2025/06/16 Mon 06 最初はおかしな人間だとしか思わなかった。 会えば自分のことを『コーヒー』なんて呼んで、嬉しそうに声をかけてくる操のことを。 『こんにちはコーヒー、どこに行くの? 今日は天気がいいね』 『あっ、コーヒー! 昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?』 『ほらおいで、怖くないよ……あっ、行っちゃったぁ……』 猫好きの人間はごまんといるが、彼はとりわけしつこかった。どんなに無視をしても、会えば懲りずに話しかけてくる。 けれど甲洋はずっと野良猫として生きてきた。人間と深く関わるつもりはなかったし、本能的な恐れもあった。人に捨てられ、野良になった猫たちの姿もさんざん見てきた。どうせ裏切られるなら、最初から信じないほうがいい。 この少年だって例外じゃない。いずれは飽きて見向きもしなくなるのだろうと、そう思っていた。だから衝撃を受けたのだ。野良猫のために涙を流すその姿に。 あの部屋で目を覚ましたとき、甲洋はひどく混乱して攻撃的になっていた。とつぜんヌッと顔を覗かせた人間が、いつも話しかけてくるあの少年だと気づいたときには、その白い手の甲に爪を走らせていた。 けれど彼はそんな甲洋を労った。目にいっぱいの涙を浮かべ、寄り添おうとしてくれた。その涙には、どこか不思議な魔力があったように思う。野良猫の頑なな警戒心を、いともたやすく解いてしまうほどの。 あの瞬間、甲洋は魔法にかかってしまった。きっと操だけが使える、優しくて甘い魔法に。 それ以来、自然と彼のもとに足が向くようになった。気づけば操のことばかり考えている。彼のことをもっと知りたくて、笑った顔がもっと見たくて。 少し上ずった無邪気な声や、腕いっぱいに抱きしめてくれるその体温が。甲洋にとって、かけがえのないものになっていた。 そして欲が生まれてしまった。いつしか自分のことをオスとして見て欲しいと、そう願うようになっていた。だから変身したのだ。人の姿に。 しかしどうしてもこの身に流れる猫の血が邪魔をして、耳としっぽだけは消せなかった。様々な方法を探り、何度も試してみたけれど、これが甲洋の限界だった。 こんな中途半端な姿では、いつまでたっても意識すらしてもらえない。密かに焦りを覚えていた甲洋に、あるとき彼はこう言った。 『これからもずっと一緒にいようね!』 と──。 それは甲洋に胸が膨らむような喜びをもたらした。そして同時に気がついた。 たとえ振り向いてもらえなくても、いつまでもこの笑顔を守っていられたら、好きでいられたら、こんなに幸せなことはない。 操とずっと一緒にいること。それが自分にとって、何よりの願いだということに。 * 町外れの古びた廃神社。 鈴村神社と記されたその建物は、数十年前に別所へ遷宮されて以来、朽ちた廃屋になっている。そこは現在、甲洋が属する群れの集会所になっていた。 「おお、来たか! 遅かったな甲洋。報告は俺たちでしといてやったぞ」 「やったわね! これで王は必ずあなたを指名するはずよ!」 星も月も見えない夜。 苔むした石段の中腹で、中年の猫夫婦が嬉しそうな声をあげている。 オスは白髪交じりの黒猫、正浩。三毛のメスは諒子という。二本足で言葉を喋る二匹の猫は、まぎれもなくケット・シーであり甲洋の両親でもあった。 「……やっぱり父さんと母さんだったんだね」 二匹から数段下に立ち尽くす甲洋が、複雑な面持ちで彼らを見上げる。さっきの公園で草むらにいたのは、この二匹だったのだ。 軽率だったとは思う。あの場所は群れのテリトリーで、誰に見られてもおかしくはなかった。けれどよりにもよって、この二匹に見られていたなんて。 「水臭い子ね。こんな大事なことを隠しているなんて!」 「まったくだ。てっきりハズレだとばかり思っていたら……まさか俺たちの息子が、純血に劣らない魔力の持ち主だったとはなぁ!」 上機嫌で笑う両親から目をそらし、肉球に爪が食い込むほど手を握りしめた。 ケット・シーの中には、まれに純血に匹敵する強い魔力を持って生まれるものがいる。隔世遺伝というものだ。何世代も前のケット・シーの能力を受け継いで、甲洋は生まれてきた。 けれどそのことは、ずっと隠して生きてきた。特に親しい一部の友人──白猫の一騎と茶色猫の総士だ──を除いては。 理由は単純。次の『王』に選ばれないため。 代々、王は自らが率いる群れの中から、もっとも優秀な者を選んで次の王に指名してきた。それはケット・シーにとって名誉なことだ。 しかし甲洋は地位や権力に興味がなかった。自分はそんな器じゃない。群れを率いていく責任と重圧に縛られるより、野良猫として生きるほうがずっと気楽で、性に合っていると思っていたから。 けれど今は、他にもっと大きな理由がある。 それは操の存在だ。王になれば、もう彼に会いに行くことはできなくなるだろう。しかも王の娘である姫君と結婚させられ、子供を作らなければいけなくなる。 甲洋にとって、それは考えられないことだった。ずっと一緒にいたいのも、結ばれたいと願うのも、操以外にはありえない。 「王は大層お喜びだったぞ。もう歳だからなぁ。とっとと引退したいんだろう」 「娘も年頃ですものねぇ。よかったわね甲洋、気立てのいいお姫様だもの」 「父さん母さん、俺は──」 「これで俺たちも安泰だ! 邪魔な野良猫共を追いだして、餌場を独占できるんだからな!」 彼らは甲洋の話に耳を傾けようともせず、勝手に盛り上がっている。 息子を王にすることで、裏で実権を握ろうとしているのだ。おおかた自分たちの都合がいいように、掟を捻じ曲げる気でいるのだろう。欲深い彼らは、野良猫たちの排除を目論んでいる。 ケット・シーの掟の中には、 『魔法を悪用し、猫に仇をなしてはいけない』 というものがある。 ケット・シーは猫の妖精だ。猫たちを守り、調和を重んじこそすれ、決して危害を加えてはいけない。 しかし数年前、二匹はその掟を破った。 彼らは群れで共有している餌場だけでは足りず、魔法を使ってよその野良猫たちから餌を奪っていた。力の弱いケット・シーでも、普通の猫を脅かして追い払うくらいのことはできる。そうやって文字通り、私腹を肥やしていた。 しかしあるとき、その悪事が王に知られてしまった。 二匹は罰として魔力を奪われ、永遠に魔法が使えなくなってしまった。もはや二本足で立って言葉を話せるだけの、ただの化け猫と変わらない。 ケット・シーであることに誇りを持ち、普通の猫たちを見下していた彼らにとって、それは耐え難い屈辱でしかなかっただろう。いっそう猫たちを疎ましく思うようになったのだ。 「さぁ甲洋、王様が首を長くしてお待ちよ。早く行きなさい」 「お姫様も待ってるだろうしな。本当に自慢の息子だよ、お前は」 正浩が階段を下りてきて、甲洋の背中をドンッと叩く。虚しさが込み上げた。彼らは一度だって甲洋をまともに扱ったことがない。 しかしこんな両親でも、幼い頃は慕っていたのだ。大人になってからも、その情は捨てきれなかった。 操と出会ったあの日。 甲洋は誤ってよその縄張りに足を踏み入れたわけではない。性懲りもなく野良猫の餌場で盗み食いしようとしていた二匹を、ボス猫から庇うためだった。 彼らは助けに入った息子を囮にして、自分たちだけ逃げだした。甲洋は代わりに制裁を受けたにすぎない。 その後、操に救われたおかげで一命をとりとめた甲洋を見ても、彼らは「なんだ、生きてたのか」と、のんきに嘲笑うだけだった。 息子に情があっても、この両親にそんなものはない。分かっていたはずなのに。 甲洋は二匹の顔を見ないよう、うつむきながら石段をのぼった。倒壊した鳥居の向こうには、朽ちた拝殿が鎮座している。 そこで王が待っているのだ。可愛い年頃の一人娘を、傍らに置きながら。 * 一週間後の午前0時。甲洋は操の部屋を訪れた。 カリカリと窓枠を引っ掻くと、即座に戸が開かれる。甲洋はこの瞬間がとても好きだった。いらっしゃい、と言って迎えてくれる操の笑顔が。 「甲洋……!」 彼は甲洋をひと目見た瞬間、瞳に大粒の涙を浮かべた。顔をくしゃりと歪め、床に崩れ落ちるようにぺたりと座りこみ、きつく甲洋を抱きしめる。 「よかった……もう来てくれないんじゃないかって……!」 「ごめん来主。心配かけて」 甲洋は毛むくじゃらの猫の手で、彼の脇腹をぽふぽふと軽く叩いた。 彼は笑ってくれるどころか、身を震わせて泣くばかりだった。ずっと不安だったのだろう。最後にあんな別れ方をして、一週間も姿を現さなかったのだから。 操は甲洋がここを訪れなかった理由に、うすうす気がついていたらしい。 「甲洋、王様にバレちゃったんでしょ? だからずっと来られなかったんでしょ? ぼくのせいで、……?」 そのとき、操がなにかに気がついた。 「これ、なに?」 彼は両手で甲洋の首の毛を掻き分け、そこにあるものを見て顔をしかめた。 「首輪……?」 それは黒い無機質な首輪だった。繋ぎ目が一切なく、鎖で繋ぐための銀の輪っかだけが取り付けられている。 「これ、穴もなにもない。伸びる素材でもないし、どうやってはめたの?」 「これは魔法の首輪だよ。なんでもないから、気にしないで」 「なんでもなくないじゃん! どうしてこんなのつけてるの?」 よからぬものを感じとった操が、不信そうに眉を寄せている。 「ちょっとね。だけどなにも問題ないよ。今まで通り魔法だって使えるし」 「……ぼく、これ好きじゃない。なんか嫌だ」 彼は納得がいかない様子で首輪を睨みつけている。 甲洋は少しでもいつも通りであることを主張するために、人間の姿に変身しようとした。するとキラキラとした光に操がハッとして、そくざに甲洋の唇にキスをする。驚いたが、そのまま条件反射で人間の姿へと変身した。 「……別に、キスしなくてもいいって言ったのに」 「だって、変身するときはこれしなきゃいけない決まりだし」 「だから別に決まりってわけじゃ……」 赤くなってモゴモゴしながらあぐらをかく。 種明かしはしたはずなのに。キスで変身するなんて、ロマンチストが見る恥ずかしい夢でしかない。ただ操とキスがしたかっただけという、身も蓋もない下心も確かに存在していた。 (むしろそっちの方が大きかったよな……) つくづく愚かだ。カッコ悪いなぁなんて思いながら、操が変わらずキスをしてくれたことが嬉しくて、しっぽは上向きに伸びている。 結局いつも通りであることに安堵しているのは、自分自身でしかないのだった。 「首輪、人間になってもぴったりだ……本当に魔法の首輪なんだね……」 変身後のサイズに合わせて変化した首輪に、操は感心したような声をあげた。しかしすぐにまた表情を曇らせる。 「でも、なんで急に首輪なんて……それに……」 今までどこでどうしていたのか。聞きたいことが山ほどあるのだろう。その瞳は疑問と不安に揺れていた。 「来たくても来られなかったんだ。厳重に監視されていたから」 「監視……!?」 すっかり顔色を失くした操が、痛ましい表情でうつむいた。 「ぼくのせいだ。ぼくを助けるために変身したから、甲洋は……」 「それは違う。ぜんぶ俺が勝手にやったことだ。来主が気に病む必要はない」 「でもっ」 「俺は大丈夫だから。だけど、あまり時間がない」 「時間……?」 そう、甲洋にはあまり時間が残されていない。 今日ここを訪れたのは、彼に別れを告げるためだ。そのために王に必死で頼み込み、一日だけ時間をもらった。 リミットは明日の深夜0時まで。それを過ぎたら、もう甲洋に自由はない。 「婚約したんだ。ケット・シーの姫と」 なんでもないことのように告げた甲洋に、操が目を丸くしてポカンとする。 「この首輪はその証だよ。婚約指輪のようなものさ」 「お姫様と、婚約……? 結婚するってこと?」 甲洋がうなずく。 「王に認められたんだ。俺は他のケット・シーより強い魔力を持っている。だから次の王に相応しいってね」 一週間前の夜──。 謁見に訪れた甲洋に、王は姫と結婚して新しい王になることを命じた。そうすれば、掟を破って人間に正体を知られたことを不問にすると。 けれど甲洋は拒絶した。不問にされなくてもいい。どんな罰でも受けるつもりでいる。重大な掟破りをした自分が、王になっていいはずがないと。 しかし王はそれを許さなかった。甲洋ほどの逸材を逃すわけにはいかない。なにより姫がそれを望んでいるのだと。 王の隣で、ケット・シーの姫は恥ずかしそうに目を伏せていた。ペルシャのような長毛で、気品のある美しい猫。彼女はずっと甲洋に淡い恋心を寄せていた。 優秀なケット・シーの血を残すため、可愛い娘のため。甲洋にはなんとしても次の王になってもらうと、王は言った。そしてさらにこう続けたのだ。 正体を知ってしまった人間もまた、ただでは済まされないと──。 ゾッとした。その意味が理解できないほど愚かではない。王が言った『不問にする』という言葉には、操への処遇も含まれていたのだ。 両親は操の顔を見ている。探しだすのは簡単だろう。彼を守るために、甲洋がするべきことは一つだった。すべてを受け入れること。それだけだ。 「甲洋……?」 ずっと黙り込んでいた甲洋に、不安そうな眼差しが向けられる。 操はなにも知らなくていい。知ればもっと自分を責めるだろう。甲洋が王になることを決めたのは、他の誰でもない。自分のためだ。どんなことがあろうとも、操を守ることができるなら。 (それで充分、幸せだ) 安心させるようにふっと微笑み、彼を抱き寄せると腕の中に閉じ込めた。 まだ未完成な身体だと、甲洋は思う。猫の姿でいたときは、自分の方が抱きしめられる立場だった。だけど人間の姿に変身して、初めて操を抱きしめたとき、こんなに頼りなかったのかと胸が締めつけられた。そして今も。 (好きな子と、ただずっと一緒にいたかっただけなのに) そう願ってしまったせいで、永遠に自由を奪われることになってしまった。あまりにも皮肉な話だが、もう決めたことだ。 「王になれば、その責任は重大だ。だからもう、こんなふうに来主に会いに来ることはできなくなる」 「ッ、そんな……!?」 操の身体がムチで打たれたようにビクンと跳ねる。なにかを言いかける唇に、甲洋はそっと指を押し当てた。 「だからその前に、一つだけ俺の頼みを聞いてほしい」 操は大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。あの日と同じように。彼は甲洋のために胸を痛めて、泣いている。この涙に、どうしようもなく惹かれてしまった。 目尻を拭ってやりながら、懐かしさに目を細める。きっとこれが最後だから。 「俺と、デートをしてほしい」 今日はずっとこの姿のままでいよう。二度とこうして会えなくなる前に。ただの普通の男として、操との思い出がほしかった。 ←戻る ・ 次へ→
最初はおかしな人間だとしか思わなかった。
会えば自分のことを『コーヒー』なんて呼んで、嬉しそうに声をかけてくる操のことを。
『こんにちはコーヒー、どこに行くの? 今日は天気がいいね』
『あっ、コーヒー! 昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?』
『ほらおいで、怖くないよ……あっ、行っちゃったぁ……』
猫好きの人間はごまんといるが、彼はとりわけしつこかった。どんなに無視をしても、会えば懲りずに話しかけてくる。
けれど甲洋はずっと野良猫として生きてきた。人間と深く関わるつもりはなかったし、本能的な恐れもあった。人に捨てられ、野良になった猫たちの姿もさんざん見てきた。どうせ裏切られるなら、最初から信じないほうがいい。
この少年だって例外じゃない。いずれは飽きて見向きもしなくなるのだろうと、そう思っていた。だから衝撃を受けたのだ。野良猫のために涙を流すその姿に。
あの部屋で目を覚ましたとき、甲洋はひどく混乱して攻撃的になっていた。とつぜんヌッと顔を覗かせた人間が、いつも話しかけてくるあの少年だと気づいたときには、その白い手の甲に爪を走らせていた。
けれど彼はそんな甲洋を労った。目にいっぱいの涙を浮かべ、寄り添おうとしてくれた。その涙には、どこか不思議な魔力があったように思う。野良猫の頑なな警戒心を、いともたやすく解いてしまうほどの。
あの瞬間、甲洋は魔法にかかってしまった。きっと操だけが使える、優しくて甘い魔法に。
それ以来、自然と彼のもとに足が向くようになった。気づけば操のことばかり考えている。彼のことをもっと知りたくて、笑った顔がもっと見たくて。
少し上ずった無邪気な声や、腕いっぱいに抱きしめてくれるその体温が。甲洋にとって、かけがえのないものになっていた。
そして欲が生まれてしまった。いつしか自分のことをオスとして見て欲しいと、そう願うようになっていた。だから変身したのだ。人の姿に。
しかしどうしてもこの身に流れる猫の血が邪魔をして、耳としっぽだけは消せなかった。様々な方法を探り、何度も試してみたけれど、これが甲洋の限界だった。
こんな中途半端な姿では、いつまでたっても意識すらしてもらえない。密かに焦りを覚えていた甲洋に、あるとき彼はこう言った。
『これからもずっと一緒にいようね!』
と──。
それは甲洋に胸が膨らむような喜びをもたらした。そして同時に気がついた。
たとえ振り向いてもらえなくても、いつまでもこの笑顔を守っていられたら、好きでいられたら、こんなに幸せなことはない。
操とずっと一緒にいること。それが自分にとって、何よりの願いだということに。
*
町外れの古びた廃神社。
鈴村神社と記されたその建物は、数十年前に別所へ遷宮されて以来、朽ちた廃屋になっている。そこは現在、甲洋が属する群れの集会所になっていた。
「おお、来たか! 遅かったな甲洋。報告は俺たちでしといてやったぞ」
「やったわね! これで王は必ずあなたを指名するはずよ!」
星も月も見えない夜。
苔むした石段の中腹で、中年の猫夫婦が嬉しそうな声をあげている。
オスは白髪交じりの黒猫、正浩。三毛のメスは諒子という。二本足で言葉を喋る二匹の猫は、まぎれもなくケット・シーであり甲洋の両親でもあった。
「……やっぱり父さんと母さんだったんだね」
二匹から数段下に立ち尽くす甲洋が、複雑な面持ちで彼らを見上げる。さっきの公園で草むらにいたのは、この二匹だったのだ。
軽率だったとは思う。あの場所は群れのテリトリーで、誰に見られてもおかしくはなかった。けれどよりにもよって、この二匹に見られていたなんて。
「水臭い子ね。こんな大事なことを隠しているなんて!」
「まったくだ。てっきりハズレだとばかり思っていたら……まさか俺たちの息子が、純血に劣らない魔力の持ち主だったとはなぁ!」
上機嫌で笑う両親から目をそらし、肉球に爪が食い込むほど手を握りしめた。
ケット・シーの中には、まれに純血に匹敵する強い魔力を持って生まれるものがいる。隔世遺伝というものだ。何世代も前のケット・シーの能力を受け継いで、甲洋は生まれてきた。
けれどそのことは、ずっと隠して生きてきた。特に親しい一部の友人──白猫の一騎と茶色猫の総士だ──を除いては。
理由は単純。次の『王』に選ばれないため。
代々、王は自らが率いる群れの中から、もっとも優秀な者を選んで次の王に指名してきた。それはケット・シーにとって名誉なことだ。
しかし甲洋は地位や権力に興味がなかった。自分はそんな器じゃない。群れを率いていく責任と重圧に縛られるより、野良猫として生きるほうがずっと気楽で、性に合っていると思っていたから。
けれど今は、他にもっと大きな理由がある。
それは操の存在だ。王になれば、もう彼に会いに行くことはできなくなるだろう。しかも王の娘である姫君と結婚させられ、子供を作らなければいけなくなる。
甲洋にとって、それは考えられないことだった。ずっと一緒にいたいのも、結ばれたいと願うのも、操以外にはありえない。
「王は大層お喜びだったぞ。もう歳だからなぁ。とっとと引退したいんだろう」
「娘も年頃ですものねぇ。よかったわね甲洋、気立てのいいお姫様だもの」
「父さん母さん、俺は──」
「これで俺たちも安泰だ! 邪魔な野良猫共を追いだして、餌場を独占できるんだからな!」
彼らは甲洋の話に耳を傾けようともせず、勝手に盛り上がっている。
息子を王にすることで、裏で実権を握ろうとしているのだ。おおかた自分たちの都合がいいように、掟を捻じ曲げる気でいるのだろう。欲深い彼らは、野良猫たちの排除を目論んでいる。
ケット・シーの掟の中には、
『魔法を悪用し、猫に仇をなしてはいけない』
というものがある。
ケット・シーは猫の妖精だ。猫たちを守り、調和を重んじこそすれ、決して危害を加えてはいけない。
しかし数年前、二匹はその掟を破った。
彼らは群れで共有している餌場だけでは足りず、魔法を使ってよその野良猫たちから餌を奪っていた。力の弱いケット・シーでも、普通の猫を脅かして追い払うくらいのことはできる。そうやって文字通り、私腹を肥やしていた。
しかしあるとき、その悪事が王に知られてしまった。
二匹は罰として魔力を奪われ、永遠に魔法が使えなくなってしまった。もはや二本足で立って言葉を話せるだけの、ただの化け猫と変わらない。
ケット・シーであることに誇りを持ち、普通の猫たちを見下していた彼らにとって、それは耐え難い屈辱でしかなかっただろう。いっそう猫たちを疎ましく思うようになったのだ。
「さぁ甲洋、王様が首を長くしてお待ちよ。早く行きなさい」
「お姫様も待ってるだろうしな。本当に自慢の息子だよ、お前は」
正浩が階段を下りてきて、甲洋の背中をドンッと叩く。虚しさが込み上げた。彼らは一度だって甲洋をまともに扱ったことがない。
しかしこんな両親でも、幼い頃は慕っていたのだ。大人になってからも、その情は捨てきれなかった。
操と出会ったあの日。
甲洋は誤ってよその縄張りに足を踏み入れたわけではない。性懲りもなく野良猫の餌場で盗み食いしようとしていた二匹を、ボス猫から庇うためだった。
彼らは助けに入った息子を囮にして、自分たちだけ逃げだした。甲洋は代わりに制裁を受けたにすぎない。
その後、操に救われたおかげで一命をとりとめた甲洋を見ても、彼らは「なんだ、生きてたのか」と、のんきに嘲笑うだけだった。
息子に情があっても、この両親にそんなものはない。分かっていたはずなのに。
甲洋は二匹の顔を見ないよう、うつむきながら石段をのぼった。倒壊した鳥居の向こうには、朽ちた拝殿が鎮座している。
そこで王が待っているのだ。可愛い年頃の一人娘を、傍らに置きながら。
*
一週間後の午前0時。甲洋は操の部屋を訪れた。
カリカリと窓枠を引っ掻くと、即座に戸が開かれる。甲洋はこの瞬間がとても好きだった。いらっしゃい、と言って迎えてくれる操の笑顔が。
「甲洋……!」
彼は甲洋をひと目見た瞬間、瞳に大粒の涙を浮かべた。顔をくしゃりと歪め、床に崩れ落ちるようにぺたりと座りこみ、きつく甲洋を抱きしめる。
「よかった……もう来てくれないんじゃないかって……!」
「ごめん来主。心配かけて」
甲洋は毛むくじゃらの猫の手で、彼の脇腹をぽふぽふと軽く叩いた。
彼は笑ってくれるどころか、身を震わせて泣くばかりだった。ずっと不安だったのだろう。最後にあんな別れ方をして、一週間も姿を現さなかったのだから。
操は甲洋がここを訪れなかった理由に、うすうす気がついていたらしい。
「甲洋、王様にバレちゃったんでしょ? だからずっと来られなかったんでしょ? ぼくのせいで、……?」
そのとき、操がなにかに気がついた。
「これ、なに?」
彼は両手で甲洋の首の毛を掻き分け、そこにあるものを見て顔をしかめた。
「首輪……?」
それは黒い無機質な首輪だった。繋ぎ目が一切なく、鎖で繋ぐための銀の輪っかだけが取り付けられている。
「これ、穴もなにもない。伸びる素材でもないし、どうやってはめたの?」
「これは魔法の首輪だよ。なんでもないから、気にしないで」
「なんでもなくないじゃん! どうしてこんなのつけてるの?」
よからぬものを感じとった操が、不信そうに眉を寄せている。
「ちょっとね。だけどなにも問題ないよ。今まで通り魔法だって使えるし」
「……ぼく、これ好きじゃない。なんか嫌だ」
彼は納得がいかない様子で首輪を睨みつけている。
甲洋は少しでもいつも通りであることを主張するために、人間の姿に変身しようとした。するとキラキラとした光に操がハッとして、そくざに甲洋の唇にキスをする。驚いたが、そのまま条件反射で人間の姿へと変身した。
「……別に、キスしなくてもいいって言ったのに」
「だって、変身するときはこれしなきゃいけない決まりだし」
「だから別に決まりってわけじゃ……」
赤くなってモゴモゴしながらあぐらをかく。
種明かしはしたはずなのに。キスで変身するなんて、ロマンチストが見る恥ずかしい夢でしかない。ただ操とキスがしたかっただけという、身も蓋もない下心も確かに存在していた。
(むしろそっちの方が大きかったよな……)
つくづく愚かだ。カッコ悪いなぁなんて思いながら、操が変わらずキスをしてくれたことが嬉しくて、しっぽは上向きに伸びている。
結局いつも通りであることに安堵しているのは、自分自身でしかないのだった。
「首輪、人間になってもぴったりだ……本当に魔法の首輪なんだね……」
変身後のサイズに合わせて変化した首輪に、操は感心したような声をあげた。しかしすぐにまた表情を曇らせる。
「でも、なんで急に首輪なんて……それに……」
今までどこでどうしていたのか。聞きたいことが山ほどあるのだろう。その瞳は疑問と不安に揺れていた。
「来たくても来られなかったんだ。厳重に監視されていたから」
「監視……!?」
すっかり顔色を失くした操が、痛ましい表情でうつむいた。
「ぼくのせいだ。ぼくを助けるために変身したから、甲洋は……」
「それは違う。ぜんぶ俺が勝手にやったことだ。来主が気に病む必要はない」
「でもっ」
「俺は大丈夫だから。だけど、あまり時間がない」
「時間……?」
そう、甲洋にはあまり時間が残されていない。
今日ここを訪れたのは、彼に別れを告げるためだ。そのために王に必死で頼み込み、一日だけ時間をもらった。
リミットは明日の深夜0時まで。それを過ぎたら、もう甲洋に自由はない。
「婚約したんだ。ケット・シーの姫と」
なんでもないことのように告げた甲洋に、操が目を丸くしてポカンとする。
「この首輪はその証だよ。婚約指輪のようなものさ」
「お姫様と、婚約……? 結婚するってこと?」
甲洋がうなずく。
「王に認められたんだ。俺は他のケット・シーより強い魔力を持っている。だから次の王に相応しいってね」
一週間前の夜──。
謁見に訪れた甲洋に、王は姫と結婚して新しい王になることを命じた。そうすれば、掟を破って人間に正体を知られたことを不問にすると。
けれど甲洋は拒絶した。不問にされなくてもいい。どんな罰でも受けるつもりでいる。重大な掟破りをした自分が、王になっていいはずがないと。
しかし王はそれを許さなかった。甲洋ほどの逸材を逃すわけにはいかない。なにより姫がそれを望んでいるのだと。
王の隣で、ケット・シーの姫は恥ずかしそうに目を伏せていた。ペルシャのような長毛で、気品のある美しい猫。彼女はずっと甲洋に淡い恋心を寄せていた。
優秀なケット・シーの血を残すため、可愛い娘のため。甲洋にはなんとしても次の王になってもらうと、王は言った。そしてさらにこう続けたのだ。
正体を知ってしまった人間もまた、ただでは済まされないと──。
ゾッとした。その意味が理解できないほど愚かではない。王が言った『不問にする』という言葉には、操への処遇も含まれていたのだ。
両親は操の顔を見ている。探しだすのは簡単だろう。彼を守るために、甲洋がするべきことは一つだった。すべてを受け入れること。それだけだ。
「甲洋……?」
ずっと黙り込んでいた甲洋に、不安そうな眼差しが向けられる。
操はなにも知らなくていい。知ればもっと自分を責めるだろう。甲洋が王になることを決めたのは、他の誰でもない。自分のためだ。どんなことがあろうとも、操を守ることができるなら。
(それで充分、幸せだ)
安心させるようにふっと微笑み、彼を抱き寄せると腕の中に閉じ込めた。
まだ未完成な身体だと、甲洋は思う。猫の姿でいたときは、自分の方が抱きしめられる立場だった。だけど人間の姿に変身して、初めて操を抱きしめたとき、こんなに頼りなかったのかと胸が締めつけられた。そして今も。
(好きな子と、ただずっと一緒にいたかっただけなのに)
そう願ってしまったせいで、永遠に自由を奪われることになってしまった。あまりにも皮肉な話だが、もう決めたことだ。
「王になれば、その責任は重大だ。だからもう、こんなふうに来主に会いに来ることはできなくなる」
「ッ、そんな……!?」
操の身体がムチで打たれたようにビクンと跳ねる。なにかを言いかける唇に、甲洋はそっと指を押し当てた。
「だからその前に、一つだけ俺の頼みを聞いてほしい」
操は大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。あの日と同じように。彼は甲洋のために胸を痛めて、泣いている。この涙に、どうしようもなく惹かれてしまった。
目尻を拭ってやりながら、懐かしさに目を細める。きっとこれが最後だから。
「俺と、デートをしてほしい」
今日はずっとこの姿のままでいよう。二度とこうして会えなくなる前に。ただの普通の男として、操との思い出がほしかった。
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