2025/06/16 Mon 05 数日後──。 その日、操は新しくファミレスでホールスタッフのアルバイトを始めていた。 慣れないなりにミスもなく初日を終えることができ、ホッと胸を撫で下ろす。今のところ変な客もいなさそうだし、これなら上手くやっていけそうだ。 (きっと甲洋のおかげだね) ロッカールームで制服から私服に着替えた操は、ずっと首に下げていたものを服の襟から引きずり出した。 チェーンの先には、甲洋がくれたどんぐりがついている。煮沸処理して乾燥させ、ペンダントにしてお守り代わりに身に着けていたのだ。これをしていると、まるで彼が傍にいてくれるような気がして心強い。 (今日のこと、甲洋が来たら報告しなきゃ!) 甲洋は操が新しくバイトを始めたことをまだ知らない。だからきっと驚くだろうし、一緒に喜んでくれるはずだ。 今日のおやつも考えなくちゃと、ウキウキしながらコートに袖を通していると、そこに 「あ、いたいた。来主くん、ちょっといい?」 と、制服にエプロン姿の男性がやって来て、声をかけられた。 彼はこの店の店長だ。今日一日、ずっと傍で仕事を教えてくれた人だった。 「話があるから、こっち来てくれるかな」 店長は返事も待たずに、すぐそばの裏口から外に出ていってしまった。 話とは一体なんだろう。ここではできない内容なのだろうか。疑問に思いながらも、操はペンダントを服の中にしまうとリュックを背負った。 裏口から出ると、そこは古びた裏路地になっている。すっかり日が暮れて、あたりは暗くなっていた。ポツンと一本だけ立っている街灯は、ほとんど消えかけていてあまり機能していない。 「来主くん、こっちだよ」 薄暗くて細い通路は、突き当りにゴミの山ができていた。少し生臭い。そのすぐそばで、店長がヒョイと片手を上げている。 操が近づくと、彼は笑顔で「今日はお疲れ様」と言った。 「初日だったから緊張したでしょ? よくがんばってたね」 店長は笑顔で、今日の操の働きぶりを褒めちぎった。明るい笑顔だとか丁寧な接客だとか、他にもいろいろ。褒められすぎて、ちょっと怖いくらいだった。 (でも嬉しいな。また甲洋に報告することができちゃった!) 操は元気よく「ありがとうございます!」と礼を言ったが、そのときふと、違和感に気がついた。 (この人、なんでこんなに近づいてくるんだろう?) 操と店長の距離は、気づけば20センチあるかないかまで縮まっていた。確かにここは狭い路地だが、これほどまでに近づく必要はあるのだろうか。思わず後ろに一歩引こうとしたとき、店長の腕が腰に回された。 「でもねぇ、一つだけ……」 「っ、え?」 「仕事中は、あんまり色目を使ってほしくないんだよね」 意味が分からず、操は目を白黒させる。 「困るんだよ。前にいた子もさぁ、オレに気があるくせに、いざ手を出したらセクハラがどうとか騒いで辞めちゃったし」 「……?」 「君みたいに、なんにも知りませ~んって顔してる子ほどエロいんだよな。でも仕事中はそういうの隠さないと。今は二人っきりだからいいけどね」 いよいよなにを言われているのか分からない。その笑顔はさっきまでと違い、ニタニタとした嫌なものに変わっていた。 (なんなのこの人? ぜんぜん意味わかんないよ!) 本能的に身を捩って逃れようとしたが、臀部をぬるりと撫でられて「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。 なんだかよく分からないが、とにかく嫌だ。気持ちが悪い。不快感に心臓が冷えていくのが分かる。こんな経験は初めてだった。 「君が可愛いから雇ってやったわけ。オレが言ってること分かるよね?」 強引に引き寄せられて、耳元で囁かれた。ゾッとして吐き気がする。 きっと前に辞めていったという人も、今の自分と同じだったのだろう。意味不明な言いがかりをつけられて、こんなふうにベタベタと触られたに違いない。 「わ、わかんないよそんなこと! 近いってば! 離してよ!」 せっかく上手くやっていけそうだと思っていたのに。おかしな客の次は、おかしな店長に当たってしまった。これじゃあ甲洋にいい報告なんかできそうにない。 悔し涙を滲ませながら、なんとか振り切ろうとした。そのとき──。 「おわッ!?」 男がとつぜん悲鳴をあげたかと思うと、その身体が吹っ飛ばされた。ズボッという音がして、ゴミの山に埋もれてしまう。 「へ……?」 暗がりで起こった一瞬の出来事に、訳が分からず唖然とした。それは男も同じだったようで、彼はゴミ山で手足をバタつかせて混乱している。 そのとき、ポカンとしていた操の手首が何者かによって掴まれた。 「来主、こっち!」 「ッ……!?」 薄暗いなか、浮かび上がるシルエットに目を見張る。尖った猫耳に、オオカミのような長いしっぽ。青年の姿をした甲洋だ。 「甲洋!? なんで……!?」 「いいから!」 彼は操の手を強く引き、風のような速さで走りだす。ゴミ山でもがく男の「待て!」という声が背中にかかり、まるでドラマや映画のワンシーンのようだった。 甲洋は操が知らない抜け道を幾つも知っていて、自分の姿を見られないよう配慮しながらも、最短ルートを選んで走る。そうしてどこをどう通ってきたかも分からないうちに、気づけば見知った公園にたどり着いていた。最初に甲洋を保護した、あの公園だ。 「ここまで来れば、もう安心だ」 「はぁ、はぁ……っ、こ、甲洋、どうして君が?」 問いには答えず、彼は上下に弾む操の両肩をそっと掴んだ。 「来主、大丈夫か? なにも酷いことはされてない?」 「だ、大丈夫だよ。ちょっと変なとこ触られただけ……」 「ッ……」 遊具の側で煌々と明かりを発する街灯の下、甲洋が悔しそうに下唇を噛み締めた。そして操の身体を強く抱きすくめる。 「わっ」 「遅くなってごめん。俺がもっと早く助けていれば……」 「そ、そんなことないよ! 君が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか分からないし……」 思いだすだけで鳥肌がたつ。操は彼を抱き返し、ホッと息を漏らした。 かなりのショックを受けたし、まだ少し混乱しているけれど、やっぱり甲洋の腕の中は安心する。さっきまでの不快感が、そっと洗い流されていくようだった。 「でも君、どうしてあんなところにいたの?」 改めて問いかけた操に、彼は「たまたまだよ」と言った。 「来主が学校帰りに、いつもと違う方向に歩いて行くのが見えたから」 群れの縄張りを巡回中だった彼は、操の行き先が気になって後ろをくっついて来ていたらしい。せっかくだし、一緒に帰ろうと思ったからだ。 そこで新しいバイト先がファミレスであることを知り、終わるまで待つつもりでその辺りをブラブラしていた。すると路地裏から操の叫ぶ声がして、揉み合う二人を見つけたのだと。 「そうだったんだ! じゃあ、君はずっと近くにいたんだね」 ぺたんと耳を寝かせて、「黙ってついて行ってごめん」と申し訳なさそうに言う甲洋に、操はクスクスと笑ってしまった。実家にいたころ、クーもよく操の後をついて来ていたことを思いだす。 猫にはそういう習性があるのだ。傍にいたいと思う相手の後を、くっついて歩く習性が。それに──。 「来主?」 「ふふっ、だってさ、ほら。これ見て」 操は甲洋の腕の中でゴソゴソと身じろいで、服の中からペンダントを引きずりだした。丸々としたどんぐりが姿を現し、甲洋が目を丸くする。 「これ、ぼくのお守りなんだ。持ってると、君が傍にいるみたいで安心するから……だけど本当に近くにいたんだって思ったら、なんかおかしくて」 肩を揺らして笑う操に、甲洋もふっと息を漏らして微笑んだ。 「ありがとう。大事に持っていてくれて」 「うん。これからも、ずっと大切にするからね」 操はチェーンの先についたどんぐりを、ぎゅっと強く握りしめた。 「守ってくれてありがとう」 さっき、甲洋はおそらく魔法を使ったのだろう。自分のピンチですら、決して使わなかったはずの魔法の力を。しかもあんなに軽々と、成人男性を吹き飛ばしてしまうなんて。 彼のことを弱そうだなんて思っていたが、それは大きな間違いだった。 「君って本当はすっごく強いんだね! カッコよかったよ!」 真っ向から褒められた彼は、しっぽをピンと上に伸ばして頬を赤らめた。恥ずかしそうに軽く目をそらし、「そんなことないよ」なんて言うくせに、どこか満更でもない様子である。 「あ、そういえば」 操にはもう一つ、気になっていることがあったのだった。 それは今の甲洋の姿だ。彼はなぜか最初から青年の姿で現れた。本当ならキスをして、操から力を分けてもらわなければ変身できないはずなのに。 「ねぇ、キスしてないのに、どうして君は人間の姿になれてるの?」 すると彼はそらしていた目を泳がせて、「うっ」と呻いた。 「甲洋?」 「そ、それは……」 なにかを言いよどむ素振りのあと、甲洋は操から離れると、「ごめん」と言って頭を下げた。 「急にどうしたの?」 「……本当は、キスなんか必要ないんだ」 それはどういうことかと、首をかしげてパチパチと瞬きをする。 甲洋はまるで観念したように、深く息を吐きだした。 「力を分けてもらうっていうのは、ただの口実。俺は自力で変身できる」 「え? そうなの?」 甲洋が渋々うなずいた。 現代にまともな魔法が使える純血のケット・シーはいない、という話は前に聞いた。強力な魔法が使えるのは、王様やごく一部の優秀なケット・シーだけだとも。 つまり彼は優秀なケット・シーだったのだ。だから怪我だって治療できるし、変身もできる。人間の男を軽く吹き飛ばすくらい、朝飯前だったのだ。 「どうして嘘なんかついてたの? それに口実って、なんの?」 「それは……その方がロマンチックだと思ったから……」 「キスで変身することが?」 「……ごめん」 例えば王子様のキスで解ける呪いだとか、目を覚ますお姫様だとか、彼が言う『ロマンチック』とは、そういうものを指しているのだろうか。 いまいちピンと来ないが、きっと甲洋はかなりのロマンチストなのだろう。赤い頬でうつむく様子の微笑ましさに、操は笑った。 「そんなに謝らなくてもいいよ。ぼくはちっとも気にしてないから」 本当はずっと隠しておくつもりでいたのだろうが、操のピンチに遭遇した彼は、とっさに変身せずにいられなかったのだ。その方が一緒に逃げるのに都合がいい。 甲洋らしいなと操は思う。感謝こそすれ、責める気なんか起こらない。 「……だって嫌だろ。キスなんて」 彼は頬だけでなく、首筋まで真っ赤にしていた。しっぽも耳も、可哀想なくらいしょんぼりとさせている。 操は「ぜんぜん」と言って、ケロリとしながら首を左右に振った。 「え?」 甲洋が目を見開いた。耳もピンと立ち、しっぽも跳ねる。だが、操が 「前にも言ったでしょ? クーともよくしてたって。だから君とするのも、ちっとも嫌じゃなかったよ!」 とにっこり笑いながら言うと、またすっかりしょげてしまった。 「……そうか」 肩を落とす甲洋の表情が、どこか切なそうに歪んで見えた。 なにか悪いことを言ってしまったのだろうか。気にする操をよそに、彼は逡巡している様子だった。その沈黙が、いやに重たい。 「……来主」 やがて甲洋はうつむけていた顔を上げ、真っ直ぐに操を見つめた。 「な、なに?」 「来主に、伝えたいことがある」 やけに真剣な眼差しに見つめられ、胸がドキリと大きく跳ねた。そのただならぬ様子に、彼がなにか重大な話をしようとしていることだけは伝わってくる。 辺りにピリピリとした緊張感が立ち込めて、操は思わず背筋を伸ばした。 「急にこんなことを言って、驚かせてしまうと思うけど」 「う、うん」 「……俺は、来主のことが──」 ──ガサッ 「!?」 そのときだった。 すぐ側の草むらから物音がして、二人は同時に肩を跳ねさせた。 「な、なんだろ? 今の音……野良猫でもいるのかな?」 話はすっかり遮られてしまったが、彼の意識が草むらに移ったことで、あのヒリヒリとした緊張感からは解放されたような気がした。 どこかホッとしがなら息を漏らし、甲洋を見上げる。すると彼は見たことがないくらい険しい目をして、草むらを睨みつけていた。音の方に向かって、こげ茶が混ざった黒い耳をピンと張り詰めている。 「甲洋……?」 「ごめん、来主。今日は帰るよ」 「え!? ちょっと、甲洋……!?」 駆けだした甲洋は猫の姿に戻ると、派手な音を立てて草むらに飛び込んだ。 取り残されてしまった操は、しばし茫然としながら立ち尽くすことしかできなかった。しかし落ち着くにつれ、徐々に不安が込み上げてくる。 もしさっきの物音を立てたのが、野良猫の仕業ではなかったとしたら? (まさか、王様にバレちゃったんじゃ……?) もし掟破りをしていることが知られれば、彼はどうなってしまうんだろう。まるで想像がつかなくて、ただ手足が急速に冷えていくのを感じた。黒い雲が忍び寄るように、ざわざわとした胸騒ぎがする。 「甲洋……」 両手でどんぐりを握りしめ、操はどうかこの嫌な予感が外れますようにと、強く願うことしかできなかった。 ←戻る ・ 次へ→
数日後──。
その日、操は新しくファミレスでホールスタッフのアルバイトを始めていた。
慣れないなりにミスもなく初日を終えることができ、ホッと胸を撫で下ろす。今のところ変な客もいなさそうだし、これなら上手くやっていけそうだ。
(きっと甲洋のおかげだね)
ロッカールームで制服から私服に着替えた操は、ずっと首に下げていたものを服の襟から引きずり出した。
チェーンの先には、甲洋がくれたどんぐりがついている。煮沸処理して乾燥させ、ペンダントにしてお守り代わりに身に着けていたのだ。これをしていると、まるで彼が傍にいてくれるような気がして心強い。
(今日のこと、甲洋が来たら報告しなきゃ!)
甲洋は操が新しくバイトを始めたことをまだ知らない。だからきっと驚くだろうし、一緒に喜んでくれるはずだ。
今日のおやつも考えなくちゃと、ウキウキしながらコートに袖を通していると、そこに
「あ、いたいた。来主くん、ちょっといい?」
と、制服にエプロン姿の男性がやって来て、声をかけられた。
彼はこの店の店長だ。今日一日、ずっと傍で仕事を教えてくれた人だった。
「話があるから、こっち来てくれるかな」
店長は返事も待たずに、すぐそばの裏口から外に出ていってしまった。
話とは一体なんだろう。ここではできない内容なのだろうか。疑問に思いながらも、操はペンダントを服の中にしまうとリュックを背負った。
裏口から出ると、そこは古びた裏路地になっている。すっかり日が暮れて、あたりは暗くなっていた。ポツンと一本だけ立っている街灯は、ほとんど消えかけていてあまり機能していない。
「来主くん、こっちだよ」
薄暗くて細い通路は、突き当りにゴミの山ができていた。少し生臭い。そのすぐそばで、店長がヒョイと片手を上げている。
操が近づくと、彼は笑顔で「今日はお疲れ様」と言った。
「初日だったから緊張したでしょ? よくがんばってたね」
店長は笑顔で、今日の操の働きぶりを褒めちぎった。明るい笑顔だとか丁寧な接客だとか、他にもいろいろ。褒められすぎて、ちょっと怖いくらいだった。
(でも嬉しいな。また甲洋に報告することができちゃった!)
操は元気よく「ありがとうございます!」と礼を言ったが、そのときふと、違和感に気がついた。
(この人、なんでこんなに近づいてくるんだろう?)
操と店長の距離は、気づけば20センチあるかないかまで縮まっていた。確かにここは狭い路地だが、これほどまでに近づく必要はあるのだろうか。思わず後ろに一歩引こうとしたとき、店長の腕が腰に回された。
「でもねぇ、一つだけ……」
「っ、え?」
「仕事中は、あんまり色目を使ってほしくないんだよね」
意味が分からず、操は目を白黒させる。
「困るんだよ。前にいた子もさぁ、オレに気があるくせに、いざ手を出したらセクハラがどうとか騒いで辞めちゃったし」
「……?」
「君みたいに、なんにも知りませ~んって顔してる子ほどエロいんだよな。でも仕事中はそういうの隠さないと。今は二人っきりだからいいけどね」
いよいよなにを言われているのか分からない。その笑顔はさっきまでと違い、ニタニタとした嫌なものに変わっていた。
(なんなのこの人? ぜんぜん意味わかんないよ!)
本能的に身を捩って逃れようとしたが、臀部をぬるりと撫でられて「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。
なんだかよく分からないが、とにかく嫌だ。気持ちが悪い。不快感に心臓が冷えていくのが分かる。こんな経験は初めてだった。
「君が可愛いから雇ってやったわけ。オレが言ってること分かるよね?」
強引に引き寄せられて、耳元で囁かれた。ゾッとして吐き気がする。
きっと前に辞めていったという人も、今の自分と同じだったのだろう。意味不明な言いがかりをつけられて、こんなふうにベタベタと触られたに違いない。
「わ、わかんないよそんなこと! 近いってば! 離してよ!」
せっかく上手くやっていけそうだと思っていたのに。おかしな客の次は、おかしな店長に当たってしまった。これじゃあ甲洋にいい報告なんかできそうにない。
悔し涙を滲ませながら、なんとか振り切ろうとした。そのとき──。
「おわッ!?」
男がとつぜん悲鳴をあげたかと思うと、その身体が吹っ飛ばされた。ズボッという音がして、ゴミの山に埋もれてしまう。
「へ……?」
暗がりで起こった一瞬の出来事に、訳が分からず唖然とした。それは男も同じだったようで、彼はゴミ山で手足をバタつかせて混乱している。
そのとき、ポカンとしていた操の手首が何者かによって掴まれた。
「来主、こっち!」
「ッ……!?」
薄暗いなか、浮かび上がるシルエットに目を見張る。尖った猫耳に、オオカミのような長いしっぽ。青年の姿をした甲洋だ。
「甲洋!? なんで……!?」
「いいから!」
彼は操の手を強く引き、風のような速さで走りだす。ゴミ山でもがく男の「待て!」という声が背中にかかり、まるでドラマや映画のワンシーンのようだった。
甲洋は操が知らない抜け道を幾つも知っていて、自分の姿を見られないよう配慮しながらも、最短ルートを選んで走る。そうしてどこをどう通ってきたかも分からないうちに、気づけば見知った公園にたどり着いていた。最初に甲洋を保護した、あの公園だ。
「ここまで来れば、もう安心だ」
「はぁ、はぁ……っ、こ、甲洋、どうして君が?」
問いには答えず、彼は上下に弾む操の両肩をそっと掴んだ。
「来主、大丈夫か? なにも酷いことはされてない?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと変なとこ触られただけ……」
「ッ……」
遊具の側で煌々と明かりを発する街灯の下、甲洋が悔しそうに下唇を噛み締めた。そして操の身体を強く抱きすくめる。
「わっ」
「遅くなってごめん。俺がもっと早く助けていれば……」
「そ、そんなことないよ! 君が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか分からないし……」
思いだすだけで鳥肌がたつ。操は彼を抱き返し、ホッと息を漏らした。
かなりのショックを受けたし、まだ少し混乱しているけれど、やっぱり甲洋の腕の中は安心する。さっきまでの不快感が、そっと洗い流されていくようだった。
「でも君、どうしてあんなところにいたの?」
改めて問いかけた操に、彼は「たまたまだよ」と言った。
「来主が学校帰りに、いつもと違う方向に歩いて行くのが見えたから」
群れの縄張りを巡回中だった彼は、操の行き先が気になって後ろをくっついて来ていたらしい。せっかくだし、一緒に帰ろうと思ったからだ。
そこで新しいバイト先がファミレスであることを知り、終わるまで待つつもりでその辺りをブラブラしていた。すると路地裏から操の叫ぶ声がして、揉み合う二人を見つけたのだと。
「そうだったんだ! じゃあ、君はずっと近くにいたんだね」
ぺたんと耳を寝かせて、「黙ってついて行ってごめん」と申し訳なさそうに言う甲洋に、操はクスクスと笑ってしまった。実家にいたころ、クーもよく操の後をついて来ていたことを思いだす。
猫にはそういう習性があるのだ。傍にいたいと思う相手の後を、くっついて歩く習性が。それに──。
「来主?」
「ふふっ、だってさ、ほら。これ見て」
操は甲洋の腕の中でゴソゴソと身じろいで、服の中からペンダントを引きずりだした。丸々としたどんぐりが姿を現し、甲洋が目を丸くする。
「これ、ぼくのお守りなんだ。持ってると、君が傍にいるみたいで安心するから……だけど本当に近くにいたんだって思ったら、なんかおかしくて」
肩を揺らして笑う操に、甲洋もふっと息を漏らして微笑んだ。
「ありがとう。大事に持っていてくれて」
「うん。これからも、ずっと大切にするからね」
操はチェーンの先についたどんぐりを、ぎゅっと強く握りしめた。
「守ってくれてありがとう」
さっき、甲洋はおそらく魔法を使ったのだろう。自分のピンチですら、決して使わなかったはずの魔法の力を。しかもあんなに軽々と、成人男性を吹き飛ばしてしまうなんて。
彼のことを弱そうだなんて思っていたが、それは大きな間違いだった。
「君って本当はすっごく強いんだね! カッコよかったよ!」
真っ向から褒められた彼は、しっぽをピンと上に伸ばして頬を赤らめた。恥ずかしそうに軽く目をそらし、「そんなことないよ」なんて言うくせに、どこか満更でもない様子である。
「あ、そういえば」
操にはもう一つ、気になっていることがあったのだった。
それは今の甲洋の姿だ。彼はなぜか最初から青年の姿で現れた。本当ならキスをして、操から力を分けてもらわなければ変身できないはずなのに。
「ねぇ、キスしてないのに、どうして君は人間の姿になれてるの?」
すると彼はそらしていた目を泳がせて、「うっ」と呻いた。
「甲洋?」
「そ、それは……」
なにかを言いよどむ素振りのあと、甲洋は操から離れると、「ごめん」と言って頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「……本当は、キスなんか必要ないんだ」
それはどういうことかと、首をかしげてパチパチと瞬きをする。
甲洋はまるで観念したように、深く息を吐きだした。
「力を分けてもらうっていうのは、ただの口実。俺は自力で変身できる」
「え? そうなの?」
甲洋が渋々うなずいた。
現代にまともな魔法が使える純血のケット・シーはいない、という話は前に聞いた。強力な魔法が使えるのは、王様やごく一部の優秀なケット・シーだけだとも。
つまり彼は優秀なケット・シーだったのだ。だから怪我だって治療できるし、変身もできる。人間の男を軽く吹き飛ばすくらい、朝飯前だったのだ。
「どうして嘘なんかついてたの? それに口実って、なんの?」
「それは……その方がロマンチックだと思ったから……」
「キスで変身することが?」
「……ごめん」
例えば王子様のキスで解ける呪いだとか、目を覚ますお姫様だとか、彼が言う『ロマンチック』とは、そういうものを指しているのだろうか。
いまいちピンと来ないが、きっと甲洋はかなりのロマンチストなのだろう。赤い頬でうつむく様子の微笑ましさに、操は笑った。
「そんなに謝らなくてもいいよ。ぼくはちっとも気にしてないから」
本当はずっと隠しておくつもりでいたのだろうが、操のピンチに遭遇した彼は、とっさに変身せずにいられなかったのだ。その方が一緒に逃げるのに都合がいい。
甲洋らしいなと操は思う。感謝こそすれ、責める気なんか起こらない。
「……だって嫌だろ。キスなんて」
彼は頬だけでなく、首筋まで真っ赤にしていた。しっぽも耳も、可哀想なくらいしょんぼりとさせている。
操は「ぜんぜん」と言って、ケロリとしながら首を左右に振った。
「え?」
甲洋が目を見開いた。耳もピンと立ち、しっぽも跳ねる。だが、操が
「前にも言ったでしょ? クーともよくしてたって。だから君とするのも、ちっとも嫌じゃなかったよ!」
とにっこり笑いながら言うと、またすっかりしょげてしまった。
「……そうか」
肩を落とす甲洋の表情が、どこか切なそうに歪んで見えた。
なにか悪いことを言ってしまったのだろうか。気にする操をよそに、彼は逡巡している様子だった。その沈黙が、いやに重たい。
「……来主」
やがて甲洋はうつむけていた顔を上げ、真っ直ぐに操を見つめた。
「な、なに?」
「来主に、伝えたいことがある」
やけに真剣な眼差しに見つめられ、胸がドキリと大きく跳ねた。そのただならぬ様子に、彼がなにか重大な話をしようとしていることだけは伝わってくる。
辺りにピリピリとした緊張感が立ち込めて、操は思わず背筋を伸ばした。
「急にこんなことを言って、驚かせてしまうと思うけど」
「う、うん」
「……俺は、来主のことが──」
──ガサッ
「!?」
そのときだった。
すぐ側の草むらから物音がして、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「な、なんだろ? 今の音……野良猫でもいるのかな?」
話はすっかり遮られてしまったが、彼の意識が草むらに移ったことで、あのヒリヒリとした緊張感からは解放されたような気がした。
どこかホッとしがなら息を漏らし、甲洋を見上げる。すると彼は見たことがないくらい険しい目をして、草むらを睨みつけていた。音の方に向かって、こげ茶が混ざった黒い耳をピンと張り詰めている。
「甲洋……?」
「ごめん、来主。今日は帰るよ」
「え!? ちょっと、甲洋……!?」
駆けだした甲洋は猫の姿に戻ると、派手な音を立てて草むらに飛び込んだ。
取り残されてしまった操は、しばし茫然としながら立ち尽くすことしかできなかった。しかし落ち着くにつれ、徐々に不安が込み上げてくる。
もしさっきの物音を立てたのが、野良猫の仕業ではなかったとしたら?
(まさか、王様にバレちゃったんじゃ……?)
もし掟破りをしていることが知られれば、彼はどうなってしまうんだろう。まるで想像がつかなくて、ただ手足が急速に冷えていくのを感じた。黒い雲が忍び寄るように、ざわざわとした胸騒ぎがする。
「甲洋……」
両手でどんぐりを握りしめ、操はどうかこの嫌な予感が外れますようにと、強く願うことしかできなかった。
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