2025/06/16 Mon 09 まどろみのなか、額や目尻に何かが触れた。 ツン、ツン、とキスをするように押し当てられる感触に、猫の鼻だとぼんやり思う。それはやがて頬にも触れて、ザラリとした舌で舐められた。愛情を示すくすぐったい動作に、操は目を閉じたまま小さく笑う。 「ありがとう、来主」 薄くぼやけたようになっている意識に、穏やかな声がじわりと染み込む。以前にもこんなことがあった気がして、ふと懐かしさが込み上げた。 「会えてよかった。幸せだったよ」 ぼくもだよと、そう伝えたいのに言葉がうまく出てこない。つづれ織る眠りの波が、駄々をこねる子供のように操の意識を離さなかった。 「好きだよ。離れていても、来主のことだけを想っているから」 (待って) 叫びたくても、やっぱり声がでなかった。本当にズルいと思う。操だって同じ気持ちだ。顔を見て、抱きしめて、ちゃんと想いを伝えたいのに。 (嫌だ……待って甲洋、行かないで……!) 少し濡れた感触が、鼻先にコツンと触れる。やがて彼は静かな声で、「さよなら、来主」と別れを告げた。 「──ずっと一緒にいたかった」 最後に唇にキスをして、気配は遠ざかっていく。チリン、というかすかな鈴の音だけを残して。 「お願い、待って!!」 溺れたように手を伸ばし、やっとの思いで喉から声を絞りだす。飛び起きた操の右手は、なにもない場所へと伸ばされているだけだった。 朝の光がさしこむ室内。いつもと変わらない、だけど昨日と違う朝の訪れ。小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。 「甲洋……?」 茫然としながら、乱れたシーツに目を落とす。甲洋の姿はどこにもない。消えたぬくもりの跡地には、ただポツポツと猫の毛が散らばっているだけだ。 首にはどんぐりのペンダント。身体中に残る口づけの痕。彼が確かにいた証。それらすべてが、二度と戻らない現実をまざまざと知らしめているようだった。 「ッ……」 操は一度ぎゅっと下唇を噛みしめると、乱暴に剥がしたシーツを身体にまとってベッドを抜けだした。勢いよく窓を開ければ、ベランダには雪が積もっている。構わず裸足で踏み込んで、手すりから身を乗りだした。 晴れた空の下、世界は白銀の絨毯を敷きつめたようになっている。桜の木の根元から、猫の足跡が点々と表通りに向かって伸びていた。 「……嘘つき」 ポツリとこぼしながら、視界がどんどん涙でぼやけた。 「甲洋の嘘つき! 本当は結婚なんかしたくないくせに! 王様になんかなりたくないくせに!」 ──ずっと一緒にいたかった。 「ぼくだって、ずっと一緒にいたかったのに……!」 雪まみれのベランダに力なく膝を折る。昨日までは傍にあったぬくもり。腕が痺れるのもお構いなしに、操を腕枕して朝を迎えた甲洋は、幸せそうに「おはよう」と言って笑っていた。 その笑顔が、今はずっと遠くにある。彼はもう、二度とここには訪れない。やがて溶けて消えゆくだけの、可愛くて儚い足跡だけを雪上に残して。 「自分ばっかりズルいよ……ぼくにも好きって、言わせてよ……」 冷えた四肢を震わせながら、操はただ泣き続けることしかできなかった。 * 一ヶ月が経過した。 その間にクリスマスや新年を迎え、短い冬休みが終わるとすぐに、操は新しくケーキ屋でバイトをはじめた。 前回までとは違い、おかしな店長もいなければ粘着質な客もいない。大好きなスイーツに囲まれながら、それなりに充実した日々を送ることができている。 だけどふとした瞬間、気づけばサビ猫の姿を探してしまう。 道端で、公園で、足を向けた先々で。部屋にいてさえ耳をすませて、窓枠を引っ掻く音を待っている自分がいた。残されたどんぐりを肌身離さず身につけながら、甲洋のことばかり考えて。寂しさと恋しさは、日に日に募っていくばかりだった。 そんなある夜のこと──。 ベランダからカツン、という音がした。 机に突っ伏していた操はハッとしながら顔をあげ、音の方へ目を向ける。窓枠を引っ掻く音ではなかったが、もしやという期待に胸が騒いだ。 急かされるように窓辺へ駆け寄り、勢いよくガラス戸を開けた。そして誰もいないベランダを見て、落胆しながら息を漏らす。 「バカだな。そんなわけないのに」 窓を閉めようとして、ふとベランダの隅に何かが落ちていることに気がついた。張り出した桜の枝のすぐ真下。なんだろう、と首を傾げながらベランダに踏みだすと、しゃがみこんで手を伸ばす。そして目を見開いた。 「ッ、これ……甲洋の……!?」 それは甲洋が首にしていた、あの黒い首輪だった。特殊な魔法が施されたものらしいが、なぜか強引に引き千切られたようになっている。 金具には操がつけたキーホルダーがぶら下がっていたが、キーリングだけが残された状態で、鈴はついていなかった。 「なんでこれがここに……?」 さっきのカツンという音は、これが投げ込まれた際のものだったに違いない。だけどなぜ? どうして肝心の甲洋の姿がどこにもないのだろう? 漠然とした胸騒ぎに動悸がする。いても立ってもいられなくなり、操は上着も着ないまま部屋を飛びだした。寮から出て、冬の寒空のした周囲を見回す。 (甲洋、君なの? 近くにいるの……!?) 無残に引き千切られた首輪が、なにを意味しているのかは分からない。だけどなんらかのメッセージであることだけは明白だ。 不安と焦りに襲われながら、操は弾かれたように駆けだした。まだ彼を『コーヒー』と呼んでいたころ。いなくなってしまった甲洋を探し回った、あの日のように。 * 凍てつく夜の町を駆け抜けて、サビ猫の姿を必死で探す。操の足はまるで引き寄せられるように、甲洋に連れてこられたあの丘の上へと向いていた。 「甲洋! ねぇ! いるなら返事して!」 呼びかけに応じる声はない。白く染まる息を忙しなく吐きだし、肩を上下させながら辺りを見渡す。そして一面に広がる景色に目を奪われた。 散りばめられた星の町。ぽっかりと浮かぶ丸い月。はるか向こうにはうっすらと輝く海が、一本の線のように走っている。もっと高い場所へ登れば、宝石の海がさらによく見渡せるだろう。あの日と同じ光景が、そこには広がっているはずだ。 「甲洋……」 最後にたどり着いたこの場所には、彼との思い出が横たわっているだけだった。あれほど胸を打たれたはずの景色が、今はただ切なくて悲しいだけだ。 操は手の中の首輪を強く握りしめた。裸ん坊の枝がザワザワと揺れ、乾いた音を立てている。 「どこにいるの……?」 芝生の地面に膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼす。彼はなにを伝えようとしていたのだろう。きっとどこかに答えがあるはずなのに。見つからないまま、これで終わってしまうのだろうか。 「ぼくは、どうしたらいいの……?」 詮無いことだと抑えこんできたものが、心のなかで瓦解する。喉の奥から衝き上げてくるようなその感情は、やり場のない後悔だった。 どうして無理やりにでも彼を引き止め、一緒に逃げなかったんだろう。 甲洋の心は揺れていた。名誉だなんだとおどけたように並び立て、全てを受け入れながら。本心では深い未練に囚われていた。知っていたのに。寝しなの無防備さだけが、彼を甘えたな子猫に戻す。その不器用ないじらしさを、知っていたのに。 「もう会えないなんて、そんなのやだよ……!」 もういちど会えたなら。今度こそ絶対に、その手を離したりはしないのに。 ──チリン そのときだった。かすかに鈴の音がして、操はハッと息を飲む。とっさに木の根元あたりに目をやると、冴えた月の光を弾いてなにかが一瞬キラリと光った。 引き寄せられるように、操は立ち上がると木の根元へと足を向けた。靴の先に鈴がぶつかり、またチリンと音を立てる。そこには横たわるサビ猫の姿があった。 「ッ、甲洋!?」 彼は木の影に身を潜め、ぐったりと意識を手放していた。崩れ落ちるようにして駆け寄って、その身体を膝に抱き上げる。 「甲洋! ねぇ甲洋! 甲洋……!!」 やっと見つけた。その喜びを噛みしめる間もなく、泣きながら懸命に呼びかける。しかしまるで死んだように返事がない。 首輪をしていた部分には、擦り切れたような傷がついていた。そこから滴る血がベッタリと手のひらに付着して、身体が芯から凍りつく。 「うそ……?」 ボサボサの長毛が、夜風に吹かれて揺れている。甲洋は目を覚まさない。 魂が抜けたように言葉を失い、絶句する。深い喪失感に、意識が地の底へ落ちていくようだった。心がバラバラに砕けたみたいに、崩れていくみたいに。 背中を丸め、彼を抱きしめながら嗚咽を漏らすことしかできなかった。 「──泣かなくていい」 すると、どこからか声がした。 「甲洋は無事だ」 ビクンと肩を揺らしながら、涙でぐしゃぐしゃの顔を辺りに巡らす。木の上に視線を向けようとした瞬間、凛とした声の主が「見るな。そのまま聞け」と言った。 「だ、誰……?」 「……僕は甲洋の友人だ」 「甲洋の? じゃあ、君も……?」 ケット・シーということだ。彼は甲洋と同様に、掟を破ってまで声を聞かせてくれている。だから操はそれ以上、声の主について深く尋ねることをやめた。 「甲洋は、本当に無事なの?」 「魔法である程度の処置はしてある。傷を完全に塞ぐ時間はなかったが、血はすでに止まっているはずだ」 操の膝の上で、甲洋は相変わらずぐったりしていた。けれどよく見れば、かすかにだが息をしている。手についた血は、まだ乾いていないものが付着してしまっただけのようだった。つまり操の早とちりである。 安堵が込み上げ、ドッと力が抜けてしまう。甲洋を抱きしめながら、「よかった」と声を搾りだすのがやっとだった。 「あの特殊な首輪は、王の魔力の塊だ。そうそう外すことはできない。だが甲洋は、それを命がけで引き千切った。首の怪我はその代償だ」 「首輪を、命がけで……?」 うなずく気配をさせながら、声の主がさらに続ける。 「本当なら、今ごろ結婚の儀が行われてるはずだった。しかし彼は王の命令を拒み、土壇場で姫との婚約を解消したんだ」 「!」 「よほどの心残りがあったんだろう」 操は目を見開きながら、腕の中で眠る甲洋を凝視した。 「王の怒りを買った彼は、ケット・シーの群れを追放された。だが、王がただで逃がすはずもない。甲洋は魔力を奪われ、さらに始末するための追手が放たれた」 淡々と告げられる事実に、操は愕然として声もでなかった。なんとか飲み込もうとするのだが、まるで壊れた機械のように処理能力が落ちている。 「追手の方はすでにカタがついている。心配しなくていい。だが……」 声の主が言いよどむ。なかなか口を開こうとしない彼の代わりに、操が呆然としながらも口を開いた。 「甲洋は、もう魔法が使えないってこと……?」 ためらうような沈黙のあと、声の主が「そうだ」と言った。 「そんな……」 命を奪おうとしただけでなく、魔力まで奪い去るなんて。まるで呪いだ。それは甲洋が、二度と人間に変身できないことを意味している。 けれど操は奥歯を噛み締め、打ちのめされた感情を飲み下した。こうして彼が戻ってきてくれただけで充分だ。他に望むものなどなにもなかった。 それはこの声の主が助けてくれたからに他ならない。深手を負い、魔力を失った甲洋だけでは、追手から逃れることはできなかっただろう。あの公園でボス猫の群れに襲われていたときのように、為す術もなかったはずだ。 ある程度の治療までしてくれたことから、彼もまた優秀なケット・シーであることがうかがえる。操は声の主を案じて眉根を寄せた。 「君は平気なの? もし王様にバレたら、君だって危ないんじゃ……?」 「僕のことより、今は自分の心配をしろ」 「え?」 「本来、正体を知った人間もただでは済まされない。甲洋が姫との結婚を承諾した理由もそれだ。しかしこうなった以上、無事は保証できないぞ」 それを聞いて、何度目か分からないショックを受けた。知らぬ間に、自分が人質になっていたなんて。甲洋は操を守るために王になることを決めたのだ。自らの自由と引き換えに。 けれど最後の最後で、心に嘘をつけなかったのだろう。決死の覚悟で、操のもとに帰ることを選択した。 「悪いことは言わない。なるべく早いうちに、この町を離れたほうがいい」 その方が無難だと言った声の主に、操は涙を拭いながらうなずいた。 「ありがとう。甲洋を助けてくれて」 ベランダに首輪を投げ込んだのも、おそらく彼だったのだろう。姿を見せることはできずとも、どうにかして知らせようとしてくれた。 「言っただろう。僕らにとって、甲洋は大切な友人だ」 「僕ら?」 彼の他にも、助けてくれた仲間がいるのだろうか。声の主は少しのあいだ黙り込み、やがておもむろに口を開くと「僕らにできるのはここまでだ」と言った。 「彼を頼む。どうか幸せにしてやってほしい」 張りつめた弦のように凛としていた声が、わずかに解けたように柔らかくなった。そしてそれを最後に、パタリとなにも聞こえなくなる。 訪れた静寂のなか、腕の中では冷えていた身体が少しずつ熱を取り戻しはじめていた。さっきより呼吸もしっかりしている。安堵からこみ上げた涙が、彼の鼻先にポツリと落ちた。 「おかえり、甲洋」 その確かなぬくもりに、嬉しさと愛しさが溢れだす。 ふさふさの頬に触れると、「大好き」と言ってキスをした。ありったけの想いを込めて。あの優しい笑顔の青年には、もう会えないけど。それでもいい。どんな姿をしていても、ずっと一緒にいられるのなら──。 すると大柄なサビ猫の身体が、キラキラと煌く粒子に包まれる。雪のように白い光を放ち、ゆっくりと青年の姿へ形を変えた。 「こうよう……?」 呆然と目を見開く操の胸に寄りかかり、大きな猫耳がピクンと動く。頬にかかる焦げ茶のくせ毛が、風に吹かれて揺れていた。 やがて長いまつ毛を震わせ、薄い瞼が開かれた。彼は幾度か瞬きをして、視線をさまよわせたあと操を見上げる。潤んだ瞳を細めて笑うと、少し掠れた声が「来主」と呼んだ。 「ッ、……!」 胸がいっぱいで、とっさに言葉が出なかった。まるで夢を見ているみたいだ。大粒の涙が溢れでて、操はくしゃりと顔を歪めた。そっと伸びてきた指先が、濡れた頬を優しくなぞる。そのあたたかさが、夢じゃないことを教えてくれた。 「ごめん、来主……やっぱり一緒に逃げてほしくて、戻ってきたよ」 「……ッ、だからそう言ったじゃん! 逃げようって言ったのに! 君ってば、ぜんぜん言うこと聞かないから……っ」 「うん。来主の言うこと、ちゃんと聞いておけばよかった」 「ばか!」 わっと泣き声をあげながら、しがみつくように甲洋を抱きしめた。彼はぺしゃりと両耳を伏せ、そんな操を抱き返す。 「もう絶対、絶対、君が嫌だって言っても……離さないから!」 うん、とうなずく甲洋の声が、泣きそうに震えていた。 「俺も離れない。来主と、ずっと一緒にいたいから」 涙に濡れた互いの瞳が、月の光に煌めいていた。白い首に痛々しい傷跡を残した甲洋が、愛おしそうに目を細める。そして「好きだよ、来主」と、言った。 「ぼくも。ぼくも好き。君のこと、世界で一番大好きだよ!」 操は泣き笑いの表情を浮かべて、可愛い猫耳の恋人に口づけた。 ←戻る ・ 次へ→
まどろみのなか、額や目尻に何かが触れた。
ツン、ツン、とキスをするように押し当てられる感触に、猫の鼻だとぼんやり思う。それはやがて頬にも触れて、ザラリとした舌で舐められた。愛情を示すくすぐったい動作に、操は目を閉じたまま小さく笑う。
「ありがとう、来主」
薄くぼやけたようになっている意識に、穏やかな声がじわりと染み込む。以前にもこんなことがあった気がして、ふと懐かしさが込み上げた。
「会えてよかった。幸せだったよ」
ぼくもだよと、そう伝えたいのに言葉がうまく出てこない。つづれ織る眠りの波が、駄々をこねる子供のように操の意識を離さなかった。
「好きだよ。離れていても、来主のことだけを想っているから」
(待って)
叫びたくても、やっぱり声がでなかった。本当にズルいと思う。操だって同じ気持ちだ。顔を見て、抱きしめて、ちゃんと想いを伝えたいのに。
(嫌だ……待って甲洋、行かないで……!)
少し濡れた感触が、鼻先にコツンと触れる。やがて彼は静かな声で、「さよなら、来主」と別れを告げた。
「──ずっと一緒にいたかった」
最後に唇にキスをして、気配は遠ざかっていく。チリン、というかすかな鈴の音だけを残して。
「お願い、待って!!」
溺れたように手を伸ばし、やっとの思いで喉から声を絞りだす。飛び起きた操の右手は、なにもない場所へと伸ばされているだけだった。
朝の光がさしこむ室内。いつもと変わらない、だけど昨日と違う朝の訪れ。小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
「甲洋……?」
茫然としながら、乱れたシーツに目を落とす。甲洋の姿はどこにもない。消えたぬくもりの跡地には、ただポツポツと猫の毛が散らばっているだけだ。
首にはどんぐりのペンダント。身体中に残る口づけの痕。彼が確かにいた証。それらすべてが、二度と戻らない現実をまざまざと知らしめているようだった。
「ッ……」
操は一度ぎゅっと下唇を噛みしめると、乱暴に剥がしたシーツを身体にまとってベッドを抜けだした。勢いよく窓を開ければ、ベランダには雪が積もっている。構わず裸足で踏み込んで、手すりから身を乗りだした。
晴れた空の下、世界は白銀の絨毯を敷きつめたようになっている。桜の木の根元から、猫の足跡が点々と表通りに向かって伸びていた。
「……嘘つき」
ポツリとこぼしながら、視界がどんどん涙でぼやけた。
「甲洋の嘘つき! 本当は結婚なんかしたくないくせに! 王様になんかなりたくないくせに!」
──ずっと一緒にいたかった。
「ぼくだって、ずっと一緒にいたかったのに……!」
雪まみれのベランダに力なく膝を折る。昨日までは傍にあったぬくもり。腕が痺れるのもお構いなしに、操を腕枕して朝を迎えた甲洋は、幸せそうに「おはよう」と言って笑っていた。
その笑顔が、今はずっと遠くにある。彼はもう、二度とここには訪れない。やがて溶けて消えゆくだけの、可愛くて儚い足跡だけを雪上に残して。
「自分ばっかりズルいよ……ぼくにも好きって、言わせてよ……」
冷えた四肢を震わせながら、操はただ泣き続けることしかできなかった。
*
一ヶ月が経過した。
その間にクリスマスや新年を迎え、短い冬休みが終わるとすぐに、操は新しくケーキ屋でバイトをはじめた。
前回までとは違い、おかしな店長もいなければ粘着質な客もいない。大好きなスイーツに囲まれながら、それなりに充実した日々を送ることができている。
だけどふとした瞬間、気づけばサビ猫の姿を探してしまう。
道端で、公園で、足を向けた先々で。部屋にいてさえ耳をすませて、窓枠を引っ掻く音を待っている自分がいた。残されたどんぐりを肌身離さず身につけながら、甲洋のことばかり考えて。寂しさと恋しさは、日に日に募っていくばかりだった。
そんなある夜のこと──。
ベランダからカツン、という音がした。
机に突っ伏していた操はハッとしながら顔をあげ、音の方へ目を向ける。窓枠を引っ掻く音ではなかったが、もしやという期待に胸が騒いだ。
急かされるように窓辺へ駆け寄り、勢いよくガラス戸を開けた。そして誰もいないベランダを見て、落胆しながら息を漏らす。
「バカだな。そんなわけないのに」
窓を閉めようとして、ふとベランダの隅に何かが落ちていることに気がついた。張り出した桜の枝のすぐ真下。なんだろう、と首を傾げながらベランダに踏みだすと、しゃがみこんで手を伸ばす。そして目を見開いた。
「ッ、これ……甲洋の……!?」
それは甲洋が首にしていた、あの黒い首輪だった。特殊な魔法が施されたものらしいが、なぜか強引に引き千切られたようになっている。
金具には操がつけたキーホルダーがぶら下がっていたが、キーリングだけが残された状態で、鈴はついていなかった。
「なんでこれがここに……?」
さっきのカツンという音は、これが投げ込まれた際のものだったに違いない。だけどなぜ? どうして肝心の甲洋の姿がどこにもないのだろう?
漠然とした胸騒ぎに動悸がする。いても立ってもいられなくなり、操は上着も着ないまま部屋を飛びだした。寮から出て、冬の寒空のした周囲を見回す。
(甲洋、君なの? 近くにいるの……!?)
無残に引き千切られた首輪が、なにを意味しているのかは分からない。だけどなんらかのメッセージであることだけは明白だ。
不安と焦りに襲われながら、操は弾かれたように駆けだした。まだ彼を『コーヒー』と呼んでいたころ。いなくなってしまった甲洋を探し回った、あの日のように。
*
凍てつく夜の町を駆け抜けて、サビ猫の姿を必死で探す。操の足はまるで引き寄せられるように、甲洋に連れてこられたあの丘の上へと向いていた。
「甲洋! ねぇ! いるなら返事して!」
呼びかけに応じる声はない。白く染まる息を忙しなく吐きだし、肩を上下させながら辺りを見渡す。そして一面に広がる景色に目を奪われた。
散りばめられた星の町。ぽっかりと浮かぶ丸い月。はるか向こうにはうっすらと輝く海が、一本の線のように走っている。もっと高い場所へ登れば、宝石の海がさらによく見渡せるだろう。あの日と同じ光景が、そこには広がっているはずだ。
「甲洋……」
最後にたどり着いたこの場所には、彼との思い出が横たわっているだけだった。あれほど胸を打たれたはずの景色が、今はただ切なくて悲しいだけだ。
操は手の中の首輪を強く握りしめた。裸ん坊の枝がザワザワと揺れ、乾いた音を立てている。
「どこにいるの……?」
芝生の地面に膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼす。彼はなにを伝えようとしていたのだろう。きっとどこかに答えがあるはずなのに。見つからないまま、これで終わってしまうのだろうか。
「ぼくは、どうしたらいいの……?」
詮無いことだと抑えこんできたものが、心のなかで瓦解する。喉の奥から衝き上げてくるようなその感情は、やり場のない後悔だった。
どうして無理やりにでも彼を引き止め、一緒に逃げなかったんだろう。
甲洋の心は揺れていた。名誉だなんだとおどけたように並び立て、全てを受け入れながら。本心では深い未練に囚われていた。知っていたのに。寝しなの無防備さだけが、彼を甘えたな子猫に戻す。その不器用ないじらしさを、知っていたのに。
「もう会えないなんて、そんなのやだよ……!」
もういちど会えたなら。今度こそ絶対に、その手を離したりはしないのに。
──チリン
そのときだった。かすかに鈴の音がして、操はハッと息を飲む。とっさに木の根元あたりに目をやると、冴えた月の光を弾いてなにかが一瞬キラリと光った。
引き寄せられるように、操は立ち上がると木の根元へと足を向けた。靴の先に鈴がぶつかり、またチリンと音を立てる。そこには横たわるサビ猫の姿があった。
「ッ、甲洋!?」
彼は木の影に身を潜め、ぐったりと意識を手放していた。崩れ落ちるようにして駆け寄って、その身体を膝に抱き上げる。
「甲洋! ねぇ甲洋! 甲洋……!!」
やっと見つけた。その喜びを噛みしめる間もなく、泣きながら懸命に呼びかける。しかしまるで死んだように返事がない。
首輪をしていた部分には、擦り切れたような傷がついていた。そこから滴る血がベッタリと手のひらに付着して、身体が芯から凍りつく。
「うそ……?」
ボサボサの長毛が、夜風に吹かれて揺れている。甲洋は目を覚まさない。
魂が抜けたように言葉を失い、絶句する。深い喪失感に、意識が地の底へ落ちていくようだった。心がバラバラに砕けたみたいに、崩れていくみたいに。
背中を丸め、彼を抱きしめながら嗚咽を漏らすことしかできなかった。
「──泣かなくていい」
すると、どこからか声がした。
「甲洋は無事だ」
ビクンと肩を揺らしながら、涙でぐしゃぐしゃの顔を辺りに巡らす。木の上に視線を向けようとした瞬間、凛とした声の主が「見るな。そのまま聞け」と言った。
「だ、誰……?」
「……僕は甲洋の友人だ」
「甲洋の? じゃあ、君も……?」
ケット・シーということだ。彼は甲洋と同様に、掟を破ってまで声を聞かせてくれている。だから操はそれ以上、声の主について深く尋ねることをやめた。
「甲洋は、本当に無事なの?」
「魔法である程度の処置はしてある。傷を完全に塞ぐ時間はなかったが、血はすでに止まっているはずだ」
操の膝の上で、甲洋は相変わらずぐったりしていた。けれどよく見れば、かすかにだが息をしている。手についた血は、まだ乾いていないものが付着してしまっただけのようだった。つまり操の早とちりである。
安堵が込み上げ、ドッと力が抜けてしまう。甲洋を抱きしめながら、「よかった」と声を搾りだすのがやっとだった。
「あの特殊な首輪は、王の魔力の塊だ。そうそう外すことはできない。だが甲洋は、それを命がけで引き千切った。首の怪我はその代償だ」
「首輪を、命がけで……?」
うなずく気配をさせながら、声の主がさらに続ける。
「本当なら、今ごろ結婚の儀が行われてるはずだった。しかし彼は王の命令を拒み、土壇場で姫との婚約を解消したんだ」
「!」
「よほどの心残りがあったんだろう」
操は目を見開きながら、腕の中で眠る甲洋を凝視した。
「王の怒りを買った彼は、ケット・シーの群れを追放された。だが、王がただで逃がすはずもない。甲洋は魔力を奪われ、さらに始末するための追手が放たれた」
淡々と告げられる事実に、操は愕然として声もでなかった。なんとか飲み込もうとするのだが、まるで壊れた機械のように処理能力が落ちている。
「追手の方はすでにカタがついている。心配しなくていい。だが……」
声の主が言いよどむ。なかなか口を開こうとしない彼の代わりに、操が呆然としながらも口を開いた。
「甲洋は、もう魔法が使えないってこと……?」
ためらうような沈黙のあと、声の主が「そうだ」と言った。
「そんな……」
命を奪おうとしただけでなく、魔力まで奪い去るなんて。まるで呪いだ。それは甲洋が、二度と人間に変身できないことを意味している。
けれど操は奥歯を噛み締め、打ちのめされた感情を飲み下した。こうして彼が戻ってきてくれただけで充分だ。他に望むものなどなにもなかった。
それはこの声の主が助けてくれたからに他ならない。深手を負い、魔力を失った甲洋だけでは、追手から逃れることはできなかっただろう。あの公園でボス猫の群れに襲われていたときのように、為す術もなかったはずだ。
ある程度の治療までしてくれたことから、彼もまた優秀なケット・シーであることがうかがえる。操は声の主を案じて眉根を寄せた。
「君は平気なの? もし王様にバレたら、君だって危ないんじゃ……?」
「僕のことより、今は自分の心配をしろ」
「え?」
「本来、正体を知った人間もただでは済まされない。甲洋が姫との結婚を承諾した理由もそれだ。しかしこうなった以上、無事は保証できないぞ」
それを聞いて、何度目か分からないショックを受けた。知らぬ間に、自分が人質になっていたなんて。甲洋は操を守るために王になることを決めたのだ。自らの自由と引き換えに。
けれど最後の最後で、心に嘘をつけなかったのだろう。決死の覚悟で、操のもとに帰ることを選択した。
「悪いことは言わない。なるべく早いうちに、この町を離れたほうがいい」
その方が無難だと言った声の主に、操は涙を拭いながらうなずいた。
「ありがとう。甲洋を助けてくれて」
ベランダに首輪を投げ込んだのも、おそらく彼だったのだろう。姿を見せることはできずとも、どうにかして知らせようとしてくれた。
「言っただろう。僕らにとって、甲洋は大切な友人だ」
「僕ら?」
彼の他にも、助けてくれた仲間がいるのだろうか。声の主は少しのあいだ黙り込み、やがておもむろに口を開くと「僕らにできるのはここまでだ」と言った。
「彼を頼む。どうか幸せにしてやってほしい」
張りつめた弦のように凛としていた声が、わずかに解けたように柔らかくなった。そしてそれを最後に、パタリとなにも聞こえなくなる。
訪れた静寂のなか、腕の中では冷えていた身体が少しずつ熱を取り戻しはじめていた。さっきより呼吸もしっかりしている。安堵からこみ上げた涙が、彼の鼻先にポツリと落ちた。
「おかえり、甲洋」
その確かなぬくもりに、嬉しさと愛しさが溢れだす。
ふさふさの頬に触れると、「大好き」と言ってキスをした。ありったけの想いを込めて。あの優しい笑顔の青年には、もう会えないけど。それでもいい。どんな姿をしていても、ずっと一緒にいられるのなら──。
すると大柄なサビ猫の身体が、キラキラと煌く粒子に包まれる。雪のように白い光を放ち、ゆっくりと青年の姿へ形を変えた。
「こうよう……?」
呆然と目を見開く操の胸に寄りかかり、大きな猫耳がピクンと動く。頬にかかる焦げ茶のくせ毛が、風に吹かれて揺れていた。
やがて長いまつ毛を震わせ、薄い瞼が開かれた。彼は幾度か瞬きをして、視線をさまよわせたあと操を見上げる。潤んだ瞳を細めて笑うと、少し掠れた声が「来主」と呼んだ。
「ッ、……!」
胸がいっぱいで、とっさに言葉が出なかった。まるで夢を見ているみたいだ。大粒の涙が溢れでて、操はくしゃりと顔を歪めた。そっと伸びてきた指先が、濡れた頬を優しくなぞる。そのあたたかさが、夢じゃないことを教えてくれた。
「ごめん、来主……やっぱり一緒に逃げてほしくて、戻ってきたよ」
「……ッ、だからそう言ったじゃん! 逃げようって言ったのに! 君ってば、ぜんぜん言うこと聞かないから……っ」
「うん。来主の言うこと、ちゃんと聞いておけばよかった」
「ばか!」
わっと泣き声をあげながら、しがみつくように甲洋を抱きしめた。彼はぺしゃりと両耳を伏せ、そんな操を抱き返す。
「もう絶対、絶対、君が嫌だって言っても……離さないから!」
うん、とうなずく甲洋の声が、泣きそうに震えていた。
「俺も離れない。来主と、ずっと一緒にいたいから」
涙に濡れた互いの瞳が、月の光に煌めいていた。白い首に痛々しい傷跡を残した甲洋が、愛おしそうに目を細める。そして「好きだよ、来主」と、言った。
「ぼくも。ぼくも好き。君のこと、世界で一番大好きだよ!」
操は泣き笑いの表情を浮かべて、可愛い猫耳の恋人に口づけた。
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