2025/06/16 Mon 03 気持ちいいなぁと操は思った。 ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。 身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。 「ふぁ~、よく寝たぁ」 あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。 広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。 「ここどこぉ?」 見慣れない景色に首をかしげる。 操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。 「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」 どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。 急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。 あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても── 「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」 操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。 どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。 「嘘!? いつのまに!?」 操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。 (ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!) まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。 寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。 しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。 (に、逃げなきゃ!) 明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。 パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。 「なにこれ……?」 それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。 もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。 「目が覚めた?」 「ッ……!?」 すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。 見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。 「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」 「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」 操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。 「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」 タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。 ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。 「リンゴ、もしかして嫌いだった?」 「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」 本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。 だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。 しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。 (っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?) 現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。 あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき―― 『ワウッ! ワウワウッ!!』 主の危機を察知して、またあの犬が現れた。 「ひいぃっ!?」 操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。 肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。 (逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!) 一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。 震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。 「た、助かった……」 はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。 * 「お腹がすいて力がでない……」 人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。 真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。 こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。 茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。 「もう帰るしかないのかな」 勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。 「そんなのやだ……」 叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると── 「……ん?」 どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。 「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」 なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。 操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。 しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。 「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」 気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。 するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。 (わかった! ここはお店屋さんなんだ!) どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。 カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。 (いいな……ぼくも食べたい……) 口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。 「よーし、こうなったら!」 操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。 「やったぁ! 大成功!」 葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。 「ぼくってやっぱり天才だ!」 腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。 * 「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」 少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。 青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。 「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」 すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。 これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。 「へ?」 「足。具合は?」 人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。 思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。 「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」 「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」 「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」 「それがなに?」 操はとっさに何も返すことができなかった。 青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。 (すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ) 里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。 食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。 「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」 この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。 なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。 「……そう。ならよかった」 青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。 「それで? 注文は?」 ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。 「そうだった!」 慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。 操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。 「あれ! あれがいい!」 「一騎カレー?」 「そう! かずきかれー!」 あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。 「いいけど、お金は持ってるの?」 「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」 よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。 青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。 「残念だけど、これじゃなにも提供できない」 「え? なんで?」 「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」 「えぇ!?」 青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。 けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。 「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」 「駄目だ」 「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」 「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」 「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」 操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。 見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。 「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」 「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」 『ガウッ!!』 「ひょわ!?」 青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。 『ガウガウッ! ガウッ!!』 「わあぁっ……!? また出たぁ!」 慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。 「甲洋、どうかしたのか?」 カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。 『ウウゥゥ……ワウッ!!』 「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」 今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。 騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。 ←戻る ・ 次へ→
気持ちいいなぁと操は思った。
ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。
身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。
「ふぁ~、よく寝たぁ」
あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。
広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。
「ここどこぉ?」
見慣れない景色に首をかしげる。
操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。
「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」
どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。
急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。
あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても──
「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」
操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。
どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。
「嘘!? いつのまに!?」
操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。
(ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!)
まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。
寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。
しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。
(に、逃げなきゃ!)
明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。
パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。
「なにこれ……?」
それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。
もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。
「目が覚めた?」
「ッ……!?」
すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。
見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。
「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」
「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」
操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。
「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」
タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。
ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。
「リンゴ、もしかして嫌いだった?」
「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」
本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。
だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。
しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。
(っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?)
現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。
あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき――
『ワウッ! ワウワウッ!!』
主の危機を察知して、またあの犬が現れた。
「ひいぃっ!?」
操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。
肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。
震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。
「た、助かった……」
はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。
*
「お腹がすいて力がでない……」
人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。
真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。
こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。
茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。
「もう帰るしかないのかな」
勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。
「そんなのやだ……」
叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると──
「……ん?」
どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。
「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」
なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。
操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。
しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。
「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」
気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。
するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。
(わかった! ここはお店屋さんなんだ!)
どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。
カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。
(いいな……ぼくも食べたい……)
口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。
「よーし、こうなったら!」
操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!」
葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。
「ぼくってやっぱり天才だ!」
腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。
*
「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」
少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。
青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。
「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」
すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。
これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。
「へ?」
「足。具合は?」
人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。
思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。
「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」
「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」
「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」
「それがなに?」
操はとっさに何も返すことができなかった。
青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。
(すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ)
里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。
食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。
「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」
この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。
なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。
「……そう。ならよかった」
青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。
「それで? 注文は?」
ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。
「そうだった!」
慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。
操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。
「あれ! あれがいい!」
「一騎カレー?」
「そう! かずきかれー!」
あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。
「いいけど、お金は持ってるの?」
「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。
青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。
「残念だけど、これじゃなにも提供できない」
「え? なんで?」
「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」
「えぇ!?」
青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。
けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。
「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」
「駄目だ」
「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」
「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」
「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」
操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。
見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。
「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」
「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」
『ガウッ!!』
「ひょわ!?」
青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。
『ガウガウッ! ガウッ!!』
「わあぁっ……!? また出たぁ!」
慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。
「甲洋、どうかしたのか?」
カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。
『ウウゥゥ……ワウッ!!』
「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」
今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。
騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。
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