905号室の怪異
死んでやるから。
長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。
白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。
透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。
そんな不思議な感覚で。
死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。
生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。
とにかく疲れ切っていた。何もかもに。
心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。
死んでやる、死んでやる。
女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。
ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。
勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。
思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。
もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。
こんな風になってしまう以前は、確かに。
満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。
人間は本当に面倒な生き物だ。
結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。
分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。
馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
そして、鮮血の飛沫が上がった。
黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。
這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。
*
まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。
時刻は午前零時過ぎ。
駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。
等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。
黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。
残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。
人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。
営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。
冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。
忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。
いかんなと、黒鋼は思う。
ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。
今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。
しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。
常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。
次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。
とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。
そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。
駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。
煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。
大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。
黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。
「気の毒だとは思うがな……」
眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。
9階、905号室。
住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。
それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。
前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。
ただ一つ、ある問題を除いては。
*
「……またか」
暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。
遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。
深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。
今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。
リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。
テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。
苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。
だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。
冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。
ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。
ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。
「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」
自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。
テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。
真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。
明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。
それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。
思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。
もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。
*
管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。
元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。
毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。
ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。
毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。
自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。
彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。
「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」
すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。
朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。
あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。
「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」
そう言って、彼女は涙を流した。
悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。
前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。
念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。
*
管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。
「……明日だな」
こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。
明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。
携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。
←戻る ・ 次へ→
死んでやるから。
長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。
白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。
透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。
そんな不思議な感覚で。
死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。
生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。
とにかく疲れ切っていた。何もかもに。
心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。
死んでやる、死んでやる。
女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。
ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。
勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。
思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。
もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。
こんな風になってしまう以前は、確かに。
満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。
人間は本当に面倒な生き物だ。
結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。
分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。
馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
そして、鮮血の飛沫が上がった。
黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。
這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。
*
まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。
時刻は午前零時過ぎ。
駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。
等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。
黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。
残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。
人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。
営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。
冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。
忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。
いかんなと、黒鋼は思う。
ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。
今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。
しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。
常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。
次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。
とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。
そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。
駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。
煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。
大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。
黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。
「気の毒だとは思うがな……」
眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。
9階、905号室。
住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。
それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。
前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。
ただ一つ、ある問題を除いては。
*
「……またか」
暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。
遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。
深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。
今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。
リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。
テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。
苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。
だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。
冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。
ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。
ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。
「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」
自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。
テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。
真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。
明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。
それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。
思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。
もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。
*
管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。
元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。
毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。
ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。
毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。
自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。
彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。
「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」
すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。
朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。
あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。
「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」
そう言って、彼女は涙を流した。
悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。
前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。
念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。
*
管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。
「……明日だな」
こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。
明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。
携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。
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番外編:元白猫、 うっかりチョコを作るの巻
『バレンタインは愛情たっぷりの手作りチョコで決まり!
これで愛しの彼のハートを、ぎゅうっと掴んじゃいましょう!!』
黒鋼を送り出し、朝食の後片付けを終えてひと段落ついたファイの目に、朝のワイドショーで組まれた特集が目に飛び込んできた。
全体的にピンク色の濃い画面と、愛しの彼のハート、という言葉に思わず釘付けになってしまう。特集の内容は、誰でも簡単にオシャレな手作りチョコを作れてしまう便利グッズの紹介、というものだった。
「バレンタインかー」
そのイベントはもちろん知っている。
女の子が、好きな男性にチョコレートを贈って愛を伝える日だと、確かそう聞いた。
とはいえ、最近は女子同士で友チョコというものを交換したり、男性から女性に贈るというのも流行っているらしい。
つまり家族や友達や恋人など、自分が大切に思う人への感謝の気持ちを、チョコに乗せてプレゼントする日なのだと、ファイはそう解釈した。
そして、ファイがチョコレートを受け取ってほしい相手は、やはり黒鋼だった。友人でも家族でもなく、恋人として、である。
「んー、でもなぁー」
若干前のめりになってテレビを眺めていたが、すぐに首を傾げてしまう。
いくら愛しの黒鋼が相手といえども、一応は男性である自分がチョコを渡すのは、やっぱりおかしいだろうか?
テレビでは女の子が友達や男性にチョコを渡している風景は流れても、男同士でという話は一切ない。
世間では、そこにどんな理由があろうとも、男が男にチョコを渡すという行為は、一般的ではないのかもしれない。
しかし。
ファイは思わず、セーターの襟元をひょいっと指先に引っかけて、その下の自分の素肌に視線を落とした。
鬱血した小さな痕が、白い肌の上に幾つも散らばっているのが見える。
薄くなって消えかけてもすぐに上書きされる、それは所有の証だった。
つい数日前の夜のことを思い出し、ファイは耳まで熱くなるのを感じてパタパタと掌で顔を煽いだ。
つまり、女の子ではないけれど、女の子にするみたいなことをされて、女の子みたいな声を上げているわけで。
だから好きな人にチョコを渡しても、別にそれは変なことではないような気がする。
それに、テレビで放送されていることだけが事実ではないことを、ファイはちゃんと理解しているのだ。
自分たち以外にも、世の中には同性同士で愛を育んでいるカップルが、沢山いるに違いないのだから。
ファイがこの世界に来てそろそろ一年。せっかく初めてのバレンタインを迎えるのだし、愛情だけでなく、何かしら形にして日ごろの感謝の気持ちも伝えたい、という思いもあった。
「うん、だから変じゃない!」
何か大切なことを忘れているような気がしたが、今は他に何も考えられないくらい心が浮きたっていた。
+++
そういうわけで、ファイは長きにわたる人生で初めて、手作りチョコに挑戦してみることにした。
だが、テレビで見たようなものを使って、手軽にちょちょいっと作ってしまう……というのでは、いまいち納得がいかなかった。
コンビニやスーパーに並んでいるような、すでに完成された義理チョコなら失敗はないとは思うが、せっかくやる気満々になっているのだし、愛情をたっぷり練り込みたい。
やるなら手間暇をかけてガッツリやってこそだと思ったファイは、ちゃんとした手作りチョコの作り方を調べることにした。
そして途方に暮れた。
+++
「ファイ、ケーキ焼いたからお茶しよう」
いつものようにユゥイがファイの顔を見にドロンと姿を現すと、そこには畳に突っ伏して打ち震えるファイの姿があった。
「え、なに? なんでそんな世界の終末みたいな雰囲気になってるの?」
何事かと目を丸くしたユゥイだったが、すぐにハッとして拳を震わせた。
「まさか……あの真っ黒黒助が浮気を……」
そうか、そういうことか。信じろとかなんとか調子のいいことを言っておきながら、あの野郎は可愛いファイをこうして泣かせているのか。
ならば殺るしかあるまい。
す……っと懐から錆びた斧を取り出そうとするユゥイだったが、のっそりと身体を起こしたファイがブンブンと首を振ったのを見て手を止めた。
「違うよー……黒たんは浮気なんてしない……今朝も行ってきますのチュウしてくれたもん……」
「へぇ、そうなんだ…………チッ」
「え……なんか今舌打ちが聞こえたような」
「気のせいだよ」
「そ、そっかー」
「じゃあどうしてそんなに落ち込んでるの? 何かあったんでしょう?」
ひとまず憎いアンチクショウの容疑は晴れたが、ファイが酷く落ち込んでいるらしいことに変わりはない。
すぐ隣に腰を下ろして顔を覗きこむと、ファイはちょっと涙ぐみながら事の詳細を話し始めた。
「バレンタインだから、黒たんにチョコをあげようと思って。だからチョコの作り方を調べたんだ」
あれで、とファイは窓際の文机の上にあるノートパソコンを指差した。
黒鋼のお古を貰いうけたらしく、ファイは最近になってその基本的な使い方や、インターネットというものを覚えた。ちなみに、毎日タイピングの練習も行っている。まだキーボードをチラチラと見ながらではあるが。
「へぇ、そうなんだ」
相槌を打ちながら、ユゥイは勝手に台所を借りて、作って来たケーキや温かい紅茶の入ったカップをテーブルに並べる。
「そしたら、オレが思ったたよりもずっとチョコ作りって奥が深くて……あんなに手間暇も時間もかかるなんて知らなかったから、今から作り始めたんじゃ、もう明日に間に合わないよ……」
「時間って……別に今から準備しはじめたって普通に間に合うんじゃないの?」
よっぽど不器用で破壊的なまでに料理センスがないなら話は別かもしれないが、ユゥイの知る限り手作りチョコというものがそう何日も時間を要するほど手間のかかるものとは思えなかった。
思わず首を捻っていると、突如としてファイが握った拳をテーブルに打ちつけた。
「間に合わないよ!! カカオが育つまでに、どれだけかかると思ってるの!?」
…………。
ユゥイは思った。いや、再認識した。
あ、この子アホの子だ……と。
「しかも日本の気候じゃカカオを育てること自体が難しいんだ……バレンタインは明日なのに、オレは結局テレビで見たような簡単キットを使った手軽な愛しか、あの人に伝えることができないんだ……! オレなんて……オレなんて……!」
わっ、とテーブルに伏せてしまったファイを見て、ユゥイは重苦しい溜息を零した。
こめかみに鈍い痛みを感じて、思わず指先で強く押さえつける。
てっきり『チョコ 手作り』と検索バーに打ち込んだのだとばかり思いきや、まさか『チョコ 原材料』でググっていたとは予想外だった。
どこの世界にカカオを育てる段階から下準備しようとする乙女がいるだろう。ここか。ここにいるのか。
いや、そもそもアホの子以前に、行き過ぎた愛情は相手にとってただの重圧にしかならないのでは……?
ふとそう思っても口にしなかったユゥイは、この先果たして大丈夫なのだろうかと、主に黒鋼の心配をしはじめるのだった……。
そしてその後ユゥイに諭されたファイは、ごく一般的な手作りチョコというものをしっかりと理解した。
+++
失敗した。
ファイはテーブルの上のブツをじっとりと眺めながら、弱々しく溜息を零した。
赤い包みで可愛らしくラッピングされたそれは、黒鋼に渡すために張り切って作り上げた手作りチョコだ。
2月14日。
多くの恋人たちが甘く酔い痴れるこの日。
ファイが人間としてこの世界に暮らすようになってから、初めてのバレンタイン。
そして初めてここに来てからも、そろそろ一年が経過しようとしている。
だから日頃の感謝も込めて黒鋼に改めて気持ちを伝えるつもりで、張り切ってチョコの作り方を調べて(ちょっと遠回りはしたが)、材料を買いこんでどうにか作り上げた。
我ながらいい出来で、もちろんユゥイにも渡した。
自分も貰えるとは思っていなかったらしい彼は、涙ぐんで喜んでいた。
だから黒鋼も、きっとこんな風に喜んでくれると思っていた。
ウキウキしながら、暗くなる頃には戻ると言っていた彼を待っていた。
しかしふと、思い出してしまった。
それはとても重大なことだ。
普段からしっかり覚えていたはずなのに、浮かれ切って忘れていた。
綺麗さっぱり、見事にスポーンと頭から抜け落ちていたのだ。
そう、黒鋼は、甘いものが大の苦手だということを……。
+++
「帰ったぞ。おい? いねぇのか?」
玄関のドアを開けても灯りの一つも灯されていない室内を見て、黒鋼が顔を顰める。
テーブルの上のチョコを見て無の境地だったファイはハッとして、咄嗟にそれを掴むと灯りをつけられる前に背後にサッと隠した。
そして部屋が明るくなったと同時に笑顔と明るい声を作った。
「お、おかえりー! 寒かったでしょー?」
「おう、おまえいたのか。電気くらいつけろ。てか暖房つけろ。風邪ひくぞ」
「あ、う、うん。ごめん」
(どうしよう……)
背後のものをどうにかして隠滅しなくては、と思った。
甘いものは嫌いだと日頃からしつこいくらい言われ続けていたのに、それをサラッと忘れていたなんて、絶対に言えない。と、いうより言いたくない。
大好きな人の好みだから、いつだって気をつけるようにしていたのに。
それに……。
黒鋼は脱いだ上着をハンガーにかけると、電気ストーブのスイッチを押した。それから、座り込んで俯いているファイの様子を見て、また顔を顰めた。
「顔色が悪い」
その言葉と一緒に大きくて温かな手が耳の裏側に伸びてきて、ファイは思わず肩をビクンと震わせた。
「?」
「なんでもないよ! 元気元気! それより、おなか空いたよね? すぐに何か作るから、黒たんはお風呂でもどうー? それとも筋トレする? あ、壁に向かって延々屈伸運動とかどうかな?」
チョコを掴んだ手は背後に回したまま、不自然な動きで立ちあがると蟹にように横歩きをする。
このままどうにかして台所にフェードアウトしたい。そしてチョコをボッシュート……いや、やっぱり勿体ないから自分で食べて、急いで証拠を隠滅しよう。
そのためには、なんとしても彼の視線を他所へ向けさせなくては。
しかし、そんなあからさまに不審な動きをするファイを、黒鋼が見過ごすはずがなかった。
「おまえ」
「な、なぁにー?」
「黙って隠してるもんを出して見せろ」
「ギクー!」
「一体なにやらかした?」
ただでさえ鋭い目つきをさらに眇めて、腕組みをした黒鋼が睨みつけてくる。
ファイはまだ暖まりきらない室内にあって、嫌な汗が額に滲むのを感じた。
「な、なにも隠してないよ? オレは隠し事なんてしないよ?」
「じゃあ背中に引っ込めてる手を出してみろ」
「引っ込めてないし!」
「思いっきり引っ込んでるだろ!」
「ちょ、あっ、い、いやー!!」
目にも止まらぬ速さで黒鋼の手が伸びて来た。
思わず反り返ったファイの腕が掴まれて、ぐっと引き寄せられた瞬間、ガサリという音と共に赤い包みが畳の床に落ちた。
「あ……」
足元に転がったそれは、あまりにも強く掴んでいたせいで、醜い皺ができている。
売っているものに負けないくらい見た目も綺麗にしたつもりだったのに。酷く無様に見えて、ファイの中で自己嫌悪が肥大した。
「それは?」
しばしの間それをじっと見つめていた黒鋼がついに問いかけてくる。
ファイはもう駄目だと思った。
「チョコ……」
俯いて、ふいっと顔を背けると短く答える。
それから、黒鋼が何かを言う前に包みを拾い上げて、また背中に隠した。
これはいらないものだから、黒鋼には見られてしまったけど、これを食べてもらうわけにはいかない。
バレンタインは大好きな人にチョコを渡す日。それが出来ないなら、何も伝えられないような気がした。
単に好きな相手にチョコを渡す自分を想像して、一人で勝手に盛り上がって楽しんでいただけのような気がしてくる。
わざわざ苦手なものを渡そうとしていたことが恥ずかしくて、情けなくて、じんわりと視界が滲んだ。
黒鋼はそんなファイの様子をじっと眺めた後、ぼそりと言った。
「それ、貰ったのか?」
「……へ?」
咄嗟におかしな声を出すと顔を上げた。
怒っているような顔をした黒鋼の、真剣な眼差しが正面からぶつかってくる。
「どこのどいつに貰った……?」
何を言われているのかが一瞬理解できず、ファイは目を丸くして瞬きを繰り返す。
そうしてるうちに、空気がピリピリしてきたのを感じる。どうやら黒鋼が苛立ちはじめているようだった。
そこでふと、もしかしたら彼は大変な勘違いをしているのでは……という考えに至って、慌てて否定する。
「ちが、違うよ! これは貰ったんじゃないよー!」
「だったら隠す必要ねぇだろ」
「そっ、それは……その……」
「言えねぇようなことなのか」
「だから違うってば!!」
なんだかもう、ここまで来てしまったら隠している意味はないように思えた。
変に誤解を生むくらいなら、正直に言ってしまった方がずっといい。
ひょっとしてヤキモチ? と思うと窓ガラスを突き破ってダイブしたいほど嬉しかったが、今はそんなことをして命を落としている場合でもない。
だからファイは思いっきり息を吸い込むと、力の限り叫んだ。
「これはオレが、黒たんにあげたくて作っちゃったのー!!」
ああ、言ってしまった。
目を見開いてぽかんと口を開けている表情を見て、ファイは恥ずかしさのあまり頬を赤らめた。
「バレンタインは、好きな人にチョコ渡す日なんでしょ……? オレ、黒たんにチョコあげたくて、でも、黒たん甘いの駄目って後から思い出して、だから渡せなくて、そしたら、あげられるの何もないって思って……っ、だから……」
自分でも何を言いたいのかが分からなくなった。
「ごめん……。おかしいよね。貰っても嬉しくないもの、ウキウキして作っちゃうなんて」
これは捨てるからと、黒鋼の横をすり抜けようとした。
だが、それは叶わなかった。
「!」
手の中から、ぐしゃぐしゃになったチョコが消えた。
奪われたのだと気付いたとき、黒鋼がそれを手にどっかりと床に胡坐をかいた。
「ちょっと、黒たん?」
「食いもん粗末にすんな」
「でも」
「それにこれは俺んだ。勝手に捨てんじゃねぇ」
「え」
ガサガサと音を立てて、赤い包みの中から小さな白い箱が姿を現す。
黒鋼が箱の中身さえも暴いてしまうと、そこにあったのはココアパウダーがまぶされた生チョコレートだった。
咽るほどの甘い香りが一気に立ちこめ、部屋いっぱいに広がった。
無骨な指先がそれを一つ摘まんで、なんの躊躇いもなく口に放り込む。
「ちょ、まっ……!?」
するとみるみるうちに黒鋼の眉間の皺が深くなって、思いっきり苦い表情になった。
ファイは泣きたくなって、すぐ横に膝をついて箱を取り返そうとした。けれど、手首を掴まれて箱も遠ざけられてしまう。
「無理しなくていいってば……っ」
「うるせぇな。静かに食わせろ」
「だって美味しくないでしょ!? ちょっと鼻の穴膨らんでるよ!? しかも涙ぐんでる!?」
惚れた贔屓目を抜きにしても精悍で男前な黒鋼の顔が、地味に痛々しいことになっている。
どうしてそこまでして無理やりにでも口に運んでいるのか、さっぱり分からず混乱した。
「なんで……黒たん……」
「こんくらいどうってことねぇ。おまえ、覚えてるか?」
「ふぇ……?」
「おまえが最初の頃に作った玉子焼きだ。アホみてぇに甘くして、しかも容赦なくこがしやがって」
「!」
少し苦々しくはあったけれど、黒鋼は小さく笑って見せた。
その顔を、ファイは知っていた。
彼の言うとおりだ。人間になって間もない頃、覚えたての玉子料理ばかりを毎日のように作っていたあの頃。
見るも無残な形の玉子焼きは塩と砂糖を間違えて、しかも手が滑って大量に投下してしまった。
ファイはそれを捨てようとしたけれど、今みたいに黒鋼が「粗末にするな」と言って全て平らげた。
そういえばあの時の黒鋼は酷く脂汗をかいて、今よりもずっと苦しそうだった。
そして「次はがんばれ」と言って、今みたいに笑った。
「あれに比べりゃ見栄えもいいしな。一年に一回くらいなら、悪くねぇよ」
それはまた来年もチョコを作ってもいいということだろうか。受け取ってくれるということだろうか。
そうこうしているうちに、ついに箱の中身は空っぽになった。
ファイは腰が抜けるような感覚を覚えて、ペタリと床に崩れ落ちる。
あのときと同じ、そしてこれからも変わらない優しさを感じて、胸がじんと痺れた。だが、かといって黒鋼に我慢を強いるのは納得がいかない。
「でも、やっぱり無理はしてほしくないよ……」
「俺が好きでやってんだ。ほっとけ」
「……マゾなのかな?」
「ぶん殴るぞ。ああ、それとな」
「?」
黒鋼は、おもむろに自分のジーンズの尻ポケットを探ると、少し潰れた青い包みを取り出した。
金色の綺麗なリボンが巻かれたそれを、目の前に突き出してくる。
「これは……?」
「まぁ、なんだ……。気持ちだ」
この人がガリガリと頬を掻きながら目を逸らすのは、照れ臭くて仕方がないときだ。
ファイは受け取ったその包みが、中身を空けずともなんであるかを察した。
「これ、チョコ……? 黒たんが、オレに?」
信じられない思いで目を瞬かせながら、ファイは手の中の箱を見つめる。
驚いた。黒鋼は、あまりこういうイベントを気にするタイプには思えなかったのだ。
「そろそろ一年だしな……それも兼ねて、ついでだ。ついで。言っとくがな、俺は手作りなんてできねぇからな。そいつは買ったもんだ」
口ではひねたことを言っているけれど、手作りだろうがそうじゃなかろうが、そんなものは関係なかった。この小さな箱の中に、彼の気持ちが溢れるほど込められているのが伝わって、胸がいっぱいになる。
何よりも、黒鋼も同じことを考えていてくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。
去年の今頃は、ここでこうして暮らしているなんて想像もしなかった。
ましてや人間の黒鋼と恋仲になるなんて、ただの猫だった頃の自分が知ったらビックリして、腰を抜かすどころの騒ぎではないかもしれない。
この人と出会えたというだけで、きっと自分は世界で一番幸せな猫だった。この世界に限らず、たくさんの世界に存在するたくさんの猫の中でも、一番に。
込み上げる満面の笑みを抑えきれず、チョコの包みを両腕で抱きしめた。温かくて、甘くて、いっそ胸が苦しくなるほどに。
「凄く嬉しい……」
それに続くはずだった「ありがとう」は、熱い唇によって奪われてしまった。甘ったるいチョコレートの味と香りが、口の中いっぱいに広がった。
この熱と甘さで、多分このまま溶かされてしまうのだと思う。
ファイはそっと膝の上に青い包みを置くと、両腕を黒鋼の首に回して強く抱き寄せた。
←戻る ・ Wavebox👏
『バレンタインは愛情たっぷりの手作りチョコで決まり!
これで愛しの彼のハートを、ぎゅうっと掴んじゃいましょう!!』
黒鋼を送り出し、朝食の後片付けを終えてひと段落ついたファイの目に、朝のワイドショーで組まれた特集が目に飛び込んできた。
全体的にピンク色の濃い画面と、愛しの彼のハート、という言葉に思わず釘付けになってしまう。特集の内容は、誰でも簡単にオシャレな手作りチョコを作れてしまう便利グッズの紹介、というものだった。
「バレンタインかー」
そのイベントはもちろん知っている。
女の子が、好きな男性にチョコレートを贈って愛を伝える日だと、確かそう聞いた。
とはいえ、最近は女子同士で友チョコというものを交換したり、男性から女性に贈るというのも流行っているらしい。
つまり家族や友達や恋人など、自分が大切に思う人への感謝の気持ちを、チョコに乗せてプレゼントする日なのだと、ファイはそう解釈した。
そして、ファイがチョコレートを受け取ってほしい相手は、やはり黒鋼だった。友人でも家族でもなく、恋人として、である。
「んー、でもなぁー」
若干前のめりになってテレビを眺めていたが、すぐに首を傾げてしまう。
いくら愛しの黒鋼が相手といえども、一応は男性である自分がチョコを渡すのは、やっぱりおかしいだろうか?
テレビでは女の子が友達や男性にチョコを渡している風景は流れても、男同士でという話は一切ない。
世間では、そこにどんな理由があろうとも、男が男にチョコを渡すという行為は、一般的ではないのかもしれない。
しかし。
ファイは思わず、セーターの襟元をひょいっと指先に引っかけて、その下の自分の素肌に視線を落とした。
鬱血した小さな痕が、白い肌の上に幾つも散らばっているのが見える。
薄くなって消えかけてもすぐに上書きされる、それは所有の証だった。
つい数日前の夜のことを思い出し、ファイは耳まで熱くなるのを感じてパタパタと掌で顔を煽いだ。
つまり、女の子ではないけれど、女の子にするみたいなことをされて、女の子みたいな声を上げているわけで。
だから好きな人にチョコを渡しても、別にそれは変なことではないような気がする。
それに、テレビで放送されていることだけが事実ではないことを、ファイはちゃんと理解しているのだ。
自分たち以外にも、世の中には同性同士で愛を育んでいるカップルが、沢山いるに違いないのだから。
ファイがこの世界に来てそろそろ一年。せっかく初めてのバレンタインを迎えるのだし、愛情だけでなく、何かしら形にして日ごろの感謝の気持ちも伝えたい、という思いもあった。
「うん、だから変じゃない!」
何か大切なことを忘れているような気がしたが、今は他に何も考えられないくらい心が浮きたっていた。
+++
そういうわけで、ファイは長きにわたる人生で初めて、手作りチョコに挑戦してみることにした。
だが、テレビで見たようなものを使って、手軽にちょちょいっと作ってしまう……というのでは、いまいち納得がいかなかった。
コンビニやスーパーに並んでいるような、すでに完成された義理チョコなら失敗はないとは思うが、せっかくやる気満々になっているのだし、愛情をたっぷり練り込みたい。
やるなら手間暇をかけてガッツリやってこそだと思ったファイは、ちゃんとした手作りチョコの作り方を調べることにした。
そして途方に暮れた。
+++
「ファイ、ケーキ焼いたからお茶しよう」
いつものようにユゥイがファイの顔を見にドロンと姿を現すと、そこには畳に突っ伏して打ち震えるファイの姿があった。
「え、なに? なんでそんな世界の終末みたいな雰囲気になってるの?」
何事かと目を丸くしたユゥイだったが、すぐにハッとして拳を震わせた。
「まさか……あの真っ黒黒助が浮気を……」
そうか、そういうことか。信じろとかなんとか調子のいいことを言っておきながら、あの野郎は可愛いファイをこうして泣かせているのか。
ならば殺るしかあるまい。
す……っと懐から錆びた斧を取り出そうとするユゥイだったが、のっそりと身体を起こしたファイがブンブンと首を振ったのを見て手を止めた。
「違うよー……黒たんは浮気なんてしない……今朝も行ってきますのチュウしてくれたもん……」
「へぇ、そうなんだ…………チッ」
「え……なんか今舌打ちが聞こえたような」
「気のせいだよ」
「そ、そっかー」
「じゃあどうしてそんなに落ち込んでるの? 何かあったんでしょう?」
ひとまず憎いアンチクショウの容疑は晴れたが、ファイが酷く落ち込んでいるらしいことに変わりはない。
すぐ隣に腰を下ろして顔を覗きこむと、ファイはちょっと涙ぐみながら事の詳細を話し始めた。
「バレンタインだから、黒たんにチョコをあげようと思って。だからチョコの作り方を調べたんだ」
あれで、とファイは窓際の文机の上にあるノートパソコンを指差した。
黒鋼のお古を貰いうけたらしく、ファイは最近になってその基本的な使い方や、インターネットというものを覚えた。ちなみに、毎日タイピングの練習も行っている。まだキーボードをチラチラと見ながらではあるが。
「へぇ、そうなんだ」
相槌を打ちながら、ユゥイは勝手に台所を借りて、作って来たケーキや温かい紅茶の入ったカップをテーブルに並べる。
「そしたら、オレが思ったたよりもずっとチョコ作りって奥が深くて……あんなに手間暇も時間もかかるなんて知らなかったから、今から作り始めたんじゃ、もう明日に間に合わないよ……」
「時間って……別に今から準備しはじめたって普通に間に合うんじゃないの?」
よっぽど不器用で破壊的なまでに料理センスがないなら話は別かもしれないが、ユゥイの知る限り手作りチョコというものがそう何日も時間を要するほど手間のかかるものとは思えなかった。
思わず首を捻っていると、突如としてファイが握った拳をテーブルに打ちつけた。
「間に合わないよ!! カカオが育つまでに、どれだけかかると思ってるの!?」
…………。
ユゥイは思った。いや、再認識した。
あ、この子アホの子だ……と。
「しかも日本の気候じゃカカオを育てること自体が難しいんだ……バレンタインは明日なのに、オレは結局テレビで見たような簡単キットを使った手軽な愛しか、あの人に伝えることができないんだ……! オレなんて……オレなんて……!」
わっ、とテーブルに伏せてしまったファイを見て、ユゥイは重苦しい溜息を零した。
こめかみに鈍い痛みを感じて、思わず指先で強く押さえつける。
てっきり『チョコ 手作り』と検索バーに打ち込んだのだとばかり思いきや、まさか『チョコ 原材料』でググっていたとは予想外だった。
どこの世界にカカオを育てる段階から下準備しようとする乙女がいるだろう。ここか。ここにいるのか。
いや、そもそもアホの子以前に、行き過ぎた愛情は相手にとってただの重圧にしかならないのでは……?
ふとそう思っても口にしなかったユゥイは、この先果たして大丈夫なのだろうかと、主に黒鋼の心配をしはじめるのだった……。
そしてその後ユゥイに諭されたファイは、ごく一般的な手作りチョコというものをしっかりと理解した。
+++
失敗した。
ファイはテーブルの上のブツをじっとりと眺めながら、弱々しく溜息を零した。
赤い包みで可愛らしくラッピングされたそれは、黒鋼に渡すために張り切って作り上げた手作りチョコだ。
2月14日。
多くの恋人たちが甘く酔い痴れるこの日。
ファイが人間としてこの世界に暮らすようになってから、初めてのバレンタイン。
そして初めてここに来てからも、そろそろ一年が経過しようとしている。
だから日頃の感謝も込めて黒鋼に改めて気持ちを伝えるつもりで、張り切ってチョコの作り方を調べて(ちょっと遠回りはしたが)、材料を買いこんでどうにか作り上げた。
我ながらいい出来で、もちろんユゥイにも渡した。
自分も貰えるとは思っていなかったらしい彼は、涙ぐんで喜んでいた。
だから黒鋼も、きっとこんな風に喜んでくれると思っていた。
ウキウキしながら、暗くなる頃には戻ると言っていた彼を待っていた。
しかしふと、思い出してしまった。
それはとても重大なことだ。
普段からしっかり覚えていたはずなのに、浮かれ切って忘れていた。
綺麗さっぱり、見事にスポーンと頭から抜け落ちていたのだ。
そう、黒鋼は、甘いものが大の苦手だということを……。
+++
「帰ったぞ。おい? いねぇのか?」
玄関のドアを開けても灯りの一つも灯されていない室内を見て、黒鋼が顔を顰める。
テーブルの上のチョコを見て無の境地だったファイはハッとして、咄嗟にそれを掴むと灯りをつけられる前に背後にサッと隠した。
そして部屋が明るくなったと同時に笑顔と明るい声を作った。
「お、おかえりー! 寒かったでしょー?」
「おう、おまえいたのか。電気くらいつけろ。てか暖房つけろ。風邪ひくぞ」
「あ、う、うん。ごめん」
(どうしよう……)
背後のものをどうにかして隠滅しなくては、と思った。
甘いものは嫌いだと日頃からしつこいくらい言われ続けていたのに、それをサラッと忘れていたなんて、絶対に言えない。と、いうより言いたくない。
大好きな人の好みだから、いつだって気をつけるようにしていたのに。
それに……。
黒鋼は脱いだ上着をハンガーにかけると、電気ストーブのスイッチを押した。それから、座り込んで俯いているファイの様子を見て、また顔を顰めた。
「顔色が悪い」
その言葉と一緒に大きくて温かな手が耳の裏側に伸びてきて、ファイは思わず肩をビクンと震わせた。
「?」
「なんでもないよ! 元気元気! それより、おなか空いたよね? すぐに何か作るから、黒たんはお風呂でもどうー? それとも筋トレする? あ、壁に向かって延々屈伸運動とかどうかな?」
チョコを掴んだ手は背後に回したまま、不自然な動きで立ちあがると蟹にように横歩きをする。
このままどうにかして台所にフェードアウトしたい。そしてチョコをボッシュート……いや、やっぱり勿体ないから自分で食べて、急いで証拠を隠滅しよう。
そのためには、なんとしても彼の視線を他所へ向けさせなくては。
しかし、そんなあからさまに不審な動きをするファイを、黒鋼が見過ごすはずがなかった。
「おまえ」
「な、なぁにー?」
「黙って隠してるもんを出して見せろ」
「ギクー!」
「一体なにやらかした?」
ただでさえ鋭い目つきをさらに眇めて、腕組みをした黒鋼が睨みつけてくる。
ファイはまだ暖まりきらない室内にあって、嫌な汗が額に滲むのを感じた。
「な、なにも隠してないよ? オレは隠し事なんてしないよ?」
「じゃあ背中に引っ込めてる手を出してみろ」
「引っ込めてないし!」
「思いっきり引っ込んでるだろ!」
「ちょ、あっ、い、いやー!!」
目にも止まらぬ速さで黒鋼の手が伸びて来た。
思わず反り返ったファイの腕が掴まれて、ぐっと引き寄せられた瞬間、ガサリという音と共に赤い包みが畳の床に落ちた。
「あ……」
足元に転がったそれは、あまりにも強く掴んでいたせいで、醜い皺ができている。
売っているものに負けないくらい見た目も綺麗にしたつもりだったのに。酷く無様に見えて、ファイの中で自己嫌悪が肥大した。
「それは?」
しばしの間それをじっと見つめていた黒鋼がついに問いかけてくる。
ファイはもう駄目だと思った。
「チョコ……」
俯いて、ふいっと顔を背けると短く答える。
それから、黒鋼が何かを言う前に包みを拾い上げて、また背中に隠した。
これはいらないものだから、黒鋼には見られてしまったけど、これを食べてもらうわけにはいかない。
バレンタインは大好きな人にチョコを渡す日。それが出来ないなら、何も伝えられないような気がした。
単に好きな相手にチョコを渡す自分を想像して、一人で勝手に盛り上がって楽しんでいただけのような気がしてくる。
わざわざ苦手なものを渡そうとしていたことが恥ずかしくて、情けなくて、じんわりと視界が滲んだ。
黒鋼はそんなファイの様子をじっと眺めた後、ぼそりと言った。
「それ、貰ったのか?」
「……へ?」
咄嗟におかしな声を出すと顔を上げた。
怒っているような顔をした黒鋼の、真剣な眼差しが正面からぶつかってくる。
「どこのどいつに貰った……?」
何を言われているのかが一瞬理解できず、ファイは目を丸くして瞬きを繰り返す。
そうしてるうちに、空気がピリピリしてきたのを感じる。どうやら黒鋼が苛立ちはじめているようだった。
そこでふと、もしかしたら彼は大変な勘違いをしているのでは……という考えに至って、慌てて否定する。
「ちが、違うよ! これは貰ったんじゃないよー!」
「だったら隠す必要ねぇだろ」
「そっ、それは……その……」
「言えねぇようなことなのか」
「だから違うってば!!」
なんだかもう、ここまで来てしまったら隠している意味はないように思えた。
変に誤解を生むくらいなら、正直に言ってしまった方がずっといい。
ひょっとしてヤキモチ? と思うと窓ガラスを突き破ってダイブしたいほど嬉しかったが、今はそんなことをして命を落としている場合でもない。
だからファイは思いっきり息を吸い込むと、力の限り叫んだ。
「これはオレが、黒たんにあげたくて作っちゃったのー!!」
ああ、言ってしまった。
目を見開いてぽかんと口を開けている表情を見て、ファイは恥ずかしさのあまり頬を赤らめた。
「バレンタインは、好きな人にチョコ渡す日なんでしょ……? オレ、黒たんにチョコあげたくて、でも、黒たん甘いの駄目って後から思い出して、だから渡せなくて、そしたら、あげられるの何もないって思って……っ、だから……」
自分でも何を言いたいのかが分からなくなった。
「ごめん……。おかしいよね。貰っても嬉しくないもの、ウキウキして作っちゃうなんて」
これは捨てるからと、黒鋼の横をすり抜けようとした。
だが、それは叶わなかった。
「!」
手の中から、ぐしゃぐしゃになったチョコが消えた。
奪われたのだと気付いたとき、黒鋼がそれを手にどっかりと床に胡坐をかいた。
「ちょっと、黒たん?」
「食いもん粗末にすんな」
「でも」
「それにこれは俺んだ。勝手に捨てんじゃねぇ」
「え」
ガサガサと音を立てて、赤い包みの中から小さな白い箱が姿を現す。
黒鋼が箱の中身さえも暴いてしまうと、そこにあったのはココアパウダーがまぶされた生チョコレートだった。
咽るほどの甘い香りが一気に立ちこめ、部屋いっぱいに広がった。
無骨な指先がそれを一つ摘まんで、なんの躊躇いもなく口に放り込む。
「ちょ、まっ……!?」
するとみるみるうちに黒鋼の眉間の皺が深くなって、思いっきり苦い表情になった。
ファイは泣きたくなって、すぐ横に膝をついて箱を取り返そうとした。けれど、手首を掴まれて箱も遠ざけられてしまう。
「無理しなくていいってば……っ」
「うるせぇな。静かに食わせろ」
「だって美味しくないでしょ!? ちょっと鼻の穴膨らんでるよ!? しかも涙ぐんでる!?」
惚れた贔屓目を抜きにしても精悍で男前な黒鋼の顔が、地味に痛々しいことになっている。
どうしてそこまでして無理やりにでも口に運んでいるのか、さっぱり分からず混乱した。
「なんで……黒たん……」
「こんくらいどうってことねぇ。おまえ、覚えてるか?」
「ふぇ……?」
「おまえが最初の頃に作った玉子焼きだ。アホみてぇに甘くして、しかも容赦なくこがしやがって」
「!」
少し苦々しくはあったけれど、黒鋼は小さく笑って見せた。
その顔を、ファイは知っていた。
彼の言うとおりだ。人間になって間もない頃、覚えたての玉子料理ばかりを毎日のように作っていたあの頃。
見るも無残な形の玉子焼きは塩と砂糖を間違えて、しかも手が滑って大量に投下してしまった。
ファイはそれを捨てようとしたけれど、今みたいに黒鋼が「粗末にするな」と言って全て平らげた。
そういえばあの時の黒鋼は酷く脂汗をかいて、今よりもずっと苦しそうだった。
そして「次はがんばれ」と言って、今みたいに笑った。
「あれに比べりゃ見栄えもいいしな。一年に一回くらいなら、悪くねぇよ」
それはまた来年もチョコを作ってもいいということだろうか。受け取ってくれるということだろうか。
そうこうしているうちに、ついに箱の中身は空っぽになった。
ファイは腰が抜けるような感覚を覚えて、ペタリと床に崩れ落ちる。
あのときと同じ、そしてこれからも変わらない優しさを感じて、胸がじんと痺れた。だが、かといって黒鋼に我慢を強いるのは納得がいかない。
「でも、やっぱり無理はしてほしくないよ……」
「俺が好きでやってんだ。ほっとけ」
「……マゾなのかな?」
「ぶん殴るぞ。ああ、それとな」
「?」
黒鋼は、おもむろに自分のジーンズの尻ポケットを探ると、少し潰れた青い包みを取り出した。
金色の綺麗なリボンが巻かれたそれを、目の前に突き出してくる。
「これは……?」
「まぁ、なんだ……。気持ちだ」
この人がガリガリと頬を掻きながら目を逸らすのは、照れ臭くて仕方がないときだ。
ファイは受け取ったその包みが、中身を空けずともなんであるかを察した。
「これ、チョコ……? 黒たんが、オレに?」
信じられない思いで目を瞬かせながら、ファイは手の中の箱を見つめる。
驚いた。黒鋼は、あまりこういうイベントを気にするタイプには思えなかったのだ。
「そろそろ一年だしな……それも兼ねて、ついでだ。ついで。言っとくがな、俺は手作りなんてできねぇからな。そいつは買ったもんだ」
口ではひねたことを言っているけれど、手作りだろうがそうじゃなかろうが、そんなものは関係なかった。この小さな箱の中に、彼の気持ちが溢れるほど込められているのが伝わって、胸がいっぱいになる。
何よりも、黒鋼も同じことを考えていてくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。
去年の今頃は、ここでこうして暮らしているなんて想像もしなかった。
ましてや人間の黒鋼と恋仲になるなんて、ただの猫だった頃の自分が知ったらビックリして、腰を抜かすどころの騒ぎではないかもしれない。
この人と出会えたというだけで、きっと自分は世界で一番幸せな猫だった。この世界に限らず、たくさんの世界に存在するたくさんの猫の中でも、一番に。
込み上げる満面の笑みを抑えきれず、チョコの包みを両腕で抱きしめた。温かくて、甘くて、いっそ胸が苦しくなるほどに。
「凄く嬉しい……」
それに続くはずだった「ありがとう」は、熱い唇によって奪われてしまった。甘ったるいチョコレートの味と香りが、口の中いっぱいに広がった。
この熱と甘さで、多分このまま溶かされてしまうのだと思う。
ファイはそっと膝の上に青い包みを置くと、両腕を黒鋼の首に回して強く抱き寄せた。
←戻る ・ Wavebox👏
ファイ、にゃんこにバイバイの巻
案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。
どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。
シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。
(懐かしい……)
あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。
もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。
今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。
ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。
それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。
なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。
「なに考えてんだよ」
雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。
問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「うにゃー! いたいよーっ」
「余裕かこら、てめぇ」
「違うってー」
声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。
人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。
本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。
なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。
何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。
それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。
猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。
今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。
それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。
でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。
+++
「お、やってるな」
春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。
学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。
「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」
ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。
片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。
今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。
コロン
「お!」
「出来たー!」
最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。
「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」
ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「たいしたもんだ」
「えへへー」
褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。
今、ファイは様々なことを勉強中だった。
日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。
ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。
時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。
「今日の夜ご飯は何がいいー?」
出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。
すると彼は靴をはきながら苦笑する。
「玉子焼きだろ?」
「うん!」
「砂糖は入れるなよ」
「はぁい!」
ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。
目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。
現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。
項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。
いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。
階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。
ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。
+++
一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。
広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。
ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。
それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。
多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。
一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。
頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。
まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。
そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。
本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。
(あ、ボス猫だ)
ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。
猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。
けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。
「なーご」
彼は野太い声で鳴いた。
愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。
いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。
あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。
ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。
まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。
実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。
そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。
覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。
ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。
今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。
「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」
何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。
暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。
恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。
「バイバイ、にゃんこ」
少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。
終わり
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案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。
どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。
シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。
(懐かしい……)
あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。
もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。
今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。
ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。
それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。
なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。
「なに考えてんだよ」
雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。
問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「うにゃー! いたいよーっ」
「余裕かこら、てめぇ」
「違うってー」
声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。
人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。
本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。
なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。
何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。
それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。
猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。
今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。
それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。
でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。
+++
「お、やってるな」
春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。
学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。
「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」
ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。
片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。
今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。
コロン
「お!」
「出来たー!」
最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。
「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」
ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「たいしたもんだ」
「えへへー」
褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。
今、ファイは様々なことを勉強中だった。
日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。
ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。
時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。
「今日の夜ご飯は何がいいー?」
出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。
すると彼は靴をはきながら苦笑する。
「玉子焼きだろ?」
「うん!」
「砂糖は入れるなよ」
「はぁい!」
ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。
目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。
現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。
項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。
いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。
階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。
ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。
+++
一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。
広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。
ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。
それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。
多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。
一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。
頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。
まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。
そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。
本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。
(あ、ボス猫だ)
ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。
猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。
けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。
「なーご」
彼は野太い声で鳴いた。
愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。
いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。
あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。
ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。
まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。
実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。
そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。
覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。
ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。
今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。
「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」
何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。
暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。
恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。
「バイバイ、にゃんこ」
少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。
終わり
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元白猫、アレをかぶるの巻
「は? 二度と会えないなんて一言も言ってないでしょ。だいたいファイが人間として暮らして行く以上、これから色々とやらなきゃいけないことあるじゃない。君らじゃ手に負えないよ? ほら、なんやかんやと偽造と捏造しないきゃいけないでしょ、アレやらコレやら諸々さ。とりあえずどこの国の人ってことにしよっか? イタリアでいい? いいよね? ファイってイタリアだもんね。あー、忙しい忙しい」
あれから、ユゥイはそんなようなことを言いながら帰って行った。
ファイにはよくわからないことばかり(特にイタリアらへん)だったが、どことなく犯罪の香りがしないでもないことも、とりあえずユゥイに任せておけばいいのだろうと、深く考察することは止めておいた。
黒鋼もまた同じく、彼に至ってはその高いツッコミスキルを完全に放棄していた。
+++
そんなこんなで、ファイは人間としての生活をスタートさせた。
尻尾を失ったことでまさかこのような弊害が生じるなど思いもしなかったが、黒鋼に「ハイハイしろ、ハイハイ」と赤ちゃん歩きを教えられるところから始まり、ほんの数日で何かに掴まりながらの歩行はどうにかマスターした。
人間になってみて、変わったことは他にもある。
一つは、いよいよ本格的に鼻が利かなくなったこと。
もちろん臭覚が完全に失われたわけではないが、それまではほんの微かでも感じることが出来ていた多くのものが、ほとんど分からなくなってしまった。
今もまだ続いているメス猫の発情の香りも、もう感じない。
そしてもう一つは、耳だ。
臭覚同様、聴力が失われたわけではないものの、基本的に狩りをするのに小さな物音でも聞き取れるほど発達していた猫の耳と人の耳では、雲泥の差があった。
ユゥイに零せば「すぐに慣れるよ」と笑われた。
当たり前のものだったことを全て失ってみて、ファイは初めて「生まれ変わった」という意味を理解できたような気がした。
+++
この数日はそんな風に急激な変化に慣れていくことに夢中で、一日があっという間に過ぎていた。
黒鋼も少しばかり忙しい日々を過ごしていたが、今日は丸一日フリーな日を利用して、改めて買い物へ行こうという話になった。
お目当てのものはファイの服を含めた、諸々の日用品だった。
ついでに歩く練習を兼ねて、まるで介護される老人のように、すぐ傍で黒鋼に見守られながらヨロヨロと歩いた。
転びそうになるとすかさず首根っこを掴まれるか、ユゥイが持ってきた木製の杖に助けられた。
そうして二人は様々な店を巡り、帰路についていた。
「ご、ごめんね黒たん……怒ってる……?」
遠慮がちに、隣をむっつりとした表情で歩く黒鋼の横顔を見やる。
彼の手には大きな荷物が山ほど抱えられており、杖をつきながらまだおぼつかない足取りのファイは、何も持たせてもらえない。
だがそれ以上に、ファイはとある店内で、黒鋼にとんだ迷惑をかけてしまったのだ。
「別にいい。あらかじめ教えとかなかった俺に責任があるからな」
「で、でも……」
思い出すだけで消えてしまいたくなる先刻の出来事を思い出して、ファイはしゅんと項垂れる。
(知らなかったとはいっても……流石にあれは……)
一体なにが起こったのかというと。
それは百貨店の下着コーナーでのことだった。
ついつい色々なものが珍しくて黒鋼からはぐれたファイは、気がつけば女性用の下着売り場に迷い込んでいた。
白やピンクや、様々な色の下着はフリフリだったり、リボンがついていたりとどれも可愛くて、そしてそれを『下着』であると理解していなかったファイは、予想を裏切らずやらかしてしまった。
ワゴン品の籠の中に山になっていたそれを何気なく手に取り、頭にかぶってしまったのだ……。
途端に女性の悲鳴が上がったのを覚えている。
ファイにしてみれば変わった帽子だなぁとか、これじゃあ耳は隠せないだろうなぁとか、そんな興味から考えなしに取った行動だった。
ファイがいなくなったことを察知した黒鋼がすっ飛んで来たが、時すでに遅しである。
完全に変態を見る眼差しの中、頭のそれを毟り取られたファイは脇に抱えられてその場を一目散に退散することとなった。
何がいけなかったのかを大憤慨する黒鋼から道々聞いて、正直死にたくなった……。
「ほんとにごめんね黒たん……パンツかぶってごめん……」
下着という存在はもちろん知っていたが、女性用と男性用で全く異なるなんて、思いもしなかった。
ファイの知る下着といえば黒鋼が着用するものばかりで、黒や紺や灰色といった味気ない色とデザインのものばかりだったからだ。
項垂れたままのファイをチラリと横目で見た黒鋼が、小さな溜息を零した。
「だからもういい。ひとつ利口になったな」
「うん……」
幼い動作で首を縦に振ったファイを見て、少しだけ口元を綻ばせた黒鋼は、そのあとふと空を見上げた。
「降りそうだな。とっとと帰るぞ」
「あ、ホントだー」
少しよろけながらそれでも歩く速さを上げれば、黒鋼もその歩調に合わせてくれる。
そんな些細なことが嬉しくて、しょぼくれていた胸に温かなものが蘇った。
今日はたくさんお金を使わせてしまっただけでなく、恥までかかせてしまったし、やっぱり申し訳ない気がしたけれど、今はまだ全てにおいて頼れるのは黒鋼しかいない。
もっともっと色々なことを覚えて、人間らしくなれたら、いつか自分もバイトというものがしてみたいと思った。頑張れば、ガッコウへだって行けるようになるかもしれない。
(そうだ。そしたら黒たんの好きなものを、今度はオレが買ってあげるんだ)
なんだか途端にやる気が増してきた。
まずは今よりもっと上手に早く歩けるようになろうと、ファイは出来ることから目標を掲げることにした。
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「は? 二度と会えないなんて一言も言ってないでしょ。だいたいファイが人間として暮らして行く以上、これから色々とやらなきゃいけないことあるじゃない。君らじゃ手に負えないよ? ほら、なんやかんやと偽造と捏造しないきゃいけないでしょ、アレやらコレやら諸々さ。とりあえずどこの国の人ってことにしよっか? イタリアでいい? いいよね? ファイってイタリアだもんね。あー、忙しい忙しい」
あれから、ユゥイはそんなようなことを言いながら帰って行った。
ファイにはよくわからないことばかり(特にイタリアらへん)だったが、どことなく犯罪の香りがしないでもないことも、とりあえずユゥイに任せておけばいいのだろうと、深く考察することは止めておいた。
黒鋼もまた同じく、彼に至ってはその高いツッコミスキルを完全に放棄していた。
+++
そんなこんなで、ファイは人間としての生活をスタートさせた。
尻尾を失ったことでまさかこのような弊害が生じるなど思いもしなかったが、黒鋼に「ハイハイしろ、ハイハイ」と赤ちゃん歩きを教えられるところから始まり、ほんの数日で何かに掴まりながらの歩行はどうにかマスターした。
人間になってみて、変わったことは他にもある。
一つは、いよいよ本格的に鼻が利かなくなったこと。
もちろん臭覚が完全に失われたわけではないが、それまではほんの微かでも感じることが出来ていた多くのものが、ほとんど分からなくなってしまった。
今もまだ続いているメス猫の発情の香りも、もう感じない。
そしてもう一つは、耳だ。
臭覚同様、聴力が失われたわけではないものの、基本的に狩りをするのに小さな物音でも聞き取れるほど発達していた猫の耳と人の耳では、雲泥の差があった。
ユゥイに零せば「すぐに慣れるよ」と笑われた。
当たり前のものだったことを全て失ってみて、ファイは初めて「生まれ変わった」という意味を理解できたような気がした。
+++
この数日はそんな風に急激な変化に慣れていくことに夢中で、一日があっという間に過ぎていた。
黒鋼も少しばかり忙しい日々を過ごしていたが、今日は丸一日フリーな日を利用して、改めて買い物へ行こうという話になった。
お目当てのものはファイの服を含めた、諸々の日用品だった。
ついでに歩く練習を兼ねて、まるで介護される老人のように、すぐ傍で黒鋼に見守られながらヨロヨロと歩いた。
転びそうになるとすかさず首根っこを掴まれるか、ユゥイが持ってきた木製の杖に助けられた。
そうして二人は様々な店を巡り、帰路についていた。
「ご、ごめんね黒たん……怒ってる……?」
遠慮がちに、隣をむっつりとした表情で歩く黒鋼の横顔を見やる。
彼の手には大きな荷物が山ほど抱えられており、杖をつきながらまだおぼつかない足取りのファイは、何も持たせてもらえない。
だがそれ以上に、ファイはとある店内で、黒鋼にとんだ迷惑をかけてしまったのだ。
「別にいい。あらかじめ教えとかなかった俺に責任があるからな」
「で、でも……」
思い出すだけで消えてしまいたくなる先刻の出来事を思い出して、ファイはしゅんと項垂れる。
(知らなかったとはいっても……流石にあれは……)
一体なにが起こったのかというと。
それは百貨店の下着コーナーでのことだった。
ついつい色々なものが珍しくて黒鋼からはぐれたファイは、気がつけば女性用の下着売り場に迷い込んでいた。
白やピンクや、様々な色の下着はフリフリだったり、リボンがついていたりとどれも可愛くて、そしてそれを『下着』であると理解していなかったファイは、予想を裏切らずやらかしてしまった。
ワゴン品の籠の中に山になっていたそれを何気なく手に取り、頭にかぶってしまったのだ……。
途端に女性の悲鳴が上がったのを覚えている。
ファイにしてみれば変わった帽子だなぁとか、これじゃあ耳は隠せないだろうなぁとか、そんな興味から考えなしに取った行動だった。
ファイがいなくなったことを察知した黒鋼がすっ飛んで来たが、時すでに遅しである。
完全に変態を見る眼差しの中、頭のそれを毟り取られたファイは脇に抱えられてその場を一目散に退散することとなった。
何がいけなかったのかを大憤慨する黒鋼から道々聞いて、正直死にたくなった……。
「ほんとにごめんね黒たん……パンツかぶってごめん……」
下着という存在はもちろん知っていたが、女性用と男性用で全く異なるなんて、思いもしなかった。
ファイの知る下着といえば黒鋼が着用するものばかりで、黒や紺や灰色といった味気ない色とデザインのものばかりだったからだ。
項垂れたままのファイをチラリと横目で見た黒鋼が、小さな溜息を零した。
「だからもういい。ひとつ利口になったな」
「うん……」
幼い動作で首を縦に振ったファイを見て、少しだけ口元を綻ばせた黒鋼は、そのあとふと空を見上げた。
「降りそうだな。とっとと帰るぞ」
「あ、ホントだー」
少しよろけながらそれでも歩く速さを上げれば、黒鋼もその歩調に合わせてくれる。
そんな些細なことが嬉しくて、しょぼくれていた胸に温かなものが蘇った。
今日はたくさんお金を使わせてしまっただけでなく、恥までかかせてしまったし、やっぱり申し訳ない気がしたけれど、今はまだ全てにおいて頼れるのは黒鋼しかいない。
もっともっと色々なことを覚えて、人間らしくなれたら、いつか自分もバイトというものがしてみたいと思った。頑張れば、ガッコウへだって行けるようになるかもしれない。
(そうだ。そしたら黒たんの好きなものを、今度はオレが買ってあげるんだ)
なんだか途端にやる気が増してきた。
まずは今よりもっと上手に早く歩けるようになろうと、ファイは出来ることから目標を掲げることにした。
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黒鋼、ツッコミ厳禁の巻
「お、おい……その不吉な物言いはなんだ……」
ファイの両目を覗きこむユゥイの目が据わっている。
背筋に薄ら寒いものが駆け抜けるのは気のせいだろうか……。
「言った通り、そのまんまだよ」
「目ん玉えぐってぐちゃぐちゃ食うとか、そんな鬼展開じゃねぇだろうな……」
ファイの肩がビクッと震えた。
「な、なんかオレも……そんなようなビジョンが一瞬見えたような……」
「二人とも何を言っているの?」
ユゥイが呆れたような顔をしつつ、ようやくファイの両頬を解放した。
「なんでそんなN●Kじゃとてもじゃないけど放送できないようなグロ展開になるのさ」
「いや、なんとなくな……」
「オレも……なんとなく……」
「あのね、言葉のあやだよ。ファイの魔力の源はこの両目の青なの。これさえ取り除けば、ファイのMPカラカラだから」
「あれ? HPはー? オレ吸血鬼じゃないよー?」
「まぁいいじゃない、そんな細かいことは」
「おまえらRPGみてぇな言い方すんなよ……」
事実なんだから仕方ないでしょ、とユゥイは吐き捨てるように言った。
「あとはそこにボクがちょちょいっと変身魔法でもかけちゃえば、どうにでもなるんじゃない?」
「てめぇはまたアバウトなことを……」
「だからさー、難しいことばっか考えてるとハゲるよ。……むしろハゲろ(ぼそっ)」
「聞こえてんぞてめぇ」
「あーぁ……んじゃやっちゃおっかー」
「堂々と無視か!!」
黒鋼に対してドスルーを決め込んだらしいユゥイが、ダルそうに首の後ろを掻きながら立ち上がった。
そして指先でなにやら怪しげな呪文のようなものを描きだす。
太陽のような眩い光に辺りが包まれたのは、一瞬のことだった。
「もう終わりか……?」
「そ、終わり」
黒鋼はチカチカと眩んでいる目でファイとユゥイ、両方を幾度も見やる。
ぽかんとした顔で座り込んだままのファイの頭上からは、耳が消えている。もちろん、尻尾も。
残されていたはずの猫の特徴が二つとも消えて、彼はどこからどう見ても人間の姿へと変身を遂げていた。
黒鋼はファイへ腕を伸ばすと両頬を掴むようにして自分へ向けた。派手に間接の鳴る音が聞こえたような気がしたが、まぁいい……。
「いだだだっ! コキャって鳴ったー!!」
「お、おまえ、しっかり目ぇ開けろ……!」
ぎゅうと閉じた目元に涙を浮かべていたファイが、ゆっくりと瞼を開ける。
美しい青が消え、代わりに黄金の瞳が黒鋼を映す。
「こいつは一体……どんなメカニズムだ……?」
「だから突っ込むなって何度言わせるんだか」
「そいつはなんだ?」
黒鋼は頭の中で収拾がつかないことを整理するのを諦め、とりあえずユゥイの手の上に浮かんでいる、青い宝石のような物体を指さした。
人間の頭一つ分を優に超えるほどの大きさの石は、ほんのりと淡い光を放っている。その色はファイの元々の瞳の青を思わせた。
「魔力がぎゅぎゅっと凝縮された結晶だよ。満タン状態が二つ分だからね。見事なもんだね」
「これがオレの中にあったんだねー。感慨深いなぁ」
「あ、触らない方がいいよ。魔力を持たない普通の人間が下手に触れば、一体どうなるか……」
「ど、どうなるの……?」
「軽く星を巻きこむレベルの爆発が……」
「!」
「起こったら困るから気をつけよう」
「はぁい」
「……」
もういちいち突っ込むのは止めよう、と黒鋼は思った。
ユゥイがパチンと指を鳴らすと、青い結晶はどこかへ姿を消してしまう。そして彼は両手を腰に当てると「ふぅ」と息をついた。
「ファイ、どう? 身体、どこかおかしいとこない?」
聞かれて、ファイは自分の頭を両手でポンポンと触ると「ない」と呟く。さらに後ろへ手をやって臀部の辺りを探して、また「ない」と言った。
「す、凄い! オレ本物の人間みたいだー!」
そう言いながら勢いよく立ちあがる。だが。
「あいた!!」
すぐにベタンと派手に尻餅をついてしまった。
「あ、あれー?」
「あはは。尻尾がなくてもバランス取れるように、訓練しないとねぇ」
「変な感じー……」
なるほど、細長いだけに見えた尻尾でも、ファイが身体のバランスを取る上では大事な部分だったらしい。
四足歩行から突如として二足歩行に変わっても彼がなんなく動けていたのは、あの尻尾があってこそだったのだ。
不思議なものだが、どこからどう見ても大人の男がまず始めなければならないのは、立って歩くことらしい。
手始めに『はいはい』でもさせればいいのか……と少し悩むところである。
「でもオレ……ホントに人間になれちゃったんだ……」
それでも感動した様子のファイは、瞳にじんわりと涙を浮かべていた。
ちょっと呆れたような、どこか苦しそうな、それでも笑顔を見せるユゥイがファイを優しく見つめていた。
+++
別れのときがやってきた。
なんとなく窓辺に寄って壁に背を預けると腕を組み、黒鋼はしばし彼らを見守ることにした。
今の二人に口を出すのは、野暮なことのように思えたからだ。
「ありがとうユゥイ……ワガママ聞いてくれて……」
上手く立ち上がることができずに床に座り込んでいるファイは、泣きそうな目をしてユゥイを見上げて言った。
畳みに片膝をついたユゥイが、そんなファイをふわりと抱きしめる。
「ファイは新しく生まれ変わったんだよ。あの青を失った時点で、ボクとは違う時間軸を、すでに生きはじめてるんだ」
ユゥイの背中を掻き抱くようにして腕を回したファイの瞳から、ついにポロリと涙が零れ落ちる。
宝石のような黄金から零れたそれがあまりにも切なくて、黒鋼はただ瞳を眇めた。
「ユゥイ……ごめんなさい……オレ……ユゥイを、一人ぼっちに……」
白い耳がなくなってしまった、金色の頭を労わるように撫でるユゥイの手はどこまでも優しい。
「ボクは一人じゃないよ。猫の国には、たくさんの可愛い子供たちがいるんだから」
少しだけ笑って、彼は懐かしそうに瞳を細めた。
「ファイはいつものんびり屋で、おっとりしてて、甘えん坊で……ボクがいなくちゃ、なにも出来ない子だったのにね」
「あのねユゥイ……オレは、ユゥイのこと……」
「ファイ、幸せになりなさい」
「……ッ」
泣き濡れて少し赤くなっている目元を、そっと華奢な両手が包み込む。
「いつだって君を想ってる。忘れないで」
そっと、黒鋼は目を逸らした。
双子のような彼らが交わす、秘め事のような口付けから。
次の瞬間、部屋の中に一陣の強い風が巻き起こり、大きな青い光に包まれた。
視線を戻せば、床に手をついて肩を震わせるファイが一人、残されている。小さく息をつき、壁から背を離すと静かに歩み寄り、膝をつく。
かける言葉はなく、ただ肩を抱き寄せれば、耳も尾もなくした一人の青年が、しがみつくようにして胸に顔を埋めてきた。
「オレ……っ、自分のことばっかりだ……!」
黒鋼には想像も及ばないほどの年月を、彼らは共に歩んできた。
血の繋がりはなくとも、そこには計り知れない絆があって、本当ならこれから先もずっと、唯一無二の存在として長きを歩むはずだったふたり。
気の遠くなるほどの生を、消えて行った彼は一人で歩むことになるのだろう。
けれどファイや黒鋼が選んだように、全てを許した時点で、ユゥイもまた自らその道を選んだということになる。
きつく抱き返しながら、黒鋼は小さく首を左右に振った。
「それでも選らんだ道なら、後悔はさせねぇ。おまえにも、あいつにも……」
少しの間、幼子のように泣いていたファイは、鼻を啜りながら小さな声で「うん」と返事をした。
泣きじゃくってしまったことが照れ臭かったのか、顔を上げた彼はようやく情けない笑顔を浮かべる。黒鋼もまた小さく笑って、柔らかく癖のある金色の髪を梳くようにして撫でた。
猫のように目を細めたファイの瞳が完全に閉じられて、ふたりは互いに自然と顔を近づけ合った。
唇が重なる……かと思ったその瞬間。
どろん、と間抜けな音がした。
「そうそう忘れてたー」
ユゥイが現れた……。
「これこれ、渡すの忘れちゃってたから届けに来たんだけど……ってちょっと……人がいなくなった途端なにイチャコラしはじめてるの」
「お、おま……」
白い携帯電話を手にしたユゥイが、物凄く嫌そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
あの感動の別れのシーンは一体なんだったのだろうか……。
まさに開いた口が塞がらない状態の黒鋼を無視し、ユゥイは二人の間にズンズンと割り込むと、ファイに白くのっぺりとした板のようなものを手渡す。
流石のファイも少し拍子抜けしたような顔をしつつ、大人しくそれを受け取ると首を傾げた。
「これなぁに?」
「スマホだよ。ガラケーもいいけど、やっぱり時代はこれだよね。あ、防水加工もばっちりだから、お風呂に入りながらワンセグ視聴も楽しめちゃう優れモノ」
「わんせぐ?」
「テレビだよテレビ。ファイ好きでしょ?」
途端、ファイはぱっと目を輝かせた。
「お風呂でテレビ見れちゃうのー!?」
「ふふふ」
ワンセグなんて今どき珍しくもなんともない。一体いつの時代の感覚なのか。
だが満足げなユゥイの笑顔に、控えるまでもなく突っ込む言葉さえ見つからない黒鋼は、激しい頭痛に襲われながら、がっくりと項垂れた。
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「お、おい……その不吉な物言いはなんだ……」
ファイの両目を覗きこむユゥイの目が据わっている。
背筋に薄ら寒いものが駆け抜けるのは気のせいだろうか……。
「言った通り、そのまんまだよ」
「目ん玉えぐってぐちゃぐちゃ食うとか、そんな鬼展開じゃねぇだろうな……」
ファイの肩がビクッと震えた。
「な、なんかオレも……そんなようなビジョンが一瞬見えたような……」
「二人とも何を言っているの?」
ユゥイが呆れたような顔をしつつ、ようやくファイの両頬を解放した。
「なんでそんなN●Kじゃとてもじゃないけど放送できないようなグロ展開になるのさ」
「いや、なんとなくな……」
「オレも……なんとなく……」
「あのね、言葉のあやだよ。ファイの魔力の源はこの両目の青なの。これさえ取り除けば、ファイのMPカラカラだから」
「あれ? HPはー? オレ吸血鬼じゃないよー?」
「まぁいいじゃない、そんな細かいことは」
「おまえらRPGみてぇな言い方すんなよ……」
事実なんだから仕方ないでしょ、とユゥイは吐き捨てるように言った。
「あとはそこにボクがちょちょいっと変身魔法でもかけちゃえば、どうにでもなるんじゃない?」
「てめぇはまたアバウトなことを……」
「だからさー、難しいことばっか考えてるとハゲるよ。……むしろハゲろ(ぼそっ)」
「聞こえてんぞてめぇ」
「あーぁ……んじゃやっちゃおっかー」
「堂々と無視か!!」
黒鋼に対してドスルーを決め込んだらしいユゥイが、ダルそうに首の後ろを掻きながら立ち上がった。
そして指先でなにやら怪しげな呪文のようなものを描きだす。
太陽のような眩い光に辺りが包まれたのは、一瞬のことだった。
「もう終わりか……?」
「そ、終わり」
黒鋼はチカチカと眩んでいる目でファイとユゥイ、両方を幾度も見やる。
ぽかんとした顔で座り込んだままのファイの頭上からは、耳が消えている。もちろん、尻尾も。
残されていたはずの猫の特徴が二つとも消えて、彼はどこからどう見ても人間の姿へと変身を遂げていた。
黒鋼はファイへ腕を伸ばすと両頬を掴むようにして自分へ向けた。派手に間接の鳴る音が聞こえたような気がしたが、まぁいい……。
「いだだだっ! コキャって鳴ったー!!」
「お、おまえ、しっかり目ぇ開けろ……!」
ぎゅうと閉じた目元に涙を浮かべていたファイが、ゆっくりと瞼を開ける。
美しい青が消え、代わりに黄金の瞳が黒鋼を映す。
「こいつは一体……どんなメカニズムだ……?」
「だから突っ込むなって何度言わせるんだか」
「そいつはなんだ?」
黒鋼は頭の中で収拾がつかないことを整理するのを諦め、とりあえずユゥイの手の上に浮かんでいる、青い宝石のような物体を指さした。
人間の頭一つ分を優に超えるほどの大きさの石は、ほんのりと淡い光を放っている。その色はファイの元々の瞳の青を思わせた。
「魔力がぎゅぎゅっと凝縮された結晶だよ。満タン状態が二つ分だからね。見事なもんだね」
「これがオレの中にあったんだねー。感慨深いなぁ」
「あ、触らない方がいいよ。魔力を持たない普通の人間が下手に触れば、一体どうなるか……」
「ど、どうなるの……?」
「軽く星を巻きこむレベルの爆発が……」
「!」
「起こったら困るから気をつけよう」
「はぁい」
「……」
もういちいち突っ込むのは止めよう、と黒鋼は思った。
ユゥイがパチンと指を鳴らすと、青い結晶はどこかへ姿を消してしまう。そして彼は両手を腰に当てると「ふぅ」と息をついた。
「ファイ、どう? 身体、どこかおかしいとこない?」
聞かれて、ファイは自分の頭を両手でポンポンと触ると「ない」と呟く。さらに後ろへ手をやって臀部の辺りを探して、また「ない」と言った。
「す、凄い! オレ本物の人間みたいだー!」
そう言いながら勢いよく立ちあがる。だが。
「あいた!!」
すぐにベタンと派手に尻餅をついてしまった。
「あ、あれー?」
「あはは。尻尾がなくてもバランス取れるように、訓練しないとねぇ」
「変な感じー……」
なるほど、細長いだけに見えた尻尾でも、ファイが身体のバランスを取る上では大事な部分だったらしい。
四足歩行から突如として二足歩行に変わっても彼がなんなく動けていたのは、あの尻尾があってこそだったのだ。
不思議なものだが、どこからどう見ても大人の男がまず始めなければならないのは、立って歩くことらしい。
手始めに『はいはい』でもさせればいいのか……と少し悩むところである。
「でもオレ……ホントに人間になれちゃったんだ……」
それでも感動した様子のファイは、瞳にじんわりと涙を浮かべていた。
ちょっと呆れたような、どこか苦しそうな、それでも笑顔を見せるユゥイがファイを優しく見つめていた。
+++
別れのときがやってきた。
なんとなく窓辺に寄って壁に背を預けると腕を組み、黒鋼はしばし彼らを見守ることにした。
今の二人に口を出すのは、野暮なことのように思えたからだ。
「ありがとうユゥイ……ワガママ聞いてくれて……」
上手く立ち上がることができずに床に座り込んでいるファイは、泣きそうな目をしてユゥイを見上げて言った。
畳みに片膝をついたユゥイが、そんなファイをふわりと抱きしめる。
「ファイは新しく生まれ変わったんだよ。あの青を失った時点で、ボクとは違う時間軸を、すでに生きはじめてるんだ」
ユゥイの背中を掻き抱くようにして腕を回したファイの瞳から、ついにポロリと涙が零れ落ちる。
宝石のような黄金から零れたそれがあまりにも切なくて、黒鋼はただ瞳を眇めた。
「ユゥイ……ごめんなさい……オレ……ユゥイを、一人ぼっちに……」
白い耳がなくなってしまった、金色の頭を労わるように撫でるユゥイの手はどこまでも優しい。
「ボクは一人じゃないよ。猫の国には、たくさんの可愛い子供たちがいるんだから」
少しだけ笑って、彼は懐かしそうに瞳を細めた。
「ファイはいつものんびり屋で、おっとりしてて、甘えん坊で……ボクがいなくちゃ、なにも出来ない子だったのにね」
「あのねユゥイ……オレは、ユゥイのこと……」
「ファイ、幸せになりなさい」
「……ッ」
泣き濡れて少し赤くなっている目元を、そっと華奢な両手が包み込む。
「いつだって君を想ってる。忘れないで」
そっと、黒鋼は目を逸らした。
双子のような彼らが交わす、秘め事のような口付けから。
次の瞬間、部屋の中に一陣の強い風が巻き起こり、大きな青い光に包まれた。
視線を戻せば、床に手をついて肩を震わせるファイが一人、残されている。小さく息をつき、壁から背を離すと静かに歩み寄り、膝をつく。
かける言葉はなく、ただ肩を抱き寄せれば、耳も尾もなくした一人の青年が、しがみつくようにして胸に顔を埋めてきた。
「オレ……っ、自分のことばっかりだ……!」
黒鋼には想像も及ばないほどの年月を、彼らは共に歩んできた。
血の繋がりはなくとも、そこには計り知れない絆があって、本当ならこれから先もずっと、唯一無二の存在として長きを歩むはずだったふたり。
気の遠くなるほどの生を、消えて行った彼は一人で歩むことになるのだろう。
けれどファイや黒鋼が選んだように、全てを許した時点で、ユゥイもまた自らその道を選んだということになる。
きつく抱き返しながら、黒鋼は小さく首を左右に振った。
「それでも選らんだ道なら、後悔はさせねぇ。おまえにも、あいつにも……」
少しの間、幼子のように泣いていたファイは、鼻を啜りながら小さな声で「うん」と返事をした。
泣きじゃくってしまったことが照れ臭かったのか、顔を上げた彼はようやく情けない笑顔を浮かべる。黒鋼もまた小さく笑って、柔らかく癖のある金色の髪を梳くようにして撫でた。
猫のように目を細めたファイの瞳が完全に閉じられて、ふたりは互いに自然と顔を近づけ合った。
唇が重なる……かと思ったその瞬間。
どろん、と間抜けな音がした。
「そうそう忘れてたー」
ユゥイが現れた……。
「これこれ、渡すの忘れちゃってたから届けに来たんだけど……ってちょっと……人がいなくなった途端なにイチャコラしはじめてるの」
「お、おま……」
白い携帯電話を手にしたユゥイが、物凄く嫌そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
あの感動の別れのシーンは一体なんだったのだろうか……。
まさに開いた口が塞がらない状態の黒鋼を無視し、ユゥイは二人の間にズンズンと割り込むと、ファイに白くのっぺりとした板のようなものを手渡す。
流石のファイも少し拍子抜けしたような顔をしつつ、大人しくそれを受け取ると首を傾げた。
「これなぁに?」
「スマホだよ。ガラケーもいいけど、やっぱり時代はこれだよね。あ、防水加工もばっちりだから、お風呂に入りながらワンセグ視聴も楽しめちゃう優れモノ」
「わんせぐ?」
「テレビだよテレビ。ファイ好きでしょ?」
途端、ファイはぱっと目を輝かせた。
「お風呂でテレビ見れちゃうのー!?」
「ふふふ」
ワンセグなんて今どき珍しくもなんともない。一体いつの時代の感覚なのか。
だが満足げなユゥイの笑顔に、控えるまでもなく突っ込む言葉さえ見つからない黒鋼は、激しい頭痛に襲われながら、がっくりと項垂れた。
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黒鋼、息子さんを僕にくださいの巻
そういえばファイは本来、住む世界が異なるのだと黒鋼は思った。
どうやら勝手に家を飛び出してきたらしいし、もし自分があの魔法使いの立場だったとしても「とっとと帰って来い」と言うに違いない。
ましてやそれが世間知らずのアホとあれば、心配で胃に穴が開きかねないだろう。
けれど彼は子供ではないのだし、自分の生き方は自分で決めればいい。
もしファイが本心から帰りたいと望んでいたのなら、止める権利はなかった。
しかし黒鋼は彼の気持ちを知っていたし、言葉よりも雄弁に感情を表わす便利なものが、ファイの頭や尻の辺りにはついているのだ。だからどちらかと言えば自信はあった。
それでも正直、直接「帰りたくない」という言葉を聞いたときは安堵した。
何も告げず、ましてやはっきりと意思も確かめないまま帰せば、確実に後悔するであろうことは目に見えていたから、結果的に恥じらいを捨てるに至ったわけである。
+++
それから数日後。
本当なら善は急げとすぐにでも動きたかった黒鋼だが、ファイに「少し時間をくれ」と言われた。
確かに彼としては故郷を捨てるほどの覚悟で臨むことなのだから、こちらばかりが急いても仕方がなかった。
なにしろちょっとお隣の町へお引っ越し……どころの騒ぎではないのだ。未だに信じがたいことだが、彼の故郷はこことは異なる次元にある。
この数日、ファイは気がつくと何か思い詰めたような顔をしていた。ここに留まることに迷いが生じたのかというと、そうではないようだが……。
とにかく話し合いは次に黒鋼が一日まるっと何もない日に、ということになり、そしてついに当日を迎えた。
「で? なにかな。いきなり呼びつけて」
不味いタイミングで呼んでしまったのではないか、と黒鋼は思った。
行儀悪くテーブルに足を組んで腰かけているユゥイは、毛先がちょっと焦げていた。白いはずの頬に煤までくっつけている。
「また失敗したの、ユゥイ……」
ファイがおずおずと問うと、彼は「まぁね……」と苦々しい表情で答えた。
一体なにを失敗したのか、その辺りへ突っ込むのは止める。
腕組みをしつつ顔を逸らすユゥイと向き合う形で畳の上に胡坐をかいて、黒鋼は同じく腕を組んでいた。ファイはその隣で苦手なはずの正座をしている。
例の怪しげな携帯電話で呼び出された先に黒鋼までいたのを見たユゥイは、より一層不機嫌な顔になってしまった。
「それより話ってなに? そこはかとなく嫌な予感がするのは、気のせいであってほしいね」
ギクリ、と身体を強張らせつつ目を泳がせたのはファイだけだった。
黒鋼はそれまでじっと目を閉じていたが、ゆっくりと見開くと遂に切り出した。
「呼びつけたのは俺だ」
「そのようだね」
「嫌な予感が的中するようで悪いが」
黒鋼は一度足を崩すと、ファイと同様に正座をする。
「こいつの身柄は今後も預からせてもらう」
びしっと背筋を伸ばしつつ言った言葉に、ユゥイがガクッとズッコケる動作をした。
「ちょ、ちょっと……その言い方……普通ここって……」
「てめぇもてめぇで反応するとこ違うんじゃねぇのか」
「いやいやいや、だってまるで刑事(デカ)か誘拐犯みたいな言い方するから……」
案外ベタな形式にこだわる野郎だと思いつつ、その後の反応を見守った。
なぜか髪の毛先を焦がし、頬に煤をつけている男は「あー」という溜息と共に唸り、片手を顔半分に押し付けた。
「……恐れていた瞬間が遂にきたー」
申し訳ない気がしないでもないが、察しのよさは正直助かる。
こちらが切り出さないまでも、どうやらこの流れは予測済みだったらしいし、あとは粘るだけだと思った。
ユゥイはその後も溜息を幾度かつき、頭を掻いたり腕を組んで難しそうに目を閉じたりしていた。
が、やがて黒鋼にじっとりとした視線を向けて来た。
「釘刺したはずだけどね」
「逆効果だった」
「……手を出した、と?」
「まぁ……あ、いや……」
す……っと目を逸らす黒鋼。
うっかりノリで「まぁな」と言いそうになり、慌てて否定するもユゥイは額に青筋を立てて拳を震わせていた。
「ま、待て。俺は中途半端な気持ちで手を出したわけじゃ」
「やめて!! 聞きたくない!! ボクの可愛いファイが! こんな野蛮そうな黒い人に純潔を散らされた!!」
両耳を塞いで首を左右に振るユゥイ。
「ちょ、落ちつけ! あと野蛮ってのは余計だ!」
「あぁファイがっ! ファイがーっ」
「おいおまえもなんとか言え……って、足を崩せ!! なに無理してんだ!?」
「うぅ……う……」
半狂乱に陥っているユゥイを尻目に、正座をしていたファイは前かがみになってプルプルしている。
「こんな人に穢されるために育てて来たわけじゃないのに……! ん? 待ってよ、ファイってボクをコピーしてるんだよね? え!? じゃあボクも同時に穢されたってことに!?」
「ならねぇよ!!」
「もう……無理……限界……さよなら……」
「だから足を崩せ!!」
ダメだ。対処しきれない……。
黒鋼はただただ途方に暮れた。
+++
初対面で茶を出して「熱い、渋い、不味い」と言われたものの他に出すものがなく、しょうがないのでせめて少し薄めに淹れたものを軽く冷ましてから、テーブルに出した。
ひとまず落ち着きを取り戻したユゥイはよほど喉が渇いたのか、大人しくそれに口をつけると「不味い」とだけ呟いた。
ファイはようやく痺れが治まり、足を伸ばしてほっこりした表情を浮かべている。
まだ話は終わっていないにも関わらず、一気に歳を取ったような疲労感が押し寄せた。
三人同時に「ふぅ」と息を吐き出してから、やや沈黙が流れた。
やがて第二ラウンドの口火を切ったのは、憐憫の表情でファイを見つめるユゥイだった。
「ファイ……」
「うん」
ほっこりしていたファイだが、一度肩を震わせて背筋を正した。流石にもう正座はしないらしい。
「全部、合意の上なの?」
ファイが頬を赤らめる。そして、はにかんだ表情で「うん」と頷いた。
「あのね、オレ嘘ついてた。本当はね、なっちゃったんだ……凄く久しぶりに……」
「ああ、発情……」
「う、うん」
なんだか聞いているだけでいたたまれない。黒鋼は思わずよそ見をして、指先で頬を掻いた。
「それでね……黒たんはオレを心配してくれて……助けてくれて……」
いたたまれないのはユゥイも同じだったようで、彼は不味いと言った茶を全て飲み干すと大きく息をつく。
彼にとってファイは我が子も同然なのだろう。そんな可愛い子供の初体験を、直接本人から告白されているのだから、その心境は察するに余りある。
「それで?」
「それで、あの……雄同士でも、平気なんだなーって……」
えへへと笑って、ファイは黒鋼と同じく頬を掻いた。
「そしたらなんか、急に楽になって。オレは、この人のこと好きでもいいんだって……その、普通の好きじゃなくて、特別な方の好きね?」
「わかるよ」
ユゥイは少し諦めたような力ない返事をした。
恐る恐る伺う素振りのファイをじっと見つめてから、煤のついた手でその手を取るとぎゅっと握った。
「だから、ずっと傍にいたい?」
「うん……」
「その姿で?」
問われると、ファイはここ数日見せていたあの難しい表情を浮かべる。
だがどこか違って見えるのは、もうそこに一切の迷いが感じられないことだった。
黒鋼はなんとなく握る拳に力を込めて、彼の言葉の先を静かに待った。
「オレね、ちゃんと……人間になりたい」
「……」
「何度も試したんだ。こんな中途半端な形じゃなくて、もっとちゃんとした人間に変身できないかなって。そしたら帽子なんて被らなくても、堂々と黒たんとお外を歩けるし、ユゥイにも一人前って認めてもらえると思ったから……でも、ダメだった」
「そう……」
「でもね、ただ上手に変身できるだけじゃ、ダメなんだ」
ファイの視線が黒鋼に向けられる。
この数日間、彼はずっと思い悩んでいた。
その答えは。
「オレ、黒たんと同じ時を生きたい」
「おまえ……」
「一緒に歳をとって、一緒におじいちゃんになって……最期まで同じ時間の中で生きていたい」
目頭が熱くなるのを感じる。
気が遠くなるほどの時を生きて来たと、彼は言っていた。
この先も長い長い時を約束されているファイは、けれどその生を捨ててまで、共にありたいと願ってくれているのだ。
けれどそんなことが、果たして出来るのだろうか。
何もかもハチャメチャな展開続きではあったが、そこまでの願いを叶えることが果たして。
黒鋼とファイは同時にユゥイを見やった。
彼は怒っているようにも泣きそうにも見える、複雑な表情をしていた。
「本気なんだね」
「ユゥイ……」
「君はどうなの」
鋭く瞳を眇め、射るような眼差しが黒鋼に向けられた。
「これはこの子の運命を大きく変える問題だ。はっきり言って重いよ。背負うだけの覚悟が、本当にあるのかな?」
黒鋼は目を閉じた。
思えばあの雨の夜、たった一匹の白猫を拾ったところから、これは始まった。
あのときはただの気紛れで、きっとすぐに別れが訪れるものとばかり思っていた。
雑踏の中でただ行き交い、すれ違う他人同士のように、ほんの少しばかり手をかけただけで離れゆく、薄い縁(えにし)だと。
運命がその道筋を変えるのは、そんな風に何気ない一瞬。
あのときすでに、幾重にも無限に枝別れしているうちのただひとつを、黒鋼も、そしてファイも選び取っていたのだとすれば。
「必然なんだろ。これが」
目を開ける。真っすぐに、鋭い眼差しへ思いを返す。
これ以上どんな言葉が必要だろうか。言葉を並べ立てたところで、結果はずっと先にある。
この瞬間、この胸にある思いこそが全てで、そして『今』があるからこそ『未来』があるのだ。
黒鋼はその一秒一秒を、ファイと共に歩きたいと強く願っている。そしてファイの意思もまた、固いのだ。
だからこそ今、なにより必要なものはただ一つ。
「信じることしかできないんだね。ボクは」
そう。けれどそれが何よりの力になる。『不確か』を『確か』なものにする、ただ一つに。
ずっと険しいままだったユゥイの表情が、ようやく僅かに綻んだ。微笑みと呼ぶには苦くて切なくて、黒鋼の胸は少し痛んだ。
「あるよ。一つだけ、方法が」
ユゥイの顔に浮かんだ小さな笑みはすぐに消えた。代わりに、真剣な眼差しがファイを捉える。
「ファイ」
そして煤のついた白い両手が、彼の両頬を包んだ。
親指の先で、不安げに揺れる二つの目元をそっとなぞる。
そして言った。
「この両目を、奪ってしまえばいい」
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そういえばファイは本来、住む世界が異なるのだと黒鋼は思った。
どうやら勝手に家を飛び出してきたらしいし、もし自分があの魔法使いの立場だったとしても「とっとと帰って来い」と言うに違いない。
ましてやそれが世間知らずのアホとあれば、心配で胃に穴が開きかねないだろう。
けれど彼は子供ではないのだし、自分の生き方は自分で決めればいい。
もしファイが本心から帰りたいと望んでいたのなら、止める権利はなかった。
しかし黒鋼は彼の気持ちを知っていたし、言葉よりも雄弁に感情を表わす便利なものが、ファイの頭や尻の辺りにはついているのだ。だからどちらかと言えば自信はあった。
それでも正直、直接「帰りたくない」という言葉を聞いたときは安堵した。
何も告げず、ましてやはっきりと意思も確かめないまま帰せば、確実に後悔するであろうことは目に見えていたから、結果的に恥じらいを捨てるに至ったわけである。
+++
それから数日後。
本当なら善は急げとすぐにでも動きたかった黒鋼だが、ファイに「少し時間をくれ」と言われた。
確かに彼としては故郷を捨てるほどの覚悟で臨むことなのだから、こちらばかりが急いても仕方がなかった。
なにしろちょっとお隣の町へお引っ越し……どころの騒ぎではないのだ。未だに信じがたいことだが、彼の故郷はこことは異なる次元にある。
この数日、ファイは気がつくと何か思い詰めたような顔をしていた。ここに留まることに迷いが生じたのかというと、そうではないようだが……。
とにかく話し合いは次に黒鋼が一日まるっと何もない日に、ということになり、そしてついに当日を迎えた。
「で? なにかな。いきなり呼びつけて」
不味いタイミングで呼んでしまったのではないか、と黒鋼は思った。
行儀悪くテーブルに足を組んで腰かけているユゥイは、毛先がちょっと焦げていた。白いはずの頬に煤までくっつけている。
「また失敗したの、ユゥイ……」
ファイがおずおずと問うと、彼は「まぁね……」と苦々しい表情で答えた。
一体なにを失敗したのか、その辺りへ突っ込むのは止める。
腕組みをしつつ顔を逸らすユゥイと向き合う形で畳の上に胡坐をかいて、黒鋼は同じく腕を組んでいた。ファイはその隣で苦手なはずの正座をしている。
例の怪しげな携帯電話で呼び出された先に黒鋼までいたのを見たユゥイは、より一層不機嫌な顔になってしまった。
「それより話ってなに? そこはかとなく嫌な予感がするのは、気のせいであってほしいね」
ギクリ、と身体を強張らせつつ目を泳がせたのはファイだけだった。
黒鋼はそれまでじっと目を閉じていたが、ゆっくりと見開くと遂に切り出した。
「呼びつけたのは俺だ」
「そのようだね」
「嫌な予感が的中するようで悪いが」
黒鋼は一度足を崩すと、ファイと同様に正座をする。
「こいつの身柄は今後も預からせてもらう」
びしっと背筋を伸ばしつつ言った言葉に、ユゥイがガクッとズッコケる動作をした。
「ちょ、ちょっと……その言い方……普通ここって……」
「てめぇもてめぇで反応するとこ違うんじゃねぇのか」
「いやいやいや、だってまるで刑事(デカ)か誘拐犯みたいな言い方するから……」
案外ベタな形式にこだわる野郎だと思いつつ、その後の反応を見守った。
なぜか髪の毛先を焦がし、頬に煤をつけている男は「あー」という溜息と共に唸り、片手を顔半分に押し付けた。
「……恐れていた瞬間が遂にきたー」
申し訳ない気がしないでもないが、察しのよさは正直助かる。
こちらが切り出さないまでも、どうやらこの流れは予測済みだったらしいし、あとは粘るだけだと思った。
ユゥイはその後も溜息を幾度かつき、頭を掻いたり腕を組んで難しそうに目を閉じたりしていた。
が、やがて黒鋼にじっとりとした視線を向けて来た。
「釘刺したはずだけどね」
「逆効果だった」
「……手を出した、と?」
「まぁ……あ、いや……」
す……っと目を逸らす黒鋼。
うっかりノリで「まぁな」と言いそうになり、慌てて否定するもユゥイは額に青筋を立てて拳を震わせていた。
「ま、待て。俺は中途半端な気持ちで手を出したわけじゃ」
「やめて!! 聞きたくない!! ボクの可愛いファイが! こんな野蛮そうな黒い人に純潔を散らされた!!」
両耳を塞いで首を左右に振るユゥイ。
「ちょ、落ちつけ! あと野蛮ってのは余計だ!」
「あぁファイがっ! ファイがーっ」
「おいおまえもなんとか言え……って、足を崩せ!! なに無理してんだ!?」
「うぅ……う……」
半狂乱に陥っているユゥイを尻目に、正座をしていたファイは前かがみになってプルプルしている。
「こんな人に穢されるために育てて来たわけじゃないのに……! ん? 待ってよ、ファイってボクをコピーしてるんだよね? え!? じゃあボクも同時に穢されたってことに!?」
「ならねぇよ!!」
「もう……無理……限界……さよなら……」
「だから足を崩せ!!」
ダメだ。対処しきれない……。
黒鋼はただただ途方に暮れた。
+++
初対面で茶を出して「熱い、渋い、不味い」と言われたものの他に出すものがなく、しょうがないのでせめて少し薄めに淹れたものを軽く冷ましてから、テーブルに出した。
ひとまず落ち着きを取り戻したユゥイはよほど喉が渇いたのか、大人しくそれに口をつけると「不味い」とだけ呟いた。
ファイはようやく痺れが治まり、足を伸ばしてほっこりした表情を浮かべている。
まだ話は終わっていないにも関わらず、一気に歳を取ったような疲労感が押し寄せた。
三人同時に「ふぅ」と息を吐き出してから、やや沈黙が流れた。
やがて第二ラウンドの口火を切ったのは、憐憫の表情でファイを見つめるユゥイだった。
「ファイ……」
「うん」
ほっこりしていたファイだが、一度肩を震わせて背筋を正した。流石にもう正座はしないらしい。
「全部、合意の上なの?」
ファイが頬を赤らめる。そして、はにかんだ表情で「うん」と頷いた。
「あのね、オレ嘘ついてた。本当はね、なっちゃったんだ……凄く久しぶりに……」
「ああ、発情……」
「う、うん」
なんだか聞いているだけでいたたまれない。黒鋼は思わずよそ見をして、指先で頬を掻いた。
「それでね……黒たんはオレを心配してくれて……助けてくれて……」
いたたまれないのはユゥイも同じだったようで、彼は不味いと言った茶を全て飲み干すと大きく息をつく。
彼にとってファイは我が子も同然なのだろう。そんな可愛い子供の初体験を、直接本人から告白されているのだから、その心境は察するに余りある。
「それで?」
「それで、あの……雄同士でも、平気なんだなーって……」
えへへと笑って、ファイは黒鋼と同じく頬を掻いた。
「そしたらなんか、急に楽になって。オレは、この人のこと好きでもいいんだって……その、普通の好きじゃなくて、特別な方の好きね?」
「わかるよ」
ユゥイは少し諦めたような力ない返事をした。
恐る恐る伺う素振りのファイをじっと見つめてから、煤のついた手でその手を取るとぎゅっと握った。
「だから、ずっと傍にいたい?」
「うん……」
「その姿で?」
問われると、ファイはここ数日見せていたあの難しい表情を浮かべる。
だがどこか違って見えるのは、もうそこに一切の迷いが感じられないことだった。
黒鋼はなんとなく握る拳に力を込めて、彼の言葉の先を静かに待った。
「オレね、ちゃんと……人間になりたい」
「……」
「何度も試したんだ。こんな中途半端な形じゃなくて、もっとちゃんとした人間に変身できないかなって。そしたら帽子なんて被らなくても、堂々と黒たんとお外を歩けるし、ユゥイにも一人前って認めてもらえると思ったから……でも、ダメだった」
「そう……」
「でもね、ただ上手に変身できるだけじゃ、ダメなんだ」
ファイの視線が黒鋼に向けられる。
この数日間、彼はずっと思い悩んでいた。
その答えは。
「オレ、黒たんと同じ時を生きたい」
「おまえ……」
「一緒に歳をとって、一緒におじいちゃんになって……最期まで同じ時間の中で生きていたい」
目頭が熱くなるのを感じる。
気が遠くなるほどの時を生きて来たと、彼は言っていた。
この先も長い長い時を約束されているファイは、けれどその生を捨ててまで、共にありたいと願ってくれているのだ。
けれどそんなことが、果たして出来るのだろうか。
何もかもハチャメチャな展開続きではあったが、そこまでの願いを叶えることが果たして。
黒鋼とファイは同時にユゥイを見やった。
彼は怒っているようにも泣きそうにも見える、複雑な表情をしていた。
「本気なんだね」
「ユゥイ……」
「君はどうなの」
鋭く瞳を眇め、射るような眼差しが黒鋼に向けられた。
「これはこの子の運命を大きく変える問題だ。はっきり言って重いよ。背負うだけの覚悟が、本当にあるのかな?」
黒鋼は目を閉じた。
思えばあの雨の夜、たった一匹の白猫を拾ったところから、これは始まった。
あのときはただの気紛れで、きっとすぐに別れが訪れるものとばかり思っていた。
雑踏の中でただ行き交い、すれ違う他人同士のように、ほんの少しばかり手をかけただけで離れゆく、薄い縁(えにし)だと。
運命がその道筋を変えるのは、そんな風に何気ない一瞬。
あのときすでに、幾重にも無限に枝別れしているうちのただひとつを、黒鋼も、そしてファイも選び取っていたのだとすれば。
「必然なんだろ。これが」
目を開ける。真っすぐに、鋭い眼差しへ思いを返す。
これ以上どんな言葉が必要だろうか。言葉を並べ立てたところで、結果はずっと先にある。
この瞬間、この胸にある思いこそが全てで、そして『今』があるからこそ『未来』があるのだ。
黒鋼はその一秒一秒を、ファイと共に歩きたいと強く願っている。そしてファイの意思もまた、固いのだ。
だからこそ今、なにより必要なものはただ一つ。
「信じることしかできないんだね。ボクは」
そう。けれどそれが何よりの力になる。『不確か』を『確か』なものにする、ただ一つに。
ずっと険しいままだったユゥイの表情が、ようやく僅かに綻んだ。微笑みと呼ぶには苦くて切なくて、黒鋼の胸は少し痛んだ。
「あるよ。一つだけ、方法が」
ユゥイの顔に浮かんだ小さな笑みはすぐに消えた。代わりに、真剣な眼差しがファイを捉える。
「ファイ」
そして煤のついた白い両手が、彼の両頬を包んだ。
親指の先で、不安げに揺れる二つの目元をそっとなぞる。
そして言った。
「この両目を、奪ってしまえばいい」
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彼女と付き合っていて、上手くいっていたのはせいぜい最初の一年くらいなものだろうか。
少しずつどこかで歯車が狂いだして、気が付けば全て壊れていた。
当時から仕事に追われる日々を送っていた黒鋼は、それでもどうにかして彼女と過ごすための時間を作るように努力はしていた。
だがそれにも限界はあって、あらかじめしていた約束を守れないことは多々あったし、メールの返信すらできない日も当然あった。
寂しい思いをさせているという自覚はあった。どこかで埋め合わせが出来ればと。
そんな状態が続く中、何の連絡もなしに彼女が大荷物を持って、当時黒鋼が暮らしていたアパートへやってきた。仕事も辞めてきたと言って、そのまま部屋に住み着くようになった。
突然のことに面食らう黒鋼に、彼女は『あかちゃんができた』と言った。
嬉しくないはずがなかった。その時の黒鋼には彼女に対して愛情があったし、二十代も中盤にきて、そろそろ身を固めてもいい時期なのかもしれないと、そう感じていた。
だが、待てども暮らせども彼女の身体に妊娠による変化は見られなかった。
それどころか、一緒に暮らすようになってからすぐに彼女はその異常性を発揮し始めた。
定時を過ぎた段階で携帯電話に数十件ものメールと着信が入り、酷い時は百件を超えた。
残業が当たり前の職場だと説明しても、二言目には『もう私を愛してないのね』と言って泣き出し、膨らみのない腹をこれ見よがしに愛しげに摩った。
そんな状態が半年も続けば、流石に妊娠が偽りであることには気が付いていた。
彼女の執拗なまでの干渉と独占欲は日に日に増してゆき、職場や取引先にまで押しかけてくるようになった。
とてもではないが、そんな相手を両親に会わせる気にはなれなかった。黒鋼の中には、もはや結婚への意欲も彼女への愛情も薄れきっていた。
プライベートの崩壊に伴い、仕事も上手くいかないことが多くなった。知らず知らずのうちに、追い詰められた心が悲鳴を上げ始めていた。
何より互いの将来を考えても、このままでいいはずがなかった。
だから言った。『別れてくれ』と。
その話をするためだけに無理やり仕事を切り上げ、早々帰宅した黒鋼のために、上機嫌でカレーの具材を切る背中に向かって。
そこからはまさに修羅場というに相応しい展開だった。
彼女は泣きわめき、ついには手にしていた包丁を自らの首筋に当て、自殺未遂をはかった。
それが今年の一月、年が明けて間もない頃のこと。
今のマンションへ引っ越しを決めたのは、事件のあともアパートに住み続ける気になれなかったことが理由だった。
正直、当分は色恋沙汰は勘弁だった。
*
昼時をとうに過ぎた休憩室は、ほんの2~3人が遅い昼食をとっているだけで閑散としていた。
その光景を尻目に、自分以外は誰もいないガラス張りの喫煙所で黒鋼は咥えた煙草に火をつけると、携帯電話を取り出した。
電話帳の中から目当ての番号を呼び出すと、通話ボタンを押す。コール音を耳に押し当てながら白い煙を吐き出し、腕時計を見やった。
このあとすぐに訪問先の企業へ出向き、重要なプレゼンが控えている。あまり時間はないのだが、これを逃せばまたいつ時間が空くかわからない。
『はいはい、もしもし?』
ほどなくして受話器越しに聞こえてきた声に、黒鋼はふっと小さく口元を緩めた。
久しぶりに聞くその声は実家に暮らす母親のものだった。
「俺だ。今いいか?」
『もちろんよ。久しぶりね。あなたって子は何かあってからじゃないと連絡のひとつも寄越さないんだもの。せっかくメールを送っても返事してくれないし。だいたいこの間も』
母はこのご時世、最近になってようやく携帯電話を持つようになった。
メールは練習中らしく、たまに支離滅裂な文面が送られてくる。黒鋼がそれに返信したことは一度もなかった。
たまにしか連絡を寄越さない息子に言いたいことが山積みなのか、放っておくといつまでも小言を連ねそうな母の勢いに、黒鋼は再び腕時計を見やった。
「お袋、悪いがあんまり時間がねぇんだ」
『ええ、分かっているわ。あなた、このままじゃ身体を壊してしまうわよ』
「……分かるか?」
『当たり前でしょう? 可愛い息子のことだもの』
黒鋼の母は代々続く神社の家系で、父のもとに嫁ぐまでは巫女として神職の補助を務めていた。
幼い頃から人並み外れた霊感を持つ彼女は、普通の人間には見えないものを感じ、そして当たり前のように見ることができる。
幸か不幸かその能力は息子に受け継がれることはなかったが、黒鋼が基本的にこの手のものに恐怖心を抱かないのは、この母の存在があってこそだった。
子供の頃から『ほらあそこに赤い着物の女の子が』、なんて話を夕飯の献立を告げるようなトーンで聞かされ続ければ、嫌でも慣れてしまう。
『とても悪いものよ。すぐに帰っていらっしゃい』
「……そうしてぇのは山々なんだが」
なかなかすぐに、というのは難しい。電話だけで済むような対処法はないかと連絡をしたのだが、やはり難しいか。
気づけば、ほとんど吸わないうちに煙草が灰になって床に落ちていた。
しまったと思いながらそれを革靴の先でぐりぐりと払いのけ、灰皿に煙草を押し付ける。結局まともに吸うことができなかった。
言葉を濁す息子に、母は『しょうがないわね』と諦めたように息を漏らす。
『すぐにお守りを送ってあげるわ。ただ、あまり長くはもたないと思うけど……』
「いや、十分だ。なるべく時間作って帰るようにする」
『そうなさい。お父さんも喜ぶわよ』
あと、それから。
母はクスっと可愛らしく笑った。
『煙草、ほどほどになさい。嫌われちゃうわよ』
*
それから数日後、母から手紙つきで荷物が届いた。
野菜や米、味噌や醤油などの調味料に、甘味を除いた煎餅などの菓子類。それらがいっぱいに詰まった箱の中に、数枚の札と黒を基調とした天眼石で紡がれたブレスレットが入っていた。
さっそく手紙の指示通りにリビングと寝室、トイレと風呂場にそれぞれ札を貼り付けた。
玄関の分がないのは、全ての通り道を塞がないためだ。遠ざけるために貼った札によって、逆に閉じ込めてしまっては意味がない。
ブレスレットは、なるべく肌身離さずつけているようにと書かれていた。
たったそれだけで、効果はすぐに表れた。
あれだけだるかった身体や肩の重みが、嘘のように消えてしまったのだ。
けれど、どういうわけか部屋の中の地味な怪異はおさまらなかった。母はあまり長くはもたないと話していたし、全てを防ぎきるほどの効果までは、期待できないということだろうか。
それでも身体の調子がよくなっただけで黒鋼にしてみれば十分だった。
実家に戻り、直接祓ってもらうための時間が確保できるまでもてば、それでいい。
心なしか仕事の方も順調で、定時とまではいかないものの、職場ビルから近い居酒屋で一杯引っかけて帰れるくらいには、余裕が生まれた。
あと少し仕事が片付けば、一日くらいはまとまった休みも取れそうだ。
だがそれを待たずしてある夜、驚くべき出来事が起こった。
「どういうことだ、こいつは……」
およそ一週間ぶりくらいに、仕事でトラブルが続いたその日。
なんとなく身体のだるさと肩の重さがぶり返したような気はしていた。久しぶりに嫌な疲労感を引きずりながら帰宅した黒鋼は、相変わらずテレビがつけっぱなしのリビングに真っ二つに裂かれた札が落ちているのを見て、愕然とした
まさかと思い、寝室へ行き、トイレへ行き、最後に脱衣所へ向かう。
札はどれも同じように、切れ味のいい刃物で切り裂いたかのような有様で、すっかり剥がれ落ちていた。
「くそ……」
脱衣所に立ち尽くし、僅かに額に落ちる前髪ごと頭部をくしゃりと掻き乱す。
その拍子に、ふと腕に通していたブレスレットを見ると、白く丸い眼のように走っていたはずの模様が消え、ただの真っ黒な石に変わり果てていることに気が付いた。
そしてそれは、まるで黒鋼が気づくのを待っていたかのように弾け飛んだ。
「ッ!?」
バラバラと音を立てて、黒い石が幾つも床に叩きつけられる。
『とても悪いものよ』
母の言葉を思い出しながら、流石の黒鋼もゾッとした。
床の上を転がる石から目が離せずにいると、ずん、とまるで背後から人に圧し掛かられたように肩の重さが増した。
足元から異様な冷気が立ち込め、上へ上へと移動しながら身体を芯から凍らせてゆく。
脱衣所の灯りが幾度か点滅し、やがて完全に消える。湿った闇が皮膚を撫でる感触に、黒鋼はいよいよ身の危険を感じた。
ここにいるべきではない。本能が警告を発する。
けれど、どうしてか身体が動かない。セメントで固められたように、呼吸さえ奪われてゆくような圧迫感を覚えた。
だが、次の瞬間。
「なんか食べたいなー」
遠くでガサガサという音がして、同時にどこか能天気な男の声が聞こえた。
ハッとした瞬間、黒鋼の身体から縛り付けられているような感覚が消え、咄嗟に脱衣所を出る。廊下の向こうにあるリビングは停電していなかった。灯りがしっかり灯されていて、やはりガサガサという音がしていた。
「これ食べちゃおっかなー。ホントは甘いのがいいけどー……」
黒鋼は、ごくりと喉を鳴らした。
「ここの人って普段なに食べてるんだろー? ってくらい冷蔵庫も空だし、つまんないんだよねー」
少し高めの男の声は緊張感に欠けるものだったが、一歩一歩、確かめるように廊下を進む。
「うん、食べちゃおー。お煎餅もだーい好きー!」
「誰だ!!」
リビングに顔を出した瞬間、黒鋼は叫んだ。バサッという、何かが落ちたような音がする。
注意深く辺りを見回しながら、音がした方へじりじりと進めば、キッチンの床に煎餅の袋がぽつりと落ちているのを発見した。
開けた覚えのない煎餅の封が切られ、中身が割れて零れだしているのを見た途端にむかっ腹が立って、黒鋼はそれを拾い上げると無意識にぐしゃりと潰していた。
「こそこそ隠れてねぇで出てこい! いい加減、決着をつけてやる!!」
…………。
「毎晩毎晩、アホみてぇに嫌がらせしやがって! もう勘弁ならねぇ!!」
…………反応はない。
その時の黒鋼の形相は、鬼だろうが悪魔だろうが尻尾を巻いて逃げ出すほど凶悪なものだった。
元々目つきは悪いし、恵まれすぎた体格から発される威圧感から、街を歩けばチンピラ風の男たちに「ご苦労様です!」と頭を下げられることもしばしばあった。
これでも一応は企業に勤める営業マンなのだが……。
とにかく、そんな強烈なオーラを放つ男が凄んで『出てこい』などと言って、おとなしく出てくるバカはいないだろう。
わかってはいても、いい加減堪忍袋の緒が切れた状態の黒鋼には、穏便に事を済ませる気などさらさらなかった。
一発でもぶん殴ってやらなければ気が済まない。相手が幽霊だろうが宇宙人だろうが新種のUMAだろうが、この際もうなんだっていい。
「出て来いっつってんだろうが!!」
「……やだよぉ。出てったら絶対殴るでしょー」
「!?」
応じた。黒鋼の呼びかけに、ついに一連の怪異の犯人が。
「まぁムリだとは思うけどー、でもやっぱ怖いしー」
「どこだ!? どこにいやがる!?」
「もー、うるさいなー。ここだよ、ここー」
辺りを機敏に見渡しても、声のする方向が定まらない。
黒鋼はキッチンのカウンターを迂回して、リビングに出るとさらに周囲を見渡した。
「とっとと出て来い! 殺されてぇのか!!」
「もう死んでるよーぅ」
後方から聞こえた声に振り向けば、そこには天井からにゅるんと上半身だけを出した金髪男が、煎餅を齧っている姿があった。
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