「んー! 美味しー! これ食べたかったんだー!」
苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。
子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。
「お前はいつまで経っても子供だな」
操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。
「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」
「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」
実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。
パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。
(この次は甲洋も連れて来ようっと)
そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。
「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」
「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」
「全くだ」
総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。
甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。
「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」
「本当? 嬉しいな」
昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。
総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。
「あー、美味しかった! 幸せ!」
「それはなによりだ」
「もうひとつイケそうな気がする」
「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」
オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。
「総士は一騎とどんなキスをするの?」
「ブッ!」
総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。
「大丈夫?」
「な、なにを……と、突然なんだ?」
「総士、顔が真っ赤だ」
「……10秒待て」
総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。
「よし、続けろ」
「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」
「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」
「してるよ。普通するでしょ?」
「普通、か」
操はきょとんとして小首を傾げる。
「しないの?」
「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」
「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」
「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」
どこかはぐらかされているような気がしないでもない。
操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。
「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」
「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」
「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」
操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。
「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」
「……なるほど」
赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。
「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」
「……甲洋はどんな様子なんだ?」
「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」
「なぜそうなる?」
「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」
総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。
「確かに、ズレているんだろうな」
「総士もそう思うの?」
「ああ、甲洋が気の毒だ」
「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」
テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。
「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」
「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」
「僕は惚気話をする趣味はないんだ」
「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」
「口止めしておく必要があるな」
「むぅー」
操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。
なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。
しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。
「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」
総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。
*
「どお? それ美味しい?」
湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。
甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。
「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」
「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」
ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。
「食べる?」
「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」
操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。
「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」
「俺はいいよ。来主が食べな」
「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」
モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。
甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。
綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「どう?」
どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。
「しょっぱい?」
「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」
「あ、本当だ……桜の匂いがするね」
甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。
「春の匂いだね」
「うん。春の匂いだ」
立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。
「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」
「今から?」
「そう、今から」
「気が早いよ」
甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。
桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。
(唇、濡れてる)
笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。
食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。
「ッ!」
甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。
操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。
「ん、ふ……」
拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。
食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。
「ッ、な、ぅ……っ」
驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。
「く、来主っ、やめなって……!」
「ふぁ……? ァ……なに?」
「なに、じゃ、なくて……ッ」
とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。
まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。
「こうよう?」
「ま、待って。ちょっと、離れて」
「なんで」
「いいから、今、まずいから」
甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。
心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。
「甲洋、ねぇどうしたの……?」
「──」
「甲洋?」
操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。
「……今のは、ダメだろ」
それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。
「だって、食べたかったんだもん」
「食べていいから。ケーキ、残り全部」
「違う。甲洋を食べたいって思った」
甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。
操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。
「今はダメだって!」
「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」
急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。
丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。
「甲洋、怒った?」
「……怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「……待って、いま素数を数えてる最中だから」
何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。
だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。
「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」
操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。
甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
(甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね)
操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。
彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。
あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。
(ちゃんとしたキスって、なんだろう)
例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。
だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。
(でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?)
まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。
──あとは早く自覚してやることだな。
(自覚? 自覚って、なにを……?)
ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。
「……なんとか鎮まった」
「ぁ……」
甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。
「来主?」
「もうちょっと、このままがいい。だめ?」
どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。
甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。
(この気持ちはなに? わかんないよ、総士)
心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。
大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。
(でもこうしてると……嬉しい)
桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。
(このままひとつになれたらいいのに)
家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。
この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。
(ねぇ、甲洋)
未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。
←戻る ・ 次へ→
苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。
子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。
「お前はいつまで経っても子供だな」
操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。
「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」
「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」
実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。
パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。
(この次は甲洋も連れて来ようっと)
そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。
「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」
「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」
「全くだ」
総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。
甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。
「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」
「本当? 嬉しいな」
昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。
総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。
「あー、美味しかった! 幸せ!」
「それはなによりだ」
「もうひとつイケそうな気がする」
「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」
オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。
「総士は一騎とどんなキスをするの?」
「ブッ!」
総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。
「大丈夫?」
「な、なにを……と、突然なんだ?」
「総士、顔が真っ赤だ」
「……10秒待て」
総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。
「よし、続けろ」
「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」
「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」
「してるよ。普通するでしょ?」
「普通、か」
操はきょとんとして小首を傾げる。
「しないの?」
「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」
「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」
「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」
どこかはぐらかされているような気がしないでもない。
操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。
「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」
「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」
「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」
操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。
「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」
「……なるほど」
赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。
「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」
「……甲洋はどんな様子なんだ?」
「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」
「なぜそうなる?」
「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」
総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。
「確かに、ズレているんだろうな」
「総士もそう思うの?」
「ああ、甲洋が気の毒だ」
「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」
テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。
「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」
「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」
「僕は惚気話をする趣味はないんだ」
「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」
「口止めしておく必要があるな」
「むぅー」
操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。
なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。
しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。
「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」
総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。
*
「どお? それ美味しい?」
湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。
甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。
「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」
「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」
ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。
「食べる?」
「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」
操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。
「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」
「俺はいいよ。来主が食べな」
「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」
モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。
甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。
綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「どう?」
どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。
「しょっぱい?」
「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」
「あ、本当だ……桜の匂いがするね」
甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。
「春の匂いだね」
「うん。春の匂いだ」
立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。
「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」
「今から?」
「そう、今から」
「気が早いよ」
甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。
桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。
(唇、濡れてる)
笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。
食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。
「ッ!」
甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。
操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。
「ん、ふ……」
拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。
食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。
「ッ、な、ぅ……っ」
驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。
「く、来主っ、やめなって……!」
「ふぁ……? ァ……なに?」
「なに、じゃ、なくて……ッ」
とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。
まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。
「こうよう?」
「ま、待って。ちょっと、離れて」
「なんで」
「いいから、今、まずいから」
甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。
心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。
「甲洋、ねぇどうしたの……?」
「──」
「甲洋?」
操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。
「……今のは、ダメだろ」
それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。
「だって、食べたかったんだもん」
「食べていいから。ケーキ、残り全部」
「違う。甲洋を食べたいって思った」
甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。
操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。
「今はダメだって!」
「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」
急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。
丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。
「甲洋、怒った?」
「……怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「……待って、いま素数を数えてる最中だから」
何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。
だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。
「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」
操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。
甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
(甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね)
操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。
彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。
あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。
(ちゃんとしたキスって、なんだろう)
例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。
だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。
(でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?)
まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。
──あとは早く自覚してやることだな。
(自覚? 自覚って、なにを……?)
ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。
「……なんとか鎮まった」
「ぁ……」
甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。
「来主?」
「もうちょっと、このままがいい。だめ?」
どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。
甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。
(この気持ちはなに? わかんないよ、総士)
心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。
大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。
(でもこうしてると……嬉しい)
桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。
(このままひとつになれたらいいのに)
家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。
この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。
(ねぇ、甲洋)
未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。
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四月も上旬に差し掛かっていた。
「ううぅ……うええぇ~……」
台所に立って包丁を握りしめ、操は顔を上向けると情けない呻き声をあげた。
目に激痛が走り、涙がポロポロと頬を伝う。
「どうかしたの?」
その奇妙な声を聞きつけて、居間にいた甲洋が台所にやってくる。操の顔を覗き込み、困惑の表情を浮かべた。
「目がぁ……目がぁ~……」
操は泣きながらどこかの大佐のような台詞を漏らす。
まな板の上には切りかけの玉ねぎが散乱しており、それを見た甲洋は合点がいった様子で「ああ」と声をあげる。
「痛いよぉ……玉ねぎってどうしてこんなに痛くなるんだろ……」
「硫化アリルっていう成分のせいだよ」
涙を零す操の頬を、シャツの袖で丁寧に拭いながら甲洋が言った。
「りゅーかあるる……? なぁにそれ?」
「玉ねぎに含まれるアミノ酸と、切ったときに細胞が壊れて発生する酵素が反応してできる物質のこと。それが蒸発して空気中を漂うと、目や鼻の粘膜を刺激して涙や鼻水がでる──ほら、切りかけのやつこっちに寄こしな」
「どうするの?」
流しの下の開きからラップを取り出した甲洋が、まな板の横に切り取ったラップを広げた。
玉ねぎは二個あるうちの一個がすでに乱切りにされている。残りもすでに表面の皮は剥かれている状態だ。操は首を傾げながらも言われた通り、半端な一個をラップの中央に乗せた。
「これをレンジで20秒くらい温める。硫化アリルは熱に弱いから、これでだいぶマシになると思うよ」
「そういえば、火が通った玉ねぎはぜんぜん痛くならないね」
「揮発成分の発散を抑えるには、逆に切る直前まで冷やしておくのも効果的だけど」
「へえぇ~……甲洋って物知りなんだ。凄いな」
玉ねぎは切ると目にしみる。操の中ではそこで完結していて、細胞がどうとか成分がどうとかいう細かなメカニズムなんて、気にも留めたことがなかった。
レンジの中にラップで包んだ玉ねぎを入れ、ボタンを押した甲洋は「別に普通だよ」と言って苦笑した。
「だっておれぜんぜん知らなかったよ。甲洋は天才犬だね」
「よせって」
彼は否定するが、操は彼がとんでもない記憶力の持ち主であることに気がついている。
「ほら、終わったよ」
甲洋がレンジの中からラップをつまみ出してまな板の上に置く。
ほんのりと温まった玉ねぎは、もう操を泣かせることはなかった。
*
「……普通、だね」
「まぁ……普通、かな」
出来上がった夕食のカレーは、良くも悪くも極めて普通の味だった。
「やっぱり甲洋と一緒に作った方がよかったかな……?」
「俺が一緒でも同じだったと思うけど」
操はスプーンをカレーに横刺しして手放すと、両手を後ろについてため息を漏らした。
「せっかく気合い入れて作ったのにな」
普段は甲洋と一緒に行う炊事だが、最近の操はすっかり彼のアシスタント状態だった。
甲洋は実に器用で手際がよく、しかもレシピにサラリと目を通しただけですぐに記憶してしまう。材料も分量も手順も時間も、正確に頭の中に刻みつけてしまうのだ。
だからたまにはいいところを見せようと、今日は一人で夕食を作ることにした。しかもちゃんと火を使って。
何を作ろうかと考えて、メニューはカレーに決めた。子供の頃に学校行事で作ったことがあったし、そうそう失敗しないだろうと思ったからだ。
甲洋は手伝うつもりでいたようだが、操は最後までそれを許さず──タマネギの件は置いておくとして──なんとか自力でカレーを完成させた。
とはいえ、やはり一騎カレーのようにはいかない。基本に忠実な、ごくごく普通のカレーにしかならなかった。
「美味しいよ、ちゃんと」
甲洋はそう言って順調にカレーを食べ進める。それを見ていると、操もまぁいいかという気持ちになってきた。奇跡的に指も切らなかったし、火傷もしなかった。具材にもちゃんと火が通っている。失敗したわけではないのだからと。
「甲洋、玉ねぎの裏技美羽にも教えたでしょ」
気を取り直してスプーンを手に取り、ゴロリとした大きなジャガイモをすくい上げながら問いかけた。
「教えたよ」
「なんでおれが知ってるか聞かないの?」
「美羽の母さんが動画を撮っていた。お前がそれを見たんだとしたら、あの妹さん経由だろうと思っただけ」
「……君って探偵みたいだね」
「分かるよ、そのくらい」
日野家からの帰り道、真矢に会った。操がファミレスに置き去りにした傘を持って、わざわざ追いかけて来てくれたのだ。
もちろん甲洋もその場にいたから、彼なら察するのは容易なことだったのかもしれない。しかし真矢から聞いた話では、確か弓子はこっそり動画を撮影していたのではなかったか。
甲洋には隠し事ができないんだなぁと、操はつくづくそう感じた。
「君は本当に頭がいいね。字も読めるし、なんでもすぐに覚えちゃうし。どこで勉強したの?」
ヒト型のイヌやネコは、個体差はあるだろうが人間と同等の知能を持っている。だから世の中には彼らが通うための『しつけ教室』が、多く存在しているのだ。中身は人間が通う幼稚園や学校と変わらない内容になっている。
甲洋はスプーンを置き、グラスに入った水を一口飲むと「家だよ」と言った。
「家? でも甲洋の元の飼い主って……あ、この話あんまりしない方がいい?」
「別にいいよ、気にしなくても」
「そう? じゃあ聞きたい。聞かせてよ」
甲洋が気にしないなら、操も必要以上は気にしない。あっさりとしたその反応が逆に嬉しかったのか、甲洋は小さく笑った。
「読み書きのほとんどは、店の常連さんのおかげだよ。溝口っていう男の人が、よく気にかけてくれた。親はあまりいい顔しなかったけどね。溝口さんが来ると、いつも俺を呼ぶんだ。甲洋はどこだ、下りてこいって」
溝口はよく幼い甲洋のために学習ドリルや児童書など、日によって様々な本を持って店に来たという。家族のお古だと言っていたが、本はいつも明らかに新品だった。
彼はいつも甲洋を隣に座らせ、ざっくりとだが字の読み書きを教えてくれた。そして一人では食べきれない量の料理を注文し、甲洋に分け与えた。
甲洋はなんでもすぐに吸収してしまうから、さぞ教え甲斐があっただろうなと操は思う。
同時に、もしかしたらその人は甲洋が普段どんな扱いを受けているか、薄々気がついていたのかもしれないとも。
「親だって、別に年中冷たかったわけじゃない。気まぐれに優しくしてくれることもあった。物置部屋に古い本が山積みになってたんだ。それを好きに読ませてくれた」
「そっか。ねぇ、その溝口って人はそれからどうしたの?」
「仕事でどこか遠くへ行ったよ」
「そうなんだ……いつか会ってみたいな」
彼がこんなに自分のことを話してくれたのはこれが初めてのことだったし、甲洋に優しくしてくれた人が過去に存在していたことを知り、操の胸にじわりと嬉しさが込み上げた。
元の飼い主のことだってそうだ。今でも彼らがしたことは許せないし、辛いことの方がずっと多かったはずなのに、甲洋はそんな彼らの『気まぐれ』さえも、決して忘れはしないのだ。
「君は全部覚えてるんだね。辛いことも、嬉しいことも」
「どうだろうな」
甲洋ははぐらかすように言って笑うと、またカレーを食べはじめた。
なんの変哲もないカレーの味も、彼はずっと覚えていてくれるのかもしれない。甲洋と一緒に食べるために作った、この操カレーの味を。
願わくは彼がこれから刻んでいく記憶が、全て優しいものだったらいい。
そう願いながら、操は大きなジャガイモを口の中に押し入れた。
*
食後は片付けを済ませ、のんびりとテレビを見ながらお茶を飲んだりして過ごす。
そのあと順番に風呂に入り、寝支度をして寝室で一緒に寝るのだが、一緒と言っても同じベッドに入るわけではない。
甲洋がこの部屋に帰ってきてから数日後、日野の家から彼のために買った衣類や布団一式が、宅配便で送られてきた。
すぐに連絡を入れると、電話に応じたのは道生だった。彼は「せっかくだし、よかったら使ってやってくれ」と言って、気さくに笑っていた。
お言葉に甘えて、その日の夜から布団はベッドの横に並べて敷くことにした。
甲洋の手足はもうほとんど痣が消えていた。だから以前は毎晩のように行っていたケアは必要なくなった。その代わり、寝る前に必ずすることが一つだけある。
「おやすみ、甲洋」
「うん、おやすみ」
ベッドの縁に腰掛けた操は身を屈め、布団の上に胡座をかいている甲洋の首に両腕を回すと、唇を寄せる。低い位置にいる甲洋はぐんと首を伸ばすようにしながら上向いて、操の唇を受け止めた。
甲洋が帰ってきた日の夜から、寝る前には挨拶のキスをするようになっていた。
子供の頃に総士としていたみたいに、操から彼の頬にキスをしたのが始まりだった。
甲洋は驚いていたが、その尻尾は嬉しそうにパタパタと左右に振られていた。それ以来、おやすみのキスが習慣になった。
だけど頬にしていたのは最初の何回かだけだ。そのあとは自然に唇へと場所が変わった。
「ん、ぅ」
甲洋の手が項にかかる。離れるタイミングを失って、操はより強く彼の首に腕を絡めた。
自然な動作で角度が変わると、ちゅ、という濡れた音がしてちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。感情が高ぶり、頬がどんどん熱くなるのに比例して、頭の中にはどんどん霧がかかっていった。
(もっと触りたいな……あ、そうだ)
操は両手で甲洋の頭を撫でた。大きな耳ごとわしゃわしゃと。
「……なに」
甲洋が戸惑ったように唇を離した。操は頭を撫でていた手で、今度はその頬を包み込む。
大人びた面立ちの白皙が、今はほのかな熱をもって赤らんでいた。それがどこか幼く見えて、操の胸を締めつける。
「甘やかしてるの」
どこか湿った息を漏らしながら、ぼんやりと鈍った頭で呟いた。
「抱っこして寝る?」
「……嫌だよ」
「そうしてほしそうに見えたんだけどな」
毎晩のように交わすようになった口づけは、すぐに終わることもあれば、こうして長引くこともある。そういうときは決まって甲洋の手が項にかかり、なかなか離れようとしないのだ。
操はそれを彼なりの甘えたいサインなのだと解釈している。
「……来主は、ズレてるよ」
「ズレてる?」
「うん、ズレてる」
操には甲洋が言わんとしていることが分からなかった。
「おやすみ、来主」
甲洋はもう一度そう言って、さりげなく操の両腕を剥がした。気を悪くしたのかと思いきや、彼はただ困ったように小さく笑っているだけだ。
キスもお喋りも、今夜は終わり。そう言わんばかりに、布団の中に潜り込んで背中を向けてしまう。
操もまたベッドに横たわった。手を伸ばし、キャビネットの上のライトを消す。部屋の中が墨色で塗りつぶされた。
操は掛け布団を引き上げながら、ぼんやりと天井を見上げる。唇には甲洋の熱や柔らかな感触が残っていた。
(ズレてるのかな、おれ)
自分ではそんな実感はなかった。そもそも、根本的に何がズレているのかも分からない。
操はただ甲洋を大事にしたいだけだ。家族だから、飼い主だから。
しかし愛犬におやすみのキスをするだけで、こんなにドキドキするものだろうか。身体が熱くなって、胸が切なく締めつけられる。心の中は満ち足りているようでいて、どこか物足りなさを覚えていた。
動物を飼っている人間にとって、これは普通のことなのだろうか?
(総士に聞いたら分かるかな)
総士だって本来はイヌが苦手なはずだ。それでも一騎とあんなにうまくやっている。彼に聞けば、なにか分かるかもしれない。
明日にでも連絡してみようと決めて、操はひとつ欠伸をすると目を閉じた。
←戻る ・ 次へ→
「ううぅ……うええぇ~……」
台所に立って包丁を握りしめ、操は顔を上向けると情けない呻き声をあげた。
目に激痛が走り、涙がポロポロと頬を伝う。
「どうかしたの?」
その奇妙な声を聞きつけて、居間にいた甲洋が台所にやってくる。操の顔を覗き込み、困惑の表情を浮かべた。
「目がぁ……目がぁ~……」
操は泣きながらどこかの大佐のような台詞を漏らす。
まな板の上には切りかけの玉ねぎが散乱しており、それを見た甲洋は合点がいった様子で「ああ」と声をあげる。
「痛いよぉ……玉ねぎってどうしてこんなに痛くなるんだろ……」
「硫化アリルっていう成分のせいだよ」
涙を零す操の頬を、シャツの袖で丁寧に拭いながら甲洋が言った。
「りゅーかあるる……? なぁにそれ?」
「玉ねぎに含まれるアミノ酸と、切ったときに細胞が壊れて発生する酵素が反応してできる物質のこと。それが蒸発して空気中を漂うと、目や鼻の粘膜を刺激して涙や鼻水がでる──ほら、切りかけのやつこっちに寄こしな」
「どうするの?」
流しの下の開きからラップを取り出した甲洋が、まな板の横に切り取ったラップを広げた。
玉ねぎは二個あるうちの一個がすでに乱切りにされている。残りもすでに表面の皮は剥かれている状態だ。操は首を傾げながらも言われた通り、半端な一個をラップの中央に乗せた。
「これをレンジで20秒くらい温める。硫化アリルは熱に弱いから、これでだいぶマシになると思うよ」
「そういえば、火が通った玉ねぎはぜんぜん痛くならないね」
「揮発成分の発散を抑えるには、逆に切る直前まで冷やしておくのも効果的だけど」
「へえぇ~……甲洋って物知りなんだ。凄いな」
玉ねぎは切ると目にしみる。操の中ではそこで完結していて、細胞がどうとか成分がどうとかいう細かなメカニズムなんて、気にも留めたことがなかった。
レンジの中にラップで包んだ玉ねぎを入れ、ボタンを押した甲洋は「別に普通だよ」と言って苦笑した。
「だっておれぜんぜん知らなかったよ。甲洋は天才犬だね」
「よせって」
彼は否定するが、操は彼がとんでもない記憶力の持ち主であることに気がついている。
「ほら、終わったよ」
甲洋がレンジの中からラップをつまみ出してまな板の上に置く。
ほんのりと温まった玉ねぎは、もう操を泣かせることはなかった。
*
「……普通、だね」
「まぁ……普通、かな」
出来上がった夕食のカレーは、良くも悪くも極めて普通の味だった。
「やっぱり甲洋と一緒に作った方がよかったかな……?」
「俺が一緒でも同じだったと思うけど」
操はスプーンをカレーに横刺しして手放すと、両手を後ろについてため息を漏らした。
「せっかく気合い入れて作ったのにな」
普段は甲洋と一緒に行う炊事だが、最近の操はすっかり彼のアシスタント状態だった。
甲洋は実に器用で手際がよく、しかもレシピにサラリと目を通しただけですぐに記憶してしまう。材料も分量も手順も時間も、正確に頭の中に刻みつけてしまうのだ。
だからたまにはいいところを見せようと、今日は一人で夕食を作ることにした。しかもちゃんと火を使って。
何を作ろうかと考えて、メニューはカレーに決めた。子供の頃に学校行事で作ったことがあったし、そうそう失敗しないだろうと思ったからだ。
甲洋は手伝うつもりでいたようだが、操は最後までそれを許さず──タマネギの件は置いておくとして──なんとか自力でカレーを完成させた。
とはいえ、やはり一騎カレーのようにはいかない。基本に忠実な、ごくごく普通のカレーにしかならなかった。
「美味しいよ、ちゃんと」
甲洋はそう言って順調にカレーを食べ進める。それを見ていると、操もまぁいいかという気持ちになってきた。奇跡的に指も切らなかったし、火傷もしなかった。具材にもちゃんと火が通っている。失敗したわけではないのだからと。
「甲洋、玉ねぎの裏技美羽にも教えたでしょ」
気を取り直してスプーンを手に取り、ゴロリとした大きなジャガイモをすくい上げながら問いかけた。
「教えたよ」
「なんでおれが知ってるか聞かないの?」
「美羽の母さんが動画を撮っていた。お前がそれを見たんだとしたら、あの妹さん経由だろうと思っただけ」
「……君って探偵みたいだね」
「分かるよ、そのくらい」
日野家からの帰り道、真矢に会った。操がファミレスに置き去りにした傘を持って、わざわざ追いかけて来てくれたのだ。
もちろん甲洋もその場にいたから、彼なら察するのは容易なことだったのかもしれない。しかし真矢から聞いた話では、確か弓子はこっそり動画を撮影していたのではなかったか。
甲洋には隠し事ができないんだなぁと、操はつくづくそう感じた。
「君は本当に頭がいいね。字も読めるし、なんでもすぐに覚えちゃうし。どこで勉強したの?」
ヒト型のイヌやネコは、個体差はあるだろうが人間と同等の知能を持っている。だから世の中には彼らが通うための『しつけ教室』が、多く存在しているのだ。中身は人間が通う幼稚園や学校と変わらない内容になっている。
甲洋はスプーンを置き、グラスに入った水を一口飲むと「家だよ」と言った。
「家? でも甲洋の元の飼い主って……あ、この話あんまりしない方がいい?」
「別にいいよ、気にしなくても」
「そう? じゃあ聞きたい。聞かせてよ」
甲洋が気にしないなら、操も必要以上は気にしない。あっさりとしたその反応が逆に嬉しかったのか、甲洋は小さく笑った。
「読み書きのほとんどは、店の常連さんのおかげだよ。溝口っていう男の人が、よく気にかけてくれた。親はあまりいい顔しなかったけどね。溝口さんが来ると、いつも俺を呼ぶんだ。甲洋はどこだ、下りてこいって」
溝口はよく幼い甲洋のために学習ドリルや児童書など、日によって様々な本を持って店に来たという。家族のお古だと言っていたが、本はいつも明らかに新品だった。
彼はいつも甲洋を隣に座らせ、ざっくりとだが字の読み書きを教えてくれた。そして一人では食べきれない量の料理を注文し、甲洋に分け与えた。
甲洋はなんでもすぐに吸収してしまうから、さぞ教え甲斐があっただろうなと操は思う。
同時に、もしかしたらその人は甲洋が普段どんな扱いを受けているか、薄々気がついていたのかもしれないとも。
「親だって、別に年中冷たかったわけじゃない。気まぐれに優しくしてくれることもあった。物置部屋に古い本が山積みになってたんだ。それを好きに読ませてくれた」
「そっか。ねぇ、その溝口って人はそれからどうしたの?」
「仕事でどこか遠くへ行ったよ」
「そうなんだ……いつか会ってみたいな」
彼がこんなに自分のことを話してくれたのはこれが初めてのことだったし、甲洋に優しくしてくれた人が過去に存在していたことを知り、操の胸にじわりと嬉しさが込み上げた。
元の飼い主のことだってそうだ。今でも彼らがしたことは許せないし、辛いことの方がずっと多かったはずなのに、甲洋はそんな彼らの『気まぐれ』さえも、決して忘れはしないのだ。
「君は全部覚えてるんだね。辛いことも、嬉しいことも」
「どうだろうな」
甲洋ははぐらかすように言って笑うと、またカレーを食べはじめた。
なんの変哲もないカレーの味も、彼はずっと覚えていてくれるのかもしれない。甲洋と一緒に食べるために作った、この操カレーの味を。
願わくは彼がこれから刻んでいく記憶が、全て優しいものだったらいい。
そう願いながら、操は大きなジャガイモを口の中に押し入れた。
*
食後は片付けを済ませ、のんびりとテレビを見ながらお茶を飲んだりして過ごす。
そのあと順番に風呂に入り、寝支度をして寝室で一緒に寝るのだが、一緒と言っても同じベッドに入るわけではない。
甲洋がこの部屋に帰ってきてから数日後、日野の家から彼のために買った衣類や布団一式が、宅配便で送られてきた。
すぐに連絡を入れると、電話に応じたのは道生だった。彼は「せっかくだし、よかったら使ってやってくれ」と言って、気さくに笑っていた。
お言葉に甘えて、その日の夜から布団はベッドの横に並べて敷くことにした。
甲洋の手足はもうほとんど痣が消えていた。だから以前は毎晩のように行っていたケアは必要なくなった。その代わり、寝る前に必ずすることが一つだけある。
「おやすみ、甲洋」
「うん、おやすみ」
ベッドの縁に腰掛けた操は身を屈め、布団の上に胡座をかいている甲洋の首に両腕を回すと、唇を寄せる。低い位置にいる甲洋はぐんと首を伸ばすようにしながら上向いて、操の唇を受け止めた。
甲洋が帰ってきた日の夜から、寝る前には挨拶のキスをするようになっていた。
子供の頃に総士としていたみたいに、操から彼の頬にキスをしたのが始まりだった。
甲洋は驚いていたが、その尻尾は嬉しそうにパタパタと左右に振られていた。それ以来、おやすみのキスが習慣になった。
だけど頬にしていたのは最初の何回かだけだ。そのあとは自然に唇へと場所が変わった。
「ん、ぅ」
甲洋の手が項にかかる。離れるタイミングを失って、操はより強く彼の首に腕を絡めた。
自然な動作で角度が変わると、ちゅ、という濡れた音がしてちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。感情が高ぶり、頬がどんどん熱くなるのに比例して、頭の中にはどんどん霧がかかっていった。
(もっと触りたいな……あ、そうだ)
操は両手で甲洋の頭を撫でた。大きな耳ごとわしゃわしゃと。
「……なに」
甲洋が戸惑ったように唇を離した。操は頭を撫でていた手で、今度はその頬を包み込む。
大人びた面立ちの白皙が、今はほのかな熱をもって赤らんでいた。それがどこか幼く見えて、操の胸を締めつける。
「甘やかしてるの」
どこか湿った息を漏らしながら、ぼんやりと鈍った頭で呟いた。
「抱っこして寝る?」
「……嫌だよ」
「そうしてほしそうに見えたんだけどな」
毎晩のように交わすようになった口づけは、すぐに終わることもあれば、こうして長引くこともある。そういうときは決まって甲洋の手が項にかかり、なかなか離れようとしないのだ。
操はそれを彼なりの甘えたいサインなのだと解釈している。
「……来主は、ズレてるよ」
「ズレてる?」
「うん、ズレてる」
操には甲洋が言わんとしていることが分からなかった。
「おやすみ、来主」
甲洋はもう一度そう言って、さりげなく操の両腕を剥がした。気を悪くしたのかと思いきや、彼はただ困ったように小さく笑っているだけだ。
キスもお喋りも、今夜は終わり。そう言わんばかりに、布団の中に潜り込んで背中を向けてしまう。
操もまたベッドに横たわった。手を伸ばし、キャビネットの上のライトを消す。部屋の中が墨色で塗りつぶされた。
操は掛け布団を引き上げながら、ぼんやりと天井を見上げる。唇には甲洋の熱や柔らかな感触が残っていた。
(ズレてるのかな、おれ)
自分ではそんな実感はなかった。そもそも、根本的に何がズレているのかも分からない。
操はただ甲洋を大事にしたいだけだ。家族だから、飼い主だから。
しかし愛犬におやすみのキスをするだけで、こんなにドキドキするものだろうか。身体が熱くなって、胸が切なく締めつけられる。心の中は満ち足りているようでいて、どこか物足りなさを覚えていた。
動物を飼っている人間にとって、これは普通のことなのだろうか?
(総士に聞いたら分かるかな)
総士だって本来はイヌが苦手なはずだ。それでも一騎とあんなにうまくやっている。彼に聞けば、なにか分かるかもしれない。
明日にでも連絡してみようと決めて、操はひとつ欠伸をすると目を閉じた。
←戻る ・ 次へ→
持ってきた傘を置き去りにして、店を飛び出した操は駅から電車に飛び乗った。
真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
←戻る ・ 次へ→
真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
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翌日の朝、時間通りに総士が迎えにやって来た。
操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。
「うん。バイトあるし」
「そうか。なら仕方がないな」
片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。
「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」
「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」
操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。
「まさか、お前たちもなのか?」
「うん?」
「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」
総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。
しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。
「そういう関係? どういう関係?」
「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」
「なに? ねぇ気になるよ」
「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」
眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。
総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。
「どうかした?」
「んー、わかんない」
「?」
腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。
「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」
冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。
「来主にしかしないよ」
「えぇー? なにそれぇ?」
「さぁ? なんでだろうな」
「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」
頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。
「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」
「……来主もね」
ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。
別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。
甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。
*
甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。
決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。
操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。
いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」
たった一ヶ月と、ほんの数日。
始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。
部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。
甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。
操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。
甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。
(おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……)
彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。
いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。
──分かっているのに。
操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。
*
甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。
満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。
操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。
バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。
まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。
──ぐぅ。
景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。
ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。
最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。
一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。
操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。
(おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな)
力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。
毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。
「甲洋、どうしてるかな……」
ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。
ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。
彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。
そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。
そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。
*
雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。
柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。
「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」
操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。
「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」
「そっか。まだ二年なんだ」
「来主くんは来年二十歳?」
「うん」
女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。
「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」
「真矢は大人の女の人って感じになったね」
「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」
「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」
最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。
真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。
「ん……ちょっとね、気になることがあって」
思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。
「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」
「……うん」
「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」
「みたい?」
真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。
「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」
それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。
(あ、甲洋だ……)
懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。
甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。
『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』
甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。
『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』
黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。
操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』
そこで動画は終わっていた。
真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。
「……美羽は、読心能力が使えるの?」
「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」
読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。
「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」
「甲洋、あまり食べないんだね」
「うん……そうみたい……」
いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。
「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」
操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。
「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」
甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。
だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。
「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」
「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」
「……窓?」
ドキリと、操の胸が跳ねる。
最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。
(まだ、忘れられないのかな……)
「それとね、これなんだけど」
真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。
焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。
「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」
「おれ……?」
甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。
操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。
「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」
操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。
──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?
(おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ)
操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。
(ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな)
ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。
甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。
しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。
(おれ、なんで気づかなかったんだろう)
またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。
「来主くん……大丈夫?」
ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。
「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」
「なに?」
「お姉さんの家、どこにあるか教えて」
「え?」
窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう?
操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。
だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。
「おれ、迎えに行く。甲洋を」
←戻る ・ 次へ→
操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。
「うん。バイトあるし」
「そうか。なら仕方がないな」
片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。
「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」
「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」
操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。
「まさか、お前たちもなのか?」
「うん?」
「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」
総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。
しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。
「そういう関係? どういう関係?」
「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」
「なに? ねぇ気になるよ」
「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」
眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。
総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。
「どうかした?」
「んー、わかんない」
「?」
腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。
「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」
冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。
「来主にしかしないよ」
「えぇー? なにそれぇ?」
「さぁ? なんでだろうな」
「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」
頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。
「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」
「……来主もね」
ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。
別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。
甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。
*
甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。
決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。
操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。
いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」
たった一ヶ月と、ほんの数日。
始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。
部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。
甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。
操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。
甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。
(おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……)
彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。
いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。
──分かっているのに。
操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。
*
甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。
満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。
操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。
バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。
まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。
──ぐぅ。
景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。
ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。
最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。
一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。
操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。
(おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな)
力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。
毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。
「甲洋、どうしてるかな……」
ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。
ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。
彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。
そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。
そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。
*
雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。
柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。
「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」
操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。
「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」
「そっか。まだ二年なんだ」
「来主くんは来年二十歳?」
「うん」
女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。
「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」
「真矢は大人の女の人って感じになったね」
「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」
「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」
最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。
真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。
「ん……ちょっとね、気になることがあって」
思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。
「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」
「……うん」
「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」
「みたい?」
真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。
「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」
それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。
(あ、甲洋だ……)
懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。
甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。
『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』
甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。
『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』
黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。
操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』
そこで動画は終わっていた。
真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。
「……美羽は、読心能力が使えるの?」
「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」
読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。
「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」
「甲洋、あまり食べないんだね」
「うん……そうみたい……」
いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。
「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」
操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。
「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」
甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。
だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。
「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」
「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」
「……窓?」
ドキリと、操の胸が跳ねる。
最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。
(まだ、忘れられないのかな……)
「それとね、これなんだけど」
真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。
焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。
「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」
「おれ……?」
甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。
操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。
「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」
操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。
──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?
(おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ)
操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。
(ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな)
ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。
甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。
しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。
(おれ、なんで気づかなかったんだろう)
またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。
「来主くん……大丈夫?」
ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。
「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」
「なに?」
「お姉さんの家、どこにあるか教えて」
「え?」
窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう?
操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。
だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。
「おれ、迎えに行く。甲洋を」
←戻る ・ 次へ→
桜がそこかしこで満開になっていた。
次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。
バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。
駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。
総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。
「急にすまない」
「うぅん。ぜんぜん」
助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。
「それよりどうかしたの? なにか急用?」
車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。
「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」
「──え?」
「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」
総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。
ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。
そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。
操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。
「来主?」
信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。
俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。
「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」
「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」
操は慌てて首を振る。
「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」
「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」
「真矢の?」
遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。
そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。
「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」
「……そうなんだ」
車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。
「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」
(おれにはぜんぜん、わからなかった)
初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。
ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。
「……いつ?」
「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」
「美羽っていうんだ。その子」
「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」
「きょ、今日!?」
思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。
総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。
「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」
「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」
「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」
美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。
確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。
(甲洋が、いなくなる)
想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。
操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。
*
「ただいまー」
総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。
すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。
「どうかした?」
「え?」
「何か、嫌なことでもあった?」
しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。
「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」
「手伝うよ」
「うん、ありがとう」
最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。
彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。
だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。
*
焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。
ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。
操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。
明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。
「来主」
「ぁ、な、なに?」
いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。
「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」
やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。
本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。
操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。
「今日、総士に会った」
「……うん」
「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」
甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。
「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」
なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。
「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」
操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。
大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。
美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。
日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。
「それでさ、甲洋は」
──どう思う?
そう続けようとして口を噤んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。
日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。
(今さらワガママなんか、言えないよなぁ……)
彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。
操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。
そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。
「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」
操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。
突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。
イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。
甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。
「また台所にアイツが出てきても、平気?」
声は穏やかで、いつもと何も変わらない。
操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。
「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」
「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」
「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」
「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」
「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」
ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。
「いいよ」
彼はそう言って、再び箸を手に取った。
「お前がそう言うなら、そうする」
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次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。
バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。
駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。
総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。
「急にすまない」
「うぅん。ぜんぜん」
助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。
「それよりどうかしたの? なにか急用?」
車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。
「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」
「──え?」
「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」
総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。
ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。
そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。
操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。
「来主?」
信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。
俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。
「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」
「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」
操は慌てて首を振る。
「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」
「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」
「真矢の?」
遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。
そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。
「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」
「……そうなんだ」
車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。
「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」
(おれにはぜんぜん、わからなかった)
初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。
ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。
「……いつ?」
「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」
「美羽っていうんだ。その子」
「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」
「きょ、今日!?」
思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。
総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。
「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」
「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」
「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」
美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。
確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。
(甲洋が、いなくなる)
想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。
操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。
*
「ただいまー」
総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。
すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。
「どうかした?」
「え?」
「何か、嫌なことでもあった?」
しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。
「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」
「手伝うよ」
「うん、ありがとう」
最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。
彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。
だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。
*
焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。
ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。
操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。
明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。
「来主」
「ぁ、な、なに?」
いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。
「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」
やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。
本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。
操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。
「今日、総士に会った」
「……うん」
「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」
甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。
「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」
なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。
「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」
操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。
大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。
美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。
日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。
「それでさ、甲洋は」
──どう思う?
そう続けようとして口を噤んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。
日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。
(今さらワガママなんか、言えないよなぁ……)
彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。
操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。
そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。
「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」
操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。
突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。
イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。
甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。
「また台所にアイツが出てきても、平気?」
声は穏やかで、いつもと何も変わらない。
操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。
「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」
「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」
「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」
「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」
「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」
ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。
「いいよ」
彼はそう言って、再び箸を手に取った。
「お前がそう言うなら、そうする」
←戻る ・ 次へ→
三月下旬。桜の花が咲きはじめた。
甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」
快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。
操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。
七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。
操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。
「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」
「うん、それいいな」
「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」
甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。
公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。
「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」
「うん」
木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。
少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。
花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。
その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。
彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。
新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。
イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。
だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。
「ねぇ甲洋」
「なに」
のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。
それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。
「耳、触ってみてもいい?」
最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。
甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。
「や、優しく触るね」
操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。
ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。
甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。
「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」
「そう?」
「うん。食べたら美味しそうだね」
「食べないでよ」
甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。
「た、食べないよぅ」
「どうだろう。来主は食いしん坊だから」
きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。
一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。
「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」
言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。
コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。
ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。
だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。
「ごめんって」
頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。
「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」
それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。
「来主」
「なぁに」
甲洋がふいに真剣な目をする。
「……俺も、触ってみていいか?」
「へ?」
今度は操が目を瞬かせる番だった。
甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。
「い、いいよ! 触って!」
慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。
操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。
「ッ!」
操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。
「……怖い?」
触れるか触れないかのところで、問いかけられる。
操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。
「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」
「やめておく?」
「平気。やめないでいいよ」
誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。
(他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?)
──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。
それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。
甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。
(甲洋の手、あったかくて、くすぐったい)
胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。
朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。
ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。
春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。
「ごめん」
「う、うぅん」
甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。
春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。
ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」
この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。
「何がいい? オレンジジュースでいい?」
操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。
「コーヒーがいい、かな」
操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。
*
風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。
クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。
甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。
「来主」
呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。
あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。
ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。
けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。
彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。
クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。
(運んだほうがいいのか……?)
抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。
急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。
「来主、起きて」
甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。
彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
(綺麗な目だったな)
秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。
甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。
頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。
「……ッ」
狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。
昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。
甲洋は多分、この感覚を知っている。
けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。
甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。
「来主」
吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。
小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。
しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。
(ダメだ)
自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。
花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。
「ッ……!」
呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。
(……いつから?)
──いつから、思い出になっていたのだろう。
ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。
決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。
「──来主」
初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。
←戻る ・ 次へ→
甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」
快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。
操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。
七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。
操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。
「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」
「うん、それいいな」
「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」
甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。
公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。
「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」
「うん」
木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。
少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。
花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。
その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。
彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。
新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。
イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。
だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。
「ねぇ甲洋」
「なに」
のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。
それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。
「耳、触ってみてもいい?」
最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。
甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。
「や、優しく触るね」
操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。
ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。
甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。
「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」
「そう?」
「うん。食べたら美味しそうだね」
「食べないでよ」
甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。
「た、食べないよぅ」
「どうだろう。来主は食いしん坊だから」
きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。
一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。
「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」
言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。
コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。
ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。
だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。
「ごめんって」
頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。
「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」
それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。
「来主」
「なぁに」
甲洋がふいに真剣な目をする。
「……俺も、触ってみていいか?」
「へ?」
今度は操が目を瞬かせる番だった。
甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。
「い、いいよ! 触って!」
慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。
操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。
「ッ!」
操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。
「……怖い?」
触れるか触れないかのところで、問いかけられる。
操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。
「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」
「やめておく?」
「平気。やめないでいいよ」
誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。
(他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?)
──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。
それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。
甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。
(甲洋の手、あったかくて、くすぐったい)
胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。
朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。
ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。
春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。
「ごめん」
「う、うぅん」
甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。
春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。
ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」
この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。
「何がいい? オレンジジュースでいい?」
操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。
「コーヒーがいい、かな」
操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。
*
風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。
クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。
甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。
「来主」
呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。
あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。
ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。
けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。
彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。
クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。
(運んだほうがいいのか……?)
抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。
急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。
「来主、起きて」
甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。
彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
(綺麗な目だったな)
秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。
甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。
頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。
「……ッ」
狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。
昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。
甲洋は多分、この感覚を知っている。
けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。
甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。
「来主」
吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。
小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。
しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。
(ダメだ)
自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。
花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。
「ッ……!」
呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。
(……いつから?)
──いつから、思い出になっていたのだろう。
ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。
決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。
「──来主」
初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。
←戻る ・ 次へ→
レジも一ヶ所しか稼働していない。午後の日差しを避けるため、店員が緩慢な動作でブラインドを下ろしている。
買い物カゴにはしょうがと豚のロース肉が入っていた。今夜の夕飯は豚の生姜焼きだ。
毎日の献立はふたりで決めているが、どちらかと言えば操が食べたいものを優先させることが多かった。甲洋には特に好き嫌いはないし、食に強いこだわりがあるわけでもないのでおのずとそうなる。
最近は操が帰る頃に合わせて、先に食事の支度を済ませておくことが少なくない。それは掃除や洗濯といった家事全般にもいえることだった。
操は「おれの出番がなくなっちゃうよ」と焦っているが、ただヒマを持て余すくらいなら、家のことは全て任せてくれた方がずっといい。働かざるもの食うべからずの精神である。
それに操はハッキリ言って家事センスが壊滅的だった。大雑把だし、不器用だし、かなりそそっかしい性格をしている。
つい先日も洗濯をしようとして液体洗剤を床にぶちまけ、足を滑らせて派手に転んだばかりだ。未だに気を抜くと包丁で指を切るし、なにやらメソメソと泣いていると思ったら、ペアで揃えたマグカップを割ってしまい、片付けようとしてまた指を切っていた。
これでよく今まで生きて来られたなと、最近は呆れを通り越していっそ感心している。
ただ、見ていて飽きない──目が離せない──のは確かだ。
表情筋が発達しすぎているのだろうか。笑ったり泣いたり怒ったり、彼はいつだって忙しい。その影響を受けてか、自分でもよく笑うようになったと思う。彼といると、自然とそうなってしまうのだ。
しかし、ここのところは非常に困ったことになっている。
重たい息を漏らしながら、甲洋は大玉のトマトをひとつ手にとった。
つるりとした表面と、張りのある弾力。これはこれで心地がいいが、操の頬はもっとふにふにとしていて柔らかい。
瞬時にそんなことを考える自分にげんなりしながら、トマトをひとつカゴに入れた。
(そろそろ限界かもしれない)
最近とみにそう思う。
操は可愛い。ふにゃりとした笑顔も、情けない泣き顔も、幼い仕草やその内面も。
ふとした瞬間その肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られることが幾度となくある。そのまま自分のものにしてしまえたら、どんなにいいだろうかと。
必死で抑え込んでいるのに、しかし当の操は甲洋の気持ちなどお構いなしだ。困ったことに、彼はなんにも分かっちゃいない。
(どんな無菌室で育てれば、あんな鈍いやつができあがるんだ……?)
操の気持ちは伝わっている。イヌはヒトの心がハッキリと読み取れるわけではないが、感情の機微には敏感だ。そこに元来の勘の鋭さも加わって、甲洋には分かってしまう。
それは宿ったばかりの命のように未熟で、おぼつかないけれど。操から向けられる想いの形は、甲洋が彼に抱くものと同じだった。
一方通行の恋しか知らなかった甲洋は、その幸福に息ができなくなる。
だけどそこまで分かっていながら、自信をもって踏み込むことができないでいた。
思慕と恋慕。親愛と性愛。操にはその区別がついていない。まるで本当に子供のようだ。まだなにも知らない、知ろうとすらしていない子供と一緒だ。
なのに甲洋を見つめる瞳はどこか物欲しげで、蕩けきっている。だからたちが悪かった。
どれだけ人間に近かろうと、甲洋は獣だ。
あの白くて柔らかそうな肌に歯を立ててしまいたいという欲求が、確かにある。
彼が甘えたように身を寄せてくるたび、淡桃に色づく肌がまるで誘っているようだった。そんなとき、操からはなんとも言えない甘い香りがする。
それはフェロモンのようなものかもしれない。発情期のメスがオスを誘うように、彼の匂いは甲洋の情欲を煽りたてる。
しかし操はイヌへの恐怖を克服したわけではない。
だからこそ彼から寄せられる特別な信頼は心地がよくて、けれど同じくらい怖かった。
どこまで自分を制御できるか分からなくて、彼を傷つけてしまいそうで。この獣欲をさらけだすには、彼はあまりにも無垢すぎる。
臆病、むっつり、意気地なし。総合してヘタレなのだ。甲洋は。
情けなくて思わず溜息が漏れた。
しかしここで悶々としていたって埒が明かない。ひとまず買い物を終わらせてしまおうと、生姜焼きに添えるためのキャベツに手を伸ばした。
が、そこで同じようにキャベツに触れようとしていた誰かの白い指先とぶつかってしまう。
「「あ」」
互いに丸くした目をかち合わせ、同時に声をあげる。
白い耳と尻尾。そこにいたのは皆城総士の愛犬、チワワの一騎だった。
*
「アイスコーヒーでよかったか?」
スーパーの片隅にある小さなイートインスペースは無人だった。
先に席についていた甲洋の元に、カップ式自販機で買ったコーヒーを両手に持った一騎がやってくる。心の中で礼を述べてカップを受け取ると、一騎は「どういたしまして」と笑いながら向かいに座った。
一騎が自分の分のカップに口をつけるのを見て、甲洋もコーヒーに口をつける。
「今日は来主はどうしてるんだ? バイトか?」
甲洋が頷く。
「お前もすっかり主夫してるんだな」
心の中でまぁねと言って、また頷いた。
問いかけに短く返すだけの甲洋に、一騎は気を悪くしたふうもなく「そっか」と言うだけだった。
彼は読心能力を使おうとはしなかった。前に不用意に甲洋の記憶に触れてしまったことが原因かというと、そうではない。一騎は甲洋が皆城総士の元で世話になっていた頃も、必要以上に能力を使うことはしなかった。
けれど甲洋は、イヌ同士なら心の中で会話するのは当然のことだと認識している。わざわざ声に出して会話をする必要はないし、その意味もない。
だが一騎はそれをしないのだ。人間のようなイヌだなと思った。
「ずっと気になってた。お前のこと」
一騎はカップをテーブルに置くと言った。
「謝りたかったんだ。ごめんな」
それは甲洋も同じだった。一騎の気持ちはちゃんと理解していた。その優しさも。
一騎だけじゃない。最初に保護してくれた羽佐間容子も、真壁史彦も、皆城総士も。みんな優しい人たちだった。見ず知らずの捨て犬のために、心を砕いてくれた。
けれどあの頃の甲洋は疲弊しきっていた。生きる理由を見失っていた。人間に期待することを恐れ、同様に期待させるのが怖かった。
だけど甲洋は相手が一騎だったからこそ、とりわけ心を見せるが嫌だったのだ。
それは幼い頃に見た、“ある光景”が原因だった。
『どこまで視た?』
心の中で問いかけながら、甲洋はカップの中で揺れているコーヒーを見下ろす。水面には無表情な自分の顔が映り込んでいた。別に不機嫌だからとか、そういうわけではない。単純に気まずかったのだ。
「……ベランダに雪が降っていた。幾つかダンボールやガラクタが積み重なっていて、お前はそこに身を隠すようにしながら、裸足で膝を抱えて座っていた。それから……」
一騎はそこでいちど言葉を切る。そして何かを堪えるように、そっと睫毛を伏せた。
「いなくなったんだな……あの子」
あの子──。
「!」
コーヒーの水面に映る甲洋の瞳が、ハッとして見開かれる。
『……覚えてるのか?』
一騎を見ないまま問いかけた。静かに頷く気配に、甲洋は呆然と瞬きを繰り返す。
きっと忘れているだろうと思っていた。彼女のことなど、覚えてはいないだろうと。
だけど彼は覚えていた。忘れてなんかいなかった。彼女のことを──翔子のことを。
『忘れたことなんかない』
心の中で、一騎が言った。
そこには身を切るような深い悲しみがあって、懐かしい記憶がある。
甲洋は何も言葉を返すことができなかった。一騎もまた、口を噤んで静かに目を伏せる。
翔子を喪った痛みを、彼女を知っている誰かと共有するのは、甲洋にとってこれが初めてのことだった。
ゆるりと心がほどけていくのを感じて、甲洋はふっと息を吐き出した。それから視線を一騎に向けて、小さく笑う。
「昔、一度だけお前を見たことがあるよ。羽佐間さんの家に行ったことがあるだろ? 小さな頃に」
甲洋はまるで昔から知っている友人に語りかけるような、そんな穏やかな声で気安く言った。心の中ではなく、ちゃんと言葉にして。
実際、甲洋は一騎のことを知っていたのだ。皆城総士の元で会う前から、ずっと。
一騎は甲洋の心がほどけたことに少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「父さんと羽佐間先生は昔からの友達なんだ。ほら、陶器があっただろ? 真壁の家に」
甲洋が頷く。ほんの短い間だが、甲洋は真壁家で世話になっていたこともあった。棚いっぱいに、不思議な形の陶器が並んでいたのを覚えている。
「趣味なんだよ。でもけっこう酷いよな、どれもこれも」
「芸術的、ではあったかな」
「いいよ、気を使わなくて。それでも味があるってさ、たまに欲しがる人がいるんだよ。羽佐間先生みたいに。父さん顔には出さないけど大喜びで、わざわざ届けに行ったんだ。それに俺もついて行った……そっか。見てたんだな、お前」
ベランダから幼い子猫に恋をしていたあの頃。甲洋もまだほんの小さな子犬だった。
ある日、羽佐間家の前に見慣れない車が停まった。そこから降りてきたのが真壁史彦と、まだ子犬の一騎だったのだ。
よく晴れた、暖かな日だったのを覚えている。翔子の部屋のカーテンと窓は開かれていて、そこに一騎が通されたのを見た。翔子は一騎を見た瞬間、白い頬を桃の花びらのように染めあげた。
それは彼女が恋に落ちた瞬間だった。あのとき駆られた焦燥感は、今でも忘れられない。
泣きだしそうに潤んだ瞳ではにかむ翔子と、最初こそ戸惑った様子でポカンとしていた一騎だけれど、彼は翔子が必死で紡ぎだす声に真剣に耳を傾けているようだった。
そうやって、幼い二匹は大人たちが話を終えるあいだの、ほんの短い時間を共に過ごした。
彼らがどんな言葉を交わしたのかまでは分からない。だけど甲洋にとってはそのささやかなひと時が、まるで永遠のように感じられた。
それから一騎が翔子に会いに来ることはなかったが、彼女はたまに窓の外を眺めては頬を染め、溜息をつくことが多くなった。
届かぬ想いに身を焦がす翔子に、それでも甲洋は恋をし続けた。出会ってすらいない、どんなに見つめても視線すら交わらない、小さくて可憐な白猫に。
甲洋は目の前で静かにコーヒーを飲んでいる一騎を見た。
皆城総士の元で彼に引き会わされたとき、甲洋は彼に羨望と憎しみを同時に抱いた。たったいちど会っただけで翔子の心を掴んでしまった、一騎に対して。
だけどそんなものはただの八つ当たりだ。彼を恨んだって意味がないことは分かっていた。
もし仮にあのとき傍にいたのが甲洋だったとしても、彼女は一騎に恋をしただろう。彼の優しさを知れば知るほど、それが確信に変わっていくことが苦しかった。
甲洋が頑なに心を閉ざしていたのは、そんな自分のなかに巣食う負の感情を知られたくなかったからだ。
「……俺も悪かった。カッとなって、お前を傷つけたこと」
頭を下げた甲洋に、一騎は静かに笑って首を振る。
再びコーヒーへと落とした視線の先には、憑き物が落ちたように穏やかな目をした自分が映りこんでいる。
(──翔子)
思い出の箱の中で、初恋の少女が笑っていた。
その笑顔が自分に向けられることは終ぞなかったが、今の甲洋は知っている。
ひたむきに注がれる想いと、まっすぐに向けられる眩しい笑顔を。もう一度、誰かを愛しいと想える気持ちを。
それは決して独りよがりではないはずで、だけど未だ強く踏み込むことはできなくて。意気地なしの自分は、ただこうして迷子のように袋小路で怯えているだけなのだ。
甲洋はコーヒーを飲み干すと、深く長い息を漏らす。一騎が小首を傾げた。
「来主のことか?」
心を読まれたのかと思ったが、そうではないらしい。
なぜ分かるのかと目だけで問えば、彼は眉を下げて苦笑した。
「総士から口止めされたんだ。来主に何を聞かれても、絶対に答えるなって」
「口止め?」
「あいつ、俺と総士のことが知りたかったみたいだ」
「ああ、そういうこと……」
つまり、そういうことだ。
先日、操は総士に会うのだと言って意気揚々と出かけて行った。そこでどんな話をしたのか、おかげでなんとなく予想がついた。
一騎と総士の関係には気がついていた。短い期間とはいえ、甲洋は彼らの家にも厄介になっていたのだから。
総士はそんなことおくびにも出さない振る舞いを一貫していたが、ふたりの間に流れる空気は、飼い主とイヌという枠を飛び越えたものだった。
そもそも一騎に隠す気がなかったのだから、嫌でも気がつく。
要するにダダ漏れだったのだ。
「別に教えてやればいいのにな。その方が手っ取り早いだろ?」
同意を求められても、甲洋は何も答えられない。
自分の色恋をあれこれ暴露するというのは、なかなかできることではないような気がする。
しかし一騎は意外にもオープン気質だ。繊細そうに見えて、実は大雑把なところがあるのだろうか。
「お前が相手なら、俺も総士も安心だよ」
「どうしてそう言える?」
「だって、お前は来主を傷つけないだろ?」
果たしてそれはどうだろう。自信がないから、こうして踏み出せないでいる。
つい先日だって、失態を犯したばかりだった。あのとき暴走しなかったのは奇跡に近い。
だってあんなキスは反則だ。小さな唇が濡れた音を立てながら吸いついてくる感触。正直、思いだしてはあのあとも幾度か催した。その度に一人で処理するというのは、なかなかに虚しいものがある。
「大変だな、お前」
一騎が気の毒そうに、そして心配そうにしみじみと言った。
「……視るなよ」
「視たくて視たんじゃない。視せられたんだ。お前、気をつけないとダダ漏れだったぞ」
ああ、自分も一騎のことは言えないのか。
あまりにも強烈な出来事だったせいか、あるいは甲洋に余裕がなさすぎるせいなのか、一騎にはその気がなくても視えてしまったのだ。
下手に心を開いたことが裏目にでた。いらぬ恥をかいてしまった気がするし、誰であっても自分以外のオスに操のあんな姿は知られたくない。
が、今のは甲洋が完全に油断していた。彼を責めることはできなかった。
「なんだか緊張してきたな」
「なんでお前が緊張するのさ」
「だって、近いうち挨拶に来ることになるんだろ? 息子さんを俺にくださいって」
「は……?」
「総士はわざわざスーツを用意しておくつもりでいるみたいだけど……俺はあまり堅くならない方がいいような気がするんだよな。どう思う?」
どう、と聞かれても困る。
一騎は真剣だ。こんな調子で、家でも総士とあれこれ話をしているのだろうか。確かにほとんど親代わりなのだろうが、わざわざ挨拶に行くなんて考えたこともなかった。
操も大概だが、一騎も総士も天然である。あの親にしてこの子ありとは、彼らのためにある言葉かもしれない。
「……まだ当分は先かもね」
そう言って、甲洋は力なく息を漏らした。
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