黒鋼、これでも我慢してるの巻
ファイが人間の姿になってから、割と自炊することが多くなった。
一人分の食事というのはなかなか作るのも面倒で、今のような冬場であればまだしも、夏場に作りすぎでもしたら目も当てられない。
ついつい弁当やカップ麺なんかで済ませがちだったが、流石にファイにまでそんなものばかり食べさせるのは気が引けた。
手の込んだものは作れないし、味に関して言えば自信の欠片もなかったが。
ファイは猫のくせに生魚だけは苦手のようだったが、それ以外に好き嫌いはないようだった。
一見して食が細そうなひょろ長の容姿をしているが、出されたものは基本的に残さず食べる。
慣れない手つきでフォークやスプーンを掴む手だとか、満腹になったあとに猫の頃を思い出して手の甲を舐める姿なんかは、密かに黒鋼のお気に入りだった。
その日は大学の帰りにスーパーへ寄って、カレーの材料を買うと帰宅した。
すると、いつもは足音がするだけで玄関先まで出迎えに来るファイの姿がない。
しかも明かりが灯っておらず、真っ暗だった。
「おい? 帰ったぞ」
声をかけてもシンと静まりかえるばかりで、何の返事もない。
まさかまだ散歩から帰ってないのだろうか。不審に思いつつ部屋の明かりをつけた。
するとそこには……。
部屋の中央でうつ伏せになって、まるで何かに手を伸ばそうとしているような状態で倒れこんでいる、ファイの姿があった。
「!?」
さながら殺人現場の死体のような姿勢で、これで指先部分に血文字でダイイングメッセージでも書かれていたら完璧だった。
「おい!? どうした!? しっかりしろ!!」
慌てて膝をついてぐったりした身体を揺すった。
一体ファイの身に何が起こったのか。救急車……を呼ぶのは不味い。ならば例の怪しげな携帯を使って、あのとっつきにくい魔法使いを呼び出すしか……などと考えて焦る黒鋼だったが、次の瞬間、気が抜けた。
「ぐぅ」
というイビキが聞こえたからだ。
「……」
一瞬ピキッと凍りついて、それから深く息を吐き出しながら床に胡坐をかく。
「寝てんのかよ……」
それにしても、なんという紛らわしい寝姿だろうか。
呆れてガリガリと頭を掻いていると、ファイの白い尻尾がピクンと動いた。
「……あれぇ」
「……起きたか」
「え!? あれ!? 寝てた!? オレ寝てた!?」
ガバッと勢いよく起きあがったファイは、キョロキョロと辺りを見回した。
「紛らわしい格好でイビキかいてんじゃねぇよ……」
「うわー!? いつの間にー!? 呑気に居眠りとかバカー!」
なぜかとんでもなく驚きながら自分を責めているらしい彼の頬には、畳の痕が僅かについていた。
そしてファイは黒鋼が帰宅したことを理解するとパっと目を輝かせて、いつものように抱きつこうと両手を広げた。
が、そのままの姿勢でなぜか動かなくなった。
「?」
よし来い、しょうがねぇから受け止めてやる……という気満々だった黒鋼は、様子のおかしいファイに眉をピクリと動かす。
「どうした?」
「……うん」
ファイはどこか気まずそうに肩を竦めると、目を泳がせている。
「なんだよ。体調悪ぃなら今日は風呂はいいぞ」
仕方のないことだったとはいえ、ファイは風呂に関して尋常ではない嫌がり方をする。
それでも人間として暮らしている以上、入浴は欠かせないものだ。
しかも嫌がるからと放っておけば、あの小姑のような魔法使いに何を言われるかわかったものではない。
最初こそ双子かと思いはしたが、彼らはただ同じ姿をしているだけで、全くの別物だった。
それにしても、である。
これほど元気がない様子を見るのは、連れて来た始めの頃を覗けば初めてのことで、黒鋼はどことなく違和感を覚えた。
「なにかあったか?」
聞くと、ファイはおずおずとこちらに上目づかいを寄こした。
それから何か言いたげに口を開きかけたが、すぐにきゅっと噤んでしまう。
「?」
今は言葉が通じないわけではないのだから、どこか痛い場所や体調が悪ければ、はっきりとそう言えるはずだ。
黒鋼はこうなれば奥の手を試すしかないか、と思った。
「……ほれ」
ちょっと間抜けとも思える声をかけて、ファイに向かって両手を広げた。どんと来いの合図である。
それを見た瞬間、ファイは再び一瞬だけパッと目を輝かせた。が、すぐに表情を曇らせる。
「どうした。こい」
根気強く待ちつつ最後の一押しをすると、彼はおずおずと両手を伸ばして、黒鋼の胸に身を寄せた。それから、首筋にそっと額を寄せると弱く擦りつけて来る。
「よし」
一体なにが「よし」なのやら。
なんとなく認めるのは面白くないが、帰宅してすぐにベタベタされることに慣れてしまったせいか、これがないと最近は物足りなくなってきている。
すっぽりと抱き返して、力なく項垂れている耳を撫でた。大人しくそのまま動かないでいるファイに、改めて問いかける。
「なんだよ。拾い食いでもしたか?」
「そんなことしないよぉ……」
顔を上げたファイがむっと口を尖らせた。思わず苦笑する。
「またどっかのボス猫にでもとっちめられたのか?」
ファイの表情が再び曇り、不安げに揺れる瞳が黒鋼を見上げる。
どこか物欲しそうにも見えるその目に、胸をぐっと掴まれたような気持ちになった。
もっと強く抱きしめて、キスをしたくて堪らなくなる。理性と欲望を天秤にかけながら、抗えない日々がもう何日も続いていた。
しかし黒鋼はほぼ白旗を上げている状態で、一体なにをしてるんだと思いながらも、ついその唇へ目がけて顔を近づけていく。
「……黒たん」
だが、あと少しで触れるというところで、ファイの唇が動いた。
「……ん?」
押してくることはあっても引くことのなかったファイが、白い両手で黒鋼の胸を僅かに遠ざけた。
「?」
「あのね……ちょっと、聞きたいことがあって……」
「おう。なんだよ」
「えっと……」
離れて行こうとする手を、思わず掴んでいた。
若木のように頼りない手首は少し冷たくて、黒鋼は顔を顰めながらもそれ以上なにも言わず、ただ続きを待つことにする。
「黒たん……オレのこと」
「ん」
「オレのこと、嫌い?」
「あ?」
「……嫌い?」
なんだなんだ? なんなんだ……?
黒鋼は口を「は」の形に小さく開いたまま固まった。
あまりにも唐突すぎる問いかけに、だがファイは真剣そのものらしい。思いつめていると言った方がしっくりくるだろうか。
「なんだよ、いきなり」
「答えてくれないの……?」
答えるもなにも。今のこの状態が答えそのものだとは、思わないのだろうか。
そして何より、そのような質問に軽々しく返事ができるキャラクターではないということを、そろそろ理解してほしい。
だが思い詰めた瞳を見ていると、はぐらかすのは難しそうだと思った。
仕方なく、黒鋼は息をついた。
「嫌いだったら、傍になんか置かねぇだろ」
「それは、好きってこと……なんだよね?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ……じゃあさ、気持ち悪いって思わない?」
「あ?」
「オレのこと、気味悪いとか……思わない?」
「質問の意図がわかんねぇんだが」
ファイは小さく「ぅ」と唸った。えらく言いにくそうだが、それこそハッキリしない方が気持ち悪い。
「オレ……猫なのに人間に化けるから……だから……」
なるほど、と思うと同時に黒鋼は呆れた。
「おまえ……今更すぎるんじゃねぇのか?」
「い、今更って……確かに、そうなんだけど……」
元気のない猫耳と、項垂れた尻尾。下がった眉尻に泣きそうな瞳。
いつもアホみたいに笑いながらはしゃいでいるくせに、だからこそ、こんな表情を見せられたらこちらが弱ってしまう。
納得がいかない様子のファイに、黒鋼はガリガリを頭を掻いた。
「てめぇがそうやって沈んでる方がよっぽど気味が悪ぃんだよ。余計なことに頭使ってねぇで、いつも通りヘラヘラしてろ」
額を親指でこつんと突いた。
ファイは一瞬ガクッと頭を後方へ倒したが、すぐに黒鋼を見上げて目をぱちくりとさせる。
少しずつ頬が赤くなっていったかと思うと、ほぅ、と安堵の溜息を零した。そしてようやく、あの情けなく気の抜けたような笑顔を見せた。
「よかった……黒たんに嫌われてなくて、ホントによかった……」
「バカだろ」
「バカでいいよー」
少しずつ調子を取り戻してきたファイが、黒鋼の首に腕を回してぎゅっとしがみついてくる。
同時に抱き返して、この感触がすっかりこの腕に馴染んでいることに気付く。
縦に長いだけの華奢な身体は柔らかさの欠片もなくて、一回りサイズの大きな服を着ているせいで、より軟弱に見えてしまう。
そして、どうしようもなく胸が締め付けられてしまうのだ。
下手をすればこのまま離せなくなるんじゃないかなんて思いながら、自然と引き寄せられるようにして唇同士を重ね合わせた。
けれどそれは一瞬で離れる。流石にこれ以上のめり込むのは不味い。黒鋼の理性は、そこまで崩壊していない。
ただ、いつまでもつだろうかと時々少し怖くなる。
「ね、黒たん」
「なんだよ」
唇が離れたと同時に、ファイは内緒話をするような小さな声を出す。
「好きだから、するんだよね?」
「聞くなよ」
「ねぇ、女の子ともする?」
「あ?」
「オレにするのとは違うの、する?」
今度はなんだ。そう言いかけた黒鋼に、ファイは言った。
「ちゅうしたあとは、交尾もする?」
聞いた瞬間、黒鋼はなぜか思いっきり咽てしまった。
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ファイが人間の姿になってから、割と自炊することが多くなった。
一人分の食事というのはなかなか作るのも面倒で、今のような冬場であればまだしも、夏場に作りすぎでもしたら目も当てられない。
ついつい弁当やカップ麺なんかで済ませがちだったが、流石にファイにまでそんなものばかり食べさせるのは気が引けた。
手の込んだものは作れないし、味に関して言えば自信の欠片もなかったが。
ファイは猫のくせに生魚だけは苦手のようだったが、それ以外に好き嫌いはないようだった。
一見して食が細そうなひょろ長の容姿をしているが、出されたものは基本的に残さず食べる。
慣れない手つきでフォークやスプーンを掴む手だとか、満腹になったあとに猫の頃を思い出して手の甲を舐める姿なんかは、密かに黒鋼のお気に入りだった。
その日は大学の帰りにスーパーへ寄って、カレーの材料を買うと帰宅した。
すると、いつもは足音がするだけで玄関先まで出迎えに来るファイの姿がない。
しかも明かりが灯っておらず、真っ暗だった。
「おい? 帰ったぞ」
声をかけてもシンと静まりかえるばかりで、何の返事もない。
まさかまだ散歩から帰ってないのだろうか。不審に思いつつ部屋の明かりをつけた。
するとそこには……。
部屋の中央でうつ伏せになって、まるで何かに手を伸ばそうとしているような状態で倒れこんでいる、ファイの姿があった。
「!?」
さながら殺人現場の死体のような姿勢で、これで指先部分に血文字でダイイングメッセージでも書かれていたら完璧だった。
「おい!? どうした!? しっかりしろ!!」
慌てて膝をついてぐったりした身体を揺すった。
一体ファイの身に何が起こったのか。救急車……を呼ぶのは不味い。ならば例の怪しげな携帯を使って、あのとっつきにくい魔法使いを呼び出すしか……などと考えて焦る黒鋼だったが、次の瞬間、気が抜けた。
「ぐぅ」
というイビキが聞こえたからだ。
「……」
一瞬ピキッと凍りついて、それから深く息を吐き出しながら床に胡坐をかく。
「寝てんのかよ……」
それにしても、なんという紛らわしい寝姿だろうか。
呆れてガリガリと頭を掻いていると、ファイの白い尻尾がピクンと動いた。
「……あれぇ」
「……起きたか」
「え!? あれ!? 寝てた!? オレ寝てた!?」
ガバッと勢いよく起きあがったファイは、キョロキョロと辺りを見回した。
「紛らわしい格好でイビキかいてんじゃねぇよ……」
「うわー!? いつの間にー!? 呑気に居眠りとかバカー!」
なぜかとんでもなく驚きながら自分を責めているらしい彼の頬には、畳の痕が僅かについていた。
そしてファイは黒鋼が帰宅したことを理解するとパっと目を輝かせて、いつものように抱きつこうと両手を広げた。
が、そのままの姿勢でなぜか動かなくなった。
「?」
よし来い、しょうがねぇから受け止めてやる……という気満々だった黒鋼は、様子のおかしいファイに眉をピクリと動かす。
「どうした?」
「……うん」
ファイはどこか気まずそうに肩を竦めると、目を泳がせている。
「なんだよ。体調悪ぃなら今日は風呂はいいぞ」
仕方のないことだったとはいえ、ファイは風呂に関して尋常ではない嫌がり方をする。
それでも人間として暮らしている以上、入浴は欠かせないものだ。
しかも嫌がるからと放っておけば、あの小姑のような魔法使いに何を言われるかわかったものではない。
最初こそ双子かと思いはしたが、彼らはただ同じ姿をしているだけで、全くの別物だった。
それにしても、である。
これほど元気がない様子を見るのは、連れて来た始めの頃を覗けば初めてのことで、黒鋼はどことなく違和感を覚えた。
「なにかあったか?」
聞くと、ファイはおずおずとこちらに上目づかいを寄こした。
それから何か言いたげに口を開きかけたが、すぐにきゅっと噤んでしまう。
「?」
今は言葉が通じないわけではないのだから、どこか痛い場所や体調が悪ければ、はっきりとそう言えるはずだ。
黒鋼はこうなれば奥の手を試すしかないか、と思った。
「……ほれ」
ちょっと間抜けとも思える声をかけて、ファイに向かって両手を広げた。どんと来いの合図である。
それを見た瞬間、ファイは再び一瞬だけパッと目を輝かせた。が、すぐに表情を曇らせる。
「どうした。こい」
根気強く待ちつつ最後の一押しをすると、彼はおずおずと両手を伸ばして、黒鋼の胸に身を寄せた。それから、首筋にそっと額を寄せると弱く擦りつけて来る。
「よし」
一体なにが「よし」なのやら。
なんとなく認めるのは面白くないが、帰宅してすぐにベタベタされることに慣れてしまったせいか、これがないと最近は物足りなくなってきている。
すっぽりと抱き返して、力なく項垂れている耳を撫でた。大人しくそのまま動かないでいるファイに、改めて問いかける。
「なんだよ。拾い食いでもしたか?」
「そんなことしないよぉ……」
顔を上げたファイがむっと口を尖らせた。思わず苦笑する。
「またどっかのボス猫にでもとっちめられたのか?」
ファイの表情が再び曇り、不安げに揺れる瞳が黒鋼を見上げる。
どこか物欲しそうにも見えるその目に、胸をぐっと掴まれたような気持ちになった。
もっと強く抱きしめて、キスをしたくて堪らなくなる。理性と欲望を天秤にかけながら、抗えない日々がもう何日も続いていた。
しかし黒鋼はほぼ白旗を上げている状態で、一体なにをしてるんだと思いながらも、ついその唇へ目がけて顔を近づけていく。
「……黒たん」
だが、あと少しで触れるというところで、ファイの唇が動いた。
「……ん?」
押してくることはあっても引くことのなかったファイが、白い両手で黒鋼の胸を僅かに遠ざけた。
「?」
「あのね……ちょっと、聞きたいことがあって……」
「おう。なんだよ」
「えっと……」
離れて行こうとする手を、思わず掴んでいた。
若木のように頼りない手首は少し冷たくて、黒鋼は顔を顰めながらもそれ以上なにも言わず、ただ続きを待つことにする。
「黒たん……オレのこと」
「ん」
「オレのこと、嫌い?」
「あ?」
「……嫌い?」
なんだなんだ? なんなんだ……?
黒鋼は口を「は」の形に小さく開いたまま固まった。
あまりにも唐突すぎる問いかけに、だがファイは真剣そのものらしい。思いつめていると言った方がしっくりくるだろうか。
「なんだよ、いきなり」
「答えてくれないの……?」
答えるもなにも。今のこの状態が答えそのものだとは、思わないのだろうか。
そして何より、そのような質問に軽々しく返事ができるキャラクターではないということを、そろそろ理解してほしい。
だが思い詰めた瞳を見ていると、はぐらかすのは難しそうだと思った。
仕方なく、黒鋼は息をついた。
「嫌いだったら、傍になんか置かねぇだろ」
「それは、好きってこと……なんだよね?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ……じゃあさ、気持ち悪いって思わない?」
「あ?」
「オレのこと、気味悪いとか……思わない?」
「質問の意図がわかんねぇんだが」
ファイは小さく「ぅ」と唸った。えらく言いにくそうだが、それこそハッキリしない方が気持ち悪い。
「オレ……猫なのに人間に化けるから……だから……」
なるほど、と思うと同時に黒鋼は呆れた。
「おまえ……今更すぎるんじゃねぇのか?」
「い、今更って……確かに、そうなんだけど……」
元気のない猫耳と、項垂れた尻尾。下がった眉尻に泣きそうな瞳。
いつもアホみたいに笑いながらはしゃいでいるくせに、だからこそ、こんな表情を見せられたらこちらが弱ってしまう。
納得がいかない様子のファイに、黒鋼はガリガリを頭を掻いた。
「てめぇがそうやって沈んでる方がよっぽど気味が悪ぃんだよ。余計なことに頭使ってねぇで、いつも通りヘラヘラしてろ」
額を親指でこつんと突いた。
ファイは一瞬ガクッと頭を後方へ倒したが、すぐに黒鋼を見上げて目をぱちくりとさせる。
少しずつ頬が赤くなっていったかと思うと、ほぅ、と安堵の溜息を零した。そしてようやく、あの情けなく気の抜けたような笑顔を見せた。
「よかった……黒たんに嫌われてなくて、ホントによかった……」
「バカだろ」
「バカでいいよー」
少しずつ調子を取り戻してきたファイが、黒鋼の首に腕を回してぎゅっとしがみついてくる。
同時に抱き返して、この感触がすっかりこの腕に馴染んでいることに気付く。
縦に長いだけの華奢な身体は柔らかさの欠片もなくて、一回りサイズの大きな服を着ているせいで、より軟弱に見えてしまう。
そして、どうしようもなく胸が締め付けられてしまうのだ。
下手をすればこのまま離せなくなるんじゃないかなんて思いながら、自然と引き寄せられるようにして唇同士を重ね合わせた。
けれどそれは一瞬で離れる。流石にこれ以上のめり込むのは不味い。黒鋼の理性は、そこまで崩壊していない。
ただ、いつまでもつだろうかと時々少し怖くなる。
「ね、黒たん」
「なんだよ」
唇が離れたと同時に、ファイは内緒話をするような小さな声を出す。
「好きだから、するんだよね?」
「聞くなよ」
「ねぇ、女の子ともする?」
「あ?」
「オレにするのとは違うの、する?」
今度はなんだ。そう言いかけた黒鋼に、ファイは言った。
「ちゅうしたあとは、交尾もする?」
聞いた瞬間、黒鋼はなぜか思いっきり咽てしまった。
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白猫、心の傷の巻
実のところ、ファイには交尾に関して、ちょっとしたトラウマがある。
そう、あれはもう思い出せないくらい大昔。ファイが初めて発情の季節を迎えたときのことだった。
妊娠が可能であることを知らせる意味で、メス猫は強烈なフェロモンを放ってオス猫の発情を促す。
そのフェロモンは遠く離れていたとしても感知できるほど強いもので、まだ未熟だったファイは、どこからともなく香って来るそれにそわそわとしていた。
身体が熱いような、もどかしいような。いてもたってもいられなくて、家の中でじっとしているのも辛くて、外に出た。
狭い世界の、狭い国。
至る所で交尾をしている猫達と出くわして、ファイは何が起こっているのかわからなかった。
ただ言えることは、いつも仲良しの仲間達が豹変していた、ということ。
低く唸りながらメスに覆いかぶさるオス。オスがメスの首根っこに牙を立てて、中には傷つき血を流す猫もいた。
酷いことしないでと止めに入ろうとしたファイに、邪魔をするなと襲いかかって来た者もいた。
それがあまりにも恐ろしくて。
痛みに絶叫するメス猫の声までもが、恐怖を駆り立てる材料になって、ファイはそこから逃げ出した。
あの甘くて胸が苦しくなるような香りが、きっと自分を変えてしまう。
ユゥイに、あれは新しい命を育むための大切な行為だと教えられても、それでも感情が理解に足並みを揃えることはなかった。
以来、発情期には家の中でじっと籠るようになってしまった。
そうして数百年という時間を生きている間に、ファイはメスの放つフェロモンへの耐性を身につけていった。
人間の世界ではそれを『枯れている』というのだが……。
とにかく女の子になるのはダメ。
よくわからないけど、きっと人間のメスもオスを惑わすフェロモンを出すのだと思う。
果たして自分がそんなものを出せるのかどうかは知らないが、黒鋼があんな風になるのは絶対に嫌だった。だからあっさり諦めがついた。
あの日から、ファイと黒鋼は習慣のように口づけを交わすようになった。
して欲しいときに必ずしてくれるわけではないけれど、朝昼晩と強請れば、そのうち一度は応えてくれる。
ユゥイには散々ダメだと言われたけれど、ただ抱きついて頬ずりをするだけでは何かが足りなく感じてしまって、いけないことをしていると思うと、なぜか物凄くドキドキしてしまった。
人間の世界には、挨拶にキスをするのが当たり前の国があるらしい。
けれどそれは猫だって同じで、例えば仲間同士で鼻をくっつけ合ったりするし、時には人間を相手にしたりもする。
それは挨拶であったり、愛情表現であったり、互いを確認し合う意味であったり、つまりひっくるめて『好意』の証だった。
ファイが示す好意に、黒鋼が応えてくれることが嬉しい。だから黒鋼とのキスに、おかしな意味はないのだ。
けれどその半面、やっぱりよくわからない。
ならばどうして前みたいに一緒に寝るくらい、許してもらえないんだろう。
ファイはオスで、赤ちゃんが出来るわけでもなければ、交尾をすることだって出来ないはずなのに。
+++
それでもしょうがないか、なんて。だんだん妥協してきている自分がいた。
もう少し黒鋼と一緒にいて人間のことを学べば、理由だって分かるかもしれない。
なんにせよ人間という生き物は『可愛い』ものへの愛情表現としてキスをすることがあるらしい。
それが理解できたから、最近はちょっと浮足立っていた。
その日もいつものように帽子をかぶって、自分が猫であることを隠すと、人間のふりをして公園へ行った。
畳みの香りというのも落ち着くけれど、こうして定期的に土や草木の香りも嗅ぎたくなる。
ファイは誰もいない公園の、白いペンキの塗られたベンチに腰掛けた。
芝生や土の上にゴロゴロして身体を擦りつけたいような気がしたが、それをしていいのは動物だけ。だから我慢した。
くんくんと鼻を鳴らして懐かしい香りを思いっきり吸い込む。喉を鳴らしたいような気持ちになったけれど、今の姿ではそれは出来ない。
そんなとき、ふと木陰から見知った猫が姿を現した。
「あ! ボス猫だ!」
ふてぶてしくファイの目の前を横切ろうとした灰色の大きな猫が、不遜な眼差しを向けながら立ち止まった。
「……にゃんだ……人間もどきが何か用かにゃ」
「君もお散歩してるの? それとも縄張りの巡回かなー?」
「用がにゃいなら話しかけるにゃ」
「えー、ちょっとくらいお話してくれてもいいのにー」
はたから見れば、大人の男が猫を相手にペラペラと喋っている、奇妙な光景に映るだろう。
だがここには今は誰もいない。
そして流石に人間の姿をしているファイに、ボス猫が襲いかかってくることもなかった。
「猫にだってタイムスケジュールがあるにゃ」
低い声でそう言うと、ボス猫はファイに尻を向けた。
苛立ったように尻尾をぶんぶんと振っている。
「つれないなー」
ぽつりと呟くと、ボス猫がふと振り向いた。
そして、じっとファイの目を見つめてくるので首を傾げる。
「なぁに?」
「……おまえ、恥ずかしくにゃいのか」
「恥ずかしい? なにがー?」
「……プライドはにゃいのか」
ひょっとして責められているのか。ファイは少しバツが悪いような、嫌な気持ちになって肩を竦めた。
プライドなんて、はっきり言って無い。
だがこうも威厳のある強そうな猫に指摘されると、なかなかに痛いものがある。
ボス猫はすっと目を細めた。そして言った。
「おまえみたいな薄気味悪い猫のことを、ここでは化け猫と呼ぶにゃ」
「!」
化け猫。
いっそ懐かしいとさえ思えるキーワード。
ユゥイも言っていた。冗談まじりに「ファイは化け猫だ」と。そこに悪意がないのは分かっていたから、特に気にはしなかった。
けれど今、なぜかその言葉が胸に突き刺さった。
「気味が悪い? オレが……?」
ボス猫はふてぶてしい声で「なーご」とひと鳴きした。
もう話しかけるな、ということらしい。
+++
気味が悪い。
ボス猫の言葉が、それからずっとファイの心をどんよりと曇らせた。
アパートに戻る頃には、あれほど浮かれていた気持ちが嘘のように沈みきっていた。
自分が特異な存在であることに、自覚がなかったわけではない。
普通の猫は、人間になどなれない。きっとなろうとも思わない。自分の姿に不満さえ抱かないし、本来不都合だってないはずなのだ。
今の自分の何がいけないのか、ファイには分からない。けれど、ボス猫の言葉は確かにファイの胸を抉った。
もしも。
もしも、あの辛辣な言葉を放ったのがボス猫ではなく、黒鋼だったとしたら。
そうだ。思い出してみれば、黒鋼だってファイが変身できると知ったときに「化け猫」という単語を口にしていたではないか。
薄気味悪い、なんて。もし黒鋼にそう思われていたら。
考えたこともなくて、そして考えるだけで身体が震えた。
黒鋼は優しい。顔は怖いけれど、そんなものは関係ない。じゃなきゃこんなに懐くなんてこともなかったはずだ。
嫌いなら傍には置かないと思うし、ご飯だってくれないし、キスだってしない。
だから信じてる、はずなのだが……。
それなのに突然降って湧いた不安に悶々として、ファイは部屋に戻ると帽子を取り、床に投げつけた。
そしてひたすら、黒鋼の帰りを待った。
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実のところ、ファイには交尾に関して、ちょっとしたトラウマがある。
そう、あれはもう思い出せないくらい大昔。ファイが初めて発情の季節を迎えたときのことだった。
妊娠が可能であることを知らせる意味で、メス猫は強烈なフェロモンを放ってオス猫の発情を促す。
そのフェロモンは遠く離れていたとしても感知できるほど強いもので、まだ未熟だったファイは、どこからともなく香って来るそれにそわそわとしていた。
身体が熱いような、もどかしいような。いてもたってもいられなくて、家の中でじっとしているのも辛くて、外に出た。
狭い世界の、狭い国。
至る所で交尾をしている猫達と出くわして、ファイは何が起こっているのかわからなかった。
ただ言えることは、いつも仲良しの仲間達が豹変していた、ということ。
低く唸りながらメスに覆いかぶさるオス。オスがメスの首根っこに牙を立てて、中には傷つき血を流す猫もいた。
酷いことしないでと止めに入ろうとしたファイに、邪魔をするなと襲いかかって来た者もいた。
それがあまりにも恐ろしくて。
痛みに絶叫するメス猫の声までもが、恐怖を駆り立てる材料になって、ファイはそこから逃げ出した。
あの甘くて胸が苦しくなるような香りが、きっと自分を変えてしまう。
ユゥイに、あれは新しい命を育むための大切な行為だと教えられても、それでも感情が理解に足並みを揃えることはなかった。
以来、発情期には家の中でじっと籠るようになってしまった。
そうして数百年という時間を生きている間に、ファイはメスの放つフェロモンへの耐性を身につけていった。
人間の世界ではそれを『枯れている』というのだが……。
とにかく女の子になるのはダメ。
よくわからないけど、きっと人間のメスもオスを惑わすフェロモンを出すのだと思う。
果たして自分がそんなものを出せるのかどうかは知らないが、黒鋼があんな風になるのは絶対に嫌だった。だからあっさり諦めがついた。
あの日から、ファイと黒鋼は習慣のように口づけを交わすようになった。
して欲しいときに必ずしてくれるわけではないけれど、朝昼晩と強請れば、そのうち一度は応えてくれる。
ユゥイには散々ダメだと言われたけれど、ただ抱きついて頬ずりをするだけでは何かが足りなく感じてしまって、いけないことをしていると思うと、なぜか物凄くドキドキしてしまった。
人間の世界には、挨拶にキスをするのが当たり前の国があるらしい。
けれどそれは猫だって同じで、例えば仲間同士で鼻をくっつけ合ったりするし、時には人間を相手にしたりもする。
それは挨拶であったり、愛情表現であったり、互いを確認し合う意味であったり、つまりひっくるめて『好意』の証だった。
ファイが示す好意に、黒鋼が応えてくれることが嬉しい。だから黒鋼とのキスに、おかしな意味はないのだ。
けれどその半面、やっぱりよくわからない。
ならばどうして前みたいに一緒に寝るくらい、許してもらえないんだろう。
ファイはオスで、赤ちゃんが出来るわけでもなければ、交尾をすることだって出来ないはずなのに。
+++
それでもしょうがないか、なんて。だんだん妥協してきている自分がいた。
もう少し黒鋼と一緒にいて人間のことを学べば、理由だって分かるかもしれない。
なんにせよ人間という生き物は『可愛い』ものへの愛情表現としてキスをすることがあるらしい。
それが理解できたから、最近はちょっと浮足立っていた。
その日もいつものように帽子をかぶって、自分が猫であることを隠すと、人間のふりをして公園へ行った。
畳みの香りというのも落ち着くけれど、こうして定期的に土や草木の香りも嗅ぎたくなる。
ファイは誰もいない公園の、白いペンキの塗られたベンチに腰掛けた。
芝生や土の上にゴロゴロして身体を擦りつけたいような気がしたが、それをしていいのは動物だけ。だから我慢した。
くんくんと鼻を鳴らして懐かしい香りを思いっきり吸い込む。喉を鳴らしたいような気持ちになったけれど、今の姿ではそれは出来ない。
そんなとき、ふと木陰から見知った猫が姿を現した。
「あ! ボス猫だ!」
ふてぶてしくファイの目の前を横切ろうとした灰色の大きな猫が、不遜な眼差しを向けながら立ち止まった。
「……にゃんだ……人間もどきが何か用かにゃ」
「君もお散歩してるの? それとも縄張りの巡回かなー?」
「用がにゃいなら話しかけるにゃ」
「えー、ちょっとくらいお話してくれてもいいのにー」
はたから見れば、大人の男が猫を相手にペラペラと喋っている、奇妙な光景に映るだろう。
だがここには今は誰もいない。
そして流石に人間の姿をしているファイに、ボス猫が襲いかかってくることもなかった。
「猫にだってタイムスケジュールがあるにゃ」
低い声でそう言うと、ボス猫はファイに尻を向けた。
苛立ったように尻尾をぶんぶんと振っている。
「つれないなー」
ぽつりと呟くと、ボス猫がふと振り向いた。
そして、じっとファイの目を見つめてくるので首を傾げる。
「なぁに?」
「……おまえ、恥ずかしくにゃいのか」
「恥ずかしい? なにがー?」
「……プライドはにゃいのか」
ひょっとして責められているのか。ファイは少しバツが悪いような、嫌な気持ちになって肩を竦めた。
プライドなんて、はっきり言って無い。
だがこうも威厳のある強そうな猫に指摘されると、なかなかに痛いものがある。
ボス猫はすっと目を細めた。そして言った。
「おまえみたいな薄気味悪い猫のことを、ここでは化け猫と呼ぶにゃ」
「!」
化け猫。
いっそ懐かしいとさえ思えるキーワード。
ユゥイも言っていた。冗談まじりに「ファイは化け猫だ」と。そこに悪意がないのは分かっていたから、特に気にはしなかった。
けれど今、なぜかその言葉が胸に突き刺さった。
「気味が悪い? オレが……?」
ボス猫はふてぶてしい声で「なーご」とひと鳴きした。
もう話しかけるな、ということらしい。
+++
気味が悪い。
ボス猫の言葉が、それからずっとファイの心をどんよりと曇らせた。
アパートに戻る頃には、あれほど浮かれていた気持ちが嘘のように沈みきっていた。
自分が特異な存在であることに、自覚がなかったわけではない。
普通の猫は、人間になどなれない。きっとなろうとも思わない。自分の姿に不満さえ抱かないし、本来不都合だってないはずなのだ。
今の自分の何がいけないのか、ファイには分からない。けれど、ボス猫の言葉は確かにファイの胸を抉った。
もしも。
もしも、あの辛辣な言葉を放ったのがボス猫ではなく、黒鋼だったとしたら。
そうだ。思い出してみれば、黒鋼だってファイが変身できると知ったときに「化け猫」という単語を口にしていたではないか。
薄気味悪い、なんて。もし黒鋼にそう思われていたら。
考えたこともなくて、そして考えるだけで身体が震えた。
黒鋼は優しい。顔は怖いけれど、そんなものは関係ない。じゃなきゃこんなに懐くなんてこともなかったはずだ。
嫌いなら傍には置かないと思うし、ご飯だってくれないし、キスだってしない。
だから信じてる、はずなのだが……。
それなのに突然降って湧いた不安に悶々として、ファイは部屋に戻ると帽子を取り、床に投げつけた。
そしてひたすら、黒鋼の帰りを待った。
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白猫、諭されるの巻
「ユゥイ! オレ!」
『さっそくかけてきたの? まさか昨日の今日で本当にあの人がオオカミに……』
「違うよー! それより相談なんだけど!」
ファイは昨日の夜に言いそびれていたことをユゥイに言った。女の子になりたい、と。
するとユゥイは「はぁー?」と素っ頓狂な声を上げた。
『なんでいきなり? ……いや、ちょっと待ってよ……まさかとは思うけど、それって……』
「あのねー、黒たんオレが女の子になったら一緒に寝てくれるって!」
『!?』
次の瞬間、ドロンと音がして、煙と共にファイと同じ色の携帯電話を耳に当てたユゥイが姿を現した。
どうして帰りはあんなにスタイリッシュに魔法を使ったのに、来るときはまるで忍者のような登場なのだろうか……。
「それは一体どういうことなのファイー!?」
ユゥイに両肩を掴まれて、ガクガクと揺さぶられた。舌を噛みそうになる。
「やっぱり駄目だ! 帰ろう! 今すぐ帰ろう!!」
「ちょ、ちょっと、お、落ちついッ、ぁぐっ!」
いよいよ舌を噛み、口の中に嫌な味が広がった……。
+++
「な、なるほどね……ボクとしたことが、早とちりしちゃったよ……」
ひりひりする舌に涙ぐみながら、昨夜ユゥイが来る直前のことを話した。
腕を組みながらテーブルに腰かけたユゥイは、ホッとしたような顔をしたが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「いや……どっちにしろやらしいな。スケベだ」
「すけべえ?」
「そう。助平。エロい人ってこと」
「へー。黒たんてえろいんだー」
よく分からなかったが、とりあえず適当に相槌を打った。
「でねー、さっきテレビ見てたんだー、オレ」
「うん」
「男の人と女の人がねー、口と口くっつけてたの」
「はぁ」
「今朝ね、オレと黒たんおんなじことしたのー」
「ファイ、あの黒い人がどこにいるか知ってる? ちょっと殺してくる」
「黒たんはガッコウにーって、えぇ!? なんでそんな物騒なことに!?」
「汚物は消毒だ……」
立ちあがって手刀でシュッシュッと何かを抉るように素振りし始めるユゥイを、青褪めつつ止めた。
どうにか素振りは止めて腰を下ろしてくれたが、どす黒いオーラは消えなかった。
「えっと……続けてもいい?」
「一応聞こうか」
「あの、それでね、テレビの中で、女の人と男の人が裸で一緒に寝たの。何かしてたけど、それはよく見えなかった」
「…………」
「これだーって思ったんだよね。確かにテレビの中の二人は、男同士じゃなかったもん。だから」
「あのねファイ……」
ふと気がつくと、ユゥイは頭を抱え込んでいた。
何かよほど困らせるようなことを言ったのだろうかと、首を傾げる。
「それがどういうことか、わかってなくて言ってるんだよね……?」
「どういうことかって?」
「なら聞くけど。猫同士が交尾して子供が生まれるのは、知ってるよね?」
「え? あー、……うん」
ファイは目を泳がせる。
恥ずかしいから、ではなくて、交尾に対してちょっとしたトラウマがあったからだ。
しかし今は思い出すのはやめよう……と思った。
「それは人間も同じ。わかる?」
「うん、わかる」
「人間は毛がない代わりに、服を着るよね?」
「そうだねー」
「交尾は基本的には、裸でします」
「……うん?」
「俗な言い方しようか? 人間は、エッチするとき服を脱いでするの」
「!?」
「さらに言うとね、人間は子孫繁栄のためだけに交尾する生き物ではない!」
話しながら、ユゥイはなぜかわなわなと震えだした。
「だからね!? わかる!? 大人の人間の男女が同じ布団に入るってことは、そういうことだって、わかる!?」
身を乗り出したユゥイが、ファイの両肩をがっしりと掴んだ。
「ファイは別にあの人とそういうことがしたいわけじゃないよね!?」
思わず、コクコクと強く頷いた。
とんでもない話だ。ファイはただ黒鋼とぬくぬくしたいだけなのに。
だいたいファイはオスだ。そして仮に黒鋼がメスであったとしても、そういったことにならない自信が100%あった。
「じゃあ、これは?」
ファイは人差し指を唇に当てて見せた。
そういえば今朝の黒鋼は、いつもと少し様子が違っていたかもしれない、なんてことに、今さら気がつく。
ここのところずっとあまり触れてくれなかったから、拒絶されなかったことが嬉しくて、そこまで頭が回らなかった。
「ああ……まぁ、キスしただけで子供は出来ないからね」
「じゃあ、関係ない?」
「関係ないこともないけど。キスって言っても色々あるし」
「色々ってなに?」
「恋人同士だったり、親子だったり、国柄の違いだったり、色々」
えらく曖昧な気がしたが、猫にも色々な種類や柄があるのと同じようなものかな、と単純に考えた。
同じだけど同じではないものが、この世にはたくさんあるのだろうと。
「だったら黒たんは、どういう意味でオレにしたんだろう?」
素朴な疑問を口にすると、ユゥイはなぜかとても嫌そうな顔をした。そして投げやりに言った。
「さぁね。ファイが可愛いからじゃないの」
「え!」
ぽっ……と頬を染めるファイ。
「そんな~ホントのことだけどなんか照れちゃう~」
「チッ……やっぱ殺そうかな」
「え?」
「いい? 女の子になれようがなれまいが、絶対に一緒の布団に入るのはダメだからね」
「ユゥイまでそんなこと言うー……」
「あと、キスもしちゃダメです」
「どうしてー?」
「守れないなら、荒縄でスマキにしてでも連れて帰ります。今すぐ。いや、むしろそのほうが手っ取り早いか……」
す、っとどこからともなく縄を取り出して『ゴゴゴ……』と身を乗り出してくるユゥイに、ファイは瞬時にして「わかりました、もうしません」と言って土下座をした。だが基本的に正座は苦手なので、すぐに崩す。
仕方なしに縄を仕舞い込んだユゥイは、どこか呆れたような、そして諦めたような表情で眉尻を下げた。
「だいたい、なんでそこまで拘るの。あんなムッキムキで硬そうな人を相手に」
「えー、それはぁー」
思わず熱い頬を両手で包んだ。そして、くね……と身を捩る。
「なんかあのムキムキした腕に抱っこされると、すっごく安心するんだよねー。包まれてるーって感じがして、ポカポカで気持ちいいのー」
「悪かったね……冷え性な上に頼りない細腕で……」
「気にしなくていいよー」
「イラッ」
ユゥイはなにやらさらに機嫌が悪くなったようだ。
彼は彼で色々と思うことや心配の種が尽きないのだが、そんなこと知ったこっちゃないといわんばかりのファイは、能天気そのものだった。
「それにしても」
「なにさ」
「オレってもしかして、この姿にしか変身できないの? どうしてサクラちゃんにも知世ちゃんにもなれなかったんだろ?」
「そうだなぁ……あ、もしかして」
「?」
「ファイ、人間の女の子の裸なんて見たことないでしょ?」
「そういえばそうだねぇ」
ユゥイとは付き合いが長い。裸だって何度も見ていた。
「変なところで不便というか……現実的だねー」
「細かいこと気にするとハゲるよ」
その後、ユゥイに粘り強く幾度も「帰ろう」と説得されたが、ファイは頑なにそれを拒んだ。最終的に折れたユゥイによって、なぜか『痴漢撃退法』という体術的なものを伝授された。
微妙に使いどころがわからなかったが、ユゥイが必死なので仕方なく覚えた。(そしてすぐ忘れる)
それから彼は、猛獣の檻に羊を取り残して行く気分だよ……なんて捨て台詞を吐きながら、ひとまず退散した。
彼は一体、なにをそこまで心配しているのだろうか……。
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「ユゥイ! オレ!」
『さっそくかけてきたの? まさか昨日の今日で本当にあの人がオオカミに……』
「違うよー! それより相談なんだけど!」
ファイは昨日の夜に言いそびれていたことをユゥイに言った。女の子になりたい、と。
するとユゥイは「はぁー?」と素っ頓狂な声を上げた。
『なんでいきなり? ……いや、ちょっと待ってよ……まさかとは思うけど、それって……』
「あのねー、黒たんオレが女の子になったら一緒に寝てくれるって!」
『!?』
次の瞬間、ドロンと音がして、煙と共にファイと同じ色の携帯電話を耳に当てたユゥイが姿を現した。
どうして帰りはあんなにスタイリッシュに魔法を使ったのに、来るときはまるで忍者のような登場なのだろうか……。
「それは一体どういうことなのファイー!?」
ユゥイに両肩を掴まれて、ガクガクと揺さぶられた。舌を噛みそうになる。
「やっぱり駄目だ! 帰ろう! 今すぐ帰ろう!!」
「ちょ、ちょっと、お、落ちついッ、ぁぐっ!」
いよいよ舌を噛み、口の中に嫌な味が広がった……。
+++
「な、なるほどね……ボクとしたことが、早とちりしちゃったよ……」
ひりひりする舌に涙ぐみながら、昨夜ユゥイが来る直前のことを話した。
腕を組みながらテーブルに腰かけたユゥイは、ホッとしたような顔をしたが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「いや……どっちにしろやらしいな。スケベだ」
「すけべえ?」
「そう。助平。エロい人ってこと」
「へー。黒たんてえろいんだー」
よく分からなかったが、とりあえず適当に相槌を打った。
「でねー、さっきテレビ見てたんだー、オレ」
「うん」
「男の人と女の人がねー、口と口くっつけてたの」
「はぁ」
「今朝ね、オレと黒たんおんなじことしたのー」
「ファイ、あの黒い人がどこにいるか知ってる? ちょっと殺してくる」
「黒たんはガッコウにーって、えぇ!? なんでそんな物騒なことに!?」
「汚物は消毒だ……」
立ちあがって手刀でシュッシュッと何かを抉るように素振りし始めるユゥイを、青褪めつつ止めた。
どうにか素振りは止めて腰を下ろしてくれたが、どす黒いオーラは消えなかった。
「えっと……続けてもいい?」
「一応聞こうか」
「あの、それでね、テレビの中で、女の人と男の人が裸で一緒に寝たの。何かしてたけど、それはよく見えなかった」
「…………」
「これだーって思ったんだよね。確かにテレビの中の二人は、男同士じゃなかったもん。だから」
「あのねファイ……」
ふと気がつくと、ユゥイは頭を抱え込んでいた。
何かよほど困らせるようなことを言ったのだろうかと、首を傾げる。
「それがどういうことか、わかってなくて言ってるんだよね……?」
「どういうことかって?」
「なら聞くけど。猫同士が交尾して子供が生まれるのは、知ってるよね?」
「え? あー、……うん」
ファイは目を泳がせる。
恥ずかしいから、ではなくて、交尾に対してちょっとしたトラウマがあったからだ。
しかし今は思い出すのはやめよう……と思った。
「それは人間も同じ。わかる?」
「うん、わかる」
「人間は毛がない代わりに、服を着るよね?」
「そうだねー」
「交尾は基本的には、裸でします」
「……うん?」
「俗な言い方しようか? 人間は、エッチするとき服を脱いでするの」
「!?」
「さらに言うとね、人間は子孫繁栄のためだけに交尾する生き物ではない!」
話しながら、ユゥイはなぜかわなわなと震えだした。
「だからね!? わかる!? 大人の人間の男女が同じ布団に入るってことは、そういうことだって、わかる!?」
身を乗り出したユゥイが、ファイの両肩をがっしりと掴んだ。
「ファイは別にあの人とそういうことがしたいわけじゃないよね!?」
思わず、コクコクと強く頷いた。
とんでもない話だ。ファイはただ黒鋼とぬくぬくしたいだけなのに。
だいたいファイはオスだ。そして仮に黒鋼がメスであったとしても、そういったことにならない自信が100%あった。
「じゃあ、これは?」
ファイは人差し指を唇に当てて見せた。
そういえば今朝の黒鋼は、いつもと少し様子が違っていたかもしれない、なんてことに、今さら気がつく。
ここのところずっとあまり触れてくれなかったから、拒絶されなかったことが嬉しくて、そこまで頭が回らなかった。
「ああ……まぁ、キスしただけで子供は出来ないからね」
「じゃあ、関係ない?」
「関係ないこともないけど。キスって言っても色々あるし」
「色々ってなに?」
「恋人同士だったり、親子だったり、国柄の違いだったり、色々」
えらく曖昧な気がしたが、猫にも色々な種類や柄があるのと同じようなものかな、と単純に考えた。
同じだけど同じではないものが、この世にはたくさんあるのだろうと。
「だったら黒たんは、どういう意味でオレにしたんだろう?」
素朴な疑問を口にすると、ユゥイはなぜかとても嫌そうな顔をした。そして投げやりに言った。
「さぁね。ファイが可愛いからじゃないの」
「え!」
ぽっ……と頬を染めるファイ。
「そんな~ホントのことだけどなんか照れちゃう~」
「チッ……やっぱ殺そうかな」
「え?」
「いい? 女の子になれようがなれまいが、絶対に一緒の布団に入るのはダメだからね」
「ユゥイまでそんなこと言うー……」
「あと、キスもしちゃダメです」
「どうしてー?」
「守れないなら、荒縄でスマキにしてでも連れて帰ります。今すぐ。いや、むしろそのほうが手っ取り早いか……」
す、っとどこからともなく縄を取り出して『ゴゴゴ……』と身を乗り出してくるユゥイに、ファイは瞬時にして「わかりました、もうしません」と言って土下座をした。だが基本的に正座は苦手なので、すぐに崩す。
仕方なしに縄を仕舞い込んだユゥイは、どこか呆れたような、そして諦めたような表情で眉尻を下げた。
「だいたい、なんでそこまで拘るの。あんなムッキムキで硬そうな人を相手に」
「えー、それはぁー」
思わず熱い頬を両手で包んだ。そして、くね……と身を捩る。
「なんかあのムキムキした腕に抱っこされると、すっごく安心するんだよねー。包まれてるーって感じがして、ポカポカで気持ちいいのー」
「悪かったね……冷え性な上に頼りない細腕で……」
「気にしなくていいよー」
「イラッ」
ユゥイはなにやらさらに機嫌が悪くなったようだ。
彼は彼で色々と思うことや心配の種が尽きないのだが、そんなこと知ったこっちゃないといわんばかりのファイは、能天気そのものだった。
「それにしても」
「なにさ」
「オレってもしかして、この姿にしか変身できないの? どうしてサクラちゃんにも知世ちゃんにもなれなかったんだろ?」
「そうだなぁ……あ、もしかして」
「?」
「ファイ、人間の女の子の裸なんて見たことないでしょ?」
「そういえばそうだねぇ」
ユゥイとは付き合いが長い。裸だって何度も見ていた。
「変なところで不便というか……現実的だねー」
「細かいこと気にするとハゲるよ」
その後、ユゥイに粘り強く幾度も「帰ろう」と説得されたが、ファイは頑なにそれを拒んだ。最終的に折れたユゥイによって、なぜか『痴漢撃退法』という体術的なものを伝授された。
微妙に使いどころがわからなかったが、ユゥイが必死なので仕方なく覚えた。(そしてすぐ忘れる)
それから彼は、猛獣の檻に羊を取り残して行く気分だよ……なんて捨て台詞を吐きながら、ひとまず退散した。
彼は一体、なにをそこまで心配しているのだろうか……。
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白猫、初めての入浴の巻
「ギャーーー!! 絶対に嫌ーーーー!!!」
ファイの絶叫が、おそらく近所中に響き渡った。
ついに恐れていたことが現実のものとなってしまった。
これまでは特に何も言われなかったのをいいことに、こちらからも切り出さなかったのだ。
顔や手洗いも、歯磨きも徹底されてきたし、もしかしたらいつかは風呂も……なんて危惧していた。
だから外へ出ても極力、余計なものには触らないようにしていた。時々公園の芝生の上にゴロゴロしたくなることもあったが、それもぐっと我慢していた。
基本的に猫は体臭が薄い生き物だ。不完全な変身しかできていないファイは、おそらく普通の人間と比べてあまり臭わないのだろう。
だがついに……ついにこのときが来てしまった……。
「やだやだ黒たんやめてよーーッ!!」
ファイは脱衣所に連れて来られ、そしてその場で裸にひん剥かれようとしていた。これからどんな試練が待ち受けているか分かっているファイは、全力で暴れる。
「うるっせぇ!! 大人しく脱げ!! 全部脱げ!!」
「いぎゃー!! やだー!! 絶対やだー!!」
黒鋼に借りているブカブカの黒ジャージを脱がされる。ちなみに下はノーパンである。
足やら手やら、とにかく使えるものは何でも使う勢いで押さえこまれて丸裸にされた。
そうしながらも黒鋼が微妙に明後日の方へ視線を向けているのが不思議だったが、とにかく力技で剥かれたファイはそのまま浴室に放り込まれた。
無情にもガラリと音を立てて閉められた曇りガラスのドアに、ぺったりと縋る。
「出してー!! いやー!!」
「張り付くなこのアホ猫!! 曇りガラスの威力舐めんな!! いいから黙ってまずシャワーを出せ!!」
「嫌だ嫌だ嫌だー!! 濡れるのやだぁぁアッあ!? 足! すでにちょっと濡れて!? 足の裏が冷たいよぉー!!」
浴室の狭い空間に、ファイの絶叫が反響する。
黒鋼は外から全力で扉を押さえているようだ。
「いいから早くしろ!! また苦情が来ちまうだろ!!」
「うわああぁあぁああーんっ!!!」
「うるせぇー!!」
有無を言わさぬ厳しさで怒鳴り返されて、おそらく確実に苦情は来るだろうと思う傍ら、ファイはしくしくと泣いた。
「うぅ……う……グス……やだよぉ……こわいよぉ……」
本来、猫は綺麗好きである。自分の舌で全身の毛をグルーミングして、清潔を保つ。
この姿になってもその癖は抜けず、たまに無意識に手の甲を舐めたりはしてしまうが、人間は猫のようにはいかない。手入れできない状態は確かにちょっと気になってはいたが、お湯だろうが水だろうが、直に濡れるのはやっぱり怖かった。
静かに泣いていると、黒鋼が大きく溜息をつくのが聞こえた。
「おまえ、このまま放っておいたらどんどん汚れて臭くなってくぞ」
「グスッ……いいよ……嫌だけど、我慢する……」
再び聞こえる溜息。その後沈黙。やがて黒鋼がぼそりと言った。
「……なら、もう触ってやんねぇ」
「!?」
「さっきみてぇに甘えさしてやんねぇぞ」
「!?!?!?」
「いいんだな?」
それは究極の選択である。
だが、ファイの中で答えはたった一つだった。
そうだ。臭くて困るのは自分だけではない。同じ空間に暮らす黒鋼にも、害が及ぶのだ。
ファイはグスンと大きく鼻をすすった。背後におわすシャワーのホースが、まるでぬらぬらと光る蛇のようにも見えて、身体が震える。
しかしこの強制イベントを回避することは不可能だ。ならばせめてと、ファイは鼻先を赤くしながら一つだけ懇願する。
「く、黒様あのね」
「んだよ」
「せめて、一緒に入って……」
「!?」
「最初っから一人は……ちょっと不安、かも……」
「………」
曇りガラスの向こうで、黒鋼が押し黙る。ファイの方からはただの黒い、ぼんやりとした物体にしか見えないが、もしかしたらこちらに背中を向けているのかもしれない。
「黒たん……ねぇってば……」
「……確かにそれが一番手っ取り早いってのは分かる」
「でしょー? 黒たんと一緒だったらオレ」
「だが断る」
「!?」
そんなぁ……と、ファイは再び涙ぐんだ。
確かに甘えたことを言っているかもしれない。けれど今の状況は、ファイにとって死地に一人きりで投げ込まれているも同然の恐怖だった。
顔を洗ったり歯を磨いたり、そういう場面ではしっかりサポートしてくれる黒鋼だから、せめて最初くらいは傍にいてくれたら、とても心強いのだが。
「……俺もな」
「……?」
「まだちっと、頭ん中がごたついてんだ」
「なんのお話?」
「いいからとっとと済ませちまえ」
「ふぇぇ……」
おかしな声を上げながら、それでもファイは再び白い蛇と向き合うと、恐る恐る歩み寄って、震える指先をコックに伸ばした。
赤い方を捻ればいいと、黒鋼が言った。ゴクリと息を飲む。シャワーは友達。怖くない。
…………いや、やっぱり怖い。
身体の震えは裸で浴室に放り出されたせいだけではなかった。
それでもここまで来たら、黒鋼の言う通りとっとと済ませてしまうに限る。
「……えい!」
掛け声と一緒に、思い切って捻ってみた。
一気に流れ出した湯が、ファイの頭から降り注ぐ。
「ひぃぃぃ……!?」
「よくやった! やればできるじゃねぇか!」
「うぅうぅ……お湯、あったかいぃ……」
濡れている。思いっきり頭からずぶ濡れになっている。全身に湯が伝う。飛び上がりたいほど嫌だ。けれど……温かい。ホカホカだった。ほんのちょっとだけ、気持ちいいような気がしないでもない。
「よし、じゃあ今から俺が言うとおりにしろ。いいな?」
「うぐっ、うんっ、うんっ」
その後、ファイはべそをかきつつも湯に打たれ、指示通りに全身を洗うことに成功した。
+++
本当に、心底酷い目にあったと感じた。
風呂場を出ると脱衣所には新たなジャージとタオルが用意されていて、黒鋼の姿はなかった。
鼻をすすりながら身体を拭き、それを着て部屋に戻ると、今度はドライヤー攻撃が待っていた。
黒鋼が使用していたのは遠目から眺めていたが、実はあのゴーゴーという音は少し怖い。掃除機ほどではないが、それでも怖いものは怖かった。
それが自分に向けられる日が来ようとは。
黒鋼に押さえつけられ、髪が乾く頃には、ファイはすっかり意気消沈していた。
そしてぐったりと床に倒れ込むファイを置いて、黒鋼はさっさと出かけてしまった。
「黒たんの鬼……黒鬼……」
呟きは空しく室内の乾いた空気に四散した。
ファイはだるい身体を起こすと、台所に向かう。シンク横の天板の上には、すっかり冷めたトーストが二枚、皿に乗せて置いてある。
それを手に取り、その場でムシャムシャと食べる。冷蔵庫から水の入った2Lのペットボトルを取りだして、コップにつがずに行儀悪くラッパ飲みしてやった。
空腹が落ち着くと眠くなってきたが、まだ昼寝には早い時間だ。
だが今日は外を散歩する気力もなくて、ファイはまだトーストの残っている皿を手に部屋に戻ると、腰を下ろしてテレビをつけた。
『君たちやっぱりプ●ミスだ!』
CMというものが流れている。これが流れている間、テレビはあまり面白くない。
だが暫く待っていると、ここ最近なんとなく見ているドラマが始まった。再放送というものらしい。
暇つぶしに見ていたら、だんだん続きが気になってしまい、今では欠かさず見るようにしている。
人間の世界にはなんとも不思議で楽しい娯楽があるものだと、ファイは硬くなっているトーストの残りを齧りながら思った。
ドラマの中では、男女が何やら揉めている。仲がいいのか悪いのか、ついさっきまで言い合いをしていたかと思ったら、今度は身を寄せ合っている。
男が、女の両肩を抱く。女が目を閉じる。男が彼女に顔を寄せる。
そして、唇と唇を合わせた。
「!」
それを見た瞬間、ファイはピンっと尻尾を真っすぐに立たせた。
「これ、さっき黒たんとしたやつと一緒だ……」
なぜだろう。よく分からないけれど、顔が熱くなった。
女が男に「好き」と言った。それから「抱いて」と。
そうだ、好きだから抱いてほしい。ぎゅっとしてほしい。ファイにはテレビの中の女の気持ちが分かるような気がした。
男は何と答えるのだろう。黒鋼のように、思い切り嫌そうな顔をするのだろうか。知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
男は優しく笑った。なぜか心臓がドキリと跳ねる。ちっとも似ていないのに、画面に映し出されている男の表情が、黒鋼と重なったような気がした。
ますます目が離せなくなってしまう。
二人の男女は再び唇を重ね合った。そして、倒れこむ。次の瞬間には裸になって、シーツの中で抱き合っていた。
画面がぼやけたりして細部は見えない。綺麗な音楽が流れていて、二人が何をしているのかを誤魔化しているようだった。
やがて場面は朝になる。目を覚ました二人はどこか照れ臭そうに、裸のまま、また唇同士を合わせた。
ドラマはそこで終わった。
エンディングテーマが流れる中、次回予告が流れていてもファイの頭の中には入ってこなかった。
ただ目を輝かせ、頬を染めてぽっかりと口を開けていた。
……これだ。
「これだーーー!!!」
ファイはハイテンションでそう叫ぶと、青い携帯電話を手に取り『222』をプッシュした。
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「ギャーーー!! 絶対に嫌ーーーー!!!」
ファイの絶叫が、おそらく近所中に響き渡った。
ついに恐れていたことが現実のものとなってしまった。
これまでは特に何も言われなかったのをいいことに、こちらからも切り出さなかったのだ。
顔や手洗いも、歯磨きも徹底されてきたし、もしかしたらいつかは風呂も……なんて危惧していた。
だから外へ出ても極力、余計なものには触らないようにしていた。時々公園の芝生の上にゴロゴロしたくなることもあったが、それもぐっと我慢していた。
基本的に猫は体臭が薄い生き物だ。不完全な変身しかできていないファイは、おそらく普通の人間と比べてあまり臭わないのだろう。
だがついに……ついにこのときが来てしまった……。
「やだやだ黒たんやめてよーーッ!!」
ファイは脱衣所に連れて来られ、そしてその場で裸にひん剥かれようとしていた。これからどんな試練が待ち受けているか分かっているファイは、全力で暴れる。
「うるっせぇ!! 大人しく脱げ!! 全部脱げ!!」
「いぎゃー!! やだー!! 絶対やだー!!」
黒鋼に借りているブカブカの黒ジャージを脱がされる。ちなみに下はノーパンである。
足やら手やら、とにかく使えるものは何でも使う勢いで押さえこまれて丸裸にされた。
そうしながらも黒鋼が微妙に明後日の方へ視線を向けているのが不思議だったが、とにかく力技で剥かれたファイはそのまま浴室に放り込まれた。
無情にもガラリと音を立てて閉められた曇りガラスのドアに、ぺったりと縋る。
「出してー!! いやー!!」
「張り付くなこのアホ猫!! 曇りガラスの威力舐めんな!! いいから黙ってまずシャワーを出せ!!」
「嫌だ嫌だ嫌だー!! 濡れるのやだぁぁアッあ!? 足! すでにちょっと濡れて!? 足の裏が冷たいよぉー!!」
浴室の狭い空間に、ファイの絶叫が反響する。
黒鋼は外から全力で扉を押さえているようだ。
「いいから早くしろ!! また苦情が来ちまうだろ!!」
「うわああぁあぁああーんっ!!!」
「うるせぇー!!」
有無を言わさぬ厳しさで怒鳴り返されて、おそらく確実に苦情は来るだろうと思う傍ら、ファイはしくしくと泣いた。
「うぅ……う……グス……やだよぉ……こわいよぉ……」
本来、猫は綺麗好きである。自分の舌で全身の毛をグルーミングして、清潔を保つ。
この姿になってもその癖は抜けず、たまに無意識に手の甲を舐めたりはしてしまうが、人間は猫のようにはいかない。手入れできない状態は確かにちょっと気になってはいたが、お湯だろうが水だろうが、直に濡れるのはやっぱり怖かった。
静かに泣いていると、黒鋼が大きく溜息をつくのが聞こえた。
「おまえ、このまま放っておいたらどんどん汚れて臭くなってくぞ」
「グスッ……いいよ……嫌だけど、我慢する……」
再び聞こえる溜息。その後沈黙。やがて黒鋼がぼそりと言った。
「……なら、もう触ってやんねぇ」
「!?」
「さっきみてぇに甘えさしてやんねぇぞ」
「!?!?!?」
「いいんだな?」
それは究極の選択である。
だが、ファイの中で答えはたった一つだった。
そうだ。臭くて困るのは自分だけではない。同じ空間に暮らす黒鋼にも、害が及ぶのだ。
ファイはグスンと大きく鼻をすすった。背後におわすシャワーのホースが、まるでぬらぬらと光る蛇のようにも見えて、身体が震える。
しかしこの強制イベントを回避することは不可能だ。ならばせめてと、ファイは鼻先を赤くしながら一つだけ懇願する。
「く、黒様あのね」
「んだよ」
「せめて、一緒に入って……」
「!?」
「最初っから一人は……ちょっと不安、かも……」
「………」
曇りガラスの向こうで、黒鋼が押し黙る。ファイの方からはただの黒い、ぼんやりとした物体にしか見えないが、もしかしたらこちらに背中を向けているのかもしれない。
「黒たん……ねぇってば……」
「……確かにそれが一番手っ取り早いってのは分かる」
「でしょー? 黒たんと一緒だったらオレ」
「だが断る」
「!?」
そんなぁ……と、ファイは再び涙ぐんだ。
確かに甘えたことを言っているかもしれない。けれど今の状況は、ファイにとって死地に一人きりで投げ込まれているも同然の恐怖だった。
顔を洗ったり歯を磨いたり、そういう場面ではしっかりサポートしてくれる黒鋼だから、せめて最初くらいは傍にいてくれたら、とても心強いのだが。
「……俺もな」
「……?」
「まだちっと、頭ん中がごたついてんだ」
「なんのお話?」
「いいからとっとと済ませちまえ」
「ふぇぇ……」
おかしな声を上げながら、それでもファイは再び白い蛇と向き合うと、恐る恐る歩み寄って、震える指先をコックに伸ばした。
赤い方を捻ればいいと、黒鋼が言った。ゴクリと息を飲む。シャワーは友達。怖くない。
…………いや、やっぱり怖い。
身体の震えは裸で浴室に放り出されたせいだけではなかった。
それでもここまで来たら、黒鋼の言う通りとっとと済ませてしまうに限る。
「……えい!」
掛け声と一緒に、思い切って捻ってみた。
一気に流れ出した湯が、ファイの頭から降り注ぐ。
「ひぃぃぃ……!?」
「よくやった! やればできるじゃねぇか!」
「うぅうぅ……お湯、あったかいぃ……」
濡れている。思いっきり頭からずぶ濡れになっている。全身に湯が伝う。飛び上がりたいほど嫌だ。けれど……温かい。ホカホカだった。ほんのちょっとだけ、気持ちいいような気がしないでもない。
「よし、じゃあ今から俺が言うとおりにしろ。いいな?」
「うぐっ、うんっ、うんっ」
その後、ファイはべそをかきつつも湯に打たれ、指示通りに全身を洗うことに成功した。
+++
本当に、心底酷い目にあったと感じた。
風呂場を出ると脱衣所には新たなジャージとタオルが用意されていて、黒鋼の姿はなかった。
鼻をすすりながら身体を拭き、それを着て部屋に戻ると、今度はドライヤー攻撃が待っていた。
黒鋼が使用していたのは遠目から眺めていたが、実はあのゴーゴーという音は少し怖い。掃除機ほどではないが、それでも怖いものは怖かった。
それが自分に向けられる日が来ようとは。
黒鋼に押さえつけられ、髪が乾く頃には、ファイはすっかり意気消沈していた。
そしてぐったりと床に倒れ込むファイを置いて、黒鋼はさっさと出かけてしまった。
「黒たんの鬼……黒鬼……」
呟きは空しく室内の乾いた空気に四散した。
ファイはだるい身体を起こすと、台所に向かう。シンク横の天板の上には、すっかり冷めたトーストが二枚、皿に乗せて置いてある。
それを手に取り、その場でムシャムシャと食べる。冷蔵庫から水の入った2Lのペットボトルを取りだして、コップにつがずに行儀悪くラッパ飲みしてやった。
空腹が落ち着くと眠くなってきたが、まだ昼寝には早い時間だ。
だが今日は外を散歩する気力もなくて、ファイはまだトーストの残っている皿を手に部屋に戻ると、腰を下ろしてテレビをつけた。
『君たちやっぱりプ●ミスだ!』
CMというものが流れている。これが流れている間、テレビはあまり面白くない。
だが暫く待っていると、ここ最近なんとなく見ているドラマが始まった。再放送というものらしい。
暇つぶしに見ていたら、だんだん続きが気になってしまい、今では欠かさず見るようにしている。
人間の世界にはなんとも不思議で楽しい娯楽があるものだと、ファイは硬くなっているトーストの残りを齧りながら思った。
ドラマの中では、男女が何やら揉めている。仲がいいのか悪いのか、ついさっきまで言い合いをしていたかと思ったら、今度は身を寄せ合っている。
男が、女の両肩を抱く。女が目を閉じる。男が彼女に顔を寄せる。
そして、唇と唇を合わせた。
「!」
それを見た瞬間、ファイはピンっと尻尾を真っすぐに立たせた。
「これ、さっき黒たんとしたやつと一緒だ……」
なぜだろう。よく分からないけれど、顔が熱くなった。
女が男に「好き」と言った。それから「抱いて」と。
そうだ、好きだから抱いてほしい。ぎゅっとしてほしい。ファイにはテレビの中の女の気持ちが分かるような気がした。
男は何と答えるのだろう。黒鋼のように、思い切り嫌そうな顔をするのだろうか。知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
男は優しく笑った。なぜか心臓がドキリと跳ねる。ちっとも似ていないのに、画面に映し出されている男の表情が、黒鋼と重なったような気がした。
ますます目が離せなくなってしまう。
二人の男女は再び唇を重ね合った。そして、倒れこむ。次の瞬間には裸になって、シーツの中で抱き合っていた。
画面がぼやけたりして細部は見えない。綺麗な音楽が流れていて、二人が何をしているのかを誤魔化しているようだった。
やがて場面は朝になる。目を覚ました二人はどこか照れ臭そうに、裸のまま、また唇同士を合わせた。
ドラマはそこで終わった。
エンディングテーマが流れる中、次回予告が流れていてもファイの頭の中には入ってこなかった。
ただ目を輝かせ、頬を染めてぽっかりと口を開けていた。
……これだ。
「これだーーー!!!」
ファイはハイテンションでそう叫ぶと、青い携帯電話を手に取り『222』をプッシュした。
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黒鋼、好みのタイプの巻
目を覚ますと、昨夜のことは夢だったのかもしれない、なんて思った。
どこからともなく現れた、ファイと丸っきり同じ容姿をした青年。ファイの故郷の人間らしいが、この上なくはた迷惑な釘を刺されてしまった。
何をどうすれば自分がこのようなワケの分からない化け猫の、しかもオスを相手に狼になど変身するというのか。
黒鋼は起き上り、頬を掻きながら隣の布団を見やる。
猫耳を生やした男が、布団から鼻から上だけを出して丸くなって眠っていた。
その枕元に置いてある謎の携帯電話が、昨夜の出来事が夢ではないことを知らせている気がして、黒鋼は思わずそれを手に取ると重々しい溜息をゆっくりと吐き出した。
そして改めてまだ夢の中にいる猫耳男を見つめる。
そっと手を伸ばして、金色の髪に触れた。彼が人間もどきに変身してからも、こうして眠っている隙をついて触れる習慣は変わらない。
いや、むしろ眠っているときにしか触れられなくなった。
妙なオプションはついているが、今の彼は歴とした成人男性そのものの容姿をしている。猫にでもするような触れ方はどうしても躊躇われて、今ではせいぜい、擦り寄って来るのを黙って許してやる程度だった。
だからあのユゥイという魔法使いが懸念しているようなことは、決してない。
これは猫だ。本来、人間は動物にそういった感情は抱かない。
ましてや黒鋼はごく一般的な成人男子であり、確かにその手の趣味の人間(ガチムチの)にアプローチをかけられたことが無いとは言わないが、ごく普通の人生を歩んできた。
分かり切っていることなのに、だがユゥイはむしろ余計な『種』を黒鋼の中に撒いた。
逆に、意識しはじめてしまった自分に気がつく。
この際ぶっちゃけてしまえば、この男は可愛い。ついつい引き寄せたくなる瞬間は幾度もあった。
だがそれは彼が『猫』だから。本来の姿を知っているからこそ、湧きあがる感情だとばかり思っていたのに。
おかげで日に日に触れることを躊躇うようになった自分の中の矛盾に、気づかされてしまった。
猫ならば迷わず触れればいいではないか。撫でてやればいいし、抱いて寝てやればいい。
自分の中で、何かが揺らぎはじめている。
「んふふ……やぁだー……」
指先で軽く耳をくすぐってやると、ぎゅっと目を閉じたファイが笑った。
「……間抜け面」
「黒たぁん」
「!」
名前を呼ばれて少し驚く。だが彼はまだ眠っている。触れていた手を遠ざけて、またひとつ重い溜息をついた。
すると、布団の膨らみがもぞりと動いた。
「うにゃ~……」
妙な声を上げて、ファイが目を覚ました。
「おはよー……」
「……おう」
短く返事をすると、ファイは四つん這いでもぞもぞと這い出して来る。そして、当たり前のように黒鋼の首に両手を伸ばして足の間に入ってこようとした。
「こら、やめろ」
「オレちゃんと一人で寝たよ~」
「偉かったな。だから離れろ」
「やだー。ちゃんと撫でて~」
まだ半分夢の中にいるのか、やたらと甘えてくる彼は、今の己の姿がどれほど黒鋼の中の不安定な感情を煽るか知らない。
可愛いものは、守ってやりたくなる。言うことを聞いてやりたくなる。欲しいものを欲しいだけ与えてやりたくなる。そして欲しくなる。
猫ならば、ただ与えてやるだけで満足できるはずだった。猫ならば。
「黒たん、ぎゅってして」
わかってる。この男は『猫』として、精一杯甘えている。
だから、欲しい、なんて。そのようなことは決して。
寝起きの金糸が乱れて、少し上気した頬に張り付いている。どこか気だるげなのは、ただぼんやりしているだけだと理解しているはずなのに、その少し乾いた唇を潤してやりたくなる。
(全部、てめぇのせいだぞ)
光る文字と一緒に消えてしまった男に毒づいた。
狼になどなりようがない。おかしいではないか。
なのに黒鋼はファイの身体を押す力を逆のものへと変えた。腕を取り、自分から引き寄せる。
「ぁ……!」
ぐっと近づく互いの顔。大きく見開かれた瞳が潤んで見えた。
このときの黒鋼は、もうどうにでもなれ、という心境だったのかもしれない。
首の後ろに手を添えて、強く引く。乾いた唇に、自分のものを押しつけた。
相手は猫。だが、やたらと可愛い容姿をした男。柔らかな感触に眩暈を覚えて、目を閉じながら『ああそうか』と、黒鋼は思った。
おそらく、男も女も関係なく、この男の見目は自分の好みの型にぴたりとハマっているのだと。
砂糖菓子のようなふんにゃりとした笑顔も、蜂蜜のような色をした金の髪も、飴玉のような美しい瞳の青も。
甘味は嫌いだ。だからもう思い出せないほど昔から、ずっと口にしていない。これはその反動だろうか。
なんて単純な答えだろう。
こうなることが分かっていたから、手を伸ばすことに戸惑いを覚えていたのだろうかなんて。
どんな理由を上げ連ねたとしても、今となってはもうそのどれもが不正解であり、そして正解に当てはまる気がした。
「んっ、んぅー!」
黒鋼の肩にしがみ付いたまま動かなかったファイが、息苦しさに暴れ出した。バンバンと肩を叩かれて、ただ押しつけていただけの唇をようやく解放した。
「ぷっはー! 苦しかったー!」
ゼェゼェと必死で酸素を取り入れるファイは、よほど苦しかったのか顔を真っ赤に染めていた。
どう声をかければいいかわからずに、黒鋼はただその顔を見つめた。
衝動的とはいえ、やってしまった……思いっきり……。
果たしてファイはどんな反応を見せるだろうかと、固唾を飲んで待っていると、ようやく呼吸を安定させた彼は蕩けそうな笑顔を見せた。
「うふふー。でも嬉しいー」
ぎゅっと首にしがみ付かれ、頬ずりをされる。
「…………」
なんだろうか、この変わらなさ。
瞬きを繰り返す黒鋼に、ファイは猛烈に上がったテンションで頬ずりを止めない。
ピクリとも動けずにいると、しまいにはベロベロと顔中を舐めはじめた。
「うお!? こら! やめねぇか!!」
唇まで舐められて、黒鋼はいよいよファイを放り投げるようにして突き飛ばした。
「うあーん! せっかく毛繕いしてあげてたのにー! 愛情表現なのにー!」
「毛なんぞ繕われるほど生えてねぇよ! 顔だぞ顔!」
腕で思いっきり顔を拭いながら怒鳴った。
「でも顎のとこはちょっとチクチクしてたよー?」
「うっせぇ!! 朝なんだからしょうがねぇだろ!!」
「なんで怒るんだろー……」
ぺたんと耳を倒し、指を咥えながら「ぶー」と不満そうな顔をするファイに、内心冷や汗ものだった。
猫の舌ならばいい。ザラザラで、はっきり言って痛みしか感じない。だが人間の舌はどうだ。まったく違う。正直、あれ以上やられたら危なかった。
しかもこの男は先ほどの口づけに関して、一切意識していない。彼にとっては何の意味もない、ただのスキンシップとして片付けられているようだ。
悔しいような、ほっとしたような、だがどこか腹立たしい気持ちになる。
立ち上がり、とりあえず洗面所に向かうがてら思い切り布団を蹴散らした。
「オレもオレもー!」
ファイは跳ねるように立ち上がって無邪気に布団を蹴り飛ばすと、黒鋼の身体にタックルしてくる。
この男はまだ一人で上手く顔も洗えなければ、歯も磨けないのだ。
水に濡れるのを極度に嫌がり、仕方なく嫌々濡れタオルで顔を拭く。手を洗うときも同様。歯はしょっちゅう歯磨き粉を飲み込むし、ちょっと目を離すと洗顔石鹸で歯を磨こうとする。
「……」
ふと、そこまで考えて黒鋼はあることに気がついた。
そしてべたべたと腕に絡みつくファイを見た。
「……そういやおまえ」
「ん? なになに?」
くんくん。自分まで猫になったようにファイの近辺の匂いを嗅いだ。
「なにしてるのー?」
抱きしめていてさえ気がつかなかった。だが、こうして意識してじっくり鼻を利かせてみると。
「なにが?」
「気になるほどではねぇが……」
「へ?」
見れば髪も少しぱさぱさしていて、艶がないような。
なぜ今更になって気がつくのか。顔や手は洗わせるのに、歯磨きもさせるのに。
黒鋼は、ファイに風呂に入る習慣を教えるのを、当たり前のように忘れていた。
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目を覚ますと、昨夜のことは夢だったのかもしれない、なんて思った。
どこからともなく現れた、ファイと丸っきり同じ容姿をした青年。ファイの故郷の人間らしいが、この上なくはた迷惑な釘を刺されてしまった。
何をどうすれば自分がこのようなワケの分からない化け猫の、しかもオスを相手に狼になど変身するというのか。
黒鋼は起き上り、頬を掻きながら隣の布団を見やる。
猫耳を生やした男が、布団から鼻から上だけを出して丸くなって眠っていた。
その枕元に置いてある謎の携帯電話が、昨夜の出来事が夢ではないことを知らせている気がして、黒鋼は思わずそれを手に取ると重々しい溜息をゆっくりと吐き出した。
そして改めてまだ夢の中にいる猫耳男を見つめる。
そっと手を伸ばして、金色の髪に触れた。彼が人間もどきに変身してからも、こうして眠っている隙をついて触れる習慣は変わらない。
いや、むしろ眠っているときにしか触れられなくなった。
妙なオプションはついているが、今の彼は歴とした成人男性そのものの容姿をしている。猫にでもするような触れ方はどうしても躊躇われて、今ではせいぜい、擦り寄って来るのを黙って許してやる程度だった。
だからあのユゥイという魔法使いが懸念しているようなことは、決してない。
これは猫だ。本来、人間は動物にそういった感情は抱かない。
ましてや黒鋼はごく一般的な成人男子であり、確かにその手の趣味の人間(ガチムチの)にアプローチをかけられたことが無いとは言わないが、ごく普通の人生を歩んできた。
分かり切っていることなのに、だがユゥイはむしろ余計な『種』を黒鋼の中に撒いた。
逆に、意識しはじめてしまった自分に気がつく。
この際ぶっちゃけてしまえば、この男は可愛い。ついつい引き寄せたくなる瞬間は幾度もあった。
だがそれは彼が『猫』だから。本来の姿を知っているからこそ、湧きあがる感情だとばかり思っていたのに。
おかげで日に日に触れることを躊躇うようになった自分の中の矛盾に、気づかされてしまった。
猫ならば迷わず触れればいいではないか。撫でてやればいいし、抱いて寝てやればいい。
自分の中で、何かが揺らぎはじめている。
「んふふ……やぁだー……」
指先で軽く耳をくすぐってやると、ぎゅっと目を閉じたファイが笑った。
「……間抜け面」
「黒たぁん」
「!」
名前を呼ばれて少し驚く。だが彼はまだ眠っている。触れていた手を遠ざけて、またひとつ重い溜息をついた。
すると、布団の膨らみがもぞりと動いた。
「うにゃ~……」
妙な声を上げて、ファイが目を覚ました。
「おはよー……」
「……おう」
短く返事をすると、ファイは四つん這いでもぞもぞと這い出して来る。そして、当たり前のように黒鋼の首に両手を伸ばして足の間に入ってこようとした。
「こら、やめろ」
「オレちゃんと一人で寝たよ~」
「偉かったな。だから離れろ」
「やだー。ちゃんと撫でて~」
まだ半分夢の中にいるのか、やたらと甘えてくる彼は、今の己の姿がどれほど黒鋼の中の不安定な感情を煽るか知らない。
可愛いものは、守ってやりたくなる。言うことを聞いてやりたくなる。欲しいものを欲しいだけ与えてやりたくなる。そして欲しくなる。
猫ならば、ただ与えてやるだけで満足できるはずだった。猫ならば。
「黒たん、ぎゅってして」
わかってる。この男は『猫』として、精一杯甘えている。
だから、欲しい、なんて。そのようなことは決して。
寝起きの金糸が乱れて、少し上気した頬に張り付いている。どこか気だるげなのは、ただぼんやりしているだけだと理解しているはずなのに、その少し乾いた唇を潤してやりたくなる。
(全部、てめぇのせいだぞ)
光る文字と一緒に消えてしまった男に毒づいた。
狼になどなりようがない。おかしいではないか。
なのに黒鋼はファイの身体を押す力を逆のものへと変えた。腕を取り、自分から引き寄せる。
「ぁ……!」
ぐっと近づく互いの顔。大きく見開かれた瞳が潤んで見えた。
このときの黒鋼は、もうどうにでもなれ、という心境だったのかもしれない。
首の後ろに手を添えて、強く引く。乾いた唇に、自分のものを押しつけた。
相手は猫。だが、やたらと可愛い容姿をした男。柔らかな感触に眩暈を覚えて、目を閉じながら『ああそうか』と、黒鋼は思った。
おそらく、男も女も関係なく、この男の見目は自分の好みの型にぴたりとハマっているのだと。
砂糖菓子のようなふんにゃりとした笑顔も、蜂蜜のような色をした金の髪も、飴玉のような美しい瞳の青も。
甘味は嫌いだ。だからもう思い出せないほど昔から、ずっと口にしていない。これはその反動だろうか。
なんて単純な答えだろう。
こうなることが分かっていたから、手を伸ばすことに戸惑いを覚えていたのだろうかなんて。
どんな理由を上げ連ねたとしても、今となってはもうそのどれもが不正解であり、そして正解に当てはまる気がした。
「んっ、んぅー!」
黒鋼の肩にしがみ付いたまま動かなかったファイが、息苦しさに暴れ出した。バンバンと肩を叩かれて、ただ押しつけていただけの唇をようやく解放した。
「ぷっはー! 苦しかったー!」
ゼェゼェと必死で酸素を取り入れるファイは、よほど苦しかったのか顔を真っ赤に染めていた。
どう声をかければいいかわからずに、黒鋼はただその顔を見つめた。
衝動的とはいえ、やってしまった……思いっきり……。
果たしてファイはどんな反応を見せるだろうかと、固唾を飲んで待っていると、ようやく呼吸を安定させた彼は蕩けそうな笑顔を見せた。
「うふふー。でも嬉しいー」
ぎゅっと首にしがみ付かれ、頬ずりをされる。
「…………」
なんだろうか、この変わらなさ。
瞬きを繰り返す黒鋼に、ファイは猛烈に上がったテンションで頬ずりを止めない。
ピクリとも動けずにいると、しまいにはベロベロと顔中を舐めはじめた。
「うお!? こら! やめねぇか!!」
唇まで舐められて、黒鋼はいよいよファイを放り投げるようにして突き飛ばした。
「うあーん! せっかく毛繕いしてあげてたのにー! 愛情表現なのにー!」
「毛なんぞ繕われるほど生えてねぇよ! 顔だぞ顔!」
腕で思いっきり顔を拭いながら怒鳴った。
「でも顎のとこはちょっとチクチクしてたよー?」
「うっせぇ!! 朝なんだからしょうがねぇだろ!!」
「なんで怒るんだろー……」
ぺたんと耳を倒し、指を咥えながら「ぶー」と不満そうな顔をするファイに、内心冷や汗ものだった。
猫の舌ならばいい。ザラザラで、はっきり言って痛みしか感じない。だが人間の舌はどうだ。まったく違う。正直、あれ以上やられたら危なかった。
しかもこの男は先ほどの口づけに関して、一切意識していない。彼にとっては何の意味もない、ただのスキンシップとして片付けられているようだ。
悔しいような、ほっとしたような、だがどこか腹立たしい気持ちになる。
立ち上がり、とりあえず洗面所に向かうがてら思い切り布団を蹴散らした。
「オレもオレもー!」
ファイは跳ねるように立ち上がって無邪気に布団を蹴り飛ばすと、黒鋼の身体にタックルしてくる。
この男はまだ一人で上手く顔も洗えなければ、歯も磨けないのだ。
水に濡れるのを極度に嫌がり、仕方なく嫌々濡れタオルで顔を拭く。手を洗うときも同様。歯はしょっちゅう歯磨き粉を飲み込むし、ちょっと目を離すと洗顔石鹸で歯を磨こうとする。
「……」
ふと、そこまで考えて黒鋼はあることに気がついた。
そしてべたべたと腕に絡みつくファイを見た。
「……そういやおまえ」
「ん? なになに?」
くんくん。自分まで猫になったようにファイの近辺の匂いを嗅いだ。
「なにしてるのー?」
抱きしめていてさえ気がつかなかった。だが、こうして意識してじっくり鼻を利かせてみると。
「なにが?」
「気になるほどではねぇが……」
「へ?」
見れば髪も少しぱさぱさしていて、艶がないような。
なぜ今更になって気がつくのか。顔や手は洗わせるのに、歯磨きもさせるのに。
黒鋼は、ファイに風呂に入る習慣を教えるのを、当たり前のように忘れていた。
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ユゥイ、来ちゃったの巻
「出たーーーーーー!!!!!」
ファイは絶叫した。尻尾の毛を逆立たせて、即座に黒鋼の背後に隠れた。
そこには引き攣ったような笑顔で仁王立ちするユゥイの姿が……。
「人を幽霊みたいに。いつからそんな失礼な子になったのかな」
「な、なんで!? なんでここに!?」
「誰かさんがなかなか帰ってこないから、心配して迎えに来てあげたんだけど?」
そう言うと、腰に両手を当てたままユゥイは腰を屈めた。そしてポカンと口を開けたままの黒鋼をじーっと見る。
「なるほど君か。デカくて全体的に黒い人っていうのは。ホントに黒いな」
「……おい、説明しろ」
黒鋼は背中に隠れているファイと、正面のユゥイを幾度か交互に見やる。
「双子かおまえら? つーかこいつは一体どっから入った……?」
「ファイ、出て来て説明しなさい」
「…………はい」
おずおずと、耳を後ろに倒したままファイは黒鋼の背中から顔を出した。
+++
「と、いうわけでねー、なんでかオレ、元の姿に戻れなくなっちゃったのー」
ひとまず説明をした。
ユゥイは床に胡坐をかいて静かに聞いていたが、腕を組んで「うーん」と唸った。
そこに、律儀に茶を用意した黒鋼がやってきて、ユゥイの目の前に置く。そして三人でテーブルを囲んだ。
「だからね、帰るに帰れなくてー」
ジロリ。睨まれて背筋を正す。
「さっき思いっきり忘れてたって言ってたのが、ちょうど聞こえたんだけどね」
「ギクッ」
大袈裟に溜息をついたユゥイは湯飲みを手にすると口をつける。そして大きく肩を揺らした。
「熱っ! 渋っ! まずっ!」
「悪かったな……」
イラッとしている黒鋼を睨むユゥイ。なんだかこの二人の間に流れる空気は、あまりよろしくない。
一応、自分がユゥイをコピーして変身した、ということは説明して理解はしてもらえたが。
「ボクが思うに」
ユゥイはそれ以上湯飲みには口をつけず、少しだけ首を傾げた。
「単に順応力が過剰に働いてるだけなんじゃない?」
「ざんにょう?」
「順応、だよファイ。適応力とも言うね」
「人間になった途端、それが過剰反応したってのか?」
黒鋼の言葉にユゥイは素直に頷いた。
「多分ね。怖い思いをいっぱいしたから、人間に変身したのを切っ掛けに、ファイの本能が猫のまんまじゃこの世界を生き抜けない、って判断したんじゃない? まぁ……よくわかんないから適当だけど」
「いい加減だな、随分と」
「仕方ないでしょ。前例ないんだから、ボクだって判断に困るよ」
「なーるほどねー」
わかったような、わからないような。だがなんとなく納得はできた気がした。
確かに初めてこの世界に来たときの、あの恐怖心は今もファイの中にある。同じ猫でも、厳しいルールや苛酷な環境で生き抜いているこちらの猫社会には、どう足掻いても馴染めそうもなかった。
その点、人間の姿ならボス猫も子供も自分より小さくて、追われる心配も遊ばれる心配もない。
「でもー……」
何か違うような気がする。
「オレはもっと違う理由だと思う」
「ふぅん?」
じゃあ他に何があるの、と目で問いかけてくるユゥイに、ファイは少しまごまごした。
それから、なんとなく頬を染めた。
「オレ、初めて黒たんに話が通じたとき、ホントに嬉しくて……」
えへへ、と笑うと黒鋼の眉がぴくりと動いた。
「えっとね、もっとお話したいなぁって……変身すぐに解けちゃうから、もっともっと時間が欲しいなぁって……」
そんな風に思ったから、かも。
ファイはなぜかもじもじと両手の人差し指を擦り合わせる。
どうしてか、黒鋼と一緒にいたいのだということをユゥイに話すときは、ちょっと恥ずかしいような気持ちになってしまう。
そんなファイの話を聞いて、なぜかユゥイは黒鋼をじっとりと睨みつけた。
「なんだよその目は」
「……一体どんな魔法を使ってこの子をたらしこんだのかと思って」
「人聞き悪ぃこと言うな」
「ねぇファイ? じゃあ一体いつになったら帰って来るの? まさかずっとここにいたいわけじゃないよね?」
「えっ」
ユゥイが困り顔で訪ねてくるので、ファイも困ってしまった。
「いくら変身できるって言っても、その耳や尻尾を見てごらん? ファイは完全に人間になれるわけじゃないでしょ?」
「う……」
それはその通りだ。その通りでは、あるのだが。
ファイは咄嗟に黒鋼を見た。彼は何も言わずに目を閉じて茶をすすっている。
「みんな寂しがってるよ。そもそも、お礼とお別れを言いたいからって変身したんだよね? そうしたらすぐ戻って来るって、約束したじゃない」
「うん……」
いくら黒鋼を見ても、彼はこちらを見てくれない。
ふと、もしかして自分がここに居続けることは、彼にとっても迷惑なのだろうかと考えた。
まだここにいたいと駄々をこねることは簡単だが、受け入れ先である黒鋼がどう思うかなんて、考えもしなかった。
今の今まで、自分のことばかりを考えていたような気がする。
「ファイのおうちはここじゃない。これ以上迷惑かけないうちに、もう帰ろう?」
「……ぅ」
ね、と手を差し出してくるユゥイに、渋々「うん」と頷きかけた。だがそのとき。
「おい」
黒鋼が短く声を発した。そしてファイを真っすぐに見て問いかけてくる。
「おまえは結局どうしたいんだ?」
「え」
「化け猫とやらもまだ探してねぇんだろ」
「うん……」
そんなことはとっくに忘れていた。どうでもよくなっていた、と言ってもいい。
「やりてぇことが残ってんなら、素直にそう言やいいじゃねぇか」
「それって、もう少しここにいてもいいってこと?」
「しょうがねぇだろ」
「迷惑じゃない……?」
黒鋼はその問いに対する答えを、ファイにではなくユゥイへ向けて言った。
「猫一匹置くぐれぇ、どうってことねぇ」
「……ふぅん。猫、ね」
ユゥイは少し意地悪そうな顔で笑うと、どこか含みのある物言いをした。
「猫だろ。こいつは」
そんなユゥイを見る黒鋼の目も普段よりさらに鋭い、ような気がする。
ファイが本来『猫』であることは当たり前のことなのに、なぜ今更こんな風に確かめ合う必要があるのか、二人の間に流れる空気に入っていけないファイは、ただ不安げに見守るしかない。
「……わかってるならいいよ」
そう言って素っ気なく黒鋼から視線を外したユゥイは、ひとつ大きく息をつくと立ちあがった。
「ユゥイ……?」
「しょうがないね。ファイ、この人もファイのことがお気に入りなんだってさ」
「ッ……」
黒鋼が茶を口に含んだ途端に咽た。
「あとちょっとだけだよ。また少ししたら迎えに来るから、そのときまで」
「ユゥイ……! ありがとー!」
ファイも飛び上がるように立ち上がると、ぎゅっとユゥイに抱きついた。
「そうそう、やり取りできないのは何かと不便だから、これをあげるよ」
よしよしとファイの頭を撫でていたユゥイが、思い出したように何かを取り出した。
それをはい、と渡される。
「これなぁに? 見たことあるような……」
青くて長方形をした小さな板のようなもの。白い猫のキーホルダーのような飾りがついている。いじってみると、パカッと開いた。
「あ、これ似たようなの黒たんも持ってるー」
「そ。携帯電話。222ってボタンを押すと、ボクに通じるから」
「にゃんにゃんにゃんかよ……」
つーか一体どこのやつなんだ……ド●モか? a●か? それともお父さんのやつか? と、黒鋼が呆れた顔で突っ込みを入れている。
「何かあったとき……そう、例えばそこの黒い人がオオカミになったときとか、すぐに連絡寄こして」
殺しに来るから……とユゥイは物騒なことを小声で呟いた。
「黒たんも変身できるの?」
「出来るわけねぇだろ!! おいこらてめぇ物騒なこと言ってんじゃねぇぞ!」
「じゃあねファイ。色々気をつけて」
「うん! 本当にありがとう!」
「無視かよ!!」
ユゥイは最後まで黒鋼の突っ込みに答えることなく、少し寂しそうな顔をすると指先で何か光る文字を描きだした。
「じゃあまたね」
その文字の羅列に包まれるようにして、彼は煙のようにしゅるんっと消えてしまった。
ファイは目をパチクリさせながら感動した。
「ユゥイ……魔法使ってるとこ初めて見た……!」
「……滅茶苦茶だな」
黒鋼はもっともっと驚いているようだった。
+++
そんなこんなであと少し人間の世界にいることを許されたファイ。
夜も遅いし、いい加減寝ようとしたそのとき。
「あ!!!」
「なんだよ……まだなんかあんのか……」
「ユゥイに女の子に変身する方法聞くの忘れちゃったよ……」
よし、さっそく『222』を押そう……と携帯を取り出したところで思いっきり手で制される。
「おまえまだ諦めてなかったのかよ……」
「だって、女の子じゃないと黒たん一緒に寝てくれないんでしょ?」
「あのなぁ……」
黒鋼は面倒くさそうに頭をガリガリと掻いた。
「仮になれたとしても、俺はてめぇとは寝ねぇ」
「なんで!?」
「なんでってな……てめぇと同じ顔したおっかねぇ野郎に、妙な釘刺されたからに決まってんだろ」
「え? いつの間に?」
ずっと三人でテーブルを囲んでいたはずだが、ユゥイがそんな怖いことをしていた様子はなかった。
見たところ黒鋼に外傷もないようだが……。
「とにかく諦めろ。妙な黒魔術でもかけられて殺されるなんざ、御免だぜ」
「黒たぁん……」
明かりを消して、黒鋼はいよいよ寝に入ってしまった。
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「出たーーーーーー!!!!!」
ファイは絶叫した。尻尾の毛を逆立たせて、即座に黒鋼の背後に隠れた。
そこには引き攣ったような笑顔で仁王立ちするユゥイの姿が……。
「人を幽霊みたいに。いつからそんな失礼な子になったのかな」
「な、なんで!? なんでここに!?」
「誰かさんがなかなか帰ってこないから、心配して迎えに来てあげたんだけど?」
そう言うと、腰に両手を当てたままユゥイは腰を屈めた。そしてポカンと口を開けたままの黒鋼をじーっと見る。
「なるほど君か。デカくて全体的に黒い人っていうのは。ホントに黒いな」
「……おい、説明しろ」
黒鋼は背中に隠れているファイと、正面のユゥイを幾度か交互に見やる。
「双子かおまえら? つーかこいつは一体どっから入った……?」
「ファイ、出て来て説明しなさい」
「…………はい」
おずおずと、耳を後ろに倒したままファイは黒鋼の背中から顔を出した。
+++
「と、いうわけでねー、なんでかオレ、元の姿に戻れなくなっちゃったのー」
ひとまず説明をした。
ユゥイは床に胡坐をかいて静かに聞いていたが、腕を組んで「うーん」と唸った。
そこに、律儀に茶を用意した黒鋼がやってきて、ユゥイの目の前に置く。そして三人でテーブルを囲んだ。
「だからね、帰るに帰れなくてー」
ジロリ。睨まれて背筋を正す。
「さっき思いっきり忘れてたって言ってたのが、ちょうど聞こえたんだけどね」
「ギクッ」
大袈裟に溜息をついたユゥイは湯飲みを手にすると口をつける。そして大きく肩を揺らした。
「熱っ! 渋っ! まずっ!」
「悪かったな……」
イラッとしている黒鋼を睨むユゥイ。なんだかこの二人の間に流れる空気は、あまりよろしくない。
一応、自分がユゥイをコピーして変身した、ということは説明して理解はしてもらえたが。
「ボクが思うに」
ユゥイはそれ以上湯飲みには口をつけず、少しだけ首を傾げた。
「単に順応力が過剰に働いてるだけなんじゃない?」
「ざんにょう?」
「順応、だよファイ。適応力とも言うね」
「人間になった途端、それが過剰反応したってのか?」
黒鋼の言葉にユゥイは素直に頷いた。
「多分ね。怖い思いをいっぱいしたから、人間に変身したのを切っ掛けに、ファイの本能が猫のまんまじゃこの世界を生き抜けない、って判断したんじゃない? まぁ……よくわかんないから適当だけど」
「いい加減だな、随分と」
「仕方ないでしょ。前例ないんだから、ボクだって判断に困るよ」
「なーるほどねー」
わかったような、わからないような。だがなんとなく納得はできた気がした。
確かに初めてこの世界に来たときの、あの恐怖心は今もファイの中にある。同じ猫でも、厳しいルールや苛酷な環境で生き抜いているこちらの猫社会には、どう足掻いても馴染めそうもなかった。
その点、人間の姿ならボス猫も子供も自分より小さくて、追われる心配も遊ばれる心配もない。
「でもー……」
何か違うような気がする。
「オレはもっと違う理由だと思う」
「ふぅん?」
じゃあ他に何があるの、と目で問いかけてくるユゥイに、ファイは少しまごまごした。
それから、なんとなく頬を染めた。
「オレ、初めて黒たんに話が通じたとき、ホントに嬉しくて……」
えへへ、と笑うと黒鋼の眉がぴくりと動いた。
「えっとね、もっとお話したいなぁって……変身すぐに解けちゃうから、もっともっと時間が欲しいなぁって……」
そんな風に思ったから、かも。
ファイはなぜかもじもじと両手の人差し指を擦り合わせる。
どうしてか、黒鋼と一緒にいたいのだということをユゥイに話すときは、ちょっと恥ずかしいような気持ちになってしまう。
そんなファイの話を聞いて、なぜかユゥイは黒鋼をじっとりと睨みつけた。
「なんだよその目は」
「……一体どんな魔法を使ってこの子をたらしこんだのかと思って」
「人聞き悪ぃこと言うな」
「ねぇファイ? じゃあ一体いつになったら帰って来るの? まさかずっとここにいたいわけじゃないよね?」
「えっ」
ユゥイが困り顔で訪ねてくるので、ファイも困ってしまった。
「いくら変身できるって言っても、その耳や尻尾を見てごらん? ファイは完全に人間になれるわけじゃないでしょ?」
「う……」
それはその通りだ。その通りでは、あるのだが。
ファイは咄嗟に黒鋼を見た。彼は何も言わずに目を閉じて茶をすすっている。
「みんな寂しがってるよ。そもそも、お礼とお別れを言いたいからって変身したんだよね? そうしたらすぐ戻って来るって、約束したじゃない」
「うん……」
いくら黒鋼を見ても、彼はこちらを見てくれない。
ふと、もしかして自分がここに居続けることは、彼にとっても迷惑なのだろうかと考えた。
まだここにいたいと駄々をこねることは簡単だが、受け入れ先である黒鋼がどう思うかなんて、考えもしなかった。
今の今まで、自分のことばかりを考えていたような気がする。
「ファイのおうちはここじゃない。これ以上迷惑かけないうちに、もう帰ろう?」
「……ぅ」
ね、と手を差し出してくるユゥイに、渋々「うん」と頷きかけた。だがそのとき。
「おい」
黒鋼が短く声を発した。そしてファイを真っすぐに見て問いかけてくる。
「おまえは結局どうしたいんだ?」
「え」
「化け猫とやらもまだ探してねぇんだろ」
「うん……」
そんなことはとっくに忘れていた。どうでもよくなっていた、と言ってもいい。
「やりてぇことが残ってんなら、素直にそう言やいいじゃねぇか」
「それって、もう少しここにいてもいいってこと?」
「しょうがねぇだろ」
「迷惑じゃない……?」
黒鋼はその問いに対する答えを、ファイにではなくユゥイへ向けて言った。
「猫一匹置くぐれぇ、どうってことねぇ」
「……ふぅん。猫、ね」
ユゥイは少し意地悪そうな顔で笑うと、どこか含みのある物言いをした。
「猫だろ。こいつは」
そんなユゥイを見る黒鋼の目も普段よりさらに鋭い、ような気がする。
ファイが本来『猫』であることは当たり前のことなのに、なぜ今更こんな風に確かめ合う必要があるのか、二人の間に流れる空気に入っていけないファイは、ただ不安げに見守るしかない。
「……わかってるならいいよ」
そう言って素っ気なく黒鋼から視線を外したユゥイは、ひとつ大きく息をつくと立ちあがった。
「ユゥイ……?」
「しょうがないね。ファイ、この人もファイのことがお気に入りなんだってさ」
「ッ……」
黒鋼が茶を口に含んだ途端に咽た。
「あとちょっとだけだよ。また少ししたら迎えに来るから、そのときまで」
「ユゥイ……! ありがとー!」
ファイも飛び上がるように立ち上がると、ぎゅっとユゥイに抱きついた。
「そうそう、やり取りできないのは何かと不便だから、これをあげるよ」
よしよしとファイの頭を撫でていたユゥイが、思い出したように何かを取り出した。
それをはい、と渡される。
「これなぁに? 見たことあるような……」
青くて長方形をした小さな板のようなもの。白い猫のキーホルダーのような飾りがついている。いじってみると、パカッと開いた。
「あ、これ似たようなの黒たんも持ってるー」
「そ。携帯電話。222ってボタンを押すと、ボクに通じるから」
「にゃんにゃんにゃんかよ……」
つーか一体どこのやつなんだ……ド●モか? a●か? それともお父さんのやつか? と、黒鋼が呆れた顔で突っ込みを入れている。
「何かあったとき……そう、例えばそこの黒い人がオオカミになったときとか、すぐに連絡寄こして」
殺しに来るから……とユゥイは物騒なことを小声で呟いた。
「黒たんも変身できるの?」
「出来るわけねぇだろ!! おいこらてめぇ物騒なこと言ってんじゃねぇぞ!」
「じゃあねファイ。色々気をつけて」
「うん! 本当にありがとう!」
「無視かよ!!」
ユゥイは最後まで黒鋼の突っ込みに答えることなく、少し寂しそうな顔をすると指先で何か光る文字を描きだした。
「じゃあまたね」
その文字の羅列に包まれるようにして、彼は煙のようにしゅるんっと消えてしまった。
ファイは目をパチクリさせながら感動した。
「ユゥイ……魔法使ってるとこ初めて見た……!」
「……滅茶苦茶だな」
黒鋼はもっともっと驚いているようだった。
+++
そんなこんなであと少し人間の世界にいることを許されたファイ。
夜も遅いし、いい加減寝ようとしたそのとき。
「あ!!!」
「なんだよ……まだなんかあんのか……」
「ユゥイに女の子に変身する方法聞くの忘れちゃったよ……」
よし、さっそく『222』を押そう……と携帯を取り出したところで思いっきり手で制される。
「おまえまだ諦めてなかったのかよ……」
「だって、女の子じゃないと黒たん一緒に寝てくれないんでしょ?」
「あのなぁ……」
黒鋼は面倒くさそうに頭をガリガリと掻いた。
「仮になれたとしても、俺はてめぇとは寝ねぇ」
「なんで!?」
「なんでってな……てめぇと同じ顔したおっかねぇ野郎に、妙な釘刺されたからに決まってんだろ」
「え? いつの間に?」
ずっと三人でテーブルを囲んでいたはずだが、ユゥイがそんな怖いことをしていた様子はなかった。
見たところ黒鋼に外傷もないようだが……。
「とにかく諦めろ。妙な黒魔術でもかけられて殺されるなんざ、御免だぜ」
「黒たぁん……」
明かりを消して、黒鋼はいよいよ寝に入ってしまった。
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白猫、女体を思い描くの巻
それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
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それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
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黒鋼、言い訳のしようがないの巻
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
←戻る ・ 次へ→
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
←戻る ・ 次へ→
変態、誤解が解けるの巻
はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
←戻る ・ 次へ→
はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
←戻る ・ 次へ→
「ね、教えて。黒たん、エッチする?」
聞くと、しばらく咽ていた黒鋼がよほど苦しかったのか、珍しく少し涙ぐんでいた。
「お、おまえな、そんなもん聞いてどうすんだよ」
「どうもしないけど……するのかなって」
そう、気になった。
好意には色々な種類があって、キスにも色々な意味があって。
女の子は可愛い。人間は可愛いと思った相手にはキスをする。そして黒鋼はオスだから、可愛いメスとキスをすれば、そのあとはやっぱり交尾をするのだろうかと思った。あのドラマのように。
ファイはメスではないから、それ以上のことにはならないけど。
でもどうしてか、それを嫌だなと感じてしまった。
あのテレビドラマで見たようなことを、黒鋼がどこかの誰かとしていると思うと、胸がチクチクと痛みだす。
こんな感情は知らなくて、知らないことはなんでも教えてくれるはずのユゥイは、ここにはいない。
「する? メスと……女の子と」
黒鋼は少し疲れたような顔をしていた。呆れられているらしい。
「おまえ俺のことなんだと思ってんだ?」
「?」
「好いた相手がいりゃあ、してぇと思うのは当たり前だ」
するんだ……と思うと、胸のチクチクははっきりとしたズキズキという痛みに変わった。
そして気がついた。
交尾なんて絶対にしたくないのに。
女の子が羨ましいなんて気持ちが、まだ胸の奥底に微かに残っていることに。
「黒たんはオレとキスはしても、オレがオスで交尾ができないから、だから一緒に寝るのが嫌なんだよね?」
その瞬間、黒鋼が僅かに息を飲んだような気がした。
どこかバツの悪そうな表情をしている。ファイは小首を傾げた。
「……そんな単純じゃねぇよ。まるで人を猿みてぇに言うな」
「さる? おさるさん?」
「ああくそ、おまえもう黙れ」
また額をこつんとやられた。
黒鋼はファイから身を離すと立ち上がる。
「戦ってんだよ、俺は。おまえにわかるか」
「?」
「飯作るから手伝え」
そう言ってビニール片手に台所へ向かう背中を見つめながら、黒鋼は一体どんな敵と戦っているのだろうかと思った。
+++
ボス猫の言葉によって傷ついたファイだったが、黒鋼がそれを否定してくれたことが嬉しかった。
黒鋼は優しいから、もしかしたら気を使ってくれたのかもしれない、なんて思わないこともなかったけれど。
だが、おそらく彼は嘘をつくのが苦手な人間だ。
考えれば分かることだった気もするが、ただでさえ人間の複雑な心理を理解しかねているファイにとって、ストレートに言葉を交わし合うことは大切だった。
だから嬉しかった。
嬉しい、はずなのに。
ファイは黒鋼がバイトへ行ってしまった後、いつものように眠くなるまでの間テレビを眺めながら思う。
なんとなく、勢いで聞いてしまったけれど。聞かなければよかったかな、なんて。
どんなことでも知らないことには興味があって、調べる術のないものはユゥイや黒鋼に聞いていた。
それは会話のキャッチボールにも繋がるし、謎や疑問が解決する瞬間が好きだった。
けれど答えを聞いても理解できないこともある。答えから新たな疑問が生まれることもある。
そして、受け取った答えによって自分の中の矛盾した感情に気付かされることもある。
聞いて後悔する答えがあるなんてことにも、気がついてしまった。
テレビ画面では夜のドラマが放送している。
人間は『愛』だとか『恋』といった題材の物語がよほど好きらしい。
歌番組で流れる歌だって、同じようなメロディに乗せて歌われる歌詞には、必ずと言っていいほどそれらが顔を出す。
好きだよなぁ、なんてどこか冷めた目で見てしまう反面、ふとした瞬間、引き込まれてしてしまいそうになる自分がいた。
なんとなく覚えがあるような気持ち。なぜか無性に羨ましいと思う気持ち。
そして悲劇に終わるドラマがあれば目を逸らし、切なさを歌う歌詞には耳を塞ぎたくなる。
身体が変われない代わりに、心だけでも女の子になりたいとでも思っているだろうか。
愛情には様々な形があるらしい。そして恋は、その形の中の一つであるらしい。
ファイだってただ暇を持て余しているわけではないのだ。それなりに学んでいる。
もし女の子になったなら、自分は黒鋼に恋というものをするのだろうか。黒鋼も、同じように恋をしてくれるのだろうか。そうしたら、好きの形は変わるのだろうか。キスはもっと、特別な意味を持つのだろうか。
首根っこに牙を立てられ血を流したとしても、彼との子供が欲しいなんて、思えるのだろうか。
自分の中のどこかに、必ず答えが潜んでいるような気がしてならない。
だが型にはめ込むには明らかに足りないピースがある。それを手繰り寄せたいのか、そうでないのかも分からなかった。
ただ分かることは、きっと黒鋼は自分の中で特別な存在だということだった。
だからおかしな考えが頭の中を行き来する。
ファイには怖いものがたくさんあって、交尾というものはその一つで、けれどもしそれさえ乗り越えられるなら。
女の子なら、黒鋼の中のたくさんの『好き』を、全部独り占めできるのかもしれない、なんて。
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