10
意識が浮上するのを感じながら、頬に柔らかなものが触れていることに気がついた。
儚いものを育てるように、それは何度も行き来する。瞼を開けると、とろりとした琥珀が甲洋を見つめていた。
前にも同じことがあったっけ。そんなことを思いながら、頬を撫でる白い手に指先で触れる。そのままきゅうと握りしめてやると、腕のなかで操が笑った。
あのときも、彼はこうして甲洋が目を覚ますのを待っていた。逃げもせず、怯えもせず。甲洋の頬に触れながら。
「おはよ」
そう言った操の声は枯れていた。
部屋の中はデスクライトが淡く光を放っている。カーテンの隙間から見える空は仄青く、まだ夜は明けきっていなかった。
おはようと返そうとした甲洋の喉も、少し乾いて掠れていた。不器用にむせてから、ふたり目を合わせて小さく笑う。
あれから服を脱いで、裸になって、繰り返し熱を分け合った。
昨日の夜だって何度もしたのに、まるで初めて触れるみたいに互いの肌を探り合い、そこにあるものを確かめた。
操の瞳は充血していて、目元も赤く腫れたようになっている。きっと自分も似たような有様だろうなと、そう思うと少し情けない気もするけれど、心の中は雨上がりの空のように澄んでいた。
「お水とはちみつ、今日はおれが持ってきてあげるね」
腕のなかで、痩躯が身じろぐ。
「あ、でもおれ、はちみつがどこにあるか知らないや。台所……の、どこ?」
枯れた声で言いながら、操はのろのろと半身を起こした。
淡い光の中に彼の華奢な背中が浮かび上がる。痛々しく刻まれた熱傷痕に胸を掻き毟られて、甲洋は思わず追いすがるように起き上がると、その背をすっぽりと抱き包んでいた。
「こうよお?」
「……いい、このままで」
聞こえるか聞こえないかの低い声で言うと、操は呆けたようにパチパチと瞬きを繰り返したあと、頬と耳と、首筋や肩の先までも染め上げて、こそばゆそうにふにゃんと笑った。
柔らかいなと、甲洋は思う。操はどこもかしこも柔らかい。そしていじらしかった。
些細な仕草だったり、表情の動きだったり、肌の色とか、体温の変化。内も外も、その全身で、操は甲洋への想いを伝えてくる。
愛しいと思う感情が蕩けたゼリーのように際限もなく溢れでて、自分の身体が正しく形を保てているかどうかすら自信がなくなってしまう。
好きだ。これが、好きって気持ちだ。知らないままに今までどうやって生きてこられたのか、自分でも不思議でならなかった。
甲洋は赤い耳に頬を擦り寄せながら震える息を吐きだした。くすぐったそうに、操は少しだけ肩をすくめてクスクスと笑い声をあげる。
「ねぇ、くすぐったいよぅ」
「……ごめん。だけど、もう少しこのまま」
「でも、苦しいよ」
少し強く抱きしめすぎただろうか。腕の力を緩めかけると、操は首を左右に振ってみせた。
「ここが苦しいだけだよ。だってさっきから、ずっとドキドキしてるんだもん」
操は心臓の上にある甲洋の前腕に両手で触れた。胸にぴったりとくっついている彼の背中からも、大きな鼓動が伝わってくる。
けれどそれは甲洋も同じだ。あんなに激しく抱き合ったあとなのに、たったいま恋に落ちたみたいに意識しあっている。
「こおよ」
甘えた声が甲洋の名を呼ぶ。ん、と短く返事をすると、操は猫が瞬きをするようにゆっくりと睫毛を踊らせた。
「おれの初めて、いっぱい甲洋にあげちゃったね」
「……うん」
暴かれること、縛られること、デタラメの嘘に踊りながら、愛して、赦した。
恋をするということも。誰かを想って泣くことも。与えたいと、そう思うことすらきっと初めてだったのだ。
それは奪われることの絶望を知ったから、だったのかもしれない。誰かに必要とされたくて、埋められないものを埋めたくて。孤独に膝を抱えていたのは、操も同じだった。
操と甲洋。空っぽのふたり。甲洋の孤独に、操は惹かれた。ちっとも似ていないのに、とてもよく、似ていたから。
そして甲洋もまた、自分でも知らなかった自分自身を幾つも発見させられた。
泣きながら怯える操を可愛いと思ってしまったこともまた事実で、正直いまでもその気持ちは変わらない。甲洋のなかには、そういう歪んだ欲望が未だどこかに潜んでいることは否めなかった。
だけどこんな面倒でどうしようもない男のことを、それでも彼は好きだという。
(──守ろう)
心からそう思った。この子を、きっと。
その身に降りかかる全ての火の粉を払い除け、必ずこの手で守り抜こう。操と、操が愛するものを。もう決して誰も失わせないし、もう二度と、怖い夢を見なくても済むように。
この子が笑っていられるのなら、なんだってしようと。
「全部もらったから……大事にする」
誰かを好きになるのは、とても怖い。だってその先には裏切りが待っているかもしれないから。
甲洋はずっとそういうものから逃げ続けていた。人を信じることができなかった。好かれるための努力はしても、自分から手を伸ばす勇気を持とうとはしなかった。
自分で自分を消していた。だけどもう、終わりにしよう。
だって甲洋は操と恋がしたい。間違ったはじまり。間違った道筋。けれど結末は揺蕩うように穏やかで、この恋は、きっと運命になる。
「好きだよ」
言葉にするとまた少し泣きたくなって、代わりに操を抱く腕に力を込める。
甲洋が鼻をすすっていることに気がつくと、彼は「泣き虫だね」と言って幼く笑った。
丸裸だ。甲洋の心は。
「おれも大好き。甲洋」
そこに操が触れるから。
上向けられた視線と目を合わせ、柔らかな唇にキスをした。
操からは命の匂いがする。あたたかな、空の匂いがする。あの泣きたくなるような切なさは愛しさに形を変えて、甲洋は少しずつ、強く変わっていけるような気がした。
*
八日目、昼。
本当は四人で総士達を船着き場まで迎えに行こうと思っていたけれど、暉が少し寂しそうにしていることに気がついて、真矢とふたりで行ってもらうことにした。
出掛けに「がんばれ」とこっそり耳打ちしたら、暉は真っ赤な顔をして「なに言ってんですか」と声をひっくり返らせていた。この分だと、彼の恋が成就するのは当分先のことになりそうだなと、甲洋は生暖かい眼差しで後輩と友人の背を見送った。
「暉と真矢、もう行っちゃった?」
カウンターに立つ甲洋が、縁いっぱいまで氷を入れたグラスにコーヒー液を注いでいると、二階から操がおりてきた。
「だいぶ前にね。そろそろ戻ってくるんじゃないかな……もう起きてきて平気?」
問いかけに操はうんと頷き、カウンター席に腰掛けた。
一緒に迎えに行けなかったのは、彼の腰の具合があまりよろしくなかったせいもある。一昨日の夜に続いて昨夜もずいぶん無茶をさせてしまったのだから、無理もない。
今朝方ベッドから抜け出そうとして力が入らず、そのまま転げ落ちた操に血の気が引くような思いがしたが、腰から下がなくなっちゃったよと言って泣きそうになっている様子に、悪いと思いながらも気が抜けた。
「ねぇ甲洋、おれにもコーヒーちょうだいよ」
操はケロリとした表情で少し前のめりになりながら言った。甲洋は目を丸くして小首を傾げる。
「いいけど、飲める?」
「へーきへーき! だっておれもう大人だし!」
なぜか彼は自信たっぷりな様子だった。
もしセックスを経験したからもう大人なのだと思っているなら、それは大きな間違いだ。けれどある意味、無理やり『大人』にしてしまったのは甲洋でもあるので、なんとなく返す言葉がなくて、黙って自分用にと作っていたはずのアイスコーヒーを操に差し出す。
「やったー! ありがとう!」
操は嬉しそうにグラスを受け取ると、カウンターテーブルに等間隔に置かれているシュガーケースと、ミルクケースを引き寄せる。
胸焼けがしそうになるほど大量に砂糖を入れたあと、コーヒーが真っ白になるくらいミルクを入れてかき混ぜる姿を見て、甲洋はやっぱりまだ子供なんだなぁと思った。
「一騎と総士が帰ってきたら、おれがコーヒー飲めるようになったこと教えてあげなくちゃ」
ほとんどミルクと砂糖の味しかしない液体を飲みながら、操はどこか誇らしげだった。甲洋は苦笑しながら厨房スペースから出て、その隣に腰掛ける。
壁掛けの時計を見上げれば、時刻は12時をさしていた。あとほんの少しすれば、一騎と総士が長旅を終えて帰ってくるのだ。
ふと、昨日の今ごろ自分はどんな顔をしていたっけと、甲洋は思う。ひとりぼっちでいるみたいな顔。そうだ、そんな顔をしていた。
横顔に視線を感じて、隣にいる操に目を向けた。くるくるとした大きな瞳が、甲洋をじっと見つめている。
彼の目に映る自分は、今どんな顔をしているだろう。
寂しいかと聞かれたら、迷わず否と答えられる。そこにもう嘘はひとつもなくて、毒を出し切ってしまった甲洋にとって、昨日までの自分は干からびた蛇の抜け殻のようなものだった。
「まだ寂しそうに見える?」
操がなにも言わないので、甲洋はふっと微笑みながら自ら問いかけた。
彼は答える代わりに白い指先を伸ばし、緩く弧を描く甲洋の唇を確かめるようにゆるりとなぞった。それから、花が開くような笑顔を見せる。
甲洋はゆっくりと離れていこうとするその手をとって、指の隙間を縫うようにそっと優しく握りしめた。
操の瞳に映る甲洋は、もう笑っているのに笑っていない嘘つきでもなければ、ひとりぼっちの寂しいやつでもなかった。
一皮むけて新しくなった皮膚はまだ柔らかくて、丸裸になった心は、きっと些細なことで傷つくだろう。
痛みを恐れて笑顔を盾にしていた甲洋は、傷つかないために優しい人間であり続けなければならなかった。だけど今は、優しくなりたいと思っている。
「お前がいるから、もう寂しくないよ」
昨日の今ごろ、操はきっとこの言葉を待っていたのだろうなと、甲洋は思う。
ゆっくりと顔を近づけあって、一瞬だけ、唇同士を触れ合わせた。誤魔化すためのキスじゃなく、本当にそうしたいと思ったから。好きで好きで、どうにかなりそうだったから。
「じゃあ、これからもずーっと寂しくないね、甲洋」
弾むように未来を紡ぐ操の声が、耳朶をくすぐる。
まぁるい頬を薄紅に染めながら笑う彼は、ちょっと臭い表現だけれど、天使のように愛らしい。
目が眩みそうなほどの幸福に溺れて、甲洋は何も言えなくなった。求められれば幾らでも饒舌になれたはずの自分が、操の前では不器用になる。代わりに強く、指先に力を込めた。
砂糖とミルクの甘い香りと、焙煎されたコーヒー豆の匂い。暮れゆく夏の天気は良好で、ガラス張りの店内が白く豊かな光に包まれている。
古びた時計がちくたくと音を奏でていた。一秒ごとに、甲洋の中には忘れたくないと思える記憶が増えていく。
忘れられないということを、これほど嬉しいと感じられたのは初めてだった。
──カラリ。
そのとき、ドアベルが鳴る音がした。楽園の扉が開かれる。
「帰ってきた!」
熱く蕩けていた瞳を、無邪気な子供の色へと変えて、操が弾かれたように席を立つ。
絡めあっていた指がほどけて、甲洋の手から幼いぬくもりが遠ざかる。だけどその感触はいつまでもそこに残っていて、この恋がずっと続いていくことを教えてくれた。
操が両手を広げて駆け寄っていくその先へと目を細め、甲洋は優しく晴れやかに、笑みを浮かべた。
「おかえり総士! 一騎──!」
フェルデランスの毒を喰らわば/了
←戻る ・ Wavebox👏
意識が浮上するのを感じながら、頬に柔らかなものが触れていることに気がついた。
儚いものを育てるように、それは何度も行き来する。瞼を開けると、とろりとした琥珀が甲洋を見つめていた。
前にも同じことがあったっけ。そんなことを思いながら、頬を撫でる白い手に指先で触れる。そのままきゅうと握りしめてやると、腕のなかで操が笑った。
あのときも、彼はこうして甲洋が目を覚ますのを待っていた。逃げもせず、怯えもせず。甲洋の頬に触れながら。
「おはよ」
そう言った操の声は枯れていた。
部屋の中はデスクライトが淡く光を放っている。カーテンの隙間から見える空は仄青く、まだ夜は明けきっていなかった。
おはようと返そうとした甲洋の喉も、少し乾いて掠れていた。不器用にむせてから、ふたり目を合わせて小さく笑う。
あれから服を脱いで、裸になって、繰り返し熱を分け合った。
昨日の夜だって何度もしたのに、まるで初めて触れるみたいに互いの肌を探り合い、そこにあるものを確かめた。
操の瞳は充血していて、目元も赤く腫れたようになっている。きっと自分も似たような有様だろうなと、そう思うと少し情けない気もするけれど、心の中は雨上がりの空のように澄んでいた。
「お水とはちみつ、今日はおれが持ってきてあげるね」
腕のなかで、痩躯が身じろぐ。
「あ、でもおれ、はちみつがどこにあるか知らないや。台所……の、どこ?」
枯れた声で言いながら、操はのろのろと半身を起こした。
淡い光の中に彼の華奢な背中が浮かび上がる。痛々しく刻まれた熱傷痕に胸を掻き毟られて、甲洋は思わず追いすがるように起き上がると、その背をすっぽりと抱き包んでいた。
「こうよお?」
「……いい、このままで」
聞こえるか聞こえないかの低い声で言うと、操は呆けたようにパチパチと瞬きを繰り返したあと、頬と耳と、首筋や肩の先までも染め上げて、こそばゆそうにふにゃんと笑った。
柔らかいなと、甲洋は思う。操はどこもかしこも柔らかい。そしていじらしかった。
些細な仕草だったり、表情の動きだったり、肌の色とか、体温の変化。内も外も、その全身で、操は甲洋への想いを伝えてくる。
愛しいと思う感情が蕩けたゼリーのように際限もなく溢れでて、自分の身体が正しく形を保てているかどうかすら自信がなくなってしまう。
好きだ。これが、好きって気持ちだ。知らないままに今までどうやって生きてこられたのか、自分でも不思議でならなかった。
甲洋は赤い耳に頬を擦り寄せながら震える息を吐きだした。くすぐったそうに、操は少しだけ肩をすくめてクスクスと笑い声をあげる。
「ねぇ、くすぐったいよぅ」
「……ごめん。だけど、もう少しこのまま」
「でも、苦しいよ」
少し強く抱きしめすぎただろうか。腕の力を緩めかけると、操は首を左右に振ってみせた。
「ここが苦しいだけだよ。だってさっきから、ずっとドキドキしてるんだもん」
操は心臓の上にある甲洋の前腕に両手で触れた。胸にぴったりとくっついている彼の背中からも、大きな鼓動が伝わってくる。
けれどそれは甲洋も同じだ。あんなに激しく抱き合ったあとなのに、たったいま恋に落ちたみたいに意識しあっている。
「こおよ」
甘えた声が甲洋の名を呼ぶ。ん、と短く返事をすると、操は猫が瞬きをするようにゆっくりと睫毛を踊らせた。
「おれの初めて、いっぱい甲洋にあげちゃったね」
「……うん」
暴かれること、縛られること、デタラメの嘘に踊りながら、愛して、赦した。
恋をするということも。誰かを想って泣くことも。与えたいと、そう思うことすらきっと初めてだったのだ。
それは奪われることの絶望を知ったから、だったのかもしれない。誰かに必要とされたくて、埋められないものを埋めたくて。孤独に膝を抱えていたのは、操も同じだった。
操と甲洋。空っぽのふたり。甲洋の孤独に、操は惹かれた。ちっとも似ていないのに、とてもよく、似ていたから。
そして甲洋もまた、自分でも知らなかった自分自身を幾つも発見させられた。
泣きながら怯える操を可愛いと思ってしまったこともまた事実で、正直いまでもその気持ちは変わらない。甲洋のなかには、そういう歪んだ欲望が未だどこかに潜んでいることは否めなかった。
だけどこんな面倒でどうしようもない男のことを、それでも彼は好きだという。
(──守ろう)
心からそう思った。この子を、きっと。
その身に降りかかる全ての火の粉を払い除け、必ずこの手で守り抜こう。操と、操が愛するものを。もう決して誰も失わせないし、もう二度と、怖い夢を見なくても済むように。
この子が笑っていられるのなら、なんだってしようと。
「全部もらったから……大事にする」
誰かを好きになるのは、とても怖い。だってその先には裏切りが待っているかもしれないから。
甲洋はずっとそういうものから逃げ続けていた。人を信じることができなかった。好かれるための努力はしても、自分から手を伸ばす勇気を持とうとはしなかった。
自分で自分を消していた。だけどもう、終わりにしよう。
だって甲洋は操と恋がしたい。間違ったはじまり。間違った道筋。けれど結末は揺蕩うように穏やかで、この恋は、きっと運命になる。
「好きだよ」
言葉にするとまた少し泣きたくなって、代わりに操を抱く腕に力を込める。
甲洋が鼻をすすっていることに気がつくと、彼は「泣き虫だね」と言って幼く笑った。
丸裸だ。甲洋の心は。
「おれも大好き。甲洋」
そこに操が触れるから。
上向けられた視線と目を合わせ、柔らかな唇にキスをした。
操からは命の匂いがする。あたたかな、空の匂いがする。あの泣きたくなるような切なさは愛しさに形を変えて、甲洋は少しずつ、強く変わっていけるような気がした。
*
八日目、昼。
本当は四人で総士達を船着き場まで迎えに行こうと思っていたけれど、暉が少し寂しそうにしていることに気がついて、真矢とふたりで行ってもらうことにした。
出掛けに「がんばれ」とこっそり耳打ちしたら、暉は真っ赤な顔をして「なに言ってんですか」と声をひっくり返らせていた。この分だと、彼の恋が成就するのは当分先のことになりそうだなと、甲洋は生暖かい眼差しで後輩と友人の背を見送った。
「暉と真矢、もう行っちゃった?」
カウンターに立つ甲洋が、縁いっぱいまで氷を入れたグラスにコーヒー液を注いでいると、二階から操がおりてきた。
「だいぶ前にね。そろそろ戻ってくるんじゃないかな……もう起きてきて平気?」
問いかけに操はうんと頷き、カウンター席に腰掛けた。
一緒に迎えに行けなかったのは、彼の腰の具合があまりよろしくなかったせいもある。一昨日の夜に続いて昨夜もずいぶん無茶をさせてしまったのだから、無理もない。
今朝方ベッドから抜け出そうとして力が入らず、そのまま転げ落ちた操に血の気が引くような思いがしたが、腰から下がなくなっちゃったよと言って泣きそうになっている様子に、悪いと思いながらも気が抜けた。
「ねぇ甲洋、おれにもコーヒーちょうだいよ」
操はケロリとした表情で少し前のめりになりながら言った。甲洋は目を丸くして小首を傾げる。
「いいけど、飲める?」
「へーきへーき! だっておれもう大人だし!」
なぜか彼は自信たっぷりな様子だった。
もしセックスを経験したからもう大人なのだと思っているなら、それは大きな間違いだ。けれどある意味、無理やり『大人』にしてしまったのは甲洋でもあるので、なんとなく返す言葉がなくて、黙って自分用にと作っていたはずのアイスコーヒーを操に差し出す。
「やったー! ありがとう!」
操は嬉しそうにグラスを受け取ると、カウンターテーブルに等間隔に置かれているシュガーケースと、ミルクケースを引き寄せる。
胸焼けがしそうになるほど大量に砂糖を入れたあと、コーヒーが真っ白になるくらいミルクを入れてかき混ぜる姿を見て、甲洋はやっぱりまだ子供なんだなぁと思った。
「一騎と総士が帰ってきたら、おれがコーヒー飲めるようになったこと教えてあげなくちゃ」
ほとんどミルクと砂糖の味しかしない液体を飲みながら、操はどこか誇らしげだった。甲洋は苦笑しながら厨房スペースから出て、その隣に腰掛ける。
壁掛けの時計を見上げれば、時刻は12時をさしていた。あとほんの少しすれば、一騎と総士が長旅を終えて帰ってくるのだ。
ふと、昨日の今ごろ自分はどんな顔をしていたっけと、甲洋は思う。ひとりぼっちでいるみたいな顔。そうだ、そんな顔をしていた。
横顔に視線を感じて、隣にいる操に目を向けた。くるくるとした大きな瞳が、甲洋をじっと見つめている。
彼の目に映る自分は、今どんな顔をしているだろう。
寂しいかと聞かれたら、迷わず否と答えられる。そこにもう嘘はひとつもなくて、毒を出し切ってしまった甲洋にとって、昨日までの自分は干からびた蛇の抜け殻のようなものだった。
「まだ寂しそうに見える?」
操がなにも言わないので、甲洋はふっと微笑みながら自ら問いかけた。
彼は答える代わりに白い指先を伸ばし、緩く弧を描く甲洋の唇を確かめるようにゆるりとなぞった。それから、花が開くような笑顔を見せる。
甲洋はゆっくりと離れていこうとするその手をとって、指の隙間を縫うようにそっと優しく握りしめた。
操の瞳に映る甲洋は、もう笑っているのに笑っていない嘘つきでもなければ、ひとりぼっちの寂しいやつでもなかった。
一皮むけて新しくなった皮膚はまだ柔らかくて、丸裸になった心は、きっと些細なことで傷つくだろう。
痛みを恐れて笑顔を盾にしていた甲洋は、傷つかないために優しい人間であり続けなければならなかった。だけど今は、優しくなりたいと思っている。
「お前がいるから、もう寂しくないよ」
昨日の今ごろ、操はきっとこの言葉を待っていたのだろうなと、甲洋は思う。
ゆっくりと顔を近づけあって、一瞬だけ、唇同士を触れ合わせた。誤魔化すためのキスじゃなく、本当にそうしたいと思ったから。好きで好きで、どうにかなりそうだったから。
「じゃあ、これからもずーっと寂しくないね、甲洋」
弾むように未来を紡ぐ操の声が、耳朶をくすぐる。
まぁるい頬を薄紅に染めながら笑う彼は、ちょっと臭い表現だけれど、天使のように愛らしい。
目が眩みそうなほどの幸福に溺れて、甲洋は何も言えなくなった。求められれば幾らでも饒舌になれたはずの自分が、操の前では不器用になる。代わりに強く、指先に力を込めた。
砂糖とミルクの甘い香りと、焙煎されたコーヒー豆の匂い。暮れゆく夏の天気は良好で、ガラス張りの店内が白く豊かな光に包まれている。
古びた時計がちくたくと音を奏でていた。一秒ごとに、甲洋の中には忘れたくないと思える記憶が増えていく。
忘れられないということを、これほど嬉しいと感じられたのは初めてだった。
──カラリ。
そのとき、ドアベルが鳴る音がした。楽園の扉が開かれる。
「帰ってきた!」
熱く蕩けていた瞳を、無邪気な子供の色へと変えて、操が弾かれたように席を立つ。
絡めあっていた指がほどけて、甲洋の手から幼いぬくもりが遠ざかる。だけどその感触はいつまでもそこに残っていて、この恋がずっと続いていくことを教えてくれた。
操が両手を広げて駆け寄っていくその先へと目を細め、甲洋は優しく晴れやかに、笑みを浮かべた。
「おかえり総士! 一騎──!」
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09
甲洋が知らない、操の話。
ひとつひとつ紡がれるたびに感情と共に溢れる涙は、薄ぼんやりとした部屋の中で星屑のようにキラキラと煌めいている。
その美しさに呆然としながら、甲洋は今まで一騎や真矢が言いかけていた言葉の先が、なんとなく想像できたような気がした。
彼は拙い反発心から甲洋に興味を抱いた。
甲洋のことが気になって、総士と一騎だけに留まらず、島中の人に話を聞いて回っていた。そしてその中には、あの両親さえも含まれていたのだ。
──あのね甲洋
朝、カウンター席で並んで朝食を食べたあと。
寂しいのかと聞いてきた操に、甲洋はキスをして、寂しくないよとまた嘘をついた。
それでも彼はほっとした顔を見せ、それから、なにかを言いかけていた。
──おれ、前にね、ここで君の
あの場所で、操は甲洋の孤独に触れていたのだ。
だからあんなに心配そうに、不安そうに問いかけてきた。甲洋を愛さなかったひとたちがいたあの場所で、甲洋を愛しながら、寄り添おうとしていた。
けれど甲洋は嘘をついた。寂しかった。独りでいるよりもずっと、あのときの甲洋は孤独を感じていた。だって明日にはもう、この子はいないのだと思っていたから。ありのままの自分を好いてくれる人間など、どこにもいないのだと思っていたから。
だから気づけなかった。
本当は、もうずっと前から求めていたものが傍にあったということに。
甲洋は真実の愛が欲しかった。
だけどきっと、そんなものが本当にこの世界に存在するなんて、信じていなかったのは甲洋自身だったのかもしれない。
「あのね、好きなひとしか触っちゃダメって言ったの……あれはね、おれのこと好きじゃないひとは、触っちゃダメって意味だったんだよ」
操は耳の際まで真っ赤にしながら、俯いてもじもじと肩を揺らした。
「だっておれは、甲洋に嫌われることばかりしてたもの」
白い手を握りしめ、彼は子供っぽくグイッと涙を拭った。そんなに乱暴にこすったら腫れてしまう。だけど甲洋は喉が詰まったようになっていて、なにも言うことができなかった。
「最初にちゃんと好きって言えなくて……ごめん」
ひたむきに想いを告げる姿に、胸が張り裂けそうになる。
そこにいるのは初恋に頬を染める少年で、甲洋はこれを平然と穢したのだ。すでに消えない傷を負っている彼の身体を、心を、大事に守っていた場所を暴いて、その尊厳を踏み散らかした。
「でも、初めてだったから……ああいうことするのも、誰かをこんなふうに好きになるのも、おれ、初めてだったから……なんて言ったらいいか、わかってなかった。怖かったし、痛かったし、恥ずかしかったから……」
せっかく拭った瞳から、操はまた涙を流した。何度も鼻をすすっているのを見て、甲洋はどうしたらいいか分からなくなる。ただ身体が震えていた。
未だになにひとつ言葉を発せないまま、衝動的にその身体を引き寄せて、強く抱きしめる。
「こ、こうよ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
「ごめん、来主……ごめん……ごめんな……」
もうなにに対しての謝罪なのか分からないくらい、甲洋は操の肩に目元を押しつけ、そればかりを繰り返した。声は濡れて、酷く掠れて上ずっていた。
甲洋はこの純粋な少年の心を、身体を、たくさんたくさん傷つけた。自分の孤独を埋められさえすればそれでよかった。そこにある痛みも、生まれたばかりだった淡い感情も、なにひとつ知らないで。
それでも彼はしなやかな両腕を甲洋の背に回し、力いっぱい抱き返してくる。
「ねぇ、おれは甲洋が好きだよ。君がどんなに酷いやつでも、ちゃんと好きだよ。嫌なことなんかなにもなかった。だから甲洋……嘘にしないで。全部ほんとのことにしちゃえばいいよ。おれには甲洋しかいないって、もういちど言ってよ」
おれのこと嫌いでもいいからと、操は言った。
「だって、そうじゃなきゃ、おれの気持ちまで嘘になっちゃう。そんなの、やだよ」
甲洋は止めどなく溢れる涙に歯を食いしばり、緩く首を振る。
だってそんなの、あんまりだ。
「俺、は」
あまりにも、狡いではないか。
「俺は、ただ怖くて……否定されたことが、怖くて……」
「うん……」
「思い通りになるなら、きっと誰でも、よかったんだ……お前が特別だったからじゃ、ない……他の誰が相手でも、俺はきっと、同じことをしたんだよ……」
「……うん」
「そんなの、ずるいだろ……? お前なんかどうでもいいって……思い通りにならないなら、傷つけたっていいって……傷つけてでも、欲しいだなんてさ……」
泣き方を知らない子供のように、甲洋は言葉を詰まらせながら心の中身をぶちまける。
「こんな気持ち、間違ってるだろ? 許せないだろ? こんな俺が今さら……今さらお前のことが好きなんて、そんなの……」
操は泣いている甲洋の頭をゆるりと撫でながら「うん」と小さく頷いた。
「……それじゃあやっぱり、君にはおれしかいないんだ」
「ッ、……?」
操は甲洋の頬を両手で包み込むと、そっと肩から引き離す。真っ赤な目をして泣いている顔を見て、涙目で笑うと額同士をくっつけた。
「君みたいなやつ、なんて言うか知ってるよ。めんどくさいんだ。こんなのを好きでいられるなんて、きっとおれしかいないでしょ?」
「くるす……」
「だから甲洋には、おれしかいない」
抗毒血清。
「おれしかいないんだよ」
少しずつ、少しずつ身体を蛇の毒で侵していって、中和するための抗体を作る。
操は、甲洋の毒を喰ってしまった。
喰らいつくして、嘘を真実に、変えてしまったのだ。
*
「好きだよ甲洋……ねぇ、大好き……ぁ、こう、よ」
甘く上ずった声が甲洋の名を呼んで、喘ぎながら、何度も好きと繰り返す。
それは甲洋の芯に深く爪を立てるように絡みついて、熱く、柔らかく、蕩けさせていった。
「あッ、痛い……こぉよ……あぁ、ぁ……痛い、よぉ……」
甲洋は下から操を貫いていた。あのあと夢中でキスをして、服すら満足に脱がないままに、繋がった。
愛撫もそこそこに、ただ薄っすらと滲んだ互いの体液だけを頼りに。まだ解れきっていない大事な場所をこじ開けて、揺さぶっている。
甲洋は痛みを一身に受ける操の身体を掻き抱いて、操は甲洋の首にしがみついて、汗を振りまきながら互いを貪り合っていた。ベッドが軋み、換気をしていない室内は性の匂いで蒸している。
「ごめん、来主……ぁ、ッ、ごめん、ごめ、ん」
性急な行為に悲鳴をあげる身体を、甲洋は欲望のままに幾度も突き上げた。優しくしたいのに、その首筋に顔を埋めながら、それでも腰が止まらない。
操のなかは熱く甲洋を締めつけて、鈍い水音を響かせながらさらに奥へと誘い込もうとしているようだった。ずん、ずん、と衝撃を与えるたび、甲洋の上に跨る身体が大きくしなる。
彼は泣きながら笑い、首を振りながら「いいよ」と言った。
「許すから……ぁ、う、甲洋のこと、許すから……」
──許すから。
ああ、きっと、甲洋の嘘が毒ならば、彼の言葉は魔法のようだ。
甘く拙く、とろとろに煮込んだ果実に、幾つも幾つも角砂糖を放り込んでいくような。喉が焼けるほどの甘味もまた、きっと毒であることに違いない。
操の魔法は、甲洋の心を真綿でそっと締め上げる。痛苦しさの中に生まれて初めて安らぎを覚えた甲洋は、涙を流しながら自分自身と向き合った。
(父さん母さん……ごめんなさい……)
甲洋はずっと許されたかった。
そこにいることを許されたかった。
どうか否定しないで。どうかどうか、俺を愛して。
そんなふうにいつまでも求め続ける自分を、許してほしかった。
島を出たのも、本当は引き止めてほしかったからだ。
父から初めて電話がきたとき、そろそろ帰って来いと、そう言ってくれるのではないかと期待した。
戻ってきたのは、いつかふたりが帰ってくるかもしれないと思ったから。
この店を守っていれば、そのうちひょっこり顔を出して、また最初からやり直そうと言ってくれるかもしれないと。
今までよくやったなと、立派になったなと、褒めてほしかった。
(ずっと諦められなくて、ごめんなさい)
だけどその未練を、期待を、甲洋は操を抱きながら手放した。
(諦めたから、だから)
もう、いい。
「好きだよ」
甲洋は言った。抽送の合間に、操の耳たぶに鼻先を押しつけて。
自分の気持ちを疑うことに疲れてしまった。本当は誰でもよかった。だけどきっと、そうじゃない。都合がよくたっていい。狡くたっていい。後付けだって構わない。だってこんなに好きだ。この子でよかったと、甲洋の心と身体は、こんなにも喜んでいる。
「好きだ、来主……好きだよ……好きに、なったんだ……」
操の身体がビクリと跳ねて、甲洋を食んでいる秘所がさらにきゅうっときつく締まった。
彼は赤かった全身をもっともっと染め上げて、甲洋の顔を間近に見ながら唇を戦慄かせる。
「来主に会えて、よかった」
多分きっと最初から、依存していたのは甲洋だった。
依存されることに依存していた。それはとても愚かなことで、だけどこのまま、変わることなんかできないのかもしれない。
だけど操が許すなら。許してくれるなら。甲洋はこの愛を、信じてみたかった。
「うん……おれも嬉しいよ。甲洋に会えたこと」
こんな幸せを、甲洋は知らない。
受け止めきれなくて、内側から溢れ出してしまいそうだった。だけど一滴も手放したくなくて、全部この身体に注ぎ込みたいと思った。嬉しい。嬉しい。もうなにも、言葉にならない。
「あッ! ふぁ……っ!」
操を抱いたまま、甲洋は体勢を変えるとベッドにその身を押し倒す。両足をギリギリまで開かせて、体重をかけながら奥まで突き上げると、深く身体を折られた操の腰がシーツからすっかり浮いた状態になった。
「ひッ、ぃ! あッ、あう、ぁ……っ、ふか、い! こうよ、深い、よぉ……!」
シャツ越しに操が背中に爪を立てる。性急にことを進めてしまったせいで、その薄い布越しの感覚にもどかしさを覚えた。
大きく身体を揺さぶるたびに、操の小さな屹立が揺れる。先走りの蜜がとろとろと零れて腹を伝い、胸のあたりまでたくし上げられているシャツまでしっとりと濡らしていった。
快感の痺れが背筋を這い上がり、頭の天辺まで響き渡る。なにも考えられなくなって、急いたように動物めいた息だけが大きくなっていく。
「う、ッ、ぁ、来主……、来主、いく……ぁっ、出したい、ナカ、に」
色づいた全身をぶるぶると震わせながら、操は何度も首を縦に振った。甲洋の腰に絡みつく、柔らかな腿が痙攣している。
操の赤い屹立を手のひらですっぽり包み込むと、ぐちぐちと水音を立てながら小刻みに扱いた。前と後ろを同時に責められ、操の唇から打ち据えられた子犬のような悲鳴があがる。目がくらみそうになるほどの興奮に甲洋もまた小さく喘いで、絡みつく肉壁に逆らいながら奥を突く。
焼け爛れそうな熱に、頭の中が白く染まった。
「あぁッ、こうよ、甲洋……っ、ぁう、ぁ、あぁ──……ッ!」
同時に飛沫をあげながら、ぎゅうと強く抱き合って震えた。早鐘をうつ鼓動が、荒々しい息が、もうどちらのものか分からないくらい、ひとつに溶け合っているのを感じる。
長く尾を引くような絶頂に、目の前で星がキラキラと舞い踊っていた。怖いくらい、気持ちがいい。操はか細い声で喘ぎながら、甲洋の迸りを全て薄い臓腑に受け止める。
「こう、よ」
ふやけた声で甲洋の名を呼びながら、操のしっとりと汗ばむ両腕が甲洋の頭を抱きかかえ、癖のある焦げ茶を梳かすように何度も撫でた。
ふと、抱かれているのは俺のほうだと、甲洋は思った。守られているような安堵すら込み上げて、自分より身体の小さな少年の腕のなかで、甲洋はまた少し泣いてしまった。
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甲洋が知らない、操の話。
ひとつひとつ紡がれるたびに感情と共に溢れる涙は、薄ぼんやりとした部屋の中で星屑のようにキラキラと煌めいている。
その美しさに呆然としながら、甲洋は今まで一騎や真矢が言いかけていた言葉の先が、なんとなく想像できたような気がした。
彼は拙い反発心から甲洋に興味を抱いた。
甲洋のことが気になって、総士と一騎だけに留まらず、島中の人に話を聞いて回っていた。そしてその中には、あの両親さえも含まれていたのだ。
──あのね甲洋
朝、カウンター席で並んで朝食を食べたあと。
寂しいのかと聞いてきた操に、甲洋はキスをして、寂しくないよとまた嘘をついた。
それでも彼はほっとした顔を見せ、それから、なにかを言いかけていた。
──おれ、前にね、ここで君の
あの場所で、操は甲洋の孤独に触れていたのだ。
だからあんなに心配そうに、不安そうに問いかけてきた。甲洋を愛さなかったひとたちがいたあの場所で、甲洋を愛しながら、寄り添おうとしていた。
けれど甲洋は嘘をついた。寂しかった。独りでいるよりもずっと、あのときの甲洋は孤独を感じていた。だって明日にはもう、この子はいないのだと思っていたから。ありのままの自分を好いてくれる人間など、どこにもいないのだと思っていたから。
だから気づけなかった。
本当は、もうずっと前から求めていたものが傍にあったということに。
甲洋は真実の愛が欲しかった。
だけどきっと、そんなものが本当にこの世界に存在するなんて、信じていなかったのは甲洋自身だったのかもしれない。
「あのね、好きなひとしか触っちゃダメって言ったの……あれはね、おれのこと好きじゃないひとは、触っちゃダメって意味だったんだよ」
操は耳の際まで真っ赤にしながら、俯いてもじもじと肩を揺らした。
「だっておれは、甲洋に嫌われることばかりしてたもの」
白い手を握りしめ、彼は子供っぽくグイッと涙を拭った。そんなに乱暴にこすったら腫れてしまう。だけど甲洋は喉が詰まったようになっていて、なにも言うことができなかった。
「最初にちゃんと好きって言えなくて……ごめん」
ひたむきに想いを告げる姿に、胸が張り裂けそうになる。
そこにいるのは初恋に頬を染める少年で、甲洋はこれを平然と穢したのだ。すでに消えない傷を負っている彼の身体を、心を、大事に守っていた場所を暴いて、その尊厳を踏み散らかした。
「でも、初めてだったから……ああいうことするのも、誰かをこんなふうに好きになるのも、おれ、初めてだったから……なんて言ったらいいか、わかってなかった。怖かったし、痛かったし、恥ずかしかったから……」
せっかく拭った瞳から、操はまた涙を流した。何度も鼻をすすっているのを見て、甲洋はどうしたらいいか分からなくなる。ただ身体が震えていた。
未だになにひとつ言葉を発せないまま、衝動的にその身体を引き寄せて、強く抱きしめる。
「こ、こうよ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
「ごめん、来主……ごめん……ごめんな……」
もうなにに対しての謝罪なのか分からないくらい、甲洋は操の肩に目元を押しつけ、そればかりを繰り返した。声は濡れて、酷く掠れて上ずっていた。
甲洋はこの純粋な少年の心を、身体を、たくさんたくさん傷つけた。自分の孤独を埋められさえすればそれでよかった。そこにある痛みも、生まれたばかりだった淡い感情も、なにひとつ知らないで。
それでも彼はしなやかな両腕を甲洋の背に回し、力いっぱい抱き返してくる。
「ねぇ、おれは甲洋が好きだよ。君がどんなに酷いやつでも、ちゃんと好きだよ。嫌なことなんかなにもなかった。だから甲洋……嘘にしないで。全部ほんとのことにしちゃえばいいよ。おれには甲洋しかいないって、もういちど言ってよ」
おれのこと嫌いでもいいからと、操は言った。
「だって、そうじゃなきゃ、おれの気持ちまで嘘になっちゃう。そんなの、やだよ」
甲洋は止めどなく溢れる涙に歯を食いしばり、緩く首を振る。
だってそんなの、あんまりだ。
「俺、は」
あまりにも、狡いではないか。
「俺は、ただ怖くて……否定されたことが、怖くて……」
「うん……」
「思い通りになるなら、きっと誰でも、よかったんだ……お前が特別だったからじゃ、ない……他の誰が相手でも、俺はきっと、同じことをしたんだよ……」
「……うん」
「そんなの、ずるいだろ……? お前なんかどうでもいいって……思い通りにならないなら、傷つけたっていいって……傷つけてでも、欲しいだなんてさ……」
泣き方を知らない子供のように、甲洋は言葉を詰まらせながら心の中身をぶちまける。
「こんな気持ち、間違ってるだろ? 許せないだろ? こんな俺が今さら……今さらお前のことが好きなんて、そんなの……」
操は泣いている甲洋の頭をゆるりと撫でながら「うん」と小さく頷いた。
「……それじゃあやっぱり、君にはおれしかいないんだ」
「ッ、……?」
操は甲洋の頬を両手で包み込むと、そっと肩から引き離す。真っ赤な目をして泣いている顔を見て、涙目で笑うと額同士をくっつけた。
「君みたいなやつ、なんて言うか知ってるよ。めんどくさいんだ。こんなのを好きでいられるなんて、きっとおれしかいないでしょ?」
「くるす……」
「だから甲洋には、おれしかいない」
抗毒血清。
「おれしかいないんだよ」
少しずつ、少しずつ身体を蛇の毒で侵していって、中和するための抗体を作る。
操は、甲洋の毒を喰ってしまった。
喰らいつくして、嘘を真実に、変えてしまったのだ。
*
「好きだよ甲洋……ねぇ、大好き……ぁ、こう、よ」
甘く上ずった声が甲洋の名を呼んで、喘ぎながら、何度も好きと繰り返す。
それは甲洋の芯に深く爪を立てるように絡みついて、熱く、柔らかく、蕩けさせていった。
「あッ、痛い……こぉよ……あぁ、ぁ……痛い、よぉ……」
甲洋は下から操を貫いていた。あのあと夢中でキスをして、服すら満足に脱がないままに、繋がった。
愛撫もそこそこに、ただ薄っすらと滲んだ互いの体液だけを頼りに。まだ解れきっていない大事な場所をこじ開けて、揺さぶっている。
甲洋は痛みを一身に受ける操の身体を掻き抱いて、操は甲洋の首にしがみついて、汗を振りまきながら互いを貪り合っていた。ベッドが軋み、換気をしていない室内は性の匂いで蒸している。
「ごめん、来主……ぁ、ッ、ごめん、ごめ、ん」
性急な行為に悲鳴をあげる身体を、甲洋は欲望のままに幾度も突き上げた。優しくしたいのに、その首筋に顔を埋めながら、それでも腰が止まらない。
操のなかは熱く甲洋を締めつけて、鈍い水音を響かせながらさらに奥へと誘い込もうとしているようだった。ずん、ずん、と衝撃を与えるたび、甲洋の上に跨る身体が大きくしなる。
彼は泣きながら笑い、首を振りながら「いいよ」と言った。
「許すから……ぁ、う、甲洋のこと、許すから……」
──許すから。
ああ、きっと、甲洋の嘘が毒ならば、彼の言葉は魔法のようだ。
甘く拙く、とろとろに煮込んだ果実に、幾つも幾つも角砂糖を放り込んでいくような。喉が焼けるほどの甘味もまた、きっと毒であることに違いない。
操の魔法は、甲洋の心を真綿でそっと締め上げる。痛苦しさの中に生まれて初めて安らぎを覚えた甲洋は、涙を流しながら自分自身と向き合った。
(父さん母さん……ごめんなさい……)
甲洋はずっと許されたかった。
そこにいることを許されたかった。
どうか否定しないで。どうかどうか、俺を愛して。
そんなふうにいつまでも求め続ける自分を、許してほしかった。
島を出たのも、本当は引き止めてほしかったからだ。
父から初めて電話がきたとき、そろそろ帰って来いと、そう言ってくれるのではないかと期待した。
戻ってきたのは、いつかふたりが帰ってくるかもしれないと思ったから。
この店を守っていれば、そのうちひょっこり顔を出して、また最初からやり直そうと言ってくれるかもしれないと。
今までよくやったなと、立派になったなと、褒めてほしかった。
(ずっと諦められなくて、ごめんなさい)
だけどその未練を、期待を、甲洋は操を抱きながら手放した。
(諦めたから、だから)
もう、いい。
「好きだよ」
甲洋は言った。抽送の合間に、操の耳たぶに鼻先を押しつけて。
自分の気持ちを疑うことに疲れてしまった。本当は誰でもよかった。だけどきっと、そうじゃない。都合がよくたっていい。狡くたっていい。後付けだって構わない。だってこんなに好きだ。この子でよかったと、甲洋の心と身体は、こんなにも喜んでいる。
「好きだ、来主……好きだよ……好きに、なったんだ……」
操の身体がビクリと跳ねて、甲洋を食んでいる秘所がさらにきゅうっときつく締まった。
彼は赤かった全身をもっともっと染め上げて、甲洋の顔を間近に見ながら唇を戦慄かせる。
「来主に会えて、よかった」
多分きっと最初から、依存していたのは甲洋だった。
依存されることに依存していた。それはとても愚かなことで、だけどこのまま、変わることなんかできないのかもしれない。
だけど操が許すなら。許してくれるなら。甲洋はこの愛を、信じてみたかった。
「うん……おれも嬉しいよ。甲洋に会えたこと」
こんな幸せを、甲洋は知らない。
受け止めきれなくて、内側から溢れ出してしまいそうだった。だけど一滴も手放したくなくて、全部この身体に注ぎ込みたいと思った。嬉しい。嬉しい。もうなにも、言葉にならない。
「あッ! ふぁ……っ!」
操を抱いたまま、甲洋は体勢を変えるとベッドにその身を押し倒す。両足をギリギリまで開かせて、体重をかけながら奥まで突き上げると、深く身体を折られた操の腰がシーツからすっかり浮いた状態になった。
「ひッ、ぃ! あッ、あう、ぁ……っ、ふか、い! こうよ、深い、よぉ……!」
シャツ越しに操が背中に爪を立てる。性急にことを進めてしまったせいで、その薄い布越しの感覚にもどかしさを覚えた。
大きく身体を揺さぶるたびに、操の小さな屹立が揺れる。先走りの蜜がとろとろと零れて腹を伝い、胸のあたりまでたくし上げられているシャツまでしっとりと濡らしていった。
快感の痺れが背筋を這い上がり、頭の天辺まで響き渡る。なにも考えられなくなって、急いたように動物めいた息だけが大きくなっていく。
「う、ッ、ぁ、来主……、来主、いく……ぁっ、出したい、ナカ、に」
色づいた全身をぶるぶると震わせながら、操は何度も首を縦に振った。甲洋の腰に絡みつく、柔らかな腿が痙攣している。
操の赤い屹立を手のひらですっぽり包み込むと、ぐちぐちと水音を立てながら小刻みに扱いた。前と後ろを同時に責められ、操の唇から打ち据えられた子犬のような悲鳴があがる。目がくらみそうになるほどの興奮に甲洋もまた小さく喘いで、絡みつく肉壁に逆らいながら奥を突く。
焼け爛れそうな熱に、頭の中が白く染まった。
「あぁッ、こうよ、甲洋……っ、ぁう、ぁ、あぁ──……ッ!」
同時に飛沫をあげながら、ぎゅうと強く抱き合って震えた。早鐘をうつ鼓動が、荒々しい息が、もうどちらのものか分からないくらい、ひとつに溶け合っているのを感じる。
長く尾を引くような絶頂に、目の前で星がキラキラと舞い踊っていた。怖いくらい、気持ちがいい。操はか細い声で喘ぎながら、甲洋の迸りを全て薄い臓腑に受け止める。
「こう、よ」
ふやけた声で甲洋の名を呼びながら、操のしっとりと汗ばむ両腕が甲洋の頭を抱きかかえ、癖のある焦げ茶を梳かすように何度も撫でた。
ふと、抱かれているのは俺のほうだと、甲洋は思った。守られているような安堵すら込み上げて、自分より身体の小さな少年の腕のなかで、甲洋はまた少し泣いてしまった。
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08
部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。
「お、おい来主!?」
激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。
「ッ、くる、す!」
「甲洋……こうよう……」
操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。
その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。
なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。
「やめろって、来主!」
ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。
甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。
「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」
さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。
彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。
「お前は、俺のことが嫌いだろ?」
だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。
「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」
「……それは嫌いなのと、どう違うの?」
「ぜんぜん違う!」
操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。
見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。
そして、見開いた目を瞬かせる。
そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは──
「……俺?」
甲洋がいた。
それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。
思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。
「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」
「……なんで、お前がこれを?」
「君が写ってるからだよ」
操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。
何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。
「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」
ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。
操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。
「好き、だった……?」
「そうだよ」
「お前が、俺を? なぜ?」
呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。
「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」
操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。
*
春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。
ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。
そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。
子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。
「懐かしいな」
そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。
そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。
誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。
懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。
甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。
それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。
本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。
それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。
すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。
ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。
あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。
そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。
操はなぜかとても不安になった。
もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。
あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。
*
その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。
いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。
けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。
彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。
頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。
誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。
女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。
操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。
春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。
*
あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。
島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。
なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。
島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。
だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。
店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。
カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。
「あら、いらっしゃい」
ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。
操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。
「ご注文は?」
そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。
(……似てないな、ぜんぜん)
そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。
重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。
「はいどうぞ」
諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。
甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。
操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。
「ねぇ」
「……なにかしら?」
「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」
その瞬間、空気が変わった。
正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。
「……あのバカ息子がどうしたって?」
正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。
「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」
「うん。そうだけど」
「そんなのが、一体あれになんの用だい」
どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。
操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。
(この人たちは、嫌いだな……)
素直にそう感じた。
「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」
操の言葉を、正浩は鼻で笑った。
「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」
「わからない? 自分の子供のことなのに?」
「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」
正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。
「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」
うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」
「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」
「なんだと!?」
口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。
やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。
「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」
「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」
その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。
(おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ)
「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」
この人たちは、息子を愛していないのだろうか。
彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。
「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」
正浩がまた鼻で笑った。
「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」
「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」
「……あんた一体なにが言いたいんだ?」
飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。
「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」
「それは、ない、けど……でも」
操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。
(なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……)
自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。
「ハズレなんかじゃないよ」
やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。
「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」
*
それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。
帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。
自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。
どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。
みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。
理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。
逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。
あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。
空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。
*
泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。
楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。
「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」
まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。
ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。
正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。
そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。
一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。
またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。
今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。
(……甲洋だけは、同じ顔)
まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。
どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。
笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。
だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。
一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。
けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。
笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。
それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。
操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。
春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。
もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。
なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。
*
それから一年──。
春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。
彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。
アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。
甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。
どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。
操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。
あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。
自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。
そしてあの夜。
──総士に言いつけてやろうか?
操の世界はひっくり返った。
もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。
──来主は、俺のことが嫌いだったね。
あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。
操はそこで、ようやく気づいた。
(違う、そうじゃない。そうじゃなくて……)
冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。
怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。
だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。
けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。
狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。
自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。
──俺しかいないよ。
そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。
──来主には、もう俺しかいない。
このひとは、怖い。
怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。
独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。
ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。
だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。
(好きって、言いたかったんだ)
初めて同じベッドで目を覚ました朝。
隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。
このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。
泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。
その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。
おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。
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部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。
「お、おい来主!?」
激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。
「ッ、くる、す!」
「甲洋……こうよう……」
操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。
その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。
なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。
「やめろって、来主!」
ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。
甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。
「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」
さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。
彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。
「お前は、俺のことが嫌いだろ?」
だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。
「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」
「……それは嫌いなのと、どう違うの?」
「ぜんぜん違う!」
操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。
見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。
そして、見開いた目を瞬かせる。
そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは──
「……俺?」
甲洋がいた。
それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。
思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。
「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」
「……なんで、お前がこれを?」
「君が写ってるからだよ」
操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。
何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。
「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」
ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。
操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。
「好き、だった……?」
「そうだよ」
「お前が、俺を? なぜ?」
呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。
「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」
操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。
*
春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。
ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。
そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。
子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。
「懐かしいな」
そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。
そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。
誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。
懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。
甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。
それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。
本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。
それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。
すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。
ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。
あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。
そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。
操はなぜかとても不安になった。
もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。
あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。
*
その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。
いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。
けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。
彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。
頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。
誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。
女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。
操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。
春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。
*
あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。
島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。
なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。
島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。
だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。
店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。
カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。
「あら、いらっしゃい」
ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。
操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。
「ご注文は?」
そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。
(……似てないな、ぜんぜん)
そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。
重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。
「はいどうぞ」
諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。
甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。
操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。
「ねぇ」
「……なにかしら?」
「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」
その瞬間、空気が変わった。
正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。
「……あのバカ息子がどうしたって?」
正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。
「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」
「うん。そうだけど」
「そんなのが、一体あれになんの用だい」
どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。
操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。
(この人たちは、嫌いだな……)
素直にそう感じた。
「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」
操の言葉を、正浩は鼻で笑った。
「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」
「わからない? 自分の子供のことなのに?」
「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」
正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。
「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」
うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」
「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」
「なんだと!?」
口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。
やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。
「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」
「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」
その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。
(おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ)
「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」
この人たちは、息子を愛していないのだろうか。
彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。
「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」
正浩がまた鼻で笑った。
「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」
「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」
「……あんた一体なにが言いたいんだ?」
飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。
「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」
「それは、ない、けど……でも」
操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。
(なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……)
自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。
「ハズレなんかじゃないよ」
やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。
「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」
*
それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。
帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。
自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。
どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。
みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。
理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。
逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。
あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。
空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。
*
泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。
楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。
「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」
まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。
ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。
正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。
そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。
一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。
またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。
今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。
(……甲洋だけは、同じ顔)
まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。
どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。
笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。
だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。
一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。
けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。
笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。
それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。
操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。
春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。
もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。
なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。
*
それから一年──。
春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。
彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。
アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。
甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。
どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。
操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。
あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。
自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。
そしてあの夜。
──総士に言いつけてやろうか?
操の世界はひっくり返った。
もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。
──来主は、俺のことが嫌いだったね。
あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。
操はそこで、ようやく気づいた。
(違う、そうじゃない。そうじゃなくて……)
冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。
怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。
だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。
けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。
狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。
自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。
──俺しかいないよ。
そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。
──来主には、もう俺しかいない。
このひとは、怖い。
怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。
独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。
ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。
だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。
(好きって、言いたかったんだ)
初めて同じベッドで目を覚ました朝。
隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。
このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。
泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。
その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。
おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。
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07
夜、夕飯を済ませてから日野家に向かう途中、暉に会った。
「買い物帰りの遠見先輩と、美羽ちゃんにたまたま会ったんです。そしたら、今夜は花火をするんだって美羽ちゃんが……それで、その、俺もお邪魔することになりました」
聞いてもいないのに、暉はなぜか早口でまくしたてた。
彼は網に包まれた大玉のスイカを持っている。そういえば手ぶらで来てしまったなと思いながら、甲洋はソワソワと落ち着かない様子の後輩に微笑ましげな目を向けた。
今の暉はスイカの重みでかろうじて地に足がついている。放っておいたら、浮かれて飛んでいってしまいそうだった。
「それにしても、遠見先輩が驚いてましたよ」
なんのことかと、甲洋は隣を歩く暉に小さく首を傾げる。操はときどきよそ見をしながらも、甲洋のすぐ斜め後ろをぴったりとついて歩いていた。
「どんな魔法を使ったら、あそこまで操くんの心を掴めるんだろうって」
「魔法? ずいぶんロマンチックだな」
「可愛いですよね。女の人って、いちいちものの例え方が」
暉はパッと頬を赤らめて、なぜかとても嬉しそうな顔をして見せる。けれどすぐにハッとして、今度は照れくさそうに頬を掻きながら「すみません」と小声で呟き、はにかんだような笑みを浮かべた。
赤らんだままの頬や垂れ下がった目尻を見ながら、なんて幸せそうな顔をするのだろうかと、甲洋は思う。恋をしている人間は、こんなふうに笑うのだ。
「でも、本当に凄いです。たった一週間で、初日の夜はあんなだったのに」
「もともと人懐っこいヤツだって聞いてたよ。来主は」
「そうですけど、その、違ったじゃないですか。春日井先輩には」
まぁねと言って、甲洋はどこか曖昧に笑う。暉はもう一度、改めて「凄いですよ」と呟いた。
「だって、操くんが花火なんて。夏祭りの灯篭流しですら、一度も来たことなかったのに」
暉が操に目をやった。彼は山の起伏にかろうじて残っている夕焼けを眺めながら歩いていて、ほとんど話を聞いていない。けれど暉の視線に気づき、顔を向けると小首を傾げた。そんな操に、暉がにこりと笑って見せる。
「操くんは、春日井先輩が大好きなんだね」
目を瞬かせていた操は、暉の言葉が嬉しくて堪らないとでもいうように、蕩けた笑みを溢れさせる。そしてこくりと、迷いなく頷いた。
「うん、大好き」
──大好き。
その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に、甲洋は静かに息を飲む。
操はさっきまでの暉と同じ顔をしていた。年齢よりもずっと幼い目元をひたむきに染め上げて、それだけで幸せだとばかりに笑っている。
暉がふふっと声をあげるのを聞きながら、咄嗟に見ていられなくて目を逸す。
目や耳の奥にカァっと熱が集まり、そのまま顔中がほてっていくのを感じた。内側から茹だったなにかがドッと溢れ出してきそうで、その甘ったるい激情は甲洋をひどく戸惑わせる。
(なんだ、これ)
ふと、手にぬくもりが触れた。男にしては骨っぽさに欠けていて、まだ幼さを残す柔らかな感触だった。きゅっと握られると、甲洋の胸も締めつけられる。一瞬だけ迷ったあと、そっと握り返した。
暉は気づかず、なんやかんやと楽しそうに世間話をしながら前を向いて歩いている。
おもむろに鳴きはじめたひぐらしの声に切なさを覚えて、甲洋は静かに震える息を吐きだした。
(……今さら?)
キスだけなら、もう何度したか分からない。セックスだってそう。あれほどの独占欲と執着に囚われておきながら。
今になって、どうしてこんな気持ちになるんだろう。この感情は、いつからここにあったのだろう。あるいは今この瞬間、降って湧いたように芽生えたものなのだろうか。
甲洋には分からない。
ただ言えることは、例えばこの感情に『恋』なんて名前をつけようものならば、それはとても狡くて、後ろめたいものであるということだった。
そんなものは、きっとただの後付けでしかない。
だってそうだろう。思いだしてもみろ。自分が操になにをしてきたかを。
恋だなんて綺麗なものに昇華させたところで、なにひとつ覆りはしないのだから。
(今さらこんなの、間違ってる)
甲洋は操のことが怖くて仕方がなかった。
怖くて憎くて、だから壊した。その心をバラバラに砕いて、でたらめに組み立てて、飢えを満たすための人形にした。
操は本来そこに有しているはずの大事なネジを失っていて、彼が甲洋に抱く感情は、全てが『嘘』でできている。
そして明日には、消えてしまうのだ。
そう、ぜんぶ嘘。嘘まみれ。
好きなんて感情は、本当はどこにもない。
操の心にも、きっと甲洋の心にも。だから嬉しくない。嬉しくなんか、ない。
繋いだ手と手は熱をこもらせ、しっとりと淡く汗ばんでいく。
早くこの手を離さなければ。じゃなきゃ後戻りできなくなってしまう。そう思うほどに、甲洋は操の手を強く強く握りしめて、離すことができなかった。
*
夜の闇の中に、色とりどりの火花が散っていた。
日野家の広い庭に、美羽の幼い笑い声が響き渡っている。
真矢と、暉と、美羽の両親が輪をなして花火に興じる光景を、甲洋と操は縁側に腰掛けて少し離れた位置から見守っていた。
「平気?」
甲洋が顔を覗き込むと、操はうんと頷いた。
彼はずっと甲洋の腕を抱き込んで、ぴったりと身を寄せている。最初のうちは肩を強張らせていたが、時が経つにつれて少しずつリラックスしていった。
それでも彼は甲洋から離れようとはしない。母猫の懐で守られている子猫のようだった。
「美羽たち、楽しそう」
小さく笑いながら、操がぽつりと言った。
「花火、綺麗だね」
鮮やかに目を射る煌めきが、その白煙すらも色とりどりに染め上げて、火薬の匂いを振りまきながら咲き乱れていた。
それを見つめる彼は、まるで夢を見ているかのようにゆったりと目を細めている。どこか懐かしんでいるようにも見えて、きっといなくなった家族との思い出を手繰り寄せているのだろうなと、甲洋は思った。
「……辛くなったら、すぐに言って」
膝のうえにあった甲洋の左手に、操の右手が触れた。手のひらをぴたりと合わせ、指の隙間を縫うようにして握りしめてくる。
「平気」
操は甲洋の方へと顔を向けた。そして、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて見せる。
「だっておれには、甲洋がいるもん」
操の頬は薄ぼんやりとした夜目にも分かるほど、赤くふわりと染まっていた。好きじゃないなんて言って釣り上げていたはずの瞳は、その面影すら感じさせないほど蕩けたようになっている。
ケーキのスポンジをふやかしたみたいに、柔らかくて甘ったるい笑顔がそこにはあった。
甲洋だけをその目に映して、それが偽りの恋とも気づかず頬を染め上げ、可愛く瞳を潤ませて。
「甲洋がいてくれて、嬉しい」
操がそう言った瞬間、甲洋はさっきとは違う不思議な感覚に捉われた。
ひび割れた箇所に熱い湯が流れ込んできたみたいに、深部で凍りついていたものがゆっくりと溶けだし、ほどけていく。
(なんだろう……この感じ……)
本当はずっと、心のどこかで思っていた。
例えば全てを捨て去って、この手を引いてどこか遠くへ逃げだしてしまえたら。誰も知らない場所まで、この子を連れだしてしまえたら。
どんなにいいだろう。そこにはどんな幸福が待っているのだろうかと。
だってそうすれば、操の瞳はずっと甲洋を映し続ける。
毎日ほんの少しずつ毒を注入していって、長い時間をかけて身体の中で血清へと作り変えていくように。嘘で縛られた彼の心を、いつか本当に手に入れることができるかもしれないと。
けれど嘘は嘘のままだ。真実なんかどこにもない。
そして甲洋は、真実の愛が欲しかった。自分だけの、特別な誰かが欲しかった。特別と思ってくれる誰かが欲しかった。愛されて、そして愛してみたかった。
だけど今だけは、今この瞬間だけは。別に嘘だっていいじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。
(ああ、そうか)
だって今、甲洋の胸はこんなにも満たされてしまった。
操の笑顔。操の言葉。そのぬくもりがこんなにも愛しい。こんなにも嬉しい。こんなにも。こんなにも!
(もう、充分なんだ──)
誰かを好きだと思う気持ち。存在を肯定されることの喜び。求められることの幸せ。甲洋が知らなかったもの。甲洋が欲しかったもの。ずっとずっと、焦がれていたもの。その全てを一度に与えられたことへの充足感が、爪の先まで満ちていく。
それは花火のように掻き消えてしまう、一瞬の幸福でしかない。けれど確かに感じた愛しさを、喜びを、甲洋は絶対に忘れない。
だからもう充分。だからもう、終わりにしよう。
「ありがとう、来主」
甲洋は同じように彼の手を握り返した。強く強く、想いを込めて。
「どうしたの、急に」
操がその改まった様子に首を傾げる。甲洋はなんの飾り気もない笑みを浮かべた。
「なんとなくさ。今日で最後だから、かな」
「最後って言い方、なんか嫌だな。まるでお別れしなくちゃいけないみたい」
「お別れなんだよ、来主」
「え……?」
甲洋は花火をする団欒に目をやった。原色の光が少し痛くて、瞳を眇める。
「明日、一騎と総士が帰ってくるよ」
「──っ!」
操が息を飲み込んだ気配がした。
「心配しなくても大丈夫。お前は捨てられたりなんかしないし、来主の居場所は、ちゃんとある」
甲洋はゆっくりと、操にかかった呪いの暗示を解いていく。
好き勝手に組み立ててしまったバラバラのパーツを、丁寧にひとつひとつ組み直して、大事なネジをあるべき場所に、返していった。
「ふたりが帰ってきたら、俺がお前にしたことを言えばいい。そうしたら、ちゃんと終わるから」
操の指から力が抜けていく。波が引いていくみたいに、するりと手が遠のいた。ぴったりと寄せ合っていたはずの身体が離れ、ぬくもりが消えていく。寂しかった。独りは、寂しい。
しゅう、という音と共に、甲高い歓声があがった。噴出花火が星のような火花を撒き散らしながら、白く噴き上がっている。
操がぎゅっと身を強張らせ、青い顔をしながらそれを凝視していた。胸元で握りしめた両手がガチガチと震えているのを見て、甲洋はよすがとしての役目を終えたことを理解した。
「帰ろう、来主」
息が荒くなりつつある操が、喉を鳴らしながらかろうじて小さく頷いた。
*
家まで続く真っすぐな道に沿うように、静かに水音を奏でる堀が伸びている。
ときおり水辺から舞い上がるホタルが、ゆらゆらと光の残像を描きながら暗い夜道を照らしていた。
ふたりは会話もなく歩き続けていた。クビキリギスの細く高い鳴き声だけが、辺りに切なく響き渡っている。
操は甲洋から数歩遅れた位置を歩いていた。震えもすっかり治まって、呼吸も安定しているようだった。
「──甲洋」
暗闇に小石を投じるように、小さな声で名前を呼ばれる。歩みは止めないまま「ん」と短くを返事をすると、操はしばらく逡巡を見せたがやがて静かに口を開いた。
「おれが総士に話したら、甲洋はどうなるの」
硬い声だった。甲洋は小さく笑う。
「島にはもういられないかな。総士と一騎が知ったら絶対に許さない、だろ?」
「……もしおれが何も言わなかったら?」
「出てくよ、それでも」
あれはただのレイプだった。そしてあまりにも一方的で、傲慢な支配だった。操がなにも言わないからって、黙って何事もなかったように振る舞えるほど甲洋の面の皮は厚くない。
然るべき罰を受けるつもりでいるし、今度こそ島に戻るつもりもなかった。
「ねぇ!」
操は少し焦った声をあげながら足を止めた。
「おれが……嫌じゃなかったって言ったら?」
甲洋は思わず足を止めて振り向いた。それから、眉を下げて苦笑する。
「なにお前、情でも移った?」
「茶化さないでよ」
「来主は騙されてただけだよ。そうだな……洗脳、って言えばわかるか?」
「わかんないよ!」
唐突に声を荒げた操に、甲洋は押し黙る。
彼は俯き、シャツの裾を両手で握りしめていた。ぐっと引っ張るものだから、襟が伸びて甲洋がつけたキスマークが剥き出しになっている。
操は噛み締めた唇を震わせて、今にも泣きそうな顔をしながら肩を怒らせていた。
「来主?」
「わかんないけど、でも甲洋が……すごく自分勝手な酷いやつだってことは、わかる」
「……ごめん」
「ひとりぼっちの寂しいやつだってことも、知ってたよ。初めて会う、ずっと前から」
吐き出された言葉の意味が理解できずに、甲洋はただ呆然とする。
「あのね、おれ甲洋に言ってないこと、いっぱいあるよ。言わなきゃいけないこと、いっぱい。甲洋はおれのこと、なんにも知らないんだ。だけど、おれは知ってる。多分、知ってるよ。君のこと」
「なに、言って……?」
操は顔をあげると歩みを進め、甲洋の手を掴んだ。そのまま強く引いて、どんどん前に進みはじめる。
「く、来主? ちょっと!」
「セックスしよう、甲洋」
「な……ッ?」
「君が知らないおれのこと、全部言うよ。教えてあげる」
操の手は熱かった。まるで有無を言わさぬとばかりの強引さに、甲洋はただ圧倒されて、流されていくのを感じるばかりだった。
「だって甲洋には、おれしかいないでしょ?」
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夜、夕飯を済ませてから日野家に向かう途中、暉に会った。
「買い物帰りの遠見先輩と、美羽ちゃんにたまたま会ったんです。そしたら、今夜は花火をするんだって美羽ちゃんが……それで、その、俺もお邪魔することになりました」
聞いてもいないのに、暉はなぜか早口でまくしたてた。
彼は網に包まれた大玉のスイカを持っている。そういえば手ぶらで来てしまったなと思いながら、甲洋はソワソワと落ち着かない様子の後輩に微笑ましげな目を向けた。
今の暉はスイカの重みでかろうじて地に足がついている。放っておいたら、浮かれて飛んでいってしまいそうだった。
「それにしても、遠見先輩が驚いてましたよ」
なんのことかと、甲洋は隣を歩く暉に小さく首を傾げる。操はときどきよそ見をしながらも、甲洋のすぐ斜め後ろをぴったりとついて歩いていた。
「どんな魔法を使ったら、あそこまで操くんの心を掴めるんだろうって」
「魔法? ずいぶんロマンチックだな」
「可愛いですよね。女の人って、いちいちものの例え方が」
暉はパッと頬を赤らめて、なぜかとても嬉しそうな顔をして見せる。けれどすぐにハッとして、今度は照れくさそうに頬を掻きながら「すみません」と小声で呟き、はにかんだような笑みを浮かべた。
赤らんだままの頬や垂れ下がった目尻を見ながら、なんて幸せそうな顔をするのだろうかと、甲洋は思う。恋をしている人間は、こんなふうに笑うのだ。
「でも、本当に凄いです。たった一週間で、初日の夜はあんなだったのに」
「もともと人懐っこいヤツだって聞いてたよ。来主は」
「そうですけど、その、違ったじゃないですか。春日井先輩には」
まぁねと言って、甲洋はどこか曖昧に笑う。暉はもう一度、改めて「凄いですよ」と呟いた。
「だって、操くんが花火なんて。夏祭りの灯篭流しですら、一度も来たことなかったのに」
暉が操に目をやった。彼は山の起伏にかろうじて残っている夕焼けを眺めながら歩いていて、ほとんど話を聞いていない。けれど暉の視線に気づき、顔を向けると小首を傾げた。そんな操に、暉がにこりと笑って見せる。
「操くんは、春日井先輩が大好きなんだね」
目を瞬かせていた操は、暉の言葉が嬉しくて堪らないとでもいうように、蕩けた笑みを溢れさせる。そしてこくりと、迷いなく頷いた。
「うん、大好き」
──大好き。
その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に、甲洋は静かに息を飲む。
操はさっきまでの暉と同じ顔をしていた。年齢よりもずっと幼い目元をひたむきに染め上げて、それだけで幸せだとばかりに笑っている。
暉がふふっと声をあげるのを聞きながら、咄嗟に見ていられなくて目を逸す。
目や耳の奥にカァっと熱が集まり、そのまま顔中がほてっていくのを感じた。内側から茹だったなにかがドッと溢れ出してきそうで、その甘ったるい激情は甲洋をひどく戸惑わせる。
(なんだ、これ)
ふと、手にぬくもりが触れた。男にしては骨っぽさに欠けていて、まだ幼さを残す柔らかな感触だった。きゅっと握られると、甲洋の胸も締めつけられる。一瞬だけ迷ったあと、そっと握り返した。
暉は気づかず、なんやかんやと楽しそうに世間話をしながら前を向いて歩いている。
おもむろに鳴きはじめたひぐらしの声に切なさを覚えて、甲洋は静かに震える息を吐きだした。
(……今さら?)
キスだけなら、もう何度したか分からない。セックスだってそう。あれほどの独占欲と執着に囚われておきながら。
今になって、どうしてこんな気持ちになるんだろう。この感情は、いつからここにあったのだろう。あるいは今この瞬間、降って湧いたように芽生えたものなのだろうか。
甲洋には分からない。
ただ言えることは、例えばこの感情に『恋』なんて名前をつけようものならば、それはとても狡くて、後ろめたいものであるということだった。
そんなものは、きっとただの後付けでしかない。
だってそうだろう。思いだしてもみろ。自分が操になにをしてきたかを。
恋だなんて綺麗なものに昇華させたところで、なにひとつ覆りはしないのだから。
(今さらこんなの、間違ってる)
甲洋は操のことが怖くて仕方がなかった。
怖くて憎くて、だから壊した。その心をバラバラに砕いて、でたらめに組み立てて、飢えを満たすための人形にした。
操は本来そこに有しているはずの大事なネジを失っていて、彼が甲洋に抱く感情は、全てが『嘘』でできている。
そして明日には、消えてしまうのだ。
そう、ぜんぶ嘘。嘘まみれ。
好きなんて感情は、本当はどこにもない。
操の心にも、きっと甲洋の心にも。だから嬉しくない。嬉しくなんか、ない。
繋いだ手と手は熱をこもらせ、しっとりと淡く汗ばんでいく。
早くこの手を離さなければ。じゃなきゃ後戻りできなくなってしまう。そう思うほどに、甲洋は操の手を強く強く握りしめて、離すことができなかった。
*
夜の闇の中に、色とりどりの火花が散っていた。
日野家の広い庭に、美羽の幼い笑い声が響き渡っている。
真矢と、暉と、美羽の両親が輪をなして花火に興じる光景を、甲洋と操は縁側に腰掛けて少し離れた位置から見守っていた。
「平気?」
甲洋が顔を覗き込むと、操はうんと頷いた。
彼はずっと甲洋の腕を抱き込んで、ぴったりと身を寄せている。最初のうちは肩を強張らせていたが、時が経つにつれて少しずつリラックスしていった。
それでも彼は甲洋から離れようとはしない。母猫の懐で守られている子猫のようだった。
「美羽たち、楽しそう」
小さく笑いながら、操がぽつりと言った。
「花火、綺麗だね」
鮮やかに目を射る煌めきが、その白煙すらも色とりどりに染め上げて、火薬の匂いを振りまきながら咲き乱れていた。
それを見つめる彼は、まるで夢を見ているかのようにゆったりと目を細めている。どこか懐かしんでいるようにも見えて、きっといなくなった家族との思い出を手繰り寄せているのだろうなと、甲洋は思った。
「……辛くなったら、すぐに言って」
膝のうえにあった甲洋の左手に、操の右手が触れた。手のひらをぴたりと合わせ、指の隙間を縫うようにして握りしめてくる。
「平気」
操は甲洋の方へと顔を向けた。そして、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて見せる。
「だっておれには、甲洋がいるもん」
操の頬は薄ぼんやりとした夜目にも分かるほど、赤くふわりと染まっていた。好きじゃないなんて言って釣り上げていたはずの瞳は、その面影すら感じさせないほど蕩けたようになっている。
ケーキのスポンジをふやかしたみたいに、柔らかくて甘ったるい笑顔がそこにはあった。
甲洋だけをその目に映して、それが偽りの恋とも気づかず頬を染め上げ、可愛く瞳を潤ませて。
「甲洋がいてくれて、嬉しい」
操がそう言った瞬間、甲洋はさっきとは違う不思議な感覚に捉われた。
ひび割れた箇所に熱い湯が流れ込んできたみたいに、深部で凍りついていたものがゆっくりと溶けだし、ほどけていく。
(なんだろう……この感じ……)
本当はずっと、心のどこかで思っていた。
例えば全てを捨て去って、この手を引いてどこか遠くへ逃げだしてしまえたら。誰も知らない場所まで、この子を連れだしてしまえたら。
どんなにいいだろう。そこにはどんな幸福が待っているのだろうかと。
だってそうすれば、操の瞳はずっと甲洋を映し続ける。
毎日ほんの少しずつ毒を注入していって、長い時間をかけて身体の中で血清へと作り変えていくように。嘘で縛られた彼の心を、いつか本当に手に入れることができるかもしれないと。
けれど嘘は嘘のままだ。真実なんかどこにもない。
そして甲洋は、真実の愛が欲しかった。自分だけの、特別な誰かが欲しかった。特別と思ってくれる誰かが欲しかった。愛されて、そして愛してみたかった。
だけど今だけは、今この瞬間だけは。別に嘘だっていいじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。
(ああ、そうか)
だって今、甲洋の胸はこんなにも満たされてしまった。
操の笑顔。操の言葉。そのぬくもりがこんなにも愛しい。こんなにも嬉しい。こんなにも。こんなにも!
(もう、充分なんだ──)
誰かを好きだと思う気持ち。存在を肯定されることの喜び。求められることの幸せ。甲洋が知らなかったもの。甲洋が欲しかったもの。ずっとずっと、焦がれていたもの。その全てを一度に与えられたことへの充足感が、爪の先まで満ちていく。
それは花火のように掻き消えてしまう、一瞬の幸福でしかない。けれど確かに感じた愛しさを、喜びを、甲洋は絶対に忘れない。
だからもう充分。だからもう、終わりにしよう。
「ありがとう、来主」
甲洋は同じように彼の手を握り返した。強く強く、想いを込めて。
「どうしたの、急に」
操がその改まった様子に首を傾げる。甲洋はなんの飾り気もない笑みを浮かべた。
「なんとなくさ。今日で最後だから、かな」
「最後って言い方、なんか嫌だな。まるでお別れしなくちゃいけないみたい」
「お別れなんだよ、来主」
「え……?」
甲洋は花火をする団欒に目をやった。原色の光が少し痛くて、瞳を眇める。
「明日、一騎と総士が帰ってくるよ」
「──っ!」
操が息を飲み込んだ気配がした。
「心配しなくても大丈夫。お前は捨てられたりなんかしないし、来主の居場所は、ちゃんとある」
甲洋はゆっくりと、操にかかった呪いの暗示を解いていく。
好き勝手に組み立ててしまったバラバラのパーツを、丁寧にひとつひとつ組み直して、大事なネジをあるべき場所に、返していった。
「ふたりが帰ってきたら、俺がお前にしたことを言えばいい。そうしたら、ちゃんと終わるから」
操の指から力が抜けていく。波が引いていくみたいに、するりと手が遠のいた。ぴったりと寄せ合っていたはずの身体が離れ、ぬくもりが消えていく。寂しかった。独りは、寂しい。
しゅう、という音と共に、甲高い歓声があがった。噴出花火が星のような火花を撒き散らしながら、白く噴き上がっている。
操がぎゅっと身を強張らせ、青い顔をしながらそれを凝視していた。胸元で握りしめた両手がガチガチと震えているのを見て、甲洋はよすがとしての役目を終えたことを理解した。
「帰ろう、来主」
息が荒くなりつつある操が、喉を鳴らしながらかろうじて小さく頷いた。
*
家まで続く真っすぐな道に沿うように、静かに水音を奏でる堀が伸びている。
ときおり水辺から舞い上がるホタルが、ゆらゆらと光の残像を描きながら暗い夜道を照らしていた。
ふたりは会話もなく歩き続けていた。クビキリギスの細く高い鳴き声だけが、辺りに切なく響き渡っている。
操は甲洋から数歩遅れた位置を歩いていた。震えもすっかり治まって、呼吸も安定しているようだった。
「──甲洋」
暗闇に小石を投じるように、小さな声で名前を呼ばれる。歩みは止めないまま「ん」と短くを返事をすると、操はしばらく逡巡を見せたがやがて静かに口を開いた。
「おれが総士に話したら、甲洋はどうなるの」
硬い声だった。甲洋は小さく笑う。
「島にはもういられないかな。総士と一騎が知ったら絶対に許さない、だろ?」
「……もしおれが何も言わなかったら?」
「出てくよ、それでも」
あれはただのレイプだった。そしてあまりにも一方的で、傲慢な支配だった。操がなにも言わないからって、黙って何事もなかったように振る舞えるほど甲洋の面の皮は厚くない。
然るべき罰を受けるつもりでいるし、今度こそ島に戻るつもりもなかった。
「ねぇ!」
操は少し焦った声をあげながら足を止めた。
「おれが……嫌じゃなかったって言ったら?」
甲洋は思わず足を止めて振り向いた。それから、眉を下げて苦笑する。
「なにお前、情でも移った?」
「茶化さないでよ」
「来主は騙されてただけだよ。そうだな……洗脳、って言えばわかるか?」
「わかんないよ!」
唐突に声を荒げた操に、甲洋は押し黙る。
彼は俯き、シャツの裾を両手で握りしめていた。ぐっと引っ張るものだから、襟が伸びて甲洋がつけたキスマークが剥き出しになっている。
操は噛み締めた唇を震わせて、今にも泣きそうな顔をしながら肩を怒らせていた。
「来主?」
「わかんないけど、でも甲洋が……すごく自分勝手な酷いやつだってことは、わかる」
「……ごめん」
「ひとりぼっちの寂しいやつだってことも、知ってたよ。初めて会う、ずっと前から」
吐き出された言葉の意味が理解できずに、甲洋はただ呆然とする。
「あのね、おれ甲洋に言ってないこと、いっぱいあるよ。言わなきゃいけないこと、いっぱい。甲洋はおれのこと、なんにも知らないんだ。だけど、おれは知ってる。多分、知ってるよ。君のこと」
「なに、言って……?」
操は顔をあげると歩みを進め、甲洋の手を掴んだ。そのまま強く引いて、どんどん前に進みはじめる。
「く、来主? ちょっと!」
「セックスしよう、甲洋」
「な……ッ?」
「君が知らないおれのこと、全部言うよ。教えてあげる」
操の手は熱かった。まるで有無を言わさぬとばかりの強引さに、甲洋はただ圧倒されて、流されていくのを感じるばかりだった。
「だって甲洋には、おれしかいないでしょ?」
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06
六日目の夕方。
甲洋は自室で一騎からの電話を受けていた。
「どう? そっちは。少しはゆっくりできてる?」
どろりと溶けたような夕焼けが室内を照らすなか、甲洋は携帯電話を耳に押し当て、ベッドの縁に腰掛けていた。
『おかげさまで。ごめんな、遠見や暉にまで迷惑かけて』
「迷惑なんて誰も思ってないよ。こっちはなんとかやってるし。それより総士は?」
『総士なら今ごろ家族で団欒してるよ。妹さんたちと親父さんも、こっちにいるから』
「なるほど。置いてきぼりで暇してるわけだ、一騎は」
そんなことないよと、一騎が苦笑する。それから少し声のトーンを落とし『来主はどうしてる?』と心配そうに問うてきた。
「ああ、来主なら──」
操は甲洋を跨ぐようにして傍にいた。
下半身はなにも身に着けず、たくし上げたシャツの裾を噛み締めて震えている。肌を赤く色づかせ、ふ、ふ、と苦しそうに息を漏らしていた。
ふたりの身体の中心では、操の幼い雄がけなげにそそり勃っている。限界まで高ぶらされたそれはピクピクと脈打ち、透明な涙を溢れさせていた。
けれどそれは操自身の手によってきつく握り込まれ、せき止められている。一人で勝手に出してしまわないように、話が終わるまで握っていろと甲洋が命じたからだ。
もとより達する寸前で幾度も焦らしながらその反応を楽しんでいたところに、一騎から電話が来てしまったのは事故にも等しい。小刻みに身を震わせながら必死で堪えている姿は、甲洋の中にあるサディスティックな感性を刺激してやまなかった。
「ぅ……ふ……っ、……ん、く……っ!」
操はぎゅうと肩をすくめ、苦しそうに眉根を寄せている。甲洋はイタズラな笑みを浮かべて、先走りを滲ませる先端を指先でくるくるとなぞってやった。
「んっ、くうぅっ、ん……ッ!」
びくんと腰を震わせながら、操は嫌々と首を振りたくった。くぐもった悲鳴が、噛み締めたシャツにじわりと染みを作っている。
性器を握り込んでいる指先は力みすぎて白く染まっていた。それでは痛いだけだろうと、甲洋はその手を外させて、代わりに自分の人差し指と親指で輪っかを作ると、絶妙な力加減で根本を戒めてやった。
「ッ、ひ……ぅ……!」
「元気にしてるよ、すごく」
『そっか、ならいいんだけど……なぁ甲洋、今ってそばに誰かいるのか?』
「ああ、ごめん。外でずっと猫が盛ってるんだ」
ああなるほどと、一騎はあっさり納得した。盛っているのはお前のところの子猫だよと、そう言ってやりたいような気持ちを押し込め、喉の奥で微かに笑う。
一番いいところで生殺しにされている操は、甲洋の肩に縋りながら必死で快感を堪えていたが、どうにかして気を引こうと考えたのか、手を下へ伸ばすと甲洋の身体の中心をまさぐりだした。
「あっ、こら来主……そこはダメだって」
『来主? そばにいるのか?』
「うん。ずっと俺の部屋にいるよ。イタズラ好きで困ってるところ」
操は不器用な手つきで甲洋のパンツのボタンとファスナーを外そうとしている。だがなかなかうまくできずに焦っている様子だった。
そうとも知らず、一騎が安堵と微笑ましさを滲ませながらくすりと笑った。
『よかった。うまくやってるんだな』
「まぁね。最初はどうなることかと思ったけど」
たった数日で変わってしまった関係性に、甲洋はしみじみと目を細める。毛を逆立てて威嚇する子猫のようだった姿が、今ではいっそ懐かしく感じられた。
「来主、イタズラばかりしてないで。ほら、お前の大好きな一騎だよ」
わざとらしいまでにうっそりと微笑み、歌うような軽やかさで言った。電話を耳から離し、そっと差しだす。操は手をとめ、とろりとした瞳でそれを見下ろした。だらしなく開かれた唇から、湿ったシャツの裾が落ちる。
さて、彼はどうするだろう。もし操がその手でこれに触れたなら。どうしてやろう。戒めている性器をめちゃくちゃに扱き上げて、一騎が聞いているなかでイカせてやろうか。
甲洋の中には破滅的ともいえる、奇妙で危うい衝動が沸き起こっていた。
穏やかに微笑むその裏で、細めた瞳は射抜くように操を捉えて離さない。
一秒、二秒。三秒目で、彼は電話を見下ろしたまま緩く小首を傾げて見せた。それからふっと視線を逸し、甲洋の頭を抱き込むようにして首に縋りついてくる。彼は甘えた仕草で耳たぶに鼻先を擦りつけて、吐息だけで「ねぇ早く」と、言った。
「ッ!」
ぞくりとして息をのむ。電話から『来主?』という一騎の声が漏れ聞こえた。
「あ、ああ。ごめん一騎……来主は、今ちょっと出られない」
『うん? そっか、いいよ別に』
上ずってしまいそうになる声でどうにか答えると、一騎は特に疑問を抱いたふうもなくさらりと流す。電話をよこしたのが彼でよかった。総士の方だったら、とっくに怪しまれていたに違いない。
えらく質の悪い遊びだ。この期に及んで、甲洋はまた操を試してしまった。そのくせ彼が期待に応えると面食らってしまう。面倒臭い矛盾を抱えているものだと、自分に呆れる。
けれど一拍おいて込み上げる喜びが、蕩け落ちてしまいそうなくらい甘美なものであることを、甲洋は知っていた。
『とにかく安心したよ。ずっと気になってたから』
それから一騎は一瞬だけ間を置いて『前にさ』と、静かな声で切り出した。
『来主のやつが、泣きながら帰ってきたことがあって』
「泣きながら?」
『──あ、ごめん甲洋、総士が戻ってきた』
一騎はいったん電話を離し、戻ってきた総士と二三言葉を交わしているようだった。
甲洋は傾けた首と肩で電話を挟んで固定した。自由になった腕で細腰を抱き寄せ、幾度かゆるゆると性器を扱いて刺激してやる。
「ふ……ッ、ぅ、くっ、ぅんん……っ」
操は背中を丸めて甲洋の肩口に額を擦りつけた。むずがるような声に興奮を覚えながらも、一騎が言いかけていた言葉の先も気になっている。
操が泣きながら帰ってきた。それはどういう意味で、そのとき彼の身になにが起こったというのだろう。あの流れで切り出されたからには、そこに自分も関係しているのだろうか。
本人に聞けば手っ取り早そうだが、今の操は口がきける状態ではない。
最近、こういうことが多いなと思った。総士たちが旅立つ当日、四人でテーブルを囲んだときも、一騎はなにかを言いかけていた。真矢だってそう。ずっと気になっていたが、この分だと今ここで確かめるのは難しそうだ。
総士も戻ってきたようだし、実のところ甲洋もあまり長くは遊んでいられない。下の階ではそろそろ夜の準備に忙しくなるころだ。
なにより、操がいよいよ限界だった。彼は真っ赤な顔ですすり泣き、期待に膨らんだ性器を充血させている。じわじわと加減しながらさらに扱いてやると、甲洋を跨いでいる内腿が可哀相なくらいプルプルと痙攣した。その痴態に、思わず熱のこもった息が漏れる。
「こぉ、よ……も、ゃぁぁ……っ」
「もう少しだから。待ってて」
『悪い甲洋、そろそろ切るよ。そっちもちょうど忙しくなる時間だろ?』
「うん。そうしてもらえると助かるかな」
平静を装って受け答えをしながらも、操を追い上げる手は止めない。
「ひ、っく……っ、ふ……うぅ……」
『明後日には帰るよ。午前中の船に乗るから』
「ああ、わかった」
「こ、ょ……ィッ、く、ぅ」
『じゃあ、来主によろしくな。いっぱいお土産買って帰るからさ。伝言頼むな』
「──ん、いいよ」
通話が切れると同時に、操が達した。彼は甲洋の首にしがみついたまま、大きく身をしならせて白濁を撒き散らす。
「──……ッ!! ふあぁ、ッ……ん……あぅ……あ、ぁー……っ」
引き攣れる呼吸の合間にか細い鳴き声を漏らし、女のようにビクビクと身を震わせながら、やがてぽっきりと枝が折れるように弛緩する。
はかはかと浅い呼吸を繰り返す痩躯を抱きとめ、甲洋は濡れた手のひらもそのままに熱っぽい身体をひっくり返してベッドへ押し倒した。
「ッ、んぁ……っ」
余韻の抜けない身体は神経が剥き出したように敏感で、断続的に痙攣しながらも覆いかぶさる甲洋の唇を受け止める。
舌を絡ませて、思うままに貪りながら吸い上げた。操は小さく痩せた舌でそれに応え、必死で甲洋の背にしがみつくと合間に上ずった呻きを漏らす。
夢中で狭い口腔を蹂躙しながらも、甲洋は頭の片隅で一騎の言葉を思いだしていた。明後日には、ふたりが七泊八日の滞在を終えて島に戻ってくる。こうして過ごせる操との時間は、今日を含めてあと二日しかない。
甲洋はその現実から逃げるように、より深くその唇に溺れていった。
「ふ、ぁ、んむ……ぅ、ッ、けほっ、けほ……っ!」
溢れた唾液を飲み込みきれず、操がむせた。名残惜しく糸をひきながら唇を開放すると、その呼吸が落ち着くまでのあいだ、乱れる前髪を掻き上げるようにして優しく撫でた。むき出しになった汗ばむ額に、そっと小さなキスをする。
「いい子だったね、来主」
「こぅ、よ」
操は物欲しそうに甲洋を見上げた。快楽の味を知って間もない少年が、いとけなく雄を誘うために瞳を潤ませている。密かに喉を鳴らしながら、甲洋はゆるゆると首を左右に振った。
「ダメ。そろそろ下に戻らないと」
本音を言えば、このまま深く抱き合いたい。初めてのときは酷くしてしまったから。今度は隅々まで丁寧に愛撫して、痛みなど感じさせないくらいとろとろに蕩けさせてから、貫いて欲を満たしたかった。
けれど時間がそれを許してくれそうにない。仕方なく離れようとした甲洋の首に、操の両腕が絡みつく。ぐっと力いっぱい引き寄せられて、咄嗟に体勢を崩してしまった。
「ぅわっ」
甲洋は思い切り操の上に倒れ込んでしまった。胸と胸が隙間なく合わさり、そこからドキドキという大きな鼓動が伝わってくる。
「あ、危ないだろ」
「だって、甲洋……」
赤い頬ととろけた瞳で、操が言った。もじもじと身じろぐ彼の太腿あたりに、硬くなった甲洋のものが当たっている。
「……しょうがないだろ」
照れ臭くなって、甲洋も思わず頬を染めた。
あんな姿を見せられれば、こうなってしまうのは仕方ない。情けないくらい膨らんだそこが、下着とパンツに押さえつけられて痛いほどだった。
これは一度すっきり出してしまわないと、店にも下りられないのではないか。時間を稼ぐ大義名分を得た甲洋は、机の上のデジタル時計にチラリと横目を走らせた。
あと10分だけ。簡単に処理するくらいなら、どうにかなるだろうか。こうやって、人は目先の快楽に堕落していくのだ。猿にでもなったような気分だった。
ほとんど諦めの境地で薄い身体を抱きしめると、操が嬉しそうに甲洋のこめかみに頬を擦りつける。
「春日井先輩! すみません、ちょっといいですか?」
そのとき、下から暉の声がした。
甲洋はハッと我に返り、慌てて「いま行くよ」と返事をすると、深い溜息をついた。これはなにがなんでも、根性だけでどうにか鎮めるしかなさそうだった。
「……やっぱりダメ。これ以上はサボれない」
情けなく苦笑しながら、寂しそうに尖った唇に小鳥のようなキスをする。
「汗かいたろ。ご飯ができたら呼ぶから、軽くシャワーでも浴びといで」
「……わかった」
「そんな顔しないで。続きは、夜になったらね」
身を起こし、指先で亜麻色の髪をサラサラと撫でながら言うと、操は赤かった頬を一層ぽうっと染め上げて「ん」と小さく頷いた。
*
毎週水曜日は、喫茶楽園の定休日になっている。
店内には午前中の明るい日差しが降り注ぎ、まったりとした静かな時だけが流れていた。
甲洋と操はいつもより少し遅めに起床して、店のカウンター席で朝食をとった。
トーストに塗るジャムの種類を聞くと、操は少し枯れた声で「りんご」と答える。甲洋はバターを塗ったパンを少しかじっただけで、あとはずっとコーヒーを飲んでいた。
「甲洋、元気ないね」
ジャムで口の端を汚した操が、隣に腰掛ける甲洋へ身体を向け、顔を覗き込んでくる。上の空だった甲洋は、目を丸くしたあと笑ってナプキンを手にとった。口の端をそれで拭ってやりながら「そう?」と小首を傾げると、操はどこか寂しそうな顔をしながら瞳を揺らした。
「寂しい?」
「……どうしてそう思うの?」
一瞬ドキリとしながら問いかけると、操は「だって」と口をもごもごさせながら少しだけ俯いた。
「ひとりぼっちでいるみたいな顔してるんだもん。甲洋」
落とされた言葉に芯を突かれたような気にさせられて、また心臓が跳ねる。顔にも態度にも出てしまっていたかなと、甲洋は苦笑した。
七日目の朝。
明日の午後には、総士たちが帰ってくる。
甲洋の嘘と支配は、彼らが島にいないということが前提の上に成り立っていた。甲洋は操の尊厳と無垢な心を踏みにじり、その場しのぎで飢えを満たしていたに過ぎないのだ。
けれど明日になればふたりは当然のように帰ってきて、そこで彼の心は正しく開放されるだろう。
そうして蜜月の時は終わりを告げる。
(年貢の納め時、ってやつかな)
蛮行を重ねたわが身をあざけりながら、甲洋はふと操の鎖骨あたりに幾つかの鬱血の痕が残っていることに気がついた。それは明け方近くまで抱き合いながら、甲洋が刻んだ印だった。明日にはまるで意味をなさなくなる所有の証に、どうしようもなく虚しさが込みあげる。
そこから目を逸らすように、さりげなく操の襟に手を伸ばすと位置のズレを直して上手い具合にマークを隠す。
すると俯いていた操が顔をあげ、揺れる瞳で甲洋を見上げた。それがどこか気遣わしげに見えて、どうして彼がこんな表情を見せるのか分からないまま、その頬に触れると唇に触れるだけのキスをした。
りんごの甘酸っぱい香りが広がって、操の顔がほんのりと桃色に染まる。
可愛いなと、甲洋は思った。子供っぽい丸い頬も、熱を帯びたような潤んだ瞳も。どうして俺のものじゃないんだろう。どうして、俺のものにはならないんだろう、と。
「大丈夫。寂しくないよ」
ひどい空虚感に押し潰されそうになりながら、甲洋はまたひとつ、操に嘘をついた。それでも彼は安堵したようにふにゃりと笑う。
「あのね甲洋」
「なに?」
「ずっと話したいと思ってたことがあるんだ。君に。聞いてくれる?」
「もちろん」
「おれ、前にね、ここで君の──」
──コン、コン、コン
そのとき、操の言葉を遮るようになにかをノックする音が聞こえた。
ふたり同時に音のする方へ目を向ける。するとガラス張りの窓の向こうで、買い物かごを下げた真矢が笑顔で手を振っている姿が見えた。その横にはぴょんぴょんと元気に飛び跳ねて店を覗き込んでいる、小さな女の子の姿もある。
「遠見?」
「美羽もいる」
またかこのパターンかと少しだけ溜息を漏らしたい気持ちになりながら、甲洋は席を立って店の出入り口へ行くと、鍵を外して扉を開けた。
「おはよう、遠見。どうかした?」
「春日井くんおはよ。ごめんね、通りがかったらふたりが見えたから」
その言葉に、少しドキリとする。見られていたかもしれない。キスをしているところを。けれどすぐに、もしそうだったら、彼女ならきっと見なかったふりをして、そのまま通り過ぎたはずだと思い直す。
「みさおちゃん! あそぼー!」
「あっ、美羽ちゃんたら!」
真矢の後ろから飛び出してきた美羽が、甲洋の横をすり抜けて店の中に入っていく。彼女はぷくぷくとした可愛らしい両腕をめいっぱい広げて、操に駆け寄っていった。
「美羽ちゃん、操くんと遊ぶんだってきかなくって。ごめんね、お休みの日に」
申し訳なさそうに眉をハの字にする真矢に、甲洋は笑って首を振る。
「いいよ、どうせすることもないし。それより遠見のほうこそ大変だな。買い物の帰り?」
「うん。お姉ちゃんに頼まれて、美羽ちゃんと一緒におつかい行ってきたとこ」
「それはお疲れ様。よければコーヒーでもどう? 美羽は来主と同じでいい?」
「ありがと、春日井くん」
真矢を店に招き入れ、彼女がカウンター席につくのに続いて甲洋はカウンターの向こうに立つ。そうしている間にも美羽が操の手を握り、中央テーブルへと引っ張っていった。
ふたりは向かい合うのではなく、仲良く隣同士の椅子に座ってなにやらお喋りをはじめる。
「仲がいいんだな、あのふたり」
「話が合うみたい。美羽ちゃんまだ三歳なんだけど……」
「来主は子供だからね」
「春日井くんてばそれ酷いよぉ」
そんなことを言うくせに、真矢はクスクスと肩を震わせて笑っている。甲洋はそんな彼女にコーヒーのグラスを手渡しながら、つられて少し笑ってしまった。
美羽は身振り手振りでなにかを一生懸命に話しているが、三歳の子供の拙い言語は支離滅裂でよく分からない。けれど操にはそれが理解できるのか、あっちこっちに飛んでいく話題にも楽しそうに受け答えをしている。適当に話を合わせているというふうでもなく、本当に同い年の子供同士がお喋りをしているようにしか見えなかった。
「ねぇみさおちゃん、きょうのよる、美羽のおうちくる?」
甲洋がふたりの席にオレンジジュースを運んでいくのと、美羽が操に唐突な誘いをかけるのは同時だった。
「どうして? なにかあるの?」
首を傾げた操が美羽の顔を覗き込む。彼女はにっこり笑って頷いた。
「きょうね、よるね、おにわでハナビするの。みさおちゃんもいっしょにやろ?」
コーヒーに口をつけていた真矢が、慌てた様子で振り返った。
「だ、ダメだよ美羽ちゃん。急に誘ったら迷惑でしょ?」
「なんで? なんでめーわくなの? 真矢おねえちゃん」
「それはえっと、その」
くるくるとした大きな瞳に見つめられ、真矢は言葉を詰まらせる。
甲洋はふたり分のジュースのグラスをテーブルに置きながら、ああそうかと納得した。
コンロの火にすら近づけない操が、花火を近くで見るなんてとても無理な話である。けれど当の操は真矢の心配をよそに、ケロリとした顔で「いいよ」と言った。
「え、でも操くん……」
操はすぐ傍らで成り行きを見守っていた甲洋を見上げる。
「甲洋も一緒なら、行く」
甲洋は思わず目を見開いた。
「花火、おれも見たい。だけど甲洋が行かないなら、おれも行かないよ」
選択は甲洋に委ねられ、ぽかんとした真矢が瞬きをしながらこちらを見ている。美羽は意味が分かっていないらしく、きょとんとした顔で小首を傾げていた。
琥珀色の瞳がゆらゆらと揺れながら甲洋を映し出している。差し迫る時の中で、そこには変わらず甲洋への絶対的な依存と信頼が浮かび上がっていた。
(ああ、まだ……大丈夫)
もう少しだけ。あとほんの少しだけ。必要とされていることへの安堵と喜びが、甲洋をまたあの溺れるような多幸感で満たしていく。それは甲洋から思考する意思を奪っていった。
「いいよ。日野さんちがご迷惑でなければね」
ふわりと笑って、操の髪をくしゃりと乱した。
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六日目の夕方。
甲洋は自室で一騎からの電話を受けていた。
「どう? そっちは。少しはゆっくりできてる?」
どろりと溶けたような夕焼けが室内を照らすなか、甲洋は携帯電話を耳に押し当て、ベッドの縁に腰掛けていた。
『おかげさまで。ごめんな、遠見や暉にまで迷惑かけて』
「迷惑なんて誰も思ってないよ。こっちはなんとかやってるし。それより総士は?」
『総士なら今ごろ家族で団欒してるよ。妹さんたちと親父さんも、こっちにいるから』
「なるほど。置いてきぼりで暇してるわけだ、一騎は」
そんなことないよと、一騎が苦笑する。それから少し声のトーンを落とし『来主はどうしてる?』と心配そうに問うてきた。
「ああ、来主なら──」
操は甲洋を跨ぐようにして傍にいた。
下半身はなにも身に着けず、たくし上げたシャツの裾を噛み締めて震えている。肌を赤く色づかせ、ふ、ふ、と苦しそうに息を漏らしていた。
ふたりの身体の中心では、操の幼い雄がけなげにそそり勃っている。限界まで高ぶらされたそれはピクピクと脈打ち、透明な涙を溢れさせていた。
けれどそれは操自身の手によってきつく握り込まれ、せき止められている。一人で勝手に出してしまわないように、話が終わるまで握っていろと甲洋が命じたからだ。
もとより達する寸前で幾度も焦らしながらその反応を楽しんでいたところに、一騎から電話が来てしまったのは事故にも等しい。小刻みに身を震わせながら必死で堪えている姿は、甲洋の中にあるサディスティックな感性を刺激してやまなかった。
「ぅ……ふ……っ、……ん、く……っ!」
操はぎゅうと肩をすくめ、苦しそうに眉根を寄せている。甲洋はイタズラな笑みを浮かべて、先走りを滲ませる先端を指先でくるくるとなぞってやった。
「んっ、くうぅっ、ん……ッ!」
びくんと腰を震わせながら、操は嫌々と首を振りたくった。くぐもった悲鳴が、噛み締めたシャツにじわりと染みを作っている。
性器を握り込んでいる指先は力みすぎて白く染まっていた。それでは痛いだけだろうと、甲洋はその手を外させて、代わりに自分の人差し指と親指で輪っかを作ると、絶妙な力加減で根本を戒めてやった。
「ッ、ひ……ぅ……!」
「元気にしてるよ、すごく」
『そっか、ならいいんだけど……なぁ甲洋、今ってそばに誰かいるのか?』
「ああ、ごめん。外でずっと猫が盛ってるんだ」
ああなるほどと、一騎はあっさり納得した。盛っているのはお前のところの子猫だよと、そう言ってやりたいような気持ちを押し込め、喉の奥で微かに笑う。
一番いいところで生殺しにされている操は、甲洋の肩に縋りながら必死で快感を堪えていたが、どうにかして気を引こうと考えたのか、手を下へ伸ばすと甲洋の身体の中心をまさぐりだした。
「あっ、こら来主……そこはダメだって」
『来主? そばにいるのか?』
「うん。ずっと俺の部屋にいるよ。イタズラ好きで困ってるところ」
操は不器用な手つきで甲洋のパンツのボタンとファスナーを外そうとしている。だがなかなかうまくできずに焦っている様子だった。
そうとも知らず、一騎が安堵と微笑ましさを滲ませながらくすりと笑った。
『よかった。うまくやってるんだな』
「まぁね。最初はどうなることかと思ったけど」
たった数日で変わってしまった関係性に、甲洋はしみじみと目を細める。毛を逆立てて威嚇する子猫のようだった姿が、今ではいっそ懐かしく感じられた。
「来主、イタズラばかりしてないで。ほら、お前の大好きな一騎だよ」
わざとらしいまでにうっそりと微笑み、歌うような軽やかさで言った。電話を耳から離し、そっと差しだす。操は手をとめ、とろりとした瞳でそれを見下ろした。だらしなく開かれた唇から、湿ったシャツの裾が落ちる。
さて、彼はどうするだろう。もし操がその手でこれに触れたなら。どうしてやろう。戒めている性器をめちゃくちゃに扱き上げて、一騎が聞いているなかでイカせてやろうか。
甲洋の中には破滅的ともいえる、奇妙で危うい衝動が沸き起こっていた。
穏やかに微笑むその裏で、細めた瞳は射抜くように操を捉えて離さない。
一秒、二秒。三秒目で、彼は電話を見下ろしたまま緩く小首を傾げて見せた。それからふっと視線を逸し、甲洋の頭を抱き込むようにして首に縋りついてくる。彼は甘えた仕草で耳たぶに鼻先を擦りつけて、吐息だけで「ねぇ早く」と、言った。
「ッ!」
ぞくりとして息をのむ。電話から『来主?』という一騎の声が漏れ聞こえた。
「あ、ああ。ごめん一騎……来主は、今ちょっと出られない」
『うん? そっか、いいよ別に』
上ずってしまいそうになる声でどうにか答えると、一騎は特に疑問を抱いたふうもなくさらりと流す。電話をよこしたのが彼でよかった。総士の方だったら、とっくに怪しまれていたに違いない。
えらく質の悪い遊びだ。この期に及んで、甲洋はまた操を試してしまった。そのくせ彼が期待に応えると面食らってしまう。面倒臭い矛盾を抱えているものだと、自分に呆れる。
けれど一拍おいて込み上げる喜びが、蕩け落ちてしまいそうなくらい甘美なものであることを、甲洋は知っていた。
『とにかく安心したよ。ずっと気になってたから』
それから一騎は一瞬だけ間を置いて『前にさ』と、静かな声で切り出した。
『来主のやつが、泣きながら帰ってきたことがあって』
「泣きながら?」
『──あ、ごめん甲洋、総士が戻ってきた』
一騎はいったん電話を離し、戻ってきた総士と二三言葉を交わしているようだった。
甲洋は傾けた首と肩で電話を挟んで固定した。自由になった腕で細腰を抱き寄せ、幾度かゆるゆると性器を扱いて刺激してやる。
「ふ……ッ、ぅ、くっ、ぅんん……っ」
操は背中を丸めて甲洋の肩口に額を擦りつけた。むずがるような声に興奮を覚えながらも、一騎が言いかけていた言葉の先も気になっている。
操が泣きながら帰ってきた。それはどういう意味で、そのとき彼の身になにが起こったというのだろう。あの流れで切り出されたからには、そこに自分も関係しているのだろうか。
本人に聞けば手っ取り早そうだが、今の操は口がきける状態ではない。
最近、こういうことが多いなと思った。総士たちが旅立つ当日、四人でテーブルを囲んだときも、一騎はなにかを言いかけていた。真矢だってそう。ずっと気になっていたが、この分だと今ここで確かめるのは難しそうだ。
総士も戻ってきたようだし、実のところ甲洋もあまり長くは遊んでいられない。下の階ではそろそろ夜の準備に忙しくなるころだ。
なにより、操がいよいよ限界だった。彼は真っ赤な顔ですすり泣き、期待に膨らんだ性器を充血させている。じわじわと加減しながらさらに扱いてやると、甲洋を跨いでいる内腿が可哀相なくらいプルプルと痙攣した。その痴態に、思わず熱のこもった息が漏れる。
「こぉ、よ……も、ゃぁぁ……っ」
「もう少しだから。待ってて」
『悪い甲洋、そろそろ切るよ。そっちもちょうど忙しくなる時間だろ?』
「うん。そうしてもらえると助かるかな」
平静を装って受け答えをしながらも、操を追い上げる手は止めない。
「ひ、っく……っ、ふ……うぅ……」
『明後日には帰るよ。午前中の船に乗るから』
「ああ、わかった」
「こ、ょ……ィッ、く、ぅ」
『じゃあ、来主によろしくな。いっぱいお土産買って帰るからさ。伝言頼むな』
「──ん、いいよ」
通話が切れると同時に、操が達した。彼は甲洋の首にしがみついたまま、大きく身をしならせて白濁を撒き散らす。
「──……ッ!! ふあぁ、ッ……ん……あぅ……あ、ぁー……っ」
引き攣れる呼吸の合間にか細い鳴き声を漏らし、女のようにビクビクと身を震わせながら、やがてぽっきりと枝が折れるように弛緩する。
はかはかと浅い呼吸を繰り返す痩躯を抱きとめ、甲洋は濡れた手のひらもそのままに熱っぽい身体をひっくり返してベッドへ押し倒した。
「ッ、んぁ……っ」
余韻の抜けない身体は神経が剥き出したように敏感で、断続的に痙攣しながらも覆いかぶさる甲洋の唇を受け止める。
舌を絡ませて、思うままに貪りながら吸い上げた。操は小さく痩せた舌でそれに応え、必死で甲洋の背にしがみつくと合間に上ずった呻きを漏らす。
夢中で狭い口腔を蹂躙しながらも、甲洋は頭の片隅で一騎の言葉を思いだしていた。明後日には、ふたりが七泊八日の滞在を終えて島に戻ってくる。こうして過ごせる操との時間は、今日を含めてあと二日しかない。
甲洋はその現実から逃げるように、より深くその唇に溺れていった。
「ふ、ぁ、んむ……ぅ、ッ、けほっ、けほ……っ!」
溢れた唾液を飲み込みきれず、操がむせた。名残惜しく糸をひきながら唇を開放すると、その呼吸が落ち着くまでのあいだ、乱れる前髪を掻き上げるようにして優しく撫でた。むき出しになった汗ばむ額に、そっと小さなキスをする。
「いい子だったね、来主」
「こぅ、よ」
操は物欲しそうに甲洋を見上げた。快楽の味を知って間もない少年が、いとけなく雄を誘うために瞳を潤ませている。密かに喉を鳴らしながら、甲洋はゆるゆると首を左右に振った。
「ダメ。そろそろ下に戻らないと」
本音を言えば、このまま深く抱き合いたい。初めてのときは酷くしてしまったから。今度は隅々まで丁寧に愛撫して、痛みなど感じさせないくらいとろとろに蕩けさせてから、貫いて欲を満たしたかった。
けれど時間がそれを許してくれそうにない。仕方なく離れようとした甲洋の首に、操の両腕が絡みつく。ぐっと力いっぱい引き寄せられて、咄嗟に体勢を崩してしまった。
「ぅわっ」
甲洋は思い切り操の上に倒れ込んでしまった。胸と胸が隙間なく合わさり、そこからドキドキという大きな鼓動が伝わってくる。
「あ、危ないだろ」
「だって、甲洋……」
赤い頬ととろけた瞳で、操が言った。もじもじと身じろぐ彼の太腿あたりに、硬くなった甲洋のものが当たっている。
「……しょうがないだろ」
照れ臭くなって、甲洋も思わず頬を染めた。
あんな姿を見せられれば、こうなってしまうのは仕方ない。情けないくらい膨らんだそこが、下着とパンツに押さえつけられて痛いほどだった。
これは一度すっきり出してしまわないと、店にも下りられないのではないか。時間を稼ぐ大義名分を得た甲洋は、机の上のデジタル時計にチラリと横目を走らせた。
あと10分だけ。簡単に処理するくらいなら、どうにかなるだろうか。こうやって、人は目先の快楽に堕落していくのだ。猿にでもなったような気分だった。
ほとんど諦めの境地で薄い身体を抱きしめると、操が嬉しそうに甲洋のこめかみに頬を擦りつける。
「春日井先輩! すみません、ちょっといいですか?」
そのとき、下から暉の声がした。
甲洋はハッと我に返り、慌てて「いま行くよ」と返事をすると、深い溜息をついた。これはなにがなんでも、根性だけでどうにか鎮めるしかなさそうだった。
「……やっぱりダメ。これ以上はサボれない」
情けなく苦笑しながら、寂しそうに尖った唇に小鳥のようなキスをする。
「汗かいたろ。ご飯ができたら呼ぶから、軽くシャワーでも浴びといで」
「……わかった」
「そんな顔しないで。続きは、夜になったらね」
身を起こし、指先で亜麻色の髪をサラサラと撫でながら言うと、操は赤かった頬を一層ぽうっと染め上げて「ん」と小さく頷いた。
*
毎週水曜日は、喫茶楽園の定休日になっている。
店内には午前中の明るい日差しが降り注ぎ、まったりとした静かな時だけが流れていた。
甲洋と操はいつもより少し遅めに起床して、店のカウンター席で朝食をとった。
トーストに塗るジャムの種類を聞くと、操は少し枯れた声で「りんご」と答える。甲洋はバターを塗ったパンを少しかじっただけで、あとはずっとコーヒーを飲んでいた。
「甲洋、元気ないね」
ジャムで口の端を汚した操が、隣に腰掛ける甲洋へ身体を向け、顔を覗き込んでくる。上の空だった甲洋は、目を丸くしたあと笑ってナプキンを手にとった。口の端をそれで拭ってやりながら「そう?」と小首を傾げると、操はどこか寂しそうな顔をしながら瞳を揺らした。
「寂しい?」
「……どうしてそう思うの?」
一瞬ドキリとしながら問いかけると、操は「だって」と口をもごもごさせながら少しだけ俯いた。
「ひとりぼっちでいるみたいな顔してるんだもん。甲洋」
落とされた言葉に芯を突かれたような気にさせられて、また心臓が跳ねる。顔にも態度にも出てしまっていたかなと、甲洋は苦笑した。
七日目の朝。
明日の午後には、総士たちが帰ってくる。
甲洋の嘘と支配は、彼らが島にいないということが前提の上に成り立っていた。甲洋は操の尊厳と無垢な心を踏みにじり、その場しのぎで飢えを満たしていたに過ぎないのだ。
けれど明日になればふたりは当然のように帰ってきて、そこで彼の心は正しく開放されるだろう。
そうして蜜月の時は終わりを告げる。
(年貢の納め時、ってやつかな)
蛮行を重ねたわが身をあざけりながら、甲洋はふと操の鎖骨あたりに幾つかの鬱血の痕が残っていることに気がついた。それは明け方近くまで抱き合いながら、甲洋が刻んだ印だった。明日にはまるで意味をなさなくなる所有の証に、どうしようもなく虚しさが込みあげる。
そこから目を逸らすように、さりげなく操の襟に手を伸ばすと位置のズレを直して上手い具合にマークを隠す。
すると俯いていた操が顔をあげ、揺れる瞳で甲洋を見上げた。それがどこか気遣わしげに見えて、どうして彼がこんな表情を見せるのか分からないまま、その頬に触れると唇に触れるだけのキスをした。
りんごの甘酸っぱい香りが広がって、操の顔がほんのりと桃色に染まる。
可愛いなと、甲洋は思った。子供っぽい丸い頬も、熱を帯びたような潤んだ瞳も。どうして俺のものじゃないんだろう。どうして、俺のものにはならないんだろう、と。
「大丈夫。寂しくないよ」
ひどい空虚感に押し潰されそうになりながら、甲洋はまたひとつ、操に嘘をついた。それでも彼は安堵したようにふにゃりと笑う。
「あのね甲洋」
「なに?」
「ずっと話したいと思ってたことがあるんだ。君に。聞いてくれる?」
「もちろん」
「おれ、前にね、ここで君の──」
──コン、コン、コン
そのとき、操の言葉を遮るようになにかをノックする音が聞こえた。
ふたり同時に音のする方へ目を向ける。するとガラス張りの窓の向こうで、買い物かごを下げた真矢が笑顔で手を振っている姿が見えた。その横にはぴょんぴょんと元気に飛び跳ねて店を覗き込んでいる、小さな女の子の姿もある。
「遠見?」
「美羽もいる」
またかこのパターンかと少しだけ溜息を漏らしたい気持ちになりながら、甲洋は席を立って店の出入り口へ行くと、鍵を外して扉を開けた。
「おはよう、遠見。どうかした?」
「春日井くんおはよ。ごめんね、通りがかったらふたりが見えたから」
その言葉に、少しドキリとする。見られていたかもしれない。キスをしているところを。けれどすぐに、もしそうだったら、彼女ならきっと見なかったふりをして、そのまま通り過ぎたはずだと思い直す。
「みさおちゃん! あそぼー!」
「あっ、美羽ちゃんたら!」
真矢の後ろから飛び出してきた美羽が、甲洋の横をすり抜けて店の中に入っていく。彼女はぷくぷくとした可愛らしい両腕をめいっぱい広げて、操に駆け寄っていった。
「美羽ちゃん、操くんと遊ぶんだってきかなくって。ごめんね、お休みの日に」
申し訳なさそうに眉をハの字にする真矢に、甲洋は笑って首を振る。
「いいよ、どうせすることもないし。それより遠見のほうこそ大変だな。買い物の帰り?」
「うん。お姉ちゃんに頼まれて、美羽ちゃんと一緒におつかい行ってきたとこ」
「それはお疲れ様。よければコーヒーでもどう? 美羽は来主と同じでいい?」
「ありがと、春日井くん」
真矢を店に招き入れ、彼女がカウンター席につくのに続いて甲洋はカウンターの向こうに立つ。そうしている間にも美羽が操の手を握り、中央テーブルへと引っ張っていった。
ふたりは向かい合うのではなく、仲良く隣同士の椅子に座ってなにやらお喋りをはじめる。
「仲がいいんだな、あのふたり」
「話が合うみたい。美羽ちゃんまだ三歳なんだけど……」
「来主は子供だからね」
「春日井くんてばそれ酷いよぉ」
そんなことを言うくせに、真矢はクスクスと肩を震わせて笑っている。甲洋はそんな彼女にコーヒーのグラスを手渡しながら、つられて少し笑ってしまった。
美羽は身振り手振りでなにかを一生懸命に話しているが、三歳の子供の拙い言語は支離滅裂でよく分からない。けれど操にはそれが理解できるのか、あっちこっちに飛んでいく話題にも楽しそうに受け答えをしている。適当に話を合わせているというふうでもなく、本当に同い年の子供同士がお喋りをしているようにしか見えなかった。
「ねぇみさおちゃん、きょうのよる、美羽のおうちくる?」
甲洋がふたりの席にオレンジジュースを運んでいくのと、美羽が操に唐突な誘いをかけるのは同時だった。
「どうして? なにかあるの?」
首を傾げた操が美羽の顔を覗き込む。彼女はにっこり笑って頷いた。
「きょうね、よるね、おにわでハナビするの。みさおちゃんもいっしょにやろ?」
コーヒーに口をつけていた真矢が、慌てた様子で振り返った。
「だ、ダメだよ美羽ちゃん。急に誘ったら迷惑でしょ?」
「なんで? なんでめーわくなの? 真矢おねえちゃん」
「それはえっと、その」
くるくるとした大きな瞳に見つめられ、真矢は言葉を詰まらせる。
甲洋はふたり分のジュースのグラスをテーブルに置きながら、ああそうかと納得した。
コンロの火にすら近づけない操が、花火を近くで見るなんてとても無理な話である。けれど当の操は真矢の心配をよそに、ケロリとした顔で「いいよ」と言った。
「え、でも操くん……」
操はすぐ傍らで成り行きを見守っていた甲洋を見上げる。
「甲洋も一緒なら、行く」
甲洋は思わず目を見開いた。
「花火、おれも見たい。だけど甲洋が行かないなら、おれも行かないよ」
選択は甲洋に委ねられ、ぽかんとした真矢が瞬きをしながらこちらを見ている。美羽は意味が分かっていないらしく、きょとんとした顔で小首を傾げていた。
琥珀色の瞳がゆらゆらと揺れながら甲洋を映し出している。差し迫る時の中で、そこには変わらず甲洋への絶対的な依存と信頼が浮かび上がっていた。
(ああ、まだ……大丈夫)
もう少しだけ。あとほんの少しだけ。必要とされていることへの安堵と喜びが、甲洋をまたあの溺れるような多幸感で満たしていく。それは甲洋から思考する意思を奪っていった。
「いいよ。日野さんちがご迷惑でなければね」
ふわりと笑って、操の髪をくしゃりと乱した。
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05
ゆるゆると、なにかが頬に触れているような気がした。
柔らかくてくすぐったくて、守ってやりたくなるようなあたたかさに、不思議と胸が締めつけられる。
その見知らぬ感覚の正体を掴めぬまま、意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。
「……ん」
微かに呻くのと同時に、甲洋は目を覚ました。滲むように視界が開けていく瞬間、白いなにかがするりと引っ込んでいくのが見えた気がする。
「来主……?」
カーテンの隙間から、朝の光がさしていた。
操は昨日と同じくタオルケットのなかにいて、甲洋の顔をぼんやりと見つめている。
「今、なにかしてた……?」
起き抜けの掠れた声で問いかけた。操は小さく首を振るだけでなにも言わない。青白かった頬は血色を取り戻し、うっすらと赤みがさしている。
甲洋はのっそりと身を起こし、はっきりしない思考を振り払うように何度か頭を振った。それから、見上げてくる琥珀と目を合わせ「おはよう」と、言った。
「──おは、よ」
操の小さな声は、甲洋とは違った意味で少し掠れていた。酷く声をあげたから、喉を痛めてしまったのだろう。はちみつが効くはずだと咄嗟に考えながらも、彼が素直に挨拶を返してよこしたことに少し驚く。
操は泣きも怯えもしなければ、逃げだそうとする素振りも見せなかった。ただおとなしく身を横たえて、甲洋が目を覚ますのを待っていたのだ。
そこに想定していたような悲壮感はなく、むしろこちらのほうが戸惑ってしまう。
「……喉、それじゃ酷いね。ちょっと待ってて」
それでもただ黙ってじっとしているのは不自然に思えて、甲洋はベッドから離れようとした。しかしその手を操が掴んで引き止める。
「ッ、どうか、した?」
咄嗟のことに、思わず言葉がつかえてしまう。彼が自ら甲洋に触れてきたのは、これが初めてのことだった。目を丸くすると、操が小さく首を傾げる。
「今日は」
「うん、なに?」
「今日は、どうしたらいい?」
「え……?」
操がゆっくりと瞬きをする。
「おれは、どうしていたらいい?」
「!」
予想だにしなかった問いかけに、小さく息をのんだ。
甲洋が彼に触れて、その身を侵した毒には血清がない。少なくとも、今はまだ。
操の心は囚われたままだった。総士でもなく、一騎でもない。彼は追いつめた張本人である甲洋への依存を享受することで、新たなよすがを得たのだ。
生存戦略。ストックホルム症候群。多分、それに似ている。
甲洋はじんわりと滲むように込み上げた歓喜に肌を粟立たせ、安堵にも似た息を漏らしながら微笑んだ。
「来主がしたいようにすればいい。ここにいてもいいし、部屋に戻って休んでもいい。寂しかったら店にいたって構わないよ」
甲洋はあえて操を縛ることはしなかった。そうすることで彼がどうするのかという、昨日とは少しばかり形を変えた興味をそそられている。けれどその根源はまったく同じだ。
あくまでも小さなグラスの中を泳がせていた金魚に、ほんの少しだけ広めの水槽を与えてやったに過ぎなかった。
「うん……わかった」
素直に頷いた操は、まどろみの中にいるようなとろりとした瞳で甲洋を見つめていた。
子供っぽい顔つきが一層いとけなく見えて、思わず淡桃の頬に手を伸ばす。羽根でくすぐるように優しくなぞると、指先にじわりと熱が伝わってきた。甲洋は咄嗟に顔を顰める。
「……熱いな、お前」
頬に滑らせていた手を、彼の額に押し当てる。やっぱり少し熱い。
操は熱を出していた。
*
操の身体は昨夜の行為に消耗しきっていた。
なにか食べられそうかと問いかけても、彼はただぼんやりと焦点の合わない瞳を彷徨わせるだけで、どうにか水とはちみつを口に含ませるのがやっとだった。
いま、操は甲洋のベッドに沈み込んだままこんこんと眠り続けている。
「操くん、大丈夫かな……?」
昼の混雑前、煮込んだうどんをトレイに乗せて階段に足をかけようとしていた甲洋に、真矢が心配そうに問いかけた。
「お母さんに頼んで来てもらったほうがいいかな……。今日は土曜日だから、病院も午前中で終わりだし」
真矢の母、千鶴は島に唯一ある診療所の院長である。必要に応じて往診も行っているため、頼めば快く応じてくれるだろう。
しかしその申し出に、甲洋はやんわりと笑みを浮かべて首を振った。
「風邪ってわけではなさそうだし、微熱だから。それより遠見、少しのあいだ店のこと頼んでもいいか?」
「え? うん、もちろんいいけど」
「ありがとう」
そろそろランチライムに合わせて客足が増える頃合いだ。土曜日の、しかも忙しい時間帯に穴を開けてしまうのはしのびないが、今は可能な限り操の様子を見ていてやりたかった。
真矢は意外そうに目を瞬かせ「春日井くん、昨日とぜんぜん違う顔してる」と言った。
「そう?」
「うん。なんか、一騎くんたちとおんなじ顔?」
「同じ顔?」
「お父さんとお母さんみたいな顔っていうか……あ、でもちょっと違う気もする……お兄ちゃん? んー、それも違うかな? うまく言えない。なんだろ?」
人差し指を顎に押し当て、小首を傾げた真矢に甲洋は苦笑する。
「子供も弟もいたことないから、よくわからないよ」
「あはは。そんなの、一騎くんと皆城くんだって一緒だよぉ」
胸をくすぐるような甘い声がきゃらきゃらと笑っている。それもそうかと、甲洋は思った。
けれど自分たちは彼女が思うような親愛の情で繋がっているわけではない。ただ歪に絡み合い、がんじがらめになっているだけだということは、甲洋だけが知っていればいい事実だった。
*
うどんが乗ったトレイを片手に、そっと自室の扉を開けた。
ベッドで丸くなって眠っている操の肩は、Tシャツの肩線が少しだけ下にズレて、鎖骨が大きく覗いている。彼の身体に、甲洋の部屋着は少し大きい。
トレイをひとまず机に置いて、甲洋はベッドに近づくと静かに縁へ腰掛けた。
操の呼吸は穏やかで、赤らんでいた顔もだいぶ元に戻ってきている。甲洋はほっと安堵の息を漏らした。
操の顔のすぐ脇には、革製のブックカバーがかけられた本が置かれている。
起き上がるのも辛いはずだが、自力で取りに行ったのか。そのまま向こうで休んだって構わなかったのに、彼はわざわざここまで戻ってきたのだ。いじらしさを感じるのと共に、胸に広がる満足感から口元が綻んでいく。
甲洋はその眠りを妨げぬよう、そっと本を手に取った。操が初日に鞄から取り出していたものだ。パラパラとページをめくってみると、中には英文がぎっしりと詰め込まれている。
(読めるのか?)
少しばかり失礼なことを思いながら、甲洋はその洋書が昔好んで読んでいたミステリ小説であることに気がついた。懐かしい気持ちでさらにページをめくっていくと、中から白い紙が滑りだし、ベッド下の足元にぱたりと落ちる。
写真だ。しおり代わりにでもしているのだろうか。甲洋は先日と同じように、表面が見えない状態になっているそれを拾い上げた。
「──ぁ」
ひっくり返して何が写っているのかを確かめる前に、目を覚ました操が小さく声をあげた。
慌てた様子で身体を起こそうとして、彼はしんどそうに眉根を寄せる。昨夜、甲洋が酷くした場所が痛むのだろう。
甲洋は咄嗟に写真を本に挟んで閉じると、彼の肩に腕を回して身体を支えた。
「……写真」
どうにか起き上がった操は、おずおずと甲洋を見上げた。
「大丈夫。見てないよ」
甲洋は微笑み、本を操に返してやる。彼は受け取ったそれを大事そうに両腕に抱えた。
「大事な写真なんだね」
「……うん」
「……それ、総士には見せた?」
ギクリと、操の肩が強張った。
「ねぇ来主」
彼は写真を見られることをひどく嫌がっている。だけど総士も、そしておそらく一騎も、そこに何が写っているかを知っているのだろう。
操はなにも言えないでいるけれど、その無言が肯定を表していることは伝わった。
「見せてくれないんだ。俺には」
甲洋の顔から笑みが消えたことに気づき、操の少女めいた頬が色を失う。
追い出したと思っていたはずのふたりの影が、甲洋の胸を暗い焦燥で湿らせた。オモチャを横取りされて、癇癪を起こしそうになっている子供と同じだ。その狭量さに自分で呆れる。
操は腕のなかの本をいっそう強く抱きしめた。それから悲しげに目を伏せると、堪えるように小さな声を絞りだす。
「家族」
──と。
たった一言吐き出された言葉に、甲洋はなにも言えなくなった。
見ず知らずの他人が「ただなんとなく」で放った悪意の火種は、彼の家を飲み込んで、家族を奪い、そして操自身にも傷を残した。
写真にはそんな彼の家族が写っているというのだ。理不尽に命を絶たれるなんて知りもせず、ごくありふれた日常を生きる姿が、そこには切り取られているのだろう。
「……ごめん」
甲洋は素直に謝罪した。操は緩く首を振る。不安そうにこちらを見上げるので、安心させるためにイラズラっぽく笑みを浮かべながら話題を変えた。
「その本、難しくない? 来主は英語が得意なんだな」
操は途端に目を泳がせ、バツが悪そうに俯いた。
「……得意じゃ、ない。英語は、苦手だよ」
「でも、読んでるんだろ?」
「ほんのちょっとだけ。でも、ぜんぜん意味はわからない」
ならどうしてそんなに大事そうに抱えているのだろう。写真を持ち歩くだけなら、なにもわざわざ重量のあるものに挟んでおく必要はないだろうに。
不思議に思ったが、追求するのはやめておいた。なにかの拍子に、また彼の傷に触れてしまわないとも限らないからだ。
けれどこれくらいならいいかなと、甲洋は懐かしそうに目を細めた。
「その本、元は俺のだって知ってた?」
「え?」
「168ページ目。右下の端っこのほうに、小さなシミがあるだろ?」
操は抱えていた本を開くと、該当するページを見て「あ」と声をあげた。
そこには小指の爪の先よりも小さくて、目を凝らさなければ分からない程度のシミがついている。記憶の中にあるよりもさらに薄れてはいるけれど、それは甲洋が所持していた頃からすでについていたものだった。
「昔、俺が古本屋で見つけたんだ。総士も興味があったみたいだから、読んだあと渡したのさ。まだ大事に持っててくれたんだな」
それを今は操が所持している。まるで接点がないと思っていた彼との間に、ささやかな縁が存在していたことを知り、純粋に嬉しさが込みあげた。
操は本を閉じると再び腕のなかに抱きしめる。それから甲洋を見て、小さく笑って頷いた。
「うん、知ってたよ」
甲洋は心の底から驚いた。彼が元の本の持ち主を知っていたからではない。笑ったからだ。甲洋を見て、操が初めて笑ったからだった。
降って湧いたような喜びに、矢も盾もたまらず操の身体を抱きしめる。操は少し驚いた様子を見せたが、拒むことなく腕のなかに収まった。
綿菓子のような髪を指先で乱し、頬を擦りつけるようにすると、操はほうっと息を漏らして甲洋の首筋に額を埋める。
言葉がでない。嬉しかった。生まれて初めて、欲しかったものを満足に与えられたような気がした。
(このまま時が止まればいい)
本気でそんなことを考えながら、けれど抱きしめた彼の身体が未だに熱を持っていることに気がついた。操はまだ完全に回復したわけではないのだ。
甲洋は咄嗟に机の上に置き去りにされたままの食事に目をやった。やってしまった。温かいうちに食べさせるつもりが、さっきまで立ち上っていたはずの湯気がすっかり途絶えている。
早くお腹になにか入れさせて、解熱剤を飲ませてやらなければと思っていたのに。
「来主、ぬるくなった煮込みうどんなんて……やっぱ嫌、か?」
困り顔で問いかけると、操は首を左右に振った。
「嫌じゃない。伸びたうどん、けっこう好き」
そう言ったと同時に、操の腹がくぅっと鳴った。
*
翌日。
四日目の朝には、操の体調はすっかり元通りになっていた。
この日も甲洋はこれといって彼に命令を下さなかった。家の中のどこで過ごしても構わないし、空いている時間帯なら店にいてもいい。ただ目の届く範囲にいてさえくれればいいとだけ言うと、彼は子供っぽくこくりと頷いてまた少し笑った。
朝食はふたりでのんびりとトーストをかじって、昼は真矢と暉と四人でテーブルを囲んだ。
残り野菜とベーコンを使ったパスタはトマトがゴロゴロと入っていて、操は少しだけ渋い顔をしたが、文句も言わずにそれを食べようとした。
甲洋はその姿勢に満足感を得ながらも、ついつい操のトマトを自分の皿に全て移してしまった。彼は驚きながらもホッとしていたが、真矢には「春日井くんまですっかり甘くなっちゃった」と、ちょっぴり呆れられてしまった。
店が混雑してくると、操は甲洋の部屋に引っ込んでいった。自分にあてがわれた部屋には着替えをするときぐらいしか戻らない。彼は甲洋の部屋で辞書を引きながら、例の小説を地道に読み進めているようだった。
昼のピークが過ぎて時間に余裕が生まれると、甲洋はケーキとジュースを持って二階に上がった。操はえらく喜んで、頬にチョコレートクリームをつけながらケーキを頬張っていた。
そんな彼に時間が許す限り本を読み聞かせ、その意味を丁寧に教えてやった。
甲洋は操にどこまでも優しく接した。生まれて初めて心からそうしたいと思ったし、なんの不安も計算もなく自然に笑えることに喜びを感じていた。
両親と暮らしていた頃には決してありえなかった、穏やかで満ち足りた時間が、そこにはゆっくりと流れていた。
*
隣で眠っていたはずの操が急に悲鳴をあげたのは、日付も変わった真夜中、午前二時過ぎのことだった。
「来主!?」
甲洋が飛び起きると、操はひどく息を荒げながら合間に苦しげな嗚咽を漏らしていた。半身を起こし、すっかり背中を丸めてひいひいと泣きじゃくっている。
甲洋はデスクライトを灯すと、彼に寄り添いその背を何度も擦ってやった。
「うっ……ぁうぅ……ひっ、く、う、ぅ……っ」
「来主、来主、大丈夫。落ち着いて」
しきりに声をかけながら、震える肩を抱き寄せる。総士が言っていたのはこれか。最近ではほとんどなくなったと言っていたはずだが──。
「来主、顔をあげて。こっちを見て」
操は苦しそうにしゃくりを上げながら、ゆるゆると顔をあげて甲洋を見た。大きな瞳から、透明な雫が真珠のようにポロポロと溢れ出している。どれほど拭ってやっても、それは止めどなく流れ続けた。
「こぉ、よ……?」
「うん。ここにいるよ」
細い両腕が、甲洋の首に絡みついた。溺れたように懸命にしがみつきながら、彼は何度も甲洋の名前を呼んで、嗚咽の合間に「こわい」と「あつい」を交互に漏らした。
しっかりと抱き返して頭部に手のひらを滑らせると、陽だまりの中にいる子猫のようにふわふわとして柔らかな髪を優しく撫でる。
「甲洋、助けて……あつい、こわい……みんないなくなる……やだよ……やだよぉ……!」
夢と現実の堺が曖昧になっている彼の意識は、今もまだ家族を奪った炎のなかにあった。
操はそのときのことを覚えていないらしいが、それは彼自身が心を守るため、無意識にロックをかけているからなのだ。無防備な眠りのなかでは、ふとした瞬間そのセキュリティが甘くなる。
だけどきっと、今のこれは俺のせいなんだろうなと、甲洋は思う。
操は甲洋によって苛烈ともいえる支配を受けた。心の深い場所で眠らされている正常な意識が、抑圧されたまま無意識下で悲鳴をあげているのだ。その不安定さが、最も分かりやすく手近にあったトラウマを引きずりだしてしまったのだろう。
どうしようもなく気分が高揚していくのを感じて、口元が綻んでしまうのを止められない。
これだけ取り乱して泣きわめいても、彼が呼ぶのは甲洋の名前だけだった。その身が毒に侵されている限り、この少年は甲洋だけのものなのだ。甲洋だけを求めて、縋りつくしか術がない、可愛くて、可哀想な人形だった。
だから愛しくて、優しくしてやりたいと、心からそう思う。
「来主、ほら、俺の心臓の音が聞こえる?」
「こぉよ……こう、よう……っ」
「いい子だから。俺がここにいることを確かめて」
息を乱す操の身体をすっぽりと抱き込み、胸に耳を押しつけさせて鼓動を聞かせる。操は唇を噛み締めて、幾度かく、く、と小さくしゃくった。
甲洋は彼が落ち着くまでずっと、その髪を梳かすように撫で続ける。
「命の音……甲洋の、音がする……」
起き抜けの子供のような呆然とした声で呟き、操は瞼を伏せてしくしくと泣いた。
そのままどれくらいの時が経っただろう。操はときどき鼻をすするだけで、その呼吸も緩やかに安定していった。
彼は小さく身じろぎ、吐息だけで甲洋の名を呼んだ。うん、と頷いてやると、腹に回された操の両腕に力が込もる。
「甲洋は、いなくならない?」
見上げてくる瞳が、泣きすぎて少し赤くなっている。ふと、うさぎは寂しいと死んでしまうという迷信を思いだして、甲洋は笑った。
「いなくならないよ。俺はずっとここにいる」
「ほんとに……?」
「本当。お前のそばにいる。どこにも行かない。行くとしても、連れて行くよ。来主のこと、どこへだって連れて行く」
「甲洋……おれには、甲洋だけ……?」
「そう。お前には俺しかいない。俺だけは、お前のそばを離れない」
操は瞬かせていた瞳を細めた。とろりとほどたように微笑んで、甲洋の胸に頬を擦りつける。その頭をひと撫でしてから、彼の身体を抱き込んだまま身を横たえた。
甲洋の腕を枕に、操が安堵の息をつく。それから、少し眠たそうにふわふわとした声を漏らした。
「……声がね」
「声?」
「ん……思いだせなく、なったんだ」
甲洋は彼の背を撫でながら、ぽつりぽつりと雨だれのように落とされる言葉に耳を傾けた。
「おれを、育ててくれた人たち。ずっと一緒だったのに、顔は思いだせるのに……声が、あの人たちの声が、おれにはもう聞こえない。おれが……おれが本当の子供だったら、ちゃんと覚えていられたのかな……?」
「本当の子供?」
思わず背中を擦っていた手を止めた。操が頷く。
「おれは、もらわれた子だったから」
操も養子だったのだ。甲洋と同じ。施設から引き取られた子供だった。
彼を育てたひとたちは、ずっと子宝に恵まれずにいた。それでもようやく授かった男児が一人だけいたけれど、その子は事故で死んでしまったのだと操は言った。
たったの三歳だった。両親が目を離した隙に、車同士の衝突事故に巻き込まれて、命を落とした。直接の死因は焼死だった。
夫婦は悲しみに暮れ、何年も苦悩した末に、ちょうど我が子と同じ歳だった操を乳児院から養子として受け入れた。
「操って名前だったんだ。その子。おれと同じ──来主操」
「……そんなことが」
「うん、偶然。でもきっと、神様が巡り合わせてくれたんだろうって」
偶然。ほとんど奇跡に近い確率だったのかもしれない。
不思議なことに、操は子供のころの総士に少し似ていた。しかし皆城家が来主家の遠縁であることは事実でも、ここにいる操と総士の間に血の繋がりはなかったのだ。
確かにそこには超自然的な力が働いていたのかもしれない。そう思わされるくらいには、よくできた話だった。
「ちょっとずつ、みんなで家族になっていったんだ。おれは小さくて、覚えてないことも沢山あるけど……だけどいろんなこと、教えてもらった。わがままも、いっぱいした。大好きだった」
なのにもう聞こえない。操は悲しそうに目を伏せると言った。
「血が繋がった来主操なら、覚えていられたのかな」
その言葉に、甲洋は静かに首を振る。
「関係ない」
言いながら、少し赤くなっている耳の際をそっとなぞった。
「声から忘れていくんだよ。人は。そのあと顔を忘れて、思い出を忘れる」
「甲洋も……?」
甲洋はただ静かに笑った。忘れられない人間もいるのだ。甲洋は全て覚えている。異常なまでに発達した記憶力が、なにひとつ忘れさせてくれようとしない。
両親の声も、顔も、砂漠のようになにもない、ザラザラとしたノイズに満ちた日々の思い出も。そのひとつひとつを、たったいま体感したように鮮明に思いだすことができる。
記憶はぐるぐると螺旋を描き、何度も何度もループする。頭がおかしくなりそうだった。
甲洋の微笑みを、操は肯定と受け取ったようだった。
彼はよりいっそう甲洋に身を寄せて、ちょうど顎のしたに額をはめ込むようにしながら息をついた。操の安堵が伝わってくる。委ねられているということが、とても嬉しい。
「父親と母親の匂いは、覚えてる?」
「匂い……?」
「どんな匂いだった?」
わずかな沈黙のあと、操は「空」と言った。
「蒼い空の、匂いがしたよ」
「空、か。不思議な例えをするね、来主は」
「小さい頃、みんなで公園に行ったんだ。すごく綺麗な空だった。吸い込んだらね、やさしい匂いがしたんだよ」
それは春の陽気であったのかもしれない。若い葉が萌えぐ瑞々しい香りであったのかもしれないし、色づき枯れ落ちた葉が冬の足音を告げるような、少し乾いた懐かしさだったのかもしれない。小さな操は肌で感じた季節の香りを、見上げた空の美しさと紐づけたのだ。
そっかと言って、甲洋はくすりと笑った。
「なら、それをずっと覚えておいで」
その優しい記憶ごと、甲洋は操を抱き包む。
「最後まで残るのは匂いだから。他のなにを忘れても、空を見るたび思いだせるよ」
「……うん、わかった」
操は甲洋の首筋に鼻を押しつけ、すぅっと大きくを深呼吸をした。
「甲洋の匂い。あったかい、海みたいな、命の匂い……覚えておくね、ずっと」
声が途絶えた。彼はすぅすぅと子供っぽい寝息を立てはじめる。甲洋はそのふわふわとした感触の髪に鼻を埋めて、息を吸い込む。
少しだけ、分かるような気がした。あたたかな、空のような、命の匂い。操の匂い。
「俺も……覚えておくよ、来主」
幼子のように泣きだしてしまいたくなるような、この切なさを。
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ゆるゆると、なにかが頬に触れているような気がした。
柔らかくてくすぐったくて、守ってやりたくなるようなあたたかさに、不思議と胸が締めつけられる。
その見知らぬ感覚の正体を掴めぬまま、意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。
「……ん」
微かに呻くのと同時に、甲洋は目を覚ました。滲むように視界が開けていく瞬間、白いなにかがするりと引っ込んでいくのが見えた気がする。
「来主……?」
カーテンの隙間から、朝の光がさしていた。
操は昨日と同じくタオルケットのなかにいて、甲洋の顔をぼんやりと見つめている。
「今、なにかしてた……?」
起き抜けの掠れた声で問いかけた。操は小さく首を振るだけでなにも言わない。青白かった頬は血色を取り戻し、うっすらと赤みがさしている。
甲洋はのっそりと身を起こし、はっきりしない思考を振り払うように何度か頭を振った。それから、見上げてくる琥珀と目を合わせ「おはよう」と、言った。
「──おは、よ」
操の小さな声は、甲洋とは違った意味で少し掠れていた。酷く声をあげたから、喉を痛めてしまったのだろう。はちみつが効くはずだと咄嗟に考えながらも、彼が素直に挨拶を返してよこしたことに少し驚く。
操は泣きも怯えもしなければ、逃げだそうとする素振りも見せなかった。ただおとなしく身を横たえて、甲洋が目を覚ますのを待っていたのだ。
そこに想定していたような悲壮感はなく、むしろこちらのほうが戸惑ってしまう。
「……喉、それじゃ酷いね。ちょっと待ってて」
それでもただ黙ってじっとしているのは不自然に思えて、甲洋はベッドから離れようとした。しかしその手を操が掴んで引き止める。
「ッ、どうか、した?」
咄嗟のことに、思わず言葉がつかえてしまう。彼が自ら甲洋に触れてきたのは、これが初めてのことだった。目を丸くすると、操が小さく首を傾げる。
「今日は」
「うん、なに?」
「今日は、どうしたらいい?」
「え……?」
操がゆっくりと瞬きをする。
「おれは、どうしていたらいい?」
「!」
予想だにしなかった問いかけに、小さく息をのんだ。
甲洋が彼に触れて、その身を侵した毒には血清がない。少なくとも、今はまだ。
操の心は囚われたままだった。総士でもなく、一騎でもない。彼は追いつめた張本人である甲洋への依存を享受することで、新たなよすがを得たのだ。
生存戦略。ストックホルム症候群。多分、それに似ている。
甲洋はじんわりと滲むように込み上げた歓喜に肌を粟立たせ、安堵にも似た息を漏らしながら微笑んだ。
「来主がしたいようにすればいい。ここにいてもいいし、部屋に戻って休んでもいい。寂しかったら店にいたって構わないよ」
甲洋はあえて操を縛ることはしなかった。そうすることで彼がどうするのかという、昨日とは少しばかり形を変えた興味をそそられている。けれどその根源はまったく同じだ。
あくまでも小さなグラスの中を泳がせていた金魚に、ほんの少しだけ広めの水槽を与えてやったに過ぎなかった。
「うん……わかった」
素直に頷いた操は、まどろみの中にいるようなとろりとした瞳で甲洋を見つめていた。
子供っぽい顔つきが一層いとけなく見えて、思わず淡桃の頬に手を伸ばす。羽根でくすぐるように優しくなぞると、指先にじわりと熱が伝わってきた。甲洋は咄嗟に顔を顰める。
「……熱いな、お前」
頬に滑らせていた手を、彼の額に押し当てる。やっぱり少し熱い。
操は熱を出していた。
*
操の身体は昨夜の行為に消耗しきっていた。
なにか食べられそうかと問いかけても、彼はただぼんやりと焦点の合わない瞳を彷徨わせるだけで、どうにか水とはちみつを口に含ませるのがやっとだった。
いま、操は甲洋のベッドに沈み込んだままこんこんと眠り続けている。
「操くん、大丈夫かな……?」
昼の混雑前、煮込んだうどんをトレイに乗せて階段に足をかけようとしていた甲洋に、真矢が心配そうに問いかけた。
「お母さんに頼んで来てもらったほうがいいかな……。今日は土曜日だから、病院も午前中で終わりだし」
真矢の母、千鶴は島に唯一ある診療所の院長である。必要に応じて往診も行っているため、頼めば快く応じてくれるだろう。
しかしその申し出に、甲洋はやんわりと笑みを浮かべて首を振った。
「風邪ってわけではなさそうだし、微熱だから。それより遠見、少しのあいだ店のこと頼んでもいいか?」
「え? うん、もちろんいいけど」
「ありがとう」
そろそろランチライムに合わせて客足が増える頃合いだ。土曜日の、しかも忙しい時間帯に穴を開けてしまうのはしのびないが、今は可能な限り操の様子を見ていてやりたかった。
真矢は意外そうに目を瞬かせ「春日井くん、昨日とぜんぜん違う顔してる」と言った。
「そう?」
「うん。なんか、一騎くんたちとおんなじ顔?」
「同じ顔?」
「お父さんとお母さんみたいな顔っていうか……あ、でもちょっと違う気もする……お兄ちゃん? んー、それも違うかな? うまく言えない。なんだろ?」
人差し指を顎に押し当て、小首を傾げた真矢に甲洋は苦笑する。
「子供も弟もいたことないから、よくわからないよ」
「あはは。そんなの、一騎くんと皆城くんだって一緒だよぉ」
胸をくすぐるような甘い声がきゃらきゃらと笑っている。それもそうかと、甲洋は思った。
けれど自分たちは彼女が思うような親愛の情で繋がっているわけではない。ただ歪に絡み合い、がんじがらめになっているだけだということは、甲洋だけが知っていればいい事実だった。
*
うどんが乗ったトレイを片手に、そっと自室の扉を開けた。
ベッドで丸くなって眠っている操の肩は、Tシャツの肩線が少しだけ下にズレて、鎖骨が大きく覗いている。彼の身体に、甲洋の部屋着は少し大きい。
トレイをひとまず机に置いて、甲洋はベッドに近づくと静かに縁へ腰掛けた。
操の呼吸は穏やかで、赤らんでいた顔もだいぶ元に戻ってきている。甲洋はほっと安堵の息を漏らした。
操の顔のすぐ脇には、革製のブックカバーがかけられた本が置かれている。
起き上がるのも辛いはずだが、自力で取りに行ったのか。そのまま向こうで休んだって構わなかったのに、彼はわざわざここまで戻ってきたのだ。いじらしさを感じるのと共に、胸に広がる満足感から口元が綻んでいく。
甲洋はその眠りを妨げぬよう、そっと本を手に取った。操が初日に鞄から取り出していたものだ。パラパラとページをめくってみると、中には英文がぎっしりと詰め込まれている。
(読めるのか?)
少しばかり失礼なことを思いながら、甲洋はその洋書が昔好んで読んでいたミステリ小説であることに気がついた。懐かしい気持ちでさらにページをめくっていくと、中から白い紙が滑りだし、ベッド下の足元にぱたりと落ちる。
写真だ。しおり代わりにでもしているのだろうか。甲洋は先日と同じように、表面が見えない状態になっているそれを拾い上げた。
「──ぁ」
ひっくり返して何が写っているのかを確かめる前に、目を覚ました操が小さく声をあげた。
慌てた様子で身体を起こそうとして、彼はしんどそうに眉根を寄せる。昨夜、甲洋が酷くした場所が痛むのだろう。
甲洋は咄嗟に写真を本に挟んで閉じると、彼の肩に腕を回して身体を支えた。
「……写真」
どうにか起き上がった操は、おずおずと甲洋を見上げた。
「大丈夫。見てないよ」
甲洋は微笑み、本を操に返してやる。彼は受け取ったそれを大事そうに両腕に抱えた。
「大事な写真なんだね」
「……うん」
「……それ、総士には見せた?」
ギクリと、操の肩が強張った。
「ねぇ来主」
彼は写真を見られることをひどく嫌がっている。だけど総士も、そしておそらく一騎も、そこに何が写っているかを知っているのだろう。
操はなにも言えないでいるけれど、その無言が肯定を表していることは伝わった。
「見せてくれないんだ。俺には」
甲洋の顔から笑みが消えたことに気づき、操の少女めいた頬が色を失う。
追い出したと思っていたはずのふたりの影が、甲洋の胸を暗い焦燥で湿らせた。オモチャを横取りされて、癇癪を起こしそうになっている子供と同じだ。その狭量さに自分で呆れる。
操は腕のなかの本をいっそう強く抱きしめた。それから悲しげに目を伏せると、堪えるように小さな声を絞りだす。
「家族」
──と。
たった一言吐き出された言葉に、甲洋はなにも言えなくなった。
見ず知らずの他人が「ただなんとなく」で放った悪意の火種は、彼の家を飲み込んで、家族を奪い、そして操自身にも傷を残した。
写真にはそんな彼の家族が写っているというのだ。理不尽に命を絶たれるなんて知りもせず、ごくありふれた日常を生きる姿が、そこには切り取られているのだろう。
「……ごめん」
甲洋は素直に謝罪した。操は緩く首を振る。不安そうにこちらを見上げるので、安心させるためにイラズラっぽく笑みを浮かべながら話題を変えた。
「その本、難しくない? 来主は英語が得意なんだな」
操は途端に目を泳がせ、バツが悪そうに俯いた。
「……得意じゃ、ない。英語は、苦手だよ」
「でも、読んでるんだろ?」
「ほんのちょっとだけ。でも、ぜんぜん意味はわからない」
ならどうしてそんなに大事そうに抱えているのだろう。写真を持ち歩くだけなら、なにもわざわざ重量のあるものに挟んでおく必要はないだろうに。
不思議に思ったが、追求するのはやめておいた。なにかの拍子に、また彼の傷に触れてしまわないとも限らないからだ。
けれどこれくらいならいいかなと、甲洋は懐かしそうに目を細めた。
「その本、元は俺のだって知ってた?」
「え?」
「168ページ目。右下の端っこのほうに、小さなシミがあるだろ?」
操は抱えていた本を開くと、該当するページを見て「あ」と声をあげた。
そこには小指の爪の先よりも小さくて、目を凝らさなければ分からない程度のシミがついている。記憶の中にあるよりもさらに薄れてはいるけれど、それは甲洋が所持していた頃からすでについていたものだった。
「昔、俺が古本屋で見つけたんだ。総士も興味があったみたいだから、読んだあと渡したのさ。まだ大事に持っててくれたんだな」
それを今は操が所持している。まるで接点がないと思っていた彼との間に、ささやかな縁が存在していたことを知り、純粋に嬉しさが込みあげた。
操は本を閉じると再び腕のなかに抱きしめる。それから甲洋を見て、小さく笑って頷いた。
「うん、知ってたよ」
甲洋は心の底から驚いた。彼が元の本の持ち主を知っていたからではない。笑ったからだ。甲洋を見て、操が初めて笑ったからだった。
降って湧いたような喜びに、矢も盾もたまらず操の身体を抱きしめる。操は少し驚いた様子を見せたが、拒むことなく腕のなかに収まった。
綿菓子のような髪を指先で乱し、頬を擦りつけるようにすると、操はほうっと息を漏らして甲洋の首筋に額を埋める。
言葉がでない。嬉しかった。生まれて初めて、欲しかったものを満足に与えられたような気がした。
(このまま時が止まればいい)
本気でそんなことを考えながら、けれど抱きしめた彼の身体が未だに熱を持っていることに気がついた。操はまだ完全に回復したわけではないのだ。
甲洋は咄嗟に机の上に置き去りにされたままの食事に目をやった。やってしまった。温かいうちに食べさせるつもりが、さっきまで立ち上っていたはずの湯気がすっかり途絶えている。
早くお腹になにか入れさせて、解熱剤を飲ませてやらなければと思っていたのに。
「来主、ぬるくなった煮込みうどんなんて……やっぱ嫌、か?」
困り顔で問いかけると、操は首を左右に振った。
「嫌じゃない。伸びたうどん、けっこう好き」
そう言ったと同時に、操の腹がくぅっと鳴った。
*
翌日。
四日目の朝には、操の体調はすっかり元通りになっていた。
この日も甲洋はこれといって彼に命令を下さなかった。家の中のどこで過ごしても構わないし、空いている時間帯なら店にいてもいい。ただ目の届く範囲にいてさえくれればいいとだけ言うと、彼は子供っぽくこくりと頷いてまた少し笑った。
朝食はふたりでのんびりとトーストをかじって、昼は真矢と暉と四人でテーブルを囲んだ。
残り野菜とベーコンを使ったパスタはトマトがゴロゴロと入っていて、操は少しだけ渋い顔をしたが、文句も言わずにそれを食べようとした。
甲洋はその姿勢に満足感を得ながらも、ついつい操のトマトを自分の皿に全て移してしまった。彼は驚きながらもホッとしていたが、真矢には「春日井くんまですっかり甘くなっちゃった」と、ちょっぴり呆れられてしまった。
店が混雑してくると、操は甲洋の部屋に引っ込んでいった。自分にあてがわれた部屋には着替えをするときぐらいしか戻らない。彼は甲洋の部屋で辞書を引きながら、例の小説を地道に読み進めているようだった。
昼のピークが過ぎて時間に余裕が生まれると、甲洋はケーキとジュースを持って二階に上がった。操はえらく喜んで、頬にチョコレートクリームをつけながらケーキを頬張っていた。
そんな彼に時間が許す限り本を読み聞かせ、その意味を丁寧に教えてやった。
甲洋は操にどこまでも優しく接した。生まれて初めて心からそうしたいと思ったし、なんの不安も計算もなく自然に笑えることに喜びを感じていた。
両親と暮らしていた頃には決してありえなかった、穏やかで満ち足りた時間が、そこにはゆっくりと流れていた。
*
隣で眠っていたはずの操が急に悲鳴をあげたのは、日付も変わった真夜中、午前二時過ぎのことだった。
「来主!?」
甲洋が飛び起きると、操はひどく息を荒げながら合間に苦しげな嗚咽を漏らしていた。半身を起こし、すっかり背中を丸めてひいひいと泣きじゃくっている。
甲洋はデスクライトを灯すと、彼に寄り添いその背を何度も擦ってやった。
「うっ……ぁうぅ……ひっ、く、う、ぅ……っ」
「来主、来主、大丈夫。落ち着いて」
しきりに声をかけながら、震える肩を抱き寄せる。総士が言っていたのはこれか。最近ではほとんどなくなったと言っていたはずだが──。
「来主、顔をあげて。こっちを見て」
操は苦しそうにしゃくりを上げながら、ゆるゆると顔をあげて甲洋を見た。大きな瞳から、透明な雫が真珠のようにポロポロと溢れ出している。どれほど拭ってやっても、それは止めどなく流れ続けた。
「こぉ、よ……?」
「うん。ここにいるよ」
細い両腕が、甲洋の首に絡みついた。溺れたように懸命にしがみつきながら、彼は何度も甲洋の名前を呼んで、嗚咽の合間に「こわい」と「あつい」を交互に漏らした。
しっかりと抱き返して頭部に手のひらを滑らせると、陽だまりの中にいる子猫のようにふわふわとして柔らかな髪を優しく撫でる。
「甲洋、助けて……あつい、こわい……みんないなくなる……やだよ……やだよぉ……!」
夢と現実の堺が曖昧になっている彼の意識は、今もまだ家族を奪った炎のなかにあった。
操はそのときのことを覚えていないらしいが、それは彼自身が心を守るため、無意識にロックをかけているからなのだ。無防備な眠りのなかでは、ふとした瞬間そのセキュリティが甘くなる。
だけどきっと、今のこれは俺のせいなんだろうなと、甲洋は思う。
操は甲洋によって苛烈ともいえる支配を受けた。心の深い場所で眠らされている正常な意識が、抑圧されたまま無意識下で悲鳴をあげているのだ。その不安定さが、最も分かりやすく手近にあったトラウマを引きずりだしてしまったのだろう。
どうしようもなく気分が高揚していくのを感じて、口元が綻んでしまうのを止められない。
これだけ取り乱して泣きわめいても、彼が呼ぶのは甲洋の名前だけだった。その身が毒に侵されている限り、この少年は甲洋だけのものなのだ。甲洋だけを求めて、縋りつくしか術がない、可愛くて、可哀想な人形だった。
だから愛しくて、優しくしてやりたいと、心からそう思う。
「来主、ほら、俺の心臓の音が聞こえる?」
「こぉよ……こう、よう……っ」
「いい子だから。俺がここにいることを確かめて」
息を乱す操の身体をすっぽりと抱き込み、胸に耳を押しつけさせて鼓動を聞かせる。操は唇を噛み締めて、幾度かく、く、と小さくしゃくった。
甲洋は彼が落ち着くまでずっと、その髪を梳かすように撫で続ける。
「命の音……甲洋の、音がする……」
起き抜けの子供のような呆然とした声で呟き、操は瞼を伏せてしくしくと泣いた。
そのままどれくらいの時が経っただろう。操はときどき鼻をすするだけで、その呼吸も緩やかに安定していった。
彼は小さく身じろぎ、吐息だけで甲洋の名を呼んだ。うん、と頷いてやると、腹に回された操の両腕に力が込もる。
「甲洋は、いなくならない?」
見上げてくる瞳が、泣きすぎて少し赤くなっている。ふと、うさぎは寂しいと死んでしまうという迷信を思いだして、甲洋は笑った。
「いなくならないよ。俺はずっとここにいる」
「ほんとに……?」
「本当。お前のそばにいる。どこにも行かない。行くとしても、連れて行くよ。来主のこと、どこへだって連れて行く」
「甲洋……おれには、甲洋だけ……?」
「そう。お前には俺しかいない。俺だけは、お前のそばを離れない」
操は瞬かせていた瞳を細めた。とろりとほどたように微笑んで、甲洋の胸に頬を擦りつける。その頭をひと撫でしてから、彼の身体を抱き込んだまま身を横たえた。
甲洋の腕を枕に、操が安堵の息をつく。それから、少し眠たそうにふわふわとした声を漏らした。
「……声がね」
「声?」
「ん……思いだせなく、なったんだ」
甲洋は彼の背を撫でながら、ぽつりぽつりと雨だれのように落とされる言葉に耳を傾けた。
「おれを、育ててくれた人たち。ずっと一緒だったのに、顔は思いだせるのに……声が、あの人たちの声が、おれにはもう聞こえない。おれが……おれが本当の子供だったら、ちゃんと覚えていられたのかな……?」
「本当の子供?」
思わず背中を擦っていた手を止めた。操が頷く。
「おれは、もらわれた子だったから」
操も養子だったのだ。甲洋と同じ。施設から引き取られた子供だった。
彼を育てたひとたちは、ずっと子宝に恵まれずにいた。それでもようやく授かった男児が一人だけいたけれど、その子は事故で死んでしまったのだと操は言った。
たったの三歳だった。両親が目を離した隙に、車同士の衝突事故に巻き込まれて、命を落とした。直接の死因は焼死だった。
夫婦は悲しみに暮れ、何年も苦悩した末に、ちょうど我が子と同じ歳だった操を乳児院から養子として受け入れた。
「操って名前だったんだ。その子。おれと同じ──来主操」
「……そんなことが」
「うん、偶然。でもきっと、神様が巡り合わせてくれたんだろうって」
偶然。ほとんど奇跡に近い確率だったのかもしれない。
不思議なことに、操は子供のころの総士に少し似ていた。しかし皆城家が来主家の遠縁であることは事実でも、ここにいる操と総士の間に血の繋がりはなかったのだ。
確かにそこには超自然的な力が働いていたのかもしれない。そう思わされるくらいには、よくできた話だった。
「ちょっとずつ、みんなで家族になっていったんだ。おれは小さくて、覚えてないことも沢山あるけど……だけどいろんなこと、教えてもらった。わがままも、いっぱいした。大好きだった」
なのにもう聞こえない。操は悲しそうに目を伏せると言った。
「血が繋がった来主操なら、覚えていられたのかな」
その言葉に、甲洋は静かに首を振る。
「関係ない」
言いながら、少し赤くなっている耳の際をそっとなぞった。
「声から忘れていくんだよ。人は。そのあと顔を忘れて、思い出を忘れる」
「甲洋も……?」
甲洋はただ静かに笑った。忘れられない人間もいるのだ。甲洋は全て覚えている。異常なまでに発達した記憶力が、なにひとつ忘れさせてくれようとしない。
両親の声も、顔も、砂漠のようになにもない、ザラザラとしたノイズに満ちた日々の思い出も。そのひとつひとつを、たったいま体感したように鮮明に思いだすことができる。
記憶はぐるぐると螺旋を描き、何度も何度もループする。頭がおかしくなりそうだった。
甲洋の微笑みを、操は肯定と受け取ったようだった。
彼はよりいっそう甲洋に身を寄せて、ちょうど顎のしたに額をはめ込むようにしながら息をついた。操の安堵が伝わってくる。委ねられているということが、とても嬉しい。
「父親と母親の匂いは、覚えてる?」
「匂い……?」
「どんな匂いだった?」
わずかな沈黙のあと、操は「空」と言った。
「蒼い空の、匂いがしたよ」
「空、か。不思議な例えをするね、来主は」
「小さい頃、みんなで公園に行ったんだ。すごく綺麗な空だった。吸い込んだらね、やさしい匂いがしたんだよ」
それは春の陽気であったのかもしれない。若い葉が萌えぐ瑞々しい香りであったのかもしれないし、色づき枯れ落ちた葉が冬の足音を告げるような、少し乾いた懐かしさだったのかもしれない。小さな操は肌で感じた季節の香りを、見上げた空の美しさと紐づけたのだ。
そっかと言って、甲洋はくすりと笑った。
「なら、それをずっと覚えておいで」
その優しい記憶ごと、甲洋は操を抱き包む。
「最後まで残るのは匂いだから。他のなにを忘れても、空を見るたび思いだせるよ」
「……うん、わかった」
操は甲洋の首筋に鼻を押しつけ、すぅっと大きくを深呼吸をした。
「甲洋の匂い。あったかい、海みたいな、命の匂い……覚えておくね、ずっと」
声が途絶えた。彼はすぅすぅと子供っぽい寝息を立てはじめる。甲洋はそのふわふわとした感触の髪に鼻を埋めて、息を吸い込む。
少しだけ、分かるような気がした。あたたかな、空のような、命の匂い。操の匂い。
「俺も……覚えておくよ、来主」
幼子のように泣きだしてしまいたくなるような、この切なさを。
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*普通の犬猫の他に、耳と尻尾がついてる人型のイヌとネコが存在する世界。
*甲洋と一騎が『イヌ』になっています。他にも『ネコ』化しているキャラがいます。
*一騎と総士の左右はご想像にお任せします。
*原作程度の甲洋→翔子描写あり。
*原作とは異なる地理、その他捏造モリモリオンパレードです。
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