強烈なオーラを放つ男が凄んで『出てこい』などと言って、おとなしく出てくるバカはいないだろう。
わかってはいても、いい加減堪忍袋の緒が切れた状態の黒鋼には、穏便に事を済ませる気などさらさらなかった。
一発でもぶん殴ってやらなければ気が済まない。相手が幽霊だろうが宇宙人だろうが新種のUMAだろうが、この際もうなんだっていい。
「出て来いっつってんだろうが!!」
「……やだよぉ。出てったら絶対殴るでしょー」
「!?」
応じた。黒鋼の呼びかけに、ついに一連の怪異の犯人が。
「まぁムリだとは思うけどー、でもやっぱ怖いしー」
「どこだ!? どこにいやがる!?」
「もー、うるさいなー。ここだよ、ここー」
辺りを機敏に見渡しても、声のする方向が定まらない。
黒鋼はキッチンのカウンターを迂回して、リビングに出るとさらに周囲を見渡した。
「とっとと出て来い! 殺されてぇのか!!」
「もう死んでるよーぅ」
後方から聞こえた声に振り向けば、そこには天井からにゅるんと上半身だけを出した金髪男が、煎餅を齧っている姿があった。
←戻る ・ 次へ→