黒鋼、好みのタイプの巻
目を覚ますと、昨夜のことは夢だったのかもしれない、なんて思った。
どこからともなく現れた、ファイと丸っきり同じ容姿をした青年。ファイの故郷の人間らしいが、この上なくはた迷惑な釘を刺されてしまった。
何をどうすれば自分がこのようなワケの分からない化け猫の、しかもオスを相手に狼になど変身するというのか。
黒鋼は起き上り、頬を掻きながら隣の布団を見やる。
猫耳を生やした男が、布団から鼻から上だけを出して丸くなって眠っていた。
その枕元に置いてある謎の携帯電話が、昨夜の出来事が夢ではないことを知らせている気がして、黒鋼は思わずそれを手に取ると重々しい溜息をゆっくりと吐き出した。
そして改めてまだ夢の中にいる猫耳男を見つめる。
そっと手を伸ばして、金色の髪に触れた。彼が人間もどきに変身してからも、こうして眠っている隙をついて触れる習慣は変わらない。
いや、むしろ眠っているときにしか触れられなくなった。
妙なオプションはついているが、今の彼は歴とした成人男性そのものの容姿をしている。猫にでもするような触れ方はどうしても躊躇われて、今ではせいぜい、擦り寄って来るのを黙って許してやる程度だった。
だからあのユゥイという魔法使いが懸念しているようなことは、決してない。
これは猫だ。本来、人間は動物にそういった感情は抱かない。
ましてや黒鋼はごく一般的な成人男子であり、確かにその手の趣味の人間(ガチムチの)にアプローチをかけられたことが無いとは言わないが、ごく普通の人生を歩んできた。
分かり切っていることなのに、だがユゥイはむしろ余計な『種』を黒鋼の中に撒いた。
逆に、意識しはじめてしまった自分に気がつく。
この際ぶっちゃけてしまえば、この男は可愛い。ついつい引き寄せたくなる瞬間は幾度もあった。
だがそれは彼が『猫』だから。本来の姿を知っているからこそ、湧きあがる感情だとばかり思っていたのに。
おかげで日に日に触れることを躊躇うようになった自分の中の矛盾に、気づかされてしまった。
猫ならば迷わず触れればいいではないか。撫でてやればいいし、抱いて寝てやればいい。
自分の中で、何かが揺らぎはじめている。
「んふふ……やぁだー……」
指先で軽く耳をくすぐってやると、ぎゅっと目を閉じたファイが笑った。
「……間抜け面」
「黒たぁん」
「!」
名前を呼ばれて少し驚く。だが彼はまだ眠っている。触れていた手を遠ざけて、またひとつ重い溜息をついた。
すると、布団の膨らみがもぞりと動いた。
「うにゃ~……」
妙な声を上げて、ファイが目を覚ました。
「おはよー……」
「……おう」
短く返事をすると、ファイは四つん這いでもぞもぞと這い出して来る。そして、当たり前のように黒鋼の首に両手を伸ばして足の間に入ってこようとした。
「こら、やめろ」
「オレちゃんと一人で寝たよ~」
「偉かったな。だから離れろ」
「やだー。ちゃんと撫でて~」
まだ半分夢の中にいるのか、やたらと甘えてくる彼は、今の己の姿がどれほど黒鋼の中の不安定な感情を煽るか知らない。
可愛いものは、守ってやりたくなる。言うことを聞いてやりたくなる。欲しいものを欲しいだけ与えてやりたくなる。そして欲しくなる。
猫ならば、ただ与えてやるだけで満足できるはずだった。猫ならば。
「黒たん、ぎゅってして」
わかってる。この男は『猫』として、精一杯甘えている。
だから、欲しい、なんて。そのようなことは決して。
寝起きの金糸が乱れて、少し上気した頬に張り付いている。どこか気だるげなのは、ただぼんやりしているだけだと理解しているはずなのに、その少し乾いた唇を潤してやりたくなる。
(全部、てめぇのせいだぞ)
光る文字と一緒に消えてしまった男に毒づいた。
狼になどなりようがない。おかしいではないか。
なのに黒鋼はファイの身体を押す力を逆のものへと変えた。腕を取り、自分から引き寄せる。
「ぁ……!」
ぐっと近づく互いの顔。大きく見開かれた瞳が潤んで見えた。
このときの黒鋼は、もうどうにでもなれ、という心境だったのかもしれない。
首の後ろに手を添えて、強く引く。乾いた唇に、自分のものを押しつけた。
相手は猫。だが、やたらと可愛い容姿をした男。柔らかな感触に眩暈を覚えて、目を閉じながら『ああそうか』と、黒鋼は思った。
おそらく、男も女も関係なく、この男の見目は自分の好みの型にぴたりとハマっているのだと。
砂糖菓子のようなふんにゃりとした笑顔も、蜂蜜のような色をした金の髪も、飴玉のような美しい瞳の青も。
甘味は嫌いだ。だからもう思い出せないほど昔から、ずっと口にしていない。これはその反動だろうか。
なんて単純な答えだろう。
こうなることが分かっていたから、手を伸ばすことに戸惑いを覚えていたのだろうかなんて。
どんな理由を上げ連ねたとしても、今となってはもうそのどれもが不正解であり、そして正解に当てはまる気がした。
「んっ、んぅー!」
黒鋼の肩にしがみ付いたまま動かなかったファイが、息苦しさに暴れ出した。バンバンと肩を叩かれて、ただ押しつけていただけの唇をようやく解放した。
「ぷっはー! 苦しかったー!」
ゼェゼェと必死で酸素を取り入れるファイは、よほど苦しかったのか顔を真っ赤に染めていた。
どう声をかければいいかわからずに、黒鋼はただその顔を見つめた。
衝動的とはいえ、やってしまった……思いっきり……。
果たしてファイはどんな反応を見せるだろうかと、固唾を飲んで待っていると、ようやく呼吸を安定させた彼は蕩けそうな笑顔を見せた。
「うふふー。でも嬉しいー」
ぎゅっと首にしがみ付かれ、頬ずりをされる。
「…………」
なんだろうか、この変わらなさ。
瞬きを繰り返す黒鋼に、ファイは猛烈に上がったテンションで頬ずりを止めない。
ピクリとも動けずにいると、しまいにはベロベロと顔中を舐めはじめた。
「うお!? こら! やめねぇか!!」
唇まで舐められて、黒鋼はいよいよファイを放り投げるようにして突き飛ばした。
「うあーん! せっかく毛繕いしてあげてたのにー! 愛情表現なのにー!」
「毛なんぞ繕われるほど生えてねぇよ! 顔だぞ顔!」
腕で思いっきり顔を拭いながら怒鳴った。
「でも顎のとこはちょっとチクチクしてたよー?」
「うっせぇ!! 朝なんだからしょうがねぇだろ!!」
「なんで怒るんだろー……」
ぺたんと耳を倒し、指を咥えながら「ぶー」と不満そうな顔をするファイに、内心冷や汗ものだった。
猫の舌ならばいい。ザラザラで、はっきり言って痛みしか感じない。だが人間の舌はどうだ。まったく違う。正直、あれ以上やられたら危なかった。
しかもこの男は先ほどの口づけに関して、一切意識していない。彼にとっては何の意味もない、ただのスキンシップとして片付けられているようだ。
悔しいような、ほっとしたような、だがどこか腹立たしい気持ちになる。
立ち上がり、とりあえず洗面所に向かうがてら思い切り布団を蹴散らした。
「オレもオレもー!」
ファイは跳ねるように立ち上がって無邪気に布団を蹴り飛ばすと、黒鋼の身体にタックルしてくる。
この男はまだ一人で上手く顔も洗えなければ、歯も磨けないのだ。
水に濡れるのを極度に嫌がり、仕方なく嫌々濡れタオルで顔を拭く。手を洗うときも同様。歯はしょっちゅう歯磨き粉を飲み込むし、ちょっと目を離すと洗顔石鹸で歯を磨こうとする。
「……」
ふと、そこまで考えて黒鋼はあることに気がついた。
そしてべたべたと腕に絡みつくファイを見た。
「……そういやおまえ」
「ん? なになに?」
くんくん。自分まで猫になったようにファイの近辺の匂いを嗅いだ。
「なにしてるのー?」
抱きしめていてさえ気がつかなかった。だが、こうして意識してじっくり鼻を利かせてみると。
「なにが?」
「気になるほどではねぇが……」
「へ?」
見れば髪も少しぱさぱさしていて、艶がないような。
なぜ今更になって気がつくのか。顔や手は洗わせるのに、歯磨きもさせるのに。
黒鋼は、ファイに風呂に入る習慣を教えるのを、当たり前のように忘れていた。
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目を覚ますと、昨夜のことは夢だったのかもしれない、なんて思った。
どこからともなく現れた、ファイと丸っきり同じ容姿をした青年。ファイの故郷の人間らしいが、この上なくはた迷惑な釘を刺されてしまった。
何をどうすれば自分がこのようなワケの分からない化け猫の、しかもオスを相手に狼になど変身するというのか。
黒鋼は起き上り、頬を掻きながら隣の布団を見やる。
猫耳を生やした男が、布団から鼻から上だけを出して丸くなって眠っていた。
その枕元に置いてある謎の携帯電話が、昨夜の出来事が夢ではないことを知らせている気がして、黒鋼は思わずそれを手に取ると重々しい溜息をゆっくりと吐き出した。
そして改めてまだ夢の中にいる猫耳男を見つめる。
そっと手を伸ばして、金色の髪に触れた。彼が人間もどきに変身してからも、こうして眠っている隙をついて触れる習慣は変わらない。
いや、むしろ眠っているときにしか触れられなくなった。
妙なオプションはついているが、今の彼は歴とした成人男性そのものの容姿をしている。猫にでもするような触れ方はどうしても躊躇われて、今ではせいぜい、擦り寄って来るのを黙って許してやる程度だった。
だからあのユゥイという魔法使いが懸念しているようなことは、決してない。
これは猫だ。本来、人間は動物にそういった感情は抱かない。
ましてや黒鋼はごく一般的な成人男子であり、確かにその手の趣味の人間(ガチムチの)にアプローチをかけられたことが無いとは言わないが、ごく普通の人生を歩んできた。
分かり切っていることなのに、だがユゥイはむしろ余計な『種』を黒鋼の中に撒いた。
逆に、意識しはじめてしまった自分に気がつく。
この際ぶっちゃけてしまえば、この男は可愛い。ついつい引き寄せたくなる瞬間は幾度もあった。
だがそれは彼が『猫』だから。本来の姿を知っているからこそ、湧きあがる感情だとばかり思っていたのに。
おかげで日に日に触れることを躊躇うようになった自分の中の矛盾に、気づかされてしまった。
猫ならば迷わず触れればいいではないか。撫でてやればいいし、抱いて寝てやればいい。
自分の中で、何かが揺らぎはじめている。
「んふふ……やぁだー……」
指先で軽く耳をくすぐってやると、ぎゅっと目を閉じたファイが笑った。
「……間抜け面」
「黒たぁん」
「!」
名前を呼ばれて少し驚く。だが彼はまだ眠っている。触れていた手を遠ざけて、またひとつ重い溜息をついた。
すると、布団の膨らみがもぞりと動いた。
「うにゃ~……」
妙な声を上げて、ファイが目を覚ました。
「おはよー……」
「……おう」
短く返事をすると、ファイは四つん這いでもぞもぞと這い出して来る。そして、当たり前のように黒鋼の首に両手を伸ばして足の間に入ってこようとした。
「こら、やめろ」
「オレちゃんと一人で寝たよ~」
「偉かったな。だから離れろ」
「やだー。ちゃんと撫でて~」
まだ半分夢の中にいるのか、やたらと甘えてくる彼は、今の己の姿がどれほど黒鋼の中の不安定な感情を煽るか知らない。
可愛いものは、守ってやりたくなる。言うことを聞いてやりたくなる。欲しいものを欲しいだけ与えてやりたくなる。そして欲しくなる。
猫ならば、ただ与えてやるだけで満足できるはずだった。猫ならば。
「黒たん、ぎゅってして」
わかってる。この男は『猫』として、精一杯甘えている。
だから、欲しい、なんて。そのようなことは決して。
寝起きの金糸が乱れて、少し上気した頬に張り付いている。どこか気だるげなのは、ただぼんやりしているだけだと理解しているはずなのに、その少し乾いた唇を潤してやりたくなる。
(全部、てめぇのせいだぞ)
光る文字と一緒に消えてしまった男に毒づいた。
狼になどなりようがない。おかしいではないか。
なのに黒鋼はファイの身体を押す力を逆のものへと変えた。腕を取り、自分から引き寄せる。
「ぁ……!」
ぐっと近づく互いの顔。大きく見開かれた瞳が潤んで見えた。
このときの黒鋼は、もうどうにでもなれ、という心境だったのかもしれない。
首の後ろに手を添えて、強く引く。乾いた唇に、自分のものを押しつけた。
相手は猫。だが、やたらと可愛い容姿をした男。柔らかな感触に眩暈を覚えて、目を閉じながら『ああそうか』と、黒鋼は思った。
おそらく、男も女も関係なく、この男の見目は自分の好みの型にぴたりとハマっているのだと。
砂糖菓子のようなふんにゃりとした笑顔も、蜂蜜のような色をした金の髪も、飴玉のような美しい瞳の青も。
甘味は嫌いだ。だからもう思い出せないほど昔から、ずっと口にしていない。これはその反動だろうか。
なんて単純な答えだろう。
こうなることが分かっていたから、手を伸ばすことに戸惑いを覚えていたのだろうかなんて。
どんな理由を上げ連ねたとしても、今となってはもうそのどれもが不正解であり、そして正解に当てはまる気がした。
「んっ、んぅー!」
黒鋼の肩にしがみ付いたまま動かなかったファイが、息苦しさに暴れ出した。バンバンと肩を叩かれて、ただ押しつけていただけの唇をようやく解放した。
「ぷっはー! 苦しかったー!」
ゼェゼェと必死で酸素を取り入れるファイは、よほど苦しかったのか顔を真っ赤に染めていた。
どう声をかければいいかわからずに、黒鋼はただその顔を見つめた。
衝動的とはいえ、やってしまった……思いっきり……。
果たしてファイはどんな反応を見せるだろうかと、固唾を飲んで待っていると、ようやく呼吸を安定させた彼は蕩けそうな笑顔を見せた。
「うふふー。でも嬉しいー」
ぎゅっと首にしがみ付かれ、頬ずりをされる。
「…………」
なんだろうか、この変わらなさ。
瞬きを繰り返す黒鋼に、ファイは猛烈に上がったテンションで頬ずりを止めない。
ピクリとも動けずにいると、しまいにはベロベロと顔中を舐めはじめた。
「うお!? こら! やめねぇか!!」
唇まで舐められて、黒鋼はいよいよファイを放り投げるようにして突き飛ばした。
「うあーん! せっかく毛繕いしてあげてたのにー! 愛情表現なのにー!」
「毛なんぞ繕われるほど生えてねぇよ! 顔だぞ顔!」
腕で思いっきり顔を拭いながら怒鳴った。
「でも顎のとこはちょっとチクチクしてたよー?」
「うっせぇ!! 朝なんだからしょうがねぇだろ!!」
「なんで怒るんだろー……」
ぺたんと耳を倒し、指を咥えながら「ぶー」と不満そうな顔をするファイに、内心冷や汗ものだった。
猫の舌ならばいい。ザラザラで、はっきり言って痛みしか感じない。だが人間の舌はどうだ。まったく違う。正直、あれ以上やられたら危なかった。
しかもこの男は先ほどの口づけに関して、一切意識していない。彼にとっては何の意味もない、ただのスキンシップとして片付けられているようだ。
悔しいような、ほっとしたような、だがどこか腹立たしい気持ちになる。
立ち上がり、とりあえず洗面所に向かうがてら思い切り布団を蹴散らした。
「オレもオレもー!」
ファイは跳ねるように立ち上がって無邪気に布団を蹴り飛ばすと、黒鋼の身体にタックルしてくる。
この男はまだ一人で上手く顔も洗えなければ、歯も磨けないのだ。
水に濡れるのを極度に嫌がり、仕方なく嫌々濡れタオルで顔を拭く。手を洗うときも同様。歯はしょっちゅう歯磨き粉を飲み込むし、ちょっと目を離すと洗顔石鹸で歯を磨こうとする。
「……」
ふと、そこまで考えて黒鋼はあることに気がついた。
そしてべたべたと腕に絡みつくファイを見た。
「……そういやおまえ」
「ん? なになに?」
くんくん。自分まで猫になったようにファイの近辺の匂いを嗅いだ。
「なにしてるのー?」
抱きしめていてさえ気がつかなかった。だが、こうして意識してじっくり鼻を利かせてみると。
「なにが?」
「気になるほどではねぇが……」
「へ?」
見れば髪も少しぱさぱさしていて、艶がないような。
なぜ今更になって気がつくのか。顔や手は洗わせるのに、歯磨きもさせるのに。
黒鋼は、ファイに風呂に入る習慣を教えるのを、当たり前のように忘れていた。
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ユゥイ、来ちゃったの巻
「出たーーーーーー!!!!!」
ファイは絶叫した。尻尾の毛を逆立たせて、即座に黒鋼の背後に隠れた。
そこには引き攣ったような笑顔で仁王立ちするユゥイの姿が……。
「人を幽霊みたいに。いつからそんな失礼な子になったのかな」
「な、なんで!? なんでここに!?」
「誰かさんがなかなか帰ってこないから、心配して迎えに来てあげたんだけど?」
そう言うと、腰に両手を当てたままユゥイは腰を屈めた。そしてポカンと口を開けたままの黒鋼をじーっと見る。
「なるほど君か。デカくて全体的に黒い人っていうのは。ホントに黒いな」
「……おい、説明しろ」
黒鋼は背中に隠れているファイと、正面のユゥイを幾度か交互に見やる。
「双子かおまえら? つーかこいつは一体どっから入った……?」
「ファイ、出て来て説明しなさい」
「…………はい」
おずおずと、耳を後ろに倒したままファイは黒鋼の背中から顔を出した。
+++
「と、いうわけでねー、なんでかオレ、元の姿に戻れなくなっちゃったのー」
ひとまず説明をした。
ユゥイは床に胡坐をかいて静かに聞いていたが、腕を組んで「うーん」と唸った。
そこに、律儀に茶を用意した黒鋼がやってきて、ユゥイの目の前に置く。そして三人でテーブルを囲んだ。
「だからね、帰るに帰れなくてー」
ジロリ。睨まれて背筋を正す。
「さっき思いっきり忘れてたって言ってたのが、ちょうど聞こえたんだけどね」
「ギクッ」
大袈裟に溜息をついたユゥイは湯飲みを手にすると口をつける。そして大きく肩を揺らした。
「熱っ! 渋っ! まずっ!」
「悪かったな……」
イラッとしている黒鋼を睨むユゥイ。なんだかこの二人の間に流れる空気は、あまりよろしくない。
一応、自分がユゥイをコピーして変身した、ということは説明して理解はしてもらえたが。
「ボクが思うに」
ユゥイはそれ以上湯飲みには口をつけず、少しだけ首を傾げた。
「単に順応力が過剰に働いてるだけなんじゃない?」
「ざんにょう?」
「順応、だよファイ。適応力とも言うね」
「人間になった途端、それが過剰反応したってのか?」
黒鋼の言葉にユゥイは素直に頷いた。
「多分ね。怖い思いをいっぱいしたから、人間に変身したのを切っ掛けに、ファイの本能が猫のまんまじゃこの世界を生き抜けない、って判断したんじゃない? まぁ……よくわかんないから適当だけど」
「いい加減だな、随分と」
「仕方ないでしょ。前例ないんだから、ボクだって判断に困るよ」
「なーるほどねー」
わかったような、わからないような。だがなんとなく納得はできた気がした。
確かに初めてこの世界に来たときの、あの恐怖心は今もファイの中にある。同じ猫でも、厳しいルールや苛酷な環境で生き抜いているこちらの猫社会には、どう足掻いても馴染めそうもなかった。
その点、人間の姿ならボス猫も子供も自分より小さくて、追われる心配も遊ばれる心配もない。
「でもー……」
何か違うような気がする。
「オレはもっと違う理由だと思う」
「ふぅん?」
じゃあ他に何があるの、と目で問いかけてくるユゥイに、ファイは少しまごまごした。
それから、なんとなく頬を染めた。
「オレ、初めて黒たんに話が通じたとき、ホントに嬉しくて……」
えへへ、と笑うと黒鋼の眉がぴくりと動いた。
「えっとね、もっとお話したいなぁって……変身すぐに解けちゃうから、もっともっと時間が欲しいなぁって……」
そんな風に思ったから、かも。
ファイはなぜかもじもじと両手の人差し指を擦り合わせる。
どうしてか、黒鋼と一緒にいたいのだということをユゥイに話すときは、ちょっと恥ずかしいような気持ちになってしまう。
そんなファイの話を聞いて、なぜかユゥイは黒鋼をじっとりと睨みつけた。
「なんだよその目は」
「……一体どんな魔法を使ってこの子をたらしこんだのかと思って」
「人聞き悪ぃこと言うな」
「ねぇファイ? じゃあ一体いつになったら帰って来るの? まさかずっとここにいたいわけじゃないよね?」
「えっ」
ユゥイが困り顔で訪ねてくるので、ファイも困ってしまった。
「いくら変身できるって言っても、その耳や尻尾を見てごらん? ファイは完全に人間になれるわけじゃないでしょ?」
「う……」
それはその通りだ。その通りでは、あるのだが。
ファイは咄嗟に黒鋼を見た。彼は何も言わずに目を閉じて茶をすすっている。
「みんな寂しがってるよ。そもそも、お礼とお別れを言いたいからって変身したんだよね? そうしたらすぐ戻って来るって、約束したじゃない」
「うん……」
いくら黒鋼を見ても、彼はこちらを見てくれない。
ふと、もしかして自分がここに居続けることは、彼にとっても迷惑なのだろうかと考えた。
まだここにいたいと駄々をこねることは簡単だが、受け入れ先である黒鋼がどう思うかなんて、考えもしなかった。
今の今まで、自分のことばかりを考えていたような気がする。
「ファイのおうちはここじゃない。これ以上迷惑かけないうちに、もう帰ろう?」
「……ぅ」
ね、と手を差し出してくるユゥイに、渋々「うん」と頷きかけた。だがそのとき。
「おい」
黒鋼が短く声を発した。そしてファイを真っすぐに見て問いかけてくる。
「おまえは結局どうしたいんだ?」
「え」
「化け猫とやらもまだ探してねぇんだろ」
「うん……」
そんなことはとっくに忘れていた。どうでもよくなっていた、と言ってもいい。
「やりてぇことが残ってんなら、素直にそう言やいいじゃねぇか」
「それって、もう少しここにいてもいいってこと?」
「しょうがねぇだろ」
「迷惑じゃない……?」
黒鋼はその問いに対する答えを、ファイにではなくユゥイへ向けて言った。
「猫一匹置くぐれぇ、どうってことねぇ」
「……ふぅん。猫、ね」
ユゥイは少し意地悪そうな顔で笑うと、どこか含みのある物言いをした。
「猫だろ。こいつは」
そんなユゥイを見る黒鋼の目も普段よりさらに鋭い、ような気がする。
ファイが本来『猫』であることは当たり前のことなのに、なぜ今更こんな風に確かめ合う必要があるのか、二人の間に流れる空気に入っていけないファイは、ただ不安げに見守るしかない。
「……わかってるならいいよ」
そう言って素っ気なく黒鋼から視線を外したユゥイは、ひとつ大きく息をつくと立ちあがった。
「ユゥイ……?」
「しょうがないね。ファイ、この人もファイのことがお気に入りなんだってさ」
「ッ……」
黒鋼が茶を口に含んだ途端に咽た。
「あとちょっとだけだよ。また少ししたら迎えに来るから、そのときまで」
「ユゥイ……! ありがとー!」
ファイも飛び上がるように立ち上がると、ぎゅっとユゥイに抱きついた。
「そうそう、やり取りできないのは何かと不便だから、これをあげるよ」
よしよしとファイの頭を撫でていたユゥイが、思い出したように何かを取り出した。
それをはい、と渡される。
「これなぁに? 見たことあるような……」
青くて長方形をした小さな板のようなもの。白い猫のキーホルダーのような飾りがついている。いじってみると、パカッと開いた。
「あ、これ似たようなの黒たんも持ってるー」
「そ。携帯電話。222ってボタンを押すと、ボクに通じるから」
「にゃんにゃんにゃんかよ……」
つーか一体どこのやつなんだ……ド●モか? a●か? それともお父さんのやつか? と、黒鋼が呆れた顔で突っ込みを入れている。
「何かあったとき……そう、例えばそこの黒い人がオオカミになったときとか、すぐに連絡寄こして」
殺しに来るから……とユゥイは物騒なことを小声で呟いた。
「黒たんも変身できるの?」
「出来るわけねぇだろ!! おいこらてめぇ物騒なこと言ってんじゃねぇぞ!」
「じゃあねファイ。色々気をつけて」
「うん! 本当にありがとう!」
「無視かよ!!」
ユゥイは最後まで黒鋼の突っ込みに答えることなく、少し寂しそうな顔をすると指先で何か光る文字を描きだした。
「じゃあまたね」
その文字の羅列に包まれるようにして、彼は煙のようにしゅるんっと消えてしまった。
ファイは目をパチクリさせながら感動した。
「ユゥイ……魔法使ってるとこ初めて見た……!」
「……滅茶苦茶だな」
黒鋼はもっともっと驚いているようだった。
+++
そんなこんなであと少し人間の世界にいることを許されたファイ。
夜も遅いし、いい加減寝ようとしたそのとき。
「あ!!!」
「なんだよ……まだなんかあんのか……」
「ユゥイに女の子に変身する方法聞くの忘れちゃったよ……」
よし、さっそく『222』を押そう……と携帯を取り出したところで思いっきり手で制される。
「おまえまだ諦めてなかったのかよ……」
「だって、女の子じゃないと黒たん一緒に寝てくれないんでしょ?」
「あのなぁ……」
黒鋼は面倒くさそうに頭をガリガリと掻いた。
「仮になれたとしても、俺はてめぇとは寝ねぇ」
「なんで!?」
「なんでってな……てめぇと同じ顔したおっかねぇ野郎に、妙な釘刺されたからに決まってんだろ」
「え? いつの間に?」
ずっと三人でテーブルを囲んでいたはずだが、ユゥイがそんな怖いことをしていた様子はなかった。
見たところ黒鋼に外傷もないようだが……。
「とにかく諦めろ。妙な黒魔術でもかけられて殺されるなんざ、御免だぜ」
「黒たぁん……」
明かりを消して、黒鋼はいよいよ寝に入ってしまった。
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「出たーーーーーー!!!!!」
ファイは絶叫した。尻尾の毛を逆立たせて、即座に黒鋼の背後に隠れた。
そこには引き攣ったような笑顔で仁王立ちするユゥイの姿が……。
「人を幽霊みたいに。いつからそんな失礼な子になったのかな」
「な、なんで!? なんでここに!?」
「誰かさんがなかなか帰ってこないから、心配して迎えに来てあげたんだけど?」
そう言うと、腰に両手を当てたままユゥイは腰を屈めた。そしてポカンと口を開けたままの黒鋼をじーっと見る。
「なるほど君か。デカくて全体的に黒い人っていうのは。ホントに黒いな」
「……おい、説明しろ」
黒鋼は背中に隠れているファイと、正面のユゥイを幾度か交互に見やる。
「双子かおまえら? つーかこいつは一体どっから入った……?」
「ファイ、出て来て説明しなさい」
「…………はい」
おずおずと、耳を後ろに倒したままファイは黒鋼の背中から顔を出した。
+++
「と、いうわけでねー、なんでかオレ、元の姿に戻れなくなっちゃったのー」
ひとまず説明をした。
ユゥイは床に胡坐をかいて静かに聞いていたが、腕を組んで「うーん」と唸った。
そこに、律儀に茶を用意した黒鋼がやってきて、ユゥイの目の前に置く。そして三人でテーブルを囲んだ。
「だからね、帰るに帰れなくてー」
ジロリ。睨まれて背筋を正す。
「さっき思いっきり忘れてたって言ってたのが、ちょうど聞こえたんだけどね」
「ギクッ」
大袈裟に溜息をついたユゥイは湯飲みを手にすると口をつける。そして大きく肩を揺らした。
「熱っ! 渋っ! まずっ!」
「悪かったな……」
イラッとしている黒鋼を睨むユゥイ。なんだかこの二人の間に流れる空気は、あまりよろしくない。
一応、自分がユゥイをコピーして変身した、ということは説明して理解はしてもらえたが。
「ボクが思うに」
ユゥイはそれ以上湯飲みには口をつけず、少しだけ首を傾げた。
「単に順応力が過剰に働いてるだけなんじゃない?」
「ざんにょう?」
「順応、だよファイ。適応力とも言うね」
「人間になった途端、それが過剰反応したってのか?」
黒鋼の言葉にユゥイは素直に頷いた。
「多分ね。怖い思いをいっぱいしたから、人間に変身したのを切っ掛けに、ファイの本能が猫のまんまじゃこの世界を生き抜けない、って判断したんじゃない? まぁ……よくわかんないから適当だけど」
「いい加減だな、随分と」
「仕方ないでしょ。前例ないんだから、ボクだって判断に困るよ」
「なーるほどねー」
わかったような、わからないような。だがなんとなく納得はできた気がした。
確かに初めてこの世界に来たときの、あの恐怖心は今もファイの中にある。同じ猫でも、厳しいルールや苛酷な環境で生き抜いているこちらの猫社会には、どう足掻いても馴染めそうもなかった。
その点、人間の姿ならボス猫も子供も自分より小さくて、追われる心配も遊ばれる心配もない。
「でもー……」
何か違うような気がする。
「オレはもっと違う理由だと思う」
「ふぅん?」
じゃあ他に何があるの、と目で問いかけてくるユゥイに、ファイは少しまごまごした。
それから、なんとなく頬を染めた。
「オレ、初めて黒たんに話が通じたとき、ホントに嬉しくて……」
えへへ、と笑うと黒鋼の眉がぴくりと動いた。
「えっとね、もっとお話したいなぁって……変身すぐに解けちゃうから、もっともっと時間が欲しいなぁって……」
そんな風に思ったから、かも。
ファイはなぜかもじもじと両手の人差し指を擦り合わせる。
どうしてか、黒鋼と一緒にいたいのだということをユゥイに話すときは、ちょっと恥ずかしいような気持ちになってしまう。
そんなファイの話を聞いて、なぜかユゥイは黒鋼をじっとりと睨みつけた。
「なんだよその目は」
「……一体どんな魔法を使ってこの子をたらしこんだのかと思って」
「人聞き悪ぃこと言うな」
「ねぇファイ? じゃあ一体いつになったら帰って来るの? まさかずっとここにいたいわけじゃないよね?」
「えっ」
ユゥイが困り顔で訪ねてくるので、ファイも困ってしまった。
「いくら変身できるって言っても、その耳や尻尾を見てごらん? ファイは完全に人間になれるわけじゃないでしょ?」
「う……」
それはその通りだ。その通りでは、あるのだが。
ファイは咄嗟に黒鋼を見た。彼は何も言わずに目を閉じて茶をすすっている。
「みんな寂しがってるよ。そもそも、お礼とお別れを言いたいからって変身したんだよね? そうしたらすぐ戻って来るって、約束したじゃない」
「うん……」
いくら黒鋼を見ても、彼はこちらを見てくれない。
ふと、もしかして自分がここに居続けることは、彼にとっても迷惑なのだろうかと考えた。
まだここにいたいと駄々をこねることは簡単だが、受け入れ先である黒鋼がどう思うかなんて、考えもしなかった。
今の今まで、自分のことばかりを考えていたような気がする。
「ファイのおうちはここじゃない。これ以上迷惑かけないうちに、もう帰ろう?」
「……ぅ」
ね、と手を差し出してくるユゥイに、渋々「うん」と頷きかけた。だがそのとき。
「おい」
黒鋼が短く声を発した。そしてファイを真っすぐに見て問いかけてくる。
「おまえは結局どうしたいんだ?」
「え」
「化け猫とやらもまだ探してねぇんだろ」
「うん……」
そんなことはとっくに忘れていた。どうでもよくなっていた、と言ってもいい。
「やりてぇことが残ってんなら、素直にそう言やいいじゃねぇか」
「それって、もう少しここにいてもいいってこと?」
「しょうがねぇだろ」
「迷惑じゃない……?」
黒鋼はその問いに対する答えを、ファイにではなくユゥイへ向けて言った。
「猫一匹置くぐれぇ、どうってことねぇ」
「……ふぅん。猫、ね」
ユゥイは少し意地悪そうな顔で笑うと、どこか含みのある物言いをした。
「猫だろ。こいつは」
そんなユゥイを見る黒鋼の目も普段よりさらに鋭い、ような気がする。
ファイが本来『猫』であることは当たり前のことなのに、なぜ今更こんな風に確かめ合う必要があるのか、二人の間に流れる空気に入っていけないファイは、ただ不安げに見守るしかない。
「……わかってるならいいよ」
そう言って素っ気なく黒鋼から視線を外したユゥイは、ひとつ大きく息をつくと立ちあがった。
「ユゥイ……?」
「しょうがないね。ファイ、この人もファイのことがお気に入りなんだってさ」
「ッ……」
黒鋼が茶を口に含んだ途端に咽た。
「あとちょっとだけだよ。また少ししたら迎えに来るから、そのときまで」
「ユゥイ……! ありがとー!」
ファイも飛び上がるように立ち上がると、ぎゅっとユゥイに抱きついた。
「そうそう、やり取りできないのは何かと不便だから、これをあげるよ」
よしよしとファイの頭を撫でていたユゥイが、思い出したように何かを取り出した。
それをはい、と渡される。
「これなぁに? 見たことあるような……」
青くて長方形をした小さな板のようなもの。白い猫のキーホルダーのような飾りがついている。いじってみると、パカッと開いた。
「あ、これ似たようなの黒たんも持ってるー」
「そ。携帯電話。222ってボタンを押すと、ボクに通じるから」
「にゃんにゃんにゃんかよ……」
つーか一体どこのやつなんだ……ド●モか? a●か? それともお父さんのやつか? と、黒鋼が呆れた顔で突っ込みを入れている。
「何かあったとき……そう、例えばそこの黒い人がオオカミになったときとか、すぐに連絡寄こして」
殺しに来るから……とユゥイは物騒なことを小声で呟いた。
「黒たんも変身できるの?」
「出来るわけねぇだろ!! おいこらてめぇ物騒なこと言ってんじゃねぇぞ!」
「じゃあねファイ。色々気をつけて」
「うん! 本当にありがとう!」
「無視かよ!!」
ユゥイは最後まで黒鋼の突っ込みに答えることなく、少し寂しそうな顔をすると指先で何か光る文字を描きだした。
「じゃあまたね」
その文字の羅列に包まれるようにして、彼は煙のようにしゅるんっと消えてしまった。
ファイは目をパチクリさせながら感動した。
「ユゥイ……魔法使ってるとこ初めて見た……!」
「……滅茶苦茶だな」
黒鋼はもっともっと驚いているようだった。
+++
そんなこんなであと少し人間の世界にいることを許されたファイ。
夜も遅いし、いい加減寝ようとしたそのとき。
「あ!!!」
「なんだよ……まだなんかあんのか……」
「ユゥイに女の子に変身する方法聞くの忘れちゃったよ……」
よし、さっそく『222』を押そう……と携帯を取り出したところで思いっきり手で制される。
「おまえまだ諦めてなかったのかよ……」
「だって、女の子じゃないと黒たん一緒に寝てくれないんでしょ?」
「あのなぁ……」
黒鋼は面倒くさそうに頭をガリガリと掻いた。
「仮になれたとしても、俺はてめぇとは寝ねぇ」
「なんで!?」
「なんでってな……てめぇと同じ顔したおっかねぇ野郎に、妙な釘刺されたからに決まってんだろ」
「え? いつの間に?」
ずっと三人でテーブルを囲んでいたはずだが、ユゥイがそんな怖いことをしていた様子はなかった。
見たところ黒鋼に外傷もないようだが……。
「とにかく諦めろ。妙な黒魔術でもかけられて殺されるなんざ、御免だぜ」
「黒たぁん……」
明かりを消して、黒鋼はいよいよ寝に入ってしまった。
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白猫、女体を思い描くの巻
それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
←戻る ・ 次へ→
それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
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黒鋼、言い訳のしようがないの巻
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
←戻る ・ 次へ→
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
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変態、誤解が解けるの巻
はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
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はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
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黒鋼、自宅に変態現るの巻
動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
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動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
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「ギャーーー!! 絶対に嫌ーーーー!!!」
ファイの絶叫が、おそらく近所中に響き渡った。
ついに恐れていたことが現実のものとなってしまった。
これまでは特に何も言われなかったのをいいことに、こちらからも切り出さなかったのだ。
顔や手洗いも、歯磨きも徹底されてきたし、もしかしたらいつかは風呂も……なんて危惧していた。
だから外へ出ても極力、余計なものには触らないようにしていた。時々公園の芝生の上にゴロゴロしたくなることもあったが、それもぐっと我慢していた。
基本的に猫は体臭が薄い生き物だ。不完全な変身しかできていないファイは、おそらく普通の人間と比べてあまり臭わないのだろう。
だがついに……ついにこのときが来てしまった……。
「やだやだ黒たんやめてよーーッ!!」
ファイは脱衣所に連れて来られ、そしてその場で裸にひん剥かれようとしていた。これからどんな試練が待ち受けているか分かっているファイは、全力で暴れる。
「うるっせぇ!! 大人しく脱げ!! 全部脱げ!!」
「いぎゃー!! やだー!! 絶対やだー!!」
黒鋼に借りているブカブカの黒ジャージを脱がされる。ちなみに下はノーパンである。
足やら手やら、とにかく使えるものは何でも使う勢いで押さえこまれて丸裸にされた。
そうしながらも黒鋼が微妙に明後日の方へ視線を向けているのが不思議だったが、とにかく力技で剥かれたファイはそのまま浴室に放り込まれた。
無情にもガラリと音を立てて閉められた曇りガラスのドアに、ぺったりと縋る。
「出してー!! いやー!!」
「張り付くなこのアホ猫!! 曇りガラスの威力舐めんな!! いいから黙ってまずシャワーを出せ!!」
「嫌だ嫌だ嫌だー!! 濡れるのやだぁぁアッあ!? 足! すでにちょっと濡れて!? 足の裏が冷たいよぉー!!」
浴室の狭い空間に、ファイの絶叫が反響する。
黒鋼は外から全力で扉を押さえているようだ。
「いいから早くしろ!! また苦情が来ちまうだろ!!」
「うわああぁあぁああーんっ!!!」
「うるせぇー!!」
有無を言わさぬ厳しさで怒鳴り返されて、おそらく確実に苦情は来るだろうと思う傍ら、ファイはしくしくと泣いた。
「うぅ……う……グス……やだよぉ……こわいよぉ……」
本来、猫は綺麗好きである。自分の舌で全身の毛をグルーミングして、清潔を保つ。
この姿になってもその癖は抜けず、たまに無意識に手の甲を舐めたりはしてしまうが、人間は猫のようにはいかない。手入れできない状態は確かにちょっと気になってはいたが、お湯だろうが水だろうが、直に濡れるのはやっぱり怖かった。
静かに泣いていると、黒鋼が大きく溜息をつくのが聞こえた。
「おまえ、このまま放っておいたらどんどん汚れて臭くなってくぞ」
「グスッ……いいよ……嫌だけど、我慢する……」
再び聞こえる溜息。その後沈黙。やがて黒鋼がぼそりと言った。
「……なら、もう触ってやんねぇ」
「!?」
「さっきみてぇに甘えさしてやんねぇぞ」
「!?!?!?」
「いいんだな?」
それは究極の選択である。
だが、ファイの中で答えはたった一つだった。
そうだ。臭くて困るのは自分だけではない。同じ空間に暮らす黒鋼にも、害が及ぶのだ。
ファイはグスンと大きく鼻をすすった。背後におわすシャワーのホースが、まるでぬらぬらと光る蛇のようにも見えて、身体が震える。
しかしこの強制イベントを回避することは不可能だ。ならばせめてと、ファイは鼻先を赤くしながら一つだけ懇願する。
「く、黒様あのね」
「んだよ」
「せめて、一緒に入って……」
「!?」
「最初っから一人は……ちょっと不安、かも……」
「………」
曇りガラスの向こうで、黒鋼が押し黙る。ファイの方からはただの黒い、ぼんやりとした物体にしか見えないが、もしかしたらこちらに背中を向けているのかもしれない。
「黒たん……ねぇってば……」
「……確かにそれが一番手っ取り早いってのは分かる」
「でしょー? 黒たんと一緒だったらオレ」
「だが断る」
「!?」
そんなぁ……と、ファイは再び涙ぐんだ。
確かに甘えたことを言っているかもしれない。けれど今の状況は、ファイにとって死地に一人きりで投げ込まれているも同然の恐怖だった。
顔を洗ったり歯を磨いたり、そういう場面ではしっかりサポートしてくれる黒鋼だから、せめて最初くらいは傍にいてくれたら、とても心強いのだが。
「……俺もな」
「……?」
「まだちっと、頭ん中がごたついてんだ」
「なんのお話?」
「いいからとっとと済ませちまえ」
「ふぇぇ……」
おかしな声を上げながら、それでもファイは再び白い蛇と向き合うと、恐る恐る歩み寄って、震える指先をコックに伸ばした。
赤い方を捻ればいいと、黒鋼が言った。ゴクリと息を飲む。シャワーは友達。怖くない。
…………いや、やっぱり怖い。
身体の震えは裸で浴室に放り出されたせいだけではなかった。
それでもここまで来たら、黒鋼の言う通りとっとと済ませてしまうに限る。
「……えい!」
掛け声と一緒に、思い切って捻ってみた。
一気に流れ出した湯が、ファイの頭から降り注ぐ。
「ひぃぃぃ……!?」
「よくやった! やればできるじゃねぇか!」
「うぅうぅ……お湯、あったかいぃ……」
濡れている。思いっきり頭からずぶ濡れになっている。全身に湯が伝う。飛び上がりたいほど嫌だ。けれど……温かい。ホカホカだった。ほんのちょっとだけ、気持ちいいような気がしないでもない。
「よし、じゃあ今から俺が言うとおりにしろ。いいな?」
「うぐっ、うんっ、うんっ」
その後、ファイはべそをかきつつも湯に打たれ、指示通りに全身を洗うことに成功した。
+++
本当に、心底酷い目にあったと感じた。
風呂場を出ると脱衣所には新たなジャージとタオルが用意されていて、黒鋼の姿はなかった。
鼻をすすりながら身体を拭き、それを着て部屋に戻ると、今度はドライヤー攻撃が待っていた。
黒鋼が使用していたのは遠目から眺めていたが、実はあのゴーゴーという音は少し怖い。掃除機ほどではないが、それでも怖いものは怖かった。
それが自分に向けられる日が来ようとは。
黒鋼に押さえつけられ、髪が乾く頃には、ファイはすっかり意気消沈していた。
そしてぐったりと床に倒れ込むファイを置いて、黒鋼はさっさと出かけてしまった。
「黒たんの鬼……黒鬼……」
呟きは空しく室内の乾いた空気に四散した。
ファイはだるい身体を起こすと、台所に向かう。シンク横の天板の上には、すっかり冷めたトーストが二枚、皿に乗せて置いてある。
それを手に取り、その場でムシャムシャと食べる。冷蔵庫から水の入った2Lのペットボトルを取りだして、コップにつがずに行儀悪くラッパ飲みしてやった。
空腹が落ち着くと眠くなってきたが、まだ昼寝には早い時間だ。
だが今日は外を散歩する気力もなくて、ファイはまだトーストの残っている皿を手に部屋に戻ると、腰を下ろしてテレビをつけた。
『君たちやっぱりプ●ミスだ!』
CMというものが流れている。これが流れている間、テレビはあまり面白くない。
だが暫く待っていると、ここ最近なんとなく見ているドラマが始まった。再放送というものらしい。
暇つぶしに見ていたら、だんだん続きが気になってしまい、今では欠かさず見るようにしている。
人間の世界にはなんとも不思議で楽しい娯楽があるものだと、ファイは硬くなっているトーストの残りを齧りながら思った。
ドラマの中では、男女が何やら揉めている。仲がいいのか悪いのか、ついさっきまで言い合いをしていたかと思ったら、今度は身を寄せ合っている。
男が、女の両肩を抱く。女が目を閉じる。男が彼女に顔を寄せる。
そして、唇と唇を合わせた。
「!」
それを見た瞬間、ファイはピンっと尻尾を真っすぐに立たせた。
「これ、さっき黒たんとしたやつと一緒だ……」
なぜだろう。よく分からないけれど、顔が熱くなった。
女が男に「好き」と言った。それから「抱いて」と。
そうだ、好きだから抱いてほしい。ぎゅっとしてほしい。ファイにはテレビの中の女の気持ちが分かるような気がした。
男は何と答えるのだろう。黒鋼のように、思い切り嫌そうな顔をするのだろうか。知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
男は優しく笑った。なぜか心臓がドキリと跳ねる。ちっとも似ていないのに、画面に映し出されている男の表情が、黒鋼と重なったような気がした。
ますます目が離せなくなってしまう。
二人の男女は再び唇を重ね合った。そして、倒れこむ。次の瞬間には裸になって、シーツの中で抱き合っていた。
画面がぼやけたりして細部は見えない。綺麗な音楽が流れていて、二人が何をしているのかを誤魔化しているようだった。
やがて場面は朝になる。目を覚ました二人はどこか照れ臭そうに、裸のまま、また唇同士を合わせた。
ドラマはそこで終わった。
エンディングテーマが流れる中、次回予告が流れていてもファイの頭の中には入ってこなかった。
ただ目を輝かせ、頬を染めてぽっかりと口を開けていた。
……これだ。
「これだーーー!!!」
ファイはハイテンションでそう叫ぶと、青い携帯電話を手に取り『222』をプッシュした。
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