2025/06/16 Mon 07 「で、デート?」 甲洋の頼みに、操は目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。 「自由でいられるのは今だけだから。最後に来主と思い出づくりがしたいんだ」 ダメかな、と耳をしょんぼりさせる姿に慌てて首を振る。 「だ、ダメじゃないよ! ダメじゃないけど……」 甲洋の頼みなら、なんでも聞いてやりたいと思う。しかしそれはそれとして、操はどうしても腑に落ちないものを感じていた。 お姫様と結婚して、新しい王様になる。字面だけなら、まるでおとぎ話のハッピーエンドだ。けれど首輪をつけられ、一週間も監視されていた上に、王になれば自由はないと言う。そこに彼の意思はあるのだろうか。 「甲洋はそれでいいの? 誰かに命令されて結婚するとか、王様になるとか……それは、本当に君が望んでることなの?」 「来主……」 やっぱりぼくのせいだと、操は下唇を噛み締めた。 甲洋が掟を破ったのは、すべて自分を助けるためだ。落ち込んでいたときは慰めてくれた。危ないところを救ってくれた。そんなことさえしなければ、彼は今までもこれからも自由でいられたはずなのに。 「……逃げよう、甲洋」 「え?」 険しい表情で甲洋を見上げ、その両肩を強く掴んだ。 「一緒に逃げるんだよ! 大丈夫、ぼくが君を守るから!」 二人一緒なら、きっとどこへだって行ける。次は自分が甲洋を助ける番だ。 すると彼は一瞬だけ泣きそうに瞳を揺らした。けれどすぐに何事もなかったかのように笑顔を見せる。 「来主はなにか勘違いしてるよ」 「勘違い……?」 「王になるということは、ケット・シーにとって最大の名誉だ。誰もがその座を狙ってる」 「……君も?」 その通りだと、彼は大きく頷いた。 「だから王の決定に異存はない。お姫様も可愛い子だしね」 甲洋はヒョイと肩をすくめると、軽くウィンクして見せた。およそ彼らしくないおどけ方には、違和感しかない。 「なんか変だよ。君っぽくない」 「浮かれてるんだよ」 操はなおも言い募ろうとして口を開きかけたが、なにも言葉が出てこなかった。 所詮、人間の自分にケット・シーの世界のことなど分からない。彼がこれほど言うのだから、きっと願ってもないことなのだろう。他人が口出しする権利はないし、邪魔する道理だってない。 むしろもっと喜ぶべきなのだと、自分を納得させるしかなかった。 「……わかった。甲洋が本当にそれでいいなら」 胸がモヤモヤと苦しくて、喉に小骨が刺さったような感覚が抜けない。だけど操はそれを押し殺し、無理やりにでも明るい笑顔を取り繕った。 「でも、デートって? なにをしたらいいんだろう?」 甲洋がどこかホッとした様子で表情を和らげる。 「来主に任せるよ。俺は人間の娯楽に疎いし、デートなんてしたことないから」 「そっか。うん、わかった。じゃあちょっと考えてみるよ!」 甲洋が自由でいられるのは、明日の深夜0時までらしい。つまりこうして一緒にいられるのは、たった一日だけということだ。 * その夜、ベッドに入る時間になっても、甲洋は猫の姿に戻らなかった。向き合う形で横になり、操を抱き寄せて腕枕すると「本当はずっとこうしたかったんだ」と嬉しそうに笑った。 したいならすればよかったのに。どうしてしなかったのかと聞いても、彼は操の額に鼻をコツンと触れさせるだけで、なにも言おうとしなかった。そしてすぐに眠ってしまった。 (甲洋、よっぽど疲れてたんだろうな……) ずっと監視されていて、身動きが取れなかったのだ。心を休める暇もなかったのだろう。一週間ぶりに見た彼は、こころなしかやつれて見えた。 白い首にはまる首輪は、ただ無機質で痛々しいだけだ。鎖で繋ぐための金具が、間接照明に照らされてやけに鋭い光を放っている。これが彼の自由を奪う。 操の気持ちは漠然とした不安で淀み続けていた。一度は納得したつもりだけれど、どうしても心から祝福する気が起こらない。 だけど甲洋は名誉なことだと言った。みながその座を狙っていると。そして選ばれた彼は王になり、多くの仲間に慕われながら幸福な一生を送るのだ。 (……寂しいけど、ちゃんとお祝いしなくちゃ。王様になれるなんて凄いことだもん。可愛いお姫様とも結婚して──) ふいに胸がズキンと痛んだ。そのまま一向に治まることなく、どんどん痛みが増えていく。操はぎゅっと目を閉じて、その痛みに気づかないふりをした。 残された時間はあとわずか。暗い気持ちでいたら、せっかくの思い出づくりが台無しになる。いま大切なのは、彼とどんな時間を過ごすかを考えることだ。 (だけどデートって……ぼくだってしたことないからわかんないよ) そもそもの話、デートというのは恋人同士でするものではないのか。自分たちはそんな関係じゃないはずだ。大切な、ただの友達。なのに、彼はどうしてわざわざデートなんて言い方をしたんだろう。特に深い意味はないのだろうか。あるいは。 (そういう意味でぼくのことが好き、とか?) 想像したら心臓がドキッと跳ねて、なぜだか頬が熱くなる。耳たぶまで赤くなるのを感じながら、操は慌ててその考えを振り払った。 そんなことあるわけないし、あっても困る。なにがどう困るのか、自分でもよく分からないけど。変に意識してしまったことが恥ずかしかった。 (なに考えてんだろ。甲洋は友達なのに、バカみたい!) 押し出すように息をつき、操は目の前にある甲洋の寝顔を改めて見つめた。そういえば、人間の姿をした彼が眠っているのを見るのは初めてだ。 物珍しさにふと片手を伸ばし、疲れが滲む頬に触れてみた。そしてなにを思ったのか、自分でもよく分からないまま、うっすらと開いている唇を親指でなぞる。 (あったかい……唇ってこんなに柔らかいんだ……) 操が知っているのは猫の唇の感触だけだ。わずか一瞬で終わるキスのあと、彼は人間に変身していた。だから操の唇は、人の姿をした甲洋の唇を知らない。 触れ合わせたらどんな心地がするのだろうかと、そう思ったときには自然と引き寄せられていた。ぼうっと意識を煙らせながら、無防備な甲洋の唇に。 触れるか触れないかの、ささやかなキスをしていた。 「……ッ!」 重なり合ったその瞬間、風船が割れたようにハッとして我に返った。とっさに引っ込めた手を強く握って、自分の胸に押しつける。 ドキン、ドキン、と高鳴る胸の鼓動が、頭の中にまで響き渡った。火をつけたみたいに身体が熱い。じんじんと痺れて熱をこもらせる唇に、操はただ茫然とするしかなかった。 ゆっくりと、少しずつ。まるで厚い雲が晴れていくように。 隠されていた心の形が姿を現す。この燃えるような胸の高ぶりを、息もつけないほどのときめきを、操は確かに知っている。 (ぼくは……) 蒼くて静かな月の夜。彼と見た、あの丘の上の景色。星空のような夜景と、宝石を散りばめたように輝く海。細められた瞳に、蕩けそうな甘い笑顔。初めてその名を呼んだときから──。 (ぼくは甲洋のことが、男の人として好きだったんだ) だから素直に喜べなかった。祝福できなかった。お姫様に嫉妬していた。甲洋が他の誰かのものになると知って、ようやく気づいた。自分の気持ちに。 だけどあまりに遅すぎた。こんな気持ちに、今さら気づいてしまったところで。 (もうどうしようもないじゃんか……!) 優しい腕の温もりが、今はただ残酷だ。甲洋の鎖骨のあたりに目元をうずめて、操は唇を噛み締めながら涙をこらえることしかできなかった。 ──それからどれくらい経っただろう。 朝方、糸が切れたように少しだけ眠った。カーテンの隙間から白い光がこぼれさす頃、頬を撫でられる感覚に目を覚ます。 「おはよう」 操を腕枕したままの甲洋が、目を細めて微笑んでいた。寝ぼけたように瞬きを繰り返す操の頬を、楽しそうに指先でくすぐっている。 朝の光景に彼がいるのは初めてで、少し呆気にとられてしまう。けれど幸せそうな笑顔を見ていたら、操も釣られて笑顔になった。 「おはよ、甲洋」 「うん」 切ない想いが胸の内からこみ上げる。喉の奥をチリチリ焦がすようなその痛みを、操は知らんぷりして遠ざけた。今日は二人で初めてのデートをするのだ。結局なにをすればいいかはまだ決まっていないが、今は目の前にある楽しいことだけを考えていたかった。 今までも、そしてこれからも。ずっと変わらず、彼と友達でいるために。 * それから軽く朝食をとり、二人は部屋を出た。 ベージュのダッフルコートに身を包む操の横には、カーキ色のコートにグレーのマフラーをして、黒いつば広ハットをかぶった甲洋の姿がある。コートはロング丈のオーバーサイズで、身体の線と一緒にしっぽがすっぽり隠れている。 彼が身につけているものは、すべて魔法の力によるものだ。 どうにかして耳としっぽを隠そうと、クローゼットからあれこれ服を取りだす操の横で、彼はファッション雑誌をめくっていた。その中から適当に見繕ったものを、魔法で見事に再現して見せたのだ。 よく似合うよと手を叩いて喜ぶ操に、甲洋は少し照れくさそうに笑っていた。 なんにせよ、これなら外を歩いても問題ない。なんの気兼ねもなく、二人は晴れた空の下を並んで歩いた。 なんだか不思議で新鮮だ。いつもは夜にしか会えない甲洋と、こうして明るい日差しの中にいることが。 「じゃーんけーんぽん! やった! ぼくの勝ち!」 裸ん坊の銀杏並木で、じゃんけんにパーで勝った操は「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と言いながら元気よく前に進んだ。 「こうやって先にゴールした方が勝ちだよ! じゃあ次、もう一回!」 じゃん、けん、ぽん。今度は甲洋がグーで勝つ。 「グーならグリコ! 3歩進んで!」 「わかった」 律儀にうなずいた甲洋が、小声で「グ、リ、コ」と言いながら大股で3歩進み、操の隣に並んでしまう。 「あっ、ズルいよ君! そんな全力で来ることないじゃん!」 「来主の歩幅が小さすぎるんじゃない?」 「言ったな!? ちょっと足が長いからって!」 リスのように頬を膨らませた操に、甲洋が肩を震わせて笑った。軽く握った右手を口元に添え、クツクツと笑い続ける姿につられ、操もつい噴きだしてしまう。 「あははっ! 楽しいね。子供のころを思いだすよ」 「来主はこうやって遊んでたんだね」 「うん、友達とね。こういう遊び、君はしたことないの?」 「しないよ。人間の子供たちがしてるのを見たことはあるけど」 「そうなんだ。よし、じゃあ続きしよ! じゃーんけーん」 まるで童心に帰ったようだ。ただの思いつきで始めたことだが、思いのほか興が乗ってしまった。長く伸びる並木道を、二人は最後まで競って進んだ。 「やったー! ぼくの勝ちだ!」 最後はじゃんけんに連続で勝利した操が先にゴールした。バンザイをして大喜びする操に、甲洋はふっと微笑み「おめでとう」と言った。 優しく目を細める笑い方に、頬がぽぅっと上気してしまう。この笑顔を平然と受け止めていた、かつての自分が信じられない。意識してしまうのをなんとか誤魔化そうとして、足元の小石をコツンと蹴った。 (これってデートしてることになるのかな? ぼくは楽しいからいいけど……) 操は甲洋の反応が気になった。デートといえば映画を見たり、雰囲気のあるレストランで食事をしたりするイメージがある。けれどいざ外に出てやっていることといえば、子供じみたじゃんけん遊びだ。結局どこへ行くかも決まっていないし、こんなことでいいのだろうか。 「ねぇ、君はどこか行きたいところとか、してみたいこととかないの? せっかくだし、普段できないこととかさ」 おずおずと上目遣いを向けた操に、甲洋はやんわりと首を振る。 「したいことなら今してる。来主がしたいことを一緒にするのが、俺のやりたいことだから」 「ほんとに? じゃあ、ちゃんと楽しいって思ってくれてる?」 「楽しいよ。すごく」 こんな簡単なことでいいのかと、つい拍子抜けしてしまう。だけどすぐに嬉しさがこみ上げて、操は顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべた。 「そっか! そういうことなら、今日はとことん付き合ってもらうからね!」 嬉しそうにうなずく甲洋。張り切って歩きだした操の歩調に、彼は寄り添うように合わせてくれる。歩幅の違いを見せつけられた後だけに、そのさりげなさがくすぐったい。 抑えきれないドキドキを持て余しながらも、操は甲洋と共に昼間の町を気ままに歩いた。 好きなブランドの靴や洋服を見てまわり、目についた喫茶店に片っ端から入って、スイーツを食べまくる。焼き立てのワッフルにフルーツタルト。苺のクリームソーダは色鮮やかで、豆から挽いたコーヒーは、インスタントとはやっぱり違った。 あーだこーだとよく喋る操に、甲洋はずっと楽しそうに相槌を打っていた。ときどき口の横についたクリームを拭ってもくれる。あまりにも甲斐甲斐しいものだから、わざと鼻の先にクリームをつけて見せたら、彼は珍しく声をあげて笑いながらもナプキンで拭ってくれた。 穏やかに流れるときを、二人は心から満喫した。こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう願うほどに操の口数はどんどん増えるし、甲洋は決して笑みを絶やさなかった。 「おいしかったー! もうお腹いっぱいだよ!」 帰り道。空は徐々に雲行きが怪しくなり、夕暮れ時の町を鉛色に沈めている。 辺りはぼんやりと薄暗く、吐く息は淡くて白い。裸ん坊の銀杏並木を歩きながら言った操に、甲洋も苦笑しながら「俺も」と言った。 「今夜はもうなにも食べられそうにないや。お腹がパンクしちゃうもん」 「そうだね」 「君はどれが一番好きだった? ぼくはカヌレ! 抹茶とキャラメルのさ」 「うん、俺も好きだよ。おいしかった」 「今度ぼくも作ってみようかな? そしたら──」 甲洋に食べてほしいと、そう言いかけて結局やめた。 だってもう彼のためにお菓子作りをすることはないのだ。何を作ろうかと、ウキウキしながら考えを巡らせることも。 「来主?」 ふと足を止めてしまった操に、甲洋が気づかわしげな視線を向けてきた。 「あっ、えっと……なんでもないよ。ごめん」 「……うん」 不自然な沈黙に、ギクシャクとした空気が流れはじめる。目を伏せた甲洋に、操もまた目をそらした。 (これじゃダメだ……もうあんまり時間がないのに……!) 操は甲洋への気持ちを自覚した。だけど朝日の中でその笑顔を見た瞬間、蓋をしようと決めたのだ。今日は思いきり楽しんで、最後は笑顔で送りだそうと。きっと甲洋もそれを望んでいるはずだから。 「ねぇ」 「なに?」 「もうちょっと付き合ってもらっていい? 行ってみたいお店があるんだ」 それは取ってつけたような、ただの思いつきでしかなかった。部屋に帰ればデートが終わる。そうしたら、きっと今よりもっと別れを意識してしまいそうで。だから少しでも今を引き伸ばしたかった。 甲洋の「喫茶店?」という問いかけに、操は少し焦りながら思考を巡らせる。今日一日で、この辺りの喫茶店は行き尽くしてしまった。腹具合にも余裕がない。 「えっと、えっと……あっ、そうだ! 雑貨屋さん! 前から気になってたんだけど、なかなか行く機会がなくて……ダメ?」 甲洋がゆるゆると首を振る。 「ダメなわけない。来主が行きたい場所に、俺も行きたいよ」 「ほんと!?」 うなずいた甲洋に、操はパッと花が咲いたように表情を明るくした。 「ありがとう! じゃあ行こう!」 甲洋の手を握り、グイグイと引っ張っていま来た道を引き返す。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに目元をやわらげた。 「甲洋、こっち! ほら早く!」 「わかったから。焦ると転ぶよ」 「手を繋いでたら平気だよ! だって君が助けてくれるもん! そうでしょ?」 操の言葉に、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔が、月夜の丘で見たものと重なる。あの頃は、別れの日が来るなんて想像すらしていなかった。 ふいに鼻の先がツンと痛んだ。泣くもんかと前を向き、甲洋の手を強く握りしめる。だけど同じだけの強さで握り返されると、やっぱり少しだけ、涙で景色が滲んでしまった。 ←戻る ・ 次へ→
「で、デート?」
甲洋の頼みに、操は目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。
「自由でいられるのは今だけだから。最後に来主と思い出づくりがしたいんだ」
ダメかな、と耳をしょんぼりさせる姿に慌てて首を振る。
「だ、ダメじゃないよ! ダメじゃないけど……」
甲洋の頼みなら、なんでも聞いてやりたいと思う。しかしそれはそれとして、操はどうしても腑に落ちないものを感じていた。
お姫様と結婚して、新しい王様になる。字面だけなら、まるでおとぎ話のハッピーエンドだ。けれど首輪をつけられ、一週間も監視されていた上に、王になれば自由はないと言う。そこに彼の意思はあるのだろうか。
「甲洋はそれでいいの? 誰かに命令されて結婚するとか、王様になるとか……それは、本当に君が望んでることなの?」
「来主……」
やっぱりぼくのせいだと、操は下唇を噛み締めた。
甲洋が掟を破ったのは、すべて自分を助けるためだ。落ち込んでいたときは慰めてくれた。危ないところを救ってくれた。そんなことさえしなければ、彼は今までもこれからも自由でいられたはずなのに。
「……逃げよう、甲洋」
「え?」
険しい表情で甲洋を見上げ、その両肩を強く掴んだ。
「一緒に逃げるんだよ! 大丈夫、ぼくが君を守るから!」
二人一緒なら、きっとどこへだって行ける。次は自分が甲洋を助ける番だ。
すると彼は一瞬だけ泣きそうに瞳を揺らした。けれどすぐに何事もなかったかのように笑顔を見せる。
「来主はなにか勘違いしてるよ」
「勘違い……?」
「王になるということは、ケット・シーにとって最大の名誉だ。誰もがその座を狙ってる」
「……君も?」
その通りだと、彼は大きく頷いた。
「だから王の決定に異存はない。お姫様も可愛い子だしね」
甲洋はヒョイと肩をすくめると、軽くウィンクして見せた。およそ彼らしくないおどけ方には、違和感しかない。
「なんか変だよ。君っぽくない」
「浮かれてるんだよ」
操はなおも言い募ろうとして口を開きかけたが、なにも言葉が出てこなかった。
所詮、人間の自分にケット・シーの世界のことなど分からない。彼がこれほど言うのだから、きっと願ってもないことなのだろう。他人が口出しする権利はないし、邪魔する道理だってない。
むしろもっと喜ぶべきなのだと、自分を納得させるしかなかった。
「……わかった。甲洋が本当にそれでいいなら」
胸がモヤモヤと苦しくて、喉に小骨が刺さったような感覚が抜けない。だけど操はそれを押し殺し、無理やりにでも明るい笑顔を取り繕った。
「でも、デートって? なにをしたらいいんだろう?」
甲洋がどこかホッとした様子で表情を和らげる。
「来主に任せるよ。俺は人間の娯楽に疎いし、デートなんてしたことないから」
「そっか。うん、わかった。じゃあちょっと考えてみるよ!」
甲洋が自由でいられるのは、明日の深夜0時までらしい。つまりこうして一緒にいられるのは、たった一日だけということだ。
*
その夜、ベッドに入る時間になっても、甲洋は猫の姿に戻らなかった。向き合う形で横になり、操を抱き寄せて腕枕すると「本当はずっとこうしたかったんだ」と嬉しそうに笑った。
したいならすればよかったのに。どうしてしなかったのかと聞いても、彼は操の額に鼻をコツンと触れさせるだけで、なにも言おうとしなかった。そしてすぐに眠ってしまった。
(甲洋、よっぽど疲れてたんだろうな……)
ずっと監視されていて、身動きが取れなかったのだ。心を休める暇もなかったのだろう。一週間ぶりに見た彼は、こころなしかやつれて見えた。
白い首にはまる首輪は、ただ無機質で痛々しいだけだ。鎖で繋ぐための金具が、間接照明に照らされてやけに鋭い光を放っている。これが彼の自由を奪う。
操の気持ちは漠然とした不安で淀み続けていた。一度は納得したつもりだけれど、どうしても心から祝福する気が起こらない。
だけど甲洋は名誉なことだと言った。みながその座を狙っていると。そして選ばれた彼は王になり、多くの仲間に慕われながら幸福な一生を送るのだ。
(……寂しいけど、ちゃんとお祝いしなくちゃ。王様になれるなんて凄いことだもん。可愛いお姫様とも結婚して──)
ふいに胸がズキンと痛んだ。そのまま一向に治まることなく、どんどん痛みが増えていく。操はぎゅっと目を閉じて、その痛みに気づかないふりをした。
残された時間はあとわずか。暗い気持ちでいたら、せっかくの思い出づくりが台無しになる。いま大切なのは、彼とどんな時間を過ごすかを考えることだ。
(だけどデートって……ぼくだってしたことないからわかんないよ)
そもそもの話、デートというのは恋人同士でするものではないのか。自分たちはそんな関係じゃないはずだ。大切な、ただの友達。なのに、彼はどうしてわざわざデートなんて言い方をしたんだろう。特に深い意味はないのだろうか。あるいは。
(そういう意味でぼくのことが好き、とか?)
想像したら心臓がドキッと跳ねて、なぜだか頬が熱くなる。耳たぶまで赤くなるのを感じながら、操は慌ててその考えを振り払った。
そんなことあるわけないし、あっても困る。なにがどう困るのか、自分でもよく分からないけど。変に意識してしまったことが恥ずかしかった。
(なに考えてんだろ。甲洋は友達なのに、バカみたい!)
押し出すように息をつき、操は目の前にある甲洋の寝顔を改めて見つめた。そういえば、人間の姿をした彼が眠っているのを見るのは初めてだ。
物珍しさにふと片手を伸ばし、疲れが滲む頬に触れてみた。そしてなにを思ったのか、自分でもよく分からないまま、うっすらと開いている唇を親指でなぞる。
(あったかい……唇ってこんなに柔らかいんだ……)
操が知っているのは猫の唇の感触だけだ。わずか一瞬で終わるキスのあと、彼は人間に変身していた。だから操の唇は、人の姿をした甲洋の唇を知らない。
触れ合わせたらどんな心地がするのだろうかと、そう思ったときには自然と引き寄せられていた。ぼうっと意識を煙らせながら、無防備な甲洋の唇に。
触れるか触れないかの、ささやかなキスをしていた。
「……ッ!」
重なり合ったその瞬間、風船が割れたようにハッとして我に返った。とっさに引っ込めた手を強く握って、自分の胸に押しつける。
ドキン、ドキン、と高鳴る胸の鼓動が、頭の中にまで響き渡った。火をつけたみたいに身体が熱い。じんじんと痺れて熱をこもらせる唇に、操はただ茫然とするしかなかった。
ゆっくりと、少しずつ。まるで厚い雲が晴れていくように。
隠されていた心の形が姿を現す。この燃えるような胸の高ぶりを、息もつけないほどのときめきを、操は確かに知っている。
(ぼくは……)
蒼くて静かな月の夜。彼と見た、あの丘の上の景色。星空のような夜景と、宝石を散りばめたように輝く海。細められた瞳に、蕩けそうな甘い笑顔。初めてその名を呼んだときから──。
(ぼくは甲洋のことが、男の人として好きだったんだ)
だから素直に喜べなかった。祝福できなかった。お姫様に嫉妬していた。甲洋が他の誰かのものになると知って、ようやく気づいた。自分の気持ちに。
だけどあまりに遅すぎた。こんな気持ちに、今さら気づいてしまったところで。
(もうどうしようもないじゃんか……!)
優しい腕の温もりが、今はただ残酷だ。甲洋の鎖骨のあたりに目元をうずめて、操は唇を噛み締めながら涙をこらえることしかできなかった。
──それからどれくらい経っただろう。
朝方、糸が切れたように少しだけ眠った。カーテンの隙間から白い光がこぼれさす頃、頬を撫でられる感覚に目を覚ます。
「おはよう」
操を腕枕したままの甲洋が、目を細めて微笑んでいた。寝ぼけたように瞬きを繰り返す操の頬を、楽しそうに指先でくすぐっている。
朝の光景に彼がいるのは初めてで、少し呆気にとられてしまう。けれど幸せそうな笑顔を見ていたら、操も釣られて笑顔になった。
「おはよ、甲洋」
「うん」
切ない想いが胸の内からこみ上げる。喉の奥をチリチリ焦がすようなその痛みを、操は知らんぷりして遠ざけた。今日は二人で初めてのデートをするのだ。結局なにをすればいいかはまだ決まっていないが、今は目の前にある楽しいことだけを考えていたかった。
今までも、そしてこれからも。ずっと変わらず、彼と友達でいるために。
*
それから軽く朝食をとり、二人は部屋を出た。
ベージュのダッフルコートに身を包む操の横には、カーキ色のコートにグレーのマフラーをして、黒いつば広ハットをかぶった甲洋の姿がある。コートはロング丈のオーバーサイズで、身体の線と一緒にしっぽがすっぽり隠れている。
彼が身につけているものは、すべて魔法の力によるものだ。
どうにかして耳としっぽを隠そうと、クローゼットからあれこれ服を取りだす操の横で、彼はファッション雑誌をめくっていた。その中から適当に見繕ったものを、魔法で見事に再現して見せたのだ。
よく似合うよと手を叩いて喜ぶ操に、甲洋は少し照れくさそうに笑っていた。
なんにせよ、これなら外を歩いても問題ない。なんの気兼ねもなく、二人は晴れた空の下を並んで歩いた。
なんだか不思議で新鮮だ。いつもは夜にしか会えない甲洋と、こうして明るい日差しの中にいることが。
「じゃーんけーんぽん! やった! ぼくの勝ち!」
裸ん坊の銀杏並木で、じゃんけんにパーで勝った操は「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と言いながら元気よく前に進んだ。
「こうやって先にゴールした方が勝ちだよ! じゃあ次、もう一回!」
じゃん、けん、ぽん。今度は甲洋がグーで勝つ。
「グーならグリコ! 3歩進んで!」
「わかった」
律儀にうなずいた甲洋が、小声で「グ、リ、コ」と言いながら大股で3歩進み、操の隣に並んでしまう。
「あっ、ズルいよ君! そんな全力で来ることないじゃん!」
「来主の歩幅が小さすぎるんじゃない?」
「言ったな!? ちょっと足が長いからって!」
リスのように頬を膨らませた操に、甲洋が肩を震わせて笑った。軽く握った右手を口元に添え、クツクツと笑い続ける姿につられ、操もつい噴きだしてしまう。
「あははっ! 楽しいね。子供のころを思いだすよ」
「来主はこうやって遊んでたんだね」
「うん、友達とね。こういう遊び、君はしたことないの?」
「しないよ。人間の子供たちがしてるのを見たことはあるけど」
「そうなんだ。よし、じゃあ続きしよ! じゃーんけーん」
まるで童心に帰ったようだ。ただの思いつきで始めたことだが、思いのほか興が乗ってしまった。長く伸びる並木道を、二人は最後まで競って進んだ。
「やったー! ぼくの勝ちだ!」
最後はじゃんけんに連続で勝利した操が先にゴールした。バンザイをして大喜びする操に、甲洋はふっと微笑み「おめでとう」と言った。
優しく目を細める笑い方に、頬がぽぅっと上気してしまう。この笑顔を平然と受け止めていた、かつての自分が信じられない。意識してしまうのをなんとか誤魔化そうとして、足元の小石をコツンと蹴った。
(これってデートしてることになるのかな? ぼくは楽しいからいいけど……)
操は甲洋の反応が気になった。デートといえば映画を見たり、雰囲気のあるレストランで食事をしたりするイメージがある。けれどいざ外に出てやっていることといえば、子供じみたじゃんけん遊びだ。結局どこへ行くかも決まっていないし、こんなことでいいのだろうか。
「ねぇ、君はどこか行きたいところとか、してみたいこととかないの? せっかくだし、普段できないこととかさ」
おずおずと上目遣いを向けた操に、甲洋はやんわりと首を振る。
「したいことなら今してる。来主がしたいことを一緒にするのが、俺のやりたいことだから」
「ほんとに? じゃあ、ちゃんと楽しいって思ってくれてる?」
「楽しいよ。すごく」
こんな簡単なことでいいのかと、つい拍子抜けしてしまう。だけどすぐに嬉しさがこみ上げて、操は顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべた。
「そっか! そういうことなら、今日はとことん付き合ってもらうからね!」
嬉しそうにうなずく甲洋。張り切って歩きだした操の歩調に、彼は寄り添うように合わせてくれる。歩幅の違いを見せつけられた後だけに、そのさりげなさがくすぐったい。
抑えきれないドキドキを持て余しながらも、操は甲洋と共に昼間の町を気ままに歩いた。
好きなブランドの靴や洋服を見てまわり、目についた喫茶店に片っ端から入って、スイーツを食べまくる。焼き立てのワッフルにフルーツタルト。苺のクリームソーダは色鮮やかで、豆から挽いたコーヒーは、インスタントとはやっぱり違った。
あーだこーだとよく喋る操に、甲洋はずっと楽しそうに相槌を打っていた。ときどき口の横についたクリームを拭ってもくれる。あまりにも甲斐甲斐しいものだから、わざと鼻の先にクリームをつけて見せたら、彼は珍しく声をあげて笑いながらもナプキンで拭ってくれた。
穏やかに流れるときを、二人は心から満喫した。こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう願うほどに操の口数はどんどん増えるし、甲洋は決して笑みを絶やさなかった。
「おいしかったー! もうお腹いっぱいだよ!」
帰り道。空は徐々に雲行きが怪しくなり、夕暮れ時の町を鉛色に沈めている。
辺りはぼんやりと薄暗く、吐く息は淡くて白い。裸ん坊の銀杏並木を歩きながら言った操に、甲洋も苦笑しながら「俺も」と言った。
「今夜はもうなにも食べられそうにないや。お腹がパンクしちゃうもん」
「そうだね」
「君はどれが一番好きだった? ぼくはカヌレ! 抹茶とキャラメルのさ」
「うん、俺も好きだよ。おいしかった」
「今度ぼくも作ってみようかな? そしたら──」
甲洋に食べてほしいと、そう言いかけて結局やめた。
だってもう彼のためにお菓子作りをすることはないのだ。何を作ろうかと、ウキウキしながら考えを巡らせることも。
「来主?」
ふと足を止めてしまった操に、甲洋が気づかわしげな視線を向けてきた。
「あっ、えっと……なんでもないよ。ごめん」
「……うん」
不自然な沈黙に、ギクシャクとした空気が流れはじめる。目を伏せた甲洋に、操もまた目をそらした。
(これじゃダメだ……もうあんまり時間がないのに……!)
操は甲洋への気持ちを自覚した。だけど朝日の中でその笑顔を見た瞬間、蓋をしようと決めたのだ。今日は思いきり楽しんで、最後は笑顔で送りだそうと。きっと甲洋もそれを望んでいるはずだから。
「ねぇ」
「なに?」
「もうちょっと付き合ってもらっていい? 行ってみたいお店があるんだ」
それは取ってつけたような、ただの思いつきでしかなかった。部屋に帰ればデートが終わる。そうしたら、きっと今よりもっと別れを意識してしまいそうで。だから少しでも今を引き伸ばしたかった。
甲洋の「喫茶店?」という問いかけに、操は少し焦りながら思考を巡らせる。今日一日で、この辺りの喫茶店は行き尽くしてしまった。腹具合にも余裕がない。
「えっと、えっと……あっ、そうだ! 雑貨屋さん! 前から気になってたんだけど、なかなか行く機会がなくて……ダメ?」
甲洋がゆるゆると首を振る。
「ダメなわけない。来主が行きたい場所に、俺も行きたいよ」
「ほんと!?」
うなずいた甲洋に、操はパッと花が咲いたように表情を明るくした。
「ありがとう! じゃあ行こう!」
甲洋の手を握り、グイグイと引っ張っていま来た道を引き返す。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに目元をやわらげた。
「甲洋、こっち! ほら早く!」
「わかったから。焦ると転ぶよ」
「手を繋いでたら平気だよ! だって君が助けてくれるもん! そうでしょ?」
操の言葉に、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔が、月夜の丘で見たものと重なる。あの頃は、別れの日が来るなんて想像すらしていなかった。
ふいに鼻の先がツンと痛んだ。泣くもんかと前を向き、甲洋の手を強く握りしめる。だけど同じだけの強さで握り返されると、やっぱり少しだけ、涙で景色が滲んでしまった。
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