全てを思い出した黒鋼は、ただ力なく地面に膝をつき、ただひたすら百合の花を見つめていた。
心の中が空っぽだった。
全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。
この世界に、もうファイはいない。
あの日、全て失くしてしまったから。
「あれから……どれだけ経った……?」
漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。
「今日で、ちょうど一年」
「そうか……」
地面についていた拳を握る。
爪の中に細かな土が入り込む。
百合の花が揺れた。
あの日。
ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。
それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。
あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。
そんなときだ。
慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。
あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。
セピア色の記憶。
「あいつは……一年前の今日……ここで……」
当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。
溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。
子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。
警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。
ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。
「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」
ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。
「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」
ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。
そう、黒鋼は壊れていた。
信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。
それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。
なぜすぐにでも追わなかったのだろう。
なぜ、離してしまったのだろう。
ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。
ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。
どこかで迷子にでもなっているのか。
ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。
自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。
だから離してはいけなかったのに。
あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。
そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。
見たくないものから目を逸らした。
ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。
ここにいたのか。
ずっと探していた。
もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。
もう何処へも行くな。
おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。
俺がずっと、見ていてやるから。
ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。
ファイの名を呼びながら。
「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」
――でも、あまりにも哀れだったから。
黒鋼は再び力なく項垂れた。
まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。
後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。
握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。
ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。
「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」
『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』
その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。
*
霧は晴れていた。
今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。
ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。
何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。
一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。
新しい世界へ。
「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」
死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。
黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。
「そうだな」
男は、本当は最初から知っていたのだ。
今なら分かる。
娘も同じ願いだったのだろう。
だから幸せだった。
誰もが望む、幸福な結末。
黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。
水が迫ってくる。
あと少し。
もう少し。
心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。
「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」
水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。
深く深く、招き入れるような優しさで。
黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。
酷く待たせてしまった。
けれど、もう、すぐ。
「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」
そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。
やっと、会えたね。
『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』
『ふぅん? そうなんだ』
『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』
『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』
『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』
最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。
いつもそう。
黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど
「本当に、消えちゃったね」
ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。
萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。
黒鋼が消えていった湖を見つめる。
会えただろうか。
ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。
「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」
どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。
「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。
ユゥイは、百合の花束を水面に放った。
白い花びらが美しく散ってゆく。
そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。
また会える日まで。
例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。
ユゥイは幸せだった。
「さようなら」
優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。
あなたは私の名前を呼んでくれました。
抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。
私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。
それでも伝わるでしょうか。
私は心からあなたを待っていたのです。
私は心からあなたを愛しているのです。
やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
私はあなたと。
幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。
End
←戻る ・ Wavebox👏
心の中が空っぽだった。
全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。
この世界に、もうファイはいない。
あの日、全て失くしてしまったから。
「あれから……どれだけ経った……?」
漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。
「今日で、ちょうど一年」
「そうか……」
地面についていた拳を握る。
爪の中に細かな土が入り込む。
百合の花が揺れた。
あの日。
ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。
それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。
あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。
そんなときだ。
慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。
あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。
セピア色の記憶。
「あいつは……一年前の今日……ここで……」
当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。
溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。
子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。
警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。
ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。
「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」
ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。
「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」
ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。
そう、黒鋼は壊れていた。
信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。
それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。
なぜすぐにでも追わなかったのだろう。
なぜ、離してしまったのだろう。
ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。
ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。
どこかで迷子にでもなっているのか。
ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。
自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。
だから離してはいけなかったのに。
あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。
そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。
見たくないものから目を逸らした。
ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。
ここにいたのか。
ずっと探していた。
もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。
もう何処へも行くな。
おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。
俺がずっと、見ていてやるから。
ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。
ファイの名を呼びながら。
「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」
――でも、あまりにも哀れだったから。
黒鋼は再び力なく項垂れた。
まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。
後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。
握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。
ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。
「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」
『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』
その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。
*
霧は晴れていた。
今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。
ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。
何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。
一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。
新しい世界へ。
「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」
死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。
黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。
「そうだな」
男は、本当は最初から知っていたのだ。
今なら分かる。
娘も同じ願いだったのだろう。
だから幸せだった。
誰もが望む、幸福な結末。
黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。
水が迫ってくる。
あと少し。
もう少し。
心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。
「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」
水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。
深く深く、招き入れるような優しさで。
黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。
酷く待たせてしまった。
けれど、もう、すぐ。
「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」
そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。
やっと、会えたね。
『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』
『ふぅん? そうなんだ』
『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』
『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』
『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』
最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。
いつもそう。
黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど
「本当に、消えちゃったね」
ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。
萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。
黒鋼が消えていった湖を見つめる。
会えただろうか。
ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。
「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」
どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。
「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。
ユゥイは、百合の花束を水面に放った。
白い花びらが美しく散ってゆく。
そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。
また会える日まで。
例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。
ユゥイは幸せだった。
「さようなら」
優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。
あなたは私の名前を呼んでくれました。
抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。
私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。
それでも伝わるでしょうか。
私は心からあなたを待っていたのです。
私は心からあなたを愛しているのです。
やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
私はあなたと。
幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。
End
←戻る ・ Wavebox👏
ずっと待ってる。
「うーわー!! すっごいきれー!」
茜色の空の下、湖の深いグリーンの水面は夕日を反射してキラキラと光り輝いていた。
到着した途端、弾かれたように車から飛び出したファイは、おおはしゃぎで両手を広げて歓声を上げている。
自分の荷物とファイの荷物をまとめて肩に担ぎ、車から降りた黒鋼はその子供のように大騒ぎしている背中に溜息を零した。
「おら、てめぇ自分の荷物くらい持ってから降りろ」
「黒たん黒たん! ほら見てよ! 雑誌で見るよりすっごいキレイだよー!」
満面の笑みを浮かべてはしゃぐファイが、体当たりで黒鋼の腕にしがみついて遠くの湖を指差した。
その方向と黒鋼の顔とを、幾度も交互に見ているファイの金色の髪もまた、持ち主同様忙しなくふわふわと踊っている。
夕陽を反射して透き通る青い瞳が輝きを増していて、黒鋼は柄にもなく見惚れてしまいそうになった。
「わかったからひっつくんじゃねぇ」
「あ! 見て見て! 教会もあるよ! 十字架が見えるーっ」
照れ隠しにファイの額に手の平を当てて引き剥がそうとするも、彼はお構いなしに指差した手をブンブンと振った。
仕方なくその方向へ目をやると、そこにはまさに絶景と呼ぶにふさわしい光景が広がっている。
高台にある大型駐車場からは、湖を囲む豊かな木々と、その中に溶け込むようにして佇むホテルやコテージの屋根が一望できた。
ファイが言うように、教会のシンボルである十字架も見える。
「見事だな」
「ねぇねぇねぇ! 湖に行こうよー! オレ泳ぎたーい!」
「ばかやろう。まずはチェックインが先だ。しかもあそこは遊泳禁止って書いてあったろ」
「えー? そうだっけー?」
「しかもかなづちのくせによ」
「もう! 黒りんの意地悪ー!」
唇を尖らせるファイに呆れて、コツンと額を小突くと、当の本人からは「ぁう」というおかしな悲鳴が上がる。
そのまま彼を引き摺るかのようにホテルへの道を歩きはじめると、今度は「あ」という声が上がった。
「荷物、オレも持つー」
「あ? 別にいい」
「なんでー? だって自分のくらい持てって」
「うるせぇな。めんどくせぇからいいんだよ」
照れ臭さにそっぽを向いた黒鋼に、ファイはにんまりと微笑んで「ありがとう」と言った。
*
翌日もファイの騒がしさは相変わらずだった。
あれだけ湖に行くと喚いていたくせに、いざ外へ出てみるとその行き先はコロコロと変わる。
焼き立てベーグルが有名な喫茶店があるだとか、ここでしか見れない珍しい野鳥がいるだとか、あらかじめ雑誌やインターネットなどで仕入れたらしい情報を元に、黒鋼の手を強引に引いて歩き回った。
途中、美しく白いチャペルを2人で眺めていたときは、思わず機嫌を損ねるような態度を取ってしまった。
だがどんなことがあっても、次の瞬間ファイの顔には笑顔が戻っていた。
ときには他の観光客までも巻き込んだりしながら、彼はどこまでも伸びやかに、存分に旅を満喫しているようだった。
大自然の中では時間がゆっくりと流れるだなんて、そんなものは全くの嘘だと黒鋼は思った。
何もかもが激流のような速さで、いっそ息をつく間もないほど忙しなかった。
ちょっとくらいまったり満喫させろ、という不満も、ファイの幸せそうな笑顔の前では、まるでどうでもいいことのように思えた。
「次、湖に行かないとー!」
黒鋼の腕をぐいぐいと引っ張るファイは、一日中動き回ったくせに元気が有り余っている様子だった。
黒鋼はこの日だけで一体幾つになるか分からない溜息を零す。
「あとは明日にしとけ。もう陽が暮れるだろ」
「えー…でもさ、夕陽の下の湖キレイだよ? 黒様も見たいでしょ? ね?」
「こっからでもよく見えるぜ」
「もう!」
ぶぅ、と膨れるファイの頬。
黒鋼は腕時計で時間を確かめる。
そしてちょっと意地悪そうに口元だけで笑った。
「それにおまえ、今夜は豪華バイキングがあるんだとか言ってなかったか?」
「!」
「時間、これ以上遅れたらいい席取れねぇかもな。確か食いもんから一番近い席、取るんじゃなかったのか?」
「嘘!? もうそんな時間!?」
ファイの両手が強引に黒鋼の腕を取り、時計を覗き込んで時間を確かめると真っ青になる。
「なんでもっと早く言ってくれないのー!? バカ! 黒様のバカ!」
毛を逆立てた猫のように、金色の髪を震わせてファイはホテルへ向かって走り出す。
実際にはまだ夕食時には時間に余裕はあるのだが、ファイはせっかちなのだ。
黒鋼はその背中を見ながら、珍しく声を上げて笑った。
*
「もー! 黒様ってばいつまで食べてるのー? 早く行こうよー」
翌朝、コテージのテラスで朝食を摂っていた2人だったが、先に食べ終わったファイがじれったそうに黒鋼を急かしはじめた。
黒鋼は小煩いファイに向かって、あからさまに嫌そうな顔をする。
「飯くらいゆっくり食わせろ。だいたいてめぇ、よく噛んで食ったか?」
いつもはてんで朝に弱く、朝食だって倍の時間をかけてしか食べられないくせに。
今日は朝から湖へ行くのだとはりきっていた彼は、物凄い速さで食事を済ませてしまった。
「ちゃんと噛んだよー。ねぇ、早く早くー」
「だからゆっくりさせろって……。もっと落ち着けっていつも言ってるだろうが」
「ぶー」
本当にまるで子供だ。
いい歳をした大人の男とは到底思えない。
「今のうちに言っておくがな、てめぇははしゃぎすぎて、いつか絶対ろくでもねぇことになるぜ」
「もー、黒様ってばユゥイと同じようなこと言うー」
唇を尖らせるファイ。
ユゥイというのは、そんな彼の双子の弟だ。
黒鋼はまだ一度も会ったことはないのだが、ファイの口振りからするとどうやら兄とは正反対のようだ。
「てめぇと同じ顔して、ずいぶんとまともそうじゃねぇか」
「そうそうー、ユゥイは凄い大人でねー、オレの方がお兄さんなのにオレより何でも出来るしー、料理も上手いしー」
「中身入れ替えてもらってこい」
「ちょっとー!? それどーゆうことー!?」
それまでは双子の弟自慢をニコニコ顔でしていたファイだったが、黒鋼がからかうと思い切り眉を吊り上げた。
ダンッと両手をテーブルについて立ち上がる。
「もういいよ! ノロマな黒ワンコなんか待っててあげないんだからー!」
ぷりぷりと怒りながら、ファイはテーブルを横切り室内へ消えてしまった。
が、すぐにテラス脇の玄関が派手な音と共に開き、そこから飛び出して行く。
「転ぶんじゃねぇぞ」
「転ばないもん!」
そのまま駆け出すかと思いきや、ファイは一度振り向いた。
派手に啖呵を切った後だったからか、少しだけ照れ臭そうに頬を染めていた。
「黒たん?」
「ん」
「……早く来てね? オレ、先に行って待ってるから」
「ああ、わかってる」
「えへへ」
小さく微笑んで頷いてやると、ファイは嬉しそうにニッコリ笑って行ってしまった。
その背が小さくなり、やがて朝の光の中へ消えるまで、黒鋼はそれをいつまでも見守った。
それが最期になるなんて、知りもしないで。
←戻る ・ 次へ→
「うーわー!! すっごいきれー!」
茜色の空の下、湖の深いグリーンの水面は夕日を反射してキラキラと光り輝いていた。
到着した途端、弾かれたように車から飛び出したファイは、おおはしゃぎで両手を広げて歓声を上げている。
自分の荷物とファイの荷物をまとめて肩に担ぎ、車から降りた黒鋼はその子供のように大騒ぎしている背中に溜息を零した。
「おら、てめぇ自分の荷物くらい持ってから降りろ」
「黒たん黒たん! ほら見てよ! 雑誌で見るよりすっごいキレイだよー!」
満面の笑みを浮かべてはしゃぐファイが、体当たりで黒鋼の腕にしがみついて遠くの湖を指差した。
その方向と黒鋼の顔とを、幾度も交互に見ているファイの金色の髪もまた、持ち主同様忙しなくふわふわと踊っている。
夕陽を反射して透き通る青い瞳が輝きを増していて、黒鋼は柄にもなく見惚れてしまいそうになった。
「わかったからひっつくんじゃねぇ」
「あ! 見て見て! 教会もあるよ! 十字架が見えるーっ」
照れ隠しにファイの額に手の平を当てて引き剥がそうとするも、彼はお構いなしに指差した手をブンブンと振った。
仕方なくその方向へ目をやると、そこにはまさに絶景と呼ぶにふさわしい光景が広がっている。
高台にある大型駐車場からは、湖を囲む豊かな木々と、その中に溶け込むようにして佇むホテルやコテージの屋根が一望できた。
ファイが言うように、教会のシンボルである十字架も見える。
「見事だな」
「ねぇねぇねぇ! 湖に行こうよー! オレ泳ぎたーい!」
「ばかやろう。まずはチェックインが先だ。しかもあそこは遊泳禁止って書いてあったろ」
「えー? そうだっけー?」
「しかもかなづちのくせによ」
「もう! 黒りんの意地悪ー!」
唇を尖らせるファイに呆れて、コツンと額を小突くと、当の本人からは「ぁう」というおかしな悲鳴が上がる。
そのまま彼を引き摺るかのようにホテルへの道を歩きはじめると、今度は「あ」という声が上がった。
「荷物、オレも持つー」
「あ? 別にいい」
「なんでー? だって自分のくらい持てって」
「うるせぇな。めんどくせぇからいいんだよ」
照れ臭さにそっぽを向いた黒鋼に、ファイはにんまりと微笑んで「ありがとう」と言った。
*
翌日もファイの騒がしさは相変わらずだった。
あれだけ湖に行くと喚いていたくせに、いざ外へ出てみるとその行き先はコロコロと変わる。
焼き立てベーグルが有名な喫茶店があるだとか、ここでしか見れない珍しい野鳥がいるだとか、あらかじめ雑誌やインターネットなどで仕入れたらしい情報を元に、黒鋼の手を強引に引いて歩き回った。
途中、美しく白いチャペルを2人で眺めていたときは、思わず機嫌を損ねるような態度を取ってしまった。
だがどんなことがあっても、次の瞬間ファイの顔には笑顔が戻っていた。
ときには他の観光客までも巻き込んだりしながら、彼はどこまでも伸びやかに、存分に旅を満喫しているようだった。
大自然の中では時間がゆっくりと流れるだなんて、そんなものは全くの嘘だと黒鋼は思った。
何もかもが激流のような速さで、いっそ息をつく間もないほど忙しなかった。
ちょっとくらいまったり満喫させろ、という不満も、ファイの幸せそうな笑顔の前では、まるでどうでもいいことのように思えた。
「次、湖に行かないとー!」
黒鋼の腕をぐいぐいと引っ張るファイは、一日中動き回ったくせに元気が有り余っている様子だった。
黒鋼はこの日だけで一体幾つになるか分からない溜息を零す。
「あとは明日にしとけ。もう陽が暮れるだろ」
「えー…でもさ、夕陽の下の湖キレイだよ? 黒様も見たいでしょ? ね?」
「こっからでもよく見えるぜ」
「もう!」
ぶぅ、と膨れるファイの頬。
黒鋼は腕時計で時間を確かめる。
そしてちょっと意地悪そうに口元だけで笑った。
「それにおまえ、今夜は豪華バイキングがあるんだとか言ってなかったか?」
「!」
「時間、これ以上遅れたらいい席取れねぇかもな。確か食いもんから一番近い席、取るんじゃなかったのか?」
「嘘!? もうそんな時間!?」
ファイの両手が強引に黒鋼の腕を取り、時計を覗き込んで時間を確かめると真っ青になる。
「なんでもっと早く言ってくれないのー!? バカ! 黒様のバカ!」
毛を逆立てた猫のように、金色の髪を震わせてファイはホテルへ向かって走り出す。
実際にはまだ夕食時には時間に余裕はあるのだが、ファイはせっかちなのだ。
黒鋼はその背中を見ながら、珍しく声を上げて笑った。
*
「もー! 黒様ってばいつまで食べてるのー? 早く行こうよー」
翌朝、コテージのテラスで朝食を摂っていた2人だったが、先に食べ終わったファイがじれったそうに黒鋼を急かしはじめた。
黒鋼は小煩いファイに向かって、あからさまに嫌そうな顔をする。
「飯くらいゆっくり食わせろ。だいたいてめぇ、よく噛んで食ったか?」
いつもはてんで朝に弱く、朝食だって倍の時間をかけてしか食べられないくせに。
今日は朝から湖へ行くのだとはりきっていた彼は、物凄い速さで食事を済ませてしまった。
「ちゃんと噛んだよー。ねぇ、早く早くー」
「だからゆっくりさせろって……。もっと落ち着けっていつも言ってるだろうが」
「ぶー」
本当にまるで子供だ。
いい歳をした大人の男とは到底思えない。
「今のうちに言っておくがな、てめぇははしゃぎすぎて、いつか絶対ろくでもねぇことになるぜ」
「もー、黒様ってばユゥイと同じようなこと言うー」
唇を尖らせるファイ。
ユゥイというのは、そんな彼の双子の弟だ。
黒鋼はまだ一度も会ったことはないのだが、ファイの口振りからするとどうやら兄とは正反対のようだ。
「てめぇと同じ顔して、ずいぶんとまともそうじゃねぇか」
「そうそうー、ユゥイは凄い大人でねー、オレの方がお兄さんなのにオレより何でも出来るしー、料理も上手いしー」
「中身入れ替えてもらってこい」
「ちょっとー!? それどーゆうことー!?」
それまでは双子の弟自慢をニコニコ顔でしていたファイだったが、黒鋼がからかうと思い切り眉を吊り上げた。
ダンッと両手をテーブルについて立ち上がる。
「もういいよ! ノロマな黒ワンコなんか待っててあげないんだからー!」
ぷりぷりと怒りながら、ファイはテーブルを横切り室内へ消えてしまった。
が、すぐにテラス脇の玄関が派手な音と共に開き、そこから飛び出して行く。
「転ぶんじゃねぇぞ」
「転ばないもん!」
そのまま駆け出すかと思いきや、ファイは一度振り向いた。
派手に啖呵を切った後だったからか、少しだけ照れ臭そうに頬を染めていた。
「黒たん?」
「ん」
「……早く来てね? オレ、先に行って待ってるから」
「ああ、わかってる」
「えへへ」
小さく微笑んで頷いてやると、ファイは嬉しそうにニッコリ笑って行ってしまった。
その背が小さくなり、やがて朝の光の中へ消えるまで、黒鋼はそれをいつまでも見守った。
それが最期になるなんて、知りもしないで。
←戻る ・ 次へ→
早く来てね。
先に行って、待ってるから。
例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。
この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。
許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。
『ねぇ』
懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。
光はない。美しい闇の中。
『君はオレのためなら、死んでくれる?』
ああ、懐かしい。
これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。
そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。
今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。
だから頷いた。
「もちろんだ」
水音がした。
闇がゆっくりと移り変わる。
光が近づく。夢から覚める。
『あの場所で、待ってる』
*
目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。
乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。
木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。
窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。
「霧か…」
何気なく呟いてから再び室内を見渡した。
ファイの姿がない。
人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。
あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。
黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。
『あの場所で、待ってる』
夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。
*
コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。
彼が、きっと待っているに違いないと思った。
霧に包まれた木々の中をひた走った。
前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。
それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。
早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。
ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。
そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。
けれど一人ではない。
ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。
声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。
思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。
こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。
息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」
全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。
だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。
彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。
ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。
「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」
「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」
黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。
酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。
本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。
「ママ……」
なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。
ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。
その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。
百合の花だった。
少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。
そして口を開いたのは少年だった。
「ママ、このひとは、ちがうよ」
母親が顔を上げた。
少年の顔を見て、それからファイを見上げた。
ファイはにっこりと笑うと、言った。
「そうだよ。ボクは違う」
*
親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。
黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。
「おまえは誰だ」
黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。
今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。
けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。
ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた
冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。
深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。
「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」
彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。
「あの日、君がね」
「っ……!?」
その瞬間。
黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。
小雨の降りしきる墓地。
黒いスーツ。
赤い傘。
百合の花。
それを両手いっぱいに抱えたファイ。
けれど墓石に刻まれた名前は。
黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。
足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。
自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。
世界が回る。
「ばか、な……っ」
頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。
墓石に真新しく刻まれた名前。
ファイの名前。
こんなものは全てが夢だ。
幻を見ているに違いない。
早く覚めなければならない。
そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。
この場所に来ることを心待ちにしているファイに。
「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」
冷たい汗が背中を伝う。
目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。
男は悲しそうに瞼を伏せた。
「そうだね」
そしてゆっくりと目が開かれる。
その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。
「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」
だからこれは夢ではない。
紛れもない現実。
残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。
脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。
「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。
目の前が赤く染まっている。
何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。
それが何かは、まだ見えない。
「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」
「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」
水音が聞こえる。
「君を呼んでる」
一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。
男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。
「だからここで、死んで」
黒鋼は、全てを思い出した。
←戻る ・ 次へ→
先に行って、待ってるから。
例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。
この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。
許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。
『ねぇ』
懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。
光はない。美しい闇の中。
『君はオレのためなら、死んでくれる?』
ああ、懐かしい。
これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。
そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。
今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。
だから頷いた。
「もちろんだ」
水音がした。
闇がゆっくりと移り変わる。
光が近づく。夢から覚める。
『あの場所で、待ってる』
*
目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。
乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。
木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。
窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。
「霧か…」
何気なく呟いてから再び室内を見渡した。
ファイの姿がない。
人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。
あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。
黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。
『あの場所で、待ってる』
夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。
*
コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。
彼が、きっと待っているに違いないと思った。
霧に包まれた木々の中をひた走った。
前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。
それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。
早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。
ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。
そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。
けれど一人ではない。
ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。
声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。
思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。
こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。
息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」
全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。
だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。
彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。
ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。
「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」
「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」
黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。
酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。
本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。
「ママ……」
なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。
ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。
その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。
百合の花だった。
少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。
そして口を開いたのは少年だった。
「ママ、このひとは、ちがうよ」
母親が顔を上げた。
少年の顔を見て、それからファイを見上げた。
ファイはにっこりと笑うと、言った。
「そうだよ。ボクは違う」
*
親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。
黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。
「おまえは誰だ」
黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。
今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。
けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。
ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた
冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。
深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。
「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」
彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。
「あの日、君がね」
「っ……!?」
その瞬間。
黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。
小雨の降りしきる墓地。
黒いスーツ。
赤い傘。
百合の花。
それを両手いっぱいに抱えたファイ。
けれど墓石に刻まれた名前は。
黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。
足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。
自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。
世界が回る。
「ばか、な……っ」
頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。
墓石に真新しく刻まれた名前。
ファイの名前。
こんなものは全てが夢だ。
幻を見ているに違いない。
早く覚めなければならない。
そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。
この場所に来ることを心待ちにしているファイに。
「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」
冷たい汗が背中を伝う。
目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。
男は悲しそうに瞼を伏せた。
「そうだね」
そしてゆっくりと目が開かれる。
その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。
「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」
だからこれは夢ではない。
紛れもない現実。
残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。
脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。
「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。
目の前が赤く染まっている。
何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。
それが何かは、まだ見えない。
「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」
「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」
水音が聞こえる。
「君を呼んでる」
一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。
男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。
「だからここで、死んで」
黒鋼は、全てを思い出した。
←戻る ・ 次へ→
私は私を壊すことばかりを考えていたように思います。
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
←戻る ・ 次へ→
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
←戻る ・ 次へ→
あなたにならば、この皮膚を食いちぎられても構わなかったのです。
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
←戻る ・ 次へ→
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
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春日井甲洋には夢がある。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
ただいまを言えばおかえりと言ってくれる家族がいる暮らし。その日あった出来事や、何気ない会話を楽しみながら全員で囲むあたたかな食卓。笑顔と笑い声がたえない明るい家。
どこにでもあるような、ごくありふれた、だけど誰もが羨むような。そんな理想の家庭を作ることが、甲洋の幼い頃からの憧れだ。
庭では黒柴の子犬を飼いたいと思う。豊かな芝生の絨毯を子供と愛犬が元気に走りまわって遊ぶ姿を、奥さんと一緒に見守りながら穏やかな休日の午後を過ごすのだ。
ひだまりの中にベンチを置いて、そこにふたり並んで腰掛けて。子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、いつまでも恋人気分でそっと手を握り合ったりなんかして──
などという幸せ妄想に日々明け暮れる甲洋は、二十歳にして恋人いない歴=年齢だった。
けれどそれは決して彼が非モテ男子なわけではなく、むしろ甲洋は子供の頃からそれはそれはよくモテた。ラブレターは毎日のようにもらっていたし、休み時間や放課後に呼び出しを受けて告白されるなんてことも、一度や二度ではなかった。
そして今もなおその人気ぶりは健在だ。
が、甲洋はその全てを律儀に断り続けてきた。
好いてくれるのはありがたいし、とても嬉しく思う。可愛いなと思う子もいたし、まるで気にならなかったわけじゃない。
だけど付き合うとなると、何かが違うような気がしたのだ。ピントがずれたままのレンズを覗き込んでいるみたいに、相手に対しておぼろげな感情を抱くことしかできなかった。
もしもの話。この世界のどこかに『運命の人』と呼べるような相手がいたとして、その相手と出会う瞬間というのは、やはりなにか特別なものを感じたりするのだろうか。
互いが引力に吸い寄せられたように惹かれ合い、「このひとだ」と強く確信を抱くような、決定的な何か。例えば目と目が合った瞬間ビビッと電気が走るとか、頭のなかに鐘の音が響き渡るとか。
もしそんなドラマチックな出会いがあるのだとしたら、死ぬまでに一度は経験してみたいと思う。まるで少女漫画のような発想が、少し恥ずかしい気もするけれど。
とにもかくにも甲洋はいつか巡り合う(かもしれない)運命の人のため、夢である幸せ家族計画のため、真面目にコツコツ勉強をしながらバイトをして、貯金をして、来たる理想の未来に備えている。
しかし今のところ運命の出会いは訪れる気配を見せていない。
大学に通いながら塾講師のアルバイトに勤しむだけの、ごくごく平坦な日常が続いている。
特待生制度を利用して進学した甲洋は学費の面での負担はないが、一人で暮らしていくための生活費は全て自力で捻出する必要があった。
彼の両親は絵に描いたような毒親だったので、仕送りなどの援助はいっさい望めないのだ。
家を出てからは他人も同然で、連絡すら取りあっていない。甲洋自身も最初から期待はしていなかったし、なによりあたたかな家庭を築くという夢に固執する最大の原因は、この毒親たちにこそあるのだった。
*
ある朝、土曜日。
十一月が終わりを迎えようとするなか、寒さもよりいっそう厳しさを増してきた。
部屋着の上から軽くネイビーのコートに袖を通しただけの甲洋が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場を訪れると、ギャアギャアと騒がしく数羽のカラスが暴れ狂っている光景に遭遇した。
彼らは黒い羽根をバタつかせ、執拗にゴミを突きまわしている。地面に散乱する野菜カスなどに顔を顰めた甲洋だったが、よくよく見れば群れの中心にあるものがゴミではないことに気がついた。
「やだー! やめて! 痛いよ助けて! 誰か助けてぇー!!」
それは悲痛な声をあげながら、両腕で頭を守るようにして蹲っている人間の姿だった。大きさから見て、おそらくまだ子供だ。
甲洋は一も二もなく駆け寄ると、ゴミ袋を振り回すようにしながらカラスたちを追い払う。
「やめろってこら! あっちに行け!」
ガアガアと掠れた声をあげながら、カラスたちが飛び去っていく。
甲洋はゴミ袋をゴミ山へ投げ捨てると、すぐさま膝をついて丸くなっている少年を抱き起こした。
「しっかり! もう大丈夫だから……って、ネコ?」
人間だとばかり思っていた少年の頭には、尖った獣の耳がついていた。
紅茶にたっぷりとミルクを含ませたような淡い髪色。それとよく似た色味の尖った耳は、今はへにゃりと力なく倒れてしまっている。
土埃にすっかり汚れた白いロングシャツは膝丈だったが、ぺろりと捲くれ上がって太ももまでがむき出しになっていた。ほっそりとした裸足の両足と一緒に、シマシマ模様の長いしっぽが伸びている。先端がくるりと曲がった、愛嬌のあるかぎしっぽだった。
茶トラの子ネコは甲洋の腕のなかでぐったりとして動かない。
痩せっぽちの身体は冷え切っていて、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は涙にしっとりと濡れていた。
その青白い頬に、甲洋の血の気が引いていく。
「まさか、死んで……?」
そう思った瞬間、
「……すぅー、すぅー」
という、安らかな寝息が聞こえて力が抜けた。
子ネコはうっすらと開かれた唇の端から、のんきによだれまで垂らして眠っている。
「ビックリした。人騒がせなやつ……」
そのあどけない寝顔に思わず大きな息を漏らしながら、ふと子ネコの首に赤い首輪がぶら下がる形ではめられていることに気がついた。
革製のそれは酷くくたびれて年季が入っている。サイズから見て、おそらく四足タイプの大型犬につけるものだ。
(ヒト型のネコに首輪……?)
それは一般的には珍しいことだった。
犬猫とはいえ、ヒトに近い姿形をしている生き物に首輪をつけることは、倫理上問題があるとして昨今なにかと騒がれているからだ。
首輪をつけたヒト型のイヌネコ画像をSNSに投稿し、飼い主が炎上したという話も最近よく耳にする。甲洋は今どき珍しくそういったものを利用していないので、実際に見たのはこれが初めてのことだった。
とはいえ、首輪は彼が野良ではないことの証明にはなっている。つまり迷いネコということだ。早く飼い主のもとへ返してやらなければ、きっと今ごろ心配しているだろう。
「困ったな」
送り届けてやろうにも、まずは話を聞かないことには身動きがとれない。けれど子ネコはすっかり眠り込んでいる。
どうしたものかと少しばかり途方に暮れながらも、寒空の下こんな薄着でいる幼いネコを放っておけば、どうなるかは目に見えていた。
(……しょうがない)
ここはひとまず保護する以外に道はなさそうだ。
甲洋は寝息をたて続ける子ネコを、起こさないようにそうっと静かに抱き上げると、もと来た道を引き返した。
*
自宅である小規模マンションは四階建てで、甲洋の部屋はその二階にあった。
1LDKでそこそこの広さだが、築年数の古さや交通の便があまりよくないことから、家賃はだいぶ抑えられている。
いつもは階段を使うところを、エレベーターを利用して部屋へ戻ると、暖房をつけていたおかげでリビングは暖かな室温が保たれていた。
甲洋はひとまず子ネコの身体をL字ソファのカウチ部分へ横たえさせた。
脱いだコートを腹のあたりにかけてやり、キッチンに向かうとぬるま湯に浸して絞った手拭いを持ってくる。傷ついている場所はないかを確認しながら、顔や手足についた汚れをそれで丁寧に拭き取ってやった。
あらかた終えると自分もソファに腰掛けて、ふっと小さく息をつく。
憔悴しきった様子でこんこんと眠り続ける子ネコは、年の頃はせいぜい15、6といったところだろうか。
髪は艶がなくパサついているし、耳と尻尾の毛並みも悪い。とりわけ足先の汚れが酷かったことから、ずいぶん長いこと外をさまよっていたことが見てとれた。
けれど青白かった肌は少しずつ血色を取り戻し、手足の先も薄桃に染まりつつある。その頬にもうっすらと赤みがさしはじめていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
ふと、例の首輪にも改めて目を向けてみる。さっきは気づかなかったが、よく見ればボロボロにひび割れた側面に、黒いマジックで『操』と書かれていることに気がついた。
「操、か。いい名前だな」
少し不安だったが、わざわざ首輪に名前を記すくらいなのだから、きっと可愛がられていたのだろう。ついでに連絡先のひとつでも記されていれば言うことなしだったのだが。
子ネコは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
その幼い寝顔にふっと笑みをこぼしながら、甲洋はローテーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、彼が目覚めるのをただ静かに待つことにした。
*
ゴソゴソと、なにかが腹の下あたりで蠢いている気配がする。
(あれ……寝てたのか、俺)
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が広がっていた。
本を読んでいるうちに、ソファの背もたれにすっかり首まで預けて眠っていたらしい。
それにしてもなんだろうか。この腰のあたりで何かがもぞもぞと動いている感覚は。
どこかぼうっとしながら首を起こして、視線を下へ移動させる。ピンと尖った耳の先。内側から白が混ざった茶色の毛が生えていて、ふさふさとした茂みから少しだけ、ピンク色の皮膚が覗いている。
──ネコ。そうだ、今この部屋には、ネコがいる。
「な……?」
足元に、子ネコが。
大きく開かれた甲洋の両足の間に身体を収め、床に女の子のようにペタリと座り込みながら、彼は白い両手を甲洋の下肢に這わせていた。生地の上からそこにあるものを確かめるように幾度か摩り、それから指先をイージーパンツの紐へと伸ばす。摘み上げてスルリとほどき、緩くなったウエスト部分を中の下着ごと掴むと、思いっきりぐいっと引き下げようとした。
「ッ!?」
あわや息子(未使用)が『こんにちは』しそうになった寸でのところで、甲洋は冷水を浴びせられたような気分を味わい、身体を大きく跳ねさせた。
「ちょ、な、なに!?」
咄嗟に上ずった声をあげ、ウエスト部分を押さえながら白い両手を振り払う。そのまま素早く避難して、ソファの端っこギリギリまで身を寄せた。
一体なにが起こったのだろう。いや、起ころうとしていたのだろうか。
今まで感じたことのない類の危機感に、心臓がバクバクと音を立てていた。混乱する頭で目を見開いたままの甲洋に、子ネコがぽかんとしながら丸い瞳を向けてくる。
かっちりと視線が交わった瞬間、甲洋は無意識に息を呑んだ。
「ッ!」
大きな瞳だった。色づいた銀杏並木のような、金色の。
縁取る睫毛はくるりと長くカールしていて、彼がまばたきをするたびに花びらがくるくると瞬いているように見える。
金縛りにあったみたいに身動きができなくて、まるで自分だけが静止した時の中に囚われているようだった。ああ、これが見惚れるということかと理解したとき、背筋になにかが駆け抜ける。
(え)
その感覚に呆然とした。
(電気……?)
それは甲洋が漠然とした憧れを抱いていた、あの感覚だった。
世界中でたったひとり、出会った瞬間、恋に落ちる。そんな特別な誰かと巡り会えたとき、全身を駆け抜ける痺れと一緒に祝福の鐘が鳴り響く。
頭のなかで、リーンゴーンと、運命を告げる鐘の音が──。
まばたきすら忘れて硬直する甲洋に、子ネコが不思議そうに首を傾げる。くるんと曲がったかぎしっぽは、ちょうどハテナマークのような形に見えた。ゆらりゆらりと、揺れている。
「……いやいやいや」
スッ……と、甲洋は片手を子ネコに向かって翳した。待て、の合図だ。同時に顔をうつむけて、もう片方の手で目元を覆い隠すと、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐きだしていく。
(待て、落ち着け、今のは違う。違うったら違う)
ポーカーフェイスを装っているため分かりにくいが、甲洋の頭は混乱していた。顔中に血液が集まり、赤く火照っていくのを感じる。ドッドッドッ、と心臓が激しく動悸を打っていた。
違う違う。そうじゃない。そう、瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳を見たのは初めてだったから、ちょっと驚いてしまっただけだ。電気なんか走ってないし、鐘の音なんか聞いてない。
たいだいこの子はネコである。黒髪ロングの巨乳でもない(重要)し、そもそもオスだ。
とにかく、無理矢理にでも気のせいということにして片付けることにした。
それよりなにより、今はもっと他に問題にしなければならないことがあるはずだ。
「お前、いま一体なにをしようとしてたわけ……?」
待ての合図を解いて、顔を上げると問いかける。
見ず知らずの他人(しかも寝ている)の股間を、なんの断りもなく(あっても困るが)暴こうだなんて、一体どういう考えがあってのことだろうか。
紐にジャレていたというには少々無理があるような気がする。あの迷いのない手つきには、何かしら明確な『意図』があったようにしか感じられなかった。
それともネコという生き物には、人間の下半身を撫で回して露出させたがる習性でもあるのだろうか……いやそんなバカな。
甲洋が内心でツッコミを入れていると、子ネコはケロリとした顔で言い放つ。
「嬉しくさせようと思っただけだよ」
「……はい?」
「だってお腹が空いたから」
「ごめん、ちょっと意味が分からない」
なんの話をしているのだろう? 甲洋の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。
「人にお願いするときは、まずは相手を嬉しくさせなきゃいけないんでしょ?」
「……嬉しく、とは?」
ごくり。思わず喉を鳴らしてしまう。なぜだかとても嫌な予感がする。この先は聞かないほうがいいんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。じわりと額に汗が滲んだ。
子ネコは大きな目をくるくるとさせながら、甲洋の股間を指さした。
「そこ、舐めると嬉しくなるんでしょ?」
──絶句した。
この子はなにを言っているんだ? それともなにかの聞き間違いか?
童貞をこじらせすぎて、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。少し……いや、かなり虚しい気がするが、きっとそうに違いない。
けれど薄桃の指先は迷いなく股間を指し続けている。股間。甲洋の股間。ここにあるのは──
「おちんちん、舐めたらご飯くれるんじゃないの?」
「~~ッ!?」
天使のような可愛い顔から、爆弾発言が落とされた。
二度目の絶句。全身に激しい稲光が生じたような衝撃を覚える。
その常識外れな内容もさることながら、もしほんの少しでも起きるのが遅れていたら、甲洋の甲洋は今頃どうなっていたのだろう。この可憐な唇のなかに、すっぽり収まっていたということに──
「な、なに言って……!?」
うっかり想像しかけてしまい、反射的に両手で股間を抑えると、気持ち内股気味になりながら声を上ずらせた。得意なはずのポーカーフェイスも忘れ、愕然としながら頬を赤らめる。
おち……ん、を舐めるとかなんとか、この顔で無邪気に言っていいことではないはずだ。じゃあどんな顔なら許されるのかと聞かれても、そうそう答えられる問題ではないのだが。
「なんで? おれなにかおかしなこと言った?」
「おかしいもなにも……いったい誰がそんなことを?」
「誰って、ご主人様だよ。それがヒトとネコが一緒に暮らすためのルール。でしょ?」
「そんなルール聞いたことないけど!?」
咄嗟に声を荒げてしまう。自分でも珍しいほど取り乱しているという自覚はあった。
ご主人様とやらが彼の飼い主をさしていて、男性であることは分かる。しかしこの子が言うルールとやらは、これまでの人生で一度も耳にしたことがなかった。
そんな間違ったルールは、AVやエロ同人の世界にしか存在してはいけないものだ。現実に起こっているのだとしたら、それはただの──。
(虐待じゃないか!)
しかし子ネコは自らの行動や言動に、なんら疑問を抱いていない様子だった。冗談を言っているようにも見えない。その真っ直ぐすぎる瞳に、むしろこちらの方が常識を疑われているような気持ちにさせられる。
くうぅ……。
戸惑うあまり言葉を発せないでいると、乾いた音が室内に響き渡った。
子ネコは耳を弱々しくぺたりと寝かせ、眉を下げると両手で腹を押さえている。それからきゅっと下唇を噛みしめて、助けを求めるような上目遣いで甲洋を見上げると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。
そうだ、この子は腹を空かしているのだ。どうにもざわざわとして気分が落ち着かないが、まずはなにか食べさせてやらなければ。
「わ、わかった。いま食事を用意するから」
「ほんと!? やったー!」
子ネコは嬉しそうに表情を明るくし、床に伏せていた尻尾をピンっと元気よく上向ける。
そうすると丈の長いシャツの裾が引っかかるようにして持ち上がるものだから、うっかり太ももから尻のラインが見えそうになって慌てて目を逸らす。
甲洋は解かれてしまったウエストの紐を結び直すと、にじり寄って来ようとする子ネコから逃れるべく、勢いよく立ち上がった。
「だけど、なにもしなくていい。そこでただおとなしく待っていて」
「え? でも」
「いいから。それが普通なんだから」
「ふつう?」
再びぺたんと床に尻を落ち着け、瞬きをしながら小首を傾げる子ネコを見下ろし、甲洋は「そうだよ」と言って力なく笑うと頷いた。
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