着信
※黒鋼×蘇摩
地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。
もうじき、三年目の夏が来る。
*
全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。
きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。
遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。
好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。
*
機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。
かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。
三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。
「電話、これで三度目ですよ」
気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。
ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。
『黒鋼? お母さんだけど』
「ああ」
『寝てた?』
「……いや」
女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。
褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。
『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』
「ああ、そうだな」
『一度、帰って来たら?』
黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。
だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。
「何かあったのか?」
『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』
進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。
「わかった。休みに入ったら、一度帰る」
『そう? 知世も喜ぶわ』
「どうだかな」
あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。
母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。
「母さん」
『なぁに?』
「本当に何も変わったことはないのか」
先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。
*
「おうちの方?」
「ああ」
濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。
ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。
彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。
蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。
互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。
手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。
「今夜は、もういけませんよ」
「わかってる」
「じゃあこの手はなんです?」
黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「さぁな」
「もう……」
呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。
最低だと思う。
あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。
彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。
大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。
それでも、黒鋼には他に術がない。
息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。
けれど。
母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。
帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。
結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。
←戻る ・ 次へ→
※黒鋼×蘇摩
地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。
もうじき、三年目の夏が来る。
*
全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。
きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。
遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。
好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。
*
機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。
かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。
三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。
「電話、これで三度目ですよ」
気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。
ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。
『黒鋼? お母さんだけど』
「ああ」
『寝てた?』
「……いや」
女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。
褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。
『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』
「ああ、そうだな」
『一度、帰って来たら?』
黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。
だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。
「何かあったのか?」
『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』
進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。
「わかった。休みに入ったら、一度帰る」
『そう? 知世も喜ぶわ』
「どうだかな」
あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。
母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。
「母さん」
『なぁに?』
「本当に何も変わったことはないのか」
先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。
*
「おうちの方?」
「ああ」
濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。
ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。
彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。
蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。
互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。
手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。
「今夜は、もういけませんよ」
「わかってる」
「じゃあこの手はなんです?」
黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「さぁな」
「もう……」
呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。
最低だと思う。
あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。
彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。
大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。
それでも、黒鋼には他に術がない。
息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。
けれど。
母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。
帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。
結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。
←戻る ・ 次へ→
薄荷
夢も未来も約束も、全てが錆びつき、見る影を失くしてしまったかのように。
剥がれ落ちた誓いを、走り出してしまった今更になって真実だったとは、決して言えない。
「本当に大丈夫なのかしら……」
玄関先でしきりにそう繰り返す母に、黒鋼は照れ臭さと煙たさを同時に感じながらも靴を履き、大した荷物も入っていないショルダーバッグを肩に担いだ。
「ねぇ、やっぱり一緒に……」
「いいって。荷物だってほとんど送っちまって軽いし」
「相変わらず心配性だな母さんは。男の旅立ちは黙って見送るもんだ。なぁ?」
父が腕を組んで「うんうん」と頷いている。思えば、全寮制高校に進学を決めた際、最後まで反対していた母を最終的に説得してくれたのは父だった。
そのとき、母の腰にしがみつきながら長い黒髪を揺らして、知世がひょっこりと顔を出した。
「どうせすぐに寂しくなって、帰ってくるに決まってますわ」
それまでは多少後ろ髪を引かれていた黒鋼だったが、笑顔で嫌味を放つ生意気な妹のお陰で、完全に吹っ切れた。
「うるせぇよ。てめぇの顔見ないで済むと思うとせいせいすらぁ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ!」
「んだとこのガキ!」
「もう! こんなときにまで! あなたたちはいっつもそうなんだから……」
今度は身体の大きな父に隠れて、知世がべーと舌を出す。黒鋼は可愛げのない生意気盛りの妹に小さく舌打ちするだけで、あとはどうにか引き下がった。
「じゃあ、行って来る」
「入学式には行くからね。ついたら必ず連絡してちょうだいよ」
「わかってる」
背を向けて引き戸を開けた黒鋼の背に、父が「しっかりな」と力強く声をかけた。振り切るように外へと一歩を踏み出し、後手に扉を閉めてから空を見上げる。春の香りと、澄み切った空。思い切り息を吸い込んで、それから前へ踏み出した。そのとき。
「黒たーん!」
声がしたほうへ目を向けると、そこには。
見るからにボロボロの自転車を引きずるファイが、大きく手を振って笑っていた。
*
「おもーいぃ……」
「だからいいっつってんのに……これで分かったろ」
「あっ! ダメダメダメー! おりないでー!」
キシキシと、ペダルが重さに耐えかねるように軋んだ音を立てていた。自転車を漕いでいるのはファイで、荷台に腰掛けているのは黒鋼だった。
「黒わんこ一匹ぐらい、朝飯前なんだからー!」
「……ったく」
初めて見るその黒い旧式の自転車は、あの母から譲り受けた自転車を上回るほどの古さとボロさだった。醜く鉄錆が浮き、いちいち酷い音がする。
おじいちゃんの壊れてたやつ、オレが直したんだよー、と自慢げに笑ったファイは、黒鋼に荷台へ乗るように言った。勿論拒んだけれど、思った以上の強引さで迫られて、仕方なく乗った。ファイの身体に腕は回さず、浅く座った荷台に手をかけて。
まさかファイが姿を現すとは夢にも思っていなかった黒鋼は、激しく戸惑っていた。会いたくなかったのと、反対の思いが半々。むしろ合わせる顔がなかったと言うほうが正しい。
桜都学園に進学を決めたと告げたあの日から、ファイとはさらに微妙な関係だったため、今のこの状況はまるで昔に戻ったみたいで不思議な気分だった。
それこそ、全てが夢だったみたいに。
ファイはまるで変わらぬかのようによく喋り、笑い、黒鋼も少しだけ笑った。
一回り以上も身体の大きな黒鋼を乗せたファイの自転車は、ヨロヨロと不安定で、けれど確実に前へと進んでいた。普通なら十分とかからないだろうに、やはり時間よりも早めに出てきたのは正解だったと思う。このような事態は勿論、予測していなかったけれど。
「黒たんはこうやって、いっつもオレを運んでくれてたんだねー」
必死でペダルを踏み込むファイが、息を乱しつつもしみじみと言う。黒鋼はただ、その背と金色の頭を見つめた。
「こんなに重いなんて知らなかったー」
「てめぇはチビだったから、なんてこたねぇよ」
「酷いなー! もうチビじゃないよー!」
「俺にとっちゃいつまでもチビなんだ」
「もう! 黒ぷーがおっきすぎなんだよー」
ひぃふぅ、と苦しそうに呼吸して踏ん張っているファイに、そろそろ潮時かと感じた。
「もういい。歩いた方が早ぇよ」
「いいのー。まだ時間あるもん」
「おい」
「お願い」
ファイは落ち着いた声で黒鋼に懇願する。
「ずっと一緒にいてくれたお礼。オレは何もできなかったから、今日だけは……ね?」
「別に……」
胸がいっぱいになって、もう何も言えなかった。
いてくれるだけでどんなに幸せだったか、楽しかったか。何も出来ないなんてことは決してなかった。ただ微笑んでくれるだけで、それだけでよかった。
いっそのこともっと責めてくれたなら、どんなによかったろう。嘘つきとなじってくれたら、もっと気持ちは軽かったろうに。そんな真似がファイに出来るわけがないと、分かっているはずなのに。ただ許されたいだけのくせに。
やがて二車線しかない狭い道路沿いにある、木造作りで煤けた屋根のバス停に到着した。他に待っている人間はいない。時間にも間にあったようだ。
先に自転車を降りた黒鋼の横で、ファイがみすぼらしいバス停にそれを立てかける。彼は汗だくになって笑った。
「ね、オレ力持ちだったでしょー?」
「そうだな」
咄嗟にその頭に手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。犬猫にするみたいに撫でてやったら、ファイはきっとキャアキャアと大声ではしゃぐに違いなかった。けれどもう、そんな風に触れてはいけない。
ファイは僅かに道路に足を踏み出し、バスが来ないことを確かめた。間にあったね、と誇らしげに言う。しなやかに伸びた手足は、確かに彼が言うとおり、もうチビではなかった。
「黒りん」
「……ん」
ポケットに手を入れて立っている黒鋼の横で、ファイは両手を後に回して足元の石を蹴った。
「ちょっとの間だけの、お別れだよね?」
「……ああ」
「一生、会えないわけじゃないよね?」
「……そうだな」
「たまには、会いに来てくれる?」
「……わからねぇ」
ファイが顔を上げて黒鋼を見る。けれど、黒鋼は真っ直ぐ前を向いて、ファイが蹴り飛ばした小石を見ていた。出来れば、自分の中でこの感情が消えて無くなるまでは、ここへ戻りたくなかった。
「そう……」
俯いたファイは悲しげに目を伏せて、それからすぐに「あのね」と切り出す。だが、遠くから聞こえるバスのエンジン音がそれを遮った。黒鋼は咄嗟にファイを見たけれど、ファイは笑って首を振る。
「いってらっしゃい」
「ああ」
「あ、そうだこれー」
バスがもう目の前だった。ファイはポケットを探って何かを掴むと、黒鋼に差し出した。
「なんだ……?」
「早くー」
おずおずと手の平を差し出すと、そこには懐かしいものが三つ、カサリと音を立てて置かれた。
「これ……」
それは薄荷の白い飴玉の袋だった。
「オレ知ってたよ。黒たんがこれ苦手だったの」
バスが、ビーッという音を鳴らして到着し、乗り口のドアが開いた。
「でも、あげられるものが他になかった」
「乗るの? 乗らないのー?」
運転手が苛立ったように声を上げた。黒鋼はファイから視線を逸らさないまま、乗り口に足をかけた。ファイは笑っていた。
「俺は」
何かが欲しくて側にいたんじゃない。
おまえが笑ってくれればそれでよかった。
あの誓いも約束も、嘘なんかじゃなくて。
だけど、俺は俺が恐いんだ。
おまえのためだなんて言い訳をして、俺はただ、逃げ出すだけなんだ。
口を開きかけて、だけど一瞬の迷いから息を呑むうちに、ドアの閉まる音がした。汚れたガラスに隔たれて、もう互いの声さえ聞こえない。
バスが発車する寸前、ファイは穏やかに微笑みながら、小さく手を振っていた。
*
口の中で、飴が転がる音がした。
頬が膨らむほど大きな飴玉からは、ひたすら懐かしい味がして、移り変わる緑色の景色が僅かに滲んだ。
古い木造校舎、ロープで遮られた立ち入り禁止の細い山道、石の鳥居と、二人だけの大きな桜の神木、子猫の墓。風に踊る、淡いべっ甲のような色の髪も、透き通るような優しい瞳の青も、白い肌も、柔らかな手も。
木漏れ日の下で歌いながら絵本を眺めていたファイからは、いつも薄荷の香りがして。
遠い夏の、あの道祖神の傍らで見上げた美しい花火。古ぼけた麦わら帽子。頬を染めながら歩いた、雪の積もった帰り道を。
今も鮮明に思い描くことが出来る。
ファイが言った通り、この甘さと独特の苦味は苦手だった。
けれど大好きだった。恋をしていた。
その全てが、今も。
心の底から、愛しかった――。
←戻る ・ 第三章へ→
夢も未来も約束も、全てが錆びつき、見る影を失くしてしまったかのように。
剥がれ落ちた誓いを、走り出してしまった今更になって真実だったとは、決して言えない。
「本当に大丈夫なのかしら……」
玄関先でしきりにそう繰り返す母に、黒鋼は照れ臭さと煙たさを同時に感じながらも靴を履き、大した荷物も入っていないショルダーバッグを肩に担いだ。
「ねぇ、やっぱり一緒に……」
「いいって。荷物だってほとんど送っちまって軽いし」
「相変わらず心配性だな母さんは。男の旅立ちは黙って見送るもんだ。なぁ?」
父が腕を組んで「うんうん」と頷いている。思えば、全寮制高校に進学を決めた際、最後まで反対していた母を最終的に説得してくれたのは父だった。
そのとき、母の腰にしがみつきながら長い黒髪を揺らして、知世がひょっこりと顔を出した。
「どうせすぐに寂しくなって、帰ってくるに決まってますわ」
それまでは多少後ろ髪を引かれていた黒鋼だったが、笑顔で嫌味を放つ生意気な妹のお陰で、完全に吹っ切れた。
「うるせぇよ。てめぇの顔見ないで済むと思うとせいせいすらぁ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ!」
「んだとこのガキ!」
「もう! こんなときにまで! あなたたちはいっつもそうなんだから……」
今度は身体の大きな父に隠れて、知世がべーと舌を出す。黒鋼は可愛げのない生意気盛りの妹に小さく舌打ちするだけで、あとはどうにか引き下がった。
「じゃあ、行って来る」
「入学式には行くからね。ついたら必ず連絡してちょうだいよ」
「わかってる」
背を向けて引き戸を開けた黒鋼の背に、父が「しっかりな」と力強く声をかけた。振り切るように外へと一歩を踏み出し、後手に扉を閉めてから空を見上げる。春の香りと、澄み切った空。思い切り息を吸い込んで、それから前へ踏み出した。そのとき。
「黒たーん!」
声がしたほうへ目を向けると、そこには。
見るからにボロボロの自転車を引きずるファイが、大きく手を振って笑っていた。
*
「おもーいぃ……」
「だからいいっつってんのに……これで分かったろ」
「あっ! ダメダメダメー! おりないでー!」
キシキシと、ペダルが重さに耐えかねるように軋んだ音を立てていた。自転車を漕いでいるのはファイで、荷台に腰掛けているのは黒鋼だった。
「黒わんこ一匹ぐらい、朝飯前なんだからー!」
「……ったく」
初めて見るその黒い旧式の自転車は、あの母から譲り受けた自転車を上回るほどの古さとボロさだった。醜く鉄錆が浮き、いちいち酷い音がする。
おじいちゃんの壊れてたやつ、オレが直したんだよー、と自慢げに笑ったファイは、黒鋼に荷台へ乗るように言った。勿論拒んだけれど、思った以上の強引さで迫られて、仕方なく乗った。ファイの身体に腕は回さず、浅く座った荷台に手をかけて。
まさかファイが姿を現すとは夢にも思っていなかった黒鋼は、激しく戸惑っていた。会いたくなかったのと、反対の思いが半々。むしろ合わせる顔がなかったと言うほうが正しい。
桜都学園に進学を決めたと告げたあの日から、ファイとはさらに微妙な関係だったため、今のこの状況はまるで昔に戻ったみたいで不思議な気分だった。
それこそ、全てが夢だったみたいに。
ファイはまるで変わらぬかのようによく喋り、笑い、黒鋼も少しだけ笑った。
一回り以上も身体の大きな黒鋼を乗せたファイの自転車は、ヨロヨロと不安定で、けれど確実に前へと進んでいた。普通なら十分とかからないだろうに、やはり時間よりも早めに出てきたのは正解だったと思う。このような事態は勿論、予測していなかったけれど。
「黒たんはこうやって、いっつもオレを運んでくれてたんだねー」
必死でペダルを踏み込むファイが、息を乱しつつもしみじみと言う。黒鋼はただ、その背と金色の頭を見つめた。
「こんなに重いなんて知らなかったー」
「てめぇはチビだったから、なんてこたねぇよ」
「酷いなー! もうチビじゃないよー!」
「俺にとっちゃいつまでもチビなんだ」
「もう! 黒ぷーがおっきすぎなんだよー」
ひぃふぅ、と苦しそうに呼吸して踏ん張っているファイに、そろそろ潮時かと感じた。
「もういい。歩いた方が早ぇよ」
「いいのー。まだ時間あるもん」
「おい」
「お願い」
ファイは落ち着いた声で黒鋼に懇願する。
「ずっと一緒にいてくれたお礼。オレは何もできなかったから、今日だけは……ね?」
「別に……」
胸がいっぱいになって、もう何も言えなかった。
いてくれるだけでどんなに幸せだったか、楽しかったか。何も出来ないなんてことは決してなかった。ただ微笑んでくれるだけで、それだけでよかった。
いっそのこともっと責めてくれたなら、どんなによかったろう。嘘つきとなじってくれたら、もっと気持ちは軽かったろうに。そんな真似がファイに出来るわけがないと、分かっているはずなのに。ただ許されたいだけのくせに。
やがて二車線しかない狭い道路沿いにある、木造作りで煤けた屋根のバス停に到着した。他に待っている人間はいない。時間にも間にあったようだ。
先に自転車を降りた黒鋼の横で、ファイがみすぼらしいバス停にそれを立てかける。彼は汗だくになって笑った。
「ね、オレ力持ちだったでしょー?」
「そうだな」
咄嗟にその頭に手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。犬猫にするみたいに撫でてやったら、ファイはきっとキャアキャアと大声ではしゃぐに違いなかった。けれどもう、そんな風に触れてはいけない。
ファイは僅かに道路に足を踏み出し、バスが来ないことを確かめた。間にあったね、と誇らしげに言う。しなやかに伸びた手足は、確かに彼が言うとおり、もうチビではなかった。
「黒りん」
「……ん」
ポケットに手を入れて立っている黒鋼の横で、ファイは両手を後に回して足元の石を蹴った。
「ちょっとの間だけの、お別れだよね?」
「……ああ」
「一生、会えないわけじゃないよね?」
「……そうだな」
「たまには、会いに来てくれる?」
「……わからねぇ」
ファイが顔を上げて黒鋼を見る。けれど、黒鋼は真っ直ぐ前を向いて、ファイが蹴り飛ばした小石を見ていた。出来れば、自分の中でこの感情が消えて無くなるまでは、ここへ戻りたくなかった。
「そう……」
俯いたファイは悲しげに目を伏せて、それからすぐに「あのね」と切り出す。だが、遠くから聞こえるバスのエンジン音がそれを遮った。黒鋼は咄嗟にファイを見たけれど、ファイは笑って首を振る。
「いってらっしゃい」
「ああ」
「あ、そうだこれー」
バスがもう目の前だった。ファイはポケットを探って何かを掴むと、黒鋼に差し出した。
「なんだ……?」
「早くー」
おずおずと手の平を差し出すと、そこには懐かしいものが三つ、カサリと音を立てて置かれた。
「これ……」
それは薄荷の白い飴玉の袋だった。
「オレ知ってたよ。黒たんがこれ苦手だったの」
バスが、ビーッという音を鳴らして到着し、乗り口のドアが開いた。
「でも、あげられるものが他になかった」
「乗るの? 乗らないのー?」
運転手が苛立ったように声を上げた。黒鋼はファイから視線を逸らさないまま、乗り口に足をかけた。ファイは笑っていた。
「俺は」
何かが欲しくて側にいたんじゃない。
おまえが笑ってくれればそれでよかった。
あの誓いも約束も、嘘なんかじゃなくて。
だけど、俺は俺が恐いんだ。
おまえのためだなんて言い訳をして、俺はただ、逃げ出すだけなんだ。
口を開きかけて、だけど一瞬の迷いから息を呑むうちに、ドアの閉まる音がした。汚れたガラスに隔たれて、もう互いの声さえ聞こえない。
バスが発車する寸前、ファイは穏やかに微笑みながら、小さく手を振っていた。
*
口の中で、飴が転がる音がした。
頬が膨らむほど大きな飴玉からは、ひたすら懐かしい味がして、移り変わる緑色の景色が僅かに滲んだ。
古い木造校舎、ロープで遮られた立ち入り禁止の細い山道、石の鳥居と、二人だけの大きな桜の神木、子猫の墓。風に踊る、淡いべっ甲のような色の髪も、透き通るような優しい瞳の青も、白い肌も、柔らかな手も。
木漏れ日の下で歌いながら絵本を眺めていたファイからは、いつも薄荷の香りがして。
遠い夏の、あの道祖神の傍らで見上げた美しい花火。古ぼけた麦わら帽子。頬を染めながら歩いた、雪の積もった帰り道を。
今も鮮明に思い描くことが出来る。
ファイが言った通り、この甘さと独特の苦味は苦手だった。
けれど大好きだった。恋をしていた。
その全てが、今も。
心の底から、愛しかった――。
←戻る ・ 第三章へ→
距離
決して離さないと決めていたはずのその手を。
振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。
「はい!」
朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。
けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。
夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「?」
ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。
ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。
本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。
だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。
もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。
不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。
「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」
押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。
「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」
ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。
*
それから。
黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。
手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。
少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。
これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。
自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。
何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。
でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。
黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。
*
長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。
トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。
「黒たん」
どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。
「……なんだ」
戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。
やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。
「学校、決めた?」
ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。
「……おまえは?」
「うん……」
質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。
「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」
「……そうか」
現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。
「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」
「…………」
まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。
黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。
「俺は」
ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。
透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。
「桜都に行く」
「え?」
「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」
そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。
ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。
「……そっか……そうなんだ」
ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。
「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」
「…………」
「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」
これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。
頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。
*
一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。
幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。
今も終わらない、夜毎の悪夢。
声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。
いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。
ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。
幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。
黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。
←戻る ・ 次へ→
決して離さないと決めていたはずのその手を。
振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。
「はい!」
朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。
けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。
夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「?」
ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。
ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。
本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。
だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。
もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。
不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。
「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」
押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。
「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」
ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。
*
それから。
黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。
手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。
少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。
これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。
自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。
何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。
でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。
黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。
*
長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。
トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。
「黒たん」
どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。
「……なんだ」
戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。
やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。
「学校、決めた?」
ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。
「……おまえは?」
「うん……」
質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。
「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」
「……そうか」
現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。
「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」
「…………」
まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。
黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。
「俺は」
ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。
透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。
「桜都に行く」
「え?」
「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」
そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。
ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。
「……そっか……そうなんだ」
ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。
「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」
「…………」
「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」
これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。
頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。
*
一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。
幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。
今も終わらない、夜毎の悪夢。
声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。
いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。
ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。
幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。
黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。
←戻る ・ 次へ→
落ちる花
「あーん、また落ちちゃったよー」
ポトリと、ファイが持つ線香花火の先端から赤い玉が落ちた。もうこれで何度目か分からない。
「下手くそだな、おまえ」
「なんか手が震えちゃうんだよねー……」
そう言って、ファイはしょんぼりしつつ、足元のバケツに残された部分だけを放った。
黒鋼はまだ残っている線香花火の一本を摘み取ると、台紙の上の燃えかけの蝋燭にそれを近づけた。すぐに先端に火花が散り、赤い玉が出来る。落とさないように、慎重に。
ファイがゴクリと息を呑んだ。やがて、小さな糸のような火花がパチパチと弾け出した。
「わ、キレイ!」
「簡単だ、こんなもん」
「キレイで可愛いねぇ……」
ファイがうっとりと呟いた。けれど、それは一瞬で終わり、役目を終え、小さく萎んだ玉が静かに消えた。
「ずっと見てたいのにー。なんかしんみりしちゃう……」
もっとやってとせがまれて、残りの数本を一本一本片付けてゆく。ファイは花火が散っては目を輝かせ、終わってしまえばしょんぼりして唇を尖らせる。彼の表情はめまぐるしく変化した。
「これが最後だな」
カエルの大合唱が響き渡る公園の一角。小さな花火大会も、これでラストだ。派手に散るものは最初に全て片付けてしまったから、あとはファイの言うようにしんみりする以外なかった。
最後の一本に火をつけると、ファイが息を呑む。けれど。
「あ」
赤い玉が、最後の最後で不発のまま地に落ちてしまった。
「やっちまった」
「もー、黒たんの下手くそー」
「てめぇが言うか……?」
不満を口にするファイの額を指先で小突いた。不機嫌になったかと思ったが、ファイは笑った。
「楽しかったー。またやろうねー」
「そうだな」
黒鋼は、足元で揺らめいていた蝋燭を吹き消そうとした。だが、それをファイが「もうちょっと」と言って制した。どうせ放っておけば、あと数分もしない間に燃え尽きてしまうだろう。それでもファイはしゃがみ込んだまま、それをうっとりと見つめていた。
「火ってキレイ」
「そうか?」
「うん、花火もキレイだけど、ただの火もキレイだよ。ちゃんと気をつけてないと危ないけど……火がなかったら、花火だって出来ないでしょー?」
「まぁ、そうだな」
黒鋼は、自分の目線よりも少し下にあるファイの横顔を眺めた。肌も髪も目も、仄かなオレンジ色に揺らめいていた。
ファイは火を美しいと言うけれど、彼にはなんとなく似合わない。そんな気がした。
「黒たんの目も、真っ赤でキレイなんだよ。ウサギさんみたいで可愛いね」
「ああ?」
蝋燭の火から目線を黒鋼に向けて、ファイはへにゃりと笑う。思わず視線を逸らした。こうやって真っ直ぐに顔を合わせられなくなってから、どれだけ時間が経つだろう。綺麗も可愛いも、自分には似合わない。むしろファイの澄んだ空のような瞳の方こそ、よっぽど美しいと思う。柔らかくて可愛い笑顔も、ずっとずっと変わらない。
思えば子供の頃から、ファイはよく黒鋼をキレイだとかキラキラしているだとか、そんな恥ずかしいことばかりを口にしていた気がする。
「俺はキレイでもなんでもねぇよ」
むしろ穢らわしいとさえ、思う。こうして変わらない風を装いながら、黒鋼はファイの傍にいることに苦痛を覚えていた。彼を傷つける夢は、今も頻繁に黒鋼から眠りを奪い続けている。同時に、気持ちを自覚してしまってからというもの、ファイへの思いは日増しに膨らんでいくようだった。
友達としてでなく、恋愛の対象として。欲望の対象として。
そんなことを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。気持ちが悪いと言って嫌悪するだろうか。恐ろしいと怯えて、逃げ出すだろうか。
拳を握って、今にも消えそうな炎を見た。これが燃え尽きたとき、この思いも消えてしまえばいいのに。そうすればまた元に戻れる。夢だって消えてなくなる。これまで通り、変わらずにいられる。
「ねぇ、黒たん」
「……なんだ?」
「楽しかった?」
横顔に視線を感じていた。それでも、やはり蝋燭から目を離すことが出来ない。ファイの声は、微かに沈んでいた。
「花火、ホントに楽しかった?」
「……ああ」
「本当に?」
もう一度、「ああ」と答えた。花火をしようと、そう持ちかけてきたのはファイだった。今年の夏祭りは、忙しいからという理由で打ち上げ花火を見に連れて行かなかったから。
きっとファイは、一人きりで家の窓から打ち上げられる花々を眺めていたのだろう。
「よかったー。オレ、わがまま言っちゃったから……迷惑だったかと思っちゃったよー」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、火が消えた。終わっちゃったね、とファイが寂しげに呟く。けれど、やはり黒鋼の中の歪な感情が消え去ることはなかった。
台紙を拾ってバケツに放ると持ち上げ、先に立ち上がったのはファイだった。黒鋼は、ただなんとなくそのまましゃがみ込んで、側を流れる小さな小川を見つめていた。カエルの声と水の音。そこに満ちる二人の沈黙が、蒸し暑さに反してどこか寒々しい。
「遠いね……」
ファイがポツリと口にした。やはり、黒鋼はファイを見ることができない。
「なんかね、なんか……すごく、遠いんだー……」
「なにが」
「……わかんない。なんて言ったらいいか、わからないの。でも……」
遠いね、とファイは再び言った。黒鋼には、彼の伝えたい言葉の意味が本当はちゃんと分かっている。寂しいと、彼はそう言いたいのだ。
夏休みなどの長期の休暇に入れば、毎度のように家の手伝いがある。それでも時間をやりくりして、黒鋼はファイに会いに行っていた。けれど、今年の夏はそれをしていない。もちろん家のこともあるし、受験勉強だってある。それでもきっと以前の黒鋼なら、隙あらばファイとの時間を作っていただろう。それが今では時間があっても無くても、彼に会いには行かない。行けない。一緒にいても、目さえ合わせない。
ファイは勘がいいから、理由までは分からずとも黒鋼の中に何がしかの変化が起こったことに、気がついているのだろう。距離を置かれていることに。だが今の黒鋼には、彼を気遣うだけの余裕がない。
傍にいると狂いそうになる。あれは夢なのだと、ここは現実なのだと、そう言い聞かせても結局は、どこであろうが自分は自分。いつこの気持ちに抑えがきかなくなって、境界が分からなくなるかと思うと、恐い。
今だって。
「帰ろっかー。黒たん、お手伝いで疲れてるんだよねー」
気を取り直すかのように、ファイの手が元気よく差し出された。このままこの手を取って、彼を送り届けてしまえばそれで解放される。黒鋼は、手を伸ばしてそれに触れた。
ファイが真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、薄ぼんやりとした外灯の下、避け続けていた青い瞳と目が合ってしまった。
「っ……」
息を呑んだときには、もう視線を外すことが出来なかった。ファイは笑っていなかった。ただ、寂しそうだった。透き通っているはずの瞳が、薄暗い中で濁って見える。夢の中と、同じだと思った。
止せ、と思うより先に、黒鋼の手はファイの頬に触れていた。咄嗟のことに驚いて跳ね上がった細い肩。ゾクリとする。音を立てて、喉を鳴らした。
「ど、どうしたのー? オレの顔、なんかついてたかな?」
上ずったファイの声が、少しだけ震えていた。全身の血が沸き立つ。このまま強く抱いて、奪って、自分のものにしてしまおうか。
出来る。今なら、それが出来る。
触れていた方の手を離すと、もう片方の肩に触れ、強く掴んだ。一つしかない瞳が、大きく見開かれる。黒鋼は、頬に這わせていた手をゆっくりと動かした。親指が白い眼帯に触れる。そしてそのまま強く引き寄せようとした。でも。
「やだ……っ!!」
強い力で突き飛ばされた。ファイの手からバケツが落ちて、大きな音を立てながら地に落ちる。水が零れ、花火の残骸が地面に散らばった。黒鋼の身体は大きく傾いだが、倒れ込むまではいかず、よろめきながら数歩だけ後退した。
その瞬間、ハッとして我に返った。自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思い出せない。
ファイを見ると、彼は一歩一歩、黒鋼から距離を取っていた。左手が、眼帯を押さえ込んでいる。震えている。怯えている。自分がしでかしたことの重大さに、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ぁ……オレ……違うの……ごめん……」
ファイはその声までも震わせて、大きな瞳に涙が滲ませていた。ゆらゆらと、今にも零れ落ちてしまいそうだった。思わず手を伸ばしかけて、けれどファイがビクリと肩を震わせるのを見て、動けなくなる。
傷つけてしまった。怯えさせてしまった。いつだって優しくしてやりたかったのに。守ってやりたかったのに。大切なものを、この手で壊してしまった。自分を、抑えることができなかった……。
「ごめんなさい……黒たん、違うの……」
何ひとつ声を発することが出来なかった。また夢を見ているのだろうか。夢だったら、どんなにいいだろうか。
ファイはそれからも「違う」だとか「ごめん」という言葉を、どこか虚ろな調子で口にしていた。けれど、耐え切れなくなったのか、背を向けて走り出してしまった。
黒鋼は、その背中を追いかけることが出来なかった。
←戻る ・ 次へ→
「あーん、また落ちちゃったよー」
ポトリと、ファイが持つ線香花火の先端から赤い玉が落ちた。もうこれで何度目か分からない。
「下手くそだな、おまえ」
「なんか手が震えちゃうんだよねー……」
そう言って、ファイはしょんぼりしつつ、足元のバケツに残された部分だけを放った。
黒鋼はまだ残っている線香花火の一本を摘み取ると、台紙の上の燃えかけの蝋燭にそれを近づけた。すぐに先端に火花が散り、赤い玉が出来る。落とさないように、慎重に。
ファイがゴクリと息を呑んだ。やがて、小さな糸のような火花がパチパチと弾け出した。
「わ、キレイ!」
「簡単だ、こんなもん」
「キレイで可愛いねぇ……」
ファイがうっとりと呟いた。けれど、それは一瞬で終わり、役目を終え、小さく萎んだ玉が静かに消えた。
「ずっと見てたいのにー。なんかしんみりしちゃう……」
もっとやってとせがまれて、残りの数本を一本一本片付けてゆく。ファイは花火が散っては目を輝かせ、終わってしまえばしょんぼりして唇を尖らせる。彼の表情はめまぐるしく変化した。
「これが最後だな」
カエルの大合唱が響き渡る公園の一角。小さな花火大会も、これでラストだ。派手に散るものは最初に全て片付けてしまったから、あとはファイの言うようにしんみりする以外なかった。
最後の一本に火をつけると、ファイが息を呑む。けれど。
「あ」
赤い玉が、最後の最後で不発のまま地に落ちてしまった。
「やっちまった」
「もー、黒たんの下手くそー」
「てめぇが言うか……?」
不満を口にするファイの額を指先で小突いた。不機嫌になったかと思ったが、ファイは笑った。
「楽しかったー。またやろうねー」
「そうだな」
黒鋼は、足元で揺らめいていた蝋燭を吹き消そうとした。だが、それをファイが「もうちょっと」と言って制した。どうせ放っておけば、あと数分もしない間に燃え尽きてしまうだろう。それでもファイはしゃがみ込んだまま、それをうっとりと見つめていた。
「火ってキレイ」
「そうか?」
「うん、花火もキレイだけど、ただの火もキレイだよ。ちゃんと気をつけてないと危ないけど……火がなかったら、花火だって出来ないでしょー?」
「まぁ、そうだな」
黒鋼は、自分の目線よりも少し下にあるファイの横顔を眺めた。肌も髪も目も、仄かなオレンジ色に揺らめいていた。
ファイは火を美しいと言うけれど、彼にはなんとなく似合わない。そんな気がした。
「黒たんの目も、真っ赤でキレイなんだよ。ウサギさんみたいで可愛いね」
「ああ?」
蝋燭の火から目線を黒鋼に向けて、ファイはへにゃりと笑う。思わず視線を逸らした。こうやって真っ直ぐに顔を合わせられなくなってから、どれだけ時間が経つだろう。綺麗も可愛いも、自分には似合わない。むしろファイの澄んだ空のような瞳の方こそ、よっぽど美しいと思う。柔らかくて可愛い笑顔も、ずっとずっと変わらない。
思えば子供の頃から、ファイはよく黒鋼をキレイだとかキラキラしているだとか、そんな恥ずかしいことばかりを口にしていた気がする。
「俺はキレイでもなんでもねぇよ」
むしろ穢らわしいとさえ、思う。こうして変わらない風を装いながら、黒鋼はファイの傍にいることに苦痛を覚えていた。彼を傷つける夢は、今も頻繁に黒鋼から眠りを奪い続けている。同時に、気持ちを自覚してしまってからというもの、ファイへの思いは日増しに膨らんでいくようだった。
友達としてでなく、恋愛の対象として。欲望の対象として。
そんなことを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。気持ちが悪いと言って嫌悪するだろうか。恐ろしいと怯えて、逃げ出すだろうか。
拳を握って、今にも消えそうな炎を見た。これが燃え尽きたとき、この思いも消えてしまえばいいのに。そうすればまた元に戻れる。夢だって消えてなくなる。これまで通り、変わらずにいられる。
「ねぇ、黒たん」
「……なんだ?」
「楽しかった?」
横顔に視線を感じていた。それでも、やはり蝋燭から目を離すことが出来ない。ファイの声は、微かに沈んでいた。
「花火、ホントに楽しかった?」
「……ああ」
「本当に?」
もう一度、「ああ」と答えた。花火をしようと、そう持ちかけてきたのはファイだった。今年の夏祭りは、忙しいからという理由で打ち上げ花火を見に連れて行かなかったから。
きっとファイは、一人きりで家の窓から打ち上げられる花々を眺めていたのだろう。
「よかったー。オレ、わがまま言っちゃったから……迷惑だったかと思っちゃったよー」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、火が消えた。終わっちゃったね、とファイが寂しげに呟く。けれど、やはり黒鋼の中の歪な感情が消え去ることはなかった。
台紙を拾ってバケツに放ると持ち上げ、先に立ち上がったのはファイだった。黒鋼は、ただなんとなくそのまましゃがみ込んで、側を流れる小さな小川を見つめていた。カエルの声と水の音。そこに満ちる二人の沈黙が、蒸し暑さに反してどこか寒々しい。
「遠いね……」
ファイがポツリと口にした。やはり、黒鋼はファイを見ることができない。
「なんかね、なんか……すごく、遠いんだー……」
「なにが」
「……わかんない。なんて言ったらいいか、わからないの。でも……」
遠いね、とファイは再び言った。黒鋼には、彼の伝えたい言葉の意味が本当はちゃんと分かっている。寂しいと、彼はそう言いたいのだ。
夏休みなどの長期の休暇に入れば、毎度のように家の手伝いがある。それでも時間をやりくりして、黒鋼はファイに会いに行っていた。けれど、今年の夏はそれをしていない。もちろん家のこともあるし、受験勉強だってある。それでもきっと以前の黒鋼なら、隙あらばファイとの時間を作っていただろう。それが今では時間があっても無くても、彼に会いには行かない。行けない。一緒にいても、目さえ合わせない。
ファイは勘がいいから、理由までは分からずとも黒鋼の中に何がしかの変化が起こったことに、気がついているのだろう。距離を置かれていることに。だが今の黒鋼には、彼を気遣うだけの余裕がない。
傍にいると狂いそうになる。あれは夢なのだと、ここは現実なのだと、そう言い聞かせても結局は、どこであろうが自分は自分。いつこの気持ちに抑えがきかなくなって、境界が分からなくなるかと思うと、恐い。
今だって。
「帰ろっかー。黒たん、お手伝いで疲れてるんだよねー」
気を取り直すかのように、ファイの手が元気よく差し出された。このままこの手を取って、彼を送り届けてしまえばそれで解放される。黒鋼は、手を伸ばしてそれに触れた。
ファイが真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、薄ぼんやりとした外灯の下、避け続けていた青い瞳と目が合ってしまった。
「っ……」
息を呑んだときには、もう視線を外すことが出来なかった。ファイは笑っていなかった。ただ、寂しそうだった。透き通っているはずの瞳が、薄暗い中で濁って見える。夢の中と、同じだと思った。
止せ、と思うより先に、黒鋼の手はファイの頬に触れていた。咄嗟のことに驚いて跳ね上がった細い肩。ゾクリとする。音を立てて、喉を鳴らした。
「ど、どうしたのー? オレの顔、なんかついてたかな?」
上ずったファイの声が、少しだけ震えていた。全身の血が沸き立つ。このまま強く抱いて、奪って、自分のものにしてしまおうか。
出来る。今なら、それが出来る。
触れていた方の手を離すと、もう片方の肩に触れ、強く掴んだ。一つしかない瞳が、大きく見開かれる。黒鋼は、頬に這わせていた手をゆっくりと動かした。親指が白い眼帯に触れる。そしてそのまま強く引き寄せようとした。でも。
「やだ……っ!!」
強い力で突き飛ばされた。ファイの手からバケツが落ちて、大きな音を立てながら地に落ちる。水が零れ、花火の残骸が地面に散らばった。黒鋼の身体は大きく傾いだが、倒れ込むまではいかず、よろめきながら数歩だけ後退した。
その瞬間、ハッとして我に返った。自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思い出せない。
ファイを見ると、彼は一歩一歩、黒鋼から距離を取っていた。左手が、眼帯を押さえ込んでいる。震えている。怯えている。自分がしでかしたことの重大さに、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ぁ……オレ……違うの……ごめん……」
ファイはその声までも震わせて、大きな瞳に涙が滲ませていた。ゆらゆらと、今にも零れ落ちてしまいそうだった。思わず手を伸ばしかけて、けれどファイがビクリと肩を震わせるのを見て、動けなくなる。
傷つけてしまった。怯えさせてしまった。いつだって優しくしてやりたかったのに。守ってやりたかったのに。大切なものを、この手で壊してしまった。自分を、抑えることができなかった……。
「ごめんなさい……黒たん、違うの……」
何ひとつ声を発することが出来なかった。また夢を見ているのだろうか。夢だったら、どんなにいいだろうか。
ファイはそれからも「違う」だとか「ごめん」という言葉を、どこか虚ろな調子で口にしていた。けれど、耐え切れなくなったのか、背を向けて走り出してしまった。
黒鋼は、その背中を追いかけることが出来なかった。
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うつつのこと
気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
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気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
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侵す異物
「にゃんこ、元気にしてるかなー?」
秘密基地への道中、繋いだ手をブラブラと揺らしながら、ファイが声を弾ませた。
彼が躓いて転ばないように注意を払いつつ、黒鋼は「さぁな」と、のんびりとした口調で答える。
「俺たちに見えてねぇだけで、あの辺ウロチョロして遊んでんじゃねぇか?」
「そっかー。オレお化け見えたらよかったのになー」
晴れた空を見上げながら、ファイはその薄桃色の唇を尖らせた。冗談で言ったつもりなのに、彼は黒鋼の言うことを面白いほど素直に真に受けてしまう。そもそもすでに死んでいる存在に対して「元気かな」なんて気にかけるのも可笑しな話ではあるのだが。
「早く行こー! にゃんこ一人ぼっちで遊ぶの飽きちゃってるかも!」
「馬鹿、慌てると転ぶぞ」
「黒たんとおてて繋いでるから大丈夫だもーん!」
嬉しそうににっこり笑って、ファイが歩調を早める。黒鋼は苦笑しながらその歩幅に合わせて先を急いだ。
*
春休みに入ってすぐ、黒鋼とファイは久しぶりに子猫の墓に手を合わせるために、秘密基地へ行くことになった。
以前に比べてなかなか頻繁に行くことが出来なくなってしまったあの場所は、冬の間ともなればなおのこと、足を運ぶのが難しくなってしまう。この休みが終われば二人は受験生という肩書を背負うことになるし、訪れる機会は今よりもぐっと減ってしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、一度ちゃんと時間を取って子猫に会いに行こうという話になった。ポツポツと桜が開花するくらいには暖かくなってきたし、弁当を持ち寄ってピクニック気分で二人は裏山に入った。
「シートも持ってきたし、お墓の隣に敷いてご飯食べようねー!」
「それはいいけどよ、おまえの鞄……膨らみすぎじゃねぇか?」
ファイが肩からかけているショルダーバッグは、その形状が変わるほど膨らみ切っていた。準備して来たものは大差ないはずなのに、黒鋼が下げているスポーツバッグには十分に余裕がある。
「だってー、しばらく来れないから、にゃんこのご飯とかおやつもいっぱい持ってきたしー、あとねー、黒たんの分のお弁当もいーっぱい作ってきたのー」
「は? 俺は俺でちゃんと持って来てんぞ」
黒鋼が驚いた顔をすると、ファイは「いいのー」と言ってへにゃっと笑う。
「黒たんの分も作りたかったんだー。オレの卵焼きは甘くて、黒たんのはお醤油味だよー」
彼に料理ができるとは驚きだった。だがよく考えてもみればファイは年老いた祖母と二人暮らしだし、将来は菓子職人になりたいと言っているくらいだから、料理なんて普段からこなしていて当たり前かもしれない。何から何まで母親に任せ切っている自分が、少し恥ずかしくなってしまう。
しかも自分の分だけでなく、味まで変えて二人分作ってきてくれるとは。ファイの手料理、という響きに心の奥がなにやら疼きだす。
そんな黒鋼も、自分の小遣いの中からいつもは絶対に買わないようなチョコやクッキーといった甘い菓子類を買って、鞄に詰めて来ているのだが。もちろん、全てファイにくれてやるためだった。
「黒たん黒たん、鳥居が見えてきたよー! 急ご急ごー!」
「分かったから走るなって」
かろうじて人が通れる程度の山道は、小枝や硬い葉っぱが張り出している。地面だってオウトツが激しいし、ファイが転ぶ前に自分が転んでなんかいられない。ファイはそんなことお構いなしでぐいぐいと繋いだ手を引っ張ってくる。この感覚は、生きて元気だった頃の鋼丸との散歩を思い起こさせて、黒鋼はやっぱり苦笑するしかなかった。
そうこうしているうちに、黒鋼とファイは大きな石の鳥居に到着した。
けれど、すぐに二人揃ってハッと息をのみ、咄嗟にその太い柱の陰に身を隠す。改めてそっと顔を半分だけ覗かせて見れば、そこには『侵入者』の姿があった。
「く、黒たん……」
「しっ! 黙ってろ……ちょっと下がるぞ」
「う、うん……」
戸惑った表情を浮かべるファイの手を引いたまま、二人は登って来た山の斜面を這うようにして数歩後戻りする。ちょうど侵入者の様子が窺えるくらいに顔を出し、息を殺した。
彼らは、神木の側に二人いた。
髪を茶色に脱色した、今風の若い男女。よく観察すると大学生くらいの印象を受ける。あまり見かけない顔だが、観光客というわけでもなさそうだ。それは二人の会話から窺い知れた。
「久しぶりに帰って来たけどさー、マジでくっそ田舎すぎー」
「だなぁ。ここも結局、なーんもないしな」
だぼついたパーカーにジーンズ姿の男が、ポケットに手を入れたまま神木に蹴りを入れる。その瞬間ファイが声を出しかけるのを、肩を抱き寄せ口元に手を押し当ててどうにか封じた。
「キャハハハ! ちょっとー! 虫とか落っこちてきたらどうすんのよー!」
白いフリルシャツにデニムのミニスカートを履いた女が、痛んだ長い髪を揺らしながら下品な笑い声を上げる。
「おれらのガキの頃はさー、ここは絶対に入っちゃ駄目ですーって言われて、ちょっと怖かったじゃん? 親とかもバケモンがいるから入るなとか脅かしてきて」
「あー、アタシもよく言われてたー。バケモンとかまぢウケる」
「なー? 入ってみたらなーんもねーじゃんここ。バカでかい木しかねぇーの!」
どうやら彼らはこの町の出身らしい。おそらく進学か就職に伴って町を出て、里帰りでもしているのだろう。二人も自分たちと同じようにここへの立ち入りを固く禁じられて育ったようだが、当時は踏み込む勇気がなかったということか。
身動きが取れない状態で気配を殺し続ける黒鋼とファイに気付かないまま、男女は神木の周りをウロウロしながらくだらない昔話を続けている。
最後に来たときに墓に供えた花はすっかり干からびて、彼らが知らず蹴散らしていた。腕の中で、ファイの身体がビクリと跳ねる。
「お墓……踏んでる……」
傷ついた表情で、彼は片方だけの青い瞳に涙を浮かべた。それを見て、黒鋼の中に沸々と怒りの感情が湧き上がってきた。
今まではとにかく早くどこかへ消えてくれという思いしかなかったけれど、ファイの泣きそうな顔を見てようやく、自分たちにとっての聖域を穢されているのだという実感が芽生えた。
罰が下るような真似は、黒鋼だった散々してきた。でも、彼らの行いは決して許せるものではない。
それでも黒鋼はまだ冷静だった。今にも飛びかかって殴りつけてやりたい感情は渦巻いているが、ここで大きな騒ぎを起こすのは避けたほうがいい。下手に恨みを買えば自分たちがここに出入りしていることを公にされる可能性がある。
それは、禁じられた場所へ踏み込んでいたことを咎められるのが怖いからではない。ただ守りたいと思ったからだった。ファイと育んだ大切な思い出の場所を。
そしてこれからも、ここで二人だけの時間を過ごしたいから。
黒鋼は必死で思考を巡らせた。自分たちで手出しができないとなると、大人の力を借りる必要がある。例えば今すぐに山を下りて、たまたま裏山に見知らぬ男女が入っていくのを見た、と適当に誰かを捕まえて報告すれば。
そうすればきっと、余所者が山を荒らしに入った(実際はこの町の出身らしいが)と大騒ぎになるに違いない。その意識は黒鋼にとって忌むべきものではあるが、今は逆手に取る以外に方法がなかった。
黒鋼はファイから身体を離し、細い手首を掴んだ。いったん下りるぞ、と耳打ちしたが、彼は男女がいる方を呆然とした様子で見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
「おい、どうした」
何かがおかしい。黒鋼も、咄嗟に視線を彼らに戻す。そして目を見開いて唖然とした。
神木に背中を預けた女に、男が覆いかぶさってキスをしている。それはただ触れ合うだけのものではなく、舌と舌を絡め合う深いものだった。
「ぁ、ん……やだぁ……こんな汚いとこでするのぉ……?」
虫に刺されたらどうすんのよ、と掠れた声で言う女に、男がいやらしく笑みを浮かべる。
「いいじゃん。思い出作りっつーの?」
「もう……バカなんだからぁ……」
あん、と女が切なげに表情を歪めて甘い声を漏らす。男の手が服の上から女の乳房を掴み上げて揉みしだき、首筋に舌を這わせるのを黒鋼とファイはただ凍り付いたまま見つめていた。
身体が動かなかった。さっきまでは確かに回っていたはずの思考が停止している。
女は男の首に両腕を回し、男は女のシャツをたくし上げた。白い肌と女物の下着が、ざわめく木々の隙間から零れる日差しの下で露わになる。交わりが深まるほどに、女の口からは甘えたような上擦った声があがって。
耳を塞ぎたいのに、目を逸らしたいのに、瞬きすら出来なかった。何を見ているんだろう。彼らは何をしているんだろう。分かっている。
あれは、セックスだ。
男と女がするものだ。知識としては知っている。でも、現実を受け入れることができない。ただ心臓が痛いほど高鳴っていた。女の肌から、声から、意識を逸らすことができなかった。身体が熱い。吐き気がするほど嫌な気分なのに。どうして。
男が女の太腿に手を這わせた。ミニスカートをたくし上げようとしたところで、黒鋼はようやく我に返った。そうだ。ここにいるのは自分だけではないのだった。ファイに、こんなものを見せ続けるわけには。
その時だった。
「もう帰って!!」
まだ幾らか少女めいた甲高さを残す声が、痛々しく辺りに木霊した。
同時に、ファイが足元にあった小石を掴んで、神木に身を預ける男女に投げつける。それはどこからともなく聞こえてきた声に、身体をビクつかせた男の背中にヒットして「いてぇッ!!」という悲鳴が大きく響いた。黒鋼は咄嗟に細い身体を抱えて側の深い茂みの中に飛び込んだ。
その瞬間、まるでファイの悲痛な叫びに応じたかのように神木の枝がざわめき、辺りに強い風を起こす。ざわざわという激しい木々の音が、黒鋼とファイが茂みに飛び込む音と溶け合って、上手く位置を誤魔化すことができた。
それは、なにか見えない力が働いたとしか思えない、不思議な現象だった。
「だ、誰だ!? なんだよ今の!?」
「ねぇ、やっぱここヤバイんじゃない!?」
青褪めた表情で適当に乱れた衣服を戻し、女がパニックを起こしたように叫ぶ。忙しなく辺りを見回す男はすっかりへっぴり腰になっていて、その表情も無様に血の気が引いていた。
黒鋼は小動物のように震え続けるファイを強く抱きしめたまま、茂みの中に身を潜めて彼らの動向を見守った。
やがて二人はしきりに「ヤバイ、ヤバイ」と連呼しながら、鳥居をくぐって山を下りて行った。
*
本当なら今頃――。
子猫の墓に手を合わせ、持ってきた弁当をたらふく食って、楽しい時間を過ごしているはずだったのに。
黒鋼は踏み荒らされた墓の前で泣くファイの背中を、唇を噛み締めながら見つめていた。声も上げず、堪えるように身を震わせる姿が、子猫を喪ったあの雨の日のことを思い出させる。あのときもここで、彼はこうやって静かに泣いていた。
笑いたくない時に笑って、声を上げて泣きたいのを押し殺して。どうしてファイはこんな風に我慢ばかりするのだろう。その強さが黒鋼の目には儚く映る。だから胸が掻き毟られるように痛んで仕方ない。
「なぁ」
何か声をかけてやらなくては。そう思って切り出してはみたけれど、言葉にならなかった。これでは本当に、あの雨の日と同じだ。あれから何年も経っているはずで、自分はもう中学生で、少しくらいは成長しているはずなのに。情けなさに唇を噛み締めた。
あの侵入者たちへの怒りもまだおさまってはいない。衝撃的な光景が頭から離れず、こんな時だというのに、思い出すとまたあの不可解な熱が身体の奥から這い出してきそうだった。
「くそ……」
小さく吐きだして、黒鋼は頭をガリガリと掻き毟ると地面にどっかりと腰を下ろした。あぐらをかいて、神木に背を預ける。苛立ちに震える息を吐き出すと、手の甲でごしごしと右目を拭いたファイが振り向いた。赤く充血した目が黒鋼を見て、それからすぐに隣にちょこんと腰を下ろす。
「落ち着いたか?」
「……ん」
「悪かった」
項垂れながら謝罪すると、片目を僅かに見開いたファイが黒鋼を見た。
「どうして謝るの?」
「……いや……俺がもっと早く、おまえを引っ張って山を下りてりゃ……あんな……」
あんないかがわしい光景まで、見せられることにはならなかった。
生まれて初めて直に見た男女の情交は、未遂に終わったもののショックが大きかった。黒鋼でさえ戸惑っているのだから、ファイにはもっと衝撃が強かったのではないか。
黒鋼は、顔を俯けて抱え込んだ両膝に視線を落とすファイを横目で見やる。彼はあの光景をどう捉えたのか、そればかりが気になった。ファイは同年代の者たちと比べると、まだどこか乳臭いというか、このくらいの年齢なら普通に理解しているようなことでも、分かっていないのではないか、なんて。
馬鹿にしていると思われても仕方のない考えだけれど、黒鋼はそうであってほしいと願っている自分がいることに気がついた。
「……なぁ」
「ん」
「その……さっきのことだけどよ……」
そこまで切り出しておいて、黒鋼は口を噤んだ。あの光景を見てどうだった、なんて。どんな顔をして聞けばいいのだろう。あまりにも野暮で滑稽な問いかけだということに気がついて、自分に呆れた。
この話はするべきじゃない。自分がこうして塞ぎこんでいたら、いつまで経っても忘れることなんかできないし、一刻も早く空気を変えてファイを元気づけなくては。
「時間食っちまったな。早いとこ飯でも」
一方的に話を終わらせようとした黒鋼だったが、か細い声で「黒たん」と呼ばれて、その先を続けることができなかった。
「どうした?」
「オレこそごめんね」
「……なんだよ。おまえは何も悪くねぇだろ」
「だって……じっとしてなきゃいけなかったのに、オレ、絶対にしちゃいけないことしちゃった……あの男の人、怪我しちゃってたらどうしよう……」
だけどね、と言うファイの声は可哀想なほど掠れていた。
「なんか……なんかね、やだったの……ぐちゃぐちゃになりそうで、怖かった……」
「……うん」
「神様に怒られても、罰があたっても、ここはオレたちだけの秘密基地だもん」
抱え込んだ膝に顔を埋めて、ファイは肩を震わせた。それを見ていると、一緒に泣いてしまいたい気持ちになる。
ここはファイが見つけた場所。
大きくなったらここに住むんだと、今はもう入れなくなってしまった神木の空洞の中で、幼い彼は無邪気に笑っていた。ずっと変わらずに、何もかもがそのままの形でそこにあり続けるのだと信じて。
神木の入り口が、成長した二人を拒んだように。
いつかここは自分たちだけの場所ではなくなるのかもしれない。失くしてしまうのかもしれない。男と女の形をした二つの異物が、こんなにも簡単に彼を傷つけたみたいに。
黒鋼は泣き続けるファイに手を伸ばした。丸くなっている背に触れると、しゃくり上げる振動が直に伝わる。気の利いたジョークの一つでも言えれば、ファイはすぐにでも笑ってくれるかもしれない。けれど、黒鋼にはそんな真似は出来そうもない。
ならせめて抱きしめたかった。優しくしてやりたかった。そっと抱きしめて、いつもみたいに柔らかな金髪を思いっきり撫でて。それから。
それから――?
黒鋼は、何かとてつもなく嫌なものが胸の奥から込み上げてきそうになるのを感じて、思わず手を引っ込めた。掻き消そうとしていた、あの男女の絡み合う光景が脳裏に甦る。唾液を滴らせながら交わる唇の赤が鮮明で、その嫌悪感に吐き気が込み上げた。
何を戸惑う必要があるのだろう。彼を抱きしめることに、触れることに。
自分たちはあの二人とは違うし、ファイは大切な幼馴染であり親友だ。今までもそうだったように、きっとこれからもずっと。
なのにどうしてか、今ファイに触れてしまったら、あの連中と同じになってしまうような気がした。それがどうしてなのか考えるより先に、ふと胸に何かが引っかかっていることに気付く。
そう、ファイは友達。黒鋼にとって大切な親友。それが、大きなしこりのように喉の奥に痞えていた。異物のように。
黒鋼はファイから目を逸らし、奥歯を噛みしめた。頭が混乱している。心の中が、直に手で掻き回されているみたいにぐちゃぐちゃだった。
考えるな。
今は何も。きっと考えてもすぐに出る答えでもない。おかしなものを見てしまったから、まだ気持ちの整理がついていないだけだ。全部全部、あの連中のせいだ。
だから、忘れよう。
黒鋼は勢いよく息を吐き出すと、手の平で自分の膝を思い切り叩いた。パン、という音は思いのほか大きく辺りに響き渡り、驚いたファイが顔を上げる。その濡れた瞳を真っ直ぐに見返すと、黒鋼は笑った。
「飯食うぞ」
「黒たん……?」
「いつまでも湿気たツラしてんじゃねぇ。腹減ったからたまご焼き食わせろ」
そうだ。最初から何もなかったように。無理やりにでも美味いものを食って腹を満たせば、きっと余計な考えも不安も、どこかに消え失せる。
黒鋼は地面に放られていたファイの鞄と、自分の鞄を一緒に掴んで引き寄せた。用意していたレジャーシートは意味がなくなってしまったが、次々と中身を取り出して食事の準備を整える。ファイが持ってきた大きな重箱の包みを解きながら、黒鋼はファイに、そして自分に対して戒めるように言った。
「ここはずっと俺たちの秘密基地だし、俺たちはこれからもずっと友達だろ? それだけ変わらなかったら……いいじゃねぇか」
ただ黙って黒鋼の手元を見ていたファイを真っ直ぐに見た。彼は片方だけの目でパチパチと瞬きを繰り返して、それからすぐにふにゃりといつもの笑顔を見せると、うん、と言って頷いた。
「黒たんはこれからもずっと、オレの一番、大事な人だよ」
溶けかけの砂糖菓子のような笑顔に鋭く胸が痛むことに、黒鋼は気づかないふりをした。
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「にゃんこ、元気にしてるかなー?」
秘密基地への道中、繋いだ手をブラブラと揺らしながら、ファイが声を弾ませた。
彼が躓いて転ばないように注意を払いつつ、黒鋼は「さぁな」と、のんびりとした口調で答える。
「俺たちに見えてねぇだけで、あの辺ウロチョロして遊んでんじゃねぇか?」
「そっかー。オレお化け見えたらよかったのになー」
晴れた空を見上げながら、ファイはその薄桃色の唇を尖らせた。冗談で言ったつもりなのに、彼は黒鋼の言うことを面白いほど素直に真に受けてしまう。そもそもすでに死んでいる存在に対して「元気かな」なんて気にかけるのも可笑しな話ではあるのだが。
「早く行こー! にゃんこ一人ぼっちで遊ぶの飽きちゃってるかも!」
「馬鹿、慌てると転ぶぞ」
「黒たんとおてて繋いでるから大丈夫だもーん!」
嬉しそうににっこり笑って、ファイが歩調を早める。黒鋼は苦笑しながらその歩幅に合わせて先を急いだ。
*
春休みに入ってすぐ、黒鋼とファイは久しぶりに子猫の墓に手を合わせるために、秘密基地へ行くことになった。
以前に比べてなかなか頻繁に行くことが出来なくなってしまったあの場所は、冬の間ともなればなおのこと、足を運ぶのが難しくなってしまう。この休みが終われば二人は受験生という肩書を背負うことになるし、訪れる機会は今よりもぐっと減ってしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、一度ちゃんと時間を取って子猫に会いに行こうという話になった。ポツポツと桜が開花するくらいには暖かくなってきたし、弁当を持ち寄ってピクニック気分で二人は裏山に入った。
「シートも持ってきたし、お墓の隣に敷いてご飯食べようねー!」
「それはいいけどよ、おまえの鞄……膨らみすぎじゃねぇか?」
ファイが肩からかけているショルダーバッグは、その形状が変わるほど膨らみ切っていた。準備して来たものは大差ないはずなのに、黒鋼が下げているスポーツバッグには十分に余裕がある。
「だってー、しばらく来れないから、にゃんこのご飯とかおやつもいっぱい持ってきたしー、あとねー、黒たんの分のお弁当もいーっぱい作ってきたのー」
「は? 俺は俺でちゃんと持って来てんぞ」
黒鋼が驚いた顔をすると、ファイは「いいのー」と言ってへにゃっと笑う。
「黒たんの分も作りたかったんだー。オレの卵焼きは甘くて、黒たんのはお醤油味だよー」
彼に料理ができるとは驚きだった。だがよく考えてもみればファイは年老いた祖母と二人暮らしだし、将来は菓子職人になりたいと言っているくらいだから、料理なんて普段からこなしていて当たり前かもしれない。何から何まで母親に任せ切っている自分が、少し恥ずかしくなってしまう。
しかも自分の分だけでなく、味まで変えて二人分作ってきてくれるとは。ファイの手料理、という響きに心の奥がなにやら疼きだす。
そんな黒鋼も、自分の小遣いの中からいつもは絶対に買わないようなチョコやクッキーといった甘い菓子類を買って、鞄に詰めて来ているのだが。もちろん、全てファイにくれてやるためだった。
「黒たん黒たん、鳥居が見えてきたよー! 急ご急ごー!」
「分かったから走るなって」
かろうじて人が通れる程度の山道は、小枝や硬い葉っぱが張り出している。地面だってオウトツが激しいし、ファイが転ぶ前に自分が転んでなんかいられない。ファイはそんなことお構いなしでぐいぐいと繋いだ手を引っ張ってくる。この感覚は、生きて元気だった頃の鋼丸との散歩を思い起こさせて、黒鋼はやっぱり苦笑するしかなかった。
そうこうしているうちに、黒鋼とファイは大きな石の鳥居に到着した。
けれど、すぐに二人揃ってハッと息をのみ、咄嗟にその太い柱の陰に身を隠す。改めてそっと顔を半分だけ覗かせて見れば、そこには『侵入者』の姿があった。
「く、黒たん……」
「しっ! 黙ってろ……ちょっと下がるぞ」
「う、うん……」
戸惑った表情を浮かべるファイの手を引いたまま、二人は登って来た山の斜面を這うようにして数歩後戻りする。ちょうど侵入者の様子が窺えるくらいに顔を出し、息を殺した。
彼らは、神木の側に二人いた。
髪を茶色に脱色した、今風の若い男女。よく観察すると大学生くらいの印象を受ける。あまり見かけない顔だが、観光客というわけでもなさそうだ。それは二人の会話から窺い知れた。
「久しぶりに帰って来たけどさー、マジでくっそ田舎すぎー」
「だなぁ。ここも結局、なーんもないしな」
だぼついたパーカーにジーンズ姿の男が、ポケットに手を入れたまま神木に蹴りを入れる。その瞬間ファイが声を出しかけるのを、肩を抱き寄せ口元に手を押し当ててどうにか封じた。
「キャハハハ! ちょっとー! 虫とか落っこちてきたらどうすんのよー!」
白いフリルシャツにデニムのミニスカートを履いた女が、痛んだ長い髪を揺らしながら下品な笑い声を上げる。
「おれらのガキの頃はさー、ここは絶対に入っちゃ駄目ですーって言われて、ちょっと怖かったじゃん? 親とかもバケモンがいるから入るなとか脅かしてきて」
「あー、アタシもよく言われてたー。バケモンとかまぢウケる」
「なー? 入ってみたらなーんもねーじゃんここ。バカでかい木しかねぇーの!」
どうやら彼らはこの町の出身らしい。おそらく進学か就職に伴って町を出て、里帰りでもしているのだろう。二人も自分たちと同じようにここへの立ち入りを固く禁じられて育ったようだが、当時は踏み込む勇気がなかったということか。
身動きが取れない状態で気配を殺し続ける黒鋼とファイに気付かないまま、男女は神木の周りをウロウロしながらくだらない昔話を続けている。
最後に来たときに墓に供えた花はすっかり干からびて、彼らが知らず蹴散らしていた。腕の中で、ファイの身体がビクリと跳ねる。
「お墓……踏んでる……」
傷ついた表情で、彼は片方だけの青い瞳に涙を浮かべた。それを見て、黒鋼の中に沸々と怒りの感情が湧き上がってきた。
今まではとにかく早くどこかへ消えてくれという思いしかなかったけれど、ファイの泣きそうな顔を見てようやく、自分たちにとっての聖域を穢されているのだという実感が芽生えた。
罰が下るような真似は、黒鋼だった散々してきた。でも、彼らの行いは決して許せるものではない。
それでも黒鋼はまだ冷静だった。今にも飛びかかって殴りつけてやりたい感情は渦巻いているが、ここで大きな騒ぎを起こすのは避けたほうがいい。下手に恨みを買えば自分たちがここに出入りしていることを公にされる可能性がある。
それは、禁じられた場所へ踏み込んでいたことを咎められるのが怖いからではない。ただ守りたいと思ったからだった。ファイと育んだ大切な思い出の場所を。
そしてこれからも、ここで二人だけの時間を過ごしたいから。
黒鋼は必死で思考を巡らせた。自分たちで手出しができないとなると、大人の力を借りる必要がある。例えば今すぐに山を下りて、たまたま裏山に見知らぬ男女が入っていくのを見た、と適当に誰かを捕まえて報告すれば。
そうすればきっと、余所者が山を荒らしに入った(実際はこの町の出身らしいが)と大騒ぎになるに違いない。その意識は黒鋼にとって忌むべきものではあるが、今は逆手に取る以外に方法がなかった。
黒鋼はファイから身体を離し、細い手首を掴んだ。いったん下りるぞ、と耳打ちしたが、彼は男女がいる方を呆然とした様子で見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
「おい、どうした」
何かがおかしい。黒鋼も、咄嗟に視線を彼らに戻す。そして目を見開いて唖然とした。
神木に背中を預けた女に、男が覆いかぶさってキスをしている。それはただ触れ合うだけのものではなく、舌と舌を絡め合う深いものだった。
「ぁ、ん……やだぁ……こんな汚いとこでするのぉ……?」
虫に刺されたらどうすんのよ、と掠れた声で言う女に、男がいやらしく笑みを浮かべる。
「いいじゃん。思い出作りっつーの?」
「もう……バカなんだからぁ……」
あん、と女が切なげに表情を歪めて甘い声を漏らす。男の手が服の上から女の乳房を掴み上げて揉みしだき、首筋に舌を這わせるのを黒鋼とファイはただ凍り付いたまま見つめていた。
身体が動かなかった。さっきまでは確かに回っていたはずの思考が停止している。
女は男の首に両腕を回し、男は女のシャツをたくし上げた。白い肌と女物の下着が、ざわめく木々の隙間から零れる日差しの下で露わになる。交わりが深まるほどに、女の口からは甘えたような上擦った声があがって。
耳を塞ぎたいのに、目を逸らしたいのに、瞬きすら出来なかった。何を見ているんだろう。彼らは何をしているんだろう。分かっている。
あれは、セックスだ。
男と女がするものだ。知識としては知っている。でも、現実を受け入れることができない。ただ心臓が痛いほど高鳴っていた。女の肌から、声から、意識を逸らすことができなかった。身体が熱い。吐き気がするほど嫌な気分なのに。どうして。
男が女の太腿に手を這わせた。ミニスカートをたくし上げようとしたところで、黒鋼はようやく我に返った。そうだ。ここにいるのは自分だけではないのだった。ファイに、こんなものを見せ続けるわけには。
その時だった。
「もう帰って!!」
まだ幾らか少女めいた甲高さを残す声が、痛々しく辺りに木霊した。
同時に、ファイが足元にあった小石を掴んで、神木に身を預ける男女に投げつける。それはどこからともなく聞こえてきた声に、身体をビクつかせた男の背中にヒットして「いてぇッ!!」という悲鳴が大きく響いた。黒鋼は咄嗟に細い身体を抱えて側の深い茂みの中に飛び込んだ。
その瞬間、まるでファイの悲痛な叫びに応じたかのように神木の枝がざわめき、辺りに強い風を起こす。ざわざわという激しい木々の音が、黒鋼とファイが茂みに飛び込む音と溶け合って、上手く位置を誤魔化すことができた。
それは、なにか見えない力が働いたとしか思えない、不思議な現象だった。
「だ、誰だ!? なんだよ今の!?」
「ねぇ、やっぱここヤバイんじゃない!?」
青褪めた表情で適当に乱れた衣服を戻し、女がパニックを起こしたように叫ぶ。忙しなく辺りを見回す男はすっかりへっぴり腰になっていて、その表情も無様に血の気が引いていた。
黒鋼は小動物のように震え続けるファイを強く抱きしめたまま、茂みの中に身を潜めて彼らの動向を見守った。
やがて二人はしきりに「ヤバイ、ヤバイ」と連呼しながら、鳥居をくぐって山を下りて行った。
*
本当なら今頃――。
子猫の墓に手を合わせ、持ってきた弁当をたらふく食って、楽しい時間を過ごしているはずだったのに。
黒鋼は踏み荒らされた墓の前で泣くファイの背中を、唇を噛み締めながら見つめていた。声も上げず、堪えるように身を震わせる姿が、子猫を喪ったあの雨の日のことを思い出させる。あのときもここで、彼はこうやって静かに泣いていた。
笑いたくない時に笑って、声を上げて泣きたいのを押し殺して。どうしてファイはこんな風に我慢ばかりするのだろう。その強さが黒鋼の目には儚く映る。だから胸が掻き毟られるように痛んで仕方ない。
「なぁ」
何か声をかけてやらなくては。そう思って切り出してはみたけれど、言葉にならなかった。これでは本当に、あの雨の日と同じだ。あれから何年も経っているはずで、自分はもう中学生で、少しくらいは成長しているはずなのに。情けなさに唇を噛み締めた。
あの侵入者たちへの怒りもまだおさまってはいない。衝撃的な光景が頭から離れず、こんな時だというのに、思い出すとまたあの不可解な熱が身体の奥から這い出してきそうだった。
「くそ……」
小さく吐きだして、黒鋼は頭をガリガリと掻き毟ると地面にどっかりと腰を下ろした。あぐらをかいて、神木に背を預ける。苛立ちに震える息を吐き出すと、手の甲でごしごしと右目を拭いたファイが振り向いた。赤く充血した目が黒鋼を見て、それからすぐに隣にちょこんと腰を下ろす。
「落ち着いたか?」
「……ん」
「悪かった」
項垂れながら謝罪すると、片目を僅かに見開いたファイが黒鋼を見た。
「どうして謝るの?」
「……いや……俺がもっと早く、おまえを引っ張って山を下りてりゃ……あんな……」
あんないかがわしい光景まで、見せられることにはならなかった。
生まれて初めて直に見た男女の情交は、未遂に終わったもののショックが大きかった。黒鋼でさえ戸惑っているのだから、ファイにはもっと衝撃が強かったのではないか。
黒鋼は、顔を俯けて抱え込んだ両膝に視線を落とすファイを横目で見やる。彼はあの光景をどう捉えたのか、そればかりが気になった。ファイは同年代の者たちと比べると、まだどこか乳臭いというか、このくらいの年齢なら普通に理解しているようなことでも、分かっていないのではないか、なんて。
馬鹿にしていると思われても仕方のない考えだけれど、黒鋼はそうであってほしいと願っている自分がいることに気がついた。
「……なぁ」
「ん」
「その……さっきのことだけどよ……」
そこまで切り出しておいて、黒鋼は口を噤んだ。あの光景を見てどうだった、なんて。どんな顔をして聞けばいいのだろう。あまりにも野暮で滑稽な問いかけだということに気がついて、自分に呆れた。
この話はするべきじゃない。自分がこうして塞ぎこんでいたら、いつまで経っても忘れることなんかできないし、一刻も早く空気を変えてファイを元気づけなくては。
「時間食っちまったな。早いとこ飯でも」
一方的に話を終わらせようとした黒鋼だったが、か細い声で「黒たん」と呼ばれて、その先を続けることができなかった。
「どうした?」
「オレこそごめんね」
「……なんだよ。おまえは何も悪くねぇだろ」
「だって……じっとしてなきゃいけなかったのに、オレ、絶対にしちゃいけないことしちゃった……あの男の人、怪我しちゃってたらどうしよう……」
だけどね、と言うファイの声は可哀想なほど掠れていた。
「なんか……なんかね、やだったの……ぐちゃぐちゃになりそうで、怖かった……」
「……うん」
「神様に怒られても、罰があたっても、ここはオレたちだけの秘密基地だもん」
抱え込んだ膝に顔を埋めて、ファイは肩を震わせた。それを見ていると、一緒に泣いてしまいたい気持ちになる。
ここはファイが見つけた場所。
大きくなったらここに住むんだと、今はもう入れなくなってしまった神木の空洞の中で、幼い彼は無邪気に笑っていた。ずっと変わらずに、何もかもがそのままの形でそこにあり続けるのだと信じて。
神木の入り口が、成長した二人を拒んだように。
いつかここは自分たちだけの場所ではなくなるのかもしれない。失くしてしまうのかもしれない。男と女の形をした二つの異物が、こんなにも簡単に彼を傷つけたみたいに。
黒鋼は泣き続けるファイに手を伸ばした。丸くなっている背に触れると、しゃくり上げる振動が直に伝わる。気の利いたジョークの一つでも言えれば、ファイはすぐにでも笑ってくれるかもしれない。けれど、黒鋼にはそんな真似は出来そうもない。
ならせめて抱きしめたかった。優しくしてやりたかった。そっと抱きしめて、いつもみたいに柔らかな金髪を思いっきり撫でて。それから。
それから――?
黒鋼は、何かとてつもなく嫌なものが胸の奥から込み上げてきそうになるのを感じて、思わず手を引っ込めた。掻き消そうとしていた、あの男女の絡み合う光景が脳裏に甦る。唾液を滴らせながら交わる唇の赤が鮮明で、その嫌悪感に吐き気が込み上げた。
何を戸惑う必要があるのだろう。彼を抱きしめることに、触れることに。
自分たちはあの二人とは違うし、ファイは大切な幼馴染であり親友だ。今までもそうだったように、きっとこれからもずっと。
なのにどうしてか、今ファイに触れてしまったら、あの連中と同じになってしまうような気がした。それがどうしてなのか考えるより先に、ふと胸に何かが引っかかっていることに気付く。
そう、ファイは友達。黒鋼にとって大切な親友。それが、大きなしこりのように喉の奥に痞えていた。異物のように。
黒鋼はファイから目を逸らし、奥歯を噛みしめた。頭が混乱している。心の中が、直に手で掻き回されているみたいにぐちゃぐちゃだった。
考えるな。
今は何も。きっと考えてもすぐに出る答えでもない。おかしなものを見てしまったから、まだ気持ちの整理がついていないだけだ。全部全部、あの連中のせいだ。
だから、忘れよう。
黒鋼は勢いよく息を吐き出すと、手の平で自分の膝を思い切り叩いた。パン、という音は思いのほか大きく辺りに響き渡り、驚いたファイが顔を上げる。その濡れた瞳を真っ直ぐに見返すと、黒鋼は笑った。
「飯食うぞ」
「黒たん……?」
「いつまでも湿気たツラしてんじゃねぇ。腹減ったからたまご焼き食わせろ」
そうだ。最初から何もなかったように。無理やりにでも美味いものを食って腹を満たせば、きっと余計な考えも不安も、どこかに消え失せる。
黒鋼は地面に放られていたファイの鞄と、自分の鞄を一緒に掴んで引き寄せた。用意していたレジャーシートは意味がなくなってしまったが、次々と中身を取り出して食事の準備を整える。ファイが持ってきた大きな重箱の包みを解きながら、黒鋼はファイに、そして自分に対して戒めるように言った。
「ここはずっと俺たちの秘密基地だし、俺たちはこれからもずっと友達だろ? それだけ変わらなかったら……いいじゃねぇか」
ただ黙って黒鋼の手元を見ていたファイを真っ直ぐに見た。彼は片方だけの目でパチパチと瞬きを繰り返して、それからすぐにふにゃりといつもの笑顔を見せると、うん、と言って頷いた。
「黒たんはこれからもずっと、オレの一番、大事な人だよ」
溶けかけの砂糖菓子のような笑顔に鋭く胸が痛むことに、黒鋼は気づかないふりをした。
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ここはまるで、時間が止まってしまっているのではないかとさえ思う。たった一人で飛び出してしまったこの町は、あの頃のまま何もかもが、ただそこにあった。
古めかしいばかりだったバス停も、広がる田畑も、山々も、そして空さえも。
生まれてからここで育った年月の方がずっと長いはずなのに、もう何十年もの時間が流れてしまったかのような錯覚を抱いている。だからこそ、自分だけが随分と遠くへ行って変わってしまったような、そんな虚しさにも似た思いを抱く。
黒鋼はバス停から続く道のりを、ひたすら足元だけを見て自宅へ向かった。
*
当たり前といえば当たり前なのだが、自宅の方もまるで変わっていなかった。せいぜい農作業用のトラックが新しくなっていただとか、畑で育てる野菜の種類が増えていたとか、その程度だろうか。
出迎えてくれた母はさらに背が伸びた黒鋼を見て目を丸くすると「お父さんかと思ったわ」と言って笑っていた。
それからすぐに、黒鋼はまずは庭の鋼丸の墓前に手を合わせた。そこは毎日のように知世が花を供えているという。摘み取られた百日紅の花を見つめながら、あの秘密基地の子猫の墓へは、今もファイが行っているのだろうかと思った。
久しぶりに、行ってみようか。そう考えて、重苦しい息をつく。あの場所で過ごした時間を、決して忘れてしまいたいわけではなかった。けれど、もしやのことを考えると正直、怖かった。
会いたくないわけではない。かといって会いたいわけでも、ないような気がする。それら全てから逃げ出したという自責の念が、黒鋼を情けなくも臆病にさせていた。
「黒鋼ー、早く手を洗ってらっしゃいな。お父さんが待ってるわ」
「……わかった」
沈み込みそうになった黒鋼の思考を、縁側から顔を出した母の声が断ち切った。
*
茶の間に顔を出すと、すでにビールで一杯やっていた父が「おお!」と大きな声を上げた。母もだが、父もなんら変わりないようで安心する。
「なんだ、随分と久しぶりじゃないか。この親不孝者め」
豪快に笑う父と向かい合わせの形で胡坐をかく。テーブルの上には懐かしい料理が勢ぞろいしていた。煮物や厚焼き玉子、畑で収穫した野菜で作った漬物などに加え、中心にある丸い桶にはみっしりと散らし寿司が詰まっていた。何か祝い事やイベントがあると、この家では昔からこれと決まっている。
悪かったよ、と答える黒鋼に、父がふっと目元を和らげた。
「変わりはないか?」
「ああ。なんとかやってる」
「まぁ一杯やれ」
伏せてあったグラスをひっくり返し、ビールを注ごうとする父を手で制す。
「俺にはまだ早ぇよ」
「そうか? 見た目だけならもう立派に一人前の男だがなぁ」
「老けてんのはガキの頃からだよ」
「お父さんたら、悪ふざけばかりなのよ。黒鋼からもちゃんと言ってちょうだい」
苦笑いの母が、黒鋼の傍らに膝をつくと冷えた麦茶を注いでくれた。短く礼を言うと、母は忙しそうにまた台所へ消えてしまう。
「はしゃいでるのは母さんの方だ。おまえが戻ると言った日から、あの調子でずっと落ち着かないんだからな」
こっそりと耳打ちするような声のトーンで顔を寄せてくる父に、黒鋼は自然と笑みが込み上げる。要するに、二人とも心底喜んでくれているのだ。ずっと帰らないままでいたことを、今更ながらに申し訳なく感じた。
「知世はどうした?」
「お友達のところよ。お菓子を作るんですって、朝から飛び出して行っちゃったわ」
再び顔を出した母が、貝のお吸い物をよそった碗を盆に乗せてやってきた。母の顔にはハッキリと『しょうがない子なんだから』と書かれている。
「ちょっとはでかくなったのか、アイツは」
「なぁに、チビのまんまさ。ほら、腹が空いただろう。そろそろ始めよう」
「お父さんはもう始めちゃってるでしょう?」
「まぁまぁ、母さんも」
母の顔には、やっぱり『しょうがない人ね』という文字が書かれているような気がした。
*
そろそろ夕暮れも間近という時間帯になっても、知世は帰ってこなかった。
父はほろ酔いのおぼつかない足取りで、畑を見てくると言って出て行ってしまった。
黒鋼は台所で母の片付けの手伝いをしていた。小さい頃は頼んでもしてくれなかったのにね、などと言って母は嬉しそうに食器を洗っていた。
「お父さんたらご機嫌ね。いつもならお酒を飲んだらすぐに寝ちゃう人なのに」
よっぽど嬉しかったのよ、という言葉に黒鋼は笑った。照れ臭いような気持ちもあるけれど、離れてみなければ、本当の意味で家族のありがたみなど知らないままだったのかもしれない。
知世の分だけを残して、空になった食器を次から次へと運びながら、黒鋼は改めて横に並んだ母の小ささに少しだけ胸が痛んだ。
こんなに小さな人だったろうか。父だってそうだ。幼い頃は、もっともっと大きかった。
二年半という時間は決して長いものではなかったけれど、短いものでもなかったのだということを思い知らされた気がする。
彼はどう変わっただろう。記憶の中のまま、細くて幼いままだろうか。もしまた会うとしたら、あの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうか。おかしな呼び方で、この名を呼んでくれるだろうか。
俯いてぼんやりとしていると、母がひょい、と顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「……いや」
「ねぇ黒鋼。母さん、ちょっとお願いしたいことがあるの。いい?」
「ああ」
母は、知世を迎えに行って欲しいと言った。
黒鋼は窓の外へ目を向ける。夕暮れの空に、ひぐらしの声がこだましていた。漠然と、予感めいたものがしていた。
「……どこにいる?」
「お友達の家なの。あのね――」
母が告げた、妹のいる場所。
黒鋼は、悟られぬ程度に息を詰めた。
*
ここも、何一つ変わらない。
小高い位置にある、大きな屋敷。朽ちて物置と化している元茶屋の建物。一気に、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。
今にもこの砂利の敷詰められた坂道を、白くて小さな子供が腰の曲がった優しそうなおばあさんと手を繋いで降りてきそうで、黒鋼は茜色の空の下で瞳を細めた。
道々、ずっと胸が騒いでいた。迷いや葛藤や罪の意識が渦を巻いていた。
知世のことがなければ、おそらくここへ来ることはなかっただろう。迷い続けたまま、再びこの町を後にしていたに違いなかった。
知世は、いつからかここの住人に懐いてしまったらしい。よく遊びに行くのだと、母は笑っていた。
黒鋼は微かに震える息を吐き出した。ずっと昔にも、この屋敷を見上げながらこんな風に二の足を踏んでいたことがあった。そんなところも、変わらない。
一歩を踏み出そうとして、門の開く甲高い音がした。はっとして顔を上げる。
「あら、お兄さん」
ウェーブのかかった、母親譲りの長い黒髪の少女が笑顔で小さく手を振っていた。父の言った通り、まだチビのままだ。そしてその隣にはスラリと背の高い、左目に眼帯をした金髪の青年が立ち尽くしている。
彼は黒鋼を見ると宝石のような青い瞳を片方だけ、大きく見開いた。
「っ……」
黒鋼もまた目を見開き、息を飲む。胸騒ぎが忙しない鼓動へと移り変わった。
「久しぶりにお会いしましたのに、おかしな顔」
知世だけが、クスクスと可憐に笑っていた。傍らの青年に、ペコリと頭を下げる。
「ファイさん、とっても楽しかったですわ。またお菓子作り、教えてくださいな」
「あ、うん。オレも楽しかったよー。また遊びに来てね」
「ええ、もちろん」
ファイと知世は柔らかく微笑み合った。本当に、随分と仲がいいらしい。。
知世は立ち尽くすだけの黒鋼に向かって小走りで坂を下りてくると、ニコリと笑って小さな包みを差し出してきた。
「なんだ」
「クッキーを焼きましたから、お兄さんに」
ピンク色の和紙に可愛らしく包まれた小さなそれを、ずずいと押し付けられて咄嗟に受け取る。甘いものは嫌いだと言おうとして、先制された。
「甘さ控えめです。残したら承知しませんわ」
黒鋼に向けて人差し指をびしっと立てたあと、知世は再びファイの方を向くと手を振った。ファイも微笑みながら小さく手を振っている。
「私、先に帰ってますから。あとはごゆっくり」
「お、おい」
兄の呼びかけは丸無視の状態で、妹は淡いクリーム色のワンピースの裾を翻して、小走りに駆け出して行った。
残されたのは、いまだ一言も声をかけ合えないままでいる二人と、夏の虫の声だけだった。
*
本当に、大きくなったとしみじみ思った。
相変わらず身体は痩せていて、表情にも幼さが残ってはいたけれど、見違えるほどに背が伸びていた。
あれは中学の入学式だったか、彼が誇らしげに言っていた言葉を思い出した。
きっともっと大きくなるから。ぶかぶかの学生服の中で身体を泳がせながら、元気いっぱいに笑っていた少年の姿を思い浮かべては、目を閉じてそれを掻き消した。
隣を歩くファイが、おもむろに小さな笑い声を上げた。
「なんだよ」
「うぅん。お父さんが迎えに来たのかと思ったからー」
ぎこちない空気を感じていたのは黒鋼だけだったのだろうか。ファイはすっかり落ち着いた声で、相変わらずどこか間の抜けたような話し方をする。
「怒らないでよー。だって本当にそっくりだったんだもん、お父さんに」
ただ顔を顰めるだけだった黒鋼に、気を悪くしたと思ったのか、ファイは苦笑しながら肩をすくめた。それから、黒鋼の方を見上げて右目を細める。
「本当に久しぶりだねー。昔からおっきかったけど、こんなに伸びてるなんて思わなかったなー」
「てめぇもな」
「でもまだまだチビだって言わないのー?」
からかうような言い方に少しムッとして睨むと、ファイは声を上げて笑った。
子供の頃は、背が伸びないファイをからかって遊ぶのが好きだった。小さな唇を尖らせる様が可愛かったから。頭をグリグリと撫でてやると、高い声で嬉しそうに笑っていたっけ。
全てがもう遠い過去になってしまった。今ではもう、気軽に手を伸ばすことも出来ない。
しかしそれをきっかけに、二人は懐かしい思い出話をポツリポツリと語り合った。それは本当に何気ないことばかりで、決して確信には触れないけれど。
そうしているうちに、少しだけ昔に戻ったような気がしてきた。もしかしたら黒鋼だけが妙な罪悪感に苛まれていただけで、ファイにしてみれば何でもないことだったのかもしれない。そんな気すらしてしまう。
ふと、今ならばあの中三の夏の夜のことを、謝ることが出来るかもしれないとも思った。だが下手に蒸し返すのも、逆に愚かしいことのように思える。全ては終わってしまったことなのだと、そう感じた。
「ばあさんも、元気でやってんのか」
結局、口から出たのは当たり障りのない問いかけだった。ファイはほんの僅かの間を空けたあと、どことなくぼんやりと「うん」という答えを返してきた。何か他のことを考えているようにも見える素振りのあと、逆に問われる。
「ねぇ、学校どう? 勉強とか遊ぶ時間とか、やっぱ色々厳しいのー?」
少し違和感を覚える。考えすぎと言われればそれまでだったが、話をはぐらかされたような気がした。幼い頃は大好きなおばあちゃんのこととなれば、いつまでも夢中になって話していたのに。
ふと嫌な予感がしたが、もしその通りならば両親が真っ先に知らせてくるはずだと、自分に言い聞かせる。
「いや、割と普通だ。自由にやってる」
「へー、そうなんだー。あ、じゃあ……じゃあさ、好きな子とか、できたー?」
それはファイにとっては何気ない質問だったのだと思う。だが黒鋼にとっては違った。思わず押し黙ってしまったことに、舌打ちをしたい思いに駆られる。
隠すようなことなんて、何ひとつない。黒鋼一人が馬鹿みたいに意識していただけなのだ。ファイにとって、黒鋼はただの幼馴染に過ぎないのだから。
柔らかく微笑む、蘇摩の顔が思い浮かんだ。短く「ああ」と答える。ファイは細長く続く道の先をまっすぐに見詰めていた。
「昔からモテてたもんねー。きっと凄い美人さんだねぇ」
「……どうだろうな」
あまり長く続けていたい会話ではなかった。黒鋼は口を閉ざし、ファイが次に言葉を発するまで、暫くは沈黙が続いた。ひぐらしが鳴いている。
「ねぇ、そういえばいつまでこっちにいれるのー?」
黒鋼はまたしても「ああ」と短く返事をする。
「明日には戻る」
「え? もっとゆっくりしてけばいいのにー」
「いろいろな」
そっか、と短く返事をしたファイに少し胸が痛んだ。けれど、もともと長居をするつもりはなかったのは事実だった。
「ここでいい」
黒鋼の家までは、まだ少し距離があった。だがもうじき完全に日が暮れる。ファイは頷くと足を止めた。橙の下で見る彼の瞳は、やはり透き通っていて美しかった。これで本当に見納めのような、そんな気がする。
「じゃあね」
「ああ」
「元気で」
「おまえもな」
またね、とファイは言わないし、黒鋼も、またな、とは言わなかった。
会わない間に、心の距離は取り返しがつかないところまで広がっていたのかもしれない。あの頃のように近くにいてさえも、二人の間には計り知れない隔たりが確かに存在していた。こうして会おうと思えばいつだって会いに来られたはずなのに、それをしなかったことがその証拠になっている気がした。
ファイは、こんな自分を少しでも待っていてくれたのだろうか。
互いが互いの背を見送るでもなく、それぞれの家族が待つ家へと向けて歩み出す。振り返るか否かを、黒鋼は一歩一歩確かに足を進めながらも迷っていた。
そんな葛藤の最中、ふいに背中に声がかかる。
「黒たん」
懐かしい呼び方に、黒鋼は迷いを押しやり振り返ろうとした。だが、すかさずそれを制される。
「そのままでいいよ。振り向かないで」
そう言われてしまっては、黒鋼にはただ足を止めている以外に術はなかった。
「聞いても、いい?」
「……なんだ」
「その人のこと、大事?」
蘇摩のことだ。黒鋼は、やっぱり「ああ」と短く答える。
「大切だ」
「大好きなんだねー」
咄嗟に何も言えなかった。なぜ答えに窮してしまったのだろう。好きじゃなければ一緒にいたいとも思わないし、抱いたりもしない。
きっかけはどうあれ、黒鋼にとって今や彼女はとても大切な存在だった。
不自然な沈黙のあと、また短く返事をした。
「――好きだ」
それは事実だった。だけど、本当は。
「そっかぁ」
本当は、ファイに向けて言いたい言葉だったはずなのに。一番伝えたかった想いのはずなのに。それを自分は今、彼に背を向けながら他の人間に向けて告げている。滑稽だった。
もしかしたら、ファイの問いかけに答えることで、自分の中で決着をつけたかったのかもしれない。ここで本当に終わらせることが出来るなら、それでいいと。
「オレは」
風が吹いた。温い風だった。一瞬、虫の声が止んだ。
「君が好きだった」
黒鋼は目を見開き、己の耳を疑った。振り向こうとして、身体が動かない。ファイはなおも続けた。
「君に、恋をしていたよ」
再びひぐらしが切ない声を上げた。まるで全身を固く縛り付けられたように、身動きが取れなかった。
彼は今どんな顔をしているのか。笑っているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。なぜ、今この瞬間それを告げるのだろうか。
ファイにとって、自分はただのおせっかいで過保護な幼馴染であると同時に、嘘つきで薄情な人間に過ぎないのではなかったのか。彼の告白に対して、なにをどう答えてやればいいのだろうか。今更、何を言えばいいのだろうか。
けれどすぐに悟った。これで終わらせるためだ。今この瞬間、全てが終わるから。
本当は少しだけ疲れていた。ファイを想い続けることに。その想いの深さに。心をすり減らすことに。それはきっとファイも同じだったのだ。だから彼は真実を告げた。自分の気持ちに、決着をつけるために。
黒鋼は、知らず込められていた身体の力をふっと抜いた。金縛りのような感覚は消えていた。それでも振り返らなかった。自分の意思で。
「俺もおまえが好きだった。ガキの頃から、ずっと」
ファイが笑った気配がした。
「なーんだー。両思いだったんだねー、オレたち」
「……そうみてぇだな」
両思い。黒鋼も、自然と口元を緩めた。馬鹿みたいだと思った。
この恋は気がついた瞬間には自らの手で幕を引いたはずだった。けれど、もしかしたらまだ始まってすらいなかったのかと思う。結局はただの独りよがりだった。今、このときまでは。
黒鋼とファイ。二人の恋はたった今、明るみになったと同時に、終わってしまった。
「さよなら」
「ああ」
「さよなら、黒鋼」
――黒鋼。
その名は本当の意味で幕の下りる、最後の合図だったのかもしれない。
一度も振り返らないまま、黒鋼はただ彼の気配が消えて行くのを背中に感じていた。
何も変わっていないはずだった。家族も、景色も、虫の声や夕暮れの橙色さえも。幼かった自分達は、この景色の中を無邪気に手と手を繋いで歩いていたはずなのに。
黒鋼は、彼が完全に行ってしまったことを察すると、自らも足を踏み出した。どこまでも果てしなく、記憶の中と少しも変わらぬ景色の中。この懐かしさから、早く遠ざかりたいと思った。
季節は幾度も巡りながら繰り返してゆくけれど、この夏は一度きりだ。
儚く叫び続ける夏の虫達さえも、繰り返すように新しく生まれては、死んでゆく。同じ生が二度生まれることは決してない。たった一秒の時間でさえ、やり直すことは叶わない。
あの頃も、そして今も。永遠に、それはもう黒鋼の手の届かない場所にある。
――黒たん。
幼い声に、向日葵が咲いたような眩しい笑顔に、美しい思い出に。
黒鋼は、幕を下ろした。
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