ファイが部屋に鍵をかけ、閉じこもったまま出てこなくなってから、二日目の朝が来た。
ちょうど二日前の昼食までは変わりなかったはずなのに、一体彼に何があったのか。
あの日は確か、ファイは午後から黒鋼と庭で薔薇の花壇の側にいたはずだった。
けれど屋敷に一人で戻って来た彼は、少し顔色が悪いようだった。お茶の準備が出来たことを知らせても、ファイは「後で」とだけ言って、そのまま部屋から出てこなくなってしまった。
「ファイさん……」
ファイの部屋の前で、前の夜から置き去りにされたままのカートと、全く手のつけられていない食事が、冷え切った状態で放置されている。
毎朝ファイの髪を結いに来ることが日課になっていたサクラは、扉の向こうにいるはずの彼を思って、溜息をついた。
彼はこうして朝昼晩と食事を運んで来ても、一向に手をつける様子がない。
顔色が優れないようだったから、風邪でも引いたのだろうか。それならば尚のこと、栄養はきっちりと摂らなければ。
サクラは緩く握った指で、一瞬戸惑ったあと扉をノックした。
「ファイさん? おはようございます。サクラです」
眠っているのだろうか?
けれど暫しの沈黙のあと、元気のない声が「はい」と答えた。
「ファイさん、大丈夫ですか? ご飯……食べなくちゃ……」
「……ごめん。もう少し休んだら、多分平気になるから」
「でも……」
「ごめんね、サクラちゃん」
それきり、何を語りかけても彼からの返事は得られなかった。
サクラは俯き、白いフリルのついたエプロンの胸元をきゅっと握りしめた。
黒鋼でさえ駄目なのだから。自分にこのドアを開かせるだけの力などないことは、分かっているつもりだった。
ファイが目覚めてから、そろそろ半年以上になるだろうか。
彼は黒鋼と同じ大人の男性だけれど、なぜか打ち解けるにつれて同年代の、同性の友達が出来たみたいな、そんな安心感と楽しさがあった。
小狼への想いも、ファイになら話すことができた。金色の、綿菓子みたいに柔らかな髪に、毎朝触れることが出来るのも嬉しくて。
時々「お返しだよ」と言って、サクラの寝癖を優しく梳かしてくれたりもした。
サクラにとって黒鋼が頼もしい『お父さん』のような存在なら、ファイはなんでも話せる友達であると同時に『お母さん』のようにも感じられていた。
たったの二日。けれど、何も飲まず食わずでいるファイの身体が心配で、何も手につかない。
彼が眠っていた頃はこれが日常だったのに、お喋りが出来ないことや、その笑顔が見れないのが、こんなにも辛くて悲しい。
小狼も黒鋼も、ほとほと頭を痛めている。
黒鋼に至っては苛立ちがピリピリと伝わってきて、怖いくらいだった。
いつの間にか、ファイはこの屋敷で太陽のような存在になっていたのだ。
『あと一日この状態だったら、力づくでも引っ張り出す』
サクラよりも先にこの扉を叩いたらしい黒鋼が、低い声で言っていた。
今日一日ファイがこんな状態なら、明日の朝にはきっと黒鋼は強引な手段に出るつもりでいるのだ。
出来ることなら黒鋼にそんな真似をさせたくない。彼が誰よりもファイを思っていることを、サクラは知っているから。胸が痛んで仕方がなかった。
「また……」
サクラは少しでもファイの気分が良くなるようにと気持ちを込めて、出来る限りの明るい声で言った。
「また、みんなでお外でお茶しましょうね。ファイさん」
それから、無駄かもしれないと知りつつも「朝ごはん、持ってきますね」と言い残し、カートを引きながらその場を去った。
***
シーツに包まったまま身動きできないでいるファイの耳には、サクラの言葉がしっかりと届いていた。
唇だけ動かして「ごめん」と呟きながら、ぎゅっと強く目を閉じる。
食事時だけでなく、こうして日に何度も部屋のドアは叩かれた。
サクラだけではない。小狼と、黒鋼と。先刻、サクラよりも前にやって来た黒鋼は、流石に苛立ちを隠せないようだった。
『どうしたんだ』
『具合が悪いのか』
『ここを開けろ』
『いい加減に出てきたらどうだ』
何を聞かれても、黒鋼に対してだけは何も答えられなかった。なぜか息苦しくなり、声が出なくなってしまう。
どうしてこんなことをしているのだろう。ふと正気に戻るときがある。
二日前、断片的にではあるが過去の記憶を取り戻してしまったファイは、そのときから時間が止まっていた。
カーテンの閉め切られた窓際のテーブルには、萎れてしまった薔薇が一輪、ぽつりと置かれている。それだけが、確実に時間が流れていることを知らしめているようで、今のファイにはもう触れることさえ出来ない。
昼下がりの庭で、棘の落とされた純白の薔薇を黒鋼が差し出してくれた、あの瞬間。本当に嬉しくて、幸せだった。
それがたった一瞬にして壊れてしまった。
薔薇なんか、くれなければよかったのに。彼の優しさが、愛情が、皮肉にもファイの中で守られてきた秩序を壊してしまった。
何より恐ろしいのは『今』を懸命に守ろうとしてくれているはずの黒鋼と触れあうことで、これ以上の余計な記憶が呼び覚まされることだった。
これまでずっと大丈夫だった。これからも、もうあのようなことは二度とないかもしれない。だが、保障はどこにもない。
空腹も喉の渇きも、どこかへ遠くへ行ってしまった。
今はただ、何も知らずにただ黒鋼と、皆といた時間に戻りたい。
朝にはサクラがやって来て、髪を好きにいじらせて、朝食をとって。のんびりと昼まで散歩をしたり、サクラとお喋りをしたり、黒鋼に甘えたり。
たった半年。それでもゆったりとした時の流れの中で、毎日がとても穏やかだった。
例え何を思い出してしまったとしても、黒鋼にさえ悟られなければ、上手くいくかもしれない。
今だって、こんなバカな真似をしているせいで、もしかしたら彼に勘付かれてしまっているかもしれないのに。
今になってふと後悔する。気付かないふりをしていればよかった。上手くやれる自信はなくても、ファイには守らなければならないものがあったはずだ。
けれどあの日、あの瞬間。
ファイの中には黒鋼を手放さなければならないことへの恐れと、同時にどす黒い感情が芽生えてしまった。
(思い出したくない)
それが黒鋼を満たし、満たされ、繋ぎとめるための対価だから。
(思い出したい)
黒鋼の過去を知っているのは、過去の自分だけだから。
過去にもああして黒鋼から薔薇を受け取った『他人』がいる。
今のファイにとってそんな過去の自分など、赤の他人も同然に感じられたのだ。自分自身としてイコールで繋がらない。思い出すことと、知ってしまうことは違うから。
この歪んだ感情がどれほど愚かなものか、誰よりも知っているのはファイ自身だった。
けれどいつだって、感情はファイを置き去りにする。自分の中で整理する前に、前へ前へと先走ってしまう。
考えることを止めてしまったファイには、追いつこうにも手さえ伸ばせない。ただこうして暗い部屋の中で、震えることしかできないのだ。
傍にいてほしいのはたった一人だけなのに。触れられない。姿を見ることもできない。気が狂いそうなくらい寂しくて、縋りつきたいのに、それが怖くてたまらなかった。
もし全てを思い出してしまったら。それを黒鋼に知られたら。
彼はどうするのだろう。これまでが嘘みたいに、こちらに背を向け、消えてしまうのだろうか。自分など、必要なくなってしまうのだろうか。
あの嵐の夜。黒鋼の帰宅が遅れた、あの夜。
彼は確かに誓った。ファイのものであることを。それが今、恐れとなって揺らぎを見せている。
けれど同時に異常なまでの彼への独占欲が、ファイを歪めていく。
自分自身を殺したいくらい憎むほどに。
ならどうすればいい?
このままこうしていても埒があかない。
下手をしたら、強引に部屋の扉を破ることくらい、彼ならやってのけるかもしれない。
シーツをさらに引き上げる。何も考えられない。考えない。考えたくない。
眠れもしないのに、ファイは現実から逃避することに躍起になった。
リミットは明日の朝までだということを、ファイは知らない。
けれど結果的に、黒鋼がファイの部屋の扉をこじ開けることはなかった。
日暮間近に玄関ホールで電話が鳴った。受けたのは小狼。
それは黒鋼の母の容体が急変したという知らせだったのだ。
*
重いノック音がした。
いつの間にか眠っていたファイは、その音に暗い室内で目を覚ました。
小狼、サクラ、黒鋼。三人が三人とも、ノックの仕方やその音もまるで違う。
だからファイにはこのノック音が誰のものか、声を聞かずともすぐにわかった。
緊張に身を硬くしながら、ゆっくりと起き上る。
長い時間ベッドで丸くなってばかりいたせいで身体がだるく、節々が少し痛んだ。
「俺だ」
やっぱり。
ファイは俯くと、ぐしゃぐしゃのシーツを抱き寄せる。
扉の向こうの黒鋼はそれきり、少しの間沈黙した。
シーツを抱いたままファイが顔を上げ、扉を見やると、まるで見えているのかのようなタイミングで彼は続けた。
「お袋の容体が急変した。今から行ってくる」
「……!」
ファイは無意識にベッドから抜け出し、扉の側へゆっくりと近付いていた。躊躇いがちに、冷たい隔たりに手を伸ばし、触れた。
「いつ戻れるかわからねぇ」
感情を押し殺したような声。本当なら何を差し置いてでも、今すぐ屋敷を飛び出したいはずの彼は、ファイが謀反を起こしてもなお忠実だ。
複雑な思いが渦巻いているのは、きっと黒鋼も同じだった。硬質な扉を通してもそれが分かるから、ファイは唇を噛む。
「そこにいるんだろ」
「…………うん」
「まだ顔出す気にはなれねぇか」
ファイは答えられなかった。今すぐ扉を開けて、彼に縋りついて、心配させてごめんねと、別になんでもないからと。無様でもいい。言い訳ができたなら。
いってらっしゃいと言って笑うことさえできれば、何もかもが元通りになるかもしれない。
その淡く浅はかな願いが、ファイの胸を締め付ける。
「黒たん、オレ……」
「……できれば、顔が見たい」
「…………」
多分、何も難しいことはない。鍵を開けて、ドアノブに触れて、それを回せばいいだけの話だ。
けれどファイにはそれができなかった。彼のささやかな願いを聞き入れることが、どうしても。縋りついたのは温かな腕の中ではなく、固く冷えた木の扉だった。
「行かないで」
扉に額を擦りつける。
「どこにも行かないで……」
違う。こんなことが言いたいのではない。なのに、自分勝手な言葉が溢れて止まらない。
「オレを置いて、行かないでよ……」
黒鋼は何も言わなかった。彼がいま何を考え、どんな顔をしているのか、自らの意思でここを閉ざしているファイに、それを知る術はない。
ただ押し黙られることで、酷く責められているような気がした。こんな自分が、無様で惨めで仕方ない。
やがて永遠にも思えるひとときの間を開けて、黒鋼が低く呟いた。
「戻ったら、全部聞く」
「っ……」
「全部だ。いいな」
「黒たん……!」
気配が遠のくのを感じた。同時に足音が遠ざかる。ファイは咄嗟に彼の名を呼び、鍵を開けると扉を開けた。
あれほど難しく感じていたことが、こんなにもあっさりとしていて簡単なことだったのだと、今さら思い知ったところでもう遅いように思えた。
それでも名を呼ばずにいられなかった。
「待って! 黒たん……!」
部屋を飛び出す。廊下の向こう、彼の背中が小さくなっていくのが見える。
ファイはその背に手を伸ばした。けれど気持ちだけが先走り、力の入らない足が縺れて膝をついていた。
ファイが扉を開けたことを、彼は知っていたはずだった。けれど振り返らなかった。
やがて消えてしまった背中に向かって、伸ばし続けていた手をガクリと床に落とす。
ただへたり込み、震えながらただ一人、勝手に打ちのめされていた。
*
「ファイさんには……?」
玄関ホールで黒鋼に上着を手渡しながら、小狼は聞いた。
「言った」
彼はそう短く答えると、受け取った上着に袖を通す。
小狼がそれ以上のことを訪ねようとする前に、黒鋼は背を向けて扉のノブに手をかけた。
「黒鋼さん……」
「帰りはいつになるかわからねぇ。……頼んだぞ」
背を向けたまま、黒鋼は僅かにこちらに顔を向けて言った。その言葉には幾つもの意味が込められている。
その大部分を占めているのはファイのこと。そして、鍵のことだ。
小狼が神妙に頷くと、彼は本当に僅かだが目元を和らげた。小さく頷きながら、囁くような声でもう一度「頼む」とだけ言い残し、彼は出て行った。
ホールに一人残されると、大きな古時計が時を刻む音だけが、大きく響き渡っていた。
ふと、ファイの部屋がある通路の扉に目をやる。
あれほど黒鋼にべったりだったファイが、もう二日も閉じこもったまま出てこない。
黒鋼が何か大きな秘密を一人で抱え込んでいることは知っていた。もちろん、それが何かは知らされていないが。
ただ、おそらく同じ立場でも、さくらよりは知らされているものが多少はある。その程度だ。
ファイが目覚め、少しずつその行動の範囲を広めてきたころ、小狼は黒鋼から一つの鍵を預かった。
それはファイの部屋とは反対側にある通路の、一番突き当りに位置する部屋の鍵だった。
それまでは黒鋼が肌身離さず持ち歩いていたのだと思う。けれどファイは彼に四六時中張り付いていたし、すっかり遊び場と化している屋敷の中、しょっちゅう黒鋼の部屋にも入り込んでいた。
『保管の仕方は任せる。だが、絶対に誰にも渡すな。あいつにもだ』
小狼もさくらも、元々あの部屋へ入ることは禁じられていた。だから何があるのかは知らない。今はまだ、知る必要もないと思っている。
だが黒鋼は誰よりも、ファイがあの部屋へ近づくことを恐れているようだった。
小狼はひとつ溜息をつく。
せめて黒鋼が戻る頃には、何もかもが元通りになっていることを、彼の母親の容体が落ち着くことと同時に、ただ祈るばかりだった。
←戻る ・ 次へ→
ちょうど二日前の昼食までは変わりなかったはずなのに、一体彼に何があったのか。
あの日は確か、ファイは午後から黒鋼と庭で薔薇の花壇の側にいたはずだった。
けれど屋敷に一人で戻って来た彼は、少し顔色が悪いようだった。お茶の準備が出来たことを知らせても、ファイは「後で」とだけ言って、そのまま部屋から出てこなくなってしまった。
「ファイさん……」
ファイの部屋の前で、前の夜から置き去りにされたままのカートと、全く手のつけられていない食事が、冷え切った状態で放置されている。
毎朝ファイの髪を結いに来ることが日課になっていたサクラは、扉の向こうにいるはずの彼を思って、溜息をついた。
彼はこうして朝昼晩と食事を運んで来ても、一向に手をつける様子がない。
顔色が優れないようだったから、風邪でも引いたのだろうか。それならば尚のこと、栄養はきっちりと摂らなければ。
サクラは緩く握った指で、一瞬戸惑ったあと扉をノックした。
「ファイさん? おはようございます。サクラです」
眠っているのだろうか?
けれど暫しの沈黙のあと、元気のない声が「はい」と答えた。
「ファイさん、大丈夫ですか? ご飯……食べなくちゃ……」
「……ごめん。もう少し休んだら、多分平気になるから」
「でも……」
「ごめんね、サクラちゃん」
それきり、何を語りかけても彼からの返事は得られなかった。
サクラは俯き、白いフリルのついたエプロンの胸元をきゅっと握りしめた。
黒鋼でさえ駄目なのだから。自分にこのドアを開かせるだけの力などないことは、分かっているつもりだった。
ファイが目覚めてから、そろそろ半年以上になるだろうか。
彼は黒鋼と同じ大人の男性だけれど、なぜか打ち解けるにつれて同年代の、同性の友達が出来たみたいな、そんな安心感と楽しさがあった。
小狼への想いも、ファイになら話すことができた。金色の、綿菓子みたいに柔らかな髪に、毎朝触れることが出来るのも嬉しくて。
時々「お返しだよ」と言って、サクラの寝癖を優しく梳かしてくれたりもした。
サクラにとって黒鋼が頼もしい『お父さん』のような存在なら、ファイはなんでも話せる友達であると同時に『お母さん』のようにも感じられていた。
たったの二日。けれど、何も飲まず食わずでいるファイの身体が心配で、何も手につかない。
彼が眠っていた頃はこれが日常だったのに、お喋りが出来ないことや、その笑顔が見れないのが、こんなにも辛くて悲しい。
小狼も黒鋼も、ほとほと頭を痛めている。
黒鋼に至っては苛立ちがピリピリと伝わってきて、怖いくらいだった。
いつの間にか、ファイはこの屋敷で太陽のような存在になっていたのだ。
『あと一日この状態だったら、力づくでも引っ張り出す』
サクラよりも先にこの扉を叩いたらしい黒鋼が、低い声で言っていた。
今日一日ファイがこんな状態なら、明日の朝にはきっと黒鋼は強引な手段に出るつもりでいるのだ。
出来ることなら黒鋼にそんな真似をさせたくない。彼が誰よりもファイを思っていることを、サクラは知っているから。胸が痛んで仕方がなかった。
「また……」
サクラは少しでもファイの気分が良くなるようにと気持ちを込めて、出来る限りの明るい声で言った。
「また、みんなでお外でお茶しましょうね。ファイさん」
それから、無駄かもしれないと知りつつも「朝ごはん、持ってきますね」と言い残し、カートを引きながらその場を去った。
***
シーツに包まったまま身動きできないでいるファイの耳には、サクラの言葉がしっかりと届いていた。
唇だけ動かして「ごめん」と呟きながら、ぎゅっと強く目を閉じる。
食事時だけでなく、こうして日に何度も部屋のドアは叩かれた。
サクラだけではない。小狼と、黒鋼と。先刻、サクラよりも前にやって来た黒鋼は、流石に苛立ちを隠せないようだった。
『どうしたんだ』
『具合が悪いのか』
『ここを開けろ』
『いい加減に出てきたらどうだ』
何を聞かれても、黒鋼に対してだけは何も答えられなかった。なぜか息苦しくなり、声が出なくなってしまう。
どうしてこんなことをしているのだろう。ふと正気に戻るときがある。
二日前、断片的にではあるが過去の記憶を取り戻してしまったファイは、そのときから時間が止まっていた。
カーテンの閉め切られた窓際のテーブルには、萎れてしまった薔薇が一輪、ぽつりと置かれている。それだけが、確実に時間が流れていることを知らしめているようで、今のファイにはもう触れることさえ出来ない。
昼下がりの庭で、棘の落とされた純白の薔薇を黒鋼が差し出してくれた、あの瞬間。本当に嬉しくて、幸せだった。
それがたった一瞬にして壊れてしまった。
薔薇なんか、くれなければよかったのに。彼の優しさが、愛情が、皮肉にもファイの中で守られてきた秩序を壊してしまった。
何より恐ろしいのは『今』を懸命に守ろうとしてくれているはずの黒鋼と触れあうことで、これ以上の余計な記憶が呼び覚まされることだった。
これまでずっと大丈夫だった。これからも、もうあのようなことは二度とないかもしれない。だが、保障はどこにもない。
空腹も喉の渇きも、どこかへ遠くへ行ってしまった。
今はただ、何も知らずにただ黒鋼と、皆といた時間に戻りたい。
朝にはサクラがやって来て、髪を好きにいじらせて、朝食をとって。のんびりと昼まで散歩をしたり、サクラとお喋りをしたり、黒鋼に甘えたり。
たった半年。それでもゆったりとした時の流れの中で、毎日がとても穏やかだった。
例え何を思い出してしまったとしても、黒鋼にさえ悟られなければ、上手くいくかもしれない。
今だって、こんなバカな真似をしているせいで、もしかしたら彼に勘付かれてしまっているかもしれないのに。
今になってふと後悔する。気付かないふりをしていればよかった。上手くやれる自信はなくても、ファイには守らなければならないものがあったはずだ。
けれどあの日、あの瞬間。
ファイの中には黒鋼を手放さなければならないことへの恐れと、同時にどす黒い感情が芽生えてしまった。
(思い出したくない)
それが黒鋼を満たし、満たされ、繋ぎとめるための対価だから。
(思い出したい)
黒鋼の過去を知っているのは、過去の自分だけだから。
過去にもああして黒鋼から薔薇を受け取った『他人』がいる。
今のファイにとってそんな過去の自分など、赤の他人も同然に感じられたのだ。自分自身としてイコールで繋がらない。思い出すことと、知ってしまうことは違うから。
この歪んだ感情がどれほど愚かなものか、誰よりも知っているのはファイ自身だった。
けれどいつだって、感情はファイを置き去りにする。自分の中で整理する前に、前へ前へと先走ってしまう。
考えることを止めてしまったファイには、追いつこうにも手さえ伸ばせない。ただこうして暗い部屋の中で、震えることしかできないのだ。
傍にいてほしいのはたった一人だけなのに。触れられない。姿を見ることもできない。気が狂いそうなくらい寂しくて、縋りつきたいのに、それが怖くてたまらなかった。
もし全てを思い出してしまったら。それを黒鋼に知られたら。
彼はどうするのだろう。これまでが嘘みたいに、こちらに背を向け、消えてしまうのだろうか。自分など、必要なくなってしまうのだろうか。
あの嵐の夜。黒鋼の帰宅が遅れた、あの夜。
彼は確かに誓った。ファイのものであることを。それが今、恐れとなって揺らぎを見せている。
けれど同時に異常なまでの彼への独占欲が、ファイを歪めていく。
自分自身を殺したいくらい憎むほどに。
ならどうすればいい?
このままこうしていても埒があかない。
下手をしたら、強引に部屋の扉を破ることくらい、彼ならやってのけるかもしれない。
シーツをさらに引き上げる。何も考えられない。考えない。考えたくない。
眠れもしないのに、ファイは現実から逃避することに躍起になった。
リミットは明日の朝までだということを、ファイは知らない。
けれど結果的に、黒鋼がファイの部屋の扉をこじ開けることはなかった。
日暮間近に玄関ホールで電話が鳴った。受けたのは小狼。
それは黒鋼の母の容体が急変したという知らせだったのだ。
*
重いノック音がした。
いつの間にか眠っていたファイは、その音に暗い室内で目を覚ました。
小狼、サクラ、黒鋼。三人が三人とも、ノックの仕方やその音もまるで違う。
だからファイにはこのノック音が誰のものか、声を聞かずともすぐにわかった。
緊張に身を硬くしながら、ゆっくりと起き上る。
長い時間ベッドで丸くなってばかりいたせいで身体がだるく、節々が少し痛んだ。
「俺だ」
やっぱり。
ファイは俯くと、ぐしゃぐしゃのシーツを抱き寄せる。
扉の向こうの黒鋼はそれきり、少しの間沈黙した。
シーツを抱いたままファイが顔を上げ、扉を見やると、まるで見えているのかのようなタイミングで彼は続けた。
「お袋の容体が急変した。今から行ってくる」
「……!」
ファイは無意識にベッドから抜け出し、扉の側へゆっくりと近付いていた。躊躇いがちに、冷たい隔たりに手を伸ばし、触れた。
「いつ戻れるかわからねぇ」
感情を押し殺したような声。本当なら何を差し置いてでも、今すぐ屋敷を飛び出したいはずの彼は、ファイが謀反を起こしてもなお忠実だ。
複雑な思いが渦巻いているのは、きっと黒鋼も同じだった。硬質な扉を通してもそれが分かるから、ファイは唇を噛む。
「そこにいるんだろ」
「…………うん」
「まだ顔出す気にはなれねぇか」
ファイは答えられなかった。今すぐ扉を開けて、彼に縋りついて、心配させてごめんねと、別になんでもないからと。無様でもいい。言い訳ができたなら。
いってらっしゃいと言って笑うことさえできれば、何もかもが元通りになるかもしれない。
その淡く浅はかな願いが、ファイの胸を締め付ける。
「黒たん、オレ……」
「……できれば、顔が見たい」
「…………」
多分、何も難しいことはない。鍵を開けて、ドアノブに触れて、それを回せばいいだけの話だ。
けれどファイにはそれができなかった。彼のささやかな願いを聞き入れることが、どうしても。縋りついたのは温かな腕の中ではなく、固く冷えた木の扉だった。
「行かないで」
扉に額を擦りつける。
「どこにも行かないで……」
違う。こんなことが言いたいのではない。なのに、自分勝手な言葉が溢れて止まらない。
「オレを置いて、行かないでよ……」
黒鋼は何も言わなかった。彼がいま何を考え、どんな顔をしているのか、自らの意思でここを閉ざしているファイに、それを知る術はない。
ただ押し黙られることで、酷く責められているような気がした。こんな自分が、無様で惨めで仕方ない。
やがて永遠にも思えるひとときの間を開けて、黒鋼が低く呟いた。
「戻ったら、全部聞く」
「っ……」
「全部だ。いいな」
「黒たん……!」
気配が遠のくのを感じた。同時に足音が遠ざかる。ファイは咄嗟に彼の名を呼び、鍵を開けると扉を開けた。
あれほど難しく感じていたことが、こんなにもあっさりとしていて簡単なことだったのだと、今さら思い知ったところでもう遅いように思えた。
それでも名を呼ばずにいられなかった。
「待って! 黒たん……!」
部屋を飛び出す。廊下の向こう、彼の背中が小さくなっていくのが見える。
ファイはその背に手を伸ばした。けれど気持ちだけが先走り、力の入らない足が縺れて膝をついていた。
ファイが扉を開けたことを、彼は知っていたはずだった。けれど振り返らなかった。
やがて消えてしまった背中に向かって、伸ばし続けていた手をガクリと床に落とす。
ただへたり込み、震えながらただ一人、勝手に打ちのめされていた。
*
「ファイさんには……?」
玄関ホールで黒鋼に上着を手渡しながら、小狼は聞いた。
「言った」
彼はそう短く答えると、受け取った上着に袖を通す。
小狼がそれ以上のことを訪ねようとする前に、黒鋼は背を向けて扉のノブに手をかけた。
「黒鋼さん……」
「帰りはいつになるかわからねぇ。……頼んだぞ」
背を向けたまま、黒鋼は僅かにこちらに顔を向けて言った。その言葉には幾つもの意味が込められている。
その大部分を占めているのはファイのこと。そして、鍵のことだ。
小狼が神妙に頷くと、彼は本当に僅かだが目元を和らげた。小さく頷きながら、囁くような声でもう一度「頼む」とだけ言い残し、彼は出て行った。
ホールに一人残されると、大きな古時計が時を刻む音だけが、大きく響き渡っていた。
ふと、ファイの部屋がある通路の扉に目をやる。
あれほど黒鋼にべったりだったファイが、もう二日も閉じこもったまま出てこない。
黒鋼が何か大きな秘密を一人で抱え込んでいることは知っていた。もちろん、それが何かは知らされていないが。
ただ、おそらく同じ立場でも、さくらよりは知らされているものが多少はある。その程度だ。
ファイが目覚め、少しずつその行動の範囲を広めてきたころ、小狼は黒鋼から一つの鍵を預かった。
それはファイの部屋とは反対側にある通路の、一番突き当りに位置する部屋の鍵だった。
それまでは黒鋼が肌身離さず持ち歩いていたのだと思う。けれどファイは彼に四六時中張り付いていたし、すっかり遊び場と化している屋敷の中、しょっちゅう黒鋼の部屋にも入り込んでいた。
『保管の仕方は任せる。だが、絶対に誰にも渡すな。あいつにもだ』
小狼もさくらも、元々あの部屋へ入ることは禁じられていた。だから何があるのかは知らない。今はまだ、知る必要もないと思っている。
だが黒鋼は誰よりも、ファイがあの部屋へ近づくことを恐れているようだった。
小狼はひとつ溜息をつく。
せめて黒鋼が戻る頃には、何もかもが元通りになっていることを、彼の母親の容体が落ち着くことと同時に、ただ祈るばかりだった。
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広い庭園では、秋の薔薇が見頃を迎えていた。
噴水の涼やかな水音と、色濃い薔薇の香りを乗せた秋風に、飛び交うトンボがその華奢な身体を翻す。
晴れ渡る空は高く、太陽の光が溢れる緑と花々を瑞々しく照らし出していた。
「きれいに咲いたねー。こないだまで蕾だったのに」
アーチを描く花壇の側で、片膝をついて薔薇の手入れをしている黒鋼の横に、ファイもちょこんとしゃがみ込んだ。
「あ、でもきれいっていうより可愛い……って感じかなー?」
「秋薔薇は春薔薇より小ぶりだからな」
「へー。ねぇ、今はなにしてるのー?」
小首を傾げて訪ねると、黒鋼は薔薇から目線は外さずに答えた。
「病気になってねぇかどうか、葉の具合を見てチェックしてんだよ」
おそらく、小学生でもわかるような言葉を選んで教えてくれたのだと思う。ファイには専門的なことはさっぱりわからない。薔薇の見頃が秋にも訪れることさえ知らなかったのだ。忘れているだけなのかもしれないが。
「へぇー。植物も病気になるんだねぇ」
「人間や動物と一緒だ。こいつらは俺たちの会話だって理解できてるからな」
「可愛いねーとか、キレイだねーって言ってあげるといいんだよねー?」
そのくらいなら知っているとばかりに笑うと、黒鋼も小さく笑って「そうだな」と言った。
ふと彼が薔薇や他の植物に向かって「可愛い」だとか「綺麗」だとか、一人ブツブツと囁いている様子を想像した。とてもではないが花など愛でそうにない強面の大男が、そんな真似をしているとは到底思えなかったが、美しく咲き誇る薔薇の花を見ていると「まさか……」と思わずにはいられない。
だが、この大きな手がこれだけ美しい薔薇の花を咲かせたのは事実だった。
庭師という仕事は、もっとのんびりしていて楽なものなのかと思いきや、それは大きな間違いだった。この薔薇たちだって、黒鋼が細やかな手入れを怠らなかった成果なのだ。時には付きっきりで薬剤を散布したり、病害虫の防除に勤しんでいた。
この季節の朝夕の露や霧が云々と、細かな説明をしてもらった気がするが、自分ならきっと三日と経たずに全て枯らしてしまうかもしれないと、ファイは思う。
大きくて強面で無骨そうに見えて、彼の手先は驚くほど繊細で器用だった。そのことが妙に愛おしく感じられて、ファイは暫しの間、おとなしくその横顔や手先を見つめていた。
すると黒鋼は、ポケットから一本の折りたたみ式ナイフを取り出した。庭をいじる道具なのだから、それなりの名称があるのかもしれないが、もちろんファイにはわからない。
刃先が緩くカーブしているそのナイフで、黒鋼は白い薔薇の茎を一本だけ切ってしまった。
「あ」
そのまま器用にナイフを使い、素早く棘を全て切り落としてしまうと、それをファイにそっと差し出す。
純白の花弁から、またふわりと強い香りが立ち上る。
ファイはぽかんとして、薔薇と黒鋼を交互に見やった。
「やる」
「わ……」
思わず感激してしまう。黒鋼から、薔薇の花を貰えるとは夢にも思わなくて。
カッと頬を熱くさせながら、ファイはゆっくりと両手を伸ばした。嬉しくて、少しだけ指先が震えてしまう。
そして、白い薔薇と黒鋼の手にそっと触れようとした。そのときだった。
「ッ―――!?」
何かが、点滅しながらファイの脳裏に浮かび上がる。
何枚もの静止画が、次から次へとスライドしていくようなビジョン。
やがてそれらが不器用に繋がり、覚束ない一つの映像として、繋がった。
(なに、これ……?)
今より、ほんの少しだけ柔らかな表情の黒鋼。
(いやだ)
そして、蕩けそうなほどの笑顔を浮かべる自分。
(これは、見ちゃダメだ……ッ!)
手渡された、少し大きな薔薇の色は白ではなく――黄色だった。
「おい? どうした?」
「ッ……!」
黒鋼の声がファイを引き戻した。
たったいま見た光景に呆然として動けずにいると、彼は少しだけ首を傾げて小さく笑う。
「棘はもうねぇよ。見てただろ?」
片方だけ軍手を外して、黒鋼はファイの静止したままの手首を取ると、その手に薔薇を握らせた。
「あ、りが……とう……」
心臓が爆発しそうに高鳴っていた。それはつい数秒前のような、甘い高鳴りではなかった。
青褪めてはいないだろうか。震えてはいないだろうか。
悟られては、いけない。
「嬉しい……本当に、ありがとう」
ファイは笑った。両手にそっと握った薔薇の花を胸に、もう一度礼を述べた。
***
まだだいぶ時間がかかると言う黒鋼を置いて、ファイは一人屋敷へ戻った。
また妙なところに隠れて遊ぶんじゃねぇぞと苦笑する黒鋼に、ファイは心底ホッとした。何も悟られていないことだけが、今は救いだ。
途中、お茶の準備が出来たとサクラに声をかけられたが、それどころではなく「後にする」とだけ言うと、部屋に戻った。
閉じた扉に背を預け、ファイはそのままズルズルと腰を落とす。
まだ、心臓が大きな音を立てていた。
脳裏に焼きつく幾つもの場面。ファイは瞬きも忘れて、胸の中の薔薇を抱きしめる。身体が震えて仕方がなかった。
『おまえが何も思い出さないことが、対価だ』
いつかの、黒鋼の言葉が蘇る。
ただ頭の中に刻んでおけと、彼はそう言った。
深く考える必要はないと、そうやってファイを言葉で縛りつけた。
それなのに。
「あれは、オレだ……オレと……」
黒鋼だ。
手の中にあるより、少し大きな薔薇の花。あれはきっと、春に咲いたものだ。
窓から顔をだすファイに、黄色の薔薇を差し出す彼。
一つに纏めた長い金髪を風に遊ばせながら、この手は確かに薔薇を受け取っていた。
ファイはゆっくりと、けれど確実に、脳裏に浮かんだスライド式の映像から、ひとつひとつ情報を拾い上げる。
ふわふわと、窓の外を踊るように舞っていたのはたんぽぽの綿毛だ。春の空と、風と、花と。
けれどそこはこの部屋の窓ではない。
小さく切り取られたような花壇がある庭。片隅に小さな池。その奥は森。木漏れ日の射す森……。
「森……」
あの部屋だ。
禁じられた森と、鍵のかけられた部屋。
他に思い出せることはない。それらの光景以外、何も。思い出してはいけないのだ。これ以上踏み込めば、きっと戻れなくなる。
それなのに。
このチリチリとした、胸を焦がす痛みはなんだ。
あれは自分だ。黒鋼から薔薇を受け取っていたのは自分。けれど、知らない自分。知らない黒鋼。
今ここにいるのは空っぽのファイ。今の黒鋼しか知らない、それ以外なにも持たない、何も知らないファイ。
こんな感情はおかしい。どうかしている。あれはまぎれもなく『自分』なのに。
ファイは震える手の中で咲く薔薇の花を見つめた。
「黄色の薔薇……」
花言葉は、嫉妬。
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噴水の涼やかな水音と、色濃い薔薇の香りを乗せた秋風に、飛び交うトンボがその華奢な身体を翻す。
晴れ渡る空は高く、太陽の光が溢れる緑と花々を瑞々しく照らし出していた。
「きれいに咲いたねー。こないだまで蕾だったのに」
アーチを描く花壇の側で、片膝をついて薔薇の手入れをしている黒鋼の横に、ファイもちょこんとしゃがみ込んだ。
「あ、でもきれいっていうより可愛い……って感じかなー?」
「秋薔薇は春薔薇より小ぶりだからな」
「へー。ねぇ、今はなにしてるのー?」
小首を傾げて訪ねると、黒鋼は薔薇から目線は外さずに答えた。
「病気になってねぇかどうか、葉の具合を見てチェックしてんだよ」
おそらく、小学生でもわかるような言葉を選んで教えてくれたのだと思う。ファイには専門的なことはさっぱりわからない。薔薇の見頃が秋にも訪れることさえ知らなかったのだ。忘れているだけなのかもしれないが。
「へぇー。植物も病気になるんだねぇ」
「人間や動物と一緒だ。こいつらは俺たちの会話だって理解できてるからな」
「可愛いねーとか、キレイだねーって言ってあげるといいんだよねー?」
そのくらいなら知っているとばかりに笑うと、黒鋼も小さく笑って「そうだな」と言った。
ふと彼が薔薇や他の植物に向かって「可愛い」だとか「綺麗」だとか、一人ブツブツと囁いている様子を想像した。とてもではないが花など愛でそうにない強面の大男が、そんな真似をしているとは到底思えなかったが、美しく咲き誇る薔薇の花を見ていると「まさか……」と思わずにはいられない。
だが、この大きな手がこれだけ美しい薔薇の花を咲かせたのは事実だった。
庭師という仕事は、もっとのんびりしていて楽なものなのかと思いきや、それは大きな間違いだった。この薔薇たちだって、黒鋼が細やかな手入れを怠らなかった成果なのだ。時には付きっきりで薬剤を散布したり、病害虫の防除に勤しんでいた。
この季節の朝夕の露や霧が云々と、細かな説明をしてもらった気がするが、自分ならきっと三日と経たずに全て枯らしてしまうかもしれないと、ファイは思う。
大きくて強面で無骨そうに見えて、彼の手先は驚くほど繊細で器用だった。そのことが妙に愛おしく感じられて、ファイは暫しの間、おとなしくその横顔や手先を見つめていた。
すると黒鋼は、ポケットから一本の折りたたみ式ナイフを取り出した。庭をいじる道具なのだから、それなりの名称があるのかもしれないが、もちろんファイにはわからない。
刃先が緩くカーブしているそのナイフで、黒鋼は白い薔薇の茎を一本だけ切ってしまった。
「あ」
そのまま器用にナイフを使い、素早く棘を全て切り落としてしまうと、それをファイにそっと差し出す。
純白の花弁から、またふわりと強い香りが立ち上る。
ファイはぽかんとして、薔薇と黒鋼を交互に見やった。
「やる」
「わ……」
思わず感激してしまう。黒鋼から、薔薇の花を貰えるとは夢にも思わなくて。
カッと頬を熱くさせながら、ファイはゆっくりと両手を伸ばした。嬉しくて、少しだけ指先が震えてしまう。
そして、白い薔薇と黒鋼の手にそっと触れようとした。そのときだった。
「ッ―――!?」
何かが、点滅しながらファイの脳裏に浮かび上がる。
何枚もの静止画が、次から次へとスライドしていくようなビジョン。
やがてそれらが不器用に繋がり、覚束ない一つの映像として、繋がった。
(なに、これ……?)
今より、ほんの少しだけ柔らかな表情の黒鋼。
(いやだ)
そして、蕩けそうなほどの笑顔を浮かべる自分。
(これは、見ちゃダメだ……ッ!)
手渡された、少し大きな薔薇の色は白ではなく――黄色だった。
「おい? どうした?」
「ッ……!」
黒鋼の声がファイを引き戻した。
たったいま見た光景に呆然として動けずにいると、彼は少しだけ首を傾げて小さく笑う。
「棘はもうねぇよ。見てただろ?」
片方だけ軍手を外して、黒鋼はファイの静止したままの手首を取ると、その手に薔薇を握らせた。
「あ、りが……とう……」
心臓が爆発しそうに高鳴っていた。それはつい数秒前のような、甘い高鳴りではなかった。
青褪めてはいないだろうか。震えてはいないだろうか。
悟られては、いけない。
「嬉しい……本当に、ありがとう」
ファイは笑った。両手にそっと握った薔薇の花を胸に、もう一度礼を述べた。
***
まだだいぶ時間がかかると言う黒鋼を置いて、ファイは一人屋敷へ戻った。
また妙なところに隠れて遊ぶんじゃねぇぞと苦笑する黒鋼に、ファイは心底ホッとした。何も悟られていないことだけが、今は救いだ。
途中、お茶の準備が出来たとサクラに声をかけられたが、それどころではなく「後にする」とだけ言うと、部屋に戻った。
閉じた扉に背を預け、ファイはそのままズルズルと腰を落とす。
まだ、心臓が大きな音を立てていた。
脳裏に焼きつく幾つもの場面。ファイは瞬きも忘れて、胸の中の薔薇を抱きしめる。身体が震えて仕方がなかった。
『おまえが何も思い出さないことが、対価だ』
いつかの、黒鋼の言葉が蘇る。
ただ頭の中に刻んでおけと、彼はそう言った。
深く考える必要はないと、そうやってファイを言葉で縛りつけた。
それなのに。
「あれは、オレだ……オレと……」
黒鋼だ。
手の中にあるより、少し大きな薔薇の花。あれはきっと、春に咲いたものだ。
窓から顔をだすファイに、黄色の薔薇を差し出す彼。
一つに纏めた長い金髪を風に遊ばせながら、この手は確かに薔薇を受け取っていた。
ファイはゆっくりと、けれど確実に、脳裏に浮かんだスライド式の映像から、ひとつひとつ情報を拾い上げる。
ふわふわと、窓の外を踊るように舞っていたのはたんぽぽの綿毛だ。春の空と、風と、花と。
けれどそこはこの部屋の窓ではない。
小さく切り取られたような花壇がある庭。片隅に小さな池。その奥は森。木漏れ日の射す森……。
「森……」
あの部屋だ。
禁じられた森と、鍵のかけられた部屋。
他に思い出せることはない。それらの光景以外、何も。思い出してはいけないのだ。これ以上踏み込めば、きっと戻れなくなる。
それなのに。
このチリチリとした、胸を焦がす痛みはなんだ。
あれは自分だ。黒鋼から薔薇を受け取っていたのは自分。けれど、知らない自分。知らない黒鋼。
今ここにいるのは空っぽのファイ。今の黒鋼しか知らない、それ以外なにも持たない、何も知らないファイ。
こんな感情はおかしい。どうかしている。あれはまぎれもなく『自分』なのに。
ファイは震える手の中で咲く薔薇の花を見つめた。
「黄色の薔薇……」
花言葉は、嫉妬。
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長閑な秋晴れの日。昼下がりの空の下、サクラとファイは庭に面したテラスでまったりと紅茶と焼き菓子を楽しんでいた。
「いい天気だねー」
「いい天気ですね」
二人の頭上にはぽわ~んと小花が浮かんでいる。
「今年の秋はポカポカ陽気だねー」
「でも、夜はちょっぴり寒いですね」
「あれれ?」
「はい?」
「サクラちゃん、小狼君と一緒に寝てないのー?」
「はい!?」
きょとんと小首を傾げながら、なにやらとんでもないことをサラリと言ってのけたファイに、サクラは思わず手の中の皿とカップを取り落としそうになった。
「にゃ、にゃにっ、を!?」
「あ、噛んだ」
「ファイさん!!」
顔が破裂するのではないかと思うほど真っ赤になりながら、サクラは精一杯声を張り上げる。ファイはふにゃりと笑った。
「寒い夜は、誰かと一緒に布団に入るとポカポカだよー?」
「ぽ、ぽかぽか……」
サクラは恋する、そして夢見る少女である。
あまりにもファイがなんでもないことのように言うものだから、思わず引っ張られるかのごとく妄想……想像してしまう。
例えば寒くて寒くて仕方がない夜。猫や犬が一緒に寝てくれたら、もふもふできっと温かい。さぞかし寝心地もいいだろう。
けれどそれが、もし小狼だったら……。
……。
……。
…………。
チュボムッという音がした。
それはサクラの頭の天辺から、煙と一緒に出た音だった。
流石のファイも慌てふためく。
「さ、サクラちゃん!? なんか爆発したよー!?」
「む、む、む、無理ですー!!」
考えるだけで、本当に爆発して弾け飛んでしまいそうだった。
万が一そんな状況になれば、ポカポカどころの騒ぎではない。火が噴きだすのではないか。小狼まで巻き込んで、火だるまになってしまう。
サクラは「はにゃーっ」とか「ほえーっ」という訳のわからない奇声を発しながら、両手で顔を覆い、髪を振り乱した。
なぜかじんわりと涙が浮かんできて、潤んだ瞳でファイを上目使いに見上げる。
「私……私……」
涙目のサクラに見上げられているファイは「うっ」と息を詰まらせている。
「小狼君と一緒に、ね、寝るなんて……駄目です……」
「な、なんで?」
「ドキドキして……緊張して……眠れない、です……」
今だって、例えば夜寝る前だとか、隣の部屋に小狼がいると思うだけでもドキドキしてしまうことがある。
もう寝たかなとか、どんな夢を見てるのかなとか、夢の中で会えるかな、とか。
そんなことを考えるだけで胸が熱くなって、そして同じくらい、幸せな気持ちになったりもする。
もし隔てるものがなくなってしまったら、ドキドキしすぎて心臓が止まってしまうかもしれない。
小さな子供の頃は一緒に寝るくらい平気だったのに、少しずつ成長するにつれて、それはとても難しいことのように思えた。
高熱を発する頬を冷やすように、無意識に両手で包む。
小狼への気持ちが恋であることは自覚しているつもりだった。彼も同じ気持ちでいてくれたらいいなと、そんな淡い期待もある。いつか伝えられたらいいなと。
それでも今はただ遠くから見つめているだけで、小狼を想っているだけで、十分幸せだったのだ。
「ドキド……キ……? きんちょお……?」
ファイは笑ったまま、動かなくなってしまった。口元は笑っているのに、目だけは笑っていないような気がする。
そのまま少しだけ間が開いた。やがて、随分と遅れて彼は頬を染めた。そして、もじもじと俯いてしまった。
「……ごめん」
「……いえ」
「オレ……いつの間にか爛れた大人になっちゃってたみたい……」
「た、ただれ……?」
「なんでもにゃい……」
あ、噛んだ……という突っ込みは胸にしまった。からかわれることの多いサクラの目には、頬を染めているファイはとても珍しいものに映った。
そういえばファイは黒鋼の姿を見つけると、迷いなくその胸に飛び込んでいく。まるで犬猫が飼い主に甘えるみたいで、いつも微笑ましい気持ちで眺めていたのだが。
さきほどの話の様子から、いくら鈍いサクラでも察しがつく。寒い日の夜、ファイは黒鋼と寝ているのか……。
そんなことが、本当に、ごくごく普通に、それこそ大人の恋人同士みたいに小狼とできたなら……。
ファイとこんな会話をするまでは、考えたこともなかったけれど。
再び『ボンッ』という音がした。自分の頭のてっぺんから。
「わぁ!? サクラちゃんがセカンドインパクト!!」
「う、う、羨ましくなんてにゃいですぅ!!」
「何が!?」
再び奇声を上げてモダモダしはじめたサクラに慌てたファイが、無理やり話の方向を切り替えた。
「そうだ! ねぇサクラちゃんはあの開かずの間って入ったことあるの!?」
開かずの間、というキーワードにピンと来ず、サクラはコトリと小首を傾げた。
ファイは一瞬ハッとしてバツの悪そうな顔をして見せたが、すぐにニコニコ顔に戻った。少し引き攣っていたようには見えたが。
「ほ、ほら……書庫がある方の通路の、突き当りの……」
「あ、奥の部屋ですか?」
「うん……」
「ないですけど……どうして?」
「く、黒たんが……あそこに近づくとお化けに食われるぞって……あ、別に怖くないよ? ただほら、大きいお屋敷ってさ、そんな感じの雰囲気あるでしょー? ね?」
ファイは何やらしきりに言い訳めいたことを口走っているようだが、サクラは人差し指を唇の下に当てて「んー」と小さく唸った。
「あそこには何もいませんけど……あ、でも地下の食糧庫には、いつも気さくに声をかけてくださる落ち武者さんが」
「ちょい待って!? なに!? おもむろに何!? 何の話!?」
「え? だから落ち武者さんが」
「キィーヤァー!!!」
ファイは思い切り両耳を塞いで、頭をぶんぶんと振っている。長い尻尾のような金の髪が左右に揺れていて、サクラはそれを可愛いなと思った。
「知らなかった……やっぱいる……いるよこの屋敷……」
ブツブツと何かを呟いているファイの心中も知らず、とりあえず笑って言った。
「でもファイさん。あそこは開かずの間ではないと思いますよ?」
「……そう、なの?」
「はい。ちゃんと開くと思います。入ったことはないですけど、鍵がある場所も、私知ってます」
一瞬ファイが肩を震わせて、これまでとは違う反応を示した気がした。けれど特に気にせず続ける。
「確か、今は小狼君が管理しているはずですよ」
「小狼君が……」
サクラも、あの部屋に何があるのかは知らない。
ただ分かることは、おそらく少し前まで……ファイが目を覚ますまでは、鍵を所持していたのは黒鋼だったということと、今は小狼が管理しているということだ。
以前、偶然ではあるが黒鋼が小狼に鍵を手渡しているのをちらりと見かけたことがある。二人は何か真剣な面持ちで話をしていたようだったが、その内容も勿論知らない。
あとはサクラから見て、というより感じる限り、あの部屋にファイが怖がるような何かはいないということだけだ。
「きっと、何かとても大切なものがしまってあるんだと思います」
そう言ってにっこり笑ったサクラに、けれどファイは「そうだね」と言いながら、少し戸惑ったような顔を見せた。
いつも通り笑ってはいるけれど、何か違うような、そんな気がする。
「ファイさん?」
「ん?」
「あの……どうかしましたか?」
温かな陽気ではあるが、風に当たり過ぎて調子が悪くなったのだろうかと心配したサクラに、ファイは首を振ると明るく笑った。
「なんでもないよー? あ、紅茶冷めちゃったねー」
「あ! 新しく淹れなおしますね!」
「ありがとー」
そこから、再び和やかなお茶会が始まった。
***
バッチョーン……という大きな音がして、太い枝がボトリと落ちた。
足元にばっさり転がったそれをじっと見つめたあと、脚立に腰かけて刈り込みバサミを持ったまま遠方を見つめる黒鋼を、小狼は見上げた。
「黒鋼さん」
「……なんだ」
「……思いっきり……切る必要のない枝を落としたようです」
「……らしいな」
物静かな二人のやり取りは、大体いつもこんなトーンだった。
小狼はこっそり溜息を零しながら、黒鋼の視線の先を追いかけた。
そして、ブワサッ……という音を立てて、焼却炉へ持っていくために腕の中に一纏めにして抱えていた枝や雑草の塊を、地面に落した。
「小僧」
「……はい」
「……ちゃんと掻き集めろよ」
「……すみませんでした」
「…………」
「……いい、光景ですよね」
「……そうだな」
二人の男の視線のずっと先の方向には、頭上にピンク色の小花を飛ばしながら何やらお喋りに夢中になっている、ファイとさくらの姿があった。
はっきり言って思い切り和む。こう言ってはなんだが、こちらが砂漠なら、あちらは緑豊かなオアシスだ。
小狼は楽しそうに表情を活き活きとさせて笑っているさくらを見て、自然と目元が和らぐのを感じた。
ファイが目覚めた当初、彼はまだどこかぼんやりとしていて気だるげで、話しかけにくい印象があった。さくらも自分もだいぶ緊張したものだが、今ではあの頃が嘘のように彼はよく喋り、笑い、そして黒鋼に忠犬のごとく懐く姿を惜しげもなく披露する。
犬というより、猫のように線の細いイメージは、今も変わらないけれど。
だがそれよりもっと変わったと思えるのは、黒鋼だった。
小狼は切り落としてしまった枝を見て舌打ちをしている男に、ちらりと視線を走らせる。
彼はもっと硬質なイメージの強い男だった。まるで幾つもの死線を潜り抜けてきたのかと思えるほどの、鋭い瞳を持っていた。
彼が眠り続けるファイを、窓の外からいつも気遣わしげに見つめていたのは知っている。そして、さきほど余計な枝を切り落としてしまった彼が、ファイを見て瞳を柔らかく細めていたことも。
基本的に感情を表に出さない彼だが、ファイが目覚めてからは少しずつ、表情に色を乗せるようになった。
決して長い付き合いではないが、小狼にとっては微笑ましく思えることの一つである。
「休憩ですか?」
密かに物思いに耽っていた小狼だったが、脚立から下りてハサミを適当に放り投げる黒鋼に我に返った。
黒鋼は「まぁな」と呟くと、両手の軍手まで外してハサミの横に放ってしまう。
彼の足ははっきりとテラスの方向へと向けられていた。
「喉が渇いたからな」
「ちょっかいかけに行くんですね」
低い声が「うるせぇ」と呟くのを、小狼は確かに聞いた。
そしてその背中を見送りながら、思わず小さく噴き出した。
*
黒鋼と小狼が大事な枝をぶった切ったり、目尻をデレデレとさせている頃、ファイとサクラのティータイムは続いていた。
まるで山の天気のごとく、その会話の内容はころころと移り変わっていく。
現在のテーマは、黒鋼は一体幾つなのかという話だった。
「うーんと……36歳くらい……? でしょうか?」
悩みに悩んだ末サクラが出した答えに、ファイは思わず紅茶を噴きだしかけた。
「ちょ、それはいくらなんでもー……」
「え? でも、大人の男の人って感じだし……なんだか最近は、お父さんぽいというか……」
「お父さんねぇ……サクラちゃんは今幾つだっけ?」
「16です。小狼君も」
「そっかそっか。若いなぁ」
16と言えば酒や煙草どころか、パチンコ屋にすら入れない年齢である。それだけ若ければ、ファイと目線が違っても仕方がない。もちろん自分が幾つなのかもファイは忘れてしまっているのだが、この少女にしてみれば、黒鋼は立派な『オジサン』に見えるのだろうか……なんて思うと、実に愉快だ。
「プッ」
指先を口元に当ててにんまりと笑ったファイに、サクラが首を傾げている。
それにしても36歳とは。おそらくそこまでは行っていないだろうが、ふとその年齢に達した黒鋼の姿を想像してみる。
今よりもさらに渋さが増して、ちょっぴりくたびれたような表情に、無精ヒゲなんかを生やしたりなんかして……。
「やばい……かっこよすぎる……」
「?」
思わずときめいた。頬がカッとなって、ファイは片手で口元を覆う。出来れば今のこの二ヤけた口元は、誰にも見られたくない。
「ファイさんは? 黒鋼さん、何歳だと思いますか?」
「そうだなぁ……」
ファイは腕を組むと、身体ごと首を傾げて深く唸った。
「オレは流石にまだ30は行ってないと思うんだー。20代中頃とかが無難かなぁ? でも実は前半ってことも……」
「私の予想とぜんぜん違う……」
「多分老け顔だからねぇ……あのタッパだし。サクラちゃんくらいになら、そう見えても仕方ない、のかなぁ?」
サクラが感心したような面持ちでふむふむと頷いている。
「あ、じゃあさー、オレはオレはー? 幾つくらいに見えるー?」
ウキウキとしながら聞くと、サクラはまた「うーん」と小さく唸りながら、まじまじとファイの顔を見つめた。
「ファイさんは……なんだかぜんぜん予想がつかないです」
「えー! そこをなんとか!」
身を乗り出すと、勢いに押されたサクラは少し身を引いた。それからまた少し唸ったあと、躊躇いがちに上目づかいで言った。
「えっと……19歳とか……はたち、くらい……?」
「え!? 10代!?」
その答えを聞いたファイは、一気に瞳を輝かせた。実のところ黒鋼の年齢の予想を聞いていたので、あまり期待はしていなかったのだが、思いのほか若い見解に思わず椅子から立ち上がった。
「19歳! 気に入った! うぅん今決めた! オレ19歳ってことにしよう!」
「あ、えっと……本当に、想像できないんですけど……なんとなく……若々しいので」
「そっかー、若々しいかー、えへへー」
「そいつは遠まわしにガキ臭ぇってことだろ」
「!?」
驚いて二人同時に声の方へ目をやれば、ファイの背後に黒鋼が仁王立ちしていた。
「あ、黒鋼さん。お疲れ様です」
サクラが立ちあがり、ぺこりと頭を下げるのに彼は片手を上げて「おう」と答えると、ファイの横の椅子を引いてどっかりと腰かけた。
「黒様ヒドいよー。オレのどこかガキ臭いのさー」
「つーか何の話だよ」
「黒鋼さんは何歳なのかってお話をしてたんです」
黒鋼の分の紅茶を準備しながら、サクラが答えた。ちなみにお茶を淹れる彼女の手元はいつもプルプルと震えていて、見ていると少しハラハラする。
「そーそー。年齢不詳だよねーって」
「はぁん」
黒鋼はそんなことかと、あたかも興味なさげにカップを受け取り、口をつけた。
「サクラちゃん予想では、黒たんは36歳なんだよ」
「ぶっ!!」
「うわ! きっちゃなーい!」
「ご、ごめんなさい黒鋼さん! やっぱり……違いますよ、ね?」
「当たりめーだ!!」
手の甲で乱暴に口元を拭いつつ怒鳴る黒鋼に、しゅーんとするサクラの頭を「よしよし」と撫でながら、ファイは勝ち誇ったように笑った。
「でねー、オレは19か20くらいに見えるんだって!」
「そいつはおまえ、ガキがガキに気ぃ使っただけだ」
「え!?」
そうなの……? と恐る恐るサクラを見ると、彼女は石のようにビキビキと硬くなりながら、ぶんぶんと首を左右に振った。なんだかもうそれだけで十分答えになっているような……。
「言っておくがな」
遠い目をするファイを見て、黒鋼はにやりと悪人のような顔をして笑った。
「てめぇは俺より年上だ」
「「ええぇぇぇ!?」」
ファイとサクラが同時に驚愕の声を上げた。それこそまさに予想外の展開である。
「じゃ、じゃあ……ファイさんは37歳……」
「!?」
「あのな……だから俺は30にさえまだなってねぇよ」
「あ、そうでした……」
「そんな……そんな……黒たんの方が若いなんて……そんな……」
ファイは凄まじいショックを受けていた。
年下を相手に甘えまくっていたのか……という、なんともむず痒いような照れ臭さもあった。かといって今更なので自重する気はないのだが、年齢云々というより、ファイにとって黒鋼はひたすら『大きな存在』だったため、どうも不思議な感覚だった。
ということは黒鋼が老け顔なら、自分はただの若造りということになるのだろうか……。
実際のところ36歳なのはこちらの方だったらどうしよう、と考えてファイは青褪めた。もしそうだとしたら、オッサンの域にほんのり片足を突っ込んでいるということになる。
「これは夢……きっと現実世界のオレは花の19歳……」
「思い切り殴ってみるか? 夢じゃねぇって理解できるぜ」
「なんのお話ですか?」
そのとき、今度は作業を終えた小狼がひょっこりと顔を出した。
律儀な彼は黒鋼のように適当に仕事を放り投げることなく、ある程度の仕事をきっちりこなしてきたようだ。額が少し汗ばんでいる。
「小狼君! お疲れ様!」
ぽっと頬を赤らめたサクラが、どこから取り出したのかタオルを小狼に差し出している。
俺のときとはえらい違いだな、と黒鋼の目がどこか据わっているが、それを口に出して言うつもりはないようだった。
「あの、ファイさんが物凄い負のオーラをまとっている気がするんですけど……」
「ほっとけ」
「え、でも……」
小狼が椅子に腰かけると、すっかり四人でテーブルを囲む形になった。
サクラは活き活きとしながらも相変わらず不安定な手つきで、小狼の分のカップに紅茶を注いでいる。
そういえばなんだかんだで、こうして四人がじっくりと顔を突き合わせて一つの場所に落ちくのは、珍しいような気がする。基本的に食事は大人組と子供組でバラバラだし、先日このテラスで揃って食事をした以来だろうか。
それでも不思議なもので、こうして四人が集うと、まるで家族が揃ったようにほっとする。
ファイにはサクラが、そして黒鋼には小狼がついているのがいつの間にか自然な形になっていたし、黒鋼とファイが一緒のとき、他の二人は滅多なことでは顔を出さない。
だからこそ、思えば小狼とはじっくり話をしたことがなかったことに気がついた。
彼も同じことを思ったのか、サクラが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ小狼が、ファイの方を見て言った。
「そういえばファイさん、ずいぶん髪が伸びましたね」
小狼の何気ない問いかけに、ファイはふにょりと笑って頷いた。
「そうなんだー。肩をちょっと過ぎるくらいだったのが、いつの間にか背中に届いちゃって」
ファイは後ろで一纏めにしている髪に手をやると、しゅるんと引っ張って前へ持ってきた。
「髪洗うのとか、実は結構めんどーなんだよねー。乾かすのも時間かかるし、地味に重いし」
「おれでよければ切りましょうか?」
「……!?」
「!?」
小狼がそう提案した瞬間、黒鋼とサクラがビクンと肩を揺らした。
「え? いいのー? ……って? 二人ともどうかした?」
「ファイさん……髪、切っちゃうんですか?」
サクラが残念そうに眉を下げている。いつもはぴょこんと元気に跳ねているアホ毛も、今は心なしかしょんぼりしているように見えた。
今も朝はいつもサクラが(寝坊したとき以外は)髪を結いにやってくる。最近ではすっかり手慣れたもので、時間の経過と共に解れてゴムが抜ける……ということも滅多になくなった。
サクラは紅一点ということもあるが、彼女のこういう悲しげな表情に、ファイも含めた男連中は滅法弱い。
黒鋼は目を逸らし、髪を切ることを提案した小狼はしまった、と口を噤む。
「ファイさんの髪、とっても綺麗で柔らかくてサラサラで……切っちゃうのは勿体ないです……」
「あー、うー、うん……でもさ、ほら、切ってもすぐに伸びるし、シャンプー代も節約になるでしょー?」
「この場所に果てしなく不釣り合いな単語ですね……節約って……」
「特にこいつが言うと妙に違和感があるな」
小狼と黒鋼の控えめな突っ込みが入った。
ここは大豪邸のテラスである。広大な洋風庭園を尻目に節約という庶民的な言葉は、確かに現実離れしているとは思うのだが。
黒鋼の突っ込みには、どこか棘が含まれている気がして、思わずムッとするファイ。
「そこ! 特に黒いの! うるさいなー。あ、ねぇサクラちゃん。オレなんかより、女の子のサクラちゃんが髪伸ばしてみたら? きっと可愛いと思うよー?」
「えぇ!? 私、ですか?」
「ねー? 可愛いよね? 小狼君」
「え!」
小狼は自分に話を振られるとは思っていなかったのか、ファイににっこり微笑まれて大袈裟に肩を揺らした。そして、ほんのりと頬を赤らめサクラを見やった。
サクラもまた頬を染めて、上目づかいに不安そうに小狼を見つめている。
「私……似合う、かな……?」
「!」
ほんのりどころか、茹でたタコのように顔全体を赤らめた小狼が、コクコクと大きく首を縦に振った。
「ほ、ほんと?」
「う、うん……はい……凄く……似合うと思う……ます……」
「!」
敬語とため語がない交ぜになりながら、どんどん語尾が弱くなっていく小狼の言葉に、サクラの髪がぴょこんと元気を取り戻した。そして、彼女は花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた。
「嬉しい……! じゃあ、伸ばしてみよう、かな?」
再びコクコクと頷いている小狼と、照れ笑いを浮かべるサクラの周りだけ、まるで秋も冬を通り越して春がきたように見えた。
「二人とも可愛いねー。ご馳走様ー」
すっかり和んだファイは、隣で黙々とカップに口をつけている黒鋼をチラリと見やった。
「……なんだよ」
「んー? 別にー。オレも一応はお伺いたててみよっかなーって」
「…………」
黒鋼は空になったカップを皿に戻すと「ふー」と息を吐き出した。まるで縁側のおじいちゃんみたいだなぁと、ファイは思った。
それから彼はこちらを見ると、表情一つ変えずに言った。
「好きにしろ」
「……うーん。不合格」
「あ?」
「もうぜんっぜん駄目ー。はーいやりなおしー」
ピキッ……と綺麗な青筋マークを浮かべた黒鋼が、面倒くさそうに溜息をつく。それから吐き捨てるように言った。
「だから、好きにしろって言ってんだ。てめぇが切りてぇっつったんだろ」
「だからー、黒様は長いのと短いのどっちがいいのかなーって思ったから、可愛く聞いてみたんじゃなーい!」
あからさまに「かわいく……? どこ……が……?」という顔をしている黒鋼に、ファイは思い切り唇を尖らせた。
「もういいよ! バカ! 黒たんのぶぁか!」
臍を曲げきったファイは、テーブルの中央の籠に可愛らしく収まっていた焼き菓子を手に取ると、もぐもぐと自棄食いしはじめる。
別に小狼とサクラのやり取りが羨ましかったわけではない。絶対ない。
短い方が似合うのか、長い方が似合うのか、ファイ自身としては自分の容姿に特別な拘りはなかった。ただちょっと好みを知りたかっただけだ。黒鋼はどちらが好きなのかと、ほんのちょっぴり、気になっただけ。
「小狼くんにバッサリザックリやってもらうもんね! ふん! ふんだ! ふんふん! 美味しいなぁコレ! ふん!」
「だからガキだってんだおまえは……」
「うるさいよもう!」
「…………」
ふんふん言いながら口をモグモグさせるファイの横顔を、黒鋼はテーブルに肩肘をついた手に頬を乗せながらじっと見つめる。
小狼とサクラが、そんな二人のやり取りをハラハラしながら見守っていた。
どうにか仲を取り持とうと小狼が口を開きかけたが、一瞬早く口を開いたのは黒鋼だった。
「別に……」
「?」
全員が黒鋼を見る。
「いいんじゃねぇのか。まだしばらく切らなくてもよ……」
「え?」
口の周りにカスを幾つもくっつけたファイは、食べかけの菓子をポロリと落とした。すかさず小狼が手を伸ばしてキャッチしている。
「長い方が、好きなんだ?」
「……だから……別に好きとかそーゆうんじゃなくてだな……」
「お気に入りなのー?」
「…………まぁな」
ボソリと言ってから即座にそっぽを向いてしまった黒鋼に、ファイは赤くなりながらみるみるうちに蕩けそうな笑顔を浮かべた。
「そっかー、お気に入りかー。うふふ」
何かのリズムに合わせたように、ファイはゆらゆらと左右に身体を揺らした。
本当のところを言えば、重いし洗うのは面倒だし、どちらかと言えば切る方向に気持ちは傾いていたのだが、黒鋼のお気に入りなら仕方がない。
ファイの機嫌が直ったことに、他の二人はほっとした様子だった。
もしかして、とファイは思った。
小狼とサクラのやり取りに便乗して訪ねてしまったが、この二人がいない場所で聞けば、もっと話はスムーズだったのかもしれないと。
先刻サクラが彼のことを「お父さんぽい」と言ったのを思い出す。
威厳、というわけではないが、子供たちの前では、なかなか照れ臭いのかもしれなかった。
(可愛いとこあるなぁ……)
けれど彼は基本的に、決してファイを否定しない。ファイが望むことを第一に優先する。だからこそ、二人の前で聞いてよかったと、ファイは思う。
まぎれもない黒鋼の本音を聞くことが出来たような気がしたからだ。
ファイからの生温かい視線にいたたまれなくなったのか、珍しく耳を赤くした黒鋼が、乱暴に立ちあがった。
「そろそろ戻るぞ」
「うふふ。行ってらっしゃーい」
テーブルに頬杖をつき、小さく手を振って見送るファイと、大股で庭の方へ遠ざかっていく黒鋼に小さく噴き出しながら、小狼もまた「ご馳走様」と言って立ちあがった。
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「いい天気だねー」
「いい天気ですね」
二人の頭上にはぽわ~んと小花が浮かんでいる。
「今年の秋はポカポカ陽気だねー」
「でも、夜はちょっぴり寒いですね」
「あれれ?」
「はい?」
「サクラちゃん、小狼君と一緒に寝てないのー?」
「はい!?」
きょとんと小首を傾げながら、なにやらとんでもないことをサラリと言ってのけたファイに、サクラは思わず手の中の皿とカップを取り落としそうになった。
「にゃ、にゃにっ、を!?」
「あ、噛んだ」
「ファイさん!!」
顔が破裂するのではないかと思うほど真っ赤になりながら、サクラは精一杯声を張り上げる。ファイはふにゃりと笑った。
「寒い夜は、誰かと一緒に布団に入るとポカポカだよー?」
「ぽ、ぽかぽか……」
サクラは恋する、そして夢見る少女である。
あまりにもファイがなんでもないことのように言うものだから、思わず引っ張られるかのごとく妄想……想像してしまう。
例えば寒くて寒くて仕方がない夜。猫や犬が一緒に寝てくれたら、もふもふできっと温かい。さぞかし寝心地もいいだろう。
けれどそれが、もし小狼だったら……。
……。
……。
…………。
チュボムッという音がした。
それはサクラの頭の天辺から、煙と一緒に出た音だった。
流石のファイも慌てふためく。
「さ、サクラちゃん!? なんか爆発したよー!?」
「む、む、む、無理ですー!!」
考えるだけで、本当に爆発して弾け飛んでしまいそうだった。
万が一そんな状況になれば、ポカポカどころの騒ぎではない。火が噴きだすのではないか。小狼まで巻き込んで、火だるまになってしまう。
サクラは「はにゃーっ」とか「ほえーっ」という訳のわからない奇声を発しながら、両手で顔を覆い、髪を振り乱した。
なぜかじんわりと涙が浮かんできて、潤んだ瞳でファイを上目使いに見上げる。
「私……私……」
涙目のサクラに見上げられているファイは「うっ」と息を詰まらせている。
「小狼君と一緒に、ね、寝るなんて……駄目です……」
「な、なんで?」
「ドキドキして……緊張して……眠れない、です……」
今だって、例えば夜寝る前だとか、隣の部屋に小狼がいると思うだけでもドキドキしてしまうことがある。
もう寝たかなとか、どんな夢を見てるのかなとか、夢の中で会えるかな、とか。
そんなことを考えるだけで胸が熱くなって、そして同じくらい、幸せな気持ちになったりもする。
もし隔てるものがなくなってしまったら、ドキドキしすぎて心臓が止まってしまうかもしれない。
小さな子供の頃は一緒に寝るくらい平気だったのに、少しずつ成長するにつれて、それはとても難しいことのように思えた。
高熱を発する頬を冷やすように、無意識に両手で包む。
小狼への気持ちが恋であることは自覚しているつもりだった。彼も同じ気持ちでいてくれたらいいなと、そんな淡い期待もある。いつか伝えられたらいいなと。
それでも今はただ遠くから見つめているだけで、小狼を想っているだけで、十分幸せだったのだ。
「ドキド……キ……? きんちょお……?」
ファイは笑ったまま、動かなくなってしまった。口元は笑っているのに、目だけは笑っていないような気がする。
そのまま少しだけ間が開いた。やがて、随分と遅れて彼は頬を染めた。そして、もじもじと俯いてしまった。
「……ごめん」
「……いえ」
「オレ……いつの間にか爛れた大人になっちゃってたみたい……」
「た、ただれ……?」
「なんでもにゃい……」
あ、噛んだ……という突っ込みは胸にしまった。からかわれることの多いサクラの目には、頬を染めているファイはとても珍しいものに映った。
そういえばファイは黒鋼の姿を見つけると、迷いなくその胸に飛び込んでいく。まるで犬猫が飼い主に甘えるみたいで、いつも微笑ましい気持ちで眺めていたのだが。
さきほどの話の様子から、いくら鈍いサクラでも察しがつく。寒い日の夜、ファイは黒鋼と寝ているのか……。
そんなことが、本当に、ごくごく普通に、それこそ大人の恋人同士みたいに小狼とできたなら……。
ファイとこんな会話をするまでは、考えたこともなかったけれど。
再び『ボンッ』という音がした。自分の頭のてっぺんから。
「わぁ!? サクラちゃんがセカンドインパクト!!」
「う、う、羨ましくなんてにゃいですぅ!!」
「何が!?」
再び奇声を上げてモダモダしはじめたサクラに慌てたファイが、無理やり話の方向を切り替えた。
「そうだ! ねぇサクラちゃんはあの開かずの間って入ったことあるの!?」
開かずの間、というキーワードにピンと来ず、サクラはコトリと小首を傾げた。
ファイは一瞬ハッとしてバツの悪そうな顔をして見せたが、すぐにニコニコ顔に戻った。少し引き攣っていたようには見えたが。
「ほ、ほら……書庫がある方の通路の、突き当りの……」
「あ、奥の部屋ですか?」
「うん……」
「ないですけど……どうして?」
「く、黒たんが……あそこに近づくとお化けに食われるぞって……あ、別に怖くないよ? ただほら、大きいお屋敷ってさ、そんな感じの雰囲気あるでしょー? ね?」
ファイは何やらしきりに言い訳めいたことを口走っているようだが、サクラは人差し指を唇の下に当てて「んー」と小さく唸った。
「あそこには何もいませんけど……あ、でも地下の食糧庫には、いつも気さくに声をかけてくださる落ち武者さんが」
「ちょい待って!? なに!? おもむろに何!? 何の話!?」
「え? だから落ち武者さんが」
「キィーヤァー!!!」
ファイは思い切り両耳を塞いで、頭をぶんぶんと振っている。長い尻尾のような金の髪が左右に揺れていて、サクラはそれを可愛いなと思った。
「知らなかった……やっぱいる……いるよこの屋敷……」
ブツブツと何かを呟いているファイの心中も知らず、とりあえず笑って言った。
「でもファイさん。あそこは開かずの間ではないと思いますよ?」
「……そう、なの?」
「はい。ちゃんと開くと思います。入ったことはないですけど、鍵がある場所も、私知ってます」
一瞬ファイが肩を震わせて、これまでとは違う反応を示した気がした。けれど特に気にせず続ける。
「確か、今は小狼君が管理しているはずですよ」
「小狼君が……」
サクラも、あの部屋に何があるのかは知らない。
ただ分かることは、おそらく少し前まで……ファイが目を覚ますまでは、鍵を所持していたのは黒鋼だったということと、今は小狼が管理しているということだ。
以前、偶然ではあるが黒鋼が小狼に鍵を手渡しているのをちらりと見かけたことがある。二人は何か真剣な面持ちで話をしていたようだったが、その内容も勿論知らない。
あとはサクラから見て、というより感じる限り、あの部屋にファイが怖がるような何かはいないということだけだ。
「きっと、何かとても大切なものがしまってあるんだと思います」
そう言ってにっこり笑ったサクラに、けれどファイは「そうだね」と言いながら、少し戸惑ったような顔を見せた。
いつも通り笑ってはいるけれど、何か違うような、そんな気がする。
「ファイさん?」
「ん?」
「あの……どうかしましたか?」
温かな陽気ではあるが、風に当たり過ぎて調子が悪くなったのだろうかと心配したサクラに、ファイは首を振ると明るく笑った。
「なんでもないよー? あ、紅茶冷めちゃったねー」
「あ! 新しく淹れなおしますね!」
「ありがとー」
そこから、再び和やかなお茶会が始まった。
***
バッチョーン……という大きな音がして、太い枝がボトリと落ちた。
足元にばっさり転がったそれをじっと見つめたあと、脚立に腰かけて刈り込みバサミを持ったまま遠方を見つめる黒鋼を、小狼は見上げた。
「黒鋼さん」
「……なんだ」
「……思いっきり……切る必要のない枝を落としたようです」
「……らしいな」
物静かな二人のやり取りは、大体いつもこんなトーンだった。
小狼はこっそり溜息を零しながら、黒鋼の視線の先を追いかけた。
そして、ブワサッ……という音を立てて、焼却炉へ持っていくために腕の中に一纏めにして抱えていた枝や雑草の塊を、地面に落した。
「小僧」
「……はい」
「……ちゃんと掻き集めろよ」
「……すみませんでした」
「…………」
「……いい、光景ですよね」
「……そうだな」
二人の男の視線のずっと先の方向には、頭上にピンク色の小花を飛ばしながら何やらお喋りに夢中になっている、ファイとさくらの姿があった。
はっきり言って思い切り和む。こう言ってはなんだが、こちらが砂漠なら、あちらは緑豊かなオアシスだ。
小狼は楽しそうに表情を活き活きとさせて笑っているさくらを見て、自然と目元が和らぐのを感じた。
ファイが目覚めた当初、彼はまだどこかぼんやりとしていて気だるげで、話しかけにくい印象があった。さくらも自分もだいぶ緊張したものだが、今ではあの頃が嘘のように彼はよく喋り、笑い、そして黒鋼に忠犬のごとく懐く姿を惜しげもなく披露する。
犬というより、猫のように線の細いイメージは、今も変わらないけれど。
だがそれよりもっと変わったと思えるのは、黒鋼だった。
小狼は切り落としてしまった枝を見て舌打ちをしている男に、ちらりと視線を走らせる。
彼はもっと硬質なイメージの強い男だった。まるで幾つもの死線を潜り抜けてきたのかと思えるほどの、鋭い瞳を持っていた。
彼が眠り続けるファイを、窓の外からいつも気遣わしげに見つめていたのは知っている。そして、さきほど余計な枝を切り落としてしまった彼が、ファイを見て瞳を柔らかく細めていたことも。
基本的に感情を表に出さない彼だが、ファイが目覚めてからは少しずつ、表情に色を乗せるようになった。
決して長い付き合いではないが、小狼にとっては微笑ましく思えることの一つである。
「休憩ですか?」
密かに物思いに耽っていた小狼だったが、脚立から下りてハサミを適当に放り投げる黒鋼に我に返った。
黒鋼は「まぁな」と呟くと、両手の軍手まで外してハサミの横に放ってしまう。
彼の足ははっきりとテラスの方向へと向けられていた。
「喉が渇いたからな」
「ちょっかいかけに行くんですね」
低い声が「うるせぇ」と呟くのを、小狼は確かに聞いた。
そしてその背中を見送りながら、思わず小さく噴き出した。
*
黒鋼と小狼が大事な枝をぶった切ったり、目尻をデレデレとさせている頃、ファイとサクラのティータイムは続いていた。
まるで山の天気のごとく、その会話の内容はころころと移り変わっていく。
現在のテーマは、黒鋼は一体幾つなのかという話だった。
「うーんと……36歳くらい……? でしょうか?」
悩みに悩んだ末サクラが出した答えに、ファイは思わず紅茶を噴きだしかけた。
「ちょ、それはいくらなんでもー……」
「え? でも、大人の男の人って感じだし……なんだか最近は、お父さんぽいというか……」
「お父さんねぇ……サクラちゃんは今幾つだっけ?」
「16です。小狼君も」
「そっかそっか。若いなぁ」
16と言えば酒や煙草どころか、パチンコ屋にすら入れない年齢である。それだけ若ければ、ファイと目線が違っても仕方がない。もちろん自分が幾つなのかもファイは忘れてしまっているのだが、この少女にしてみれば、黒鋼は立派な『オジサン』に見えるのだろうか……なんて思うと、実に愉快だ。
「プッ」
指先を口元に当ててにんまりと笑ったファイに、サクラが首を傾げている。
それにしても36歳とは。おそらくそこまでは行っていないだろうが、ふとその年齢に達した黒鋼の姿を想像してみる。
今よりもさらに渋さが増して、ちょっぴりくたびれたような表情に、無精ヒゲなんかを生やしたりなんかして……。
「やばい……かっこよすぎる……」
「?」
思わずときめいた。頬がカッとなって、ファイは片手で口元を覆う。出来れば今のこの二ヤけた口元は、誰にも見られたくない。
「ファイさんは? 黒鋼さん、何歳だと思いますか?」
「そうだなぁ……」
ファイは腕を組むと、身体ごと首を傾げて深く唸った。
「オレは流石にまだ30は行ってないと思うんだー。20代中頃とかが無難かなぁ? でも実は前半ってことも……」
「私の予想とぜんぜん違う……」
「多分老け顔だからねぇ……あのタッパだし。サクラちゃんくらいになら、そう見えても仕方ない、のかなぁ?」
サクラが感心したような面持ちでふむふむと頷いている。
「あ、じゃあさー、オレはオレはー? 幾つくらいに見えるー?」
ウキウキとしながら聞くと、サクラはまた「うーん」と小さく唸りながら、まじまじとファイの顔を見つめた。
「ファイさんは……なんだかぜんぜん予想がつかないです」
「えー! そこをなんとか!」
身を乗り出すと、勢いに押されたサクラは少し身を引いた。それからまた少し唸ったあと、躊躇いがちに上目づかいで言った。
「えっと……19歳とか……はたち、くらい……?」
「え!? 10代!?」
その答えを聞いたファイは、一気に瞳を輝かせた。実のところ黒鋼の年齢の予想を聞いていたので、あまり期待はしていなかったのだが、思いのほか若い見解に思わず椅子から立ち上がった。
「19歳! 気に入った! うぅん今決めた! オレ19歳ってことにしよう!」
「あ、えっと……本当に、想像できないんですけど……なんとなく……若々しいので」
「そっかー、若々しいかー、えへへー」
「そいつは遠まわしにガキ臭ぇってことだろ」
「!?」
驚いて二人同時に声の方へ目をやれば、ファイの背後に黒鋼が仁王立ちしていた。
「あ、黒鋼さん。お疲れ様です」
サクラが立ちあがり、ぺこりと頭を下げるのに彼は片手を上げて「おう」と答えると、ファイの横の椅子を引いてどっかりと腰かけた。
「黒様ヒドいよー。オレのどこかガキ臭いのさー」
「つーか何の話だよ」
「黒鋼さんは何歳なのかってお話をしてたんです」
黒鋼の分の紅茶を準備しながら、サクラが答えた。ちなみにお茶を淹れる彼女の手元はいつもプルプルと震えていて、見ていると少しハラハラする。
「そーそー。年齢不詳だよねーって」
「はぁん」
黒鋼はそんなことかと、あたかも興味なさげにカップを受け取り、口をつけた。
「サクラちゃん予想では、黒たんは36歳なんだよ」
「ぶっ!!」
「うわ! きっちゃなーい!」
「ご、ごめんなさい黒鋼さん! やっぱり……違いますよ、ね?」
「当たりめーだ!!」
手の甲で乱暴に口元を拭いつつ怒鳴る黒鋼に、しゅーんとするサクラの頭を「よしよし」と撫でながら、ファイは勝ち誇ったように笑った。
「でねー、オレは19か20くらいに見えるんだって!」
「そいつはおまえ、ガキがガキに気ぃ使っただけだ」
「え!?」
そうなの……? と恐る恐るサクラを見ると、彼女は石のようにビキビキと硬くなりながら、ぶんぶんと首を左右に振った。なんだかもうそれだけで十分答えになっているような……。
「言っておくがな」
遠い目をするファイを見て、黒鋼はにやりと悪人のような顔をして笑った。
「てめぇは俺より年上だ」
「「ええぇぇぇ!?」」
ファイとサクラが同時に驚愕の声を上げた。それこそまさに予想外の展開である。
「じゃ、じゃあ……ファイさんは37歳……」
「!?」
「あのな……だから俺は30にさえまだなってねぇよ」
「あ、そうでした……」
「そんな……そんな……黒たんの方が若いなんて……そんな……」
ファイは凄まじいショックを受けていた。
年下を相手に甘えまくっていたのか……という、なんともむず痒いような照れ臭さもあった。かといって今更なので自重する気はないのだが、年齢云々というより、ファイにとって黒鋼はひたすら『大きな存在』だったため、どうも不思議な感覚だった。
ということは黒鋼が老け顔なら、自分はただの若造りということになるのだろうか……。
実際のところ36歳なのはこちらの方だったらどうしよう、と考えてファイは青褪めた。もしそうだとしたら、オッサンの域にほんのり片足を突っ込んでいるということになる。
「これは夢……きっと現実世界のオレは花の19歳……」
「思い切り殴ってみるか? 夢じゃねぇって理解できるぜ」
「なんのお話ですか?」
そのとき、今度は作業を終えた小狼がひょっこりと顔を出した。
律儀な彼は黒鋼のように適当に仕事を放り投げることなく、ある程度の仕事をきっちりこなしてきたようだ。額が少し汗ばんでいる。
「小狼君! お疲れ様!」
ぽっと頬を赤らめたサクラが、どこから取り出したのかタオルを小狼に差し出している。
俺のときとはえらい違いだな、と黒鋼の目がどこか据わっているが、それを口に出して言うつもりはないようだった。
「あの、ファイさんが物凄い負のオーラをまとっている気がするんですけど……」
「ほっとけ」
「え、でも……」
小狼が椅子に腰かけると、すっかり四人でテーブルを囲む形になった。
サクラは活き活きとしながらも相変わらず不安定な手つきで、小狼の分のカップに紅茶を注いでいる。
そういえばなんだかんだで、こうして四人がじっくりと顔を突き合わせて一つの場所に落ちくのは、珍しいような気がする。基本的に食事は大人組と子供組でバラバラだし、先日このテラスで揃って食事をした以来だろうか。
それでも不思議なもので、こうして四人が集うと、まるで家族が揃ったようにほっとする。
ファイにはサクラが、そして黒鋼には小狼がついているのがいつの間にか自然な形になっていたし、黒鋼とファイが一緒のとき、他の二人は滅多なことでは顔を出さない。
だからこそ、思えば小狼とはじっくり話をしたことがなかったことに気がついた。
彼も同じことを思ったのか、サクラが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ小狼が、ファイの方を見て言った。
「そういえばファイさん、ずいぶん髪が伸びましたね」
小狼の何気ない問いかけに、ファイはふにょりと笑って頷いた。
「そうなんだー。肩をちょっと過ぎるくらいだったのが、いつの間にか背中に届いちゃって」
ファイは後ろで一纏めにしている髪に手をやると、しゅるんと引っ張って前へ持ってきた。
「髪洗うのとか、実は結構めんどーなんだよねー。乾かすのも時間かかるし、地味に重いし」
「おれでよければ切りましょうか?」
「……!?」
「!?」
小狼がそう提案した瞬間、黒鋼とサクラがビクンと肩を揺らした。
「え? いいのー? ……って? 二人ともどうかした?」
「ファイさん……髪、切っちゃうんですか?」
サクラが残念そうに眉を下げている。いつもはぴょこんと元気に跳ねているアホ毛も、今は心なしかしょんぼりしているように見えた。
今も朝はいつもサクラが(寝坊したとき以外は)髪を結いにやってくる。最近ではすっかり手慣れたもので、時間の経過と共に解れてゴムが抜ける……ということも滅多になくなった。
サクラは紅一点ということもあるが、彼女のこういう悲しげな表情に、ファイも含めた男連中は滅法弱い。
黒鋼は目を逸らし、髪を切ることを提案した小狼はしまった、と口を噤む。
「ファイさんの髪、とっても綺麗で柔らかくてサラサラで……切っちゃうのは勿体ないです……」
「あー、うー、うん……でもさ、ほら、切ってもすぐに伸びるし、シャンプー代も節約になるでしょー?」
「この場所に果てしなく不釣り合いな単語ですね……節約って……」
「特にこいつが言うと妙に違和感があるな」
小狼と黒鋼の控えめな突っ込みが入った。
ここは大豪邸のテラスである。広大な洋風庭園を尻目に節約という庶民的な言葉は、確かに現実離れしているとは思うのだが。
黒鋼の突っ込みには、どこか棘が含まれている気がして、思わずムッとするファイ。
「そこ! 特に黒いの! うるさいなー。あ、ねぇサクラちゃん。オレなんかより、女の子のサクラちゃんが髪伸ばしてみたら? きっと可愛いと思うよー?」
「えぇ!? 私、ですか?」
「ねー? 可愛いよね? 小狼君」
「え!」
小狼は自分に話を振られるとは思っていなかったのか、ファイににっこり微笑まれて大袈裟に肩を揺らした。そして、ほんのりと頬を赤らめサクラを見やった。
サクラもまた頬を染めて、上目づかいに不安そうに小狼を見つめている。
「私……似合う、かな……?」
「!」
ほんのりどころか、茹でたタコのように顔全体を赤らめた小狼が、コクコクと大きく首を縦に振った。
「ほ、ほんと?」
「う、うん……はい……凄く……似合うと思う……ます……」
「!」
敬語とため語がない交ぜになりながら、どんどん語尾が弱くなっていく小狼の言葉に、サクラの髪がぴょこんと元気を取り戻した。そして、彼女は花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた。
「嬉しい……! じゃあ、伸ばしてみよう、かな?」
再びコクコクと頷いている小狼と、照れ笑いを浮かべるサクラの周りだけ、まるで秋も冬を通り越して春がきたように見えた。
「二人とも可愛いねー。ご馳走様ー」
すっかり和んだファイは、隣で黙々とカップに口をつけている黒鋼をチラリと見やった。
「……なんだよ」
「んー? 別にー。オレも一応はお伺いたててみよっかなーって」
「…………」
黒鋼は空になったカップを皿に戻すと「ふー」と息を吐き出した。まるで縁側のおじいちゃんみたいだなぁと、ファイは思った。
それから彼はこちらを見ると、表情一つ変えずに言った。
「好きにしろ」
「……うーん。不合格」
「あ?」
「もうぜんっぜん駄目ー。はーいやりなおしー」
ピキッ……と綺麗な青筋マークを浮かべた黒鋼が、面倒くさそうに溜息をつく。それから吐き捨てるように言った。
「だから、好きにしろって言ってんだ。てめぇが切りてぇっつったんだろ」
「だからー、黒様は長いのと短いのどっちがいいのかなーって思ったから、可愛く聞いてみたんじゃなーい!」
あからさまに「かわいく……? どこ……が……?」という顔をしている黒鋼に、ファイは思い切り唇を尖らせた。
「もういいよ! バカ! 黒たんのぶぁか!」
臍を曲げきったファイは、テーブルの中央の籠に可愛らしく収まっていた焼き菓子を手に取ると、もぐもぐと自棄食いしはじめる。
別に小狼とサクラのやり取りが羨ましかったわけではない。絶対ない。
短い方が似合うのか、長い方が似合うのか、ファイ自身としては自分の容姿に特別な拘りはなかった。ただちょっと好みを知りたかっただけだ。黒鋼はどちらが好きなのかと、ほんのちょっぴり、気になっただけ。
「小狼くんにバッサリザックリやってもらうもんね! ふん! ふんだ! ふんふん! 美味しいなぁコレ! ふん!」
「だからガキだってんだおまえは……」
「うるさいよもう!」
「…………」
ふんふん言いながら口をモグモグさせるファイの横顔を、黒鋼はテーブルに肩肘をついた手に頬を乗せながらじっと見つめる。
小狼とサクラが、そんな二人のやり取りをハラハラしながら見守っていた。
どうにか仲を取り持とうと小狼が口を開きかけたが、一瞬早く口を開いたのは黒鋼だった。
「別に……」
「?」
全員が黒鋼を見る。
「いいんじゃねぇのか。まだしばらく切らなくてもよ……」
「え?」
口の周りにカスを幾つもくっつけたファイは、食べかけの菓子をポロリと落とした。すかさず小狼が手を伸ばしてキャッチしている。
「長い方が、好きなんだ?」
「……だから……別に好きとかそーゆうんじゃなくてだな……」
「お気に入りなのー?」
「…………まぁな」
ボソリと言ってから即座にそっぽを向いてしまった黒鋼に、ファイは赤くなりながらみるみるうちに蕩けそうな笑顔を浮かべた。
「そっかー、お気に入りかー。うふふ」
何かのリズムに合わせたように、ファイはゆらゆらと左右に身体を揺らした。
本当のところを言えば、重いし洗うのは面倒だし、どちらかと言えば切る方向に気持ちは傾いていたのだが、黒鋼のお気に入りなら仕方がない。
ファイの機嫌が直ったことに、他の二人はほっとした様子だった。
もしかして、とファイは思った。
小狼とサクラのやり取りに便乗して訪ねてしまったが、この二人がいない場所で聞けば、もっと話はスムーズだったのかもしれないと。
先刻サクラが彼のことを「お父さんぽい」と言ったのを思い出す。
威厳、というわけではないが、子供たちの前では、なかなか照れ臭いのかもしれなかった。
(可愛いとこあるなぁ……)
けれど彼は基本的に、決してファイを否定しない。ファイが望むことを第一に優先する。だからこそ、二人の前で聞いてよかったと、ファイは思う。
まぎれもない黒鋼の本音を聞くことが出来たような気がしたからだ。
ファイからの生温かい視線にいたたまれなくなったのか、珍しく耳を赤くした黒鋼が、乱暴に立ちあがった。
「そろそろ戻るぞ」
「うふふ。行ってらっしゃーい」
テーブルに頬杖をつき、小さく手を振って見送るファイと、大股で庭の方へ遠ざかっていく黒鋼に小さく噴き出しながら、小狼もまた「ご馳走様」と言って立ちあがった。
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黒鋼は、月に二度三度のペースで屋敷を空けることがあった。
そんな日は一日中、ファイの機嫌は最悪である。
大概の我儘は聞き入れてくれる黒鋼でも、こればかりは譲れないらしかった。
彼は、街の病院に入院する母親の見舞いに出かけていくのだから。
***
その日は朝から雨だった。
黒鋼は朝食を済ませ、少し庭に出たあと屋敷を出て行った。
出がけに不貞腐れるファイの頭を撫でながら、彼はほとんど表情を変えなかったけれど、なんとなく困らせているのだろうなということは分かった。
いってらっしゃいの代わりに、ファイは「早く帰って来てね」とだけ言った。彼はいつも夕食の前までには必ず戻って来たけれど、それよりも早く戻れるなら、そうして欲しくて。
雨のせいで屋敷全体は薄暗く、先の幽霊話の一件も手伝って、ファイは屋敷の中をブラつくこともせず部屋で一日中腐っていた。
サクラや小狼も常に側にいられるわけではなく、そういえば自分だけがこの屋敷にいて、何の役割も与えられていないことに気がついた。自分がここの主ならばまだしも、それはいまいちハッキリしない。
いくらなんでもそこまで隠す必要性を感じないファイは、ならばここの持ち主は、これほど大きな屋敷を放り投げて一体どこをほっつき歩いているのかと、不思議に感じた。
自分は何のためにここにいるのだろう。そして、ファイには黒鋼という存在が必要不可欠だけれど、彼は同じだけ求めてくれているのだろうか。
所有者が所有物をどう扱おうが、それが機械やただの道具だったら、気にも留めないことだった。けれど黒鋼は物じゃないし、万能な機械でもない。心を持った人間だ。好き嫌いがあれば、許容できる範囲だって限られているはず。
この妙な関係が契約のもと成り立っているのなら、黒鋼の心が別にあったとしても、ファイには分からない。
一人でいると、そんなことばかりが頭をチラついた。
***
片時も止むことなく降り続いていた雨は、時間が経つにつれて雨足と、そして風を強めていった。
外が暗くなる頃には、ザーザーという音が耳を塞いでいても嫌でも耳に入って来るほどだった。
いつもなら、夕食の前には必ず戻って来るはずの黒鋼の帰宅が、今日に限って遅い。
おかげで食事もどことなく味気ない気がして、気がつくと手が止まり、ぼんやりしてしまう始末だった。
それでもサクラや小狼が気遣ってくれていることを知っていたから、どうにか腹に押し込めた。今はただひたすら胃の辺りが重苦しい。
ファイは窓辺に立ち尽くしたまま、ガラスにぺったりと手のひらを当てて、暗い庭を見つめていた。
「……遅すぎる」
はじめのうちはなかなか戻らない黒鋼に腹も立っていた。
けれど時計の針が進むにつれて、苛立ちはあらゆる不安へと姿を変える。
この大雨の中、もしかして何かあったのではないかと、嫌な想像ばかりが先刻から頭の中にこびりついて離れてくれなかった。
もし事故にでもあって大怪我をしていたら。
もし……もし怪我だけでは済まなかったら……もう会えなかったら……。
あるいは、本人の意思でもうここへは帰って来るつもりがないのだとしたら。
「そんなの……」
絶対に嫌だった。
約束は守っている。屋敷と庭でしか遊ばないし、森にだって一度も足を踏み入れていない。外へ出るなんてもっての外だ。そもそも、出て行ったところで行くあてだってない。
愛想を尽かされていたらどうしよう。見捨てられたら、置き去りにされたら、投げ出されたら、忘れられてしまったら。
何より怖いのは、一言の言葉も交わさず、突然失うこと。
二度と会えなくなること。
世界中どこを探しても、死んでしまったら、もう……。
「……嫌だな、なに考えてるんだろうオレ。死ぬなんてそんな、縁起でもないこと」
窓の外の木の枝が、豪風と雨に打たれてガラス窓にぶつかる。バタバタという雨音と、ゴツゴツという枝が窓を叩く音が、なんだかとても恐ろしいものに思えて、ファイはその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。
最悪だと思った。これも全部、黒鋼のせいだ。
いつまでも帰って来ないから、こんなにもマイナスの考えに取りつかれるし、結局は一日中不安なままだった。ベッドに入ったって、どうせ眠れるわけがない。
それでもただ床に蹲っているよりはと、ファイはのろのろと立ち上がりベッドへと向かおうとした。
そのとき、窓の外に何か光るものが映った気がした。
「……!」
遠く、庭の向こう側の門に小さく見えた明かりの正体は、車のライトだった。
「黒たん!」
慌てて部屋を飛び出し、玄関ホールへ行くと、そこにはずぶ濡れの黒鋼と、彼にタオルを差し出す小狼の姿があった。
「おう」
短く返事をしながら、受け取ったタオルを頭からかぶった黒鋼が、片手を上げる。
思わずカッとして、ファイは早足に近づくときっと睨みつけた。
「なんて顔してんだよ」
やれやれといった表情の黒鋼と、その隣では濡れた上着を受け取った小狼が、困った顔をしていた。
「遅いよ……! 連絡ぐらいくれたっていいのに!」
「しょうがねぇだろ……事故に巻き込まれちまったんだからよ」
「事故!?」
サァ、と青ざめたファイだったが、すかさず小狼が続けた。
「黒鋼さんは無事ですよ、ファイさん。ただ、交通規制がかかったせいで足止め状態だったそうで」
思い出したのか、黒鋼が苛立ったように舌打ちをすると、すっかりびしょ濡れになったタオルも小狼に渡した。
「冗談じゃねぇ。他に道はねぇわ腹は減るわで……」
「災難でしたね……。よければ夕食を温めなおしますか?」
「いや……」
黒鋼は申し出を左手で軽く遮ると、自分のシャツの裾を握り締めたまま俯くファイを見た。
「じゃあ、せめて風邪をひかいないうちにお風呂へ」
「おう。おまえもとっとと休めよ」
「わかりました。じゃあ、着替えだけ準備しておきます」
「だめ」
一連の会話をただ黙って聞いていたファイだったが、辛抱たまらず短く制すと、黒鋼の濡れた袖をぎゅっと掴んだ。
「お風呂、オレんとこで入るでしょ……? 着替えは、オレが準備するから」
ファイ以外の3人は、この屋敷の二階にあるゲストルームを適当に自室として使っている。黒鋼の部屋にはこれまで幾度か入ったことがあったので、勝手は知っていた。
もっとも、彼はほとんどファイの部屋で生活しているも同然だったので、せいぜい着替えに戻る程度だった。
「でも……」
「それも、ちょうだい」
戸惑う小狼に、濡れた黒鋼の上着を寄こせと手を差し出す。
今は誰にも彼のものを触らせたくなかった。彼は自分のものだ。なら、彼が身につけるものも何もかも、自分のものだ。
心底困り果てた表情で黒鋼とファイを交互に見ていた小狼に、黒鋼が頷いて見せる。
「着替えはいい。こいつの好きにさせる。それだけ頼む」
「……はぁ」
「黒たんっ」
声を荒げたファイに「行くぞ」と言って、黒鋼は部屋へ向かって歩き出した。仕方なく、ファイはそんな彼の背中を追った。
シャンデリアの煌煌と煌めく玄関ホールには、ずぶ濡れの上着とタオルを持った小狼と、そんな彼が零した溜息だけが残された。
*
黒鋼が浴室でシャワーを浴びる音を確かめると、ファイは黒鋼の部屋から適当な着替えを引っ掴んで自室に戻った。
持ってきたものを洗面所に置いてから、ファイはベッドにぼすんと音を立てて座った。
程なくして白いシャツとジャージの下だけを穿いた黒鋼が戻って来た。
彼が戻って来たことで解消されたはずの不安が、未だファイの中で渦巻いている。もちろん安心感はある。だからこその苛立ちもまた沸々と蘇って来て、ファイは膝の上で両手を握りしめたまま、微動だにできないでいた。
「そろそろ機嫌なおせよ。好きで立ち往生したわけじゃねぇんだ」
ファイの横に腰を下ろし、黒鋼が肩に腕を回すと抱き寄せてくる。大人しく身体を預ければ、石鹸の香りと熱いくらいの体温が感じられて、ファイは少し泣きたくなった。
「そのくらいわかってるよ……でも……でも、早く帰って来てって言った」
「そうだったな」
黒鋼の手がファイの頭に触れて、指が髪を梳く。そのままさらに引き寄せられて、黒鋼の首筋に額がぴったりとはまる。
「ご飯、毎日一緒じゃなきゃやだ」
「悪かった。本当に」
「本当は……出かけるのだって……」
「……わかってる」
黒鋼の指が優しく髪に触れれば触れるほど、ファイは情けなくて唇を噛みしめた。
本当は何事もなく無事に帰って来てくれたことが嬉しい。ただそれだけのはずだった。なのに口から出てくる言葉は、呆れるほどどうしようもないものばかりだった。
素直に欲しいものばかり声に出すことは出来るのに、労わる言葉の一つもかけられない。そんな自分を、彼はどう思っているのだろう。
ファイは黒鋼が屋敷を開ける日が、とても嫌だった。病に伏している家族がいるのなら、きっと毎日でも通って傍にいたいと思っているはずだ。それでも彼は月のうち、片手の指で足りるほどしか出かけない。自分が縛りつけているからなのだと、ちゃんと分かっているのに。
気持ちを制御できなくて、小狼にまで八つ当たりしてしまった。
「凄く嫌な奴だね……オレって」
「なんだよ、いきなり」
ふっと、黒鋼が笑った。そんな風に甘やかすからいけない。そうするように命じているのは、ファイ自身なのに。
試しているのかもしれないと、ふいに思う。
彼がどこまで自分の我儘を赦してくれるのか、もし本当に見限られるようなことがあれば、生きてなんていけないくせに。
そう、彼なしでは。
ファイは震える手を黒鋼の胸にぴたりと当てる。そして、白いシャツをぎゅっと握った。
「生きていけない」
「…………」
「君がいなくなったら、生きていけない」
顔を上げれば、黒鋼は僅かに瞳を見開いていた。頼りない照明の中でもわかる、紅蓮の瞳。
いっそ全て焼きつくしてくれたらいいと思った。こんな我儘な自分を、彼に依存しなければ生きていけない自分を、それ以外、空っぽの自分を。
「死んでやるから」
こんなときでさえ我儘しか言えないファイに、黒鋼は一度だけ目を閉じた。そして、ふと口元に微かな笑みを乗せる。そして言った。
「あのときと、同じようなことを言うんだな。おまえは」
「え……?」
黒鋼が呟いた言葉に目を見開いた。けれどその視界はすぐに黒い影に覆われてしまう。
唇を塞がれ、熱い舌が差し込まれた。
「ッ、ふ……」
一瞬だけ逃れようと肩をすくめたファイを、黒鋼は許さなかった。強く身体を抱きしめられて、ひたすら濃厚な口づけを与えられる。
戸惑う暇もないうちに、身体の奥に火を灯される。知らぬ間にファイも彼の背に腕を回して、もっともっとと深く求めていた。
何もかもどうでもよくなる。それは、本当はとても怖いことなのに。
どこまで堕ちていくのだろう。
糸を引きながら唇が離れていく。
シャツのボタンを一つ一つ外していく無骨な指先を、ぼんやりと見つめた。露わになった白い胸にも、口づけの雨が降り注ぐ。
がっしりとした肩に手を這わせて、怯えるように縋りついた。
じんわりと、舌の上で氷を溶かすような愛撫はどこまでも優しくて、ファイは震えながらか細い声で啼く。
「咥えろ」
黒鋼の人差し指と中指が、唇に宛がわれる。泣きそうに潤んだ瞳を揺らすファイは、言われるままそれを口に含んだ。
ゆるゆると出し入れされる指に、濡れた音を立てながら必死に舌を絡める。
夢中になっている間に、気がつけばファイは黒鋼に全てを曝け出していた。中途半端にシャツを両腕に引っ掛けるだけで、下肢はもともと何もなかったかのように、肌が剥き出しになっている。
「ぁふ……ッ! んんっ……や、ぁ」
「ガキみてぇだな。おまえのここは」
右手の指をファイの好きにさせている黒鋼は、左手の指でファイの淡い茂みをひと撫ですると、そのまま性器に絡めた。ビクンと背筋を反らせたファイの身体が崩れ落ちる。
柔らかなシーツに受け止められながら、両手でしっかりと黒鋼の手首を掴んだ。舌の上で二本の指がばらばらと蠢く度に、頭の中身ごと掻きまわされているような気がして、目が回った。
黒鋼は性器に絡めた指をゆるゆると動かしていく。彼の大きな手で包まれては、確かに自分の薄紅の性器など子供じみた拙いものに見えてしまう。
羞恥と駆け巡る快感を堪えるように、ファイは意地になって二本の指を愛撫する。わざと音を立てて、黒鋼の注意を引きつけるかのように。
「んぅ、ぅ……ッ、は、ぁ……」
二本の指にファイの唾液が滴るまでになると、もう余裕はなかった。性器を扱く黒鋼の指は一定のリズムを保ち続けている。ゆるゆるとした動きに弄ばれたそれは、完全に勃起して天を仰いでいた。
追いつめて、もっとずっと高い場所へ押し上げてほしい。
けれどそれを口に出して言えば、あっという間に解放させられてしまう。それを望んでいるくせに、今がずっと続けばいいとも思っている。
「もうイクか?」
「んくっ、ぁ、あッ、や、い、かな……ッ」
もはや指などしゃぶっていられる余裕のないファイは、黒鋼の手首を掴んだまま、ぶるぶると首を振った。
「辛いんだろ」
「だっ、て! おわっちゃう、から……!」
「終わらねぇよ」
「ッ―――!!」
黒鋼の親指が先走りに滑る鈴口を抉るように引っかいた。その刺激は到底耐えられるものではなく、ファイはあっけなく射精した。
はくはくと呼吸を繰り返し、痙攣するファイの両足がさらに開かれる。両手の中から黒鋼の腕が遠ざかっていく。
「何度でもしてやる。おまえが満足するまで、何度でも」
黒鋼の声が、耳の中でどろりと溶けていくような気がした。心も身体も、火で焙られた蝋燭の蝋のように。
彼の言葉はどこまでもファイを強欲にし、そして堕落させる。まだ底があるのかと思うくらい、深く深く、容赦なく。
「だ、め……」
唾液に濡れた指が精液をも絡め取り、至ったのはファイの身体の奥まった場所だった。
これまでも幾度か交わした行為により、もうすっかり覚え込んでいる身体は、挿入の衝撃を思い出して震えた。
「だめ……」
「どうして」
ぐちゅりと音がして、指が潜り込む。優しく解されていく感覚は、快楽と比例してなぜか酷く情けないものだった。
「何が駄目だ? 言えよ」
ファイは首を振った。自分でもよくわからなかった。黒鋼に抱かれるのは嫌じゃない。むしろ欲しくて欲しくて堪らないはずなのに。
「なぁ、どうすればおまえは怯えなくて済む? 何が不安だ?」
「ふ……あん……?」
「これ以上、何が足りない?」
俺は、どうしてやればいい?
黒鋼の表情の方が、ずっと不安げに見えるのはなぜだろう。
どうしてか、まるで泣きだす寸前の子供のように、ファイの目に映った。
そしてそのとき、ファイには少しだけ分かったような気がした。
自分には、何も役割がないと思っていた。だけど。
「黒たん……くろがね……」
両腕を伸ばし、誘うように彼を抱き寄せた。身体から指が引き抜かれる感覚に、背筋が震えたのは一度だけ。
「一人にしないで」
耳元で囁く。
「言って。愛してるって」
「……愛してる」
「オレの言うこと、聞いて。ずっと、永遠にオレのものだって、誓って」
「誓う。おまえのものだ」
「なら」
滅茶苦茶にしてと、ファイは言った。
そこはまだ十分に解されてはいない。けれどファイが「欲しい」と言えば、黒鋼は抗わない。
痛いも熱いも苦しいも、何もわからないで二人は夢中で繋がった。
これ以上は無理だと思えるくらい黒鋼が奥へと進んできても、ファイは欲しがることを止めなかった。突き破って、頭の中まで掻きまわして、壊すくらいに揺さぶって欲しい。
ファイは見つけた。ただ我儘を言って、欲しがるだけの自分を、どこかで恥じていたけれど、黒鋼の存在が自分の中の欠けた『何か』を満たしてくれるように、欲しがることで、彼を満たしているというのなら。
ようやく自分という存在に意味を見つけることが出来たような、そんな気がした。
***
「わぁ、外白んでる」
それは酷くしゃがれていて、ファイは自分の声に驚いた。幾度か咳き込む背を黒鋼が苦笑しながら撫で摩る。
「雨も止んだな」
「うん……ケホッ」
天蓋つきのベッドに二人、裸でシーツに包まりながら、まだ薄暗い窓の外を眺めていた。
いい加減眠ればいいのに、なぜかお互いそうする気になれずに、ぽつりぽつりと会話を続けている。
激しく抱き合った余韻は、漆黒の闇が滲むようにゆっくりとベールを剥がし、やがて朝が訪れるのと同じく静かに過ぎ去って行った。
鉛のように重い身体も、ジンジンとした痺れる痛みも、なぜか清々しいほど心地いい。
「オレね……目が覚めたときから、何か足りないって、思ってたんだよね」
自分の中で何かが欠けているような、ここに確かに存在しているのに、大切なものをすっぽりと置き忘れているような。けれどそれが一体なんなのかが分からず、ただ闇雲に手を伸ばそうとしていたような気がする。
「空っぽだなって……でも、それはただオレに記憶がないからだって、そう思ってた」
するりと手が伸びて来て、いつの間にか解けていた長い金の髪を掬った。そのまま指に絡めたり、梳かしたりする仕草にクスリと笑う。
「……違ったのか?」
「わかんない。本当は、今もまだ欠けてるのかもしれない。けど、黒たんといるとね、埋まるの。こうしてると、オレの中、いっぱいになる」
溢れて零れだすくらい、ファイの中は黒鋼で満たされる。それでも彼は継ぎ足すのを止めないから、満たされすぎていっそ見失っていた。
「いっぱいになると、忘れちゃう。全部」
髪を弄んでいた指が、どこか満足げに今度はファイの頬をくすぐった。吐息のような笑い声を零しながら、ファイは肩を竦める。
「そうか」
黒鋼がファイを生かし、ファイが黒鋼を生かしている。そんな気がした。彼は花を愛でるのと同じ優しさで、ファイに触れるから。そこに言葉がなくても伝わった。
お互いに注ぎ合い、溢れだして止まらない。それは溺れていることと同じだった。抱き合うことに必死すぎて、泳ぐことも出来ずに深い水底へと堕ちていく。どこまでも、どこまでも。果てがない。
ファイはそれを、たった一人で溺れているのだと勘違いしていた。こんなにも強く抱き合っていたことに気付かずに。
「あ、そうだ。黒たん」
「ん?」
そういえば思いだした。もう一つ、彼に大切なことを言わなければならなかったことを。
ファイは重い半身を僅かに起こすと、黒鋼の胸板に肘を乗せて頬杖をついた。そして悪戯っ子のように笑った。
「次、帰って来るの遅くなったらお仕置き。しばらくお喋りしてあげない」
そう言うと、黒鋼はぱちぱちと幾度か瞬きをした。よく見ると、その瞳を縁取る睫毛は意外と長い。彼は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。
「そいつはキツイな」
本当にそう思っているのか、いないのか。もし本当にそのときが来れば、自分の方が持たないことを知っているファイは、しゃがれた声を上げて笑った。
←戻る ・ 次へ→
そんな日は一日中、ファイの機嫌は最悪である。
大概の我儘は聞き入れてくれる黒鋼でも、こればかりは譲れないらしかった。
彼は、街の病院に入院する母親の見舞いに出かけていくのだから。
***
その日は朝から雨だった。
黒鋼は朝食を済ませ、少し庭に出たあと屋敷を出て行った。
出がけに不貞腐れるファイの頭を撫でながら、彼はほとんど表情を変えなかったけれど、なんとなく困らせているのだろうなということは分かった。
いってらっしゃいの代わりに、ファイは「早く帰って来てね」とだけ言った。彼はいつも夕食の前までには必ず戻って来たけれど、それよりも早く戻れるなら、そうして欲しくて。
雨のせいで屋敷全体は薄暗く、先の幽霊話の一件も手伝って、ファイは屋敷の中をブラつくこともせず部屋で一日中腐っていた。
サクラや小狼も常に側にいられるわけではなく、そういえば自分だけがこの屋敷にいて、何の役割も与えられていないことに気がついた。自分がここの主ならばまだしも、それはいまいちハッキリしない。
いくらなんでもそこまで隠す必要性を感じないファイは、ならばここの持ち主は、これほど大きな屋敷を放り投げて一体どこをほっつき歩いているのかと、不思議に感じた。
自分は何のためにここにいるのだろう。そして、ファイには黒鋼という存在が必要不可欠だけれど、彼は同じだけ求めてくれているのだろうか。
所有者が所有物をどう扱おうが、それが機械やただの道具だったら、気にも留めないことだった。けれど黒鋼は物じゃないし、万能な機械でもない。心を持った人間だ。好き嫌いがあれば、許容できる範囲だって限られているはず。
この妙な関係が契約のもと成り立っているのなら、黒鋼の心が別にあったとしても、ファイには分からない。
一人でいると、そんなことばかりが頭をチラついた。
***
片時も止むことなく降り続いていた雨は、時間が経つにつれて雨足と、そして風を強めていった。
外が暗くなる頃には、ザーザーという音が耳を塞いでいても嫌でも耳に入って来るほどだった。
いつもなら、夕食の前には必ず戻って来るはずの黒鋼の帰宅が、今日に限って遅い。
おかげで食事もどことなく味気ない気がして、気がつくと手が止まり、ぼんやりしてしまう始末だった。
それでもサクラや小狼が気遣ってくれていることを知っていたから、どうにか腹に押し込めた。今はただひたすら胃の辺りが重苦しい。
ファイは窓辺に立ち尽くしたまま、ガラスにぺったりと手のひらを当てて、暗い庭を見つめていた。
「……遅すぎる」
はじめのうちはなかなか戻らない黒鋼に腹も立っていた。
けれど時計の針が進むにつれて、苛立ちはあらゆる不安へと姿を変える。
この大雨の中、もしかして何かあったのではないかと、嫌な想像ばかりが先刻から頭の中にこびりついて離れてくれなかった。
もし事故にでもあって大怪我をしていたら。
もし……もし怪我だけでは済まなかったら……もう会えなかったら……。
あるいは、本人の意思でもうここへは帰って来るつもりがないのだとしたら。
「そんなの……」
絶対に嫌だった。
約束は守っている。屋敷と庭でしか遊ばないし、森にだって一度も足を踏み入れていない。外へ出るなんてもっての外だ。そもそも、出て行ったところで行くあてだってない。
愛想を尽かされていたらどうしよう。見捨てられたら、置き去りにされたら、投げ出されたら、忘れられてしまったら。
何より怖いのは、一言の言葉も交わさず、突然失うこと。
二度と会えなくなること。
世界中どこを探しても、死んでしまったら、もう……。
「……嫌だな、なに考えてるんだろうオレ。死ぬなんてそんな、縁起でもないこと」
窓の外の木の枝が、豪風と雨に打たれてガラス窓にぶつかる。バタバタという雨音と、ゴツゴツという枝が窓を叩く音が、なんだかとても恐ろしいものに思えて、ファイはその場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。
最悪だと思った。これも全部、黒鋼のせいだ。
いつまでも帰って来ないから、こんなにもマイナスの考えに取りつかれるし、結局は一日中不安なままだった。ベッドに入ったって、どうせ眠れるわけがない。
それでもただ床に蹲っているよりはと、ファイはのろのろと立ち上がりベッドへと向かおうとした。
そのとき、窓の外に何か光るものが映った気がした。
「……!」
遠く、庭の向こう側の門に小さく見えた明かりの正体は、車のライトだった。
「黒たん!」
慌てて部屋を飛び出し、玄関ホールへ行くと、そこにはずぶ濡れの黒鋼と、彼にタオルを差し出す小狼の姿があった。
「おう」
短く返事をしながら、受け取ったタオルを頭からかぶった黒鋼が、片手を上げる。
思わずカッとして、ファイは早足に近づくときっと睨みつけた。
「なんて顔してんだよ」
やれやれといった表情の黒鋼と、その隣では濡れた上着を受け取った小狼が、困った顔をしていた。
「遅いよ……! 連絡ぐらいくれたっていいのに!」
「しょうがねぇだろ……事故に巻き込まれちまったんだからよ」
「事故!?」
サァ、と青ざめたファイだったが、すかさず小狼が続けた。
「黒鋼さんは無事ですよ、ファイさん。ただ、交通規制がかかったせいで足止め状態だったそうで」
思い出したのか、黒鋼が苛立ったように舌打ちをすると、すっかりびしょ濡れになったタオルも小狼に渡した。
「冗談じゃねぇ。他に道はねぇわ腹は減るわで……」
「災難でしたね……。よければ夕食を温めなおしますか?」
「いや……」
黒鋼は申し出を左手で軽く遮ると、自分のシャツの裾を握り締めたまま俯くファイを見た。
「じゃあ、せめて風邪をひかいないうちにお風呂へ」
「おう。おまえもとっとと休めよ」
「わかりました。じゃあ、着替えだけ準備しておきます」
「だめ」
一連の会話をただ黙って聞いていたファイだったが、辛抱たまらず短く制すと、黒鋼の濡れた袖をぎゅっと掴んだ。
「お風呂、オレんとこで入るでしょ……? 着替えは、オレが準備するから」
ファイ以外の3人は、この屋敷の二階にあるゲストルームを適当に自室として使っている。黒鋼の部屋にはこれまで幾度か入ったことがあったので、勝手は知っていた。
もっとも、彼はほとんどファイの部屋で生活しているも同然だったので、せいぜい着替えに戻る程度だった。
「でも……」
「それも、ちょうだい」
戸惑う小狼に、濡れた黒鋼の上着を寄こせと手を差し出す。
今は誰にも彼のものを触らせたくなかった。彼は自分のものだ。なら、彼が身につけるものも何もかも、自分のものだ。
心底困り果てた表情で黒鋼とファイを交互に見ていた小狼に、黒鋼が頷いて見せる。
「着替えはいい。こいつの好きにさせる。それだけ頼む」
「……はぁ」
「黒たんっ」
声を荒げたファイに「行くぞ」と言って、黒鋼は部屋へ向かって歩き出した。仕方なく、ファイはそんな彼の背中を追った。
シャンデリアの煌煌と煌めく玄関ホールには、ずぶ濡れの上着とタオルを持った小狼と、そんな彼が零した溜息だけが残された。
*
黒鋼が浴室でシャワーを浴びる音を確かめると、ファイは黒鋼の部屋から適当な着替えを引っ掴んで自室に戻った。
持ってきたものを洗面所に置いてから、ファイはベッドにぼすんと音を立てて座った。
程なくして白いシャツとジャージの下だけを穿いた黒鋼が戻って来た。
彼が戻って来たことで解消されたはずの不安が、未だファイの中で渦巻いている。もちろん安心感はある。だからこその苛立ちもまた沸々と蘇って来て、ファイは膝の上で両手を握りしめたまま、微動だにできないでいた。
「そろそろ機嫌なおせよ。好きで立ち往生したわけじゃねぇんだ」
ファイの横に腰を下ろし、黒鋼が肩に腕を回すと抱き寄せてくる。大人しく身体を預ければ、石鹸の香りと熱いくらいの体温が感じられて、ファイは少し泣きたくなった。
「そのくらいわかってるよ……でも……でも、早く帰って来てって言った」
「そうだったな」
黒鋼の手がファイの頭に触れて、指が髪を梳く。そのままさらに引き寄せられて、黒鋼の首筋に額がぴったりとはまる。
「ご飯、毎日一緒じゃなきゃやだ」
「悪かった。本当に」
「本当は……出かけるのだって……」
「……わかってる」
黒鋼の指が優しく髪に触れれば触れるほど、ファイは情けなくて唇を噛みしめた。
本当は何事もなく無事に帰って来てくれたことが嬉しい。ただそれだけのはずだった。なのに口から出てくる言葉は、呆れるほどどうしようもないものばかりだった。
素直に欲しいものばかり声に出すことは出来るのに、労わる言葉の一つもかけられない。そんな自分を、彼はどう思っているのだろう。
ファイは黒鋼が屋敷を開ける日が、とても嫌だった。病に伏している家族がいるのなら、きっと毎日でも通って傍にいたいと思っているはずだ。それでも彼は月のうち、片手の指で足りるほどしか出かけない。自分が縛りつけているからなのだと、ちゃんと分かっているのに。
気持ちを制御できなくて、小狼にまで八つ当たりしてしまった。
「凄く嫌な奴だね……オレって」
「なんだよ、いきなり」
ふっと、黒鋼が笑った。そんな風に甘やかすからいけない。そうするように命じているのは、ファイ自身なのに。
試しているのかもしれないと、ふいに思う。
彼がどこまで自分の我儘を赦してくれるのか、もし本当に見限られるようなことがあれば、生きてなんていけないくせに。
そう、彼なしでは。
ファイは震える手を黒鋼の胸にぴたりと当てる。そして、白いシャツをぎゅっと握った。
「生きていけない」
「…………」
「君がいなくなったら、生きていけない」
顔を上げれば、黒鋼は僅かに瞳を見開いていた。頼りない照明の中でもわかる、紅蓮の瞳。
いっそ全て焼きつくしてくれたらいいと思った。こんな我儘な自分を、彼に依存しなければ生きていけない自分を、それ以外、空っぽの自分を。
「死んでやるから」
こんなときでさえ我儘しか言えないファイに、黒鋼は一度だけ目を閉じた。そして、ふと口元に微かな笑みを乗せる。そして言った。
「あのときと、同じようなことを言うんだな。おまえは」
「え……?」
黒鋼が呟いた言葉に目を見開いた。けれどその視界はすぐに黒い影に覆われてしまう。
唇を塞がれ、熱い舌が差し込まれた。
「ッ、ふ……」
一瞬だけ逃れようと肩をすくめたファイを、黒鋼は許さなかった。強く身体を抱きしめられて、ひたすら濃厚な口づけを与えられる。
戸惑う暇もないうちに、身体の奥に火を灯される。知らぬ間にファイも彼の背に腕を回して、もっともっとと深く求めていた。
何もかもどうでもよくなる。それは、本当はとても怖いことなのに。
どこまで堕ちていくのだろう。
糸を引きながら唇が離れていく。
シャツのボタンを一つ一つ外していく無骨な指先を、ぼんやりと見つめた。露わになった白い胸にも、口づけの雨が降り注ぐ。
がっしりとした肩に手を這わせて、怯えるように縋りついた。
じんわりと、舌の上で氷を溶かすような愛撫はどこまでも優しくて、ファイは震えながらか細い声で啼く。
「咥えろ」
黒鋼の人差し指と中指が、唇に宛がわれる。泣きそうに潤んだ瞳を揺らすファイは、言われるままそれを口に含んだ。
ゆるゆると出し入れされる指に、濡れた音を立てながら必死に舌を絡める。
夢中になっている間に、気がつけばファイは黒鋼に全てを曝け出していた。中途半端にシャツを両腕に引っ掛けるだけで、下肢はもともと何もなかったかのように、肌が剥き出しになっている。
「ぁふ……ッ! んんっ……や、ぁ」
「ガキみてぇだな。おまえのここは」
右手の指をファイの好きにさせている黒鋼は、左手の指でファイの淡い茂みをひと撫ですると、そのまま性器に絡めた。ビクンと背筋を反らせたファイの身体が崩れ落ちる。
柔らかなシーツに受け止められながら、両手でしっかりと黒鋼の手首を掴んだ。舌の上で二本の指がばらばらと蠢く度に、頭の中身ごと掻きまわされているような気がして、目が回った。
黒鋼は性器に絡めた指をゆるゆると動かしていく。彼の大きな手で包まれては、確かに自分の薄紅の性器など子供じみた拙いものに見えてしまう。
羞恥と駆け巡る快感を堪えるように、ファイは意地になって二本の指を愛撫する。わざと音を立てて、黒鋼の注意を引きつけるかのように。
「んぅ、ぅ……ッ、は、ぁ……」
二本の指にファイの唾液が滴るまでになると、もう余裕はなかった。性器を扱く黒鋼の指は一定のリズムを保ち続けている。ゆるゆるとした動きに弄ばれたそれは、完全に勃起して天を仰いでいた。
追いつめて、もっとずっと高い場所へ押し上げてほしい。
けれどそれを口に出して言えば、あっという間に解放させられてしまう。それを望んでいるくせに、今がずっと続けばいいとも思っている。
「もうイクか?」
「んくっ、ぁ、あッ、や、い、かな……ッ」
もはや指などしゃぶっていられる余裕のないファイは、黒鋼の手首を掴んだまま、ぶるぶると首を振った。
「辛いんだろ」
「だっ、て! おわっちゃう、から……!」
「終わらねぇよ」
「ッ―――!!」
黒鋼の親指が先走りに滑る鈴口を抉るように引っかいた。その刺激は到底耐えられるものではなく、ファイはあっけなく射精した。
はくはくと呼吸を繰り返し、痙攣するファイの両足がさらに開かれる。両手の中から黒鋼の腕が遠ざかっていく。
「何度でもしてやる。おまえが満足するまで、何度でも」
黒鋼の声が、耳の中でどろりと溶けていくような気がした。心も身体も、火で焙られた蝋燭の蝋のように。
彼の言葉はどこまでもファイを強欲にし、そして堕落させる。まだ底があるのかと思うくらい、深く深く、容赦なく。
「だ、め……」
唾液に濡れた指が精液をも絡め取り、至ったのはファイの身体の奥まった場所だった。
これまでも幾度か交わした行為により、もうすっかり覚え込んでいる身体は、挿入の衝撃を思い出して震えた。
「だめ……」
「どうして」
ぐちゅりと音がして、指が潜り込む。優しく解されていく感覚は、快楽と比例してなぜか酷く情けないものだった。
「何が駄目だ? 言えよ」
ファイは首を振った。自分でもよくわからなかった。黒鋼に抱かれるのは嫌じゃない。むしろ欲しくて欲しくて堪らないはずなのに。
「なぁ、どうすればおまえは怯えなくて済む? 何が不安だ?」
「ふ……あん……?」
「これ以上、何が足りない?」
俺は、どうしてやればいい?
黒鋼の表情の方が、ずっと不安げに見えるのはなぜだろう。
どうしてか、まるで泣きだす寸前の子供のように、ファイの目に映った。
そしてそのとき、ファイには少しだけ分かったような気がした。
自分には、何も役割がないと思っていた。だけど。
「黒たん……くろがね……」
両腕を伸ばし、誘うように彼を抱き寄せた。身体から指が引き抜かれる感覚に、背筋が震えたのは一度だけ。
「一人にしないで」
耳元で囁く。
「言って。愛してるって」
「……愛してる」
「オレの言うこと、聞いて。ずっと、永遠にオレのものだって、誓って」
「誓う。おまえのものだ」
「なら」
滅茶苦茶にしてと、ファイは言った。
そこはまだ十分に解されてはいない。けれどファイが「欲しい」と言えば、黒鋼は抗わない。
痛いも熱いも苦しいも、何もわからないで二人は夢中で繋がった。
これ以上は無理だと思えるくらい黒鋼が奥へと進んできても、ファイは欲しがることを止めなかった。突き破って、頭の中まで掻きまわして、壊すくらいに揺さぶって欲しい。
ファイは見つけた。ただ我儘を言って、欲しがるだけの自分を、どこかで恥じていたけれど、黒鋼の存在が自分の中の欠けた『何か』を満たしてくれるように、欲しがることで、彼を満たしているというのなら。
ようやく自分という存在に意味を見つけることが出来たような、そんな気がした。
***
「わぁ、外白んでる」
それは酷くしゃがれていて、ファイは自分の声に驚いた。幾度か咳き込む背を黒鋼が苦笑しながら撫で摩る。
「雨も止んだな」
「うん……ケホッ」
天蓋つきのベッドに二人、裸でシーツに包まりながら、まだ薄暗い窓の外を眺めていた。
いい加減眠ればいいのに、なぜかお互いそうする気になれずに、ぽつりぽつりと会話を続けている。
激しく抱き合った余韻は、漆黒の闇が滲むようにゆっくりとベールを剥がし、やがて朝が訪れるのと同じく静かに過ぎ去って行った。
鉛のように重い身体も、ジンジンとした痺れる痛みも、なぜか清々しいほど心地いい。
「オレね……目が覚めたときから、何か足りないって、思ってたんだよね」
自分の中で何かが欠けているような、ここに確かに存在しているのに、大切なものをすっぽりと置き忘れているような。けれどそれが一体なんなのかが分からず、ただ闇雲に手を伸ばそうとしていたような気がする。
「空っぽだなって……でも、それはただオレに記憶がないからだって、そう思ってた」
するりと手が伸びて来て、いつの間にか解けていた長い金の髪を掬った。そのまま指に絡めたり、梳かしたりする仕草にクスリと笑う。
「……違ったのか?」
「わかんない。本当は、今もまだ欠けてるのかもしれない。けど、黒たんといるとね、埋まるの。こうしてると、オレの中、いっぱいになる」
溢れて零れだすくらい、ファイの中は黒鋼で満たされる。それでも彼は継ぎ足すのを止めないから、満たされすぎていっそ見失っていた。
「いっぱいになると、忘れちゃう。全部」
髪を弄んでいた指が、どこか満足げに今度はファイの頬をくすぐった。吐息のような笑い声を零しながら、ファイは肩を竦める。
「そうか」
黒鋼がファイを生かし、ファイが黒鋼を生かしている。そんな気がした。彼は花を愛でるのと同じ優しさで、ファイに触れるから。そこに言葉がなくても伝わった。
お互いに注ぎ合い、溢れだして止まらない。それは溺れていることと同じだった。抱き合うことに必死すぎて、泳ぐことも出来ずに深い水底へと堕ちていく。どこまでも、どこまでも。果てがない。
ファイはそれを、たった一人で溺れているのだと勘違いしていた。こんなにも強く抱き合っていたことに気付かずに。
「あ、そうだ。黒たん」
「ん?」
そういえば思いだした。もう一つ、彼に大切なことを言わなければならなかったことを。
ファイは重い半身を僅かに起こすと、黒鋼の胸板に肘を乗せて頬杖をついた。そして悪戯っ子のように笑った。
「次、帰って来るの遅くなったらお仕置き。しばらくお喋りしてあげない」
そう言うと、黒鋼はぱちぱちと幾度か瞬きをした。よく見ると、その瞳を縁取る睫毛は意外と長い。彼は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。
「そいつはキツイな」
本当にそう思っているのか、いないのか。もし本当にそのときが来れば、自分の方が持たないことを知っているファイは、しゃがれた声を上げて笑った。
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この屋敷で生活をするうえで、ファイに許されたことと、守らなければならない約束事というものが設けられた。
許されたことは
一つ、屋敷の中はある程度自由に歩きまわってもいいということ。
二つ、晴れた日であれば、庭に出て散歩をしてもいいということ。
そのうえで守らなければいけないことは
一つ、鍵のかかっている部屋に近づいてはならない。
二つ、庭に出るときは、必ず誰かしらお伴をつける。
三つ、門を出て『外』へ出てはいけない。
そして四つ目に、森に足を踏み入れてはいけない、というものだった。
屋敷の裏側には一面森が広がっている。興味を惹かれたが、黒鋼がダメだと言うのなら、従うことに異存はなかった。
ファイにしてみれば、屋敷の内部や庭を歩き回れるだけで十分嬉しかった。ともすれば囚われの身ともとれるような状況も、何もかもを受け入れることで守られる暮らしの方が、ずっと大切だったからだ。
ファイが見渡せる世界は、ほんの僅かに広がった。けれど、ファイにとっての世界の全ては黒鋼に絞られた。
自分がどこで生まれ、どんな暮らしをして、どうして彼と出会い、そして全ての記憶を失ったのか。
黒鋼は何も語らない。ただ「これはおまえが選んだことだ」と言った。そしてそれによりファイは彼を手に入れて、記憶はそのための『対価』となった。
ならば、ファイにとって取り戻したい記憶など何一つない。黒鋼だけが全てだった。
この屋敷から鏡を取り払ったのは、おそらく黒鋼だ。彼はファイが記憶を取り戻すきっかけとなりうる要素を排除したのだろう。
今はそれさえどうでもいいことだった。
何も考えないこと。それが暗黙の了解として課せられた、五つ目の約束だった。
***
玄関ホールから、黒鋼の呼ぶ声がしている。
最近では庭の手入れにくっついて行くこともあれば、その間ぶらぶらと屋敷の中を探検していることもあったファイだが、彼が戻れば必ず玄関まで迎えに行って、思い切り抱きつくのがお約束になっていた。
けれどそのファイの姿がどこにも見えないことを知って、彼は探しているのだ。
ファイはまるでレストランかと思うほど広々としたダイニングキッチンの、大理石のカウンタトップの下に身を潜めてにんまりと笑った。
このままかくれんぼをするつもりで、窓から黒鋼が戻って来る様子を窺っていたのだ。
耳を済ませて、玄関脇の応接室のドアを開く音を遠くに聞きながら、彼の動きを頭の中で再現する。ざっと見回して気配がないことを悟り、黒鋼はファイのいる反対側の通路へと向かったようだ。
そちらには大浴場や応接室等があり、そしてファイが主に生活する部屋もある。
しめたとばかりにカウンタトップの下から抜け出して、ダイニングを飛び出した。玄関ホールから二階に上がろうかと考えたが、黒鋼がすぐにホールへ戻って来るかもしれないと思い、咄嗟に通路の奥へと足を進める。
廊下の壁際には一定の間隔でガラスケースが置かれていて、その中には鳥や小動物の剥製や西洋人形、ガラスのオブジェなどが飾られていた。
直角に曲がった通路をさらに入って行くと、そこは昼間でも少し薄暗い。ケースの中のものがこちらを見ているような気がして、少し気味が悪かった。
通路の右手には書斎や、誰も使っていない部屋が幾つかあった。
そして突きあたりに差し掛かると、ファイはピタリと足を止める。
金縁の枠のついた白い扉。鍵のかかったその部屋に、何があるかは知らない。禁じられている以上、ドアノブに触れたことさえなかった。
あの部屋の鍵は、おそらく黒鋼が持っているのだろう。肌身離さず持っているのか、どこかに隠してあるのかは知らないけれど。
ふと、もしかしたら中に誰かいるのだろうかと気になった。
「……幽霊とか、いたりして」
口にしてみてぞっとした。大きな洋館の中は、いかにも「出そう」な場所はそこかしこにあった。
特にあの奥の部屋には、何かしら薄気味悪いものを感じて仕方がない。
背筋に薄ら寒いものが走って、ファイは一歩後ずさった。
そして引き返そうとした、そのとき。
「おら、捕まえたぞ」
「ッ――!?」
背後から伸びて来た腕に、身体を拘束されたファイは声なき悲鳴を上げた。
「なんだ? 幽霊でも見たか」
「っ~~~!! バカ!! ホントに出たかと思ったじゃん!!」
両腕ごと拘束されているせいで振り返ることは出来ないが、ファイは腰を屈めたりしてジタバタと暴れた。
驚かされたことにも腹が立ったが、せっかく仕掛けたかくれんぼが、あっという間に終わってしまったことも面白くない。
「おまえな、動き回れるようになったのはいいが、あんまうろちょろしすぎんなよ」
呆れたように言いながら、黒鋼は仕方なしに拘束を解いた。
ファイはぶすっとした表情ではあったが、とりあえずお約束なので彼の首に両腕を回してぎゅっとしがみつく。
「いいじゃんかー。黒たんのケチ。約束はちゃんと守ってるもーん」
「ガキかおまえは。いいから俺の見えるところにいろ」
ファイは黒鋼の首に両手をやったまま、密着していた身体を離して小首を傾げて見せた。
「そんなに心配?」
「当たり前だ」
「じゃあ、愛してる?」
黒鋼の腕がファイの腰に回った。彼は少しだけ笑って「愛してる」と言った。
頬を染めながら照れ笑いを浮かべたファイに、彼は少しだけ身を屈めた。何をしようとしているのかがわかって、そっと目を閉じれば、唇に温かなものが一瞬だけ触れた。
すぐに離れてしまったことが面白くなくて、つんと唇を尖らせる。
「不満か?」
「別にー。オレ、キスしてとまでは言ってないのになーって」
「どうせするだろ?」
「そうだけどー」
黒鋼はまた小さく笑った。こんな子供染みた振る舞いも、全て許容してくれる彼が大好きだった。
するりと腰に回っていた腕が解かれて、手首を掴まれた。
「昼飯だ。今日は天気がいいからな。テラスで食うってんで、ガキ共が張り切ってんぞ」
「え!? お外で食べるの!?」
「そうだ」
「うわぁい!!」
「行くぞ」
「うん! ……って、あのさ……」
そのまま手を引かれて行くかと思いきや、ファイは足を止めた。
「なんだよ」
「一個だけ……聞かせてほしいんだけど……」
「?」
背後を振り向いて、恐る恐る指を指す。
「あの部屋……鍵のかかってる部屋……お化けとか……いない、よね……?」
怖々と上目づかいに聞くと、黒鋼は驚いたように目を見開いた。
「おまえ……わかるのか……?」
「……え」
ギクリと身を硬くしたファイに、彼はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「下手に近づくと……おまえなんか一口で食われちまうかもな……」
「!?」
冗談を言ってからかっているのだということくらい、頭では分かっているのだが、一気に背筋に冷たいものが駆け抜けた気がしてファイは青褪める。
えらく楽しそうな黒鋼に本気で腹が立った。
「黒ばか! 嘘ばっかり!!」
「……だが本当に……近づくなよ?」
ぎゃーぎゃーと騒いでいたファイの腕を強引に引っ張りながら、けれど黒鋼は次の瞬間にはもう笑っていなかった。
わかってる、と口をもごもごさせながら答える。
前を行く黒鋼をこっそり盗み見ながら、やっぱり触れてはいけないのだと、ファイは改めて感じた。
あの部屋に黒鋼が何かを隠しているのなら、彼の所有者としては少しばかり気になってしまっただけだ。嫉妬に近いものがある。
そんなファイの可愛いジレンマを彼は理解しているから、特別これといったお咎めもないことは知っていた。
けれどもし。
自分が禁を破るようなことがあれば。
「…………」
想像するだけで幽霊に遭遇することよりずっと恐ろしくて、ファイは唇を噛むとしゅんと項垂れた。
そんな不安も、二人で外に出て、テラスにあるテーブルに昼食が準備されているのを見た瞬間には、どこか遠くへ吹き飛んでしまったのだけれど。
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許されたことは
一つ、屋敷の中はある程度自由に歩きまわってもいいということ。
二つ、晴れた日であれば、庭に出て散歩をしてもいいということ。
そのうえで守らなければいけないことは
一つ、鍵のかかっている部屋に近づいてはならない。
二つ、庭に出るときは、必ず誰かしらお伴をつける。
三つ、門を出て『外』へ出てはいけない。
そして四つ目に、森に足を踏み入れてはいけない、というものだった。
屋敷の裏側には一面森が広がっている。興味を惹かれたが、黒鋼がダメだと言うのなら、従うことに異存はなかった。
ファイにしてみれば、屋敷の内部や庭を歩き回れるだけで十分嬉しかった。ともすれば囚われの身ともとれるような状況も、何もかもを受け入れることで守られる暮らしの方が、ずっと大切だったからだ。
ファイが見渡せる世界は、ほんの僅かに広がった。けれど、ファイにとっての世界の全ては黒鋼に絞られた。
自分がどこで生まれ、どんな暮らしをして、どうして彼と出会い、そして全ての記憶を失ったのか。
黒鋼は何も語らない。ただ「これはおまえが選んだことだ」と言った。そしてそれによりファイは彼を手に入れて、記憶はそのための『対価』となった。
ならば、ファイにとって取り戻したい記憶など何一つない。黒鋼だけが全てだった。
この屋敷から鏡を取り払ったのは、おそらく黒鋼だ。彼はファイが記憶を取り戻すきっかけとなりうる要素を排除したのだろう。
今はそれさえどうでもいいことだった。
何も考えないこと。それが暗黙の了解として課せられた、五つ目の約束だった。
***
玄関ホールから、黒鋼の呼ぶ声がしている。
最近では庭の手入れにくっついて行くこともあれば、その間ぶらぶらと屋敷の中を探検していることもあったファイだが、彼が戻れば必ず玄関まで迎えに行って、思い切り抱きつくのがお約束になっていた。
けれどそのファイの姿がどこにも見えないことを知って、彼は探しているのだ。
ファイはまるでレストランかと思うほど広々としたダイニングキッチンの、大理石のカウンタトップの下に身を潜めてにんまりと笑った。
このままかくれんぼをするつもりで、窓から黒鋼が戻って来る様子を窺っていたのだ。
耳を済ませて、玄関脇の応接室のドアを開く音を遠くに聞きながら、彼の動きを頭の中で再現する。ざっと見回して気配がないことを悟り、黒鋼はファイのいる反対側の通路へと向かったようだ。
そちらには大浴場や応接室等があり、そしてファイが主に生活する部屋もある。
しめたとばかりにカウンタトップの下から抜け出して、ダイニングを飛び出した。玄関ホールから二階に上がろうかと考えたが、黒鋼がすぐにホールへ戻って来るかもしれないと思い、咄嗟に通路の奥へと足を進める。
廊下の壁際には一定の間隔でガラスケースが置かれていて、その中には鳥や小動物の剥製や西洋人形、ガラスのオブジェなどが飾られていた。
直角に曲がった通路をさらに入って行くと、そこは昼間でも少し薄暗い。ケースの中のものがこちらを見ているような気がして、少し気味が悪かった。
通路の右手には書斎や、誰も使っていない部屋が幾つかあった。
そして突きあたりに差し掛かると、ファイはピタリと足を止める。
金縁の枠のついた白い扉。鍵のかかったその部屋に、何があるかは知らない。禁じられている以上、ドアノブに触れたことさえなかった。
あの部屋の鍵は、おそらく黒鋼が持っているのだろう。肌身離さず持っているのか、どこかに隠してあるのかは知らないけれど。
ふと、もしかしたら中に誰かいるのだろうかと気になった。
「……幽霊とか、いたりして」
口にしてみてぞっとした。大きな洋館の中は、いかにも「出そう」な場所はそこかしこにあった。
特にあの奥の部屋には、何かしら薄気味悪いものを感じて仕方がない。
背筋に薄ら寒いものが走って、ファイは一歩後ずさった。
そして引き返そうとした、そのとき。
「おら、捕まえたぞ」
「ッ――!?」
背後から伸びて来た腕に、身体を拘束されたファイは声なき悲鳴を上げた。
「なんだ? 幽霊でも見たか」
「っ~~~!! バカ!! ホントに出たかと思ったじゃん!!」
両腕ごと拘束されているせいで振り返ることは出来ないが、ファイは腰を屈めたりしてジタバタと暴れた。
驚かされたことにも腹が立ったが、せっかく仕掛けたかくれんぼが、あっという間に終わってしまったことも面白くない。
「おまえな、動き回れるようになったのはいいが、あんまうろちょろしすぎんなよ」
呆れたように言いながら、黒鋼は仕方なしに拘束を解いた。
ファイはぶすっとした表情ではあったが、とりあえずお約束なので彼の首に両腕を回してぎゅっとしがみつく。
「いいじゃんかー。黒たんのケチ。約束はちゃんと守ってるもーん」
「ガキかおまえは。いいから俺の見えるところにいろ」
ファイは黒鋼の首に両手をやったまま、密着していた身体を離して小首を傾げて見せた。
「そんなに心配?」
「当たり前だ」
「じゃあ、愛してる?」
黒鋼の腕がファイの腰に回った。彼は少しだけ笑って「愛してる」と言った。
頬を染めながら照れ笑いを浮かべたファイに、彼は少しだけ身を屈めた。何をしようとしているのかがわかって、そっと目を閉じれば、唇に温かなものが一瞬だけ触れた。
すぐに離れてしまったことが面白くなくて、つんと唇を尖らせる。
「不満か?」
「別にー。オレ、キスしてとまでは言ってないのになーって」
「どうせするだろ?」
「そうだけどー」
黒鋼はまた小さく笑った。こんな子供染みた振る舞いも、全て許容してくれる彼が大好きだった。
するりと腰に回っていた腕が解かれて、手首を掴まれた。
「昼飯だ。今日は天気がいいからな。テラスで食うってんで、ガキ共が張り切ってんぞ」
「え!? お外で食べるの!?」
「そうだ」
「うわぁい!!」
「行くぞ」
「うん! ……って、あのさ……」
そのまま手を引かれて行くかと思いきや、ファイは足を止めた。
「なんだよ」
「一個だけ……聞かせてほしいんだけど……」
「?」
背後を振り向いて、恐る恐る指を指す。
「あの部屋……鍵のかかってる部屋……お化けとか……いない、よね……?」
怖々と上目づかいに聞くと、黒鋼は驚いたように目を見開いた。
「おまえ……わかるのか……?」
「……え」
ギクリと身を硬くしたファイに、彼はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「下手に近づくと……おまえなんか一口で食われちまうかもな……」
「!?」
冗談を言ってからかっているのだということくらい、頭では分かっているのだが、一気に背筋に冷たいものが駆け抜けた気がしてファイは青褪める。
えらく楽しそうな黒鋼に本気で腹が立った。
「黒ばか! 嘘ばっかり!!」
「……だが本当に……近づくなよ?」
ぎゃーぎゃーと騒いでいたファイの腕を強引に引っ張りながら、けれど黒鋼は次の瞬間にはもう笑っていなかった。
わかってる、と口をもごもごさせながら答える。
前を行く黒鋼をこっそり盗み見ながら、やっぱり触れてはいけないのだと、ファイは改めて感じた。
あの部屋に黒鋼が何かを隠しているのなら、彼の所有者としては少しばかり気になってしまっただけだ。嫉妬に近いものがある。
そんなファイの可愛いジレンマを彼は理解しているから、特別これといったお咎めもないことは知っていた。
けれどもし。
自分が禁を破るようなことがあれば。
「…………」
想像するだけで幽霊に遭遇することよりずっと恐ろしくて、ファイは唇を噛むとしゅんと項垂れた。
そんな不安も、二人で外に出て、テラスにあるテーブルに昼食が準備されているのを見た瞬間には、どこか遠くへ吹き飛んでしまったのだけれど。
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『オレ、あの子きらい』
――どうして?
『だって、なんかこわいもん』
――こわくないよ。知ってるでしょ? やさしい子だよ。
『きらいなものはきらいなの』
――はなしあいて、ほしくないの?
『そんなのいらない。だってもういるもん。ここに』
『彼』は、いつも傍にいた。鏡を覗き込めば、いつも。
自分と同じ形をした彼は、退屈なときや嫌なことがあったとき、いつでも話を聞いてくれた。語りかけてくれた。
もう一人の自分。誰よりもわかってくれる。一番近くにいてくれる。
大切な存在。
例えそこに、本当は自分しかいなくても。
***
はじめに目を覚ましたときにずっと聞こえていた、あのハサミで何かを切り落とすような音の正体を、ファイは知った。
これは後々サクラ達に聞いたことだが、この屋敷専属の庭師として住み込んでいる黒鋼は、庭で草木の手入れをしながらファイの眠る部屋の窓をまめに覗き込んでいたようだ。
おそらく、枝の手入れをしながらファイが起き上った様子を目撃し、急いでやって来たのがあの初対面だったのだろう。いや、単に自分が忘れているだけで、決して初めて顔を合わせたわけではないのだろうが。
黒鋼の実家はこの屋敷がある山を降りた先の、割と大きなの街の外れにあるらしい。
代々造園業を営んでおり、古くから屋敷の庭師を務めていたそうだ。
ならばこの屋敷と彼は、随分と古い付き合いになるのではないか。
一度、ファイはこの場所の持ち主について黒鋼に訪ねてみたが、彼からのはっきりとした返答は得られなかった。
おまえは何も知らなくていい。そういうことらしい。
***
「そういえばさー、ちょっと疑問に思ったことがあるんだけどー」
「なんでしょう?」
サクラに髪をいじらせることは、もう毎朝の恒例行事になっていた。その間、あれこれお喋りをすることも。
自分で適当にやってしまえば早い気もしたが、どうやら彼女はファイの髪を結う作業を気に入ってしまったらしく、毎朝好きにさせている。
部屋の窓辺の椅子に座って、おとなしく髪を梳かされているファイの顔を、サクラが背後からひょっこりと覗き込んできた。
「この部屋って、鏡ないよねぇ」
他にも幾つも疑問がある中で、それは本当に素朴な疑問だった。
部屋の中、洗面所や浴室、どこを探しても小さな手鏡さえ見つからない。それらが本来設置されていたらしい場所の壁の色が、あきらかに違う。部屋の壁に至っては、相当大きな姿見が存在していたことが、変色した一部分を見れば明らかだった。
つまり、誰かが故意に外したということだ。
サクラは再びファイの髪に櫛を通しはじめると「私も不思議に思ってました」と言った。
「サクラちゃんも?」
「はい……と、いうより、このお屋敷のどこを探しても、鏡がないんです」
「え」
「あ、私は手鏡を持ってますけど」
「そうなんだ……不思議ー……」
「よければ貸しましょうか?」
「うぅん。ほら、鏡があった方が、サクラちゃんもやりやすいかなって」
そう言うと、サクラがぴくんと跳ねるのを感じて振り向いた。
「サクラちゃん?」
「ご、ごめんなさい……私、不器用だから……綺麗に髪が結えなくて……だから、気を使ってくださったんですね……」
これには流石のファイも参った。涙目になって櫛をぎゅっと両手で胸に抱く姿を見て、どうやら他人が思うより、この少女は不器用なことにコンプレックスを抱いているらしいことを知った。
「違うよー! オレの言い方が悪かったかな……ないよりは、あった方が便利かなって思っただけで……ね? だから泣かないで?」
そう言うと、彼女は素直にこくこくと精一杯首を縦に振った。
確かに手先は不器用かもしれないが、何をするにも一生懸命の彼女は、見ていて本当に心が和む。
再びファイの髪に集中しはじめるサクラの好きにさせながら、ファイをふと窓の外に目をやった。
時々、ここから庭の手入れをする黒鋼の姿が見える。
今も緑のアーチの向こうに彼の姿を見つけて、ファイは少しだけ胸が高鳴った。
脚立の上に腰かけて樹木の手入れをしているらしい黒鋼の足元で、小狼が何かを手伝っている。
仲のいい兄弟のようにも見える二人をぼんやりと眺めていると、ふと髪を結っていたサクラの手が止まっていることに気がついて、咄嗟に振り向いた。
サクラも、窓の外を見ていた。
その頬がほんのりと薄紅に染まっていて、瞳がどこか夢を見ているかのようにとろんとしている。
小狼を見ているんだろうなと思った。愛らしい少女の恋する表情に、自然と口元が緩んでしまう。
すると、はっとしたサクラがファイの視線に気がついた。
「あっ、わ、私! ごめんなさい!」
頬をさらに赤くしてぺこぺこと頭を下げる彼女に、ファイはにんまりと笑った。
「うーうん。小狼君のこと見てたんだよねー?」
「ちっ、ちがっ……わ、ない、です……けど……」
蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝るサクラに首を振りながら、自分もあんな顔をしながら黒鋼を見つめているのだろうかと思うと、逆に頬が熱くなってしまった。
***
実際のところ、ファイは目覚めてから今日まで、何日が経過しているかを詳細に把握できていない。
目を覚ましてからしばらくの間は、身体や頭の中がふわふわとしていたし、気がつけばこくりこくりと船を漕いでいることがほとんどだったから。
少しずつ体力が戻り、意識がはっきりとしてきた今、それでも屋敷での暮らしはとても穏やかで、毎日がゆっくりと過ぎていった。
昼間はサクラとお喋りをしたり、窓から黒鋼の姿を目で追ったり、ぼんやりとしながら一日が過ぎてしまう。
夕方から夜にかけては黒鋼がずっと傍にいて、ファイが眠るまでベッド脇に腰かけて髪を梳いてくれた。そして目覚めれば、彼はやっぱり傍にいる。
ファイより後に寝て、先に起きている彼は、この部屋に設置しているソファで眠っているらしかった。
黒鋼は率先して何かを語るタイプではない。けれど、一緒にいて沈黙が苦にならない。この静かな男に空気ごと身を委ねて過ごすことは、とても心地がよかった。
だが、自分はどうやら基本的にお喋りが好きらしい。
今のファイにとってはこの部屋と、ここから見える景色だけが世界の全てだった。
だから眠りにつくまでに時折する話といえば、ほとんどがサクラとの会話に関することや、小狼が入れてくれる紅茶のこと、黒鋼がその日、何の植物を手入れしていたかを尋ねるなど、そのくらいなものだった。
けれど彼は話しかければ必ず応えてくれたし、時々、ふと穏やかな笑顔も見せてくれた。
「あのね、今朝サクラちゃんにも聞いたんだけど」
だから今夜も、夕暮れ時の色に似た間接照明の側で、そんな何気ない話題を振ったにすぎなかった。
ベッドの背もたれにふかふかの枕を添えて、それに背を預けながら黒鋼に話かけた。
「なんだよ」
「ここ、鏡ないねって」
「…………」
「お屋敷の中、どこにもないんだよね?」
「……そうだな」
「なんでかな? 君は知ってる?」
沈黙が流れた。ファイは小さく首を傾げる。
だが、それからすぐに「知らねぇな」というそっけない答えが返ってきた。
無表情で視線を反らす彼からは、当然のように何も読み取ることが出来ない。
まただ。ファイは思う。
時々、こうしてはぐらかされてしまう。その先に、必ず何かあるのだということは分かっている。
ここでの暮らしを日々重ねていくごとに、見えない何かに少しずつ不安を覚えるようになった。
それを自覚するのはこんなとき。黒鋼が、何も答えてくれないときだった。
漠然と、自分の記憶に関することだろうと、そう感じていた。
黒鋼はファイに「何も思い出す必要はない」と暗に言う。
なぜ、どうして。自分の記憶に関しての興味というより、黒鋼が何を考え、何を隠そうとしているのか、それだけが気になっていた。
「あのね」
だからファイは口にした。一つだけ、取り戻した記憶の欠片を。
「本当はオレ……思い出したことがあるんだ……」
その瞬間、黒鋼の表情が明らかに変化したのを、ファイは見逃さなかった。
「何を思い出したって……?」
それは見たこともないような、何か獲物を射止めるかのような鋭い視線だった。
一瞬にして寒々とした空気が辺りに立ち込めて、咄嗟に本能的な恐怖を覚えたファイは、きゅっと肩を寄せて拳を握った。
切り出すべきではなかったと後悔しても、すでに冗談では済まされない緊張感がピリピリと肌を刺す。
「言ってみろ……!」
「ッ……!!」
両肩を乱暴に掴まれ、揺さぶられる。
ただ静かな男だと思っていた。こんな風に感情的にもなるのかと、恐怖を抱きながらも、どこか遠くで新鮮さを覚えていた。
どくどくと胸が高鳴ることに息苦しさを覚えながらも、ファイは言った。ほとんど自棄だった。
「子供の頃のことだよ……! オレの、変な遊びのこと!!」
「……遊びだと?」
「お願い離して……こわい……」
痛い、ではなく、怖い、と言われたことに、黒鋼は少なからず衝撃を受けたようだった。
ひとこと「すまない」という力ない言葉と共に、ファイの両肩が解放される。
沈黙。彼といて、こんなに重々しく苦痛に感じたことはない。
感情を押し殺しながらその先を待っているらしい黒鋼に、これ以上続けるべきなのか少し迷ったけれど、ファイは震える息を吐きだすと意を決した。
「思い出したのが……いつかは覚えてない。夢で見たのかもしれないし……最初から、これだけは覚えてたのかもしれないし……はっきりしないんだけど」
「……ああ」
「恥ずかしかったから……言いたくなかったんだ。本当は」
子供の頃に没頭した遊びというものは、往々にして大人になってから思い出すと痛々しいものばかりなのだと思う。
だから言うつもりはなかったけれど、ファイには黒鋼の真意を探るうえでの手札が、あまりにも無さ過ぎた。
「オレね、よく鏡と遊んでたみたいなの」
「……鏡」
「うん……。どうしてなのかは知らない。思い出せないんだ。でも、たぶん、寂しかったのかもしれない。友達とか、いない子だったのかな……オレって」
ファイは赤裸々に、たった一つしかない思い出を黒鋼に告白した。
幼い頃、ファイはよく鏡に向かってお喋りに夢中になっていた。
それがどこだったのか、どんな話をしていたかまでは覚えてはいない。ただ、鏡に映る自分を『もう一人の自分』だと思い込み、一人で二役を演じて奇妙な会話を楽しんでいた。
それはガラスや水面のように、ぼんやりとしたものでは意味がなかったように思う。はっきりと、鮮明に映し出すものこそが、ファイの拠り所だった。
まだ縫いぐるみや人形に話しかけるほうがマシだと思えるその『遊び』についての告白を、黒鋼はただ黙って聞いていた。
話終わっても続く沈黙に、ファイは解放されるどころか緊張をさらに募らせる。
「それだけか?」
やがて黒鋼が、真っすぐに視線を合わせながら問うた。
「それだけ。痛い子だよね」
黒鋼は腕を組み、何かを深く考え込んでいるようだった。
ファイはそんな彼を、縋るような瞳で見上げることしかできない。
「……わかった。もう寝ろ」
この話はこれで終わりだと言わんばかりに、照明に手を伸ばした黒鋼の手を、ファイは咄嗟に掴んで止める。
たった一つの記憶。たった一枚のカードだった。ここで終わらせてしまえば、次はもうないような気がした。
「待ってよ……話、終わってない」
「終わりだ。今夜はもう休め」
「終わってないよ……!」
思ったより、それは大きな声だった。黒鋼の眉間の皺が深いものになる。
それでも怯んでいる場合ではなかった。
「オレのものだって、言ったよ……」
「…………」
「君は……オレのもの、なんでしょ……?」
これは脅しになるのだろうか。
最初に貰った言葉。不思議と胸を満たしたあの台詞に、ファイはあのときから縛られていた。訳もわからず、ただひたすら安堵した。
その意味も知らずに、手札を使い切ったファイの手には、ナイフだけが残っていた。相手の中へ切り込むためのそれは、果たして研ぎ澄まされているのか、錆びているのか、ファイ自身にもわからない。
黒鋼は深く溜息をついた。
「そうだ。おまえのもんだ、俺は。それだけじゃ駄目なのか? 記憶ってのは、そんなに大切なもんか?」
「違う、そうじゃない。記憶なんてどうでもいいんだ」
「?」
「オレはただ……君の心が見えないのが嫌なんだ……君のこと何も知らないのが怖いのに、それでも君はオレのものだって言う。オレは、ただそれが嬉しくて……だけど……」
どんなに欲しくてたまらなかったオモチャを与えられても、使い方が分からなければどうしようもない。遊び方も知らないまま、ただ眺めているだけなら、手に入らないのと同じことだった。
どこかに必ず説明書があるはずだった。けれどその置き場所を、ファイは忘れてしまった。手に入れた経緯と一緒に。
唯一それを知っているのは、他ならぬ黒鋼しかいないのに。
その心が見えないことに、ファイは焦れている。彼が自分のものだという確信が持てない。目には見えない繋がりを信じられるほどファイは彼を知らないし、そこに絆と呼べるものなど何一つなかった。
「……ひとつだけだ。俺が教えてやれるのは」
黒鋼の手を掴んでいた手を、今度は逆に掴まれた。その強い力にドキリとする。この男に触れられていると思うだけで、どうしてこうも身体が熱くなるのだろう。
「これから俺が言うことを覚えておけ。だが、深く考える必要はねぇ。ただ頭ん中に刻んどけ」
ファイはこくりと頷いた。頷かざるをえなかった。
そして黒鋼は言った。
「おまえが何も思い出さないことが、対価だ」
「たいか……?」
「おまえは選んだ。そして、俺もそうあることを望んだ。俺はおまえのものだ」
低い声が、なぜかひたすら甘かった。上昇する体温と共に、ファイは頭の中がぼんやりと霞んでゆくような気がして、眩暈を覚える。
まじないのようだ。それとも、これは性質の悪い呪いだろうか。
背もたれに沈み込みそうになった身体を、しっかりと抱き寄せられた。
満たされる。溢れそうなほど。そして燻る。何も考えられなくなる。瞳はもう、黒鋼しか映さない。そして濁ってゆく。
「……なら」
彼の匂いが染みついたシャツを、強く握りしめた。そして力いっぱい額を擦りつけて、うっとりと吐息交じりに囁いた。自分でも驚くほど甘い声で。
「愛してるって言って……」
それは当たり前のように、唐突に口から放たれた言葉だった。身体が、心が、彼に抱かれていなければ、今にもふわりと舞い上がってしまいそうだった。
「愛してる」
迷いなく与えられた言葉に、ファイは酷く切なくなった。泣きたかった。欲したのは他でもない自分自身だというのに、本能が理性を置き去りにして、先へ先へと進んでゆくような、おかしな感覚だった。
「オレのこと、抱いて」
もう何を言っているのか、自分でもかわからない。目に見えない、他の誰かに操られているような気さえしていた。例えば『もう一人の自分』によって。
「裸にして、キスして……抱いて」
大きな手に頬を包みこまれて、ファイは顔を上げた。黒鋼の顔がとても近い場所にある。
どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのだろう。同じ切なさを、彼もまた抱えているのか。
ただひとつファイにわかったことは、彼と自分は同じだということだった。それが何かはわからないけれど、自分たちは共有している。共鳴している。目に見えない、何かを。
「わかった」
与えられた口づけは、蕩けそうなほど熱く、深いものだった。
この熱を、感覚を、自分は知っているのだろうか。今のファイには彼に愛された記憶がない。忘れているのか、それとも元々なかったのか。
けれどそれで構わない。彼はそれを『対価』と言った。
目を瞑るだけでこの男が手に入るなら、ファイはもうこれ以上考えることを止めようと決めた。
「ずっとだよ……。オレが欲しいって言ったら、こうして抱いて、キスして、愛してるって言わなきゃダメ……」
「わかった」
「疲れてても、眠くても、どこか痛くても……オレの言うこと聞いて……オレが欲しいものをちょうだい。じゃなきゃオレは……」
「望みのままに」
天蓋つきの、一人で眠るにはあまりに広すぎたベッドの上に、二人は溶けるようにして沈んでいった。
「俺は、おまえだけのものだ」
幾度も熱を共有しながら、ファイの意識が焼き切れるまで、行為は続いた。
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――どうして?
『だって、なんかこわいもん』
――こわくないよ。知ってるでしょ? やさしい子だよ。
『きらいなものはきらいなの』
――はなしあいて、ほしくないの?
『そんなのいらない。だってもういるもん。ここに』
『彼』は、いつも傍にいた。鏡を覗き込めば、いつも。
自分と同じ形をした彼は、退屈なときや嫌なことがあったとき、いつでも話を聞いてくれた。語りかけてくれた。
もう一人の自分。誰よりもわかってくれる。一番近くにいてくれる。
大切な存在。
例えそこに、本当は自分しかいなくても。
***
はじめに目を覚ましたときにずっと聞こえていた、あのハサミで何かを切り落とすような音の正体を、ファイは知った。
これは後々サクラ達に聞いたことだが、この屋敷専属の庭師として住み込んでいる黒鋼は、庭で草木の手入れをしながらファイの眠る部屋の窓をまめに覗き込んでいたようだ。
おそらく、枝の手入れをしながらファイが起き上った様子を目撃し、急いでやって来たのがあの初対面だったのだろう。いや、単に自分が忘れているだけで、決して初めて顔を合わせたわけではないのだろうが。
黒鋼の実家はこの屋敷がある山を降りた先の、割と大きなの街の外れにあるらしい。
代々造園業を営んでおり、古くから屋敷の庭師を務めていたそうだ。
ならばこの屋敷と彼は、随分と古い付き合いになるのではないか。
一度、ファイはこの場所の持ち主について黒鋼に訪ねてみたが、彼からのはっきりとした返答は得られなかった。
おまえは何も知らなくていい。そういうことらしい。
***
「そういえばさー、ちょっと疑問に思ったことがあるんだけどー」
「なんでしょう?」
サクラに髪をいじらせることは、もう毎朝の恒例行事になっていた。その間、あれこれお喋りをすることも。
自分で適当にやってしまえば早い気もしたが、どうやら彼女はファイの髪を結う作業を気に入ってしまったらしく、毎朝好きにさせている。
部屋の窓辺の椅子に座って、おとなしく髪を梳かされているファイの顔を、サクラが背後からひょっこりと覗き込んできた。
「この部屋って、鏡ないよねぇ」
他にも幾つも疑問がある中で、それは本当に素朴な疑問だった。
部屋の中、洗面所や浴室、どこを探しても小さな手鏡さえ見つからない。それらが本来設置されていたらしい場所の壁の色が、あきらかに違う。部屋の壁に至っては、相当大きな姿見が存在していたことが、変色した一部分を見れば明らかだった。
つまり、誰かが故意に外したということだ。
サクラは再びファイの髪に櫛を通しはじめると「私も不思議に思ってました」と言った。
「サクラちゃんも?」
「はい……と、いうより、このお屋敷のどこを探しても、鏡がないんです」
「え」
「あ、私は手鏡を持ってますけど」
「そうなんだ……不思議ー……」
「よければ貸しましょうか?」
「うぅん。ほら、鏡があった方が、サクラちゃんもやりやすいかなって」
そう言うと、サクラがぴくんと跳ねるのを感じて振り向いた。
「サクラちゃん?」
「ご、ごめんなさい……私、不器用だから……綺麗に髪が結えなくて……だから、気を使ってくださったんですね……」
これには流石のファイも参った。涙目になって櫛をぎゅっと両手で胸に抱く姿を見て、どうやら他人が思うより、この少女は不器用なことにコンプレックスを抱いているらしいことを知った。
「違うよー! オレの言い方が悪かったかな……ないよりは、あった方が便利かなって思っただけで……ね? だから泣かないで?」
そう言うと、彼女は素直にこくこくと精一杯首を縦に振った。
確かに手先は不器用かもしれないが、何をするにも一生懸命の彼女は、見ていて本当に心が和む。
再びファイの髪に集中しはじめるサクラの好きにさせながら、ファイをふと窓の外に目をやった。
時々、ここから庭の手入れをする黒鋼の姿が見える。
今も緑のアーチの向こうに彼の姿を見つけて、ファイは少しだけ胸が高鳴った。
脚立の上に腰かけて樹木の手入れをしているらしい黒鋼の足元で、小狼が何かを手伝っている。
仲のいい兄弟のようにも見える二人をぼんやりと眺めていると、ふと髪を結っていたサクラの手が止まっていることに気がついて、咄嗟に振り向いた。
サクラも、窓の外を見ていた。
その頬がほんのりと薄紅に染まっていて、瞳がどこか夢を見ているかのようにとろんとしている。
小狼を見ているんだろうなと思った。愛らしい少女の恋する表情に、自然と口元が緩んでしまう。
すると、はっとしたサクラがファイの視線に気がついた。
「あっ、わ、私! ごめんなさい!」
頬をさらに赤くしてぺこぺこと頭を下げる彼女に、ファイはにんまりと笑った。
「うーうん。小狼君のこと見てたんだよねー?」
「ちっ、ちがっ……わ、ない、です……けど……」
蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝るサクラに首を振りながら、自分もあんな顔をしながら黒鋼を見つめているのだろうかと思うと、逆に頬が熱くなってしまった。
***
実際のところ、ファイは目覚めてから今日まで、何日が経過しているかを詳細に把握できていない。
目を覚ましてからしばらくの間は、身体や頭の中がふわふわとしていたし、気がつけばこくりこくりと船を漕いでいることがほとんどだったから。
少しずつ体力が戻り、意識がはっきりとしてきた今、それでも屋敷での暮らしはとても穏やかで、毎日がゆっくりと過ぎていった。
昼間はサクラとお喋りをしたり、窓から黒鋼の姿を目で追ったり、ぼんやりとしながら一日が過ぎてしまう。
夕方から夜にかけては黒鋼がずっと傍にいて、ファイが眠るまでベッド脇に腰かけて髪を梳いてくれた。そして目覚めれば、彼はやっぱり傍にいる。
ファイより後に寝て、先に起きている彼は、この部屋に設置しているソファで眠っているらしかった。
黒鋼は率先して何かを語るタイプではない。けれど、一緒にいて沈黙が苦にならない。この静かな男に空気ごと身を委ねて過ごすことは、とても心地がよかった。
だが、自分はどうやら基本的にお喋りが好きらしい。
今のファイにとってはこの部屋と、ここから見える景色だけが世界の全てだった。
だから眠りにつくまでに時折する話といえば、ほとんどがサクラとの会話に関することや、小狼が入れてくれる紅茶のこと、黒鋼がその日、何の植物を手入れしていたかを尋ねるなど、そのくらいなものだった。
けれど彼は話しかければ必ず応えてくれたし、時々、ふと穏やかな笑顔も見せてくれた。
「あのね、今朝サクラちゃんにも聞いたんだけど」
だから今夜も、夕暮れ時の色に似た間接照明の側で、そんな何気ない話題を振ったにすぎなかった。
ベッドの背もたれにふかふかの枕を添えて、それに背を預けながら黒鋼に話かけた。
「なんだよ」
「ここ、鏡ないねって」
「…………」
「お屋敷の中、どこにもないんだよね?」
「……そうだな」
「なんでかな? 君は知ってる?」
沈黙が流れた。ファイは小さく首を傾げる。
だが、それからすぐに「知らねぇな」というそっけない答えが返ってきた。
無表情で視線を反らす彼からは、当然のように何も読み取ることが出来ない。
まただ。ファイは思う。
時々、こうしてはぐらかされてしまう。その先に、必ず何かあるのだということは分かっている。
ここでの暮らしを日々重ねていくごとに、見えない何かに少しずつ不安を覚えるようになった。
それを自覚するのはこんなとき。黒鋼が、何も答えてくれないときだった。
漠然と、自分の記憶に関することだろうと、そう感じていた。
黒鋼はファイに「何も思い出す必要はない」と暗に言う。
なぜ、どうして。自分の記憶に関しての興味というより、黒鋼が何を考え、何を隠そうとしているのか、それだけが気になっていた。
「あのね」
だからファイは口にした。一つだけ、取り戻した記憶の欠片を。
「本当はオレ……思い出したことがあるんだ……」
その瞬間、黒鋼の表情が明らかに変化したのを、ファイは見逃さなかった。
「何を思い出したって……?」
それは見たこともないような、何か獲物を射止めるかのような鋭い視線だった。
一瞬にして寒々とした空気が辺りに立ち込めて、咄嗟に本能的な恐怖を覚えたファイは、きゅっと肩を寄せて拳を握った。
切り出すべきではなかったと後悔しても、すでに冗談では済まされない緊張感がピリピリと肌を刺す。
「言ってみろ……!」
「ッ……!!」
両肩を乱暴に掴まれ、揺さぶられる。
ただ静かな男だと思っていた。こんな風に感情的にもなるのかと、恐怖を抱きながらも、どこか遠くで新鮮さを覚えていた。
どくどくと胸が高鳴ることに息苦しさを覚えながらも、ファイは言った。ほとんど自棄だった。
「子供の頃のことだよ……! オレの、変な遊びのこと!!」
「……遊びだと?」
「お願い離して……こわい……」
痛い、ではなく、怖い、と言われたことに、黒鋼は少なからず衝撃を受けたようだった。
ひとこと「すまない」という力ない言葉と共に、ファイの両肩が解放される。
沈黙。彼といて、こんなに重々しく苦痛に感じたことはない。
感情を押し殺しながらその先を待っているらしい黒鋼に、これ以上続けるべきなのか少し迷ったけれど、ファイは震える息を吐きだすと意を決した。
「思い出したのが……いつかは覚えてない。夢で見たのかもしれないし……最初から、これだけは覚えてたのかもしれないし……はっきりしないんだけど」
「……ああ」
「恥ずかしかったから……言いたくなかったんだ。本当は」
子供の頃に没頭した遊びというものは、往々にして大人になってから思い出すと痛々しいものばかりなのだと思う。
だから言うつもりはなかったけれど、ファイには黒鋼の真意を探るうえでの手札が、あまりにも無さ過ぎた。
「オレね、よく鏡と遊んでたみたいなの」
「……鏡」
「うん……。どうしてなのかは知らない。思い出せないんだ。でも、たぶん、寂しかったのかもしれない。友達とか、いない子だったのかな……オレって」
ファイは赤裸々に、たった一つしかない思い出を黒鋼に告白した。
幼い頃、ファイはよく鏡に向かってお喋りに夢中になっていた。
それがどこだったのか、どんな話をしていたかまでは覚えてはいない。ただ、鏡に映る自分を『もう一人の自分』だと思い込み、一人で二役を演じて奇妙な会話を楽しんでいた。
それはガラスや水面のように、ぼんやりとしたものでは意味がなかったように思う。はっきりと、鮮明に映し出すものこそが、ファイの拠り所だった。
まだ縫いぐるみや人形に話しかけるほうがマシだと思えるその『遊び』についての告白を、黒鋼はただ黙って聞いていた。
話終わっても続く沈黙に、ファイは解放されるどころか緊張をさらに募らせる。
「それだけか?」
やがて黒鋼が、真っすぐに視線を合わせながら問うた。
「それだけ。痛い子だよね」
黒鋼は腕を組み、何かを深く考え込んでいるようだった。
ファイはそんな彼を、縋るような瞳で見上げることしかできない。
「……わかった。もう寝ろ」
この話はこれで終わりだと言わんばかりに、照明に手を伸ばした黒鋼の手を、ファイは咄嗟に掴んで止める。
たった一つの記憶。たった一枚のカードだった。ここで終わらせてしまえば、次はもうないような気がした。
「待ってよ……話、終わってない」
「終わりだ。今夜はもう休め」
「終わってないよ……!」
思ったより、それは大きな声だった。黒鋼の眉間の皺が深いものになる。
それでも怯んでいる場合ではなかった。
「オレのものだって、言ったよ……」
「…………」
「君は……オレのもの、なんでしょ……?」
これは脅しになるのだろうか。
最初に貰った言葉。不思議と胸を満たしたあの台詞に、ファイはあのときから縛られていた。訳もわからず、ただひたすら安堵した。
その意味も知らずに、手札を使い切ったファイの手には、ナイフだけが残っていた。相手の中へ切り込むためのそれは、果たして研ぎ澄まされているのか、錆びているのか、ファイ自身にもわからない。
黒鋼は深く溜息をついた。
「そうだ。おまえのもんだ、俺は。それだけじゃ駄目なのか? 記憶ってのは、そんなに大切なもんか?」
「違う、そうじゃない。記憶なんてどうでもいいんだ」
「?」
「オレはただ……君の心が見えないのが嫌なんだ……君のこと何も知らないのが怖いのに、それでも君はオレのものだって言う。オレは、ただそれが嬉しくて……だけど……」
どんなに欲しくてたまらなかったオモチャを与えられても、使い方が分からなければどうしようもない。遊び方も知らないまま、ただ眺めているだけなら、手に入らないのと同じことだった。
どこかに必ず説明書があるはずだった。けれどその置き場所を、ファイは忘れてしまった。手に入れた経緯と一緒に。
唯一それを知っているのは、他ならぬ黒鋼しかいないのに。
その心が見えないことに、ファイは焦れている。彼が自分のものだという確信が持てない。目には見えない繋がりを信じられるほどファイは彼を知らないし、そこに絆と呼べるものなど何一つなかった。
「……ひとつだけだ。俺が教えてやれるのは」
黒鋼の手を掴んでいた手を、今度は逆に掴まれた。その強い力にドキリとする。この男に触れられていると思うだけで、どうしてこうも身体が熱くなるのだろう。
「これから俺が言うことを覚えておけ。だが、深く考える必要はねぇ。ただ頭ん中に刻んどけ」
ファイはこくりと頷いた。頷かざるをえなかった。
そして黒鋼は言った。
「おまえが何も思い出さないことが、対価だ」
「たいか……?」
「おまえは選んだ。そして、俺もそうあることを望んだ。俺はおまえのものだ」
低い声が、なぜかひたすら甘かった。上昇する体温と共に、ファイは頭の中がぼんやりと霞んでゆくような気がして、眩暈を覚える。
まじないのようだ。それとも、これは性質の悪い呪いだろうか。
背もたれに沈み込みそうになった身体を、しっかりと抱き寄せられた。
満たされる。溢れそうなほど。そして燻る。何も考えられなくなる。瞳はもう、黒鋼しか映さない。そして濁ってゆく。
「……なら」
彼の匂いが染みついたシャツを、強く握りしめた。そして力いっぱい額を擦りつけて、うっとりと吐息交じりに囁いた。自分でも驚くほど甘い声で。
「愛してるって言って……」
それは当たり前のように、唐突に口から放たれた言葉だった。身体が、心が、彼に抱かれていなければ、今にもふわりと舞い上がってしまいそうだった。
「愛してる」
迷いなく与えられた言葉に、ファイは酷く切なくなった。泣きたかった。欲したのは他でもない自分自身だというのに、本能が理性を置き去りにして、先へ先へと進んでゆくような、おかしな感覚だった。
「オレのこと、抱いて」
もう何を言っているのか、自分でもかわからない。目に見えない、他の誰かに操られているような気さえしていた。例えば『もう一人の自分』によって。
「裸にして、キスして……抱いて」
大きな手に頬を包みこまれて、ファイは顔を上げた。黒鋼の顔がとても近い場所にある。
どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのだろう。同じ切なさを、彼もまた抱えているのか。
ただひとつファイにわかったことは、彼と自分は同じだということだった。それが何かはわからないけれど、自分たちは共有している。共鳴している。目に見えない、何かを。
「わかった」
与えられた口づけは、蕩けそうなほど熱く、深いものだった。
この熱を、感覚を、自分は知っているのだろうか。今のファイには彼に愛された記憶がない。忘れているのか、それとも元々なかったのか。
けれどそれで構わない。彼はそれを『対価』と言った。
目を瞑るだけでこの男が手に入るなら、ファイはもうこれ以上考えることを止めようと決めた。
「ずっとだよ……。オレが欲しいって言ったら、こうして抱いて、キスして、愛してるって言わなきゃダメ……」
「わかった」
「疲れてても、眠くても、どこか痛くても……オレの言うこと聞いて……オレが欲しいものをちょうだい。じゃなきゃオレは……」
「望みのままに」
天蓋つきの、一人で眠るにはあまりに広すぎたベッドの上に、二人は溶けるようにして沈んでいった。
「俺は、おまえだけのものだ」
幾度も熱を共有しながら、ファイの意識が焼き切れるまで、行為は続いた。
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彼は『くろがね』と名乗った。
いや、厳密には名乗ったのとは少し違う。
メイドの少女、サクラが彼を「黒鋼さん」と呼んだのを聞いたのだ。黒鋼は、ファイに向けてひょいと眉を上げて肯定しただけだった。
***
目覚めてからしばらくの間も、ファイはほとんどをベッドの上で過ごしていた。
食事は重湯からはじまり、徐々に段階を経て粥へと移り変わる間にも、しばらくは点滴からは逃れられなかった。
病院でもあるまいし、なぜこのような装置が一般の家庭にあるのだろうと疑問に感じはしたが、考えてもみればこの場所は明らかに一般家庭の水準からほど遠い大豪邸だった。
基本的にベッドから起きられない生活を送るファイが、この建物の外観を見たことはないけれど、部屋の雰囲気や窓から見える大きな庭を見れば、そのくらいの察しはついた。
黒鋼はほとんどの時間、ずっと傍にいた。点滴にしろ食事にしろ、介助は全て彼が行う。
目覚めた、と言ってもファイは長時間身体を起こすことも、長く会話をすることも出来なかった。聞きたいことは山のようにある気がしたが、すぐに身体が疲弊して、気がつくと眠っているのだ。
けれどファイが何より滅入ったのは、人間の生理現象だった。眠り続けていたらしい頃のことを考えるだけでぞっとするが、意識が戻ってまで他人の手を借りたくはない。
黒鋼はとことん世話をするつもりでいたらしいが、そんな彼にしがみついて支えてもらい、ほとんど抱えられるようにしてトイレまで移動した。
幸運だったのは、さすが大豪邸ということもあってか、トイレも浴室もファイのいる個室にしっかり完備されていたことだろうか。
とは言っても流石に自力で入浴するだけの体力はなく、身体をタオルで丁寧に拭ってくれるのはもちろん、黒鋼である。
手慣れた様を見る度に、ずっと世話になっていたのだろうと思うと赤面した。
***
窓際に設置されていたテーブルの椅子に腰かけるファイの背後には、サクラがいた。
彼女は長く伸びたファイの髪に、ゆっくりと櫛を通している。少し緊張しているのか、震える感覚が髪を通して伝わって来た。
どうにも肩から力を抜くことができないでいるらしい少女を、少しでも楽にしてやりたくて、ファイは口を開く。
「ねぇ、オレって前からこんな風に、髪伸ばしっぱなしだったのかな」
櫛を通す手がピクリと反応する。
「それとも、元々長かった?」
「私がこのお屋敷に来たときは、今よりもう少し短かったかもしれません」
「うんと……じゃあ、肩を過ぎるくらい髪が伸びるまで、ずっと寝てたってことかなぁ?」
「そう、ですね。黒鋼さんは、私たちを滅多にファイ様のお部屋に入れてくれなかったから、はっきりしたことは答えられないんですけど」
「ふぅん?」
黒鋼は時々「庭に行く」と言っていなくなってしまう。
起きていられる時間が増えて知ったことは、彼は案外この部屋にいないことも多いということ。その間はほとんどサクラが傍で話相手をしてくれる。
黒鋼に関しては、今のところ名前しかわからない。込み入った話をしようにも、ファイに余裕がなかったからだ。
彼は誰で、そして自分は彼の何なのだろう。どんな関係なのか。家族なのか、それとも他人なのか。
「彼は……ここのご主人さまなの?」
そう問うと、サクラは首を振った。
「違うと、おっしゃられてました」
「立派なお屋敷なんでしょ? ここ。まさかオレの家……なんて言わないよね?」
「えと、えっと……」
「おれたちは何も聞かされていません」
答えあぐねて、もともと手先はあまり器用ではないらしいサクラが、あたふたと手元を狂わせ始めたのに代わって、その問いに答えたのは彼女と同じ年頃の、少年執事だった。
鷲色の髪と、琥珀の瞳が美しい少年は、落ち着いた動作でファイの目の前に紅茶の注がれた、これまた一目で高級品とわかるティーカップと皿をそっと置いた。
立ち上る上質なミルクと茶葉の香りに、胸が躍る。
ここ数日で、ようやく点滴からも解放されて、まともに味があるものを口に出来るようになったのだ。
「ロイヤルミルクティーです。お好きだったとお聞きしています」
表情の硬さから、彼もまた少し緊張した様子だった。
それでも背後にいる少女の纏う空気が少し和らいだように感じたのは、気のせいではないと思う。
「そうなんだ。ありがとう、小狼君」
「いいえ」
小狼はどこか大人びた笑みを浮かべると、さらに続けた。
「ファイ様のことは、ただ大切な人だと……」
「大切な人?」
「はい。それ以外、おれたちは何も」
「ごめんなさい。黒鋼さんは、あまりお話するのが好きではないみたいで……」
ファイの髪をゴムで一纏めに緩く結んでから、サクラは小狼の隣に並んでぺこりと頭を下げた。
蜂蜜を思わせる淡い色の髪と、カチューシャについた白いフリルが、その動きに合わせて揺れるのがとても可愛らしい。
「うぅん、そんな感じはするし。それに、オレが頭パーになってるのが悪いんだし」
「ぱ、パーだなんて……」
「ファイ様はパーなんかじゃ……!」
面白いことに、二人の少年少女は同じような動作で両手をぶんぶんとさせた。思わず小さく吹き出してしまうと、彼らは顔を赤く染めた。
「申し訳ありません……」
「ご、ごめんなさい……」
「いいよぉ。そんなに謝らないで。サクラちゃん、髪きれいにしてくれてありがとう」
ほっとした顔をする二人に、ファイは「それと」と続けた。
「ファイ様って、やめてくれないかな。オレ、多分そんなに偉くないよ」
そのときから、小狼とサクラは「ファイ様」から「ファイさん」へと呼び方が変わった。
***
あれからまた少し二人と会話をしたが、彼らはどうもまだ緊張の方が強いらしく、そして同時にファイもまだ少しぼんやりしているせいで、まともに会話が成り立っていたかと問われれば、微妙なところだった。
結局得られた情報といえば、彼らがここへ来てもうじき一年になるということくらいなものだった。当時から、どうやらすでに自分はこの部屋で寝こけていたようだ。
そして基本的に朝も昼も夜も、ファイの面倒を見ていたのは黒鋼だったらしい。
「不思議な人……」
体力の消耗を感じて、くったりとテーブルに伏すと窓の外を眺めた。
広大な洋風庭園が広がっているのがわかる。よく手入れされた草花や木々、芝生、張石の通路の中央には噴水まで見えた。
ここは一階だが、機会があれば上の階からも眺めてみたい。これほどの部屋や庭園を持つお屋敷なのだから、さぞかし立派なテラスもあって、そこから一面を見渡すことが出来るのだろう。
けれど知らない場所を勝手にうろつくのも気が引けて、まだこの部屋を一歩も出られずにいる。
黒鋼に頼んでみればいいのだろうか。彼はここの主ではないらしいが、あとはサクラと小狼のみで、この屋敷には他に誰もいないようだ。
「あ」
噴水の先には同じ通路がまだ伸びている。そこに、緑のアーチをくぐって屋敷へと戻って来る黒鋼の姿が見えた。
また、ドキリとした。彼はきっと、真っすぐにこの部屋へ戻って来るに違いない。予感というよりは、確信。
――俺はただ傍にいる。おまえのものだ。
まだ名前しか知らない。他には何ひとつ思い出せない。そんな男がくれるにしては、少しばかり密度の濃い言葉だと思う。
けれど嬉しかった。ずっと欲しかった言葉のように思えてならない。何を求めていたのか、欲していたのか、失ったものがあるのかさえ、思い出せないくせに。
くすぐったさに頬を染めて、逃げるように窓から目を離す。恋する少女のような動作だと思うと、殊更恥ずかしい気がした。
じっとしていられなくて、ファイは椅子から立ち上がると天蓋付きのベッドへ移動した。ぼふんと音を立てて腰を下ろすと、ほどなくして背後でドアの開く音がした。
絨毯張りの床を踏み鳴らす音が近づいてきて、そこでようやくファイは顔を上げる。
「えっと……おかえり」
「おう」
黒鋼は薄く笑って、さきほどまでファイが腰かけていた椅子にこちらに身体を向けて座った。
「気分は?」
目覚めたときから、これは挨拶代わりのようなものだった。だからいつもと同じように首を振る。サクラが丁寧に結ってくれた髪が、鬱陶しくぱさつくことはない。
「なんともないよ。多分」
「急に動き回るなよ。まだしんどいだろ」
「うん……ちょっとね」
「何か……」
「ん?」
穏やかに見えていた黒鋼の瞳が、少しだけ鋭いものへと変化したような気がした。
なんだろうと首を傾げる前に、彼は続けた。
「思い出すことはあるか?」
「……あー」
なんとも言えない緊張感を帯びた様子の黒鋼に、違和感を覚えたのは一瞬のことだった。彼はえらく自分を気にかけてくれるようだから、おそらく純粋に心配しているのだろう。
「ごめん……なーんにも思い出せないんだ」
彼と自分は、よほど親密な関係だったのかもしれない。だから、真実を言えば気を悪くさせるだろうと思った。だが、嘘をついても仕方がない。
だが黒鋼は、ファイの想像した反応とはまるで違う反応を見せた。
「そうか」
彼は微笑んだ。最初にも見せたその表情に、ファイはただ瞬きを繰り返す。
「それでいい」
「?」
それは、何も思い出す必要はないということか。思えば、最初に目を覚ましたときもそうだった。ファイに記憶が戻らないことを、むしろ望んでいるような。
「そろそろ飯だ」
「え……あ、うん」
強面ながらも穏やかな面持ちの彼は、立ち上がるとベッド脇を通り過ぎようとした。
ファイは「待って」と、慌ててそれを引きとめる。
「どうした」
「あの、さ」
君は、オレの何? オレは、誰なの?
それを聞きたかったはずが、いざ口から出た問いは全く違ったものだった。
「君ってさ、何してる人?」
今更のようにも思えたし、本題から逸れた問いではあったが、それもそれで気になっていたことだった。
黒鋼はファイを見下ろしながら「ああ」と頷いた。そして言った。
「ただの庭師だ」
それだけを簡潔に答えると、彼はまた部屋からふらりと出て行った。
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いや、厳密には名乗ったのとは少し違う。
メイドの少女、サクラが彼を「黒鋼さん」と呼んだのを聞いたのだ。黒鋼は、ファイに向けてひょいと眉を上げて肯定しただけだった。
***
目覚めてからしばらくの間も、ファイはほとんどをベッドの上で過ごしていた。
食事は重湯からはじまり、徐々に段階を経て粥へと移り変わる間にも、しばらくは点滴からは逃れられなかった。
病院でもあるまいし、なぜこのような装置が一般の家庭にあるのだろうと疑問に感じはしたが、考えてもみればこの場所は明らかに一般家庭の水準からほど遠い大豪邸だった。
基本的にベッドから起きられない生活を送るファイが、この建物の外観を見たことはないけれど、部屋の雰囲気や窓から見える大きな庭を見れば、そのくらいの察しはついた。
黒鋼はほとんどの時間、ずっと傍にいた。点滴にしろ食事にしろ、介助は全て彼が行う。
目覚めた、と言ってもファイは長時間身体を起こすことも、長く会話をすることも出来なかった。聞きたいことは山のようにある気がしたが、すぐに身体が疲弊して、気がつくと眠っているのだ。
けれどファイが何より滅入ったのは、人間の生理現象だった。眠り続けていたらしい頃のことを考えるだけでぞっとするが、意識が戻ってまで他人の手を借りたくはない。
黒鋼はとことん世話をするつもりでいたらしいが、そんな彼にしがみついて支えてもらい、ほとんど抱えられるようにしてトイレまで移動した。
幸運だったのは、さすが大豪邸ということもあってか、トイレも浴室もファイのいる個室にしっかり完備されていたことだろうか。
とは言っても流石に自力で入浴するだけの体力はなく、身体をタオルで丁寧に拭ってくれるのはもちろん、黒鋼である。
手慣れた様を見る度に、ずっと世話になっていたのだろうと思うと赤面した。
***
窓際に設置されていたテーブルの椅子に腰かけるファイの背後には、サクラがいた。
彼女は長く伸びたファイの髪に、ゆっくりと櫛を通している。少し緊張しているのか、震える感覚が髪を通して伝わって来た。
どうにも肩から力を抜くことができないでいるらしい少女を、少しでも楽にしてやりたくて、ファイは口を開く。
「ねぇ、オレって前からこんな風に、髪伸ばしっぱなしだったのかな」
櫛を通す手がピクリと反応する。
「それとも、元々長かった?」
「私がこのお屋敷に来たときは、今よりもう少し短かったかもしれません」
「うんと……じゃあ、肩を過ぎるくらい髪が伸びるまで、ずっと寝てたってことかなぁ?」
「そう、ですね。黒鋼さんは、私たちを滅多にファイ様のお部屋に入れてくれなかったから、はっきりしたことは答えられないんですけど」
「ふぅん?」
黒鋼は時々「庭に行く」と言っていなくなってしまう。
起きていられる時間が増えて知ったことは、彼は案外この部屋にいないことも多いということ。その間はほとんどサクラが傍で話相手をしてくれる。
黒鋼に関しては、今のところ名前しかわからない。込み入った話をしようにも、ファイに余裕がなかったからだ。
彼は誰で、そして自分は彼の何なのだろう。どんな関係なのか。家族なのか、それとも他人なのか。
「彼は……ここのご主人さまなの?」
そう問うと、サクラは首を振った。
「違うと、おっしゃられてました」
「立派なお屋敷なんでしょ? ここ。まさかオレの家……なんて言わないよね?」
「えと、えっと……」
「おれたちは何も聞かされていません」
答えあぐねて、もともと手先はあまり器用ではないらしいサクラが、あたふたと手元を狂わせ始めたのに代わって、その問いに答えたのは彼女と同じ年頃の、少年執事だった。
鷲色の髪と、琥珀の瞳が美しい少年は、落ち着いた動作でファイの目の前に紅茶の注がれた、これまた一目で高級品とわかるティーカップと皿をそっと置いた。
立ち上る上質なミルクと茶葉の香りに、胸が躍る。
ここ数日で、ようやく点滴からも解放されて、まともに味があるものを口に出来るようになったのだ。
「ロイヤルミルクティーです。お好きだったとお聞きしています」
表情の硬さから、彼もまた少し緊張した様子だった。
それでも背後にいる少女の纏う空気が少し和らいだように感じたのは、気のせいではないと思う。
「そうなんだ。ありがとう、小狼君」
「いいえ」
小狼はどこか大人びた笑みを浮かべると、さらに続けた。
「ファイ様のことは、ただ大切な人だと……」
「大切な人?」
「はい。それ以外、おれたちは何も」
「ごめんなさい。黒鋼さんは、あまりお話するのが好きではないみたいで……」
ファイの髪をゴムで一纏めに緩く結んでから、サクラは小狼の隣に並んでぺこりと頭を下げた。
蜂蜜を思わせる淡い色の髪と、カチューシャについた白いフリルが、その動きに合わせて揺れるのがとても可愛らしい。
「うぅん、そんな感じはするし。それに、オレが頭パーになってるのが悪いんだし」
「ぱ、パーだなんて……」
「ファイ様はパーなんかじゃ……!」
面白いことに、二人の少年少女は同じような動作で両手をぶんぶんとさせた。思わず小さく吹き出してしまうと、彼らは顔を赤く染めた。
「申し訳ありません……」
「ご、ごめんなさい……」
「いいよぉ。そんなに謝らないで。サクラちゃん、髪きれいにしてくれてありがとう」
ほっとした顔をする二人に、ファイは「それと」と続けた。
「ファイ様って、やめてくれないかな。オレ、多分そんなに偉くないよ」
そのときから、小狼とサクラは「ファイ様」から「ファイさん」へと呼び方が変わった。
***
あれからまた少し二人と会話をしたが、彼らはどうもまだ緊張の方が強いらしく、そして同時にファイもまだ少しぼんやりしているせいで、まともに会話が成り立っていたかと問われれば、微妙なところだった。
結局得られた情報といえば、彼らがここへ来てもうじき一年になるということくらいなものだった。当時から、どうやらすでに自分はこの部屋で寝こけていたようだ。
そして基本的に朝も昼も夜も、ファイの面倒を見ていたのは黒鋼だったらしい。
「不思議な人……」
体力の消耗を感じて、くったりとテーブルに伏すと窓の外を眺めた。
広大な洋風庭園が広がっているのがわかる。よく手入れされた草花や木々、芝生、張石の通路の中央には噴水まで見えた。
ここは一階だが、機会があれば上の階からも眺めてみたい。これほどの部屋や庭園を持つお屋敷なのだから、さぞかし立派なテラスもあって、そこから一面を見渡すことが出来るのだろう。
けれど知らない場所を勝手にうろつくのも気が引けて、まだこの部屋を一歩も出られずにいる。
黒鋼に頼んでみればいいのだろうか。彼はここの主ではないらしいが、あとはサクラと小狼のみで、この屋敷には他に誰もいないようだ。
「あ」
噴水の先には同じ通路がまだ伸びている。そこに、緑のアーチをくぐって屋敷へと戻って来る黒鋼の姿が見えた。
また、ドキリとした。彼はきっと、真っすぐにこの部屋へ戻って来るに違いない。予感というよりは、確信。
――俺はただ傍にいる。おまえのものだ。
まだ名前しか知らない。他には何ひとつ思い出せない。そんな男がくれるにしては、少しばかり密度の濃い言葉だと思う。
けれど嬉しかった。ずっと欲しかった言葉のように思えてならない。何を求めていたのか、欲していたのか、失ったものがあるのかさえ、思い出せないくせに。
くすぐったさに頬を染めて、逃げるように窓から目を離す。恋する少女のような動作だと思うと、殊更恥ずかしい気がした。
じっとしていられなくて、ファイは椅子から立ち上がると天蓋付きのベッドへ移動した。ぼふんと音を立てて腰を下ろすと、ほどなくして背後でドアの開く音がした。
絨毯張りの床を踏み鳴らす音が近づいてきて、そこでようやくファイは顔を上げる。
「えっと……おかえり」
「おう」
黒鋼は薄く笑って、さきほどまでファイが腰かけていた椅子にこちらに身体を向けて座った。
「気分は?」
目覚めたときから、これは挨拶代わりのようなものだった。だからいつもと同じように首を振る。サクラが丁寧に結ってくれた髪が、鬱陶しくぱさつくことはない。
「なんともないよ。多分」
「急に動き回るなよ。まだしんどいだろ」
「うん……ちょっとね」
「何か……」
「ん?」
穏やかに見えていた黒鋼の瞳が、少しだけ鋭いものへと変化したような気がした。
なんだろうと首を傾げる前に、彼は続けた。
「思い出すことはあるか?」
「……あー」
なんとも言えない緊張感を帯びた様子の黒鋼に、違和感を覚えたのは一瞬のことだった。彼はえらく自分を気にかけてくれるようだから、おそらく純粋に心配しているのだろう。
「ごめん……なーんにも思い出せないんだ」
彼と自分は、よほど親密な関係だったのかもしれない。だから、真実を言えば気を悪くさせるだろうと思った。だが、嘘をついても仕方がない。
だが黒鋼は、ファイの想像した反応とはまるで違う反応を見せた。
「そうか」
彼は微笑んだ。最初にも見せたその表情に、ファイはただ瞬きを繰り返す。
「それでいい」
「?」
それは、何も思い出す必要はないということか。思えば、最初に目を覚ましたときもそうだった。ファイに記憶が戻らないことを、むしろ望んでいるような。
「そろそろ飯だ」
「え……あ、うん」
強面ながらも穏やかな面持ちの彼は、立ち上がるとベッド脇を通り過ぎようとした。
ファイは「待って」と、慌ててそれを引きとめる。
「どうした」
「あの、さ」
君は、オレの何? オレは、誰なの?
それを聞きたかったはずが、いざ口から出た問いは全く違ったものだった。
「君ってさ、何してる人?」
今更のようにも思えたし、本題から逸れた問いではあったが、それもそれで気になっていたことだった。
黒鋼はファイを見下ろしながら「ああ」と頷いた。そして言った。
「ただの庭師だ」
それだけを簡潔に答えると、彼はまた部屋からふらりと出て行った。
←戻る ・ 次へ→
パツン、パツンと、一定の間隔で音が聞こえた。
何かにハサミを入れる音だろうと、薄ぼんやりとした脳裏の片隅で考える。
近いような、遠いような、目覚めの間際の思考では、その音と自分との距離を推し量ることはできなかった。
目を開ける。身体が鉛のように重い。意識もまた比例するように、どろりと淀んでいた。
それでもピクリと指先を動かすと、シルクのような手触りのシーツを緩く握りしめてみる。
天蓋付きのベッド。そこから垂れ下がる薄いレースが、窓に向かって丘を二つ並べたように開かれている。
差し込む眩い光は、覚醒したばかりの目には些か強すぎた。外に何があるのかを確かめるより先に、青年は刺すような痛みに瞳を眇め、そして逸らす。
目が眩んだせいで、室内はよく見えない。ただ、広い部屋なのだろうと、そう思う。
徐々に目が慣れてくるのを待って、改めて室内に視線を向けた。
どこか古めかしい調度品、天蓋の柱も、ベッド脇の引き出しも、備え付けられている椅子やテーブルも、それら全てに装飾が施されているらしいのを見て、ここは一体どこだろうかと考えを巡らせた。
だが上手くいかない。脳が考えることを拒否している。何か、とても大きな障害が、それを遮っているような気がしてならなかった。
重い、という感覚を通り越して、身体は関節を動かすだけで軋むように痛んでいた。だが、それ以上に何より痛んだのは、右腕だった。
「ッ……!」
どうにかして身体を起こしたくて身じろいだとき、鋭い衝撃が走った。突っ張るような感覚と共に、カラリと無機物が揺れる音がする。
咄嗟に顔を顰めながら腕を見れば、細いチューブのついた針が刺し込まれているのが見えた。肌がそこだけ赤黒く変色しており、よくよく見ればその痣は何か所にも残っている。左腕も同様に、多くの内出血が見られた。
ベッド脇には点滴装置が置かれていて、ぶら下げられたパックの中身はほとんど無くなりかけている。
しばらくは呆然とそれを眺め、結局半身を起こすだけでも相当の長い時間を要した。
たったそれだけの動作で息が上がる。それをどうにか整えてこくりと喉を鳴らせば、酷く乾いているらしくチリチリと痛んだ。小さく咳き込んだことで、逆にようやく満足に酸素を取り込めたような気がして、青年はほっとする。
まだ何か詰まったような感覚の拭えない喉を細い指先で押さえながら、もう一度考えた。
ここはどこで、なぜ自分はここにいて、こんなにも疲弊するほど深く眠りこんでいたのだろう。
当然の疑問が幾つか浮かんだけれど、答えを導き出すことはできなかった。
ぴたりと思考が止まるのだ。何も考えられない。けれど謎は深まって、それが本格的に混乱を引き起こす前に、青年はふと気がついた。
そうだ。
何も分からないのは当たり前だ。
「空っぽ……」
呆然と呟いた。
「空っぽなんだ、オレ」
そう、何もなかった。
何も考えられないのではなく、何も思いだせないのだ。
名前も、年齢も、どこからやって来たのかも、自分の容姿さえ。
ふと鏡はないだろうかと思い、再び辺りを見回してみる。けれど壁にはせいぜいどこか見知らぬ国の街並みを描いた絵画や、サンゴのように伸びた角を誇る鹿の剥製が首だけを突き出している、それだけだった。
大きな壁時計がチクタクと微かな音を立てている。いつしかあの枝を落とすようなハサミの音は止んでいた。
たったそれだけの、無音の空間に取り残されているのだと気がついて、けれど青年の心は凪いだ海のように落ち着いていた。
何も思い出せないなら、仕方がない。
考えるだけ無駄だと知ったことで、かえって気が晴れた。
それ以上、何を思うでもなくぼんやりとシーツの皺を眺めていると、ガチャリとドアノブが回る硬質な音がして顔を上げた。
ドアが開かれると、そこには長身で体格のいい黒髪の男がいた。彼は黒のジャージを着用しており、このやたら豪勢な空間にはおよそ不釣り合いな印象を受ける。
「おまえ……」
切れ長の目を僅かに見開いて、男は小さく呟くと足早にこちらへとやって来る。
ベッド脇で足を止めた男は、ぼんやりと見上げるばかりの青年を驚きの表情で見下ろすと、ベッドの縁に膝をつき少しだけ身を屈めた。
大きな男だ。その彼が、ジャージ越しにもわかる逞しい両腕をこちらへ伸ばしてくる。
(あ……抱きしめられる……)
そう思った。
けれどその手は青年に触れるか触れないかのところでピタリと止まった。彼の両手は土に汚れた軍手に包まれていたのだ。
男はハッとして、汚れた軍手を外すとおざなりにポケットに詰め込んでいる。そしてどこかバツが悪そうに身を引いた。
悪戯を咎められた子供のようにも見えて、青年は小首を傾げた。
「……別によかったのに」
青年が呟くと、男の整った眉がピクリと動く。
「手、汚くても気にならないよ」
そのまま抱いてくれてもよかった。この男が誰かも知らないのに、なぜか彼が身を引いてしまったことが、少し寂しかった。
「そんなことできるか」
男は低い声で吐きだすと、ベッドの縁にこちらへ身体を向けるようにしてドカリと腰を下ろした。
何かを言いかけて、けれど唇が薄く開かれただけで、何も言葉は出てこない。
そのまま、手を伸ばせば簡単に触れあえる距離で、見つめ合ったまま沈黙が流れる。
今、自分にはおそらく頼れる人間はこの男しかいないだろう。情報を得る手段はそれ以外にない。
けれど、彼の炎のような赤い瞳を見つめるだけで、不思議と全てがどうでもいいことのように思えてしまう。
もしかしたら、知っているのだろうか。自分は、この男のことを。
「……気分は?」
どれほどの沈黙が流れていたのかは分からない。先に口を開いたのは黒ジャージの男の方だった。
青年は首を振る。肩を過ぎるほど長い金の髪がぱさぱさと踊った。
「オレ、ずっと寝てた?」
「そうだ」
「……ふぅん」
険しい表情に気遣わしげな色を乗せて、男がじっと見つめてくる。
心配させているらしいことが伝わって、青年はようやく疑問を口に出すことにした。
「あのね」
「おう」
「不思議だなって、思うことがあって」
「……言ってみろ」
青年は小さくへにゃりと笑った。緊張感がない人間だなぁと、自分に呆れたりもする。
「オレ、誰なんだろ?」
「!」
「あと、君。誰?」
男は再び目を見開いた。この反応からして、やはり彼は自分を知る人間なのだろうと思った。
流石に何か大事になるのだろうかと想像して、けれどそれは男が浮かべた穏やかな笑みに打ち消された。
「……そうか」
ドキリとした。どちらかと言えば強面の、笑顔などとはほど遠い人間のように感じられていたから。こんな風に、穏やかに笑うなんて。
けれど、知っているような気もした。この寂しげな笑顔を、どこかで……。
男は無骨な指先を伸ばし、青年の頬に触れた。土と、草と、仄かな花の香りがした。懐かしくて、少しだけ泣きたいような切なさが胸を甘く満たした。
「それでいい」
「……?」
「おまえは選んだ。なら、俺はただ傍にいる。おまえのものだ」
「っ……」
咄嗟に彼の名を口にしかけて、喉が詰まった。
知らない。彼のこと、名前さえ。呼びたくても、今の自分は空っぽの入れ物と一緒だった。
頬から温かな指が触れようとするのを、咄嗟に掴んだ。
縋るような瞳で彼を見上げる。
「……お願い。教えて、君の」
名前を。
そのときだった。
中途半端に開かれたままの扉から、声がした。
「ファイ様……!?」
二人同時に振り返れば、そこにはまだ少女と言って差し支えない年頃のメイドが、両手で口元を押さえていた。
大きな翡翠の瞳が、驚きに見開かれている。
「目が覚めたんですね……!」
ファイ様と、少女が再び口にした。
ああそれが自分の名前かと、青年は、ファイは、彼女に微笑んで見せたのだった。
←戻る ・ 次へ→
何かにハサミを入れる音だろうと、薄ぼんやりとした脳裏の片隅で考える。
近いような、遠いような、目覚めの間際の思考では、その音と自分との距離を推し量ることはできなかった。
目を開ける。身体が鉛のように重い。意識もまた比例するように、どろりと淀んでいた。
それでもピクリと指先を動かすと、シルクのような手触りのシーツを緩く握りしめてみる。
天蓋付きのベッド。そこから垂れ下がる薄いレースが、窓に向かって丘を二つ並べたように開かれている。
差し込む眩い光は、覚醒したばかりの目には些か強すぎた。外に何があるのかを確かめるより先に、青年は刺すような痛みに瞳を眇め、そして逸らす。
目が眩んだせいで、室内はよく見えない。ただ、広い部屋なのだろうと、そう思う。
徐々に目が慣れてくるのを待って、改めて室内に視線を向けた。
どこか古めかしい調度品、天蓋の柱も、ベッド脇の引き出しも、備え付けられている椅子やテーブルも、それら全てに装飾が施されているらしいのを見て、ここは一体どこだろうかと考えを巡らせた。
だが上手くいかない。脳が考えることを拒否している。何か、とても大きな障害が、それを遮っているような気がしてならなかった。
重い、という感覚を通り越して、身体は関節を動かすだけで軋むように痛んでいた。だが、それ以上に何より痛んだのは、右腕だった。
「ッ……!」
どうにかして身体を起こしたくて身じろいだとき、鋭い衝撃が走った。突っ張るような感覚と共に、カラリと無機物が揺れる音がする。
咄嗟に顔を顰めながら腕を見れば、細いチューブのついた針が刺し込まれているのが見えた。肌がそこだけ赤黒く変色しており、よくよく見ればその痣は何か所にも残っている。左腕も同様に、多くの内出血が見られた。
ベッド脇には点滴装置が置かれていて、ぶら下げられたパックの中身はほとんど無くなりかけている。
しばらくは呆然とそれを眺め、結局半身を起こすだけでも相当の長い時間を要した。
たったそれだけの動作で息が上がる。それをどうにか整えてこくりと喉を鳴らせば、酷く乾いているらしくチリチリと痛んだ。小さく咳き込んだことで、逆にようやく満足に酸素を取り込めたような気がして、青年はほっとする。
まだ何か詰まったような感覚の拭えない喉を細い指先で押さえながら、もう一度考えた。
ここはどこで、なぜ自分はここにいて、こんなにも疲弊するほど深く眠りこんでいたのだろう。
当然の疑問が幾つか浮かんだけれど、答えを導き出すことはできなかった。
ぴたりと思考が止まるのだ。何も考えられない。けれど謎は深まって、それが本格的に混乱を引き起こす前に、青年はふと気がついた。
そうだ。
何も分からないのは当たり前だ。
「空っぽ……」
呆然と呟いた。
「空っぽなんだ、オレ」
そう、何もなかった。
何も考えられないのではなく、何も思いだせないのだ。
名前も、年齢も、どこからやって来たのかも、自分の容姿さえ。
ふと鏡はないだろうかと思い、再び辺りを見回してみる。けれど壁にはせいぜいどこか見知らぬ国の街並みを描いた絵画や、サンゴのように伸びた角を誇る鹿の剥製が首だけを突き出している、それだけだった。
大きな壁時計がチクタクと微かな音を立てている。いつしかあの枝を落とすようなハサミの音は止んでいた。
たったそれだけの、無音の空間に取り残されているのだと気がついて、けれど青年の心は凪いだ海のように落ち着いていた。
何も思い出せないなら、仕方がない。
考えるだけ無駄だと知ったことで、かえって気が晴れた。
それ以上、何を思うでもなくぼんやりとシーツの皺を眺めていると、ガチャリとドアノブが回る硬質な音がして顔を上げた。
ドアが開かれると、そこには長身で体格のいい黒髪の男がいた。彼は黒のジャージを着用しており、このやたら豪勢な空間にはおよそ不釣り合いな印象を受ける。
「おまえ……」
切れ長の目を僅かに見開いて、男は小さく呟くと足早にこちらへとやって来る。
ベッド脇で足を止めた男は、ぼんやりと見上げるばかりの青年を驚きの表情で見下ろすと、ベッドの縁に膝をつき少しだけ身を屈めた。
大きな男だ。その彼が、ジャージ越しにもわかる逞しい両腕をこちらへ伸ばしてくる。
(あ……抱きしめられる……)
そう思った。
けれどその手は青年に触れるか触れないかのところでピタリと止まった。彼の両手は土に汚れた軍手に包まれていたのだ。
男はハッとして、汚れた軍手を外すとおざなりにポケットに詰め込んでいる。そしてどこかバツが悪そうに身を引いた。
悪戯を咎められた子供のようにも見えて、青年は小首を傾げた。
「……別によかったのに」
青年が呟くと、男の整った眉がピクリと動く。
「手、汚くても気にならないよ」
そのまま抱いてくれてもよかった。この男が誰かも知らないのに、なぜか彼が身を引いてしまったことが、少し寂しかった。
「そんなことできるか」
男は低い声で吐きだすと、ベッドの縁にこちらへ身体を向けるようにしてドカリと腰を下ろした。
何かを言いかけて、けれど唇が薄く開かれただけで、何も言葉は出てこない。
そのまま、手を伸ばせば簡単に触れあえる距離で、見つめ合ったまま沈黙が流れる。
今、自分にはおそらく頼れる人間はこの男しかいないだろう。情報を得る手段はそれ以外にない。
けれど、彼の炎のような赤い瞳を見つめるだけで、不思議と全てがどうでもいいことのように思えてしまう。
もしかしたら、知っているのだろうか。自分は、この男のことを。
「……気分は?」
どれほどの沈黙が流れていたのかは分からない。先に口を開いたのは黒ジャージの男の方だった。
青年は首を振る。肩を過ぎるほど長い金の髪がぱさぱさと踊った。
「オレ、ずっと寝てた?」
「そうだ」
「……ふぅん」
険しい表情に気遣わしげな色を乗せて、男がじっと見つめてくる。
心配させているらしいことが伝わって、青年はようやく疑問を口に出すことにした。
「あのね」
「おう」
「不思議だなって、思うことがあって」
「……言ってみろ」
青年は小さくへにゃりと笑った。緊張感がない人間だなぁと、自分に呆れたりもする。
「オレ、誰なんだろ?」
「!」
「あと、君。誰?」
男は再び目を見開いた。この反応からして、やはり彼は自分を知る人間なのだろうと思った。
流石に何か大事になるのだろうかと想像して、けれどそれは男が浮かべた穏やかな笑みに打ち消された。
「……そうか」
ドキリとした。どちらかと言えば強面の、笑顔などとはほど遠い人間のように感じられていたから。こんな風に、穏やかに笑うなんて。
けれど、知っているような気もした。この寂しげな笑顔を、どこかで……。
男は無骨な指先を伸ばし、青年の頬に触れた。土と、草と、仄かな花の香りがした。懐かしくて、少しだけ泣きたいような切なさが胸を甘く満たした。
「それでいい」
「……?」
「おまえは選んだ。なら、俺はただ傍にいる。おまえのものだ」
「っ……」
咄嗟に彼の名を口にしかけて、喉が詰まった。
知らない。彼のこと、名前さえ。呼びたくても、今の自分は空っぽの入れ物と一緒だった。
頬から温かな指が触れようとするのを、咄嗟に掴んだ。
縋るような瞳で彼を見上げる。
「……お願い。教えて、君の」
名前を。
そのときだった。
中途半端に開かれたままの扉から、声がした。
「ファイ様……!?」
二人同時に振り返れば、そこにはまだ少女と言って差し支えない年頃のメイドが、両手で口元を押さえていた。
大きな翡翠の瞳が、驚きに見開かれている。
「目が覚めたんですね……!」
ファイ様と、少女が再び口にした。
ああそれが自分の名前かと、青年は、ファイは、彼女に微笑んで見せたのだった。
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明け方近くにぽっかりと目を覚ますと、抱いて寝ていたはずのファイの姿はなかった。
気づかないほど深く眠っていたことを意外に思いながら身を起こすと、窓際の床にぺったりと腰を下ろしているファイの後ろ姿が見えた。
「なにしてんだ」
「あ、おはよ」
シーツを身体にすっぽりと羽織っているファイが振り返る。その声は痛々しく語尾が擦れていた。
「馬鹿だろてめぇ。風邪ひくぞ」
「雪が降ってるって言ってたから見たくなっちゃって……。そしたら、歩くのここまでが限界だったの」
なんか力が入らなくて……と言いながら笑うファイに、黒鋼はむっと顔を顰める。彼がへたり込んでいるのも声が酷いことになっているのも、すべては黒鋼が無理をさせたからだった。
仕方なしに溜息を零し、ベッドの下に落ちているジーンズを掴んで穿いた。
頭をボリボリと掻きながら窓際まで行けば、僅かに開けられたカーテンの外は薄青い闇に染まっている。ファイが熱心に眺めるその先に、雪は降っていなかった。
「雨になっちゃったよ」
よく耳を澄ますと、サーサーという静かな音が聞こえた。
黒鋼はその光景に目を細める。まだ中途半端に眠っている街。積もるかと思った雪は、降りしきる雨に溶かされて消えつつあった。
アスファルトの脇や、停車している車の屋根に食べかけの綿飴のようなそれが僅かに残っている。それを、二人でただ静かに見下ろした。
けれどやがて、ファイがクシュンと小さなクシャミをした。
黒鋼は無言で彼の背後に回ると、シーツごとファイを抱き込むようにして、どっかりと腰を下ろした。
背中から回ってきた両腕に抱きしめられたファイは、パチパチと睫毛を瞬かせながら振り向き、黒鋼の顔を見上げた。けれど何も言わずにそのまま窓の外を眺める黒鋼に、ファイもまた同じように薄青の景色に目を向けた。
冷えた背中が、黒鋼の胸にぴったりと寄りかかる。ゆっくりと熱を分けるように抱きしめたままでいれば、やがてファイの細い体も体温を上げた。
「妙な感じだ」
「え?」
ファイが僅かに首だけで振り向くと、ふわふわとした髪が黒鋼の喉元をくすぐる。その感覚に、少しだけ笑った。
「いや」
なんでもねぇと囁けば、ファイが小首を傾げた。
「なぁに? 気になるよ」
「だから、なんでもねぇよ。ただ……」
「ただ?」
「雨がな」
「雨?」
「ああ……」
黒鋼は窓の外から目を逸らさない。こんな風に静かに降り注ぐ雨を、穏やかに見つめている自分が不思議だった。
雨は大嫌いだった。大切な人を最悪の形で奪い、それに飽き足らず黒鋼から眠りさえも奪ってしまった。そのせいで、夢の中にさえ逃げ場がなかった。
「俺の両親が死んだのは、あの夏のキャンプの帰り道だった」
「……そう」
「急に雨が降り出して、視界が最悪な中にトラックが正面から突っ込んできた」
そこから先を黒鋼は覚えていない。ただ気がついたときは砂利の上にいた。
ガードレールを突っ切って斜面に車ごと転がり落ちたことを知ったのは、それから少し後に詳しい話を聞いたからだった。
けれど幼い黒鋼には、そんなことはどうでもよかった。あのときの状況を詳しく知ったからといって、どうなるわけでもなかったから。
ファイの手が、黒鋼の腕にかかった。ぎゅっと掴まれて、黒鋼は初めて自分がぼんやりとしていたことに気がついた。
同じく最愛を失っている彼にこの話をするべきではなかったのか、それともこれでよかったのか、黒鋼には分からない。ただ知っていてほしいことがあった。
「俺は雨の日が嫌ぇだったんだよ。ろくでもねぇことばかりを考えちまう」
「うん……」
「だが、今はどうでもいい。好きじゃあねぇが、嫌いでもねぇ」
「どうして……?」
ファイの肩を強く抱いて、そのこめかみ辺りに頬をすり寄せた。くすぐったいのか、手の中の肩が小さく揺れた。
「いい抱き枕を見つけたからかもしれねぇな」
結局、黒鋼はストレートには言えなかった。それでもファイには伝わった。彼は、内緒話でもするかのように密やかな声をあげて笑った。
「抱き心地、あんまりよくない枕だね」
「そうでもねぇよ」
「ふぅん?」
「だからてめぇは」
俺を救うことはあっても、傷つけることはねぇんだよ。
そう小さな声で告げれば、ファイは泣きそうに笑顔をくしゃりと歪めながらも、「ありがとう」と言った。
ゆっくりと滲むように白に近づいてゆく光は、朝日と呼ぶには頼りない。それでも黒鋼は、その儚い光に夏のキラキラとした眩しい太陽を見たような気がした。
ゆらゆらと、きらきらと。
目蓋の裏を焦がすようなそれは、澄んだ水面に映し出された美しい光だった。
雨の音さえも、今はあの夏の優しい川のせせらぎに聞こえる。
青い空と白い雲。生命力に満ち溢れた木々や、虫や、魚たちと、子供達の声。そして、父と母の声。もう一人の、幼いファイの声。
――来年もまた来るぞ。次はもっとでっかい魚を釣るんだ。カブトムシも、今年は見つけられなかったからな。
――お母さんは、あんまりキャンプって好きじゃないわ。でも、太陽の下で食べるご飯は本当に美味しかったわね。蛍も綺麗だったし、一年に一度くらいなら、いいかもね。
――また会おうね。ボク、来年の夏休みもユゥイと来るって約束してるの。
優しくて、穏やかで、懐かしい人たち。彼らには、もう決して会えない。
だけどそれでもいい。記憶の中の彼らは、いつだって川のせせらぎと共に微笑んでいる。
あの夏の光を、笑顔を、そして果たされなかった約束を、生きている限り覚えていよう。
「オレ、君に逢えてよかった」
同じ光を、彼もまた思い描いていたのだろうか。ゆっくりと無防備に息を吐き出しながら、ファイは黒鋼の頬にキスをした。
黒鋼はお返しとばかりに、彼の綺麗な額にキスをする。
気がつけば雨は止んでいた。
そして二人は同時に、裂けるようにして離れ行く雲の切れ目から、少しずつ強くなってゆく朝の光の中で言った。
――生きててくれて、ありがとう。
***
春は出会いと別れの季節だった。
二人は春を待ちながら、訪れる最後の日を想っていた。
ファイの任期は一年。三学期の終わりの日。それが、彼との別れの日だった。
「見上げると、ぜんぜん大したことない気がするなぁ」
「見下ろしたときはビビってただろうが」
「うん。案外高かったんだよ」
「よくもぬけぬけと……」
校庭の片隅。出会ったあの日と同じスーツ姿のファイが、北校舎を見上げて笑っている。
お決まりの黒ジャージの黒鋼は、そんな彼の金色の頭を軽く小突いた。
それから二人は、そのまま校舎よりもずっとずっと高い場所を見上げる。僅かに首が痛むくらいにまで喉を反らせば、もう青空しか見えない。
吸い込まれそうな気がして、黒鋼は咄嗟にその視線をファイに向けた。
寂しくなるなという呟きを口にしかけて、代わりに他の話題へとすりかえる。
「4月からは男子校だったか?」
「あ、うん。隣町だからそんなに遠くはないけどね。寂しくなるなぁ」
黒鋼が言おうとして止めてしまったことを、ファイは惜しげもなく言った。
たった一年ではあるけれど、彼はすっかりこの学校に溶け込んでいた。離れがたいのは無理もない。
それでも朝から保健室や職員室でメソメソと泣いている女子生徒をさんざん見せられて、黒鋼は少々辟易としていた。学校中が、まるで葬式会場のようだった。
だがそれよりも気になるのはファイの次の赴任先である。
よりによって男子校。そうそう間違いがあるとは思えないものの、同性でありながらあっさり惑わされた自分だからこそ、一応は気がかりである。
「ふふふ」
「あんだよ」
ファイのにんまりとした流し目に、黒鋼の表情がさらに悪人顔になる。
「別にー?」
「てめぇ、思いあがってんじゃねぇぞ」
「何をかなー?」
なぜかご機嫌で歌うように言いながら、ファイは両手の指を後手に組むとクルリと黒鋼に背を向けた。そして歩き出す。
「じゃ、オレはこれでさよーならー」
「ああ」
黒鋼はポケットに手を突っ込んだ。羽根が舞うような軽い身のこなしで去ってゆく、スーツの背中を見つめる。
今にも芽吹きそうな蕾が鮮やかに花開く頃、彼はもうここにはいない。
新しい生活が始まるのだ。保健室には無事に出産を終えた養護教諭が戻ってくる。
一度だけ産まれた赤ん坊を見せにやって来たときの彼女は、記憶の中よりもさらに柔らかな微笑みをたたえていた。彼女が産んだのは、可愛らしい双子の女の子だった。
失われる命があれば、新しく芽吹く命もある。この先も、どれだけの出会いや別れがあるのだろう。
「黒たん」
ぼんやりとそんなことを思いながら佇んでいた黒鋼の名を、ファイが振り返って呼んだ。
「なんだよ」
「今夜は、何が食べたい?」
ファイは住んでいたマンションを引き払った。そして、黒鋼も同様にボロアパートを出た。馴染みだった黒猫には、別れ際に上等な猫缶を一缶食わせてやった。
二人の新しい住いは、この学校と例の男子校との中間にある、新築のマンションだった。
「肉じゃが作れ」
黒鋼は口元を僅かに緩めて言った。ファイはにっこりと笑うと、「りょうかーい」と楽しそうに答えた。そして、手を振ると行ってしまった。
出会いと別れを繰り返しながら、訪れた終わりの日。
黒鋼とファイの新しい日々は、ここから始まる。
End
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気づかないほど深く眠っていたことを意外に思いながら身を起こすと、窓際の床にぺったりと腰を下ろしているファイの後ろ姿が見えた。
「なにしてんだ」
「あ、おはよ」
シーツを身体にすっぽりと羽織っているファイが振り返る。その声は痛々しく語尾が擦れていた。
「馬鹿だろてめぇ。風邪ひくぞ」
「雪が降ってるって言ってたから見たくなっちゃって……。そしたら、歩くのここまでが限界だったの」
なんか力が入らなくて……と言いながら笑うファイに、黒鋼はむっと顔を顰める。彼がへたり込んでいるのも声が酷いことになっているのも、すべては黒鋼が無理をさせたからだった。
仕方なしに溜息を零し、ベッドの下に落ちているジーンズを掴んで穿いた。
頭をボリボリと掻きながら窓際まで行けば、僅かに開けられたカーテンの外は薄青い闇に染まっている。ファイが熱心に眺めるその先に、雪は降っていなかった。
「雨になっちゃったよ」
よく耳を澄ますと、サーサーという静かな音が聞こえた。
黒鋼はその光景に目を細める。まだ中途半端に眠っている街。積もるかと思った雪は、降りしきる雨に溶かされて消えつつあった。
アスファルトの脇や、停車している車の屋根に食べかけの綿飴のようなそれが僅かに残っている。それを、二人でただ静かに見下ろした。
けれどやがて、ファイがクシュンと小さなクシャミをした。
黒鋼は無言で彼の背後に回ると、シーツごとファイを抱き込むようにして、どっかりと腰を下ろした。
背中から回ってきた両腕に抱きしめられたファイは、パチパチと睫毛を瞬かせながら振り向き、黒鋼の顔を見上げた。けれど何も言わずにそのまま窓の外を眺める黒鋼に、ファイもまた同じように薄青の景色に目を向けた。
冷えた背中が、黒鋼の胸にぴったりと寄りかかる。ゆっくりと熱を分けるように抱きしめたままでいれば、やがてファイの細い体も体温を上げた。
「妙な感じだ」
「え?」
ファイが僅かに首だけで振り向くと、ふわふわとした髪が黒鋼の喉元をくすぐる。その感覚に、少しだけ笑った。
「いや」
なんでもねぇと囁けば、ファイが小首を傾げた。
「なぁに? 気になるよ」
「だから、なんでもねぇよ。ただ……」
「ただ?」
「雨がな」
「雨?」
「ああ……」
黒鋼は窓の外から目を逸らさない。こんな風に静かに降り注ぐ雨を、穏やかに見つめている自分が不思議だった。
雨は大嫌いだった。大切な人を最悪の形で奪い、それに飽き足らず黒鋼から眠りさえも奪ってしまった。そのせいで、夢の中にさえ逃げ場がなかった。
「俺の両親が死んだのは、あの夏のキャンプの帰り道だった」
「……そう」
「急に雨が降り出して、視界が最悪な中にトラックが正面から突っ込んできた」
そこから先を黒鋼は覚えていない。ただ気がついたときは砂利の上にいた。
ガードレールを突っ切って斜面に車ごと転がり落ちたことを知ったのは、それから少し後に詳しい話を聞いたからだった。
けれど幼い黒鋼には、そんなことはどうでもよかった。あのときの状況を詳しく知ったからといって、どうなるわけでもなかったから。
ファイの手が、黒鋼の腕にかかった。ぎゅっと掴まれて、黒鋼は初めて自分がぼんやりとしていたことに気がついた。
同じく最愛を失っている彼にこの話をするべきではなかったのか、それともこれでよかったのか、黒鋼には分からない。ただ知っていてほしいことがあった。
「俺は雨の日が嫌ぇだったんだよ。ろくでもねぇことばかりを考えちまう」
「うん……」
「だが、今はどうでもいい。好きじゃあねぇが、嫌いでもねぇ」
「どうして……?」
ファイの肩を強く抱いて、そのこめかみ辺りに頬をすり寄せた。くすぐったいのか、手の中の肩が小さく揺れた。
「いい抱き枕を見つけたからかもしれねぇな」
結局、黒鋼はストレートには言えなかった。それでもファイには伝わった。彼は、内緒話でもするかのように密やかな声をあげて笑った。
「抱き心地、あんまりよくない枕だね」
「そうでもねぇよ」
「ふぅん?」
「だからてめぇは」
俺を救うことはあっても、傷つけることはねぇんだよ。
そう小さな声で告げれば、ファイは泣きそうに笑顔をくしゃりと歪めながらも、「ありがとう」と言った。
ゆっくりと滲むように白に近づいてゆく光は、朝日と呼ぶには頼りない。それでも黒鋼は、その儚い光に夏のキラキラとした眩しい太陽を見たような気がした。
ゆらゆらと、きらきらと。
目蓋の裏を焦がすようなそれは、澄んだ水面に映し出された美しい光だった。
雨の音さえも、今はあの夏の優しい川のせせらぎに聞こえる。
青い空と白い雲。生命力に満ち溢れた木々や、虫や、魚たちと、子供達の声。そして、父と母の声。もう一人の、幼いファイの声。
――来年もまた来るぞ。次はもっとでっかい魚を釣るんだ。カブトムシも、今年は見つけられなかったからな。
――お母さんは、あんまりキャンプって好きじゃないわ。でも、太陽の下で食べるご飯は本当に美味しかったわね。蛍も綺麗だったし、一年に一度くらいなら、いいかもね。
――また会おうね。ボク、来年の夏休みもユゥイと来るって約束してるの。
優しくて、穏やかで、懐かしい人たち。彼らには、もう決して会えない。
だけどそれでもいい。記憶の中の彼らは、いつだって川のせせらぎと共に微笑んでいる。
あの夏の光を、笑顔を、そして果たされなかった約束を、生きている限り覚えていよう。
「オレ、君に逢えてよかった」
同じ光を、彼もまた思い描いていたのだろうか。ゆっくりと無防備に息を吐き出しながら、ファイは黒鋼の頬にキスをした。
黒鋼はお返しとばかりに、彼の綺麗な額にキスをする。
気がつけば雨は止んでいた。
そして二人は同時に、裂けるようにして離れ行く雲の切れ目から、少しずつ強くなってゆく朝の光の中で言った。
――生きててくれて、ありがとう。
***
春は出会いと別れの季節だった。
二人は春を待ちながら、訪れる最後の日を想っていた。
ファイの任期は一年。三学期の終わりの日。それが、彼との別れの日だった。
「見上げると、ぜんぜん大したことない気がするなぁ」
「見下ろしたときはビビってただろうが」
「うん。案外高かったんだよ」
「よくもぬけぬけと……」
校庭の片隅。出会ったあの日と同じスーツ姿のファイが、北校舎を見上げて笑っている。
お決まりの黒ジャージの黒鋼は、そんな彼の金色の頭を軽く小突いた。
それから二人は、そのまま校舎よりもずっとずっと高い場所を見上げる。僅かに首が痛むくらいにまで喉を反らせば、もう青空しか見えない。
吸い込まれそうな気がして、黒鋼は咄嗟にその視線をファイに向けた。
寂しくなるなという呟きを口にしかけて、代わりに他の話題へとすりかえる。
「4月からは男子校だったか?」
「あ、うん。隣町だからそんなに遠くはないけどね。寂しくなるなぁ」
黒鋼が言おうとして止めてしまったことを、ファイは惜しげもなく言った。
たった一年ではあるけれど、彼はすっかりこの学校に溶け込んでいた。離れがたいのは無理もない。
それでも朝から保健室や職員室でメソメソと泣いている女子生徒をさんざん見せられて、黒鋼は少々辟易としていた。学校中が、まるで葬式会場のようだった。
だがそれよりも気になるのはファイの次の赴任先である。
よりによって男子校。そうそう間違いがあるとは思えないものの、同性でありながらあっさり惑わされた自分だからこそ、一応は気がかりである。
「ふふふ」
「あんだよ」
ファイのにんまりとした流し目に、黒鋼の表情がさらに悪人顔になる。
「別にー?」
「てめぇ、思いあがってんじゃねぇぞ」
「何をかなー?」
なぜかご機嫌で歌うように言いながら、ファイは両手の指を後手に組むとクルリと黒鋼に背を向けた。そして歩き出す。
「じゃ、オレはこれでさよーならー」
「ああ」
黒鋼はポケットに手を突っ込んだ。羽根が舞うような軽い身のこなしで去ってゆく、スーツの背中を見つめる。
今にも芽吹きそうな蕾が鮮やかに花開く頃、彼はもうここにはいない。
新しい生活が始まるのだ。保健室には無事に出産を終えた養護教諭が戻ってくる。
一度だけ産まれた赤ん坊を見せにやって来たときの彼女は、記憶の中よりもさらに柔らかな微笑みをたたえていた。彼女が産んだのは、可愛らしい双子の女の子だった。
失われる命があれば、新しく芽吹く命もある。この先も、どれだけの出会いや別れがあるのだろう。
「黒たん」
ぼんやりとそんなことを思いながら佇んでいた黒鋼の名を、ファイが振り返って呼んだ。
「なんだよ」
「今夜は、何が食べたい?」
ファイは住んでいたマンションを引き払った。そして、黒鋼も同様にボロアパートを出た。馴染みだった黒猫には、別れ際に上等な猫缶を一缶食わせてやった。
二人の新しい住いは、この学校と例の男子校との中間にある、新築のマンションだった。
「肉じゃが作れ」
黒鋼は口元を僅かに緩めて言った。ファイはにっこりと笑うと、「りょうかーい」と楽しそうに答えた。そして、手を振ると行ってしまった。
出会いと別れを繰り返しながら、訪れた終わりの日。
黒鋼とファイの新しい日々は、ここから始まる。
End
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小狼やさくらが何度ドアをノックしても、声をかけても、何の返答も得られなかった。
夕食は部屋の前に置いたが、さきほど再び様子を見に行った際、やはり手つかずで残されていた。
自室へ戻って一息ついた小狼が時計を見ると、午前0時に差し掛かるかという頃だった。
さくらはもう眠っただろうか。元気をなくしている様子の彼女をどうにか慰めたつもりだが、気休めにしかならないことは知っていた。
もう休んでいるならそれでいい。けれどもし寝つけずにいるのなら、彼女が眠るまで傍にいてやりたい。
流石に少し迷ったが、小狼はすぐ隣の部屋へ様子を見に行こうと、自室のドアに手をかけた。
そのときだった。
コンコン
少し控えめなノック音がした。
「さくらか?」
咄嗟に表情を和らげた。やはり寝付けなかったのだろうと。久しぶりに、子供の頃みたいに一緒に寝るのもいいかもしれない。もちろん、小狼はソファを使うつもりだけれど。
「小狼君……起きてる?」
けれどドアの向こうにいるのは、さくらではなかった。
「ファイさん……?」
咄嗟にドアを開けると、少しやつれた様子のファイがぼんやりと立ち尽くしていた。
「ごねん、寝るところだったかな?」
「いいえ……そんなことより良かった……出て来てくれて……」
ずっと部屋に閉じこもったままだったファイが、わざわざ二階の小狼の部屋までやって来たのだ。
心底ほっとした小狼は彼を部屋の中へ入れると、その背をそっと押してソファへ腰かけるように促した。
だが彼は首を左右に振るだけだった。
「?」
彼がこの部屋を訪ねるのは初めてのことだった。
小狼は少しばかり緊張しながらも、ファイがこうして顔を見せてくれたのが嬉しかった。
けれど彼は俯いたまま、何も言わない。どこか具合が悪いのかと、小狼がその表情を覗きこむと、そこにはどこか虚ろな瞳があった。
「……ファイさん?」
「いきなりごめんね、小狼君」
「いえ……」
彼は、そんな覇気のない瞳をしながらも静かに微笑んだ。なぜか、背筋にゾクリとしたものが駆け抜ける。
こんな笑い方をする人ではなかったはずだ。ずっと食事をしていないし、やつれて見えるのも、元気がないのも仕方がない。
だが、何か違うような、そんな気がする。
嫌だなと、小狼は思う。なにかとてつもなく、嫌な感じだ。
「オレね、大事なものを取りにきたんだよ」
「……大事なもの……ですか……?」
おそらくこの嫌な予感は的中している。
彼は虚ろに微笑み続け、少し青褪めて見える唇がゆっくりと動いた。
「鍵」
「……!」
白いシャツに覆われた細い腕が、ゆらりと伸びてくる。差し出された手。線の細い、長い指先が、小狼に向かって。
「ちょうだい」
咄嗟に数歩、後退する。ファイは動かない。瞬きもせず薄く笑う彼に、小狼は首を左右に振った。
「知りません。鍵なんて……」
「嘘」
「……例え持っていたとしても、あなたには渡せない」
ことりと、ファイは首を傾げた。大きな目が、子供のように見開かれている。何か不思議なものを見るような瞳。
なぜ彼が、自分が黒鋼から鍵を預かっていることを知っているのか。黒鋼から聞いた? いや、それは絶対にない。ならば……。
(さくらだ……)
「ねぇどうして? 黒たんに言われてるから?」
迂闊だった。
彼女は見ていたのだ。そしてそれが、何らかの形でファイの耳に入った。
「ちょうだいよ。だってそれ……オレの部屋の鍵だよ?」
「!?」
小狼ははっとして目を見開いた。
咄嗟に耳を疑う。彼は今、なんと言った?
「その鍵、オレの部屋の鍵なんだけど」
「ファイさん……? まさか、記憶を……?」
「うん」
本当なら喜ばしいことだ。それなのに、小狼は自分の足元が音を立てて崩れていくような気がしてならなかった。
どうしてかは、分からない。ただ、黒鋼はファイの記憶が戻ることを望んでいなかった。それだけは、知っていたから。
「思い出した。全部」
だからそれが、酷く残酷な宣告のように思えてならなかったのだ。
小狼は差し出されたままのファイの白い手を凝視した。彼の様子が明らかに違うのは、記憶を取り戻したからなのか。
そして彼がこの屋敷の主であること。それこそが小狼が唯一知らされている、些細な真実。
けれど小狼は複雑な胸中を押し込めて、彼を強い眼差しで真っすぐに見つめた。
「それでも、やっぱり渡せません。約束なんです」
「……約束だって? 彼と? 君が?」
ファイは声を上げて笑った。再び、今度は全身にゾクリとしたものが駆け抜ける。
「……そうです」
「何か勘違いしてないかな?」
「…………」
ファイは腕を組むと、皮肉げに口元を歪める。
「あれはただの庭師だ。そんな権限はないよ。そして君にもね」
「っ……」
「君はオレと距離を取っていたね。こんな風に二人きりで話をするのは、これが初めてかな?」
「それは……」
笑っていたはずの目元が、鋭く細められる。
優しくて、羽根のように柔らかで、そして幼い人だと思っていた。
それが今、真夏の陽炎のように揺らめき、霞んでいく。
「さぁ、鍵を渡すんだ。それが嫌なら、今すぐここを出て行きなさい」
それはこの屋敷の主としての命令だった。小狼は唇を噛み、きつく目を閉じる。
こうなってしまっては、彼の言うように自分には何の権限もない。当然、黒鋼にもだ。
彼が本当にここを出ていけと言っているのなら、仕方がない。逆らうことは出来ない。だが、鍵を持ったまま行くことは許されないのだ。
そのまま、無言の重圧に敗北する形で、小狼は彼に背を向けると調度品の数々の中からひとつ、鍵つきのオルゴールを取り出した。
それは偶然見つけたものだ。金の装飾が施された、黒いオルゴール。その鍵を、小狼は肌身離さず持っていた。
ポケットから小さなオモチャのようなそれを取り出して、鍵を開ける。繊細なオルゴールの音色が、室内に空しく響いた。指を忍ばせて、目的のものを取り出すと蓋を閉めた。ぷっつりと、音が途切れる。
そして彼に向き合うと、再び差し出された手に一瞬だけ戸惑いを見せたあと、鍵を乗せる。鈍く光る、金色の鍵を。
鍵は細い指によってぎゅっと握られた。小狼の手から、完全に離れた。
「ありがとう」
微笑むファイは、けれど目だけは笑っていない。虚ろなままだった。
どうにもならない現実に、小狼はきつく拳を握った。
「お願いですファイさん……ひとつだけ、約束してほしいんです」
「なに?」
「どうか、その鍵を使うのは、黒鋼さんが戻って来てからにしてください……」
せめて、黒鋼の知らぬ場所で、本当に全てが変わってしまうことだけは、避けたかった。
今の小狼のように、納得せざるをえないことは承知している。それでも。
「おれは……あの人に傷ついてほしくないんです」
ファイの記憶が戻ったことで、黒鋼と彼の関係性がどう変わるのか、小狼は知らない。
けれど、きっとこの嫌な予感は的中する。確証のない確信がそこにはあった。
「本当に優しいね、君は」
するりと、ファイの手が小狼の頬に触れた。そのまま上向かされる。
そこにあったのはただ虚ろな瞳ではなかった。ともすれば小狼のよく知る、透き通る宝石のような淡いブルーは、これまで通りのファイと錯覚しそうなほど優しく、そして切ないものだった。
「ファイさ」
「オレもだよ」
夢でも見ていたように、そっけなく手が遠のく。冷たい空気だけが、小狼の頬に残った。
「オレも、そう思ってる」
猫のようにすっと目を細めた彼は、そう言い残し部屋を出て行った。
*
こんなにうまくいくとは思わなかった。
自室に戻ると、背中の方で扉が閉まると同時に、ファイは床に崩れ落ちた。
身体が震えて力が入らない。鍵を握り締めた手を口元にぐっと押し当てる。そうでもしていなければ、心臓が口から飛び出してきそうなくらい暴れて仕方がなかった。
「ご、めん……ごめん、ね……」
震えと鼓動で、声が途切れる。
全て嘘だった。
ファイは小狼を相手に、つまらないはったりをかましたにすぎない。
賭けだった。けれど、不思議と迷いはなかったのだ。自分が、この屋敷の主だということに。
小狼は知っていたようだが、きっとあれ以上のことは何も知らされていないのだろう。ただ純粋に黒鋼を信じ、案じることができる少年を、羨ましいと思った。
「あはは……は、は……」
本当は、何も思い出してなどいない。
「君は一人で抱え込みすぎたんだよ……黒たん……」
黒鋼は、戻ったら全て聞くと言った。察しのいい彼は、ファイに起こった変化に、とうに気付いている。取り繕うにはもう遅すぎた。
どうせ失うことが分かっているなら、どこまで足掻けるか試してやろう。
全てを壊して、そしてファイは過去を手に入れるつもりだった。それから、もう一度手に入れる。力づくでも、縛りつけてでも、黒鋼をどこにも逃がさない。
「そうだ……あれはオレのものだ……オレだけのものだ……」
どこまでが正気で、どこまでが狂気か、この部屋で目を覚ましたときから、境目などただ曖昧なものでしかなかった。
最初から壊れていた。気がつかないふりをしていただけ。彼も、自分も。
ファイはゆらりと立ち上がる。足音も立てずに窓辺のテーブルに近づけば、暗闇の中に枯れかけの乾いた花がぽつんと置かれている。
そっと手に取り、口づけた。
そう、過去も現在も未来でさえも。
あの男から薔薇の花を受け取るのは、この自分でなければ。
***
明け方近くまで息を殺した。黒鋼は戻らない。
ファイは最初から、小狼の願いを聞き入れるつもりはなかった。
それでも今まで見動きせずにいたのは、ほんの僅かに残っていた情けだろうか。あの心優しい少年が眠れない夜を過ごしていることくらい、知っている。
それでもファイは行かなくてはならないのだ。
傷つけたくないという思いに嘘はないけれど、そうしなければ得られないものがあるのなら、何を犠牲にしてでも構わないとさえ、今なら思える。
静かに、音を立てないように。扉を開け、死んでしまった薔薇を片手に、裸足で廊下をゆっくりと歩いた。
大きな古時計が金色の振り子を揺らしながら音を立てる。玄関ホールの大理石は冷たく、歩く度にひたひたと音がした。
ああ、こんな風に、ここをこうして裸足で歩いてみたかった。多分きっと、子供の頃から。ファイは小さく、無邪気に微笑んだ。
反対側の廊下。ガラスケースの中の人形たちがこちらを見ている。あれほど恐ろしかった感情が、今は静寂の中にあった。
扉を開ければ、そこにいるかもしれない魔物に頭から食われるのだろうか。望むところだと、ファイは迷いなく廊下を渡り、曲がり角を曲がった。
まだ闇が濃い廊下の先に、金縁の扉が浮き上がって見える。
辿りついたその前で、ファイは鍵を取り出した。穴に差し込んで、回す。
カチリ
音がした。
役目を果たしたそれを適当にポケットの中に捻じ込んで、ファイはドアノブに手をやると、殊更ゆっくり扉を開けた。
窓からは、有明の月から降り注ぐ淡い光が射しこんでいた。
降り注ぐ薄い金色に彩られる闇の部屋。天蓋付きのベッド。ソファ。テーブルに、椅子。古びた暖炉。装飾の施されたそれらは、うっすらとほこりを被っている以外に、今現在ファイが暮らす部屋とほとんど変わらなかった。
冷えた空気が一層増した。一歩一歩中へと押しいれば、背後で勝手に扉が閉まる。
視線を落とす。そこには、乱雑に置かれた子供のオモチャが散乱していた。
積み木やタンバリン、ブリキの兵隊とお姫様。オルゴールと思しき、白い箱。そして画用紙とクレヨン。
画用紙には何かが描かれていた。子供の落書き。けれどよくは見えない。
足元に転がるそれらをぼんやりと見つめるばかりだったファイは、ふと気配を感じてそちらに目を向けた。
手にしていた薔薇の花が、乾いた音を立てて床に落ちる。
そこには、もう一人のファイがいた。
「ここにいたの?」
懐かしい。ファイは駆け寄り、再会の喜びに手を伸ばした。
もう一人の自分を写し出す鏡。それは大きな姿見だった。
寄り添って手のひらと頬を押し付けた。冷たい感触。そこに人の温もりは存在しない。
「ずっと探してたんだ。会いたかった……君とお話できなくて、とても寂しかった……」
けれど鏡は何も答えなかった。不安に駆られ、顔を上げる。
どうして何も言ってくれないのだろう。目の前の自分は、こんなにも泣きそうな顔をしているのに。
「ねぇ、何か答えて……昔みたいに、オレに優しくしてよ……」
沈黙だけが支配する部屋。ファイは嫌々と首を振りながら後ずさる。
「やっと会えたのに……嫌だよ……一人は嫌だ……ここにいるのに……」
『置いてかないで』
カサリという音がした。クレヨンで落書きされた画用紙が踵に当たって、ファイはハッと息を飲む。
足元に目をやり、そして手を伸ばすと画用紙を拾った。子供の落書き。窓の方を向き、月の光の下でそれを確かめる。
心臓が一度、大きく高鳴った。
真っ白な光が頭の中に蘇る。一瞬の、けれど鮮やかな記憶。
オルゴールが鳴る。白い箱。この部屋の扉に似た、金色の装飾が施されたオルゴール。おそらく小狼が鍵を隠していた、あの黒いオルゴールと対になっているのであろうそれ。
窓から差し込むのは太陽の日差し。眩い光に満ちた部屋。
「オレ、あの子きらい」
幼いファイはぺったりと絨毯に腹ばいになって、画用紙に絵を描いている。
『どうして?』
ベッドから声がした。ファイは落書きから目を離さない。
「だって、なんかこわいもん」
『こわくないよ。知ってるでしょ? やさしい子だよ』
そんなことは知っていた。
あの子は優しい子。ただちょっと顔が怖かったから、上手に挨拶できなかっただけ。
思い出すと恥ずかしくて、初めて会った日をやり直したくて、悔しくて、悲しくなる。
悪いのは自分だってことを知っているから。
だから、ぶぅっと唇を尖らせた。
「きらいなものはきらいなの」
『はなしあいて、ほしくないの?』
ファイと同じ声が、優しく問いかけてくる。
友達は欲しい。でも、話相手なんて別にいらない。
だってもうここにいるから。自分と同じ形をした彼は、退屈なときや嫌なことがあったとき、いつでも話を聞いてくれた。語りかけてくれた。
もう一人の自分。誰よりもわかってくれる。傍にいてくれる。
大切な存在。もう一人の自分。
「そんなのいらない。だってもういるもん。ここに」
完成した落書きから、ファイはにっこりと笑って顔を上げた。
もう一人の自分は昼間でも寝巻を着て、ベッドの中から出てこられない。
いつも腕に点滴の針を刺しているから、両腕が赤黒くて可哀そうだった。
「そうでしょ? ユゥイ」
眩い光の世界が、元の薄闇の部屋へと形を戻す。
ファイの手から、画用紙が落ちた。
ベッドはもぬけの殻で、ただ綺麗にシーツが整えられている。
窓からは淡い光。どこか物憂げな、暁の月。そして闇。いつしかオルゴールの音は止んでいた。
涙が溢れて止まらない。それは頬を伝い、雫は床に落ちた画用紙を濡らした。
そこには拙い絵で、天使のような二人の子供が描かれていた。
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