「俺のそばで生きてくれるか」
ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。
昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。
彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。
飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。
ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。
「……受け取れない」
「受け取ってほしい」
「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」
「それでも」
黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。
また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。
「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」
そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。
命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。
躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。
引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。
強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。
今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。
+++
一日の始まりには二通りある。
一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。
ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。
だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。
この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。
それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。
もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。
どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。
一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。
画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。
ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。
そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。
目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。
だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。
縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。
記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。
保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。
この時期、去年もそうだった。
折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。
一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。
+++
「……どうした?」
夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。
浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。
起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。
「お花見」
「……花見?」
「桜、いつ散った?」
「…………」
「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」
ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。
自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。
黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。
「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」
彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。
あれが教師として最後の春になった。
「……何を言ってるの?」
「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」
「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」
「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」
「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」
夢。
そうならどれだけよかったろうか。
今の生活は幸せだ。
誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。
築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。
それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。
ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。
こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。
それでも約束したから。
彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。
「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」
「……なにそれ」
「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」
「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」
ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。
口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。
黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。
このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。
少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。
彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。
「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」
「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」
「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」
「一年半になる」
「……わかった。大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。
「……なんで?」
「なにがだ」
「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」
「バカ言うな」
でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。
彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。
黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。
薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。
「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」
「そうだな。そんなようなもんだ」
「……嘘みたい」
「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」
そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。
それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。
「……ごめんなさい」
繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。
自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。
けれどこんな風に笑ってくれるなら。
手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。
←戻る ・ 次へ→
ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。
昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。
彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。
飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。
ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。
「……受け取れない」
「受け取ってほしい」
「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」
「それでも」
黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。
また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。
「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」
そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。
命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。
躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。
引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。
強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。
今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。
+++
一日の始まりには二通りある。
一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。
ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。
だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。
この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。
それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。
もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。
どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。
一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。
画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。
ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。
そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。
目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。
だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。
縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。
記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。
保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。
この時期、去年もそうだった。
折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。
一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。
+++
「……どうした?」
夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。
浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。
起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。
「お花見」
「……花見?」
「桜、いつ散った?」
「…………」
「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」
ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。
自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。
黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。
「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」
彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。
あれが教師として最後の春になった。
「……何を言ってるの?」
「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」
「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」
「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」
「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」
夢。
そうならどれだけよかったろうか。
今の生活は幸せだ。
誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。
築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。
それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。
ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。
こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。
それでも約束したから。
彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。
「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」
「……なにそれ」
「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」
「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」
ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。
口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。
黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。
このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。
少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。
彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。
「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」
「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」
「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」
「一年半になる」
「……わかった。大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。
「……なんで?」
「なにがだ」
「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」
「バカ言うな」
でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。
彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。
黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。
薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。
「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」
「そうだな。そんなようなもんだ」
「……嘘みたい」
「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」
そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。
それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。
「……ごめんなさい」
繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。
自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。
けれどこんな風に笑ってくれるなら。
手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。
←戻る ・ 次へ→
ファイが記憶障害を患う以前、2人は同じ学校で教鞭を執る立場にあった。
黒鋼は体育を、ファイは化学を。
そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。
男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。
多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。
今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。
ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。
広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。
運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。
あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。
連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。
それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。
『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。
+++
あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。
そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。
自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。
もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。
今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。
彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。
電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。
当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。
毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。
事故のこと、背負った障害、経過した日数。
それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。
ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。
食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。
せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。
そして事故からおよそ半年後。
黒鋼は自らも教師という職を辞した。
2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。
もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。
+++
県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。
誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。
ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。
時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。
それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。
「もうすぐ向日葵が咲くね」
窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。
待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。
じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。
けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。
「ユゥイ、来るかな?」
彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。
木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。
「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」
「……忙しいんだろうよ。店の方がな」
「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」
ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。
再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。
これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。
思い出すためではなく、知るために。
書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。
昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。
「……ダメだぁ」
けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。
彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。
「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」
ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。
「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」
「その割にゃ満足そうじゃねぇか」
「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」
幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。
彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。
来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。
そう、ユゥイは絶対にここには来ない。
明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。
なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。
事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。
夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。
現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。
そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。
ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。
いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。
いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。
そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。
彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。
だから黒鋼は平然と嘘をつく。
「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」
読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。
「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」
「俺も日記をつけた方がよさそうか?」
「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」
はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。
←戻る ・ 次へ→
黒鋼は体育を、ファイは化学を。
そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。
男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。
多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。
今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。
ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。
広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。
運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。
あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。
連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。
それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。
『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。
+++
あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。
そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。
自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。
もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。
今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。
彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。
電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。
当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。
毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。
事故のこと、背負った障害、経過した日数。
それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。
ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。
食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。
せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。
そして事故からおよそ半年後。
黒鋼は自らも教師という職を辞した。
2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。
もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。
+++
県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。
誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。
ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。
時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。
それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。
「もうすぐ向日葵が咲くね」
窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。
待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。
じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。
けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。
「ユゥイ、来るかな?」
彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。
木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。
「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」
「……忙しいんだろうよ。店の方がな」
「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」
ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。
再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。
これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。
思い出すためではなく、知るために。
書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。
昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。
「……ダメだぁ」
けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。
彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。
「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」
ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。
「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」
「その割にゃ満足そうじゃねぇか」
「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」
幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。
彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。
来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。
そう、ユゥイは絶対にここには来ない。
明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。
なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。
事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。
夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。
現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。
そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。
ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。
いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。
いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。
そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。
彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。
だから黒鋼は平然と嘘をつく。
「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」
読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。
「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」
「俺も日記をつけた方がよさそうか?」
「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」
はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。
←戻る ・ 次へ→
おまえは生きるほどに失えばいい。
風が通り抜けるように、花が枯れるように。
雪が解けるように、蜻蛉の命のように。
何度でも手放して、何度でも泣けばいい。
そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。
おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。
俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。
+++
今日も暑くなりそうだ。
夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。
走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。
狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。
この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。
山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。
青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。
一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。
あれは、まだ寝ているのだろうか。
家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。
いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。
昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。
ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。
曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。
やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。
家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。
「帰ったぞ」
一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。
居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。
「……黒たん?」
そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。
茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。
すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。
「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」
頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。
だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。
何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。
「泥棒がいるんだ」
「泥棒だと?」
「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」
冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。
黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。
「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」
「……ああ」
「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」
やはりそういうことか。
黒鋼は苦笑する。
笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」
「……ボード」
「あれだ。今朝は見たか?」
「……どうだろう……?」
彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。
マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。
指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」
「……そうなんだ」
「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」
青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。
けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。
「黒たんが美味しかったなら、よかった」
「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。
薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。
温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。
都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。
小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。
すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。
+++
ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。
彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。
毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。
原因は2年前の夏。
ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。
一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。
彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。
黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。
幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。
自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。
黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。
だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。
それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。
彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。
←戻る ・ 次へ→
風が通り抜けるように、花が枯れるように。
雪が解けるように、蜻蛉の命のように。
何度でも手放して、何度でも泣けばいい。
そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。
おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。
俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。
+++
今日も暑くなりそうだ。
夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。
走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。
狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。
この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。
山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。
青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。
一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。
あれは、まだ寝ているのだろうか。
家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。
いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。
昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。
ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。
曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。
やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。
家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。
「帰ったぞ」
一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。
居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。
「……黒たん?」
そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。
茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。
すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。
「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」
頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。
だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。
何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。
「泥棒がいるんだ」
「泥棒だと?」
「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」
冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。
黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。
「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」
「……ああ」
「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」
やはりそういうことか。
黒鋼は苦笑する。
笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」
「……ボード」
「あれだ。今朝は見たか?」
「……どうだろう……?」
彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。
マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。
指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」
「……そうなんだ」
「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」
青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。
けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。
「黒たんが美味しかったなら、よかった」
「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。
薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。
温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。
都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。
小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。
すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。
+++
ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。
彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。
毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。
原因は2年前の夏。
ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。
一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。
彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。
黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。
幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。
自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。
黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。
だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。
それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。
彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。
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※死亡ルート。
承太郎はその狐の面を、ゆっくりと外した。
そしてふっと、笑みが零れる。
「変わらねえな、てめーは」
大人になった花京院の顔は、記憶の中の面影を十分に残していた。
笑おうとして不器用に震えるだけの唇は大きめで、悲しげに下がる眉の下で揺れる瞳は、すみれの花のように美しい。丸みを失った頬ですら愛おしくて。
手を伸ばし、その頬に触れた。目尻を親指で撫でてやれば、切れ長の瞳に溜まっていた涙が承太郎の手を伝う。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないさ」
「……寂しい思いをさせた。遅くなったが……ようやく見つけたぜ」
長かった。この瞬間をどれほど夢見ていたか知れない。
例えこれが自身の作り上げた幻の世界でも、構わなかった。
花京院はここにいる。今この瞬間、目に見えているもの全てが承太郎にとっての真実だと思える。
「おまえなしでは生きられない。もう二度と、離さない」
「じょう、たろう……ッ」
かくれんぼはおしまいだ。
探し続けることも、待ち続けることも。
雑踏の中でふと足を止め、同じ顔をした人々の群れに鮮やかな赤い髪を探すことも。時がたつほどに嫌でも薄れていく記憶にしがみつくことも。
何もかもに疲れ切っていた。弱い男だと嘲笑われても、承太郎の孤独は花京院でしか埋められない。ならば、いっそ。
「駄目だ」
花京院は弱々しく首を左右に振ると、承太郎の手から逃れるように数歩、後退した。
「一緒にはいけない。ぼくはもう、どこにもいないんだ」
「花京院」
「死んでしまったんだよ。君だって本当は気づいてたんだろう?」
「ああ。どっかではな……ずっと諦めていた」
「ならそれでいいんだよ。君はなにも悪くない。これはぼくの自業自得さ。あの日、つまらない我儘を言って君を困らせた。だからぼくは」
――ここから、どこへもいくことができないんだ。
承太郎は花京院の足元に目をやった。透き通る青い水面に浸された彼の足に、二本の腕が絡みついている。
それは、男の遺体だった。
あの夜着ていた白いワイシャツが、薄汚れてボロボロに朽ちている。袖から覗く手も、顔も、無残に白骨化して原型を留めてはいなかった。
なんておぞましい楔だろうか。この無様で醜い執念が、ここに花京院の魂を縛りつけていた。
「そいつと、落ちたのか」
冷やかな視線で男を見つめながら問えば、花京院は悲しげに睫毛を伏せる。
「そうだよ。あの日、ぼくはこいつから逃れて山に入った。この上の崖っぷちまで追い詰められて……落ちたんだ」
不思議と、承太郎の脳裏にその時の光景が鮮明に映し出された。
息も絶え絶えに崖っぷちまで逃れた花京院と、いやらしい笑みを浮かべる男の姿が。
男は花京院に手を伸ばしたが、彼は必死で抵抗した。力の限り男の腰にしがみついて、やがて態勢を崩した男と、そのまま。
「怖かったよ。諦めてしまおうかとも思った。だけど、君ならどうするだろうって考えたんだ。承太郎なら、きっとこんなやつに屈したりしない。ぼくはいつだって、君と並んで恥ずかしくない人間でありたかった」
その幼い勇気が、強さが悲しくて、承太郎は奥歯を噛み締めながら痛みを堪えた。
細い腕や、小さな膝小僧から血を流し、震えながら逃げ惑う姿が脳裏をよぎる。伸ばしても届かなかった手の先には、思っていた通りの結末が待っていた。
飛び交う蛍の淡い光の中、どこか諦めたように笑う花京院を真っ直ぐに見据える。
こんなときですら強くあろうとしなくていい。囚われて身動きが取れないというのなら。
承太郎は花京院へと一歩踏み出す。彼は身を固くして、僅かに肩を竦めて見せる。その肩を掴み、そして。
「ッ、承太郎……!?」
憎しみの赴くまま、男の亡骸を踏み潰した。
それは驚くほどあっけなく、砂のように崩れ落ちて水の流れと同化した。砕けた骨がざらざらと音をたて、残った衣服もまた流されていく。
花京院はその一瞬の出来事に茫然としていた。その身体を引き寄せて強く抱きしめ、腕の中に閉じ込める。
強く強く抱きしめながら、心が満たされるのを感じた。
初めて言葉を交わした幼い日のように、陰鬱とした穴が陽だまりで溢れかえるような、あの温かさを。
花京院の身体は承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。ようやく取り戻すことができた。ずっとずっと探し求めていた。約束を、果たすことができた。
「てめーはおれを、かいかぶりすぎだぜ。花京院」
「じょう、たろう……」
「言ったはずだ。てめーなしじゃ生きられねえと。おれはこんなにも、弱い男だった」
腕の中で花京院が震えた。嗚咽を堪えるような小さな呻きに、愛しさが募る。
彼は泣き濡れた声で「どうして」と吐き出した。
「ずっと、見ていたんだよ」
「そうか」
「ずっとずっと、ここで見ていたんだ。承太郎がぼくを忘れて、幸せに生きることを願っていた。なのに君は、いつまでたっても忘れちゃくれない」
――だからぼくも、諦めることができなかった。
ああ、そうか。
失くしたままでは生きられなかった。そして、逝くことができなかった。
同じだった。後悔と未練の檻に、二人はずっと閉じ込められたままだった。
承太郎は花京院に、花京院は承太郎に。
別たれた世界で想いの形を鎖に変えて、互いの魂を雁字搦めに縛りつけていた。
ならばもう迷うことはなかった。承太郎は取り戻した。そしてもう二度と離すつもりはない。承太郎の幸福は、ここにしかないのだから。
「おれの幸せを願うなら……もう駄目とは言わせねえぜ。花京院」
――だから、一緒に逝こう。
花京院の唇からついに嗚咽が漏れだした。承太郎の肩に目元を埋めて、引き攣ったように肩を震わせる。
赤い癖毛に頬を埋めながら、些細な口論の末、離れ離れになってしまったあの夜を思い出す。
祭の喧騒と、提灯の光を見上げていた彼は、承太郎が追いかけてくるのを待っていた。死してなお、ずっとずっと待っていた。
承太郎はふと、片手をズボンのポケットに忍ばせた。僅かに身を離し、中から取り出したものを花京院へと差し出す。
「これ、は」
すみれ色の濡れた瞳が見開かれる。チェリーのような形をしたピアスは、幼い彼が欲しがっていたものだった。
くすんでしまった赤が、蛍の光を弾いて輝きを取り戻す。
「受け取ってくれるか。花京院」
白い指先が、小刻みに震えながらピアスに触れる。
10年の歳月を経て、承太郎の想いはようやく報われた。
花京院はそれを握りしめ、口元に押し当てると微笑んだ。愛嬌のある大きめの口で、赤い頬で、幼い頃のまま。
「ぼくはきっと、地獄に落ちるな」
承太郎もまた笑みを浮かべる。
「こんな薄ら寒い場所よりは、幾らかマシかもしれねーぜ」
再び抱き合うと、水面から花弁のように蛍の群れが舞い上がる。
緑色の輝きと澄んだ川のせせらぎに包まれながら、承太郎と花京院は最初で最後の口付けを交わした。
*
安息を求め、飛び込んだ先に。
承太郎の望む世界は確かにあった。
もう羨むことはない。
自ら生を断つ弱さと、強さと、渇きに焦がれることも。
命を手放す最期の瞬間。
海の底を揺蕩うような泡沫に揺れ、ようやく二人、一つになれた。
*
8月某日。
真夏の炎天下の中、蝉時雨のこだまする渓谷の谷底で二つの遺体が見つかった。
一つは大柄な男性のものだった。
それはたった今まで息をしていたかのような瑞々しさで、目を見張るほどの美丈夫だった。
彼は白骨化した、小さな亡骸をその腕に抱いていた。
大切に守るように、包み込むように、労わるように。
原形をとどめていないはずの幼子の表情は、不思議と穏やかに微笑んでいるようにも見えた。その手には、赤いピアスがしっかりと握られていた。
寄り添う二つの亡骸は、美しく、奇妙で、うら悲しく、愛念に満ちていた。
「嫌だねぇ、また身投げかい」
「おかしな死体だってね。新しいのと古いのが抱き合ってるってさ」
「気味が悪いねぇ……」
渓谷にかかる橋には、噂を聞きつけた近隣住民が高みの見物に集まっていた。
警察や消防が遺体の回収作業を行う様をはるか上空から見下ろし、みな一様に奇怪な二つの亡骸に首を傾げる。
誰一人として、その愛の形を知る由はない。
「どっちにしろわからないもんだね、命数尽きないうちに死んじまう奴らの考えなんて」
一台の黒い乗用車が、そんな彼らを冷淡に傍観しながら、走り抜けて行った。
終
生存ルートも読んでみる
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎はその狐の面を、ゆっくりと外した。
そしてふっと、笑みが零れる。
「変わらねえな、てめーは」
大人になった花京院の顔は、記憶の中の面影を十分に残していた。
笑おうとして不器用に震えるだけの唇は大きめで、悲しげに下がる眉の下で揺れる瞳は、すみれの花のように美しい。丸みを失った頬ですら愛おしくて。
手を伸ばし、その頬に触れた。目尻を親指で撫でてやれば、切れ長の瞳に溜まっていた涙が承太郎の手を伝う。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないさ」
「……寂しい思いをさせた。遅くなったが……ようやく見つけたぜ」
長かった。この瞬間をどれほど夢見ていたか知れない。
例えこれが自身の作り上げた幻の世界でも、構わなかった。
花京院はここにいる。今この瞬間、目に見えているもの全てが承太郎にとっての真実だと思える。
「おまえなしでは生きられない。もう二度と、離さない」
「じょう、たろう……ッ」
かくれんぼはおしまいだ。
探し続けることも、待ち続けることも。
雑踏の中でふと足を止め、同じ顔をした人々の群れに鮮やかな赤い髪を探すことも。時がたつほどに嫌でも薄れていく記憶にしがみつくことも。
何もかもに疲れ切っていた。弱い男だと嘲笑われても、承太郎の孤独は花京院でしか埋められない。ならば、いっそ。
「駄目だ」
花京院は弱々しく首を左右に振ると、承太郎の手から逃れるように数歩、後退した。
「一緒にはいけない。ぼくはもう、どこにもいないんだ」
「花京院」
「死んでしまったんだよ。君だって本当は気づいてたんだろう?」
「ああ。どっかではな……ずっと諦めていた」
「ならそれでいいんだよ。君はなにも悪くない。これはぼくの自業自得さ。あの日、つまらない我儘を言って君を困らせた。だからぼくは」
――ここから、どこへもいくことができないんだ。
承太郎は花京院の足元に目をやった。透き通る青い水面に浸された彼の足に、二本の腕が絡みついている。
それは、男の遺体だった。
あの夜着ていた白いワイシャツが、薄汚れてボロボロに朽ちている。袖から覗く手も、顔も、無残に白骨化して原型を留めてはいなかった。
なんておぞましい楔だろうか。この無様で醜い執念が、ここに花京院の魂を縛りつけていた。
「そいつと、落ちたのか」
冷やかな視線で男を見つめながら問えば、花京院は悲しげに睫毛を伏せる。
「そうだよ。あの日、ぼくはこいつから逃れて山に入った。この上の崖っぷちまで追い詰められて……落ちたんだ」
不思議と、承太郎の脳裏にその時の光景が鮮明に映し出された。
息も絶え絶えに崖っぷちまで逃れた花京院と、いやらしい笑みを浮かべる男の姿が。
男は花京院に手を伸ばしたが、彼は必死で抵抗した。力の限り男の腰にしがみついて、やがて態勢を崩した男と、そのまま。
「怖かったよ。諦めてしまおうかとも思った。だけど、君ならどうするだろうって考えたんだ。承太郎なら、きっとこんなやつに屈したりしない。ぼくはいつだって、君と並んで恥ずかしくない人間でありたかった」
その幼い勇気が、強さが悲しくて、承太郎は奥歯を噛み締めながら痛みを堪えた。
細い腕や、小さな膝小僧から血を流し、震えながら逃げ惑う姿が脳裏をよぎる。伸ばしても届かなかった手の先には、思っていた通りの結末が待っていた。
飛び交う蛍の淡い光の中、どこか諦めたように笑う花京院を真っ直ぐに見据える。
こんなときですら強くあろうとしなくていい。囚われて身動きが取れないというのなら。
承太郎は花京院へと一歩踏み出す。彼は身を固くして、僅かに肩を竦めて見せる。その肩を掴み、そして。
「ッ、承太郎……!?」
憎しみの赴くまま、男の亡骸を踏み潰した。
それは驚くほどあっけなく、砂のように崩れ落ちて水の流れと同化した。砕けた骨がざらざらと音をたて、残った衣服もまた流されていく。
花京院はその一瞬の出来事に茫然としていた。その身体を引き寄せて強く抱きしめ、腕の中に閉じ込める。
強く強く抱きしめながら、心が満たされるのを感じた。
初めて言葉を交わした幼い日のように、陰鬱とした穴が陽だまりで溢れかえるような、あの温かさを。
花京院の身体は承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。ようやく取り戻すことができた。ずっとずっと探し求めていた。約束を、果たすことができた。
「てめーはおれを、かいかぶりすぎだぜ。花京院」
「じょう、たろう……」
「言ったはずだ。てめーなしじゃ生きられねえと。おれはこんなにも、弱い男だった」
腕の中で花京院が震えた。嗚咽を堪えるような小さな呻きに、愛しさが募る。
彼は泣き濡れた声で「どうして」と吐き出した。
「ずっと、見ていたんだよ」
「そうか」
「ずっとずっと、ここで見ていたんだ。承太郎がぼくを忘れて、幸せに生きることを願っていた。なのに君は、いつまでたっても忘れちゃくれない」
――だからぼくも、諦めることができなかった。
ああ、そうか。
失くしたままでは生きられなかった。そして、逝くことができなかった。
同じだった。後悔と未練の檻に、二人はずっと閉じ込められたままだった。
承太郎は花京院に、花京院は承太郎に。
別たれた世界で想いの形を鎖に変えて、互いの魂を雁字搦めに縛りつけていた。
ならばもう迷うことはなかった。承太郎は取り戻した。そしてもう二度と離すつもりはない。承太郎の幸福は、ここにしかないのだから。
「おれの幸せを願うなら……もう駄目とは言わせねえぜ。花京院」
――だから、一緒に逝こう。
花京院の唇からついに嗚咽が漏れだした。承太郎の肩に目元を埋めて、引き攣ったように肩を震わせる。
赤い癖毛に頬を埋めながら、些細な口論の末、離れ離れになってしまったあの夜を思い出す。
祭の喧騒と、提灯の光を見上げていた彼は、承太郎が追いかけてくるのを待っていた。死してなお、ずっとずっと待っていた。
承太郎はふと、片手をズボンのポケットに忍ばせた。僅かに身を離し、中から取り出したものを花京院へと差し出す。
「これ、は」
すみれ色の濡れた瞳が見開かれる。チェリーのような形をしたピアスは、幼い彼が欲しがっていたものだった。
くすんでしまった赤が、蛍の光を弾いて輝きを取り戻す。
「受け取ってくれるか。花京院」
白い指先が、小刻みに震えながらピアスに触れる。
10年の歳月を経て、承太郎の想いはようやく報われた。
花京院はそれを握りしめ、口元に押し当てると微笑んだ。愛嬌のある大きめの口で、赤い頬で、幼い頃のまま。
「ぼくはきっと、地獄に落ちるな」
承太郎もまた笑みを浮かべる。
「こんな薄ら寒い場所よりは、幾らかマシかもしれねーぜ」
再び抱き合うと、水面から花弁のように蛍の群れが舞い上がる。
緑色の輝きと澄んだ川のせせらぎに包まれながら、承太郎と花京院は最初で最後の口付けを交わした。
*
安息を求め、飛び込んだ先に。
承太郎の望む世界は確かにあった。
もう羨むことはない。
自ら生を断つ弱さと、強さと、渇きに焦がれることも。
命を手放す最期の瞬間。
海の底を揺蕩うような泡沫に揺れ、ようやく二人、一つになれた。
*
8月某日。
真夏の炎天下の中、蝉時雨のこだまする渓谷の谷底で二つの遺体が見つかった。
一つは大柄な男性のものだった。
それはたった今まで息をしていたかのような瑞々しさで、目を見張るほどの美丈夫だった。
彼は白骨化した、小さな亡骸をその腕に抱いていた。
大切に守るように、包み込むように、労わるように。
原形をとどめていないはずの幼子の表情は、不思議と穏やかに微笑んでいるようにも見えた。その手には、赤いピアスがしっかりと握られていた。
寄り添う二つの亡骸は、美しく、奇妙で、うら悲しく、愛念に満ちていた。
「嫌だねぇ、また身投げかい」
「おかしな死体だってね。新しいのと古いのが抱き合ってるってさ」
「気味が悪いねぇ……」
渓谷にかかる橋には、噂を聞きつけた近隣住民が高みの見物に集まっていた。
警察や消防が遺体の回収作業を行う様をはるか上空から見下ろし、みな一様に奇怪な二つの亡骸に首を傾げる。
誰一人として、その愛の形を知る由はない。
「どっちにしろわからないもんだね、命数尽きないうちに死んじまう奴らの考えなんて」
一台の黒い乗用車が、そんな彼らを冷淡に傍観しながら、走り抜けて行った。
終
生存ルートも読んでみる
←戻る ・ Wavebox👏
※生存ルート。
承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
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承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
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5・宵花ノ行方
暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
←戻る
暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
←戻る
真っ暗な部屋の中、目の前には重々しい木の扉がある。
ファイはそれをどうしても開ける気になれない。
いや、むしろ開けてはいけないのだと、この場所から動くべきではないのだと。
その理由はどうしても分からない。ただ漠然とそう感じる。
なのに、夢の中の自分は意思とは裏腹に迷うことなくドアノブに手を伸ばす。駄目だと叫びたくとも声が出ず、自分自身をコントロールすることが出来ない。
そして、容赦なく扉は開かれる。
中に入るとまた、同じ扉がある。その先も、そのまた先も、ずっとそれは続く。
そんなことを繰り返す度に、何かとても大切なものがポケットから一つ一つ零れていくような気がした。
もう行きたくない。
これ以上、何も失くしたくない。
引き返すことが出来ないなら、せめてここで立ち止まりたかった。
何を失くしてしまったのかさえ分からないのに。
やがて、「行くな」という声が背後から聞こえて来る。
その声はどんどん迫って来るのに、追いついてきてはくれない。
彼が近づくほどに、ファイはそれを凌ぐ速さでさらに扉を開き続ける。
そうしているうちに、大きな背中が見えて来る。
行くな、行くなと叫びながら、彼はどんどん先を行く。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
追っているのか、追われているのか、分からなくなる。
ただ一つ分かるのは、同じ扉を2人同時には、決してくぐれないということだけだった。
+++
目が覚めると、知らない部屋にいた。
カーテンの隙間から零れる光と鳥の囀りだけで、今が朝だという情報を得る。
視界がぼやけて仕方がないのは、自分が泣きながら目を覚ましたからだと気づいて、指先で目尻を拭う。
起き上がって、全く見ず知らずの部屋の中をぐるりと見回した。
畳みと、木の香りがする家の中には誰もいない。
頭の中がはっきりせず、ふわふわと宙に浮いているような気がする。
「……昨日、どうしたっけ」
思い出そうとしても、何も思い出せない。
ただ自然と、ファイは自分でも知らず知らずのうちに枕元に手を伸ばしていた。
白い大きな画用紙を手にして、少し驚く。身体が勝手に、まるで習慣のように動いてしまったから。
画用紙には黒いペンで、幾つかの事柄が箇条書きに記してあった。
この美しい字を、ファイはよく知っている。
黒鋼の字だ。
それだけで、少しほっとした。
けれど内容は、俄かには信じられないものだった。
2年前の夏に事故に遭い、記憶障害を患った自分が、仕事はおろか日常生活を送るのもままならない状態に陥ったこと。
毎朝のように記憶がリセットされるため、前日のことすら覚えていられないこと。
黒鋼とこの家に移り住んだのが1年以上も前だということ。
2人の左手には同じ指輪がはめられていること。
自分が庭の畑仕事に毎日勤しんでいること。日記をつけていること。
目が覚めて隣に黒鋼がいないときは、夜勤のため家を開けていること。
このメモを読んだら、すぐに隣の部屋のホワイトボードをチェックすること。
「そんな……こんなことって……」
信じられない。
でも、信じるしかない。
この字は紛れもなく黒鋼の字だし、これが事実でなければ今のこの状況は説明しようがない。
ファイは開け放たれた襖の向こうに視線を走らせた。
最低限の家具しかない質素な居間では、古い柱時計が時を刻む音が微かに鳴り響く。
開け放たれた出入り口には藍色の涼しげな麻暖簾がかかり、そのすぐ脇には背の低い茶箪笥がある。ちょうどその上の壁に面した位置に、白いボードが確かに見えた。
指示通りにそれを確認してみるため、のろのろと腰を上げようとしたその時、ファイの視界の隅に赤い何かが映った。
「日記……そうか、これが日記だ」
手を伸ばし赤い日記帳を開くと、確かにそこには自分の字がぎっしりと書き綴られていた。
最後に書かれているのは、おそらく昨日の日付。
ファイはそれを指先でなぞりながら、声に出して読んでみた。
「明日の、オレへ……」
『目が覚めて、何も思い出せなくても、大丈夫。
画用紙のメモは見た?
黒たんが、大事なことはちゃんと書いてくれている。
朝目が覚めると、オレは今の君と同じで記憶を失っていた。
信じられる?
オレは春にお花見をしていたはずなのに。
知らない家の知らない庭に、向日葵が咲いてるんだもの。
畑の作物や花は、昨日までのオレが育てたものだって。
今日はナスビと、赤シソを収穫したよ。
ナスビは漬物にして、シソは塩漬けの梅干しと一緒にしてあるから、冷蔵庫の中を見てごらん。
オクラが大きくなりすぎないように、もしよさそうだったら収穫しようね。
*
明日のオレに、お願いが一つ。
どうか落ち着いて、黒たんを困らせないで。
あの人は優しいから、痛いも苦しいも絶対に言わない。
君はオレだよ。ちゃんと一人の同じ人間だよ。
昨日のオレも、今日のオレも、明日のオレも、ずっとずっと一緒だから。
どんなに不安でも、怖くても、あの人の側にいてあげて。
あの人を一人にしないであげて。
大丈夫。大切なものは、きっとずっと失くさない。
オレは彼を、心から』
「愛しているから……」
閉じた日記帳を胸に抱いて、ファイは溢れる涙を抑えることが出来なかった。
黒鋼はどんな思いで、いつもこんな自分の側にいてくれるのだろう。
夢の中、幾つもの扉を開きながら零していたのは、彼と紡いでいたはずの日々の記憶だったのか。
決して届かない背に「行くな」と叫びながら、彼は必死でファイの落とした欠片を拾い集めている。
返す場所などないのに、それでも一つ一つ拾い上げて、自分の胸の中にだけ大切に積み重ねているのだ。
それを思うだけでこんなにも苦しいのに、今この瞬間、胸の中を満たしているこの感情すら、明日の自分は忘れているのか。
でも、だとしても。
ファイは子供のように手の甲で両目を拭うと、立ち上がって居間のボードへ向かった。
日記にあった通り、前日収穫したものや黒鋼の帰宅時間、職場の連絡先などがマジックで書かれている。
時計を見るとそろそろ8時を回る頃。
このメモ書き通りなら、もうすぐ彼が帰って来るはずだった。
「大丈夫」
呟きは、日記を記した昨日の自分へ。
大切なものは確かに胸の中、いっぱいに詰まっているから。
今日の自分は、明日の自分に繋ぐため。
よし、という掛け声を放ち、ファイは窓辺に歩み寄ると両開きのカーテンを勢いよく開く。
夏の日差しが部屋中に差し込んで、窓を開ければ夏の虫がいっせいに鳴きだした。
今日は暑い日になる。
きっと昨日も、そうだったように。
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