白猫、懐いてみるの巻
それから半月ほどがあっという間に経過していた。
ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。
今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。
日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。
男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。
まず男の名前は黒鋼。
見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。
黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。
ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。
そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。
もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。
彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。
天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。
そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。
外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。
最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。
車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。
そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。
割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。
+++
猫は基本的に夜行性らしい。
だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。
だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。
と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。
だから夜は寝る。
黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。
逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。
今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。
ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。
「黒たん、寝たのー?」
テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。
基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。
そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。
だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。
猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。
なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。
「黒たーん」
横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。
近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。
ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。
黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。
黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。
せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが)
いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。
だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。
「あー、なんだおまえ……」
ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。
「にゃ!」
そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。
黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。
彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。
香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。
身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。
やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。
+++
朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。
「おはよー」
背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。
彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。
けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。
(見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!)
どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。
「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」
「にゃ?」
「ここはペット禁止だからな……」
「にゃん? おーやってなぁに?」
黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。
「なにか悩んでるのー?」
「……色々あたってみるか」
「にゃー?」
ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。
難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。
「にゃー!」
「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」
「?」
「腹減ったか?」
「にゃん!」
黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。
←戻る ・ 次へ→
それから半月ほどがあっという間に経過していた。
ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。
今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。
日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。
男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。
まず男の名前は黒鋼。
見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。
黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。
ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。
そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。
もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。
彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。
天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。
そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。
外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。
最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。
車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。
そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。
割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。
+++
猫は基本的に夜行性らしい。
だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。
だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。
と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。
だから夜は寝る。
黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。
逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。
今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。
ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。
「黒たん、寝たのー?」
テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。
基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。
そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。
だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。
猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。
なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。
「黒たーん」
横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。
近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。
ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。
黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。
黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。
せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが)
いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。
だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。
「あー、なんだおまえ……」
ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。
「にゃ!」
そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。
黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。
彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。
香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。
身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。
やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。
+++
朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。
「おはよー」
背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。
彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。
けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。
(見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!)
どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。
「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」
「にゃ?」
「ここはペット禁止だからな……」
「にゃん? おーやってなぁに?」
黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。
「なにか悩んでるのー?」
「……色々あたってみるか」
「にゃー?」
ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。
難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。
「にゃー!」
「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」
「?」
「腹減ったか?」
「にゃん!」
黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。
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白猫、やくざのような人に拾われるの巻
知らない匂いがして、ファイはぽっかりと目を開けた。
「……?」
目の前には薄茶色の毛布がある。
どうやら自分はそれに包まれて眠っていたらしかった。
知らない匂いはこの場所全体に充満していて、ファイは寝転がったまま顔だけを上げて辺りを見回してみた。
見たことのない部屋。狭くて、そして誰もいない。
窓には青い布がかかっていた。その隙間から白い光が漏れていて、夜が終わったことを知った。
「ここ、天国?」
毛布の中から抜け出すようにして身体を起こし、ちょこんと座った。
家具の少ない部屋は殺風景で、天国にしては地味な場所だと思う。しかも、毛布から出ると肌寒い。
けれど自分の身体に巻かれている包帯を見て、全体的に身体が楽になっていることに気付くと、やっぱりここは天国かもしれないと思った。
お腹は空いているけれど、あの鉛のような疲れは消えている。足取りも軽くて、ファイは誰もいないのをいいことに、部屋の中をぐるりと一周した。
窓辺にジャンプして乗り上がると、外の景色を見てみる。
そして、目を丸くした。
「にゃにこれ……!」
一瞬、雲の上にいるのかと思った。
窓の外は綿飴がかぶさったかのような、一面真っ白の世界になっていた。
(これ、雪だ! 本で読んだことある!)
思わず閉め切られている窓にぺたりと肉球をくっつける。ヒヤリとしたが、そんなものを気にする余裕もなく、ファイはただその光景に見とれた。
それから思い出したように空を見ると、太陽が真上にある。雨は雪へと変わったあとに、上がったらしい。
「ここ、どこにゃんだろう……」
綿飴に見とれて暫し忘れていたが、自分がまだ人間の世界にいるということがわかったファイは、再び不安に襲われた。
そのとき、背後で扉が開く音がした。
「ギャ!?」
驚いたファイは飛び上がって、そして床に落ちた。
「なんだ。元気じゃねぇか」
初めて聞く声。
落ちたことで傷に響いたファイは、涙ぐみながら声の方を見上げた。
そして知った。
ここは天国ではない。地獄だと……。
「ッ!?」
そこにはとんでもない大男がいた。
全体的に黒いその人は、あの怒鳴り声を上げていたオッサンよりも、ずっと怖い顔だった。逆立てた毛で身体を膨らませながら、石のように固まったファイを、ぎろりと見下ろしてくる。
あの子供達なんて、見た目が可愛いぶんずっとマシだと思った。
喰われる。確実に。
「まだじっとしてろよ。たく、動物病院なんぞ初めて行ったぞ俺は」
給料日前だってのに……と、男は愚痴りながら手に持っていた白い袋をテーブルの上に置くと、中を漁り始めた。
ファイは彼がそれに気を取られている間にと、どこか身を隠す場所を探すことにする。
どこでもいいから、身体を押し込められる場所が欲しかった。
「うろちょろすんじゃねぇぞ」
ビクッ……と身体を震わせながらも、壁沿いを挙動不審なまま歩く。
けれどこの部屋は家具が少ないし、テーブルの下などいいかもしれなかったが、男が側にいる。四面楚歌だった。
そのとき、ユゥイの言葉を思い出した。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
※エコー
「小さくて可愛いオレ、捕まったーーーー!!!」
「うるせぇ! ここ動物禁止だぞ!!」
「こわーぁいぃうわあぁぁぁ……!!」
※ファイの言葉は相手に通じてません。
「あー、ったく……おら、これでも食ってろ!」
半狂乱状態だったファイの側に、ポンと何かが放られた。
咄嗟に見ると、それは……カニカマだった。
「!?」
カニカマはファイの大好物だ。
よくユゥイがおやつの時間にくれていたので、カニカマは異世界共通なのかと驚いた。
男はテーブルの側にどっかりとあぐらをかき、腕を組んでこちらを観察している。その居心地の悪さと恐ろしさに戸惑ったが、腹の虫が騒いでいた。
「…………ぺろっ」
ついにファイは欲望に負けた。
カニカマをひと舐めすると、そこには幸せの味が……。
「ウミャーッウミャーッ」
いっそ泣けてくるほど美味しくて、ファイは夢中で食べた。夢中になりすぎてちょっとむせた。
「ゆっくり食え。おら」
食べ終える頃、もう一本のカニカマが投げられた。目を輝かせてそれをハグハグした。
それからもう何本か寄こされたものを食べて、ファイの腹はようやく満ちた。
「美味しかったー!」
「満足したか?」
「したー! ありがとうー!」
なんだ、この人は顔が怖いだけでいい人じゃないか……とファイは思った。
ユゥイなんかあんな優しい顔をして口を開けば小言ばかりだし、実験に夢中で遊んでくれないし……と、あれだけ恋しかったのが嘘のように不満が復活する。
ひとまず、人は見かけによらないということを学んだような気がした。
そしてようやくまともな人間に出会えたことも嬉しかった。(顔は怖いけど)
それでもまだ完全に警戒心は解けていない。ファイは常に相手に注意を払いながらも、部屋の中を再び散策しはじめる。
所々、興味深げに匂いを嗅いだりしてウロウロした。
大男は特に気にした風もなく、自分も袋から取り出した弁当を食べ始めた。
狭い部屋だけど、やたら広いよりずっと落ち着く。一通り匂いを確かめると、ファイは部屋の片隅の毛布に戻った。
腹が膨れて、適度に歩きまわったら少し眠くなってきた。
もぞもぞと薄茶色の毛布の中に潜り込むと、丸くなってふぅと息をついた。
これからどうなるか分からないし、ここにいつまでいることになるかも分からないけれど、ひとまずは最悪の事態から抜け出すことが出来た気がする。
もう少し休ませてもらったら改めてスタート地点を探すことにして、今は眠ろう。
目を閉じると、ものの数秒も経たないでファイは眠りに落ちた。
+++
何か大きなものに、身体を撫でられる感覚があった。
まどろみの中、その触れかたの不器用さに、ファイはこれがユゥイではないことを知る。
下手くそな撫で方。ぜんぜん気持ちよくなんてない。
少し遠慮がちで、怖々としているようにも感じられた。
それでも温かくて、ファイは無意識に喉を鳴らした。
+++
忙しないほどではないけれど、ゴソゴソと動く気配がして、ファイは目を覚ました。
毛布から顔だけちょこんと出して見れば、天井に明かりが灯っている。寝ている間に、また夜になっていたらしい。
大きな男の人は着替えをして、出かける準備をしているようだった。あらかた終えると、彼はこちらを見た。
「留守番できるな? おとなしくしてろよ」
まだぼんやりしているファイを見て、怖い顔で少しだけ笑うと彼は出て行ってしまった。
ぽつんと残されてから、ファイは毛布から抜けだした。
ひとつ欠伸をして、それからふと食べ物と水が器に用意されているのを見る。ありがたかったけれど、一抹の寂しさを拭えなかった。
「ミャー……」
狭い狭いと思っていた部屋だが、見慣れてしまうとなんだか広く感じられて、ファイは寂しく鳴き声を上げた。
←戻る ・ 次へ→
知らない匂いがして、ファイはぽっかりと目を開けた。
「……?」
目の前には薄茶色の毛布がある。
どうやら自分はそれに包まれて眠っていたらしかった。
知らない匂いはこの場所全体に充満していて、ファイは寝転がったまま顔だけを上げて辺りを見回してみた。
見たことのない部屋。狭くて、そして誰もいない。
窓には青い布がかかっていた。その隙間から白い光が漏れていて、夜が終わったことを知った。
「ここ、天国?」
毛布の中から抜け出すようにして身体を起こし、ちょこんと座った。
家具の少ない部屋は殺風景で、天国にしては地味な場所だと思う。しかも、毛布から出ると肌寒い。
けれど自分の身体に巻かれている包帯を見て、全体的に身体が楽になっていることに気付くと、やっぱりここは天国かもしれないと思った。
お腹は空いているけれど、あの鉛のような疲れは消えている。足取りも軽くて、ファイは誰もいないのをいいことに、部屋の中をぐるりと一周した。
窓辺にジャンプして乗り上がると、外の景色を見てみる。
そして、目を丸くした。
「にゃにこれ……!」
一瞬、雲の上にいるのかと思った。
窓の外は綿飴がかぶさったかのような、一面真っ白の世界になっていた。
(これ、雪だ! 本で読んだことある!)
思わず閉め切られている窓にぺたりと肉球をくっつける。ヒヤリとしたが、そんなものを気にする余裕もなく、ファイはただその光景に見とれた。
それから思い出したように空を見ると、太陽が真上にある。雨は雪へと変わったあとに、上がったらしい。
「ここ、どこにゃんだろう……」
綿飴に見とれて暫し忘れていたが、自分がまだ人間の世界にいるということがわかったファイは、再び不安に襲われた。
そのとき、背後で扉が開く音がした。
「ギャ!?」
驚いたファイは飛び上がって、そして床に落ちた。
「なんだ。元気じゃねぇか」
初めて聞く声。
落ちたことで傷に響いたファイは、涙ぐみながら声の方を見上げた。
そして知った。
ここは天国ではない。地獄だと……。
「ッ!?」
そこにはとんでもない大男がいた。
全体的に黒いその人は、あの怒鳴り声を上げていたオッサンよりも、ずっと怖い顔だった。逆立てた毛で身体を膨らませながら、石のように固まったファイを、ぎろりと見下ろしてくる。
あの子供達なんて、見た目が可愛いぶんずっとマシだと思った。
喰われる。確実に。
「まだじっとしてろよ。たく、動物病院なんぞ初めて行ったぞ俺は」
給料日前だってのに……と、男は愚痴りながら手に持っていた白い袋をテーブルの上に置くと、中を漁り始めた。
ファイは彼がそれに気を取られている間にと、どこか身を隠す場所を探すことにする。
どこでもいいから、身体を押し込められる場所が欲しかった。
「うろちょろすんじゃねぇぞ」
ビクッ……と身体を震わせながらも、壁沿いを挙動不審なまま歩く。
けれどこの部屋は家具が少ないし、テーブルの下などいいかもしれなかったが、男が側にいる。四面楚歌だった。
そのとき、ユゥイの言葉を思い出した。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
※エコー
「小さくて可愛いオレ、捕まったーーーー!!!」
「うるせぇ! ここ動物禁止だぞ!!」
「こわーぁいぃうわあぁぁぁ……!!」
※ファイの言葉は相手に通じてません。
「あー、ったく……おら、これでも食ってろ!」
半狂乱状態だったファイの側に、ポンと何かが放られた。
咄嗟に見ると、それは……カニカマだった。
「!?」
カニカマはファイの大好物だ。
よくユゥイがおやつの時間にくれていたので、カニカマは異世界共通なのかと驚いた。
男はテーブルの側にどっかりとあぐらをかき、腕を組んでこちらを観察している。その居心地の悪さと恐ろしさに戸惑ったが、腹の虫が騒いでいた。
「…………ぺろっ」
ついにファイは欲望に負けた。
カニカマをひと舐めすると、そこには幸せの味が……。
「ウミャーッウミャーッ」
いっそ泣けてくるほど美味しくて、ファイは夢中で食べた。夢中になりすぎてちょっとむせた。
「ゆっくり食え。おら」
食べ終える頃、もう一本のカニカマが投げられた。目を輝かせてそれをハグハグした。
それからもう何本か寄こされたものを食べて、ファイの腹はようやく満ちた。
「美味しかったー!」
「満足したか?」
「したー! ありがとうー!」
なんだ、この人は顔が怖いだけでいい人じゃないか……とファイは思った。
ユゥイなんかあんな優しい顔をして口を開けば小言ばかりだし、実験に夢中で遊んでくれないし……と、あれだけ恋しかったのが嘘のように不満が復活する。
ひとまず、人は見かけによらないということを学んだような気がした。
そしてようやくまともな人間に出会えたことも嬉しかった。(顔は怖いけど)
それでもまだ完全に警戒心は解けていない。ファイは常に相手に注意を払いながらも、部屋の中を再び散策しはじめる。
所々、興味深げに匂いを嗅いだりしてウロウロした。
大男は特に気にした風もなく、自分も袋から取り出した弁当を食べ始めた。
狭い部屋だけど、やたら広いよりずっと落ち着く。一通り匂いを確かめると、ファイは部屋の片隅の毛布に戻った。
腹が膨れて、適度に歩きまわったら少し眠くなってきた。
もぞもぞと薄茶色の毛布の中に潜り込むと、丸くなってふぅと息をついた。
これからどうなるか分からないし、ここにいつまでいることになるかも分からないけれど、ひとまずは最悪の事態から抜け出すことが出来た気がする。
もう少し休ませてもらったら改めてスタート地点を探すことにして、今は眠ろう。
目を閉じると、ものの数秒も経たないでファイは眠りに落ちた。
+++
何か大きなものに、身体を撫でられる感覚があった。
まどろみの中、その触れかたの不器用さに、ファイはこれがユゥイではないことを知る。
下手くそな撫で方。ぜんぜん気持ちよくなんてない。
少し遠慮がちで、怖々としているようにも感じられた。
それでも温かくて、ファイは無意識に喉を鳴らした。
+++
忙しないほどではないけれど、ゴソゴソと動く気配がして、ファイは目を覚ました。
毛布から顔だけちょこんと出して見れば、天井に明かりが灯っている。寝ている間に、また夜になっていたらしい。
大きな男の人は着替えをして、出かける準備をしているようだった。あらかた終えると、彼はこちらを見た。
「留守番できるな? おとなしくしてろよ」
まだぼんやりしているファイを見て、怖い顔で少しだけ笑うと彼は出て行ってしまった。
ぽつんと残されてから、ファイは毛布から抜けだした。
ひとつ欠伸をして、それからふと食べ物と水が器に用意されているのを見る。ありがたかったけれど、一抹の寂しさを拭えなかった。
「ミャー……」
狭い狭いと思っていた部屋だが、見慣れてしまうとなんだか広く感じられて、ファイは寂しく鳴き声を上げた。
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白猫、散々な目に遭うの巻
その後どうなったかというと、非戦闘タイプが毛を纏って歩いているようなファイなど、アッサリとっ捕まった。そしてボッコボコにされた。
「酷い目に……あった……」
体中を噛み痕や引っかき傷でボロボロにしながら、よろよろと歩き続けて、やがて石の地面が土の地面になったことに気がつく。
辺りを見回すと、どことなく懐かしいような光景に出くわした。
カラフルで見たことのない遊具が所せましと並び、芝生や草木、池のようなもの(噴水)もあった。故郷に少し似ていて、ファイは少しほっとした。
すると途端に疲れが押し寄せて、その場にへたり込んでしまった。
ここが安全な場所かは分からないけれど、土や草の香りがとても安心できる。ほんの少しだけ、休みたかった。
「あー、にゃんちゃんだー」
が、そこに甲高い声がしてハッとした。
見上げれば目の前に小さな人間がしゃがみ込んでいた。
「!?」
「にゃんちゃんおケガしてるの?」
くるんと大きな目をした子供は、物珍しそうにファイを見つめる。
この短期間で酷い目にばかり遭っていたファイは咄嗟に逃げだそうとしたが、身体を起こす前に抱き上げられてしまった。
「ニャーッ」
「にゃんちゃんかわいいー! みんなー! こっちきてー!」
傷だらけの身体を強引に抱き上げられて、ファイは暴れた。
頼りない力で両腕だけを掴まれ、宙に浮かされた状態はとんでもなく恐ろしい。けれど容赦なく、他の子供達も集まって来た。
「猫だ猫だー!」
「あたしにもだっこさしてー!」
「しっぽなげぇー!」
それからファイはオモチャになった。
ヒゲも数本抜かれたし、毛もブチブチ抜かれて、尻尾まで抜かれそうになった。
子供達にしてみれば可愛がっているつもりかもしれないが、猫にとっては迷惑この上ない。
力加減を知らない彼らはファイがギャーギャーと声を嗄らして鳴いたとしても、お構いなしだった。
やがて……。
「もう帰るわよー!」
女の人の声がした。すると子供達はファイを置き去りにして、わらわらと蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
ボロ雑巾のようになったファイは、夕暮れの公園でしくしくと泣いた。泣きながら、力の入らない身体でドーム状の大きな遊具の下に入った。
猫の国には、小さな猫型ドームがたくさんあった。中にはふわふわのクッションがたくさんあって、そこで昼寝をすると最高だった。
けれどこのただっ広いドームはファイの知らない、鼻の長い動物の形をしていた。中は真っ暗で、冷たい土から雑草だけが生えている。
それでもようやく一人になれる空間を見つけられたことに、心底ほっとした。
まだ人間の世界に来て間もないというのに、ファイは一気にホームシックにかかってしまった。
こんなことなら、変なやる気など起こさなければよかった。
人間の世界は広大で、たくさんの生き物がいる。とても便利で豊かそうに見えるけれど、その分とんでもなく危険に溢れていると思った。
温室のような暖かな場所でだけ生きて来たファイにとって、ここは夢の世界ではなく、地獄に等しかった。
あの退屈は、何より幸福なことだったのかもしれない……。
「ユゥイ……怒ってるかにゃ……」
あれだけダメだと言われていたのに、ファイは自分の中の遅い反抗期を恨んだ。
人間はみんなユゥイと同じ姿をして、ユゥイと同じように優しい人たちばかりだと思っていたのに。
蓋を開けてみればみんな姿形はバラバラで、恐ろしい機械をぶっ飛ばして怒鳴る人もいるし、子供達はまるで鬼の子だった。
同じ種族を見つけたと思えば縄張りという厳しいルールの中を生きていて、自分はそこを踏み荒らす悪猫になってしまった。
ドームの中はさらに暗くなった。人間の世界には朝と昼と夜がある。夜になると気温が下がって、どんどん寒くなるのだ。
夕暮れなんて初めての経験だけど、ファイはそれに感激する余裕などなかった。
いつしか完全に陽が落ちて、夜が来たことを知った。
本来猫は夜目がきくけれど、一人ぼっちでこんな暗い場所にいたことなどなかったファイは、不安に押し潰されそうになる。
だんだんお腹も空いてきて、いよいよ帰ろうと思った。
やっぱりここには来てはいけなかったのだ。きっともっと想像もできないような危険なことが、たくさんあるに違いない。
徐々に冷え込んでいく空気に、自分が生きるには過酷すぎる環境なのだと思い知る。
ファイはボロボロの身体で力を振り絞った。
元来た場所に戻れば、そこに空間の歪があるだろう。飛び込めばきっと帰れるはずだ。
またあの大きな猫に見つかるかもしれないと怯えながら、へっぴり腰で辺りを注意深く見回してドームから出た。
土の地面が終ると、再び石の冷たい地面の上を塀沿いに歩く。
途中で人間やあの恐ろしい乗り物とすれ違ったが、ファイはその度に見つからないように暗闇の中で身を縮込ませた。
それからどれくらい歩いただろう。同じような道や景色ばかりが続くだけで、歪みはどこにも見つけられない。
そこでファイはようやく気付いた。
「……オレ、どこから来たんだっけ?」
スタート地点が分からない。がむしゃらに逃げ回って、結果、どこから来たのか分からなくなってしまったのだ。
ガーン……という古典的な音が頭の中で鳴り響いた。
スタート地点が分からない。
↓
元の世界への出入り口が見つけられない。
↓
帰れない。←イマココ
「ミャー……」
やりきれない思いで、ファイは鳴いた。ミャーミャーと、悲しそうな声で。
帰れない。帰り道がわからない。お腹もすいて、身体はボロボロで、疲れきっていて、怖くて不安で、寂しくて。
しかし無情にも誰も助けてなどくれなくて、やがて喉が嗄れた。
「うぅ……グス……」
涙がポロリと零れる。だが最悪な事態はまだ続く。
――ポツリ。
「!」
鼻先に、水が落ちて来た。
なんだろうと思う間もなく、ぽつぽつとその小さな水がたくさん降りだした。
「これ……雨……?」
ユゥイが言っていた。人間の世界は季節や気温や天気がコロコロ変わると。
冷たい雨はあっという間に雨足を強めて、ファイは毛が水浸しになることへの嫌悪感から焦りを覚えた。
ファイは咄嗟に走り出した。さっきまでいた公園に帰るつもりでいたのだが、なんとそこでまた、道がわからなくなった。
ここにきて新事実。ファイは方向音痴だった……。
「どうしてこんなに道がカクカクしてるの……? 曲がるとこいっぱいで、もうわかんにゃいよっ」
疲れはピークに達していたけれど、このままいればまたどんな危険と遭遇するかわからなかったファイは、じっとしているよりはましと、また歩き出した。
同じような場所をグルグル回っているような気がしながらも、いよいよ本降りの雨の中をびしゃびしゃになりながらも歩いた。
すると、これまで歩いていた道の倍以上もある広い道に突き当たった。人通りも多くて、あの怖い乗り物がたくさん走っている。
けれど光がたくさん溢れていて、何より美味しそうな匂いがどこかから漂ってくる。
恐ろしかったが、空腹がそれを押しのけた。
匂いのする方へ、思い切って一歩踏み出してみる。すると、あの乗り物はこちら側へは来ないことが分かった。
何かは分からないが、ドーム状の薄い布が張り巡らされたもので雨を遮る人間が、たくさん歩いている。しかしみんなファイに気付かないか、気付いても知らんぷりをした。
人間の歩く専用の道は安全で、人間の中にも無関心なものが多くいることが分かった。
ファイはそれでもビクビクしながら、道の端っこを歩いた。
やがて細くて暗い曲がり角を見つけた。たくさんの場所からいい香りがしていたけれど、ファイはその裏道に入った。
表の通りとは違って、暗くて狭い。けれどこの奥からも美味しい匂いがしている。
「ごはんたべたい……」
あとはこの雨をしのぐ場所があれば尚いい。この際ポカポカの毛布やクッションも欲しいなんて贅沢は言わない。
寒さと空腹、疲労や傷の痛みが、今にも擦り切れそうなファイの精神力をさらに削っていく。
意識が朦朧としながらも、やがて袋小路に突き当たる。そこには大きなゴミ箱がたくさんあって、扉もあった。
その扉から微かな光が漏れていて、賑やかな人の声がした。
ファイは幾つもある大きなゴミ箱に目をやった。
「……」
この中から、食べ物の匂いがする。
美味しそうな匂いだけれど、少し生臭いような嫌な臭いもして、とてもではないが漁る気にはなれない。
もう終わりだと、ファイは思った。これは言いつけを破って一人で飛び出してしまったことへの、神様からの罰だと。
出来ることなら家に帰りたい。温かくていい香りのする、ユゥイの腕の中で思い切り甘えたかった。
「ユゥイ……」
雨の降りしきる中へたり込んで、涙も声も嗄れていたファイは目を閉じた。
扉が開くような音が聞こえたけれど、それを確かめるだけの力はもう、残されていなかった。
←戻る ・ 次へ→
その後どうなったかというと、非戦闘タイプが毛を纏って歩いているようなファイなど、アッサリとっ捕まった。そしてボッコボコにされた。
「酷い目に……あった……」
体中を噛み痕や引っかき傷でボロボロにしながら、よろよろと歩き続けて、やがて石の地面が土の地面になったことに気がつく。
辺りを見回すと、どことなく懐かしいような光景に出くわした。
カラフルで見たことのない遊具が所せましと並び、芝生や草木、池のようなもの(噴水)もあった。故郷に少し似ていて、ファイは少しほっとした。
すると途端に疲れが押し寄せて、その場にへたり込んでしまった。
ここが安全な場所かは分からないけれど、土や草の香りがとても安心できる。ほんの少しだけ、休みたかった。
「あー、にゃんちゃんだー」
が、そこに甲高い声がしてハッとした。
見上げれば目の前に小さな人間がしゃがみ込んでいた。
「!?」
「にゃんちゃんおケガしてるの?」
くるんと大きな目をした子供は、物珍しそうにファイを見つめる。
この短期間で酷い目にばかり遭っていたファイは咄嗟に逃げだそうとしたが、身体を起こす前に抱き上げられてしまった。
「ニャーッ」
「にゃんちゃんかわいいー! みんなー! こっちきてー!」
傷だらけの身体を強引に抱き上げられて、ファイは暴れた。
頼りない力で両腕だけを掴まれ、宙に浮かされた状態はとんでもなく恐ろしい。けれど容赦なく、他の子供達も集まって来た。
「猫だ猫だー!」
「あたしにもだっこさしてー!」
「しっぽなげぇー!」
それからファイはオモチャになった。
ヒゲも数本抜かれたし、毛もブチブチ抜かれて、尻尾まで抜かれそうになった。
子供達にしてみれば可愛がっているつもりかもしれないが、猫にとっては迷惑この上ない。
力加減を知らない彼らはファイがギャーギャーと声を嗄らして鳴いたとしても、お構いなしだった。
やがて……。
「もう帰るわよー!」
女の人の声がした。すると子供達はファイを置き去りにして、わらわらと蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
ボロ雑巾のようになったファイは、夕暮れの公園でしくしくと泣いた。泣きながら、力の入らない身体でドーム状の大きな遊具の下に入った。
猫の国には、小さな猫型ドームがたくさんあった。中にはふわふわのクッションがたくさんあって、そこで昼寝をすると最高だった。
けれどこのただっ広いドームはファイの知らない、鼻の長い動物の形をしていた。中は真っ暗で、冷たい土から雑草だけが生えている。
それでもようやく一人になれる空間を見つけられたことに、心底ほっとした。
まだ人間の世界に来て間もないというのに、ファイは一気にホームシックにかかってしまった。
こんなことなら、変なやる気など起こさなければよかった。
人間の世界は広大で、たくさんの生き物がいる。とても便利で豊かそうに見えるけれど、その分とんでもなく危険に溢れていると思った。
温室のような暖かな場所でだけ生きて来たファイにとって、ここは夢の世界ではなく、地獄に等しかった。
あの退屈は、何より幸福なことだったのかもしれない……。
「ユゥイ……怒ってるかにゃ……」
あれだけダメだと言われていたのに、ファイは自分の中の遅い反抗期を恨んだ。
人間はみんなユゥイと同じ姿をして、ユゥイと同じように優しい人たちばかりだと思っていたのに。
蓋を開けてみればみんな姿形はバラバラで、恐ろしい機械をぶっ飛ばして怒鳴る人もいるし、子供達はまるで鬼の子だった。
同じ種族を見つけたと思えば縄張りという厳しいルールの中を生きていて、自分はそこを踏み荒らす悪猫になってしまった。
ドームの中はさらに暗くなった。人間の世界には朝と昼と夜がある。夜になると気温が下がって、どんどん寒くなるのだ。
夕暮れなんて初めての経験だけど、ファイはそれに感激する余裕などなかった。
いつしか完全に陽が落ちて、夜が来たことを知った。
本来猫は夜目がきくけれど、一人ぼっちでこんな暗い場所にいたことなどなかったファイは、不安に押し潰されそうになる。
だんだんお腹も空いてきて、いよいよ帰ろうと思った。
やっぱりここには来てはいけなかったのだ。きっともっと想像もできないような危険なことが、たくさんあるに違いない。
徐々に冷え込んでいく空気に、自分が生きるには過酷すぎる環境なのだと思い知る。
ファイはボロボロの身体で力を振り絞った。
元来た場所に戻れば、そこに空間の歪があるだろう。飛び込めばきっと帰れるはずだ。
またあの大きな猫に見つかるかもしれないと怯えながら、へっぴり腰で辺りを注意深く見回してドームから出た。
土の地面が終ると、再び石の冷たい地面の上を塀沿いに歩く。
途中で人間やあの恐ろしい乗り物とすれ違ったが、ファイはその度に見つからないように暗闇の中で身を縮込ませた。
それからどれくらい歩いただろう。同じような道や景色ばかりが続くだけで、歪みはどこにも見つけられない。
そこでファイはようやく気付いた。
「……オレ、どこから来たんだっけ?」
スタート地点が分からない。がむしゃらに逃げ回って、結果、どこから来たのか分からなくなってしまったのだ。
ガーン……という古典的な音が頭の中で鳴り響いた。
スタート地点が分からない。
↓
元の世界への出入り口が見つけられない。
↓
帰れない。←イマココ
「ミャー……」
やりきれない思いで、ファイは鳴いた。ミャーミャーと、悲しそうな声で。
帰れない。帰り道がわからない。お腹もすいて、身体はボロボロで、疲れきっていて、怖くて不安で、寂しくて。
しかし無情にも誰も助けてなどくれなくて、やがて喉が嗄れた。
「うぅ……グス……」
涙がポロリと零れる。だが最悪な事態はまだ続く。
――ポツリ。
「!」
鼻先に、水が落ちて来た。
なんだろうと思う間もなく、ぽつぽつとその小さな水がたくさん降りだした。
「これ……雨……?」
ユゥイが言っていた。人間の世界は季節や気温や天気がコロコロ変わると。
冷たい雨はあっという間に雨足を強めて、ファイは毛が水浸しになることへの嫌悪感から焦りを覚えた。
ファイは咄嗟に走り出した。さっきまでいた公園に帰るつもりでいたのだが、なんとそこでまた、道がわからなくなった。
ここにきて新事実。ファイは方向音痴だった……。
「どうしてこんなに道がカクカクしてるの……? 曲がるとこいっぱいで、もうわかんにゃいよっ」
疲れはピークに達していたけれど、このままいればまたどんな危険と遭遇するかわからなかったファイは、じっとしているよりはましと、また歩き出した。
同じような場所をグルグル回っているような気がしながらも、いよいよ本降りの雨の中をびしゃびしゃになりながらも歩いた。
すると、これまで歩いていた道の倍以上もある広い道に突き当たった。人通りも多くて、あの怖い乗り物がたくさん走っている。
けれど光がたくさん溢れていて、何より美味しそうな匂いがどこかから漂ってくる。
恐ろしかったが、空腹がそれを押しのけた。
匂いのする方へ、思い切って一歩踏み出してみる。すると、あの乗り物はこちら側へは来ないことが分かった。
何かは分からないが、ドーム状の薄い布が張り巡らされたもので雨を遮る人間が、たくさん歩いている。しかしみんなファイに気付かないか、気付いても知らんぷりをした。
人間の歩く専用の道は安全で、人間の中にも無関心なものが多くいることが分かった。
ファイはそれでもビクビクしながら、道の端っこを歩いた。
やがて細くて暗い曲がり角を見つけた。たくさんの場所からいい香りがしていたけれど、ファイはその裏道に入った。
表の通りとは違って、暗くて狭い。けれどこの奥からも美味しい匂いがしている。
「ごはんたべたい……」
あとはこの雨をしのぐ場所があれば尚いい。この際ポカポカの毛布やクッションも欲しいなんて贅沢は言わない。
寒さと空腹、疲労や傷の痛みが、今にも擦り切れそうなファイの精神力をさらに削っていく。
意識が朦朧としながらも、やがて袋小路に突き当たる。そこには大きなゴミ箱がたくさんあって、扉もあった。
その扉から微かな光が漏れていて、賑やかな人の声がした。
ファイは幾つもある大きなゴミ箱に目をやった。
「……」
この中から、食べ物の匂いがする。
美味しそうな匂いだけれど、少し生臭いような嫌な臭いもして、とてもではないが漁る気にはなれない。
もう終わりだと、ファイは思った。これは言いつけを破って一人で飛び出してしまったことへの、神様からの罰だと。
出来ることなら家に帰りたい。温かくていい香りのする、ユゥイの腕の中で思い切り甘えたかった。
「ユゥイ……」
雨の降りしきる中へたり込んで、涙も声も嗄れていたファイは目を閉じた。
扉が開くような音が聞こえたけれど、それを確かめるだけの力はもう、残されていなかった。
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白猫、旅に出るの巻
それを見つけたのは偶然、たまたま散歩をしていたときだった。
気付くことが出来たのは、きっとファイに備わっているらしい魔力とやらの賜物だったのかもしれない。
ユゥイはいつも何か秘密の実験をしている。けれどそれはよく失敗していた。しょっちゅう謎の大爆発を起こして、その度に煙突から巨大なキノコ雲が上がるのだ。(ユゥイはその度に髪の毛先をチリチリにしてヘコんでいる)
その一瞬だけ、空間に歪(ひずみ)が生じるのだった。
ファイはいつものように散歩をするふりをして、目当ての場所へ向かった。
猫は勘の鋭い生き物だから、おそらく皆が無意識にここを避けている。それは危険がいっぱいの世界に通ずる道があるからなのだろうか。
そしてその危険がいっぱいの世界に冒険の旅に出ようとしているファイは、ウキウキとしながらそこに辿りついた。
元々は水色だったキャットタワーは今では色褪せて灰色に変色している。過去に遊びつくされた複雑構造のタワーは、ところどころに千切れた紐がぶら下がっていた。昔はいかにも猫の遊び心をくすぐる羽やポンポンがついていたはずが、今は見る影もなくなっている。
ファイはひとまず、そのタワーに寄り添うように佇む大木の側に座り込んだ。
人間の世界には冬という季節があって、その時期になると『クリスマス』というお祭りがあるらしい。
木に飾り付けをしたり、ピカピカ光らせたりもするらしい。真っ白なヒゲの優しいおじいさんが、プレゼントを届けてくれるらしい。
他にもお正月には美味しいものを食べたり、バレンタインにはチョコレートをもらったり、とにかく人間の世界は楽しいことが目白押しなのだ。(本で調べた)
何の飾りもない青々とした大木を見上げながら、ファイはドキドキしていた。そしてワクワクしていた。
ユゥイはまさに怪しげな壺に向かって何か実験をしている最中だ。そろそろとんでもない爆音と共に、キノコ雲が現れるはず。今日に限って成功するなんてことはないと信じて。
後ろ足で喉の辺りを掻いたり、なんとなく顔を洗ったりしながらそのときを待った。
やがて……。
ドーンと音がした。
(来た!!)
その瞬間、僅かに大気が揺らぎ、タワーと大木の小さな隙間がぐにゃりと歪む。
(ユゥイ……オレ、行くから!)
ごめんねといってきますを心の中で言いながら、ファイは隙間に飛び込んだ。
+++
ぐるぐる、と身体が渦に飲み込まれるような気がして目が回った。
「ぅにゃ!?」
ペッ、と吐きだされるように地面に尻もちをつく。
そのまま暫くは目が回ったままで、グラグラと身体を揺らしていた。
だが感覚が正常に戻って来ると、ファイは大きく目を見開いた。そして呟く。
「石……?」
どこもかしこも、平たい石ばかり。地面も石。壁も石。所々に立っている巨大な棒も石。
その長い石の棒をずっと見上げて行くと、見慣れた空と、そして等間隔で建っている棒が、黒い線で繋がれているのが見えた。
それが電柱で、電線というものだなんて知りもしないファイは、その奇怪な光景にけれど感激していた。
全てが無機質。冷たい石はコンクリートというものだが、その細かなデコボコとした感触にすら、胸が浮き立つような喜びを感じていた。
「やった……オレ、猫の国から脱出成功したー!!」
尻餅をついたまま万歳をすると、そのまま後ろにゴロンと転がった。
「人間の世界も、お空は真っ青!」
腹を見せるように寝ころんだまま空を見上げる。大きな黒い鳥が光速で遥か上空を飛びさった。それもまた驚きだった。
ファイの世界にも鳥はいるけれど、小さくて黄色くて「ぴよぴよ」と鳴く小鳥しか知らない。(そしてそのファンシーな生き物はオモチャであり……食りょ※自主規制※である)
とっくに飛び去ってしまった鳥をそれでも追いかけたくて、ファイは勢いよく起き上がると走り出そうとした。
だがそのとき。
遠くから、『ブオオオ……』という、聞いたこともない音がやってきた。
「……んにゃん?」
見れば平な石(塀)に縁取られた道の向こうから、何やら見たこともない黒い物体がやってくる。
道の真ん中に佇むファイは首を傾げた。
あの黒光りしている、いかもに硬そうなものはなんだろう。どんどん近付いてくる。そのままどんどんどんどん近付いてくると、それが異常に早く、巨大であることが分かった。
そしてふと思う。
自分、ここにいたら危なくね?
と……。
瞬間、その大きな物体は「ブブーーー!!」という神経を逆なでするような怪音を発した。
「ミギャーーッ!?」
一瞬にして全身の毛を膨らませたファイはビョンとジャンプをして、間一髪ギリギリのところで難を逃れた。
風圧にお尻を思いっきり押されて、そのまま塀に顔面からぶつかってしまう。
そして次の瞬間、キキーッという音がした。
べシャンとお腹から地面に着地したファイは、痛みに声を上げる間もなく音の方を見た。
黒い物体の扉が開き、そこから見たことのない『人間』が姿を現す。それを見て、これは乗り物だったのかとファイは察した。
出て来たのはユゥイより、その、なんというか……まぁ言ってしまえば見栄えのよろしくない中年の男性だった。頭の天辺がやけに寂しく、何かが足りない。(髪的なものが)
「このクソ猫!! 危ねぇだろ!! ぶっ殺すぞゴルァ!?」
「フギャーーッ!?」
男性はとんでもなく恐ろしい顔をして拳を握り、口からツバを飛ばしながらこちらに向かって怒鳴り散らしている。
これほどの勢いで叱られたことのないファイは再び毛を逆立てると、腰がガクガクと抜けそうになりながらもその場から一目散に逃げ出した。
(なにこれ怖すぎる……!)
直角な道で幾度も身体を激突させながら、その度に悲鳴を上げてひたすら逃げた。
行くあてもなければ安全な場所がどこなのかも、まさに右も左もわからない状態でさっそく後悔しはじめていたファイだが、前方によく見慣れた姿が横切ろうとしているのが見えた。
それは自分と同じ猫の姿だった。ファイは瞬間的に「助かった」と思った。
この世界に住む先輩猫なら、ひとまず何かしら教えてくれるかもしれない。安全な隠れ場所も知っているかもしれない。旅先ではまず情報収集だ。
まさに地獄に仏のような存在に思えた。……のも束の間だった。
灰色の毛足の長い猫は、ファイより何倍も身体が大きかった。ファイが突進してくるのに気がついたその猫は、ギン、と鋭い視線をこちらに向ける。
「!?」
その形相の鋭さに、ファイは先ほどの黒光りした乗り物と同じく急ブレーキで立ち止まった。
この不穏な空気は一体……?
そのまま蛇に睨まれたカエル状態が続いた。ダラダラと汗をかくファイを、ねめつけるように見た灰猫の顔には、大きな傷痕がある。
まさに歴戦の兵を思わせる、貫禄たっぷりな容貌だった。
「貴様……見かけない顔だにゃ……」
灰色の猫は低い声で言った。
こちらに身体を向けると、のったりと歩いてやってくる。
「新参者か……?」
「ヒッ……あ、あの……オレ……」
「ここが誰の縄張りか、知ってのことかにゃ……?」
「な、なわばり……?」
そう、猫は単独行動で自分の縄張りを持つ。そしてそこにやってくる外敵から縄張りを守るため、巡回する生き物なのだ。
ファイもまた猫であるため、その本能に基づいたルールは知っていた。が、住む世界が異なればまた話は別で、餌にも寝場所にも困らない、のほほんとした場所で長く生きて来たファイには、その本能的な部分が欠如していた。
知っている、というだけで、ファイにとってそのルールは別世界の話だったのだ。そしてふと思う。ここ、そういえば別世界だった……と。
低く唸りながらじりじりと距離を縮めてくる猫から、後ずさりをする。
何か細い糸が張りつめているような緊張感。これが殺気というものなのか。コイツは下手をすれば、怒鳴りつけてくるだけで追いかけては来なかったオッサンより危険な相手だ……。
ここは殺られる前に、逃げよう。ファイは再び一目散に逃げ出した。けれどそれが不味かった。
こちらが光速で逃げれば、あちらも光速で追いかけて来た……。
「ごごご、ごめんにゃさーーーーい!!!」
「待てオラァ!! ここが欲しくば戦って勝ち取れー!!」
「欲しくにゃいですーーー!!」
旅の出だしは、まさに最悪の二文字に彩られていた……。
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それを見つけたのは偶然、たまたま散歩をしていたときだった。
気付くことが出来たのは、きっとファイに備わっているらしい魔力とやらの賜物だったのかもしれない。
ユゥイはいつも何か秘密の実験をしている。けれどそれはよく失敗していた。しょっちゅう謎の大爆発を起こして、その度に煙突から巨大なキノコ雲が上がるのだ。(ユゥイはその度に髪の毛先をチリチリにしてヘコんでいる)
その一瞬だけ、空間に歪(ひずみ)が生じるのだった。
ファイはいつものように散歩をするふりをして、目当ての場所へ向かった。
猫は勘の鋭い生き物だから、おそらく皆が無意識にここを避けている。それは危険がいっぱいの世界に通ずる道があるからなのだろうか。
そしてその危険がいっぱいの世界に冒険の旅に出ようとしているファイは、ウキウキとしながらそこに辿りついた。
元々は水色だったキャットタワーは今では色褪せて灰色に変色している。過去に遊びつくされた複雑構造のタワーは、ところどころに千切れた紐がぶら下がっていた。昔はいかにも猫の遊び心をくすぐる羽やポンポンがついていたはずが、今は見る影もなくなっている。
ファイはひとまず、そのタワーに寄り添うように佇む大木の側に座り込んだ。
人間の世界には冬という季節があって、その時期になると『クリスマス』というお祭りがあるらしい。
木に飾り付けをしたり、ピカピカ光らせたりもするらしい。真っ白なヒゲの優しいおじいさんが、プレゼントを届けてくれるらしい。
他にもお正月には美味しいものを食べたり、バレンタインにはチョコレートをもらったり、とにかく人間の世界は楽しいことが目白押しなのだ。(本で調べた)
何の飾りもない青々とした大木を見上げながら、ファイはドキドキしていた。そしてワクワクしていた。
ユゥイはまさに怪しげな壺に向かって何か実験をしている最中だ。そろそろとんでもない爆音と共に、キノコ雲が現れるはず。今日に限って成功するなんてことはないと信じて。
後ろ足で喉の辺りを掻いたり、なんとなく顔を洗ったりしながらそのときを待った。
やがて……。
ドーンと音がした。
(来た!!)
その瞬間、僅かに大気が揺らぎ、タワーと大木の小さな隙間がぐにゃりと歪む。
(ユゥイ……オレ、行くから!)
ごめんねといってきますを心の中で言いながら、ファイは隙間に飛び込んだ。
+++
ぐるぐる、と身体が渦に飲み込まれるような気がして目が回った。
「ぅにゃ!?」
ペッ、と吐きだされるように地面に尻もちをつく。
そのまま暫くは目が回ったままで、グラグラと身体を揺らしていた。
だが感覚が正常に戻って来ると、ファイは大きく目を見開いた。そして呟く。
「石……?」
どこもかしこも、平たい石ばかり。地面も石。壁も石。所々に立っている巨大な棒も石。
その長い石の棒をずっと見上げて行くと、見慣れた空と、そして等間隔で建っている棒が、黒い線で繋がれているのが見えた。
それが電柱で、電線というものだなんて知りもしないファイは、その奇怪な光景にけれど感激していた。
全てが無機質。冷たい石はコンクリートというものだが、その細かなデコボコとした感触にすら、胸が浮き立つような喜びを感じていた。
「やった……オレ、猫の国から脱出成功したー!!」
尻餅をついたまま万歳をすると、そのまま後ろにゴロンと転がった。
「人間の世界も、お空は真っ青!」
腹を見せるように寝ころんだまま空を見上げる。大きな黒い鳥が光速で遥か上空を飛びさった。それもまた驚きだった。
ファイの世界にも鳥はいるけれど、小さくて黄色くて「ぴよぴよ」と鳴く小鳥しか知らない。(そしてそのファンシーな生き物はオモチャであり……食りょ※自主規制※である)
とっくに飛び去ってしまった鳥をそれでも追いかけたくて、ファイは勢いよく起き上がると走り出そうとした。
だがそのとき。
遠くから、『ブオオオ……』という、聞いたこともない音がやってきた。
「……んにゃん?」
見れば平な石(塀)に縁取られた道の向こうから、何やら見たこともない黒い物体がやってくる。
道の真ん中に佇むファイは首を傾げた。
あの黒光りしている、いかもに硬そうなものはなんだろう。どんどん近付いてくる。そのままどんどんどんどん近付いてくると、それが異常に早く、巨大であることが分かった。
そしてふと思う。
自分、ここにいたら危なくね?
と……。
瞬間、その大きな物体は「ブブーーー!!」という神経を逆なでするような怪音を発した。
「ミギャーーッ!?」
一瞬にして全身の毛を膨らませたファイはビョンとジャンプをして、間一髪ギリギリのところで難を逃れた。
風圧にお尻を思いっきり押されて、そのまま塀に顔面からぶつかってしまう。
そして次の瞬間、キキーッという音がした。
べシャンとお腹から地面に着地したファイは、痛みに声を上げる間もなく音の方を見た。
黒い物体の扉が開き、そこから見たことのない『人間』が姿を現す。それを見て、これは乗り物だったのかとファイは察した。
出て来たのはユゥイより、その、なんというか……まぁ言ってしまえば見栄えのよろしくない中年の男性だった。頭の天辺がやけに寂しく、何かが足りない。(髪的なものが)
「このクソ猫!! 危ねぇだろ!! ぶっ殺すぞゴルァ!?」
「フギャーーッ!?」
男性はとんでもなく恐ろしい顔をして拳を握り、口からツバを飛ばしながらこちらに向かって怒鳴り散らしている。
これほどの勢いで叱られたことのないファイは再び毛を逆立てると、腰がガクガクと抜けそうになりながらもその場から一目散に逃げ出した。
(なにこれ怖すぎる……!)
直角な道で幾度も身体を激突させながら、その度に悲鳴を上げてひたすら逃げた。
行くあてもなければ安全な場所がどこなのかも、まさに右も左もわからない状態でさっそく後悔しはじめていたファイだが、前方によく見慣れた姿が横切ろうとしているのが見えた。
それは自分と同じ猫の姿だった。ファイは瞬間的に「助かった」と思った。
この世界に住む先輩猫なら、ひとまず何かしら教えてくれるかもしれない。安全な隠れ場所も知っているかもしれない。旅先ではまず情報収集だ。
まさに地獄に仏のような存在に思えた。……のも束の間だった。
灰色の毛足の長い猫は、ファイより何倍も身体が大きかった。ファイが突進してくるのに気がついたその猫は、ギン、と鋭い視線をこちらに向ける。
「!?」
その形相の鋭さに、ファイは先ほどの黒光りした乗り物と同じく急ブレーキで立ち止まった。
この不穏な空気は一体……?
そのまま蛇に睨まれたカエル状態が続いた。ダラダラと汗をかくファイを、ねめつけるように見た灰猫の顔には、大きな傷痕がある。
まさに歴戦の兵を思わせる、貫禄たっぷりな容貌だった。
「貴様……見かけない顔だにゃ……」
灰色の猫は低い声で言った。
こちらに身体を向けると、のったりと歩いてやってくる。
「新参者か……?」
「ヒッ……あ、あの……オレ……」
「ここが誰の縄張りか、知ってのことかにゃ……?」
「な、なわばり……?」
そう、猫は単独行動で自分の縄張りを持つ。そしてそこにやってくる外敵から縄張りを守るため、巡回する生き物なのだ。
ファイもまた猫であるため、その本能に基づいたルールは知っていた。が、住む世界が異なればまた話は別で、餌にも寝場所にも困らない、のほほんとした場所で長く生きて来たファイには、その本能的な部分が欠如していた。
知っている、というだけで、ファイにとってそのルールは別世界の話だったのだ。そしてふと思う。ここ、そういえば別世界だった……と。
低く唸りながらじりじりと距離を縮めてくる猫から、後ずさりをする。
何か細い糸が張りつめているような緊張感。これが殺気というものなのか。コイツは下手をすれば、怒鳴りつけてくるだけで追いかけては来なかったオッサンより危険な相手だ……。
ここは殺られる前に、逃げよう。ファイは再び一目散に逃げ出した。けれどそれが不味かった。
こちらが光速で逃げれば、あちらも光速で追いかけて来た……。
「ごごご、ごめんにゃさーーーーい!!!」
「待てオラァ!! ここが欲しくば戦って勝ち取れー!!」
「欲しくにゃいですーーー!!」
旅の出だしは、まさに最悪の二文字に彩られていた……。
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白猫、退屈に耐えかねるの巻
ここは猫の国。人間の世界からちょっと離れた、別の世界。
小さな国だけど、猫達はみんな毎日いっぱい食べていっぱい遊んで、眠たいときはずっと寝ている。そんな国。
一年中ぽかぽか陽気のこの世界は、国と言ってもとても狭い。
規模で言えばせいぜい村や集落と言った方がしっくりくるような場所で、あとは遠くに草原や森が広がっているだけだった。
猫達が密集して暮らしている場所の中央には、お菓子で出来たような可愛らしい家が建っていて、そこにはこの国の『エライ人』が住んでいる。
ちなみにその家の煙突からは、いつもモクモクと煙が立ち上っていた。
他には小さな猫型ドームがいくつも建っている。どれもせいぜい人間の膝ほどの高さしかなく、表札代わりに魚マークや肉球マークなどがついていた。内部にはふかふかのクッションや、モコモコの毛布がある。
だが家などあってないようなもので、猫達はみんな気ままに好きな場所で遊んだり、眠ったりしているのだった。
たくさんの花が咲いていて、気持ちのいい風が吹いていて、甘い実のなる木々やカラフルなキャットタワーも大小たくさんある。
浅い池には魚がたくさん泳いでいるし、ふかふかの芝生の地面にはヒヨコやネズミやウサギなどの小さな縫いぐるみがたくさん転がっていた。
食うにも寝るにも遊ぶにも、ここは天国のような場所である。
「でも、刺激がないにゃー」
けれどそんな世界にあって、一匹だけちょっと不満を抱えた白猫がにいた。
長い尻尾にふさふさつやつやの輝く毛並み。ツンと尖った耳、しっとりと濡れた鼻、そしてプニプニの肉球はピンク色をしている。クリクリとした大きな目は宝石のようなアイスブルーだった。
猫界でも屈指のイケメンと謳われる彼は、平和な猫の国に少しばかり飽き飽きしていた。
「なぁに? ファイ、今なにか言った?」
ふかふかのクッションが置かれたロッキングチェアに寝そべりながらぼやいた白猫ファイは、声のする方向へゆったりと目を向けた。そこには自分の身体の何倍もある大きな壺に向かっている、人間の姿をした青年の背中がある。
透けるような白い肌を持ち、毛先が肩を過ぎるほど長い金髪を、緩く一つに結んだ彼こそが、この国のエライ人、ユゥイだった。
ファイはこの青年の家に住みついているのである。
壺の中の何かがグラグラと煮立っていて、ユゥイはさっきからそれを木の棒で一生懸命かき混ぜていた。
「うーん、色がグロテスクになってきた……また失敗かな……」
「ねぇねぇユゥイー。今度は何を作ってるのー?」
ファイは椅子から下りると、ユゥイの側へ行き足元にすり寄った。
「えげつない臭いがするー」
「ふふふ、秘密だよ」
ユゥイは壺から目を離すことなく笑っている。
彼はいつもこうして何かしらの実験や薬物的なものを精製をしているのだが、それがなんなのかは教えてくれない。
この猫の国の七不思議のひとつなのだ。
「で? なんだっけ? 何か言ってたよね」
「だからー、退屈だにゃーって言ったのー」
「お外で遊んでおいでよ。昼寝ばっかりしてたら身体に悪いよ」
「猫は寝るのが仕事にゃもーん」
「じゃあ退屈とは無縁だね」
「ぐぬぬ……」
ユゥイはどこから取り出したのか、焦げたトカゲのような物体を壺に入れている。
相変わらずこちらを見ないその態度に、ファイは少しイラッとした。
「いいよもう……しょうがにゃいから遊びに行ってくるよー」
「いってらっしゃい」
「人間界に」
「それはダメ」
即答だった。
ファイのイライラ度が増した。
「ちょっとお散歩してくるだけ! ホントにちょっとだけ!」
「ダーメ。隙あらばねだってくるけど、それだけは絶対にダメなの」
いつもある程度のことは許してくれるユゥイだが、こと人間の世界に関してはNGだった。
「人間は怖いんだよ。それはそれは怖い生き物なんだ。ファイなんか小さくて可愛いから、すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。寒かったり暑かったり、天気も気温も年中コロコロ変わるし、だいたいね……」
グダグダグダグダ……。
はじまった。
ユゥイはやっぱり壺から目を離さないまま、いかに人間の世界が恐ろしいかをファイに説いて聞かせる。
耳にタコができるほど聞き飽きているファイは、そっと溜息をつきながら退却することにした。
大きな扉の横にある小さな猫穴をくぐると、トコトコと芝生の上を歩いて池のすぐ側へ行った。
辺りを見回すと猫じゃらしで遊んだり、草を食べたり毛繕いをしたり、お腹を見せて眠っていたり、無警戒な仲間達がそれぞれのどかに過ごしている。
ファイは池の水面に映る自分の姿に目を落とすと、ふぅ、とまた溜息を零した。
狭くて平和で暖かい世界。でも平坦で退屈な世界。
生まれたときから幸せだから、もういっそ満足しているのかどうかさえ麻痺しているような気がしていた。
きっととても贅沢な悩みなのだと思う。こんな悩みを抱えているのは自分だけなのだとも。
ファイは見た目こそ若い猫とそう変わらないが、これでも数百年もの時を生きていた。他の仲間の寿命はどんなに長くても二十年ほどだが、なぜかファイは歳を取らない。
思えば物心ついた頃からユゥイも今のユゥイのままだ。
同じ時を生きる彼がいるからこそ、仲間達が老いて先に死んでいっても、悲しいし寂しいけれど孤独にならずにすんでいた。
いつだったか、ファイはそれがなぜなのかをユゥイに訊ねたことがあった。
『ユゥイ、どうしてオレは他のみんなと違うの?』
そう聞くとユゥイは言った。
『ファイには強い魔力が備わってるからね』
『まりょく?』
『そう。みんな持ってるけど、ファイだけは特別。凄く大きくて強いんだ』
そんなことを言われてもいまいちピンと来ない。
『んー。じゃあ、オレがいつまでも長生きなのはそのせいってこと?』
『そうだね。さしずめファイは人間の世界で言うところの化け猫ってやつかな』
ユゥイは冗談を言ったつもりらしい。あははと笑っていた。
けれどファイは彼が言った『人間』という言葉が気になった。
人間の世界で長生きをする猫を『化け猫』と呼ぶなら、その世界にも自分と同じ存在がいるということなのだろうか。
なぜか妙に興味をそそられて、それからファイはユゥイの本棚を漁った。
あまり難しい字は読めなかったが、人間の世界というのはこの猫の国とは比べ物にならないくらい大きくて、とんでもなく広いのだということはわかった。
もちろん猫だっているし、他にも見たことのない生き物がたくさんいるらしい。
人間だって、ユゥイと同じような姿をしているのなら、きっとみんなとても優しいに違いない。
そのときから、ファイはいつかこの猫の国を飛び出して、冒険の旅に出てみたいと思うようになった。
それなのに、なぜかユゥイは人間やその世界を怖い場所だと言う。行ってはいけないと。しかし反対されればされるほど、ファイの中の退屈がそれに反発心を抱かせた。
ダメと言われると、どうしても行きたくなってしまうのだ。
ファイは一通りの回想を終えると、水面に揺れる自分の姿をキッと睨みつけた。
「そうにゃ……まだ見ぬ世界がオレを待ってる……ような気がするにゃ!」
丸い手をさらに丸めて、グッと握りしめた。
子供ではないのだし、ユゥイの許可を得られないからって、どうということはない。
その気になれば、いつだって行動を起こすことは可能なのだ。
ファイは知っていた。
この集落の片隅、古ぼけてあまり遊ばれなくなった大きなキャットタワーと、すぐ側の大木の狭い隙間。そこにほんの一瞬だけ生じる、空間の歪みの存在を。
←戻る ・ 次へ→
ここは猫の国。人間の世界からちょっと離れた、別の世界。
小さな国だけど、猫達はみんな毎日いっぱい食べていっぱい遊んで、眠たいときはずっと寝ている。そんな国。
一年中ぽかぽか陽気のこの世界は、国と言ってもとても狭い。
規模で言えばせいぜい村や集落と言った方がしっくりくるような場所で、あとは遠くに草原や森が広がっているだけだった。
猫達が密集して暮らしている場所の中央には、お菓子で出来たような可愛らしい家が建っていて、そこにはこの国の『エライ人』が住んでいる。
ちなみにその家の煙突からは、いつもモクモクと煙が立ち上っていた。
他には小さな猫型ドームがいくつも建っている。どれもせいぜい人間の膝ほどの高さしかなく、表札代わりに魚マークや肉球マークなどがついていた。内部にはふかふかのクッションや、モコモコの毛布がある。
だが家などあってないようなもので、猫達はみんな気ままに好きな場所で遊んだり、眠ったりしているのだった。
たくさんの花が咲いていて、気持ちのいい風が吹いていて、甘い実のなる木々やカラフルなキャットタワーも大小たくさんある。
浅い池には魚がたくさん泳いでいるし、ふかふかの芝生の地面にはヒヨコやネズミやウサギなどの小さな縫いぐるみがたくさん転がっていた。
食うにも寝るにも遊ぶにも、ここは天国のような場所である。
「でも、刺激がないにゃー」
けれどそんな世界にあって、一匹だけちょっと不満を抱えた白猫がにいた。
長い尻尾にふさふさつやつやの輝く毛並み。ツンと尖った耳、しっとりと濡れた鼻、そしてプニプニの肉球はピンク色をしている。クリクリとした大きな目は宝石のようなアイスブルーだった。
猫界でも屈指のイケメンと謳われる彼は、平和な猫の国に少しばかり飽き飽きしていた。
「なぁに? ファイ、今なにか言った?」
ふかふかのクッションが置かれたロッキングチェアに寝そべりながらぼやいた白猫ファイは、声のする方向へゆったりと目を向けた。そこには自分の身体の何倍もある大きな壺に向かっている、人間の姿をした青年の背中がある。
透けるような白い肌を持ち、毛先が肩を過ぎるほど長い金髪を、緩く一つに結んだ彼こそが、この国のエライ人、ユゥイだった。
ファイはこの青年の家に住みついているのである。
壺の中の何かがグラグラと煮立っていて、ユゥイはさっきからそれを木の棒で一生懸命かき混ぜていた。
「うーん、色がグロテスクになってきた……また失敗かな……」
「ねぇねぇユゥイー。今度は何を作ってるのー?」
ファイは椅子から下りると、ユゥイの側へ行き足元にすり寄った。
「えげつない臭いがするー」
「ふふふ、秘密だよ」
ユゥイは壺から目を離すことなく笑っている。
彼はいつもこうして何かしらの実験や薬物的なものを精製をしているのだが、それがなんなのかは教えてくれない。
この猫の国の七不思議のひとつなのだ。
「で? なんだっけ? 何か言ってたよね」
「だからー、退屈だにゃーって言ったのー」
「お外で遊んでおいでよ。昼寝ばっかりしてたら身体に悪いよ」
「猫は寝るのが仕事にゃもーん」
「じゃあ退屈とは無縁だね」
「ぐぬぬ……」
ユゥイはどこから取り出したのか、焦げたトカゲのような物体を壺に入れている。
相変わらずこちらを見ないその態度に、ファイは少しイラッとした。
「いいよもう……しょうがにゃいから遊びに行ってくるよー」
「いってらっしゃい」
「人間界に」
「それはダメ」
即答だった。
ファイのイライラ度が増した。
「ちょっとお散歩してくるだけ! ホントにちょっとだけ!」
「ダーメ。隙あらばねだってくるけど、それだけは絶対にダメなの」
いつもある程度のことは許してくれるユゥイだが、こと人間の世界に関してはNGだった。
「人間は怖いんだよ。それはそれは怖い生き物なんだ。ファイなんか小さくて可愛いから、すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。寒かったり暑かったり、天気も気温も年中コロコロ変わるし、だいたいね……」
グダグダグダグダ……。
はじまった。
ユゥイはやっぱり壺から目を離さないまま、いかに人間の世界が恐ろしいかをファイに説いて聞かせる。
耳にタコができるほど聞き飽きているファイは、そっと溜息をつきながら退却することにした。
大きな扉の横にある小さな猫穴をくぐると、トコトコと芝生の上を歩いて池のすぐ側へ行った。
辺りを見回すと猫じゃらしで遊んだり、草を食べたり毛繕いをしたり、お腹を見せて眠っていたり、無警戒な仲間達がそれぞれのどかに過ごしている。
ファイは池の水面に映る自分の姿に目を落とすと、ふぅ、とまた溜息を零した。
狭くて平和で暖かい世界。でも平坦で退屈な世界。
生まれたときから幸せだから、もういっそ満足しているのかどうかさえ麻痺しているような気がしていた。
きっととても贅沢な悩みなのだと思う。こんな悩みを抱えているのは自分だけなのだとも。
ファイは見た目こそ若い猫とそう変わらないが、これでも数百年もの時を生きていた。他の仲間の寿命はどんなに長くても二十年ほどだが、なぜかファイは歳を取らない。
思えば物心ついた頃からユゥイも今のユゥイのままだ。
同じ時を生きる彼がいるからこそ、仲間達が老いて先に死んでいっても、悲しいし寂しいけれど孤独にならずにすんでいた。
いつだったか、ファイはそれがなぜなのかをユゥイに訊ねたことがあった。
『ユゥイ、どうしてオレは他のみんなと違うの?』
そう聞くとユゥイは言った。
『ファイには強い魔力が備わってるからね』
『まりょく?』
『そう。みんな持ってるけど、ファイだけは特別。凄く大きくて強いんだ』
そんなことを言われてもいまいちピンと来ない。
『んー。じゃあ、オレがいつまでも長生きなのはそのせいってこと?』
『そうだね。さしずめファイは人間の世界で言うところの化け猫ってやつかな』
ユゥイは冗談を言ったつもりらしい。あははと笑っていた。
けれどファイは彼が言った『人間』という言葉が気になった。
人間の世界で長生きをする猫を『化け猫』と呼ぶなら、その世界にも自分と同じ存在がいるということなのだろうか。
なぜか妙に興味をそそられて、それからファイはユゥイの本棚を漁った。
あまり難しい字は読めなかったが、人間の世界というのはこの猫の国とは比べ物にならないくらい大きくて、とんでもなく広いのだということはわかった。
もちろん猫だっているし、他にも見たことのない生き物がたくさんいるらしい。
人間だって、ユゥイと同じような姿をしているのなら、きっとみんなとても優しいに違いない。
そのときから、ファイはいつかこの猫の国を飛び出して、冒険の旅に出てみたいと思うようになった。
それなのに、なぜかユゥイは人間やその世界を怖い場所だと言う。行ってはいけないと。しかし反対されればされるほど、ファイの中の退屈がそれに反発心を抱かせた。
ダメと言われると、どうしても行きたくなってしまうのだ。
ファイは一通りの回想を終えると、水面に揺れる自分の姿をキッと睨みつけた。
「そうにゃ……まだ見ぬ世界がオレを待ってる……ような気がするにゃ!」
丸い手をさらに丸めて、グッと握りしめた。
子供ではないのだし、ユゥイの許可を得られないからって、どうということはない。
その気になれば、いつだって行動を起こすことは可能なのだ。
ファイは知っていた。
この集落の片隅、古ぼけてあまり遊ばれなくなった大きなキャットタワーと、すぐ側の大木の狭い隙間。そこにほんの一瞬だけ生じる、空間の歪みの存在を。
←戻る ・ 次へ→
【結婚しようよ】
*日向の家に通い妻状態の無職、狛枝
狛枝と付き合うようになってすぐのこと。
エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。
「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」
「んー? なにって?」
「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」
畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。
だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。
彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞ」
「ボク、無職のプー太郎だよ」
「無職? 学生でもないってことか?」
そう、と狛枝が頷く。
「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」
「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」
「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」
「出ねぇよ」
短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。
味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。
「どうかな?」
「ん、美味い。いい感じだ」
「あは、よかった」
今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。
本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。
おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。
それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。
「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」
問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」
でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。
「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」
「駄目?」
「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」
「そ、それはただの偶然じゃないのか?」
「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」
「……いや」
「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」
なぜか日向は否定してやることができなかった。
偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。
かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。
「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」
「お、おう」
「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」
「まぁ……確かに」
「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」
彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。
狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。
「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」
「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」
「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」
両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。
まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。
というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。
「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」
「仕事なら、俺が紹介するぞ」
「え? なになに?」
日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。
「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」
狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。
「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」
「そうだ。永久就職だぞ」
できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。
こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。
今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。
我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。
すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。
「一つだけ……いい?」
「おう」
「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」
「それは俺が婿に行くパターンのやつか」
考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。
思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。
「駄目、かな……」
「いや、駄目ではないけど」
結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。
「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」
「よし、すぐにここを引き払おう」
「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」
「まぁな」
ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。
(全部、俺のだ)
腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。
「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」
胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。
何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。
←戻る ・ Wavebox👏
*日向の家に通い妻状態の無職、狛枝
狛枝と付き合うようになってすぐのこと。
エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。
「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」
「んー? なにって?」
「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」
畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。
だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。
彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞ」
「ボク、無職のプー太郎だよ」
「無職? 学生でもないってことか?」
そう、と狛枝が頷く。
「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」
「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」
「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」
「出ねぇよ」
短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。
味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。
「どうかな?」
「ん、美味い。いい感じだ」
「あは、よかった」
今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。
本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。
おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。
それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。
「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」
問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」
でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。
「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」
「駄目?」
「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」
「そ、それはただの偶然じゃないのか?」
「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」
「……いや」
「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」
なぜか日向は否定してやることができなかった。
偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。
かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。
「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」
「お、おう」
「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」
「まぁ……確かに」
「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」
彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。
狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。
「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」
「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」
「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」
両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。
まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。
というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。
「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」
「仕事なら、俺が紹介するぞ」
「え? なになに?」
日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。
「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」
狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。
「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」
「そうだ。永久就職だぞ」
できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。
こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。
今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。
我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。
すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。
「一つだけ……いい?」
「おう」
「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」
「それは俺が婿に行くパターンのやつか」
考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。
思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。
「駄目、かな……」
「いや、駄目ではないけど」
結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。
「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」
「よし、すぐにここを引き払おう」
「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」
「まぁな」
ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。
(全部、俺のだ)
腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。
「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」
胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。
何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。
←戻る ・ Wavebox👏
朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
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