04
カリカリ、カリカリ、カリカリ──。
21時を過ぎたころ、いつものように窓枠を引っ掻く音がした。
キッチンにいた操はすぐさま駆け寄り、鍵を外して窓を開ける。すると大柄なサビ猫が、冷えた夜気を引き連れて室内に入り込んできた。
「いらっしゃい、甲洋!」
彼をよいしょと抱き上げて、ふわふわの首元に顔を埋めた。夜の匂いを思いきり吸い込んだあと、ちゅっとその唇にキスをする。
その瞬間キラキラと光を放ち、サビ猫は猫耳青年へと姿を変えた。焦げ茶のくせ毛に白い頬。雪雲のように色素の薄い瞳を細め、彼は柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、来主」
人間に変身した甲洋は操よりも一回り身体が大きくて、抱きしめていたはずが逆に抱きしめられる形になっている。そのまま猫と変わらぬ仕草で頬ずりをされると、まるでトラやライオンにでもジャレつかれているような気分になった。
触れ合う頬の冷たさに、操は思わず肩をすくめる。
「ふふっ、甲洋のほっぺた冷たいね。寒かったでしょ?」
「うん。でもここは暖かいよ。来主がいるから」
「じゃあもっとあったかくしてあげる!」
自分の体温を分け合うように、冷え切った身体をぎゅうぎゅうと抱き返す。
すると甲洋の喉から、ゴロゴロというご機嫌な音がしはじめた。耳としっぽだけじゃなく、そんなところにも猫の名残がとどまっている。
可愛いなぁと思いながら両手でわしゃわしゃと髪を乱してやると、甲洋は「やめて」と言いながらも、いっそう喉を鳴らして笑った。
「お腹すいたでしょ? そろそろ来る頃だと思って、準備してたよ」
じゃれ合うことに夢中で、つい忘れるところだった。甲洋が来たらおやつをあげる。それは操にとって大切な決まりごとであり、楽しみの一つだ。
「甘くていい香りがするね。これはなんの匂い?」
「えへへー、出来てからのお楽しみだよ!」
操が得意げに笑うのと同じタイミングで、キッチンからオーブンレンジが奏でる加熱完了のメロディが流れてきた。
*
正体を明かしてからも、彼──甲洋は変わらず夜になると部屋を訪れる。
来ると必ずキスをして青年の姿になるが、耳としっぽだけは猫のままだ。
甲洋の中に流れる猫の血が、どうしても邪魔をするらしい。彼はもっと完璧に変身できる方法を探しているらしいが、操はこのままでいいと思っている。だって可愛いから。
けれど耳としっぽを除けば、甲洋はどこからどう見ても人間だった。そんな彼に今まで通り、猫用の食べ物を出すのは気が引ける。
だから代わりに、手作りのお菓子を用意するようになった。クッキーだったり、ドーナツだったり。毎日なにを作るか考えるのも、楽しい時間の一つだった。
お菓子には必ずコーヒーも添えて出すようにしている。インスタントだが、味も香りも悪くない。甲洋も気に入ってくれたようで、砂糖は入れずに少量のミルクを入れて飲む。甘みは操が作るお菓子だけで十分だからだ。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
今日のお菓子はバゲットを使ったパンプディングだった。向かい合っているローテーブルの上で、耐熱皿はすっかり空になっている。
あぐらをかく甲洋が、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置く。細められた煤色の瞳に、操は肩をすくめてにっこり笑った。
「よかった。君はなんでも喜んで食べてくれるから嬉しいよ」
「こんなに美味しいお菓子が作れて、凄いね来主は」
「そんなことないよ。簡単だし、もっと上手な人はいっぱいいるもん」
照れ笑いを浮かべながら言った操に、彼はやんわり首を横に振る。
「俺は来主が作ったものがいい。甘くて優しくて、来主らしい味がする」
「えへへ、なんか恥ずかしいや。でも嬉しい。ありがとう」
顔が熱くなってふにゃんと蕩けそうになる。そしてどこか懐かしい気持ちにもさせられた。実家にいた頃も、よくこうしてお菓子作りをしていたものだ。それを美味しそうに食べてくれる母の笑顔が、操はなによりも好きだった。
甲洋といると、そのときの幸せな気持ちを思いだす。寮で一人暮らしをはじめてからは、ずいぶん久しい感覚だ。
「甲洋は凄いね。一緒にいると心がポカポカして、たくさん元気がもらえるよ」
「それは俺も同じだよ」
「ほんと? じゃあ、これからもずっと一緒にいようね!」
すると甲洋が両耳をピクンと跳ねさせ、「ずっと?」と言った。
「そう、ずっと!」
大きくうなずくと、長いしっぽが嬉しそうに上へと跳ねる。彼はほんのり頬を赤らめながら神妙に頷き、「わかった」と言った。
やけに真剣な顔をしているのが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「あははっ、変な甲洋。可愛いね」
「……可愛いのは来主の方だよ」
「ぼくが? ふふっ、やっぱり変!」
「伝わらないかなぁ……」
大きな耳の後ろをガリガリと掻きながら、甲洋がため息をついている。よく分からないが、それすらおかしくて笑ってしまった。
楽しくてずっと話し込んでいたいところだったが、操はふと壁掛け時計に目をやった。時刻は22時をとうに過ぎている。
「あっ、いけない! 今日はまだお風呂に入ってないんだった!」
「うん、行っておいで」
「甲洋も入ろうよ。どうしていつも嫌がるの?」
正体を明かす前から、彼はなぜか操との入浴を拒絶していた。あの頃とは違い、今なら理由を聞くことができる。
すると甲洋の頬がまた赤くなった。そしてバツが悪そうに目をそらす。
「俺にもいろいろと事情があるから」
「事情? どんな? もしかしてそれもケット・シーの掟なの?」
「そういうわけでは……」
甲洋は口をモゴモゴとさせ、赤い頬を指先でカリカリと掻いた。
「俺の中での掟だよ」
「なにそれぇ?」
けっきょく理由は分からずじまいだ。
むぅっと唇を尖らせる操に、彼はただ苦笑して見せるだけだった。
*
しょうがなく一人で入浴を終えたあと、操は甲洋の背後にペタリと座って、しっぽにブラシをかけていた。
ふさふさの毛は本当に狼のようだ。優しく丁寧にブラッシングをすると、サビ柄のしっぽは少しずつ艶を帯びていく。
「ねぇ、そういえばずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「怪我が3日で治っちゃったのも、魔法の力だったの?」
ブラシをかけられるのが気持ちいいのか、甲洋はまったりとした口調で「そうだよ」と言った。
「凄いや。そんなこともできちゃうなんて」
あの丘の木の上で、彼は自分の魔法を「些細なもの」と言っていた。けれどあれだけの怪我を短期間で治してしまうのだから、十分すぎるほど強い力を持っているように思えた。
「じゃあさ、あのときも魔法でなんとかできなかったの?」
「あのとき? ──ああ、もしかしてケンカのこと?」
「うん。そもそも、どうしてケンカなんかしてたわけ?」
ケンカというより、一方的なリンチだったような気もするが。
相手は普通の猫だったのか、それともケット・シー同士の争いだったのか、それすら操には区別がつかない。
「それは……」
思いだしてしまったのか、甲洋が渋々ながら教えてくれた。
あのときは誤って、よその縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。ケット・シーの群れとは別の、ごく普通の野良猫たちの縄張りだ。当然ボス猫に見つかってしまい、怒りを買って攻撃された。そこへさらに他の猫たちまで加担してきて、あんなことになってしまったのだと。
「え? じゃあ普通の猫にケンカで負けたってこと!? 妖精なのに!?」
その言葉は、彼のプライドに傷をつけてしまったらしい。急にしっぽをブンブンと左右に大きく振りはじめた。耳も下向きにしょげているし、背中も猫背になっている。どうやら不貞腐れてしまったらしい。
「ご、ごめんってば。だって不思議だったんだもん。魔法を使えば、君なら怪我する前になんとかできたんじゃないかって」
広い背中をさすってあげると、どうにかしっぽの動きはおさまった。
「それは反則だ。怖がらせたり、傷つけたりしたら可哀想だろ?」
「それもケット・シーの掟なの?」
「そうだよ」
ケット・シーは魔法で猫に危害を加えてはいけないらしい。だからケンカになったら、腕力で勝負するしかないのだ。
しかしあのときの甲洋は複数の猫に追われていた。いくら身体が大きくても、とても勝ち目はなかっただろう。だけどふと、仮にあれが一対一のケンカだったとしても、同じ結果になっていたのではないかと操は思う。
大柄なサビ猫はとても強そうな見た目をしているが、人の姿をした甲洋は柔和で繊細そうな好青年だ。彼の内面が、この見た目にはよく現れている。ケンカとは無縁に見えるし、ましてや勝ちをおさめている姿は想像できない。
言ってしまえば弱そうなのだ。間違って他の野良猫の縄張りに入ってしまうところも、なんだかちょっと抜けている。
(……もう!)
胸がキュンと締めつけられるような感じがして、たまらない気持ちになった。
優しくておっちょこちょいで、ケンカが似合わない大きな猫。無性に守ってあげたくなってしまう。もしかしたら、これが母性というものなのだろうか。
操はまだ少し猫背になっている広い背中に、ぎゅっと抱きついた。
「く、来主?」
「次からは気をつけてよね。君は優しくて、ケンカ弱いんだからさ」
甲洋は大きな耳を情けなく水平に下げている。またイジケちゃったかなと思ったが、しっぽは左右に振られていない。
ふと見上げると、長い襟足から覗く後ろ首が、ほんのり赤くなっていた。
「君、もしかして照れてるの?」
「……うん」
「あははっ」
自分から抱きしめるのは平気なくせに、される側になるとこんな反応をするなんて。照れ屋で可愛い猫耳青年に、操の胸はまたキュンと疼いてしまうのだった。
*
寝る時間になると、なぜか甲洋は元の猫の姿に戻る。
操は彼を両腕に抱いて布団に入ると、もふもふの毛に顔を埋めたり、スンスンと吸い込んだりして至福のときを過ごしていた。
そんなしつこいスキンシップも、甲洋は黙って好きにさせてくれる。
「はぁ~、もふもふ最高……」
「満足した?」
「うん、大満足!」
それはよかったと言いながら、甲洋が大きな口を開けてあくびをした。立派な牙がよく見える。すると操にまであくびがうつった。
「ふぁ……今日も楽しかったね。ありがとう、コーヒー」
「こちらこそありがとう。あと、俺は甲洋だよ」
「あっ、そっか。ごめんね、つい癖で」
猫の姿の彼といると、つい以前の呼び方をしてしまう。だけど『甲洋』と『コーヒー』は、名前が少し似ている気もする。ふふっと笑ってしまった操の頬に、甲洋が鼻でキスをした。
「おやすみ、来主」
「ん。おやすみ、甲洋」
腕の中にいる甲洋の頭を優しく撫でる。彼は鼻からゆったりと息を漏らし、操の胸に顔を埋めた。やがてゴロゴロゴロ、という音が聞こえてきて、自然と彼の前脚が動きだす。もに、もに、という例の動き。甲洋はこれを無意識にやっている。
(ぼくのこと、お母さんだと思ってるのかな?)
猫はメスと比べてオスの方が甘えん坊だというけれど、野良として精神的に自立している大人の猫が、こうした仕草を見せるのは珍しい。
潜在的に隠された幼い一面が、無意識に出てきてしまうのだろうか。心のどこかでは、ずっと寂しい思いを抱えていたのかもしれない。外での暮らしは、想像以上に過酷なものでもあるだろう。誰かに甘えることなど許されない。
(そういえば……)
とろとろと眠気に引きずられながら、操はふと疑問に思った。
甲洋は、なぜわざわざ人間になりたいと思ったのだろう。話をするくらいなら、猫のままでもできるのに。
(まぁいっか)
どんな姿をしていても、こうして過ごせる時間はかけがえのないものだ。彼が人の姿にならなければ、お菓子を作って食べてもらうことだってできなかった。
しかしどんなに楽しい時を過ごしても、彼は朝にはいなくなっている。夜にしか会えないことに一抹の寂しさを感じながらも、また明日があるからと自分に言い聞かせて、眠りについた。
←戻る ・ 次へ→
カリカリ、カリカリ、カリカリ──。
21時を過ぎたころ、いつものように窓枠を引っ掻く音がした。
キッチンにいた操はすぐさま駆け寄り、鍵を外して窓を開ける。すると大柄なサビ猫が、冷えた夜気を引き連れて室内に入り込んできた。
「いらっしゃい、甲洋!」
彼をよいしょと抱き上げて、ふわふわの首元に顔を埋めた。夜の匂いを思いきり吸い込んだあと、ちゅっとその唇にキスをする。
その瞬間キラキラと光を放ち、サビ猫は猫耳青年へと姿を変えた。焦げ茶のくせ毛に白い頬。雪雲のように色素の薄い瞳を細め、彼は柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、来主」
人間に変身した甲洋は操よりも一回り身体が大きくて、抱きしめていたはずが逆に抱きしめられる形になっている。そのまま猫と変わらぬ仕草で頬ずりをされると、まるでトラやライオンにでもジャレつかれているような気分になった。
触れ合う頬の冷たさに、操は思わず肩をすくめる。
「ふふっ、甲洋のほっぺた冷たいね。寒かったでしょ?」
「うん。でもここは暖かいよ。来主がいるから」
「じゃあもっとあったかくしてあげる!」
自分の体温を分け合うように、冷え切った身体をぎゅうぎゅうと抱き返す。
すると甲洋の喉から、ゴロゴロというご機嫌な音がしはじめた。耳としっぽだけじゃなく、そんなところにも猫の名残がとどまっている。
可愛いなぁと思いながら両手でわしゃわしゃと髪を乱してやると、甲洋は「やめて」と言いながらも、いっそう喉を鳴らして笑った。
「お腹すいたでしょ? そろそろ来る頃だと思って、準備してたよ」
じゃれ合うことに夢中で、つい忘れるところだった。甲洋が来たらおやつをあげる。それは操にとって大切な決まりごとであり、楽しみの一つだ。
「甘くていい香りがするね。これはなんの匂い?」
「えへへー、出来てからのお楽しみだよ!」
操が得意げに笑うのと同じタイミングで、キッチンからオーブンレンジが奏でる加熱完了のメロディが流れてきた。
*
正体を明かしてからも、彼──甲洋は変わらず夜になると部屋を訪れる。
来ると必ずキスをして青年の姿になるが、耳としっぽだけは猫のままだ。
甲洋の中に流れる猫の血が、どうしても邪魔をするらしい。彼はもっと完璧に変身できる方法を探しているらしいが、操はこのままでいいと思っている。だって可愛いから。
けれど耳としっぽを除けば、甲洋はどこからどう見ても人間だった。そんな彼に今まで通り、猫用の食べ物を出すのは気が引ける。
だから代わりに、手作りのお菓子を用意するようになった。クッキーだったり、ドーナツだったり。毎日なにを作るか考えるのも、楽しい時間の一つだった。
お菓子には必ずコーヒーも添えて出すようにしている。インスタントだが、味も香りも悪くない。甲洋も気に入ってくれたようで、砂糖は入れずに少量のミルクを入れて飲む。甘みは操が作るお菓子だけで十分だからだ。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
今日のお菓子はバゲットを使ったパンプディングだった。向かい合っているローテーブルの上で、耐熱皿はすっかり空になっている。
あぐらをかく甲洋が、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置く。細められた煤色の瞳に、操は肩をすくめてにっこり笑った。
「よかった。君はなんでも喜んで食べてくれるから嬉しいよ」
「こんなに美味しいお菓子が作れて、凄いね来主は」
「そんなことないよ。簡単だし、もっと上手な人はいっぱいいるもん」
照れ笑いを浮かべながら言った操に、彼はやんわり首を横に振る。
「俺は来主が作ったものがいい。甘くて優しくて、来主らしい味がする」
「えへへ、なんか恥ずかしいや。でも嬉しい。ありがとう」
顔が熱くなってふにゃんと蕩けそうになる。そしてどこか懐かしい気持ちにもさせられた。実家にいた頃も、よくこうしてお菓子作りをしていたものだ。それを美味しそうに食べてくれる母の笑顔が、操はなによりも好きだった。
甲洋といると、そのときの幸せな気持ちを思いだす。寮で一人暮らしをはじめてからは、ずいぶん久しい感覚だ。
「甲洋は凄いね。一緒にいると心がポカポカして、たくさん元気がもらえるよ」
「それは俺も同じだよ」
「ほんと? じゃあ、これからもずっと一緒にいようね!」
すると甲洋が両耳をピクンと跳ねさせ、「ずっと?」と言った。
「そう、ずっと!」
大きくうなずくと、長いしっぽが嬉しそうに上へと跳ねる。彼はほんのり頬を赤らめながら神妙に頷き、「わかった」と言った。
やけに真剣な顔をしているのが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「あははっ、変な甲洋。可愛いね」
「……可愛いのは来主の方だよ」
「ぼくが? ふふっ、やっぱり変!」
「伝わらないかなぁ……」
大きな耳の後ろをガリガリと掻きながら、甲洋がため息をついている。よく分からないが、それすらおかしくて笑ってしまった。
楽しくてずっと話し込んでいたいところだったが、操はふと壁掛け時計に目をやった。時刻は22時をとうに過ぎている。
「あっ、いけない! 今日はまだお風呂に入ってないんだった!」
「うん、行っておいで」
「甲洋も入ろうよ。どうしていつも嫌がるの?」
正体を明かす前から、彼はなぜか操との入浴を拒絶していた。あの頃とは違い、今なら理由を聞くことができる。
すると甲洋の頬がまた赤くなった。そしてバツが悪そうに目をそらす。
「俺にもいろいろと事情があるから」
「事情? どんな? もしかしてそれもケット・シーの掟なの?」
「そういうわけでは……」
甲洋は口をモゴモゴとさせ、赤い頬を指先でカリカリと掻いた。
「俺の中での掟だよ」
「なにそれぇ?」
けっきょく理由は分からずじまいだ。
むぅっと唇を尖らせる操に、彼はただ苦笑して見せるだけだった。
*
しょうがなく一人で入浴を終えたあと、操は甲洋の背後にペタリと座って、しっぽにブラシをかけていた。
ふさふさの毛は本当に狼のようだ。優しく丁寧にブラッシングをすると、サビ柄のしっぽは少しずつ艶を帯びていく。
「ねぇ、そういえばずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「怪我が3日で治っちゃったのも、魔法の力だったの?」
ブラシをかけられるのが気持ちいいのか、甲洋はまったりとした口調で「そうだよ」と言った。
「凄いや。そんなこともできちゃうなんて」
あの丘の木の上で、彼は自分の魔法を「些細なもの」と言っていた。けれどあれだけの怪我を短期間で治してしまうのだから、十分すぎるほど強い力を持っているように思えた。
「じゃあさ、あのときも魔法でなんとかできなかったの?」
「あのとき? ──ああ、もしかしてケンカのこと?」
「うん。そもそも、どうしてケンカなんかしてたわけ?」
ケンカというより、一方的なリンチだったような気もするが。
相手は普通の猫だったのか、それともケット・シー同士の争いだったのか、それすら操には区別がつかない。
「それは……」
思いだしてしまったのか、甲洋が渋々ながら教えてくれた。
あのときは誤って、よその縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。ケット・シーの群れとは別の、ごく普通の野良猫たちの縄張りだ。当然ボス猫に見つかってしまい、怒りを買って攻撃された。そこへさらに他の猫たちまで加担してきて、あんなことになってしまったのだと。
「え? じゃあ普通の猫にケンカで負けたってこと!? 妖精なのに!?」
その言葉は、彼のプライドに傷をつけてしまったらしい。急にしっぽをブンブンと左右に大きく振りはじめた。耳も下向きにしょげているし、背中も猫背になっている。どうやら不貞腐れてしまったらしい。
「ご、ごめんってば。だって不思議だったんだもん。魔法を使えば、君なら怪我する前になんとかできたんじゃないかって」
広い背中をさすってあげると、どうにかしっぽの動きはおさまった。
「それは反則だ。怖がらせたり、傷つけたりしたら可哀想だろ?」
「それもケット・シーの掟なの?」
「そうだよ」
ケット・シーは魔法で猫に危害を加えてはいけないらしい。だからケンカになったら、腕力で勝負するしかないのだ。
しかしあのときの甲洋は複数の猫に追われていた。いくら身体が大きくても、とても勝ち目はなかっただろう。だけどふと、仮にあれが一対一のケンカだったとしても、同じ結果になっていたのではないかと操は思う。
大柄なサビ猫はとても強そうな見た目をしているが、人の姿をした甲洋は柔和で繊細そうな好青年だ。彼の内面が、この見た目にはよく現れている。ケンカとは無縁に見えるし、ましてや勝ちをおさめている姿は想像できない。
言ってしまえば弱そうなのだ。間違って他の野良猫の縄張りに入ってしまうところも、なんだかちょっと抜けている。
(……もう!)
胸がキュンと締めつけられるような感じがして、たまらない気持ちになった。
優しくておっちょこちょいで、ケンカが似合わない大きな猫。無性に守ってあげたくなってしまう。もしかしたら、これが母性というものなのだろうか。
操はまだ少し猫背になっている広い背中に、ぎゅっと抱きついた。
「く、来主?」
「次からは気をつけてよね。君は優しくて、ケンカ弱いんだからさ」
甲洋は大きな耳を情けなく水平に下げている。またイジケちゃったかなと思ったが、しっぽは左右に振られていない。
ふと見上げると、長い襟足から覗く後ろ首が、ほんのり赤くなっていた。
「君、もしかして照れてるの?」
「……うん」
「あははっ」
自分から抱きしめるのは平気なくせに、される側になるとこんな反応をするなんて。照れ屋で可愛い猫耳青年に、操の胸はまたキュンと疼いてしまうのだった。
*
寝る時間になると、なぜか甲洋は元の猫の姿に戻る。
操は彼を両腕に抱いて布団に入ると、もふもふの毛に顔を埋めたり、スンスンと吸い込んだりして至福のときを過ごしていた。
そんなしつこいスキンシップも、甲洋は黙って好きにさせてくれる。
「はぁ~、もふもふ最高……」
「満足した?」
「うん、大満足!」
それはよかったと言いながら、甲洋が大きな口を開けてあくびをした。立派な牙がよく見える。すると操にまであくびがうつった。
「ふぁ……今日も楽しかったね。ありがとう、コーヒー」
「こちらこそありがとう。あと、俺は甲洋だよ」
「あっ、そっか。ごめんね、つい癖で」
猫の姿の彼といると、つい以前の呼び方をしてしまう。だけど『甲洋』と『コーヒー』は、名前が少し似ている気もする。ふふっと笑ってしまった操の頬に、甲洋が鼻でキスをした。
「おやすみ、来主」
「ん。おやすみ、甲洋」
腕の中にいる甲洋の頭を優しく撫でる。彼は鼻からゆったりと息を漏らし、操の胸に顔を埋めた。やがてゴロゴロゴロ、という音が聞こえてきて、自然と彼の前脚が動きだす。もに、もに、という例の動き。甲洋はこれを無意識にやっている。
(ぼくのこと、お母さんだと思ってるのかな?)
猫はメスと比べてオスの方が甘えん坊だというけれど、野良として精神的に自立している大人の猫が、こうした仕草を見せるのは珍しい。
潜在的に隠された幼い一面が、無意識に出てきてしまうのだろうか。心のどこかでは、ずっと寂しい思いを抱えていたのかもしれない。外での暮らしは、想像以上に過酷なものでもあるだろう。誰かに甘えることなど許されない。
(そういえば……)
とろとろと眠気に引きずられながら、操はふと疑問に思った。
甲洋は、なぜわざわざ人間になりたいと思ったのだろう。話をするくらいなら、猫のままでもできるのに。
(まぁいっか)
どんな姿をしていても、こうして過ごせる時間はかけがえのないものだ。彼が人の姿にならなければ、お菓子を作って食べてもらうことだってできなかった。
しかしどんなに楽しい時を過ごしても、彼は朝にはいなくなっている。夜にしか会えないことに一抹の寂しさを感じながらも、また明日があるからと自分に言い聞かせて、眠りについた。
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03
操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。
「こっちだよ、来主」
外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。
「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」
導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。
「妖精?」
操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。
なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。
「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」
「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」
「いるよ。もちろん」
人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。
ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。
人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。
(実はクーもケット・シーだったりして……?)
クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。
彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。
「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」
「そうなるね」
「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」
「それは──」
コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。
極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。
さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。
「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」
丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。
これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。
「来主、木登りはできる?」
二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。
猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。
「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」
「こっちだよ。落ちないように気をつけて」
夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。
よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。
ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。
「ほら見て、来主」
促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。
星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。
青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。
「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」
「これを見せたかったんだ」
コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。
満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。
「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。
「よかった」
ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。
「どうかしたの?」
なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……来主に、頼みたいことがあるんだ」
「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」
コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。
「コーヒー?」
キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。
それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。
「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」
「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」
「ま、魔法!?」
操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。
手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。
「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」
「まぁ、妖精だしね」
すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。
「あっ、消えちゃった」
「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」
「ぼくの力?」
コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。
はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。
だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。
「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」
「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」
「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」
長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。
そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。
「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」
するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。
「きすぅ?」
「……口移しが、いちばん効率的だから」
「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」
「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」
なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。
「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」
「クー?」
「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」
「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」
「?」
なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。
彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。
「じゃあいくよ」
「うん、いつでもいいよ」
こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。
しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。
「もういいの?」
「うん。もういいよ」
操はゆっくりと瞼を開いていった。
すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。
「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」
「来主!」
まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。
そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。
「ッ!?」
一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。
(ぼく、どうなっちゃったの……?)
おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。
彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。
「驚かせてごめん。大丈夫?」
コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。
「よかった、来主が無事で」
ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。
信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。
「コーヒー、なの……?」
尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。
無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。
操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。
「え……?」
「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」
冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。
まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。
「甲、洋……」
大切に、なぞるようにその名前を口にした。
甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。
「嬉しいよ。ありがとう、来主」
ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。
まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。
←戻る ・ 次へ→
操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。
「こっちだよ、来主」
外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。
「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」
導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。
「妖精?」
操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。
なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。
「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」
「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」
「いるよ。もちろん」
人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。
ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。
人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。
(実はクーもケット・シーだったりして……?)
クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。
彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。
「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」
「そうなるね」
「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」
「それは──」
コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。
極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。
さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。
「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」
丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。
これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。
「来主、木登りはできる?」
二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。
猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。
「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」
「こっちだよ。落ちないように気をつけて」
夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。
よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。
ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。
「ほら見て、来主」
促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。
星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。
青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。
「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」
「これを見せたかったんだ」
コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。
満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。
「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。
「よかった」
ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。
「どうかしたの?」
なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……来主に、頼みたいことがあるんだ」
「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」
コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。
「コーヒー?」
キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。
それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。
「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」
「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」
「ま、魔法!?」
操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。
手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。
「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」
「まぁ、妖精だしね」
すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。
「あっ、消えちゃった」
「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」
「ぼくの力?」
コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。
はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。
だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。
「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」
「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」
「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」
長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。
そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。
「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」
するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。
「きすぅ?」
「……口移しが、いちばん効率的だから」
「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」
「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」
なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。
「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」
「クー?」
「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」
「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」
「?」
なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。
彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。
「じゃあいくよ」
「うん、いつでもいいよ」
こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。
しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。
「もういいの?」
「うん。もういいよ」
操はゆっくりと瞼を開いていった。
すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。
「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」
「来主!」
まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。
そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。
「ッ!?」
一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。
(ぼく、どうなっちゃったの……?)
おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。
彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。
「驚かせてごめん。大丈夫?」
コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。
「よかった、来主が無事で」
ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。
信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。
「コーヒー、なの……?」
尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。
無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。
操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。
「え……?」
「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」
冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。
まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。
「甲、洋……」
大切に、なぞるようにその名前を口にした。
甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。
「嬉しいよ。ありがとう、来主」
ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。
まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。
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02
それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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*甲洋がガチの猫の姿で登場したり、猫耳青年になったりします。
*一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。
01
夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。
乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。
帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。
(もう嫌だ。なんでぼくばっかり……)
操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。
つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。
会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。
見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。
そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。
思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。
周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。
(ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……)
そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。
だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。
するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。
「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」
操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。
母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。
そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。
「よーし、また明日からがんばるぞ!」
持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。
「ミギャァーーッ!!」
という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。
「うわ!? な、なに!?」
見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。
猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。
「今のってもしかして、コーヒー?」
操はその中の一匹に見覚えがあった。
黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。
声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。
そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。
「た、大変だ! やめさせなきゃ!」
操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。
猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。
「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」
操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。
「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」
地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。
このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。
「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」
操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。
*
病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。
コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。
操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。
「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」
出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。
病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。
「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」
思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。
実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。
そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。
「早く元気になるといいな」
ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。
猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。
だから今夜は夜通し看病するつもりで──
いたのだが……。
*
「……ハッ!」
驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。
一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。
「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」
操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。
それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。
「あ! 起きた……!?」
「──ッ!?」
操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。
「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」
「シャァーッ!」
「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」
コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。
「ウゥ~ッ、シャーッ!」
「あっ、痛っ……!」
コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。
病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。
「ッ!?」
一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。
「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」
ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。
目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。
「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」
「……ッ」
コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。
「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」
これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。
部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。
操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。
「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」
「……ウウゥ~」
コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。
「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」
「ッ、フゥーッ! シャーッ!」
「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」
もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。
操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。
「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」
「……」
目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。
するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。
「っ、の、飲んだ!」
「ッ!」
「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」
驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。
コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。
「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」
器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。
「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」
そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。
彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。
「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」
彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。
「やっぱりコーヒーは可愛いね」
顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。
*
ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。
納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。
無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。
「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」
ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」
コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。
操はものの数分でコトリと意識を手放していた。
──それからどれくらい経っただろう。
眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。
(んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?)
「助けてくれて、ありがとう」
そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。
(誰……? ぼく、なんで……)
その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。
「なんで寝てるのぉ!?」
起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。
いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。
するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。
「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」
操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。
日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。
「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」
いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。
操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。
「探さなきゃ!」
操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。
いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。
(コーヒー! どこに行っちゃったの!?)
あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。
「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」
日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。
外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。
後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。
「ごめんね、コーヒー……」
探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。
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*一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。
01
夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。
乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。
帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。
(もう嫌だ。なんでぼくばっかり……)
操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。
つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。
会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。
見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。
そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。
思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。
周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。
(ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……)
そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。
だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。
するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。
「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」
操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。
母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。
そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。
「よーし、また明日からがんばるぞ!」
持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。
「ミギャァーーッ!!」
という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。
「うわ!? な、なに!?」
見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。
猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。
「今のってもしかして、コーヒー?」
操はその中の一匹に見覚えがあった。
黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。
声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。
そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。
「た、大変だ! やめさせなきゃ!」
操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。
猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。
「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」
操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。
「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」
地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。
このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。
「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」
操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。
*
病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。
コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。
操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。
「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」
出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。
病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。
「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」
思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。
実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。
そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。
「早く元気になるといいな」
ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。
猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。
だから今夜は夜通し看病するつもりで──
いたのだが……。
*
「……ハッ!」
驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。
一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。
「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」
操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。
それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。
「あ! 起きた……!?」
「──ッ!?」
操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。
「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」
「シャァーッ!」
「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」
コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。
「ウゥ~ッ、シャーッ!」
「あっ、痛っ……!」
コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。
病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。
「ッ!?」
一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。
「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」
ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。
目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。
「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」
「……ッ」
コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。
「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」
これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。
部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。
操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。
「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」
「……ウウゥ~」
コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。
「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」
「ッ、フゥーッ! シャーッ!」
「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」
もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。
操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。
「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」
「……」
目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。
するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。
「っ、の、飲んだ!」
「ッ!」
「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」
驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。
コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。
「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」
器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。
「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」
そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。
彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。
「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」
彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。
「やっぱりコーヒーは可愛いね」
顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。
*
ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。
納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。
無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。
「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」
ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」
コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。
操はものの数分でコトリと意識を手放していた。
──それからどれくらい経っただろう。
眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。
(んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?)
「助けてくれて、ありがとう」
そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。
(誰……? ぼく、なんで……)
その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。
「なんで寝てるのぉ!?」
起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。
いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。
するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。
「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」
操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。
日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。
「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」
いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。
操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。
「探さなきゃ!」
操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。
いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。
(コーヒー! どこに行っちゃったの!?)
あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。
「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」
日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。
外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。
後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。
「ごめんね、コーヒー……」
探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。
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確か十日前は『クラゲ』だった。
先週は『全裸』と『幼女』だったし、一昨日は『カレー味』だったと思う。
「行ってきまーす!」
ランチタイムのピークも過ぎた、穏やかな昼下がり。
喫茶楽園の扉が開き、小気味よいドアベルの音色を響かせながら、はつらつとした声の主が飛び出していく。
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
「はーい!」
カウンターに立つ真壁一騎はまっさらな布巾で皿を丁寧に磨きながら、その背に声をかけて見送った。
彼が行ってしまうと、これといったBGMもない店内にはゆったりとした午後の静寂が流れる。
一騎はふと小さく息を漏らし、店の片隅へと視線をやった。ボックス席では長椅子に腰かけた春日井甲洋が、愛犬ショコラにおやつ(ほねっこ)を与えながら、少年が出て行った扉をじっと見つめている。
緩く癖のある前髪に大半が隠されている表情は、穏やかな海のように凪いでいた。その口元に仄かな笑みが添えられているのを見て、一騎は困ったように眉をハの字にするとまたひとつ息を漏らす。
「なぁ甲洋……あれ、来主はちゃんと意味を理解して着てるのか?」
来主とは今しがた元気に店を飛び出していった少年、来主操のことである。
人の姿を模したコアである彼は、現在は正式にこの喫茶店のオーナーとなった甲洋のもと、日々なかなかに不憫な扱いを受けていた。
一騎と遠見真矢、そして後輩の西尾暉は第二種任務としてこの店で働いているが、操にはそういった正式なポジションが与えられているわけではない。アルバイトともいいきれず、いわば『ママのお手伝いをがんばる子供』のような立場にある。
誰も頼んでいないのだが、本人が「俺も手伝う」と言ってきかなかったため、仕方なく簡単な仕事を手伝わせているというわけだ。
つまり無給。タダ働きである。流石にちょっと可哀想なのではないかと、甲洋に打診してみたことがあるのだが「大丈夫。俺だって鬼じゃないよ」と穏やかに言いながら、彼は操にドングリをあげていた。
全く意味がわからない。なぜドングリなのだろう。働いた報酬がそれだなんて、鬼の所業以外のなにものでもない。いくら操とて納得するはずが……と思っていたら、当の本人は
「やった! 今日でドングリがぴったり100個になったよ!」
と言って大喜びしていた。お前はその結構な数のドングリで、いずれ森でも作る気か……と、世界観について行けなくなった一騎は考えるのをやめた。
とにもかくにも来主操は一日一ドングリのために喫茶楽園で日々軽作業に勤しんでいる。彼がまともにできることといえば店先や床等の掃除と、ちょっとしたお使いくらいのものだが。
しかし操の不遇はそれだけにとどまらない。すっかり皿を拭く手を止めてしまっている一騎を戸惑わせているのは、普段から彼が身に着けているシャツに関するものだった。
(確か少し前はクラゲ……つい先週は全裸と幼女で、一昨日はカレー味だったよな。そして今日は……)
「理解していたなら、俺だったらとてもじゃないけど人前に出るなんてできないな」
「……甲洋、お前って」
ふわりと包み込むような優しい声で単調に紡がれたのは、ただの暴言でしかなかった。
静かに目を伏せる同級生に、呆れが勝った一騎はその先に続くはずだった「そういう奴だったっけ?」という言葉を引っ込める。
「バレたらきっと怒るぞ、あいつ」
諭すように言っても聞いているのかいないのか、彼はほねっこに夢中のショコラに愛おしげな視線を落とすだけだった。
操が常日頃から着用しているシャツ。それはいわゆる『変T』というものだった。
日によって異なる意味不明な単語や文言が、真っ白のシャツに黒い太文字で書かれている。おそらく甲洋が手書きしているのだろう。
記憶を探れば他にも『ひじき』とか『カモメの玉子』とか、時には犬とも猫ともつかない謎の生物が雑に描かれていることもあった。(もしかしたらショコラかもしれない)
なにか深い意味でもあるのだろうか。多分ないのだろうが、悪ふざけにもほどがある。
甲洋は店に出る操にユニフォームだと言ってそれを着せていた。操はその都度「新しい服だ! 嬉しいー!」と言って無邪気に袖を通している。
この店には決まった制服というものはなく、店員には黒いエプロンが支給されているだけだ。甲洋も含めて皆がそれをつけているが、操にだけは腰巻きタイプのショートエプロンを与えているあたり隙がない。
ほとんどの客はそれを見て堪らず噴きだし「今日もいいの着てるねぇ」なんて言いながら、微笑ましそうにしている。毎日どんな変Tを着ているのか、最近ではそれを見るのが楽しみで通う客まで現れだした。
ちなみに皆城織姫には「そういうの、一歩間違えるとただのキャラ迷走にしか繋がらないわよ」と冷やかに言われていたが、操はあの満面のスマイルで「ありがとう!」と嬉しそうに礼を述べていた。褒めてない。
とはいえ、別に悪口が書いてあるわけではないのだ。嬉しそうな操の蕩けんばかりの笑顔だとか、それを眺めては密かにご満悦そうな甲洋を見ていると、不思議とこれはこれでいいのかもしれない、という気がしてくる。(『全裸』と『幼女』のコンボにはそこはかとない悪意を感じるが)
ふと、クラゲってまさかボレアリオスのことか……? と、至極どうでもいい可能性に気づいてしまったが、黙っておくことにした。
「酷いよ! 甲洋のバカ!」
そのとき、大きな音をたてながら乱暴に扉が開かれ、変Tを来た操がお使いから帰宅した。亜麻色の髪を少年らしい丸みが残る頬に貼り付けて、眉を吊り上げながら息を弾ませている。
瞬間移動は島の人々を驚かせてしまうため、基本的には使用禁止ということになっているのだが、それにしたって随分と早い帰宅だ。彼は全速力で走ってきたのか、首筋にうっすらと汗を滲ませていた。
その手にはなにも持たれていない。お使いに出したはずなのに、なぜ手ぶらで帰ってきたのだろう。しかも酷く怒った様子で。
ショコラが驚いて僅かに身を震わせたが、おやつに夢中になるあまり見向きもしない。彼女の中で操はほねっこ以下ということか。
操は真っ先に甲洋とショコラがいるボックス席に目を向けた。彼は何を言うでもなくじっと見つめてくる甲洋に向かって、細い肩を怒らせながら声を張り上げる。
「おれが着てるTシャツが変だってこと、君は知ってたんだろ! あぁもう! 心を読まずに言葉で話そうっていっつも言ってるのに! ちゃんと声に出しておかえりって言ってよ!」
いきなり飛び込んできたと思いきやまくしたてる操に、一騎は思わず面食らってしまう。
知っていたもなにも、甲洋はTシャツの生みの親である。むしろ今まで気づかなかったことの方が奇跡に近いのだが……。
それにしてもなぜ急に彼は事実を知るに至ったのだろう。店を出て行ったところまでは普段通りだったのだから、出先で何かしらあったであろうことは予想できるのだが。
目を白黒させる一騎とは対照的に、甲洋はいたって冷静だ。顔色ひとつ変えずにどっしりと構えている。
「おかえり」
「もういいよバカ! 君ってほんとにヤな奴だ!」
「ま、まぁまぁ。そんなに大声を出すと喉を傷めるぞ。来主、いったい何があったんだ?」
放っておくとまた甲洋がショコラをけしかけ、操が半狂乱になる未来が見えて、一騎はカウンターから出ると操の傍に歩み寄る。その肩に触れると、彼は涙を溜めた大きな瞳を向けてきた。
「聞いてよ一騎……さっきおれ、豆腐屋のおじさんに言われたんだ」
「言われたって、なにを?」
操に頼んだお使いの品は豆腐三丁だった。今夜の日替わりディナーは焼き魚定食ということになっていたのだが、味噌汁に入れる豆腐の仕入れ数が足りないことに気づき、不足分を買いに行ってもらった。
豆腐屋の店主は元人類軍の兵士だったはずだ。よくこの店にもやって来る常連客である。
「今日はカレー味じゃないのかい? って」
「あー……」
そういえば一昨日の変Tは『カレー味』だった。そしてちょうどその日、豆腐屋の店主がコーヒーを飲みに来ていたことを思いだす。
なんのことかと首を傾げる操に、店主は「こないだシャツに書いてあったじゃないか」と言って笑ったのだという。
なるほど。それでようやく事実を知り、甲洋を問い詰めるために本来の目的をすっ飛ばして帰ってきたというわけか。
一騎は思わず元凶の方へ視線をやった。相変わらず読みにくい表情で、淡々と操を見つめ続けている。おい甲洋、ついにバレたぞ。なぜそんなに冷静なんだ……。
「おれ、カレーの味なんかしないよ! キレイな空って意味だって教えてくれたの、あれ嘘だったんだ! 嘘つき!」
「お前そんな嘘ついてまで着せてたのか……」
全くなにを考えているのだろう。
誰に対しても優しく気さくで実直な少年だった頃を知っているだけに、なぜ操に対してだけこうもひん曲がっているのか、一騎にはまるで理解ができなかった。
すると甲洋はずっと動きのなかった顔に、ふんわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「なんだか面白くて、つい」
「つい、じゃないだろ……」
そんな聖母もかくやとばかりの笑顔で言われましても。
「おれはカレー大好きだけど、カレーになりたいわけじゃないのに! おれがカレー味になったら、今度はおれがみんなにバクバク食べられちゃうってことでしょ!? そんなの嫌だ! 助けて一騎っ!!」
操は瞳にいっぱい涙を溜めて一騎の胸に縋りついてくる。
お前が怒ってるのって結局そこなのか……と、一騎はだんだん頭痛がしてきた。
今日に限って真矢はいないし、暉は夕方から来ることになっている。一騎にはこの状況を上手く捌ききる自信がなかった。というより、そろそろ夜の仕込みも始めたいところだ。
「来主はカレーにならないし、食べられたりなんかしないから」
「食べるよ」
「守るよのトーンで言うな。ややこしくなるからちょっと黙っててくれ」
「やっぱり食べる気なんだ!」
わああぁ……と泣きだしてしまった操に、一騎はいよいよ途方に暮れた。
*
一騎はこめかみを押さえながら「ちょっと外すから、ちゃんと謝るんだぞ」と言って店を出て行った。おそらく操が買い損ねた豆腐を改めて買いに行ったのだろう。
操はいつもの中央席に座り、未だにしかめ面をしている。
『来主』
心の中に語りかけるが、ぷいっと顔を背けられてしまった。
人として振舞うことを好むこのコアは、甲洋の姿勢をよしとせず心に壁を作っているのだ。今日はそれがとりわけ分厚い。
甲洋はおやつに満足して足元で寝そべるショコラの頭をひと撫ですると、立ちあがってカウンターの向こう側にあるキッチンへと足を運んだ。
取りだしたグラスに氷を入れてオレンジジュースを注ぎ、ストローを刺すと中央席へ向かって操の目の前に置く。
「……知ってるよ。こういうの、ご機嫌取りっていうんだ」
唇を尖らせた操が、上目使いで睨んでくる。
特にそういうつもりはなかったのだが、まぁ別にいい。彼は喉が渇いていたのか、素直に両手でグラスを引き寄せると、持ちあげることはせずストローに口をつけた。カラリと、氷が涼しげな音を奏でる。
(さて、どうしよう)
一騎に言われるまでもなく、バレてしまったからには折れる以外に仕方ない。
はっきり言って悪気はなかったし、最初は本当にただの思いつきだった。
店を手伝うのにアルヴィスの制服のままというのも味気ないかと、彼が着られそうなものでまだ一度も袖を通していない服を探したら、無地の白Tシャツくらいしかなかったのだ。
それもそれで味気ないと思いマーカーペンで絵を描こうとしたのだが、上手くいきそうになかったため適当に思いついた単語をデカデカと書いてやった。多少の悪戯心があったことは、もちろん否めない。
あのときは確か『イヌ』と書いたはずだ。流石に嫌がるかと思ったが、操はえらく喜んだ。単純に新しい服が嬉しかったのだろう。書かれている文字について触れられることはなく、その時はただの模様として受け取ったようだった。
天敵であるはずの『イヌ』という字が書かれたシャツを着て、チョロチョロと動き回る操は見ていて面白かった。一騎たちや訪れる客にいちいち「これ見て! いいでしょ! おれだけの服だよ!」と見せびらかすところがまた面白くて、正直可愛いと思ってしまった。
だからつい頻繁に新しいシャツに思いつきで文字を書いては与えていたら、気づけば看板娘ならぬ看板Tにまでなっていた。
しかし、それも今日でおしまいだろうか。
少し残念に思っていると、オレンジジュースを飲みほした操がおもむろに口を開いた。
「別にいいよ」
ああ、読んだのか。二人の間の決め事として、甲洋が壁を取り払っているときは心を読んでも構わないということになっている。
もちろん他の者に対しては、むやみやたらと読んではいけないと言い聞かせているが。
「君が新しい服をくれるのは嬉しい。おれがこれを着てるのを見ると、みんなニコニコ笑うんだ。ここにある優しい記憶の中に、それがゆっくり溶け込んでいくのを感じる」
「……そう」
「これからはちゃんと意味を教えてくれれば、それでいい」
「わかった」
「じゃあ教えてよ。今日のこれは、どんな意味があるの?」
操は僅かに椅子を引き、シャツの裾を両方の指先で摘まんで軽く引っ張った。
見上げてくるその瞳からは、もはや不満の色が消えている。そこには無邪気すぎるほどの好奇心が浮かんでいるだけだった。
甲洋はふっと微笑むと、片手をテーブルについて身を屈めた。もう片方の手は椅子の背凭れに。覗き込むようにして、操の唇に口付けを落とす。
唇が離れると、操は目をまん丸にしてポカンと口を開けた。彼がこの行為について学習したのは、ついほんの最近だ。多分きっと、まだ誰にも知られてはいないだろうが、自分たちはこういう関係に落ち着いていた。
「なんで、ちゅうしたの」
「書いてあるから」
「書いて……?」
「キスしてって、書いてあるから」
「ふわぁ」
上擦ったおかしな声を漏らして、操は頬を赤らめた。彼が恥じらうという感情を理解しはじめている、確かな証拠だ。あるいは照れ臭さだろうか。
ちゃんと恋をしているんだなと、そう感じる。こういった関係に落ち着いたとはいえ、操がどこまで本当に理解できているのか、正直あまり自信はなかったから。思った以上の何倍も安堵している自分がいることが、なんだかおかしい。
操のTシャツには、甲洋が言った通りのことが書かれている。実際は平仮名で「きすみー」と書かれているのだが、これはつい最近読んだ洋書から受けた影響だった。なんとなく読み始めたそれは恋愛小説で、主人公にキスを強請るヒロインが可愛かったから。
無邪気で子供っぽい彼女のキャラクターは、少し操に似ていた気がする。
「教えてくれて、ありがとう」
折り重ねた両手を膝に置いて、赤い顔をうつむけた操が言った。甲洋はなんとなく無意識に読心で『どういたしまして』と返してしまったが、もじもじしている彼が不満を漏らすことはなかった。
「ただいま」
丁度いいタイミングでカランとドアベルを鳴らして、一騎が店に戻ってきた。手には豆腐が入ったビニール袋をぶら下げている。
「おかえり一騎」
「ああ。ちゃんとごめんなさいは済んだのか?」
そういえば謝ってないなと思いだしたが、さっきまで流れていた険悪な空気が消え去っていることに気づいた一騎がホッとした様子で笑みを浮かべて見せたので、まぁいいかと曖昧に笑い返す。
「来主、なんだか顔が赤いけど、どうかしたか?」
キッチンスペースへ向かうためにふたりの脇を横切りながら、一騎はチラリと操の顔を見て小首を傾げた。
「なんでもないよ。ね、来主」
言っちゃダメ。暗にそれを匂わせると、珍しく察した操が「うん、なんでもない」と言ってはにかんだ。
「そっか。ならいいけど。さて、そろそろ晩の仕込みを始めるぞ」
カウンターに置かれていたエプロンをつけなおし、一騎はキッチンへ向かう。それを手伝うためにテーブルを離れようとした甲洋の手に、温かなものが触れた。
「ねぇ待って」
「なに?」
甲洋を引き止めた操はどこか神妙な面持ちで口を開きかけたが、すぐに噤んで心の中に問いかけてきた。
『おれの唇、カレー味じゃなかった?』
まだそんなことを不安がっていたのか。
甲洋は微笑むと指先を緩く握り込んでいる操の指を、同じようにそっと握り返した。
『来主の味がしたよ』
甘酸っぱくて優しくて、だけど少し子供っぽくて。くすぐったさと切なさが、どこか懐かしい。そんな味。多分きっと、恋の味だ。
『そっか』
操はまだほんの少し赤い頬をしながら、ふにゃんと幼い笑顔を見せた。
←戻る ・ Wavebox👏
先週は『全裸』と『幼女』だったし、一昨日は『カレー味』だったと思う。
「行ってきまーす!」
ランチタイムのピークも過ぎた、穏やかな昼下がり。
喫茶楽園の扉が開き、小気味よいドアベルの音色を響かせながら、はつらつとした声の主が飛び出していく。
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
「はーい!」
カウンターに立つ真壁一騎はまっさらな布巾で皿を丁寧に磨きながら、その背に声をかけて見送った。
彼が行ってしまうと、これといったBGMもない店内にはゆったりとした午後の静寂が流れる。
一騎はふと小さく息を漏らし、店の片隅へと視線をやった。ボックス席では長椅子に腰かけた春日井甲洋が、愛犬ショコラにおやつ(ほねっこ)を与えながら、少年が出て行った扉をじっと見つめている。
緩く癖のある前髪に大半が隠されている表情は、穏やかな海のように凪いでいた。その口元に仄かな笑みが添えられているのを見て、一騎は困ったように眉をハの字にするとまたひとつ息を漏らす。
「なぁ甲洋……あれ、来主はちゃんと意味を理解して着てるのか?」
来主とは今しがた元気に店を飛び出していった少年、来主操のことである。
人の姿を模したコアである彼は、現在は正式にこの喫茶店のオーナーとなった甲洋のもと、日々なかなかに不憫な扱いを受けていた。
一騎と遠見真矢、そして後輩の西尾暉は第二種任務としてこの店で働いているが、操にはそういった正式なポジションが与えられているわけではない。アルバイトともいいきれず、いわば『ママのお手伝いをがんばる子供』のような立場にある。
誰も頼んでいないのだが、本人が「俺も手伝う」と言ってきかなかったため、仕方なく簡単な仕事を手伝わせているというわけだ。
つまり無給。タダ働きである。流石にちょっと可哀想なのではないかと、甲洋に打診してみたことがあるのだが「大丈夫。俺だって鬼じゃないよ」と穏やかに言いながら、彼は操にドングリをあげていた。
全く意味がわからない。なぜドングリなのだろう。働いた報酬がそれだなんて、鬼の所業以外のなにものでもない。いくら操とて納得するはずが……と思っていたら、当の本人は
「やった! 今日でドングリがぴったり100個になったよ!」
と言って大喜びしていた。お前はその結構な数のドングリで、いずれ森でも作る気か……と、世界観について行けなくなった一騎は考えるのをやめた。
とにもかくにも来主操は一日一ドングリのために喫茶楽園で日々軽作業に勤しんでいる。彼がまともにできることといえば店先や床等の掃除と、ちょっとしたお使いくらいのものだが。
しかし操の不遇はそれだけにとどまらない。すっかり皿を拭く手を止めてしまっている一騎を戸惑わせているのは、普段から彼が身に着けているシャツに関するものだった。
(確か少し前はクラゲ……つい先週は全裸と幼女で、一昨日はカレー味だったよな。そして今日は……)
「理解していたなら、俺だったらとてもじゃないけど人前に出るなんてできないな」
「……甲洋、お前って」
ふわりと包み込むような優しい声で単調に紡がれたのは、ただの暴言でしかなかった。
静かに目を伏せる同級生に、呆れが勝った一騎はその先に続くはずだった「そういう奴だったっけ?」という言葉を引っ込める。
「バレたらきっと怒るぞ、あいつ」
諭すように言っても聞いているのかいないのか、彼はほねっこに夢中のショコラに愛おしげな視線を落とすだけだった。
操が常日頃から着用しているシャツ。それはいわゆる『変T』というものだった。
日によって異なる意味不明な単語や文言が、真っ白のシャツに黒い太文字で書かれている。おそらく甲洋が手書きしているのだろう。
記憶を探れば他にも『ひじき』とか『カモメの玉子』とか、時には犬とも猫ともつかない謎の生物が雑に描かれていることもあった。(もしかしたらショコラかもしれない)
なにか深い意味でもあるのだろうか。多分ないのだろうが、悪ふざけにもほどがある。
甲洋は店に出る操にユニフォームだと言ってそれを着せていた。操はその都度「新しい服だ! 嬉しいー!」と言って無邪気に袖を通している。
この店には決まった制服というものはなく、店員には黒いエプロンが支給されているだけだ。甲洋も含めて皆がそれをつけているが、操にだけは腰巻きタイプのショートエプロンを与えているあたり隙がない。
ほとんどの客はそれを見て堪らず噴きだし「今日もいいの着てるねぇ」なんて言いながら、微笑ましそうにしている。毎日どんな変Tを着ているのか、最近ではそれを見るのが楽しみで通う客まで現れだした。
ちなみに皆城織姫には「そういうの、一歩間違えるとただのキャラ迷走にしか繋がらないわよ」と冷やかに言われていたが、操はあの満面のスマイルで「ありがとう!」と嬉しそうに礼を述べていた。褒めてない。
とはいえ、別に悪口が書いてあるわけではないのだ。嬉しそうな操の蕩けんばかりの笑顔だとか、それを眺めては密かにご満悦そうな甲洋を見ていると、不思議とこれはこれでいいのかもしれない、という気がしてくる。(『全裸』と『幼女』のコンボにはそこはかとない悪意を感じるが)
ふと、クラゲってまさかボレアリオスのことか……? と、至極どうでもいい可能性に気づいてしまったが、黙っておくことにした。
「酷いよ! 甲洋のバカ!」
そのとき、大きな音をたてながら乱暴に扉が開かれ、変Tを来た操がお使いから帰宅した。亜麻色の髪を少年らしい丸みが残る頬に貼り付けて、眉を吊り上げながら息を弾ませている。
瞬間移動は島の人々を驚かせてしまうため、基本的には使用禁止ということになっているのだが、それにしたって随分と早い帰宅だ。彼は全速力で走ってきたのか、首筋にうっすらと汗を滲ませていた。
その手にはなにも持たれていない。お使いに出したはずなのに、なぜ手ぶらで帰ってきたのだろう。しかも酷く怒った様子で。
ショコラが驚いて僅かに身を震わせたが、おやつに夢中になるあまり見向きもしない。彼女の中で操はほねっこ以下ということか。
操は真っ先に甲洋とショコラがいるボックス席に目を向けた。彼は何を言うでもなくじっと見つめてくる甲洋に向かって、細い肩を怒らせながら声を張り上げる。
「おれが着てるTシャツが変だってこと、君は知ってたんだろ! あぁもう! 心を読まずに言葉で話そうっていっつも言ってるのに! ちゃんと声に出しておかえりって言ってよ!」
いきなり飛び込んできたと思いきやまくしたてる操に、一騎は思わず面食らってしまう。
知っていたもなにも、甲洋はTシャツの生みの親である。むしろ今まで気づかなかったことの方が奇跡に近いのだが……。
それにしてもなぜ急に彼は事実を知るに至ったのだろう。店を出て行ったところまでは普段通りだったのだから、出先で何かしらあったであろうことは予想できるのだが。
目を白黒させる一騎とは対照的に、甲洋はいたって冷静だ。顔色ひとつ変えずにどっしりと構えている。
「おかえり」
「もういいよバカ! 君ってほんとにヤな奴だ!」
「ま、まぁまぁ。そんなに大声を出すと喉を傷めるぞ。来主、いったい何があったんだ?」
放っておくとまた甲洋がショコラをけしかけ、操が半狂乱になる未来が見えて、一騎はカウンターから出ると操の傍に歩み寄る。その肩に触れると、彼は涙を溜めた大きな瞳を向けてきた。
「聞いてよ一騎……さっきおれ、豆腐屋のおじさんに言われたんだ」
「言われたって、なにを?」
操に頼んだお使いの品は豆腐三丁だった。今夜の日替わりディナーは焼き魚定食ということになっていたのだが、味噌汁に入れる豆腐の仕入れ数が足りないことに気づき、不足分を買いに行ってもらった。
豆腐屋の店主は元人類軍の兵士だったはずだ。よくこの店にもやって来る常連客である。
「今日はカレー味じゃないのかい? って」
「あー……」
そういえば一昨日の変Tは『カレー味』だった。そしてちょうどその日、豆腐屋の店主がコーヒーを飲みに来ていたことを思いだす。
なんのことかと首を傾げる操に、店主は「こないだシャツに書いてあったじゃないか」と言って笑ったのだという。
なるほど。それでようやく事実を知り、甲洋を問い詰めるために本来の目的をすっ飛ばして帰ってきたというわけか。
一騎は思わず元凶の方へ視線をやった。相変わらず読みにくい表情で、淡々と操を見つめ続けている。おい甲洋、ついにバレたぞ。なぜそんなに冷静なんだ……。
「おれ、カレーの味なんかしないよ! キレイな空って意味だって教えてくれたの、あれ嘘だったんだ! 嘘つき!」
「お前そんな嘘ついてまで着せてたのか……」
全くなにを考えているのだろう。
誰に対しても優しく気さくで実直な少年だった頃を知っているだけに、なぜ操に対してだけこうもひん曲がっているのか、一騎にはまるで理解ができなかった。
すると甲洋はずっと動きのなかった顔に、ふんわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「なんだか面白くて、つい」
「つい、じゃないだろ……」
そんな聖母もかくやとばかりの笑顔で言われましても。
「おれはカレー大好きだけど、カレーになりたいわけじゃないのに! おれがカレー味になったら、今度はおれがみんなにバクバク食べられちゃうってことでしょ!? そんなの嫌だ! 助けて一騎っ!!」
操は瞳にいっぱい涙を溜めて一騎の胸に縋りついてくる。
お前が怒ってるのって結局そこなのか……と、一騎はだんだん頭痛がしてきた。
今日に限って真矢はいないし、暉は夕方から来ることになっている。一騎にはこの状況を上手く捌ききる自信がなかった。というより、そろそろ夜の仕込みも始めたいところだ。
「来主はカレーにならないし、食べられたりなんかしないから」
「食べるよ」
「守るよのトーンで言うな。ややこしくなるからちょっと黙っててくれ」
「やっぱり食べる気なんだ!」
わああぁ……と泣きだしてしまった操に、一騎はいよいよ途方に暮れた。
*
一騎はこめかみを押さえながら「ちょっと外すから、ちゃんと謝るんだぞ」と言って店を出て行った。おそらく操が買い損ねた豆腐を改めて買いに行ったのだろう。
操はいつもの中央席に座り、未だにしかめ面をしている。
『来主』
心の中に語りかけるが、ぷいっと顔を背けられてしまった。
人として振舞うことを好むこのコアは、甲洋の姿勢をよしとせず心に壁を作っているのだ。今日はそれがとりわけ分厚い。
甲洋はおやつに満足して足元で寝そべるショコラの頭をひと撫ですると、立ちあがってカウンターの向こう側にあるキッチンへと足を運んだ。
取りだしたグラスに氷を入れてオレンジジュースを注ぎ、ストローを刺すと中央席へ向かって操の目の前に置く。
「……知ってるよ。こういうの、ご機嫌取りっていうんだ」
唇を尖らせた操が、上目使いで睨んでくる。
特にそういうつもりはなかったのだが、まぁ別にいい。彼は喉が渇いていたのか、素直に両手でグラスを引き寄せると、持ちあげることはせずストローに口をつけた。カラリと、氷が涼しげな音を奏でる。
(さて、どうしよう)
一騎に言われるまでもなく、バレてしまったからには折れる以外に仕方ない。
はっきり言って悪気はなかったし、最初は本当にただの思いつきだった。
店を手伝うのにアルヴィスの制服のままというのも味気ないかと、彼が着られそうなものでまだ一度も袖を通していない服を探したら、無地の白Tシャツくらいしかなかったのだ。
それもそれで味気ないと思いマーカーペンで絵を描こうとしたのだが、上手くいきそうになかったため適当に思いついた単語をデカデカと書いてやった。多少の悪戯心があったことは、もちろん否めない。
あのときは確か『イヌ』と書いたはずだ。流石に嫌がるかと思ったが、操はえらく喜んだ。単純に新しい服が嬉しかったのだろう。書かれている文字について触れられることはなく、その時はただの模様として受け取ったようだった。
天敵であるはずの『イヌ』という字が書かれたシャツを着て、チョロチョロと動き回る操は見ていて面白かった。一騎たちや訪れる客にいちいち「これ見て! いいでしょ! おれだけの服だよ!」と見せびらかすところがまた面白くて、正直可愛いと思ってしまった。
だからつい頻繁に新しいシャツに思いつきで文字を書いては与えていたら、気づけば看板娘ならぬ看板Tにまでなっていた。
しかし、それも今日でおしまいだろうか。
少し残念に思っていると、オレンジジュースを飲みほした操がおもむろに口を開いた。
「別にいいよ」
ああ、読んだのか。二人の間の決め事として、甲洋が壁を取り払っているときは心を読んでも構わないということになっている。
もちろん他の者に対しては、むやみやたらと読んではいけないと言い聞かせているが。
「君が新しい服をくれるのは嬉しい。おれがこれを着てるのを見ると、みんなニコニコ笑うんだ。ここにある優しい記憶の中に、それがゆっくり溶け込んでいくのを感じる」
「……そう」
「これからはちゃんと意味を教えてくれれば、それでいい」
「わかった」
「じゃあ教えてよ。今日のこれは、どんな意味があるの?」
操は僅かに椅子を引き、シャツの裾を両方の指先で摘まんで軽く引っ張った。
見上げてくるその瞳からは、もはや不満の色が消えている。そこには無邪気すぎるほどの好奇心が浮かんでいるだけだった。
甲洋はふっと微笑むと、片手をテーブルについて身を屈めた。もう片方の手は椅子の背凭れに。覗き込むようにして、操の唇に口付けを落とす。
唇が離れると、操は目をまん丸にしてポカンと口を開けた。彼がこの行為について学習したのは、ついほんの最近だ。多分きっと、まだ誰にも知られてはいないだろうが、自分たちはこういう関係に落ち着いていた。
「なんで、ちゅうしたの」
「書いてあるから」
「書いて……?」
「キスしてって、書いてあるから」
「ふわぁ」
上擦ったおかしな声を漏らして、操は頬を赤らめた。彼が恥じらうという感情を理解しはじめている、確かな証拠だ。あるいは照れ臭さだろうか。
ちゃんと恋をしているんだなと、そう感じる。こういった関係に落ち着いたとはいえ、操がどこまで本当に理解できているのか、正直あまり自信はなかったから。思った以上の何倍も安堵している自分がいることが、なんだかおかしい。
操のTシャツには、甲洋が言った通りのことが書かれている。実際は平仮名で「きすみー」と書かれているのだが、これはつい最近読んだ洋書から受けた影響だった。なんとなく読み始めたそれは恋愛小説で、主人公にキスを強請るヒロインが可愛かったから。
無邪気で子供っぽい彼女のキャラクターは、少し操に似ていた気がする。
「教えてくれて、ありがとう」
折り重ねた両手を膝に置いて、赤い顔をうつむけた操が言った。甲洋はなんとなく無意識に読心で『どういたしまして』と返してしまったが、もじもじしている彼が不満を漏らすことはなかった。
「ただいま」
丁度いいタイミングでカランとドアベルを鳴らして、一騎が店に戻ってきた。手には豆腐が入ったビニール袋をぶら下げている。
「おかえり一騎」
「ああ。ちゃんとごめんなさいは済んだのか?」
そういえば謝ってないなと思いだしたが、さっきまで流れていた険悪な空気が消え去っていることに気づいた一騎がホッとした様子で笑みを浮かべて見せたので、まぁいいかと曖昧に笑い返す。
「来主、なんだか顔が赤いけど、どうかしたか?」
キッチンスペースへ向かうためにふたりの脇を横切りながら、一騎はチラリと操の顔を見て小首を傾げた。
「なんでもないよ。ね、来主」
言っちゃダメ。暗にそれを匂わせると、珍しく察した操が「うん、なんでもない」と言ってはにかんだ。
「そっか。ならいいけど。さて、そろそろ晩の仕込みを始めるぞ」
カウンターに置かれていたエプロンをつけなおし、一騎はキッチンへ向かう。それを手伝うためにテーブルを離れようとした甲洋の手に、温かなものが触れた。
「ねぇ待って」
「なに?」
甲洋を引き止めた操はどこか神妙な面持ちで口を開きかけたが、すぐに噤んで心の中に問いかけてきた。
『おれの唇、カレー味じゃなかった?』
まだそんなことを不安がっていたのか。
甲洋は微笑むと指先を緩く握り込んでいる操の指を、同じようにそっと握り返した。
『来主の味がしたよ』
甘酸っぱくて優しくて、だけど少し子供っぽくて。くすぐったさと切なさが、どこか懐かしい。そんな味。多分きっと、恋の味だ。
『そっか』
操はまだほんの少し赤い頬をしながら、ふにゃんと幼い笑顔を見せた。
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「甲洋、髪切るの?」
長いキスのあと、とろりと潤んだ瞳が甲洋を見上げながら問いかけてくる。
「なに? 急に」
ベッドの上、操の身体に折り重なるようにかぶさっていた甲洋は、この先に続く行為へと逸る気持ちに蓋をしつつ小首を傾げた。
寝間着にしているシャツの半袖から伸びた両腕を、甲洋の首に巻き付けていた操は「んー」と考え込む素振りを見せながら、長い髪に触れてくる。黒みが強い栗皮色の癖毛が白い指先に巻き取られ、しゅるんと軽やかに解けた。
「お昼に真矢と話してた」
「ああ、そういえばそんな話をしてたっけ」
それは今日の昼近く、喫茶『楽園』での一コマだ。
ランチタイムになる前にと、甲洋と操は揃って少し早い昼食をとっていた。
カレーのルーがついてしまった操の口元をおしぼりで拭うなど、自分が食べるのもそっちのけで面倒を見てやっていると、そこに真矢がサラダを運んできてくれた。(ちなみに今日のまかないは暉カレーだった)
そのまま一言二言会話をした流れで、真矢がお盆を胸に抱えながら「春日井くん、伸びたよねぇ、髪」と、しみじみ言ったのだ。
店に出るとき、甲洋はいつも長い髪をハーフアップにして緩くまとめている。元々は一つに纏めていたのだが、それを見た操が「一騎とおそろいだー!」などとのたまったので、この形にした。
未だにどこかで一騎を意識してしまうのは、恋人ポジションにいる操があまりにも彼に懐いているせいかもしれない。万が一にも間違いが起こるはずはないと分かっていても、そこは複雑な男心というやつである。
髪の長さについては、真矢に言われるまで全く気にも留めていなかった。ただ、言われてみればずいぶん伸びていたし、見た目もさることながら少し重たいような気もする。風呂上りに髪を乾かすにも、昔よりずっと時間がかかるようになっていた。
その場は曖昧に微笑むだけで済ませたが、操はその間ずっときょとんとしながら甲洋を見ていた気がする。
「一騎の髪は総士が切ったんだって。君の髪はおれが切ろうか?」
「切りたいの?」
「うん」
「遠慮しとくよ」
とてもじゃないが、不安で任せられない。どんな悲惨な髪型にされるか、想像するだけで恐ろしい。
「えー! じゃあ総士に切ってもらうの?」
「なんでそうなる」
「……なんか嫌だな」
「それって」
ぷぅ、と唇を膨らませて目を逸らす操に、つい仄かな期待を寄せてしまう。それは甲洋が一騎に時おり抱いてしまう感情と、同じ形をしているのではないかと。つまりは、ヤキモチだ。
けれど臆病な甲洋はそれを確かめる気にはなれなかった。読心能力を使えば容易いが、もし見当違いだった場合、きっと落ち込む。というか、ムカつく。
「切るときはちゃんと床屋に行くよ」
ため息交じりにそう言えば、操は「つまんないのー」と言ってまた唇を尖らせた。童顔がさらに幼く見えて、思わず笑うと尖ったそこに啄むようなキスを落とす。
「んっ」
たったそれだけでヒクンと跳ねる身体に愛しさを募らせながら、餅のように柔らかな頬に手の平を這わせた。なんとなくサラサラと撫でてやると、琥珀にも似た黄朽葉色の瞳が気持ちよさそうに細められる。
「……来主はさ、どっちがいい?」
「ん~? なにが~?」
「いや……」
ほとんど無意識に問いかけてしまったことが途端に恥ずかしくなり、言いよどむ。
髪を切るか切らないかなんて、そんなのは自分の勝手だ。好きにすればいいことなのに、彼に選択を委ねてどうするつもりだったのだろう。
(例えば……少しでもこいつの好みに合わせたい、とか?)
乙女じゃあるまいし。つくづく自分に呆れかえっていると、操は幾度か瞬きをしてから小首を傾げる。
「長いのと短いの、どっちがいいかってこと?」
「……まぁ一応。参考までに」
「そうだなぁ」
よかった。肝心なところは気づかれていない。彼が鈍くて助かった。
操は少しのあいだ小さく唸って考え込んでいたが、思いだしたように甲洋の癖毛を指先で弄ぶ動きを再開させた。
「前に、総士の部屋で写真を見たよ。昔の君が写ってた。実際に見たのは前のおれだけどね。ちゃんと覚えてる」
「ああ、あの写真か……」
懐かしい記憶が、チクリと胸を締め付ける。届かないと知りながら、ただひたむきに恋をする少年だったあの日。つい昨日のことのように思いだせるのに、自分が生きてきた年数よりもずっと遠い昔のことに感じられる。
痛くて怖くて悲しくて、淡く優しいセピア色をした、大切な記憶だ。
「君のほっぺたは、今よりほんの少しだけ丸かった。優しそうで、寂しそうで……可愛かったよ」
「……子供だったからね」
「髪を切ったら、またあんなふうに可愛くなっちゃうね。甲洋」
「それはどうだろう」
クスリと小さく笑いながら、可愛いなんて初めて言われたなと、甲洋は思う。両親にすら一度も言われたことがなかったし、ラブレターをもらうくらいには気にかけてくれる女の子たちもいたけれど、そんな言葉をかけられたのは初めてだ。
成人を迎えた男としては少し複雑だが、操がそう感じたのなら悪い気はしない。
「なら、切ろうかな」
「んん……待って。ちょっとやだ、かも」
「なにそれ。どっちさ?」
「わかんない。どっちの君も好きだけど……なんでヤなんだろ?」
操はなにやら迷っている様子だった。けれどなぜ迷っているのか、自分でも分かっていないのだ。
埒が明かない。そして、こうしている間にも夜はどんどん朝へ向かって時を進めている。
──どっちの君も好き。
そんなことを言われてしまったら、このまま抱きしめてただ眠るなんて、できそうもない。
「とりあえず、保留にしとこうか」
ホッとしたように表情を明るくした操が頷いたのを合図に、再び深く唇が重ねられた。
*
「んっ、うぅ……ッ、あ、はぁッ、ぁ」
胡坐をかいて座る甲洋の上に跨るようにして、操がゆっくりと腰を落とした。ローションで濡れた結合部が、ぐじゅりといやらしい音を響かせる。
痛いほどの締め付けで自身を飲み込んでいく肉襞に、甲洋は奥歯を噛み締めて喘ぎそうになるのを堪えた。
「ッ、だいじょうぶ?」
腹に力を込め、上擦ってしまいそうな声を押し殺して問いかけた。操は甲洋の首にしがみつき、はかはかと忙しなく肩を上下させている。
「ん、平気……お腹、ちょっと苦しいだけ……甲洋の、おっきくて硬くて、熱いんだもん……」
「……そういうことは、言わなくていい」
「ふふ、恥ずかしいんだね。可愛い」
白い両腕が甲洋の頭を抱え込み、優しい手つきで髪を撫でられる。なんだかひどく甘やかされているような気がして、胸が甘く締め付けられた。
(ああ、もう……)
抱いているはずなのに、抱かれているみたいな気がしてくるから不思議だ。腕の中のコアは、きっとそこまで考えちゃいないはずなのに。
「動くよ」
甲洋は気恥ずかしさから短く告げると、返事も待たずに腰を揺らした。
「アッ、ぁんっ! あッ!」
薄桃に染まった身体が、打ち込まれた快楽に美しくしなる。子犬のような甲高い悲鳴が上がるのを聞いて、可愛いのはどっちだと、堪らない愛しさにいっそ腹が立ってきた。
それをぶつけるように、甲洋は細い腰を両腕でしっかり抱きこんで固定しながら、ベッドのスプリングを利用してナカを存分に攻め立てる。
「やぁっ、ァッ! だめ、それダメ深い……甲洋……ッ!」
ふたりの身体の間では、幼さを残す薄紅の性器が天を仰いで震えている。甲洋が奥を突くたび、ぴゅ、ぴゅ、と健気に蜜を撒き散らしては気持ちよさそうに揺れていた。
(可愛いな……俺ので、こんなに感じてくれてるんだ)
甲洋の首にしがみつきながら、操は髪を振り乱して甘い嬌声をあげている。誰に教わったわけもないはずなのに、いつしか動きに合わせて自らも腰を振る姿は、彼の見てくれや内面の幼さに反してひどく扇情的だった。
最初の頃はなかなか上手くいかず、失敗の連続だったことを思うと感慨深い。痛い痛いと泣きじゃくる姿を見たときは、罪悪感で押しつぶされそうになったものだが。
けれどゆっくりと時間をかけて、今はこうして繋がることができるようになった。負担をかけていることは承知の上で、操が自分を受け入れ、求めてくれることにこの上ない喜びを感じる。
「あっ、ぁんッ、あ、アッ!」
絶えず下から突き上げて快楽を貪っているうちに、揺さぶられる操の首が赤子のように座らなくなってくる。このままでは舌を噛んでしまうかもしれないと、ガクンガクンと揺れるに任せて上下していた頭部に手を添えると片腕で腰を抱き直し、繋がったまま正常位の体勢へと持ち込んだ。
「ひゃっ、ぁ……!」
急に体勢が変わったことに驚いたのか、はたまた違う角度からイイ場所を刺激されたからか、操は生理的な涙が浮かぶ瞳を見開き、身を震わせておかしな悲鳴をあげる。
ごめんねと心の中で呟いて、薄い唇にキスをした。気を取り直した操はすぐにそれに応え始める。
「ん、ふ……ぁ……」
角度を変えながら互いに舌を絡め合い、唾液を交換する。飲み込みきれなかった雫が操の薄い唇の端から伝い落ち、ほんのりと首筋に滲む汗に溶けていった。
名残惜しく糸を引きながら唇が離れると、操は赤い頬でうっとりとしながら「はふ」と深い息をつく。
甲洋はその少し間抜けにも見える気の抜けた表情にクスリと笑って、濡れた口端を人差し指の甲で拭ってやった。そして覆いかぶさっていた半身を一度起こすと、汗を吸って額に張り付く焦茶の癖毛を何気なく掻き上げる。
「ッ、ぁ」
「!」
操が小さく声をあげ、甲洋は目を見開いた。
なぜか今、自身を食いしめる秘穴がきゅうっと締まったのだ。
「……今の、なに?」
甘い痺れに声を上ずらせながら素朴な疑問を投じれば、操はまん丸に見開いた目を潤ませて戸惑いの表情を浮かべる。
「なん、か……甲洋の、仕草が」
「なにかしたっけ」
「か、髪……髪、を」
「ああ、ちょっと鬱陶しかったから」
右手を伸びた前髪へと這わせ、質量の多いそれをざっくりと掻き上げる。すぐにハラハラと指の隙間から零れ落ちる髪の束が、ふわりと頬に張り付いた。
すると、またナカがキュンと締まる感じがする。
「そ、それ」
「ッ、ん」
「なんか、変になる……お腹の奥がきゅんきゅんして、すごく、エッチな気持ちになる……」
「なん、だ……それ?」
「わかんない! わかんないんだけど!」
嫌々と駄々っ子のように首を振り、操は切実さをはらむ瞳で両腕を伸ばしてくる。
「ねぇ、早く……気持ちいいやつ、続きしよ……?」
甲洋は喉を鳴らすと一も二もなくその手を取って、再び操の身体に覆いかぶさった。ナカがまた締まったような気がするのは、甲洋自身がさらに膨らみを増したせいだったのかもしれない。
「あっ、甲洋……ッ、甲洋、好き……アッ、ぁ、好き、ぃ……っ!」
「来主……ッ、俺、も」
『好きだ。大好きだ。──俺の操』
激しい抽挿の最中でも確実に想いを伝えたくて、操の額に自分の額を押し付けると心の中に訴えかける。操はそれを拒むことなく受け止めて、同じように確かな喜びを伝えてきた。
荒々しいふたつの呼吸と、ひたむきで優しい想いと、淫らな水音。それらを重ねて愛を分かち合いながら、やがてふたりは同時に果てた。
*
「やっぱこう、若いお姉ちゃんってのはいいもんだねぇ」
「おやっさんって本当に好きですよね」
昼間から楽園のボックス席でビールを煽りながら話しているのは溝口恭介とその部下、陣内貢である。
溝口は店内に若い女性客が多いことにご満悦な様子だった。
「そりゃあお前、こんな時代だ。綺麗で可愛いお姉ちゃんに癒しでも求めんことには、やってられねぇよ」
「まぁ……でもこう、もう少し年齢がいった大人の女性ってのもいいですよ。適度に緩んだ肉の感じとか」
「お前さんマニアックだなぁ。え、それってもしかして」
「ち、違いますよ! 舞はまだ……ちょっと、なに言わそうとしてるんですかおやっさん!」
「や~、いいね~、熱いね~」
ガハハと笑う溝口と、赤面して焦った様子の陣内。二人のむくつけきタンクトップ男たちと一緒に、ボックス席でオレンジジュースを飲んでいた操は首を傾げた。
「ねぇ、若いお姉さんと緩んだお肉って、なにがそんなにいいの?」
「お? なんだ坊主、興味あるのか?」
「うん。君たちのことなら、なんだって知りたい」
期待に満ちた表情をチラリと横目で見た溝口が、腕を組みながら「そうさなぁ」と呟いた。
「ま、男のロマンだよ。お前さんにゃあまだ早いかなぁ」
「ろまん?」
「そう、ロマン」
「ねぇ、なんか適当にあしらおうとしてない?」
ぶぅっと頬を膨らませた操に、陣内が苦笑する。
「男は綺麗で可愛い女の人を見ると、ドキドキしちゃうってことさ」
「ドキドキ」
「そ。それ。セクシーで色っぽい女を見ると、ムラムラするだろ?」
「ムラムラ」
「おやっさん……言い方に気をつけないと、真矢ちゃんに叱られますよ……」
ドキドキ。ムラムラ。操は「ふむぅ」と唸りながら考え込む。
なんとなく、覚えがあるような気がしたのだ。
「ねぇ、それって例えば……髪を掻き上げる動作を見たりしても感じる?」
操が問うと、溝口は意外そうな顔をしたあとニカッと笑って頭をグリグリ撫でてきた。
「なぁんだよ、お前さんちゃんと分かってるんじゃないか!」
溝口が、再び豪快にガハハと笑った。
褒められるのは嬉しい。またひとつ、人間を理解できたことも。
(そっか、そうだったんだ!)
あのとき。操は甲洋が髪を掻き上げる仕草を見て、おかしな気持ちになった。胸がきゅうきゅうと締め付けられるみたいに苦しくて、内側から蕩けてしまいそうだった。
けれど操は、その感情を言葉で上手く表現することができなかったのだ。
だけど次は言える。ちゃんと甲洋に伝えることができる。
いてもたってもいられず、操は勢いよく席を立つと窓際の席で接客している甲洋に向かって大声を張り上げた。
「ねぇ甲洋! おれわかったよ!」
溝口と陣内がポカンと口を開けている。注文をとっていた甲洋も、僅かに驚いた様子で首を傾げた。
「なに?」
「甲洋は、セクシーで色っぽいんだ! だから俺、あのときエッチな気持ちになったんだよ!」
「!?」
その場にいた全員が、ぎょっとして操を凝視する。少しばかり沈黙が流れたあと、どちらかといえば女性客が多い店内がざわつきはじめた。
「ちょ、ちょっと来主くん!? なんの話して……あ!」
カウンターから乗り出して慌てていた真矢は、操がついている席に溝口がいるのを確認すると何かを察したのか、眉を吊り上げた。その横で、一騎が困り果てた顔をしている。
「ありゃ~……こりゃみっちり叱られちまうなぁ……」
「だから言ったのに……」
俺も叱られるんだろうなと、陣内はげっそりとしながら肩を落とす。
「おれなにか言っちゃダメなこと言った?」
「ダメじゃあねぇが、時と場所を間違っちまったなぁ坊主」
騒然とする店内の様子にきょとんとしていると、心の中で『来主』と呼ばれる。目をやれば、甲洋がにっこりと笑ってこちらを見ていた。
「こっちにおいで。ちょっと話そうか」
なぜかその笑顔に鬼気迫ったものを感じて、操はぐっと喉を詰まらせる。
「や、やっぱりあのふたりってそういう……?」
「一騎先輩と総士先輩みたいな!?」
「きゃ~! うっそぉ~!」
店内は相変わらずざわついていて、主に女性客が頬を染めながらなにやらヒソヒソと話をしているようだった。
『こ、甲洋ぉ』
『いいから。二階に行くよ』
甲洋は笑顔のまま、さっさと背を向けて行ってしまった。
「甲洋、ぜったい怒ってる……」
しおしおと項垂れる操の尻を「ははは」と力なく笑った溝口が叩いた。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
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長いキスのあと、とろりと潤んだ瞳が甲洋を見上げながら問いかけてくる。
「なに? 急に」
ベッドの上、操の身体に折り重なるようにかぶさっていた甲洋は、この先に続く行為へと逸る気持ちに蓋をしつつ小首を傾げた。
寝間着にしているシャツの半袖から伸びた両腕を、甲洋の首に巻き付けていた操は「んー」と考え込む素振りを見せながら、長い髪に触れてくる。黒みが強い栗皮色の癖毛が白い指先に巻き取られ、しゅるんと軽やかに解けた。
「お昼に真矢と話してた」
「ああ、そういえばそんな話をしてたっけ」
それは今日の昼近く、喫茶『楽園』での一コマだ。
ランチタイムになる前にと、甲洋と操は揃って少し早い昼食をとっていた。
カレーのルーがついてしまった操の口元をおしぼりで拭うなど、自分が食べるのもそっちのけで面倒を見てやっていると、そこに真矢がサラダを運んできてくれた。(ちなみに今日のまかないは暉カレーだった)
そのまま一言二言会話をした流れで、真矢がお盆を胸に抱えながら「春日井くん、伸びたよねぇ、髪」と、しみじみ言ったのだ。
店に出るとき、甲洋はいつも長い髪をハーフアップにして緩くまとめている。元々は一つに纏めていたのだが、それを見た操が「一騎とおそろいだー!」などとのたまったので、この形にした。
未だにどこかで一騎を意識してしまうのは、恋人ポジションにいる操があまりにも彼に懐いているせいかもしれない。万が一にも間違いが起こるはずはないと分かっていても、そこは複雑な男心というやつである。
髪の長さについては、真矢に言われるまで全く気にも留めていなかった。ただ、言われてみればずいぶん伸びていたし、見た目もさることながら少し重たいような気もする。風呂上りに髪を乾かすにも、昔よりずっと時間がかかるようになっていた。
その場は曖昧に微笑むだけで済ませたが、操はその間ずっときょとんとしながら甲洋を見ていた気がする。
「一騎の髪は総士が切ったんだって。君の髪はおれが切ろうか?」
「切りたいの?」
「うん」
「遠慮しとくよ」
とてもじゃないが、不安で任せられない。どんな悲惨な髪型にされるか、想像するだけで恐ろしい。
「えー! じゃあ総士に切ってもらうの?」
「なんでそうなる」
「……なんか嫌だな」
「それって」
ぷぅ、と唇を膨らませて目を逸らす操に、つい仄かな期待を寄せてしまう。それは甲洋が一騎に時おり抱いてしまう感情と、同じ形をしているのではないかと。つまりは、ヤキモチだ。
けれど臆病な甲洋はそれを確かめる気にはなれなかった。読心能力を使えば容易いが、もし見当違いだった場合、きっと落ち込む。というか、ムカつく。
「切るときはちゃんと床屋に行くよ」
ため息交じりにそう言えば、操は「つまんないのー」と言ってまた唇を尖らせた。童顔がさらに幼く見えて、思わず笑うと尖ったそこに啄むようなキスを落とす。
「んっ」
たったそれだけでヒクンと跳ねる身体に愛しさを募らせながら、餅のように柔らかな頬に手の平を這わせた。なんとなくサラサラと撫でてやると、琥珀にも似た黄朽葉色の瞳が気持ちよさそうに細められる。
「……来主はさ、どっちがいい?」
「ん~? なにが~?」
「いや……」
ほとんど無意識に問いかけてしまったことが途端に恥ずかしくなり、言いよどむ。
髪を切るか切らないかなんて、そんなのは自分の勝手だ。好きにすればいいことなのに、彼に選択を委ねてどうするつもりだったのだろう。
(例えば……少しでもこいつの好みに合わせたい、とか?)
乙女じゃあるまいし。つくづく自分に呆れかえっていると、操は幾度か瞬きをしてから小首を傾げる。
「長いのと短いの、どっちがいいかってこと?」
「……まぁ一応。参考までに」
「そうだなぁ」
よかった。肝心なところは気づかれていない。彼が鈍くて助かった。
操は少しのあいだ小さく唸って考え込んでいたが、思いだしたように甲洋の癖毛を指先で弄ぶ動きを再開させた。
「前に、総士の部屋で写真を見たよ。昔の君が写ってた。実際に見たのは前のおれだけどね。ちゃんと覚えてる」
「ああ、あの写真か……」
懐かしい記憶が、チクリと胸を締め付ける。届かないと知りながら、ただひたむきに恋をする少年だったあの日。つい昨日のことのように思いだせるのに、自分が生きてきた年数よりもずっと遠い昔のことに感じられる。
痛くて怖くて悲しくて、淡く優しいセピア色をした、大切な記憶だ。
「君のほっぺたは、今よりほんの少しだけ丸かった。優しそうで、寂しそうで……可愛かったよ」
「……子供だったからね」
「髪を切ったら、またあんなふうに可愛くなっちゃうね。甲洋」
「それはどうだろう」
クスリと小さく笑いながら、可愛いなんて初めて言われたなと、甲洋は思う。両親にすら一度も言われたことがなかったし、ラブレターをもらうくらいには気にかけてくれる女の子たちもいたけれど、そんな言葉をかけられたのは初めてだ。
成人を迎えた男としては少し複雑だが、操がそう感じたのなら悪い気はしない。
「なら、切ろうかな」
「んん……待って。ちょっとやだ、かも」
「なにそれ。どっちさ?」
「わかんない。どっちの君も好きだけど……なんでヤなんだろ?」
操はなにやら迷っている様子だった。けれどなぜ迷っているのか、自分でも分かっていないのだ。
埒が明かない。そして、こうしている間にも夜はどんどん朝へ向かって時を進めている。
──どっちの君も好き。
そんなことを言われてしまったら、このまま抱きしめてただ眠るなんて、できそうもない。
「とりあえず、保留にしとこうか」
ホッとしたように表情を明るくした操が頷いたのを合図に、再び深く唇が重ねられた。
*
「んっ、うぅ……ッ、あ、はぁッ、ぁ」
胡坐をかいて座る甲洋の上に跨るようにして、操がゆっくりと腰を落とした。ローションで濡れた結合部が、ぐじゅりといやらしい音を響かせる。
痛いほどの締め付けで自身を飲み込んでいく肉襞に、甲洋は奥歯を噛み締めて喘ぎそうになるのを堪えた。
「ッ、だいじょうぶ?」
腹に力を込め、上擦ってしまいそうな声を押し殺して問いかけた。操は甲洋の首にしがみつき、はかはかと忙しなく肩を上下させている。
「ん、平気……お腹、ちょっと苦しいだけ……甲洋の、おっきくて硬くて、熱いんだもん……」
「……そういうことは、言わなくていい」
「ふふ、恥ずかしいんだね。可愛い」
白い両腕が甲洋の頭を抱え込み、優しい手つきで髪を撫でられる。なんだかひどく甘やかされているような気がして、胸が甘く締め付けられた。
(ああ、もう……)
抱いているはずなのに、抱かれているみたいな気がしてくるから不思議だ。腕の中のコアは、きっとそこまで考えちゃいないはずなのに。
「動くよ」
甲洋は気恥ずかしさから短く告げると、返事も待たずに腰を揺らした。
「アッ、ぁんっ! あッ!」
薄桃に染まった身体が、打ち込まれた快楽に美しくしなる。子犬のような甲高い悲鳴が上がるのを聞いて、可愛いのはどっちだと、堪らない愛しさにいっそ腹が立ってきた。
それをぶつけるように、甲洋は細い腰を両腕でしっかり抱きこんで固定しながら、ベッドのスプリングを利用してナカを存分に攻め立てる。
「やぁっ、ァッ! だめ、それダメ深い……甲洋……ッ!」
ふたりの身体の間では、幼さを残す薄紅の性器が天を仰いで震えている。甲洋が奥を突くたび、ぴゅ、ぴゅ、と健気に蜜を撒き散らしては気持ちよさそうに揺れていた。
(可愛いな……俺ので、こんなに感じてくれてるんだ)
甲洋の首にしがみつきながら、操は髪を振り乱して甘い嬌声をあげている。誰に教わったわけもないはずなのに、いつしか動きに合わせて自らも腰を振る姿は、彼の見てくれや内面の幼さに反してひどく扇情的だった。
最初の頃はなかなか上手くいかず、失敗の連続だったことを思うと感慨深い。痛い痛いと泣きじゃくる姿を見たときは、罪悪感で押しつぶされそうになったものだが。
けれどゆっくりと時間をかけて、今はこうして繋がることができるようになった。負担をかけていることは承知の上で、操が自分を受け入れ、求めてくれることにこの上ない喜びを感じる。
「あっ、ぁんッ、あ、アッ!」
絶えず下から突き上げて快楽を貪っているうちに、揺さぶられる操の首が赤子のように座らなくなってくる。このままでは舌を噛んでしまうかもしれないと、ガクンガクンと揺れるに任せて上下していた頭部に手を添えると片腕で腰を抱き直し、繋がったまま正常位の体勢へと持ち込んだ。
「ひゃっ、ぁ……!」
急に体勢が変わったことに驚いたのか、はたまた違う角度からイイ場所を刺激されたからか、操は生理的な涙が浮かぶ瞳を見開き、身を震わせておかしな悲鳴をあげる。
ごめんねと心の中で呟いて、薄い唇にキスをした。気を取り直した操はすぐにそれに応え始める。
「ん、ふ……ぁ……」
角度を変えながら互いに舌を絡め合い、唾液を交換する。飲み込みきれなかった雫が操の薄い唇の端から伝い落ち、ほんのりと首筋に滲む汗に溶けていった。
名残惜しく糸を引きながら唇が離れると、操は赤い頬でうっとりとしながら「はふ」と深い息をつく。
甲洋はその少し間抜けにも見える気の抜けた表情にクスリと笑って、濡れた口端を人差し指の甲で拭ってやった。そして覆いかぶさっていた半身を一度起こすと、汗を吸って額に張り付く焦茶の癖毛を何気なく掻き上げる。
「ッ、ぁ」
「!」
操が小さく声をあげ、甲洋は目を見開いた。
なぜか今、自身を食いしめる秘穴がきゅうっと締まったのだ。
「……今の、なに?」
甘い痺れに声を上ずらせながら素朴な疑問を投じれば、操はまん丸に見開いた目を潤ませて戸惑いの表情を浮かべる。
「なん、か……甲洋の、仕草が」
「なにかしたっけ」
「か、髪……髪、を」
「ああ、ちょっと鬱陶しかったから」
右手を伸びた前髪へと這わせ、質量の多いそれをざっくりと掻き上げる。すぐにハラハラと指の隙間から零れ落ちる髪の束が、ふわりと頬に張り付いた。
すると、またナカがキュンと締まる感じがする。
「そ、それ」
「ッ、ん」
「なんか、変になる……お腹の奥がきゅんきゅんして、すごく、エッチな気持ちになる……」
「なん、だ……それ?」
「わかんない! わかんないんだけど!」
嫌々と駄々っ子のように首を振り、操は切実さをはらむ瞳で両腕を伸ばしてくる。
「ねぇ、早く……気持ちいいやつ、続きしよ……?」
甲洋は喉を鳴らすと一も二もなくその手を取って、再び操の身体に覆いかぶさった。ナカがまた締まったような気がするのは、甲洋自身がさらに膨らみを増したせいだったのかもしれない。
「あっ、甲洋……ッ、甲洋、好き……アッ、ぁ、好き、ぃ……っ!」
「来主……ッ、俺、も」
『好きだ。大好きだ。──俺の操』
激しい抽挿の最中でも確実に想いを伝えたくて、操の額に自分の額を押し付けると心の中に訴えかける。操はそれを拒むことなく受け止めて、同じように確かな喜びを伝えてきた。
荒々しいふたつの呼吸と、ひたむきで優しい想いと、淫らな水音。それらを重ねて愛を分かち合いながら、やがてふたりは同時に果てた。
*
「やっぱこう、若いお姉ちゃんってのはいいもんだねぇ」
「おやっさんって本当に好きですよね」
昼間から楽園のボックス席でビールを煽りながら話しているのは溝口恭介とその部下、陣内貢である。
溝口は店内に若い女性客が多いことにご満悦な様子だった。
「そりゃあお前、こんな時代だ。綺麗で可愛いお姉ちゃんに癒しでも求めんことには、やってられねぇよ」
「まぁ……でもこう、もう少し年齢がいった大人の女性ってのもいいですよ。適度に緩んだ肉の感じとか」
「お前さんマニアックだなぁ。え、それってもしかして」
「ち、違いますよ! 舞はまだ……ちょっと、なに言わそうとしてるんですかおやっさん!」
「や~、いいね~、熱いね~」
ガハハと笑う溝口と、赤面して焦った様子の陣内。二人のむくつけきタンクトップ男たちと一緒に、ボックス席でオレンジジュースを飲んでいた操は首を傾げた。
「ねぇ、若いお姉さんと緩んだお肉って、なにがそんなにいいの?」
「お? なんだ坊主、興味あるのか?」
「うん。君たちのことなら、なんだって知りたい」
期待に満ちた表情をチラリと横目で見た溝口が、腕を組みながら「そうさなぁ」と呟いた。
「ま、男のロマンだよ。お前さんにゃあまだ早いかなぁ」
「ろまん?」
「そう、ロマン」
「ねぇ、なんか適当にあしらおうとしてない?」
ぶぅっと頬を膨らませた操に、陣内が苦笑する。
「男は綺麗で可愛い女の人を見ると、ドキドキしちゃうってことさ」
「ドキドキ」
「そ。それ。セクシーで色っぽい女を見ると、ムラムラするだろ?」
「ムラムラ」
「おやっさん……言い方に気をつけないと、真矢ちゃんに叱られますよ……」
ドキドキ。ムラムラ。操は「ふむぅ」と唸りながら考え込む。
なんとなく、覚えがあるような気がしたのだ。
「ねぇ、それって例えば……髪を掻き上げる動作を見たりしても感じる?」
操が問うと、溝口は意外そうな顔をしたあとニカッと笑って頭をグリグリ撫でてきた。
「なぁんだよ、お前さんちゃんと分かってるんじゃないか!」
溝口が、再び豪快にガハハと笑った。
褒められるのは嬉しい。またひとつ、人間を理解できたことも。
(そっか、そうだったんだ!)
あのとき。操は甲洋が髪を掻き上げる仕草を見て、おかしな気持ちになった。胸がきゅうきゅうと締め付けられるみたいに苦しくて、内側から蕩けてしまいそうだった。
けれど操は、その感情を言葉で上手く表現することができなかったのだ。
だけど次は言える。ちゃんと甲洋に伝えることができる。
いてもたってもいられず、操は勢いよく席を立つと窓際の席で接客している甲洋に向かって大声を張り上げた。
「ねぇ甲洋! おれわかったよ!」
溝口と陣内がポカンと口を開けている。注文をとっていた甲洋も、僅かに驚いた様子で首を傾げた。
「なに?」
「甲洋は、セクシーで色っぽいんだ! だから俺、あのときエッチな気持ちになったんだよ!」
「!?」
その場にいた全員が、ぎょっとして操を凝視する。少しばかり沈黙が流れたあと、どちらかといえば女性客が多い店内がざわつきはじめた。
「ちょ、ちょっと来主くん!? なんの話して……あ!」
カウンターから乗り出して慌てていた真矢は、操がついている席に溝口がいるのを確認すると何かを察したのか、眉を吊り上げた。その横で、一騎が困り果てた顔をしている。
「ありゃ~……こりゃみっちり叱られちまうなぁ……」
「だから言ったのに……」
俺も叱られるんだろうなと、陣内はげっそりとしながら肩を落とす。
「おれなにか言っちゃダメなこと言った?」
「ダメじゃあねぇが、時と場所を間違っちまったなぁ坊主」
騒然とする店内の様子にきょとんとしていると、心の中で『来主』と呼ばれる。目をやれば、甲洋がにっこりと笑ってこちらを見ていた。
「こっちにおいで。ちょっと話そうか」
なぜかその笑顔に鬼気迫ったものを感じて、操はぐっと喉を詰まらせる。
「や、やっぱりあのふたりってそういう……?」
「一騎先輩と総士先輩みたいな!?」
「きゃ~! うっそぉ~!」
店内は相変わらずざわついていて、主に女性客が頬を染めながらなにやらヒソヒソと話をしているようだった。
『こ、甲洋ぉ』
『いいから。二階に行くよ』
甲洋は笑顔のまま、さっさと背を向けて行ってしまった。
「甲洋、ぜったい怒ってる……」
しおしおと項垂れる操の尻を「ははは」と力なく笑った溝口が叩いた。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
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数日後──。
その日、操は新しくファミレスでホールスタッフのアルバイトを始めていた。
慣れないなりにミスもなく初日を終えることができ、ホッと胸を撫で下ろす。今のところ変な客もいなさそうだし、これなら上手くやっていけそうだ。
(きっと甲洋のおかげだね)
ロッカールームで制服から私服に着替えた操は、ずっと首に下げていたものを服の襟から引きずり出した。
チェーンの先には、甲洋がくれたどんぐりがついている。煮沸処理して乾燥させ、ペンダントにしてお守り代わりに身に着けていたのだ。これをしていると、まるで彼が傍にいてくれるような気がして心強い。
(今日のこと、甲洋が来たら報告しなきゃ!)
甲洋は操が新しくバイトを始めたことをまだ知らない。だからきっと驚くだろうし、一緒に喜んでくれるはずだ。
今日のおやつも考えなくちゃと、ウキウキしながらコートに袖を通していると、そこに
「あ、いたいた。来主くん、ちょっといい?」
と、制服にエプロン姿の男性がやって来て、声をかけられた。
彼はこの店の店長だ。今日一日、ずっと傍で仕事を教えてくれた人だった。
「話があるから、こっち来てくれるかな」
店長は返事も待たずに、すぐそばの裏口から外に出ていってしまった。
話とは一体なんだろう。ここではできない内容なのだろうか。疑問に思いながらも、操はペンダントを服の中にしまうとリュックを背負った。
裏口から出ると、そこは古びた裏路地になっている。すっかり日が暮れて、あたりは暗くなっていた。ポツンと一本だけ立っている街灯は、ほとんど消えかけていてあまり機能していない。
「来主くん、こっちだよ」
薄暗くて細い通路は、突き当りにゴミの山ができていた。少し生臭い。そのすぐそばで、店長がヒョイと片手を上げている。
操が近づくと、彼は笑顔で「今日はお疲れ様」と言った。
「初日だったから緊張したでしょ? よくがんばってたね」
店長は笑顔で、今日の操の働きぶりを褒めちぎった。明るい笑顔だとか丁寧な接客だとか、他にもいろいろ。褒められすぎて、ちょっと怖いくらいだった。
(でも嬉しいな。また甲洋に報告することができちゃった!)
操は元気よく「ありがとうございます!」と礼を言ったが、そのときふと、違和感に気がついた。
(この人、なんでこんなに近づいてくるんだろう?)
操と店長の距離は、気づけば20センチあるかないかまで縮まっていた。確かにここは狭い路地だが、これほどまでに近づく必要はあるのだろうか。思わず後ろに一歩引こうとしたとき、店長の腕が腰に回された。
「でもねぇ、一つだけ……」
「っ、え?」
「仕事中は、あんまり色目を使ってほしくないんだよね」
意味が分からず、操は目を白黒させる。
「困るんだよ。前にいた子もさぁ、オレに気があるくせに、いざ手を出したらセクハラがどうとか騒いで辞めちゃったし」
「……?」
「君みたいに、なんにも知りませ~んって顔してる子ほどエロいんだよな。でも仕事中はそういうの隠さないと。今は二人っきりだからいいけどね」
いよいよなにを言われているのか分からない。その笑顔はさっきまでと違い、ニタニタとした嫌なものに変わっていた。
(なんなのこの人? ぜんぜん意味わかんないよ!)
本能的に身を捩って逃れようとしたが、臀部をぬるりと撫でられて「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。
なんだかよく分からないが、とにかく嫌だ。気持ちが悪い。不快感に心臓が冷えていくのが分かる。こんな経験は初めてだった。
「君が可愛いから雇ってやったわけ。オレが言ってること分かるよね?」
強引に引き寄せられて、耳元で囁かれた。ゾッとして吐き気がする。
きっと前に辞めていったという人も、今の自分と同じだったのだろう。意味不明な言いがかりをつけられて、こんなふうにベタベタと触られたに違いない。
「わ、わかんないよそんなこと! 近いってば! 離してよ!」
せっかく上手くやっていけそうだと思っていたのに。おかしな客の次は、おかしな店長に当たってしまった。これじゃあ甲洋にいい報告なんかできそうにない。
悔し涙を滲ませながら、なんとか振り切ろうとした。そのとき──。
「おわッ!?」
男がとつぜん悲鳴をあげたかと思うと、その身体が吹っ飛ばされた。ズボッという音がして、ゴミの山に埋もれてしまう。
「へ……?」
暗がりで起こった一瞬の出来事に、訳が分からず唖然とした。それは男も同じだったようで、彼はゴミ山で手足をバタつかせて混乱している。
そのとき、ポカンとしていた操の手首が何者かによって掴まれた。
「来主、こっち!」
「ッ……!?」
薄暗いなか、浮かび上がるシルエットに目を見張る。尖った猫耳に、オオカミのような長いしっぽ。青年の姿をした甲洋だ。
「甲洋!? なんで……!?」
「いいから!」
彼は操の手を強く引き、風のような速さで走りだす。ゴミ山でもがく男の「待て!」という声が背中にかかり、まるでドラマや映画のワンシーンのようだった。
甲洋は操が知らない抜け道を幾つも知っていて、自分の姿を見られないよう配慮しながらも、最短ルートを選んで走る。そうしてどこをどう通ってきたかも分からないうちに、気づけば見知った公園にたどり着いていた。最初に甲洋を保護した、あの公園だ。
「ここまで来れば、もう安心だ」
「はぁ、はぁ……っ、こ、甲洋、どうして君が?」
問いには答えず、彼は上下に弾む操の両肩をそっと掴んだ。
「来主、大丈夫か? なにも酷いことはされてない?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと変なとこ触られただけ……」
「ッ……」
遊具の側で煌々と明かりを発する街灯の下、甲洋が悔しそうに下唇を噛み締めた。そして操の身体を強く抱きすくめる。
「わっ」
「遅くなってごめん。俺がもっと早く助けていれば……」
「そ、そんなことないよ! 君が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか分からないし……」
思いだすだけで鳥肌がたつ。操は彼を抱き返し、ホッと息を漏らした。
かなりのショックを受けたし、まだ少し混乱しているけれど、やっぱり甲洋の腕の中は安心する。さっきまでの不快感が、そっと洗い流されていくようだった。
「でも君、どうしてあんなところにいたの?」
改めて問いかけた操に、彼は「たまたまだよ」と言った。
「来主が学校帰りに、いつもと違う方向に歩いて行くのが見えたから」
群れの縄張りを巡回中だった彼は、操の行き先が気になって後ろをくっついて来ていたらしい。せっかくだし、一緒に帰ろうと思ったからだ。
そこで新しいバイト先がファミレスであることを知り、終わるまで待つつもりでその辺りをブラブラしていた。すると路地裏から操の叫ぶ声がして、揉み合う二人を見つけたのだと。
「そうだったんだ! じゃあ、君はずっと近くにいたんだね」
ぺたんと耳を寝かせて、「黙ってついて行ってごめん」と申し訳なさそうに言う甲洋に、操はクスクスと笑ってしまった。実家にいたころ、クーもよく操の後をついて来ていたことを思いだす。
猫にはそういう習性があるのだ。傍にいたいと思う相手の後を、くっついて歩く習性が。それに──。
「来主?」
「ふふっ、だってさ、ほら。これ見て」
操は甲洋の腕の中でゴソゴソと身じろいで、服の中からペンダントを引きずりだした。丸々としたどんぐりが姿を現し、甲洋が目を丸くする。
「これ、ぼくのお守りなんだ。持ってると、君が傍にいるみたいで安心するから……だけど本当に近くにいたんだって思ったら、なんかおかしくて」
肩を揺らして笑う操に、甲洋もふっと息を漏らして微笑んだ。
「ありがとう。大事に持っていてくれて」
「うん。これからも、ずっと大切にするからね」
操はチェーンの先についたどんぐりを、ぎゅっと強く握りしめた。
「守ってくれてありがとう」
さっき、甲洋はおそらく魔法を使ったのだろう。自分のピンチですら、決して使わなかったはずの魔法の力を。しかもあんなに軽々と、成人男性を吹き飛ばしてしまうなんて。
彼のことを弱そうだなんて思っていたが、それは大きな間違いだった。
「君って本当はすっごく強いんだね! カッコよかったよ!」
真っ向から褒められた彼は、しっぽをピンと上に伸ばして頬を赤らめた。恥ずかしそうに軽く目をそらし、「そんなことないよ」なんて言うくせに、どこか満更でもない様子である。
「あ、そういえば」
操にはもう一つ、気になっていることがあったのだった。
それは今の甲洋の姿だ。彼はなぜか最初から青年の姿で現れた。本当ならキスをして、操から力を分けてもらわなければ変身できないはずなのに。
「ねぇ、キスしてないのに、どうして君は人間の姿になれてるの?」
すると彼はそらしていた目を泳がせて、「うっ」と呻いた。
「甲洋?」
「そ、それは……」
なにかを言いよどむ素振りのあと、甲洋は操から離れると、「ごめん」と言って頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「……本当は、キスなんか必要ないんだ」
それはどういうことかと、首をかしげてパチパチと瞬きをする。
甲洋はまるで観念したように、深く息を吐きだした。
「力を分けてもらうっていうのは、ただの口実。俺は自力で変身できる」
「え? そうなの?」
甲洋が渋々うなずいた。
現代にまともな魔法が使える純血のケット・シーはいない、という話は前に聞いた。強力な魔法が使えるのは、王様やごく一部の優秀なケット・シーだけだとも。
つまり彼は優秀なケット・シーだったのだ。だから怪我だって治療できるし、変身もできる。人間の男を軽く吹き飛ばすくらい、朝飯前だったのだ。
「どうして嘘なんかついてたの? それに口実って、なんの?」
「それは……その方がロマンチックだと思ったから……」
「キスで変身することが?」
「……ごめん」
例えば王子様のキスで解ける呪いだとか、目を覚ますお姫様だとか、彼が言う『ロマンチック』とは、そういうものを指しているのだろうか。
いまいちピンと来ないが、きっと甲洋はかなりのロマンチストなのだろう。赤い頬でうつむく様子の微笑ましさに、操は笑った。
「そんなに謝らなくてもいいよ。ぼくはちっとも気にしてないから」
本当はずっと隠しておくつもりでいたのだろうが、操のピンチに遭遇した彼は、とっさに変身せずにいられなかったのだ。その方が一緒に逃げるのに都合がいい。
甲洋らしいなと操は思う。感謝こそすれ、責める気なんか起こらない。
「……だって嫌だろ。キスなんて」
彼は頬だけでなく、首筋まで真っ赤にしていた。しっぽも耳も、可哀想なくらいしょんぼりとさせている。
操は「ぜんぜん」と言って、ケロリとしながら首を左右に振った。
「え?」
甲洋が目を見開いた。耳もピンと立ち、しっぽも跳ねる。だが、操が
「前にも言ったでしょ? クーともよくしてたって。だから君とするのも、ちっとも嫌じゃなかったよ!」
とにっこり笑いながら言うと、またすっかりしょげてしまった。
「……そうか」
肩を落とす甲洋の表情が、どこか切なそうに歪んで見えた。
なにか悪いことを言ってしまったのだろうか。気にする操をよそに、彼は逡巡している様子だった。その沈黙が、いやに重たい。
「……来主」
やがて甲洋はうつむけていた顔を上げ、真っ直ぐに操を見つめた。
「な、なに?」
「来主に、伝えたいことがある」
やけに真剣な眼差しに見つめられ、胸がドキリと大きく跳ねた。そのただならぬ様子に、彼がなにか重大な話をしようとしていることだけは伝わってくる。
辺りにピリピリとした緊張感が立ち込めて、操は思わず背筋を伸ばした。
「急にこんなことを言って、驚かせてしまうと思うけど」
「う、うん」
「……俺は、来主のことが──」
──ガサッ
「!?」
そのときだった。
すぐ側の草むらから物音がして、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「な、なんだろ? 今の音……野良猫でもいるのかな?」
話はすっかり遮られてしまったが、彼の意識が草むらに移ったことで、あのヒリヒリとした緊張感からは解放されたような気がした。
どこかホッとしがなら息を漏らし、甲洋を見上げる。すると彼は見たことがないくらい険しい目をして、草むらを睨みつけていた。音の方に向かって、こげ茶が混ざった黒い耳をピンと張り詰めている。
「甲洋……?」
「ごめん、来主。今日は帰るよ」
「え!? ちょっと、甲洋……!?」
駆けだした甲洋は猫の姿に戻ると、派手な音を立てて草むらに飛び込んだ。
取り残されてしまった操は、しばし茫然としながら立ち尽くすことしかできなかった。しかし落ち着くにつれ、徐々に不安が込み上げてくる。
もしさっきの物音を立てたのが、野良猫の仕業ではなかったとしたら?
(まさか、王様にバレちゃったんじゃ……?)
もし掟破りをしていることが知られれば、彼はどうなってしまうんだろう。まるで想像がつかなくて、ただ手足が急速に冷えていくのを感じた。黒い雲が忍び寄るように、ざわざわとした胸騒ぎがする。
「甲洋……」
両手でどんぐりを握りしめ、操はどうかこの嫌な予感が外れますようにと、強く願うことしかできなかった。
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