「来て、甲洋」
煮えくり返るような熱情に頭をクラクラとさせながら、甲洋はシャツを脱いで乱暴に投げ捨てた。
両手を小ぶりな尻へと這わせ、遠慮がちにゆるゆると揉みしだいてみると、操が「あん」と可愛らしい声をあげながら腰を揺らす。甲洋は息を荒げて喉を鳴らし、辛抱堪らず自身の切っ先を濡れた孔にあてがった。
「あっ、あぁ……!」
操の背が弓なりに美しい曲線を描いた。細腰を掴みながらゆっくりと前進させ、徐々に欲望を飲み込ませていく。熱い締めつけに再び襲われ、その快感にピリピリと皮膚を粟立たせた。
「今度は、ぁ、好きに動いて、いい、よ」
多分これ以上は入らないというところまで収めきったところで、操が甲洋を振り向きながら言った。甲洋は小さく「ん」と頷くと、不器用に腰を前後に動かしてみる。時おりズルリと抜けてしまいそうになりながら、それでもゆっくりと確かめるようにナカを穿った。
「あっ、ぁんっ! あっ、きもち、ぁ、いい……っ!」
操は淫らに腰を振り、あられもない声で甲洋を煽る。その反応は少しずつ大胆になる動きに合わせて、どんどん大きくなっていった。
「こう、よッ、すご、い! 上手……アッ、あぁっ、んぅっ!」
「は……っ、来主……、本当に、いい?」
「あは、ん、ぁッ、なん、でぇ? なんで、聞くのぉ?」
操が喘げば喘ぐほど、どうしてか焦りが生じはじめた。さっきまでは感動を覚えていたはずの淫らな反応に、苛立ちすら込み上げてくる。
甲洋が抱きたいのは【来主操】だ。【来栖ミサオ】のファンとして破格のサービスを享受するだけでは、すでに満足できなくなっていた。
だからわざとらしいリップサービスに腹が立つ。技術もへったくれもない男の腰使いに、あたかも感じたフリをする彼に。
「んぁっ、えっ、うわっ!?」
甲洋は操の腹に腕を回し、そのまま持ち上げるようにしながら立ち上がった。繋がった状態で器用にベッドに乗り上げると、ドスンと胡座をかいて背面座位の体勢をとる。
「な、なに? どうしたの急に?」
突然の体位変更に、操が首をひねって甲洋を見上げながら目を白黒させている。甲洋はなにも答えず、ベッドのスプリングの力を借りて下から操の身体を突き上げた。
「あはぁッ、ん! やぅ、ぁ、奥まで、すご、い……!」
自重で腹の奥を突かれることに多少の苦しさはあっても、どこかわざとらしい喘ぎに大きな変化はなかった。それでも操の性器はずっと勃起したまま形を保っていて、決して感じていないわけではない。だけどそれは彼がこなれているからで、甲洋が与える刺激は極致に至るほどの決定打には欠けている。
だったら仕掛けてやろうじゃないかと、甲洋は両手を薄っぺらい胸に這わせた。
「まっ、そこだめだって!」
ギクリと身を強張らせ、顔色を変えた操が甲洋の手を振り払おうとするのを、腰を揺らすことで遮ってやる。
「ぁうっ! ぁ、や……っ!」
人差し指で引っ掻くようにして何度も弾き、さらに親指を添えて摘み上げる。こよりを作る要領でひねりを加えながら、きゅっと強めに引っ張ってみた。
「やぁっ、ぁ、やめて、そこや……乳首、やだから……っ」
操の反応が明らかに変化した。やだやだと首を振り、弱々しく甲洋の両手を掴みながら切羽詰まった声をあげる。その間も腰をテンポよく動かし続けていると、とある一点を突かれた操の身体がビクンと大きく跳ね上がった。
「ッ、ぁ、ひっ……ッ!?」
「……今の?」
赤くなった耳に唇を押しつけて、吐息混じりに問いかけた。操はしまったという顔をしながら怯えた瞳で甲洋を見る。
「ゃ……だめ……」
蚊の鳴くような可愛い声だった。ゾクリとした感覚を覚え、加虐心に火がついてしまう。
少しずつ少しずつ角度を変えて器用に穿ちながら、甲洋が見つけたのは操が隠していた大事な場所だ。直腸内部の前立腺と、そのさらにもう少し奥。膀胱の後ろ側にあたる精のうを、甲洋の先端がいい具合にくじったようだった。
知識程度にしかなかったが、そこは男が女になってしまう場所なのだ。行為に慣れているこの身体なら、そこで得られる快感もすでに知っているのではないかという予想が当たった。
どうしてか感じすぎることを避けているこの子にとって、乳首と同様に秘めておきたかった場所のはずだ。甲洋は胸を踊らせ、口元に笑みを浮かべる。
「見つけたよ」
甲洋は操の腰を掴むと、見つけたポイントを意識しながら腰を揺さぶる。操は皮膚を総毛立たせて、逃げるように両手を前につくと指先や爪先でもがくようにシーツを引っ掻く。
「ヒ、ぃっ! やめ、やめてっ、ぁッ、そこやだ! そこ好きじゃない!」
やめてやめてと繰り返し叫びながら、操は嫌々と首を振って涙を流した。白い肌は余すところなく赤く染まって、どっと汗がふきだしている。
甲洋は胡座を崩すと膝をつき、しっかりと腰を固定しながらそこを執拗に攻め立てた。操の小さな屹立が、揺さぶられるリズムに合わせてぷるんぷるんと健気に跳ねる。先端からは絶え間なく蜜が溢れて、真っ白のシーツにシミを作っていた。
「や、め、いやぁ……! そこダメ、ダメなのぉ……っ!」
「どうして?」
「だって、だってぇ、ぁッ、ひん……ッ、ぁ、こわく、なっちゃう、からぁ」
「気持ちいいのが怖い?」
操は何度もこくこくと首を縦に振った。声は小さく掠れてすすり泣きに近くなっている。身体にも力が入っていない。骨を抜き取ったみたいにぐったりとして、シーツにしがみつくだけになってしまった。
「可愛いな、お前」
感じすぎるのが怖いだなんて。そんなことを言われたら、もっとめちゃくちゃにしてやりたくなる。こんなサディステックな一面が眠っていたことに、自分自身がいちばん驚いていた。
甲洋は動きを止めず、さらに操の弱みを突いた。さっきとは打って変わり、拙かった腰使いも一度コツを掴んでしまえばこっちのものだ。
「ひうぅ、ぁ……っ、なん、でぇ? やだって、言ってる、のにぃっ!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、操がきつく睨みつけてくる。本当に気が強い子だなと感心しながらも、そこがたまらない魅力だと感じた。
「好きに動いていいって、そう言ったのは来主だよ」
「~~ッ!」
操が青ざめて言葉を失くした。本人は次も先に甲洋をいかせて、さっさと終わらせるつもりだったのだろう。しかしそのアテは外れてしまった。
素人の童貞を相手に、楽しそうに腰を振っていた姿はもはや見る影もない。それは甲洋の中で抑圧されていた征服欲を、存分に満たしてくれる。
しかしそろそろお喋りをしている余裕はなかった。ひどく震えている身体を揺さぶりながら、自らも極致を追いかけはじめる。
「あひっ……! あ゛ぁあッ! ぅ、あ゛ ぁっ……!」
繕うことができなくなった喘ぎは、発情したメス犬が吠えているかのようだった。この声をあげさせているのが自分なのだという心地よさに酩酊しながら、圧倒的な高波が一気に押し寄せてくるのを感じた。
「や、イグっ、イっちゃ……ッ、きもぢいのイヤ、あ゛ぁッ、ぁ、ごわいの、きぢゃうぅ、あ゛っ、あぁぁ……!」
「来主っ、俺も、イク……!」
性急になった激しい動きに、操が一瞬ギクリと身を強張らせる。
「待って、待っ! ナカやだ! 抜いて、出し……ひうぅっ!」
張りつめた声が訴えるのを聞いて、理性では腰を引き抜こうとしたつもりだった。けれどそのときにはもう甲洋は電流のような快楽に飲まれていて、とても間に合うものではなかった。
操の背をぎゅうと抱いて、中に熱いしたたりを注ぎ込む。まだ残っていたのかと思うほどに、射精感は長く続いた。
「あ゛ ……ッ、あー……、ぁ──……ッ」
操は甲洋にきつく抱かれたまま内腿を痙攣させ、口端から唾液を滴らせながら呻きをあげた。赤い屹立の先端から、水のような薄い液体をプシュ、プシュ、と吐き出して、小刻みに痙攣している。
長すぎる絶頂感に瞳を虚ろにさせ、やがてとろとろ垂れ流すように射精してシーツをひどく汚した。
「くる、す」
映像の中でも見たことがないようなイキ方に、今さらながらに戸惑いを覚えながらゆっくりと引き抜いた。操の身体がくったりと横倒しになり、なおも断続的に痙攣を続けている。
すると赤く熟れきった孔から、甲洋が吐いた白濁がぷくぷくと泡立つように流れ落ちてきた。
「ッ……!」
その卑猥すぎる光景に息を呑んでいると、一瞬だけ気をやっていたらしい操が息を吹き返す。鼻をすすり、涙を流しながら甲洋を見上げた。
「ひどい、よぉ……やめてって、言ったのに……ナカで出すし……バカぁ……」
「…………」
ごめん、と言ったつもりだが、まともに言葉にはなっていなかった。
小さいくせにふっくらと丸みを帯びた尻の谷間から、精液はなおも溢れ続けている。エロい。エロすぎる。ぐつぐつと、また脳が煮えはじめた。
「ねぇ聞いてる? ねぇって……え、待って。なんで? なんでまた勃ってるの?」
「……ごめん」
今度はちゃんと言葉になった。だけど甲洋はどこか呆然としていて、濡れそぼる孔から目を離すことができないでいる。
「嘘でしょ!? ちょっと、待っ……!」
「ごめん」
復活を遂げてしまった甲洋を見て、操がサァッと青ざめる。シーツを掴んで逃げだそうとするが、腰が抜けているせいでうまく身動きがとれないようだった。甲洋は完全に目をすわらせて、再び操の身体に覆いかぶさる。
「ヒッ……!? もも、もう無理! 無理だって! ねぇ、君って絶倫!?」
──ごめん。
それしか言葉を知らないみたいに繰り返して、熱く蕩けきった蜜壺に再び切っ先を潜り込ませた。
*
なんてことをしてしまったのだろうか。
甲洋はキッチンでしゃがみ込み、頭を抱えながら幾度となく溜息をついていた。
遠くから聞こえてくるのは、操が浴びているシャワーの音だ。
もう一時間以上は出てこない。自分が出してしまったものを処理しているのだと思うといたたまれず、甲洋はじっとしていることができなかった。ジーンズ姿で上は裸のまま、せっせと床掃除をして、シーツを取り替え、それでもなお間がもたずに再びキッチンでミルクを温めている最中である。
完全に正気と理性を崩壊させていた甲洋は、あのあとも操をさんざん泣かせ、またナカに出してしまった。操はただ揺さぶられるだけの人形のようになっていて、その痛々しくもある姿にいっそう興奮させられた。
なんて歪んだ性癖だろう。あんなものが自分の中に眠っていたなんて想像もしていなかったし、底なしの性欲にも呆れ返るばかりだった。
「終わったよな、完全に……」
ただのファンでいたいなんて、そんなことを思いながらホットミルクを作っていた数時間前。こんなことになるなんて思いもしなかった。
今はやらかしてしまったことへの虚無感に苛まれるばかりだ。操が出てきたら、なんと言えばいいか分からない。ただひとつ言えるのは、自分にはもうファンでいる資格はないということだけだった。
頭上からくつくつという音が聞こえて、甲洋は生気のない瞳を上げる。ミルクが煮えた。今さらこんなものを作ったところでなんになるだろう。それでも常備してある蜂蜜をたっぷり入れて、カップに注ぐとまた溜息を漏らした。
「うぅ~、もう最悪~……」
ちょうどのタイミングで、甲洋の部屋着を着た操が脱衣所から戻ってくる。サイズが大きいせいで、シャツやルームパンツの袖と裾が少し余っていた。
甲洋はギクリと身を強張らせながらも、壁に手をついて中腰になっている操に駆け寄り、その肩を抱いて支えた。ベッドまで連れていくと、彼はげっそりとしながら「もうダメ、眠い」と言って倒れ込んでしまう。
いっそこのまま眠ってもらったほうがいいような気がしたが、一応はキッチンへ戻ると熱々のカップを持ってきた。
「来主……よかったらこれ……」
「んぁ~?」
気の抜けた声をあげ、操が甲洋を見上げた。蜂蜜とミルクの匂いに鼻をスンスンとさせて、少しだけ表情を和らげる。
「飲むよ。好きだもん」
「熱いから、気をつけて」
「ん、ありがと」
にこりと笑って身を起こし、ベッドの上にぺたりと座り込んだ操は甲洋の手からカップを受け取った。両手で持って息をふきかけ、小さく口を窄めながらチビチビと飲みはじめる。
甲洋は床に正座してその様子を静かに見つめていたが、やがて項垂れると「ごめん」と言った。
「なんと言ったらいいか……とにかく、ごめん」
合意の上だったのは最初のうちだけだ。あとはすべて、自分本位にやりたい放題やってしまった。
操は丸い目で甲洋を見た。それから、きゅっと眉間にシワを寄せる。
「気持ちよすぎるのは、あまり好きじゃない。おれがおれじゃなくなるみたいで、怖くなるから」
「……うん」
「中出しも、気持ち悪いから嫌なんだ」
「……申し訳ない」
「撮影でだってしないよ、絶対。してるように見せてるだけ」
「本当にごめん……」
項垂れたまま、とにかく謝るしかなかった。他に言葉が見つからない。
すると操が飲みかけのホットミルクをそっと差しだしてきた。もう十分らしい。黙って受け取ってテーブルに置くと、しおしおと操を見上げる。叱られた飼い犬にでもなったような気分だ。
操は鼻からふぅんと息を漏らして、ベッドの縁をポンポンと叩いた。来い、という指示に従い、立ち上がると腰を下ろして身体を向ける。すると突然、ぎゅっと抱きつかれて目を見開いた。
「く、来主?」
「君のは気持ち悪くなかったから、いいよ」
「!」
「お腹は苦しかったけど」
「……ごめん」
操は甲洋の胸に埋めていた顔をあげ、ふにゃりとした笑顔を浮かべた。
「次はちゃんとゴムつけなくちゃね」
「へっ?」
次──とは、どういう意味だろう。測りかねて戸惑う甲洋が喉を詰まらせていると、遠くからスマホが着信を告げる音が鳴り響いた。
「あ、おれのだ」
「待ってて」
立ち上がった甲洋は壁にかけてあるロングダウンのポケットを探り、スマホを手にすると操に差しだした。彼は「ありがとう」と言ってそれを受け取り、ディズプレイに指先をスライドさせる。
「もしもし? うん、おれ」
おそらくマネージャーからの連絡だろう。操が話している間、甲洋は再びベッドの縁に腰をおろして黙り込んだ。頭の中は彼が言った「次」というワードでいっぱいになっている。
言葉通りに受け取るならば、またこの次があるということなのだろうか。
(……ないだろ、さすがに)
都合のいい解釈をしかけて、すぐにありえないと思いなおす。からかわれているだけかもしれないし、あれだけの無体を働いた自分がそれを期待するなんて、おこがましいにもほどがある。
「うん、わかった! じゃあね!」
やがて通話を終えた操がホッと息をついた。
「よかったぁ」
「なんだって?」
「今夜はもう遅いから、明日の朝に管理人さんに連絡してくれるって」
そう言いながら、操はごく自然に甲洋の肩にもたれかかってきた。まるで恋人同士みたいだなと胸をドキリとさせながら、甲洋もつい流れに任せて操の肩を抱いてしまう。
なんだか本当に恋人にでもなったような気になって、甲洋は完全に舞い上がっている自分を自覚した。これでは期待するなというほうがどうかしている。
「……仕事、もうやめれば?」
「え?」
「ッ! ぁ、いや……」
咄嗟に吐き出してしまった言葉に、自分で動揺した。それは束縛したい感情の現れで、言ってから激しく後悔する。甲洋はそんなことを言える立場ではないのだ。操にとってはただの隣人で、大勢いるファンのなかの一人に過ぎない。
何度目になるか分からない「ごめん」を口にすると、操がふふっと楽しげな声をあげて甲洋を見上げた。
「君ってさ、一回エッチしたらすぐに彼氏面するタイプ?」
「……だからごめんって。忘れて」
やっぱりからかわれているんだなと、落胆して顔を背けた甲洋は操の頬が赤くなっていることに気づかなかった。彼は少しだけ戸惑ったような表情すら浮かべているのだけれど、甲洋が横目をチラリと走らせるころには顔をうつむけてしまっていた。
「別にね、好きでしてるんじゃないんだ。この仕事」
「……それって」
やはり、なにか重たい事情があるということだろうか。
いつも想像を巡らせていた。家庭の事情なのではないかとか、悪い男に騙されているのではないかとか。あながち意味のない妄想というわけでもなかったのかもしれない。甲洋は痛ましい表情を浮かべながら操を見た。うつむいている姿に胸が痛む。
ずっと思っていた。自分なら決して悲しい思いはさせない。なにがあっても苦労なんかかけないし、絶対に守ってみせるのにと。
(俺にできることが、なにかあるかもしれない)
もし操が、心のどこかでは助けを求めているのなら。その理由さえ、話してくれたなら──
「だってお金いっぱいもらえるんだもん。お金があったら、新しい服だっていっぱい買えるでしょ?」
顔をあげた操は、実にのんきな笑顔を浮かべてそう言った。強がっているのかと思ったが、彼の表情にはいっそ清々しいほど悲愴感がない。
一人で勝手に盛り上がっていた甲洋は、そのあっけらかんとした様子に肩透かしを食らった気分になる。
「そ、それだけ……?」
「そうだよ? ねぇ、なんかガッカリしてない?」
「いや別に……まぁ、ちょっとだけ」
つい本音が漏れたが、操にその意味は伝わらなかったようで安堵する。
逆によかったのだ。後ろ暗いものや悲しい事情がないのなら、それに越したことはない。なのにどうして、こんなに複雑なのだろう。
けっきょく下心があるからだろうか。否定しきれず、落ち込んだ。
「でもね、言われなくても、実はもう辞めることになってるんだ」
「え?」
思いも寄らない言葉に、甲洋は目を瞬かせた。操は打って変わって顔色を悪くして、また顔をうつむける。
「ストーカーのせい。だから前の部屋にもいられなくなった」
「ストーカー?」
顔をしかめた甲洋に、操はこくんと頷いた。
「変な手紙が来たり、後ろからつけられたり。別に珍しいことではないけどさ」
仕事柄、顔を出している以上は避けられないこと、ではあるのかもしれない。しかし操についていたストーカーは、それだけの行為にとどまらなかった。
ある日、操が仕事を終えて帰宅すると、見知らぬ男が部屋に上がりこんでいたというのだ。しかもベッドの下に隠れ潜んでいた。就寝時を襲われ、危うくレイプされかけたのだと。
ベッドの下の男。まるで都市伝説だ。
「ギリギリ逃げたから大丈夫だったけど、犯人はまだ捕まってない」
その話を聞いて、甲洋は背筋が凍りつくのと同時に激しい怒りを覚えた。どれほど怖い思いをしたのだろうかと、考えるだけでストーカーへの殺意がみなぎる。思わず肩を抱いている手に力を込めると、「痛いよぅ」と言って操が笑った。
だいたいこの子もこの子だ。そんな目にあったというのに、一人で夜にフラフラと出歩くなんて。不用心にもほどがある。
(ああもう!)
狂おしいほどの庇護欲に、胸を掻きむしられるような思いがした。荒れ狂う甲洋の感情も知らず、操はぷぅっと唇を尖らせている。
「だからここに引っ越してきたんだ。もうあんな目にあうのは嫌だから、仕事も辞めるよ。すぐじゃないけど」
「すぐには無理?」
「だって住むところがないし」
今の部屋は事務所が提供してくれているもので、仕事を辞める以上は住み続けることができないのだと、操は言った。
「だったら……」
俺のところに来ればいい。
そう言いかけて言葉を飲み込む。どうせまた「彼氏面してる」と笑われておしまいだ。当たって砕けるだけの度胸がない甲洋は、歯痒い気持ちに無理やり蓋をするしかなかった。
「ふわぁ」
操が大きなあくびをする。目をしょぼしょぼとさせているので、甲洋はその身体をそっとベッドに横たえさせた。上掛けを引き上げてかぶせてやり、亜麻色の柔らかな髪を優しく撫でる。
「おやすみ」
「……ん」
操は微かに頷いたが、潤んだ瞳でゆっくりと瞬きをしながら甲洋の顔を見上げていた。眠気のせいか、頬がぽぅっと赤く染まっている。
こうして見ると、やっぱり幼い。ふと込み上げる愛しさに目を細めて笑う甲洋に、また少し、丸い頬が赤みを増した。
操は下唇を噛み締めて、ゴソゴソと上掛けの中から片腕を出した。ヘッドボードにもなっているスリムラックへと腕を伸ばすと、手探りでそこに置かれた甲洋の瓶底眼鏡を掴み取る。
「これ、やっぱりしてていいよ」
彼はそう言って、眼鏡を甲洋の胸に押しつけてきた。どうしてか不満そうに唇を尖らせ、きゅっと眉を吊り上げている。
「来主?」
受け取りながら、意図が分からず首を傾げた。
「おやすみ!」
操はいよいよ耳まで赤くしながら、上掛けを頭までかぶって甲洋に背中を向けてしまった。
まったく意味が分からない。かと言って、わざわざ起こしてまで問いかける気にもなれなかった。
(おかしな子だな)
苦笑しながらミノムシのように丸くなった背中を見つめる。
朝が来れば魔法が解けたみたいに、自分たちはただの隣人同士に戻るのだ。甲洋は相変わらず昼夜逆転の生活のなかで潜むように生きて、操は近い将来ここではないどこかに引っ越していく。
そこで彼がどんなふうに生きるのか、甲洋は知る由もない。
「このまま、そばにいられたらいいのに」
かすかに寝息が聞こえはじめたのをいいことに、素直な気持ちを言葉でなぞる。
「好きだよ、来主」
もう彼をミサオと呼ぶことはしない。甲洋のなかで来栖ミサオは薄くぼやけて、その輪郭を失っていた。
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煮えくり返るような熱情に頭をクラクラとさせながら、甲洋はシャツを脱いで乱暴に投げ捨てた。
両手を小ぶりな尻へと這わせ、遠慮がちにゆるゆると揉みしだいてみると、操が「あん」と可愛らしい声をあげながら腰を揺らす。甲洋は息を荒げて喉を鳴らし、辛抱堪らず自身の切っ先を濡れた孔にあてがった。
「あっ、あぁ……!」
操の背が弓なりに美しい曲線を描いた。細腰を掴みながらゆっくりと前進させ、徐々に欲望を飲み込ませていく。熱い締めつけに再び襲われ、その快感にピリピリと皮膚を粟立たせた。
「今度は、ぁ、好きに動いて、いい、よ」
多分これ以上は入らないというところまで収めきったところで、操が甲洋を振り向きながら言った。甲洋は小さく「ん」と頷くと、不器用に腰を前後に動かしてみる。時おりズルリと抜けてしまいそうになりながら、それでもゆっくりと確かめるようにナカを穿った。
「あっ、ぁんっ! あっ、きもち、ぁ、いい……っ!」
操は淫らに腰を振り、あられもない声で甲洋を煽る。その反応は少しずつ大胆になる動きに合わせて、どんどん大きくなっていった。
「こう、よッ、すご、い! 上手……アッ、あぁっ、んぅっ!」
「は……っ、来主……、本当に、いい?」
「あは、ん、ぁッ、なん、でぇ? なんで、聞くのぉ?」
操が喘げば喘ぐほど、どうしてか焦りが生じはじめた。さっきまでは感動を覚えていたはずの淫らな反応に、苛立ちすら込み上げてくる。
甲洋が抱きたいのは【来主操】だ。【来栖ミサオ】のファンとして破格のサービスを享受するだけでは、すでに満足できなくなっていた。
だからわざとらしいリップサービスに腹が立つ。技術もへったくれもない男の腰使いに、あたかも感じたフリをする彼に。
「んぁっ、えっ、うわっ!?」
甲洋は操の腹に腕を回し、そのまま持ち上げるようにしながら立ち上がった。繋がった状態で器用にベッドに乗り上げると、ドスンと胡座をかいて背面座位の体勢をとる。
「な、なに? どうしたの急に?」
突然の体位変更に、操が首をひねって甲洋を見上げながら目を白黒させている。甲洋はなにも答えず、ベッドのスプリングの力を借りて下から操の身体を突き上げた。
「あはぁッ、ん! やぅ、ぁ、奥まで、すご、い……!」
自重で腹の奥を突かれることに多少の苦しさはあっても、どこかわざとらしい喘ぎに大きな変化はなかった。それでも操の性器はずっと勃起したまま形を保っていて、決して感じていないわけではない。だけどそれは彼がこなれているからで、甲洋が与える刺激は極致に至るほどの決定打には欠けている。
だったら仕掛けてやろうじゃないかと、甲洋は両手を薄っぺらい胸に這わせた。
「まっ、そこだめだって!」
ギクリと身を強張らせ、顔色を変えた操が甲洋の手を振り払おうとするのを、腰を揺らすことで遮ってやる。
「ぁうっ! ぁ、や……っ!」
人差し指で引っ掻くようにして何度も弾き、さらに親指を添えて摘み上げる。こよりを作る要領でひねりを加えながら、きゅっと強めに引っ張ってみた。
「やぁっ、ぁ、やめて、そこや……乳首、やだから……っ」
操の反応が明らかに変化した。やだやだと首を振り、弱々しく甲洋の両手を掴みながら切羽詰まった声をあげる。その間も腰をテンポよく動かし続けていると、とある一点を突かれた操の身体がビクンと大きく跳ね上がった。
「ッ、ぁ、ひっ……ッ!?」
「……今の?」
赤くなった耳に唇を押しつけて、吐息混じりに問いかけた。操はしまったという顔をしながら怯えた瞳で甲洋を見る。
「ゃ……だめ……」
蚊の鳴くような可愛い声だった。ゾクリとした感覚を覚え、加虐心に火がついてしまう。
少しずつ少しずつ角度を変えて器用に穿ちながら、甲洋が見つけたのは操が隠していた大事な場所だ。直腸内部の前立腺と、そのさらにもう少し奥。膀胱の後ろ側にあたる精のうを、甲洋の先端がいい具合にくじったようだった。
知識程度にしかなかったが、そこは男が女になってしまう場所なのだ。行為に慣れているこの身体なら、そこで得られる快感もすでに知っているのではないかという予想が当たった。
どうしてか感じすぎることを避けているこの子にとって、乳首と同様に秘めておきたかった場所のはずだ。甲洋は胸を踊らせ、口元に笑みを浮かべる。
「見つけたよ」
甲洋は操の腰を掴むと、見つけたポイントを意識しながら腰を揺さぶる。操は皮膚を総毛立たせて、逃げるように両手を前につくと指先や爪先でもがくようにシーツを引っ掻く。
「ヒ、ぃっ! やめ、やめてっ、ぁッ、そこやだ! そこ好きじゃない!」
やめてやめてと繰り返し叫びながら、操は嫌々と首を振って涙を流した。白い肌は余すところなく赤く染まって、どっと汗がふきだしている。
甲洋は胡座を崩すと膝をつき、しっかりと腰を固定しながらそこを執拗に攻め立てた。操の小さな屹立が、揺さぶられるリズムに合わせてぷるんぷるんと健気に跳ねる。先端からは絶え間なく蜜が溢れて、真っ白のシーツにシミを作っていた。
「や、め、いやぁ……! そこダメ、ダメなのぉ……っ!」
「どうして?」
「だって、だってぇ、ぁッ、ひん……ッ、ぁ、こわく、なっちゃう、からぁ」
「気持ちいいのが怖い?」
操は何度もこくこくと首を縦に振った。声は小さく掠れてすすり泣きに近くなっている。身体にも力が入っていない。骨を抜き取ったみたいにぐったりとして、シーツにしがみつくだけになってしまった。
「可愛いな、お前」
感じすぎるのが怖いだなんて。そんなことを言われたら、もっとめちゃくちゃにしてやりたくなる。こんなサディステックな一面が眠っていたことに、自分自身がいちばん驚いていた。
甲洋は動きを止めず、さらに操の弱みを突いた。さっきとは打って変わり、拙かった腰使いも一度コツを掴んでしまえばこっちのものだ。
「ひうぅ、ぁ……っ、なん、でぇ? やだって、言ってる、のにぃっ!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、操がきつく睨みつけてくる。本当に気が強い子だなと感心しながらも、そこがたまらない魅力だと感じた。
「好きに動いていいって、そう言ったのは来主だよ」
「~~ッ!」
操が青ざめて言葉を失くした。本人は次も先に甲洋をいかせて、さっさと終わらせるつもりだったのだろう。しかしそのアテは外れてしまった。
素人の童貞を相手に、楽しそうに腰を振っていた姿はもはや見る影もない。それは甲洋の中で抑圧されていた征服欲を、存分に満たしてくれる。
しかしそろそろお喋りをしている余裕はなかった。ひどく震えている身体を揺さぶりながら、自らも極致を追いかけはじめる。
「あひっ……! あ゛ぁあッ! ぅ、あ゛ ぁっ……!」
繕うことができなくなった喘ぎは、発情したメス犬が吠えているかのようだった。この声をあげさせているのが自分なのだという心地よさに酩酊しながら、圧倒的な高波が一気に押し寄せてくるのを感じた。
「や、イグっ、イっちゃ……ッ、きもぢいのイヤ、あ゛ぁッ、ぁ、ごわいの、きぢゃうぅ、あ゛っ、あぁぁ……!」
「来主っ、俺も、イク……!」
性急になった激しい動きに、操が一瞬ギクリと身を強張らせる。
「待って、待っ! ナカやだ! 抜いて、出し……ひうぅっ!」
張りつめた声が訴えるのを聞いて、理性では腰を引き抜こうとしたつもりだった。けれどそのときにはもう甲洋は電流のような快楽に飲まれていて、とても間に合うものではなかった。
操の背をぎゅうと抱いて、中に熱いしたたりを注ぎ込む。まだ残っていたのかと思うほどに、射精感は長く続いた。
「あ゛ ……ッ、あー……、ぁ──……ッ」
操は甲洋にきつく抱かれたまま内腿を痙攣させ、口端から唾液を滴らせながら呻きをあげた。赤い屹立の先端から、水のような薄い液体をプシュ、プシュ、と吐き出して、小刻みに痙攣している。
長すぎる絶頂感に瞳を虚ろにさせ、やがてとろとろ垂れ流すように射精してシーツをひどく汚した。
「くる、す」
映像の中でも見たことがないようなイキ方に、今さらながらに戸惑いを覚えながらゆっくりと引き抜いた。操の身体がくったりと横倒しになり、なおも断続的に痙攣を続けている。
すると赤く熟れきった孔から、甲洋が吐いた白濁がぷくぷくと泡立つように流れ落ちてきた。
「ッ……!」
その卑猥すぎる光景に息を呑んでいると、一瞬だけ気をやっていたらしい操が息を吹き返す。鼻をすすり、涙を流しながら甲洋を見上げた。
「ひどい、よぉ……やめてって、言ったのに……ナカで出すし……バカぁ……」
「…………」
ごめん、と言ったつもりだが、まともに言葉にはなっていなかった。
小さいくせにふっくらと丸みを帯びた尻の谷間から、精液はなおも溢れ続けている。エロい。エロすぎる。ぐつぐつと、また脳が煮えはじめた。
「ねぇ聞いてる? ねぇって……え、待って。なんで? なんでまた勃ってるの?」
「……ごめん」
今度はちゃんと言葉になった。だけど甲洋はどこか呆然としていて、濡れそぼる孔から目を離すことができないでいる。
「嘘でしょ!? ちょっと、待っ……!」
「ごめん」
復活を遂げてしまった甲洋を見て、操がサァッと青ざめる。シーツを掴んで逃げだそうとするが、腰が抜けているせいでうまく身動きがとれないようだった。甲洋は完全に目をすわらせて、再び操の身体に覆いかぶさる。
「ヒッ……!? もも、もう無理! 無理だって! ねぇ、君って絶倫!?」
──ごめん。
それしか言葉を知らないみたいに繰り返して、熱く蕩けきった蜜壺に再び切っ先を潜り込ませた。
*
なんてことをしてしまったのだろうか。
甲洋はキッチンでしゃがみ込み、頭を抱えながら幾度となく溜息をついていた。
遠くから聞こえてくるのは、操が浴びているシャワーの音だ。
もう一時間以上は出てこない。自分が出してしまったものを処理しているのだと思うといたたまれず、甲洋はじっとしていることができなかった。ジーンズ姿で上は裸のまま、せっせと床掃除をして、シーツを取り替え、それでもなお間がもたずに再びキッチンでミルクを温めている最中である。
完全に正気と理性を崩壊させていた甲洋は、あのあとも操をさんざん泣かせ、またナカに出してしまった。操はただ揺さぶられるだけの人形のようになっていて、その痛々しくもある姿にいっそう興奮させられた。
なんて歪んだ性癖だろう。あんなものが自分の中に眠っていたなんて想像もしていなかったし、底なしの性欲にも呆れ返るばかりだった。
「終わったよな、完全に……」
ただのファンでいたいなんて、そんなことを思いながらホットミルクを作っていた数時間前。こんなことになるなんて思いもしなかった。
今はやらかしてしまったことへの虚無感に苛まれるばかりだ。操が出てきたら、なんと言えばいいか分からない。ただひとつ言えるのは、自分にはもうファンでいる資格はないということだけだった。
頭上からくつくつという音が聞こえて、甲洋は生気のない瞳を上げる。ミルクが煮えた。今さらこんなものを作ったところでなんになるだろう。それでも常備してある蜂蜜をたっぷり入れて、カップに注ぐとまた溜息を漏らした。
「うぅ~、もう最悪~……」
ちょうどのタイミングで、甲洋の部屋着を着た操が脱衣所から戻ってくる。サイズが大きいせいで、シャツやルームパンツの袖と裾が少し余っていた。
甲洋はギクリと身を強張らせながらも、壁に手をついて中腰になっている操に駆け寄り、その肩を抱いて支えた。ベッドまで連れていくと、彼はげっそりとしながら「もうダメ、眠い」と言って倒れ込んでしまう。
いっそこのまま眠ってもらったほうがいいような気がしたが、一応はキッチンへ戻ると熱々のカップを持ってきた。
「来主……よかったらこれ……」
「んぁ~?」
気の抜けた声をあげ、操が甲洋を見上げた。蜂蜜とミルクの匂いに鼻をスンスンとさせて、少しだけ表情を和らげる。
「飲むよ。好きだもん」
「熱いから、気をつけて」
「ん、ありがと」
にこりと笑って身を起こし、ベッドの上にぺたりと座り込んだ操は甲洋の手からカップを受け取った。両手で持って息をふきかけ、小さく口を窄めながらチビチビと飲みはじめる。
甲洋は床に正座してその様子を静かに見つめていたが、やがて項垂れると「ごめん」と言った。
「なんと言ったらいいか……とにかく、ごめん」
合意の上だったのは最初のうちだけだ。あとはすべて、自分本位にやりたい放題やってしまった。
操は丸い目で甲洋を見た。それから、きゅっと眉間にシワを寄せる。
「気持ちよすぎるのは、あまり好きじゃない。おれがおれじゃなくなるみたいで、怖くなるから」
「……うん」
「中出しも、気持ち悪いから嫌なんだ」
「……申し訳ない」
「撮影でだってしないよ、絶対。してるように見せてるだけ」
「本当にごめん……」
項垂れたまま、とにかく謝るしかなかった。他に言葉が見つからない。
すると操が飲みかけのホットミルクをそっと差しだしてきた。もう十分らしい。黙って受け取ってテーブルに置くと、しおしおと操を見上げる。叱られた飼い犬にでもなったような気分だ。
操は鼻からふぅんと息を漏らして、ベッドの縁をポンポンと叩いた。来い、という指示に従い、立ち上がると腰を下ろして身体を向ける。すると突然、ぎゅっと抱きつかれて目を見開いた。
「く、来主?」
「君のは気持ち悪くなかったから、いいよ」
「!」
「お腹は苦しかったけど」
「……ごめん」
操は甲洋の胸に埋めていた顔をあげ、ふにゃりとした笑顔を浮かべた。
「次はちゃんとゴムつけなくちゃね」
「へっ?」
次──とは、どういう意味だろう。測りかねて戸惑う甲洋が喉を詰まらせていると、遠くからスマホが着信を告げる音が鳴り響いた。
「あ、おれのだ」
「待ってて」
立ち上がった甲洋は壁にかけてあるロングダウンのポケットを探り、スマホを手にすると操に差しだした。彼は「ありがとう」と言ってそれを受け取り、ディズプレイに指先をスライドさせる。
「もしもし? うん、おれ」
おそらくマネージャーからの連絡だろう。操が話している間、甲洋は再びベッドの縁に腰をおろして黙り込んだ。頭の中は彼が言った「次」というワードでいっぱいになっている。
言葉通りに受け取るならば、またこの次があるということなのだろうか。
(……ないだろ、さすがに)
都合のいい解釈をしかけて、すぐにありえないと思いなおす。からかわれているだけかもしれないし、あれだけの無体を働いた自分がそれを期待するなんて、おこがましいにもほどがある。
「うん、わかった! じゃあね!」
やがて通話を終えた操がホッと息をついた。
「よかったぁ」
「なんだって?」
「今夜はもう遅いから、明日の朝に管理人さんに連絡してくれるって」
そう言いながら、操はごく自然に甲洋の肩にもたれかかってきた。まるで恋人同士みたいだなと胸をドキリとさせながら、甲洋もつい流れに任せて操の肩を抱いてしまう。
なんだか本当に恋人にでもなったような気になって、甲洋は完全に舞い上がっている自分を自覚した。これでは期待するなというほうがどうかしている。
「……仕事、もうやめれば?」
「え?」
「ッ! ぁ、いや……」
咄嗟に吐き出してしまった言葉に、自分で動揺した。それは束縛したい感情の現れで、言ってから激しく後悔する。甲洋はそんなことを言える立場ではないのだ。操にとってはただの隣人で、大勢いるファンのなかの一人に過ぎない。
何度目になるか分からない「ごめん」を口にすると、操がふふっと楽しげな声をあげて甲洋を見上げた。
「君ってさ、一回エッチしたらすぐに彼氏面するタイプ?」
「……だからごめんって。忘れて」
やっぱりからかわれているんだなと、落胆して顔を背けた甲洋は操の頬が赤くなっていることに気づかなかった。彼は少しだけ戸惑ったような表情すら浮かべているのだけれど、甲洋が横目をチラリと走らせるころには顔をうつむけてしまっていた。
「別にね、好きでしてるんじゃないんだ。この仕事」
「……それって」
やはり、なにか重たい事情があるということだろうか。
いつも想像を巡らせていた。家庭の事情なのではないかとか、悪い男に騙されているのではないかとか。あながち意味のない妄想というわけでもなかったのかもしれない。甲洋は痛ましい表情を浮かべながら操を見た。うつむいている姿に胸が痛む。
ずっと思っていた。自分なら決して悲しい思いはさせない。なにがあっても苦労なんかかけないし、絶対に守ってみせるのにと。
(俺にできることが、なにかあるかもしれない)
もし操が、心のどこかでは助けを求めているのなら。その理由さえ、話してくれたなら──
「だってお金いっぱいもらえるんだもん。お金があったら、新しい服だっていっぱい買えるでしょ?」
顔をあげた操は、実にのんきな笑顔を浮かべてそう言った。強がっているのかと思ったが、彼の表情にはいっそ清々しいほど悲愴感がない。
一人で勝手に盛り上がっていた甲洋は、そのあっけらかんとした様子に肩透かしを食らった気分になる。
「そ、それだけ……?」
「そうだよ? ねぇ、なんかガッカリしてない?」
「いや別に……まぁ、ちょっとだけ」
つい本音が漏れたが、操にその意味は伝わらなかったようで安堵する。
逆によかったのだ。後ろ暗いものや悲しい事情がないのなら、それに越したことはない。なのにどうして、こんなに複雑なのだろう。
けっきょく下心があるからだろうか。否定しきれず、落ち込んだ。
「でもね、言われなくても、実はもう辞めることになってるんだ」
「え?」
思いも寄らない言葉に、甲洋は目を瞬かせた。操は打って変わって顔色を悪くして、また顔をうつむける。
「ストーカーのせい。だから前の部屋にもいられなくなった」
「ストーカー?」
顔をしかめた甲洋に、操はこくんと頷いた。
「変な手紙が来たり、後ろからつけられたり。別に珍しいことではないけどさ」
仕事柄、顔を出している以上は避けられないこと、ではあるのかもしれない。しかし操についていたストーカーは、それだけの行為にとどまらなかった。
ある日、操が仕事を終えて帰宅すると、見知らぬ男が部屋に上がりこんでいたというのだ。しかもベッドの下に隠れ潜んでいた。就寝時を襲われ、危うくレイプされかけたのだと。
ベッドの下の男。まるで都市伝説だ。
「ギリギリ逃げたから大丈夫だったけど、犯人はまだ捕まってない」
その話を聞いて、甲洋は背筋が凍りつくのと同時に激しい怒りを覚えた。どれほど怖い思いをしたのだろうかと、考えるだけでストーカーへの殺意がみなぎる。思わず肩を抱いている手に力を込めると、「痛いよぅ」と言って操が笑った。
だいたいこの子もこの子だ。そんな目にあったというのに、一人で夜にフラフラと出歩くなんて。不用心にもほどがある。
(ああもう!)
狂おしいほどの庇護欲に、胸を掻きむしられるような思いがした。荒れ狂う甲洋の感情も知らず、操はぷぅっと唇を尖らせている。
「だからここに引っ越してきたんだ。もうあんな目にあうのは嫌だから、仕事も辞めるよ。すぐじゃないけど」
「すぐには無理?」
「だって住むところがないし」
今の部屋は事務所が提供してくれているもので、仕事を辞める以上は住み続けることができないのだと、操は言った。
「だったら……」
俺のところに来ればいい。
そう言いかけて言葉を飲み込む。どうせまた「彼氏面してる」と笑われておしまいだ。当たって砕けるだけの度胸がない甲洋は、歯痒い気持ちに無理やり蓋をするしかなかった。
「ふわぁ」
操が大きなあくびをする。目をしょぼしょぼとさせているので、甲洋はその身体をそっとベッドに横たえさせた。上掛けを引き上げてかぶせてやり、亜麻色の柔らかな髪を優しく撫でる。
「おやすみ」
「……ん」
操は微かに頷いたが、潤んだ瞳でゆっくりと瞬きをしながら甲洋の顔を見上げていた。眠気のせいか、頬がぽぅっと赤く染まっている。
こうして見ると、やっぱり幼い。ふと込み上げる愛しさに目を細めて笑う甲洋に、また少し、丸い頬が赤みを増した。
操は下唇を噛み締めて、ゴソゴソと上掛けの中から片腕を出した。ヘッドボードにもなっているスリムラックへと腕を伸ばすと、手探りでそこに置かれた甲洋の瓶底眼鏡を掴み取る。
「これ、やっぱりしてていいよ」
彼はそう言って、眼鏡を甲洋の胸に押しつけてきた。どうしてか不満そうに唇を尖らせ、きゅっと眉を吊り上げている。
「来主?」
受け取りながら、意図が分からず首を傾げた。
「おやすみ!」
操はいよいよ耳まで赤くしながら、上掛けを頭までかぶって甲洋に背中を向けてしまった。
まったく意味が分からない。かと言って、わざわざ起こしてまで問いかける気にもなれなかった。
(おかしな子だな)
苦笑しながらミノムシのように丸くなった背中を見つめる。
朝が来れば魔法が解けたみたいに、自分たちはただの隣人同士に戻るのだ。甲洋は相変わらず昼夜逆転の生活のなかで潜むように生きて、操は近い将来ここではないどこかに引っ越していく。
そこで彼がどんなふうに生きるのか、甲洋は知る由もない。
「このまま、そばにいられたらいいのに」
かすかに寝息が聞こえはじめたのをいいことに、素直な気持ちを言葉でなぞる。
「好きだよ、来主」
もう彼をミサオと呼ぶことはしない。甲洋のなかで来栖ミサオは薄くぼやけて、その輪郭を失っていた。
←戻る ・ 次へ→
操は膝立ちになると甲洋の胸を軽く押した。たやすく身体を仰向けに転がされ、甲洋は身も心も完全に主導権を握られていることを痛感する。
しかしこちらはドのつく素人だ。下手に手を出して失敗するより、いっそプロの手に委ねてしまった方が──。
(……けっきょく乗り気なんじゃないか、俺)
こんなはずじゃなかった。下心なんて微塵もなかったはずなのだ。けれど本当にそうなのだろうかと、だんだん疑わしくなってきた。
だって本当に下心がないのなら、甲洋はとっくに操を退けているはずだ。それをしないのは、どこかで期待していたからではないだろうか。
現に自分の上に跨り、膝立ちになって服を脱ぎはじめる操を見て、甲洋は胸を踊らせているのだ。あの『来栖ミサオ』とセックスができる。初めてを捧げることができる。まさに夢のようなシチュエーション。VRでAV観賞をしているような気分にすらなってくる。
(うわ……)
ダウンとパーカーを脱ぎ捨てて、操の白い肌が惜しげもなく露わになった。発達しようがないぺたんこの胸に、淡桃の乳首が乗っている。少年らしい控えめな腰のくびれに、大きく喉を鳴らす。
操は自身のベルトに手をやって、素早く解くと前を寛げた。なんの躊躇いもなく下着ごとパンツをおろし、両膝と踵をそれぞれ引き抜いて裸になってしまう。
頭が沸騰した。普段はモザイクによって隠されている操の恥部が、今はなんの障害もなく目の前にさらされている。
そこには一切、毛が生えていなかった。
「……毛」
「ん? あ、うん。パイパンなんだ、おれ。ぜんぜん生えてこないの」
「ぱっ、ぱいぱ……て、天然の……?」
「そうだよ」
操のそこは、まるで生まれたての赤ん坊のようだった。いっそ粉ミルクの匂いがしてきてもおかしくないと思えるほど、幼く見える。
こんな子供みたいな身体で、この子は男たちの欲望を受け止めているのだ。そして自分は、それを性の捌け口にしている。甲洋だけじゃない。多くの男達が、この身体に欲情して自慰にふけっているのだ。
その裸体が、今は甲洋のためだけにさらされている。罪悪感と優越感が同時に込み上げ、いっそう興奮が増してしまった。
「挿れてもないうちからイッちゃわないでよ」
股の下で反り返って震えている肉棒を見下ろし、操が楽しそうに笑った。
彼は右手の人差し指と中指を自分の唇へと運び、甲洋に奉仕したときと同じように音を立ててしゃぶりはじめる。そのいやらしい光景を、甲洋は熱に浮かされた意識でぼうっと眺めた。
「んぁ……ぁ、んっ」
操は左手を甲洋の腹について体重を支えながら、濡らした指先を自身の奥まった場所へと伸ばした。なにをしているかは、考えなくても分かる。ちくちくと微かな音がするたびに、心臓が激しく脈を打つ。
操は少し苦しそうに顔をしかめ、むずがるような呻きを漏らした。
「やっぱりちょっと足りないな……ねぇ、ローションとかない?」
鈍った思考で一瞬考え、甲洋は首を左右に振った。この部屋にあるもので、なにか代わりになりそうなものなんてあっただろうか。
「あっ、そうだ!」
甲洋が答えを導き出す前に、操のほうが先になにか閃いたらしい。彼はいったん指を引き抜くと、手を伸ばして自分が脱ぎ捨てたロングダウンを引き寄せる。ポケットの中をゴソゴソと漁り、中から小さなスティック状のものを取り出した。
「あった! これなら使える!」
それは可愛らしいサクランボ柄のリップクリームだった。チェリーを相手にチェリーのリップを潤滑剤として使う気なのか。なかなか皮肉がきいている。
「そんなのでいいの……?」
「いいのいいの! ちょっと待ってて」
操はリップクリームの蓋を開け、クルクルとひねって中身を全て出し切ると、迷いなく根元から折ってしまった。それを両の手のひらで包み込み、体温でドロドロに溶かしてしまう。
ただでさえ甘ったるい蜂蜜の香りが充満する部屋に、サクランボの甘酸っぱさまで加わって、室内のむせるような熱気が増した。
「ほら、まだちょっと足りないけど、ぜんぜん行けるよ」
操は溶けたクリームを指に絡ませ、粘度を確かめると再びさっきと同じ体勢で後孔をほぐしはじめた。先程よりもスムーズに指先が滑り込んでいるらしく、時おり腰を跳ねさせながら小さく喘ぎを漏らしている。
徐々に息があがり、頬が赤らみ、なんの兆しもなかった紅色の屹立が緩く弾力を帯びはじめていた。
「ぁ、あ、ッ、ん……っ、ん、けっこう、いい感じ……ぁ……っ」
潤んだ瞳が蕩けたようになっている。いやらしく腰を揺らしながら身悶える姿に、甲洋はうっとりと見惚れながら喉を鳴らした。
(触りたい)
自然ともたげてくる欲求に、ただ寝転んでいるだけの状況がもどかしくなってくる。この手で直に触れて、彼がどんな反応をするのかをじっくり堪能してみたい。
遠慮がちに持ち上げた右手を伸ばし、指先で太ももに触れた。しっとりと汗ばんでいる淡桃の肌に、またひとつ喉を鳴らす。しかしそんな企みも、操に手の甲をペチンと叩かれ、払いのけられてしまった。
「ダメだよぉ。全部おれがするって言ったでしょ? いい子にしてて」
「ぅ……」
「んっ、ぁ……はぁ……これは、恩返し、なんだからぁ」
酔っぱらったように舌足らずになった操が楽しそうに笑う。甲洋は強気に出ることもできず、ただ黙り込むしかなかった。
これじゃ生殺しだ。いつまでも放っておかれている自身は、情けないくらいよだれを垂らして鈴口をひくつかせていた。
「ミサ、オ」
「ん、ふふっ……いいよ、おれも欲しくなってきたし」
操は孔から指を引き抜くと、股の下で張り詰める甲洋の男茎に触れた。腰の位置を調節し、ほどけた後孔にぴったりと亀頭を合わせる。
ついに訪れた瞬間に、爆発しそうなほど心臓が暴れていた。
「じゃあ貰うね、君の童貞」
「ッ、ぅ……っ」
声が出てしまいそうになるのを堪え、甲洋は素直に頷いた。操は笑みを浮かべたまま「いただきます」と言って、ゆっくりと腰を落としていく。
「あっ、ぁう……ん、あッ、ぁ……っ」
甲洋の腹に手をついた操が、喉を反らして甘く喘いだ。最も太い場所が飲み込まれてしまうと、あとはずぶずぶと収まっていく。
その突き破るような感覚に声も出せない。甲洋は汗を滲ませ、歯を食いしばりながら童貞喪失の瞬間を噛み締めた。鳥肌がたつほどの感動に、頭が芯から煮えている。
根元まですっかり飲み込まれると、甲洋は両手を投げ出して荒い呼吸を繰り返した。すると先に一呼吸ついた操が、さっそく腰を揺らしはじめる。
「ッ、ぅ……! ぁ、み、ミサオっ、待っ……!」
「だーめ、待たないよーだ」
「うあッ、ぁ!」
操は両手を後方にやって甲洋の腿にそれぞれ手をつくと、まるで波打つようないやらしい動きで腰を上下に動かしはじめる。うねる蜜壺の壁に食い締められて、一瞬で達してしまいそうになるのを死ぬ気で堪えた。
「く、ぅ……ッ!」
「アッ、ぁんっ、あ! すご、いッ、童貞ちんぽ、気持ちいい……っ!」
見たことがある光景だと、感慨を抱かずにはいられない。唇を笑みの形にして、恥ずかしげもなく淫語を漏らしながら腰を振る姿を、画面越しに何度も見てきた。
それがシナリオ通りに進行するフィクションであることは理解していたつもりだし、今のこれだってただ甲洋を煽るためのリップサービスでしかないのかもしれない。それでも淫らに喘ぐ操の痴態に、ファンとして純粋な感動を覚えていた。
だけどふとどうしても確かめてみたくなって、甲洋は操の胸へと両手を伸ばした。彼は甲洋を満足させることに気を取られている。その隙をつく形で、ツンと尖っているふたつの粒をそれぞれ指先で摘み上げてみた。
「ひゃんっ! あ、やぁ……ッ!?」
その瞬間、ナカがさらにぎゅっと締まった。操は目を見開きながら声を上ずらせ、身体をビクンと震わせる。明らかに反応が変わったことに、甲洋は目を丸く瞬かせた。
「な、なにするのさ!?」
余裕があった表情から一変して、焦った様子の操は顔を真っ赤にすると眉を吊り上げた。腰の動きもいったん止まり、甲洋の手を少し乱暴に振り払ってしまう。
甲洋は咄嗟に「ごめん」と謝罪はしたものの、唇を噛み締めながら涙目で睨みつけてくる表情に胸をときめかせた。
「乳首、やっぱり弱いんだ」
「!」
ついしみじみと呟いてしまった言葉に、操が息を呑んだ。
「そこ、触られると反応が変わるから。そうなんじゃないかと思ってた」
それは彼の作品を見ながら、いつも思っていたことだった。操は乳首をいじられるといっそう声を高くして、泣きそうになりながら嫌々と身を捩って見せる。
そこが弱いからあまり触れられたくないのだろうなと、薄々気がついていたことを直に確かめることができて、甲洋は嬉しさからふと微笑んだ。
すると操は茹で上がったタコのように全身を赤く染め、両手で胸を隠してしまう。
「余計なことしなくていいよ! 次やったら本気で怒るから!」
「もう怒ってる」
「う、うるさいなぁ……なんだよ、急に余裕ぶっちゃって!」
どうやらプライドを傷つけてしまったらしい。本気で怒っている操の姿なんて、台本ありきの映像の中では決して見られないものだった。
(意外と気が強いんだな、この子)
来栖ミサオのイメージが、少しずつ剥がれていくのが分かる。
甲洋が見ていた虚像の彼は、人の部屋のベッドの下を勝手に暴いたりなんかしない。素人の童貞を弄ぶなんて真似もしないし、多少反撃を食らった程度で顔を赤くしながら怒るなんてことも、絶対にしないはずだった。
知りすぎてしまったと、甲洋は思う。彼に幻滅したくなかった。だけどどうしてか、それらに胸を浮き立たせている自分がいる。
いま甲洋がセックスをしているのは【来栖ミサオ】という画面越しの存在ではなく、【来主操】という生身の人間なのだ。そんな自覚と一緒に芽吹いてくるのは、素の彼をもっと知りたいという愚直なほどの欲求だった。
そんな甲洋の感情の動きなど知りもせず、身を乗り出した操は悪巧みをする子供のように挑戦的な笑みを浮かべる。
「生意気言う子にはお仕置きしちゃうよ」
どうなっても知らないからねと、挑むように言いながら操が腰の動きを再開させる。ムキになったように上下する激しい動きに、甲洋は目を剥きながらあっけなく追い詰められていく。
「ぁっ、う……ッ、待って、っ……もう、出る……!」
咄嗟に上半身を浮かせて、またがっている白い腿をそれぞれ掴んだ。操は細めた瞳を三日月のような形にして、ぺろりと舌なめずりをしながらいっそう甲洋を締め上げる。
「はっ、はぁッ、ぁ、いい、よ! ほら、イッちゃえ!」
射精するギリギリのタイミングで、操は腰の位置をズラして内部から甲洋を引き抜かせる。すかさず男茎を掴まれて、容赦なく扱かれながら甲洋は射精した。
「ッ──!!」
声もなく達して、操の手の中で白濁を飛び散らせる。
最後の一滴まで搾り取られてしまうと、浮かせていた半身をガックリと床に沈めて荒々しく息をついた。尾を引く余韻に、頭の中がぼうっとしてくる。
「さっきも出したのに、またいっぱい出たね」
操は得意げにそう言って、床にぺたりと尻を落ち着けた。テーブルの上にあったティッシュケースから勝手に数枚引き抜いて、精液まみれになった手を拭いている。息を乱したまま、なんだか少し情けない気持ちでその光景を見ていた甲洋だったが、彼の性器が勃起したままであることに気がついた。
「来主……」
「んー? なに?」
「そっち、まだ」
身を起こした甲洋がチラチラと見ては目を逸していることに気づいた操は、自分の股間を一瞥してから「おれはいいよ」と言って笑った。
「でも」
「気にしないで。おれもちゃんと満足したし。撮影でもだいたいこうだよ。イッたふりして、あとから別撮りしてるだけ」
「へぇ」
「ガッカリした?」
「いや、そうでもないよ。でも」
目を逸しながら言葉を切ると、操がことりと首を傾げる。その表情を横目で見やりながら、甲洋は赤裸々な胸の内を吐きだした。
「気にはなる、かな。自分だけ満足して終わるのは」
よほど意外だったのか、操は鳩が豆鉄砲を食ったように目を瞬かせると、肩をすくめて微笑んだ。
「優しいんだね」
「……別に。俺だけがよくなって終わるなら、それは一人でしてるのと変わらないだろ」
操がしたという『満足』は、あくまでも童貞を食ってイかせたという達成感でしかないのだ。
だけど甲洋にだって男としてのプライドはある。好きな相手とならなおのこと、自分だけが気持ちよく終わる初体験なんて納得がいくはずがない。
「しょうがないなぁ」
操はどこかくすぐったそうな顔をしながら、四つん這いになると甲洋に尻を向けた。
「あと一回だけだよ」
「な、ちょっ!?」
惜しげもなくさらされた後孔に、甲洋は赤くなった顔をそらしてしまう。
「ねぇー、おれのお尻なんかいつも見てるんじゃないの?」
それはそうだが、映像で見るのと実際に見るのとではまったく違う。
操は少し呆れた顔をしながら首をひねってこちらを見ている。おずおずと視線を向けた甲洋に、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
さっきまで甲洋のものを受け入れていた孔は、熟れたように濡れてふっくらとほころんでいた。操はそこに指を這わせ、人差し指と中指でぐっと中を開いて見せる。赤い肉がひくひくと震え、怪しく甲洋を誘っているようだった。
そんなものを見せられて、冷静でいられるはずがない。甲洋の身体の中心は、すでに二度も出したとは思えないほど元気を取り戻していた。
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しかしこちらはドのつく素人だ。下手に手を出して失敗するより、いっそプロの手に委ねてしまった方が──。
(……けっきょく乗り気なんじゃないか、俺)
こんなはずじゃなかった。下心なんて微塵もなかったはずなのだ。けれど本当にそうなのだろうかと、だんだん疑わしくなってきた。
だって本当に下心がないのなら、甲洋はとっくに操を退けているはずだ。それをしないのは、どこかで期待していたからではないだろうか。
現に自分の上に跨り、膝立ちになって服を脱ぎはじめる操を見て、甲洋は胸を踊らせているのだ。あの『来栖ミサオ』とセックスができる。初めてを捧げることができる。まさに夢のようなシチュエーション。VRでAV観賞をしているような気分にすらなってくる。
(うわ……)
ダウンとパーカーを脱ぎ捨てて、操の白い肌が惜しげもなく露わになった。発達しようがないぺたんこの胸に、淡桃の乳首が乗っている。少年らしい控えめな腰のくびれに、大きく喉を鳴らす。
操は自身のベルトに手をやって、素早く解くと前を寛げた。なんの躊躇いもなく下着ごとパンツをおろし、両膝と踵をそれぞれ引き抜いて裸になってしまう。
頭が沸騰した。普段はモザイクによって隠されている操の恥部が、今はなんの障害もなく目の前にさらされている。
そこには一切、毛が生えていなかった。
「……毛」
「ん? あ、うん。パイパンなんだ、おれ。ぜんぜん生えてこないの」
「ぱっ、ぱいぱ……て、天然の……?」
「そうだよ」
操のそこは、まるで生まれたての赤ん坊のようだった。いっそ粉ミルクの匂いがしてきてもおかしくないと思えるほど、幼く見える。
こんな子供みたいな身体で、この子は男たちの欲望を受け止めているのだ。そして自分は、それを性の捌け口にしている。甲洋だけじゃない。多くの男達が、この身体に欲情して自慰にふけっているのだ。
その裸体が、今は甲洋のためだけにさらされている。罪悪感と優越感が同時に込み上げ、いっそう興奮が増してしまった。
「挿れてもないうちからイッちゃわないでよ」
股の下で反り返って震えている肉棒を見下ろし、操が楽しそうに笑った。
彼は右手の人差し指と中指を自分の唇へと運び、甲洋に奉仕したときと同じように音を立ててしゃぶりはじめる。そのいやらしい光景を、甲洋は熱に浮かされた意識でぼうっと眺めた。
「んぁ……ぁ、んっ」
操は左手を甲洋の腹について体重を支えながら、濡らした指先を自身の奥まった場所へと伸ばした。なにをしているかは、考えなくても分かる。ちくちくと微かな音がするたびに、心臓が激しく脈を打つ。
操は少し苦しそうに顔をしかめ、むずがるような呻きを漏らした。
「やっぱりちょっと足りないな……ねぇ、ローションとかない?」
鈍った思考で一瞬考え、甲洋は首を左右に振った。この部屋にあるもので、なにか代わりになりそうなものなんてあっただろうか。
「あっ、そうだ!」
甲洋が答えを導き出す前に、操のほうが先になにか閃いたらしい。彼はいったん指を引き抜くと、手を伸ばして自分が脱ぎ捨てたロングダウンを引き寄せる。ポケットの中をゴソゴソと漁り、中から小さなスティック状のものを取り出した。
「あった! これなら使える!」
それは可愛らしいサクランボ柄のリップクリームだった。チェリーを相手にチェリーのリップを潤滑剤として使う気なのか。なかなか皮肉がきいている。
「そんなのでいいの……?」
「いいのいいの! ちょっと待ってて」
操はリップクリームの蓋を開け、クルクルとひねって中身を全て出し切ると、迷いなく根元から折ってしまった。それを両の手のひらで包み込み、体温でドロドロに溶かしてしまう。
ただでさえ甘ったるい蜂蜜の香りが充満する部屋に、サクランボの甘酸っぱさまで加わって、室内のむせるような熱気が増した。
「ほら、まだちょっと足りないけど、ぜんぜん行けるよ」
操は溶けたクリームを指に絡ませ、粘度を確かめると再びさっきと同じ体勢で後孔をほぐしはじめた。先程よりもスムーズに指先が滑り込んでいるらしく、時おり腰を跳ねさせながら小さく喘ぎを漏らしている。
徐々に息があがり、頬が赤らみ、なんの兆しもなかった紅色の屹立が緩く弾力を帯びはじめていた。
「ぁ、あ、ッ、ん……っ、ん、けっこう、いい感じ……ぁ……っ」
潤んだ瞳が蕩けたようになっている。いやらしく腰を揺らしながら身悶える姿に、甲洋はうっとりと見惚れながら喉を鳴らした。
(触りたい)
自然ともたげてくる欲求に、ただ寝転んでいるだけの状況がもどかしくなってくる。この手で直に触れて、彼がどんな反応をするのかをじっくり堪能してみたい。
遠慮がちに持ち上げた右手を伸ばし、指先で太ももに触れた。しっとりと汗ばんでいる淡桃の肌に、またひとつ喉を鳴らす。しかしそんな企みも、操に手の甲をペチンと叩かれ、払いのけられてしまった。
「ダメだよぉ。全部おれがするって言ったでしょ? いい子にしてて」
「ぅ……」
「んっ、ぁ……はぁ……これは、恩返し、なんだからぁ」
酔っぱらったように舌足らずになった操が楽しそうに笑う。甲洋は強気に出ることもできず、ただ黙り込むしかなかった。
これじゃ生殺しだ。いつまでも放っておかれている自身は、情けないくらいよだれを垂らして鈴口をひくつかせていた。
「ミサ、オ」
「ん、ふふっ……いいよ、おれも欲しくなってきたし」
操は孔から指を引き抜くと、股の下で張り詰める甲洋の男茎に触れた。腰の位置を調節し、ほどけた後孔にぴったりと亀頭を合わせる。
ついに訪れた瞬間に、爆発しそうなほど心臓が暴れていた。
「じゃあ貰うね、君の童貞」
「ッ、ぅ……っ」
声が出てしまいそうになるのを堪え、甲洋は素直に頷いた。操は笑みを浮かべたまま「いただきます」と言って、ゆっくりと腰を落としていく。
「あっ、ぁう……ん、あッ、ぁ……っ」
甲洋の腹に手をついた操が、喉を反らして甘く喘いだ。最も太い場所が飲み込まれてしまうと、あとはずぶずぶと収まっていく。
その突き破るような感覚に声も出せない。甲洋は汗を滲ませ、歯を食いしばりながら童貞喪失の瞬間を噛み締めた。鳥肌がたつほどの感動に、頭が芯から煮えている。
根元まですっかり飲み込まれると、甲洋は両手を投げ出して荒い呼吸を繰り返した。すると先に一呼吸ついた操が、さっそく腰を揺らしはじめる。
「ッ、ぅ……! ぁ、み、ミサオっ、待っ……!」
「だーめ、待たないよーだ」
「うあッ、ぁ!」
操は両手を後方にやって甲洋の腿にそれぞれ手をつくと、まるで波打つようないやらしい動きで腰を上下に動かしはじめる。うねる蜜壺の壁に食い締められて、一瞬で達してしまいそうになるのを死ぬ気で堪えた。
「く、ぅ……ッ!」
「アッ、ぁんっ、あ! すご、いッ、童貞ちんぽ、気持ちいい……っ!」
見たことがある光景だと、感慨を抱かずにはいられない。唇を笑みの形にして、恥ずかしげもなく淫語を漏らしながら腰を振る姿を、画面越しに何度も見てきた。
それがシナリオ通りに進行するフィクションであることは理解していたつもりだし、今のこれだってただ甲洋を煽るためのリップサービスでしかないのかもしれない。それでも淫らに喘ぐ操の痴態に、ファンとして純粋な感動を覚えていた。
だけどふとどうしても確かめてみたくなって、甲洋は操の胸へと両手を伸ばした。彼は甲洋を満足させることに気を取られている。その隙をつく形で、ツンと尖っているふたつの粒をそれぞれ指先で摘み上げてみた。
「ひゃんっ! あ、やぁ……ッ!?」
その瞬間、ナカがさらにぎゅっと締まった。操は目を見開きながら声を上ずらせ、身体をビクンと震わせる。明らかに反応が変わったことに、甲洋は目を丸く瞬かせた。
「な、なにするのさ!?」
余裕があった表情から一変して、焦った様子の操は顔を真っ赤にすると眉を吊り上げた。腰の動きもいったん止まり、甲洋の手を少し乱暴に振り払ってしまう。
甲洋は咄嗟に「ごめん」と謝罪はしたものの、唇を噛み締めながら涙目で睨みつけてくる表情に胸をときめかせた。
「乳首、やっぱり弱いんだ」
「!」
ついしみじみと呟いてしまった言葉に、操が息を呑んだ。
「そこ、触られると反応が変わるから。そうなんじゃないかと思ってた」
それは彼の作品を見ながら、いつも思っていたことだった。操は乳首をいじられるといっそう声を高くして、泣きそうになりながら嫌々と身を捩って見せる。
そこが弱いからあまり触れられたくないのだろうなと、薄々気がついていたことを直に確かめることができて、甲洋は嬉しさからふと微笑んだ。
すると操は茹で上がったタコのように全身を赤く染め、両手で胸を隠してしまう。
「余計なことしなくていいよ! 次やったら本気で怒るから!」
「もう怒ってる」
「う、うるさいなぁ……なんだよ、急に余裕ぶっちゃって!」
どうやらプライドを傷つけてしまったらしい。本気で怒っている操の姿なんて、台本ありきの映像の中では決して見られないものだった。
(意外と気が強いんだな、この子)
来栖ミサオのイメージが、少しずつ剥がれていくのが分かる。
甲洋が見ていた虚像の彼は、人の部屋のベッドの下を勝手に暴いたりなんかしない。素人の童貞を弄ぶなんて真似もしないし、多少反撃を食らった程度で顔を赤くしながら怒るなんてことも、絶対にしないはずだった。
知りすぎてしまったと、甲洋は思う。彼に幻滅したくなかった。だけどどうしてか、それらに胸を浮き立たせている自分がいる。
いま甲洋がセックスをしているのは【来栖ミサオ】という画面越しの存在ではなく、【来主操】という生身の人間なのだ。そんな自覚と一緒に芽吹いてくるのは、素の彼をもっと知りたいという愚直なほどの欲求だった。
そんな甲洋の感情の動きなど知りもせず、身を乗り出した操は悪巧みをする子供のように挑戦的な笑みを浮かべる。
「生意気言う子にはお仕置きしちゃうよ」
どうなっても知らないからねと、挑むように言いながら操が腰の動きを再開させる。ムキになったように上下する激しい動きに、甲洋は目を剥きながらあっけなく追い詰められていく。
「ぁっ、う……ッ、待って、っ……もう、出る……!」
咄嗟に上半身を浮かせて、またがっている白い腿をそれぞれ掴んだ。操は細めた瞳を三日月のような形にして、ぺろりと舌なめずりをしながらいっそう甲洋を締め上げる。
「はっ、はぁッ、ぁ、いい、よ! ほら、イッちゃえ!」
射精するギリギリのタイミングで、操は腰の位置をズラして内部から甲洋を引き抜かせる。すかさず男茎を掴まれて、容赦なく扱かれながら甲洋は射精した。
「ッ──!!」
声もなく達して、操の手の中で白濁を飛び散らせる。
最後の一滴まで搾り取られてしまうと、浮かせていた半身をガックリと床に沈めて荒々しく息をついた。尾を引く余韻に、頭の中がぼうっとしてくる。
「さっきも出したのに、またいっぱい出たね」
操は得意げにそう言って、床にぺたりと尻を落ち着けた。テーブルの上にあったティッシュケースから勝手に数枚引き抜いて、精液まみれになった手を拭いている。息を乱したまま、なんだか少し情けない気持ちでその光景を見ていた甲洋だったが、彼の性器が勃起したままであることに気がついた。
「来主……」
「んー? なに?」
「そっち、まだ」
身を起こした甲洋がチラチラと見ては目を逸していることに気づいた操は、自分の股間を一瞥してから「おれはいいよ」と言って笑った。
「でも」
「気にしないで。おれもちゃんと満足したし。撮影でもだいたいこうだよ。イッたふりして、あとから別撮りしてるだけ」
「へぇ」
「ガッカリした?」
「いや、そうでもないよ。でも」
目を逸しながら言葉を切ると、操がことりと首を傾げる。その表情を横目で見やりながら、甲洋は赤裸々な胸の内を吐きだした。
「気にはなる、かな。自分だけ満足して終わるのは」
よほど意外だったのか、操は鳩が豆鉄砲を食ったように目を瞬かせると、肩をすくめて微笑んだ。
「優しいんだね」
「……別に。俺だけがよくなって終わるなら、それは一人でしてるのと変わらないだろ」
操がしたという『満足』は、あくまでも童貞を食ってイかせたという達成感でしかないのだ。
だけど甲洋にだって男としてのプライドはある。好きな相手とならなおのこと、自分だけが気持ちよく終わる初体験なんて納得がいくはずがない。
「しょうがないなぁ」
操はどこかくすぐったそうな顔をしながら、四つん這いになると甲洋に尻を向けた。
「あと一回だけだよ」
「な、ちょっ!?」
惜しげもなくさらされた後孔に、甲洋は赤くなった顔をそらしてしまう。
「ねぇー、おれのお尻なんかいつも見てるんじゃないの?」
それはそうだが、映像で見るのと実際に見るのとではまったく違う。
操は少し呆れた顔をしながら首をひねってこちらを見ている。おずおずと視線を向けた甲洋に、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
さっきまで甲洋のものを受け入れていた孔は、熟れたように濡れてふっくらとほころんでいた。操はそこに指を這わせ、人差し指と中指でぐっと中を開いて見せる。赤い肉がひくひくと震え、怪しく甲洋を誘っているようだった。
そんなものを見せられて、冷静でいられるはずがない。甲洋の身体の中心は、すでに二度も出したとは思えないほど元気を取り戻していた。
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パンツの件は誤解されることなく無事に済んだ。
ありのままを伝えると、ミサオは「なぁんだそっか」とあっさり納得し、甲洋は逮捕を免れることができた。(一時は本気で覚悟した)
基本的に不審者扱いに慣れているせいか、これほど容易く信じてしまうことにむしろ拍子抜けする思いだった。少しくらいは疑ったほうがいいのでは……と、心配でたまらない気持ちにさせられる。
「へぇ、同じ部屋なのにぜんぜん違うね。おれのとこより広く感じる」
8帖1Kの室内を、ミサオが興味津々の眼差しで見回している。
未だに信じられない。自分の生活スペースに、あの来栖ミサオが訪れているのだ。夢を見ているとしか思えなかった。
彼はローテーブルの傍でクッションに胡座をかいていて、その意外な男らしさに甲洋は胸をドキマギとさせた。画面の中で、彼はいつも裸か女装のどちらかだ。ごく普通に男の子らしい洋服に身を包み、どっかりと胡座をかく姿はとても新鮮だった。
甲洋はひとまずコートだけを脱いでしまうと、キッチンで温かな紅茶を淹れた。途中、手の震えが激しすぎて何度もお湯をこぼしたり、カップを割りかけたりもしたが、どうにかミサオの分だけ紅茶を運んでテーブルに置く。
そのまま突っ立っているわけにもいかないので、向かい側に腰をおろした。正座である。
ミサオは「ありがとう」と言って、熱いカップの表面で指先を温めはじめた。
「そっか、家具が少ないんだ。なんかちょっと寂しいね」
一通り部屋の観察を終えると、ミサオはそこでようやく紅茶に口をつけた。両手でカップを持ち、ふぅふぅと冷ましながら少しずつ飲む仕草がとても可愛い。思わずうっとりとした息を漏らしそうになって、甲洋は慌てて下唇を噛み締めた。
確かにミサオの言う通り、甲洋の部屋は少しばかり殺風景だ。ベッドにテーブル、あとは細かなものや本を収納するためのフリーラックがあるだけで、衣服の類は備え付けの収納スペースで事足りている。
「ミ……」
「ん? なに?」
「あ、いや。そっちの……君の部屋は?」
まだお互い名乗ってもいないのに、甲洋がミサオの名前を知っているのは不自然だ。知っているということは、つまり彼がなにをしている人間かを知っているということで、ひいては自分が作品の視聴者であることまでがバレかねない。
どうもいつも息子がお世話になってます、なんて正々堂々と挨拶をする勇気など、甲洋は持ち合わせていなかった。
「おれんとこはね、服がいっぱいでめちゃくちゃになってるよ」
「服……あぁ、そうか……」
来栖ミサオは新品の洋服が好き。数少ない彼に関する情報のひとつだ。
やっぱり本物なんだなと、しみじみ感じてしまう。全国にいるであろう彼のファンは、彼の部屋が大好きな洋服によって散らかっていることまでは知らないはずだ。どんなパンツを穿いているかにしてもそうだが、甲洋の中でだけ更新された新しい情報に、得も言われぬ感動を覚える。
「あ、ねぇ! そういえばまだ君の名前を聞いてない。教えてよ」
ミサオは大きな瞳をくるくるとさせ、可愛らしく小首を傾げながら甲洋を見つめていた。身悶えそうになるのを堪えて、どうにか「甲洋」とだけ声を絞りだす。
「こーよ」
「~~ッ!!」
「あれ、なにか違った?」
「ち、違って、ない、けど」
来栖ミサオに名前を呼ばれた。それだけで鳥肌が立つほど感動してしまった。やっぱりこれは夢なんじゃないか。そんなことを考えながらひとつ咳払いをして、平静を手繰り寄せる。
「甲乙の甲に、太平洋の洋だよ。それで、甲洋」
「ふぅん。いい名前だね。おれは来主操だよ」
知っている──のだが。
彼は甲洋の真似をして、自分の名前を漢字でどう書くかを教えてくれた。行ったり来たりの来に、ご主人さまの主。体操の操で、みさお。
「来主、操……」
「うん。こないだ隣に引っ越してきたばかり。よろしくね」
操、操、来主操。それが、来栖ミサオの本当の名前。
心が震えた。虚像が実像を結んでいく。曖昧だった輪郭が、目の前で一人の少年の姿をはっきりと浮かび上がらせた。
(マズい)
甲洋は胸の高鳴りを抑えることができなかった。息ができない。夢なら早く覚めてほしい。だけど、覚めてほしくない。
嬉しいという感情が、素直に内側を駆け巡っている。操は画面越しと同じ、むしろそれ以上に愛くるしくて、朗らかだ。髪も肌も、声も笑顔も、記憶に劣らずふわふわとして、柔らかそうで。
(こんなの……もっと好きになっちゃうだろ……!)
虚像だからこそ想いを寄せていられたなんて、そんなのは嘘だ。来主操というリアルに触れて、それでもなお甲洋は『来栖ミサオ』のファンだった。
*
(脳みそが煮えている……)
キッチンの流し場で食器を洗いながら、甲洋は熱っぽさに意識をふわふわとさせていた。頭がぼうっとして、本当に夢の中にでもいるような感覚だ。
あれから甲洋は操と顔を突き合わせながら食事をした。なにも食べていないという操にオムライスを作り、一緒に食べたのだ。
まともに買い物をしてきたばかりでよかった。もしこれが昨日だったら、カップ麺くらいしか出せるものがないところだった。
操は「玉子ふわふわで美味しいね!」と言いながら嬉しそうに食べていた。久しぶりにちゃんとした食事をしたと言うので、普段はなにを食べているのかと思えば、お腹が空いたら適当にお菓子を食べているらしい。
そういえばコンビニへもお菓子を買いに行ったと話していた。操は床に放置されていたビニール袋を手繰り寄せ、「お礼にこのお菓子あげるよ」と言って、袋を逆さまにした。ボロボロと出てきた中身はたべっ●どうぶつや、さくさくパ●ダなどだった。お菓子のチョイスまで鬼可愛いかよ! と、甲洋はあまりの興奮に内心ちょっとキレかけた。
とりあえず、せっかく食べたくて買ってきたものなんだからと、受け取りは丁重にお断りした。記念にひとつくらい貰っておけばよかったかな、なんて思わないこともなかったが、甲洋にとって今こうしている時間そのものが、贅沢すぎるご褒美のようなものである。これ以上欲張れば、どんな罰が下るか知れない。
一通り食器を片し終えると、甲洋はコンロにかけていた鍋の火を止める。白い湯気を立ち上らせているのは牛乳だった。ホッとするような優しい香りがキッチンを満たす。そこにたっぷりの蜂蜜を加えれば、操が大好きなホットミルクの完成だ。
(バレないよな……?)
カップに並々と注ぎ入れながら、甲洋はふと考える。
来栖ミサオの好物は蜂蜜入りのホットミルク。その真似をして、甲洋はときどきホットミルクを作って飲むようにしている。だから蜂蜜は欠かさずキッチンに常備してあるのだ。
食後にホットミルクを出したくらいで、自分がファンであることがバレる心配はないだろう。ただの偶然。それだけだ。
(喜ぶかな)
口元がニヤけそうになって、慌ててぐっと引き締めた。
あとどれくらい一緒に過ごせるか分からないが、そのなかで少しでも彼が喜ぶようなことをしてやりたい。
今日のことは一生の思い出になるだろうなと、甲洋は思った。
本当なら、あわよくばこのままなんて考えるのが普通の男なのかもしれない。だけど甲洋にそんな考えは微塵もなかった。
あくまでも甲洋は彼のファンであり続けたいのだ。操にとっての自分はついさっき偶然会っただけの、ただの親切な隣人でしかない。それでいいし、それで十分。これ以上深入りをして『来栖ミサオ』に幻滅するようなことになれば、甲洋は大切なオアシスを失ってしまう。
できることならずっとこのまま、彼に夢を見続けていたかった。
「み……来主、食後にホットミルクでもどう?」
下の名前で呼ぶのは気が引けて、名字で呼びかけながらキッチンを出た。
操はちょうど甲洋に背中を向けて、ベッドのすぐそばの床にペタンと座っている。うつむいて、なにかしている様子だった。
「来主?」
一歩二歩と近づいて、甲洋は思わず手の中のカップを落とした。
「うわ! ビックリした! なに!?」
カップはラグの上に落下して、かろうじて割れることなく転がった。ゴツン、という音と共に中身がすべてぶちまけられ、蜂蜜とミルクの匂いが部屋いっぱいに広がっていく。
操は驚いた様子で甲洋を見上げている。その手には、
『超敏感、男の娘メイドの初撮りご奉仕生エッチ♡』
というタイトルのDVDケースがあった──。
「~~ッ!?」
甲洋は声にならない悲鳴をあげた。胃のあたりが引き絞られたように鋭く痛み、血の気が引いて、全身が凍りつく。
操の足元には、ベッドの下から引きずり出された収納ボックスが半分ほど顔を覗かせている。中身は全て彼が出演するAV作品だ。甲洋はそれをミサオボックスと名付けているのだが、そんなこと今はどうでもいい。
「なん、で……それ……」
真っ青な顔で声を震わせ、ミサオボックスを指差す甲洋に、操はニッコリと天使のような笑みを浮かべた。
「暇だったから、なにか面白いものないかなって思ってたら、ベッドの下に怪しい箱があったから」
だからってほぼ初対面に等しい人間の部屋を、しかもベッドの下というデリケートゾーンを漁るのはいかがなものだろうか。
「だぁってこの部屋なにもないんだもん。退屈すぎ。Switchくらい置いといてよね。スマブラやりたい」
「……ご、ごめん」
悪びれない相手に、どうして自分が謝っているのだろうかと疑問に思わないこともなかったが、今の甲洋はそれどころじゃないのだった。
「ねぇ、ここに入ってるのって全部おれのでしょ? こんなにいっぱい見てくれてるなんて嬉しい!」
今にも崩折れそうになっている甲洋を他所に、操は嬉しそうだった。
「特にこれ、メイドのやつ! これね、おれのデビュー作なんだ。初めてだったからよく覚えてる」
甲洋にとってもある意味デビュー作である。初めて来栖ミサオを知ったのが、まさにこのメイドものだったのだ。
しかしそんなことは言いだせず、青褪めて打ち震えている甲洋に操は「おれのファンならそう言ってくれればいいのに」と言ってふにゃふにゃと笑っていたが、ふと気がついた様子ですんっと鼻を鳴らした。部屋いっぱいにミルクと蜂蜜の匂いが充満していることに、大きな目を瞬かせて甲洋を見る。
「もしかして、おれのために作ってくれたの?」
「ぁ、い、いや」
「嬉しい。本当によく知ってるんだ、おれのこと」
蕩けそうなくらいの甘い笑顔に、かぁっと頭に熱がのぼって爆発しそうになる。
しかしぼやぼやしている場合ではなかった。甲洋は慌てて膝をつき、操の手からDVDを取り上げると箱にしまってベッドの奥に押し込める。
これでもう安心……とはいかない。時すでに遅し。甲洋が彼の大ファンであるということ、そして彼を頻繁にオカズにしているという事実が、本人の手によって明るみになってしまったのだ。どうすればいいか分からず、まともに操の顔を見ることができない。
「ご、ごめ」
ん──と再び謝ろうとして、最後まで言うことは叶わなかった。
甲洋の頬には白い手が添えられて、唇には温かなものが触れている。瓶底眼鏡のレンズ越し。あまりにも近い距離に操の伏せられた長い睫毛があって、甲洋はなにが起こったのか理解できないまま硬直した。
(……へ?)
それは一瞬で離れていった。甲洋はぽかんと口を開け、遠のいていく薄紅の唇をただ呆然と見つめる。思考が完全に停止していて、まるで状況を把握することができなかった。
指先ひとつ動かせない。けれど唇には柔らかな熱と、マシュマロのようにふわふわでぷにぷにとした感触が残っていた。
操はクスリといたずらっぽく笑い、両手を甲洋の顔に向かって伸ばしてきた。なにひとつ反応を示すことができないまま、瓶底眼鏡が外される。
「あっ」
「やっぱり。眼鏡しない方がいいよ、君」
たったそれだけで、裸に剥かれてしまったような羞恥が込み上げる。甲洋は顔を真っ赤にしながら弱々しく眼鏡に向かって手を伸ばしたが、操がそれを遠ざけてしまう。
「やめなよこれ。ベランダではしてなかったじゃん。せっかくキレイな顔してるのに」
そう言って、眼鏡を軽く放り投げてしまう。甲洋は茫然自失の状態で、床に転がった瓶底眼鏡を目で追った。操はそんな甲洋の頬に両手を這わせ、自分の方を向かせると猫のように目を細めて微笑んだ。
「ねぇ、もっといいことしてあげよっか」
「ぇ、は?」
「お菓子はいらないんでしょ? だったら他でお礼をさせてよ」
操は甲洋の顔を引き寄せ、目を閉じると同時に唇を重ねてくる。甲洋の思考は白く染まったまま、身体も石像のように動かないままだ。
立ちのぼる蜂蜜の香り。操のものなのか、床を濡らすホットミルクのものなのか、それさえもう分からない。
されるがままに受け止めて、けれど濡れた舌が唇をなぞる感触にようやく我に返る。
「……ッ、ちょ、んっ、ん!?」
操は「んふ」と鼻から抜けるような笑い声をあげ、甲洋の首に両腕を回した。ぐっと引き寄せられたのと同時に、舌がぬるりと侵入してくる。
ぐるぐると、意識と一緒に目が回った。初めてのキスを奪われて、さらにディープキスまでされている。しかも相手はあの来栖ミサオで──。
「ん、う、ぅ……っ!?」
ゾクゾクとした鋭い感覚が背筋を駆け上がり、甲洋はきつく目を閉じた。
操の舌が口内をねっとりと舐め上げ、縮こまる舌をくすぐっている。
(マズいって……!)
甲洋は細い肩を掴むと引き剥がそうとした。けれどそうすればするほど、操は両腕を強く首に巻きつけて甲洋にぴったりと身を寄せてくる。乱暴に扱うわけにもいかず、それ以上は強く抵抗できない。
舌を絡め取られ、存分に舐めまわされたあとにちゅう、と音を立てて吸われると、湯あたりを起こしたような目眩に襲われて熱い息が漏れてしまった。
「はぁっ……は……っ」
「ぁ……ふふっ、キスだけで勃っちゃった?」
「ッ!?」
腰が抜けたように尻餅をついてダラリと足を開いていた甲洋の股間に、操が手をかぶせてやわやわと撫でさする。甲洋は息をのみ、その手を咄嗟に払い除けた。
「だ、駄目だ」
「なんで? このままじゃ苦しくない?」
「みさっ、く、来主!」
「好きに呼んでいいよ」
身を屈ませた操は手際よくジーンズの前を寛げはじめ、あっという間にズラした下着の中から勃起する甲洋自身を取り出してしまう。
甲洋はその流れるような一連の動きを、呆気にとられながら見ていることしかできなかった。あの混乱のさなか、しっかり反応を示している自身の単純さに唖然とする。
白くて綺麗な指先が怒張する肉茎に触れるのを見て、異常な興奮と羞恥に脳が揺れたような感覚を覚えた。
「ピクピクしてる。可愛いね」
操は甲洋自身を優しく握り、頬にかかっていた髪を耳にかけながら舌なめずりをした。その仕草だけでイチモツはさらに大きく脈を打つ。それは画面越しに見つめている以上に卑猥で、あまりにも生々しい光景だった。
「あっ、ぅわ……っ!」
可憐な唇がそっと先端にキスをして、ちろちろと見せつけるように赤い舌で先走りを舐め取った。視覚だけでも頭がおかしくなりそうなのに、直に刺激されては堪らない。
やめさせなければと思うのに、駆け抜ける快楽が甲洋からその気力を一瞬で奪い去ってしまう。
「ぁ、み……ミサオ……」
彼はいともたやすく流されはじめた甲洋を嬉しそうに見上げ、目を細めながら脈打つ肉棒に舌を這わせる。ゆるゆると袋を揉みしだき、竿の部分に何度もキスをしながら舌を行き来させると、やがてぱくんと先端を口の中に収めてしまった。
「ぅあ……ッ」
当たり前だが、自分でするのとは訳が違う。熱くて柔らかい、とろとろの口内に包まれて、そのあまりの気持ちよさに身体が震える。
操は竿を優しく扱きながら頬をすぼめて、頭を上下させていく。舌を激しく擦りつけ、軽く吸い上げながら熱心に肉棒を愛撫した。じゅぽ、じゅる、という品のない水音が、甲洋の犬のように荒い呼吸と重なる。
「んっ、んっ……んぅ、ッ、ふ」
動きに合わせてくぐもった声をあげ、操は時おり悩ましげに甲洋を見上げるとゆっくり瞬きをした。口のなかいっぱいに唾液を溜め込み、わざと聞こえるように卑猥な水音を奏でていることが分かる。
その演出を憎らしいと感じながら、もはや限界寸前だった。時間にして、おそらくたったの数十秒。それでも持ちこたえたほうかもしれない。
甲洋は耐えきれず、咄嗟に両手で操の髪を掴んで握りしめた。
「ぁッく、ぅ! み、さ……ッ、も、もう……!」
「んんっ、ぁ、んぅぅ……っ」
あっけないほど簡単に、甲洋は達してしまった。瞼の裏でパチパチと小さな火が弾けている。あまりの快感に達してからも身体が痺れて、声も出せずにただ身を震わせた。
頭の中まで電気を通されたようになっていたが、操が小さく咳き込んでいることに気がついて、甲洋はハッとしながら顔を上げる。
「み、ミサオ! ごめ……な、中に……」
「ケホッ、んぅ、へーき。いっぱい出たから、ちょっとビックリしただけ」
「まさか、飲ん……?」
操はケロリとした表情で頷いた。
「うん。半分くらいはこぼしちゃったけど」
指先で口の端に付着した白濁をすくい、操はそれを口の中に押し込めた。ごくんと喉を鳴らして飲み込む光景に、甲洋は全身を真っ赤に染めながらまた股間が反応してしまう。
「あ、また元気になった」
「いや、これは……」
「気持ちよくなってくれて嬉しい」
操は甲洋に身を寄せると甘えた仕草で両腕を首に回し、ちゅっと音を立てて唇に小さなキスをした。それから「あっ」と声をあげ、
「ごめん。フェラしたあとじゃ嫌だよね」
そう言って、肩をすくめながらぺろりと舌を出して見せる。彼にしてみれば、いつも撮影で当たり前のようにしていることなのだ。だけど甲洋は素人で、仕事として割り切っている男優とは訳が違う。彼の頭からは、すっかりそれが抜け落ちていたようだった。
ふと、その事実にモヤモヤとしたものが込み上げる。操にとっては仕事でするのも、『お礼』として甲洋にするのも、大差はないのだ。そう思うと、微かな苛立ちを覚えてしまった。
「……別に、俺だって気にしないよ」
そっぽを向きながら吐き捨てたあとで後悔した。これではまるで不貞腐れた子供みたいだ。ふたりきりでいるからって、嘘みたいな待遇を受けたからって、操にとっての甲洋は特別でもなんでもない。親切な、ただの隣人。そしてこれはファンサービスだ。
勘違いしかけてしまった自分が恥ずかしくて、自己嫌悪が止まらない。
「そう? よかった」
操は甲洋の態度を気にした様子もなく、小さく笑うと片手を再び竿にやってゆるゆると撫でさする。
「あっ、ちょっと!」
「おれ、素人相手は初めてなんだけど……どうする? このままする?」
「……は? えぇ!?」
「ねぇ、君ってもしかして童貞?」
「っ!!」
絶句するしかない。その反応を見て、操がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「初めてがおれじゃ嫌?」
「そんなわけない!」
「よかった! じゃあしよ!」
「えっ、ぁ……あぁ~……」
即答してしまった自分に溜息が漏れた。だってあんな聞き方ズルすぎる。嫌なはずがあるものか。こちとらずっと想い焦がれてきたのだ。絶対に手が届かないと諦めていたから、望んですらいなかっただけで。
「君はなにもしなくていいよ。全部おれがしてあげるね」
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ありのままを伝えると、ミサオは「なぁんだそっか」とあっさり納得し、甲洋は逮捕を免れることができた。(一時は本気で覚悟した)
基本的に不審者扱いに慣れているせいか、これほど容易く信じてしまうことにむしろ拍子抜けする思いだった。少しくらいは疑ったほうがいいのでは……と、心配でたまらない気持ちにさせられる。
「へぇ、同じ部屋なのにぜんぜん違うね。おれのとこより広く感じる」
8帖1Kの室内を、ミサオが興味津々の眼差しで見回している。
未だに信じられない。自分の生活スペースに、あの来栖ミサオが訪れているのだ。夢を見ているとしか思えなかった。
彼はローテーブルの傍でクッションに胡座をかいていて、その意外な男らしさに甲洋は胸をドキマギとさせた。画面の中で、彼はいつも裸か女装のどちらかだ。ごく普通に男の子らしい洋服に身を包み、どっかりと胡座をかく姿はとても新鮮だった。
甲洋はひとまずコートだけを脱いでしまうと、キッチンで温かな紅茶を淹れた。途中、手の震えが激しすぎて何度もお湯をこぼしたり、カップを割りかけたりもしたが、どうにかミサオの分だけ紅茶を運んでテーブルに置く。
そのまま突っ立っているわけにもいかないので、向かい側に腰をおろした。正座である。
ミサオは「ありがとう」と言って、熱いカップの表面で指先を温めはじめた。
「そっか、家具が少ないんだ。なんかちょっと寂しいね」
一通り部屋の観察を終えると、ミサオはそこでようやく紅茶に口をつけた。両手でカップを持ち、ふぅふぅと冷ましながら少しずつ飲む仕草がとても可愛い。思わずうっとりとした息を漏らしそうになって、甲洋は慌てて下唇を噛み締めた。
確かにミサオの言う通り、甲洋の部屋は少しばかり殺風景だ。ベッドにテーブル、あとは細かなものや本を収納するためのフリーラックがあるだけで、衣服の類は備え付けの収納スペースで事足りている。
「ミ……」
「ん? なに?」
「あ、いや。そっちの……君の部屋は?」
まだお互い名乗ってもいないのに、甲洋がミサオの名前を知っているのは不自然だ。知っているということは、つまり彼がなにをしている人間かを知っているということで、ひいては自分が作品の視聴者であることまでがバレかねない。
どうもいつも息子がお世話になってます、なんて正々堂々と挨拶をする勇気など、甲洋は持ち合わせていなかった。
「おれんとこはね、服がいっぱいでめちゃくちゃになってるよ」
「服……あぁ、そうか……」
来栖ミサオは新品の洋服が好き。数少ない彼に関する情報のひとつだ。
やっぱり本物なんだなと、しみじみ感じてしまう。全国にいるであろう彼のファンは、彼の部屋が大好きな洋服によって散らかっていることまでは知らないはずだ。どんなパンツを穿いているかにしてもそうだが、甲洋の中でだけ更新された新しい情報に、得も言われぬ感動を覚える。
「あ、ねぇ! そういえばまだ君の名前を聞いてない。教えてよ」
ミサオは大きな瞳をくるくるとさせ、可愛らしく小首を傾げながら甲洋を見つめていた。身悶えそうになるのを堪えて、どうにか「甲洋」とだけ声を絞りだす。
「こーよ」
「~~ッ!!」
「あれ、なにか違った?」
「ち、違って、ない、けど」
来栖ミサオに名前を呼ばれた。それだけで鳥肌が立つほど感動してしまった。やっぱりこれは夢なんじゃないか。そんなことを考えながらひとつ咳払いをして、平静を手繰り寄せる。
「甲乙の甲に、太平洋の洋だよ。それで、甲洋」
「ふぅん。いい名前だね。おれは来主操だよ」
知っている──のだが。
彼は甲洋の真似をして、自分の名前を漢字でどう書くかを教えてくれた。行ったり来たりの来に、ご主人さまの主。体操の操で、みさお。
「来主、操……」
「うん。こないだ隣に引っ越してきたばかり。よろしくね」
操、操、来主操。それが、来栖ミサオの本当の名前。
心が震えた。虚像が実像を結んでいく。曖昧だった輪郭が、目の前で一人の少年の姿をはっきりと浮かび上がらせた。
(マズい)
甲洋は胸の高鳴りを抑えることができなかった。息ができない。夢なら早く覚めてほしい。だけど、覚めてほしくない。
嬉しいという感情が、素直に内側を駆け巡っている。操は画面越しと同じ、むしろそれ以上に愛くるしくて、朗らかだ。髪も肌も、声も笑顔も、記憶に劣らずふわふわとして、柔らかそうで。
(こんなの……もっと好きになっちゃうだろ……!)
虚像だからこそ想いを寄せていられたなんて、そんなのは嘘だ。来主操というリアルに触れて、それでもなお甲洋は『来栖ミサオ』のファンだった。
*
(脳みそが煮えている……)
キッチンの流し場で食器を洗いながら、甲洋は熱っぽさに意識をふわふわとさせていた。頭がぼうっとして、本当に夢の中にでもいるような感覚だ。
あれから甲洋は操と顔を突き合わせながら食事をした。なにも食べていないという操にオムライスを作り、一緒に食べたのだ。
まともに買い物をしてきたばかりでよかった。もしこれが昨日だったら、カップ麺くらいしか出せるものがないところだった。
操は「玉子ふわふわで美味しいね!」と言いながら嬉しそうに食べていた。久しぶりにちゃんとした食事をしたと言うので、普段はなにを食べているのかと思えば、お腹が空いたら適当にお菓子を食べているらしい。
そういえばコンビニへもお菓子を買いに行ったと話していた。操は床に放置されていたビニール袋を手繰り寄せ、「お礼にこのお菓子あげるよ」と言って、袋を逆さまにした。ボロボロと出てきた中身はたべっ●どうぶつや、さくさくパ●ダなどだった。お菓子のチョイスまで鬼可愛いかよ! と、甲洋はあまりの興奮に内心ちょっとキレかけた。
とりあえず、せっかく食べたくて買ってきたものなんだからと、受け取りは丁重にお断りした。記念にひとつくらい貰っておけばよかったかな、なんて思わないこともなかったが、甲洋にとって今こうしている時間そのものが、贅沢すぎるご褒美のようなものである。これ以上欲張れば、どんな罰が下るか知れない。
一通り食器を片し終えると、甲洋はコンロにかけていた鍋の火を止める。白い湯気を立ち上らせているのは牛乳だった。ホッとするような優しい香りがキッチンを満たす。そこにたっぷりの蜂蜜を加えれば、操が大好きなホットミルクの完成だ。
(バレないよな……?)
カップに並々と注ぎ入れながら、甲洋はふと考える。
来栖ミサオの好物は蜂蜜入りのホットミルク。その真似をして、甲洋はときどきホットミルクを作って飲むようにしている。だから蜂蜜は欠かさずキッチンに常備してあるのだ。
食後にホットミルクを出したくらいで、自分がファンであることがバレる心配はないだろう。ただの偶然。それだけだ。
(喜ぶかな)
口元がニヤけそうになって、慌ててぐっと引き締めた。
あとどれくらい一緒に過ごせるか分からないが、そのなかで少しでも彼が喜ぶようなことをしてやりたい。
今日のことは一生の思い出になるだろうなと、甲洋は思った。
本当なら、あわよくばこのままなんて考えるのが普通の男なのかもしれない。だけど甲洋にそんな考えは微塵もなかった。
あくまでも甲洋は彼のファンであり続けたいのだ。操にとっての自分はついさっき偶然会っただけの、ただの親切な隣人でしかない。それでいいし、それで十分。これ以上深入りをして『来栖ミサオ』に幻滅するようなことになれば、甲洋は大切なオアシスを失ってしまう。
できることならずっとこのまま、彼に夢を見続けていたかった。
「み……来主、食後にホットミルクでもどう?」
下の名前で呼ぶのは気が引けて、名字で呼びかけながらキッチンを出た。
操はちょうど甲洋に背中を向けて、ベッドのすぐそばの床にペタンと座っている。うつむいて、なにかしている様子だった。
「来主?」
一歩二歩と近づいて、甲洋は思わず手の中のカップを落とした。
「うわ! ビックリした! なに!?」
カップはラグの上に落下して、かろうじて割れることなく転がった。ゴツン、という音と共に中身がすべてぶちまけられ、蜂蜜とミルクの匂いが部屋いっぱいに広がっていく。
操は驚いた様子で甲洋を見上げている。その手には、
『超敏感、男の娘メイドの初撮りご奉仕生エッチ♡』
というタイトルのDVDケースがあった──。
「~~ッ!?」
甲洋は声にならない悲鳴をあげた。胃のあたりが引き絞られたように鋭く痛み、血の気が引いて、全身が凍りつく。
操の足元には、ベッドの下から引きずり出された収納ボックスが半分ほど顔を覗かせている。中身は全て彼が出演するAV作品だ。甲洋はそれをミサオボックスと名付けているのだが、そんなこと今はどうでもいい。
「なん、で……それ……」
真っ青な顔で声を震わせ、ミサオボックスを指差す甲洋に、操はニッコリと天使のような笑みを浮かべた。
「暇だったから、なにか面白いものないかなって思ってたら、ベッドの下に怪しい箱があったから」
だからってほぼ初対面に等しい人間の部屋を、しかもベッドの下というデリケートゾーンを漁るのはいかがなものだろうか。
「だぁってこの部屋なにもないんだもん。退屈すぎ。Switchくらい置いといてよね。スマブラやりたい」
「……ご、ごめん」
悪びれない相手に、どうして自分が謝っているのだろうかと疑問に思わないこともなかったが、今の甲洋はそれどころじゃないのだった。
「ねぇ、ここに入ってるのって全部おれのでしょ? こんなにいっぱい見てくれてるなんて嬉しい!」
今にも崩折れそうになっている甲洋を他所に、操は嬉しそうだった。
「特にこれ、メイドのやつ! これね、おれのデビュー作なんだ。初めてだったからよく覚えてる」
甲洋にとってもある意味デビュー作である。初めて来栖ミサオを知ったのが、まさにこのメイドものだったのだ。
しかしそんなことは言いだせず、青褪めて打ち震えている甲洋に操は「おれのファンならそう言ってくれればいいのに」と言ってふにゃふにゃと笑っていたが、ふと気がついた様子ですんっと鼻を鳴らした。部屋いっぱいにミルクと蜂蜜の匂いが充満していることに、大きな目を瞬かせて甲洋を見る。
「もしかして、おれのために作ってくれたの?」
「ぁ、い、いや」
「嬉しい。本当によく知ってるんだ、おれのこと」
蕩けそうなくらいの甘い笑顔に、かぁっと頭に熱がのぼって爆発しそうになる。
しかしぼやぼやしている場合ではなかった。甲洋は慌てて膝をつき、操の手からDVDを取り上げると箱にしまってベッドの奥に押し込める。
これでもう安心……とはいかない。時すでに遅し。甲洋が彼の大ファンであるということ、そして彼を頻繁にオカズにしているという事実が、本人の手によって明るみになってしまったのだ。どうすればいいか分からず、まともに操の顔を見ることができない。
「ご、ごめ」
ん──と再び謝ろうとして、最後まで言うことは叶わなかった。
甲洋の頬には白い手が添えられて、唇には温かなものが触れている。瓶底眼鏡のレンズ越し。あまりにも近い距離に操の伏せられた長い睫毛があって、甲洋はなにが起こったのか理解できないまま硬直した。
(……へ?)
それは一瞬で離れていった。甲洋はぽかんと口を開け、遠のいていく薄紅の唇をただ呆然と見つめる。思考が完全に停止していて、まるで状況を把握することができなかった。
指先ひとつ動かせない。けれど唇には柔らかな熱と、マシュマロのようにふわふわでぷにぷにとした感触が残っていた。
操はクスリといたずらっぽく笑い、両手を甲洋の顔に向かって伸ばしてきた。なにひとつ反応を示すことができないまま、瓶底眼鏡が外される。
「あっ」
「やっぱり。眼鏡しない方がいいよ、君」
たったそれだけで、裸に剥かれてしまったような羞恥が込み上げる。甲洋は顔を真っ赤にしながら弱々しく眼鏡に向かって手を伸ばしたが、操がそれを遠ざけてしまう。
「やめなよこれ。ベランダではしてなかったじゃん。せっかくキレイな顔してるのに」
そう言って、眼鏡を軽く放り投げてしまう。甲洋は茫然自失の状態で、床に転がった瓶底眼鏡を目で追った。操はそんな甲洋の頬に両手を這わせ、自分の方を向かせると猫のように目を細めて微笑んだ。
「ねぇ、もっといいことしてあげよっか」
「ぇ、は?」
「お菓子はいらないんでしょ? だったら他でお礼をさせてよ」
操は甲洋の顔を引き寄せ、目を閉じると同時に唇を重ねてくる。甲洋の思考は白く染まったまま、身体も石像のように動かないままだ。
立ちのぼる蜂蜜の香り。操のものなのか、床を濡らすホットミルクのものなのか、それさえもう分からない。
されるがままに受け止めて、けれど濡れた舌が唇をなぞる感触にようやく我に返る。
「……ッ、ちょ、んっ、ん!?」
操は「んふ」と鼻から抜けるような笑い声をあげ、甲洋の首に両腕を回した。ぐっと引き寄せられたのと同時に、舌がぬるりと侵入してくる。
ぐるぐると、意識と一緒に目が回った。初めてのキスを奪われて、さらにディープキスまでされている。しかも相手はあの来栖ミサオで──。
「ん、う、ぅ……っ!?」
ゾクゾクとした鋭い感覚が背筋を駆け上がり、甲洋はきつく目を閉じた。
操の舌が口内をねっとりと舐め上げ、縮こまる舌をくすぐっている。
(マズいって……!)
甲洋は細い肩を掴むと引き剥がそうとした。けれどそうすればするほど、操は両腕を強く首に巻きつけて甲洋にぴったりと身を寄せてくる。乱暴に扱うわけにもいかず、それ以上は強く抵抗できない。
舌を絡め取られ、存分に舐めまわされたあとにちゅう、と音を立てて吸われると、湯あたりを起こしたような目眩に襲われて熱い息が漏れてしまった。
「はぁっ……は……っ」
「ぁ……ふふっ、キスだけで勃っちゃった?」
「ッ!?」
腰が抜けたように尻餅をついてダラリと足を開いていた甲洋の股間に、操が手をかぶせてやわやわと撫でさする。甲洋は息をのみ、その手を咄嗟に払い除けた。
「だ、駄目だ」
「なんで? このままじゃ苦しくない?」
「みさっ、く、来主!」
「好きに呼んでいいよ」
身を屈ませた操は手際よくジーンズの前を寛げはじめ、あっという間にズラした下着の中から勃起する甲洋自身を取り出してしまう。
甲洋はその流れるような一連の動きを、呆気にとられながら見ていることしかできなかった。あの混乱のさなか、しっかり反応を示している自身の単純さに唖然とする。
白くて綺麗な指先が怒張する肉茎に触れるのを見て、異常な興奮と羞恥に脳が揺れたような感覚を覚えた。
「ピクピクしてる。可愛いね」
操は甲洋自身を優しく握り、頬にかかっていた髪を耳にかけながら舌なめずりをした。その仕草だけでイチモツはさらに大きく脈を打つ。それは画面越しに見つめている以上に卑猥で、あまりにも生々しい光景だった。
「あっ、ぅわ……っ!」
可憐な唇がそっと先端にキスをして、ちろちろと見せつけるように赤い舌で先走りを舐め取った。視覚だけでも頭がおかしくなりそうなのに、直に刺激されては堪らない。
やめさせなければと思うのに、駆け抜ける快楽が甲洋からその気力を一瞬で奪い去ってしまう。
「ぁ、み……ミサオ……」
彼はいともたやすく流されはじめた甲洋を嬉しそうに見上げ、目を細めながら脈打つ肉棒に舌を這わせる。ゆるゆると袋を揉みしだき、竿の部分に何度もキスをしながら舌を行き来させると、やがてぱくんと先端を口の中に収めてしまった。
「ぅあ……ッ」
当たり前だが、自分でするのとは訳が違う。熱くて柔らかい、とろとろの口内に包まれて、そのあまりの気持ちよさに身体が震える。
操は竿を優しく扱きながら頬をすぼめて、頭を上下させていく。舌を激しく擦りつけ、軽く吸い上げながら熱心に肉棒を愛撫した。じゅぽ、じゅる、という品のない水音が、甲洋の犬のように荒い呼吸と重なる。
「んっ、んっ……んぅ、ッ、ふ」
動きに合わせてくぐもった声をあげ、操は時おり悩ましげに甲洋を見上げるとゆっくり瞬きをした。口のなかいっぱいに唾液を溜め込み、わざと聞こえるように卑猥な水音を奏でていることが分かる。
その演出を憎らしいと感じながら、もはや限界寸前だった。時間にして、おそらくたったの数十秒。それでも持ちこたえたほうかもしれない。
甲洋は耐えきれず、咄嗟に両手で操の髪を掴んで握りしめた。
「ぁッく、ぅ! み、さ……ッ、も、もう……!」
「んんっ、ぁ、んぅぅ……っ」
あっけないほど簡単に、甲洋は達してしまった。瞼の裏でパチパチと小さな火が弾けている。あまりの快感に達してからも身体が痺れて、声も出せずにただ身を震わせた。
頭の中まで電気を通されたようになっていたが、操が小さく咳き込んでいることに気がついて、甲洋はハッとしながら顔を上げる。
「み、ミサオ! ごめ……な、中に……」
「ケホッ、んぅ、へーき。いっぱい出たから、ちょっとビックリしただけ」
「まさか、飲ん……?」
操はケロリとした表情で頷いた。
「うん。半分くらいはこぼしちゃったけど」
指先で口の端に付着した白濁をすくい、操はそれを口の中に押し込めた。ごくんと喉を鳴らして飲み込む光景に、甲洋は全身を真っ赤に染めながらまた股間が反応してしまう。
「あ、また元気になった」
「いや、これは……」
「気持ちよくなってくれて嬉しい」
操は甲洋に身を寄せると甘えた仕草で両腕を首に回し、ちゅっと音を立てて唇に小さなキスをした。それから「あっ」と声をあげ、
「ごめん。フェラしたあとじゃ嫌だよね」
そう言って、肩をすくめながらぺろりと舌を出して見せる。彼にしてみれば、いつも撮影で当たり前のようにしていることなのだ。だけど甲洋は素人で、仕事として割り切っている男優とは訳が違う。彼の頭からは、すっかりそれが抜け落ちていたようだった。
ふと、その事実にモヤモヤとしたものが込み上げる。操にとっては仕事でするのも、『お礼』として甲洋にするのも、大差はないのだ。そう思うと、微かな苛立ちを覚えてしまった。
「……別に、俺だって気にしないよ」
そっぽを向きながら吐き捨てたあとで後悔した。これではまるで不貞腐れた子供みたいだ。ふたりきりでいるからって、嘘みたいな待遇を受けたからって、操にとっての甲洋は特別でもなんでもない。親切な、ただの隣人。そしてこれはファンサービスだ。
勘違いしかけてしまった自分が恥ずかしくて、自己嫌悪が止まらない。
「そう? よかった」
操は甲洋の態度を気にした様子もなく、小さく笑うと片手を再び竿にやってゆるゆると撫でさする。
「あっ、ちょっと!」
「おれ、素人相手は初めてなんだけど……どうする? このままする?」
「……は? えぇ!?」
「ねぇ、君ってもしかして童貞?」
「っ!!」
絶句するしかない。その反応を見て、操がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「初めてがおれじゃ嫌?」
「そんなわけない!」
「よかった! じゃあしよ!」
「えっ、ぁ……あぁ~……」
即答してしまった自分に溜息が漏れた。だってあんな聞き方ズルすぎる。嫌なはずがあるものか。こちとらずっと想い焦がれてきたのだ。絶対に手が届かないと諦めていたから、望んですらいなかっただけで。
「君はなにもしなくていいよ。全部おれがしてあげるね」
←戻る ・ 次へ→
数日後。
その夜はバイトが入っておらず、いつものように朝に帰宅した甲洋は夕方近くまで眠って起きると、外が暗くなってきた頃を見計らって近所のスーパーへ足を運んだ。
およそ一週間分の食料や不足している日用品をカゴに放り込んでいく。すると時おりチラチラと嫌な視線を感じて、甲洋はそっと溜息を漏らした。
人が多い場所へ行くと大体こうだ。誰かしらの視線がついてまわる。しかしそれは無理もないことで、甲洋の出で立ちを一言で表すならば『異様』としか言いようがないからだ。
ルーズストレートのダメージジーンズに、サイズオーバーのくたびれきったモッズコート。髪は伸びっぱなしのボサボサ頭で、顔に覆いかぶさる癖毛を整えることすらしていない。なかでも特に目を引くのは、今どきアニメや漫画でもお目にかかれないような、大きくて丸い黒縁の瓶底眼鏡だった。
そんないかにも野暮で不審そうな男が猫背でのそのそと歩いていれば、奇異の目で見られたって仕方のない話だ。
道を歩けば女性や子供連れの親子から警戒されるし、なにもしていなくても「あー、君、ちょっと怪しいね」と警官に声をかけられ、職務質問を受けたことも一度や二度ではない。
剣司に「もったいない」と言わしめたこのスタイルを、けれど甲洋はあえて貫いているのだ。こうでもしなければ、安心して外を出歩くことができない。
本来の甲洋は、モデル並みの高身長とスタイルのよさで、黙っていたって異性が飛びついてくるほどに見目がよかった。けれどそれが原因で、今まで多くの災難に見舞われてきた。
過去には自分が預かり知らぬところで女性同士が取り合いのケンカをし、警察沙汰にまで発展したことがある。目の前で自殺未遂をされたことだってあるし、間男扱いされて相手の男性に殴られたこともあれば、女友達が嫌がらせを受けて大怪我を負ったこともある。
そんなことが重なるうちに、甲洋は災いしか招かない自分の容姿にコンプレックスを抱くようになった。
だから可能な限り身体のラインを隠し、顔を隠し、他者を寄せつけない空気を出す。なるべく人と密に関わりを持たないよう、仕事も深夜帯のネットカフェを選んで勤めている。訳ありの人間が多く隠れ蓑にしていることもあり、互いにほとんど顔を見合わせる必要がないからだ。
(おかしな話だよな)
普通にしている方が、よほど悪目立ちしてしまうなんて。
なんとも言えない気持ちになりながら、買い物袋を手にさげてスーパーを出た。片手はポケットに突っ込んで、背中を丸めてノロノロ歩く。
すると前方から、一組のカップルが腕を組みながら向かってくる姿が見えた。甲洋はいっそう背中を丸め、道の端ギリギリまで身を寄せると顔を背ける。
カップルはキャッキャウフフと楽しそうにイチャついて、甲洋の存在に気づくことなくすれ違っていった。冷たい秋の夜風が身に染みる。
(いいな、ああいうの)
ふと虚しくなるのは、こういう瞬間だ。
愛し愛される関係には誰よりも深い憧憬を抱いている。だけど甲洋は、まだ一度も女性と付き合ったことがない。この先だってきっと縁がないのだと、どこかで諦めきっていた。
(いいさ、俺にはミサオがいればそれで)
来栖ミサオはそんな甲洋にとってオアシスのような存在だった。
ジェンダーの境目にいるようなその曖昧さと、虚像であるがゆえにおぼろげな彼という個体は、甲洋をひたすら安堵へ導く。恋と呼べるかすら分からない感情に、ただ胸を焦がしていられるだけで満足だった。
隠れ潜むように生きる生活だって、今の自分には合っているのだ。
例えばそう、ああして夜道の片隅で寂しそうに丸まっているパンツのように──
「……パンツ?」
自宅マンションのすぐそば。街灯の下に目と足を同時にとめて、甲洋はふと首を傾げる。
こんな暗い夜道で、視界の隅にかすっただけであるにも関わらず、なぜか一瞬にして強く確信することができた。あのくしゃくしゃの布切れは、紛うことなきパンツであると。これは野生の──いや、スケベの勘だろうか。
なんだかなぁと自分に嫌気が差しつつも、甲洋は街灯の下へと足を向ける。拾い上げたそれは目が覚めるようなピンクの生地に、可愛らしい黄色のヒヨコが無数に描かれた、ローライズ型のボクサーパンツだった。
甲洋は先日ベランダで見た白昼夢を思いだした。
来栖ミサオの幻は、買ったばかりのお気に入りのパンツを失くして泣いていた。まだ日も高い時間に、しかも三階の部屋まで下着泥棒が入るとは思えないため、おそらく風に飛ばされでもしたのだろう。
そして奇しくも、ここは甲洋の自宅マンションのほぼ真下。手の中には穿き古された形跡のないパンツ。こんな偶然があるのだろうか?
(もしかして、あれは夢じゃなかった……? いや、でも……まさかそんな、ありえない……よな?)
だって、もしそうだとしたら、これは来栖ミサオのパンツということになってしまう。下着はちゃんと男の子なんだなとか、ピンクにヒヨコ柄なんて可愛いが過ぎるだろとか、肌が粟立つほどの感動を覚えつつも必死で否定することに忙しい。
(……ないない。下手なラブコメでもあるまいし)
実際、隣に新しい入居者がいることは事実である。だけどそれが来栖ミサオだなんて夢のような話があるはずがない。
あれは焦がれるあまりまったくの別人を見間違えただけの、勘違いだったのではないか。つまり半分は幻だったと言ってもいい。とにかく絶対に違うのだと、そう結論づけることにした。
なんにせよ、拾ったものは届けるのが道理である。これが女性物であったならえらいことだが、男性物なら別に気兼ねする必要もない。
いつまでも夜道でパンツを手に立ち尽くしているなんて、ただでさえ不審者に思われがちなのだから、早々にこの場を去るべきだ。
甲洋はパンツをポケットにねじ込むと、足早にマンションのエントランスへ向かった。
*
三階の自室へ向かう廊下で、甲洋は誰かが扉を背に座り込んでいることに気がついた。
それは甲洋の部屋のすぐ隣で、おそらく例の入居者であることはすぐに分かった。体育座りをして抱えた膝に、すっかり顔を埋めているカフェオレのような淡い髪色は、やはりあの来栖ミサオを彷彿とさせた。胸がざわつき、緊張が走る。
彼はパーカーの上から赤いツイルチェックのロングダウンを着て、カーキ色のアンクルパンツを穿いていた。わずかに覗く足首がうっすら青白くなっていて、すっかり身体が冷え切っていることが窺い知れた。
「……どうかした?」
立ち止まって数秒迷ったが、思い切って声をかける。パンツを返すという用事もあることだし、訪ねていく手間が省けた。
重ね着をしていても華奢と分かる肩を震わせ、隣人がゆっくりと顔をあげる。甲洋は思わず喉を鳴らし、瞬きもせずその光景を見つめた。頼むから別人であってくれと、祈るような気持ちで。けれどその祈りが天に届くことはなかった。
「ッ!」
咄嗟に買い物袋をドサリと落とす。呼吸と一緒に時が止まったような気がした。
ベランダで遭遇したときと同じように、彼は涙目で弱りきった表情をしている。泣いているせいで先のほうが赤く染まった鼻をグスンと鳴らし、小動物のような瞳で甲洋を見上げた。
(来栖、ミサオだ……)
正真正銘、本物の。
画面越しでしか見たことのない、甲洋の想い人が目の前にいる。
今日だってこのあと一晩中、彼が出演するAVを見続けようと思っていた。昨日だって見たし、一昨日だって見た。甲洋の生活に、もはや欠かすことができない存在。あの来栖ミサオが。
「……お隣さん?」
ミサオは濡れたようなか細い声をあげ、小首を傾げた。おそらく甲洋の瓶底眼鏡に戸惑っているのだ。ベランダではこんなものはかけていなかった。たった一度、しかもほんの数秒だけ顔を合わせただけの甲洋を、うまく判別できないようだった。
甲洋はかろうじて頷くだけで精一杯だった。ミサオはきょとんとした顔で瞬きを繰り返している。
数秒、言葉もなくただ見つめ合い、はたと気がつく。そうだ。先に声をかけたのはこちらの方で、彼は明らかになにか困っている様子なのだ。
「ッ、ぁ……あの、なにか、あった?」
カラカラに乾いた喉から、引き攣って震える声を絞り出す。心臓が今にも口から飛び出してきそうだった。
ミサオはこくんと頷き、またひとつ鼻をすする。
「コンビニに行って帰ってきたら、鍵がなくなってたんだ。探したけど見つからなくて、それで、部屋に入れなくて」
座り込んでいるミサオの横には、白いビニール袋が置いてある。彼はコンビニへお菓子を買いに行き、その途中どこかで鍵を失くしたというのだ。
エントランスは暗証番号で開く仕様だからいいものの、部屋の鍵がないことに気づいた彼は、すぐにマンションの管理人に知らせようとした。けれど運悪く連絡がつかなかった。困った末にマネージャーにも電話を入れたが、そちらも連絡がつかなかったらしい。
「だからここで待ってるとこ。多分そのうちかかってくると思うし」
パンツは落とすし鍵は失くすし、そそっかしいというかなんというか。つい庇護欲を刺激されて狂おしい気持ちになってしまう甲洋だったが、本人にとっては一大事である。
マネージャーというのは、おそらく彼が所属しているAV事務所で、彼に付いてマネジメントを行っている人間のことだろう。着歴は残っているだろうから、待っていればいずれ連絡はつくはずだ。しかし──。
分厚い眼鏡のレンズ越しに、ミサオがしょんぼりとうつむいている。彼は立てた両膝の上に両手をちょこんと置いていて、その指先が寒さで赤くなっていた。放っておけば、きっと風邪をひいてしまう。
そしてすぐ隣は甲洋の部屋なのだ。このまま「ああそうですか」と、自分だけ引っ込んでいくなんてことができるはずはない。甲洋は腹をくくるしかなかった。
「……もしよければ」
いったんそこで言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
ミサオはどこか不安そうな眼差しで甲洋を見上げる。深みのある瞳の色は、よく見れば琥珀のように黄色みを帯びていて、それが今にも零れ落ちそうなほど揺れていた。
夢を見ているように、ふわふわとした気持ちになってくる。だけどこれは現実だ。本当はこの世界のどこにもいないのではないかと、そんなふうにすら思っていた来栖ミサオという現実が、確かにここに存在している。
「うち来る?」
動揺や感慨を悟られないよう、押し殺した声で問いかけた。
ミサオは目を丸くして、「いいの?」と可愛らしく小首を傾げる。甲洋はただ頷いた。
「ありがとう!」
パッと花が開いたような笑みを浮かべて、ミサオが立ち上がった。画面越しにしか見たことがなかった可愛い笑顔が、矢のようにドスンと心臓に突き刺さる。
(うわ可愛い……これが現実……これが……)
眼鏡と前髪でほとんど顔が隠れているにも関わらず、甲洋は真っ赤な頬を隠すために顔を逸した。自室の前に行き、ポケットをまさぐって鍵を探す。しかし、手が震えてうまくいかない。
(落ち着け、落ち着け……!)
心の中で必死に念じ、どうにか目当てのものを掴みとるとポケットから手を引き抜いた。すると同時に、なにかがパサリと床に落ちる。
「……あ」
甲洋は足元に丸まっているそれを見て呆然とした。頭の中が真っ白になっている。これはなんだったろうか。鮮やかなピンクと、無数の可愛いヒヨコちゃん。そうだ、これは──パンツだ。
「あー! これおれのパンツだー!」
ミサオが目を丸くしながら問題のパンツを指差す。
「なんで!? なんで君が持ってるのぉ!? 探してもぜんぜん見つからなかったのに!」
あ、終わった……と、甲洋の心はバラバラバラに砕け飛び散った。
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その夜はバイトが入っておらず、いつものように朝に帰宅した甲洋は夕方近くまで眠って起きると、外が暗くなってきた頃を見計らって近所のスーパーへ足を運んだ。
およそ一週間分の食料や不足している日用品をカゴに放り込んでいく。すると時おりチラチラと嫌な視線を感じて、甲洋はそっと溜息を漏らした。
人が多い場所へ行くと大体こうだ。誰かしらの視線がついてまわる。しかしそれは無理もないことで、甲洋の出で立ちを一言で表すならば『異様』としか言いようがないからだ。
ルーズストレートのダメージジーンズに、サイズオーバーのくたびれきったモッズコート。髪は伸びっぱなしのボサボサ頭で、顔に覆いかぶさる癖毛を整えることすらしていない。なかでも特に目を引くのは、今どきアニメや漫画でもお目にかかれないような、大きくて丸い黒縁の瓶底眼鏡だった。
そんないかにも野暮で不審そうな男が猫背でのそのそと歩いていれば、奇異の目で見られたって仕方のない話だ。
道を歩けば女性や子供連れの親子から警戒されるし、なにもしていなくても「あー、君、ちょっと怪しいね」と警官に声をかけられ、職務質問を受けたことも一度や二度ではない。
剣司に「もったいない」と言わしめたこのスタイルを、けれど甲洋はあえて貫いているのだ。こうでもしなければ、安心して外を出歩くことができない。
本来の甲洋は、モデル並みの高身長とスタイルのよさで、黙っていたって異性が飛びついてくるほどに見目がよかった。けれどそれが原因で、今まで多くの災難に見舞われてきた。
過去には自分が預かり知らぬところで女性同士が取り合いのケンカをし、警察沙汰にまで発展したことがある。目の前で自殺未遂をされたことだってあるし、間男扱いされて相手の男性に殴られたこともあれば、女友達が嫌がらせを受けて大怪我を負ったこともある。
そんなことが重なるうちに、甲洋は災いしか招かない自分の容姿にコンプレックスを抱くようになった。
だから可能な限り身体のラインを隠し、顔を隠し、他者を寄せつけない空気を出す。なるべく人と密に関わりを持たないよう、仕事も深夜帯のネットカフェを選んで勤めている。訳ありの人間が多く隠れ蓑にしていることもあり、互いにほとんど顔を見合わせる必要がないからだ。
(おかしな話だよな)
普通にしている方が、よほど悪目立ちしてしまうなんて。
なんとも言えない気持ちになりながら、買い物袋を手にさげてスーパーを出た。片手はポケットに突っ込んで、背中を丸めてノロノロ歩く。
すると前方から、一組のカップルが腕を組みながら向かってくる姿が見えた。甲洋はいっそう背中を丸め、道の端ギリギリまで身を寄せると顔を背ける。
カップルはキャッキャウフフと楽しそうにイチャついて、甲洋の存在に気づくことなくすれ違っていった。冷たい秋の夜風が身に染みる。
(いいな、ああいうの)
ふと虚しくなるのは、こういう瞬間だ。
愛し愛される関係には誰よりも深い憧憬を抱いている。だけど甲洋は、まだ一度も女性と付き合ったことがない。この先だってきっと縁がないのだと、どこかで諦めきっていた。
(いいさ、俺にはミサオがいればそれで)
来栖ミサオはそんな甲洋にとってオアシスのような存在だった。
ジェンダーの境目にいるようなその曖昧さと、虚像であるがゆえにおぼろげな彼という個体は、甲洋をひたすら安堵へ導く。恋と呼べるかすら分からない感情に、ただ胸を焦がしていられるだけで満足だった。
隠れ潜むように生きる生活だって、今の自分には合っているのだ。
例えばそう、ああして夜道の片隅で寂しそうに丸まっているパンツのように──
「……パンツ?」
自宅マンションのすぐそば。街灯の下に目と足を同時にとめて、甲洋はふと首を傾げる。
こんな暗い夜道で、視界の隅にかすっただけであるにも関わらず、なぜか一瞬にして強く確信することができた。あのくしゃくしゃの布切れは、紛うことなきパンツであると。これは野生の──いや、スケベの勘だろうか。
なんだかなぁと自分に嫌気が差しつつも、甲洋は街灯の下へと足を向ける。拾い上げたそれは目が覚めるようなピンクの生地に、可愛らしい黄色のヒヨコが無数に描かれた、ローライズ型のボクサーパンツだった。
甲洋は先日ベランダで見た白昼夢を思いだした。
来栖ミサオの幻は、買ったばかりのお気に入りのパンツを失くして泣いていた。まだ日も高い時間に、しかも三階の部屋まで下着泥棒が入るとは思えないため、おそらく風に飛ばされでもしたのだろう。
そして奇しくも、ここは甲洋の自宅マンションのほぼ真下。手の中には穿き古された形跡のないパンツ。こんな偶然があるのだろうか?
(もしかして、あれは夢じゃなかった……? いや、でも……まさかそんな、ありえない……よな?)
だって、もしそうだとしたら、これは来栖ミサオのパンツということになってしまう。下着はちゃんと男の子なんだなとか、ピンクにヒヨコ柄なんて可愛いが過ぎるだろとか、肌が粟立つほどの感動を覚えつつも必死で否定することに忙しい。
(……ないない。下手なラブコメでもあるまいし)
実際、隣に新しい入居者がいることは事実である。だけどそれが来栖ミサオだなんて夢のような話があるはずがない。
あれは焦がれるあまりまったくの別人を見間違えただけの、勘違いだったのではないか。つまり半分は幻だったと言ってもいい。とにかく絶対に違うのだと、そう結論づけることにした。
なんにせよ、拾ったものは届けるのが道理である。これが女性物であったならえらいことだが、男性物なら別に気兼ねする必要もない。
いつまでも夜道でパンツを手に立ち尽くしているなんて、ただでさえ不審者に思われがちなのだから、早々にこの場を去るべきだ。
甲洋はパンツをポケットにねじ込むと、足早にマンションのエントランスへ向かった。
*
三階の自室へ向かう廊下で、甲洋は誰かが扉を背に座り込んでいることに気がついた。
それは甲洋の部屋のすぐ隣で、おそらく例の入居者であることはすぐに分かった。体育座りをして抱えた膝に、すっかり顔を埋めているカフェオレのような淡い髪色は、やはりあの来栖ミサオを彷彿とさせた。胸がざわつき、緊張が走る。
彼はパーカーの上から赤いツイルチェックのロングダウンを着て、カーキ色のアンクルパンツを穿いていた。わずかに覗く足首がうっすら青白くなっていて、すっかり身体が冷え切っていることが窺い知れた。
「……どうかした?」
立ち止まって数秒迷ったが、思い切って声をかける。パンツを返すという用事もあることだし、訪ねていく手間が省けた。
重ね着をしていても華奢と分かる肩を震わせ、隣人がゆっくりと顔をあげる。甲洋は思わず喉を鳴らし、瞬きもせずその光景を見つめた。頼むから別人であってくれと、祈るような気持ちで。けれどその祈りが天に届くことはなかった。
「ッ!」
咄嗟に買い物袋をドサリと落とす。呼吸と一緒に時が止まったような気がした。
ベランダで遭遇したときと同じように、彼は涙目で弱りきった表情をしている。泣いているせいで先のほうが赤く染まった鼻をグスンと鳴らし、小動物のような瞳で甲洋を見上げた。
(来栖、ミサオだ……)
正真正銘、本物の。
画面越しでしか見たことのない、甲洋の想い人が目の前にいる。
今日だってこのあと一晩中、彼が出演するAVを見続けようと思っていた。昨日だって見たし、一昨日だって見た。甲洋の生活に、もはや欠かすことができない存在。あの来栖ミサオが。
「……お隣さん?」
ミサオは濡れたようなか細い声をあげ、小首を傾げた。おそらく甲洋の瓶底眼鏡に戸惑っているのだ。ベランダではこんなものはかけていなかった。たった一度、しかもほんの数秒だけ顔を合わせただけの甲洋を、うまく判別できないようだった。
甲洋はかろうじて頷くだけで精一杯だった。ミサオはきょとんとした顔で瞬きを繰り返している。
数秒、言葉もなくただ見つめ合い、はたと気がつく。そうだ。先に声をかけたのはこちらの方で、彼は明らかになにか困っている様子なのだ。
「ッ、ぁ……あの、なにか、あった?」
カラカラに乾いた喉から、引き攣って震える声を絞り出す。心臓が今にも口から飛び出してきそうだった。
ミサオはこくんと頷き、またひとつ鼻をすする。
「コンビニに行って帰ってきたら、鍵がなくなってたんだ。探したけど見つからなくて、それで、部屋に入れなくて」
座り込んでいるミサオの横には、白いビニール袋が置いてある。彼はコンビニへお菓子を買いに行き、その途中どこかで鍵を失くしたというのだ。
エントランスは暗証番号で開く仕様だからいいものの、部屋の鍵がないことに気づいた彼は、すぐにマンションの管理人に知らせようとした。けれど運悪く連絡がつかなかった。困った末にマネージャーにも電話を入れたが、そちらも連絡がつかなかったらしい。
「だからここで待ってるとこ。多分そのうちかかってくると思うし」
パンツは落とすし鍵は失くすし、そそっかしいというかなんというか。つい庇護欲を刺激されて狂おしい気持ちになってしまう甲洋だったが、本人にとっては一大事である。
マネージャーというのは、おそらく彼が所属しているAV事務所で、彼に付いてマネジメントを行っている人間のことだろう。着歴は残っているだろうから、待っていればいずれ連絡はつくはずだ。しかし──。
分厚い眼鏡のレンズ越しに、ミサオがしょんぼりとうつむいている。彼は立てた両膝の上に両手をちょこんと置いていて、その指先が寒さで赤くなっていた。放っておけば、きっと風邪をひいてしまう。
そしてすぐ隣は甲洋の部屋なのだ。このまま「ああそうですか」と、自分だけ引っ込んでいくなんてことができるはずはない。甲洋は腹をくくるしかなかった。
「……もしよければ」
いったんそこで言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
ミサオはどこか不安そうな眼差しで甲洋を見上げる。深みのある瞳の色は、よく見れば琥珀のように黄色みを帯びていて、それが今にも零れ落ちそうなほど揺れていた。
夢を見ているように、ふわふわとした気持ちになってくる。だけどこれは現実だ。本当はこの世界のどこにもいないのではないかと、そんなふうにすら思っていた来栖ミサオという現実が、確かにここに存在している。
「うち来る?」
動揺や感慨を悟られないよう、押し殺した声で問いかけた。
ミサオは目を丸くして、「いいの?」と可愛らしく小首を傾げる。甲洋はただ頷いた。
「ありがとう!」
パッと花が開いたような笑みを浮かべて、ミサオが立ち上がった。画面越しにしか見たことがなかった可愛い笑顔が、矢のようにドスンと心臓に突き刺さる。
(うわ可愛い……これが現実……これが……)
眼鏡と前髪でほとんど顔が隠れているにも関わらず、甲洋は真っ赤な頬を隠すために顔を逸した。自室の前に行き、ポケットをまさぐって鍵を探す。しかし、手が震えてうまくいかない。
(落ち着け、落ち着け……!)
心の中で必死に念じ、どうにか目当てのものを掴みとるとポケットから手を引き抜いた。すると同時に、なにかがパサリと床に落ちる。
「……あ」
甲洋は足元に丸まっているそれを見て呆然とした。頭の中が真っ白になっている。これはなんだったろうか。鮮やかなピンクと、無数の可愛いヒヨコちゃん。そうだ、これは──パンツだ。
「あー! これおれのパンツだー!」
ミサオが目を丸くしながら問題のパンツを指差す。
「なんで!? なんで君が持ってるのぉ!? 探してもぜんぜん見つからなかったのに!」
あ、終わった……と、甲洋の心はバラバラバラに砕け飛び散った。
←戻る ・ 次へ→
遮光カーテンを締め切っているせいで、室内は夜のように暗かった。
PCが発する青みを帯びた光が、フローリングの床に薄ぼんやりと反射している。
辺りが静寂に包まれるなか、甲洋は画面を食い入るように見つめていた。繋がれたイヤホンから直に流れ込んでくる音声に、ごくりと大きく喉を鳴らす。
『ぁむ、ん、ん、んぅっ……』
少し苦しそうにくぐもった声と被さるように、じゅぽ、じゅぽ、という卑猥な水音が響き渡る。画面の中ではいたいけな『女子校生』が、全裸の男たちに囲まれて口淫にふけっていた。
首元にはエンジ色の大きなリボン。白い半袖ブラウスの前は完全にはだけ、未発達な胸からヘソまでのラインが露わになっている。際どいミニのプリーツスカートは空色のチェック柄で、すらりと伸びた細い足は清純そうな紺のハイソックスに包まれていた。
女子校生は仁王立ちする男の正面に膝をつき、モザイクがかかった性器を熱心に咥えこんで奉仕している。その周りでは数人の男たちが自身を扱き、順番が来るのを今か今かと待っていた。
『あぁ~っ、いい! いいよミサオちゃん! 気持ちいい! もう出るッ』
『んぐぅっ!? ぉ゛ッ、ぁ゛……ッ!』
男は女子校生の亜麻色の髪を鷲掴み、股間に強く押しつけると喉の奥まで性器を押し込む。ミサオと呼ばれた女子校生は濁った悲鳴をあげながら、目を見開いて肩をぐっと強張らせた。
ギリギリのタイミングで引き抜かれた性器の先端から、白濁とした精液がぶちまけられて、ミサオのあどけない顔や前髪に降り注ぐ。ミサオはぺたりと座り込み、ひどくむせながら涙を浮かべていたが、次の男のイチモツが容赦なく小さな口にねじ込まれて再び奉仕がはじまった。
待ちきれなくなった男の一人が、ミサオの白い手を猛る自身へ導いて掴ませる。もう片方の手も同様に別の男の竿を掴まされ、ミサオは口と両手で男たちの欲望を慰めていく。
溢れだす唾液と男の先走りが、白く柔らかそうな太ももにパタパタと落ちては流れていった。
『ぁうんっ、やッ、ぅんんッ!』
背後から別の男がミサオに忍び寄ると、回り込んできた両手が桃色の乳首をそれぞれきゅうと摘み上げる。ミサオは肩を大きく跳ねさせ、表情を歪ませながら身をくねらせて悲鳴をあげた。
男は乳首をいじめながら、片方の手をスカートの裾へと伸ばしていく。ゆっくりとじらすようにめくりあげると、すかさず現れたモザイクが大事な部分を隠してしまう。けれど色やシルエットから、緩く勃ちあがった小さな屹立が顔を出したことは丸わかりだった。
『ミサオちゃん! 出すよ! ボクのザーメン、ミサオちゃんの顔に出すよっ! あぁッ、あ、あ~~~っ!』
『ッ、ぁ、はぁ、ん! ぁ、あ……すごい、いっぱい出たぁ……』
すでに唇の端や頬に白濁を付着させている顔の中心に、男が精をぶちまける。鼻先や額にそれを受け止めながら、ミサオは恍惚とした表情を浮かべていた。両手に握っていた竿からも精が噴き出し、白いブラウスの肩やエンジのリボンにじんわりとシミを作り上げる。
『みんな、今日はたくさん気持ちよくなっていってね。もっといっぱい、ミサオにおちんぽミルクぶっかけて』
可憐な唇から漏れたあからさまな淫語。顔も髪も制服も、男たちの欲望にまみれながらミサオが笑う。女子校生の格好をした少年を取り囲む複数の男たちが、さらに熱量をあげていっせいに彼へ向かって手を伸ばした。
……。
…………。
「……ふぅ」
そこで甲洋はいったん映像を停止させ、深い息を漏らすとティッシュの箱に手を伸ばす。何枚か引き抜いて汚れた右手と自身を軽く清めると、ゴミ箱に丸めたティッシュを放り投げた。
急激に虚しさが込み上げて、甲洋はしばし項垂れる。時刻は夕方4時を回ったところ。夜もふけないうちから、一体なにをしているのだろう。
しかし甲洋の生活サイクルでは、この時間帯でなければのんびりAV観賞などしていられない。夜から朝にかけては仕事が入っているからだ。
ガラス製のローテーブルの上に置かれたPCの横には、ディスクが収まっていた空のケースが置かれていた。タイトルは『来栖ミサオぶっかけファン感謝祭20連発』というもので、女子校生姿のミサオが両手に男性器を持ち、M字開脚をしながら幼い笑顔でこちらに笑いかけている。純白の下着は女性物で、けれど中央がふっくらと小さな山型になっていた。
来栖ミサオはいわゆるゲイビデオに出演している、ネコ専AV男優だった。
代表作は『ピュアホワイト真性中出し!ドジっ子ナース24時』、『幼妻ミサオ♡朝から晩まで子作りセックス~新婚編~』などなど。
本名や年齢など、その他諸々のプロフィールは非公開とされているが、あまりにも幼い顔立ちや発育途中と分かる身体つきから、おそらく未成年と思われる。公開されているのは綺麗な空と新品の洋服と、蜂蜜入りのホットミルクが好きという情報のみだった。
甲洋が彼の存在を知ったのは、かれこれ半年ほど前に遡る。
*
春日井甲洋には幼馴染の近藤剣司という友人がいる。
元々は遠い島の漁師町で生まれ育った甲洋と剣司は、家を出て本土で一人暮らしを始めてからもときどき連絡を取り合い、食事をしたり──成人してからは酒を飲んだり──する仲だった。
そんな剣司がある日、『渡したいものがある』というメールを寄こした。
行きつけの居酒屋で顔を合わせた彼は、大きな紙袋を手に提げていた。剣司はそれをずずいと甲洋に差し出し、
「よかったらこれ、全部もらってやってくれ」
と、出し抜けにそう言った。
紙袋の中身は大量のエロDVDだった。剣司の秘蔵コレクションである。困惑するばかりの甲洋に、彼は要咲良と婚約することになったのだと照れくさそうに頭をかいた。
咲良もまた同郷の幼馴染で、なかなかに気性の荒い男勝りな姉御肌だった。昔から尻に敷かれて子分のような扱いを受けていた剣司だったが、そのやり取りは軽快な夫婦漫才を見ているようで微笑ましいものだった。ゆくゆくは本当にそうなりそうだという予感はあったので、さほど驚きはしなかった。
素直におめでとうと祝福する甲洋に、剣司はくすぐったそうに、けれど少し苦い笑みを浮かべながらビールをあおると事情を話しはじめた。
婚約を機に咲良と同棲することも決まり、今より少し広めの部屋に引っ越すことも決まった。そこで困るのが秘蔵のエロコレクションで、どう処分するかと考えたとき、真っ先に甲洋の顔が浮かんだのだと。
「その様子だと相変わらず彼女作る気ないんだろ? もったいねぇよなぁお前。でも、これで少しは生活も潤うってもんだろ?」
断られる可能性など微塵も考慮していない様子で、剣司は腕を組むとウンウンと頷いている。
だいぶ複雑な気持ちにさせられはしたが、拒む理由も特になかった。正直なところ、紙袋の中身への興味は尽きない。ストイックに見えるのは側だけで、甲洋は心身ともに健全な成人男子である。剣司が言う通り、今のところ女性と付き合う気はないが──これにはちゃんと理由がある──だからと言って興味がないわけではない。甲洋はむっつりスケベなのだ。
それに拒んだ結果、もしまかり間違ってコレクションが咲良の目に触れるようなことがあれば、修羅場と化すのは目に見えている。これも人助けだと心の中で言い訳をして、甲洋はそれをありがたく受け取ることにした。
甲洋が紙袋をすぐ脇に置いたのを確認した剣司は、あからさまに安堵の表情を浮かべた。それからふと思いだしたように「あぁでもさ、ひとつだけ問題作があるんだよな」と、気になることを言いだした。
「いわゆる男の娘ってやつ?」
ネットの広告でたまたま見かけてついつい手を出してはみたものの、剣司の性癖には刺さらなかったらしい。
「いくら可愛くても、やっぱ男じゃ抜けねーわ」
そう言ってつまみの枝豆をチマチマと食べていたが、「でもさ、案外新しい扉が開くかもだろ」と、甲洋があえて女性と一線を引く生活を送っている事情を知る剣司は、わざとらしくウィンクをして見せた。
そのときの甲洋はただ苦笑するだけだった。ニューハーフだとか男の娘だとか、そういったカテゴリに一定の需要があることは知っているつもりだが、おそらく食指が動くことはないだろうなと。
そのときは確かにそう思っていた、はずなのだが──。
*
結果的に、甲洋の新しい扉は開かれてしまった。
今では来栖ミサオという存在にどっぷり浸かった生活を送っている。
初めはただの好奇心と怖いもの見たさだった。
問題のソフトのパッケージを飾っていた『メイドさん』は、言われなければ男だなんて思えないほど愛らしい顔をしていた。本当にこの子に自分と同じものがついているのかと、つい興味を惹かれてディスクを再生してしまったのだ。そして予想外の未来に辿り着いてしまった。
穢れを知らない少女のようなあどけない表情に、線の細い未発達な身体つき。可憐なメイド姿で男優と濃厚な絡みを演じる姿に、甲洋はいつしか画面から目が離せなくなっていた。
それ以来、甲洋はミサオが出演する作品を片端から買い漁った。まるで葛藤がなかったわけではないが、気づくと想いを馳せている自分に、もはや歯止めがきかなくなっていた。
時にはドジっ子新米ナース、時には裸エプロンの幼妻。巫女であったり、変身ヒロインであったり、企画に応じてミサオはいかようにも姿を変える。
けれど無邪気で子供っぽく、天然な言動や仕草だけは変わらない。この手の映像特有の、どこかたどたどしい演技にも異様なほど胸をくすぐられた。
ミサオへの尽きない興味が、全く見えてこない彼の私生活や境遇へも向けられていくのは必然だった。
どうしてこんな可愛い子が、こんないかがわしい仕事をしているのだろう。そこにはどんな事情があるのだろう。想像はどこまでも膨らんだ。
例えば──事業のため闇金に手を出した親に先立たれ、多額の借金を背負わされているのではないか、とか。付き合っていた男が実はとんでもないギャンブル好きで、そいつに騙されて嫌々働かされているのではないか、とか。
ベタな妄想をしては勝手に胸を痛めて、俺なら絶対にそんな苦労はさせないし、なにがあっても守ってやれるのになんて、ふとそんなことを考えては虚しくなる。
バカみたいだ。実際の彼がどんな人間かなんて分からない。それを知る必要だってない。甲洋が抱く幻想なんて、秋風に揺れる枯れ葉のようになんの価値もないものだった。
甲洋はただ金を払って、来栖ミサオという虚像に夢を見ている。それ以上でもそれ以下でもなく、だからこそ安心して想いを寄せていられるのかもしれない。
ぼうっと物思いに耽っていた甲洋は、いったんPCの電源を落とすと洗面所へ向かい、手を洗った。それから締め切っていた部屋のカーテンを開け、ついでにベランダの窓を開ける。夕陽が射し込み、少し強い風が吹き抜けて室内の淀んだ空気を洗い流していく。
もう少し風に当たりたくなって、サンダルを引っ掛けるとベランダに出た。三階からの景色は絶景とまではいかないが、周辺は低層の住宅が立ち並ぶ地域であるため、眺望がよく開けている。
手すりに手をかけ、大きな深呼吸をした。冷めたく澄んだ秋風が肺を潤す。そのままなんとなく夕暮れの街を眺めていると、すぐ隣のベランダから
「嘘ぉ!?」
という声が聞こえてきて、少し驚いた。
(なに?)
声は仕切りの向こう側から聞こえてきた。隣はずっと空き部屋だったが、つい最近、新たに人が入居したことには気がついていた。けれど甲洋は基本的に昼夜逆転の生活を送っているし、滅多なことでは昼間に外を出歩かないため、顔を合わせたことは一度もない。もちろん名前すら知らないのだった。
「なんで!? なんでないのぉ!? もしかして泥棒!?」
隣人はひどく狼狽えている。ただ事ではない気配を察した甲洋は少し迷ったが、仕切りに手をかけるとひょっこり顔を覗かせてみた。
赤いシャツにエプロン姿の隣人が、ベランダの手すりから身を乗り出してガックリと項垂れている。両手をぶらぶらとさせ、「そんなぁ~」とため息まじりに呟いていた。
「……どうかした?」
遠慮がちに声をかける。すると隣人がこちらに顔を向けた。うるうると潤んだ瞳と目が合った瞬間、甲洋は息を呑むと岩のように硬直した。
「あ……お隣さん、こんにちは」
弱々しい声で挨拶をしてきた隣人は、亜麻色の髪をした美少年だった。その顔には猛烈に見覚えがある。なにせついさっきまでオカズにしていたのだ。女子校生の格好をして、男たちに囲まれて、小さな手と口で怒張するイチモツに奉仕していた。
甲洋はその姿にいたく興奮して、右手を唸らせたばかりである。
「パンツが一枚なくなってて……買ったばかりで気に入ってたのに……」
少年は──来栖ミサオは、泣きそうな顔ですんっと鼻をすすっていた。彼の足元には洗濯カゴが置いてある。彼は洗濯物を取り込んでいた最中、お気に入りのパンツが見当たらないことに気づいたらしい──が、全く頭に入らない。全ての音が意識からシャットアウトされている。
甲洋は頭が真っ白で、なにひとつ声を発することができなかった。心臓ごとガチガチに硬直したまま、すぅっと身を引いてサンダルを脱ぐと部屋に引っ込み、窓を締め、カーテンも締めた。完全なる無の境地でノロノロとベッドまで行き、浅く腰掛けて姿勢を正す。それから数分、放心状態が続いた。
「……夢、かな」
今さっき、ベランダで来栖ミサオに会ったような気がする。あの可愛い顔を見間違えるはずはない。
「待って、本当に?」
甲洋は静かに混乱した。隣のベランダで来栖ミサオが洗濯物を取り込んでいて、お気に入りのパンツがないことに気づいて泣きそうになっていて、声をかけると挨拶をしてくれて──。
「いや夢だろ!?」
頭を抱えながらドッと汗をかく。夢だ。絶対に夢だ。だってあの来栖ミサオが、こんなに近くにいるはずがない。
甲洋はいてもたってもいられず勢いよく立ち上がると、再びカーテンと窓を開けて裸足でベランダに飛びだした。仕切りに手をかけ、思い切って覗き込んでみた──が、そこには誰もいなかった。
「……だよな」
安堵の息をつきながら、少しだけ笑ってしまった。
あまりにも恋い焦がれすぎて、ついに幻まで見るようになってしまったのだろうか。全くしょうがないなと、自分で自分に呆れ返った。
「でも……いい夢だったな……」
どんなに想い煩っても、ミサオが夢に出てきたことはまだ一度もなかった。だからあれが夢や幻だったとしても、猛烈に気分がいい。さすがにちょっとヤバいところまでこじらせているような気はするけれど、別に構わなかった。
「こんにちは、だってさ」
赤いシャツを着て、エプロンなんかつけちゃって。あぁ可愛い。本当に可愛い。間違いなく可愛い。一体どんなパンツだったんだろう。気になって、今夜は仕事が手につきそうにない。
甲洋はデレデレと緩む頬を、誰に見られているわけでもないのに手のひらで押さえつけ、再び部屋へと引っ込んだ。
←戻る ・ 次へ→
PCが発する青みを帯びた光が、フローリングの床に薄ぼんやりと反射している。
辺りが静寂に包まれるなか、甲洋は画面を食い入るように見つめていた。繋がれたイヤホンから直に流れ込んでくる音声に、ごくりと大きく喉を鳴らす。
『ぁむ、ん、ん、んぅっ……』
少し苦しそうにくぐもった声と被さるように、じゅぽ、じゅぽ、という卑猥な水音が響き渡る。画面の中ではいたいけな『女子校生』が、全裸の男たちに囲まれて口淫にふけっていた。
首元にはエンジ色の大きなリボン。白い半袖ブラウスの前は完全にはだけ、未発達な胸からヘソまでのラインが露わになっている。際どいミニのプリーツスカートは空色のチェック柄で、すらりと伸びた細い足は清純そうな紺のハイソックスに包まれていた。
女子校生は仁王立ちする男の正面に膝をつき、モザイクがかかった性器を熱心に咥えこんで奉仕している。その周りでは数人の男たちが自身を扱き、順番が来るのを今か今かと待っていた。
『あぁ~っ、いい! いいよミサオちゃん! 気持ちいい! もう出るッ』
『んぐぅっ!? ぉ゛ッ、ぁ゛……ッ!』
男は女子校生の亜麻色の髪を鷲掴み、股間に強く押しつけると喉の奥まで性器を押し込む。ミサオと呼ばれた女子校生は濁った悲鳴をあげながら、目を見開いて肩をぐっと強張らせた。
ギリギリのタイミングで引き抜かれた性器の先端から、白濁とした精液がぶちまけられて、ミサオのあどけない顔や前髪に降り注ぐ。ミサオはぺたりと座り込み、ひどくむせながら涙を浮かべていたが、次の男のイチモツが容赦なく小さな口にねじ込まれて再び奉仕がはじまった。
待ちきれなくなった男の一人が、ミサオの白い手を猛る自身へ導いて掴ませる。もう片方の手も同様に別の男の竿を掴まされ、ミサオは口と両手で男たちの欲望を慰めていく。
溢れだす唾液と男の先走りが、白く柔らかそうな太ももにパタパタと落ちては流れていった。
『ぁうんっ、やッ、ぅんんッ!』
背後から別の男がミサオに忍び寄ると、回り込んできた両手が桃色の乳首をそれぞれきゅうと摘み上げる。ミサオは肩を大きく跳ねさせ、表情を歪ませながら身をくねらせて悲鳴をあげた。
男は乳首をいじめながら、片方の手をスカートの裾へと伸ばしていく。ゆっくりとじらすようにめくりあげると、すかさず現れたモザイクが大事な部分を隠してしまう。けれど色やシルエットから、緩く勃ちあがった小さな屹立が顔を出したことは丸わかりだった。
『ミサオちゃん! 出すよ! ボクのザーメン、ミサオちゃんの顔に出すよっ! あぁッ、あ、あ~~~っ!』
『ッ、ぁ、はぁ、ん! ぁ、あ……すごい、いっぱい出たぁ……』
すでに唇の端や頬に白濁を付着させている顔の中心に、男が精をぶちまける。鼻先や額にそれを受け止めながら、ミサオは恍惚とした表情を浮かべていた。両手に握っていた竿からも精が噴き出し、白いブラウスの肩やエンジのリボンにじんわりとシミを作り上げる。
『みんな、今日はたくさん気持ちよくなっていってね。もっといっぱい、ミサオにおちんぽミルクぶっかけて』
可憐な唇から漏れたあからさまな淫語。顔も髪も制服も、男たちの欲望にまみれながらミサオが笑う。女子校生の格好をした少年を取り囲む複数の男たちが、さらに熱量をあげていっせいに彼へ向かって手を伸ばした。
……。
…………。
「……ふぅ」
そこで甲洋はいったん映像を停止させ、深い息を漏らすとティッシュの箱に手を伸ばす。何枚か引き抜いて汚れた右手と自身を軽く清めると、ゴミ箱に丸めたティッシュを放り投げた。
急激に虚しさが込み上げて、甲洋はしばし項垂れる。時刻は夕方4時を回ったところ。夜もふけないうちから、一体なにをしているのだろう。
しかし甲洋の生活サイクルでは、この時間帯でなければのんびりAV観賞などしていられない。夜から朝にかけては仕事が入っているからだ。
ガラス製のローテーブルの上に置かれたPCの横には、ディスクが収まっていた空のケースが置かれていた。タイトルは『来栖ミサオぶっかけファン感謝祭20連発』というもので、女子校生姿のミサオが両手に男性器を持ち、M字開脚をしながら幼い笑顔でこちらに笑いかけている。純白の下着は女性物で、けれど中央がふっくらと小さな山型になっていた。
来栖ミサオはいわゆるゲイビデオに出演している、ネコ専AV男優だった。
代表作は『ピュアホワイト真性中出し!ドジっ子ナース24時』、『幼妻ミサオ♡朝から晩まで子作りセックス~新婚編~』などなど。
本名や年齢など、その他諸々のプロフィールは非公開とされているが、あまりにも幼い顔立ちや発育途中と分かる身体つきから、おそらく未成年と思われる。公開されているのは綺麗な空と新品の洋服と、蜂蜜入りのホットミルクが好きという情報のみだった。
甲洋が彼の存在を知ったのは、かれこれ半年ほど前に遡る。
*
春日井甲洋には幼馴染の近藤剣司という友人がいる。
元々は遠い島の漁師町で生まれ育った甲洋と剣司は、家を出て本土で一人暮らしを始めてからもときどき連絡を取り合い、食事をしたり──成人してからは酒を飲んだり──する仲だった。
そんな剣司がある日、『渡したいものがある』というメールを寄こした。
行きつけの居酒屋で顔を合わせた彼は、大きな紙袋を手に提げていた。剣司はそれをずずいと甲洋に差し出し、
「よかったらこれ、全部もらってやってくれ」
と、出し抜けにそう言った。
紙袋の中身は大量のエロDVDだった。剣司の秘蔵コレクションである。困惑するばかりの甲洋に、彼は要咲良と婚約することになったのだと照れくさそうに頭をかいた。
咲良もまた同郷の幼馴染で、なかなかに気性の荒い男勝りな姉御肌だった。昔から尻に敷かれて子分のような扱いを受けていた剣司だったが、そのやり取りは軽快な夫婦漫才を見ているようで微笑ましいものだった。ゆくゆくは本当にそうなりそうだという予感はあったので、さほど驚きはしなかった。
素直におめでとうと祝福する甲洋に、剣司はくすぐったそうに、けれど少し苦い笑みを浮かべながらビールをあおると事情を話しはじめた。
婚約を機に咲良と同棲することも決まり、今より少し広めの部屋に引っ越すことも決まった。そこで困るのが秘蔵のエロコレクションで、どう処分するかと考えたとき、真っ先に甲洋の顔が浮かんだのだと。
「その様子だと相変わらず彼女作る気ないんだろ? もったいねぇよなぁお前。でも、これで少しは生活も潤うってもんだろ?」
断られる可能性など微塵も考慮していない様子で、剣司は腕を組むとウンウンと頷いている。
だいぶ複雑な気持ちにさせられはしたが、拒む理由も特になかった。正直なところ、紙袋の中身への興味は尽きない。ストイックに見えるのは側だけで、甲洋は心身ともに健全な成人男子である。剣司が言う通り、今のところ女性と付き合う気はないが──これにはちゃんと理由がある──だからと言って興味がないわけではない。甲洋はむっつりスケベなのだ。
それに拒んだ結果、もしまかり間違ってコレクションが咲良の目に触れるようなことがあれば、修羅場と化すのは目に見えている。これも人助けだと心の中で言い訳をして、甲洋はそれをありがたく受け取ることにした。
甲洋が紙袋をすぐ脇に置いたのを確認した剣司は、あからさまに安堵の表情を浮かべた。それからふと思いだしたように「あぁでもさ、ひとつだけ問題作があるんだよな」と、気になることを言いだした。
「いわゆる男の娘ってやつ?」
ネットの広告でたまたま見かけてついつい手を出してはみたものの、剣司の性癖には刺さらなかったらしい。
「いくら可愛くても、やっぱ男じゃ抜けねーわ」
そう言ってつまみの枝豆をチマチマと食べていたが、「でもさ、案外新しい扉が開くかもだろ」と、甲洋があえて女性と一線を引く生活を送っている事情を知る剣司は、わざとらしくウィンクをして見せた。
そのときの甲洋はただ苦笑するだけだった。ニューハーフだとか男の娘だとか、そういったカテゴリに一定の需要があることは知っているつもりだが、おそらく食指が動くことはないだろうなと。
そのときは確かにそう思っていた、はずなのだが──。
*
結果的に、甲洋の新しい扉は開かれてしまった。
今では来栖ミサオという存在にどっぷり浸かった生活を送っている。
初めはただの好奇心と怖いもの見たさだった。
問題のソフトのパッケージを飾っていた『メイドさん』は、言われなければ男だなんて思えないほど愛らしい顔をしていた。本当にこの子に自分と同じものがついているのかと、つい興味を惹かれてディスクを再生してしまったのだ。そして予想外の未来に辿り着いてしまった。
穢れを知らない少女のようなあどけない表情に、線の細い未発達な身体つき。可憐なメイド姿で男優と濃厚な絡みを演じる姿に、甲洋はいつしか画面から目が離せなくなっていた。
それ以来、甲洋はミサオが出演する作品を片端から買い漁った。まるで葛藤がなかったわけではないが、気づくと想いを馳せている自分に、もはや歯止めがきかなくなっていた。
時にはドジっ子新米ナース、時には裸エプロンの幼妻。巫女であったり、変身ヒロインであったり、企画に応じてミサオはいかようにも姿を変える。
けれど無邪気で子供っぽく、天然な言動や仕草だけは変わらない。この手の映像特有の、どこかたどたどしい演技にも異様なほど胸をくすぐられた。
ミサオへの尽きない興味が、全く見えてこない彼の私生活や境遇へも向けられていくのは必然だった。
どうしてこんな可愛い子が、こんないかがわしい仕事をしているのだろう。そこにはどんな事情があるのだろう。想像はどこまでも膨らんだ。
例えば──事業のため闇金に手を出した親に先立たれ、多額の借金を背負わされているのではないか、とか。付き合っていた男が実はとんでもないギャンブル好きで、そいつに騙されて嫌々働かされているのではないか、とか。
ベタな妄想をしては勝手に胸を痛めて、俺なら絶対にそんな苦労はさせないし、なにがあっても守ってやれるのになんて、ふとそんなことを考えては虚しくなる。
バカみたいだ。実際の彼がどんな人間かなんて分からない。それを知る必要だってない。甲洋が抱く幻想なんて、秋風に揺れる枯れ葉のようになんの価値もないものだった。
甲洋はただ金を払って、来栖ミサオという虚像に夢を見ている。それ以上でもそれ以下でもなく、だからこそ安心して想いを寄せていられるのかもしれない。
ぼうっと物思いに耽っていた甲洋は、いったんPCの電源を落とすと洗面所へ向かい、手を洗った。それから締め切っていた部屋のカーテンを開け、ついでにベランダの窓を開ける。夕陽が射し込み、少し強い風が吹き抜けて室内の淀んだ空気を洗い流していく。
もう少し風に当たりたくなって、サンダルを引っ掛けるとベランダに出た。三階からの景色は絶景とまではいかないが、周辺は低層の住宅が立ち並ぶ地域であるため、眺望がよく開けている。
手すりに手をかけ、大きな深呼吸をした。冷めたく澄んだ秋風が肺を潤す。そのままなんとなく夕暮れの街を眺めていると、すぐ隣のベランダから
「嘘ぉ!?」
という声が聞こえてきて、少し驚いた。
(なに?)
声は仕切りの向こう側から聞こえてきた。隣はずっと空き部屋だったが、つい最近、新たに人が入居したことには気がついていた。けれど甲洋は基本的に昼夜逆転の生活を送っているし、滅多なことでは昼間に外を出歩かないため、顔を合わせたことは一度もない。もちろん名前すら知らないのだった。
「なんで!? なんでないのぉ!? もしかして泥棒!?」
隣人はひどく狼狽えている。ただ事ではない気配を察した甲洋は少し迷ったが、仕切りに手をかけるとひょっこり顔を覗かせてみた。
赤いシャツにエプロン姿の隣人が、ベランダの手すりから身を乗り出してガックリと項垂れている。両手をぶらぶらとさせ、「そんなぁ~」とため息まじりに呟いていた。
「……どうかした?」
遠慮がちに声をかける。すると隣人がこちらに顔を向けた。うるうると潤んだ瞳と目が合った瞬間、甲洋は息を呑むと岩のように硬直した。
「あ……お隣さん、こんにちは」
弱々しい声で挨拶をしてきた隣人は、亜麻色の髪をした美少年だった。その顔には猛烈に見覚えがある。なにせついさっきまでオカズにしていたのだ。女子校生の格好をして、男たちに囲まれて、小さな手と口で怒張するイチモツに奉仕していた。
甲洋はその姿にいたく興奮して、右手を唸らせたばかりである。
「パンツが一枚なくなってて……買ったばかりで気に入ってたのに……」
少年は──来栖ミサオは、泣きそうな顔ですんっと鼻をすすっていた。彼の足元には洗濯カゴが置いてある。彼は洗濯物を取り込んでいた最中、お気に入りのパンツが見当たらないことに気づいたらしい──が、全く頭に入らない。全ての音が意識からシャットアウトされている。
甲洋は頭が真っ白で、なにひとつ声を発することができなかった。心臓ごとガチガチに硬直したまま、すぅっと身を引いてサンダルを脱ぐと部屋に引っ込み、窓を締め、カーテンも締めた。完全なる無の境地でノロノロとベッドまで行き、浅く腰掛けて姿勢を正す。それから数分、放心状態が続いた。
「……夢、かな」
今さっき、ベランダで来栖ミサオに会ったような気がする。あの可愛い顔を見間違えるはずはない。
「待って、本当に?」
甲洋は静かに混乱した。隣のベランダで来栖ミサオが洗濯物を取り込んでいて、お気に入りのパンツがないことに気づいて泣きそうになっていて、声をかけると挨拶をしてくれて──。
「いや夢だろ!?」
頭を抱えながらドッと汗をかく。夢だ。絶対に夢だ。だってあの来栖ミサオが、こんなに近くにいるはずがない。
甲洋はいてもたってもいられず勢いよく立ち上がると、再びカーテンと窓を開けて裸足でベランダに飛びだした。仕切りに手をかけ、思い切って覗き込んでみた──が、そこには誰もいなかった。
「……だよな」
安堵の息をつきながら、少しだけ笑ってしまった。
あまりにも恋い焦がれすぎて、ついに幻まで見るようになってしまったのだろうか。全くしょうがないなと、自分で自分に呆れ返った。
「でも……いい夢だったな……」
どんなに想い煩っても、ミサオが夢に出てきたことはまだ一度もなかった。だからあれが夢や幻だったとしても、猛烈に気分がいい。さすがにちょっとヤバいところまでこじらせているような気はするけれど、別に構わなかった。
「こんにちは、だってさ」
赤いシャツを着て、エプロンなんかつけちゃって。あぁ可愛い。本当に可愛い。間違いなく可愛い。一体どんなパンツだったんだろう。気になって、今夜は仕事が手につきそうにない。
甲洋はデレデレと緩む頬を、誰に見られているわけでもないのに手のひらで押さえつけ、再び部屋へと引っ込んだ。
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広い店内はほんの数人の客がいるだけで、閑散と並ぶ小島のようにぽつりぽつりとテーブルを埋めている。コーヒーの香りが立ち込める空間に、レコード盤のジャズが緩やかな時の経過と共に流れていた。
そんな中、甲洋と操はフロアの片隅で向かい合って座っていた。
他に空席はいくらでもあるはずなのに、ふたりがついているのは人気のないトイレ脇の席である。俺のせいなんだよなと、甲洋は胸の内で嘆息を漏らした。
なにせ相変わらずの格好だ。
店の中でも脱がずにいるモッズコートは酷くくたびれ、サイズの大きさが長身をモヤシのように貧弱に見せていた。伸ばしっぱなしの癖毛を白い頬に張りつかせ、あげく牛乳瓶の底のように曇った丸眼鏡をかけている。
野暮で貧相。そして胡乱。一種独特のオーラを放ちながらのっそりと入店した甲洋を、店員はホームレスが迷い込んできたかのような不信感と憐憫を滲ませながら、この席に案内した。
甲洋は曇った眼鏡越しに操の様子をうかがった。
彼は熱々のミルクティーにすっかり気を取られている。執拗に息を吹きかけて、火傷をしないようにチビチビと口をつけて飲んでいた。白いニットセーターの袖からちょこんと出ている指先が、カップの熱で赤く染まっている。
操は席のことなどまるで気にしていないらしい。そのことに密かな安堵を覚えながら、甲洋は持ち上げていたコーヒーカップを受け皿に戻した。
「仕事はどう? そろそろ慣れた?」
甲洋の問いかけに、操は「ん」と声をあげながら顔をあげ、にっこり笑って頷いた。
「まぁまぁうまくやれてるよ。失敗することも多いけど」
「まだ一週間じゃしょうがないよ」
「うん。でもね、店長が優しいからぜんぜん平気。ずっと付きっきりで教えてくれるしね」
「付きっきりで?」
「そう、付きっきりで」
操は一週間ほど前から新しくアルバイトを始めていた。ふたりが暮らすマンションから、地下鉄で数駅の場所にある小さなケーキ屋だ。
所属していたAV事務所を辞めたあと、しばらくはのんびりと過ごしていた彼だったが、そろそろゲームばかりしているのにも飽きたらしい。ある日突然、「暇だからバイトする」なんてことを言いだした。
ケーキ屋を選んだのは「余ったケーキを食べられるかもしれない」という、甘党の彼らしい単純な理由からである。
ちなみに今日は操がバイト終わりに買いたいものがあると言うので、今夜は仕事が入っていない甲洋も付き合うことにした。
この喫茶店は駅の裏手にあり、ケーキ屋からも徒歩で10分とかからない場所にある。だからここを待ち合わせ場所にしたのだが、先についていたのが操の方であったなら、今とはまったく別の席へ案内されていただろう。
けれどそんなことよりも、甲洋は操の言葉のほうに大きな引っ掛かりを覚えていた。
「……その店長って」
「ん?」
「男?」
操はカップを皿に戻しながら、きょとんとした顔で首を傾げる。
「そうだけど、なんで?」
「……いや、別に」
言いながら、瓶底眼鏡の奥で思わず目を逸してしまう。操はパチパチと瞬きを繰り返していたが、やがて何かに気づいてにま~っとした笑みを浮かべて見せた。
「ねぇねぇ、それってもしかしてヤキモチ?」
「そういうわけじゃ……」
「ぷっ」
ケラケラと笑いだす操に、甲洋はそうと分かりにくい程度に顔をしかめた。
悪いかよ、と心のなかで毒づきながら赤く染めた頬が、鬱陶しい前髪と曇った眼鏡に上手く隠されていることが救いだった。
「俺はただ心配してるだけだよ」
恋人ができてみて初めて、甲洋は自分が過剰なまでに心配性で独占欲の強い人間であることを知った。
それは操が元AV男優であったことも、大いに関係しているだろう。
男優といってもネコ専で、もっぱら男の娘として売り出されていたため、甲洋のようにヘテロであるにも関わらず懸想してしまった男は、決して少なくないはずだ。
だからその店長の男とやらも、いつどんな気を起こすか知れたもんじゃない。いやむしろ、とっくにそんな気を起こしている可能性が──
「大丈夫だって。お尻触られるくらい、別にどうってことないもん」
「そう、ならいいけ、ど……いや待って。いまなんて言った?」
「ん? だから、腰とかお尻とか」
「……触られたのか?」
「うん。でもおれ、そういうのは慣れてるし。ほら、痴漢バスとかあったでしょ。あの要領だよ」
そんな要領あってたまるか!!
と、叫びたいのをどうにか堪えた。
つまり操はセクハラを受けているということだ。これでもかというほど深く刻まれた眉間のシワを、咄嗟に指先で強く押さえる。
ここがトイレの側だったのは、かえって好都合だった。周辺は席が埋まっておらず、他人に会話を聞かれる心配もない。
操が言っているのは『穢されたメガネっ子セーラー服・わいせつ集団バス痴漢』という作品のことである。部屋に戻ればミサオボックスにしっかり収納されている。過去に何度お世話になったか知れない作品のひとつだ。
内容はメガネにセーラー服姿の【来栖ミサオ】が、バスの車内で集団痴漢にあうというものだった。眼鏡にぶちまけられた白濁や、つり革に拘束されながら乱されていくセーラー服姿の彼に、どれほど興奮させられたことか──。
いや、今はそんな性の思い出に浸っている場合ではない。瓶底眼鏡のせいで分かりにくいが、甲洋は今とんでもなく険しい顔つきになっている。
「どうして今までそれを黙って……」
「別にあそこまでのことはされてな」
「当たり前だ」
食い気味に声を発しながら、もはや手遅れであったことに歯噛みする。
そもそも甲洋は操がバイトをすること自体、最初から手放しで賛成していたわけではないのだ。本音を言えば、ずっと家で遊んでいてくれて構わないとすら思っている。むしろその方が安心だと。
なにせ彼は以前、ストーカーと化したファンに襲われたことがあるのだ。留守のあいだ部屋に侵入され、隠れ潜んでいた男にレイプされかけた。
犯人は逃走したまま、未だに捕まっていない。そいつが今も操を狙っていないとも限らず、その懸念がどうしても胸に引っかかっている。
せめて犯人が捕まるまではなるべく一人で外を歩かせたくないし、夜のあいだ留守を任せておくことだって不安で仕方がないほどだった。
かと言って操がやりたいと思うことを頭ごなしに反対するわけにもいかず、明るい昼間の数時間程度ならばと、無理やり自分を納得させたのだ。
知らない人にはついて行かないこと、人通りの少ない道は避けること、仕事が終わったら連絡すること、そして寄り道しないで帰ってくること。あと、鍵は絶対に失くさないこと──それらもきっちり約束させていた。
操には「心配しすぎ!」と煙たがられてしまったが、甲洋としてはまだまだ言い足りないくらいである。が、やっぱり反対しておけばよかった。
「来主」
「なにー?」
「もうその店には行かなくていい」
「へ?」
「行くな」
「なにそれ! おれにバイト辞めろってこと!?」
深く頷いた甲洋に、操は眉を吊り上げながらテーブルに身を乗り出した。
「そんなのやだよ! せっかく慣れてきたとこなのに! ケーキだって食べられなくなるじゃん! だいたいなんで君が勝手にそんなこと──」
「来主」
低い声で名前を呼んだ。訪れた沈黙のなか、かすかに聞こえるジャズがやけに寒々しい。
瓶底眼鏡の奥で、甲洋は完全に目が据わっていた。レンズが分厚すぎて操からは見えないはずだが、威圧感だけは十分に伝わっているようだった。
それでも気が強い彼は怯むことなく、けれどそれ以上は声を荒げず、ぶぅっと頬を膨らませながら腕を組んでそっぽを向いた。
「おれ、束縛されるのは好きじゃない」
「好きじゃなくて結構だ。こればっかりは譲れない」
そんなドスケベ店長がいる店に、これ以上大事な操を通わせるわけにはいかなかった。自分以外の男が彼にベタベタと触れ、鼻の下を伸ばしているのだと想像するだけで、切れてはいけない血管がブチブチと音を立てて千切れてしまいそうだ。
今すぐ店に殴り込んで行かないだけ、まだ理性的だと思ってほしい。
操は眉を吊り上げたまま甲洋を睨みつけてくる。甲洋もその視線から決して目を逸らさなかった。今まではあまり強気に出られず、なんやかんやと甘やかしていたけれど、負けられない戦いがそこにはあるのだ。
するとだんだん、操の肩が震えてきたことに気がついた。口元も微妙にニヤけはじめ、やがて「ぷふっ」と噴き出したかと思うと笑いだした。
「あははは! やっぱその眼鏡だと緊張感ないや!」
険悪だったムードが、一瞬でふわりとほどけてしまう。
操はうっすらと目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「あーぁ、君ってホント心配性だな。おれは平気だって言ってるのにさ」
「……俺は嫌だ」
低くこぼされた甲洋の本音に、操は瞳をいたずらっぽく細めながら両手で頬杖をつき、「彼氏っぽいね」と楽しげに言った。
「ぽいってなんだよ。ぽいって」
「怒った?」
「……別に。まぁ少し……いや、かなり」
「君って怒らないやつなんだと思ってた。あのね、笑っちゃったけど、本当はちょっとカッコよかったよ」
憎らしさを覚えながらも、そう言われると悪い気はしない。言った本人も嬉しそうに下げた目尻や頬を赤くしているものだから、怒るに怒れなくなってしまった。
そういうところなんだよなぁと、甲洋は思う。格好つけさせてなんかくれやしない。このちょっと生意気で掴みどころのない態度に、いつも振り回されている。
操はまるで手を伸ばすほどにヒラヒラと身をかわす蝶のようだった。
だから甲洋は躍起になる。もうただのファンじゃない。そんなプライドに少しずつ傲慢さを肥大させながら、絶えず惑わされている。それがたまらなく癖になっているから、これはきっと病気なのだ。悩ましくて、狂おしい。
「ねぇ見て、ヤバくね? アレ」
そのときふと、広めの通路を挟んだ向かい側からヒソヒソという話し声が聞こえた。つい今しがた席についたばかりの若いカップルが、こちらに視線を向けている。
「完全に不審者じゃん」
「あの眼鏡どこで売ってんだろうな? 昭和のコントかよ」
「でも向かいにいる子可愛くない? 男の子?」
「女だったら趣味ヤベェっしょ」
カップルは派手に噴き出し、肩を震わせて笑っている。
甲洋は操のことが気になった。自分はいい。不審者扱いされることも、嘲笑の的になることにも慣れている。だけど彼はどうだろう。自分といて、恥ずかしく思うことはないのだろうか。
こんなとき、どうしても気に病んでしまう。
甲洋が未だにこのスタイルを崩せないでいるのは、容姿に対するコンプレックスが拭いきれないでいるからだ。過去には無関係の女友達に怪我を負わせたことがある。もし操が同じ目にあえば、甲洋はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。
自意識過剰かもしれないと、そう思わないこともない。だけどそれほどまでに、自分の容姿には嫌な思い出しかないのだった。
「はぁー! いっぱい笑ったらお腹すいた!」
気持ちを澱ませていたところに、操が大きく息をつきながら声をあげた。そして脇を通り過ぎようとしていた店員に手をあげ、
「店員さーん! タマゴサンドとピザトーストとプリンアラモードくださーい! あとホットケーキも!」
と、声をかけた。甲洋は思わず目を丸くする。
「そんなに?」
「うん。ダメ?」
「いいけど、この時間にそんなに食べたら、夕飯どうするのさ」
「へーきへーき! ちゃんと食べるし!」
腹をぐぅっと鳴らしながら、操がにっこりと満面の笑みを浮かべた。その呑気な笑顔に、甲洋の肩からふっと力が抜けていく。
気にしないのだ。彼は。甲洋がどんな格好をしていたって、案内された席がトイレのすぐ脇だって。可愛いこの子と釣り合わない自分を、甲洋が心の底では密かに気にしていることも。
その頓着のなさに甲洋が救われていることを、彼は知らない。
「はんぶんこして一緒に食べようよ!」
「俺まで晩飯が入らなくなるだろ」
ソワソワと落ち着きがなくなっている操が腹を空かせた子犬にしか見えなくなって、甲洋はついささやかな声をあげて笑ってしまった。
*
秋の終わりに操が甲洋の部屋に転がり込んできてから、年をまたいでそろそろ二ヶ月半になる。
長いようで短いこの間、甲洋の心労は尽きることなく今も続いていた。
操はAV男優を引退してはいるけれど、彼の作品が未だに世に残り続けていることに変わりはない。今もどこかで操をオカズにしている男がいると思うと腹が立つし、例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。
それなのに当の操はどこ吹く風で、甲洋だけが神経質になっている。
夜は外に出るなと口を酸っぱくして言っても、操は面倒くさそうにするだけで効果はなかった。欲しいものがあれば夜中だろうが構うことなく、コンビニでもどこへでも行ってしまう。その無防備さが、甲洋にはまるで理解できない。
そういった心配事を除けば、操との暮らしは良好だった。
大量に持ち込まれた服を収納するための引き出しやクローゼットも買って、テレビも買ったら部屋は多少手狭になったが、特に困るということはない。
操はベタベタとくっついて構い倒してくることもあれば、急に興味をなくしたようにゲームに熱中しはじめることもある。邪魔するとぶーぶー怒るが、一緒にゲームをして遊んでやると無邪気に喜ぶ。
小さな子供と気まぐれな猫を、同時に相手しているような気分だった。
もちろんお揃いのマグカップも買った。
ふたりで蜂蜜たっぷりのホットミルクを飲みながら、夏でもこれなのかと聞いたことがある。すると操は、夏は冷えたミルクに溶けやすい蜂蜜シロップをたっぷり入れて飲むのだと言った。
お腹を壊しそうだと苦笑しながら、だったら揃いのグラスも買わなくちゃなと、これから先のことに思いを馳せてまた幸せを感じるのだった。
*
喫茶店を出たあと、ふたりは本来の目的である操の買い物を済ませるべく、そこからほど近いショッピングモールへと足を向けた。
モカ色をしたタータンチェックのガウンコートを着た操は、「早く早く」と言いながら甲洋の手を掴んで引っ張ってくる。
甲洋は「急ぐと転ぶよ」と軽く咎めながらも、今とっても恋人って感じがする……と、密かに感無量な思いだった。なにせ恋人とのこんなイチャイチャを、ずっと夢見ていたのである。
建物の中に入ってからも、操はずっと甲洋の手を引っ張っていた。時々ブラブラと揺らす仕草に、胸がキュッと締めつけられる。
どこもそれなりに混み合ってはいるものの、人が多いと逆に目につきにくくなるのか、ふだん道を歩いているときほど他人の視線が気にならない。男同士で手を繋いでいたとしても、せいぜい甘ったれで活発な弟と、買い物に付き合わされる野暮ったい兄、くらいにしか見られていなさそうな気がする。(それはそれでちょっと複雑だが)
操は気になるものがあると、しょっちゅう足を止めて寄り道をした。服屋や雑貨屋を何店舗かひやかしたあと、エスカレーターに乗って上階へと移動していく。
操は必ず甲洋より一段高いステップに乗って、「ほら、甲洋がちっちゃく見える」と言って笑った。表面的には苦笑しながら、心の中ではちくしょう可愛いな、と悶絶させられるばかりだった。
「あ!」
途中、操はエスカレーターを降りて正面にあった眼鏡屋に目をとめると、甲洋の手を引いたままそこへ一直線に向かって行った。
「ねぇ甲洋、ちょっとこれ見て」
「眼鏡? 来主って視力悪かったっけ?」
「違うって。ほらこれ、君に似合いそう」
店舗内には大きなテーブル型のディスプレイ台が幾つか設置してある。その上にズラリと眼鏡が並んでおり、好きに試着できるようになっていた。
「ちょっとかけてみてよ」
操はその中から黒縁の四角いスクエア型を手にとると、甲洋に差し出してきた。
「いや、俺はいいよ」
「なんで? ねぇちょっとだけ。かけてるとこ見せてよ!」
一応は眼鏡を受け取りながらも、甲洋はすっかり弱ってしまった。
店内には他にも客がいて、仕切りもないため人通りの多い通路からも丸見えだ。近所を歩くだけでも決して素顔を晒さない甲洋にとって、この状況はかなり厳しいものがある。
しかし操は甲洋の事情を知らないのだ。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いているのを見て、甲洋はやむを得ず一瞬だけならと妥協した。
ずしりと重たい瓶底眼鏡をそっと外すと、受け取った眼鏡をかけてみる。それを見た操は「ほら、やっぱり似合うじゃん」と言って得意げだった。
褒められると素直に嬉しくなってしまう。ついつい設置してある鏡に目をやり、自分でも確かめてしまった。
「どう?」
「どう、って言われても。軽い、かな」
「重さの話じゃなくて! 気に入った?」
「うん、まぁ。悪くはない、かな」
はにかんで笑ってしまった甲洋だったが、そのときふと視線を感じてギクリと肩を強張らせた。見れば店内の端にあるカウンターで、女性店員がぽーっと頬を染めながら甲洋を見つめている。
「ちょっと、あのひとイケメンじゃない?」
「え、ヤバ……めっちゃ好みなんだけど……!」
「芸能人かな? 隣の子も可愛い~!」
別のディスプレイ台でフレーム選びをしていたはずの女性客たちまで、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしあっているのが丸聞こえだった。
取り出したスマホで勝手に写真を撮ろうとしているのを見て、甲洋は慌てて眼鏡を外すと台に戻し、瓶底眼鏡を素早くかけた。
途端に女性客は表情を曇らせ、カウンターにいた店員も残念そうに眉をひそめる。面白いほどの反応の違いにいたたまれず、甲洋は操の手を引いてその場を離れた。
「行くよ、来主」
甲洋に手を引かれながら、なぜか操は終止無言だった。
ふと気になって足を止め、振り返ってみると彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。瓶底の奥で目を丸くした甲洋から、プイッと顔を背けてしまった。
「なに、どうかした?」
「べっつにぃ」
さっきまであんなに楽しそうにしていたはずなのに。操は甲洋の手を軽く振り払うと、両手を頭の後ろへやって指を組んでしまった。
すっかり不機嫌な操に困惑しつつも、この態度を見て察せないほど甲洋は鈍くない。
「来主」
「なに」
妬いてる? ──そう口に出しかけた言葉を飲み込んで、甲洋は操に手を差し出すと柔らかく笑いかけた。
「欲しいものがあるんだろ? 早く行こう」
本当は喫茶店での意趣返しも込めて、直接確かめてみたかった。だけどそれをしたら、気が強いこの子はきっともっと不機嫌な顔になってしまうだろう。
甲洋は操のこの態度だけで十分に嬉しさを感じていた。もちろん、少しくらいはからかってやりたい気持ちもあったけれど。
操は差し出された手を横目でチラリと見やってから、頭にやっていた両手をおろしておずおずと指先を伸ばしてきた。手の平にちょんと触れると、また唇を尖らせる。
甲洋はそれを優しく握りしめ、軽く引いて歩きだした。
「……あのさ」
「なに?」
「君さ、やっぱそっちの眼鏡の方がいいよ」
遠回しだけれどとても分かりやすい物言いに、思わず肩を揺らして笑ってしまった。すると操はムッとしながらそっぽを向いてしまう。
せっかく気を使ったのに。どうしても堪えきれなかったものだから、けっきょく操は不機嫌なままだ。
「わかったから。もうそんな顔しないで」
一方的に想いを寄せることに慣れていたせいで、いまいち実感を得られずにいたけれど、自分もまた特別に想われていることに喜びを噛みしめる。
早く帰って抱きしめたいなと、ニヤけそうになるのをぐっと堪えた。
「来主、そういえば欲しいものってなに?」
空気を変えるという意味もあったが、目的が分からなければどこへ行けばいいかも分からない。
操は「そうだった!」と言って思いだしたように表情を明るくすると、甲洋の手を引っ張ってエスカレーターの方へと戻っていった。
「こっちこっち! いっこ上のフロアだよ!」
確かこの上は書籍等の複合量販店だったと記憶している。
「欲しいものって本?」
今度も一段高いステップから見下ろしてくる操に問えば、彼は大きく首を左右に振って、「ゲームだよ」と言った。
「新しいソフト買うんだ」
「来主……ゲームばかりしてると、本当に眼鏡をかけなきゃいけなくなるよ。だいたい、ゲームは飽きたんじゃなかったっけ?」
呆れ顔で言った甲洋に、操は肩をすくめながら眉間にきゅっとシワを寄せた。
「いいじゃん別にぃ」
「よくない。夜ふかしばかりしてさ。あと、ついでに言うけどお菓子も食べすぎ。昨日も夜中にコンビニ行っただろ?」
「えっ、なんで分かるの? 甲洋仕事でいなかったじゃん」
上階についたところでステップを降り、甲洋は大きな溜息をついた。
「ゴミ箱が知らないお菓子の空袋で山になってれば、嫌でも気づくよ」
むしろバレていないと思っていたことが驚きである。
仕事を終えて朝に帰宅すると、前日の夜まではなかったはずの見知らぬゴミが大量に出ているのだ。床に食べカスが落ちていることだってある。操はその横でグースカとゲーム機のコントローラーを握りしめて眠っているのだから、流石に呆れる。
甲洋は書店の出入り口でいったん足を止めると、瓶底越しに険しい瞳を操に向けた。
「来主、何度も言ってるだろ。夜中に一人で出歩くのは危険だって」
「もー、分かったって。それもう聞き飽きたよ」
「分かってないから何度でも言うんだよ。お前を襲ったストーカーだって、まだ捕まってないんだぞ」
操は心底うんざりとした様子で息を漏らした。それから面倒くさそうに甲洋を睨みつける。
「君ってさ、彼氏っていうよりお父さんって感じだよね」
「お、お父さん?」
「おれは嫁入り前の娘じゃないんだからさぁ」
自分としては遺憾なく彼氏面を発揮しているつもりでいたのに、お父さんとはこれいかに。さすがの甲洋もショックを拭えない。
操は甲洋に口うるさく注意されるたび、父親に反発する娘のような気分を味わっていたということだ。そこは『心配性な彼氏♡』と思っていてほしかった。
「そ、そういうんじゃないだろ。俺はお前の彼……」
「もういいよ! お父さんはここで待ってて! おれサクッと行って買ってくるから!」
男心をザクザクと踏み荒らしながら、操は甲洋の手を離すと足早に本屋の中へと消えていく。
要するに「お父さんウザい!」と言われたも同然で、甲洋はその背を追いかけることもできずにただ深く項垂れた。
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