2025/06/16 Mon *甲洋がガチの猫の姿で登場したり、猫耳青年になったりします。 *一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。 01 夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。 乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。 帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。 (もう嫌だ。なんでぼくばっかり……) 操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。 つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。 始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。 会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。 見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。 そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。 思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。 周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。 (ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……) そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。 だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。 するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。 「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」 操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。 母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。 そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。 「よーし、また明日からがんばるぞ!」 持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。 「ミギャァーーッ!!」 という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。 「うわ!? な、なに!?」 見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。 猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。 「今のってもしかして、コーヒー?」 操はその中の一匹に見覚えがあった。 黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。 声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。 そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。 「た、大変だ! やめさせなきゃ!」 操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。 猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。 「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」 操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。 残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。 「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」 地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。 このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。 「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」 操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。 * 病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。 コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。 操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。 「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」 出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。 病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。 「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」 思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。 実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。 そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。 「早く元気になるといいな」 ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。 猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。 だから今夜は夜通し看病するつもりで── いたのだが……。 * 「……ハッ!」 驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。 一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。 「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」 操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。 それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。 「あ! 起きた……!?」 「──ッ!?」 操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。 「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」 「シャァーッ!」 「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」 コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。 「ウゥ~ッ、シャーッ!」 「あっ、痛っ……!」 コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。 病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。 「ッ!?」 一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。 「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」 ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。 目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。 「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」 「……ッ」 コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。 「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」 これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。 部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。 操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。 「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」 「……ウウゥ~」 コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。 「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」 「ッ、フゥーッ! シャーッ!」 「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」 もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。 操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。 「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」 「……」 目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。 するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。 「っ、の、飲んだ!」 「ッ!」 「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」 驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。 コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。 「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」 器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。 「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」 そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。 彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。 「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」 彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。 「やっぱりコーヒーは可愛いね」 顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。 * ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。 納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。 無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。 「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」 ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。 「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」 コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。 操はものの数分でコトリと意識を手放していた。 ──それからどれくらい経っただろう。 眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。 (んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?) 「助けてくれて、ありがとう」 そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。 (誰……? ぼく、なんで……) その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。 「なんで寝てるのぉ!?」 起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。 いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。 するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。 「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」 操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。 日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。 「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」 いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。 操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。 「探さなきゃ!」 操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。 いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。 (コーヒー! どこに行っちゃったの!?) あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。 「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」 日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。 外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。 後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。 「ごめんね、コーヒー……」 探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。 ←戻る ・ 次へ→
*一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。
01
夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。
乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。
帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。
(もう嫌だ。なんでぼくばっかり……)
操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。
つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。
会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。
見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。
そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。
思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。
周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。
(ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……)
そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。
だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。
するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。
「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」
操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。
母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。
そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。
「よーし、また明日からがんばるぞ!」
持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。
「ミギャァーーッ!!」
という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。
「うわ!? な、なに!?」
見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。
猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。
「今のってもしかして、コーヒー?」
操はその中の一匹に見覚えがあった。
黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。
声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。
そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。
「た、大変だ! やめさせなきゃ!」
操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。
猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。
「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」
操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。
「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」
地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。
このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。
「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」
操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。
*
病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。
コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。
操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。
「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」
出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。
病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。
「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」
思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。
実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。
そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。
「早く元気になるといいな」
ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。
猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。
だから今夜は夜通し看病するつもりで──
いたのだが……。
*
「……ハッ!」
驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。
一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。
「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」
操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。
それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。
「あ! 起きた……!?」
「──ッ!?」
操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。
「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」
「シャァーッ!」
「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」
コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。
「ウゥ~ッ、シャーッ!」
「あっ、痛っ……!」
コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。
病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。
「ッ!?」
一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。
「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」
ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。
目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。
「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」
「……ッ」
コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。
「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」
これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。
部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。
操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。
「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」
「……ウウゥ~」
コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。
「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」
「ッ、フゥーッ! シャーッ!」
「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」
もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。
操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。
「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」
「……」
目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。
するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。
「っ、の、飲んだ!」
「ッ!」
「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」
驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。
コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。
「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」
器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。
「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」
そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。
彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。
「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」
彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。
「やっぱりコーヒーは可愛いね」
顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。
*
ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。
納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。
無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。
「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」
ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」
コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。
操はものの数分でコトリと意識を手放していた。
──それからどれくらい経っただろう。
眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。
(んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?)
「助けてくれて、ありがとう」
そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。
(誰……? ぼく、なんで……)
その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。
「なんで寝てるのぉ!?」
起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。
いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。
するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。
「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」
操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。
日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。
「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」
いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。
操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。
「探さなきゃ!」
操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。
いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。
(コーヒー! どこに行っちゃったの!?)
あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。
「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」
日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。
外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。
後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。
「ごめんね、コーヒー……」
探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。
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