2025/06/16 Mon 02 それから三日が過ぎた。 コーヒーはいまだに見つからない。 暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。 これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。 そう悲観していた夜のこと──。 『カリカリ、カリカリ』 21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。 この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。 もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。 「コーヒー!?」 目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。 あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。 「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」 身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。 だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。 「無事でよかったぁ……」 ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。 「なにこれ?」 それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。 「これ、もしかしてぼくに?」 目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。 クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。 「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」 「んなぁ~お!」 応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。 「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」 「ぅん~」 「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」 怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。 彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。 「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」 「にゃぅ」 「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」 「んん~」 操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。 彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。 「あはっ、ここ気持ちいい?」 「んんぅ~」 首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。 「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」 感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。 あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。 「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」 ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。 操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。 「わかった! じゃあちょっと待ってて!」 まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。 そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。 * それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。 道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。 寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。 操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。 おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。 猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。 コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。 ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。 そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。 操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。 彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。 気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。 あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。 一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。 そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。 今では一緒にベッドで寝る仲だ。 操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。 彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。 操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。 けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。 操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。 そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。 彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。 * その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。 いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。 なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。 「なぉん?」 おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。 ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。 「ん……どしたの、コーヒー」 彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。 「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」 そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。 「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」 問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。 「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」 コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。 「コーヒー、ぼくね……」 「にゃおん?」 「バイト、辞めることになったんだ」 例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。 やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。 結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。 「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」 膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。 「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」 その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。 「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」 猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。 そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。 「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」 「話せるよ」 「……え?」 操はことりと首をかしげた。 気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。 けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。 「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」 指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。 「コーヒー?」 ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。 そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で 「俺はただの猫じゃないよ、来主」 と、言った。 「……は?」 まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。 「えっと、これって夢?」 「夢じゃないよ」 「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」 自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。 「い、行くって? どこに?」 「来主に見せたいものがあるんだ」 状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。 「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」 「ちょ、ちょっと待っ……!」 猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。 つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。 「ま、待ってよコーヒー!」 部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。 ←戻る ・ 次へ→
それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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