ふたりでバイクに乗って花京院の自宅についたのは、21時をほんの数分過ぎた頃だった。時刻を知っても、なんとなくまだ感覚が取り戻せない。あの部屋は薄ぼんやりとした光だけが頼りで、昼も夜もない閉鎖された空間だったからだ。
承太郎に二階の部屋へ上がるようにとだけ言って、花京院は家に入るなり一目散に浴室に立てこもった。熱いシャワーを頭から浴びても、四肢はどこか冷えたままのような気がして、無我夢中で全身を洗い、口をすすいだ。
母が愛用しているボディソープは、少し花の香りがキツかった。いつまでも鼻にこびりついて離れない悪臭を消し去りたくて、ボトルを半分以上使ってもなお、皮膚が赤くなるまで全身を擦り続けた。粘ついた体液や息遣い、触れたもの全ての感触を思いだし、胃の中が空になるまで何度も吐いた。吐きながら、涙が滲んだ。
風呂からあがり、ストライプのパジャマに着替えて自室に戻ると、時計の針はまだ22時をさしていた。もっと長いこと浴室にいた気がするのに、実際は一時間も経っていないという事実に、まだ洗い足りないように思えて気持ちが安定しない。
承太郎はベッドにどっかりと腰を下ろしていた。どこかやつれた表情の花京院を見て、両目を細める。花京院は思いだしたようにやんわりと笑みを浮かべた。
「すみません、お茶も出さないで」
「構わねえよ」
「制服、脱いでください。クリーニングに出すから」
承太郎は何も言わず、ただおとなしく学ランを脱いだ。帽子を傍らに置くと、シャツにも手をかけて豪快に脱ぎ捨てる。露わになった逞しい胸板や腹筋から、花京院は慌てて目を逸らすとさりげなく箪笥の方へと移動して、承太郎に背を向けた。
「着替えは……ぼくのじゃ小さいだろうな。でも、何も着ないでいるよりはいいだろうから、少し我慢してくれ。今、なにか探すから」
いちばん上の引き出しを開けて、承太郎でも着られそうな衣服を物色する。その間も、彼はやっぱり何も言おうとしなかった。代わりに背中に痛いほどの視線を感じ、花京院はこのなんともいえないぎこちない空気に、そっと溜息を漏らした。
「悪いが、着替えたら今夜はもう帰ってくれ」
承太郎の方を振り向かないまま言った。誘っておいて悪いとは思うし、感謝はしてもしきれない。だけど、今夜はどうしてもダメだった。これ以上、承太郎に情けない姿を見られるのは耐えられそうもない。花京院が無理に取り繕っていることだって、彼はきっとお見通しなのだ。けれど承太郎が花京院を見透かしているように、花京院だって承太郎のことはよく知っているつもりだった。だから、彼がおとなしく家に帰るはずがないことは、分かっていた。
ベッドが軋む。承太郎が立ちあがり、背後から近づいてくるのが分かって、花京院は息を詰めると肩を竦めた。その肩を強い力で掴まれて、身体を反転させられる。
「ッ!」
「やつに何をされたか、ぜんぶ言いな」
顎を掴まれ、上向かされた。じっと瞳を覗き込んでくるエメラルドに、目を逸らすことすら許されないような威圧感を覚える。花京院はいちど喉を鳴らし「言いたくない」と小さな声を絞り出した。けれど承太郎はそんな花京院を責めるように、ただじっと見つめてくるだけだった。
そっとしておいてほしいのに、そうさせてくれない。承太郎は例えどんな些細なことであったとしても、有耶無耶にすれば夜も眠れないという性分の持ち主だ。そしてあの部屋で花京院の身に起こったおぞましいこと全てを、この男には知る権利がある。彼が救いだしてくれなければ、今ごろどうなっていたことか。
花京院はいちどゆっくりと目を伏せ、諦めたように大きく息を吐きだした。
「……髪や、身体を触られて」
語尾が震える。受けた仕打ちのひとつひとつを思いだして、皮膚が粟立つ。
「顔に、かけられた。髪にも」
「……それから?」
「殴られて、首を絞められた。そのあと制服を引き裂かれて、胸を触られて」
二の腕をさする。ぷつぷつと痺れるように、鳥肌が広がっていくのを感じた。
「……ぼくに、赤ちゃんを産ませるって。お尻にあれを押し付けて、あと少しで挿れられそうになったところで、君が来た」
承太郎はクソ、と低く吐き捨てると、花京院を引き寄せて腕の中にきつく閉じ込めた。その恐ろしいまでの力に、呼吸がとまる。
「だから言ったんだぜおれは。てめーは自分がどんだけエロい匂いプンプンさせてるか、ちっとも分かろうとしやがらねえ」
「よ、よしてくれ、そんな言い方……ッ」
「事実だぜ」
次の瞬間、花京院はベッドに引き倒されていた。大きく目を見開きながら見上げると、承太郎が険しい表情で見下ろしている。肉食獣を思わせる肉厚な唇が、悔しそうに歪んで白い牙を覗かせていた。
「やっぱり殺せばよかったぜ。あの野郎」
「じょ、承太郎」
「いいか花京院、二度とあんなことは許さねえ。二度と、誰にもだ。指一本、触らせるんじゃあねえぞ。てめーは、おれだけのもんだ」
承太郎が見せた剥き出しの独占欲に、胸を熱いもので塞がれたような気がした。そこには余裕の欠片もない。なにひとつ返事ができないでいる花京院に、承太郎は眉間の皺をさらに深くして「返事は」と、重低音で問いかけてくる。うん、と、ひとつ大きく頷くのがやっとだった。
花京院だって同じ気持ちなのだ。あんなこと、二度とごめんだと思う。この身体に触れていいのは承太郎だけだし、承太郎にだけ、触れてほしい。
「ぼくも。ぼくもだ、承太郎」
承太郎の頬へと震える両手を伸ばした。確かめるように触れて、その熱を掌に感じると、冷えていた指先が温かくなってじんと痺れる。
「君がいい。君だけで、いい」
手を、そのまま滑らせる。項に触れて首にしがみつくと、耳朶の後ろに鼻を擦りつけ、その匂いを吸いこんだ。承太郎に抱き返されると、泣きたくなるほどの安堵が込み上げる。ゆっくりと息を吐きだしながら、身体から力が抜けていくのを感じた。
これでもかというほど力強く花京院を抱きしめる承太郎が、やがておもむろに口を開いた。
「……言っとくが、てめーが孕むんだとしたら、腹ん中のガキはおれの子だぜ」
あまりにも真剣な様子で言うものだから、花京院は思わず「ノォホ」と声を出して笑ってしまった。いつもだったら、こんなこと冗談でも受け入れられない。バカなことを言うなと突っぱねているに違いなかった。だけど今は、どうしてか嫌じゃない。それもいいのかな、なんて、思ってしまう。
「いいですよ。君の子なら、産んであげます」
まるで悪ふざけにでも便乗するような体を装い、その実どこか本気で言っている自分に苦笑する。多分それは承太郎も同じだ。ありえないことだと分かっていながら、どんどんその気になって、どんどん頭が、おかしくなっていく。
承太郎からは、彼自身の体臭に混ざって、ほんのりと汗の匂いがした。そこに自分から発される、ボディソープの強い花の香料が混ざる。あの変質者の影はもうどこにもない。名残すら。きっとこのまま承太郎に抱かれたら、二度と思いだすことすらなくなる気がした。
「しよう、承太郎」
項に添えていた手を、するりと背中へ走らせた。帰ってくれなんて、ほんの数分前に口にしたばかりの言葉が、もうなかったことになっている。本当に一人になりたかったのなら、家に上がる前にはそう切り出していたはずだから。天邪鬼。お互いを知り尽しているという甘えを都合よく利用して、つまらない駆け引きをしただけ。
両親の不在を餌に承太郎を誘った時点で、本当は頭の中なんてセックスをする以外、なにもなかったのだ。そんなサルみたいな思考を恥じて、そうではないのだと、気づかないふりをしてすましていたかった。だけど今は、もうどうしようもないところまで気持ちが高ぶっている。さっきの出来事にはもちろんショックを受けているが、こうしてふたりだけの世界に没頭してしまえば、それすらもちょっとした興奮剤になり下がっているから、滑稽だった。
「ん……ッ」
承太郎の唇が、真っ直ぐ花京院の唇に落とされることはなかった。肉厚なそれで左の口の端をべろりと舐められる。殴られて傷ついたそこは、血は止まっているものの、刺激を受けると鋭く痛んだ。執拗にそこに舌を這わせようとする承太郎の頭を抱きこみ、顔の角度を変えて奪うように唇を重ねた。すぐに舌を捻じ込むと、普段は見せない積極性に承太郎が目を見開く。だけどすぐに睫毛を伏せて、花京院に応えた。
卑猥な水音を立てながら絡み合う舌の感触に、頭の芯まで掻きまわされているような気がする。承太郎はそのあいだも僅かに上体を浮かせて、花京院のパジャマの裾から手を差し込むと、裏側から器用にボタンを外していった。
「イッ、痛……!」
前が完全に肌蹴て、露わになった胸の片方に承太郎が掌を這わせると、反射的に悲鳴が漏れた。実際、痛みはなかったのだが。
「……痣になってる」
花京院の反応に、唇を離した承太郎が言った。のろのろと視線を俯ければ、確かに彼の言う通り、ほどよく盛り上がったふたつの丘には、痛々しい痣がこびりついていた。自分でもこれでもかというほど擦ってしまったから、ただでさえ赤くなった皮膚に、それはより赤黒く浮き上がって見える。
「力加減を知らない男だったんだ」
揉まれたというよりは、力任せに抓られたといった方が正しい触れ方だった。本当に、ただの暴力以外の何物でもなかった。
承太郎は苛立ったように舌打ちをすると、花京院の胸に顔を埋めた。中央の窪みに優しくキスをしながら、労わるように両手で胸をそれぞれ包み込む。
「イテェか」
低く問われて、花京院は首を左右に振った。
「平気。いつもみたいに、してください」
「ん」
「ぁ、んッ」
ゆるゆると、波打つような動作で胸を揉みほぐされる。花京院が悦いと感じる加減を、承太郎はよく知っていた。あるいは、承太郎にこれで感じるよう覚え込まされたから、だろうか。全体を押し上げるようにされると、双方の中央で硬くなった乳首がよりいっそう尖って天を向く。その粒の片方に、舌を這わされた。鈍い音を立てて吸いついたかと思うと、頭を左右に振りながら緩く歯を立てられる。それだけで気が遠くなりそうなほどの快感が突き上げてきて、身体がびくびくと跳ねあがった。
「アッ、くぅ、んッ」
承太郎がもう片方にも舌を這わせながら、視線だけで問いかけてくるのに、何度も頷いた。気持ちがいい。いつもこうして女性にでもするように愛撫されるたび、羞恥に溺れながらも本当はひどく興奮している。男のくせにこんなことをされて感じているなんて、絶対におかしいと思うのに、自分を否定すればするほど気持ちがよくなってしまうのだ。それをいつもは必要以上に声に出したりはしない。可能な限り堪えて押し殺すのが常だった。だけど今日は、少しおかしくなっているから。
「気持ち、い……ッ、あ、……じょ、たろ……もっと、して、くださ、ぁッ」
承太郎がぐっと息をつめたような気がした。指と舌と歯が、これでもかというほど花京院の快感を煽る。じゅう、と音をたてて周りの肉ごと乳首を強く吸われると、もう訳が分からなくなるくらい感じて、花京院は嫌々と首を振りながら上擦った悲鳴をあげた。
「あぁッ、あ……! い、ぃ……承太郎に、されるの……感じ、る」
「ここ、また少しデカくなったか?」
「や、だ、知ら、な……ッ、アッ! じょ、たろ、もっと、さわって……ッ」
「今日は随分と素直で可愛いじゃあねえか」
目を細め、承太郎が舌なめずりをした。赤い舌がぬるりと蠢く光景にすら興奮する。
承太郎は花京院の胸に何度も口付け、花弁のような痕を残しながら徐々に下肢へと移動していった。脇腹を辿り、大きな手がウエスト部分に滑り込む。直接臀部を触れられるのに合わせて片膝を立てると、承太郎の手首に引っかかる形で、パジャマのズボンが下着ごと足から抜けた。
花京院の性器は、胸への刺激だけで先走りを漏らすほど反り返っている。太く長い指が、先端の濡れた窪みから裏筋にかけて緩く何度も行き来した。
「くぅ、ぁ、んッ」
「ここは、触られたか」
問いかけに、花京院は身悶えながら何度も首を左右に振った。小林が直接触れた場所は、結局のところ胸だけだったのだ。それも今では承太郎によって存分に可愛がられて、甘く痺れるような感覚しか残っていない。
承太郎はほっと息をつくと花京院の内腿にひとつ口付け、身体の中心で震える屹立を緩く握り込んだ。彼の大きな手に触れられると、自分のものがまるで未発達な子供の性器みたいに小さく見えてしまうから、恥ずかしい。
「んぁ、あッ、や……ッ」
ゆるゆると扱かれると、快感と一緒に透明な蜜が次から次へと溢れ出た。背を反らし、指先でシーツを掻きながら悶える花京院に、承太郎が喉を鳴らしたのが分かる。汗ばんだ肌に痛いほどの視線を感じ、ゆらりと瞼を持ち上げれば、承太郎も興奮しているようで、額に汗を滲ませているのが見えた。
「じょう、たろう……ぼく、も」
触れたいという欲求が込み上げて、花京院はうまく力が入らない身体で上半身を起こす。承太郎の身体の中心は、制服のズボンを押し上げるほどに張り詰めて膨らんでいた。跳ねる心臓に息を荒げながら、両手でベルトを外し、前を寛げていく。チャックを下ろして下着をずらすだけで、いきり起った剛直が反動をつけて飛び出した。太い血管を走らせながら震えるそれを見つめ、思えばこんな風に勃起した承太郎の性器を直視したのは、これが初めてかもしれないということに気がついた。
持っているものは同じはずだし、あまりジロジロと観察するのも悪いような気がして、いつも遠慮してしまうのだ。だが実際のところ大半を占めていたのは羞恥心と、まだどこかたどたどしい行為への、初心さからだった。
(よくこんな大きなものが……)
あんな場所に入るものだと、変に感心してしまう。知っていたつもりだが、こうしてまじまじと見ると、やっぱり大きい。あの部屋で突きつけられたものが、どれほど粗末なものだったかがよく分かった。こちらの方がよほど狂気じみているのに、渇きを覚える程度には、愛しいと感じる。
(こんなものが、ぼくのなかに入るんだ。ぼくはこれで、いつも……)
花京院は無意識に喉を鳴らすと、太い竿へ手を伸ばす。そっと触れて、幾度かゆるゆると扱いた。
「花京院」
低い声が、僅かに掠れる。花京院はシーツにペッタリと座り込んだ体勢で、ゆっくりと身体を前に倒し、背中を丸めると迷うことなく濡れた先端に口をつけた。
「ッ、おい」
承太郎の手が頭部に触れる。彼にしては珍しく、戸惑いが見え隠れする触れ方だった。
自らオーラルを試みるのはこれが初めてだ。承太郎には何度かされたことがあったが、自分には到底できそうもないと決めつけていた。決して嫌だったわけではない。ただ恥ずかしくて、上手くできるのかも分からなくて、積極的にやろうとはどうしても思えなかったのだ。
「ん……」
ゆっくりと、硬く張りつめた肉棒に舌を這わせ、飲み込んでいく。大きすぎて、全てを咥え込むことはできないけれど、承太郎という雄の匂いが鼻から抜けていく感覚に、たまらなく興奮する。ぎこちなくではあるが、歯を立てないよう意識しながら懸命に奉仕した。
唾液と先走りが合わさり、はしたない水音が響く。承太郎は食いしばった歯の隙間から、低く小さな呻きを漏らしていた。頭皮を滑る指先の感覚が、まるで愛撫のように感じられて、花京院の性器からも淫らな密が零れ落ちる。
承太郎のものは、花京院の口内でさらに硬く張り詰めていた。手でも同時に扱きながら、徐々に動きを大胆にしていく。承太郎はどこか悔しそうにも見える表情で、珍しく耳まで赤くなっている。
(このまま、イッてほしい)
口の中で脈打つ肉塊が、はち切れそうなほどの弾力が、全て愛しい。欲しくて欲しくて堪らなかった。こんなはしたない真似ができるのも、承太郎だからなのだと思うと、得も言われぬ喜びが沸き上がる。
「お、い、ちょっと、待ちな」
夢中で奉仕に努める花京院の前髪を、承太郎が緩く掴んだ。そのまま顔を引き剥がされて、糸を引きながら離されてしまう。
「マジで、これ以上したら出ちまうぜ」
花京院はぼうっと熱に浮かされた瞳で、承太郎を見上げた。
「出してほしかったんだ、ぼくは」
「ッ、てめー、いま自分がどんだけエロい顔してるか、分かって言ってんのか」
「そんなの、承太郎だって」
承太郎は舌打ちをすると、花京院の腕を強く引き「乗りな」と言って仰向けに身体を倒した。どうするつもりなのかと首を傾げる花京院に、後ろを向けと命じてくる。促されるままに、承太郎に尻を向ける形で覆いかぶさった。
「こ、これって」
「いい眺めだぜ。丸見えだ」
「承太郎ッ!」
「この体勢でなら、好きなだけ咥えても構わないぜ。やれるもんならよ」
「あッ!」
承太郎の両手に、尻の肉を掴まれる。下から全てを見られていると思うと、羞恥に全身が熱くなった。これはいわゆる、シックスナインというものか。
「じょ、たろ……ッ、これ、はずか、し……ッ」
「いいからてめーはそっちに集中しな」
眼前で、承太郎の張り詰めた男茎が揺れている。花京院は下唇を噛み締め、じわりと浮かぶ涙を堪えながらそれに両手で触れた。熱い。掌で脈打っている。焼き尽くされそうな羞恥を紛らわすには、目の前のことに夢中になる以外、なさそうだった。もういっそどうにでもなれという気にもなって、再びそれを口に含んだ。
「んっ、んぅ、ぅ」
おとなしく奉仕を再開した花京院の尻たぶを、承太郎が解すようにいやらしく揉みしだく。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け、思わず腰を捩る。
「ぅむ、ぁ、んんッ」
「ここ、触られたんだろ。あの野郎によ」
「ぷ、はッ、ぁ……直接、じゃ、ない」
「一緒だぜ」
承太郎は吐き捨てるように言うと、人差し指に舌を這わせて濡らしたものを、中心にぐっと押し付ける。
「あぅッ……!」
そそり起つ肉棒を掴んだまま、甘い声が漏れた。承太郎は何度も根気よく濡らした指で窄まった穴に触れ、少しずつそこを解していく。入口をじくじくと刺激されるもどかしさに、奉仕を再開するのもままならない。それでも頬を擦りつけ、必死で舌を這わせる。
「小せえのに変わりはねえが、ずいぶんケツが丸くなったな」
「ん、な……わけ……ッ」
「前はいかにも野郎のケツって具合で、もっと硬かったのによ」
「いや、だ、そんな、こと、ッ、ぁ、あッ」
「いい加減、素直に認めちまいな」
パン、と音を立てながら、尻たぶにそれぞれ承太郎の掌が押し付けられる。ひん、と子犬のような呻きをあげ、思わず背を反らすと、よりいっそう承太郎へ尻を突きだす形になった。
「このエロい身体で、無意識に男を誘ってるってよ」
「も、嫌だ……そんなこと、言わないで……」
恥ずかしさで、死んでしまいそうだ。けれど承太郎に意地の悪いことを言われる度に、身体はどんどん熱く、敏感に反応した。触れられていない性器が、いっそ痛みを覚えるほどに張り詰めている。だらしなくよだれを垂らし、承太郎の肌を汚しているのだ。
承太郎は何度も何度も尻の肉を揉みほぐし、やがて引き寄せると指で解された穴に舌を這わせた。
「ヒィッ、ぁ、や、やめ! そんな、汚い……ッ」
柔らかくぬるりとしたものが、中に潜り込んでくる。不規則に蠢き、浅い場所を何度も抉る。わざと大きな水音を立てて、舐めては捻じ込む動作を繰り返された。
このままでは、本当に頭がおかしくなると思った。羞恥も、快感も、全て花京院の許容量を超えていた。もどかしくて、尻を振るのをとめられない。手の中では変わらず逞しい男根が脈打っている。熱く反り返り、噎せるような雄の香りを放っていた。
(ほんとう、に?)
承太郎が言うように、この身体は自分でも知らないうちに、その形を変えているというのか。尻も、肩や腰のラインも。匂いでさえも。あんな頭のおかしな男まで寄せ付けてしまうくらいに――?
バカげている。そう思うのに、否定しきれないくらい追い詰められてしまったのも、事実だった。小林は、完全に花京院を『雌』として見ていた。花京院にとってそれは耐え難いほどの屈辱でしかない。だけど、こんなふうに自分を作り変えてしまったのが他の誰でもない、花京院が唯一愛してやまない男のせいなのだとしたら。
(嬉しい)
身体が、承太郎のための『形』になっていく。それを心の底から嬉しいと思う。男性としての生理やプライドをへし曲げてでも、愛されることに、支配されることに喜びを感じている自分を、もう否定することはできなかった。
「じょ、たろ……ッ、もう、足りない……ほし、い、我慢、できない……ッ!」
舌だけでは足りない。濡れそぼった穴が、もっと大きくて太いものを求めて収縮しているのがわかる。承太郎の指がそこに押し入ってきた。内壁をぐるりと擦られる。
「我慢なんかしなくていいぜ。おら、イッちまいな」
「嫌だ、嫌だ……ッ! 頼むから、認めるからッ」
「なにを?」
花京院は肩を震わせ、とめどなく流れる涙にひくひくとしゃくりをあげた。欲しい。欲しくて仕方がない。こんなにいやらしい身体にしたのは、承太郎なのだ。承太郎が、花京院の全てを変えてしまった。
「ぼく、は……ぼくの、身体は……」
「ん」
「男の人を、寄せ付けるような……えっちな、身体、です」
「そうだな」
「承太郎、が……ぼくを、こんな、ふうに……ッ」
承太郎が笑った。ひどく満足そうに。中から指を一気に引き抜いて、花京院の腰に腕を回しながら半身を起こす。
「よく言えたな」
「はや、く」
「いいぜ」
腰を浮かせている花京院の尻に、承太郎が自身の竿を掴んだものをあてがった。先走りを馴染ませるように幾度か先端で穴を擦られると、期待に全身が粟立つ。緊張と興奮で、心臓がドカドカと激しく暴れていた。
先端が濡れた穴に潜り込んだ瞬間、息が止まる。承太郎は花京院の腰を掴むと、ゆっくりと引き寄せた。
「あッ、ぃ……ッ、はいっ、て、アッ、くぅ、うッ!」
「まだだぜ」
「イッ、ひ……――!!」
半分ほどまで飲み込んだところで、強く腰を引かれた。叩きつけるような勢いで、ずん、と奥まで貫かれ、目の前が真っ白になる。一瞬、どこか遠くへ意識をさらわれ、かくんと首を折った花京院の背を掻き抱いて、承太郎が容赦なく律動を開始した。
「――ッ、あぁッ、ヒ、うぅ……ッ!」
「気ぃしっかり持て、よ」
「あひ、アッ、あっ、じょ、たッ、ろ、すご、これ、すご、ぃ……ッ!」
引き抜かれるたびに、内臓を全て引きずり出されそうな恐怖が襲う。奥を突きあげられると、衝撃が頭の天辺まで雷のように駆け巡った。熱い。怖い。この快感はあまりにも強すぎて、自分が自分ではなくなっていく。舌を噛みそうなほど、激しい。
髪を振り乱し、花京院は自らも律動に合わせて、腰を前後に大きく揺らした。ピンと立てた両腕の先で、指先が病的なまでに震えながらシーツに深い皺を刻む。
「じょ、たろ、ッ……じょう、アッ、じょう、たろうが、あっ、んっく、ぅ……ッ!」
どんどん呂律が回らなくなって、なにを口走っているのかも分からなくなっていった。ただ、伝えたくて必死だった。
「これ、が、ッ、あ、好き……ッ、あ、あんな、あんな、の、絶対、ッ……!」
あんな男に、穢されなくてよかった。あんなものを挿れられなくてよかった。そう言いたいのに上手く言えない。けれど承太郎には伝わっていて、彼は花京院の耳元に背後から頬を擦りつけ「わかってる」と低く呟いた。胸いっぱいに熱いものが溢れ返って、たまらなくキスがしたくなる。花京院は腰を捻り、片腕を承太郎の首に回した。夢中でキスをしている間に、承太郎のものがいちど引き抜かれる。仰向けに身体を反転させられ、両足を大きく開くと正面から再び受け入れた。
「う、アッ、も、イク……ッ、じょうたろ、出して、ナカ、くださ、ぃ……ッ」
「いい、ぜ。一緒に、花京院」
極致に至る瞬間は、声も出なかった。真っ白に染まる世界で、打ち上げられ、叩きつけられる。互いに強く抱き合いながら腰を大きく震わせた。中で、熱いものが弾けている。花京院のものも、腹と腹の間で白濁を散らしていた。
「ぁ、ぁ……ッ、でて、る……なか、ビクビク、して……」
「ッ、く」
下腹が疼く。承太郎が放逐した蛋白性の遺伝子が、花京院の中で確かな意思を持って、飛び跳ねるように蠢いている気がした。肉路の先で、結実を求めてビクビクと波打っている。尾を引く絶頂に痙攣を繰り返しながら、花京院は承太郎の腰に両足を巻きつけて、より深く奥へと誘いこもうとした。足首をクロスさせ、強く引き寄せる。承太郎もそんな花京院をいっそう強く抱しめて、中に放ったものをなじませようと、抜かずに留まり続ける。
そのまま呼吸が整うまで、互いになにも言わずただ抱き合った。そのうちなんだか可笑しくなって、つい、笑ってしまう。
「本当にデキてしまったら、どうするんだい」
「認知するに決まってんだろ。お袋も喜ぶだろうよ」
「ふふッ、ああもう、馬鹿だなあぼくら」
いいじゃあねえかと、笑いながら承太郎は言った。それからふっと笑みを消して、花京院の額に自分の額を押し付けると、じっと瞳を覗き込んでくる。長い睫毛に縁どられたエメラルドに胸の高鳴りを覚えながら、つい喉を詰まらせた花京院に、承太郎は囁くような声で「好きだ」と言った。
「承、ッ、アッ!」
顔を赤らめた花京院の中を、承太郎が緩く突きあげる。
「誰にも渡さねえ。そこんとこ、朝までみっちり叩きこむぜ。このエロい身体によ」
ああ、なんて恥ずかしいことを。けれど花京院はもう認めてしまった。作り変えられていくことの喜びを知ってしまった。もう嫌というほど分かりきっているのに、それでも足りないという承太郎にしがみついて、花京院は本当に、朝まで絶え間なく啼き続けることになるのだった。
*
あれ以来、小林が花京院たちの前に姿を現すことはなかった。
すぐにやってきた別の非常勤講師は女性で、女子生徒からも男子生徒からも受けがいいようだった。
皆が彼の存在を忘れてしまった頃、意外にも特に小林を毛嫌いしていたはずの女子生徒の口から、ある日の放課後、その名前が飛び出した。
「ねえ聞いた花京院くん!? 小林っていたでしょ! 前の非常勤、あれ、逮捕されたんだってよ!!」
席について帰り支度をしていた花京院の机に、数人のクラスメイトの女子が興奮気味に集まってきた。
「さっき職員室で聞いたの! 他所の高校で女の子に変なことして、警察に捕まったんだって! 新聞にも載ったってよ!」
「最低―! まじキモすぎ……確かにやりそうだったもんね」
「なんかね、理由がまたすっごいキモいの。その子が一度だけ目を合わせて挨拶してくれたから、それで自分に気があるって思ったんだって!」
「嫌あぁ……ッ! 花京院くん、危なかったよね。だって小林にセクハラされてたでしょ?」
「そうよ! 下手したら襲われてたの、花京院くんだったかも……」
鞄に教科書やノートを詰めながら耳を傾けていた花京院は、思わず手を止めると苦笑した。
「確かに気に入られてはいたようだが、ぼくは男ですよ。襲われるなんてことには、ならなかったんじゃあないかな」
実際この身に起こったことは、当の小林と自分、そして承太郎しか知らないことだ。今でもあの時のことを思いだすと不愉快な気持ちにはなるが、そのあと朝までたっぷり承太郎に可愛がられてしまった記憶が上塗りされて、身体が熱くなってしまうから困りものだった。
「でも、花京院くんだったら分からないわよ? だってすごく色っぽいし……」
「わかる! なんか不思議な色気があるのよね! 男でもコロッといっちゃうかも……」
「あはは、そうかな。それは……」
(光栄だ)
頬を染めながら頷き合う女子たちの合間を縫って、ふと走らせた視線の先に、以前体育館裏で告白をしてきた男子生徒が、気まずそうにこちらを見ていた。目が合った瞬間ふわりと笑いかけると、彼は顔を真っ赤にして、一目散に教室を出て行ってしまう。
入れ替わるようにヌッと姿を現したのは、承太郎だった。途端に女子生徒たちが黄色い悲鳴をあげる。
「花京院」
帰るぜ、というひと声に、花京院は花が綻ぶような笑みを浮かべると、席を立つ。
最近、前にも増して承太郎は過保護になった。放課後、一分と待たずしてこうして迎えにやってくる。以前は承太郎がこういった姿勢を見せることに不満を覚えていた花京院だったが、今ではどちらかというと諦めの方が勝っていた。あれは独占欲の塊のような男なのだ。
今でも承太郎が行くなと言ったコンビニは事あるごとに利用しているし、自分の立ち振る舞いを変えるつもりはない。ただ唯一変わったのは、承太郎に愛される喜びが今の自分を形作っていることを、誇れるようになったことだ。それは同時に、承太郎がこの身体に溺れている証拠でもあるから。
「それじゃあぼくはこれで。みんな、また明日」
承太郎の姿にすっかり骨抜き状態になっている女子たちは、熱い溜息を漏らしながら手を振り、去っていくふたりの背中を見送った。
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎に二階の部屋へ上がるようにとだけ言って、花京院は家に入るなり一目散に浴室に立てこもった。熱いシャワーを頭から浴びても、四肢はどこか冷えたままのような気がして、無我夢中で全身を洗い、口をすすいだ。
母が愛用しているボディソープは、少し花の香りがキツかった。いつまでも鼻にこびりついて離れない悪臭を消し去りたくて、ボトルを半分以上使ってもなお、皮膚が赤くなるまで全身を擦り続けた。粘ついた体液や息遣い、触れたもの全ての感触を思いだし、胃の中が空になるまで何度も吐いた。吐きながら、涙が滲んだ。
風呂からあがり、ストライプのパジャマに着替えて自室に戻ると、時計の針はまだ22時をさしていた。もっと長いこと浴室にいた気がするのに、実際は一時間も経っていないという事実に、まだ洗い足りないように思えて気持ちが安定しない。
承太郎はベッドにどっかりと腰を下ろしていた。どこかやつれた表情の花京院を見て、両目を細める。花京院は思いだしたようにやんわりと笑みを浮かべた。
「すみません、お茶も出さないで」
「構わねえよ」
「制服、脱いでください。クリーニングに出すから」
承太郎は何も言わず、ただおとなしく学ランを脱いだ。帽子を傍らに置くと、シャツにも手をかけて豪快に脱ぎ捨てる。露わになった逞しい胸板や腹筋から、花京院は慌てて目を逸らすとさりげなく箪笥の方へと移動して、承太郎に背を向けた。
「着替えは……ぼくのじゃ小さいだろうな。でも、何も着ないでいるよりはいいだろうから、少し我慢してくれ。今、なにか探すから」
いちばん上の引き出しを開けて、承太郎でも着られそうな衣服を物色する。その間も、彼はやっぱり何も言おうとしなかった。代わりに背中に痛いほどの視線を感じ、花京院はこのなんともいえないぎこちない空気に、そっと溜息を漏らした。
「悪いが、着替えたら今夜はもう帰ってくれ」
承太郎の方を振り向かないまま言った。誘っておいて悪いとは思うし、感謝はしてもしきれない。だけど、今夜はどうしてもダメだった。これ以上、承太郎に情けない姿を見られるのは耐えられそうもない。花京院が無理に取り繕っていることだって、彼はきっとお見通しなのだ。けれど承太郎が花京院を見透かしているように、花京院だって承太郎のことはよく知っているつもりだった。だから、彼がおとなしく家に帰るはずがないことは、分かっていた。
ベッドが軋む。承太郎が立ちあがり、背後から近づいてくるのが分かって、花京院は息を詰めると肩を竦めた。その肩を強い力で掴まれて、身体を反転させられる。
「ッ!」
「やつに何をされたか、ぜんぶ言いな」
顎を掴まれ、上向かされた。じっと瞳を覗き込んでくるエメラルドに、目を逸らすことすら許されないような威圧感を覚える。花京院はいちど喉を鳴らし「言いたくない」と小さな声を絞り出した。けれど承太郎はそんな花京院を責めるように、ただじっと見つめてくるだけだった。
そっとしておいてほしいのに、そうさせてくれない。承太郎は例えどんな些細なことであったとしても、有耶無耶にすれば夜も眠れないという性分の持ち主だ。そしてあの部屋で花京院の身に起こったおぞましいこと全てを、この男には知る権利がある。彼が救いだしてくれなければ、今ごろどうなっていたことか。
花京院はいちどゆっくりと目を伏せ、諦めたように大きく息を吐きだした。
「……髪や、身体を触られて」
語尾が震える。受けた仕打ちのひとつひとつを思いだして、皮膚が粟立つ。
「顔に、かけられた。髪にも」
「……それから?」
「殴られて、首を絞められた。そのあと制服を引き裂かれて、胸を触られて」
二の腕をさする。ぷつぷつと痺れるように、鳥肌が広がっていくのを感じた。
「……ぼくに、赤ちゃんを産ませるって。お尻にあれを押し付けて、あと少しで挿れられそうになったところで、君が来た」
承太郎はクソ、と低く吐き捨てると、花京院を引き寄せて腕の中にきつく閉じ込めた。その恐ろしいまでの力に、呼吸がとまる。
「だから言ったんだぜおれは。てめーは自分がどんだけエロい匂いプンプンさせてるか、ちっとも分かろうとしやがらねえ」
「よ、よしてくれ、そんな言い方……ッ」
「事実だぜ」
次の瞬間、花京院はベッドに引き倒されていた。大きく目を見開きながら見上げると、承太郎が険しい表情で見下ろしている。肉食獣を思わせる肉厚な唇が、悔しそうに歪んで白い牙を覗かせていた。
「やっぱり殺せばよかったぜ。あの野郎」
「じょ、承太郎」
「いいか花京院、二度とあんなことは許さねえ。二度と、誰にもだ。指一本、触らせるんじゃあねえぞ。てめーは、おれだけのもんだ」
承太郎が見せた剥き出しの独占欲に、胸を熱いもので塞がれたような気がした。そこには余裕の欠片もない。なにひとつ返事ができないでいる花京院に、承太郎は眉間の皺をさらに深くして「返事は」と、重低音で問いかけてくる。うん、と、ひとつ大きく頷くのがやっとだった。
花京院だって同じ気持ちなのだ。あんなこと、二度とごめんだと思う。この身体に触れていいのは承太郎だけだし、承太郎にだけ、触れてほしい。
「ぼくも。ぼくもだ、承太郎」
承太郎の頬へと震える両手を伸ばした。確かめるように触れて、その熱を掌に感じると、冷えていた指先が温かくなってじんと痺れる。
「君がいい。君だけで、いい」
手を、そのまま滑らせる。項に触れて首にしがみつくと、耳朶の後ろに鼻を擦りつけ、その匂いを吸いこんだ。承太郎に抱き返されると、泣きたくなるほどの安堵が込み上げる。ゆっくりと息を吐きだしながら、身体から力が抜けていくのを感じた。
これでもかというほど力強く花京院を抱きしめる承太郎が、やがておもむろに口を開いた。
「……言っとくが、てめーが孕むんだとしたら、腹ん中のガキはおれの子だぜ」
あまりにも真剣な様子で言うものだから、花京院は思わず「ノォホ」と声を出して笑ってしまった。いつもだったら、こんなこと冗談でも受け入れられない。バカなことを言うなと突っぱねているに違いなかった。だけど今は、どうしてか嫌じゃない。それもいいのかな、なんて、思ってしまう。
「いいですよ。君の子なら、産んであげます」
まるで悪ふざけにでも便乗するような体を装い、その実どこか本気で言っている自分に苦笑する。多分それは承太郎も同じだ。ありえないことだと分かっていながら、どんどんその気になって、どんどん頭が、おかしくなっていく。
承太郎からは、彼自身の体臭に混ざって、ほんのりと汗の匂いがした。そこに自分から発される、ボディソープの強い花の香料が混ざる。あの変質者の影はもうどこにもない。名残すら。きっとこのまま承太郎に抱かれたら、二度と思いだすことすらなくなる気がした。
「しよう、承太郎」
項に添えていた手を、するりと背中へ走らせた。帰ってくれなんて、ほんの数分前に口にしたばかりの言葉が、もうなかったことになっている。本当に一人になりたかったのなら、家に上がる前にはそう切り出していたはずだから。天邪鬼。お互いを知り尽しているという甘えを都合よく利用して、つまらない駆け引きをしただけ。
両親の不在を餌に承太郎を誘った時点で、本当は頭の中なんてセックスをする以外、なにもなかったのだ。そんなサルみたいな思考を恥じて、そうではないのだと、気づかないふりをしてすましていたかった。だけど今は、もうどうしようもないところまで気持ちが高ぶっている。さっきの出来事にはもちろんショックを受けているが、こうしてふたりだけの世界に没頭してしまえば、それすらもちょっとした興奮剤になり下がっているから、滑稽だった。
「ん……ッ」
承太郎の唇が、真っ直ぐ花京院の唇に落とされることはなかった。肉厚なそれで左の口の端をべろりと舐められる。殴られて傷ついたそこは、血は止まっているものの、刺激を受けると鋭く痛んだ。執拗にそこに舌を這わせようとする承太郎の頭を抱きこみ、顔の角度を変えて奪うように唇を重ねた。すぐに舌を捻じ込むと、普段は見せない積極性に承太郎が目を見開く。だけどすぐに睫毛を伏せて、花京院に応えた。
卑猥な水音を立てながら絡み合う舌の感触に、頭の芯まで掻きまわされているような気がする。承太郎はそのあいだも僅かに上体を浮かせて、花京院のパジャマの裾から手を差し込むと、裏側から器用にボタンを外していった。
「イッ、痛……!」
前が完全に肌蹴て、露わになった胸の片方に承太郎が掌を這わせると、反射的に悲鳴が漏れた。実際、痛みはなかったのだが。
「……痣になってる」
花京院の反応に、唇を離した承太郎が言った。のろのろと視線を俯ければ、確かに彼の言う通り、ほどよく盛り上がったふたつの丘には、痛々しい痣がこびりついていた。自分でもこれでもかというほど擦ってしまったから、ただでさえ赤くなった皮膚に、それはより赤黒く浮き上がって見える。
「力加減を知らない男だったんだ」
揉まれたというよりは、力任せに抓られたといった方が正しい触れ方だった。本当に、ただの暴力以外の何物でもなかった。
承太郎は苛立ったように舌打ちをすると、花京院の胸に顔を埋めた。中央の窪みに優しくキスをしながら、労わるように両手で胸をそれぞれ包み込む。
「イテェか」
低く問われて、花京院は首を左右に振った。
「平気。いつもみたいに、してください」
「ん」
「ぁ、んッ」
ゆるゆると、波打つような動作で胸を揉みほぐされる。花京院が悦いと感じる加減を、承太郎はよく知っていた。あるいは、承太郎にこれで感じるよう覚え込まされたから、だろうか。全体を押し上げるようにされると、双方の中央で硬くなった乳首がよりいっそう尖って天を向く。その粒の片方に、舌を這わされた。鈍い音を立てて吸いついたかと思うと、頭を左右に振りながら緩く歯を立てられる。それだけで気が遠くなりそうなほどの快感が突き上げてきて、身体がびくびくと跳ねあがった。
「アッ、くぅ、んッ」
承太郎がもう片方にも舌を這わせながら、視線だけで問いかけてくるのに、何度も頷いた。気持ちがいい。いつもこうして女性にでもするように愛撫されるたび、羞恥に溺れながらも本当はひどく興奮している。男のくせにこんなことをされて感じているなんて、絶対におかしいと思うのに、自分を否定すればするほど気持ちがよくなってしまうのだ。それをいつもは必要以上に声に出したりはしない。可能な限り堪えて押し殺すのが常だった。だけど今日は、少しおかしくなっているから。
「気持ち、い……ッ、あ、……じょ、たろ……もっと、して、くださ、ぁッ」
承太郎がぐっと息をつめたような気がした。指と舌と歯が、これでもかというほど花京院の快感を煽る。じゅう、と音をたてて周りの肉ごと乳首を強く吸われると、もう訳が分からなくなるくらい感じて、花京院は嫌々と首を振りながら上擦った悲鳴をあげた。
「あぁッ、あ……! い、ぃ……承太郎に、されるの……感じ、る」
「ここ、また少しデカくなったか?」
「や、だ、知ら、な……ッ、アッ! じょ、たろ、もっと、さわって……ッ」
「今日は随分と素直で可愛いじゃあねえか」
目を細め、承太郎が舌なめずりをした。赤い舌がぬるりと蠢く光景にすら興奮する。
承太郎は花京院の胸に何度も口付け、花弁のような痕を残しながら徐々に下肢へと移動していった。脇腹を辿り、大きな手がウエスト部分に滑り込む。直接臀部を触れられるのに合わせて片膝を立てると、承太郎の手首に引っかかる形で、パジャマのズボンが下着ごと足から抜けた。
花京院の性器は、胸への刺激だけで先走りを漏らすほど反り返っている。太く長い指が、先端の濡れた窪みから裏筋にかけて緩く何度も行き来した。
「くぅ、ぁ、んッ」
「ここは、触られたか」
問いかけに、花京院は身悶えながら何度も首を左右に振った。小林が直接触れた場所は、結局のところ胸だけだったのだ。それも今では承太郎によって存分に可愛がられて、甘く痺れるような感覚しか残っていない。
承太郎はほっと息をつくと花京院の内腿にひとつ口付け、身体の中心で震える屹立を緩く握り込んだ。彼の大きな手に触れられると、自分のものがまるで未発達な子供の性器みたいに小さく見えてしまうから、恥ずかしい。
「んぁ、あッ、や……ッ」
ゆるゆると扱かれると、快感と一緒に透明な蜜が次から次へと溢れ出た。背を反らし、指先でシーツを掻きながら悶える花京院に、承太郎が喉を鳴らしたのが分かる。汗ばんだ肌に痛いほどの視線を感じ、ゆらりと瞼を持ち上げれば、承太郎も興奮しているようで、額に汗を滲ませているのが見えた。
「じょう、たろう……ぼく、も」
触れたいという欲求が込み上げて、花京院はうまく力が入らない身体で上半身を起こす。承太郎の身体の中心は、制服のズボンを押し上げるほどに張り詰めて膨らんでいた。跳ねる心臓に息を荒げながら、両手でベルトを外し、前を寛げていく。チャックを下ろして下着をずらすだけで、いきり起った剛直が反動をつけて飛び出した。太い血管を走らせながら震えるそれを見つめ、思えばこんな風に勃起した承太郎の性器を直視したのは、これが初めてかもしれないということに気がついた。
持っているものは同じはずだし、あまりジロジロと観察するのも悪いような気がして、いつも遠慮してしまうのだ。だが実際のところ大半を占めていたのは羞恥心と、まだどこかたどたどしい行為への、初心さからだった。
(よくこんな大きなものが……)
あんな場所に入るものだと、変に感心してしまう。知っていたつもりだが、こうしてまじまじと見ると、やっぱり大きい。あの部屋で突きつけられたものが、どれほど粗末なものだったかがよく分かった。こちらの方がよほど狂気じみているのに、渇きを覚える程度には、愛しいと感じる。
(こんなものが、ぼくのなかに入るんだ。ぼくはこれで、いつも……)
花京院は無意識に喉を鳴らすと、太い竿へ手を伸ばす。そっと触れて、幾度かゆるゆると扱いた。
「花京院」
低い声が、僅かに掠れる。花京院はシーツにペッタリと座り込んだ体勢で、ゆっくりと身体を前に倒し、背中を丸めると迷うことなく濡れた先端に口をつけた。
「ッ、おい」
承太郎の手が頭部に触れる。彼にしては珍しく、戸惑いが見え隠れする触れ方だった。
自らオーラルを試みるのはこれが初めてだ。承太郎には何度かされたことがあったが、自分には到底できそうもないと決めつけていた。決して嫌だったわけではない。ただ恥ずかしくて、上手くできるのかも分からなくて、積極的にやろうとはどうしても思えなかったのだ。
「ん……」
ゆっくりと、硬く張りつめた肉棒に舌を這わせ、飲み込んでいく。大きすぎて、全てを咥え込むことはできないけれど、承太郎という雄の匂いが鼻から抜けていく感覚に、たまらなく興奮する。ぎこちなくではあるが、歯を立てないよう意識しながら懸命に奉仕した。
唾液と先走りが合わさり、はしたない水音が響く。承太郎は食いしばった歯の隙間から、低く小さな呻きを漏らしていた。頭皮を滑る指先の感覚が、まるで愛撫のように感じられて、花京院の性器からも淫らな密が零れ落ちる。
承太郎のものは、花京院の口内でさらに硬く張り詰めていた。手でも同時に扱きながら、徐々に動きを大胆にしていく。承太郎はどこか悔しそうにも見える表情で、珍しく耳まで赤くなっている。
(このまま、イッてほしい)
口の中で脈打つ肉塊が、はち切れそうなほどの弾力が、全て愛しい。欲しくて欲しくて堪らなかった。こんなはしたない真似ができるのも、承太郎だからなのだと思うと、得も言われぬ喜びが沸き上がる。
「お、い、ちょっと、待ちな」
夢中で奉仕に努める花京院の前髪を、承太郎が緩く掴んだ。そのまま顔を引き剥がされて、糸を引きながら離されてしまう。
「マジで、これ以上したら出ちまうぜ」
花京院はぼうっと熱に浮かされた瞳で、承太郎を見上げた。
「出してほしかったんだ、ぼくは」
「ッ、てめー、いま自分がどんだけエロい顔してるか、分かって言ってんのか」
「そんなの、承太郎だって」
承太郎は舌打ちをすると、花京院の腕を強く引き「乗りな」と言って仰向けに身体を倒した。どうするつもりなのかと首を傾げる花京院に、後ろを向けと命じてくる。促されるままに、承太郎に尻を向ける形で覆いかぶさった。
「こ、これって」
「いい眺めだぜ。丸見えだ」
「承太郎ッ!」
「この体勢でなら、好きなだけ咥えても構わないぜ。やれるもんならよ」
「あッ!」
承太郎の両手に、尻の肉を掴まれる。下から全てを見られていると思うと、羞恥に全身が熱くなった。これはいわゆる、シックスナインというものか。
「じょ、たろ……ッ、これ、はずか、し……ッ」
「いいからてめーはそっちに集中しな」
眼前で、承太郎の張り詰めた男茎が揺れている。花京院は下唇を噛み締め、じわりと浮かぶ涙を堪えながらそれに両手で触れた。熱い。掌で脈打っている。焼き尽くされそうな羞恥を紛らわすには、目の前のことに夢中になる以外、なさそうだった。もういっそどうにでもなれという気にもなって、再びそれを口に含んだ。
「んっ、んぅ、ぅ」
おとなしく奉仕を再開した花京院の尻たぶを、承太郎が解すようにいやらしく揉みしだく。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け、思わず腰を捩る。
「ぅむ、ぁ、んんッ」
「ここ、触られたんだろ。あの野郎によ」
「ぷ、はッ、ぁ……直接、じゃ、ない」
「一緒だぜ」
承太郎は吐き捨てるように言うと、人差し指に舌を這わせて濡らしたものを、中心にぐっと押し付ける。
「あぅッ……!」
そそり起つ肉棒を掴んだまま、甘い声が漏れた。承太郎は何度も根気よく濡らした指で窄まった穴に触れ、少しずつそこを解していく。入口をじくじくと刺激されるもどかしさに、奉仕を再開するのもままならない。それでも頬を擦りつけ、必死で舌を這わせる。
「小せえのに変わりはねえが、ずいぶんケツが丸くなったな」
「ん、な……わけ……ッ」
「前はいかにも野郎のケツって具合で、もっと硬かったのによ」
「いや、だ、そんな、こと、ッ、ぁ、あッ」
「いい加減、素直に認めちまいな」
パン、と音を立てながら、尻たぶにそれぞれ承太郎の掌が押し付けられる。ひん、と子犬のような呻きをあげ、思わず背を反らすと、よりいっそう承太郎へ尻を突きだす形になった。
「このエロい身体で、無意識に男を誘ってるってよ」
「も、嫌だ……そんなこと、言わないで……」
恥ずかしさで、死んでしまいそうだ。けれど承太郎に意地の悪いことを言われる度に、身体はどんどん熱く、敏感に反応した。触れられていない性器が、いっそ痛みを覚えるほどに張り詰めている。だらしなくよだれを垂らし、承太郎の肌を汚しているのだ。
承太郎は何度も何度も尻の肉を揉みほぐし、やがて引き寄せると指で解された穴に舌を這わせた。
「ヒィッ、ぁ、や、やめ! そんな、汚い……ッ」
柔らかくぬるりとしたものが、中に潜り込んでくる。不規則に蠢き、浅い場所を何度も抉る。わざと大きな水音を立てて、舐めては捻じ込む動作を繰り返された。
このままでは、本当に頭がおかしくなると思った。羞恥も、快感も、全て花京院の許容量を超えていた。もどかしくて、尻を振るのをとめられない。手の中では変わらず逞しい男根が脈打っている。熱く反り返り、噎せるような雄の香りを放っていた。
(ほんとう、に?)
承太郎が言うように、この身体は自分でも知らないうちに、その形を変えているというのか。尻も、肩や腰のラインも。匂いでさえも。あんな頭のおかしな男まで寄せ付けてしまうくらいに――?
バカげている。そう思うのに、否定しきれないくらい追い詰められてしまったのも、事実だった。小林は、完全に花京院を『雌』として見ていた。花京院にとってそれは耐え難いほどの屈辱でしかない。だけど、こんなふうに自分を作り変えてしまったのが他の誰でもない、花京院が唯一愛してやまない男のせいなのだとしたら。
(嬉しい)
身体が、承太郎のための『形』になっていく。それを心の底から嬉しいと思う。男性としての生理やプライドをへし曲げてでも、愛されることに、支配されることに喜びを感じている自分を、もう否定することはできなかった。
「じょ、たろ……ッ、もう、足りない……ほし、い、我慢、できない……ッ!」
舌だけでは足りない。濡れそぼった穴が、もっと大きくて太いものを求めて収縮しているのがわかる。承太郎の指がそこに押し入ってきた。内壁をぐるりと擦られる。
「我慢なんかしなくていいぜ。おら、イッちまいな」
「嫌だ、嫌だ……ッ! 頼むから、認めるからッ」
「なにを?」
花京院は肩を震わせ、とめどなく流れる涙にひくひくとしゃくりをあげた。欲しい。欲しくて仕方がない。こんなにいやらしい身体にしたのは、承太郎なのだ。承太郎が、花京院の全てを変えてしまった。
「ぼく、は……ぼくの、身体は……」
「ん」
「男の人を、寄せ付けるような……えっちな、身体、です」
「そうだな」
「承太郎、が……ぼくを、こんな、ふうに……ッ」
承太郎が笑った。ひどく満足そうに。中から指を一気に引き抜いて、花京院の腰に腕を回しながら半身を起こす。
「よく言えたな」
「はや、く」
「いいぜ」
腰を浮かせている花京院の尻に、承太郎が自身の竿を掴んだものをあてがった。先走りを馴染ませるように幾度か先端で穴を擦られると、期待に全身が粟立つ。緊張と興奮で、心臓がドカドカと激しく暴れていた。
先端が濡れた穴に潜り込んだ瞬間、息が止まる。承太郎は花京院の腰を掴むと、ゆっくりと引き寄せた。
「あッ、ぃ……ッ、はいっ、て、アッ、くぅ、うッ!」
「まだだぜ」
「イッ、ひ……――!!」
半分ほどまで飲み込んだところで、強く腰を引かれた。叩きつけるような勢いで、ずん、と奥まで貫かれ、目の前が真っ白になる。一瞬、どこか遠くへ意識をさらわれ、かくんと首を折った花京院の背を掻き抱いて、承太郎が容赦なく律動を開始した。
「――ッ、あぁッ、ヒ、うぅ……ッ!」
「気ぃしっかり持て、よ」
「あひ、アッ、あっ、じょ、たッ、ろ、すご、これ、すご、ぃ……ッ!」
引き抜かれるたびに、内臓を全て引きずり出されそうな恐怖が襲う。奥を突きあげられると、衝撃が頭の天辺まで雷のように駆け巡った。熱い。怖い。この快感はあまりにも強すぎて、自分が自分ではなくなっていく。舌を噛みそうなほど、激しい。
髪を振り乱し、花京院は自らも律動に合わせて、腰を前後に大きく揺らした。ピンと立てた両腕の先で、指先が病的なまでに震えながらシーツに深い皺を刻む。
「じょ、たろ、ッ……じょう、アッ、じょう、たろうが、あっ、んっく、ぅ……ッ!」
どんどん呂律が回らなくなって、なにを口走っているのかも分からなくなっていった。ただ、伝えたくて必死だった。
「これ、が、ッ、あ、好き……ッ、あ、あんな、あんな、の、絶対、ッ……!」
あんな男に、穢されなくてよかった。あんなものを挿れられなくてよかった。そう言いたいのに上手く言えない。けれど承太郎には伝わっていて、彼は花京院の耳元に背後から頬を擦りつけ「わかってる」と低く呟いた。胸いっぱいに熱いものが溢れ返って、たまらなくキスがしたくなる。花京院は腰を捻り、片腕を承太郎の首に回した。夢中でキスをしている間に、承太郎のものがいちど引き抜かれる。仰向けに身体を反転させられ、両足を大きく開くと正面から再び受け入れた。
「う、アッ、も、イク……ッ、じょうたろ、出して、ナカ、くださ、ぃ……ッ」
「いい、ぜ。一緒に、花京院」
極致に至る瞬間は、声も出なかった。真っ白に染まる世界で、打ち上げられ、叩きつけられる。互いに強く抱き合いながら腰を大きく震わせた。中で、熱いものが弾けている。花京院のものも、腹と腹の間で白濁を散らしていた。
「ぁ、ぁ……ッ、でて、る……なか、ビクビク、して……」
「ッ、く」
下腹が疼く。承太郎が放逐した蛋白性の遺伝子が、花京院の中で確かな意思を持って、飛び跳ねるように蠢いている気がした。肉路の先で、結実を求めてビクビクと波打っている。尾を引く絶頂に痙攣を繰り返しながら、花京院は承太郎の腰に両足を巻きつけて、より深く奥へと誘いこもうとした。足首をクロスさせ、強く引き寄せる。承太郎もそんな花京院をいっそう強く抱しめて、中に放ったものをなじませようと、抜かずに留まり続ける。
そのまま呼吸が整うまで、互いになにも言わずただ抱き合った。そのうちなんだか可笑しくなって、つい、笑ってしまう。
「本当にデキてしまったら、どうするんだい」
「認知するに決まってんだろ。お袋も喜ぶだろうよ」
「ふふッ、ああもう、馬鹿だなあぼくら」
いいじゃあねえかと、笑いながら承太郎は言った。それからふっと笑みを消して、花京院の額に自分の額を押し付けると、じっと瞳を覗き込んでくる。長い睫毛に縁どられたエメラルドに胸の高鳴りを覚えながら、つい喉を詰まらせた花京院に、承太郎は囁くような声で「好きだ」と言った。
「承、ッ、アッ!」
顔を赤らめた花京院の中を、承太郎が緩く突きあげる。
「誰にも渡さねえ。そこんとこ、朝までみっちり叩きこむぜ。このエロい身体によ」
ああ、なんて恥ずかしいことを。けれど花京院はもう認めてしまった。作り変えられていくことの喜びを知ってしまった。もう嫌というほど分かりきっているのに、それでも足りないという承太郎にしがみついて、花京院は本当に、朝まで絶え間なく啼き続けることになるのだった。
*
あれ以来、小林が花京院たちの前に姿を現すことはなかった。
すぐにやってきた別の非常勤講師は女性で、女子生徒からも男子生徒からも受けがいいようだった。
皆が彼の存在を忘れてしまった頃、意外にも特に小林を毛嫌いしていたはずの女子生徒の口から、ある日の放課後、その名前が飛び出した。
「ねえ聞いた花京院くん!? 小林っていたでしょ! 前の非常勤、あれ、逮捕されたんだってよ!!」
席について帰り支度をしていた花京院の机に、数人のクラスメイトの女子が興奮気味に集まってきた。
「さっき職員室で聞いたの! 他所の高校で女の子に変なことして、警察に捕まったんだって! 新聞にも載ったってよ!」
「最低―! まじキモすぎ……確かにやりそうだったもんね」
「なんかね、理由がまたすっごいキモいの。その子が一度だけ目を合わせて挨拶してくれたから、それで自分に気があるって思ったんだって!」
「嫌あぁ……ッ! 花京院くん、危なかったよね。だって小林にセクハラされてたでしょ?」
「そうよ! 下手したら襲われてたの、花京院くんだったかも……」
鞄に教科書やノートを詰めながら耳を傾けていた花京院は、思わず手を止めると苦笑した。
「確かに気に入られてはいたようだが、ぼくは男ですよ。襲われるなんてことには、ならなかったんじゃあないかな」
実際この身に起こったことは、当の小林と自分、そして承太郎しか知らないことだ。今でもあの時のことを思いだすと不愉快な気持ちにはなるが、そのあと朝までたっぷり承太郎に可愛がられてしまった記憶が上塗りされて、身体が熱くなってしまうから困りものだった。
「でも、花京院くんだったら分からないわよ? だってすごく色っぽいし……」
「わかる! なんか不思議な色気があるのよね! 男でもコロッといっちゃうかも……」
「あはは、そうかな。それは……」
(光栄だ)
頬を染めながら頷き合う女子たちの合間を縫って、ふと走らせた視線の先に、以前体育館裏で告白をしてきた男子生徒が、気まずそうにこちらを見ていた。目が合った瞬間ふわりと笑いかけると、彼は顔を真っ赤にして、一目散に教室を出て行ってしまう。
入れ替わるようにヌッと姿を現したのは、承太郎だった。途端に女子生徒たちが黄色い悲鳴をあげる。
「花京院」
帰るぜ、というひと声に、花京院は花が綻ぶような笑みを浮かべると、席を立つ。
最近、前にも増して承太郎は過保護になった。放課後、一分と待たずしてこうして迎えにやってくる。以前は承太郎がこういった姿勢を見せることに不満を覚えていた花京院だったが、今ではどちらかというと諦めの方が勝っていた。あれは独占欲の塊のような男なのだ。
今でも承太郎が行くなと言ったコンビニは事あるごとに利用しているし、自分の立ち振る舞いを変えるつもりはない。ただ唯一変わったのは、承太郎に愛される喜びが今の自分を形作っていることを、誇れるようになったことだ。それは同時に、承太郎がこの身体に溺れている証拠でもあるから。
「それじゃあぼくはこれで。みんな、また明日」
承太郎の姿にすっかり骨抜き状態になっている女子たちは、熱い溜息を漏らしながら手を振り、去っていくふたりの背中を見送った。
←戻る ・ Wavebox👏
一緒に帰りましょう、と誘いをかけてくる女が後を絶たない中、承太郎はそれらを全て無視しながら正門の前に佇んでいた。
腕時計を見て、ここに立ってから実に30分近くも経過していることを確かめる。
(……遅い)
承太郎は校庭を挟んで向かいにある校舎に向かって、片目を眇めた。何か急な用事でもできたのだろうか。しかし几帳面な花京院は、これだけ待たせる何かがあるのなら、必ず承太郎に一声かけるはずだった。ましてや今日は一緒に、このまま彼の家へ行く約束になっているのだ。
妙な胸騒ぎがして、承太郎は校舎へ引き返すことにした。何もないならそれに越したことはないが、最近めっきり色っぽさが増したことに比例して、いつまでも無自覚でいる恋人のことが気がかりで仕方ない。
この自分の過保護さが、彼に不満を抱かせていることは知っていた。だからこれでも一応は、控えめにしているつもりなのだ。
しかし本音を言えば、あの男をそういう目で見る輩は、この手で直々にぶちのめしたい。相手が誰であろうが、二度とそんな気が起こらないように思い知らせてやりたかった。花京院はそれらを上手くあしらう術を知っているし、それなりに喧嘩の心得があることも、よく分かっているつもりだ。それでもどこか危なっかしくて、守ってやりたいと思うのが男心であり、同時にそう易々と守らせてはくれない、あのプライドの高さが愛しくもあるのだが。
承太郎は校舎に入り、靴も履き替えずに二年生の教室がある二階へ向かった。ちらほらと居残っている生徒がいるなか、教室を覗き込んでみたが、その姿は見当たらない。代わりに、窓際でお喋りに興じていたらしい女子生徒数人が、息を飲みながら悲鳴をあげた。
「きゃあ! JOJO!? JOJOが二年生の教室に!!」
「うそ、やだぁ! メイク直しておけばよかった……!」
彼女たちは色めき立ちながら、呼んでもいないのにすぐさま駆け寄ってくる。
「も、もしかして、花京院くんですか?」
「花京院くんなら、HRが終わってすぐに帰って行ったみたいですけど」
「あたしも見ました! 一番に教室を出て行ったもの!」
承太郎と花京院がよくつるんでいることは、この学校では有名だ。承太郎がその名を出すまでもなく、女子生徒たちから情報がもたらされる。それだけ聞ければ、もうここに用はなかった。ありがとうよと短く礼を言い、踵を返そうとした承太郎だったが「ひょっとして」という言葉に、動きを止めた。
「花京院くん、今日も小林のところじゃない?」
一人がそう言うと全員が表情を曇らせて、嫌そうに顔を見合わせる。
「それありえる。なんかアイツ、やたらと花京院くんがお気に入りっぽいよね」
「そうそう! しょっちゅう準備室に呼び出してるみたいだし」
「準備室に……?」
ぴくりと、承太郎の片眉が動く。大して印象に残っているわけではないが、小林というのは、確か春から非常勤としてこの高校に赴任した、国語教師だったか。
「そうなんですよぉ! あいつ、花京院くんが優しくて断れないからって、しょっちゅう放課後に雑用押し付けて!」
「しかもさぁ、あいつ授業中、たまにセクハラしてない?」
「してる!! こないだの小テストのときも、さりげなく前髪触ってたの見たし!」
「キモすぎ……花京院くんが可哀想……」
セクハラ、放課後の雑用。どれも初めて聞かされるものだった。しかも花京院の口からではなく、クラスメイトの女子から間接的に、だ。
もちろん、あの花京院が自ら進んで話したがるとは思えない。強がりで、甘え下手で、変に水臭いところがあることも。その歯痒さが悩ましい。自身に向けられる感情に、やたらと鈍いところも危なっかしいのだ。
小林という教師に関する聞き捨てならない話に、承太郎の中では沸々と怒りがたぎりはじめていた。けれど同時に、なるほどと納得もしている。
ときどき感じる、嫌な視線。気づくのは決まって花京院とふたりでいる時だ。すぐに察知して注意深く辺りを探っても、まるで煙のように実態を掴むことはできないでいた。しかしこの分だと、正体は小林だったと考えて間違いはなさそうだ。
それから、もうひとつ。承太郎の中で、とある『ピース』がカチリとハマる――。
承太郎は今度こそ女子生徒たちに背を向けて、学ランの裾を翻しながら廊下を大きな歩幅で歩きだした。帽子の鍔に隠れた額には、青筋が立っている。ドス黒い怒気を帯びる姿に、居残っている生徒が小さな悲鳴をあげ、怯えた小動物のように廊下の隅に身を寄せる。
思うことは幾つもあるが、今は一秒でも早く花京院を捕まえて、傍に置くことが第一だ。そうしなければ安心できない。正門で感じていた、妙な胸騒ぎが増していた。
だから言ったのだ。もっと自覚しろと。思っていた通り、妙な虫がくっついていたではないか。
(やれやれ、全く舐めた真似してくれるぜ)
何より許せないのは、自分以外の男が花京院に触れたということだ。例え指一本でも、決して許せることではない。承太郎は嫉妬深いのだ。子供じみた独占欲の塊でもある。花京院の手前、なるべく抑えてはいるが。
とにかく小林という国語教師は、見つけ次第ぶちのめしてやることに決めた。二度と妙な気が起こらないようにしてやると。
しかし女子生徒たちからの情報をもとに、一階の国語準備室へ向かう承太郎は、このときすでに事態が最悪の方向へ向かっていることに、まだ気づいていなかった。
*
水底からゆっくりと時間をかけて浮かび出るように、意識が浮上した。滲んでいた視界が時間をかけて、鮮明さを取り戻す。
薄ぼんやりとした部屋。最初、それが天井だと気づくには時間がかかった。
(なんだ、これ……?)
まだどこか鈍い思考が、徐々に動きだす。理解した瞬間、息を飲んだ。
天井一面に張り巡らされた、自分の姿。クラスメイトと談笑しているもの、中庭で読書をする姿、体操着で校庭を駆けている光景。学校のあらゆる場所で隠し撮りされたと思しき花京院の姿で、隙間なく埋まっている。小さなものから、拡大されたものまでびっしりと。そしてそれらは、天井だけでなく壁や窓に至るまで、狂ったように貼りつけられていた。
「ッ、ぅ!」
思わず震わせた肩の関節が、鋭く痛んだ。花京院の脳は自分がどこか狭い部屋の、ベッドの上に仰向けで転がされていることを、ようやく理解する。まともに声が出せないことも。両手は後ろ手に、両足首は揃えて、それぞれガムテープでグルグル巻きにされていた。ご親切に、それは唇にもベッタリと貼られている。どれほど身を捩りながら力を込めても、引き千切ることは不可能だった。
一体ここはどこだ。少なくとも、学校ではない。淀んだ空気。湿気にほのかな酸味を帯びたような臭い。暴力的なまでに激しく高鳴る鼓動に胸を上下させ、どうにか冷静さを手繰り寄せようとする。
首だけを動かして、視界を巡らせた。部屋の中は写真によって窓さえも塞がれているせいで、おおよその時間すら把握できない。花京院は薄ぼんやりと室内を照らす、その光源を目で追いかけた。机の上に置かれた小さなデスクライトから、白い光が放たれている。デスクトップ型のパソコンが、そのディスプレイに晴れた空と緑の高原を映し出していた。しかし、その中で最も花京院の目を引いたのは、パソコンの脇に置かれている、白いアザレアの鉢植えだった。
――あなたに愛されて幸せ。
人工的な淡い光だけが頼りの部屋で、アザレアは萎れかけた花弁から、青白い光を放っていた。全身の毛が逆立つような感覚を味わいながら、目を見開く。ここは、あの男の部屋なのか……。
「おはよう、典明」
そのとき、頭上から覗き込むようにヌッと丸い顔が現れた。咄嗟に息を飲み、身を強張らせる花京院に、男が薄ら笑いを浮かべる。
――小林。
国語準備室で見た、あらゆる光景が一瞬にして蘇る。ロッカーの前で膝をついていた自分は、あのとき何か薬品のようなものを嗅がされた。そこから今に至るまでの記憶がない。
一連のことを含め、一体なんのつもりであるかを問いたくとも、塞がれた唇ではガムテープ越しに低い呻きが上がるだけだった。
どこか忙しなく口呼吸を繰り返す小林が、ぐっと顔を近づけてくる。吐きだされる息が皮膚にかかるのを避けるために、花京院は咄嗟に顔を背けようとした。しかし、ずんぐりとした手に顎を掴まれ、それは叶わなかった。
「やっと、ようやく……ふ、ふたりきりになれたね……」
小林はひどく汗ばみ、眼鏡のレンズをうっすらと曇らせていた。引き攣った表情で目を見開く花京院を、恍惚とした表情で見つめながら言う。
「た、大変だったんだよ。ここまで連れてくるの……君、けっこう重たいんだ……大型のボストンバッグにはスッポリ入ったけど、車に乗せるまでにだいぶ引きずってしまったから……」
もう片方の手が伸びてくる。花京院の頭部にべったりと触れて、しきりに髪を掻き乱す。
「痛いところはない? ところどころ、痣ができているかもしれない……ご、ごめんね」
「ッ、ぅぐ、う、うぅーッ!」
やめろ、触るなと、そう叫んだつもりで言葉にできない。全身に痛いほど鳥肌が立つ。花京院はどうにかして拘束を解こうと、必死で身を捩った。最悪だ。みすみす捕えられ、こんな場所に連れて来られてしまった自分が情けなくて、許せない。悔しさに奥歯を噛み締める。
「だ、ダメだよ典明。う、嬉しくてはしゃぐ気持ちは分かるけど、まだ、自由にはしてあげられないんだ」
薄く曇った眼鏡越しに、小林の黒い瞳が虚ろに穴を開けているように見える。荒れた唇は笑みを形作ってはいるけれど、その目は笑っていなかった。
「典明はここで、これからずーっとずっと、僕とふたりだけで暮らすんだから。さ、最初は、躾が肝心なんだ」
花京院は殺意にも似た衝動で、小林をきつく睨み付けた。せめて自由に声さえ出すことができたなら、この男に思いつく限りの罵倒を浴びせてやることができるのに。そんな花京院を見て、小林はわざとらしく残念そうに「あ~あ」という声を漏らした。
「そんな目をして……き、君はこんな子じゃなかったはずなのに……だから僕は言ったんだ……あんな人間のクズとは付き合うなって。君には似つかわしくないって。いくら僕の気を引くためだからって、やっていいことと悪いことがあるよ」
何を言っているんだこいつは。クズはどっちだ。一緒に暮らす? 躾が肝心? こいつの気を引くために、自分が何をしたって……? 承太郎を愚弄するだけでなく、妄想や思いこみも甚だしい言葉の数々に、あの手紙の一方的な内容が頷ける。どうすればこれが喜んでいる人間の反応に見えるのだろう。堪らずゾッとした花京院は渾身の力を振り絞り、自由のきかない身体をバネのようにしならせると、ベッドの端に身を寄せた。膝を立て、スプリングの反動を利用しながら、腹筋の力で半身を起こす。自分の写真が折り重なるように張り巡らされた壁に、これでもかというほど身を寄せた。しかしせっかく僅かにでも開いた距離が、ベッドに乗り上げる小林によってすぐに縮んだ。
彼は両腕を大きく広げ、両膝でのこのこと近づき、花京院を追い詰める。
「お、怒ってないから、怖がらなくていいよ。ぼ、僕は優しいから、かか、可愛がってあげる」
肉厚な身体と、無機質な壁によって挟まれる。どうにかして腕の拘束だけでも解こうと試みるが、グルグル巻きのガムテープは捻じれて紐状になり、手首に食い込むばかりで緩むことはなかった。
そのとき、身を守るように立てていた膝付近に、何かが当たるのを感じた。ぎょっとして見れば、膝立ちでいる小林の股間がやけに膨らんで、布を押し上げているのが見えた。
「ッ!!」
全身の血が、一気に引いていくような気がした。強張った身体を本能的に震わせ、息をつめる花京院に、小林はひどく興奮した様子で、さらに息を荒げた。
「のり、の、典明に、僕の勃起ちんちん、み、見せてあげる。ほら、ほら」
小林は花京院の正面に仁王立ちになると、忙しない手つきでズボンの前を寛げた。下着ごとズルリと下ろし、一気に両足を引き抜いてしまう。
「ほら、ほら、これがおちんちん! 大人の勃起ちんちんだよ! 典明のことを考えるだけで、い、いつもこんな風になるんだよ!!」
腰をずいずいと前後に振りながら、小林は花京院の顔に勃起した性器を押し付けようとする。赤く腫れたようなそれは先端が湿り気を帯び、頼りないライトの灯りにテラテラとした光を放っていた。嫌な臭いが立ち込めて、吐き気と生理的な涙が滲んで止まらない。四肢が冷える。頭が混乱して、身体が思うように動かなかった。本能的な恐怖が花京院を飲み込む。
「ううぅッ! うぐぅーーッ!!」
言葉にならない悲鳴をあげて、花京院はきつく目を閉じると顔を背けようとした。しかし小林の手がひと房だけ長い前髪を巻き込むようにして、乱暴に掴みあげてくる。ぐっと上向かされ、引き攣った表情で硬直する花京院の目の前で、小林はもう片方の手で勃起した肉棒を扱きはじめた。
「はぁ、はぁ、はぁッ! 典明ほら! ほら見て! アッ、ぁー、気持ちいい! あぁっ、ア――ッ!!」
(いやだ、やめろ……やめてくれ……ッ!!)
「ッ……――ッ!!」
花京院の悲痛な胸のうちも虚しく、小林が腰を跳ねさせた。性器の先端から黄ばんだ体液が放出され、花京院の髪や頬、ガムテープ越しに唇を濡らしていく。
鼻をつまみたくなるほどの臭気。どろりとしたものが、髪から頬にかけてのラインを伝う。花京院は蒼白な顔で呆然とし、無意識のうちに首をゆるゆると振った。濡れたガムテープが剥がれかけ、中途半端にぶら下がったような状態になる。かろうじて声が出せるまで剥がれ落ちても、どうしてか言葉が出てこない。
「あぁー、出ちゃった……ごめんね、ごめんね典明。でもほら、まだこんなに元気だから、次はちゃんと食べさせてあげるからね」
小林のものは、大量の精液を吐きだしてもなお勃起している。花京院は壁から引き剥がされ、シーツの上に仰向けで転がされた。すかさず馬乗りになった小林は鼻息を荒げ、汗ばんだ手を花京院の両胸に這わせた。痛いほど掴み上げ、寄せては上げる動作で力いっぱい揉みしだかれる。
「い……ッ、痛ッ、ぅ……や、め……!」
「はあぁ典明のおっぱい……男の子なのに、大きくてお椀みたいに張りがある……えっちだなぁ……すっごく、えっちだ……」
もどかしくなったのか、小林の手が制服の前にかかった。合わせ目に指をかけ、ブチブチと音を立てながら引き裂いてしまう。ワイシャツも同じように乱暴に裂かれて、ボタンが幾つも飛び散った。姿を現した花京院の白い胸を見て、小林は大きく震える息を漏らす。飛びつくように覆いかぶさり、両手で胸を痛いほど揉まれながら頬ずりをされた。この男は力加減というものを知らないのか。ギザギザとした爪が皮膚に食い込み、さらに痛みが走る。小林は寄せることでできた胸の谷間に鼻を埋め、息を大きく吸いこんでは吐きだした。
「ふうぅ~~ッ、はぁぁ……あ、はぁ、はぁぁ……い、いい匂い……いい匂いがするよぉ」
「やめ、ろ! もう、触るな……ッ!」
信じたくない。これは悪夢だ。承太郎にしか許していない身体を、好きでもない男の手が這いまわる。臭い。汚い。気持ち悪い。いっそ死んでしまった方がマシだ。
花京院は異様なまでの寒気に激しく身を震わせる。大きく首を左右に振り「きもちわるい」と、掠れた声を絞り出した。するとその言葉に小林がピクリと反応し、ゆらりと顔を上げる。そこに笑顔はなく、真っ黒な瞳はどこを見ているか分からないほど、虚ろだった。そして次の瞬間、左頬に石を打ち付けられたような衝撃を受けた。
「ッ……!!」
殴られたのだと気づいたときには、口の中に鉄の味が広がっていた。目の前がチカチカと点滅している。唇の端が切れ、左頬が一気に熱をもち、じりじりと焦がすような痛みが込み上げる。小林は花京院を殴った拳を大きく震わせながら、顔を真っ赤にして憤怒の表情を浮かべていた。そして、花京院の喉を両手で力いっぱい締め上げはじめた。
「ぐぅッ、ぅ、ぁ゛……ッ!!」
「誰に向かって……誰に向かって言ってるんだ!! 僕のどこが気持ち悪いだって!? お前までそんなことを言うのか!? くだらないでたらめを言いやがって! 僕に愛されたいなら素直にそう言え!! ちゃんと言え!! アイシテルって言えッ!!」
(……こいつ、本気でイカれてる)
意識が遠のくのを感じながら、改めてそう思う。唾を飛ばしながら怒鳴る小林は、学校で見せる気弱そうな態度とは、大きくかけ離れていた。まるで癇癪を起した子供のようだ。しかし花京院の身体から徐々に力が抜けていくのを見て、ハッとした表情を見せた。
「ごごご、ごめんよ、こんな酷いことするつもりなんかなかったんだ。ごめんね、ああぁ神様、僕はなんてことを! 可哀想に……ごめんね、苦しかっただろう?」
小林は花京院の首から手を離し、みるみるうちに腫れていく頬をしきりに撫でた。よく見せてと言って、唇の脇に中途半端に張り付いているガムテープを、一気に剥がす。花京院はその痛みに顔を顰めると同時に咳込んだ。口端に赤いものが伝う。
「こんなに血が出て……勿体ない……」
小林はそれをすかさず指先で拭うと、べろりと舐めた。ぞわりと総毛立つ。声が出せるようになったら、言ってやりたいことが山ほどあったはずなのに、必死に酸素を取り込もうとするばかりの喉からは、何ひとつまともに言葉が出てこなかった。
「わかってるよ。典明が悪いんじゃない。あんな不良の傍にいつまでも置いておいたせいで、悪い影響を受けてしまっただけなんだよね。僕がもっと早くこうしてやっていれば……怖かったよね。可哀想に……」
花京院の頬を優しく撫でながら、小林は「だけどもう安心だよ」と言った。
「典明はここで、僕と死ぬまで幸せに暮らせるんだよ。元気な赤ちゃんもいっぱい産まなくちゃ」
「なに、言って……?」
「ほらここに」
「ッ!?」
小林は花京院の上から退き、その身体を乱暴な動作であっという間に引っくり返す。伏せの形になることで、ずっと下敷きになっていた両手が痺れ始めた。腰を掴まれ、ぐっと持ち上げられると、尻だけを高く突きだすような姿勢を取らされる。
「な……ッ!?」
「ここに僕のおちんちんを挿れて、赤ちゃんの種をいっぱい注いであげるんだ」
小林の両手が尻にかかり、ほぐすように揉みしだかれる。花京院はただただ怖気だっていた。この男が何を言っているのか分からない。分かりたくもない。これから何をしようとしているのかも。
「女の子がいいなぁ。君に似て美人で、僕に似て頭のいい、優しい子になるよ」
「さっきから、なにを言ってるんだ……?」
あの手紙にも、そんなようなことが書いてあったのを思いだす。早くあなたとの子供が欲しいと。しかしあれは送り主が女性であるという印象を、確信に近づけただけだった。自分が犯人であることを悟らせないため、あえて装っていたのではなかったのか。あんな頭のおかしいことを、この男は本気で綴っていたというのか。しかも、子供など産めるはずがない花京院を相手に。
小林は剥き出しの性器を花京院の臀部に押し付ける。まだ裸に剥かれているわけではないが、布越しにその感触がいやというほど伝わった。
「やめろ! そんな汚いもの、押し付けるなッ!!」
「こ、これで、典明の中いっぱい突いてあげる。赤ちゃんの穴、ゴリゴリしてあげるね」
「ぼくは男だ……子供なんか、できるわけ……ッ」
「大丈夫。だって、典明はこんなにえっちな身体をしてるんだもの。赤ちゃんくらい、きっとすぐに産めるようになるよ。ほ、本当はね、典明がもう少し大人になるまで、待っててあげようと思ってたんだよ? なのに君が我儘だから、特別にしてあげるって言ってるんだ。う、嬉しい? 典明はママになるんだよ。うう、嬉しいでしょ?」
だめだ。やっぱりこいつは狂っている。言っている意味がなにひとつ理解できなかった。小林は逃れようと身を捩る花京院の腰をしっかりと掴み、制服越しに反り返った性器を何度も擦りつけてくる。忙しなく腰をゆすり、何度も何度もそうされるうちに、大量の先走りで臀部が湿りはじめるのを感じた。
「ああぁ、あ~~……ッ、典明のお尻、気持ちいいッ! 体操着でシコるより気持ちいいッ! 早く挿れたい! 典明の中、ぐちゃぐちゃに掻きまわしたいッ!!」
「ぅ、え……ッ」
いよいよ胃から何かが競りあがってきた。花京院は激しくえずきながら、目尻にじわりと涙を浮かべる。そんな反応もおかまいなしに、小林は花京院の腰にしがみつくようにしながら、ウエストに手をかけた。腹のあたりで金属が擦れあうような音がして、ベルトを外されているのだと気がつく。なんとか阻止しようと腰を捩ると、小林がブヒィと笑った。
「典明も、早く欲しくて仕方ないんだね。こんなにいやらしく腰を振って……待ってね、いま脱がせてあげるからね」
「や、め……ろ……ッ、嫌だ、絶対に、おまえのなんか……ッ!!」
「典明の綺麗なケツまんこに、僕のちんちん挿れて孕ませてあげるからね。赤ちゃんできるまで、何度も何度もズボズボしてあげるからね。愛してるよ典明、僕の典明!」
おぞましさと絶望感に、身が竦みあがる。逃げられないのだろうか。このままどうにもできずに、手籠めにされてしまうのか。ふと、承太郎の顔が脳裏に浮かんだ。
(いやだ……こんなの嫌だ……承太郎……ッ!!)
助けてくれ、という言葉を、どうにか飲み込んだ。悔し涙が後を絶たない。承太郎はここには来ない。彼はスーパーマンではないのだ。こんな場所まで都合よく来てくれるなんてありえないことだし、なによりそれを言ってしまったら、暴力に屈しようとしている自分を認めるようで、嫌だった。意地を張っても意味なんかないことは分かっている。花京院がどう足掻こうとも、こうして両手足を縛られて、不様に犯されようとしているのが現実だ。
こんなことなら、殺された方がずっとマシだった。さっき、首を絞められたときに死んでいれば。
小林の手が内腿に触れ、股を割り開くようにしながら、下着ごと制服のズボンをズリ下げようとする。そこで糸が切れたように、花京院は叫んでいた。
「嫌だッ……承太郎……ッ!!」
そのとき、ドン、という大きな音がした。
「ッ――!?」
小林が手を止め、息を飲みながら顔を上げる。彼の視線は部屋の出入口に釘づけになっていて、花京院もそれを咄嗟に目で追いかけた。
音は、写真まみれになっている扉の向こうからしていた。堂々とした足音を響かせながら、気配が近づいてくるのを感じる。やがて、再び大きな音を立て、扉が破られた。
「邪魔するぜ」
「承太郎!?」
ポケットに両手を突っ込んだ承太郎が姿を現す。花京院はその夢のような光景に目を見開き、その名を呼びながら半身を起こした。来てくれた。承太郎が。なぜだとか、どうしてだとか、疑問は全て後回しだった。情けないが、安堵から涙が浮かび、全身から力が抜けていくようだった。
承太郎は視線だけを花京院へと走らせた。拘束され、頬を腫らし、制服まで引き裂かれている様に小さく舌打ちをする。それから、真っ直ぐに小林を見据えて、射貫くように目を細めた。
「ヒッ、ヒイィッ!?」
ヌシヌシと大きな歩幅で踏み込んできた承太郎に、下半身を露出したままの小林が腰を抜かし、ベッドから転げ落ちる。そのまま引っくり返ったような状態で壁際まで逃げていき、ひどく怯えた様子で全身を震わせた。承太郎が小林の目の前で足を止める。
彼は何も言わない。ただ、その目は薄暗い中にあってもハッキリと分かるほど、怒りに燃え滾っていた。これが本物の殺気だといわんばかりに、空気を凍てつかせる。花京院は無意識に喉を鳴らした。
「な、な、なんで、なんでおまえがここにぃ……ッ!?」
小林が承太郎を指さしながら、裏返った声を絞り出した。瞬間、部屋の中にツンと鼻をつく悪臭が漂う。カエルのように大きく開かれた短い足の間で、小林は失禁していた。
承太郎は問いに答えることなく、肉厚な唇を小さく震わせ、息を漏らす。
「ひとつ聞くぜ」
「あ、あわ、あ、ぁ」
「おれ宛てに妙な手紙を送りつけてきてたのは、てめーか?」
「手紙……? 承太郎、それはなんのことだ?」
彼の口から発された言葉に、花京院は首を傾げる。
「死ね、消えろ、クズ野郎……いや、ゴミ野郎だったかな」
一ヶ月ほど前から、差出人不明の手紙が自宅に届くようになったのだと、承太郎は吐き捨てるように続けた。花京院の元に手紙が届くようになったのも、ちょうど同じころだ。
あまりにも幼稚な雑言に、国語教師が聞いて呆れる。
「さっき偶然2年生の教室で、てめーが花京院に付き纏ってるって話を聞いたもんでよ。おかげでピンと来たぜ。パズルのピースがハマるみてえにな」
花京院が小林を見ると、彼は歯の根を鳴らしながら目を泳がせていた。それだけで、十分な肯定だった。
「だって、だって……邪魔だったんだ……」
小林の目からボロボロと涙が零れはじめた。悔しそうに顔を歪めながら、大きくしゃくりをあげている。
「お、お前みたいな不良が! 僕の典明と釣りあうわけがないんだッ! 僕らは愛し合ってる! お前が入り込む隙間なんかないんだッ!! の、典明も、こいつに言ってやれ! 今すぐここから出て行けって! 僕らの邪魔をするなってッ!!」
顔を真っ赤にして喚き散らす小林に、承太郎が鼻で笑った。
「ほーう? 愛し合ってる、か。初耳だぜ花京院。てめー、趣味わりぃな」
「じょ、冗談はよしてくれ! そんなの、そいつの勝手な妄想に決まってるだろ!」
「だとよ、先生」
「ヒイイィィッ! やめろ! やめてぇっ!」
「人のもんに勝手に手ぇ出したらどうなるか、ママに教わらなかったか?」
承太郎が小林の胸倉を掴んだ。そのまま持ち上げられると、手足をバタつかせながらもがき苦しむ。小林は泣きながら、何度も「助けて」と叫び、花京院の名前を呼んだ。
この男が、一体どんな理由で勘違いをして、妄想に取り憑かれてしまったのかなんて、花京院にはどうでもよかった。顔をうつむけ、小さく息を漏らす間に、何かが砕けるような鈍い音が何発も響いた。
顔をあげると、小林は床に蹲って震えていた。承太郎が片膝をつき、その薄い頭を掌で一掴みにする。まるでバスケットボールでも掴み上げるように、その頭を持ち上げた。膝立ちになった小林は鼻や口から血を噴きだし、前歯が数本、欠けていた。
「ウヒイィッ! も、もう、殴らないでくらひゃいィッ!!」
「……次はこんなもんじゃあ済まねえぜ」
覚えときな、と小林の耳元で囁かれた声の低さに、薄ら寒いものを覚える。承太郎が手を離すと、小林は床に丸く伏せてか細く泣きはじめた。
「花京院」
承太郎はそんな小林には見向きもせず、ベッドの上でへたり込んでいる花京院の元へやって来ると、手を伸ばした。両手足の拘束が、いとも容易く引き千切られる。
「ありがとう、承太郎……助かりまし、ッ、痛!」
「殴られたのか」
言い終わらぬうちに、承太郎の手が顎にかかって上向かされる。花京院の腫れた頬や切れた口の端、首に残った締め痕などを見て、承太郎が奥歯を噛み締める音が聞こえた。突き刺さる視線から顔を背け、花京院はその手首を掴むと自分の顔から遠ざけると、制服の袖で顔を拭いながら言った。
「……すまない、汚れてるんだ。だから、近づかないで」
髪も顔も、制服ですら、小林が放った精液でドロドロに汚れきっている。これでは承太郎まで汚れてしまう。臭いだって酷いものだ。こんな身体で、触れてほしくはなかった。
平静を装いながら、それでも指先が震えていることくらい、きっと承太郎にはバレている。だからなおのこと、花京院は何か言いたそうにしている承太郎を、なんでもないような素振りで見上げる。
「それより君、よくここが分かったな」
「……準備室に、てめーの鞄が落ちてんのを見つけた」
学校で幾つものピースを手に入れた承太郎は、無人の国語準備室に花京院の鞄だけが放置されているのを見て、すぐに職員室に乗り込んだのだと言った。そこで教師の静止を振り切り、職員名簿を見てこの場所――アパートらしい――の住所を突き止めるに至った。自転車置き場に停めてあったオートバイをちょっぴり拝借して、ここまで飛ばしてきたのだと。
小林が花京院を自宅に連れ込んだのは、不幸中の幸いだった。これがもしホテルなど、特定が難しい場所であったなら、今ごろはあのまま……。
花京院は思わず両腕で自分の身体を抱きしめた。大きく身震いをして、震える息を吐きだす。とにかくもうここにはいたくないと思った。小林は変わらず壁際で丸くなっている。これ以上、同じ空気を吸うのは我慢の限界だ。すると承太郎の手が、そんな花京院の腕を掴み、ぐいと引き上げた。
「うわッ! じょ、承太郎……ッ」
「帰るぜ」
ずっと血液の流れをせき止められていた両手足は、電流を流したように痺れて感覚がなかった。床に足をつけた途端にカクンと膝を折った花京院を、屈強な腕が抱き上げて、軽々と肩に担いでしまう。
「お、おい! ぼくに触ると、君まで!」
「うるせえ」
「ッ!」
低く威嚇するような声に、身動きが取れなくなった。承太郎は怒っている。そんなのは当たり前だ。隙が多いとか、自覚しろとか、今の今までまともに取り合おうともしなかった。承太郎に言われても、ただ眉を顰めて否定するばかりだったのだ。
こんなこと、早々あるはずがない。あってたまるか。だけどこれは、承太郎の心配を無下にし続けてきた結果でもあるような気がして、花京院はただ下唇を噛み締め、その肩や背に爪を立てることしか、できなかった。
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腕時計を見て、ここに立ってから実に30分近くも経過していることを確かめる。
(……遅い)
承太郎は校庭を挟んで向かいにある校舎に向かって、片目を眇めた。何か急な用事でもできたのだろうか。しかし几帳面な花京院は、これだけ待たせる何かがあるのなら、必ず承太郎に一声かけるはずだった。ましてや今日は一緒に、このまま彼の家へ行く約束になっているのだ。
妙な胸騒ぎがして、承太郎は校舎へ引き返すことにした。何もないならそれに越したことはないが、最近めっきり色っぽさが増したことに比例して、いつまでも無自覚でいる恋人のことが気がかりで仕方ない。
この自分の過保護さが、彼に不満を抱かせていることは知っていた。だからこれでも一応は、控えめにしているつもりなのだ。
しかし本音を言えば、あの男をそういう目で見る輩は、この手で直々にぶちのめしたい。相手が誰であろうが、二度とそんな気が起こらないように思い知らせてやりたかった。花京院はそれらを上手くあしらう術を知っているし、それなりに喧嘩の心得があることも、よく分かっているつもりだ。それでもどこか危なっかしくて、守ってやりたいと思うのが男心であり、同時にそう易々と守らせてはくれない、あのプライドの高さが愛しくもあるのだが。
承太郎は校舎に入り、靴も履き替えずに二年生の教室がある二階へ向かった。ちらほらと居残っている生徒がいるなか、教室を覗き込んでみたが、その姿は見当たらない。代わりに、窓際でお喋りに興じていたらしい女子生徒数人が、息を飲みながら悲鳴をあげた。
「きゃあ! JOJO!? JOJOが二年生の教室に!!」
「うそ、やだぁ! メイク直しておけばよかった……!」
彼女たちは色めき立ちながら、呼んでもいないのにすぐさま駆け寄ってくる。
「も、もしかして、花京院くんですか?」
「花京院くんなら、HRが終わってすぐに帰って行ったみたいですけど」
「あたしも見ました! 一番に教室を出て行ったもの!」
承太郎と花京院がよくつるんでいることは、この学校では有名だ。承太郎がその名を出すまでもなく、女子生徒たちから情報がもたらされる。それだけ聞ければ、もうここに用はなかった。ありがとうよと短く礼を言い、踵を返そうとした承太郎だったが「ひょっとして」という言葉に、動きを止めた。
「花京院くん、今日も小林のところじゃない?」
一人がそう言うと全員が表情を曇らせて、嫌そうに顔を見合わせる。
「それありえる。なんかアイツ、やたらと花京院くんがお気に入りっぽいよね」
「そうそう! しょっちゅう準備室に呼び出してるみたいだし」
「準備室に……?」
ぴくりと、承太郎の片眉が動く。大して印象に残っているわけではないが、小林というのは、確か春から非常勤としてこの高校に赴任した、国語教師だったか。
「そうなんですよぉ! あいつ、花京院くんが優しくて断れないからって、しょっちゅう放課後に雑用押し付けて!」
「しかもさぁ、あいつ授業中、たまにセクハラしてない?」
「してる!! こないだの小テストのときも、さりげなく前髪触ってたの見たし!」
「キモすぎ……花京院くんが可哀想……」
セクハラ、放課後の雑用。どれも初めて聞かされるものだった。しかも花京院の口からではなく、クラスメイトの女子から間接的に、だ。
もちろん、あの花京院が自ら進んで話したがるとは思えない。強がりで、甘え下手で、変に水臭いところがあることも。その歯痒さが悩ましい。自身に向けられる感情に、やたらと鈍いところも危なっかしいのだ。
小林という教師に関する聞き捨てならない話に、承太郎の中では沸々と怒りがたぎりはじめていた。けれど同時に、なるほどと納得もしている。
ときどき感じる、嫌な視線。気づくのは決まって花京院とふたりでいる時だ。すぐに察知して注意深く辺りを探っても、まるで煙のように実態を掴むことはできないでいた。しかしこの分だと、正体は小林だったと考えて間違いはなさそうだ。
それから、もうひとつ。承太郎の中で、とある『ピース』がカチリとハマる――。
承太郎は今度こそ女子生徒たちに背を向けて、学ランの裾を翻しながら廊下を大きな歩幅で歩きだした。帽子の鍔に隠れた額には、青筋が立っている。ドス黒い怒気を帯びる姿に、居残っている生徒が小さな悲鳴をあげ、怯えた小動物のように廊下の隅に身を寄せる。
思うことは幾つもあるが、今は一秒でも早く花京院を捕まえて、傍に置くことが第一だ。そうしなければ安心できない。正門で感じていた、妙な胸騒ぎが増していた。
だから言ったのだ。もっと自覚しろと。思っていた通り、妙な虫がくっついていたではないか。
(やれやれ、全く舐めた真似してくれるぜ)
何より許せないのは、自分以外の男が花京院に触れたということだ。例え指一本でも、決して許せることではない。承太郎は嫉妬深いのだ。子供じみた独占欲の塊でもある。花京院の手前、なるべく抑えてはいるが。
とにかく小林という国語教師は、見つけ次第ぶちのめしてやることに決めた。二度と妙な気が起こらないようにしてやると。
しかし女子生徒たちからの情報をもとに、一階の国語準備室へ向かう承太郎は、このときすでに事態が最悪の方向へ向かっていることに、まだ気づいていなかった。
*
水底からゆっくりと時間をかけて浮かび出るように、意識が浮上した。滲んでいた視界が時間をかけて、鮮明さを取り戻す。
薄ぼんやりとした部屋。最初、それが天井だと気づくには時間がかかった。
(なんだ、これ……?)
まだどこか鈍い思考が、徐々に動きだす。理解した瞬間、息を飲んだ。
天井一面に張り巡らされた、自分の姿。クラスメイトと談笑しているもの、中庭で読書をする姿、体操着で校庭を駆けている光景。学校のあらゆる場所で隠し撮りされたと思しき花京院の姿で、隙間なく埋まっている。小さなものから、拡大されたものまでびっしりと。そしてそれらは、天井だけでなく壁や窓に至るまで、狂ったように貼りつけられていた。
「ッ、ぅ!」
思わず震わせた肩の関節が、鋭く痛んだ。花京院の脳は自分がどこか狭い部屋の、ベッドの上に仰向けで転がされていることを、ようやく理解する。まともに声が出せないことも。両手は後ろ手に、両足首は揃えて、それぞれガムテープでグルグル巻きにされていた。ご親切に、それは唇にもベッタリと貼られている。どれほど身を捩りながら力を込めても、引き千切ることは不可能だった。
一体ここはどこだ。少なくとも、学校ではない。淀んだ空気。湿気にほのかな酸味を帯びたような臭い。暴力的なまでに激しく高鳴る鼓動に胸を上下させ、どうにか冷静さを手繰り寄せようとする。
首だけを動かして、視界を巡らせた。部屋の中は写真によって窓さえも塞がれているせいで、おおよその時間すら把握できない。花京院は薄ぼんやりと室内を照らす、その光源を目で追いかけた。机の上に置かれた小さなデスクライトから、白い光が放たれている。デスクトップ型のパソコンが、そのディスプレイに晴れた空と緑の高原を映し出していた。しかし、その中で最も花京院の目を引いたのは、パソコンの脇に置かれている、白いアザレアの鉢植えだった。
――あなたに愛されて幸せ。
人工的な淡い光だけが頼りの部屋で、アザレアは萎れかけた花弁から、青白い光を放っていた。全身の毛が逆立つような感覚を味わいながら、目を見開く。ここは、あの男の部屋なのか……。
「おはよう、典明」
そのとき、頭上から覗き込むようにヌッと丸い顔が現れた。咄嗟に息を飲み、身を強張らせる花京院に、男が薄ら笑いを浮かべる。
――小林。
国語準備室で見た、あらゆる光景が一瞬にして蘇る。ロッカーの前で膝をついていた自分は、あのとき何か薬品のようなものを嗅がされた。そこから今に至るまでの記憶がない。
一連のことを含め、一体なんのつもりであるかを問いたくとも、塞がれた唇ではガムテープ越しに低い呻きが上がるだけだった。
どこか忙しなく口呼吸を繰り返す小林が、ぐっと顔を近づけてくる。吐きだされる息が皮膚にかかるのを避けるために、花京院は咄嗟に顔を背けようとした。しかし、ずんぐりとした手に顎を掴まれ、それは叶わなかった。
「やっと、ようやく……ふ、ふたりきりになれたね……」
小林はひどく汗ばみ、眼鏡のレンズをうっすらと曇らせていた。引き攣った表情で目を見開く花京院を、恍惚とした表情で見つめながら言う。
「た、大変だったんだよ。ここまで連れてくるの……君、けっこう重たいんだ……大型のボストンバッグにはスッポリ入ったけど、車に乗せるまでにだいぶ引きずってしまったから……」
もう片方の手が伸びてくる。花京院の頭部にべったりと触れて、しきりに髪を掻き乱す。
「痛いところはない? ところどころ、痣ができているかもしれない……ご、ごめんね」
「ッ、ぅぐ、う、うぅーッ!」
やめろ、触るなと、そう叫んだつもりで言葉にできない。全身に痛いほど鳥肌が立つ。花京院はどうにかして拘束を解こうと、必死で身を捩った。最悪だ。みすみす捕えられ、こんな場所に連れて来られてしまった自分が情けなくて、許せない。悔しさに奥歯を噛み締める。
「だ、ダメだよ典明。う、嬉しくてはしゃぐ気持ちは分かるけど、まだ、自由にはしてあげられないんだ」
薄く曇った眼鏡越しに、小林の黒い瞳が虚ろに穴を開けているように見える。荒れた唇は笑みを形作ってはいるけれど、その目は笑っていなかった。
「典明はここで、これからずーっとずっと、僕とふたりだけで暮らすんだから。さ、最初は、躾が肝心なんだ」
花京院は殺意にも似た衝動で、小林をきつく睨み付けた。せめて自由に声さえ出すことができたなら、この男に思いつく限りの罵倒を浴びせてやることができるのに。そんな花京院を見て、小林はわざとらしく残念そうに「あ~あ」という声を漏らした。
「そんな目をして……き、君はこんな子じゃなかったはずなのに……だから僕は言ったんだ……あんな人間のクズとは付き合うなって。君には似つかわしくないって。いくら僕の気を引くためだからって、やっていいことと悪いことがあるよ」
何を言っているんだこいつは。クズはどっちだ。一緒に暮らす? 躾が肝心? こいつの気を引くために、自分が何をしたって……? 承太郎を愚弄するだけでなく、妄想や思いこみも甚だしい言葉の数々に、あの手紙の一方的な内容が頷ける。どうすればこれが喜んでいる人間の反応に見えるのだろう。堪らずゾッとした花京院は渾身の力を振り絞り、自由のきかない身体をバネのようにしならせると、ベッドの端に身を寄せた。膝を立て、スプリングの反動を利用しながら、腹筋の力で半身を起こす。自分の写真が折り重なるように張り巡らされた壁に、これでもかというほど身を寄せた。しかしせっかく僅かにでも開いた距離が、ベッドに乗り上げる小林によってすぐに縮んだ。
彼は両腕を大きく広げ、両膝でのこのこと近づき、花京院を追い詰める。
「お、怒ってないから、怖がらなくていいよ。ぼ、僕は優しいから、かか、可愛がってあげる」
肉厚な身体と、無機質な壁によって挟まれる。どうにかして腕の拘束だけでも解こうと試みるが、グルグル巻きのガムテープは捻じれて紐状になり、手首に食い込むばかりで緩むことはなかった。
そのとき、身を守るように立てていた膝付近に、何かが当たるのを感じた。ぎょっとして見れば、膝立ちでいる小林の股間がやけに膨らんで、布を押し上げているのが見えた。
「ッ!!」
全身の血が、一気に引いていくような気がした。強張った身体を本能的に震わせ、息をつめる花京院に、小林はひどく興奮した様子で、さらに息を荒げた。
「のり、の、典明に、僕の勃起ちんちん、み、見せてあげる。ほら、ほら」
小林は花京院の正面に仁王立ちになると、忙しない手つきでズボンの前を寛げた。下着ごとズルリと下ろし、一気に両足を引き抜いてしまう。
「ほら、ほら、これがおちんちん! 大人の勃起ちんちんだよ! 典明のことを考えるだけで、い、いつもこんな風になるんだよ!!」
腰をずいずいと前後に振りながら、小林は花京院の顔に勃起した性器を押し付けようとする。赤く腫れたようなそれは先端が湿り気を帯び、頼りないライトの灯りにテラテラとした光を放っていた。嫌な臭いが立ち込めて、吐き気と生理的な涙が滲んで止まらない。四肢が冷える。頭が混乱して、身体が思うように動かなかった。本能的な恐怖が花京院を飲み込む。
「ううぅッ! うぐぅーーッ!!」
言葉にならない悲鳴をあげて、花京院はきつく目を閉じると顔を背けようとした。しかし小林の手がひと房だけ長い前髪を巻き込むようにして、乱暴に掴みあげてくる。ぐっと上向かされ、引き攣った表情で硬直する花京院の目の前で、小林はもう片方の手で勃起した肉棒を扱きはじめた。
「はぁ、はぁ、はぁッ! 典明ほら! ほら見て! アッ、ぁー、気持ちいい! あぁっ、ア――ッ!!」
(いやだ、やめろ……やめてくれ……ッ!!)
「ッ……――ッ!!」
花京院の悲痛な胸のうちも虚しく、小林が腰を跳ねさせた。性器の先端から黄ばんだ体液が放出され、花京院の髪や頬、ガムテープ越しに唇を濡らしていく。
鼻をつまみたくなるほどの臭気。どろりとしたものが、髪から頬にかけてのラインを伝う。花京院は蒼白な顔で呆然とし、無意識のうちに首をゆるゆると振った。濡れたガムテープが剥がれかけ、中途半端にぶら下がったような状態になる。かろうじて声が出せるまで剥がれ落ちても、どうしてか言葉が出てこない。
「あぁー、出ちゃった……ごめんね、ごめんね典明。でもほら、まだこんなに元気だから、次はちゃんと食べさせてあげるからね」
小林のものは、大量の精液を吐きだしてもなお勃起している。花京院は壁から引き剥がされ、シーツの上に仰向けで転がされた。すかさず馬乗りになった小林は鼻息を荒げ、汗ばんだ手を花京院の両胸に這わせた。痛いほど掴み上げ、寄せては上げる動作で力いっぱい揉みしだかれる。
「い……ッ、痛ッ、ぅ……や、め……!」
「はあぁ典明のおっぱい……男の子なのに、大きくてお椀みたいに張りがある……えっちだなぁ……すっごく、えっちだ……」
もどかしくなったのか、小林の手が制服の前にかかった。合わせ目に指をかけ、ブチブチと音を立てながら引き裂いてしまう。ワイシャツも同じように乱暴に裂かれて、ボタンが幾つも飛び散った。姿を現した花京院の白い胸を見て、小林は大きく震える息を漏らす。飛びつくように覆いかぶさり、両手で胸を痛いほど揉まれながら頬ずりをされた。この男は力加減というものを知らないのか。ギザギザとした爪が皮膚に食い込み、さらに痛みが走る。小林は寄せることでできた胸の谷間に鼻を埋め、息を大きく吸いこんでは吐きだした。
「ふうぅ~~ッ、はぁぁ……あ、はぁ、はぁぁ……い、いい匂い……いい匂いがするよぉ」
「やめ、ろ! もう、触るな……ッ!」
信じたくない。これは悪夢だ。承太郎にしか許していない身体を、好きでもない男の手が這いまわる。臭い。汚い。気持ち悪い。いっそ死んでしまった方がマシだ。
花京院は異様なまでの寒気に激しく身を震わせる。大きく首を左右に振り「きもちわるい」と、掠れた声を絞り出した。するとその言葉に小林がピクリと反応し、ゆらりと顔を上げる。そこに笑顔はなく、真っ黒な瞳はどこを見ているか分からないほど、虚ろだった。そして次の瞬間、左頬に石を打ち付けられたような衝撃を受けた。
「ッ……!!」
殴られたのだと気づいたときには、口の中に鉄の味が広がっていた。目の前がチカチカと点滅している。唇の端が切れ、左頬が一気に熱をもち、じりじりと焦がすような痛みが込み上げる。小林は花京院を殴った拳を大きく震わせながら、顔を真っ赤にして憤怒の表情を浮かべていた。そして、花京院の喉を両手で力いっぱい締め上げはじめた。
「ぐぅッ、ぅ、ぁ゛……ッ!!」
「誰に向かって……誰に向かって言ってるんだ!! 僕のどこが気持ち悪いだって!? お前までそんなことを言うのか!? くだらないでたらめを言いやがって! 僕に愛されたいなら素直にそう言え!! ちゃんと言え!! アイシテルって言えッ!!」
(……こいつ、本気でイカれてる)
意識が遠のくのを感じながら、改めてそう思う。唾を飛ばしながら怒鳴る小林は、学校で見せる気弱そうな態度とは、大きくかけ離れていた。まるで癇癪を起した子供のようだ。しかし花京院の身体から徐々に力が抜けていくのを見て、ハッとした表情を見せた。
「ごごご、ごめんよ、こんな酷いことするつもりなんかなかったんだ。ごめんね、ああぁ神様、僕はなんてことを! 可哀想に……ごめんね、苦しかっただろう?」
小林は花京院の首から手を離し、みるみるうちに腫れていく頬をしきりに撫でた。よく見せてと言って、唇の脇に中途半端に張り付いているガムテープを、一気に剥がす。花京院はその痛みに顔を顰めると同時に咳込んだ。口端に赤いものが伝う。
「こんなに血が出て……勿体ない……」
小林はそれをすかさず指先で拭うと、べろりと舐めた。ぞわりと総毛立つ。声が出せるようになったら、言ってやりたいことが山ほどあったはずなのに、必死に酸素を取り込もうとするばかりの喉からは、何ひとつまともに言葉が出てこなかった。
「わかってるよ。典明が悪いんじゃない。あんな不良の傍にいつまでも置いておいたせいで、悪い影響を受けてしまっただけなんだよね。僕がもっと早くこうしてやっていれば……怖かったよね。可哀想に……」
花京院の頬を優しく撫でながら、小林は「だけどもう安心だよ」と言った。
「典明はここで、僕と死ぬまで幸せに暮らせるんだよ。元気な赤ちゃんもいっぱい産まなくちゃ」
「なに、言って……?」
「ほらここに」
「ッ!?」
小林は花京院の上から退き、その身体を乱暴な動作であっという間に引っくり返す。伏せの形になることで、ずっと下敷きになっていた両手が痺れ始めた。腰を掴まれ、ぐっと持ち上げられると、尻だけを高く突きだすような姿勢を取らされる。
「な……ッ!?」
「ここに僕のおちんちんを挿れて、赤ちゃんの種をいっぱい注いであげるんだ」
小林の両手が尻にかかり、ほぐすように揉みしだかれる。花京院はただただ怖気だっていた。この男が何を言っているのか分からない。分かりたくもない。これから何をしようとしているのかも。
「女の子がいいなぁ。君に似て美人で、僕に似て頭のいい、優しい子になるよ」
「さっきから、なにを言ってるんだ……?」
あの手紙にも、そんなようなことが書いてあったのを思いだす。早くあなたとの子供が欲しいと。しかしあれは送り主が女性であるという印象を、確信に近づけただけだった。自分が犯人であることを悟らせないため、あえて装っていたのではなかったのか。あんな頭のおかしいことを、この男は本気で綴っていたというのか。しかも、子供など産めるはずがない花京院を相手に。
小林は剥き出しの性器を花京院の臀部に押し付ける。まだ裸に剥かれているわけではないが、布越しにその感触がいやというほど伝わった。
「やめろ! そんな汚いもの、押し付けるなッ!!」
「こ、これで、典明の中いっぱい突いてあげる。赤ちゃんの穴、ゴリゴリしてあげるね」
「ぼくは男だ……子供なんか、できるわけ……ッ」
「大丈夫。だって、典明はこんなにえっちな身体をしてるんだもの。赤ちゃんくらい、きっとすぐに産めるようになるよ。ほ、本当はね、典明がもう少し大人になるまで、待っててあげようと思ってたんだよ? なのに君が我儘だから、特別にしてあげるって言ってるんだ。う、嬉しい? 典明はママになるんだよ。うう、嬉しいでしょ?」
だめだ。やっぱりこいつは狂っている。言っている意味がなにひとつ理解できなかった。小林は逃れようと身を捩る花京院の腰をしっかりと掴み、制服越しに反り返った性器を何度も擦りつけてくる。忙しなく腰をゆすり、何度も何度もそうされるうちに、大量の先走りで臀部が湿りはじめるのを感じた。
「ああぁ、あ~~……ッ、典明のお尻、気持ちいいッ! 体操着でシコるより気持ちいいッ! 早く挿れたい! 典明の中、ぐちゃぐちゃに掻きまわしたいッ!!」
「ぅ、え……ッ」
いよいよ胃から何かが競りあがってきた。花京院は激しくえずきながら、目尻にじわりと涙を浮かべる。そんな反応もおかまいなしに、小林は花京院の腰にしがみつくようにしながら、ウエストに手をかけた。腹のあたりで金属が擦れあうような音がして、ベルトを外されているのだと気がつく。なんとか阻止しようと腰を捩ると、小林がブヒィと笑った。
「典明も、早く欲しくて仕方ないんだね。こんなにいやらしく腰を振って……待ってね、いま脱がせてあげるからね」
「や、め……ろ……ッ、嫌だ、絶対に、おまえのなんか……ッ!!」
「典明の綺麗なケツまんこに、僕のちんちん挿れて孕ませてあげるからね。赤ちゃんできるまで、何度も何度もズボズボしてあげるからね。愛してるよ典明、僕の典明!」
おぞましさと絶望感に、身が竦みあがる。逃げられないのだろうか。このままどうにもできずに、手籠めにされてしまうのか。ふと、承太郎の顔が脳裏に浮かんだ。
(いやだ……こんなの嫌だ……承太郎……ッ!!)
助けてくれ、という言葉を、どうにか飲み込んだ。悔し涙が後を絶たない。承太郎はここには来ない。彼はスーパーマンではないのだ。こんな場所まで都合よく来てくれるなんてありえないことだし、なによりそれを言ってしまったら、暴力に屈しようとしている自分を認めるようで、嫌だった。意地を張っても意味なんかないことは分かっている。花京院がどう足掻こうとも、こうして両手足を縛られて、不様に犯されようとしているのが現実だ。
こんなことなら、殺された方がずっとマシだった。さっき、首を絞められたときに死んでいれば。
小林の手が内腿に触れ、股を割り開くようにしながら、下着ごと制服のズボンをズリ下げようとする。そこで糸が切れたように、花京院は叫んでいた。
「嫌だッ……承太郎……ッ!!」
そのとき、ドン、という大きな音がした。
「ッ――!?」
小林が手を止め、息を飲みながら顔を上げる。彼の視線は部屋の出入口に釘づけになっていて、花京院もそれを咄嗟に目で追いかけた。
音は、写真まみれになっている扉の向こうからしていた。堂々とした足音を響かせながら、気配が近づいてくるのを感じる。やがて、再び大きな音を立て、扉が破られた。
「邪魔するぜ」
「承太郎!?」
ポケットに両手を突っ込んだ承太郎が姿を現す。花京院はその夢のような光景に目を見開き、その名を呼びながら半身を起こした。来てくれた。承太郎が。なぜだとか、どうしてだとか、疑問は全て後回しだった。情けないが、安堵から涙が浮かび、全身から力が抜けていくようだった。
承太郎は視線だけを花京院へと走らせた。拘束され、頬を腫らし、制服まで引き裂かれている様に小さく舌打ちをする。それから、真っ直ぐに小林を見据えて、射貫くように目を細めた。
「ヒッ、ヒイィッ!?」
ヌシヌシと大きな歩幅で踏み込んできた承太郎に、下半身を露出したままの小林が腰を抜かし、ベッドから転げ落ちる。そのまま引っくり返ったような状態で壁際まで逃げていき、ひどく怯えた様子で全身を震わせた。承太郎が小林の目の前で足を止める。
彼は何も言わない。ただ、その目は薄暗い中にあってもハッキリと分かるほど、怒りに燃え滾っていた。これが本物の殺気だといわんばかりに、空気を凍てつかせる。花京院は無意識に喉を鳴らした。
「な、な、なんで、なんでおまえがここにぃ……ッ!?」
小林が承太郎を指さしながら、裏返った声を絞り出した。瞬間、部屋の中にツンと鼻をつく悪臭が漂う。カエルのように大きく開かれた短い足の間で、小林は失禁していた。
承太郎は問いに答えることなく、肉厚な唇を小さく震わせ、息を漏らす。
「ひとつ聞くぜ」
「あ、あわ、あ、ぁ」
「おれ宛てに妙な手紙を送りつけてきてたのは、てめーか?」
「手紙……? 承太郎、それはなんのことだ?」
彼の口から発された言葉に、花京院は首を傾げる。
「死ね、消えろ、クズ野郎……いや、ゴミ野郎だったかな」
一ヶ月ほど前から、差出人不明の手紙が自宅に届くようになったのだと、承太郎は吐き捨てるように続けた。花京院の元に手紙が届くようになったのも、ちょうど同じころだ。
あまりにも幼稚な雑言に、国語教師が聞いて呆れる。
「さっき偶然2年生の教室で、てめーが花京院に付き纏ってるって話を聞いたもんでよ。おかげでピンと来たぜ。パズルのピースがハマるみてえにな」
花京院が小林を見ると、彼は歯の根を鳴らしながら目を泳がせていた。それだけで、十分な肯定だった。
「だって、だって……邪魔だったんだ……」
小林の目からボロボロと涙が零れはじめた。悔しそうに顔を歪めながら、大きくしゃくりをあげている。
「お、お前みたいな不良が! 僕の典明と釣りあうわけがないんだッ! 僕らは愛し合ってる! お前が入り込む隙間なんかないんだッ!! の、典明も、こいつに言ってやれ! 今すぐここから出て行けって! 僕らの邪魔をするなってッ!!」
顔を真っ赤にして喚き散らす小林に、承太郎が鼻で笑った。
「ほーう? 愛し合ってる、か。初耳だぜ花京院。てめー、趣味わりぃな」
「じょ、冗談はよしてくれ! そんなの、そいつの勝手な妄想に決まってるだろ!」
「だとよ、先生」
「ヒイイィィッ! やめろ! やめてぇっ!」
「人のもんに勝手に手ぇ出したらどうなるか、ママに教わらなかったか?」
承太郎が小林の胸倉を掴んだ。そのまま持ち上げられると、手足をバタつかせながらもがき苦しむ。小林は泣きながら、何度も「助けて」と叫び、花京院の名前を呼んだ。
この男が、一体どんな理由で勘違いをして、妄想に取り憑かれてしまったのかなんて、花京院にはどうでもよかった。顔をうつむけ、小さく息を漏らす間に、何かが砕けるような鈍い音が何発も響いた。
顔をあげると、小林は床に蹲って震えていた。承太郎が片膝をつき、その薄い頭を掌で一掴みにする。まるでバスケットボールでも掴み上げるように、その頭を持ち上げた。膝立ちになった小林は鼻や口から血を噴きだし、前歯が数本、欠けていた。
「ウヒイィッ! も、もう、殴らないでくらひゃいィッ!!」
「……次はこんなもんじゃあ済まねえぜ」
覚えときな、と小林の耳元で囁かれた声の低さに、薄ら寒いものを覚える。承太郎が手を離すと、小林は床に丸く伏せてか細く泣きはじめた。
「花京院」
承太郎はそんな小林には見向きもせず、ベッドの上でへたり込んでいる花京院の元へやって来ると、手を伸ばした。両手足の拘束が、いとも容易く引き千切られる。
「ありがとう、承太郎……助かりまし、ッ、痛!」
「殴られたのか」
言い終わらぬうちに、承太郎の手が顎にかかって上向かされる。花京院の腫れた頬や切れた口の端、首に残った締め痕などを見て、承太郎が奥歯を噛み締める音が聞こえた。突き刺さる視線から顔を背け、花京院はその手首を掴むと自分の顔から遠ざけると、制服の袖で顔を拭いながら言った。
「……すまない、汚れてるんだ。だから、近づかないで」
髪も顔も、制服ですら、小林が放った精液でドロドロに汚れきっている。これでは承太郎まで汚れてしまう。臭いだって酷いものだ。こんな身体で、触れてほしくはなかった。
平静を装いながら、それでも指先が震えていることくらい、きっと承太郎にはバレている。だからなおのこと、花京院は何か言いたそうにしている承太郎を、なんでもないような素振りで見上げる。
「それより君、よくここが分かったな」
「……準備室に、てめーの鞄が落ちてんのを見つけた」
学校で幾つものピースを手に入れた承太郎は、無人の国語準備室に花京院の鞄だけが放置されているのを見て、すぐに職員室に乗り込んだのだと言った。そこで教師の静止を振り切り、職員名簿を見てこの場所――アパートらしい――の住所を突き止めるに至った。自転車置き場に停めてあったオートバイをちょっぴり拝借して、ここまで飛ばしてきたのだと。
小林が花京院を自宅に連れ込んだのは、不幸中の幸いだった。これがもしホテルなど、特定が難しい場所であったなら、今ごろはあのまま……。
花京院は思わず両腕で自分の身体を抱きしめた。大きく身震いをして、震える息を吐きだす。とにかくもうここにはいたくないと思った。小林は変わらず壁際で丸くなっている。これ以上、同じ空気を吸うのは我慢の限界だ。すると承太郎の手が、そんな花京院の腕を掴み、ぐいと引き上げた。
「うわッ! じょ、承太郎……ッ」
「帰るぜ」
ずっと血液の流れをせき止められていた両手足は、電流を流したように痺れて感覚がなかった。床に足をつけた途端にカクンと膝を折った花京院を、屈強な腕が抱き上げて、軽々と肩に担いでしまう。
「お、おい! ぼくに触ると、君まで!」
「うるせえ」
「ッ!」
低く威嚇するような声に、身動きが取れなくなった。承太郎は怒っている。そんなのは当たり前だ。隙が多いとか、自覚しろとか、今の今までまともに取り合おうともしなかった。承太郎に言われても、ただ眉を顰めて否定するばかりだったのだ。
こんなこと、早々あるはずがない。あってたまるか。だけどこれは、承太郎の心配を無下にし続けてきた結果でもあるような気がして、花京院はただ下唇を噛み締め、その肩や背に爪を立てることしか、できなかった。
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雨の放課後、誰もいない二年生の教室で、僕はひとり自慰に耽っていた。
「はぁ、はぁ……うぅ、のりあき……のりあきぃ……はふ、はふぅッ」
いつもは彼が澄ました顔をしてついている席に腰かけ、露出した性器を体操着のシャツごと右手で掴みながら、忙しなく扱き上げる。机の上にハーフパンツやジャージ一式を置き、左腕で掻き抱くようにしながら頬ずりをした。手には上靴を掴み、これでもかというほど強く匂いを吸いこんだ。
先走りと汗が滲んだ柔らかな綿の感触が、性器に絡みつくたびに快感が競りあがる。典明が毎日のように履いている上靴。体育の授業中に着ている体操着。汗を吸いこんでもなお、どこか清潔感を漂わせるその香りに、僕は興奮のあまり無我夢中で行為に没頭した。
――んッ、ふ……ッ、ぁ
頭の中には、何度も繰り返し彼の濡れた吐息が再生されている。舌と舌とが擦れ、絡まり合う鈍い水音が、何度も何度も。
募る愛しさに怒りや憎しみがないまぜになって、頭がおかしくなりそうだ。
今日の準備室での逢瀬のあと、僕はすぐに彼を追ってこの二階の教室へ来ていた。なぜあの心優しい少年が、あんなどうしようもない不良を庇うようなことを言ったのか。僕はそれを確かめなければならないと思ったからだ。彼はとても怒っているように見えたけれど、きっと何か理由があるはずだと。もしかしたらあの不良から僕を守るため、遠ざけようとしてあんな見えすいた演技をしたのかもしれない。可哀想に。顔色も悪かったし、いつもより、身体も強張って見えた。
だからすぐにでも彼を追って、何も心配しなくていいのだと伝えたかった。もし彼が泣いてしまうようなら、今日だけは抱きしめてやってもいいと。
なのにそこで、僕は衝撃的なものを見てしまった。階段を上り、廊下の角を曲がってすぐにある、この教室で。
典明は、あの不良と、キスをしていた。
信じられなかった。僕はあまりのショックに、思わず踵を返して廊下の角に身を隠してしまった。そのまま覗き込む気にはなれず、ただ意識を集中させて聞き耳を立てた。やっぱり僕の予想通り、彼は金銭を要求される以上のことを、JOJOに強いられていたのだ。そう思った。
だけど、何かが違うような気がした。
典明が出す、耳を疑うほどの甘い吐息。淫らな水音。そこに抵抗の色は全く見えなかった。それ以上は聞くに堪えず、僕はその場を離れると足早にもと来た階段を下りた。その間も、一瞬だけ見てしまった、身体を密着させて口づけを交わすふたりの姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。JOJOの制服を縋りつくように掴んでいる典明の白い手。その腰に回る、太い腕。互いの口内を、角度を変えながら貪る唇や頬の動き。あれでは、まるで。
恋人同士のようではないか――。
(違う!!)
僕は性器を擦る手の動きは止めないまま、ギリギリと歯ぎしりをした。目の前が、頭の中が真っ赤に染まる。
僕の典明が、あんな真似をするはずがない。僕という最愛の恋人がいながら、他の男に身を預けるなんて、絶対に。きっとJOJOに脅されて、仕方なく従っているに決まっている。あるいは、僕にあてつけているとか? 僕の気を引くために? それほどまでに、彼はこの僕を求めて、孤独に耐えきれなくなっている……?
(なんだ……そういうことか……)
僕は上靴に埋めた唇を、笑みの形に歪める。
それなら全て納得がいく。典明はJOJOに強要されているのをいいことに、それを利用して自分の寂しさを和らげようとしているのだ。きっとあの男に僕を重ねているに違いない。だったらもっと素直になればいいものを、わざわざ気を引こうとして、あんな演技までするなんて。いじらしいにも程がある。
だけど、その行為自体は決して褒められるものではない。だから子供ってやつは浅はかで面倒なんだ。やっていいことと悪いことの区別もつかないなんて、悪い子にはお仕置きをしてやらなくては。その心と身体が誰のものであるかを、きっちりと教え込んでやらなくては。
「典明、のりあきッ、愛してるよ……愛してるよ、のり、あ、きィ……ッ!!」
赤く染まっていた脳裏が、弾けた。真っ白い体操着の内部で、僕は大量の精液を放出する。ああ、なんて勿体ない。この一滴一滴は、本来なら全て典明の身体の中に注ぎ込んでやるはずのものなのに。あのきゅっと締まった小さなお尻の中に、僕の子種をいっぱいいっぱい、出してあげたい。
そろそろ限界だ。本当はもう少し待ってやるつもりでいたけれど。典明が我慢できないというのなら、仕方がない。これ以上、可愛いあの子がおいたをする前に。
僕は手にしていた上靴と、抱え込んでいた体操着一式を一緒くたにまとめると、それらに何度も頬を擦りつけ、舌を這わせながら笑った。
*
『花京院典明様
あなたは本当に酷いひとです。
私の気持ちを知りながら、試すような真似をするなんて。
だけど私はちゃんと分かっています。
あなたが私を愛するあまり、不安と孤独に苛まれていることを。
辛いですよね。でもそれは私も同じです。
私だって早くあなたと一緒になりたい。時が経つのも忘れて愛し合いたい。
今まではあなたのためを思って、ずっと耐え忍んできました。
けれどあなたも私も、そろそろ限界のようです。
お互いを愛する気持ちに、歯止めがきかなくなってきています。
だからもう我慢することをやめて、迎えに行くことに決めました。
ふたりで幸せになりましょうね。あなたの喜ぶ顔が、目に浮かびます。
追伸
早くあなたとの子供が欲しいです。最初は女の子がいいと思っています。
あなたと私にそっくりな、優しくて頭のいい子に育ってくれればいいのですが。』
*
――昨日も、気持ちが悪い手紙が届いた。
もう何通目になるか分からないそれに、花京院はいよいよ寒気を覚えた。いつもながらの一方的すぎる内容に、頭が痛くなる。むしろいつも以上に、気味の悪さを感じた。
一体この手紙の送り主は、どんな妄想にとり憑かれているというのだろう。自分が、何をしたというのだろう。追伸の内容に、やはり相手は女性であるという確信を強める。
それにしても気がかりなのは『迎えに行く』という一文だ。できればただのイタズラで、このまま済んでくれることを願っていたけれど。
(一体どこの誰の仕業なんだ……)
あの雨の日から数日後。
休みを控えた金曜日の朝、学校へと続く道をひとり黙々と歩きながら、考えるのは例の手紙に関することばかりだった。不快に思うばかりで、今まではそれほど深く考えようとはしていなかったのだが。
相手が何かしらのアクションを起こすつもりでいることを宣言された以上、流石に無視はできないような気がした。しかし同時に、こんな嘘か本当かも分からない内容に神経をすり減らすのも、バカバカしいことのように思えるのだ。いっそのこと来るなら来いと、強気で構えている自分もいる。その方が、むしろ手っ取り早くカタがつくのではないかと。
決して女性を軽視しているわけではないが、万が一何かあったとしても、対処のしようは幾らでもあるだろうと。
花京院はふっと息をつき、知らぬ間に刻まれていた眉間の皺を和らげる。視線をあげればスッキリとした朝の空模様に、少しだけ心が軽くなったような気がした。
そうしている間にも、いつも承太郎と落ち合う神社の鳥居が見えてくる。そこには真っ赤な柱に背を預け、脇に鞄を挟みながらポケットに両手を突っ込んでいる、承太郎の姿があった。
「おはようございます、承太郎」
密かに胸を弾ませながら声をかけた花京院に、承太郎は片手を上げて「おう」と答えた。うっすらと浮かべられた笑みに、胸に痞えていたものがすっかり溶けていく。
「今日はいつもより早いんじゃあないか?」
いつもは花京院の方が先に来て、女子生徒の群れを引き連れた承太郎を待つことの方が多かった。だからこうして承太郎に先を越されるのは珍しい。
「まあな。ゆうべは興奮して、なかなか眠れなかったからよ」
「興奮って……遠足前夜の小学生みたいだ」
「なんとでも言いな」
今日の承太郎は、ずいぶんと機嫌がよさそうだ。その理由に心当たりがある花京院は、気恥ずかしさについ、頬を赤らめてしまう。ふたり並んで長い石段を下りながら、花京院は少し落ち着かない気分で下唇を湿らせた。
明日からの土日の連休。もうじき結婚記念日が近い花京院の両親は、今日から土日にかけて、前倒しで二泊三日の旅行へ行くことになっている。つまり、今夜から花京院は自宅に一人きりなのだ。
こんな機会は滅多にない。だから昨日、思い切って承太郎を誘ってみた。泊りに来ないかと。もちろん、彼の答えはYESだった。
いつもは承太郎の家に、花京院が足を運ぶことがほとんどだ。しかしいくら大豪邸で部屋が離れているとはいえ、彼の母親の存在を無視することはできなかった。
だから正直、舞い上がっている。例の手紙のせいで水を差されたという感じは否めないものの、ふたりきりで誰にも遠慮せず過ごすのは、これが初めてのことだからだ。
(別に、だからっていやらしいことをするのが目的ってわけじゃあ、ないぞ)
付き合っている同士が週末の夜にふたりきり、となれば、自然とそういうことにはなるだろうが、何もそんなことばかりを考えているわけでは決してない。はずなのに、どうしてか自分に言い訳をしているみたいで、恥ずかしい気分だ。
けれどそうやって浮かれているのが自分だけではないのだと思うと、嬉しさもひとしおだった。
「あっ! JOJO! JOJOだわ!」
そのときだ。階段の中腹にさしかかっていたところで、背後から甲高い声が上がった。
「おはようJOJO! ねぇ待って! 一緒に行きましょうよ!」
「今日はずいぶん早かったのね! いつもの道にいないから、心配しちゃった!」
女子生徒たちが慌てた様子でわらわらと階段をおりてくる。静かだった朝のひと時も、これにて終了だ。軽く首だけを動かして後方を見やり、舌打ちをした承太郎に、花京院は肩をすくめて苦笑した。
「お姫様たちの登場だ。邪魔ものは先に行ってるとするよ」
「おい待て、花京院」
「それではまた、後ほど」
「このやろう」
顔を顰める承太郎より先に階段を数段おりて、花京院はちらりと振り返ると、少し悪戯っぽくフフッと笑いながら軽く手を振った。追い付いて来た女子たちに囲まれ、やかましいぞと牙を剥く様子に小さくふきだし、ひとり足取りも軽く学校へと向かう。花京院の意識は例の手紙からすっかり逸れて、ただ承太郎と過ごす週末にだけ、向けられていた。
しかしそんな自分の警戒心のなさを呪う羽目になろうとは、今の浮かれきった花京院は思いもしないのだった。
*
承太郎とは放課後、正門の前で落ち合う予定になっていた。
そのまま花京院の自宅へ向かう道すがら、夕飯の買い出しをして帰ることになっている。
出来合いのものを買っても構わないが、せっかくだし何か作るのもいいかもしれない。手の込んだ料理はできないが、多少は心得がある。適当に見て回りながら、献立を考えるというのも楽しそうだ。
そんなことを考えながら、花京院は帰りのHRが終わると学生鞄を手に教室を出た。すぐに下駄箱へは向かわず、まずは一階の図書室へ足を運ぶ。もちろん、小林に用を頼まれたからではない。単純に、承太郎と顔を合わせる前に借りていた本を返却しようと思ったからだった。どのみち、もし頼まれたとしても今日はきっぱりと断るつもりでいるのだが。
そもそも数日前の、あの雨の放課後以来、小林は花京院にいっさい声をかけて来なくなっていた。少し強く言いすぎたかと思わなくもなかったが、授業中の妙なスキンシップもなくなったため、正直ホッとしている。
あれだけ連続して同性から告白を受けたあとだ。今にして思えば、やましい目で見られていた可能性がまるでないとは、言えないのかもしれない。そう考えるのは、少し自意識過剰だろうか。しかし承太郎に言わせれば、自分は隙とやらが多いらしいから。
いずれにしろ、放課後に煩わしい用を頼まれることもなくなり、結果オーライだった。
「よし、これでOKっと」
無人の図書室で、花京院は手にしていた本をカウンター脇に設置されていた返却箱に入れた。あとはさっさと靴を履き替え、正門で承太郎と合流すればいいだけだ。
ふわりと胸が浮き立つ自分に、今さらのように浮かれすぎだと少し呆れながら、図書室を出ようとした。が、その瞬間、乾いた音を立てて、隣接する準備室の扉が開かれた。
「あ、ああ、花京院くん。丁度よかった」
顔を覗かせたのは、小林だった。
おなじみのよれたスーツを着て、面積が広めの額にほつれた黒髪をひとすじ張りつかせた男が、片手を上げながら図書室に一歩、足を踏み出している。
花京院は心の中でひとつ、舌打ちをした。できれば当分はふたりきりで顔を合わせたくなかった人物だ。
内心で煙たさを覚えつつも顔には出さず、これまで通りやんわりと笑みを浮かべた。
「なんですか? 小林先生」
「こ、この間の小テストの答案なんだけど、ね、君、名前を書き忘れているよ」
「……え?」
そんな馬鹿なと、花京院は訝しげに眉を曇らせる。答案は、最後にしっかりチェックをしてから出したつもりなのだが。
しかしあの日は朝から上靴のことがあったせいで、少し気分が塞いでいた。確認したつもりで、うっかり見過ごしてしまったということは、あるかもしれない。
「そうでしたか。すみません」
「答案、机の上にあるから。書いてから帰って」
その程度であれば、一瞬で終わる。花京院は壁にかけてある時計をチラリと見やりつつ「わかりました」と返事をした。
「僕は、職員室に用事があるから。名前を書いたら、あ、あとは帰っていいからね」
そう言って、小林は図書室側から廊下へと出ていく。やはり必要以上に構ってはこない小林に、花京院はふっと息をつき、準備室へと足を踏み入れた。
相変わらずほこり臭くて狭い部屋には、窓に向かう形で小林の事務机が設置されている。お世辞にも片付いているとは言えない机の上には、教材の類やファイルなどが積み上がり、黒いノートパソコンが閉じた状態で置かれていた。その上に、白い用紙がある。
花京院は机に近づくと、その用紙を見て顔を顰めた。てっきり答案があるものとばかり思っていたのだが、そこにあったのは何も書かれていない、シンプルな白い便箋だった。
「……これは」
花京院の眉間に、小さな皺が寄る。これといって特徴のない、横書きの便箋。どこにでもあるような、よく見るデザインのはずなのに、なぜか違和感に近いものを覚える。それは既視感にも似ていて、とても嫌な感じがした。そして気づいてしまった。
――便箋を収めていた視界に、見覚えのある『色』が映る。
雑多に積み上げられているファイルと参考書に挟まる形で、若草色をした何かがはみ出していた。花京院は無意識に息を殺し、ゆっくりと、それに手を伸ばした。心臓がいやにうるさい。落ち着け。そんな馬鹿なことがあってたまるか。だって今までそんな可能性、一度だって考えたことなどなかったじゃあないか――。
指先で摘まみ、そっと引き抜く。冷たいものが一筋、背筋を伝った気がした。
「ッ……!」
それはあまりにもよく見慣れた、若草色の封筒だった。便箋を見た瞬間に覚えた嫌な感覚が、確かなものとなって心臓を貫く。その拍子に、持っていた鞄を思わず床に落としてしまった。
(こいつの仕業だったのか……?)
便箋も封筒も、決して特徴があるわけではない。何の変哲もない、ありふれたものでしかなかった。けれど、これと全く同じものを、花京院は今まで何通も受け取っているのだ。色形、質感、手にしたときの、やたらと指先が冷えるような感覚。全て、同じだ。
けれどあの手紙は、文章の雰囲気や言い回しが、あまりにも女性的なものだった。それはあえて自分と関連付かせないための、ポーズだったとでもいうのだろうか――?
『だからもう我慢することをやめて、迎えに行くことに決めました。』
ふと、昨日届いた手紙の一文を思いだした。真綿で緩やかに、それでいて確実に締め付けられるような、得も言われぬ不安が外側からじわりじわりと花京院の精神を包囲する。一気に足元から全身にかけて鳥肌が立ち、身震いをした花京院は、今すぐこの場を離れなければいけないと感じた。が、次の瞬間。
背後から、ガラガラと何かが崩れるような音がした。
「――ッ!?」
振り向くとそこには、準備室から直接廊下に出るための引き戸がある。そのすぐ横にある古めかしいロッカーが、なぜか開いていた。中から荷物が飛び出し、床に雪崩を起こしている。小林の上着と思しきものと鞄、幾つもの細長いスプレー缶が、軽快な音を立てて床に転がっていた。それらは制汗剤のようだった。そして、何やら膨らんだゴミ袋のような物体。
花京院は息を殺しながら、ロッカーへと一歩一歩、足を向ける。頭の中ではずっと派手にサイレンが鳴り響いていた。いいからさっさとここから出ろと。ここに居続ければ、きっとよくないことが起こる。なにより承太郎が、待っているのだからと。
それでもどうしてか、花京院の身体は信号を無視して勝手に動いていた。無意識に喉を鳴らす。雪崩を起こしているロッカーの前で、膝をついた。透明な袋の中に入っているものを見て、金属で頭部を殴られたような衝撃を受ける。
「これ、は……ぼくの……?」
声が震える。なくなっていたはずの体操着と、上靴。見るからに湿って、ビニールの内側に透明な水滴が散らばって見える。
呆然としながら、ただ耳鳴りのキンとした細長い音を聞く。それ以外、音のない世界に閉じ込められてしまったような閉塞感を覚えた。冷え切った手を恐る恐る伸ばして、ビニールに触れようとした。けれど震える指先がそれに触れる寸前。
――何かに、口を塞がれた。
「う、ぐッ……!?」
鼻から口にかけてを布のようなもので押さえこまれた途端、ツンとした薬品の香りに、これまで感じたこともないような激しい眩暈を覚える。しまったと、そう感じた瞬間には、花京院の意識は深い深い闇の底に、沈んでいた。
←戻る ・ 次へ→
「はぁ、はぁ……うぅ、のりあき……のりあきぃ……はふ、はふぅッ」
いつもは彼が澄ました顔をしてついている席に腰かけ、露出した性器を体操着のシャツごと右手で掴みながら、忙しなく扱き上げる。机の上にハーフパンツやジャージ一式を置き、左腕で掻き抱くようにしながら頬ずりをした。手には上靴を掴み、これでもかというほど強く匂いを吸いこんだ。
先走りと汗が滲んだ柔らかな綿の感触が、性器に絡みつくたびに快感が競りあがる。典明が毎日のように履いている上靴。体育の授業中に着ている体操着。汗を吸いこんでもなお、どこか清潔感を漂わせるその香りに、僕は興奮のあまり無我夢中で行為に没頭した。
――んッ、ふ……ッ、ぁ
頭の中には、何度も繰り返し彼の濡れた吐息が再生されている。舌と舌とが擦れ、絡まり合う鈍い水音が、何度も何度も。
募る愛しさに怒りや憎しみがないまぜになって、頭がおかしくなりそうだ。
今日の準備室での逢瀬のあと、僕はすぐに彼を追ってこの二階の教室へ来ていた。なぜあの心優しい少年が、あんなどうしようもない不良を庇うようなことを言ったのか。僕はそれを確かめなければならないと思ったからだ。彼はとても怒っているように見えたけれど、きっと何か理由があるはずだと。もしかしたらあの不良から僕を守るため、遠ざけようとしてあんな見えすいた演技をしたのかもしれない。可哀想に。顔色も悪かったし、いつもより、身体も強張って見えた。
だからすぐにでも彼を追って、何も心配しなくていいのだと伝えたかった。もし彼が泣いてしまうようなら、今日だけは抱きしめてやってもいいと。
なのにそこで、僕は衝撃的なものを見てしまった。階段を上り、廊下の角を曲がってすぐにある、この教室で。
典明は、あの不良と、キスをしていた。
信じられなかった。僕はあまりのショックに、思わず踵を返して廊下の角に身を隠してしまった。そのまま覗き込む気にはなれず、ただ意識を集中させて聞き耳を立てた。やっぱり僕の予想通り、彼は金銭を要求される以上のことを、JOJOに強いられていたのだ。そう思った。
だけど、何かが違うような気がした。
典明が出す、耳を疑うほどの甘い吐息。淫らな水音。そこに抵抗の色は全く見えなかった。それ以上は聞くに堪えず、僕はその場を離れると足早にもと来た階段を下りた。その間も、一瞬だけ見てしまった、身体を密着させて口づけを交わすふたりの姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。JOJOの制服を縋りつくように掴んでいる典明の白い手。その腰に回る、太い腕。互いの口内を、角度を変えながら貪る唇や頬の動き。あれでは、まるで。
恋人同士のようではないか――。
(違う!!)
僕は性器を擦る手の動きは止めないまま、ギリギリと歯ぎしりをした。目の前が、頭の中が真っ赤に染まる。
僕の典明が、あんな真似をするはずがない。僕という最愛の恋人がいながら、他の男に身を預けるなんて、絶対に。きっとJOJOに脅されて、仕方なく従っているに決まっている。あるいは、僕にあてつけているとか? 僕の気を引くために? それほどまでに、彼はこの僕を求めて、孤独に耐えきれなくなっている……?
(なんだ……そういうことか……)
僕は上靴に埋めた唇を、笑みの形に歪める。
それなら全て納得がいく。典明はJOJOに強要されているのをいいことに、それを利用して自分の寂しさを和らげようとしているのだ。きっとあの男に僕を重ねているに違いない。だったらもっと素直になればいいものを、わざわざ気を引こうとして、あんな演技までするなんて。いじらしいにも程がある。
だけど、その行為自体は決して褒められるものではない。だから子供ってやつは浅はかで面倒なんだ。やっていいことと悪いことの区別もつかないなんて、悪い子にはお仕置きをしてやらなくては。その心と身体が誰のものであるかを、きっちりと教え込んでやらなくては。
「典明、のりあきッ、愛してるよ……愛してるよ、のり、あ、きィ……ッ!!」
赤く染まっていた脳裏が、弾けた。真っ白い体操着の内部で、僕は大量の精液を放出する。ああ、なんて勿体ない。この一滴一滴は、本来なら全て典明の身体の中に注ぎ込んでやるはずのものなのに。あのきゅっと締まった小さなお尻の中に、僕の子種をいっぱいいっぱい、出してあげたい。
そろそろ限界だ。本当はもう少し待ってやるつもりでいたけれど。典明が我慢できないというのなら、仕方がない。これ以上、可愛いあの子がおいたをする前に。
僕は手にしていた上靴と、抱え込んでいた体操着一式を一緒くたにまとめると、それらに何度も頬を擦りつけ、舌を這わせながら笑った。
*
『花京院典明様
あなたは本当に酷いひとです。
私の気持ちを知りながら、試すような真似をするなんて。
だけど私はちゃんと分かっています。
あなたが私を愛するあまり、不安と孤独に苛まれていることを。
辛いですよね。でもそれは私も同じです。
私だって早くあなたと一緒になりたい。時が経つのも忘れて愛し合いたい。
今まではあなたのためを思って、ずっと耐え忍んできました。
けれどあなたも私も、そろそろ限界のようです。
お互いを愛する気持ちに、歯止めがきかなくなってきています。
だからもう我慢することをやめて、迎えに行くことに決めました。
ふたりで幸せになりましょうね。あなたの喜ぶ顔が、目に浮かびます。
追伸
早くあなたとの子供が欲しいです。最初は女の子がいいと思っています。
あなたと私にそっくりな、優しくて頭のいい子に育ってくれればいいのですが。』
*
――昨日も、気持ちが悪い手紙が届いた。
もう何通目になるか分からないそれに、花京院はいよいよ寒気を覚えた。いつもながらの一方的すぎる内容に、頭が痛くなる。むしろいつも以上に、気味の悪さを感じた。
一体この手紙の送り主は、どんな妄想にとり憑かれているというのだろう。自分が、何をしたというのだろう。追伸の内容に、やはり相手は女性であるという確信を強める。
それにしても気がかりなのは『迎えに行く』という一文だ。できればただのイタズラで、このまま済んでくれることを願っていたけれど。
(一体どこの誰の仕業なんだ……)
あの雨の日から数日後。
休みを控えた金曜日の朝、学校へと続く道をひとり黙々と歩きながら、考えるのは例の手紙に関することばかりだった。不快に思うばかりで、今まではそれほど深く考えようとはしていなかったのだが。
相手が何かしらのアクションを起こすつもりでいることを宣言された以上、流石に無視はできないような気がした。しかし同時に、こんな嘘か本当かも分からない内容に神経をすり減らすのも、バカバカしいことのように思えるのだ。いっそのこと来るなら来いと、強気で構えている自分もいる。その方が、むしろ手っ取り早くカタがつくのではないかと。
決して女性を軽視しているわけではないが、万が一何かあったとしても、対処のしようは幾らでもあるだろうと。
花京院はふっと息をつき、知らぬ間に刻まれていた眉間の皺を和らげる。視線をあげればスッキリとした朝の空模様に、少しだけ心が軽くなったような気がした。
そうしている間にも、いつも承太郎と落ち合う神社の鳥居が見えてくる。そこには真っ赤な柱に背を預け、脇に鞄を挟みながらポケットに両手を突っ込んでいる、承太郎の姿があった。
「おはようございます、承太郎」
密かに胸を弾ませながら声をかけた花京院に、承太郎は片手を上げて「おう」と答えた。うっすらと浮かべられた笑みに、胸に痞えていたものがすっかり溶けていく。
「今日はいつもより早いんじゃあないか?」
いつもは花京院の方が先に来て、女子生徒の群れを引き連れた承太郎を待つことの方が多かった。だからこうして承太郎に先を越されるのは珍しい。
「まあな。ゆうべは興奮して、なかなか眠れなかったからよ」
「興奮って……遠足前夜の小学生みたいだ」
「なんとでも言いな」
今日の承太郎は、ずいぶんと機嫌がよさそうだ。その理由に心当たりがある花京院は、気恥ずかしさについ、頬を赤らめてしまう。ふたり並んで長い石段を下りながら、花京院は少し落ち着かない気分で下唇を湿らせた。
明日からの土日の連休。もうじき結婚記念日が近い花京院の両親は、今日から土日にかけて、前倒しで二泊三日の旅行へ行くことになっている。つまり、今夜から花京院は自宅に一人きりなのだ。
こんな機会は滅多にない。だから昨日、思い切って承太郎を誘ってみた。泊りに来ないかと。もちろん、彼の答えはYESだった。
いつもは承太郎の家に、花京院が足を運ぶことがほとんどだ。しかしいくら大豪邸で部屋が離れているとはいえ、彼の母親の存在を無視することはできなかった。
だから正直、舞い上がっている。例の手紙のせいで水を差されたという感じは否めないものの、ふたりきりで誰にも遠慮せず過ごすのは、これが初めてのことだからだ。
(別に、だからっていやらしいことをするのが目的ってわけじゃあ、ないぞ)
付き合っている同士が週末の夜にふたりきり、となれば、自然とそういうことにはなるだろうが、何もそんなことばかりを考えているわけでは決してない。はずなのに、どうしてか自分に言い訳をしているみたいで、恥ずかしい気分だ。
けれどそうやって浮かれているのが自分だけではないのだと思うと、嬉しさもひとしおだった。
「あっ! JOJO! JOJOだわ!」
そのときだ。階段の中腹にさしかかっていたところで、背後から甲高い声が上がった。
「おはようJOJO! ねぇ待って! 一緒に行きましょうよ!」
「今日はずいぶん早かったのね! いつもの道にいないから、心配しちゃった!」
女子生徒たちが慌てた様子でわらわらと階段をおりてくる。静かだった朝のひと時も、これにて終了だ。軽く首だけを動かして後方を見やり、舌打ちをした承太郎に、花京院は肩をすくめて苦笑した。
「お姫様たちの登場だ。邪魔ものは先に行ってるとするよ」
「おい待て、花京院」
「それではまた、後ほど」
「このやろう」
顔を顰める承太郎より先に階段を数段おりて、花京院はちらりと振り返ると、少し悪戯っぽくフフッと笑いながら軽く手を振った。追い付いて来た女子たちに囲まれ、やかましいぞと牙を剥く様子に小さくふきだし、ひとり足取りも軽く学校へと向かう。花京院の意識は例の手紙からすっかり逸れて、ただ承太郎と過ごす週末にだけ、向けられていた。
しかしそんな自分の警戒心のなさを呪う羽目になろうとは、今の浮かれきった花京院は思いもしないのだった。
*
承太郎とは放課後、正門の前で落ち合う予定になっていた。
そのまま花京院の自宅へ向かう道すがら、夕飯の買い出しをして帰ることになっている。
出来合いのものを買っても構わないが、せっかくだし何か作るのもいいかもしれない。手の込んだ料理はできないが、多少は心得がある。適当に見て回りながら、献立を考えるというのも楽しそうだ。
そんなことを考えながら、花京院は帰りのHRが終わると学生鞄を手に教室を出た。すぐに下駄箱へは向かわず、まずは一階の図書室へ足を運ぶ。もちろん、小林に用を頼まれたからではない。単純に、承太郎と顔を合わせる前に借りていた本を返却しようと思ったからだった。どのみち、もし頼まれたとしても今日はきっぱりと断るつもりでいるのだが。
そもそも数日前の、あの雨の放課後以来、小林は花京院にいっさい声をかけて来なくなっていた。少し強く言いすぎたかと思わなくもなかったが、授業中の妙なスキンシップもなくなったため、正直ホッとしている。
あれだけ連続して同性から告白を受けたあとだ。今にして思えば、やましい目で見られていた可能性がまるでないとは、言えないのかもしれない。そう考えるのは、少し自意識過剰だろうか。しかし承太郎に言わせれば、自分は隙とやらが多いらしいから。
いずれにしろ、放課後に煩わしい用を頼まれることもなくなり、結果オーライだった。
「よし、これでOKっと」
無人の図書室で、花京院は手にしていた本をカウンター脇に設置されていた返却箱に入れた。あとはさっさと靴を履き替え、正門で承太郎と合流すればいいだけだ。
ふわりと胸が浮き立つ自分に、今さらのように浮かれすぎだと少し呆れながら、図書室を出ようとした。が、その瞬間、乾いた音を立てて、隣接する準備室の扉が開かれた。
「あ、ああ、花京院くん。丁度よかった」
顔を覗かせたのは、小林だった。
おなじみのよれたスーツを着て、面積が広めの額にほつれた黒髪をひとすじ張りつかせた男が、片手を上げながら図書室に一歩、足を踏み出している。
花京院は心の中でひとつ、舌打ちをした。できれば当分はふたりきりで顔を合わせたくなかった人物だ。
内心で煙たさを覚えつつも顔には出さず、これまで通りやんわりと笑みを浮かべた。
「なんですか? 小林先生」
「こ、この間の小テストの答案なんだけど、ね、君、名前を書き忘れているよ」
「……え?」
そんな馬鹿なと、花京院は訝しげに眉を曇らせる。答案は、最後にしっかりチェックをしてから出したつもりなのだが。
しかしあの日は朝から上靴のことがあったせいで、少し気分が塞いでいた。確認したつもりで、うっかり見過ごしてしまったということは、あるかもしれない。
「そうでしたか。すみません」
「答案、机の上にあるから。書いてから帰って」
その程度であれば、一瞬で終わる。花京院は壁にかけてある時計をチラリと見やりつつ「わかりました」と返事をした。
「僕は、職員室に用事があるから。名前を書いたら、あ、あとは帰っていいからね」
そう言って、小林は図書室側から廊下へと出ていく。やはり必要以上に構ってはこない小林に、花京院はふっと息をつき、準備室へと足を踏み入れた。
相変わらずほこり臭くて狭い部屋には、窓に向かう形で小林の事務机が設置されている。お世辞にも片付いているとは言えない机の上には、教材の類やファイルなどが積み上がり、黒いノートパソコンが閉じた状態で置かれていた。その上に、白い用紙がある。
花京院は机に近づくと、その用紙を見て顔を顰めた。てっきり答案があるものとばかり思っていたのだが、そこにあったのは何も書かれていない、シンプルな白い便箋だった。
「……これは」
花京院の眉間に、小さな皺が寄る。これといって特徴のない、横書きの便箋。どこにでもあるような、よく見るデザインのはずなのに、なぜか違和感に近いものを覚える。それは既視感にも似ていて、とても嫌な感じがした。そして気づいてしまった。
――便箋を収めていた視界に、見覚えのある『色』が映る。
雑多に積み上げられているファイルと参考書に挟まる形で、若草色をした何かがはみ出していた。花京院は無意識に息を殺し、ゆっくりと、それに手を伸ばした。心臓がいやにうるさい。落ち着け。そんな馬鹿なことがあってたまるか。だって今までそんな可能性、一度だって考えたことなどなかったじゃあないか――。
指先で摘まみ、そっと引き抜く。冷たいものが一筋、背筋を伝った気がした。
「ッ……!」
それはあまりにもよく見慣れた、若草色の封筒だった。便箋を見た瞬間に覚えた嫌な感覚が、確かなものとなって心臓を貫く。その拍子に、持っていた鞄を思わず床に落としてしまった。
(こいつの仕業だったのか……?)
便箋も封筒も、決して特徴があるわけではない。何の変哲もない、ありふれたものでしかなかった。けれど、これと全く同じものを、花京院は今まで何通も受け取っているのだ。色形、質感、手にしたときの、やたらと指先が冷えるような感覚。全て、同じだ。
けれどあの手紙は、文章の雰囲気や言い回しが、あまりにも女性的なものだった。それはあえて自分と関連付かせないための、ポーズだったとでもいうのだろうか――?
『だからもう我慢することをやめて、迎えに行くことに決めました。』
ふと、昨日届いた手紙の一文を思いだした。真綿で緩やかに、それでいて確実に締め付けられるような、得も言われぬ不安が外側からじわりじわりと花京院の精神を包囲する。一気に足元から全身にかけて鳥肌が立ち、身震いをした花京院は、今すぐこの場を離れなければいけないと感じた。が、次の瞬間。
背後から、ガラガラと何かが崩れるような音がした。
「――ッ!?」
振り向くとそこには、準備室から直接廊下に出るための引き戸がある。そのすぐ横にある古めかしいロッカーが、なぜか開いていた。中から荷物が飛び出し、床に雪崩を起こしている。小林の上着と思しきものと鞄、幾つもの細長いスプレー缶が、軽快な音を立てて床に転がっていた。それらは制汗剤のようだった。そして、何やら膨らんだゴミ袋のような物体。
花京院は息を殺しながら、ロッカーへと一歩一歩、足を向ける。頭の中ではずっと派手にサイレンが鳴り響いていた。いいからさっさとここから出ろと。ここに居続ければ、きっとよくないことが起こる。なにより承太郎が、待っているのだからと。
それでもどうしてか、花京院の身体は信号を無視して勝手に動いていた。無意識に喉を鳴らす。雪崩を起こしているロッカーの前で、膝をついた。透明な袋の中に入っているものを見て、金属で頭部を殴られたような衝撃を受ける。
「これ、は……ぼくの……?」
声が震える。なくなっていたはずの体操着と、上靴。見るからに湿って、ビニールの内側に透明な水滴が散らばって見える。
呆然としながら、ただ耳鳴りのキンとした細長い音を聞く。それ以外、音のない世界に閉じ込められてしまったような閉塞感を覚えた。冷え切った手を恐る恐る伸ばして、ビニールに触れようとした。けれど震える指先がそれに触れる寸前。
――何かに、口を塞がれた。
「う、ぐッ……!?」
鼻から口にかけてを布のようなもので押さえこまれた途端、ツンとした薬品の香りに、これまで感じたこともないような激しい眩暈を覚える。しまったと、そう感じた瞬間には、花京院の意識は深い深い闇の底に、沈んでいた。
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(嫌な気分だ)
教室の窓際の列。その中腹に花京院の席はある。
頬杖をついてぼんやりと窓の外へ目を向けると、鉛色の雲に覆われた空がどこまでも続いていた。さっきから時おりパラついては、窓ガラスに小さな痕跡を残すだけの中途半端な雨模様に、気持ちまで愚図ついてくるのを感じてしまう。授業中のしんと静まり返った教室に響かない程度に、細長く溜息を漏らした。
この日。登校した花京院の靴箱に、あるはずの上履きがなかった。
空っぽの有様から、誰かが間違えて履いて行ったというわけではなさそうだった。もちろん、自分で持ち帰ったわけでもない。
となると、隠されてしまったと考えるのが普通だ。靴隠しなんて、小学生のイジメのようなイタズラをする輩に、花京院は心当たりがなかった。しかし人間、どこで恨みを買っているか分からないものだ。最近ではめっきりなくなったが、承太郎と行動を共にするようになった初めの頃、よく金魚の糞などと言われては、しょうもない不良に絡まれることが多々あった。その度に、承太郎の手を煩わすでもなく適当に対処していたものだが。
いわれなき誹りであったとしても、真っ向から来られる方がずっとマシだし、決着をつけるのも簡単だった。それに比べて顔の見えない悪意というものは、ただひたすらに性質が悪い。
おかげで朝っぱらから職員室へ行き、事情を話してスリッパを借りる羽目になった。家には予備の上履きがあるため、明日からの心配はないのだが、やはり気分はよくない。
物憂げな表情で窓の外を見つめる花京院の前髪に、何かが触れたのはその時だ。
「ッ!」
ギクリとして顔を上げるのと、ひと房だけ長い前髪を緩く包み込むようにスルリと撫でた指先が遠のくのは、同時だった。制服の下で、肌がざわつく。
そうだ、今はこの男の授業中だったのだ。何事もなかったかのように去っていく、ずんぐりとした猫背を見つめながら、花京院の中で不愉快な感情に拍車がかかる。
教壇へと戻っていく教師が正面を向く前に、花京院は机の上に広げられた小テストの答案へ視線を落とした。問題は、すでに解き終わっている。くぐもったかすれ声が「あと5分」と言うのを聞いて、また、嫌な気持ちになった。
この小林という名の国語教師。彼はどういうわけかここ最近になって、よく花京院の肩であったり、背中であったり、前髪に触れてくるようになった。
やたらと同性から告白されることよりも、悪戯なラブレターよりも、花京院にとっては小林の行動の方が、よほど気味が悪く感じられる。しかしそれはなにも、この男だから不快というわけではない。元から髪の手入れに余念がないが、承太郎と付き合うようになって、彼の手の感触を覚えてからは、誰であろうと他人に触られるのが嫌でしょうがないのだった。
時おりチラリと向けられる視線から目を逸らしながら、花京院はただひたすらこの時が過ぎるのを待ち続ける。できれば一分でも一秒でも早く、トイレにでも駆け込んで鏡の前で髪を整えたくて、仕方がなかった。
*
一階の図書室と隣接する国語準備室は、せいぜい四畳半程度の狭い部屋だった。褪せたレースのカーテン越しに、どんよりとした薄暗い光が室内を浮き上がらせている。
花京院は放課後、ここで古くなった教科書や参考書などの整理を、黙々と行っていた。壁沿いに並ぶ鉄製の突っ張り棚には、色褪せたファイルや本が雑多に詰め込まれている。少しほこりっぽいそれらの中から該当するものを探し当て、腕に抱えながら重い息を吐きだした。
(今日は厄日だな)
朝からずっと安っぽいスリッパを履くことになってしまったし、天気は相変わらずハッキリしない。授業中の不愉快なスキンシップに加えて、さらには当の小林から、こうして面倒事を頼まれてしまった。
彼には随分と気に入られているらしく、よくこうして放課後の準備室に呼び出されては、ちょっとした雑務を手伝わされるのだ。
どうして自分がと思わなくもないのだが、なんとなく、分からないでもない。春からこの学校に非常勤として赴任したばかりの小林は、生徒たちからの評判がすこぶる悪かった。とりわけ、女子から。全体的に清潔感のない容貌に加え、丸々とした身体を猫背にして歩く姿は、確かに生徒受けしなさそうだ。特に女性が生理的に引いてしまう要素を、小林という男は全て兼ね備えているように思う。
それに比べて花京院は同性だし、他の生徒と比べて露骨に顔や態度に出したりはしない。だから何かと、頼み事もしやすいのだろう。
それでも今日は。
できればすんなり帰りたかった。
少しばかり気が滅入ってしまう嫌な日だったから、承太郎さえよければ、どこか寄り道して帰れたら、なんて。ゲームセンターでもいいし、適当な喫茶店だっていい。とにかくどこでもいいから気分転換ができたらと。
そしてもしも許されるなら、人目につかないところでほんの少しだけでも、彼に触れることができたらなんて、そんなことを考えていた。
教室を出たところで小林に用を頼まれたとき、本当は断ってしまおうと思った。だけど寸でのところで思いとどまったのは、まるで甘えるみたいに承太郎に寄りかかって、気持ちを晴らそうとしていた自分を、情けなく感じたからだった。
だから承太郎には、この準備室に来る前に先に帰るようにと告げたのだ。
「いつも手伝ってもらって悪いね、花京院くん」
やたらとくぐもった声と共に、図書室側の扉から小林が姿を現したのは、その時だった。
少しぼんやりとしていた花京院は、教科書等の束を両手に抱えると姿勢を正し、彼の方を向いて愛想笑いを浮かべる。
「いえ、どうということはありませんよ」
「花京院くん、今日はあまり顔色がよくないね。それに、う、上履きは、どうしたのかな」
「ああ、いえ……これは、ちょっと」
言葉を濁す花京院に、猫背の身体を左右に揺らしながら小林が近づいてくる。その気遣わし気な表情に、苦笑しながら少しだけ身を強張らせた。
「なんでもありませんよ。お気になさらず」
「そ、そう……? 何かあったら、すぐに僕に言って。ち、力になるから」
「ありがとうございます、先生」
軽く頭を下げた花京院に、小林は嬉しそうな笑みを浮かべながら手を伸ばしてきた。浅黒く肉厚な手の甲や指に、太く縮れたような体毛がやたらと目立っている。爪は、歯で噛み切っているのが分かるほどギザギザと歪な形をしていた。花京院は咄嗟に肩を震わせ、一歩背後に後退する。
本音を言えば、花京院だって他の生徒たちの例外ではなかった。清潔感のない人間は、例え目上の者であっても生理的に受け付けない。狭い室内で、時おりふと鼻先を掠める妙な臭いは、あきらかに小林から発されるものだった。魚の干物に似たそれに、おそらく制汗剤か何かが過剰に混ざり合った臭い。吐き気がしそうだった。
「あの、今日はもうこのくらいでいいでしょうか? そろそろ雨も本格的に降りだしそうですし」
「ああ、そ、そう、だね。遅くまでありがとう」
誤魔化すように言った花京院に、小林は気にする風でもなく空を彷徨っていた手を下ろすと薄笑いを浮かべた。
ようやく解放されると安堵しながら、彼の脇を通り抜けて教科書などの束を事務机の上に置く。そして頭を下げ、準備室から出ようとした花京院だったが、小林の「ちょっと待って」という一言に、足を止めた。
「まだ、何か?」
「う、うん。実は、前から言おうと思っていたんだけど」
「ええ、どうぞ」
「三年の、空条くんのことなんだけど、ね」
小林の伏せられた視線が、左右に忙しなく動き始めた。その口から発せられた名前に、花京院は眉を微かに動かす。
「ああいう人間とは、その……あまり、親しくしない方がいいと思うよ」
「……はい?」
「き、君には、ふさわしくないんじゃ、ないかなって」
今日は、ただでさえ虫の居所がよくないというのに。
小林の言葉は、一瞬にして花京院の不快感を増長させた。沸々と沸き起こる苛立ちに、愛想笑いすら消え失せて、猫のように目を細める。
「お言葉ですが、ぼくの交友関係について、先生にとやかく言われる筋合いはありません」
「か、か、花京院くん、僕は、君を心配して」
「彼に関しては、誤解するなと言うほうが難しいでしょうけどね。ですが、よく知りもしない人間に、余計な口出しはされたくありません。不愉快です」
全身からドッと汗を噴きだして、小林は何度もつばを飲み込みながら「あ」とか「う」などといった呻きをあげた。花京院はそれを冷ややかに見つめ、やがて薄い頭が項垂れるのを見たあと、礼をして準備室を後にした。
*
腹が立つったらない。
一階の図書室から二階の教室へ戻る階段を、花京院はもはや校舎に人気がないのをいいことに、荒々しく駆けのぼった。
なにがふさわしくないだ。なにが心配だ。その全てが余計なお世話でしかない。相手が教師であろうがなんであろうが、そう簡単に受け流せるものではなかった。よく知りもしないで侮辱の言葉を吐きだす小林を、殴りつけなかっただけまだ冷静だったと思いたい。
確かに承太郎は花京院がこの高校に入学した頃から、超が幾つついても足りないほどの不良だった。今はだいぶおとなしくなったが、その悪名の高さは未だ健在だ。教師の中には、彼を好ましく思わない者の方が多いことは分かっている。
けれど、花京院は知っていた。承太郎がどれほど生真面目で、本当は熱い男であるかを。自分の中にある正義を貫く、真っ直ぐな男だということを。そして、触れる指先の優しい温もりを、知っていた。
(くそ、やっぱり断ればよかった!)
断って、承太郎と一緒に帰ればよかった。変なところで自分の気持ちに素直になれない、可愛げのなさを恨めしく感じる。
無人の教室は薄暗く、ずっと愚図ついていた空がついに泣き声を上げていた。窓ガラスを叩く雨音の煩わしさに、花京院は苛立った息を大きく吐きだす。とっとと家に帰って、少しゆっくり休もう。そう思いながら窓際の自分の机にかけてある学生鞄に手を伸ばそうとして、ふと、手を止めた。
「……ない」
持ち帰るつもりで学生鞄と一緒に下げていた、体操着を入れた袋が消えていた。机の中や周辺を見渡してみたが、やはり見つけ出すことはできなかった。
また隠されたのか。あるいは、今度こそ誰かが間違えて持ち帰ってしまったとでもいうのか。どちらにしろ、タイミングは最悪だ。
(一体なんだって言うんだよ、今日はッ!)
形が乱れるのも構わず、前髪をくしゃりと掴む。次から次へと起こる好ましくない事態に、考えるのも億劫になってしまう。もうなんでもいいような気分になって、花京院は学生鞄だけを手にすると教室の出入り口に身体を向けた。が、そのとき――。
「よう、遅かったな」
声がして、俯きがちだった視線をあげる。そこには。
「承太郎?」
茫然と見開いた視線の先に、ドア枠に背を預けて腕を組んでいる、承太郎の姿があった。
なぜ彼がここにいるのだろう。もうとっくに帰っているとばかり思っていたのに。
「ど、どうして? 先に帰るように言ったのに」
思わず小走りで駆け寄った。嫌なことばかりが重なって、青く静まり返っていた気持ちが、驚きと共に容易く浮上するのを感じた。近い距離でその顔を見上げた瞬間、ささくれが取り払われたように自然と笑顔が浮かんだ。その明るい笑みに、承太郎もまた微笑を返す。
「一人で帰るってのは、どうも味気なくてよ」
「だからって……早く帰っていれば、雨が本降りになる前には家についていたでしょうに」
本当は、嬉しくて仕方がない。なのに感情とは裏腹な物言いをした花京院に、承太郎は「傘ならあるぜ」と、得意気に言ってみせるから。自分が犬じゃなくてよかったと、そんな馬鹿げたことを本気で思ってしまう。もし今の花京院に尻尾がついていたのなら、きっと物凄い早さで左右に振られているに違いないだろうから。それはもう、言葉よりも雄弁に。
「風邪をひいても知りませんよ。君、忘れているようだが今年は受験生なんだぞ」
「うつせば治るんだろ? 口移しでプレゼントするぜ」
「ノォホ! そんなのちっとも嬉しくないですよ!」
つい、声をあげて笑ってしまった。ずっと嫌な溜息ばかりついていたのが、まるで嘘のようだった。自分で思っていた以上に、承太郎の顔を見て、声が聞きたくて堪らなかったのだと思い知る。本当は、もっと傍で触れ合いたいという気持ちを遠くに押しやって、花京院は小さく咳払いをした。
「さあ、帰りましょう。暗くならないうち、に……ッ!?」
言い終わらぬうちに、強い力が花京院の腕を掴んで、引き寄せた。突然のことに、持っていた鞄が床に落ちて鈍い音を立てる。人気のない空間に、それがいやに大きく響いた。あっと声を出す間もなく、花京院の腰に承太郎の太い右腕が回って、正面から身体が密着する体勢になっていた。
「こ、こら承太郎! 一体なんのつもりだッ!」
大慌てでその胸や肩に手をやって、引き剥がそうとした。けれど力で敵うはずがなく、承太郎はビクともしないままに花京院の顎を指でクイと持ち上げ、上向かせる。
覗き込んでくる翡翠の瞳が、薄暗い中で夜の海のように揺らめいていた。
「顔色、あんまよくねーな」
「……そんなこと、ないよ」
どうしてか、悪戯がバレないよう必死で言い訳を考える子供のような気分になる。
承太郎の息遣いすら感じる距離で、花京院はそのエメラルドと目を合わせることができなかった。顔は逸らさず、目線だけを伏せるように泳がせる。それでも痛いほど注がれる視線から、逃れることはできそうになかった。
「靴、どうした?」
「別にどうも……それより、離してくれないか」
「嫌だね」
いい加減にしないかと、声を荒げようとした唇が、寸でのところで塞がれる。承太郎の肉厚なそれによって呼吸ごと奪われ、大きく目を見開いた。
「ちょッ、と……ッ、や、んぅ……!」
顔を背けようとしても決して許されない。花京院が身を捩り、抗おうとするほどに拘束する腕の力は増し、奪うような口付けが角度を変えながら深くなった。
(今は、ダメだ……ッ!)
いくら人気のない放課後とはいえ、ここは学校だ。生徒は帰宅していても、職員はまだ多く居残っているのだ。こんなところを見られでもしたらと考えるだけで、肝が冷える。だけどそれは、あくまでも建前でしかなかった。
(ああもう! 喜んでる場合か……!)
花京院は、承太郎に触れたくて仕方がなかったから。今日はどうしようもなく気が滅入っていたから。だけど、そんな甘えたことを考える自分が嫌だった。だから先に帰れと言ったのに。やりたくもない仕事を引き受けて、一人で帰ろうと思っていたのに。
「んッ、ふ……ッ、ぁ」
もっと本気で抗えと、頭の中で自分の声がするのとは裏腹に、花京院の身体は流されることを選び取ってしまった。唇の隙間から押し入ってきた舌は強引で、蕩けそうなほどの熱に眩暈がする。
承太郎の舌は厚くて、大きくて、花京院の口の中を唾液と共に満たしてしまう。胸が震えて、熱くて熱くて、堪らない。
(ぼくは、ぼくはちゃんと、抵抗したぞ……だけど、承太郎が強引だから……ッ)
頭の中で響いていたはずの己を律する言葉は、やがてその責任を全て承太郎になすりつける、言い訳めいたものに変わっていた。そうだ。ぜんぶ承太郎が悪いのだ。会いたいときに、こうして顔を見せるから。触れたいときに、こんなふうに抱き寄せてキスなんかするから。
無意識なのか、それとも見透かされているのか。どちらにしても、求めていたものを当たり前のように与えて寄越す、承太郎が悪い。
口腔をどれほど逃げ回っても、濡れた感触は擦れあい、やがて蔦のように絡まりあう。引き剥がそうとしていたはずの両手が、今はただ承太郎の制服に深い皺を刻むだけになっていた。
(煙草の、味……頭、ジンジンする……)
ふぅっと、意識が頭の天辺から抜けてしまうような感覚に陥って、花京院は小刻みに躍らせていた膝を折りかけた。
「っと」
腰に回っていた承太郎の腕が、いとも容易く花京院の身体を支えた。その拍子に糸を引きながら離れた唇に、ひどい喪失感を覚える。名残惜しげにぼうっとしながら見上げた花京院に、承太郎がえらく優しい目をして笑いかけるから。一瞬で、我に返った。
「……なッ、なにを考えてッ、こ、ここは学校なんだぞ!?」
濡れた唇を手の甲で拭い、真っ赤な顔で裏返った声を発した。片手をその厚い胸板につき、突っぱねるようにしながら上半身を仰け反らせる。けれど相変わらず腰はがっちりと抱きこまれているから、それ以上の身動きは取れなかった。
承太郎はふんと鼻から面白そうに息をつき、舌なめずりをして見せる。
「して欲しそうな顔してたぜ。オラ、ここによ」
「そ、そんなわけ、アッ、いッ!?」
承太郎の長い指が、花京院の左頬を摘まんで引っ張った。
「キスしてぇって、書いてあった」
「ひょんなわけあるかぁ!」
「このほっぺた、餅みてーによく伸びるな」
「もお、いひゃいっへばッ!」
両手でその手首を掴み、強引に引き剥がすと、腰に回り込んでいた腕も一緒に離れていった。もう何が原因で赤くなっているのか分からない頬を押さえて睨み付けると、承太郎は両手をポケットに押し込んで、僅かに身を屈めながらクツクツと笑う。
悪びれない様子に腹が立ち、何か言ってやろうと花京院が口を開くより先に、腹筋の震えを押し込めた承太郎が言った。
「安心しな。誰も見ちゃいねーよ。だが……」
承太郎はいちど言葉を切って、ふと視線だけを教室の外へ泳がせると、すぐにまた花京院へと目を向けた。
「とっとと帰るとするか」
「言われなくたって帰りますよ。もう付き合いきれないからな」
ぷいと顔を背け、床に落ちていた鞄を拾いあげる。そのつんけんとした態度に、承太郎が満足そうに笑った。
「顔色、たいぶ戻ったぜ」
「……君は、意地悪だ」
そんな男のことが呆れるほどに好きすぎて。いっそもう、嫌になるくらい。
今日の出来事を綺麗さっぱり忘れ去り、ただひたすら甘ったるい感情に胸を浸す自分に、花京院は小さく咳払いをした。
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教室の窓際の列。その中腹に花京院の席はある。
頬杖をついてぼんやりと窓の外へ目を向けると、鉛色の雲に覆われた空がどこまでも続いていた。さっきから時おりパラついては、窓ガラスに小さな痕跡を残すだけの中途半端な雨模様に、気持ちまで愚図ついてくるのを感じてしまう。授業中のしんと静まり返った教室に響かない程度に、細長く溜息を漏らした。
この日。登校した花京院の靴箱に、あるはずの上履きがなかった。
空っぽの有様から、誰かが間違えて履いて行ったというわけではなさそうだった。もちろん、自分で持ち帰ったわけでもない。
となると、隠されてしまったと考えるのが普通だ。靴隠しなんて、小学生のイジメのようなイタズラをする輩に、花京院は心当たりがなかった。しかし人間、どこで恨みを買っているか分からないものだ。最近ではめっきりなくなったが、承太郎と行動を共にするようになった初めの頃、よく金魚の糞などと言われては、しょうもない不良に絡まれることが多々あった。その度に、承太郎の手を煩わすでもなく適当に対処していたものだが。
いわれなき誹りであったとしても、真っ向から来られる方がずっとマシだし、決着をつけるのも簡単だった。それに比べて顔の見えない悪意というものは、ただひたすらに性質が悪い。
おかげで朝っぱらから職員室へ行き、事情を話してスリッパを借りる羽目になった。家には予備の上履きがあるため、明日からの心配はないのだが、やはり気分はよくない。
物憂げな表情で窓の外を見つめる花京院の前髪に、何かが触れたのはその時だ。
「ッ!」
ギクリとして顔を上げるのと、ひと房だけ長い前髪を緩く包み込むようにスルリと撫でた指先が遠のくのは、同時だった。制服の下で、肌がざわつく。
そうだ、今はこの男の授業中だったのだ。何事もなかったかのように去っていく、ずんぐりとした猫背を見つめながら、花京院の中で不愉快な感情に拍車がかかる。
教壇へと戻っていく教師が正面を向く前に、花京院は机の上に広げられた小テストの答案へ視線を落とした。問題は、すでに解き終わっている。くぐもったかすれ声が「あと5分」と言うのを聞いて、また、嫌な気持ちになった。
この小林という名の国語教師。彼はどういうわけかここ最近になって、よく花京院の肩であったり、背中であったり、前髪に触れてくるようになった。
やたらと同性から告白されることよりも、悪戯なラブレターよりも、花京院にとっては小林の行動の方が、よほど気味が悪く感じられる。しかしそれはなにも、この男だから不快というわけではない。元から髪の手入れに余念がないが、承太郎と付き合うようになって、彼の手の感触を覚えてからは、誰であろうと他人に触られるのが嫌でしょうがないのだった。
時おりチラリと向けられる視線から目を逸らしながら、花京院はただひたすらこの時が過ぎるのを待ち続ける。できれば一分でも一秒でも早く、トイレにでも駆け込んで鏡の前で髪を整えたくて、仕方がなかった。
*
一階の図書室と隣接する国語準備室は、せいぜい四畳半程度の狭い部屋だった。褪せたレースのカーテン越しに、どんよりとした薄暗い光が室内を浮き上がらせている。
花京院は放課後、ここで古くなった教科書や参考書などの整理を、黙々と行っていた。壁沿いに並ぶ鉄製の突っ張り棚には、色褪せたファイルや本が雑多に詰め込まれている。少しほこりっぽいそれらの中から該当するものを探し当て、腕に抱えながら重い息を吐きだした。
(今日は厄日だな)
朝からずっと安っぽいスリッパを履くことになってしまったし、天気は相変わらずハッキリしない。授業中の不愉快なスキンシップに加えて、さらには当の小林から、こうして面倒事を頼まれてしまった。
彼には随分と気に入られているらしく、よくこうして放課後の準備室に呼び出されては、ちょっとした雑務を手伝わされるのだ。
どうして自分がと思わなくもないのだが、なんとなく、分からないでもない。春からこの学校に非常勤として赴任したばかりの小林は、生徒たちからの評判がすこぶる悪かった。とりわけ、女子から。全体的に清潔感のない容貌に加え、丸々とした身体を猫背にして歩く姿は、確かに生徒受けしなさそうだ。特に女性が生理的に引いてしまう要素を、小林という男は全て兼ね備えているように思う。
それに比べて花京院は同性だし、他の生徒と比べて露骨に顔や態度に出したりはしない。だから何かと、頼み事もしやすいのだろう。
それでも今日は。
できればすんなり帰りたかった。
少しばかり気が滅入ってしまう嫌な日だったから、承太郎さえよければ、どこか寄り道して帰れたら、なんて。ゲームセンターでもいいし、適当な喫茶店だっていい。とにかくどこでもいいから気分転換ができたらと。
そしてもしも許されるなら、人目につかないところでほんの少しだけでも、彼に触れることができたらなんて、そんなことを考えていた。
教室を出たところで小林に用を頼まれたとき、本当は断ってしまおうと思った。だけど寸でのところで思いとどまったのは、まるで甘えるみたいに承太郎に寄りかかって、気持ちを晴らそうとしていた自分を、情けなく感じたからだった。
だから承太郎には、この準備室に来る前に先に帰るようにと告げたのだ。
「いつも手伝ってもらって悪いね、花京院くん」
やたらとくぐもった声と共に、図書室側の扉から小林が姿を現したのは、その時だった。
少しぼんやりとしていた花京院は、教科書等の束を両手に抱えると姿勢を正し、彼の方を向いて愛想笑いを浮かべる。
「いえ、どうということはありませんよ」
「花京院くん、今日はあまり顔色がよくないね。それに、う、上履きは、どうしたのかな」
「ああ、いえ……これは、ちょっと」
言葉を濁す花京院に、猫背の身体を左右に揺らしながら小林が近づいてくる。その気遣わし気な表情に、苦笑しながら少しだけ身を強張らせた。
「なんでもありませんよ。お気になさらず」
「そ、そう……? 何かあったら、すぐに僕に言って。ち、力になるから」
「ありがとうございます、先生」
軽く頭を下げた花京院に、小林は嬉しそうな笑みを浮かべながら手を伸ばしてきた。浅黒く肉厚な手の甲や指に、太く縮れたような体毛がやたらと目立っている。爪は、歯で噛み切っているのが分かるほどギザギザと歪な形をしていた。花京院は咄嗟に肩を震わせ、一歩背後に後退する。
本音を言えば、花京院だって他の生徒たちの例外ではなかった。清潔感のない人間は、例え目上の者であっても生理的に受け付けない。狭い室内で、時おりふと鼻先を掠める妙な臭いは、あきらかに小林から発されるものだった。魚の干物に似たそれに、おそらく制汗剤か何かが過剰に混ざり合った臭い。吐き気がしそうだった。
「あの、今日はもうこのくらいでいいでしょうか? そろそろ雨も本格的に降りだしそうですし」
「ああ、そ、そう、だね。遅くまでありがとう」
誤魔化すように言った花京院に、小林は気にする風でもなく空を彷徨っていた手を下ろすと薄笑いを浮かべた。
ようやく解放されると安堵しながら、彼の脇を通り抜けて教科書などの束を事務机の上に置く。そして頭を下げ、準備室から出ようとした花京院だったが、小林の「ちょっと待って」という一言に、足を止めた。
「まだ、何か?」
「う、うん。実は、前から言おうと思っていたんだけど」
「ええ、どうぞ」
「三年の、空条くんのことなんだけど、ね」
小林の伏せられた視線が、左右に忙しなく動き始めた。その口から発せられた名前に、花京院は眉を微かに動かす。
「ああいう人間とは、その……あまり、親しくしない方がいいと思うよ」
「……はい?」
「き、君には、ふさわしくないんじゃ、ないかなって」
今日は、ただでさえ虫の居所がよくないというのに。
小林の言葉は、一瞬にして花京院の不快感を増長させた。沸々と沸き起こる苛立ちに、愛想笑いすら消え失せて、猫のように目を細める。
「お言葉ですが、ぼくの交友関係について、先生にとやかく言われる筋合いはありません」
「か、か、花京院くん、僕は、君を心配して」
「彼に関しては、誤解するなと言うほうが難しいでしょうけどね。ですが、よく知りもしない人間に、余計な口出しはされたくありません。不愉快です」
全身からドッと汗を噴きだして、小林は何度もつばを飲み込みながら「あ」とか「う」などといった呻きをあげた。花京院はそれを冷ややかに見つめ、やがて薄い頭が項垂れるのを見たあと、礼をして準備室を後にした。
*
腹が立つったらない。
一階の図書室から二階の教室へ戻る階段を、花京院はもはや校舎に人気がないのをいいことに、荒々しく駆けのぼった。
なにがふさわしくないだ。なにが心配だ。その全てが余計なお世話でしかない。相手が教師であろうがなんであろうが、そう簡単に受け流せるものではなかった。よく知りもしないで侮辱の言葉を吐きだす小林を、殴りつけなかっただけまだ冷静だったと思いたい。
確かに承太郎は花京院がこの高校に入学した頃から、超が幾つついても足りないほどの不良だった。今はだいぶおとなしくなったが、その悪名の高さは未だ健在だ。教師の中には、彼を好ましく思わない者の方が多いことは分かっている。
けれど、花京院は知っていた。承太郎がどれほど生真面目で、本当は熱い男であるかを。自分の中にある正義を貫く、真っ直ぐな男だということを。そして、触れる指先の優しい温もりを、知っていた。
(くそ、やっぱり断ればよかった!)
断って、承太郎と一緒に帰ればよかった。変なところで自分の気持ちに素直になれない、可愛げのなさを恨めしく感じる。
無人の教室は薄暗く、ずっと愚図ついていた空がついに泣き声を上げていた。窓ガラスを叩く雨音の煩わしさに、花京院は苛立った息を大きく吐きだす。とっとと家に帰って、少しゆっくり休もう。そう思いながら窓際の自分の机にかけてある学生鞄に手を伸ばそうとして、ふと、手を止めた。
「……ない」
持ち帰るつもりで学生鞄と一緒に下げていた、体操着を入れた袋が消えていた。机の中や周辺を見渡してみたが、やはり見つけ出すことはできなかった。
また隠されたのか。あるいは、今度こそ誰かが間違えて持ち帰ってしまったとでもいうのか。どちらにしろ、タイミングは最悪だ。
(一体なんだって言うんだよ、今日はッ!)
形が乱れるのも構わず、前髪をくしゃりと掴む。次から次へと起こる好ましくない事態に、考えるのも億劫になってしまう。もうなんでもいいような気分になって、花京院は学生鞄だけを手にすると教室の出入り口に身体を向けた。が、そのとき――。
「よう、遅かったな」
声がして、俯きがちだった視線をあげる。そこには。
「承太郎?」
茫然と見開いた視線の先に、ドア枠に背を預けて腕を組んでいる、承太郎の姿があった。
なぜ彼がここにいるのだろう。もうとっくに帰っているとばかり思っていたのに。
「ど、どうして? 先に帰るように言ったのに」
思わず小走りで駆け寄った。嫌なことばかりが重なって、青く静まり返っていた気持ちが、驚きと共に容易く浮上するのを感じた。近い距離でその顔を見上げた瞬間、ささくれが取り払われたように自然と笑顔が浮かんだ。その明るい笑みに、承太郎もまた微笑を返す。
「一人で帰るってのは、どうも味気なくてよ」
「だからって……早く帰っていれば、雨が本降りになる前には家についていたでしょうに」
本当は、嬉しくて仕方がない。なのに感情とは裏腹な物言いをした花京院に、承太郎は「傘ならあるぜ」と、得意気に言ってみせるから。自分が犬じゃなくてよかったと、そんな馬鹿げたことを本気で思ってしまう。もし今の花京院に尻尾がついていたのなら、きっと物凄い早さで左右に振られているに違いないだろうから。それはもう、言葉よりも雄弁に。
「風邪をひいても知りませんよ。君、忘れているようだが今年は受験生なんだぞ」
「うつせば治るんだろ? 口移しでプレゼントするぜ」
「ノォホ! そんなのちっとも嬉しくないですよ!」
つい、声をあげて笑ってしまった。ずっと嫌な溜息ばかりついていたのが、まるで嘘のようだった。自分で思っていた以上に、承太郎の顔を見て、声が聞きたくて堪らなかったのだと思い知る。本当は、もっと傍で触れ合いたいという気持ちを遠くに押しやって、花京院は小さく咳払いをした。
「さあ、帰りましょう。暗くならないうち、に……ッ!?」
言い終わらぬうちに、強い力が花京院の腕を掴んで、引き寄せた。突然のことに、持っていた鞄が床に落ちて鈍い音を立てる。人気のない空間に、それがいやに大きく響いた。あっと声を出す間もなく、花京院の腰に承太郎の太い右腕が回って、正面から身体が密着する体勢になっていた。
「こ、こら承太郎! 一体なんのつもりだッ!」
大慌てでその胸や肩に手をやって、引き剥がそうとした。けれど力で敵うはずがなく、承太郎はビクともしないままに花京院の顎を指でクイと持ち上げ、上向かせる。
覗き込んでくる翡翠の瞳が、薄暗い中で夜の海のように揺らめいていた。
「顔色、あんまよくねーな」
「……そんなこと、ないよ」
どうしてか、悪戯がバレないよう必死で言い訳を考える子供のような気分になる。
承太郎の息遣いすら感じる距離で、花京院はそのエメラルドと目を合わせることができなかった。顔は逸らさず、目線だけを伏せるように泳がせる。それでも痛いほど注がれる視線から、逃れることはできそうになかった。
「靴、どうした?」
「別にどうも……それより、離してくれないか」
「嫌だね」
いい加減にしないかと、声を荒げようとした唇が、寸でのところで塞がれる。承太郎の肉厚なそれによって呼吸ごと奪われ、大きく目を見開いた。
「ちょッ、と……ッ、や、んぅ……!」
顔を背けようとしても決して許されない。花京院が身を捩り、抗おうとするほどに拘束する腕の力は増し、奪うような口付けが角度を変えながら深くなった。
(今は、ダメだ……ッ!)
いくら人気のない放課後とはいえ、ここは学校だ。生徒は帰宅していても、職員はまだ多く居残っているのだ。こんなところを見られでもしたらと考えるだけで、肝が冷える。だけどそれは、あくまでも建前でしかなかった。
(ああもう! 喜んでる場合か……!)
花京院は、承太郎に触れたくて仕方がなかったから。今日はどうしようもなく気が滅入っていたから。だけど、そんな甘えたことを考える自分が嫌だった。だから先に帰れと言ったのに。やりたくもない仕事を引き受けて、一人で帰ろうと思っていたのに。
「んッ、ふ……ッ、ぁ」
もっと本気で抗えと、頭の中で自分の声がするのとは裏腹に、花京院の身体は流されることを選び取ってしまった。唇の隙間から押し入ってきた舌は強引で、蕩けそうなほどの熱に眩暈がする。
承太郎の舌は厚くて、大きくて、花京院の口の中を唾液と共に満たしてしまう。胸が震えて、熱くて熱くて、堪らない。
(ぼくは、ぼくはちゃんと、抵抗したぞ……だけど、承太郎が強引だから……ッ)
頭の中で響いていたはずの己を律する言葉は、やがてその責任を全て承太郎になすりつける、言い訳めいたものに変わっていた。そうだ。ぜんぶ承太郎が悪いのだ。会いたいときに、こうして顔を見せるから。触れたいときに、こんなふうに抱き寄せてキスなんかするから。
無意識なのか、それとも見透かされているのか。どちらにしても、求めていたものを当たり前のように与えて寄越す、承太郎が悪い。
口腔をどれほど逃げ回っても、濡れた感触は擦れあい、やがて蔦のように絡まりあう。引き剥がそうとしていたはずの両手が、今はただ承太郎の制服に深い皺を刻むだけになっていた。
(煙草の、味……頭、ジンジンする……)
ふぅっと、意識が頭の天辺から抜けてしまうような感覚に陥って、花京院は小刻みに躍らせていた膝を折りかけた。
「っと」
腰に回っていた承太郎の腕が、いとも容易く花京院の身体を支えた。その拍子に糸を引きながら離れた唇に、ひどい喪失感を覚える。名残惜しげにぼうっとしながら見上げた花京院に、承太郎がえらく優しい目をして笑いかけるから。一瞬で、我に返った。
「……なッ、なにを考えてッ、こ、ここは学校なんだぞ!?」
濡れた唇を手の甲で拭い、真っ赤な顔で裏返った声を発した。片手をその厚い胸板につき、突っぱねるようにしながら上半身を仰け反らせる。けれど相変わらず腰はがっちりと抱きこまれているから、それ以上の身動きは取れなかった。
承太郎はふんと鼻から面白そうに息をつき、舌なめずりをして見せる。
「して欲しそうな顔してたぜ。オラ、ここによ」
「そ、そんなわけ、アッ、いッ!?」
承太郎の長い指が、花京院の左頬を摘まんで引っ張った。
「キスしてぇって、書いてあった」
「ひょんなわけあるかぁ!」
「このほっぺた、餅みてーによく伸びるな」
「もお、いひゃいっへばッ!」
両手でその手首を掴み、強引に引き剥がすと、腰に回り込んでいた腕も一緒に離れていった。もう何が原因で赤くなっているのか分からない頬を押さえて睨み付けると、承太郎は両手をポケットに押し込んで、僅かに身を屈めながらクツクツと笑う。
悪びれない様子に腹が立ち、何か言ってやろうと花京院が口を開くより先に、腹筋の震えを押し込めた承太郎が言った。
「安心しな。誰も見ちゃいねーよ。だが……」
承太郎はいちど言葉を切って、ふと視線だけを教室の外へ泳がせると、すぐにまた花京院へと目を向けた。
「とっとと帰るとするか」
「言われなくたって帰りますよ。もう付き合いきれないからな」
ぷいと顔を背け、床に落ちていた鞄を拾いあげる。そのつんけんとした態度に、承太郎が満足そうに笑った。
「顔色、たいぶ戻ったぜ」
「……君は、意地悪だ」
そんな男のことが呆れるほどに好きすぎて。いっそもう、嫌になるくらい。
今日の出来事を綺麗さっぱり忘れ去り、ただひたすら甘ったるい感情に胸を浸す自分に、花京院は小さく咳払いをした。
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「好きだ。付き合ってくれ」
昼休み。五月初旬の、晴れた空の下。
クラスメイトの男子生徒に体育館裏に呼び出された花京院は、その告白に目を瞬かせた。
男子生徒は深く頭を下げ、右手を差し出している。それを見つめて、悟られぬように思わずこっそりと溜息を漏らした。
「相手を間違えているんじゃあないか? ぼくは男だぞ」
「そ、それは分かってる。オレだって、自分で驚いてるんだよ。男なんか好きになるなんて……」
だけどさ、と真っ赤な顔をしながら、男子生徒が言い訳でもするように先を続けた。
「なんつーか、その……花京院ってさ、男なんだけど、こう……最近女子より色っぽく見えるっていうか……お前ならオレ、イケるんじゃないかって、その、女じゃなくても」
一体なにを訳の分からないことを。やれやれと、花京院は内心うんざりしながら肩をすくめた。最悪な気分ではあったが、顔には出さずにやんわりとした笑みを浮かべる。
「君のそれは、一時の気の迷いというやつじゃあないかな」
「き、気の迷い……?」
「そう。だからほら、顔を上げて」
言われた通り頭を上げた男子は、まだどこか腑に落ちない様子ではあったが、強張っていた肩からふっと力を抜いた。自分に言い聞かせるように「そうだよな」と、安堵したように呟く。
「これってやっぱ気の迷い、だよな……確かに、そんな気がしてきた」
「それはよかった」
「あのさ、このこと……他のやつには……」
「もちろん言わないさ。ぼくにとっても、これは不名誉なことだからね」
「さ、サンキューな!」
少しホッとした様子で、彼は手を振り走り去った。花京院も小さく手を振り返し、その背中が見えなくなると、息をつく。そして、視界の端に映るものへ視線だけを走らせた。
「煙草臭いぞ、承太郎。そろそろ出てきたらどうだ」
そこにはすでに跡形もなく花が散り、青々とした葉を茂らせる桜の大木があった。あの男子生徒はよほど余裕がなかったのか、気づいていなかったようだが、花京院は微かに鼻につくその匂いに、最初から気がついていた。
じっとりとした目で見ていると、木陰から大きな身体がヌッと姿を現す。黒い学帽と長ラン姿で、咥え煙草の承太郎が、どこか楽しげに目を細めている。
「よう、モテる男は辛いな」
そう言って、承太郎はフィルターギリギリまで燃え尽きている煙草を地面に落とした。黒い革靴の先で、グリグリと土も一緒に踏みしめながら火を消している。花京院はムッとしながら唇を引き結び、そんな彼へ近づくと、ポケットティッシュを取り出して数枚引き抜いた。
すっかり潰れて虫の死骸のようになった吸い殻を、ティッシュを被せて拾い上げると、ポケットに捻じ込んでしまう。
「君が言うと嫌味にしか聞こえない。あと、学校では煙草を吸うなと言ったはずだぞ」
「偶然恋人の浮気現場を目撃しちまったもんでな。気持ちを落ち着かせようと思っただけだぜ」
「バッ、う、浮気って、君なあ!」
腕を組んで大木に背を預ける承太郎が、クツクツと肩を揺らしながら笑った。ついカッとなりかけたが、花京院はどこか諦めたように、その性質の悪い冗談を流してやることにした。鼻からふすっと息を吐いて、自分も並んで大木に背中を預ける。
そのままほんの僅かな沈黙が、緩やかな五月の風と共に吹き抜けた。
「隙が多いぜ、最近のてめーは」
承太郎がぽつりと吐きだした。そんなつもりはないよと小さく反論して、足先で地面を軽く蹴る。
そもそも隙、というのは、なんだろう。ごく普通に日々の生活を送っているつもりだし、仮にその隙とやらを本当に見せてしまっているのだとしたら、それがなぜ男子生徒からの告白に繋がるのだろうか。
「冗談じゃない。さっき言われたことも、全く意味がわからないよ。どうしてぼくに女性のような――あるいは、それ以上の色気があるっていうんだい」
「自覚がねえのか。今だっておれをこんなにムラムラさせておいてよ」
「む、ムラ……なんだか、今日の君は笑えない冗談ばかり言うんだな」
「心配しているんだぜ。今月だけで二人目じゃあねーか」
同性から、告白されるのは。
「前回は一年のガキだったか」
「……二人じゃなくて、三人だ」
「なんだと?」
承太郎の眉間に皺が寄り、大木から僅かに背を離す。じっと見下ろされて、花京院は少しだけ、正直に言ってしまったことを後悔した。口を噤んだまま誤魔化してしまおうかと思ったけれど、痛いほど注がれる視線に耐えきれず、肩をすくめた。
「君の言う通り。こないだは一年生の男子生徒から告白されたよ。だけどその前に、実はもう一人いたんだ」
「どこのどいつだ」
「この学校の人間じゃあないよ。よく行くコンビニの店員。父親くらいの歳の男性だ」
チッ、と、承太郎が舌打ちをしながらまた大木に背を預ける。そして吐き捨てるように「そのコンビニにはもう行くな」と言うので、花京院は即座に反論する。
「行くさ。近場にはそこしかないんだ」
これだけ一度に同性から告白されておいてなんだが、まるでか弱い女性にでも注意を促すような物言いは、いくら承太郎といえども不愉快だった。色気がどうとか、隙がどうとか、そんな訳が分からないことで気軽に近所のコンビニへも行けないなんて、それこそ冗談じゃないと思う。
「君は少し心配性が過ぎる。ぼくがそう簡単に手籠めにされるとでも思っているのか?」
そりゃあ、承太郎ほど身体が大きければ、自分なんてひ弱に見えても仕方がないのかもしれない。だけどこれでもクラスでは一番背が高いし、そういう風に思われるのが嫌だから、身体だってそれなりに鍛えている。これでも努力しているんだと、不満も露わに睨み付ければ、承太郎は学帽の鍔を少しだけ引き下げて「やれやれ」と溜息をついた。
「無意識に垂れ流しちまってるってことだけは、覚えておきな」
「……なにを?」
怪訝そうな顔をする花京院から目を逸らし、承太郎は一瞬なにかに気がついたように校舎の方へと視線をやった。それからすぐにくるりと身体を大木へ向ける。ちょうど花京院を挟むような形だ。頭上に承太郎の前腕が置かれ、至近距離で見下ろされた。まるで校舎から隠すみたいに、花京院の身体はその大きな影にすっぽりと覆われる。
「な、なんだい?」
このままキスでもされるんじゃあないかと、僅かに身を強張らせる。学校では、こういうことは一切しない約束のはずだ。この距離やシチュエーションですら、十分に際どい。誰かに見られでもしたら、どうするつもりなのだろう。見ようによっては、不良の先輩に脅される後輩、という図に見えなくもないが。
承太郎は内心ドギマギとしている花京院をじっと見つめ、そしておもむろに片手を脇腹から腰へと滑らせてきた。
「う、うわッ、じょ、承太郎ッ!」
「肩と、腰のライン」
「はあ!?」
「最近、ちょっぴり丸くなった。気づいてねーだろ」
「失礼な……太ったとでもいうつもりか」
そうじゃあねえ、と低く言った承太郎の手が、今度は顎に触れた。くいと持ち上げられ、ぐっと顔を寄せてくる。慌てて押し返そうとその胸に両手をついて、どうしてか力が入らなかった。心臓がバカみたいに騒ぎ始める。この顔に、これだけ近い距離で見つめられて、抗える人間がいるならお目にかかってみたい。
けれど承太郎はそれ以上顔を近づけてはこなかった。それをなぜか残念に思う自分を、心のなかで叱りつける。彼は花京院のすみれ色の瞳を覗き込みながら、肉厚な唇をゆっくりと開いた。
「おれとやることやっちまってるから、かもな」
「……はい?」
「わからねえのか?」
ふっと笑われて、花京院は必死で考える。
自分では、自分の身体の些細な変化になど気づきようがない。けれど多分、承太郎は花京院以上に、この身体のことを知っているのだ。
自分たちは恋人同士で、とっくに一線も越えていて、花京院が自分で触れたことすらない場所に、彼はもう何度も触れていた。
(い、色気……色気って……まさか……)
承太郎に、女のように抱かれているから。無意識に雄を寄せ付けるようなフェロモンでも振りまいていると、そう言いたいのか。知らないうちに、身体すら作りかえられているのだと。
頭の天辺から湯気が出そうだった。なんて恥ずかしいことを言うのだろう。あまりの羞恥に堪え切れず、それでも花京院は平静を装いながら、承太郎の胸を押し返した。
「ば、バカを言わないでください」
僅かな隙をついて、そこから逃げ出す。大木から数歩離れると、承太郎は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、両手をポケットに捻じ込んだ。
「あんまり無自覚でいると、妙な虫がつくぜ。案外、もうついちまってるかもしれねえが」
「ッ!」
承太郎の言葉に、少しドキリとさせられた。が、すぐにグッと眉間に皺を寄せる。
「それって君のことじゃあないのか?」
憎まれ口を叩きながら唇を尖らせた花京院に、承太郎は「かもな」と言って背を向けた。片手を上げて、ヒラヒラと振りながら去っていく背中を、赤く染まった顔で黙って見つめる。
すっかりその背が見えなくなると、花京院は自分の肩に目をやった。それから両手を腰に当て、そのラインを見下ろしてみる。やっぱり分からなかった。確かに肩幅に比べると、少し腰は細すぎるかもしれないが、だからといって女性的な身体つきとは思えない。
(バカバカしい。そんなわけあるもんか)
確かに花京院は承太郎に心も身体も許しているし、セックスは完全に受け身である。
けれど、かといって男としての矜持を失くしてしまったとは思わないし、花京院が許すのはあくまで承太郎だけだ。承太郎以外の男だったら、触れられることすら我慢ならない。女性のように扱われたり、そういう目で見られたりするのも絶対に嫌だった。
花京院はさっきまで承太郎と背を預けていた、桜の大木に目を向ける。一年前、彼と初めて言葉を交わしたのも、ちょうどこの体育館裏だった。
出会ってまだ、たったの一年。ふと、さっきのクラスメイトの言葉を思いだす。
『オレだって、自分で驚いてるんだよ』
全くだと、花京院は思った。
その点に関してだけは、彼の気持ちがよく分かる。
「ぼくも、こんなに好きになるとは思わなかった」
仄かに頬を染めながらぽつりと零し、花京院は次の授業を知らせるチャイムが鳴る前に、その場を後にした。
*
承太郎の存在を知ったのは、花京院がこの高校に入学してすぐのことだった。
JOJOという渾名で呼ばれ、派手に荒れている二年生がいることは、当然すぐに耳に入った。けれどその不良はまともに登校すること自体が稀であったし、せいぜい彼のファンだという女子生徒たちの絶叫を、遠くに聞く程度のものだった。
札付きの悪に加えて、女子人気が絶大。家柄がよく、サボってばかりのくせに成績は優秀。花京院にとっては、アニメや漫画の主人公みたいだな、程度の情報と認識しかなかった。おそらく関わりを持つことはないだろうと。
しかしその認識が、ある日を境にガラリと変わる事件が起きた。
一年生の間では承太郎を筆頭に、柄の悪い先輩に決して目をつけられないよう、目立った行動は避けるべきという意識が広がっていた。
そんな中、花京院だけは平然とお気に入りのピアスをつけていたし、制服だって自分の好みに合わせた色形のものを、堂々と着用していた。加えて桃色がかった赤い地毛が、完全に悪目立ちしていたらしい。
結果、入学して一ヶ月も経たないうちに、花京院は三年生の不良グループに目をつけられ、体育館裏に呼び出されてしまった。
「てめーか~~、一年の花京院ってのはよ~」
体育館の閉め切られた鉄製の引き戸に背を預ける花京院は、五~六人ほどの厳ついリーゼントに囲まれ、斜め下からねめつけられていた。
「ええ、そうですが、何か?」
全員がポケットに両手を突っ込み、猫背で身体を揺らしながらたった一人を取り囲んでいるという状況に、花京院はいっそ可笑しさこそ覚えたが、背筋をピンと伸ばしたまま冷静に応じる。
物怖じしないその態度は、端から気に入らない一年生であることに加えて、不良たちの怒りにあっという間に油を注いだ。
「一年坊主がイキがってんじゃねーぞッ! なんだぁ? このピアスに、ふざけた髪の色はよお?」
「何か問題でも? この程度、先輩方に迷惑をかけるほどのことではないでしょうし、髪は地毛です」
「嘘ぶっこいてんじゃあねーぞゴラァッ!! 今すぐその頭、マジもんの坊主にしてやるぜ!!」
そう言って、不良集団の一人が花京院の頭に掴みかかろうとした。が、一歩身体を横にずらしただけで、鉄の扉に全身をしたたか打ち付ける。
ぐえっ、という不様な悲鳴があがり、花京院はつい、口元に手を当てて笑ってしまった。
「てんめぇ~~~~」
強打した顔面を真っ赤にしながら、不良が怒りに肩を震わせた。その場にいた全員が殺気を放ち、いつ一斉に飛びかかって来てもおかしくない状況が出来上がる。
面倒だなと、花京院は思った。子供の頃からこの神経質そうな顔立ちや白い肌が災いして、女性的に見られがちだった。この手のタイプに舐められて、妙な因縁をつけられたことが幾度あったか知れない。元から人に媚びるくらいなら死んだ方がマシ、というプライドの持ち主でもあった花京院は、そんな連中に負けないためにも、それなりの護身術は身につけていた。
だから腕っぷしには自信があるのだ。多勢に無勢であったとしても、決して負ける気はしない。面倒なのは確かだが、とっとと片付けてしまおう。そういえば、今日は毎月欠かさず購読しているゲーム雑誌の発売日だった。コンビニに寄って、ついでに肉まんでも買って帰ろうか。
頭の片隅で呑気に考えていると、さっそく一人が飛びかかってきた。まずは適当にかわそうかと思っていた、その瞬間――。
「ぐぅえッ!!」
また、汚い呻きが上がった。
一瞬のことに、花京院は瞳を大きく見開く。
目の前で、さっきまで威勢よく吠えていたはずのリーゼントが、首吊り状態に陥っていた。
「げっ……JOJO……」
その場にいた誰かが言った。声を震わせながら。ぽかんとしている花京院の眼前で、見上げるほど大きな男が、不良男子の首根っこを掴んで持ち上げていた。
黒い学帽。前を開いた長ランに、金色の鎖。ああ、彼が噂の――。
承太郎は凄まじい怪力で、釣り上げていた不良を後方に投げ捨てた。吹っ飛んだ身体は三メートルほど離れた位置にある、まだ幾らか花を残す桜の大木に激突する。また汚い悲鳴が短くあがり、がっくりと項垂れて動かなくなった。
「こ、このやろう……ッ!」
残りの連中の殺気が増した。ピリピリとした狂暴な空気を放つ彼らだが、それとは逆に少しばかり腰が引けて見える。承太郎が学帽の鍔に隠れていた視線をゆらりと上げると、彼らは肩をビクリと跳ねさせた。
少し青みがかった緑色。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳を見て、花京院は心臓をぐっと握り込まれたように、密かに息を詰める。
周りの不良たちは、もはや花京院に目もくれなかった。一帯を包み込む空気だけでも、すでに勝敗は明らかだ。しかしそこは学年が一つ上というプライドが、彼らに負けを認めさせなかった。
一人が制服のポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。凶器を手にした仲間がいるというだけで、彼らは途端に威勢を取り戻す。
「ついでだぜ、JOJO……このナマイキな一年坊主の前に、まずはてめーから始末してやるッ!!」
そこからは、何もかもが一瞬だった。
一斉に飛びかかった不良たちは、ものの数分もしないうちに鼻や口から血を流し、地面で身体を丸めながらのたうち回っていた。
(つ、強い)
承太郎は寸分の無駄もない動きで、あっという間に不良たちをのしてしまったのだ。憎らしいことに、両手をポケットに突っ込んだまま、である。
花京院の目に、嫌味なほど長い足から繰り出される蹴りと、その動きに合わせて翻る、黒い長ランの裾が未だに残像だけを残していた。
「ち、ちくしょう……ッ! 覚えてやがれぇ~~ッ!!」
全員が足を引きずるようにして逃げ去ってしまうと、承太郎は帽子の鍔を指先で引き下げながら「やれやれ」と言った。そして、そのまま花京院に目もくれず立ち去ろうとしたので、慌てて引き止める。
「あ、あの!」
「……なんだ」
「助けてくださって、ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を述べると、承太郎はこちらを振り向いて花京院をじっと見つめてきた。宝石のように美しい瞳だと思った。そして改めてその顔立ちを見て、女子人気が高いことにも納得する。気を抜くと、性別も忘れてうっかり見惚れてしまいそうだ。
「助けが必要だったわけじゃあ、なかったようだがな」
承太郎は興味なさげに小さく鼻から息をつくと、背後にある桜の大木へ軽く顎をしゃくって見せる。
「おれは昼寝の邪魔をされるとムカつくだけだ」
花京院は彼が示した桜の木へと目を向ける。昼寝というにはだいぶ時間が遅い気がするが、承太郎はあの大木の幹に腰を下ろし、背を預けて居眠りをしていたようだった。ちょうどこの方向だと死角になるため、自分を含めて誰も彼の存在に気がつかなかったというわけだ。
「それは失礼しました」
再び頭を下げた花京院に、承太郎は何も言わずに背を向ける。けれど咄嗟に「待って」と言って、また引き止めた。彼は振り向かず、ただ首だけを軽く捻ってこちらに横顔を見せる。
花京院はポケットから緑色の刺繍が入った白いハンカチを取り出し、承太郎へ近づいた。
「ナイフを持っていたのは、一人だけではなかったようですね」
小首を傾げて柔らかく微笑みながら、ハンカチを差し出した。あの一瞬の乱闘の際、どさくさに紛れてナイフを取り出した不良が、もう一人いたのだ。そのナイフは承太郎の太腿をほんの僅かに掠っただけではあったが、切れ味だけは抜群だったらしい。制服のズボンに切れ目が入り、そこから覗く肌に少量の血が滲んでいる。
承太郎は面食らったように瞳を見開き、すぐにふっと小さく鼻で笑った。そして短く「ありがとうよ」と言って、ハンカチを受け取った。
「名前は?」
その何気ない問いに、どうしてか心臓が小さく跳ねた。あの有名な不良が、決して関わることはないだろうと思っていたはずの男が、この自分に一瞬でも興味と意識を向けている。そのことがえらく特別なことのように思えて、すぐにでも逸らされかねない視線に、奇妙な焦燥を覚えた。花京院は咄嗟に、ただ短く「花京院典明」とだけ、声を発した。
「花京院、な。覚えておくぜ」
今度こそ背を向けて、軽く上げた片手をヒラヒラと振りながら去っていく後姿から、花京院はいつまでも目を逸らすことができなかった。
――それがいわゆる、承太郎との馴れ初めだった。
ハンカチを渡した後日、驚いたことに彼は一年生の教室までやって来た。洗濯をしてアイロンまでかけたハンカチを、わざわざ花京院へ返しに来たのだ。
もはや右に出る者がいないのではとまで言われる不良の、その意外な律儀さにはえらく驚かされた。
以来、なんとなくふたりは行動を共にすることが多くなった。昼休みには人気のない場所で昼食をとり、登下校のタイミングがかぶれば、肩を並べて歩く。それが偶然ではなく、互いに自然と待ち合わせをするようになるのに、時間はかからなかった。
承太郎はごちゃごちゃとしたやかましい音や声、環境があまり好きではないようだった。それは花京院も同じで、ふたりきりでいてもそれほど会話は多くなかった。けれど、沈黙が全く苦にならない。むしろ心地よいとすら思えて、なおのこと互いが互いを傍に置くことが、当然のことになっていった。
そしてなにもかもが、あまりにもごく自然に。
意識し合ったのがいつからだったのか、それすら分からないくらい、ふたりはごく当たり前のように、お互いの距離を0まで縮めた。息をするように、利き手でペンを走らせるように、通いなれた道を、いつも通り家路をたどるように、惹かれあっていた。
男同士。少しくらい葛藤があったってよかったんじゃあないかと、自分自身、呆れている。
けれど手が触れ合ったときも、唇が重なったときも、自分の中でひとつも違和感がなかった。初めて身体を繋げたときですら、最初からこうなることが分かっていたみたいに、疑問すら抱かなかったのだ。
そうして季節が廻り、花京院は二年生に、承太郎が三年生になった今も、ふたりの関係は続いている。
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昼休み。五月初旬の、晴れた空の下。
クラスメイトの男子生徒に体育館裏に呼び出された花京院は、その告白に目を瞬かせた。
男子生徒は深く頭を下げ、右手を差し出している。それを見つめて、悟られぬように思わずこっそりと溜息を漏らした。
「相手を間違えているんじゃあないか? ぼくは男だぞ」
「そ、それは分かってる。オレだって、自分で驚いてるんだよ。男なんか好きになるなんて……」
だけどさ、と真っ赤な顔をしながら、男子生徒が言い訳でもするように先を続けた。
「なんつーか、その……花京院ってさ、男なんだけど、こう……最近女子より色っぽく見えるっていうか……お前ならオレ、イケるんじゃないかって、その、女じゃなくても」
一体なにを訳の分からないことを。やれやれと、花京院は内心うんざりしながら肩をすくめた。最悪な気分ではあったが、顔には出さずにやんわりとした笑みを浮かべる。
「君のそれは、一時の気の迷いというやつじゃあないかな」
「き、気の迷い……?」
「そう。だからほら、顔を上げて」
言われた通り頭を上げた男子は、まだどこか腑に落ちない様子ではあったが、強張っていた肩からふっと力を抜いた。自分に言い聞かせるように「そうだよな」と、安堵したように呟く。
「これってやっぱ気の迷い、だよな……確かに、そんな気がしてきた」
「それはよかった」
「あのさ、このこと……他のやつには……」
「もちろん言わないさ。ぼくにとっても、これは不名誉なことだからね」
「さ、サンキューな!」
少しホッとした様子で、彼は手を振り走り去った。花京院も小さく手を振り返し、その背中が見えなくなると、息をつく。そして、視界の端に映るものへ視線だけを走らせた。
「煙草臭いぞ、承太郎。そろそろ出てきたらどうだ」
そこにはすでに跡形もなく花が散り、青々とした葉を茂らせる桜の大木があった。あの男子生徒はよほど余裕がなかったのか、気づいていなかったようだが、花京院は微かに鼻につくその匂いに、最初から気がついていた。
じっとりとした目で見ていると、木陰から大きな身体がヌッと姿を現す。黒い学帽と長ラン姿で、咥え煙草の承太郎が、どこか楽しげに目を細めている。
「よう、モテる男は辛いな」
そう言って、承太郎はフィルターギリギリまで燃え尽きている煙草を地面に落とした。黒い革靴の先で、グリグリと土も一緒に踏みしめながら火を消している。花京院はムッとしながら唇を引き結び、そんな彼へ近づくと、ポケットティッシュを取り出して数枚引き抜いた。
すっかり潰れて虫の死骸のようになった吸い殻を、ティッシュを被せて拾い上げると、ポケットに捻じ込んでしまう。
「君が言うと嫌味にしか聞こえない。あと、学校では煙草を吸うなと言ったはずだぞ」
「偶然恋人の浮気現場を目撃しちまったもんでな。気持ちを落ち着かせようと思っただけだぜ」
「バッ、う、浮気って、君なあ!」
腕を組んで大木に背を預ける承太郎が、クツクツと肩を揺らしながら笑った。ついカッとなりかけたが、花京院はどこか諦めたように、その性質の悪い冗談を流してやることにした。鼻からふすっと息を吐いて、自分も並んで大木に背中を預ける。
そのままほんの僅かな沈黙が、緩やかな五月の風と共に吹き抜けた。
「隙が多いぜ、最近のてめーは」
承太郎がぽつりと吐きだした。そんなつもりはないよと小さく反論して、足先で地面を軽く蹴る。
そもそも隙、というのは、なんだろう。ごく普通に日々の生活を送っているつもりだし、仮にその隙とやらを本当に見せてしまっているのだとしたら、それがなぜ男子生徒からの告白に繋がるのだろうか。
「冗談じゃない。さっき言われたことも、全く意味がわからないよ。どうしてぼくに女性のような――あるいは、それ以上の色気があるっていうんだい」
「自覚がねえのか。今だっておれをこんなにムラムラさせておいてよ」
「む、ムラ……なんだか、今日の君は笑えない冗談ばかり言うんだな」
「心配しているんだぜ。今月だけで二人目じゃあねーか」
同性から、告白されるのは。
「前回は一年のガキだったか」
「……二人じゃなくて、三人だ」
「なんだと?」
承太郎の眉間に皺が寄り、大木から僅かに背を離す。じっと見下ろされて、花京院は少しだけ、正直に言ってしまったことを後悔した。口を噤んだまま誤魔化してしまおうかと思ったけれど、痛いほど注がれる視線に耐えきれず、肩をすくめた。
「君の言う通り。こないだは一年生の男子生徒から告白されたよ。だけどその前に、実はもう一人いたんだ」
「どこのどいつだ」
「この学校の人間じゃあないよ。よく行くコンビニの店員。父親くらいの歳の男性だ」
チッ、と、承太郎が舌打ちをしながらまた大木に背を預ける。そして吐き捨てるように「そのコンビニにはもう行くな」と言うので、花京院は即座に反論する。
「行くさ。近場にはそこしかないんだ」
これだけ一度に同性から告白されておいてなんだが、まるでか弱い女性にでも注意を促すような物言いは、いくら承太郎といえども不愉快だった。色気がどうとか、隙がどうとか、そんな訳が分からないことで気軽に近所のコンビニへも行けないなんて、それこそ冗談じゃないと思う。
「君は少し心配性が過ぎる。ぼくがそう簡単に手籠めにされるとでも思っているのか?」
そりゃあ、承太郎ほど身体が大きければ、自分なんてひ弱に見えても仕方がないのかもしれない。だけどこれでもクラスでは一番背が高いし、そういう風に思われるのが嫌だから、身体だってそれなりに鍛えている。これでも努力しているんだと、不満も露わに睨み付ければ、承太郎は学帽の鍔を少しだけ引き下げて「やれやれ」と溜息をついた。
「無意識に垂れ流しちまってるってことだけは、覚えておきな」
「……なにを?」
怪訝そうな顔をする花京院から目を逸らし、承太郎は一瞬なにかに気がついたように校舎の方へと視線をやった。それからすぐにくるりと身体を大木へ向ける。ちょうど花京院を挟むような形だ。頭上に承太郎の前腕が置かれ、至近距離で見下ろされた。まるで校舎から隠すみたいに、花京院の身体はその大きな影にすっぽりと覆われる。
「な、なんだい?」
このままキスでもされるんじゃあないかと、僅かに身を強張らせる。学校では、こういうことは一切しない約束のはずだ。この距離やシチュエーションですら、十分に際どい。誰かに見られでもしたら、どうするつもりなのだろう。見ようによっては、不良の先輩に脅される後輩、という図に見えなくもないが。
承太郎は内心ドギマギとしている花京院をじっと見つめ、そしておもむろに片手を脇腹から腰へと滑らせてきた。
「う、うわッ、じょ、承太郎ッ!」
「肩と、腰のライン」
「はあ!?」
「最近、ちょっぴり丸くなった。気づいてねーだろ」
「失礼な……太ったとでもいうつもりか」
そうじゃあねえ、と低く言った承太郎の手が、今度は顎に触れた。くいと持ち上げられ、ぐっと顔を寄せてくる。慌てて押し返そうとその胸に両手をついて、どうしてか力が入らなかった。心臓がバカみたいに騒ぎ始める。この顔に、これだけ近い距離で見つめられて、抗える人間がいるならお目にかかってみたい。
けれど承太郎はそれ以上顔を近づけてはこなかった。それをなぜか残念に思う自分を、心のなかで叱りつける。彼は花京院のすみれ色の瞳を覗き込みながら、肉厚な唇をゆっくりと開いた。
「おれとやることやっちまってるから、かもな」
「……はい?」
「わからねえのか?」
ふっと笑われて、花京院は必死で考える。
自分では、自分の身体の些細な変化になど気づきようがない。けれど多分、承太郎は花京院以上に、この身体のことを知っているのだ。
自分たちは恋人同士で、とっくに一線も越えていて、花京院が自分で触れたことすらない場所に、彼はもう何度も触れていた。
(い、色気……色気って……まさか……)
承太郎に、女のように抱かれているから。無意識に雄を寄せ付けるようなフェロモンでも振りまいていると、そう言いたいのか。知らないうちに、身体すら作りかえられているのだと。
頭の天辺から湯気が出そうだった。なんて恥ずかしいことを言うのだろう。あまりの羞恥に堪え切れず、それでも花京院は平静を装いながら、承太郎の胸を押し返した。
「ば、バカを言わないでください」
僅かな隙をついて、そこから逃げ出す。大木から数歩離れると、承太郎は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、両手をポケットに捻じ込んだ。
「あんまり無自覚でいると、妙な虫がつくぜ。案外、もうついちまってるかもしれねえが」
「ッ!」
承太郎の言葉に、少しドキリとさせられた。が、すぐにグッと眉間に皺を寄せる。
「それって君のことじゃあないのか?」
憎まれ口を叩きながら唇を尖らせた花京院に、承太郎は「かもな」と言って背を向けた。片手を上げて、ヒラヒラと振りながら去っていく背中を、赤く染まった顔で黙って見つめる。
すっかりその背が見えなくなると、花京院は自分の肩に目をやった。それから両手を腰に当て、そのラインを見下ろしてみる。やっぱり分からなかった。確かに肩幅に比べると、少し腰は細すぎるかもしれないが、だからといって女性的な身体つきとは思えない。
(バカバカしい。そんなわけあるもんか)
確かに花京院は承太郎に心も身体も許しているし、セックスは完全に受け身である。
けれど、かといって男としての矜持を失くしてしまったとは思わないし、花京院が許すのはあくまで承太郎だけだ。承太郎以外の男だったら、触れられることすら我慢ならない。女性のように扱われたり、そういう目で見られたりするのも絶対に嫌だった。
花京院はさっきまで承太郎と背を預けていた、桜の大木に目を向ける。一年前、彼と初めて言葉を交わしたのも、ちょうどこの体育館裏だった。
出会ってまだ、たったの一年。ふと、さっきのクラスメイトの言葉を思いだす。
『オレだって、自分で驚いてるんだよ』
全くだと、花京院は思った。
その点に関してだけは、彼の気持ちがよく分かる。
「ぼくも、こんなに好きになるとは思わなかった」
仄かに頬を染めながらぽつりと零し、花京院は次の授業を知らせるチャイムが鳴る前に、その場を後にした。
*
承太郎の存在を知ったのは、花京院がこの高校に入学してすぐのことだった。
JOJOという渾名で呼ばれ、派手に荒れている二年生がいることは、当然すぐに耳に入った。けれどその不良はまともに登校すること自体が稀であったし、せいぜい彼のファンだという女子生徒たちの絶叫を、遠くに聞く程度のものだった。
札付きの悪に加えて、女子人気が絶大。家柄がよく、サボってばかりのくせに成績は優秀。花京院にとっては、アニメや漫画の主人公みたいだな、程度の情報と認識しかなかった。おそらく関わりを持つことはないだろうと。
しかしその認識が、ある日を境にガラリと変わる事件が起きた。
一年生の間では承太郎を筆頭に、柄の悪い先輩に決して目をつけられないよう、目立った行動は避けるべきという意識が広がっていた。
そんな中、花京院だけは平然とお気に入りのピアスをつけていたし、制服だって自分の好みに合わせた色形のものを、堂々と着用していた。加えて桃色がかった赤い地毛が、完全に悪目立ちしていたらしい。
結果、入学して一ヶ月も経たないうちに、花京院は三年生の不良グループに目をつけられ、体育館裏に呼び出されてしまった。
「てめーか~~、一年の花京院ってのはよ~」
体育館の閉め切られた鉄製の引き戸に背を預ける花京院は、五~六人ほどの厳ついリーゼントに囲まれ、斜め下からねめつけられていた。
「ええ、そうですが、何か?」
全員がポケットに両手を突っ込み、猫背で身体を揺らしながらたった一人を取り囲んでいるという状況に、花京院はいっそ可笑しさこそ覚えたが、背筋をピンと伸ばしたまま冷静に応じる。
物怖じしないその態度は、端から気に入らない一年生であることに加えて、不良たちの怒りにあっという間に油を注いだ。
「一年坊主がイキがってんじゃねーぞッ! なんだぁ? このピアスに、ふざけた髪の色はよお?」
「何か問題でも? この程度、先輩方に迷惑をかけるほどのことではないでしょうし、髪は地毛です」
「嘘ぶっこいてんじゃあねーぞゴラァッ!! 今すぐその頭、マジもんの坊主にしてやるぜ!!」
そう言って、不良集団の一人が花京院の頭に掴みかかろうとした。が、一歩身体を横にずらしただけで、鉄の扉に全身をしたたか打ち付ける。
ぐえっ、という不様な悲鳴があがり、花京院はつい、口元に手を当てて笑ってしまった。
「てんめぇ~~~~」
強打した顔面を真っ赤にしながら、不良が怒りに肩を震わせた。その場にいた全員が殺気を放ち、いつ一斉に飛びかかって来てもおかしくない状況が出来上がる。
面倒だなと、花京院は思った。子供の頃からこの神経質そうな顔立ちや白い肌が災いして、女性的に見られがちだった。この手のタイプに舐められて、妙な因縁をつけられたことが幾度あったか知れない。元から人に媚びるくらいなら死んだ方がマシ、というプライドの持ち主でもあった花京院は、そんな連中に負けないためにも、それなりの護身術は身につけていた。
だから腕っぷしには自信があるのだ。多勢に無勢であったとしても、決して負ける気はしない。面倒なのは確かだが、とっとと片付けてしまおう。そういえば、今日は毎月欠かさず購読しているゲーム雑誌の発売日だった。コンビニに寄って、ついでに肉まんでも買って帰ろうか。
頭の片隅で呑気に考えていると、さっそく一人が飛びかかってきた。まずは適当にかわそうかと思っていた、その瞬間――。
「ぐぅえッ!!」
また、汚い呻きが上がった。
一瞬のことに、花京院は瞳を大きく見開く。
目の前で、さっきまで威勢よく吠えていたはずのリーゼントが、首吊り状態に陥っていた。
「げっ……JOJO……」
その場にいた誰かが言った。声を震わせながら。ぽかんとしている花京院の眼前で、見上げるほど大きな男が、不良男子の首根っこを掴んで持ち上げていた。
黒い学帽。前を開いた長ランに、金色の鎖。ああ、彼が噂の――。
承太郎は凄まじい怪力で、釣り上げていた不良を後方に投げ捨てた。吹っ飛んだ身体は三メートルほど離れた位置にある、まだ幾らか花を残す桜の大木に激突する。また汚い悲鳴が短くあがり、がっくりと項垂れて動かなくなった。
「こ、このやろう……ッ!」
残りの連中の殺気が増した。ピリピリとした狂暴な空気を放つ彼らだが、それとは逆に少しばかり腰が引けて見える。承太郎が学帽の鍔に隠れていた視線をゆらりと上げると、彼らは肩をビクリと跳ねさせた。
少し青みがかった緑色。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳を見て、花京院は心臓をぐっと握り込まれたように、密かに息を詰める。
周りの不良たちは、もはや花京院に目もくれなかった。一帯を包み込む空気だけでも、すでに勝敗は明らかだ。しかしそこは学年が一つ上というプライドが、彼らに負けを認めさせなかった。
一人が制服のポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。凶器を手にした仲間がいるというだけで、彼らは途端に威勢を取り戻す。
「ついでだぜ、JOJO……このナマイキな一年坊主の前に、まずはてめーから始末してやるッ!!」
そこからは、何もかもが一瞬だった。
一斉に飛びかかった不良たちは、ものの数分もしないうちに鼻や口から血を流し、地面で身体を丸めながらのたうち回っていた。
(つ、強い)
承太郎は寸分の無駄もない動きで、あっという間に不良たちをのしてしまったのだ。憎らしいことに、両手をポケットに突っ込んだまま、である。
花京院の目に、嫌味なほど長い足から繰り出される蹴りと、その動きに合わせて翻る、黒い長ランの裾が未だに残像だけを残していた。
「ち、ちくしょう……ッ! 覚えてやがれぇ~~ッ!!」
全員が足を引きずるようにして逃げ去ってしまうと、承太郎は帽子の鍔を指先で引き下げながら「やれやれ」と言った。そして、そのまま花京院に目もくれず立ち去ろうとしたので、慌てて引き止める。
「あ、あの!」
「……なんだ」
「助けてくださって、ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を述べると、承太郎はこちらを振り向いて花京院をじっと見つめてきた。宝石のように美しい瞳だと思った。そして改めてその顔立ちを見て、女子人気が高いことにも納得する。気を抜くと、性別も忘れてうっかり見惚れてしまいそうだ。
「助けが必要だったわけじゃあ、なかったようだがな」
承太郎は興味なさげに小さく鼻から息をつくと、背後にある桜の大木へ軽く顎をしゃくって見せる。
「おれは昼寝の邪魔をされるとムカつくだけだ」
花京院は彼が示した桜の木へと目を向ける。昼寝というにはだいぶ時間が遅い気がするが、承太郎はあの大木の幹に腰を下ろし、背を預けて居眠りをしていたようだった。ちょうどこの方向だと死角になるため、自分を含めて誰も彼の存在に気がつかなかったというわけだ。
「それは失礼しました」
再び頭を下げた花京院に、承太郎は何も言わずに背を向ける。けれど咄嗟に「待って」と言って、また引き止めた。彼は振り向かず、ただ首だけを軽く捻ってこちらに横顔を見せる。
花京院はポケットから緑色の刺繍が入った白いハンカチを取り出し、承太郎へ近づいた。
「ナイフを持っていたのは、一人だけではなかったようですね」
小首を傾げて柔らかく微笑みながら、ハンカチを差し出した。あの一瞬の乱闘の際、どさくさに紛れてナイフを取り出した不良が、もう一人いたのだ。そのナイフは承太郎の太腿をほんの僅かに掠っただけではあったが、切れ味だけは抜群だったらしい。制服のズボンに切れ目が入り、そこから覗く肌に少量の血が滲んでいる。
承太郎は面食らったように瞳を見開き、すぐにふっと小さく鼻で笑った。そして短く「ありがとうよ」と言って、ハンカチを受け取った。
「名前は?」
その何気ない問いに、どうしてか心臓が小さく跳ねた。あの有名な不良が、決して関わることはないだろうと思っていたはずの男が、この自分に一瞬でも興味と意識を向けている。そのことがえらく特別なことのように思えて、すぐにでも逸らされかねない視線に、奇妙な焦燥を覚えた。花京院は咄嗟に、ただ短く「花京院典明」とだけ、声を発した。
「花京院、な。覚えておくぜ」
今度こそ背を向けて、軽く上げた片手をヒラヒラと振りながら去っていく後姿から、花京院はいつまでも目を逸らすことができなかった。
――それがいわゆる、承太郎との馴れ初めだった。
ハンカチを渡した後日、驚いたことに彼は一年生の教室までやって来た。洗濯をしてアイロンまでかけたハンカチを、わざわざ花京院へ返しに来たのだ。
もはや右に出る者がいないのではとまで言われる不良の、その意外な律儀さにはえらく驚かされた。
以来、なんとなくふたりは行動を共にすることが多くなった。昼休みには人気のない場所で昼食をとり、登下校のタイミングがかぶれば、肩を並べて歩く。それが偶然ではなく、互いに自然と待ち合わせをするようになるのに、時間はかからなかった。
承太郎はごちゃごちゃとしたやかましい音や声、環境があまり好きではないようだった。それは花京院も同じで、ふたりきりでいてもそれほど会話は多くなかった。けれど、沈黙が全く苦にならない。むしろ心地よいとすら思えて、なおのこと互いが互いを傍に置くことが、当然のことになっていった。
そしてなにもかもが、あまりにもごく自然に。
意識し合ったのがいつからだったのか、それすら分からないくらい、ふたりはごく当たり前のように、お互いの距離を0まで縮めた。息をするように、利き手でペンを走らせるように、通いなれた道を、いつも通り家路をたどるように、惹かれあっていた。
男同士。少しくらい葛藤があったってよかったんじゃあないかと、自分自身、呆れている。
けれど手が触れ合ったときも、唇が重なったときも、自分の中でひとつも違和感がなかった。初めて身体を繋げたときですら、最初からこうなることが分かっていたみたいに、疑問すら抱かなかったのだ。
そうして季節が廻り、花京院は二年生に、承太郎が三年生になった今も、ふたりの関係は続いている。
←戻る ・ 次へ→
――花京院くん。
花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。
「かきょういんのりあきくん」
唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。
そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。
「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」
僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。
小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。
天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。
この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。
典明、典明、典明。かきょういんのりあき。
ああ、なんて麗しい響きだろう。
この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。
誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。
彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。
僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。
「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」
僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。
「愛してるよ、僕の典明」
*
花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。
「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」
休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。
「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」
「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」
「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」
「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」
身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。
こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。
(頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ)
「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」
「!!」
そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。
「うぇ……ッ」
小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。
次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。
まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。
「見ろよあれ。どんくさ」
石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。
小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。
今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。
けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。
「大丈夫ですか?」
澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。
床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。
ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。
(天使……?)
そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。
「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」
「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」
「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」
周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。
「では、ぼくはこれで」
ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。
気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。
(天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ)
小林は確信した。
きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。
*
その日から、小林の人生はガラリと変わった。
なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。
けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。
学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。
彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。
なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。
それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。
だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。
そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。
花京院への思いは、日増しに強くなっていった。
いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。
彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。
本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。
けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。
しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは花京院の交友関係についてだ。
誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。
空条承太郎。
JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。
花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。
こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。
おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。
どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」
悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。
それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。
絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。
気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。
別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。
とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。
以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。
自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。
彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。
今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。
花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。
花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。
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花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。
「かきょういんのりあきくん」
唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。
そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。
「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」
僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。
小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。
天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。
この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。
典明、典明、典明。かきょういんのりあき。
ああ、なんて麗しい響きだろう。
この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。
誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。
彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。
僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。
「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」
僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。
「愛してるよ、僕の典明」
*
花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。
「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」
休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。
「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」
「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」
「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」
「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」
身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。
こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。
(頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ)
「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」
「!!」
そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。
「うぇ……ッ」
小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。
次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。
まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。
「見ろよあれ。どんくさ」
石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。
小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。
今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。
けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。
「大丈夫ですか?」
澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。
床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。
ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。
(天使……?)
そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。
「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」
「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」
「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」
周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。
「では、ぼくはこれで」
ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。
気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。
(天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ)
小林は確信した。
きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。
*
その日から、小林の人生はガラリと変わった。
なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。
けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。
学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。
彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。
なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。
それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。
だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。
そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。
花京院への思いは、日増しに強くなっていった。
いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。
彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。
本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。
けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。
しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは花京院の交友関係についてだ。
誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。
空条承太郎。
JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。
花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。
こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。
おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。
どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」
悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。
それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。
絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。
気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。
別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。
とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。
以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。
自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。
彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。
今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。
花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。
花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。
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それから数日は、何事もなく過ぎていった。
承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。
教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。
寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。
だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。
花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。
このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。
どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。
気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。
しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。
花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。
+++
ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。
花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。
「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」
信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。
(情けないな、まったく)
四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。
その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。
「はい、つきましたよ」
自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。
礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。
今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。
「?」
今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。
花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。
玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。
――靴は、二足置いてあった。
ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。
背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。
視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。
――それは妻の声に、とてもよく似ていた。
逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。
けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。
それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。
ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。
やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。
「ッ……!?」
ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。
彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。
「あ、あなた、どうして」
それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。
「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」
男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。
妻は――妻は、指輪をしていなかった。
不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。
「あ、あの、違うのよ」
「髪」
「え、え?」
「切ったんだね」
花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。
「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」
花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。
「あ、あなた」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」
手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。
ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。
どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。
一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。
+++
勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。
全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。
どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。
一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。
けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。
――何かに強く、腕を引かれた。
「おいあんた」
雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。
「……じょうたろう?」
そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。
どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。
承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。
「どうして君がこんなところに」
「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」
そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。
「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」
冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。
「――怒ってるのか?」
彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。
承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。
――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。
花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。
ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。
「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」
「……ごめん」
どうしてか、咄嗟に謝っていた。
「身体、なんともねえのか」
「うん」
「本当に、なんともねえんだな」
「なんともないよ」
あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。
何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。
――そして今更のように、打ちのめされる。
「……ぼくは」
何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。
もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。
自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。
「帰るぜ。送っていく」
承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。
あそこへは帰れない。帰りたくない。
――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。
俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。
けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。
「ちっと歩くぜ」
「……うん」
前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。
+++
承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。
噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。
その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。
通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。
「風呂が沸いたぜ。早く入り――」
そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。
「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。
「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」
ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。
彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。
承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。
沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。
薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。
――けれど次の瞬間。
それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。
花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。
着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。
「――出ねえのか」
承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。
音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。
花京院は再び顔を伏せた。
「……先生」
沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。
(どうしてだろう)
肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。
(そうか、あのときぼくは……)
電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。
「……君の、言うとおりだったんだ」
花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。
「ぼくの妻は――浮気をしていた」
承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。
「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」
なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。
「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」
想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。
「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」
ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。
(あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――)
彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。
妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。
(ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ)
雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。
自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。
承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。
「風呂、とっとと入んな」
もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。
「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」
忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。
しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。
「ッ!」
「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」
「なッ、んてこと、言うんだい」
牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。
(ああ、まただ)
――吸い込まれる。
そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。
承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。
舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。
花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。
柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。
なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。
だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。
(もう、いいじゃあないか)
ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。
あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。
心の底から、嬉しかったのだ――。
+++
何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。
雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。
女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。
承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。
「ッ、くぅ、ぁ……!!」
承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。
「い、いい……やめなくて、いい」
「……痛えんだろ」
「いいから」
ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。
すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。
承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。
いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。
「ぅ、う……ア……ッ」
凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。
生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。
けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。
「あぁッ、んっ……!」
押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。
「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」
腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。
甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。
「ッ……」
承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。
承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。
「ッ、ぅ」
指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。
背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。
「ヒィッ、ぁ、――ッ」
捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。
承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。
「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」
承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。
太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。
自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。
承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。
「ッ――!!」
花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。
「ッ、く、そ」
その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。
「じょ、たろ」
「……情けねえ」
同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。
無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。
「――いいよ」
項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。
承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。
「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」
うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。
それから、何度も何度も抱き合った。
夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。
+++
雨はいつの間にやんだのか。
花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。
「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」
ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。
まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。
「そうだが……なぜそれを?」
「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」
そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。
「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」
「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」
「視力と記憶力には自信があるんでね」
承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。
「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」
ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。
花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。
ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。
「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」
「写真って……盗撮は犯罪だぞ」
呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。
「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」
「性格が悪いな、君は」
「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」
恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。
「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」
「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」
「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」
だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。
「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」
承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。
「それが決め手というやつだぜ」
「わ、わかった。わかったよ、もう」
このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。
「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」
「帰っちまうのか」
「当然だろ」
照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。
花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。
謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。
あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。
花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。
承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。
「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」
ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。
「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」
承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。
「まるで足枷だぜ」
「皮肉なことを言うね」
永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。
花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。
彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。
「彼女と、ちゃんと話をするよ」
噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。
「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」
隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。
承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。
キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。
花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。
頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。
「来週は、学校も授業もサボるなよ」
最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。
「居眠りはしちまうかもな」
承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。
「なら、説教と反省文だな」
「上等だぜ」
得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。
好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。
どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。
なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。
だけど、それでも構わない。
全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。
――それまでは。
愛しているは、まだ言えない。
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎は真面目に授業を受け、用もなく準備室を訪れることも、なくなっていた。
教師と生徒。良好に築き上げていたと思われた関係は、あの日を境に失われてしまった。
寂しくないかといえば、嘘になる。ぬるま湯に浸かったような空間は決して悪くなかったし、教師として教え子に慕われるのは、とても心地がよかった。
だけどこれで正解だったのだと、そう思う。承太郎が求めていたのは、信頼できる教師としての花京院ではなく、もっと別の意味だったのだから。このまま彼も自分も、道を踏み外すようなことにならなくて、本当によかった。
花京院はというと、相変わらず頭痛に苛まれる日々を送っていた。もともと細くなっていた食も、さらにぐっと落ち込んで、一日の終わりにようやく、何も食べていなかったことに気がつくという有様だった。
このままではいけない。そう分かってはいるのだが、食事にかける時間があれば、身体を休めたいという欲求ばかりが膨らんでいく。気休めに噛み砕く鎮痛剤は、日に日に大した効果が期待できなくなっていった。
どうにかしなくては。この不健康な生活も、精神状態も、そして妻のことも。
気がつくとそんなことばかりを考えて、ついつい焦燥に駆られてしまう。だから結局、気が休まることなど、ほとんどないのだった。
しかしそんな日々を送っていたある日のこと。恐れていたことが、起こってしまった。
花京院は授業中、酷い眩暈と頭痛に襲われ、ついに倒れてしまったのだ。
+++
ざあざあと叩きつける雨の飛沫を、ワイパーの規則正しい音が切り裂いていた。
花京院はタクシーの後部座席から、煙ったように濡れる街並みを眺めながら、やけに景色がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、眼鏡はジャケットの内ポケットに入れていたのだと思いだす。
「こりゃあしばらく止みませんねぇ、お客さん」
信号待ちの間、身を乗り出して空を覗き込んでいた運転手が、気さくに話しかけてくる。そうですね、と適当な返事をして、冷えた窓ガラスに頭をもたせかけた。
(情けないな、まったく)
四時間目の授業が始まってすぐ。教科書を音読する生徒の声に耳を傾けていた花京院は、突然ぐらりと視界が回るのを感じた。身体が大きく傾いたとき、きゃあ、という誰かの悲鳴を聞いたような気がする。そこで意識が暗闇に放り出されて、次に目覚めたのは保健室のベッドの上だった。
その頃すでに空はぐずつきはじめていて、今日はもう帰った方がいい、という養護教諭が呼んでくれたタクシーに乗り込む頃、雨は本格的に降りだしていた。
「はい、つきましたよ」
自分の不甲斐なさを呪いながら、見るともなしに景色を眺めていると、気づけばタクシーが自宅前に到着していた。
礼を言って支払いを済ませ、小走りで門をくぐる。雨音に混じって、走り去るタクシーのエンジン音が聞こえた。
今日の授業の遅れだとか、明日からの土日を前に済ませようと思っていた仕事だとか、とにかく今は全て忘れて、まずはしっかり休息をとろうと思った。少し無理をしてでも、なにか腹にものを入れなければと。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けようとして、なぜかすでに開けられていることに気がついた。
「?」
今朝、出かける前に戸締りはしっかり行ったはずだが。
花京院は首を傾げながら、ドアノブを回して中に入った。
玄関に脱ぎ捨ててある靴を見て、心臓が跳ねる。
――靴は、二足置いてあった。
ひとつは赤いパンプス。そしてもうひとつは、履き古した男性物のウォーキングシューズだった。明らかに、花京院のものではない。
背後でガチャリと閉まった扉の音に、また心臓が跳ねる。
視線を上げれば、長く伸びた廊下の先が、ぽっかりと黒い口を開けているように見えた。遠くに聞こえる雨音にまじって、笑い声のような、すすり泣きのような、高い声が微かに聞こえた気がする。
――それは妻の声に、とてもよく似ていた。
逃げろ、と頭の中で何かが警告を発している。このまま何も知らないふりをして、黙って家を飛び出せと。
けれど花京院はその警告をあえて無視するように、静かに靴を脱ぐと、冷たい廊下へ一歩、踏み出す。行くな、行くなと、頭の中でもう一人の自分が繰り返し、叫んでいた。
それでも花京院は、まるで何かに取り憑かれたように、音も立てずに廊下の闇を突っ切って、寝室のある二階へ続く階段をのぼりはじめた。
ドクン、ドクン、と頭の中で大きな音がする。雨音はずっとずっと遠くに聞こえて、氷のような静寂のなかに、よく知る笑い声が聞こえた。
やがて辿り着いた寝室のドアを、花京院は寸分の躊躇いもなく捻って、ドアを開けた。
「ッ……!?」
ふたつの肉の塊が、丸く目を見開いて息を飲んだ。
彼らはベッドの上で両腕を絡め合い、静止した時の中にいるように、ぴたりとも動かず、扉の前に佇む花京院を凝視している。やがて、ひとつの塊が動いた。
「あ、あなた、どうして」
それは妻の形をしていた。覆いかぶさるようにしていた男の胸を押し、シーツで裸の胸を隠しながら起き上がり、片足を床に下ろした。
「だ、旦那ァ……? お、おい、マジかよ」
男は花京院よりも、幾らか年若い青年だった。茶髪で、肌が浅黒い。黒いボクサーパンツ一丁で、膝立ちのまま、どうしたらいいか分からないという顔で、妻と花京院を交互に見ている。
妻は――妻は、指輪をしていなかった。
不思議なことに、それらを見てもなんの感情も沸いてこなかった。むしろ自分でも怖いくらい、内側で何かが熱を失っていくのを感じていた。
「あ、あの、違うのよ」
「髪」
「え、え?」
「切ったんだね」
花京院が知る彼女は、ずっと背中の半分ほどまで髪を伸ばしていた。今はそれが、肩につく程度の長さまで、切り揃えられている。まるで、知らない女のようだった。
「今日は体調が優れなくてね。早退させてもらったんだ」
花京院は部屋の中に入り込み、机の上に鞄を置きながらネクタイを外した。脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、椅子の背もたれにバサリと掛ける。それから、ふと思いだしたように彼らを見やり、片手を翳すと「ああ、続けて」と、どこか間の抜けたことを言った。
「あ、あなた」
「いや、いいよ。じゃあ、ぼくはこれで」
手を洗わなくては、と思った。うがいをして、顔も洗いたいなと。
ふらふらと寝室を後にして、ぼやけた視界で転ばないように、手摺に手を這わせながら階段を下りる。
どうしてか、やたらと心が凪いでいた。まるで麻痺したように、なにも感じない。ただ少し、寒気がした。
一階へ下りると、花京院の足はどうしてか洗面所へは向かわなかった。そのまま玄関まで行くと靴を履き、扉を開けると雨の降りしきる外の世界へ、踏み出していた。
+++
勢いを強めた雨が針のように皮膚を刺し、黒光りするアスファルトに際限なく吸い込まれていく。
全身をずぶ濡れにしながら、花京院は目的もなく、ただのろのろと歩道を歩いていた。
どこに行こうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
心のなかは空虚なままで、思考することすらままならない。雨音以外、なにも耳に入ってこなかった。
一台の乗用車が、そんな花京院の横を物凄いスピードで通り過ぎようとした。ああ、このままでは泥水をかぶってしまう。
けれど身体が咄嗟に動きそうもなかった。別にいいかと、投げ出しかけたそのとき。
――何かに強く、腕を引かれた。
「おいあんた」
雨音だけだった空間に、その声は一筋の光のように切り込んできた。頭上を何かに覆われながら、足元ギリギリのところに泥水が波打つのを茫然と見つめる。それから、腕を掴む声の主を見上げた。
「……じょうたろう?」
そこには、黒い傘をさした承太郎の顔があった。どんよりと煙る雨の世界で、鮮やかなエメラルドが物悲しげに揺れているような気がした。
どうして彼がここに。学校はどうしたのだろう。もう終わったのだろうか。時間の感覚が、まるでない。
承太郎は珍しく、どこか焦ったような余裕のない顔で、眉間にぐっと皺を寄せている。花京院は宙に浮かんでいるみたいな心地のまま、ことりと首を傾げた。
「どうして君がこんなところに」
「それはこっちの台詞だぜ……あんた、授業中に倒れて帰ったんじゃあなかったのか」
そういえばそうだったかと、花京院は伏せた睫毛の下で、所在無げに視線を彷徨わせる。腑抜けたような有様を見て、承太郎がひとつ、長い溜息を漏らした。
「倒れたって聞いてすっ飛んで来てみりゃあ、雨のなかをお散歩とはよ……てめー、一体なにしてやがる」
冷えすぎて感覚がなくなっていた皮膚に、ピリリとなにかが突き刺さったような気がした。ふと視線をあげれば、承太郎は押し殺したように食いしばった歯を僅かに覗かせ、目を細めていた。
「――怒ってるのか?」
彼の瞳は、明らかに怒りの色を宿していた。それがどうしてか、無感情でいた花京院の胸に深く突き刺さった。最愛の人の裏切りを目の当たりにしてさえ、何一つ動かなかった胸のうちに、曇天が覆うような不安が立ち込める。なぜこんな気持ちになってしまうのか。自分でも、分からないけれど。
承太郎は僅かに顔を伏せ、目元を学帽の鍔で隠しながら、舌打ちをした。その瞬間、身体を強く引き寄せられる。
――黒い傘が、音を立てて地面に落ちた。
花京院は、大きな彼の胸板にぴったりと身を寄せて、長い両腕に抱きすくめられていた。
ひゅっと息を飲んで目を見開く花京院の耳元で、承太郎が低く、ほんの少しだけ弱々しく、声を紡ぐ。
「あんたに何かあったら……死んじまうぜ、おれは」
「……ごめん」
どうしてか、咄嗟に謝っていた。
「身体、なんともねえのか」
「うん」
「本当に、なんともねえんだな」
「なんともないよ」
あたたかい、と思った。泣きたくなるくらい、承太郎の腕の中はあたたかい。そして、優しい。
何度も何度も確かめようとする承太郎の声に応えながら、花京院はようやく、バカなことをしているという実感と共に、あらゆる感情が追いついてくるのを感じた。
――そして今更のように、打ちのめされる。
「……ぼくは」
何か言いかけて、言葉にすることができなかった。何を言いたかったのかも、よく分からない。承太郎はただ黙って、そんな花京院を抱きしめていた。きっと彼の方がずっと、今の花京院の様子を見て戸惑っているだろうに。それなのに承太郎はなにも聞かずに、ただこうして熱を分け与えようとしてくれる。
もしかしたら彼の方がよほど、自分より大人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
やがて承太郎は抱きしめていた腕を解くと、自分の学ランを脱いで花京院の肩にかぶせた。それからすぐに傘を拾い――もうどうしようもなく濡れてはいたが――ふたりの頭上に翳した。
自分よりもずっと広い肩幅を、学ランを通して感じながら、本当に大きな男だと、しみじみ感じる。
「帰るぜ。送っていく」
承太郎の申し出に、花京院は咄嗟に首を左右に振っていた。
あそこへは帰れない。帰りたくない。
――だけどそれ以上に、もう少しこのまま。
俯いたまま何も言わない花京院に、承太郎もまた口を噤んだ。
けれどすぐに大きな手が伸びて来て、肩を抱かれる。
「ちっと歩くぜ」
「……うん」
前を見据えながら短く言った承太郎に、花京院は弱々しく、首を縦に振った。
+++
承太郎に連れて来られたのは、彼の自宅だった。
噂には聞いていたが、そこは超がつくほど立派な和風邸宅で、承太郎はここで世界中を飛び回る父親の帰りを待ちながら、母親と二人だけで暮らしているらしかった。
その母親も、ここ数日はニューヨークで不動産王と名高い祖父の元へ、里帰りしているという。
通された和室で、花京院は頭からタオルをかぶったまま、座り込んでいた。濡れたワイシャツを肌に張りつけ、承太郎に借りた学ランすら脱がず、膝を抱えて顔を伏せている。
「風呂が沸いたぜ。早く入り――」
そこに姿を現した承太郎が、暗い中でただ背中を丸めている花京院を見て、呆れたように「やれやれ」と肩を竦めた。
「そのまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
咎めるようにそう言って、承太郎は傍にしゃがみ込むと、タオル越しにわしわしと頭を撫でてくる。花京院は顔を伏せたまま、ただじっとして目を閉じていた。
「あとは風呂場に行きな。おれのでよけりゃあ、着替えも置いてある」
ある程度のところで手を止めて、承太郎が立ち上がる。
彼の言う通りにしなければと、分かってはいるのに、どうしてか身体が鉛のように重くて、動かなかった。
承太郎はそんな花京院をこれ以上急かすでもなく、ただ静かに見下ろしている。
沈黙だけが落ちるなか、遠くから、泣き崩れるような激しさで雨音が響いていた。
薄暗い室内と、満ちる沈黙。閉め切られた障子の向こうから、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音がしていた。
――けれど次の瞬間。
それらを掻き消す電子音が、けたたましく唸りを上げた。
花京院のズボンのポケットから、いつの間にか畳の上に転がり落ちていた、携帯電話から発されるものだった。
着信音は十秒経っても、二十秒経っても鳴りやまず、やがて留守番電話に切り替わる。そこで一度途切れ、再び鳴りだした。
「――出ねえのか」
承太郎の声に、花京院はゆらりと顔を上げた。視線だけ、すぐ脇に放り出されている携帯に向ける。点滅する緑色のライトが、視界の端で霞んでいた。
音も、光も、どこか夢のなかの出来事のようだった。電話の向こうにいるはずの相手の顔が、よく思いだせない。
花京院は再び顔を伏せた。
「……先生」
沈みかける意識を繋ぎ止めるのは、ただひとつ、承太郎の声だけのような気がしていた。
(どうしてだろう)
肩を抱かれ、雨の中を一つの傘で歩いている間、承太郎と花京院は一言も声を発さなかった。その無言の空間が、承太郎の温もりがとても心地よくて、大きな安堵に包まれていた。あのときの花京院は、ひどく打ちのめされていたはずなのに。
(そうか、あのときぼくは……)
電子音は止んでいた。以降、かかってくる様子はない。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を吐き、花京院は顔を上げた。
「……君の、言うとおりだったんだ」
花京院がおもむろに口を開くと、承太郎は黙って隣に胡坐をかいた。
「ぼくの妻は――浮気をしていた」
承太郎が静かに息を飲む。あれだけ自信たっぷりに、核心を突いて来た男が。
「寝室で、男と寝ていたんだ。ぼくよりも幾らか若そうな、茶髪の男だった」
なぜわざわざ話そうと思ったのかは分からない。おまえには関係ないと、そう言って突っぱねたはずの相手に。
「彼女はずっと家を離れていた。でも時々、着替えを取りに戻って来ていたことは知っていたんだ。彼女が戻った日は、必ず家のなかで香水の残り香がしていたから。だけど――だけど、まさか男連れで戻っていたなんて、知らなかったな」
想像すると、笑えてしまった。ああやって花京院がいない間、妻は家に戻ってきては、あの男と寝ていたのだろうか。だとしたら、自分はそれを知らず、毎晩彼らが抱き合った後のベッドで、眠っていたのだ。皮肉でしかない。
「だから全部……君が言い当てた通りだったんだよ」
ふと、久しぶりに会った妻が、指輪をしていなかったことを、思い出す。花京院は左手の薬指から、指輪を抜き取った。それを思い切り、畳の床に投げつける。転がった先で踊るように円を描きながら、指輪はやがて動きを止めた。
(あのとき、ぼくが打ちのめされたのは――)
彼女の不貞を、目の当たりにしたからじゃあ、なかった。
妻を愛していると、準備室で承太郎に言い放ったあのときから。あるいは、そのずっと前から。
(ぼくの心も、とっくに彼女から離れていたからだ)
雨の中、承太郎の腕に抱かれながら。花京院は気がついてしまった。
自分たち夫婦が、もうとっくの昔に終わっていたのだということに。
承太郎は、ただ黙って花京院が吐き出す言葉に耳を傾けていた。けれど何も言うことがなくなって、また雨音だけの空間になると、彼は小さく息を吐きだす。そして言った。
「風呂、とっとと入んな」
もっとなにかあってもよさそうなのにと。花京院は密かに拍子抜けする。しかしもう感覚がないほどに、身体が冷え切っているのは確かだった。それでも花京院は、首を縦には振らなかった。
「……わたしはいい。君もずいぶん冷えただろう。いい大人が、みっともないことに付き合わせてすまなかった」
忘れてくれと付け足しながら、下げた頭を上げたとき、花京院は腑抜けた表情から、教師の顔に戻っていた。
しかし、承太郎の不満そうに眇められた瞳から目を逸らした瞬間、胸倉を掴まれ引き寄せられる。
「ッ!」
「あんまり聞き分けがねえと、風呂場まで担いでってひん剥くぜ」
「なッ、んてこと、言うんだい」
牙をむいたような怒りの表情が、互いの息がかかるほど至近距離にあった。燃えるような深いエメラルドが、花京院を縛りつけて離さない。
(ああ、まただ)
――吸い込まれる。
そう思った瞬間、食らいついてきた唇を、花京院は睫毛を伏せながら、受け止めていた。
承太郎が薄い唇に歯を立てる。ビクン、と大きく跳ねた肩を押さえつけるように抱かれ、そのまま床に雪崩れ込んだ。
舌が潜り込んできたとき、花京院はほとんど無意識に、承太郎の肩に両腕を回していた。
花京院の身体は、拒むことを、拒んでいた。口内を滅茶苦茶に暴かれながら、宥めるように自らも舌を差し出す。
柔らかく濡れた肉同士が、ぬるりと擦れて唾液が溢れる。頭の中まで掻きまわされているような気がして、それしか考えられなくなっていく自分に、恐怖を感じた。
なにをしているのだろう。相手は生徒で、年齢だけならまだ子供といっていい年頃で、自分は教師だ。
だけど今は、今だけは、ただの人と人でありたいと願っている。そう望んでいる。
(もう、いいじゃあないか)
ぴったりと肌に張り付くシャツのボタンに、承太郎の指が触れるのを許容しながら、花京院は自分の感情と真に向き合う。
あの雨のなかで。承太郎のエメラルドが怒りの色を浮かべるのを見て、花京院は怖いと思った。どうしてか、不安な気持ちでいっぱいになった。だから抱きしめられたとき、嬉しかった。
心の底から、嬉しかったのだ――。
+++
何度も何度もキスをしながら、裸で絡み合った。
雨の匂いが染みつく肌は、承太郎に触れられることで少しずつ、赤く色づいていく。
女のように触れられることに、戸惑いを覚えたのは最初のうちだけだった。承太郎の愛撫はどこか不器用で拙く、本当は彼がえらく緊張していることが伝わってくると、ただどうしようもなく、胸が締め付けられるばかりだった。
承太郎は、肩に綺麗な星型の痣を持っていた。女性とは違う、張りのある筋肉が隆起するその肩に、花京院は何度も指先で触れ、キスをした。
「ッ、くぅ、ぁ……!!」
承太郎の武骨な指が、足の付け根を分け入り、閉じている小さな穴に触れた。女性のように濡れるはずがないそこに、少し焦れた様子で潜り込んでくると、花京院はその痛みに身を強張らせる。承太郎は息をのみ、すぐに指を引き抜いてしまう。
「い、いい……やめなくて、いい」
「……痛えんだろ」
「いいから」
ここまできたら、もうやめられない。花京院は四つん這いのような形で覆いかぶさる承太郎の、股間に息づく若い雄に視線をやる。身体の大きさに比例して、そこは見たことがないほど大きく、逞しかった。
すでに血管が浮き上がるほど育ち切っているものを見て、あれを受け止めるには、相当の覚悟が必要だと思った。
承太郎はしばし逡巡したのち、自分の右手の人差し指と中指を口に含み、赤い舌を絡めながら潤わせる。そうして再び尻の谷間に指を這わせて来るのに合わせて、花京院は立てた両膝を大きく開いた。
いくら薄暗いとはいえ、閉め切った障子紙から差し込むほのかな光が、白く花京院の身体を照らし出す。羞恥に身を震わせながら、承太郎の濡れた指先を受け入れた。
「ぅ、う……ア……ッ」
凄まじい異物感。花京院が苦しげに呻いても、承太郎はもう手を止めることをしなかった。ただ時間をかけて、何度も指先を潤わせながらそこを開いていく。
生まれて初めて、身体のなかを他人に暴かれる感覚。承太郎の長い指の、太い関節部分まで、リアルに感じることができる。
けれどそのうち痛みや違和感よりも、何か不思議な熱が疼くのを感じはじめたことに、花京院は気がついた。半起ちだった性器が硬さを増して、先端から先走りが滲みはじめる。
「あぁッ、んっ……!」
押し込まれた指先がある一点に触れ、ズルズルと引き抜かれる瞬間、自分でも信じられないような甘ったるい声が漏れる。
「じょ、たろ、そこ、ぁ……ん、く……ッ」
腰が揺れるのが止まらない。生まれて初めての、その背徳的な快感に、花京院は身悶えながら首を嫌々と振った。
甘えた声と、甘えた仕草。情けないと思うのに、そのなにもかもが、もうどうでもよかった。
「ッ……」
承太郎が小さく舌打ちをした。ずるりと少し乱暴に指が引き抜かれる感触に、内腿がぶるりと震える。
承太郎はいちど膝立ちになると、自身を片手で掴み上げて幾度か扱いた。先走りに濡れて、赤黒い性器の先端から竿にかけてが、いやらしくテカりを帯びている。彼は花京院の膝を掴み、押し上げるように割り開いた。
「ッ、ぅ」
指で散々かき回された穴に、熱い切っ先が宛がわれる。
背筋にぞわりと何かが駆け抜けた。ぐっと、押し込まれた瞬間の衝撃は、きっと一生忘れることができないだろう。
「ヒィッ、ぁ、――ッ」
捻じ込まれた瞬間、肉が千切れたような感覚に頭の中が白くなる。ガチガチと歯の音を鳴らしながら、花京院は目を見開いて酷く震えた。
承太郎は歯を食いしばり、花京院の両膝を自分の体重をかけながら押し上げる。太腿と胸がくっつくほど身体を折り曲げられると、その表情がぐっと近づいて来た。
「じょ、た……ろッ、ぃ――っ」
承太郎の額から伝った汗が、花京院の頬にぽたりと落ちた。
太い首に両腕を回して、その背を掻き抱く。熱い楔が全て肉壺に埋もれる頃には、痛みはただ痺れるような狂暴な熱に変わっていた。腹の中で脈打つ肉の感覚が、あまりにも生々しくて、息ができない。
自分の尻の穴が、教え子の――男の勃起した性器をずっぽりと咥え込んでいることを考えると、花京院は信じがたい衝撃と共に、不思議な興奮を覚える自身に気がついた。
承太郎はそんな花京院に覆いかぶさり、僅かに背を丸めると首筋に強く額を押し付け、手負いの獣のような荒々しい呼吸を繰り返していた。やがて、彼の腰がぶるりと震えて、低い呻きが上がった瞬間、腹の奥で焼けるような何かが、弾けた。
「ッ――!!」
花京院は喉を反らし、声もなく口をぱっくりと開けながら、その熱い放流を受け止めた。挿れただけで耐えきれず、極致に至った承太郎が、射精している。
「ッ、く、そ」
その感覚だけで気をやりそうになっていた花京院の耳元で、承太郎が悔しげな声を漏らす。彼は全て出し終えると、大きく息をついて花京院の上にぐったりと体重をかけてきた。
「じょ、たろ」
「……情けねえ」
同じ男だ。その気持ちは、わかる。けれどそれ以上に、嬉しいと感じていた。
無理な態勢や承太郎の重みで、身体は悲鳴をあげている。受け入れている場所はジリジリと炙られているみたいに痺れるし、腹の中は、苦しい。けれど、承太郎は大きく脈打ったまま、萎えることなく花京院の中にあった。
「――いいよ」
項垂れる頭を抱きしめて、少し癖のある黒髪を撫でた。
承太郎が顔をあげる。鼻先が触れ合う距離で悔しそうに潤むエメラルドを見て、ああ、彼はまだ、ほんの少年なのだと、思い知る。承太郎、と吐息だけで名前を呼んで。
「ぼくをこのまま、滅茶苦茶にしてくれるかい?」
うっとりと呟いた。承太郎は唇を引き結び、喉を詰まらせてから、赤らんだ頬で「やれやれだぜ」と格好つけて見せた。
それから、何度も何度も抱き合った。
夢中で腰を打ち付けながら、片時も花京院を離すことなく、承太郎は掠れた声で「好きだ」と「愛してる」を幾度も繰り返した。花京院は啼きながら、その身体を強く抱き返すだけで、精いっぱいだった。
+++
雨はいつの間にやんだのか。
花京院が目を覚ますと、障子の向こうは漆黒の闇が広がっていた。和紙に覆われた照明が、枕元で温かな暖色に揺れている。
「右の目元に泣きぼくろがふたつ。斜めに並んだ女が、あんたのカミさんだろ」
ひとつの布団に身を寄せ合い、裸のまま花京院を片腕に抱き込んだ承太郎が、おもむろに口を開いた。
まだ行為の疲労感を十分に引きずったまま、指先ひとつ動かすのも億劫だった花京院は、承太郎の鎖骨の辺りに伏せていた視線をふと、持ち上げる。
「そうだが……なぜそれを?」
「机に伏せてあった写真立て。あんたに呼び出されて、初めて準備室に行った、あんときに見た」
そうか。あの日は確か、遅刻してきた女子生徒に反省文を書かせている間、承太郎をひとり準備室に待たせていたのだ。別に他人から隠すために伏せていたわけではなかったから、花京院は小さくふぅんと息をつくだけだった。
「何回か、駅前の繁華街で見た。あんたより幾らか若そうな野郎と、ふたりで歩いているのをよ」
「繁華街って……そんな人ごみでよく気がついたな」
「視力と記憶力には自信があるんでね」
承太郎が彼女を見かけたのは偶然だった。たまたま擦れ違った女の目元に、特徴的なふたつのほくろを見つけて、妙に気になったのだと。
「あの写真に比べると、ずいぶん雰囲気が違ってたから、最初は他人の空似かと思ったぜ。だけど何回か見かけるうちに、あんたのカミさんだって気がついた」
ふたりはしょっちゅう、夜の街を寄り添って歩いていたという。飲み屋へ入っていくときもあれば、ホテル街に消えて行くこともあったと。どうしてそんな時間に高校生が外をほっつき歩いていたのか、それは今だけ、聞かないでおくことにした。
花京院はその話を聞いても、今更なんとも思わなかった。
ただ、承太郎が妻と別居状態でいることに切り込んで来たのは、見透かしていたわけでも、勘で言っていたわけでもなく、事実を知っていたからだったのだ。
「写真でも撮って、あんたに叩きつけてやるつもりだったけどよ。手間が省けたな」
「写真って……盗撮は犯罪だぞ」
呆れたように言う花京院に、承太郎は悪びれるでもなくただ静かに笑った。
「どのみちおれが、あんたを追い詰める気でいたんだぜ」
「性格が悪いな、君は」
「言っただろ。どんな手を使ってでも、おれはあんたをモノにするって」
恥ずかしいことを言うやつだ。この男にそんなセリフを吐かれたい女子が、一体どれほどいると思っているのか。
「君は顔と頭はいいが、趣味は最悪だと思うぞ。相手なんて選び放題だろうに。君にしてみれば、ぼくは十も歳の離れた、ただのおじさんじゃあないか」
「あんたの顔、高校生でも十分通じそうだぜ」
「……気にしてるんだから、それは言わないでくれ」
だいたい承太郎の方が、高校生のくせに老け顔なのだと、そうは思ったが、言葉にするのはそれこそ子供っぽい気がして、大きめの唇をむっつりと引き結ぶだけにした。
「笑った顔が、死んじまいそうなくらい可愛かったからよ」
承太郎は、鎖骨のあたりに顔を寄せている花京院の、桃色がかった髪の毛に、そっと口元を埋めながら言った。
「それが決め手というやつだぜ」
「わ、わかった。わかったよ、もう」
このままでは、恥ずかしさでこちらの方が死んでしまうと思った。花京院は真っ赤になった顔を見られないように気をつけながら、逃げるように承太郎から離れた。腰が抜けたようになっていて、信じられないような場所に違和感が残っているような気がしたが、それらを押して半身を起こす。
「すまないが、適当に服を貸してくれるか。あと、濡れた服を入れて帰る袋も」
「帰っちまうのか」
「当然だろ」
照れ隠しに少し素っ気なく言って、花京院は投げ出されていた携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイには不在着信が二件と、そして、メールが一件。もちろん、どれも妻からのものだった。
花京院はその一通だけのメールを開いてみることにした。
謝罪の言葉と共に、『誤解を解きたい』という内容の文章が、つらつらと書かれているのを見て、苦笑する。
あれだけ決定的な現場を抑えられながら、一体どんな言い訳をするというのだろう。なにより、先に裏切っていたはずの彼女が、それでもまだ夫婦関係を修復したいと考えていることが、滑稽に思えて仕方がない。
花京院は携帯をいったん枕元に放ると、今度は少し身を乗り出して、打ち捨てられていた銀色のリングを引き寄せた。手の平に乗せ、少しの間じっと見つめてから、ただ握りしめる。この指輪が、花京院の薬指にはまることは、もう二度とないのだ。
承太郎は後頭部で両手の指を組んだ姿勢で、そんな花京院を静かに見守っていた。それからふと、口を開く。
「これ、やっぱ不倫ってことになんのか」
ぼんやりと呟くようなその言葉に、なぜかふっと笑ってしまう。妻の浮気相手よりもずっと年若い、未成年である教え子と――しかも同性だ――身体を重ねてしまった自分の方が、彼女の行いよりも遥かに罪深いような気がした。
「書類上はまだ夫婦だからね。そうなるのかな?」
承太郎の方を振り向いて、おどけて言った。けれど少しだけ、手の中の指輪が重くなったような気がする。
「まるで足枷だぜ」
「皮肉なことを言うね」
永遠を誓ったはずのリングが、今はただ形ばかりの枷になっているなんて。
花京院は僅かに込み上げる感傷に、そっと目を閉じる。
彼女を愛していた。だけど、もう全てが過去だった。ただしがみついていただけの自分は、さっきまでの雨と一緒に、一欠けらも残さず、流れてしまったのだ。
「彼女と、ちゃんと話をするよ」
噛み締めるように紡いだ言葉に、承太郎は何も言わず、ただゆっくりと身を起こした。
「ぼくはもう彼女を愛していないし、向こうが何を考えているのかは分からないが、決着をつけるつもりでいる。だから……だから、それまで少し、待っていてほしい」
隣の承太郎を見つめながら、言った。最初に花京院の胸を捉えて離さなかった美しい瞳が、揺れる暖色の灯りに瞬いた。
承太郎が笑う。そっと身を寄せて、ふたりの唇が重なった。
キスは啄むように一瞬で、だけど互いに離れないまま動かなかった。
花京院はただ承太郎のエメラルドを見つめて、承太郎は花京院のアメジストを、ただ静かに見つめる。先に恥ずかしくなって、目を逸らしてしまったのは花京院の方だった。
頬が熱くなっている。いい歳をして、まるで初恋をしているような気分だった。
「来週は、学校も授業もサボるなよ」
最終的に花京院が逃げ道に選んだのは、教師としての顔だった。それでも耳まで赤くしたままで、どこまで自然体を装えているかは、怪しいのだが。
「居眠りはしちまうかもな」
承太郎は茶化すことなく、花京院の照れ隠しに便乗する。
「なら、説教と反省文だな」
「上等だぜ」
得意げに言う承太郎の高い鼻を、人差し指でつんと突きながら。花京院はあれほど疎ましいと思っていたはずの笑顔を、柔らかく浮かべて見せる。
好きだ、と囁きながら、僅かの隙間もなく抱きしめてくる承太郎の背に、同じだけの思いを込めて、両腕を回す。
どうしようもなく彼に惹かれる自分を許したことで、花京院はようやく、前へ踏み出すことができそうな気がしていた。
なんの根拠もないけれど、相手が彼以外であったなら、こうはならなかったと。そう確信するのは少し、都合がよすぎるだろうか。
だけど、それでも構わない。
全てが片付いたら、ちゃんと言おう。承太郎に、なんの足枷もない姿で、自分の気持ちを伝えよう。
――それまでは。
愛しているは、まだ言えない。
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妻とは同じ大学のゼミで知り合った。
長く艶やかな黒髪をひとつにまとめ、最低限の化粧だけをした彼女は、目元にふたつ並ぶ泣きぼくろが印象的な、清楚で可愛らしい女性だった。
元々あまり人付き合いが得意な方ではない花京院だったが、物静かな彼女とは波長が合ったのか、ぽつぽつと当たり障りのない会話をしているうちに、少しずつ趣味の話をするようになって、お互いを知り、やがて恋に落ちた。
結婚したのは二十五のとき。今から二年前のことだ。
それぞれ仕事をもち、忙しい日々を送っていたが、結婚生活はそれなりに順調だったと思う。
だけどいつからか、仕事にかまけて擦れ違うことが多くなっていった。よくある話。
黒く美しかったはずの髪が緩やかなウェーブを描き、蜂蜜のような色に変わったことに気がついたのは、いつだったろう。
薄くリップを引くだけだった唇が、艶やかに色づきはじめたのは。香水の香りが、寝具に沁みつきはじめたのは――。
やがて妻は、家に帰らない日が多くなっていった。実家の母親が体調を崩したからと、父も高齢で、まるで家事ができない人だからと、そう言っては徐々に、離れていった。
時おり着替えは取りに戻って来ていたが、今では形跡があるだけで、顔を合わせる機会は皆無に等しい。
花京院にとって、彼女の両親は自分にとっても大事な人たちだ。だから時間を作って見舞いに行くと言っても、どうしてか妻はそれを頑なに拒否するのだ。迷惑をかけたくないという、一点張りだった。
そうしてほぼ別居状態の暮らしが、かれこれ半年近くになっているだろうか。
花京院だってバカじゃあない。本心では彼女が自分に隠し事をしていることには、気がついている。だけど同時に、疑うこともしたくはなかった。
なぜなら、妻を愛しているから。これからもずっと、愛し続けていけるはずだから。
――本当は真実を知るのが怖いだけ。傷つくことを、恐れているだけ。
それさえも、気がついているのだけれど。
+++
それから数日後。
花京院の運命を狂わせる発端となった出来事は、この日の午前中に起こってしまった。
「承太郎、ここは君の隠れみのじゃあないんだぞ?」
爽やかな日差しで溢れる準備室。この時間、ちょうど授業がなかった花京院が戻ってみると、そこにはあの空条承太郎の姿があった。
先日と同じように、二人は机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。
「君、今は体育の時間だろう。今日は確か――マラソンの授業だったはずだ。それがどうして体操着にすら着替えず、用もないのにこんなところにいるんだい」
花京院は眉間に皺を寄せ、険しい表情で腕組みをしていた。
いくら不良という札をぶら下げていようが、生徒は決められた時間割の中で、授業に取り組む義務がある。
「おれだって真面目に参加する気でいたんだぜ」
「よくもまあぬけぬけと。いいから、今からでも着替えて校庭に行きなさい」
承太郎は渋面を作って、組んでいた足を組みかえると、うんざりしたような息を漏らした。
「おれがいると、逆に授業の邪魔なんだがな」
「は?」
それは一体どういうことだと問いかけるより先に、開け放った窓の向こうから、秋風と共になにやら騒がしい声が流れ込んでくる。
『JOJO! JOJOはどこ!?』
『男子はマラソンなんでしょ!? JOJOがいないんじゃ、見る価値ないじゃないッ!』
『やぁ~ん、走ってるとこ写メりたいのにィ~』
「……はぁ」
花京院はそれらの甲高い声に頭痛を覚え、溜息を漏らしながら額を押さえると、立ち上がった。カラカラと音を立てて窓を閉め切れば、小うるさい声は幾らか遠のく。
JOJO、というのは、彼の渾名だ。空条承太郎――だから、JOJO。ほとんどの人間から、そう呼ばれている。
「やれやれだぜ」
「君の言い分は、まぁ百歩譲って一理あると言えなくもないが」
この日本人離れした長身の美丈夫を、世の女性が放っておくはずはない。常に女子の群れに纏わりつかれ、「やかましい」と怒鳴り上げる光景は、誰もが見慣れた光景になっている。そんな状況が授業中ですら展開されるというのは、確かに迷惑この上ないことではあるのだが。それとこれとは、話が違う。
花京院は再び椅子に掛け、承太郎を見据えると言った。
「君は学生だ。学生の本分は勉学に励むこと。怪我や病気でもない限り、授業には出席するのが道理じゃあないか?」
いくら女子生徒が暴走しようとも、それを律する役目は教師の仕事だ。なにも彼が気を使う必要など、どこにもない。
それに、ここで油を売られるのも困るのだ。花京院だって暇ではない。次の授業の準備だってしなければならないし、少しくらいは、肩の力を抜く時間だって欲しい。
最近では、定期的に薬を飲んでおかなければ不安になるほど、頭痛の頻度も増している。
しかし、承太郎は聞いているのかいないのか、ただじっと花京院の顔を見つめているだけだった。午前中の白い光の中で見るエメラルドは、夕暮れ時に見るのとはまた、印象がガラリと変わる。南国に凪ぐ海を思わせる煌めきに、意識が波にさらわれそうになるのを感じた。
(……このあいだから、ぼくはどうかしている)
いくら誰もが振り返るほどの美貌を持つ相手とはいえ、男に――しかも生徒に見惚れるなんて、あってはならないことだ。
なにか話をすり替えなくては。妙な焦燥に駆られた花京院は、承太郎から視線だけを僅かに逸らして、息をついた。
「だいたい君は、しょっちゅう学校自体をサボっているだろう。このままでは進路に響くぞ。そもそも、ちゃんと将来のことを考えているのか?」
花京院の説教じみた――実際、説教でしかないのだが――問いかけに、承太郎は一瞬、視線をゆらりと彷徨わせた。
花京院はその瞳の動きを、注意深く観察する。なにか言いたげに、けれどむっと引き結ばれた唇が、幾分か彼を年相応に見せているような気がするのは、気のせいだろうか。
「……言ってもいいけどよ」
「ああ」
「あんた、笑うぜ」
「それは聞いてみなければ分からないな。よほど非現実的な内容でない限り、生徒の希望を笑い飛ばす教師なんかいやしないさ」
その言葉を聞いて、承太郎は逸らしていた視線を花京院へ戻すと、ふぅんと微かに唸る。その後しばしの沈黙を経て、ぼそりと何かが吐き出された。
「……がくしゃ」
「なんだって?」
「学者だよ。学者。海洋生物学者」
彼の口から飛び出した、実に意外な希望を聞いて、花京院は思わず目を丸くした。しょっちゅう学校や授業をサボり、他校の生徒とケンカをし、問題ばかりを起こすような不良が、学者志望だなんて。一体だれが想像できるだろう。
承太郎は普段のクールな二枚目が嘘のように、少しだけ頬を赤らめて、唇を尖らせている。ふいっと背けられた顔を見て、彼がひどく照れているのだと気がついた花京院は、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……ノォホッ」
「……やっぱり笑いやがった」
「違う違う。ふふ、君の将来の夢を笑ったんじゃあない」
花京院は口元に添えていた手を、承太郎に向けてヒラヒラと振ってみせた。
「確かに意外には思ったけれど、君がそんな顔をするなんて……まるで不貞腐れた子供のような顔だったぞ」
あの空条承太郎が、だ。なかなか可愛いところもあるじゃあないかと、つい堪えきれずに笑ってしまったのだ。
「恥じることなどなにもないさ。立派な進路じゃあないか。わたしは君を応援しよう」
実際、彼は生活態度を除いて成績にはなんら問題はないのだ。
少々解せないが、むしろ優秀といえる生徒だった。
承太郎は思い切り舌打ちをして、赤らんだ顔を隠すように帽子の鍔を引き下げた。けれど視線だけは持ち上げて、笑みを浮かべる花京院をじっと見つめる。そして言った。
「――あんた、やっぱり笑うと可愛いな」
「ッ……!?」
「眼鏡がなけりゃあ、もっといいと思うぜ」
しまった、と、花京院は思う。そして今更のように、愕然とした。
(……嘘、だろ?)
――笑った。笑ってしまった。
驚くほどごく自然に。いつ以来なのか分からないくらい、久しぶりに。
咄嗟に片手で口元を覆った。ずっと人前では笑わないよう、仮面をつけていたはずだし、それ以前に、笑い方なんて忘れてしまっていたはずなのに。
しかも、可愛いとはなんだ。二十七の男を捕まえて、たかが十七かそこらの男子高校生が。そんな風に言われるのが嫌だから、ずっと隠していたというのに。
さっきの承太郎の非ではない。今度は花京院が顔を赤らめる番だった。いっそ耳まで熱くなるのを感じながら、動揺を抑えきれないでいると、承太郎が瞳の奥を光らせる。
「――決めたぜ」
なにを、という疑問は、声にならなかった。
「あんたをおれのものにする」
「ッ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげた花京院に、承太郎がぬっと腕を伸ばしてきた。既視感を覚えて、思わず腰が引ける。けれど承太郎の手は眼鏡には触れず、花京院の胸倉をネクタイの結び目ごと掴むと、一気にぐいと引き上げた。
「!?」
気づけば椅子から尻が離れて、すっかり立ち上がっていた。
透明なレンズ越しに、豊かに生い茂る長い睫毛が見える。信じられないくらい、近い距離に。そして唇には、生温かく柔らかな感触。これは――。
――男に、生徒に、キスを、されている……?
認識した瞬間、停止していた頭の中が、白く弾けたような気がした。力の限り、承太郎の胸を突き飛ばす。
「な、にをッ、しているんだおまえはッ!!」
声は情けなく引っくり返っていた。力いっぱい突き飛ばされたはずの承太郎よりも、花京院の方が背後によろけて、背中を窓に打ち付ける。かつてない動揺に震える手で、唇を思い切り拭った。
「なにって、キスだぜ」
これだけあからさまに拒絶されてなお、承太郎はケロリとした表情で言ってのける。花京院の脳内は、ただ悪戯に混乱するばかりだった。落ち着け、落ち着けと心のなかで念じながら、ばくばくと跳ね上がる心臓を、胸の上から押さえつける。
「どういうつもりでこんなふざけた真似をしたのか、説明してもらおう」
冷静を装い、押し殺した声で問う。承太郎が、不敵に笑った。
「あんたに惚れたということだぜ。だから、おれのものにすると決めた」
ぽかんと口を開けて、また思考が停止した。ついでに時間も止まったような気がする。こいつは何を言っているのだろうか。
――惚れた? おれのものにする?
つまり。それって。
「ぼっ、わ、わたしは、既婚者だッ!!」
瞬間的に、声を荒げていた。冗談じゃあない。寝言は寝てから言うものだ。しかも花京院にそっちの趣味はない。
どこまで本気で言っているのか、あるいは完全におちょくっているのか知らないが、そもそも相手が生徒であるという時点で、まずありえないことだ。
「これが見えないのか」
花京院は承太郎に向かって左手の甲を向けると、薬指にはまる指輪を見せつける。それでもなお、承太郎が顔色を変えることはなかった。それどころかよりいっそう不敵に、ふんと鼻で笑って見せる。そして次の瞬間、彼が放った一言に、花京院は一瞬で凍り付くことになる。
「あんた、奥さんとうまくいってねえんだろ」
「――ッ!?」
ガン、と頭部を打ち付けられたような衝撃を受ける。彼は今なんと言った? 妻と別居状態であることは、周りの人間はおろか、両親にすら話していない。それをなぜ、この男が知っているのだろうか。背中を冷たい汗が伝う。
沈黙は肯定だ。咄嗟に否定できなかったことに現実を突きつけられたような気に苛まれて、けれどこのまま認めるなんてことも、したくはなかった。
「バカなことを言うな。何を根拠に、そんなくだらないことを……そもそも、君には関係のない話だ」
花京院の憤然とした面持ちを受け、承太郎は眉だけを微かに動かした。
「ふぅん。まあいいぜ。どっちにしろ奪っちまえば同じことだ。どんな手を使ってでもよ」
「だからッ、さっきからなにをふざけてるんだ君は!」
「言われた通り、今からでも授業に顔をだすとするぜ」
承太郎はポケットに両手を突っ込むと、くるりとこちらに背を向けた。
「お、おい、承太郎ッ!」
呼びかけに一切答えず、大きな黒い背中が準備室の引き戸の向こうへ消えて行く。花京院はただ茫然としたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
+++
それからというもの。
承太郎は日に一度は、花京院がいるタイミングを見計らい、「顔を見に来た」と言って準備室を訪れるようになった。
用もないのに来るんじゃないと、何度言っても聞きやしない。
極力ふたりきりになるのを避けたい花京院は、やむなく職員室で仕事をすることが多くなっていった。
すると今度は、授業にわざと遅れて来たり、開始早々居眠りをしたりという問題行動にではじめた。そうなると他の生徒たちの手前、見過ごすわけにもいかず、結局は放課後に呼び出して、補習や指導を行わなければならない。
かといって真面目に授業を聞いているかと思えば、その視線は教科書や黒板ではなく、花京院を捉えていた。熱視線、とでもいえばいいのか。あの宝石のような瞳にじっと見つめられると、何もかも見透かされているようで、心が落ち着かない。目が合って、肉感的な唇が笑みを形作ろうものなら、不意打ちで食らった唇の感触を思い出して、胸がドキマギとするのを感じてしまう。そしてそんな自分に、何よりも嫌悪感が沸いた。
ふたりきりで準備室にいなくてはならない時間なんて、花京院にとっては地獄に等しかった。またキスでもされては堪らないと、身を固くして警戒を怠らない花京院を、承太郎はむしろ、楽しんでいる様子だった。それがまた憎らしくて、腹が立った。
けれどあれ以来、承太郎が花京院に手を出してくることは、一度もなかった。あのキスも告白も、まるで嘘のようにごく普通に補習や説教を受けて、または例の進路に関する相談をして、ある程度のところで退散していく。そのうち花京院も、あの一件はやっぱり性質の悪い冗談だったのかと、そう思うようになっていった。
授業中の視線だって、もしかしたら自分の自意識過剰がそう勘違いさせているだけ、なのかもしれないと。
承太郎は花京院の話に熱心に耳を傾けるし、海洋学を学びたいのだと話す姿は、彼がまだ少年の域をでない、未来ある若者であることを思い出させた。
正直、これまで生徒に慕われたことがなかった花京院は、承太郎と接する一時を、満更でもないと思いはじめるようになっていた。居眠りや遅刻は感心できないが、そうまでして教師としての自分を必要としてくれているのだとしたら、冥利に尽きるというものだ。だからまた徐々に、空き時間や放課後は準備室で仕事をするようになっていった。
たったそれだけで、毎日が以前よりも少し、充実したものに変化したような気さえする。最近は、以前のように妻からの連絡を待ちわびることも、少なくなったように思う。
けれど、だからといってこのままでいいというわけではない。
一度はちゃんと、彼女の顔を見て話をしなくてはならないことは、分かっていた。
+++
「そろそろちょっとくらいはその気になったか」
ある日の放課後。
ひょっこり顔を出した承太郎に、暇なら勉強でもしろと、適当にコピーした英文の読解問題を解かせながら事務作業にあたっていた花京院の背中に、その質問はおもむろに投じられた。
「なんの話だ?」
書類の改正箇所へ、新たに打ち直したものを切っては貼り付けるというアナログな作業をしていた花京院は、作業する手を止めることなくそれに応じる。
「そろそろおれのものになる気になったか、と聞いているんだぜ」
「――はあ?」
花京院は大きめの口をぱっくりと開け、眉を顰めながら上半身だけ軽く捻ると、室内の中央に一組だけ置かれたデスクセットについている承太郎を見やった。
彼はいつもの両手をポケットに捻じ込んだまま足を組むというスタイルで、花京院をじっと見つめている。
「またつまらない冗談か。あの一回きりで飽きたんじゃあなかったのか?」
「冗談でも遊びでもねえし、おれはしつこいぜ。花京院」
「はいはい、いいからそんなことより、問題は解き終わったのか? やるからには中途半端では帰らせないぞ。あと、教師を呼び捨てにするな」
全く取り合う気のない花京院は、再び自分の机に向かって手先を動かし始める。大方、問題集を解くのに飽きてしまって、手持ち無沙汰にでもなっているのだろう。勉強や進路についての相談ならいくらでも乗るが、退屈しのぎに付き合ってやるほど、こちとら暇ではない。
「これ以上しつこいと、今後は遅刻や居眠りをする度に反省文も書いてもらうからな」
「つまり、それだけあんたといられる時間が伸びるってことか」
「あのなあ……」
大きな溜息をつきながら、がくりと項垂れる。最近の高校生の間では、教師を口説くという遊びでも流行っているのだろうか。だとしたら、なんて性質が悪いのだろう。
花京院はこれ以上まともに取り合うのもバカバカしいと、肩を竦めて椅子から立ち上がった。重ねられている書類の束を両手で持ち、トントンと叩きつけて端を揃える。ホチキスはどこだったろうかと机の上をざっと見渡して、ふと、伏せられたままの写真立てで視線を止めた。
(――メールは、ちゃんと見てくれただろうか)
妻に連絡を入れたのは、昨夜のことだ。久しぶりに、一緒に夕食でもどうかと。返事は、まだない。
もし会って、話ができたら。以前と変わりない彼女の声を聞いて、その笑顔を見ることができたなら。きっとこの左手の薬指にはまる指輪を見る度に、重い溜息をつくことも、なくなるような気がした。
(きっと、戻れるさ)
写真立てに、そっと手を伸ばす。もうずっと伏せたままの小さな枠に指先で触れ、元の通りに立て直そうとした。
ゆっくりと、僅かに持ち上げたところで。
「ッ――!!」
背後から、抱きすくめられた。
心臓が止まるかと思うほどの驚きに、声も出ない。
写真立ては結局、パタリと音を立てながら、伏せられたままになってしまった。
「な……ッ」
自分よりも一回り大きな身体が、花京院の背中をすっぽりと包み込んでいた。長く、太い両腕が前にまわって、強く強く、抱きしめられる。
一体いつの間に。物思いに耽るあまり、承太郎が席から離れて背後に忍び寄っていたことに、気づくことができなかった。
「じょ、承太郎ッ、これは一体、なんのつもりだ!」
咄嗟に身を捩り、抵抗しようと試みた。けれど彼の逞しい両腕はそれを許さず、唇が耳元にぐっと押し付けられる。
「花京院」
低く、そして切ないほどに、甘い声。吐息のように吹き込まれたそれに、花京院はギクリとして息を飲む。
瞬間、胸の内側からカァッと熱くなって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「奥さんとは、うまくいってんのか」
承太郎の声が、じわりと鼓膜を震わせる。不覚にも身体が跳ねてしまったことを恥じながら、花京院は「当たり前だ」と、精いっぱい声を絞り出した。
「もういいだろう? わたしは、こういう冗談は、嫌いだ」
背中から、承太郎の熱と鼓動がダイレクトに伝わって来る。
胸を押し上げられているかのように、息をすることもままならなかった。
「あんたの腰、細すぎだ。折っちまいそうだぜ」
「は、話を聞け……ッ」
「ちゃんと食ってるか? ゆうべは? 今朝は? なにを食った?」
「承太郎ッ! もう本当に、いい加減にしないと――」
「作ってくれるはずの誰かさん、あんたんとこに帰ってねえだろ」
一瞬で、凍り付く。身体中の血液が、サァッと足元まで引いていき、そのまま床に流れ出してしまったみたいに、花京院は全身が冷たくなっていくのを感じた。
――図星。
この男はなぜこうも見透かしたように、核心を突いてくるのだろう。それは花京院にとって屈辱でしかなかった。
「おまえには関係ないッ!!」
力の限り声を張り上げ、承太郎の両腕を引き剥がすようにしながら、思い切り身を捩った。とにかく、ここから早く脱出しなくては。今はそれしか考えられなかった。
花京院には、築き上げてきた秩序というものがある。それがどんなに危ういものであったとしても、こんなところで壊されたのでは、堪らない。
承太郎は、一度は花京院の抵抗を許したかに見えた。けれどその両手は決して逃がさないとでもいうかのように、今度は花京院の肩を正面から抱き込み、そして長い襟足を掴む。
「ッ、ぅ、んッ!?」
全てが一瞬のことだった。ガツン、と歯と歯がぶつかって、頭の中がクラッとする。肉厚な唇の感触に、またキスをされているのだと気がついて、承太郎の肩に爪を立てながら、滅茶苦茶に暴れようとした。けれどその前に、ぬるりと口内に舌が潜り込んできて、戦慄する。
(こ、こいつ……ッ!)
本気かと、花京院は承太郎の正気を疑った。悪ふざけでここまでするのかと。同時に、これは本当に悪ふざけなのだろうかと。混乱の隙間をぬって、疑問が首をもたげる。
潜り込んできた舌は、花京院の口内を暴れまわっていた。
歯列をなぞり、口蓋を舐め上げ、奥で萎縮する舌を強引に捕えては、乱暴に絡みついた。
「はッ、んぐ、ぅ――や、め」
そして、聞き分けのなさを咎めるように、歯を立てる。
奪いつくすようなキスは、ただただ傲慢で、労りがない。どうにかして引き剥がそうともがいてみても、呼吸すら奪われた状態では、悪戯に体力を消耗するだけだった。そのうち、酸欠に脳内がぼうっとしてくる。
(なん、て)
我儘で、ガキ臭いキスをするのだろう。
だけど、必死さだけは伝わった。欲しいものが手に入らずに、泣き喚く子供のようなキス。だから花京院には、嫌でも分かってしまった。
――彼は、本気なのだと。
冗談でも、からかっているのでもなく、この男は真剣なのだ。
惚れたと言ったあの言葉は、嘘でもなんでもなく。
(どうして、ぼくは)
それが分かった瞬間、承太郎の肩に爪を立てるだけだった手が、縋るようなものに変わってしまった。
ただただ必死な拙い口付けに、胸をうたれている自分を自覚する。身体が、自分の戸惑いを置き去りにして、承太郎を受け入れる態勢に入っていた。
こんな風に、誰かに激しく求められるのは。思いだせないくらい、久しぶりのことだった。あるいは、初めてだったのかもしれない。これほどまでの情熱を、花京院は知らなかった。
奥深い場所から、不思議な熱が込み上げてくる。
「あんたが欲しい」
くったりと力を失くした花京院の身体を、強く抱きしめて承太郎が言った。熱っぽく掠れた、吐息のような声に、皮膚を内側から焼かれているような気にさせられる。
「あんたが、先生が……好きだ」
――ああ。
こんなにも真っ直ぐに。まるで体当たりでもするみたいに。
愛情をぶつけられたことが、あっただろうか。
いっそ自分の立場も、彼が未成年であり、教え子であることも忘れて、このまま身を委ねてしまえたら。どんなに楽だろう。
どんなに、幸福なことだろう。誰だってただ求めるばかりでいるよりも、求められた方が、ずっと――。
ゆらりと顔を上げれば、レンズ越しに承太郎と視線がぶつかった。いま自分は一体、どんな惚けた顔をしているのだろうか。
けれどそれ以上に、承太郎のエメラルドが、まるで泣きだしそうに潤んでいるから。
――承太郎、と。
甘ったるい声で、名前を呼びそうになって。
しかし次の瞬間、どこからか発される無機質なバイブ音に、冷水をかぶったように肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「ッ……!?」
息を飲んだのは、多分、同時だ。一瞬で正気に戻った花京院は、承太郎の身体を突き飛ばしていた。
どこか呆然とした表情でいる承太郎から距離を取る。バイブ音は、花京院のポケットから響き渡り、やがて消えた。
「……わたしは、既婚者だ」
いつかも言った台詞。あのときよりも、声が震えている。
「君のような子供と、どうこうなるつもりはない」
承太郎のほんのり濡れた唇が、ぐっと引き結ばれた。
「わたしは妻を――愛している」
まるで自分に言い聞かせるように、花京院は一言一言、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「二度と、こんな真似をしたら許さない」
冷たく言い捨てて、花京院は承太郎から顔を背けると、準備室を後にした。
+++
心臓が暴れる音を聞きながら、廊下を速足で歩く。
承太郎の唇の感触や、力強い腕の温もりが、まだ身体中にこびりついているようだった。
(忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ)
どうかしていただけだ。柄にもなく、絆されかけただけ。
こんなことは、絶対にあってはならないことなのだ。
「痛ッ……!」
ドクドクという血液の流れが、そのまま脳内で頭痛を引き起こす。もうじき校舎の突き当りという階段手前で、花京院は足を止めると壁に手をついた。そのままずるずると、膝をつく。
――離れない。承太郎の熱が、唇が、声が。
どうやっても、離れていってくれない。
藁にも縋る思いで、花京院はスーツのポケットに手を捻じ込んだ。携帯を取り出し、妻からメールが来ていることを確認する。少しだけ、ホッとした。
震える指先で、ぎこちなく画面を操作する。
『返事が遅れてごめんなさい。
仕事も忙しいし、まだしばらく帰れそうにないわ。
余裕ができたら、私の方から連絡するから。
せっかくだけど、ごめんなさい』
――普通なら。
普通の夫なら、とっくに問い詰めていたのだろうか。
妻の化粧や、髪の色や、香水の匂いに気づいた時点で、何か声をかけていたのだろうか。少しずつ家から足が遠のく妻を、ここまで放っておくものだろうか。
(本当は、ちゃんと分かっていた)
妻は嘘をついている。彼女の気持ちは、おそらくもうこちらに向いてはいないのだろう。
だけど、それを確かめるのが怖かった。真実を知るのが怖かった。妻を信じ続ける夫でありたかった。
それなのに、妻を愛しているのだと承太郎に言い放った瞬間、奇妙な後ろめたさを覚えたのは、なぜだろう。
←戻る ・ 次へ→
長く艶やかな黒髪をひとつにまとめ、最低限の化粧だけをした彼女は、目元にふたつ並ぶ泣きぼくろが印象的な、清楚で可愛らしい女性だった。
元々あまり人付き合いが得意な方ではない花京院だったが、物静かな彼女とは波長が合ったのか、ぽつぽつと当たり障りのない会話をしているうちに、少しずつ趣味の話をするようになって、お互いを知り、やがて恋に落ちた。
結婚したのは二十五のとき。今から二年前のことだ。
それぞれ仕事をもち、忙しい日々を送っていたが、結婚生活はそれなりに順調だったと思う。
だけどいつからか、仕事にかまけて擦れ違うことが多くなっていった。よくある話。
黒く美しかったはずの髪が緩やかなウェーブを描き、蜂蜜のような色に変わったことに気がついたのは、いつだったろう。
薄くリップを引くだけだった唇が、艶やかに色づきはじめたのは。香水の香りが、寝具に沁みつきはじめたのは――。
やがて妻は、家に帰らない日が多くなっていった。実家の母親が体調を崩したからと、父も高齢で、まるで家事ができない人だからと、そう言っては徐々に、離れていった。
時おり着替えは取りに戻って来ていたが、今では形跡があるだけで、顔を合わせる機会は皆無に等しい。
花京院にとって、彼女の両親は自分にとっても大事な人たちだ。だから時間を作って見舞いに行くと言っても、どうしてか妻はそれを頑なに拒否するのだ。迷惑をかけたくないという、一点張りだった。
そうしてほぼ別居状態の暮らしが、かれこれ半年近くになっているだろうか。
花京院だってバカじゃあない。本心では彼女が自分に隠し事をしていることには、気がついている。だけど同時に、疑うこともしたくはなかった。
なぜなら、妻を愛しているから。これからもずっと、愛し続けていけるはずだから。
――本当は真実を知るのが怖いだけ。傷つくことを、恐れているだけ。
それさえも、気がついているのだけれど。
+++
それから数日後。
花京院の運命を狂わせる発端となった出来事は、この日の午前中に起こってしまった。
「承太郎、ここは君の隠れみのじゃあないんだぞ?」
爽やかな日差しで溢れる準備室。この時間、ちょうど授業がなかった花京院が戻ってみると、そこにはあの空条承太郎の姿があった。
先日と同じように、二人は机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。
「君、今は体育の時間だろう。今日は確か――マラソンの授業だったはずだ。それがどうして体操着にすら着替えず、用もないのにこんなところにいるんだい」
花京院は眉間に皺を寄せ、険しい表情で腕組みをしていた。
いくら不良という札をぶら下げていようが、生徒は決められた時間割の中で、授業に取り組む義務がある。
「おれだって真面目に参加する気でいたんだぜ」
「よくもまあぬけぬけと。いいから、今からでも着替えて校庭に行きなさい」
承太郎は渋面を作って、組んでいた足を組みかえると、うんざりしたような息を漏らした。
「おれがいると、逆に授業の邪魔なんだがな」
「は?」
それは一体どういうことだと問いかけるより先に、開け放った窓の向こうから、秋風と共になにやら騒がしい声が流れ込んでくる。
『JOJO! JOJOはどこ!?』
『男子はマラソンなんでしょ!? JOJOがいないんじゃ、見る価値ないじゃないッ!』
『やぁ~ん、走ってるとこ写メりたいのにィ~』
「……はぁ」
花京院はそれらの甲高い声に頭痛を覚え、溜息を漏らしながら額を押さえると、立ち上がった。カラカラと音を立てて窓を閉め切れば、小うるさい声は幾らか遠のく。
JOJO、というのは、彼の渾名だ。空条承太郎――だから、JOJO。ほとんどの人間から、そう呼ばれている。
「やれやれだぜ」
「君の言い分は、まぁ百歩譲って一理あると言えなくもないが」
この日本人離れした長身の美丈夫を、世の女性が放っておくはずはない。常に女子の群れに纏わりつかれ、「やかましい」と怒鳴り上げる光景は、誰もが見慣れた光景になっている。そんな状況が授業中ですら展開されるというのは、確かに迷惑この上ないことではあるのだが。それとこれとは、話が違う。
花京院は再び椅子に掛け、承太郎を見据えると言った。
「君は学生だ。学生の本分は勉学に励むこと。怪我や病気でもない限り、授業には出席するのが道理じゃあないか?」
いくら女子生徒が暴走しようとも、それを律する役目は教師の仕事だ。なにも彼が気を使う必要など、どこにもない。
それに、ここで油を売られるのも困るのだ。花京院だって暇ではない。次の授業の準備だってしなければならないし、少しくらいは、肩の力を抜く時間だって欲しい。
最近では、定期的に薬を飲んでおかなければ不安になるほど、頭痛の頻度も増している。
しかし、承太郎は聞いているのかいないのか、ただじっと花京院の顔を見つめているだけだった。午前中の白い光の中で見るエメラルドは、夕暮れ時に見るのとはまた、印象がガラリと変わる。南国に凪ぐ海を思わせる煌めきに、意識が波にさらわれそうになるのを感じた。
(……このあいだから、ぼくはどうかしている)
いくら誰もが振り返るほどの美貌を持つ相手とはいえ、男に――しかも生徒に見惚れるなんて、あってはならないことだ。
なにか話をすり替えなくては。妙な焦燥に駆られた花京院は、承太郎から視線だけを僅かに逸らして、息をついた。
「だいたい君は、しょっちゅう学校自体をサボっているだろう。このままでは進路に響くぞ。そもそも、ちゃんと将来のことを考えているのか?」
花京院の説教じみた――実際、説教でしかないのだが――問いかけに、承太郎は一瞬、視線をゆらりと彷徨わせた。
花京院はその瞳の動きを、注意深く観察する。なにか言いたげに、けれどむっと引き結ばれた唇が、幾分か彼を年相応に見せているような気がするのは、気のせいだろうか。
「……言ってもいいけどよ」
「ああ」
「あんた、笑うぜ」
「それは聞いてみなければ分からないな。よほど非現実的な内容でない限り、生徒の希望を笑い飛ばす教師なんかいやしないさ」
その言葉を聞いて、承太郎は逸らしていた視線を花京院へ戻すと、ふぅんと微かに唸る。その後しばしの沈黙を経て、ぼそりと何かが吐き出された。
「……がくしゃ」
「なんだって?」
「学者だよ。学者。海洋生物学者」
彼の口から飛び出した、実に意外な希望を聞いて、花京院は思わず目を丸くした。しょっちゅう学校や授業をサボり、他校の生徒とケンカをし、問題ばかりを起こすような不良が、学者志望だなんて。一体だれが想像できるだろう。
承太郎は普段のクールな二枚目が嘘のように、少しだけ頬を赤らめて、唇を尖らせている。ふいっと背けられた顔を見て、彼がひどく照れているのだと気がついた花京院は、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……ノォホッ」
「……やっぱり笑いやがった」
「違う違う。ふふ、君の将来の夢を笑ったんじゃあない」
花京院は口元に添えていた手を、承太郎に向けてヒラヒラと振ってみせた。
「確かに意外には思ったけれど、君がそんな顔をするなんて……まるで不貞腐れた子供のような顔だったぞ」
あの空条承太郎が、だ。なかなか可愛いところもあるじゃあないかと、つい堪えきれずに笑ってしまったのだ。
「恥じることなどなにもないさ。立派な進路じゃあないか。わたしは君を応援しよう」
実際、彼は生活態度を除いて成績にはなんら問題はないのだ。
少々解せないが、むしろ優秀といえる生徒だった。
承太郎は思い切り舌打ちをして、赤らんだ顔を隠すように帽子の鍔を引き下げた。けれど視線だけは持ち上げて、笑みを浮かべる花京院をじっと見つめる。そして言った。
「――あんた、やっぱり笑うと可愛いな」
「ッ……!?」
「眼鏡がなけりゃあ、もっといいと思うぜ」
しまった、と、花京院は思う。そして今更のように、愕然とした。
(……嘘、だろ?)
――笑った。笑ってしまった。
驚くほどごく自然に。いつ以来なのか分からないくらい、久しぶりに。
咄嗟に片手で口元を覆った。ずっと人前では笑わないよう、仮面をつけていたはずだし、それ以前に、笑い方なんて忘れてしまっていたはずなのに。
しかも、可愛いとはなんだ。二十七の男を捕まえて、たかが十七かそこらの男子高校生が。そんな風に言われるのが嫌だから、ずっと隠していたというのに。
さっきの承太郎の非ではない。今度は花京院が顔を赤らめる番だった。いっそ耳まで熱くなるのを感じながら、動揺を抑えきれないでいると、承太郎が瞳の奥を光らせる。
「――決めたぜ」
なにを、という疑問は、声にならなかった。
「あんたをおれのものにする」
「ッ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげた花京院に、承太郎がぬっと腕を伸ばしてきた。既視感を覚えて、思わず腰が引ける。けれど承太郎の手は眼鏡には触れず、花京院の胸倉をネクタイの結び目ごと掴むと、一気にぐいと引き上げた。
「!?」
気づけば椅子から尻が離れて、すっかり立ち上がっていた。
透明なレンズ越しに、豊かに生い茂る長い睫毛が見える。信じられないくらい、近い距離に。そして唇には、生温かく柔らかな感触。これは――。
――男に、生徒に、キスを、されている……?
認識した瞬間、停止していた頭の中が、白く弾けたような気がした。力の限り、承太郎の胸を突き飛ばす。
「な、にをッ、しているんだおまえはッ!!」
声は情けなく引っくり返っていた。力いっぱい突き飛ばされたはずの承太郎よりも、花京院の方が背後によろけて、背中を窓に打ち付ける。かつてない動揺に震える手で、唇を思い切り拭った。
「なにって、キスだぜ」
これだけあからさまに拒絶されてなお、承太郎はケロリとした表情で言ってのける。花京院の脳内は、ただ悪戯に混乱するばかりだった。落ち着け、落ち着けと心のなかで念じながら、ばくばくと跳ね上がる心臓を、胸の上から押さえつける。
「どういうつもりでこんなふざけた真似をしたのか、説明してもらおう」
冷静を装い、押し殺した声で問う。承太郎が、不敵に笑った。
「あんたに惚れたということだぜ。だから、おれのものにすると決めた」
ぽかんと口を開けて、また思考が停止した。ついでに時間も止まったような気がする。こいつは何を言っているのだろうか。
――惚れた? おれのものにする?
つまり。それって。
「ぼっ、わ、わたしは、既婚者だッ!!」
瞬間的に、声を荒げていた。冗談じゃあない。寝言は寝てから言うものだ。しかも花京院にそっちの趣味はない。
どこまで本気で言っているのか、あるいは完全におちょくっているのか知らないが、そもそも相手が生徒であるという時点で、まずありえないことだ。
「これが見えないのか」
花京院は承太郎に向かって左手の甲を向けると、薬指にはまる指輪を見せつける。それでもなお、承太郎が顔色を変えることはなかった。それどころかよりいっそう不敵に、ふんと鼻で笑って見せる。そして次の瞬間、彼が放った一言に、花京院は一瞬で凍り付くことになる。
「あんた、奥さんとうまくいってねえんだろ」
「――ッ!?」
ガン、と頭部を打ち付けられたような衝撃を受ける。彼は今なんと言った? 妻と別居状態であることは、周りの人間はおろか、両親にすら話していない。それをなぜ、この男が知っているのだろうか。背中を冷たい汗が伝う。
沈黙は肯定だ。咄嗟に否定できなかったことに現実を突きつけられたような気に苛まれて、けれどこのまま認めるなんてことも、したくはなかった。
「バカなことを言うな。何を根拠に、そんなくだらないことを……そもそも、君には関係のない話だ」
花京院の憤然とした面持ちを受け、承太郎は眉だけを微かに動かした。
「ふぅん。まあいいぜ。どっちにしろ奪っちまえば同じことだ。どんな手を使ってでもよ」
「だからッ、さっきからなにをふざけてるんだ君は!」
「言われた通り、今からでも授業に顔をだすとするぜ」
承太郎はポケットに両手を突っ込むと、くるりとこちらに背を向けた。
「お、おい、承太郎ッ!」
呼びかけに一切答えず、大きな黒い背中が準備室の引き戸の向こうへ消えて行く。花京院はただ茫然としたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
+++
それからというもの。
承太郎は日に一度は、花京院がいるタイミングを見計らい、「顔を見に来た」と言って準備室を訪れるようになった。
用もないのに来るんじゃないと、何度言っても聞きやしない。
極力ふたりきりになるのを避けたい花京院は、やむなく職員室で仕事をすることが多くなっていった。
すると今度は、授業にわざと遅れて来たり、開始早々居眠りをしたりという問題行動にではじめた。そうなると他の生徒たちの手前、見過ごすわけにもいかず、結局は放課後に呼び出して、補習や指導を行わなければならない。
かといって真面目に授業を聞いているかと思えば、その視線は教科書や黒板ではなく、花京院を捉えていた。熱視線、とでもいえばいいのか。あの宝石のような瞳にじっと見つめられると、何もかも見透かされているようで、心が落ち着かない。目が合って、肉感的な唇が笑みを形作ろうものなら、不意打ちで食らった唇の感触を思い出して、胸がドキマギとするのを感じてしまう。そしてそんな自分に、何よりも嫌悪感が沸いた。
ふたりきりで準備室にいなくてはならない時間なんて、花京院にとっては地獄に等しかった。またキスでもされては堪らないと、身を固くして警戒を怠らない花京院を、承太郎はむしろ、楽しんでいる様子だった。それがまた憎らしくて、腹が立った。
けれどあれ以来、承太郎が花京院に手を出してくることは、一度もなかった。あのキスも告白も、まるで嘘のようにごく普通に補習や説教を受けて、または例の進路に関する相談をして、ある程度のところで退散していく。そのうち花京院も、あの一件はやっぱり性質の悪い冗談だったのかと、そう思うようになっていった。
授業中の視線だって、もしかしたら自分の自意識過剰がそう勘違いさせているだけ、なのかもしれないと。
承太郎は花京院の話に熱心に耳を傾けるし、海洋学を学びたいのだと話す姿は、彼がまだ少年の域をでない、未来ある若者であることを思い出させた。
正直、これまで生徒に慕われたことがなかった花京院は、承太郎と接する一時を、満更でもないと思いはじめるようになっていた。居眠りや遅刻は感心できないが、そうまでして教師としての自分を必要としてくれているのだとしたら、冥利に尽きるというものだ。だからまた徐々に、空き時間や放課後は準備室で仕事をするようになっていった。
たったそれだけで、毎日が以前よりも少し、充実したものに変化したような気さえする。最近は、以前のように妻からの連絡を待ちわびることも、少なくなったように思う。
けれど、だからといってこのままでいいというわけではない。
一度はちゃんと、彼女の顔を見て話をしなくてはならないことは、分かっていた。
+++
「そろそろちょっとくらいはその気になったか」
ある日の放課後。
ひょっこり顔を出した承太郎に、暇なら勉強でもしろと、適当にコピーした英文の読解問題を解かせながら事務作業にあたっていた花京院の背中に、その質問はおもむろに投じられた。
「なんの話だ?」
書類の改正箇所へ、新たに打ち直したものを切っては貼り付けるというアナログな作業をしていた花京院は、作業する手を止めることなくそれに応じる。
「そろそろおれのものになる気になったか、と聞いているんだぜ」
「――はあ?」
花京院は大きめの口をぱっくりと開け、眉を顰めながら上半身だけ軽く捻ると、室内の中央に一組だけ置かれたデスクセットについている承太郎を見やった。
彼はいつもの両手をポケットに捻じ込んだまま足を組むというスタイルで、花京院をじっと見つめている。
「またつまらない冗談か。あの一回きりで飽きたんじゃあなかったのか?」
「冗談でも遊びでもねえし、おれはしつこいぜ。花京院」
「はいはい、いいからそんなことより、問題は解き終わったのか? やるからには中途半端では帰らせないぞ。あと、教師を呼び捨てにするな」
全く取り合う気のない花京院は、再び自分の机に向かって手先を動かし始める。大方、問題集を解くのに飽きてしまって、手持ち無沙汰にでもなっているのだろう。勉強や進路についての相談ならいくらでも乗るが、退屈しのぎに付き合ってやるほど、こちとら暇ではない。
「これ以上しつこいと、今後は遅刻や居眠りをする度に反省文も書いてもらうからな」
「つまり、それだけあんたといられる時間が伸びるってことか」
「あのなあ……」
大きな溜息をつきながら、がくりと項垂れる。最近の高校生の間では、教師を口説くという遊びでも流行っているのだろうか。だとしたら、なんて性質が悪いのだろう。
花京院はこれ以上まともに取り合うのもバカバカしいと、肩を竦めて椅子から立ち上がった。重ねられている書類の束を両手で持ち、トントンと叩きつけて端を揃える。ホチキスはどこだったろうかと机の上をざっと見渡して、ふと、伏せられたままの写真立てで視線を止めた。
(――メールは、ちゃんと見てくれただろうか)
妻に連絡を入れたのは、昨夜のことだ。久しぶりに、一緒に夕食でもどうかと。返事は、まだない。
もし会って、話ができたら。以前と変わりない彼女の声を聞いて、その笑顔を見ることができたなら。きっとこの左手の薬指にはまる指輪を見る度に、重い溜息をつくことも、なくなるような気がした。
(きっと、戻れるさ)
写真立てに、そっと手を伸ばす。もうずっと伏せたままの小さな枠に指先で触れ、元の通りに立て直そうとした。
ゆっくりと、僅かに持ち上げたところで。
「ッ――!!」
背後から、抱きすくめられた。
心臓が止まるかと思うほどの驚きに、声も出ない。
写真立ては結局、パタリと音を立てながら、伏せられたままになってしまった。
「な……ッ」
自分よりも一回り大きな身体が、花京院の背中をすっぽりと包み込んでいた。長く、太い両腕が前にまわって、強く強く、抱きしめられる。
一体いつの間に。物思いに耽るあまり、承太郎が席から離れて背後に忍び寄っていたことに、気づくことができなかった。
「じょ、承太郎ッ、これは一体、なんのつもりだ!」
咄嗟に身を捩り、抵抗しようと試みた。けれど彼の逞しい両腕はそれを許さず、唇が耳元にぐっと押し付けられる。
「花京院」
低く、そして切ないほどに、甘い声。吐息のように吹き込まれたそれに、花京院はギクリとして息を飲む。
瞬間、胸の内側からカァッと熱くなって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「奥さんとは、うまくいってんのか」
承太郎の声が、じわりと鼓膜を震わせる。不覚にも身体が跳ねてしまったことを恥じながら、花京院は「当たり前だ」と、精いっぱい声を絞り出した。
「もういいだろう? わたしは、こういう冗談は、嫌いだ」
背中から、承太郎の熱と鼓動がダイレクトに伝わって来る。
胸を押し上げられているかのように、息をすることもままならなかった。
「あんたの腰、細すぎだ。折っちまいそうだぜ」
「は、話を聞け……ッ」
「ちゃんと食ってるか? ゆうべは? 今朝は? なにを食った?」
「承太郎ッ! もう本当に、いい加減にしないと――」
「作ってくれるはずの誰かさん、あんたんとこに帰ってねえだろ」
一瞬で、凍り付く。身体中の血液が、サァッと足元まで引いていき、そのまま床に流れ出してしまったみたいに、花京院は全身が冷たくなっていくのを感じた。
――図星。
この男はなぜこうも見透かしたように、核心を突いてくるのだろう。それは花京院にとって屈辱でしかなかった。
「おまえには関係ないッ!!」
力の限り声を張り上げ、承太郎の両腕を引き剥がすようにしながら、思い切り身を捩った。とにかく、ここから早く脱出しなくては。今はそれしか考えられなかった。
花京院には、築き上げてきた秩序というものがある。それがどんなに危ういものであったとしても、こんなところで壊されたのでは、堪らない。
承太郎は、一度は花京院の抵抗を許したかに見えた。けれどその両手は決して逃がさないとでもいうかのように、今度は花京院の肩を正面から抱き込み、そして長い襟足を掴む。
「ッ、ぅ、んッ!?」
全てが一瞬のことだった。ガツン、と歯と歯がぶつかって、頭の中がクラッとする。肉厚な唇の感触に、またキスをされているのだと気がついて、承太郎の肩に爪を立てながら、滅茶苦茶に暴れようとした。けれどその前に、ぬるりと口内に舌が潜り込んできて、戦慄する。
(こ、こいつ……ッ!)
本気かと、花京院は承太郎の正気を疑った。悪ふざけでここまでするのかと。同時に、これは本当に悪ふざけなのだろうかと。混乱の隙間をぬって、疑問が首をもたげる。
潜り込んできた舌は、花京院の口内を暴れまわっていた。
歯列をなぞり、口蓋を舐め上げ、奥で萎縮する舌を強引に捕えては、乱暴に絡みついた。
「はッ、んぐ、ぅ――や、め」
そして、聞き分けのなさを咎めるように、歯を立てる。
奪いつくすようなキスは、ただただ傲慢で、労りがない。どうにかして引き剥がそうともがいてみても、呼吸すら奪われた状態では、悪戯に体力を消耗するだけだった。そのうち、酸欠に脳内がぼうっとしてくる。
(なん、て)
我儘で、ガキ臭いキスをするのだろう。
だけど、必死さだけは伝わった。欲しいものが手に入らずに、泣き喚く子供のようなキス。だから花京院には、嫌でも分かってしまった。
――彼は、本気なのだと。
冗談でも、からかっているのでもなく、この男は真剣なのだ。
惚れたと言ったあの言葉は、嘘でもなんでもなく。
(どうして、ぼくは)
それが分かった瞬間、承太郎の肩に爪を立てるだけだった手が、縋るようなものに変わってしまった。
ただただ必死な拙い口付けに、胸をうたれている自分を自覚する。身体が、自分の戸惑いを置き去りにして、承太郎を受け入れる態勢に入っていた。
こんな風に、誰かに激しく求められるのは。思いだせないくらい、久しぶりのことだった。あるいは、初めてだったのかもしれない。これほどまでの情熱を、花京院は知らなかった。
奥深い場所から、不思議な熱が込み上げてくる。
「あんたが欲しい」
くったりと力を失くした花京院の身体を、強く抱きしめて承太郎が言った。熱っぽく掠れた、吐息のような声に、皮膚を内側から焼かれているような気にさせられる。
「あんたが、先生が……好きだ」
――ああ。
こんなにも真っ直ぐに。まるで体当たりでもするみたいに。
愛情をぶつけられたことが、あっただろうか。
いっそ自分の立場も、彼が未成年であり、教え子であることも忘れて、このまま身を委ねてしまえたら。どんなに楽だろう。
どんなに、幸福なことだろう。誰だってただ求めるばかりでいるよりも、求められた方が、ずっと――。
ゆらりと顔を上げれば、レンズ越しに承太郎と視線がぶつかった。いま自分は一体、どんな惚けた顔をしているのだろうか。
けれどそれ以上に、承太郎のエメラルドが、まるで泣きだしそうに潤んでいるから。
――承太郎、と。
甘ったるい声で、名前を呼びそうになって。
しかし次の瞬間、どこからか発される無機質なバイブ音に、冷水をかぶったように肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「ッ……!?」
息を飲んだのは、多分、同時だ。一瞬で正気に戻った花京院は、承太郎の身体を突き飛ばしていた。
どこか呆然とした表情でいる承太郎から距離を取る。バイブ音は、花京院のポケットから響き渡り、やがて消えた。
「……わたしは、既婚者だ」
いつかも言った台詞。あのときよりも、声が震えている。
「君のような子供と、どうこうなるつもりはない」
承太郎のほんのり濡れた唇が、ぐっと引き結ばれた。
「わたしは妻を――愛している」
まるで自分に言い聞かせるように、花京院は一言一言、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「二度と、こんな真似をしたら許さない」
冷たく言い捨てて、花京院は承太郎から顔を背けると、準備室を後にした。
+++
心臓が暴れる音を聞きながら、廊下を速足で歩く。
承太郎の唇の感触や、力強い腕の温もりが、まだ身体中にこびりついているようだった。
(忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ)
どうかしていただけだ。柄にもなく、絆されかけただけ。
こんなことは、絶対にあってはならないことなのだ。
「痛ッ……!」
ドクドクという血液の流れが、そのまま脳内で頭痛を引き起こす。もうじき校舎の突き当りという階段手前で、花京院は足を止めると壁に手をついた。そのままずるずると、膝をつく。
――離れない。承太郎の熱が、唇が、声が。
どうやっても、離れていってくれない。
藁にも縋る思いで、花京院はスーツのポケットに手を捻じ込んだ。携帯を取り出し、妻からメールが来ていることを確認する。少しだけ、ホッとした。
震える指先で、ぎこちなく画面を操作する。
『返事が遅れてごめんなさい。
仕事も忙しいし、まだしばらく帰れそうにないわ。
余裕ができたら、私の方から連絡するから。
せっかくだけど、ごめんなさい』
――普通なら。
普通の夫なら、とっくに問い詰めていたのだろうか。
妻の化粧や、髪の色や、香水の匂いに気づいた時点で、何か声をかけていたのだろうか。少しずつ家から足が遠のく妻を、ここまで放っておくものだろうか。
(本当は、ちゃんと分かっていた)
妻は嘘をついている。彼女の気持ちは、おそらくもうこちらに向いてはいないのだろう。
だけど、それを確かめるのが怖かった。真実を知るのが怖かった。妻を信じ続ける夫でありたかった。
それなのに、妻を愛しているのだと承太郎に言い放った瞬間、奇妙な後ろめたさを覚えたのは、なぜだろう。
←戻る ・ 次へ→
泣き崩れるような激しさで、雨音が響いていた。
薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
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薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
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*うさぎのマウンティング行動、強引な性描写やレイプシーンもあります。
*甲洋は非童貞。過去に女性経験があります(甲洋×女モブ描写あり)
*甲洋の性格が歪んでいます。顔がいいことを自覚してのクズ思考。喫煙描写もあり。
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