村は息をひそめたように静まり返っていた。
空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。
取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。
そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。
彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。
「カミュ!!」
イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。
『ウークマーはここにいた』
その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。
イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。
「カミュ、行くな!!」
イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。
「──ッ!?」
勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。
*
しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。
孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。
ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。
そんなある日のことだった。
しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。
少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。
けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。
世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。
男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。
死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。
少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。
男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。
チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。
高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。
ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。
そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。
「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」
と──。
しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。
やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。
長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。
その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。
するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。
それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。
チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。
それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。
しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。
彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。
そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。
「私を食べて、ウークマー」
私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。
ずっとそう思っていた。
同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。
愛してる。ずっとずっと愛してるわ。
だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。
そして彼女は息を引き取った。
「すまない……すまない……」
ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。
やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。
それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。
けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。
ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。
そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。
ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。
異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。
そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。
*
勇者のアザはその輝きを失っていた。
知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。
降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。
波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。
「キミは、チュラだな?」
問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。
「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」
チュラは再びうなずいた。
「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」
でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。
「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」
強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。
波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。
「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」
そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。
けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。
「そんなとき、アナタたちが来た」
チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。
「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」
イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。
「ウークマーに、少し似ている」
イレブンは言葉を失った。
チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。
けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。
いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。
「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」
するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。
「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」
そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。
イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。
←戻る ・ 次へ→
空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。
取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。
そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。
彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。
「カミュ!!」
イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。
『ウークマーはここにいた』
その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。
イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。
「カミュ、行くな!!」
イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。
「──ッ!?」
勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。
*
しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。
孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。
ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。
そんなある日のことだった。
しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。
少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。
けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。
世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。
男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。
死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。
少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。
男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。
チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。
高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。
ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。
そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。
「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」
と──。
しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。
やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。
長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。
その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。
するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。
それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。
チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。
それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。
しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。
彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。
そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。
「私を食べて、ウークマー」
私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。
ずっとそう思っていた。
同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。
愛してる。ずっとずっと愛してるわ。
だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。
そして彼女は息を引き取った。
「すまない……すまない……」
ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。
やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。
それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。
けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。
ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。
そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。
ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。
異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。
そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。
*
勇者のアザはその輝きを失っていた。
知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。
降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。
波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。
「キミは、チュラだな?」
問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。
「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」
チュラは再びうなずいた。
「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」
でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。
「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」
強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。
波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。
「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」
そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。
けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。
「そんなとき、アナタたちが来た」
チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。
「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」
イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。
「ウークマーに、少し似ている」
イレブンは言葉を失った。
チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。
けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。
いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。
「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」
するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。
「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」
そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。
イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。
←戻る ・ 次へ→
翌日。
夜明けの空は薄紅の光を放っていた。
少し冷たい潮風が、一人しじまヶ浜を目指すイレブンの頬を鋭く撫でる。
「はぁ……」
ついついため息が漏れてしまった。
昨夜のことを思いだしては、なんとも言えない気持ちになる。
あの後すぐ、カミュはコトリと落ちるように眠ってしまった。何度か声をかけてみたが、返ってくるのは寝息ばかり。起こすのも気が引けて、結局イレブンはカミュを抱いたまま、まんじりともせず夜を明かした。
(カミュ、やっぱり様子が変だったよな。それに……)
──食べて、ウークマー
カミュが呟いた『ウークマー』という名が、どうにも気になって仕方ない。
イレブンはその名にまったく聞き覚えがなかった。ウークマーとは、一体誰のことなんだろう。そもそもあのカミュは、本当にカミュだったのか──?
どんなに考えたところで、今ここで答えが出るはずもない。
モヤモヤとした気持ちを抱えながらも、やがて目の前にしじまヶ浜が広がった。
朝の光に照らされて、波打ち際が白く輝いている。人気のない浜辺は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
改めてなにか分かることはないかと、辺りを見渡す。
ユーリーと名乗った少女のことも気がかりだった。観光客の女性が不調を訴えることと、何か関係しているのだろうか。そして、カミュの様子がおかしいことにも。
そのとき、ふと気がついた。
(あの人は、確か昨日の……)
墓場の傍で座り込み、例の物乞いの老人が海を眺めている姿があった。そういえばあの老人は、この奥にある洞窟に暮らしているのだったか。
昨日の様子を見るに、まともに会話ができる状態かは分からない。それでも何か得られる情報があるかもしれないと、イレブンは老人のもとへ歩み寄った。
すると老人は、海から目を逸らすことなく、
「あんた、人魚に会ったことはあるかね?」
と、しゃがれた声で問いかけてきた。
意外にもしっかりとした様子であることに少し驚きながらも、イレブンはロミアのことを思いだした。月の光に照らされて、夜の海へと儚く消えた人魚の姿を。
その記憶に思いを馳せながら、イレブンは「はい」と答えた。
「……どんな姿だったかね?」
「とても美しい、女性の姿をしていました」
老人は「そうか」と言って、シワとシミだらけの両手で顔を覆った。
「ワシは、やっぱり間違っていたんだなぁ……」
丸い背中をいっそう丸め、老人は全身を震わせながら泣き崩れた。
寄せては返す波音が、まるですすり泣く老人を慰めるように響き渡っていた。
イレブンはとっさに膝をつき、その背をさすった。そうする以外、どうするべきか分からなかった。
やがて老人はいくらか落ち着きを取り戻し、ノロノロと立ち上がった。
「ありがとう、若い人」
そう言うと、彼はおぼつかない足取りで奥の岩場へと消えていった。
*
結局なんの情報も得られないまま、イレブンは村に戻った。
村の人たちにも話を聞くため、とりあえずその足で酒場へ向かう。
昼前ということもあってか、酒場に客の姿はなかった。
円形カウンターの内部で、昨日の男性店員がせっせとグラスを磨いている。イレブンが近づくと、彼は「よう、いらっしゃい」と気さくな笑顔を見せた。
「今日は一人かい?」
「ええ、まあ」
イレブンはカウンターに手を置くと、単刀直入に聞いてみた。ユーリーという名の女性に、心当たりはないかと。
すると男性店員は目を丸くしたあと、困り顔で乾いた笑い声をあげた。
「おかしなことを聞くもんだなぁ」
イレブンはキョトンとしながら首をかしげた。
「ユーリーってのは、ここの方言で幽霊って意味さ。そんな名前を自分の子供につける親はいないよ」
あの少女がこの世のものでないことは、すでに察しがついていた。だから特に驚くことはない。むしろ彼女は最初から、自分の正体を明かしていたということになる。
腑に落ちるものを感じながら、イレブンはダメ元で少女の外見的な特徴を伝えてみた。けれど得られる情報は何もなかった。
どうしたものかと考えを巡らせていた、そのときだ。
「マジムンだ! 海からマジムンが上がったぞ!!」
という男性の叫び声が、遠くの方から響き渡った。同時に、カンカンと鐘を鳴らすような音も聞こえる。
「なんだって!?」
店員の男が、途端に血相を変える。
「お客さん、悪いが今日は店じまいだ! あんたもとっとと帰ったほうがいい!」
「マジムンって、確か……」
妖怪や悪霊の類であると、つい昨日教わったばかりだ。
店員の男が「ああ」と神妙な顔でうなずいた。
「この村では数十年に一度、気色の悪い人面魚が打ち上がるのさ」
それは頭部だけが人間で、首から下は丸々とした魚の姿をした異形であるという。年老いた女性の顔をしながら、赤子のように鳴くのだと男が言った。
「俺がほんのガキの頃にも上がったことがあってね。じいちゃんに見せてもらったが……思いだしたくもない。そりゃおぞましい姿をしていたよ」
その異形は打ち上げられた瞬間、一度だけ大きな悲鳴をあげ、すぐに息絶えてしまうという。赤子のような叫び声は災いを呼ぶとされ、この村では三日三晩、家から出てはいけないという風習があるらしい。
「あんたも今すぐ宿に戻って、決して外に出ちゃいけないよ」
男はイレブンに説明するだけして、店じまいもそこそこに飛びだしていった。
*
酒場を出ると、村中が大騒ぎだった。
カンカンという甲高い警鐘と、慌ただしく駆けていく村人たちの足音が響き、戸を閉める音がそこかしこから聞こえてくる。
晴れていたはずの空には鉛色の雲がかかり、辺りに暗い影を落としていた。
イレブンが宿に戻ると、扉は締め切られていた。
そしてその扉を背にするようにして、マヤが膝を抱えて座り込んでいた。
「マヤちゃん? そんなところでどうしたんだ?」
イレブンの姿を見るや、立ち上がったマヤは泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「どこ行ってたんだよ! 探しに行くとこだったんだからな!」
「どうかしたのか? もしかして、カミュに何か……?」
顔色を変えるイレブンに彼女はうなずき、そのまますっかりうつむいた。
「様子が変なんだ……さっき、宿のおっさんが飯を運んできてくれたんだけど──」
詳しい話はこうだった。
マヤとカミュのもとに、店主が運んできた朝食は魚料理が主だった。
けれどカミュはそれを見た途端、トイレに駆け込んでひどく吐いたのだという。その後どうにか戻ってきたものの、彼は青い顔のまま「魚はイヤだ」と言った。
「おかしいよな? 兄貴が魚嫌いだなんて聞いたことないし、昨日だってあんなにウマそうに食ってたのにさ」
けれど嫌がるものを無理に食べさせるわけにもいかず、とりあえず魚料理だけは下げてもらい、その他のものだけ手をつけはじめたのだが──。
「なあイレブン。兄貴って左利きだったよな? 器用だからさ、どっちも使えるってのは知ってるけど……字を書いたり、飯を食うときはゼッタイ左手だったよな?」
「そのはずだけど」
「今朝の兄貴、右手を使って食ってたんだよ。だからおれ聞いたんだ。兄貴は左だろって。そしたら……」
カミュは「そうだっけ」と、ぼんやり答えるだけだったらしい。
「なんか変だよ。声かけてもずっと上の空だし、顔色だって生きてる感じしないしさ。兄貴が兄貴じゃないっていうか、まるで別の何かに乗っ取られたみたいな……」
「……」
それはイレブンも感じていたことだった。
昨夜のカミュは、カミュであってカミュではなかった。マヤの話を聞き、さらに確証を得る。そして、しじまヶ浜で出会った幽霊の存在──けれど点と点を繋ぎきるには、まだ足りないピースも多かった。
「マヤちゃん、ひとまず宿に戻ろう。今は外にいない方がいいらしい」
「なあ、なにがあったんだ? みんな血相変えてバタバタしてさ」
「海からなにかよくないものが上がったそうだよ」
「はあ? なんだよそれ?」
イレブンは不審そうなマヤの背に軽く触れると、宿屋の扉を開けて中に入った。
しかし部屋に戻ってみても、そこにカミュの姿はなかった。
開け放たれた窓だけが、キイキイと音を立てて風に揺られているだけだった。
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夜明けの空は薄紅の光を放っていた。
少し冷たい潮風が、一人しじまヶ浜を目指すイレブンの頬を鋭く撫でる。
「はぁ……」
ついついため息が漏れてしまった。
昨夜のことを思いだしては、なんとも言えない気持ちになる。
あの後すぐ、カミュはコトリと落ちるように眠ってしまった。何度か声をかけてみたが、返ってくるのは寝息ばかり。起こすのも気が引けて、結局イレブンはカミュを抱いたまま、まんじりともせず夜を明かした。
(カミュ、やっぱり様子が変だったよな。それに……)
──食べて、ウークマー
カミュが呟いた『ウークマー』という名が、どうにも気になって仕方ない。
イレブンはその名にまったく聞き覚えがなかった。ウークマーとは、一体誰のことなんだろう。そもそもあのカミュは、本当にカミュだったのか──?
どんなに考えたところで、今ここで答えが出るはずもない。
モヤモヤとした気持ちを抱えながらも、やがて目の前にしじまヶ浜が広がった。
朝の光に照らされて、波打ち際が白く輝いている。人気のない浜辺は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
改めてなにか分かることはないかと、辺りを見渡す。
ユーリーと名乗った少女のことも気がかりだった。観光客の女性が不調を訴えることと、何か関係しているのだろうか。そして、カミュの様子がおかしいことにも。
そのとき、ふと気がついた。
(あの人は、確か昨日の……)
墓場の傍で座り込み、例の物乞いの老人が海を眺めている姿があった。そういえばあの老人は、この奥にある洞窟に暮らしているのだったか。
昨日の様子を見るに、まともに会話ができる状態かは分からない。それでも何か得られる情報があるかもしれないと、イレブンは老人のもとへ歩み寄った。
すると老人は、海から目を逸らすことなく、
「あんた、人魚に会ったことはあるかね?」
と、しゃがれた声で問いかけてきた。
意外にもしっかりとした様子であることに少し驚きながらも、イレブンはロミアのことを思いだした。月の光に照らされて、夜の海へと儚く消えた人魚の姿を。
その記憶に思いを馳せながら、イレブンは「はい」と答えた。
「……どんな姿だったかね?」
「とても美しい、女性の姿をしていました」
老人は「そうか」と言って、シワとシミだらけの両手で顔を覆った。
「ワシは、やっぱり間違っていたんだなぁ……」
丸い背中をいっそう丸め、老人は全身を震わせながら泣き崩れた。
寄せては返す波音が、まるですすり泣く老人を慰めるように響き渡っていた。
イレブンはとっさに膝をつき、その背をさすった。そうする以外、どうするべきか分からなかった。
やがて老人はいくらか落ち着きを取り戻し、ノロノロと立ち上がった。
「ありがとう、若い人」
そう言うと、彼はおぼつかない足取りで奥の岩場へと消えていった。
*
結局なんの情報も得られないまま、イレブンは村に戻った。
村の人たちにも話を聞くため、とりあえずその足で酒場へ向かう。
昼前ということもあってか、酒場に客の姿はなかった。
円形カウンターの内部で、昨日の男性店員がせっせとグラスを磨いている。イレブンが近づくと、彼は「よう、いらっしゃい」と気さくな笑顔を見せた。
「今日は一人かい?」
「ええ、まあ」
イレブンはカウンターに手を置くと、単刀直入に聞いてみた。ユーリーという名の女性に、心当たりはないかと。
すると男性店員は目を丸くしたあと、困り顔で乾いた笑い声をあげた。
「おかしなことを聞くもんだなぁ」
イレブンはキョトンとしながら首をかしげた。
「ユーリーってのは、ここの方言で幽霊って意味さ。そんな名前を自分の子供につける親はいないよ」
あの少女がこの世のものでないことは、すでに察しがついていた。だから特に驚くことはない。むしろ彼女は最初から、自分の正体を明かしていたということになる。
腑に落ちるものを感じながら、イレブンはダメ元で少女の外見的な特徴を伝えてみた。けれど得られる情報は何もなかった。
どうしたものかと考えを巡らせていた、そのときだ。
「マジムンだ! 海からマジムンが上がったぞ!!」
という男性の叫び声が、遠くの方から響き渡った。同時に、カンカンと鐘を鳴らすような音も聞こえる。
「なんだって!?」
店員の男が、途端に血相を変える。
「お客さん、悪いが今日は店じまいだ! あんたもとっとと帰ったほうがいい!」
「マジムンって、確か……」
妖怪や悪霊の類であると、つい昨日教わったばかりだ。
店員の男が「ああ」と神妙な顔でうなずいた。
「この村では数十年に一度、気色の悪い人面魚が打ち上がるのさ」
それは頭部だけが人間で、首から下は丸々とした魚の姿をした異形であるという。年老いた女性の顔をしながら、赤子のように鳴くのだと男が言った。
「俺がほんのガキの頃にも上がったことがあってね。じいちゃんに見せてもらったが……思いだしたくもない。そりゃおぞましい姿をしていたよ」
その異形は打ち上げられた瞬間、一度だけ大きな悲鳴をあげ、すぐに息絶えてしまうという。赤子のような叫び声は災いを呼ぶとされ、この村では三日三晩、家から出てはいけないという風習があるらしい。
「あんたも今すぐ宿に戻って、決して外に出ちゃいけないよ」
男はイレブンに説明するだけして、店じまいもそこそこに飛びだしていった。
*
酒場を出ると、村中が大騒ぎだった。
カンカンという甲高い警鐘と、慌ただしく駆けていく村人たちの足音が響き、戸を閉める音がそこかしこから聞こえてくる。
晴れていたはずの空には鉛色の雲がかかり、辺りに暗い影を落としていた。
イレブンが宿に戻ると、扉は締め切られていた。
そしてその扉を背にするようにして、マヤが膝を抱えて座り込んでいた。
「マヤちゃん? そんなところでどうしたんだ?」
イレブンの姿を見るや、立ち上がったマヤは泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「どこ行ってたんだよ! 探しに行くとこだったんだからな!」
「どうかしたのか? もしかして、カミュに何か……?」
顔色を変えるイレブンに彼女はうなずき、そのまますっかりうつむいた。
「様子が変なんだ……さっき、宿のおっさんが飯を運んできてくれたんだけど──」
詳しい話はこうだった。
マヤとカミュのもとに、店主が運んできた朝食は魚料理が主だった。
けれどカミュはそれを見た途端、トイレに駆け込んでひどく吐いたのだという。その後どうにか戻ってきたものの、彼は青い顔のまま「魚はイヤだ」と言った。
「おかしいよな? 兄貴が魚嫌いだなんて聞いたことないし、昨日だってあんなにウマそうに食ってたのにさ」
けれど嫌がるものを無理に食べさせるわけにもいかず、とりあえず魚料理だけは下げてもらい、その他のものだけ手をつけはじめたのだが──。
「なあイレブン。兄貴って左利きだったよな? 器用だからさ、どっちも使えるってのは知ってるけど……字を書いたり、飯を食うときはゼッタイ左手だったよな?」
「そのはずだけど」
「今朝の兄貴、右手を使って食ってたんだよ。だからおれ聞いたんだ。兄貴は左だろって。そしたら……」
カミュは「そうだっけ」と、ぼんやり答えるだけだったらしい。
「なんか変だよ。声かけてもずっと上の空だし、顔色だって生きてる感じしないしさ。兄貴が兄貴じゃないっていうか、まるで別の何かに乗っ取られたみたいな……」
「……」
それはイレブンも感じていたことだった。
昨夜のカミュは、カミュであってカミュではなかった。マヤの話を聞き、さらに確証を得る。そして、しじまヶ浜で出会った幽霊の存在──けれど点と点を繋ぎきるには、まだ足りないピースも多かった。
「マヤちゃん、ひとまず宿に戻ろう。今は外にいない方がいいらしい」
「なあ、なにがあったんだ? みんな血相変えてバタバタしてさ」
「海からなにかよくないものが上がったそうだよ」
「はあ? なんだよそれ?」
イレブンは不審そうなマヤの背に軽く触れると、宿屋の扉を開けて中に入った。
しかし部屋に戻ってみても、そこにカミュの姿はなかった。
開け放たれた窓だけが、キイキイと音を立てて風に揺られているだけだった。
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夜の砂浜を月明かりが青く淡く照らしだしている。
静寂のなか、騒ぎ立つ波音だけが辺りに大きく響き渡っていた。
「ただの偶然かもしれねえってのに、安請け合いしてホントによかったのか?」
呆れ気味のカミュに、イレブンは苦笑しながら耳の裏側をポリポリと掻いた。
「うーん。まあ、あれだけ必死に頼まれたら、無視するわけにもいかないし」
「ほんっとにお人好しな勇者さまだぜ」
「カタイこと言うなって兄貴! それよりここ、いかにも出そうな浜だよな」
マヤはどこかワクワクした様子で、周囲を見回した。するとカミュがそんな妹を横目で睨み、「やめろって」と嫌そうに言う。
マヤは両目を三日月のような形にしながらニンマリ笑った。
「兄貴は昔っからそういうの苦手だもんな。すーぐビビっちゃってさ」
「バカ言うな。ビビってなんかねえよ」
「はいはい。ガキの頃、バイキングのおっさんに聞かされた怖い話のせいで、しばらく一人じゃトイレも行けなかったことは忘れてやるよ」
「ちょっ、おいマヤ!」
「いっししー!」
眠たそうなマヤの手を引いてトイレに行く幼いカミュを想像し、イレブンは「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
ホムラの里でルコに会ったときから薄々気づいてはいたが、やはりカミュはこの手の話が苦手なのだ。おかげで夜の不気味さが、幾らか薄まったように感じられた。
(……ん?)
そうやって和んでいたときだった。
ふと墓場の方から気配を感じて、イレブンはそちらへ目を向けた。
するとそこに、白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのが見えた。
(女の子……こんな時間に、一人で?)
歳は成人するかしないかの頃合いだろうか。日に焼けた肌に、腰まで伸びた長い髪は青色で、勝ち気そうな瞳がイレブンをじっと見つめている。
一瞬マヤかと思うほど、面立ちが似ているような気がした。
「こんな時間にどうしたんだ? 一人でいたら危ないよ」
イレブンは彼女が気になり、墓場へ近づくと声をかけた。すると少女は、
「待ってたの」
と、凛とした涼やかな声で言った。
「誰かと待ち合わせ?」
少女が左右に首を振る。
「もういいの。アナタが連れてきてくれたから」
「ボクが?」
首をかしげるイレブンに、彼女がこくんとうなずいた。
「アナタ、名前は?」
少女に問われ、「ボクはイレブン」と素直に名前を口にする。
「キミは?」
「……私はユーリー」
「ユーリー?」
「そう。ただのユーリー」
ユーリーは微かに笑うと、まるで空気に溶け込むようにスゥっと姿を消した。
「!?」
イレブンは目の前で起こった出来事に、ただ息を呑んで呆然とするばかりだった。
凍りついたように動けないでいると、背後からマヤの焦った声が聞こえた。
「兄貴!? 兄貴、しっかりしろよ!」
弾かれたように振り返れば、カミュがうつ伏せに倒れ込んでいる姿が見えた。
「カミュ!?」
「イレブン! 兄貴が急に倒れて……っ」
「カミュ! しっかりしろ! カミュっ!!」
駆け寄って抱き起こすが、カミュはイレブンの胸に力なくもたれかかるばかりだった。呼びかけながら幾度か軽く頬を叩いてみても、いっさい反応を示さない。まるで糸が切れた人形のようだった。
(さっきまでピンピンしてたのに……どうして……?)
イレブンはカミュを抱き上げるとマヤを見た。
「とにかく宿に戻ろう。すぐに医者を呼ばないと」
真っ青な表情に涙を浮かべたマヤが、唇を噛み締めながらうなずいた。
*
宿屋のベッドでは、カミュがこんこんと眠り続けている。
顔色は決して悪くないのだが、まったく目を覚ます気配がなかった。
「兄貴……急にどうしちゃったんだよ……」
ベッド脇の椅子に腰掛けたマヤが、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
宿に戻ってすぐ、店主が医者を連れてきてくれた。けれどこれといった異常は見つからず、原因は分からずじまいだった。とりあえず熱もなく、呼吸も安定していることから、一晩様子を見るより他にないとのことだった。
「……兄貴はおれが見てるから、勇者さまはもう寝ろよ」
「いや、ボクは大丈夫だ。それよりマヤちゃんこそ休んだほうがいい」
するとマヤはカミュから視線をそらさないまま、「おれはいい」と首を振った。
「兄貴だけじゃない。勇者さまも、ちょっと変だった」
「変だった? ボクが?」
「なんど声をかけてもボーッとしてさ、ずっと墓場の方を見てただろ。そんで兄貴が勇者さまの肩を掴んで、そしたら急にパッタリ倒れちゃって……」
イレブンは思わず耳を疑った。
カミュとマヤには、あの少女の姿が見えていなかったのだ。あれだけ近くにいたというのに、イレブンと彼女の会話すら二人の耳には届いていなかった。
(どういうことだ? まさかあの子は……)
この世のものではない、ということなのか。場所柄そう考えるのが自然だし、目の前で忽然と姿を消したことへの説明もつく。
けれど不思議と恐ろしさは感じなかった。ただどうにも引っかかる。カミュがこうなったことと、なにか関係があるのだろうか。
「兄貴のことも心配だけど、お前のことも……ちょびっとくらいは心配してやってんだからな。いいから今夜は休めって」
マヤの言葉に、イレブンはいったん思考を止めて微笑んだ。
本当はカミュの傍についていたい。けれどこれ以上マヤを不安にさせることもしたくなかった。
「ありがとう、マヤちゃん」
ポン、とマヤの頭に手を乗せた。振り払われるかと思ったが、彼女は小さく「ズビ」と鼻を鳴らしただけだった。
*
まんじりともせず寝台に横たわっていると、暗闇のなか扉が開く音が聞こえた。
イレブンが枕元の照明を灯すと、ほのかな暖色のなかに佇むカミュの姿があった。
「カミュ……?」
ホッと安堵の息をつきながら、イレブンは肘を立てて半身を起こした。
「よかった。目が覚めたんだね。マヤちゃんは?」
「寝てる」
短く答えながら、カミュはノロノロとした動きで寝台のそばまでやってきた。どこかぼうっとして見えるのは、まだ意識がハッキリしないせいなのだろうか。
「起きたらお前がいなかったから」
「……だから来た?」
素直にこくんとうなずく仕草に、胸がキュッと締めつけられた。
イレブンは堪らない気持ちになりながら、寝台の脇に寄って一人分のスペースを開けると、上掛けを持ち上げた。
「オレ、どうしたんだ?」
潜り込んできたカミュの身体を抱き込んで、上掛けを引き上げる。
「浜で急に倒れたんだよ。覚えてない?」
「……覚えてない」
一つの枕を半分こしあいながら、カミュは相変わらずぼうっとしていた。声もどこかふわふわと上ずっていて、普段の明瞭さが消えている。
彼はゆるりと手を伸ばし、イレブンの頬を幾度か撫でた。
「イレブン……」
吐息だけで名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
とろんと蕩けたようになっている瞳に見つめられ、イレブンの頬に熱がのぼる。
「か、カミュ?」
その手が後ろ首に回ったかと思うと、唇を奪われた。ぎょっとしている間に、カミュが覆いかぶさってくる。
「ッ、か…、ミュ……っ、待っ…!」
「はぁ、っ…、ん、ん……っ」
髪をグシャリと掴むように乱されて、角度を変えながら幾度も唇を食まれた。そうかと思えば濡れた水音を響かせて、切ないほどに吸い上げられる。
割って入ってきた舌に歯列をなぞられ、背筋がゾクゾクと甘く痺れた。
「待て、カミュ……っ」
これ以上はマズい。頭の中にカンカンと響く警告の鐘に従って、イレブンはカミュの両肩を掴むと引き剥がした。
「いれ、ぶん……?」
拒まれるなんて微塵も思っていなかったのだろう。頬や首筋を薄紅に染めたカミュが、飴玉を取り上げられた幼子のような表情で首をかしげた。
「マヤちゃんがいる……隣の部屋に」
濡れて色づいた唇から目をそらし、イレブンはそれだけ言うのがやっとだった。心臓はバクバクと跳ね上がっているし、薄皮程度の理性しか保てていないのが正直なところだった。
けれど、今のカミュは明らかに様子がおかしい。
普段の彼なら、マヤが同行する旅の途中でこんな真似は絶対にしない。キスすら満足に許してはくれないはずだった。どんなに壁が厚い宿の一室だったとしても。
しかしカミュは納得がいかない様子で首を振り、眉根を寄せた。
「マヤならぐっすり寝てる。だからちょっとだけ……なぁ、いいだろ?」
うっすらと染まる目元や、切なげに潤んだ瞳に、イレブンはぐっと喉を詰まらせた。
滅多に欲を出さない恋人に、これほど熱く誘われて嬉しくないはずがない。
イレブンの上に乗り上げているカミュの胸元は、ただでさえ心許ない襟ぐりがよれて、胸があらわになっている。そのあられもない姿に、心臓がいっそう忙しなく跳ね上がった。
目を泳がせるイレブンに、カミュはふっと笑うと再び唇を重ねてきた。
ちゅうっと音を立てながら吸いつかれたり、舌と舌が擦れたりしているうちに、否が応でも火がついてしまう。
(こんなの、我慢できっこないだろ!!)
もうどうにでもなれという気持ちで、イレブンはカミュの身体を抱いて体勢を反転させた。
互いに競うように舌を絡めて貪り合っていると、溢れた唾液がカミュの口端から漏れて、首筋を伝い落ちていく。
「ぁ、…っ、ん…、イレ、ブン……っ」
その跡を唇で辿り、イレブンはカミュの首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に舌を這わせ、時おり緩く吸いついた。イレブンが施す愛撫に、カミュは甘い声を漏らしながら、ピクン、ピクン、と健気に反応を示した。
「カミュ……カミュ……っ」
彼が可愛くて仕方ない。どうしようもないほどに。自分でも怖いほど、支配したいという欲が膨らんでいく。それは抗いようのない、雄としての本能だった。
ほとんど無意識のうちに、イレブンはカミュの鎖骨に歯を立てていた。カミュがいっそう甘い悲鳴を漏らす。決して傷つけないよう、ギリギリのところで加減しながら、もどかしさで気がおかしくなりそうだった。
カミュが好きだ。カミュが欲しい。傷つけたくない。大事にしたい。
けれどそんな思いとは裏腹な、真逆の衝動が心の深部から突きでてくる。
頭のてっぺんから爪の先まで。この白く柔い肌に牙を立て、食いちぎってしまえたら。いっそのこと、残さず食べてしまえたら──。
「ぁ、は…っ、イレ、ぶ……っ、なぁ、頼むから…」
「ん…、なに」
「噛んで、もっと……血が出るくらい」
「ッ、!」
イレブンは冷水を浴びたように面食らった。むしろ今まさに、言われるまでもなく実行に移しかけていた自分を止めたのは、皮肉にもカミュの懇願だった。
(ボクは、なにを……?)
あのまま衝動に身を任せていたら、今頃どうなっていただろう。
理性を取り戻したイレブンが顔をあげそうになるのを、カミュの両腕が許さなかった。ぎゅうっと頭を抱き込んで、猫のようにスリスリと頬ずりをしてきた。
「思いっきり噛んで……オレを、食ってくれ……」
「カミュ……?」
「頼むから!」
それはあまりにも必死で、あまりにも悲痛な懇願だった。
彼は泣き崩れたような声で、なおもこう言い募った。
『食べて、ウークマー』
と──。
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静寂のなか、騒ぎ立つ波音だけが辺りに大きく響き渡っていた。
「ただの偶然かもしれねえってのに、安請け合いしてホントによかったのか?」
呆れ気味のカミュに、イレブンは苦笑しながら耳の裏側をポリポリと掻いた。
「うーん。まあ、あれだけ必死に頼まれたら、無視するわけにもいかないし」
「ほんっとにお人好しな勇者さまだぜ」
「カタイこと言うなって兄貴! それよりここ、いかにも出そうな浜だよな」
マヤはどこかワクワクした様子で、周囲を見回した。するとカミュがそんな妹を横目で睨み、「やめろって」と嫌そうに言う。
マヤは両目を三日月のような形にしながらニンマリ笑った。
「兄貴は昔っからそういうの苦手だもんな。すーぐビビっちゃってさ」
「バカ言うな。ビビってなんかねえよ」
「はいはい。ガキの頃、バイキングのおっさんに聞かされた怖い話のせいで、しばらく一人じゃトイレも行けなかったことは忘れてやるよ」
「ちょっ、おいマヤ!」
「いっししー!」
眠たそうなマヤの手を引いてトイレに行く幼いカミュを想像し、イレブンは「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
ホムラの里でルコに会ったときから薄々気づいてはいたが、やはりカミュはこの手の話が苦手なのだ。おかげで夜の不気味さが、幾らか薄まったように感じられた。
(……ん?)
そうやって和んでいたときだった。
ふと墓場の方から気配を感じて、イレブンはそちらへ目を向けた。
するとそこに、白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのが見えた。
(女の子……こんな時間に、一人で?)
歳は成人するかしないかの頃合いだろうか。日に焼けた肌に、腰まで伸びた長い髪は青色で、勝ち気そうな瞳がイレブンをじっと見つめている。
一瞬マヤかと思うほど、面立ちが似ているような気がした。
「こんな時間にどうしたんだ? 一人でいたら危ないよ」
イレブンは彼女が気になり、墓場へ近づくと声をかけた。すると少女は、
「待ってたの」
と、凛とした涼やかな声で言った。
「誰かと待ち合わせ?」
少女が左右に首を振る。
「もういいの。アナタが連れてきてくれたから」
「ボクが?」
首をかしげるイレブンに、彼女がこくんとうなずいた。
「アナタ、名前は?」
少女に問われ、「ボクはイレブン」と素直に名前を口にする。
「キミは?」
「……私はユーリー」
「ユーリー?」
「そう。ただのユーリー」
ユーリーは微かに笑うと、まるで空気に溶け込むようにスゥっと姿を消した。
「!?」
イレブンは目の前で起こった出来事に、ただ息を呑んで呆然とするばかりだった。
凍りついたように動けないでいると、背後からマヤの焦った声が聞こえた。
「兄貴!? 兄貴、しっかりしろよ!」
弾かれたように振り返れば、カミュがうつ伏せに倒れ込んでいる姿が見えた。
「カミュ!?」
「イレブン! 兄貴が急に倒れて……っ」
「カミュ! しっかりしろ! カミュっ!!」
駆け寄って抱き起こすが、カミュはイレブンの胸に力なくもたれかかるばかりだった。呼びかけながら幾度か軽く頬を叩いてみても、いっさい反応を示さない。まるで糸が切れた人形のようだった。
(さっきまでピンピンしてたのに……どうして……?)
イレブンはカミュを抱き上げるとマヤを見た。
「とにかく宿に戻ろう。すぐに医者を呼ばないと」
真っ青な表情に涙を浮かべたマヤが、唇を噛み締めながらうなずいた。
*
宿屋のベッドでは、カミュがこんこんと眠り続けている。
顔色は決して悪くないのだが、まったく目を覚ます気配がなかった。
「兄貴……急にどうしちゃったんだよ……」
ベッド脇の椅子に腰掛けたマヤが、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
宿に戻ってすぐ、店主が医者を連れてきてくれた。けれどこれといった異常は見つからず、原因は分からずじまいだった。とりあえず熱もなく、呼吸も安定していることから、一晩様子を見るより他にないとのことだった。
「……兄貴はおれが見てるから、勇者さまはもう寝ろよ」
「いや、ボクは大丈夫だ。それよりマヤちゃんこそ休んだほうがいい」
するとマヤはカミュから視線をそらさないまま、「おれはいい」と首を振った。
「兄貴だけじゃない。勇者さまも、ちょっと変だった」
「変だった? ボクが?」
「なんど声をかけてもボーッとしてさ、ずっと墓場の方を見てただろ。そんで兄貴が勇者さまの肩を掴んで、そしたら急にパッタリ倒れちゃって……」
イレブンは思わず耳を疑った。
カミュとマヤには、あの少女の姿が見えていなかったのだ。あれだけ近くにいたというのに、イレブンと彼女の会話すら二人の耳には届いていなかった。
(どういうことだ? まさかあの子は……)
この世のものではない、ということなのか。場所柄そう考えるのが自然だし、目の前で忽然と姿を消したことへの説明もつく。
けれど不思議と恐ろしさは感じなかった。ただどうにも引っかかる。カミュがこうなったことと、なにか関係があるのだろうか。
「兄貴のことも心配だけど、お前のことも……ちょびっとくらいは心配してやってんだからな。いいから今夜は休めって」
マヤの言葉に、イレブンはいったん思考を止めて微笑んだ。
本当はカミュの傍についていたい。けれどこれ以上マヤを不安にさせることもしたくなかった。
「ありがとう、マヤちゃん」
ポン、とマヤの頭に手を乗せた。振り払われるかと思ったが、彼女は小さく「ズビ」と鼻を鳴らしただけだった。
*
まんじりともせず寝台に横たわっていると、暗闇のなか扉が開く音が聞こえた。
イレブンが枕元の照明を灯すと、ほのかな暖色のなかに佇むカミュの姿があった。
「カミュ……?」
ホッと安堵の息をつきながら、イレブンは肘を立てて半身を起こした。
「よかった。目が覚めたんだね。マヤちゃんは?」
「寝てる」
短く答えながら、カミュはノロノロとした動きで寝台のそばまでやってきた。どこかぼうっとして見えるのは、まだ意識がハッキリしないせいなのだろうか。
「起きたらお前がいなかったから」
「……だから来た?」
素直にこくんとうなずく仕草に、胸がキュッと締めつけられた。
イレブンは堪らない気持ちになりながら、寝台の脇に寄って一人分のスペースを開けると、上掛けを持ち上げた。
「オレ、どうしたんだ?」
潜り込んできたカミュの身体を抱き込んで、上掛けを引き上げる。
「浜で急に倒れたんだよ。覚えてない?」
「……覚えてない」
一つの枕を半分こしあいながら、カミュは相変わらずぼうっとしていた。声もどこかふわふわと上ずっていて、普段の明瞭さが消えている。
彼はゆるりと手を伸ばし、イレブンの頬を幾度か撫でた。
「イレブン……」
吐息だけで名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
とろんと蕩けたようになっている瞳に見つめられ、イレブンの頬に熱がのぼる。
「か、カミュ?」
その手が後ろ首に回ったかと思うと、唇を奪われた。ぎょっとしている間に、カミュが覆いかぶさってくる。
「ッ、か…、ミュ……っ、待っ…!」
「はぁ、っ…、ん、ん……っ」
髪をグシャリと掴むように乱されて、角度を変えながら幾度も唇を食まれた。そうかと思えば濡れた水音を響かせて、切ないほどに吸い上げられる。
割って入ってきた舌に歯列をなぞられ、背筋がゾクゾクと甘く痺れた。
「待て、カミュ……っ」
これ以上はマズい。頭の中にカンカンと響く警告の鐘に従って、イレブンはカミュの両肩を掴むと引き剥がした。
「いれ、ぶん……?」
拒まれるなんて微塵も思っていなかったのだろう。頬や首筋を薄紅に染めたカミュが、飴玉を取り上げられた幼子のような表情で首をかしげた。
「マヤちゃんがいる……隣の部屋に」
濡れて色づいた唇から目をそらし、イレブンはそれだけ言うのがやっとだった。心臓はバクバクと跳ね上がっているし、薄皮程度の理性しか保てていないのが正直なところだった。
けれど、今のカミュは明らかに様子がおかしい。
普段の彼なら、マヤが同行する旅の途中でこんな真似は絶対にしない。キスすら満足に許してはくれないはずだった。どんなに壁が厚い宿の一室だったとしても。
しかしカミュは納得がいかない様子で首を振り、眉根を寄せた。
「マヤならぐっすり寝てる。だからちょっとだけ……なぁ、いいだろ?」
うっすらと染まる目元や、切なげに潤んだ瞳に、イレブンはぐっと喉を詰まらせた。
滅多に欲を出さない恋人に、これほど熱く誘われて嬉しくないはずがない。
イレブンの上に乗り上げているカミュの胸元は、ただでさえ心許ない襟ぐりがよれて、胸があらわになっている。そのあられもない姿に、心臓がいっそう忙しなく跳ね上がった。
目を泳がせるイレブンに、カミュはふっと笑うと再び唇を重ねてきた。
ちゅうっと音を立てながら吸いつかれたり、舌と舌が擦れたりしているうちに、否が応でも火がついてしまう。
(こんなの、我慢できっこないだろ!!)
もうどうにでもなれという気持ちで、イレブンはカミュの身体を抱いて体勢を反転させた。
互いに競うように舌を絡めて貪り合っていると、溢れた唾液がカミュの口端から漏れて、首筋を伝い落ちていく。
「ぁ、…っ、ん…、イレ、ブン……っ」
その跡を唇で辿り、イレブンはカミュの首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に舌を這わせ、時おり緩く吸いついた。イレブンが施す愛撫に、カミュは甘い声を漏らしながら、ピクン、ピクン、と健気に反応を示した。
「カミュ……カミュ……っ」
彼が可愛くて仕方ない。どうしようもないほどに。自分でも怖いほど、支配したいという欲が膨らんでいく。それは抗いようのない、雄としての本能だった。
ほとんど無意識のうちに、イレブンはカミュの鎖骨に歯を立てていた。カミュがいっそう甘い悲鳴を漏らす。決して傷つけないよう、ギリギリのところで加減しながら、もどかしさで気がおかしくなりそうだった。
カミュが好きだ。カミュが欲しい。傷つけたくない。大事にしたい。
けれどそんな思いとは裏腹な、真逆の衝動が心の深部から突きでてくる。
頭のてっぺんから爪の先まで。この白く柔い肌に牙を立て、食いちぎってしまえたら。いっそのこと、残さず食べてしまえたら──。
「ぁ、は…っ、イレ、ぶ……っ、なぁ、頼むから…」
「ん…、なに」
「噛んで、もっと……血が出るくらい」
「ッ、!」
イレブンは冷水を浴びたように面食らった。むしろ今まさに、言われるまでもなく実行に移しかけていた自分を止めたのは、皮肉にもカミュの懇願だった。
(ボクは、なにを……?)
あのまま衝動に身を任せていたら、今頃どうなっていただろう。
理性を取り戻したイレブンが顔をあげそうになるのを、カミュの両腕が許さなかった。ぎゅうっと頭を抱き込んで、猫のようにスリスリと頬ずりをしてきた。
「思いっきり噛んで……オレを、食ってくれ……」
「カミュ……?」
「頼むから!」
それはあまりにも必死で、あまりにも悲痛な懇願だった。
彼は泣き崩れたような声で、なおもこう言い募った。
『食べて、ウークマー』
と──。
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久しぶりに訪れたナギムナー村は、観光客が増えて活気づいていた。
波打ち際で戯れるカップル、手を繋いで桟橋を歩くカップルに、砂浜へ続く階段に座って身を寄せるカップルなど──主に若い男女の二人連ればかりが目立つ。
「しばらく来ないうちに、ずいぶん賑やかになったもんだな」
青い空にきらめく太陽。寄せては返す白波に、吹き抜ける爽やかな潮風。
ルーラで降り立ったナギムナー村の砂浜で、辺りを見回しながらカミュが言う。
その横でこくんとうなずきながら、イレブンは一緒に来たはずのマヤの姿が消えていることに気がついた。
「カミュ、マヤちゃんは?」
「おいおいマジか。さっそく真珠の匂いにでも釣られちまったか?」
今日ここを訪れたのは、お宝探しを名目とした観光だった。
メダル女学園に在籍するマヤが長期休暇に入ったため、イレブンは兄妹を連れてこの村にやってきた。カミュがナギムナー村の魚料理を、どうしてもマヤにも食べさせたいと言うからだ。
寂れた漁村をイメージしていたらしいマヤは渋っていたが、真珠が有名だと知った途端にやる気をだしていた。
「ったくマヤのやつ……ちょっと目を離すとすぐこれだ」
苦労性の兄がやれやれと肩をすくめている。
彼女はさすがカミュの妹というだけあって、非常に素早い。そして鼻がきく。そのため、うかうかしていると一瞬で見失ってしまうのだ。
兄の方にもせっかちなところはあるが、マヤは自由奔放な鉄砲玉のようだった。
その点、本来の気質だけでいえば、カミュはしっかりしているようでいて、意外と天然というか──ある意味ちょっと抜けている部分があるのではないかと、イレブンは思っている。だからこそ、マイペースな自分と上手く噛み合うのかもしれないと。
「大丈夫か? そろそろ立てるかい?」
するとそこへ、気遣わしげな男の声が聞こえてきた。
ふとその方向に目をやると、階段に腰掛けていたカップルのうち、女性の方が真っ青な顔をしているのが見えた。男が肩を抱き、心配そうに声をかけている。
「大丈夫よ。ごめんね、もうすぐ船が来るのに」
「気にしなくていいさ。無理はしないほうがいいよ」
どうやら二人は帰りの船を待つあいだ、ここで休憩していたらしい。ただイチャイチャと寄り添っていただけかと思いきや、女はだいぶ前から気分が悪かったようだ。
女は男に支えられながら立ち上がると、階段を登って桟橋を渡り、村の出入り口へと向かっていった。
「大丈夫かな、あの二人。彼女さん、ずいぶん悪そうだったけど」
「だな。船で吐かなきゃいいが……」
気になって様子を見守っていたイレブンとカミュだったが、そこへ「ぎゃあ!」というマヤの悲鳴が聞こえてハッとした。
「マヤ!?」
「たっ、助けて兄貴! こいつなんとかしてくれよっ!」
マヤは砂浜の遠く離れた場所にいた。
慌てて駆けつけてみれば、そこには伸び放題の白髪頭に、粗末な布切れをまとった老人がおり、マヤに縋りついている。
「チュラ! チュラ!」
老人はしきりにそう叫んでは、マヤの腰に両腕を巻きつけていた。
「やだやだ! 離せって! なんなんだよ、このじいさん!?」
「てめぇ! マヤを離しやがれっ!!」
カミュが飛びかかり、老人を引き剥がそうとした。すると顔を覆うほど伸びた前髪の隙間から、濁った瞳がカミュを捉えた。その瞬間、
「チュラ…? チュラっ、チュラぁ……っ!!」
「うわっ!?」
今度はカミュに向かって両手を伸ばし、ぶつかるように飛びかかってきた。
背中から砂地に倒れ込んだカミュの胸に縋りつき、老人がしゃがれた声で泣き叫ぶ。
「お、おいおいじいさん、ボケてんのか? オレはチュラなんて名前じゃ……」
「このボケジジイ! 兄貴に触んな!」
今度はマヤが飛びかかろうとしたそのとき、イレブンは老人に向かって手をかざすと、ラリホーを唱えた。
「あ、ぁ……チュ…、ラ……」
老人がパタリと動かなくなったところで、イレブンはカミュを助け起こした。
イレブンの手を借りてどうにか立ち上がったカミュが、ホッと安堵の息をつく。
「カミュ、大丈夫か?」
「悪いな。助かったぜ、相棒」
「なんだってんだよ! この変態じいさんは!」
マヤは肩を怒らせ、いまだに老人を睨みつけている。
カミュはうつ伏せで寝息を立てる老人に戸惑いの眼差しを向けたあと、イレブンと顔を見合わせた。
*
「兄貴はほっとくと、すーぐ変なのに絡まれるからな」
海を一望できる酒場兼食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。目の前にはナギムナー近海でとれた魚料理が、所狭しと並べられている。
マヤは魚の骨を齧りながら、まだどこか苛立ちを抑えられない様子だった。
「おいおい、先に絡まれてたのはお前の方だろ?」
「だってあのじいさん、兄貴を見た途端もっとヤバい反応してたじゃん」
ピンと来ていない様子のカミュに、マヤが「兄貴はこれだから」と肩をすくめる。
イレブンは内心、彼女の言い分に同意した。こうしてマヤが休暇に入るたび三人で各地を巡っているが、どこへ行っても彼は誰かしらに絡まれている。
思えば仲間たちとの旅の間もそうだった。カミュは行く先々で男女問わずモテていた。当人は慣れた様子で受け流していたが、見ているこちらは気が気じゃなかった。
あしらいきれずに力技で来られた日には、イレブンをはじめ、シルビアやグレイグが盾になって守ることもしばしばあった。
(カミュは自覚があるようでいてないからなぁ)
内心でボヤきながら、魚のフリッターにかぶりつく。衣のサクサク感と、身の柔らかさのバランスが丁度いい。レモンソースの爽やかな酸味の後を、ほどよい甘さが追いかけてくる。
やはりナギムナー村の魚料理は絶品だ。カミュがハマるのもうなずける。
頬をリスのように膨らませながら咀嚼していると、ふいに視線を感じた。カミュがどこかぼんやりとした様子で、こちらを見つめていることに気がついた。
(……ああ、まただ)
いつからだろう。カミュが食事するイレブンを、こうしてじっと見つめてくるようになったのは。厳密には咀嚼する際の口の動きを、と言ったほうが正しい。気もそぞろといった様子で、どこか物欲しげに瞳を揺らしながら。
イレブンがその瞳を覗き込むと、彼はようやく自分がしていたことに気づいたようだった。誤魔化すように「ああ、悪い」と言って、笑みを浮かべた。
「本当にウマそうに食うよな、イレブンは」
「カミュも食べなよ。好きだろ? ここの魚料理」
そう言いながら、イレブンはふとイタズラを思いつく。テーブルに添えてあった赤いハイビスカスを手に取ると、カミュの右耳の上らへんにプスッと刺した。
「あ、可愛い」
「バカ、やめろって」
「いいじゃないか。よく似合ってるよ。青い髪に、赤色がよく映えて」
するとマヤが「イチャつくなら他所でやれよな」と、うんざりした声をあげた。
「マヤちゃんにも飾ってあげよう」
イレブンはニンマリしながらもう一つハイビスカスを手に取ったが、マヤに「やめろバカブン!」と叱られてしまった。それを見て、カミュがケラケラと笑っている。
「お客さんたち、さっきは災難だったな!」
するとそこへ若い店員の男がやってきた。男は追加の料理をテーブルに置きながら、さらに続けて言った。
「ありゃムヌクーヤーだよ」
「ムヌクーヤー? あのじいさんの名前か?」
カミュが問うと、店員の男は「いいや」と首を左右に振った。
「ここいらの方言で、物乞いって意味さ」
「物乞い?」
マヤが首をかしげると、話好きらしい店員がさらに詳しく教えてくれた。
あの老人はしじまヶ浜から崖沿いを回り込んだ先にある、モクマオウ──メリケンマツのこと──の洞窟に住んでいるという。
ときどき洞窟から出てきては物乞いをして暮らしているが、最近は観光客が増えたせいか、頻繁に姿を現すようになったらしい。
「なんでもあのムヌクーヤーは、百年以上も昔からこの村にいるんだってさ」
「へえ。あのじいさん、ずいぶんと長生きなんだな」
関心しながらカミュが言うと、店員は「いやいや」と言って手を振った。
「長生きどころの話じゃないさ。百年以上も前から、あの姿のまんまいるってんだから。オレの死んだじいちゃんがガキの頃には、すでにあの姿でいたって話だよ」
「アホらし」
マヤがつまらなさそうに、魚の骨をプッと吐きだす。
すると斜向かいの席で酒を飲んでいた老人が、おもむろに口を開いた。
「ありゃマジムンじゃ。800年も昔からここに住み着いておる。近づいてはならん」
キョトンとしていると、身を寄せてきた店員の男が「マジムンってのは、妖怪とか悪霊って意味だよ」と教えてくれた。
800年もの時を生き、100年以上も姿を変えずにいる老人──もちろん信じているわけではないけれど、おのずと人魚が連想される。
彼女たちもまた不老長寿の存在だ。人間とは生きている時間軸が異なっている。
だからこそ起きた悲劇を知るイレブンは、夜の海に泡と消えた人魚の姿を思いだす。
ふと相棒の方を見やれば、彼はどこか物憂げに目を伏せていた。カミュもまた同じく、あの美しい人魚の最期に思いを馳せているようだった。
*
腹も満ちたところで、日が暮れてきた。
訪れた宿屋のカウンターで部屋の手配をしていると、客室側の通路で突然、女が倒れた。
「お、おい! しっかりしろ!」
そばにいた連れの男性が、その肩を抱いて必死に声をかけている。女性は吐き気を堪えるように、両手で口を押さえていた。その表情は真っ青だ。
「こりゃいけねぇ! お客さんたち、ちょっとここで待っててもらえるかい!?」
イレブンがうなずくと、筋骨隆々とした仮面の店主がカップルの元へ駆け寄った。そして彼氏と協力して彼女を支え、奥の客室へ消えていく。
ほどなくして戻ってきた店主は、再びカウンターに立つと深い溜息をついた。
「あの子、大丈夫なのか?」
カミュが訊ねると、店主は参った様子で「部屋で休んでもらってるよ」と言った。
「今日だけで二人目だ。まったく、困ったもんさ」
店主はこちらが何かを問う前に、現在ナギムナー村で起きている問題について語り始めた。
「一体どこの誰が言いだしたもんか知らんが、いつからかしじまヶ浜で夜にデートをすると、そのカップルは永遠に結ばれる、なんて噂が立ったのさ」
「やけにカップルが多いとは思っちゃいたが、そういうことか」
「今じゃ立派なデートスポットさ。墓場でデートだなんて、とんでもねぇ話だよ」
カミュはいささかげんなりした様子だった。彼はあまりこの手の話が得意でない。
けれどイレブンは内心ちょっぴり気になってしまった。夜の浜辺でカミュとデート。そして永遠を誓い合う──うん、悪くない、と。
けれどその甘ったるい想像はすぐに振り払われた。
「だけど最近、浜でデートした翌日に体調を崩す女性が増えたんだ」
今日だけで二人目、と店主は言っていた。おそらくさっき浜辺で見たカップルのことだ。
同じく思い当たったらしいカミュと顔を見合わせる。
「これで妙な噂が広がったりしたら、商売上がったりだ!」
店主は頭を抱え、カウンターに伏せてしまった。
「せめて原因が分かれば……というわけでお客さん、どうにかしてもらえないか?」
「えっ?」
ヌッ、と顔をあげた店主に、イレブンは目を白黒させた。
「なんたってアンタらはあのクラーゴンを倒した村の英雄だ! きっとなんとかできるはずだろ? な、頼む! この通り! 」
「おいおい、そんな無茶な……」
難色を示すカミュを遮り、店主が「そこをなんとか!」と両手を合わせる。
「やってくれたら、今夜の宿代はチャラだ!」
「マジ!?」
そこですかさず反応したのがマヤだった。彼女はずっと退屈そうに黙り込んでいたが、途端にキラキラと目を輝かせた。
「いいじゃん、やろうぜ勇者さま! おれらで謎を突き止めよう!」
「ありがてぇ! そうと決まればさっそく部屋を用意するぜ!」
「いししっ! やりぃ~!」
当のイレブンを置き去りにして、店主とマヤは大喜びだ。その様子に、カミュが深々とため息を漏らす。
「マヤ……タダより高くつくもんはないんだぜ……」
かくしてナギムナー村で起きている怪異の正体を探るため、三人は夜のしじまヶ浜へ向かうことになったのだった。
←戻る ・ 次へ→
波打ち際で戯れるカップル、手を繋いで桟橋を歩くカップルに、砂浜へ続く階段に座って身を寄せるカップルなど──主に若い男女の二人連ればかりが目立つ。
「しばらく来ないうちに、ずいぶん賑やかになったもんだな」
青い空にきらめく太陽。寄せては返す白波に、吹き抜ける爽やかな潮風。
ルーラで降り立ったナギムナー村の砂浜で、辺りを見回しながらカミュが言う。
その横でこくんとうなずきながら、イレブンは一緒に来たはずのマヤの姿が消えていることに気がついた。
「カミュ、マヤちゃんは?」
「おいおいマジか。さっそく真珠の匂いにでも釣られちまったか?」
今日ここを訪れたのは、お宝探しを名目とした観光だった。
メダル女学園に在籍するマヤが長期休暇に入ったため、イレブンは兄妹を連れてこの村にやってきた。カミュがナギムナー村の魚料理を、どうしてもマヤにも食べさせたいと言うからだ。
寂れた漁村をイメージしていたらしいマヤは渋っていたが、真珠が有名だと知った途端にやる気をだしていた。
「ったくマヤのやつ……ちょっと目を離すとすぐこれだ」
苦労性の兄がやれやれと肩をすくめている。
彼女はさすがカミュの妹というだけあって、非常に素早い。そして鼻がきく。そのため、うかうかしていると一瞬で見失ってしまうのだ。
兄の方にもせっかちなところはあるが、マヤは自由奔放な鉄砲玉のようだった。
その点、本来の気質だけでいえば、カミュはしっかりしているようでいて、意外と天然というか──ある意味ちょっと抜けている部分があるのではないかと、イレブンは思っている。だからこそ、マイペースな自分と上手く噛み合うのかもしれないと。
「大丈夫か? そろそろ立てるかい?」
するとそこへ、気遣わしげな男の声が聞こえてきた。
ふとその方向に目をやると、階段に腰掛けていたカップルのうち、女性の方が真っ青な顔をしているのが見えた。男が肩を抱き、心配そうに声をかけている。
「大丈夫よ。ごめんね、もうすぐ船が来るのに」
「気にしなくていいさ。無理はしないほうがいいよ」
どうやら二人は帰りの船を待つあいだ、ここで休憩していたらしい。ただイチャイチャと寄り添っていただけかと思いきや、女はだいぶ前から気分が悪かったようだ。
女は男に支えられながら立ち上がると、階段を登って桟橋を渡り、村の出入り口へと向かっていった。
「大丈夫かな、あの二人。彼女さん、ずいぶん悪そうだったけど」
「だな。船で吐かなきゃいいが……」
気になって様子を見守っていたイレブンとカミュだったが、そこへ「ぎゃあ!」というマヤの悲鳴が聞こえてハッとした。
「マヤ!?」
「たっ、助けて兄貴! こいつなんとかしてくれよっ!」
マヤは砂浜の遠く離れた場所にいた。
慌てて駆けつけてみれば、そこには伸び放題の白髪頭に、粗末な布切れをまとった老人がおり、マヤに縋りついている。
「チュラ! チュラ!」
老人はしきりにそう叫んでは、マヤの腰に両腕を巻きつけていた。
「やだやだ! 離せって! なんなんだよ、このじいさん!?」
「てめぇ! マヤを離しやがれっ!!」
カミュが飛びかかり、老人を引き剥がそうとした。すると顔を覆うほど伸びた前髪の隙間から、濁った瞳がカミュを捉えた。その瞬間、
「チュラ…? チュラっ、チュラぁ……っ!!」
「うわっ!?」
今度はカミュに向かって両手を伸ばし、ぶつかるように飛びかかってきた。
背中から砂地に倒れ込んだカミュの胸に縋りつき、老人がしゃがれた声で泣き叫ぶ。
「お、おいおいじいさん、ボケてんのか? オレはチュラなんて名前じゃ……」
「このボケジジイ! 兄貴に触んな!」
今度はマヤが飛びかかろうとしたそのとき、イレブンは老人に向かって手をかざすと、ラリホーを唱えた。
「あ、ぁ……チュ…、ラ……」
老人がパタリと動かなくなったところで、イレブンはカミュを助け起こした。
イレブンの手を借りてどうにか立ち上がったカミュが、ホッと安堵の息をつく。
「カミュ、大丈夫か?」
「悪いな。助かったぜ、相棒」
「なんだってんだよ! この変態じいさんは!」
マヤは肩を怒らせ、いまだに老人を睨みつけている。
カミュはうつ伏せで寝息を立てる老人に戸惑いの眼差しを向けたあと、イレブンと顔を見合わせた。
*
「兄貴はほっとくと、すーぐ変なのに絡まれるからな」
海を一望できる酒場兼食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。目の前にはナギムナー近海でとれた魚料理が、所狭しと並べられている。
マヤは魚の骨を齧りながら、まだどこか苛立ちを抑えられない様子だった。
「おいおい、先に絡まれてたのはお前の方だろ?」
「だってあのじいさん、兄貴を見た途端もっとヤバい反応してたじゃん」
ピンと来ていない様子のカミュに、マヤが「兄貴はこれだから」と肩をすくめる。
イレブンは内心、彼女の言い分に同意した。こうしてマヤが休暇に入るたび三人で各地を巡っているが、どこへ行っても彼は誰かしらに絡まれている。
思えば仲間たちとの旅の間もそうだった。カミュは行く先々で男女問わずモテていた。当人は慣れた様子で受け流していたが、見ているこちらは気が気じゃなかった。
あしらいきれずに力技で来られた日には、イレブンをはじめ、シルビアやグレイグが盾になって守ることもしばしばあった。
(カミュは自覚があるようでいてないからなぁ)
内心でボヤきながら、魚のフリッターにかぶりつく。衣のサクサク感と、身の柔らかさのバランスが丁度いい。レモンソースの爽やかな酸味の後を、ほどよい甘さが追いかけてくる。
やはりナギムナー村の魚料理は絶品だ。カミュがハマるのもうなずける。
頬をリスのように膨らませながら咀嚼していると、ふいに視線を感じた。カミュがどこかぼんやりとした様子で、こちらを見つめていることに気がついた。
(……ああ、まただ)
いつからだろう。カミュが食事するイレブンを、こうしてじっと見つめてくるようになったのは。厳密には咀嚼する際の口の動きを、と言ったほうが正しい。気もそぞろといった様子で、どこか物欲しげに瞳を揺らしながら。
イレブンがその瞳を覗き込むと、彼はようやく自分がしていたことに気づいたようだった。誤魔化すように「ああ、悪い」と言って、笑みを浮かべた。
「本当にウマそうに食うよな、イレブンは」
「カミュも食べなよ。好きだろ? ここの魚料理」
そう言いながら、イレブンはふとイタズラを思いつく。テーブルに添えてあった赤いハイビスカスを手に取ると、カミュの右耳の上らへんにプスッと刺した。
「あ、可愛い」
「バカ、やめろって」
「いいじゃないか。よく似合ってるよ。青い髪に、赤色がよく映えて」
するとマヤが「イチャつくなら他所でやれよな」と、うんざりした声をあげた。
「マヤちゃんにも飾ってあげよう」
イレブンはニンマリしながらもう一つハイビスカスを手に取ったが、マヤに「やめろバカブン!」と叱られてしまった。それを見て、カミュがケラケラと笑っている。
「お客さんたち、さっきは災難だったな!」
するとそこへ若い店員の男がやってきた。男は追加の料理をテーブルに置きながら、さらに続けて言った。
「ありゃムヌクーヤーだよ」
「ムヌクーヤー? あのじいさんの名前か?」
カミュが問うと、店員の男は「いいや」と首を左右に振った。
「ここいらの方言で、物乞いって意味さ」
「物乞い?」
マヤが首をかしげると、話好きらしい店員がさらに詳しく教えてくれた。
あの老人はしじまヶ浜から崖沿いを回り込んだ先にある、モクマオウ──メリケンマツのこと──の洞窟に住んでいるという。
ときどき洞窟から出てきては物乞いをして暮らしているが、最近は観光客が増えたせいか、頻繁に姿を現すようになったらしい。
「なんでもあのムヌクーヤーは、百年以上も昔からこの村にいるんだってさ」
「へえ。あのじいさん、ずいぶんと長生きなんだな」
関心しながらカミュが言うと、店員は「いやいや」と言って手を振った。
「長生きどころの話じゃないさ。百年以上も前から、あの姿のまんまいるってんだから。オレの死んだじいちゃんがガキの頃には、すでにあの姿でいたって話だよ」
「アホらし」
マヤがつまらなさそうに、魚の骨をプッと吐きだす。
すると斜向かいの席で酒を飲んでいた老人が、おもむろに口を開いた。
「ありゃマジムンじゃ。800年も昔からここに住み着いておる。近づいてはならん」
キョトンとしていると、身を寄せてきた店員の男が「マジムンってのは、妖怪とか悪霊って意味だよ」と教えてくれた。
800年もの時を生き、100年以上も姿を変えずにいる老人──もちろん信じているわけではないけれど、おのずと人魚が連想される。
彼女たちもまた不老長寿の存在だ。人間とは生きている時間軸が異なっている。
だからこそ起きた悲劇を知るイレブンは、夜の海に泡と消えた人魚の姿を思いだす。
ふと相棒の方を見やれば、彼はどこか物憂げに目を伏せていた。カミュもまた同じく、あの美しい人魚の最期に思いを馳せているようだった。
*
腹も満ちたところで、日が暮れてきた。
訪れた宿屋のカウンターで部屋の手配をしていると、客室側の通路で突然、女が倒れた。
「お、おい! しっかりしろ!」
そばにいた連れの男性が、その肩を抱いて必死に声をかけている。女性は吐き気を堪えるように、両手で口を押さえていた。その表情は真っ青だ。
「こりゃいけねぇ! お客さんたち、ちょっとここで待っててもらえるかい!?」
イレブンがうなずくと、筋骨隆々とした仮面の店主がカップルの元へ駆け寄った。そして彼氏と協力して彼女を支え、奥の客室へ消えていく。
ほどなくして戻ってきた店主は、再びカウンターに立つと深い溜息をついた。
「あの子、大丈夫なのか?」
カミュが訊ねると、店主は参った様子で「部屋で休んでもらってるよ」と言った。
「今日だけで二人目だ。まったく、困ったもんさ」
店主はこちらが何かを問う前に、現在ナギムナー村で起きている問題について語り始めた。
「一体どこの誰が言いだしたもんか知らんが、いつからかしじまヶ浜で夜にデートをすると、そのカップルは永遠に結ばれる、なんて噂が立ったのさ」
「やけにカップルが多いとは思っちゃいたが、そういうことか」
「今じゃ立派なデートスポットさ。墓場でデートだなんて、とんでもねぇ話だよ」
カミュはいささかげんなりした様子だった。彼はあまりこの手の話が得意でない。
けれどイレブンは内心ちょっぴり気になってしまった。夜の浜辺でカミュとデート。そして永遠を誓い合う──うん、悪くない、と。
けれどその甘ったるい想像はすぐに振り払われた。
「だけど最近、浜でデートした翌日に体調を崩す女性が増えたんだ」
今日だけで二人目、と店主は言っていた。おそらくさっき浜辺で見たカップルのことだ。
同じく思い当たったらしいカミュと顔を見合わせる。
「これで妙な噂が広がったりしたら、商売上がったりだ!」
店主は頭を抱え、カウンターに伏せてしまった。
「せめて原因が分かれば……というわけでお客さん、どうにかしてもらえないか?」
「えっ?」
ヌッ、と顔をあげた店主に、イレブンは目を白黒させた。
「なんたってアンタらはあのクラーゴンを倒した村の英雄だ! きっとなんとかできるはずだろ? な、頼む! この通り! 」
「おいおい、そんな無茶な……」
難色を示すカミュを遮り、店主が「そこをなんとか!」と両手を合わせる。
「やってくれたら、今夜の宿代はチャラだ!」
「マジ!?」
そこですかさず反応したのがマヤだった。彼女はずっと退屈そうに黙り込んでいたが、途端にキラキラと目を輝かせた。
「いいじゃん、やろうぜ勇者さま! おれらで謎を突き止めよう!」
「ありがてぇ! そうと決まればさっそく部屋を用意するぜ!」
「いししっ! やりぃ~!」
当のイレブンを置き去りにして、店主とマヤは大喜びだ。その様子に、カミュが深々とため息を漏らす。
「マヤ……タダより高くつくもんはないんだぜ……」
かくしてナギムナー村で起きている怪異の正体を探るため、三人は夜のしじまヶ浜へ向かうことになったのだった。
←戻る ・ 次へ→
目覚めると、ダンボールによって四方を囲まれた空間にいた。
足元はペットシーツに覆われており、隅の方には水が入った小皿が置かれている。
(……何がどうなった? オレは、まだ生きているのか?)
ふと、自分の身体が薄紫のマフラーに包まれていることに気がついた。そして公園での記憶がよみがえる。
「そうだ、オレはあのサラサラヘアーに……」
「あ、起きた?」
「!?」
天井に、ヌッとサラサラヘアーが現れた。
ダンボールを覗き込むサラサラ少年は、凛々しい眉をわずかに下げて微笑んだ。
「ごめんよ。どこの子か分からなかったから、勝手に連れて帰って来ちゃった」
「急に現れやがって……なにもんだお前は……?」
警戒心から身体を丸め、フシュッフシュッと威嚇する。
「ダンボール、狭くないかい? ペットシーツはさっきスーパーで買ってきたんだけど……あ、そうだ。ご飯は食べられそう?」
そう言って、少年は水が入った小皿の隣にもう一枚小皿を置いた。匂いから察するに、細かく切ったリンゴとバナナだ。
「遠慮しないで。イヤじゃなければ食べてほしいな」
正直ハラは減っているものの、持ち前の警戒心の強さから口をつける気にならない。こいつは一体、なんのつもりで自分を連れてきたのだろうか。
相変わらずフシュフシュ言うばかりのカミュに、少年は「そういえば自己紹介がまだだったね」とのんきに言った。
「ボクはイレブン。飼い主が見つかるまでだけど、よろしくね」
優しげに笑った少年の、サラサラヘアーがふわりと揺れた。
その柔和な雰囲気からは、純粋な善意が見て取れる。悪いヤツではないのかもしれないが──カミュはそれでもなお、針を逆立てることをやめられなかった。
*
翌朝。
「おはようゴンザレス。よく眠れた?」
マフラーに顔を埋めてウトウトしていたカミュは、少年の声でハッと目を覚ました。
(ゴンザレス……? まさかそれ、オレのことじゃねえよな?)
フシューフシューと威嚇するカミュに、イレブンはキョトンとしながら首をかしげる。
「あれ? イヤなのかな? カッコいい名前だと思うんだけど……」
「冗談じゃねえ。オレにはカミュって名前があるんだ」
「あ、ご飯食べてる。よかった。ゴンザレスはいい子だね」
「だからオレはゴンザレスなんて名前じゃねえって!」
朝から元気に威嚇しまくりのカミュだったが、イレブンはどこ吹く風で嬉しそうだ。たかが食事をしたくらいで、なにをそんなに喜ぶことがあるのだろう。
あのあとカミュはなんとか脱走しようと夜通し試みていた。
しかしダンボールをよじ登ることができず、体力ばかりが消費されてしまった。こんな所で終われない、の精神で、仕方なくリンゴとバナナを口に詰め込んだのだ。
結果的に、それが彼を喜ばせることになってしまった。
そういえばあのホメロスも、カミュとマヤがフードを完食すると「いやしいドブネズミめ」とか口ではダルいことを言いながら、フンフン鼻歌を歌っていたっけ。奴が特殊なのかと思っていたが、人間という生き物は基本的にお人好しばかりなのだろうか。
「ボクは学校に行くけど、ご飯は新しく入れておくから。ちゃんと食べてね」
イレブンは二枚の小皿を回収すると、新しく水と果物を入れてダンボールに置いた。そして「行ってきます」とカミュに笑いかけ、姿を消してしまった。
「変なヤツだぜ……」
それからどのくらいの時間が経っただろう。ハリネズミは夜行性のため、カミュは昼間のほとんどをマフラーに潜り込んで過ごした。
すぴ、すぴ、と寝息を立てているところに、扉が開く音が聞こえて目を覚ます。どうやらイレブンが帰ってきたらしい。
「ただいまゴンザレス。あれ、ご飯食べてない?」
イレブンは心配そうにしているが、カミュはもう大人のハリネズミなので、食事は一日一回で十分なのだ。
わかってねえなと思いながらあくびをしていると、イレブンは「あ、そうだ」と言ってなにやらゴソゴソしはじめた。
「学校の友だちがね、昔ハリネズミを飼っていたことがあるんだって。キミのことを話したら、今は使ってないケージを譲ってくれたんだ。あと、床材や巣箱もあったほうがいいっていうから、ホームセンターで買ってきた。それと、専用のフードも──」
ダンボール越しに聞こえていた楽しげな声が、一瞬ふっと途切れた。
「……ロウおじいちゃんのカードで、こんなに買い物をしたのは初めてだ。好きに使っていいとは言われてるけど……あとでちゃんと謝らなきゃな」
その声はどこか淋しげだった。なんとなく気になってしまい、ダンボールの壁を見上げていると、イレブンの両手がヌッと伸びてきた。
「うわっ!?」
マフラーごと抱き上げられて、ぎゅっと目を閉じる。
次に目を開けたとき、カミュは小綺麗なケージの中にいた。床材も敷き詰められており、巣箱や回し車もある。
「へえ、なかなかいいじゃないか」
格子状のケージはショップにいた頃のものによく似ていた。そのためロックもなんとか開けられそうだった。これなら難なく脱走できるだろう。
一通りぐるりと見渡し、無意識に「ぴぴっ」と小鳥のように鳴いていた。ハリネズミが満足感を得ているときに出す声だ。カミュはすぐにハッとして、両手で口を押さえた。
(あぶねえあぶねえ、あやうく絆されるところだったぜ)
気を引き締めてフシュッと鳴いて、マフラーにしがみつきながら毛を逆立てた。
「そのマフラー、気に入ってるみたいだから、キミにあげるよ」
「……マジか。いいのかよ」
チラッとイレブンの顔を見る。元々これは彼が首に巻いていたものだ。
カミュはこのふわふわとした手触りが気に入っていた。包まって寝ると心地がいいし、とてもいい匂いがして安心するのだ。
「ダンボールじゃ外が見えないし、退屈だったろ。ごめんね」
ケージは机の上にあるらしい。イレブンは椅子に座ると、頬杖をついて目線を合わせてくる。
「友だちや近所の人に聞いてみたけど、キミを知ってる人はいなかった。青いハリネズミなんて珍しいから、すぐに飼い主が見つかると思ったんだけどな」
そりゃあそうだとカミュは思う。なにしろ自分には飼い主など存在しない。ペットショップから抜けだし、迷子になったにすぎないのだから。
イレブンは両腕を組んで机に乗せた。そこに頬を預けながら、カミュを見つめる。
「キミさえよければ、ずっとここにいてくれて構わないんだけど……」
彼は包帯が巻かれた左手の人差し指で、ケージの縁をそっとなぞった。
「ボク、親がいないんだ。ボクがまだ赤ちゃんだったころ、事故で死んでしまったんだって。ロウおじいちゃんはよくしてくれるけど……仕事で海外を飛び回っていて、滅多に会えない。だから家に帰ってきて、こんなふうに話し相手がいるのは嬉しいんだ」
なんてね──と言いながら、イレブンが目を閉じる。
「ワガママ言っちゃいけないね。きっと今ごろキミの家族が、キミの帰りを待ってるだろうし……」
彼はケージの縁に指をかけたまま、すぅっと寝息をたてはじめた。
カミュは逆立てていた毛をシュンと寝かせて、イレブンの寝顔を見つめた。よく見れば、まだずいぶんとあどけない。ゆっくり近づき、指先にちょこんと手で触れた。
(こいつ、寂しいんだろうな……)
本当はすぐにでも脱走するつもりでいたが、こんな話を聞いてしまったあとでは気持ちが揺らぐ。一応はよくしてもらっている恩もあるし、少しくらいなら一緒にいてやってもいいかもしれない。
それに脱走したところで、マヤは依然として行方知れずだ。
(マヤ……あいつは無事だろうか。今頃どこに……)
イレブンの指先に触れながら、カミュはひたすら可愛い妹の無事を祈るのだった。
←戻る ・ 次へ→
足元はペットシーツに覆われており、隅の方には水が入った小皿が置かれている。
(……何がどうなった? オレは、まだ生きているのか?)
ふと、自分の身体が薄紫のマフラーに包まれていることに気がついた。そして公園での記憶がよみがえる。
「そうだ、オレはあのサラサラヘアーに……」
「あ、起きた?」
「!?」
天井に、ヌッとサラサラヘアーが現れた。
ダンボールを覗き込むサラサラ少年は、凛々しい眉をわずかに下げて微笑んだ。
「ごめんよ。どこの子か分からなかったから、勝手に連れて帰って来ちゃった」
「急に現れやがって……なにもんだお前は……?」
警戒心から身体を丸め、フシュッフシュッと威嚇する。
「ダンボール、狭くないかい? ペットシーツはさっきスーパーで買ってきたんだけど……あ、そうだ。ご飯は食べられそう?」
そう言って、少年は水が入った小皿の隣にもう一枚小皿を置いた。匂いから察するに、細かく切ったリンゴとバナナだ。
「遠慮しないで。イヤじゃなければ食べてほしいな」
正直ハラは減っているものの、持ち前の警戒心の強さから口をつける気にならない。こいつは一体、なんのつもりで自分を連れてきたのだろうか。
相変わらずフシュフシュ言うばかりのカミュに、少年は「そういえば自己紹介がまだだったね」とのんきに言った。
「ボクはイレブン。飼い主が見つかるまでだけど、よろしくね」
優しげに笑った少年の、サラサラヘアーがふわりと揺れた。
その柔和な雰囲気からは、純粋な善意が見て取れる。悪いヤツではないのかもしれないが──カミュはそれでもなお、針を逆立てることをやめられなかった。
*
翌朝。
「おはようゴンザレス。よく眠れた?」
マフラーに顔を埋めてウトウトしていたカミュは、少年の声でハッと目を覚ました。
(ゴンザレス……? まさかそれ、オレのことじゃねえよな?)
フシューフシューと威嚇するカミュに、イレブンはキョトンとしながら首をかしげる。
「あれ? イヤなのかな? カッコいい名前だと思うんだけど……」
「冗談じゃねえ。オレにはカミュって名前があるんだ」
「あ、ご飯食べてる。よかった。ゴンザレスはいい子だね」
「だからオレはゴンザレスなんて名前じゃねえって!」
朝から元気に威嚇しまくりのカミュだったが、イレブンはどこ吹く風で嬉しそうだ。たかが食事をしたくらいで、なにをそんなに喜ぶことがあるのだろう。
あのあとカミュはなんとか脱走しようと夜通し試みていた。
しかしダンボールをよじ登ることができず、体力ばかりが消費されてしまった。こんな所で終われない、の精神で、仕方なくリンゴとバナナを口に詰め込んだのだ。
結果的に、それが彼を喜ばせることになってしまった。
そういえばあのホメロスも、カミュとマヤがフードを完食すると「いやしいドブネズミめ」とか口ではダルいことを言いながら、フンフン鼻歌を歌っていたっけ。奴が特殊なのかと思っていたが、人間という生き物は基本的にお人好しばかりなのだろうか。
「ボクは学校に行くけど、ご飯は新しく入れておくから。ちゃんと食べてね」
イレブンは二枚の小皿を回収すると、新しく水と果物を入れてダンボールに置いた。そして「行ってきます」とカミュに笑いかけ、姿を消してしまった。
「変なヤツだぜ……」
それからどのくらいの時間が経っただろう。ハリネズミは夜行性のため、カミュは昼間のほとんどをマフラーに潜り込んで過ごした。
すぴ、すぴ、と寝息を立てているところに、扉が開く音が聞こえて目を覚ます。どうやらイレブンが帰ってきたらしい。
「ただいまゴンザレス。あれ、ご飯食べてない?」
イレブンは心配そうにしているが、カミュはもう大人のハリネズミなので、食事は一日一回で十分なのだ。
わかってねえなと思いながらあくびをしていると、イレブンは「あ、そうだ」と言ってなにやらゴソゴソしはじめた。
「学校の友だちがね、昔ハリネズミを飼っていたことがあるんだって。キミのことを話したら、今は使ってないケージを譲ってくれたんだ。あと、床材や巣箱もあったほうがいいっていうから、ホームセンターで買ってきた。それと、専用のフードも──」
ダンボール越しに聞こえていた楽しげな声が、一瞬ふっと途切れた。
「……ロウおじいちゃんのカードで、こんなに買い物をしたのは初めてだ。好きに使っていいとは言われてるけど……あとでちゃんと謝らなきゃな」
その声はどこか淋しげだった。なんとなく気になってしまい、ダンボールの壁を見上げていると、イレブンの両手がヌッと伸びてきた。
「うわっ!?」
マフラーごと抱き上げられて、ぎゅっと目を閉じる。
次に目を開けたとき、カミュは小綺麗なケージの中にいた。床材も敷き詰められており、巣箱や回し車もある。
「へえ、なかなかいいじゃないか」
格子状のケージはショップにいた頃のものによく似ていた。そのためロックもなんとか開けられそうだった。これなら難なく脱走できるだろう。
一通りぐるりと見渡し、無意識に「ぴぴっ」と小鳥のように鳴いていた。ハリネズミが満足感を得ているときに出す声だ。カミュはすぐにハッとして、両手で口を押さえた。
(あぶねえあぶねえ、あやうく絆されるところだったぜ)
気を引き締めてフシュッと鳴いて、マフラーにしがみつきながら毛を逆立てた。
「そのマフラー、気に入ってるみたいだから、キミにあげるよ」
「……マジか。いいのかよ」
チラッとイレブンの顔を見る。元々これは彼が首に巻いていたものだ。
カミュはこのふわふわとした手触りが気に入っていた。包まって寝ると心地がいいし、とてもいい匂いがして安心するのだ。
「ダンボールじゃ外が見えないし、退屈だったろ。ごめんね」
ケージは机の上にあるらしい。イレブンは椅子に座ると、頬杖をついて目線を合わせてくる。
「友だちや近所の人に聞いてみたけど、キミを知ってる人はいなかった。青いハリネズミなんて珍しいから、すぐに飼い主が見つかると思ったんだけどな」
そりゃあそうだとカミュは思う。なにしろ自分には飼い主など存在しない。ペットショップから抜けだし、迷子になったにすぎないのだから。
イレブンは両腕を組んで机に乗せた。そこに頬を預けながら、カミュを見つめる。
「キミさえよければ、ずっとここにいてくれて構わないんだけど……」
彼は包帯が巻かれた左手の人差し指で、ケージの縁をそっとなぞった。
「ボク、親がいないんだ。ボクがまだ赤ちゃんだったころ、事故で死んでしまったんだって。ロウおじいちゃんはよくしてくれるけど……仕事で海外を飛び回っていて、滅多に会えない。だから家に帰ってきて、こんなふうに話し相手がいるのは嬉しいんだ」
なんてね──と言いながら、イレブンが目を閉じる。
「ワガママ言っちゃいけないね。きっと今ごろキミの家族が、キミの帰りを待ってるだろうし……」
彼はケージの縁に指をかけたまま、すぅっと寝息をたてはじめた。
カミュは逆立てていた毛をシュンと寝かせて、イレブンの寝顔を見つめた。よく見れば、まだずいぶんとあどけない。ゆっくり近づき、指先にちょこんと手で触れた。
(こいつ、寂しいんだろうな……)
本当はすぐにでも脱走するつもりでいたが、こんな話を聞いてしまったあとでは気持ちが揺らぐ。一応はよくしてもらっている恩もあるし、少しくらいなら一緒にいてやってもいいかもしれない。
それに脱走したところで、マヤは依然として行方知れずだ。
(マヤ……あいつは無事だろうか。今頃どこに……)
イレブンの指先に触れながら、カミュはひたすら可愛い妹の無事を祈るのだった。
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駅前にある大型ペットショップ・でるかだ~る。
その店の小動物コーナーには、世にも珍しい青色ハリネズミの兄妹がいる。
兄の名はカミュ。金のフープピアスがバッチリ決まった男前。妹の名はマヤで、真っ赤なリボンのオシャレな女の子だ。
二匹はとても仲が良く、いつも一緒に巣箱のなかで昼寝をしている。
その日もカミュとマヤはくっついて過ごしていたが、何者かの手によって巣箱が持ち上げられたと思ったら、マヤが連れ去られてしまった。
「あっ、兄貴! やだやだっ、助けて兄貴ー!」
「マヤ!? この野郎っ、マヤをどこに連れて行く気だ!?」
「あに……っ、おにいちゃぁんッ!!」
「マヤーッ!!」
ハリネズミがどんなに興奮して叫んだところで、人間の耳にはフシュフシュという不思議な音にしか聞こえない。カミュは小さな手でケージの格子を掴んで揺さぶったが、辺りの人間たちは「あら可愛い」などと言って笑うだけだった。
そうこうしているうちに、すっかりマヤの姿が見えなくなった。
「マヤ……っ」
カミュは心配でたまらず、床材が敷き詰められたケージの中をグルグルと歩き回った。しかし待てど暮らせど、マヤが戻る気配はない。
するとそこに長い金髪を一つにまとめ、『でるかだ~る』と金の刺繍が入った、白いエプロンの男がやってきた。その背後には、同じ刺繍に黒いエプロンの大男も立っている。
「くくっ……妹に先を越され、惨めに売れ残った気分はどうだ? 薄汚いドブネズミよ」
「ホメロス、グレイグ……! お前ら、マヤをどこにやった!?」
針のような毛を逆立てながら、カミュは二人を睨みつけた。ホメロスは腰をかがめ、そんなカミュの様子に不敵な笑みを浮かべている。
「貴様のようなチビの薄ノロは、せいぜいここで大人しくよく食べ、よく寝て、よく遊び、無様に宿命の時を待つことだ。フハハ!」
「ホメロスよ。妹は優しそうな飼い主のもとに行ったから安心しろ、お前も元気に過ごしていれば、必ずいい飼い主に巡りあえるだろう、と普通に言ってやってはどうだ?」
「うるさいぞグレイグ! いちいち翻訳せんでいい!」
仲がいいのか悪いのかよく分からない凸凹コンビは、あーだこーだと言い合いながら去っていった。
残されたカミュは、
「チッ、ホメロスのヤツ……めちゃくちゃ励ましてくれやがって……」
と、態度だけでも反発しといた。
それよりも問題はマヤのことだ。
グレイグ翻訳によると、どうやらマヤはどこぞの誰かに購入されてしまったらしい。いつかはこんな日が訪れるかもとは思っていたが、いざとなるとやはり心配で仕方がなかった。
せめて無事を確認するまでは安心できない。
マヤは生意気だが、本当はとても寂しがりやな甘えん坊だ。今ごろ不安で泣いているかもしれないし、飼い主が善人の皮をかぶった悪人だったら目も当てられない。
そこでカミュは決意した。もしマヤが辛い目にあっているようなら、必ず助けだしてやる、と。そのためには、こんなところからさっさとオサラバしなければ。
そうと決まれば、まずは巣箱に戻って息をひそめた。時おりホメロスが様子を見に来たが、寝たふりをしてやりすごしているうちに彼も安心したらしい。
「フッ。さすがは低能なドブネズミ。妹のことなど、とうに忘れ去ったか」
「少し寂しいが、つらいことは早く忘れるに限る……だな」
「だからうるさいぞグレイグ!」
双頭の店員はやかましくも再び去っていく。
やがて客足も減り、他のスタッフの姿もまばらになった。
(よし、今だ!)
カミュは慎重に巣箱から出ると、内側から器用な手つきでケージのスライド式ロックを外した。いつも人間がこうして開けているのを見て、学習していたのだ。
そしてタイミングを見計らい、ケージから抜けだすことに成功した。
すぐさま走って壁際に身を寄せ、他の動物のケージや商品棚によじ登った。天井近くの通気口にたどり着くと、パカッとカバーを外してしまう。そして穴に飛び込んだ。
「へへっ、チョロいもんだぜ」
すぐ側の木を伝って着地に成功したカミュは、小さな手でツンと尖った鼻をこすった。
春先の野外は肌寒いが、ハリネズミにしては珍しく寒さに強いカミュにとっては問題じゃない。
「待ってろマヤ! すぐ兄ちゃんが助けにいくからな! うおおおぉーーーーッ!!」
カミュはすぐさま全速力で駆け出した。
しかし外の世界は危険が盛り沢山だった。道路には鉄の塊がビュンビュン行き交い、人の往来も凄まじい。もし見つかりでもすれば、すぐに捕まってしまうだろう。
そうなればよくてショップ戻りか、最悪どんな目にあうかわからない。
(立ち止まるな! オレは、こんな所で終われない!)
自慢の俊足を生かし、コーナーで差をつける勢いで低木や草むらに隠れながら走った。右へ、左へ、また右へ。小さな手足でグングン突き進むうち、カミュの脳裏にふと、しごく当然の疑問が浮かんだ。
ところでマヤは、一体どこにいるんだ? と──。
「マジか! オレはどこに行けばいいんだ!?」
大爆走していたカミュは、適当な草むらの中で急停止した。
ここまで我武者羅に走ってきたため、もはやショップの場所すら分からない。完全に迷子になってしまったことを悟り、途方に暮れる。
しかしここで立ち止まっていても埒が明かない。まずはどこか落ち着ける場所を探し、今後のことをじっくり考えよう。カミュは草むらから出ると再び走りはじめた──が、その道のりは波乱を極めた。
ハトやカラスに連れて行かれそうになったり、野良猫のオモチャにされそうになったり、巨大な鉄の塊(トラック)の風圧に吹き飛ばされたり……とにかく気づいたらボロボロのヨレヨレになっていた。
「外がこれほど過酷とはな……こんな所にいたら、命がいくつあっても足りねえ」
はあはあと息を乱し、這うようにしてたどり着いたのはとある公園だった。
そこには立派な噴水があり、噴きだす水が夕日のオレンジを弾いて輝いている。動物や人間の姿もなく、カミュはひとまずホッとした。
ここまで休みなく走り続けてきたせいで、ひどく喉が乾いている。カミュは噴水に近づき、囲いをよじ登ろうとした。しかしコンクリートの囲いには高さがあり、小さな身体では届かない。疲労と空腹で力も入らず、だんだん意識が朦朧としてくるのを感じた。
「くそ……ここまでか……マヤ……」
──……ミュ……カ……ミュよ……
(誰だ? オレを呼ぶのは……?)
夢か現かも知れない意識の狭間で、誰かがカミュを呼んでいる。声は徐々に鮮明になっていき、やがて目の前に姿を現した。
それは水色がかった灰色のハリネズミだった。立派な口ひげを生やし、赤い宝石がついた杖をついている。
(だ、誰だ!?)
──わしはおぬしの世界で預言者と呼ばれる者。そなたに予言を与えよう。
(予言だって……?)
──カミュよ。公園で出会うサラサラヘアーと心を通わせ……さすればお前の願いも果たされるだろう……。
老いたハリネズミは、その輪郭をぼんやりと滲ませながら遠のいていく。今にも消えゆこうとする姿に、カミュは手を伸ばそうとした。
(ちょっ、待てよじいさん! なんだよサラサラヘアーって!?)
──よいなカミュ、サラサラじゃ。サラサラヘアーじゃぞ……。
「キミ、喉が渇いてるの? 飲ませてあげようか?」
そのとき、すぐそばでとてもクリアな声がした。さっきの老いたハリネズミのものではない。若い男の声だった。
「──ッ、!?」
気がつけば、カミュは人間の大きな手によって抱き上げられていた。
見上げると、そこにはブレザーの制服に薄紫のマフラーをした少年の顔がある。カミュを抱き上げる両手は、左手の甲に包帯が巻きつけられていた。
(さっきのは夢か? それに、こいつは──!)
少女と見紛うほど端正な顔つきをした少年は、それは見事なサラサラヘアーだった。
カミュは夢のなかでの予言とやらを思いだす。
公園で出会うサラサラヘアーと心を通わせ。さすればお前の願いも果たされる──。
(じょ、冗談じゃねえ! そんなうさんくせーこと信じられるか!)
カミュは少年の手のなかで手足をバタつかせた。フシューフシューと威嚇して、身体を丸めながら全身の毛を逆立てる。
「イタッ、イタタっ、針が痛い……あ、そうだ」
少年は首のマフラーを外すと、カミュの全身をグルグル巻きにして包みこんだ。
「くそっ、離せ! 離しやがれ! なんだこれあったけえ! しかもいい匂いまでしやがるぜ!」
少年の温もりが残るマフラーに全身を包まれ、カミュはなおも暴れた。
しかし適度な暗さとあたたかさのせいで、徐々に睡魔が押し寄せる。柔らかな香りには、まるで鎮静効果があるかのようだった。
疲れもあって、カミュはすぅっと眠りに落ちていた。
「すぴ……すぴ……」
「あれ、寝ちゃった? 疲れてたのかな」
少年は軽くマフラーをめくって中の様子を確かめた。すっかり脱力した状態で、青いハリネズミが眠り込んでいる。
「あはは、可愛い寝顔。ピアスもオシャレだね」
起こさないように、再びマフラーで包み込む。
野生のハリネズミなんてことはないだろうし、どこかのお宅から脱走してきたのだろう。
しかし飼い主探しは後にするとして、まずは落ち着いた場所でゆっくり休ませてやったほうがよさそうだ。
少年はマフラーを胸に抱き、小さなハリネズミを家に連れ帰ることにした。
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三本の立派なメリケンマツが、入口を隠すようにして並び立っている。それはまるで来る者を拒んでいるかのようだった。
「……ここよ」
チュラの言葉にうなずき、イレブンは松の木の隙間をぬって中へと入っていった。
内部はひんやりとした空気が立ち込め、遠くで水の滴る音が響いていた。
苔むした匂いと潮の香りが混ざり合い、なんともいえない生臭さが鼻をつく。
湿った岩肌に沿って、地面にはいくつかのランタンが置かれていた。今にも消えそうなほど弱々しい暖色が、かろうじて足元を照らしていた。
しばらく進んでいくと、ぽっかりと開けた空間に出た。天井に穴が空いているらしく、月の明かりが緩やかに差し込んでいる。
その光に照らされるようにして、ひとりの老人が横たわっている姿があった。
白髪まみれの伸びた髪。枯れ枝のように細くなった手足。干からびたようなその姿には、若く精悍だったかつての面影はどこにもない。
「ウークマーよ」
「……ああ」
とうに察しはついていた。マヤとカミュを見て、必死でチュラの名を呼びながら泣いていた物乞い。海を見つめ、己の過ちを悔いていたあの老人こそが、ウークマーであることに。
「ウークマー」
チュラは愛おしそうにその名を呼びながら、老人のそばに膝をついた。
彼はピクリと身じろぎ、欠けた歯を覗かせながら、「チュラ」としゃがれた声で彼女を呼んだ。
「すまない…チュラ、すまない……」
ウークマーは必死で目をこじ開けて、涙を流しながらシワシワの手を彼女に伸ばす。チュラはその手をしっかりと握りしめ、「いいの」と言って首を左右に振った。
「アナタが私のためにしてくれたこと、私はとても嬉しかった。最後に願いを叶えてくれたことも……だけど、こんなに長いあいだ独りぼっちにしちゃうなんて、思いもしなかった」
チュラは老いさらばえたウークマーの手に、頬ずりをした。大粒の涙がこぼれ、彼の手を伝い落ちていく。
「ごめんね、ウークマー」
チュラは泣き笑いの顔をあげると、イレブンを見て「ありがとう」と言った。
「最後は一緒に大樹に還りたかったの。こんなふうに、手を握っていてあげたかった。アナタと、このカミュって子のおかげで、願いが叶った」
イレブンはじわりと込み上げてくるものを堪えながら、うん、とうなずいた。
「さあ行こう、ウークマー。ふたりで大樹に還ろうね」
ウークマーはしわくちゃの顔に安堵を広げ、かすかな笑みを浮かべた。
「そうか……これでボクも、ようやく、キミと……」
ウークマーの胸が、ふっと静かに上下を止める。
彼が息を引き取った次の瞬間──チュラとウークマーの身体が、白くまばゆい光に包まれた。
「ッ……!」
眩しさに目を細めながら、イレブンは息を呑んだ。
するとその光の中から、ふたつの魂がゆっくりと姿を現した。それは若かりし日のウークマーと、チュラの姿だった。
『会いたかったよ……チュラ……!』
『ウークマー……!』
神々しい光の柱のなかで、ふたりはしっかりと抱き合った。
そしてチュラを腕におさめたウークマーが、イレブンを見て微笑んだ。
『ありがとう。キミと、キミの愛しい人に。心から礼を言わせて欲しい』
イレブンは二人に優しく笑みを返すと、こくんと大きくうなずいた。
やがて光の柱はひときわ強く輝いて、ふたつの魂が空へと昇っていく。
『ありがとう、イレブン』
微かに、けれどはっきりと、チュラの声が耳に届いた。
光は徐々に天井の穴から夜空へ溶けていき、そして完全に消え去った。
──ドサリ。
再び静寂を取り戻した洞窟内に、鈍い音が響き渡った。
見ればウークマーの遺体の上に、カミュの身体が被さるように倒れ込んでいた。
「カミュ……!」
イレブンはすぐさま駆け寄り、彼の身体を抱き起こす。頬に触れ、その熱を確かめながら、幾度か軽く叩くようにすると、「んん」とむずがるような声が上がった。
「カミュ…ッ、よかった…本当によかった……!」
声を震わせながら、イレブンはその身体を強く抱きしめた。安堵が溢れるのと同時に、自然と涙が浮かんでくる。
「ん、ぁ…? なんだ……? オレ、どうしたんだっけ?」
イレブンの腕の中で、カミュが目を覚ました。彼は少しぼうっとした様子だったが、イレブンが泣いていることに気づくと、背中をポンポンと叩いてきた。
「おいおい、どうかしたのか? なに泣いてんだよ勇者さま」
「キミがずっと目を覚まさないからだろ?」
本当はずっと怖かった。彼がしじまヶ浜で倒れたときから。
イレブンはまるで迷子のように、不安を抱えたままでいた。カミュがどこか手の届かない場所に連れ去られてしまったようで、それがたまらなく恐ろしかった。
だから心底、ホッとしたのだ。こうして彼のぬくもりを感じられることに、信じられないほどの安堵と喜びを覚えている。
「そりゃ悪かったな──ってか、このじいさんは……?」
彼はすぐ傍らにある老人の遺体や、自分がまるで見知らぬ洞窟内で目を覚ましたということに、ようやく気がついたようだった。
「おいおいマジかよ。オレが寝てる間に、なにがどうなっちまったっていうんだ?」
カミュがキョロキョロと辺りを見回し、それからイレブンを見上げて首を傾げる。この様子だと、なにも覚えていないのだろう。
「あとで話すよ。だけど、まずは帰ろう。マヤちゃんが待ってる」
安心させるように言い聞かせ、イレブンはいまだ困惑の表情を浮かべるカミュを、改めて強く抱きしめた。
*
ウークマーの遺体が手厚く埋葬されたのは、それから3日後のことだった。
「オレの意識がない間に、まさかそんなことになっていたとはな……」
よく晴れた昼のしじまヶ浜を、イレブンとカミュは並んで歩いていた。
カミュの記憶は、夜にマヤと三人でここを訪れたところで止まっていた。何も覚えていない彼に、イレブンは起こったことのすべてを話して聞かせたのだった。
「心配かけて悪かったな。お前にも、マヤにも」
そう言って、カミュはふと足を止めた。波打ち際で海の向こうを見つめるその横顔を見て、イレブンはチュラの言葉を思いだす。
──この子、ちょっと危ういね
カミュはいつの頃からか、食事をするイレブンの口元を熱心に見つめてくるようになった。あの視線の意味が、今なら分かる。
──心の形が、よく似ていたから
オレを食ってくれ──というあの夜の懇願は、チュラの言葉であると共に、カミュの願望でもあったのだろう。
「カミュ」
名を呼ぶと、カミュは「ん?」と小さく返事をしてイレブンを見た。
「どうかしたか?」
「……ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど、」
「ちょっ、お前、突然なにを言いだすんだよ」
カミュがギクリとした様子で肩を揺らした。ずいぶんと狼狽えている。
それから頬を赤らめ、どこか焦ったような、バツの悪そうな表情で目を泳がせた。
「まあ、その、なんだ……オレも、お前になら食われたって構わねえけど」
「カミュ」
「例えばだぞ? 例えばの話……食うもんが何もなくなって、ふたり揃って飢え死にしそうになったとしてだ……もし、もしオレが先に死んじまったとしたら……お前には、オレを食ってでも生き延びて欲しいっていうか……あー、なに言ってんだろうな、オレ」
「カミュ」
「わっ!」
お喋りな口を塞ぐように、イレブンはカミュを抱きしめた。
「だからなんなんだよ、さっきから」
「ボクの話を聞いてくれ」
わかったよ、と言わんばかりに、カミュが息を漏らした。
「ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど……どんな理由があったとしても、食べないよ。絶対に」
「……そうかよ」
「キミを食べてもボクらは一つになんかなれないし、キミに触れられなくなるくらいなら、一緒に飢え死にしたほうがいい」
これは自戒でもあった。
あの晩、この場所で見た過去の光景──チュラをむさぼり食うウークマーは、とても幸せそうに笑っていた。
イレブンは、それを見てひどく『羨ましい』と思ってしまったのだ。
カミュの肉を裂き、血をすすり、骨をしゃぶり尽くして、この腹にすべて収めてしまえたら、どんなに幸せだろうかと。なにもかも、独り占めしてしまえたらと。
けれどその後800年にもおよぶ孤独と後悔は、どれほどのものだったか。想像すらしたくない。ウークマーの刹那的な幸福の代償は、あまりにも大きなものだった。
仮にカミュを食って生き延びたとして、自分の人生にその後なにが残るだろう。
食ったものは消化され、ただ出ていくばかりだ。一つになんかなれっこないし、カミュに触れられないことのほうが、ずっと嫌だと思う。
一緒に生きて、一緒に死ねないことのほうが、ずっとずっと恐ろしい。
だから絶対に、イレブンはカミュを食べない。カミュがそれを望んでも。
そんな単純ともいえる結論が、イレブンを人の道に押し留めていてくれる。
「きっぱり言われちまうのも、なんか癪だな。ちっとくらいは栄養があるかもしれないぜ?」
あくまで冗談めかして、けれどえらく残念そうに、カミュが笑いながら言った。
そんな彼の唇を、いよいよ本格的に塞いでしまう。ほんの何秒かの口づけのあと、イレブンはふっと笑った。
「心の栄養が尽きてしまうよ」
「ぶふっ、ははは! そうか、ならしょうがねえな!」
さすがに少しキザすぎたのか、カミュが思いきり吹き出して笑っている。
ちょっと照れくさく思いながら、イレブンもついつい肩を揺らして笑った。
「おーい! もういい加減、満足したなら帰ろうぜー! おれもう魚料理は食い飽きたよー!」
すると、遠くのほうからマヤの声がした。ふと見やれば、キナイのアトリエの辺りを散策していたマヤが、ブンブンと大きく手を振っている。
「確かに、オレもそろそろペルラさんのシチューが恋しいぜ」
「うん、同感だ」
イレブンはカミュと顔を見合わせて笑うと、マヤに向かって手を振った。
しじまのユーリー・了
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