04
その夜──。
操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。
かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。
そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。
昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。
(もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!)
完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。
そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。
(そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね)
操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。
名付けて『のた坊主作戦』だ。
のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。
操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。
知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。
(……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ)
操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。
それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。
甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で──
(あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ)
店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。
だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。
そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。
「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」
甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。
「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」
藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。
*
慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。
明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。
「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」
ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。
けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。
するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。
くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。
「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」
操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。
「う゛……ッ!?」
駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。
「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」
とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。
どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。
(ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!)
衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。
「どこの子だ?」
「ッ!?」
振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。
それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。
「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」
ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。
「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」
「あ、おい! ちょっとっ……!」
上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。
残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。
「な、なんだ? あれ……」
「どうかした?」
騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。
「えーと……タヌキ、かな?」
「……ああ、あの子か」
裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。
*
操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。
口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。
だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。
(なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!)
人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。
甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。
「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」
操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。
これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。
(もう、どうだっていいや……)
耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。
←戻る ・ 次へ→
その夜──。
操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。
かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。
そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。
昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。
(もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!)
完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。
そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。
(そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね)
操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。
名付けて『のた坊主作戦』だ。
のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。
操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。
知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。
(……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ)
操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。
それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。
甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で──
(あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ)
店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。
だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。
そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。
「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」
甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。
「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」
藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。
*
慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。
明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。
「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」
ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。
けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。
するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。
くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。
「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」
操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。
「う゛……ッ!?」
駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。
「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」
とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。
どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。
(ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!)
衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。
「どこの子だ?」
「ッ!?」
振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。
それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。
「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」
ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。
「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」
「あ、おい! ちょっとっ……!」
上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。
残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。
「な、なんだ? あれ……」
「どうかした?」
騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。
「えーと……タヌキ、かな?」
「……ああ、あの子か」
裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。
*
操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。
口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。
だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。
(なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!)
人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。
甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。
「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」
操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。
これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。
(もう、どうだっていいや……)
耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。
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03
気持ちいいなぁと操は思った。
ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。
身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。
「ふぁ~、よく寝たぁ」
あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。
広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。
「ここどこぉ?」
見慣れない景色に首をかしげる。
操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。
「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」
どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。
急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。
あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても──
「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」
操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。
どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。
「嘘!? いつのまに!?」
操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。
(ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!)
まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。
寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。
しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。
(に、逃げなきゃ!)
明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。
パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。
「なにこれ……?」
それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。
もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。
「目が覚めた?」
「ッ……!?」
すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。
見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。
「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」
「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」
操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。
「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」
タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。
ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。
「リンゴ、もしかして嫌いだった?」
「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」
本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。
だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。
しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。
(っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?)
現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。
あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき――
『ワウッ! ワウワウッ!!』
主の危機を察知して、またあの犬が現れた。
「ひいぃっ!?」
操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。
肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。
震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。
「た、助かった……」
はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。
*
「お腹がすいて力がでない……」
人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。
真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。
こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。
茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。
「もう帰るしかないのかな」
勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。
「そんなのやだ……」
叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると──
「……ん?」
どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。
「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」
なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。
操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。
しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。
「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」
気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。
するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。
(わかった! ここはお店屋さんなんだ!)
どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。
カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。
(いいな……ぼくも食べたい……)
口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。
「よーし、こうなったら!」
操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!」
葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。
「ぼくってやっぱり天才だ!」
腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。
*
「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」
少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。
青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。
「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」
すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。
これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。
「へ?」
「足。具合は?」
人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。
思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。
「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」
「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」
「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」
「それがなに?」
操はとっさに何も返すことができなかった。
青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。
(すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ)
里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。
食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。
「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」
この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。
なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。
「……そう。ならよかった」
青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。
「それで? 注文は?」
ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。
「そうだった!」
慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。
操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。
「あれ! あれがいい!」
「一騎カレー?」
「そう! かずきかれー!」
あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。
「いいけど、お金は持ってるの?」
「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。
青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。
「残念だけど、これじゃなにも提供できない」
「え? なんで?」
「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」
「えぇ!?」
青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。
けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。
「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」
「駄目だ」
「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」
「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」
「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」
操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。
見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。
「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」
「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」
『ガウッ!!』
「ひょわ!?」
青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。
『ガウガウッ! ガウッ!!』
「わあぁっ……!? また出たぁ!」
慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。
「甲洋、どうかしたのか?」
カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。
『ウウゥゥ……ワウッ!!』
「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」
今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。
騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。
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気持ちいいなぁと操は思った。
ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。
身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。
「ふぁ~、よく寝たぁ」
あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。
広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。
「ここどこぉ?」
見慣れない景色に首をかしげる。
操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。
「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」
どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。
急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。
あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても──
「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」
操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。
どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。
「嘘!? いつのまに!?」
操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。
(ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!)
まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。
寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。
しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。
(に、逃げなきゃ!)
明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。
パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。
「なにこれ……?」
それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。
もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。
「目が覚めた?」
「ッ……!?」
すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。
見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。
「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」
「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」
操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。
「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」
タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。
ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。
「リンゴ、もしかして嫌いだった?」
「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」
本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。
だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。
しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。
(っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?)
現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。
あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき――
『ワウッ! ワウワウッ!!』
主の危機を察知して、またあの犬が現れた。
「ひいぃっ!?」
操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。
肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。
震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。
「た、助かった……」
はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。
*
「お腹がすいて力がでない……」
人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。
真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。
こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。
茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。
「もう帰るしかないのかな」
勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。
「そんなのやだ……」
叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると──
「……ん?」
どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。
「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」
なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。
操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。
しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。
「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」
気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。
するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。
(わかった! ここはお店屋さんなんだ!)
どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。
カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。
(いいな……ぼくも食べたい……)
口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。
「よーし、こうなったら!」
操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!」
葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。
「ぼくってやっぱり天才だ!」
腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。
*
「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」
少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。
青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。
「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」
すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。
これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。
「へ?」
「足。具合は?」
人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。
思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。
「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」
「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」
「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」
「それがなに?」
操はとっさに何も返すことができなかった。
青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。
(すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ)
里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。
食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。
「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」
この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。
なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。
「……そう。ならよかった」
青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。
「それで? 注文は?」
ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。
「そうだった!」
慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。
操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。
「あれ! あれがいい!」
「一騎カレー?」
「そう! かずきかれー!」
あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。
「いいけど、お金は持ってるの?」
「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。
青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。
「残念だけど、これじゃなにも提供できない」
「え? なんで?」
「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」
「えぇ!?」
青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。
けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。
「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」
「駄目だ」
「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」
「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」
「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」
操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。
見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。
「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」
「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」
『ガウッ!!』
「ひょわ!?」
青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。
『ガウガウッ! ガウッ!!』
「わあぁっ……!? また出たぁ!」
慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。
「甲洋、どうかしたのか?」
カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。
『ウウゥゥ……ワウッ!!』
「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」
今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。
騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。
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02
その翌日。
操は雑木林の中で一夜を明かし、再びあの青年が通るのを待ち構えていた。
しかし運良くまたここを通るとは限らない。こんなことなら昨日、後をつけて住処を調べておけばよかった──と後悔していると、なんと再び青年が現れた。
(やったぁ! 今日こそ絶対に成功してみせるぞ!)
操は青年が坂道をのぼるよりも先に、全速力で林を駆け抜けた。昨日は背後からだったが、今日は正面からの真っ向勝負だ。名付けて『小僧タヌキ作戦』である。
小僧タヌキとは、とある地方に古くから伝わる化け狸のことだ。その名のとおり小僧に化けて、通行人の行く手を妨げるというイタズラをする。
昨日に引き続き地味すぎる気もするが、操は青年の困った顔が見れさえすればそれでいいのだ。
坂と同じ傾斜の林をせっせとのぼり、操は昨日と同じ少年の姿に変化した。今日も一発で成功だ。そして青年が丁度いい位置にさしかかるタイミングで、林から飛びだした。目の前で両手を広げて、通せんぼする。
「へへー! ここは通さないよ!」
さぞかしビックリするだろうと思いきや、青年はピクリとも動じなかった。ただ無表情で、行く手を阻む操のドヤ顔を見つめるだけだ。
(あれ、なんか反応がイマイチだな……)
初めてまともにその顔を見たが、それにしても不健康そうだなと操は思った。肌も青白いし、全体的に覇気がない。夜道で遭遇したら、お化けと勘違いしかねない気がする。
今が昼間でよかったと思いつつ、操は気を取り直してふんぞり返った。
「困るでしょ! ここ通れないと困るでしょ!」
「……いや、別に」
「やったぁ! ぼくってやっぱり天才なのかも!」
都合が悪いことは聞こえていないことにした。今日は謎の犬も出てこない。あれはやっぱりただの気のせいだったのだろう。
操が上機嫌でいると、青年が脇を通り抜けようとした。当然、操も手を広げたまま移動する。右へ、左へ、そしてまた右。そろそろ怒るかなとドキドキしたが、彼はやっぱり表情を動かさない。ただ軽く首を傾げて、「どこの子?」と問いかけてくるだけだった。
「そんなの君には関係ないでしょ! とにかくここは通さないよ!」
「なんのために?」
「決まってるじゃん! 君を困らせたいからさ!」
「だからなんのために?」
「う、うるさいなぁ! っていうか君、その反応の薄さなんとかならないの!?」
もっと困るなり悔しがるなりしてもらわないと、こっちとしては手応えがない。
眉を吊り上げる操をじっと見つめていた青年は、やがて小さく息をつくと「ショコラ」と呟いた。その瞬間──
『ガウッ! ガウガウッ!!』
降って湧いたように、突然またあの黒い犬が激しく吠えながら姿を現した。
「ヒッ……──!?」
あまりにも驚きすぎて、まともに悲鳴すら上げられなかった。犬は青年の隣で姿勢を低くし、唸りながら今にも襲いかかってこようとしている。逆だった毛先から、くろぐろとした気が炎のように立ちのぼっていた。
操は真っ青になり、すっかり尻もちをついて震えあがった。
「な、なんなのこいつ!? どっから出てきたのぉ!?」
『ウゥゥゥ……ワウッ! ワウワウッ!!』
「ひええぇぇ……っ!!」
得意の狸寝入りをする余裕もなかった。さらに吠えられ、操は這うようにして一目散に林の茂みに飛び込んだ。その瞬間、変化が解けて元の姿に戻ってしまう。
茂みの中でガタガタと震えながら様子を窺うと、犬はこちらを向いていまだに威嚇を続けてる。
「もういいよ、ショコラ」
青年が声をかけ、片膝を地面についた。犬は落ち着きを取り戻し、青年の方を向くと嬉しそうにしっぽを振る。
「ありがとう」
そう言って微笑むと、青年が大きな手で犬の頭を優しく撫でる。操は怯えるのも忘れて、その横顔に見入ってしまった。
(……なんだよ、ぼくには無表情だったくせに。あんな顔して笑っちゃってさ)
猛烈な悔しさがこみ上げる。また失敗してしまった。一度ならず二度までも。
「ショコラ、行こう」
ぎりぎりタヌキの姿は見られていないと思うが、ここに操が隠れていることは明らかなのに、青年は目もくれずに歩きだす。その瞬間、犬は煙のように消えてしまった。
(見間違いじゃなかったんだ。でも、なんで?)
あの黒い犬が青年の守護霊であることは間違いない。しかし操が不思議でならないのは、犬が『男性』に憑いて守護しているということだった。
母系である犬は、本来なら『女性』を守る存在であるはずだ。男性に憑くのは珍しい。
操は以前、里のすぐ近くで犬神に会ったことがある。ディラン、というなにやらハイカラな名前の、男性の姿をした犬神だった。
彼は人間の巫女に仕えており、お使いのために山奥を訪れていた。そのとき知り合って仲良くなり、いろいろ教えてもらったのだ。だから少しは知識がある。
(なにか秘密があるのかも)
母系の犬に守護される、無表情で謎めいた青年に、操は興味を惹かれていた。彼を化かしてやりたいという野望も、もちろん捨てきれない。むしろそっちがメインである。
できれば早く里に帰りたいところだが、もう少しここで粘るしかなさそうだ。あの守護犬は厄介だが、狙った獲物を諦めるのは癪だった。
「よーし、次もがんば……イタッ!」
張り切って茂みから出ようとしたそのとき、右の足首に激痛が走って目を剥いた。さっき慌てて茂みに飛び込んだとき、ひねって痛めてしまったのだ。それどころじゃなくて気づくのが遅れたが、よく見れば右足首が腫れてズキズキしている。
「うぅ~、痛いよぉ……」
操はプルプルと震えてうずくまり、涙を浮かべながら途方に暮れた。
*
さらに翌日。
操はもはや人間に化け、坂のスタート地点にある電柱に背を預けながら、膝を抱えて座り込んでいた。
「足痛い……お腹すいた……」
右足首はさらに腫れてパンパンになっている。この二日間はそこらへんの木の実を食べて飢えをしのいでいたが、それもそろそろ限界だった。人間の生活圏ということもあり、ここは山の深部に比べて食べられるものの数も少ない。
足は痛いしお腹は減ったし、今にも心が折れそうだ。とりあえずは変化して青年を待ち伏せてはいるが、これといって作戦も浮かばない。ろくに食べていないせいで、脳がまともに機能していなかった。
「どうかした?」
涙目でうつむいていると、目の前に例の青年がたたずんで見下ろしていた。操は青年に恨みがましい瞳を向ける。
「……足が痛いの」
誰かさんのせいで、という言葉はひとまず飲み込む。青年は操の右足首の腫れに気づくと、ほんの少しだけ眉をしかめた。それは些細な表情の変化だったが、彼はまるで隠すように背中を向けるとしゃがみ込む。そして「ほら」と言った。
「え?」
「動けないんだろ? おぶってやるから」
「!」
青年の親切な申し出に、操は一瞬でピンと閃いた。
(ぼくをおんぶしてこの長い坂道をのぼったら、すっごく疲れて困っちゃうかも!)
日差しも強く、なかなかの猛暑日でもある。ひと一人を背負って坂道を登るなんて、まさに地獄でしかないはずだ。なにせ相手はひょろ長いだけのモヤシである。
操はこれを、『赤殿中(あかでんちゅう)作戦』と名付けた。赤殿中も古い言い伝えにある化け狸だ。赤い半纏を着た子供に化けて、人間にしつこくおんぶをねだる。操は自らねだったわけではないが、この状況を利用しない手はなかった。
「ほら、早く」
「いいの!? ありがとう!」
操は喜んで青年の背中に覆いかぶさり、首にぎゅっと抱きついた。彼は意外にも軽々と操を背負い、さっそうと坂道を登りはじめた。
「わー! 高い高い! 君ってけっこう力持ちだね!」
「暴れると落ちるよ」
「あはは! 風が顔に当たって気持ちいや!」
タヌキに比べて、人間の目線はとても高い。そのうえ長身に背負われて、操の目線はさらに高くなっている。つい楽しくて、すっかり目的を忘れてはしゃいでしまった。
「それで? どこまで行くの?」
その肩を叩いたりしながら喜んでいると、まったく疲れを感じさせない足取りで青年が問いかけてきた。
「んー、どこでもいいよ!」
「それじゃ困る」
「じゃあー、君んち!」
「俺んち?」
「うん! 君んちに行く!」
住処も突き止められて、一石二鳥だ。やっぱりぼくって天才かも、と操は思った。青年は特になにも答えず、淡々と歩き続けている。
やがて坂の中腹を過ぎた辺りで、操はひとつ欠伸をした。揺り籠に揺られているような心地よさが、疲れ切った身体に眠りを誘う。まぶたがどんどん落ちてきて、頭がゆらゆらと船をこぐ。
(背中おっきい……なんか、安心する……)
カクン、と落ちた頭を青年の首元にすっかり埋めて、操は眠りに落ちてしまった。
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その翌日。
操は雑木林の中で一夜を明かし、再びあの青年が通るのを待ち構えていた。
しかし運良くまたここを通るとは限らない。こんなことなら昨日、後をつけて住処を調べておけばよかった──と後悔していると、なんと再び青年が現れた。
(やったぁ! 今日こそ絶対に成功してみせるぞ!)
操は青年が坂道をのぼるよりも先に、全速力で林を駆け抜けた。昨日は背後からだったが、今日は正面からの真っ向勝負だ。名付けて『小僧タヌキ作戦』である。
小僧タヌキとは、とある地方に古くから伝わる化け狸のことだ。その名のとおり小僧に化けて、通行人の行く手を妨げるというイタズラをする。
昨日に引き続き地味すぎる気もするが、操は青年の困った顔が見れさえすればそれでいいのだ。
坂と同じ傾斜の林をせっせとのぼり、操は昨日と同じ少年の姿に変化した。今日も一発で成功だ。そして青年が丁度いい位置にさしかかるタイミングで、林から飛びだした。目の前で両手を広げて、通せんぼする。
「へへー! ここは通さないよ!」
さぞかしビックリするだろうと思いきや、青年はピクリとも動じなかった。ただ無表情で、行く手を阻む操のドヤ顔を見つめるだけだ。
(あれ、なんか反応がイマイチだな……)
初めてまともにその顔を見たが、それにしても不健康そうだなと操は思った。肌も青白いし、全体的に覇気がない。夜道で遭遇したら、お化けと勘違いしかねない気がする。
今が昼間でよかったと思いつつ、操は気を取り直してふんぞり返った。
「困るでしょ! ここ通れないと困るでしょ!」
「……いや、別に」
「やったぁ! ぼくってやっぱり天才なのかも!」
都合が悪いことは聞こえていないことにした。今日は謎の犬も出てこない。あれはやっぱりただの気のせいだったのだろう。
操が上機嫌でいると、青年が脇を通り抜けようとした。当然、操も手を広げたまま移動する。右へ、左へ、そしてまた右。そろそろ怒るかなとドキドキしたが、彼はやっぱり表情を動かさない。ただ軽く首を傾げて、「どこの子?」と問いかけてくるだけだった。
「そんなの君には関係ないでしょ! とにかくここは通さないよ!」
「なんのために?」
「決まってるじゃん! 君を困らせたいからさ!」
「だからなんのために?」
「う、うるさいなぁ! っていうか君、その反応の薄さなんとかならないの!?」
もっと困るなり悔しがるなりしてもらわないと、こっちとしては手応えがない。
眉を吊り上げる操をじっと見つめていた青年は、やがて小さく息をつくと「ショコラ」と呟いた。その瞬間──
『ガウッ! ガウガウッ!!』
降って湧いたように、突然またあの黒い犬が激しく吠えながら姿を現した。
「ヒッ……──!?」
あまりにも驚きすぎて、まともに悲鳴すら上げられなかった。犬は青年の隣で姿勢を低くし、唸りながら今にも襲いかかってこようとしている。逆だった毛先から、くろぐろとした気が炎のように立ちのぼっていた。
操は真っ青になり、すっかり尻もちをついて震えあがった。
「な、なんなのこいつ!? どっから出てきたのぉ!?」
『ウゥゥゥ……ワウッ! ワウワウッ!!』
「ひええぇぇ……っ!!」
得意の狸寝入りをする余裕もなかった。さらに吠えられ、操は這うようにして一目散に林の茂みに飛び込んだ。その瞬間、変化が解けて元の姿に戻ってしまう。
茂みの中でガタガタと震えながら様子を窺うと、犬はこちらを向いていまだに威嚇を続けてる。
「もういいよ、ショコラ」
青年が声をかけ、片膝を地面についた。犬は落ち着きを取り戻し、青年の方を向くと嬉しそうにしっぽを振る。
「ありがとう」
そう言って微笑むと、青年が大きな手で犬の頭を優しく撫でる。操は怯えるのも忘れて、その横顔に見入ってしまった。
(……なんだよ、ぼくには無表情だったくせに。あんな顔して笑っちゃってさ)
猛烈な悔しさがこみ上げる。また失敗してしまった。一度ならず二度までも。
「ショコラ、行こう」
ぎりぎりタヌキの姿は見られていないと思うが、ここに操が隠れていることは明らかなのに、青年は目もくれずに歩きだす。その瞬間、犬は煙のように消えてしまった。
(見間違いじゃなかったんだ。でも、なんで?)
あの黒い犬が青年の守護霊であることは間違いない。しかし操が不思議でならないのは、犬が『男性』に憑いて守護しているということだった。
母系である犬は、本来なら『女性』を守る存在であるはずだ。男性に憑くのは珍しい。
操は以前、里のすぐ近くで犬神に会ったことがある。ディラン、というなにやらハイカラな名前の、男性の姿をした犬神だった。
彼は人間の巫女に仕えており、お使いのために山奥を訪れていた。そのとき知り合って仲良くなり、いろいろ教えてもらったのだ。だから少しは知識がある。
(なにか秘密があるのかも)
母系の犬に守護される、無表情で謎めいた青年に、操は興味を惹かれていた。彼を化かしてやりたいという野望も、もちろん捨てきれない。むしろそっちがメインである。
できれば早く里に帰りたいところだが、もう少しここで粘るしかなさそうだ。あの守護犬は厄介だが、狙った獲物を諦めるのは癪だった。
「よーし、次もがんば……イタッ!」
張り切って茂みから出ようとしたそのとき、右の足首に激痛が走って目を剥いた。さっき慌てて茂みに飛び込んだとき、ひねって痛めてしまったのだ。それどころじゃなくて気づくのが遅れたが、よく見れば右足首が腫れてズキズキしている。
「うぅ~、痛いよぉ……」
操はプルプルと震えてうずくまり、涙を浮かべながら途方に暮れた。
*
さらに翌日。
操はもはや人間に化け、坂のスタート地点にある電柱に背を預けながら、膝を抱えて座り込んでいた。
「足痛い……お腹すいた……」
右足首はさらに腫れてパンパンになっている。この二日間はそこらへんの木の実を食べて飢えをしのいでいたが、それもそろそろ限界だった。人間の生活圏ということもあり、ここは山の深部に比べて食べられるものの数も少ない。
足は痛いしお腹は減ったし、今にも心が折れそうだ。とりあえずは変化して青年を待ち伏せてはいるが、これといって作戦も浮かばない。ろくに食べていないせいで、脳がまともに機能していなかった。
「どうかした?」
涙目でうつむいていると、目の前に例の青年がたたずんで見下ろしていた。操は青年に恨みがましい瞳を向ける。
「……足が痛いの」
誰かさんのせいで、という言葉はひとまず飲み込む。青年は操の右足首の腫れに気づくと、ほんの少しだけ眉をしかめた。それは些細な表情の変化だったが、彼はまるで隠すように背中を向けるとしゃがみ込む。そして「ほら」と言った。
「え?」
「動けないんだろ? おぶってやるから」
「!」
青年の親切な申し出に、操は一瞬でピンと閃いた。
(ぼくをおんぶしてこの長い坂道をのぼったら、すっごく疲れて困っちゃうかも!)
日差しも強く、なかなかの猛暑日でもある。ひと一人を背負って坂道を登るなんて、まさに地獄でしかないはずだ。なにせ相手はひょろ長いだけのモヤシである。
操はこれを、『赤殿中(あかでんちゅう)作戦』と名付けた。赤殿中も古い言い伝えにある化け狸だ。赤い半纏を着た子供に化けて、人間にしつこくおんぶをねだる。操は自らねだったわけではないが、この状況を利用しない手はなかった。
「ほら、早く」
「いいの!? ありがとう!」
操は喜んで青年の背中に覆いかぶさり、首にぎゅっと抱きついた。彼は意外にも軽々と操を背負い、さっそうと坂道を登りはじめた。
「わー! 高い高い! 君ってけっこう力持ちだね!」
「暴れると落ちるよ」
「あはは! 風が顔に当たって気持ちいや!」
タヌキに比べて、人間の目線はとても高い。そのうえ長身に背負われて、操の目線はさらに高くなっている。つい楽しくて、すっかり目的を忘れてはしゃいでしまった。
「それで? どこまで行くの?」
その肩を叩いたりしながら喜んでいると、まったく疲れを感じさせない足取りで青年が問いかけてきた。
「んー、どこでもいいよ!」
「それじゃ困る」
「じゃあー、君んち!」
「俺んち?」
「うん! 君んちに行く!」
住処も突き止められて、一石二鳥だ。やっぱりぼくって天才かも、と操は思った。青年は特になにも答えず、淡々と歩き続けている。
やがて坂の中腹を過ぎた辺りで、操はひとつ欠伸をした。揺り籠に揺られているような心地よさが、疲れ切った身体に眠りを誘う。まぶたがどんどん落ちてきて、頭がゆらゆらと船をこぐ。
(背中おっきい……なんか、安心する……)
カクン、と落ちた頭を青年の首元にすっかり埋めて、操は眠りに落ちてしまった。
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01
「もー! あったまきた! みんなしてぼくをバカにして!」
まん丸の小さな身体に、ふかふかの毛並みをした子だぬきが、山深い森の小道を全速力で駆けていた。先がまぁるく見える太いしっぽが、疾走する子だぬきの動きに合わせてポコポコと上下に揺れている。
彼はこの近くにあるタヌキの里に住む子だぬきだった。
その里には変化(へんげ)の術を得意とする化け狸たちが暮らしている。カテゴリー的には妖怪だ。現代ではすっかり数を減らしてしまったが、人間がそうそう踏み入ることのできない深い山奥に、ひっそりと身を寄せ合って生きている。
ちなみにすぐ近くには化け狐たちが暮らすキツネの村がある。タヌキとキツネは仲が悪いと思われがちだが、決してそんなことはない。昔はいがみ合っていたそうだが、今では数少ない化け仲間という認識で、それなりにうまく交流している。
話が逸れたが、なぜこの子だぬきがキレながら爆走しているかというと、それは彼の化け術の未熟さが原因だった。
他のタヌキたちは草木に化けたり、他の動物に化けたり、もちろん人間に化けることもできる。大昔には夜空のお月さまに化け、人間をからかっては遊んでいた猛者もいたと聞く。
しかしこの子だぬきは、化け術があまり得意ではなかった。人に化ければ顔だけタヌキのタヌキ人間に、木に化ければなぜかしっぽが生えたおかしな木に。必ずどこかしら身体の一部が残ってしまい、成功例がほとんどない。
だから里の悪ガキたちに、ポンコツと言われてバカにされてしまった。悔しかったら、人間の一人くらい化かしてみせろ、と。
「今に見てろよ! ぼくだってやればできるんだ!」
完全に煽り耐性0である。子だぬきはカンカンで、そのぐらい朝飯前だと啖呵を切ると里を飛びだした。なにがなんでもバカにしたやつらを見返してやりたい。成功するまで、絶対に里には戻らないと胸に誓った。
「操ー! ねぇ待ってぇー!」
すると後ろの方から、よく知る声が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
足を止めて振り返ると、耳の片方に花の飾りをつけたふわふわの子だぬきが、必死で走ってくる姿が見える。
「美羽、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ! 帰るよ、操!」
目の前で足をとめ、美羽はハァハァと少し苦しそうに息をしながら言った。
彼女は幼馴染で、大の仲良しの子だぬきだった。一匹で里を飛びだした操を心配して、追いかけてきたのだろう。けれど操は、そんな美羽にぷいっと顔を背けて見せた。
「やだね! ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないよ!」
「あんなの気にしちゃダメだよ。それに、人里におりたら怒られちゃう。美羽たちみたいなタヌキがいるって知られたら、人間が捕まえにくるかもしれないんだよ」
「そ、それは……」
「だから美羽たちは、里から出ちゃいけないの。真矢お姉ちゃんたちだって、いつも言ってるでしょ?」
それは小さなころから、口を酸っぱくして言われていることだった。
いま人里の近くに暮らすタヌキの多くは、化ける術を忘れてしまった普通の野生動物でしかない。タヌキたちが化かすことを忘れたように、現代に暮らす人々もまた、化かされていた頃の暮らしを覚えているものはほとんどいなくなっている。
だからもし操たちのような物の怪の存在が知れたら、人間たちは必ず興味本位で里を荒らしに来るだろう。
「それにほら……操ってちょっと、あれでしょ……?」
「あれってなに? はっきり言ってよ」
「だから……化けるの、ちょっと苦手でしょ……?」
「美羽までぼくをバカにした!」
「ち、ちがうってば! そうじゃなくってぇ!」
あたふたする美羽に、操は悔しくてますますへそを曲げた。泣きそうな目で睨むと、「もういいよ!」と言って全速力で再び駆けだす。
「ちょっと、操!?」
「ぼく絶対にうまくやってみせるから! そしたらちゃんと帰ってくるよ!」
「絶対ムリに決まってるでしょ!? もう! 操のバカぁー!!」
美羽の叫びが、ますますやる気に火がついた操の耳に届くことはなかった。
*
山をおりると、操は道沿いの雑木林に隠れて人間たちの世界を観察することにした。
もっとわんさか人や建物で溢れているのかと思ったら、そこは意外と自然豊かな場所だった。田んぼや畑も多くあり、人の行き来も極端に少ない。片田舎という言葉がぴったり当てはまるような、のどかな町並みが広がっている。
操はその中から、とある子供たちの一団に目をとめた。5、6人の少年少女たちが集まって、網で田んぼの用水路をガサガサしている。カエルやザリガニを捕まえて遊んでいるのだろう。ワイワイとはしゃぐ声が聞こえてくる。
(いいなぁ楽しそう……ぼくも一緒に遊んでみたいな……)
つい興味をひかれてしまったが、すぐに目的を思いだしてハッとした。操はこの人里に、遊びに来たわけでも友達を作りに来たわけでもないのだ。早く人間をあっと言わせて、里に帰って自慢しなければ。
手っ取り早くあの子供たちを化かしてやろうかと思ったが、そこでふと考えた。
(子供を化かすなんてヌルゲーすぎるよね。獲物はもっと大きくなくちゃ)
と、見栄を張ってターゲットを変えることにした。
操は獲物探しをしながら林の中を移動していく。すると反対側の道端に、タンクトップを着た角刈りのおじさんが歩いているのを発見した。
……ダメだ。なんか傭兵みたいな顔つきをしてるし、取って食われそうな気がする。
次に、エプロンをした白髪のおばあさんが散歩しているのを発見した。
……やっぱりダメだ。胸にそれぞれ『りな』『あきら』と書かれたバッチをつけた、小さな双子を連れている。ちびっ子を泣かせたら可哀想だし、なにより『おばあさん』というのがいけない。
操は里に伝わる昔話を思いだし、ブルッと身震いをした。
それはおばあさんを騙して殺害した悪いタヌキが、人間に味方するウサギによって成敗される物語だった。火傷を負ったり最後には溺れ死んだりと、悪ダヌキは悲惨な末路を遂げている。先に酷いことをしたのはタヌキの方だが、初めてその話を聞いたときは恐ろしくて眠れなかった。
悪いことをすれば、それ相応のバチが当たる。だから操は暴力や殺生は絶対にしないと決めていた。
どうしようかな、と引き続き道路沿いに伸びる林を進んでいると、道は長い坂道に差しかかった。
するとそこに、今まさに坂を登ろうとしている人間の姿を発見した。焦げ茶の髪を無造作に伸ばし、物憂げな横顔をした青年をひと目見た瞬間、操は「これだ!」と思った。
(あれなら弱そうだし、簡単に化かせそう!)
さっきのタンクトップおじさんと違い、ひょろりと痩せていて軟弱そうだ。それでも上背はなかなかのもので、獲物としては十分に立派なサイズである。
操は雑木林に生える太いクヌギの裏に身を隠し、落ちていた葉っぱを頭に乗せると目を閉じた。人間の姿をイメージしながら念じると、ポンッと煙をあげて変化する。
「やった! うまくいった!」
一発で成功したのは初めてだ。耳もしっぽも綺麗に消えて、操はどこからどう見ても人間の少年になっていた。歳は15、6歳といったところだろうか。ボタンがついた赤いシャツと、七分丈のパンツはカーキ色で、靴にはリボンのアクセントがついている。
さっきの子供たちの装いを参考に、なんとなくイメージしたものがいい感じに再現されていた。
「ぼくって実は天才かも!」
キャッキャと跳ねて喜んでいるうちに、青年はすでに坂道の中腹まで行っていた。操は道路に飛びだすと、青年の後を追いかけた。
足音を立てないように注意しながら、少しずつ距離をつめていく。
操の頭の中には、先代の化け狸にちなんだとある作戦が浮かんでいた。その名も『大かむろ作戦』だ。
大かむろとは、タヌキが化けたとされている巨大な顔だけの妖怪のことである。人を驚かせることが目的で、それ以上の悪さはしない。その妖怪に習って、ただただシンプルにワッと驚かせることにした。実に平和的なイタズラだ。
本当は姿もそっくり真似できればいいのだが、操にそこまで高度な技術はない。
(よーし、そろそろいいかな?)
十分に距離をつめたところで、ごくりと喉を鳴らす。近くで見ると、思っていたより背中が広い。ちょっと尻込みしそうになったが、ここまで来たらやるしかなかった。
操は緊張で胸をバクバクさせながら、心の中でカウントを開始する。
(1、2の、3──)
青年の背中をめがけて、ワッと声をあげようとしたそのときだった。
『ガウゥゥゥッ!!』
突如として目の前に真っ黒い犬が現れて、操に飛びかかってきた。まるで青年の背中から、ニュルッと這い出てきたように見えたのは目の錯覚だろうか。
とにかく操は息が止まるほど驚いて、思いっきり悲鳴をあげていた。
「うわあぁぁっ!?」
なにがなんだか分からないが、とにかくおしまいだ……食い殺される……! と、そう思ったとき、操は一瞬にして元の丸々としたタヌキの姿に戻っていた。そして、パタッと横向きに地面に倒れた。
「なに?」
その悲鳴に振り返った青年が、戸惑いの声をあげている。が、操はすっかり呼吸を止めて目を閉じているので、彼がどんな顔をしているかは分からない。これが古くから里に伝わる『狸寝入り』という名の秘技、死んだフリである。
「……タヌキ?」
青年が近づいてくる気配がする。操は震えそうになるのをぐっと堪えて、死にそうな気分で死んだフリに徹した。
(死んでる! ぼく死んでるから! 早くあっちに行ってよぉ!)
「死んではいないようだけど」
「(ギクッ)」
「こんなところで寝てたら、車にひかれるよ」
青年は小さく息をつき、ガチガチに身を固くするタヌキを抱き上げると林に入った。適当な木の根元に寝かせると、足音を遠のかせていく。
その気配が完全に消えてなくなると、操はドッと汗をかきながら起き上がった。
「ッ、はぁー! こ、怖かった! なに!? なんなのあの犬!? 狸寝入りしてなかったら、ぼく食べられちゃってたかもしれない!!」
操は心臓をバクバクさせながら、恐る恐る草むらから顔をだして坂道を覗き込んだ。青年の背が、もうずっと遠くに見える。しかし、黒い犬の姿はなかった。
「……どういうこと? なんかの見間違い?」
操はこてんと首を傾げる。しかし確かにこの目で見たはずだ。白い牙をむき出しにして、飛びかかってこようとする黒い犬の姿を。思いだすだけで身震いがする。
けれど青年は最初から一人だったはずだし、去っていく姿も一人きりだ。犬の姿なんかどこにもない。まるでキツネかタヌキに化かされたような気分である。
「ぼくが化かされてどうするんだよ!」
結局、あの犬がなんだったのかは分からない。なんにせよ、簡単だと思っていたミッションは失敗に終わってしまった。
青年の背中はすっかり見えなくなっている。それでもなお操は彼が消えていった方向を睨みつけ、ダンダンッと小さな足で地団駄を踏む。
「あの人間、ぜーったいに化かしてビックリさせてやるんだから!」
悔しさに涙ぐみながら、操は強く胸に誓った。
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「もー! あったまきた! みんなしてぼくをバカにして!」
まん丸の小さな身体に、ふかふかの毛並みをした子だぬきが、山深い森の小道を全速力で駆けていた。先がまぁるく見える太いしっぽが、疾走する子だぬきの動きに合わせてポコポコと上下に揺れている。
彼はこの近くにあるタヌキの里に住む子だぬきだった。
その里には変化(へんげ)の術を得意とする化け狸たちが暮らしている。カテゴリー的には妖怪だ。現代ではすっかり数を減らしてしまったが、人間がそうそう踏み入ることのできない深い山奥に、ひっそりと身を寄せ合って生きている。
ちなみにすぐ近くには化け狐たちが暮らすキツネの村がある。タヌキとキツネは仲が悪いと思われがちだが、決してそんなことはない。昔はいがみ合っていたそうだが、今では数少ない化け仲間という認識で、それなりにうまく交流している。
話が逸れたが、なぜこの子だぬきがキレながら爆走しているかというと、それは彼の化け術の未熟さが原因だった。
他のタヌキたちは草木に化けたり、他の動物に化けたり、もちろん人間に化けることもできる。大昔には夜空のお月さまに化け、人間をからかっては遊んでいた猛者もいたと聞く。
しかしこの子だぬきは、化け術があまり得意ではなかった。人に化ければ顔だけタヌキのタヌキ人間に、木に化ければなぜかしっぽが生えたおかしな木に。必ずどこかしら身体の一部が残ってしまい、成功例がほとんどない。
だから里の悪ガキたちに、ポンコツと言われてバカにされてしまった。悔しかったら、人間の一人くらい化かしてみせろ、と。
「今に見てろよ! ぼくだってやればできるんだ!」
完全に煽り耐性0である。子だぬきはカンカンで、そのぐらい朝飯前だと啖呵を切ると里を飛びだした。なにがなんでもバカにしたやつらを見返してやりたい。成功するまで、絶対に里には戻らないと胸に誓った。
「操ー! ねぇ待ってぇー!」
すると後ろの方から、よく知る声が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
足を止めて振り返ると、耳の片方に花の飾りをつけたふわふわの子だぬきが、必死で走ってくる姿が見える。
「美羽、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ! 帰るよ、操!」
目の前で足をとめ、美羽はハァハァと少し苦しそうに息をしながら言った。
彼女は幼馴染で、大の仲良しの子だぬきだった。一匹で里を飛びだした操を心配して、追いかけてきたのだろう。けれど操は、そんな美羽にぷいっと顔を背けて見せた。
「やだね! ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないよ!」
「あんなの気にしちゃダメだよ。それに、人里におりたら怒られちゃう。美羽たちみたいなタヌキがいるって知られたら、人間が捕まえにくるかもしれないんだよ」
「そ、それは……」
「だから美羽たちは、里から出ちゃいけないの。真矢お姉ちゃんたちだって、いつも言ってるでしょ?」
それは小さなころから、口を酸っぱくして言われていることだった。
いま人里の近くに暮らすタヌキの多くは、化ける術を忘れてしまった普通の野生動物でしかない。タヌキたちが化かすことを忘れたように、現代に暮らす人々もまた、化かされていた頃の暮らしを覚えているものはほとんどいなくなっている。
だからもし操たちのような物の怪の存在が知れたら、人間たちは必ず興味本位で里を荒らしに来るだろう。
「それにほら……操ってちょっと、あれでしょ……?」
「あれってなに? はっきり言ってよ」
「だから……化けるの、ちょっと苦手でしょ……?」
「美羽までぼくをバカにした!」
「ち、ちがうってば! そうじゃなくってぇ!」
あたふたする美羽に、操は悔しくてますますへそを曲げた。泣きそうな目で睨むと、「もういいよ!」と言って全速力で再び駆けだす。
「ちょっと、操!?」
「ぼく絶対にうまくやってみせるから! そしたらちゃんと帰ってくるよ!」
「絶対ムリに決まってるでしょ!? もう! 操のバカぁー!!」
美羽の叫びが、ますますやる気に火がついた操の耳に届くことはなかった。
*
山をおりると、操は道沿いの雑木林に隠れて人間たちの世界を観察することにした。
もっとわんさか人や建物で溢れているのかと思ったら、そこは意外と自然豊かな場所だった。田んぼや畑も多くあり、人の行き来も極端に少ない。片田舎という言葉がぴったり当てはまるような、のどかな町並みが広がっている。
操はその中から、とある子供たちの一団に目をとめた。5、6人の少年少女たちが集まって、網で田んぼの用水路をガサガサしている。カエルやザリガニを捕まえて遊んでいるのだろう。ワイワイとはしゃぐ声が聞こえてくる。
(いいなぁ楽しそう……ぼくも一緒に遊んでみたいな……)
つい興味をひかれてしまったが、すぐに目的を思いだしてハッとした。操はこの人里に、遊びに来たわけでも友達を作りに来たわけでもないのだ。早く人間をあっと言わせて、里に帰って自慢しなければ。
手っ取り早くあの子供たちを化かしてやろうかと思ったが、そこでふと考えた。
(子供を化かすなんてヌルゲーすぎるよね。獲物はもっと大きくなくちゃ)
と、見栄を張ってターゲットを変えることにした。
操は獲物探しをしながら林の中を移動していく。すると反対側の道端に、タンクトップを着た角刈りのおじさんが歩いているのを発見した。
……ダメだ。なんか傭兵みたいな顔つきをしてるし、取って食われそうな気がする。
次に、エプロンをした白髪のおばあさんが散歩しているのを発見した。
……やっぱりダメだ。胸にそれぞれ『りな』『あきら』と書かれたバッチをつけた、小さな双子を連れている。ちびっ子を泣かせたら可哀想だし、なにより『おばあさん』というのがいけない。
操は里に伝わる昔話を思いだし、ブルッと身震いをした。
それはおばあさんを騙して殺害した悪いタヌキが、人間に味方するウサギによって成敗される物語だった。火傷を負ったり最後には溺れ死んだりと、悪ダヌキは悲惨な末路を遂げている。先に酷いことをしたのはタヌキの方だが、初めてその話を聞いたときは恐ろしくて眠れなかった。
悪いことをすれば、それ相応のバチが当たる。だから操は暴力や殺生は絶対にしないと決めていた。
どうしようかな、と引き続き道路沿いに伸びる林を進んでいると、道は長い坂道に差しかかった。
するとそこに、今まさに坂を登ろうとしている人間の姿を発見した。焦げ茶の髪を無造作に伸ばし、物憂げな横顔をした青年をひと目見た瞬間、操は「これだ!」と思った。
(あれなら弱そうだし、簡単に化かせそう!)
さっきのタンクトップおじさんと違い、ひょろりと痩せていて軟弱そうだ。それでも上背はなかなかのもので、獲物としては十分に立派なサイズである。
操は雑木林に生える太いクヌギの裏に身を隠し、落ちていた葉っぱを頭に乗せると目を閉じた。人間の姿をイメージしながら念じると、ポンッと煙をあげて変化する。
「やった! うまくいった!」
一発で成功したのは初めてだ。耳もしっぽも綺麗に消えて、操はどこからどう見ても人間の少年になっていた。歳は15、6歳といったところだろうか。ボタンがついた赤いシャツと、七分丈のパンツはカーキ色で、靴にはリボンのアクセントがついている。
さっきの子供たちの装いを参考に、なんとなくイメージしたものがいい感じに再現されていた。
「ぼくって実は天才かも!」
キャッキャと跳ねて喜んでいるうちに、青年はすでに坂道の中腹まで行っていた。操は道路に飛びだすと、青年の後を追いかけた。
足音を立てないように注意しながら、少しずつ距離をつめていく。
操の頭の中には、先代の化け狸にちなんだとある作戦が浮かんでいた。その名も『大かむろ作戦』だ。
大かむろとは、タヌキが化けたとされている巨大な顔だけの妖怪のことである。人を驚かせることが目的で、それ以上の悪さはしない。その妖怪に習って、ただただシンプルにワッと驚かせることにした。実に平和的なイタズラだ。
本当は姿もそっくり真似できればいいのだが、操にそこまで高度な技術はない。
(よーし、そろそろいいかな?)
十分に距離をつめたところで、ごくりと喉を鳴らす。近くで見ると、思っていたより背中が広い。ちょっと尻込みしそうになったが、ここまで来たらやるしかなかった。
操は緊張で胸をバクバクさせながら、心の中でカウントを開始する。
(1、2の、3──)
青年の背中をめがけて、ワッと声をあげようとしたそのときだった。
『ガウゥゥゥッ!!』
突如として目の前に真っ黒い犬が現れて、操に飛びかかってきた。まるで青年の背中から、ニュルッと這い出てきたように見えたのは目の錯覚だろうか。
とにかく操は息が止まるほど驚いて、思いっきり悲鳴をあげていた。
「うわあぁぁっ!?」
なにがなんだか分からないが、とにかくおしまいだ……食い殺される……! と、そう思ったとき、操は一瞬にして元の丸々としたタヌキの姿に戻っていた。そして、パタッと横向きに地面に倒れた。
「なに?」
その悲鳴に振り返った青年が、戸惑いの声をあげている。が、操はすっかり呼吸を止めて目を閉じているので、彼がどんな顔をしているかは分からない。これが古くから里に伝わる『狸寝入り』という名の秘技、死んだフリである。
「……タヌキ?」
青年が近づいてくる気配がする。操は震えそうになるのをぐっと堪えて、死にそうな気分で死んだフリに徹した。
(死んでる! ぼく死んでるから! 早くあっちに行ってよぉ!)
「死んではいないようだけど」
「(ギクッ)」
「こんなところで寝てたら、車にひかれるよ」
青年は小さく息をつき、ガチガチに身を固くするタヌキを抱き上げると林に入った。適当な木の根元に寝かせると、足音を遠のかせていく。
その気配が完全に消えてなくなると、操はドッと汗をかきながら起き上がった。
「ッ、はぁー! こ、怖かった! なに!? なんなのあの犬!? 狸寝入りしてなかったら、ぼく食べられちゃってたかもしれない!!」
操は心臓をバクバクさせながら、恐る恐る草むらから顔をだして坂道を覗き込んだ。青年の背が、もうずっと遠くに見える。しかし、黒い犬の姿はなかった。
「……どういうこと? なんかの見間違い?」
操はこてんと首を傾げる。しかし確かにこの目で見たはずだ。白い牙をむき出しにして、飛びかかってこようとする黒い犬の姿を。思いだすだけで身震いがする。
けれど青年は最初から一人だったはずだし、去っていく姿も一人きりだ。犬の姿なんかどこにもない。まるでキツネかタヌキに化かされたような気分である。
「ぼくが化かされてどうするんだよ!」
結局、あの犬がなんだったのかは分からない。なんにせよ、簡単だと思っていたミッションは失敗に終わってしまった。
青年の背中はすっかり見えなくなっている。それでもなお操は彼が消えていった方向を睨みつけ、ダンダンッと小さな足で地団駄を踏む。
「あの人間、ぜーったいに化かしてビックリさせてやるんだから!」
悔しさに涙ぐみながら、操は強く胸に誓った。
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【にゃんたまωチャレンジ(R18)】
(鈴カステラみたいだなぁ……)
くてん、と横倒しで寝転がるコーヒーのお尻を見て、操は鈴のようにコロコロとした焼き菓子を思い浮かべていた。ふっくらしていて齧ると弾力があり、ほろりと口の中で優しくほどける、まぁるいカステラ。
それと瓜二つのものが、コーヒーの股にぷくっと生息している。まんまるのフォルムとふわふわの被毛に覆われた球体、猫のふぐり──通称『にゃんたま』だ。
(コーヒーのにゃんたま、触ってぷにぷにしたいなぁ……)
食べちゃいたいくらい可愛いとは、まさにこのことだ。思わずうっとりとした息が漏れるほど、オス猫のふぐりは猫好きの心を魅了する。
しかし調子に乗って触りすぎると、角のようなナニかがニョキッと「こんにちは」する場合がある──あるいはめちゃくちゃ怒られる──ため、取り扱いには注意が必要だ。あくまでも性器であるということを忘れてはいけない。
(でも、ちょっとツンツンするくらいなら許されるよね)
にゃんたまの誘惑に抗えなくなった操は、コーヒーに向かって四つん這いでにじり寄った。いつものように窓枠を引っ掻いて遊びに来た彼は、おやつを食べたあと満足して寝そべっている。
操は土下座するように体勢を低くして、至近距離から彼のふぐりをじっくり眺めた。身体は長毛に覆われているが、まん丸のそれは短い毛に包まれている。まるでヒヨコの産毛のようだ。
(わあぁ、可愛い! こんなの我慢できないよ……!)
たまらない気持ちになりながら、右手の人差し指をそっとふぐりに近づけた。しかし今にも触れようとしたところで、コーヒーが顔をあげて背後を振り向く。危険を察知したのだろうか。操はその警戒を解くようにニッコリ笑いかけると、軽くふぐりをつっついた。丸々とした球体が、はずみでぷりんっと揺れ動く。
「ッ!?」
「ふわあぁ思った通りぷりぷりだぁー! 可愛いー!!」
「フ、フギャーッ!!」
さらにつっつこうとした矢先、悲鳴をあげたコーヒーが飛び上がって逃げだした。彼が走ると、にゃんたまも一緒にぽよぽよ跳ねる。逃がすものかと、操はすかさず四つん這いのまま追いかけた。
「待ってコーヒー! お願いだから、にゃんたまもっとぷりぷりさせて!」
「いにゃぁーっ!」
まるで「いや!」と叫んでいるかのようだ。しかしすぐに部屋の隅に追いつめられたコーヒーは、しっぽを内側に丸めながらプルプルと身を震わせた。耳もペタリと寝てしまっている。もし彼が人間だったなら、今ごろ青ざめて引きつった表情をしているに違いない。
「はぁ、はぁ……いい子だねコーヒー……ほら、にゃんたまもいい子いい子してあげるから……」
操は取り憑かれたように息を荒げ、よだれを垂らしそうなほど恍惚とした表情で両手をわきわきと蠢かせる。どこからどう見ても不審者にしか見えない。これがにゃんたまに狂わされた人間の末路だ。
見開かれたビー玉のような瞳が、恐怖と絶望に見開かれている。
「にゃッ、にゃヒィィィ……ッ!!」
学生寮の一室に、コーヒーの悲痛な叫びが響き渡った──
……。
…………。
「ふふっ、うふふ……ぷりぷりだぁ……あったかぁい……」
温かな感触に頬ずりをして、右手でそこにあるものを揉みしだく。強く握りすぎないように、優しくゆっくり慎重に。するとにゃんたまは操の手のなかで熱を持ち、どんどん育って手に余るほど大きくなった。
「コーヒーのにゃんたまは立派だね……なんか、人間のおちんちんみた……い……? んぁ……?」
違和感を覚え、閉じていた目をぱっちり見開く。幾度かまばたきをしたあと、操は自分が夢を見ていたことに気がついた。
「あれぇ? なぁんだ、夢かぁ」
ここは学生寮ではなく、実家の自室にあるベッドの上だ。カーテン越しにうっすらと朝の光が差し込み、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
あと少しでふわふわのにゃんたまを堪能できたはずなのに──と残念な気持ちになったが、操は夢の続きを知っている。なにせあれは、過去に実際あった出来事なのだ。あのあと激しく抵抗されて、結局は逃げられてしまったのだった。
「懐かしいなぁ。あの頃は甲洋のこと、普通の猫だと思ってたっけ」
まだほんの数ヶ月前の出来事だが、ずいぶん昔のことのように感じる。現在の甲洋は猫の姿に戻れなくなってしまったため、二度と可愛いにゃんたまを拝むことはできない。最後に思いっきりツンツンしてみたかった、という叶わぬ願いが、夢となって現れたのだろうか。
はぁ、とため息をつきながら、操は右手で触れているものをモミモミする。
「今じゃこんなだもんな。これもこれで好きだけど……ん?」
そういえばさっきから自分が触っているこれは、一体なんだろう。やたらと熱くて、肉感的で、不思議とよく手に馴染む。疑問に思いながらもさらにモミモミすると、頭上から「うーん……」という苦しげなうめき声が聞こえてきた。
「……え?」
そこでようやく、自分が今どんな体勢でいるかに気がついた。横向きで身体を丸めているが、問題はそのポジションだ。操は仰向けで寝ている甲洋の股間に頬を擦りつけ、右手で思いっきりブツに触れていた。
そりゃあよく手に馴染むはずだ。操はこれにしょっちゅう触れているし、大きさは違えど、自分だって同じものを持っているのだから。
「わっ、ごめん甲洋!」
うーんうーんと苦しそうに唸っている甲洋の上から、操は慌てて半身を起こした。にゃんたまを求めるあまり、寝ながらにして寝込みを襲う状態になっていたらしい。スウェットの上からではあるものの、頬ずりしたりモミモミしたり、ずいぶん刺激してしまったようだ。
しかし彼はよほど深く眠っているのか、目を覚ます気配がない。だが中心はテントが張ったようになっており、心なしかその表情は苦しげだ。
(わぁ、すっかり元気になっちゃってる。これってぼくのせいだよね……?)
操は右手の人差し指で、ツンっと盛り上がるテントをつついてみた。すると甲洋がピクンと震え、「んっ」とかすかに声をあげる。さすがに起きるかと思ったが、彼は深く息を漏らしただけで眠ったままだ。
しかし何か夢でも見ているのか、長いしっぽがパタンパタンとシーツを叩いている。そしてむにゃむにゃと口を動かしはじめた。
「ダメだ、来主……そこは触っちゃ、ダメなんだ……」
「え?」
「にゃんたまは……オモチャじゃ、ない……」
「!」
そこでピンと来てしまった。もしや彼も、同じ夢を見ているのではないかと。
夢の中の甲洋は、迫りくる魔の手から必死で逃げ惑っているのだろう。自分で言うのも何だが、あのときの操はにゃんたまに狂った変質者も同然だった。
彼はしきりに「やめて」とか「頼むから」などと口走り、うんうん唸っている。額に汗も滲んでいるし、これではさすがに気の毒だ。
「ごめんね甲洋。ぼくのせいで……それにこっちも……」
股間の膨らみも相変わらずで、元気に布を押し上げている。こっちもこっちでかなり苦しそうだ。軽く触れてさすってやると、「うぅ」というくぐもった声が聞こえてくる。
「大変だ。ちゃんと責任とらないと。待ってて甲洋、いま楽にしてあげるから!」
確か母は朝早くから仕事があると言っていた。時刻は8時を回っているし、すでに家を出ているだろう。
実家暮らしのセックスは、何かと気を使うのだ。いつもうまいことタイミングを見計らい、バレないように注意を払っているが、今ならいっさい遠慮はいらない。
操は甲洋のシャツを軽くめくって、ウエスト部分に手をかけた。少し下にズラしただけで、立派に勃起した男性器が弾むように姿を現す。
元気に脈打つそれを見て、思わずこくんと喉を鳴らした。ふわふわのにゃんたまは可愛いだけだが、今の甲洋のにゃんたまは生々しくてとにかく卑猥だ。
ふわりと立ち込める性の香りに、腹の奥がキュンとうずいてくる。
「おっきくなったおちんちん、朝から見るの初めてだ。こんなのがいつもぼくのお尻に挿ってるなんて、なんか凄いや」
操は右手を肉棒の根元に添え、左手で髪を耳にかけながら顔を近づけた。躊躇いなく先端にキスをすると、甲洋が小さくうめいて腰を揺らす。それに合わせてピクピクと性器が跳ねて、先端から先走りを滲ませる。キスをするたび、どんどん硬さが増して反り返っていくようだった。
(甲洋のにゃんたま、やっぱり可愛い……)
高揚する気持ちと一緒に、愛おしさが膨らんでいく。ぜんぜん可愛くない形をしているはずなのに、どうしてこんなに可愛いんだろう。
両手を竿に添えると、操は「いただきます」と言って膨らんだ先端をぱっくりと口に咥え込んだ。
*
「……ッ、え!?」
意識が覚醒した途端、甲洋は頭が真っ白になるのを感じた。
ギシギシとベッドが軋む音。なぜか剥き出しになっている下半身と、それにまたがって腰を振る操の姿。彼もまたシャツだけの姿で、下には何もまとっていない。
「あぁッ、ん……っ、あ、こよ、アッアッ、おき、たぁ……?」
「く、くる……来主、ッ、な、なに? なにして……?」
「なにってぇ、んあぁっ、ぁっ、……責任、とってるのぉ……」
「はぁ!?」
甲洋の腹に手をついて、操が激しく上下に腰を振りたくっている。結合部から響く水音が、朝の室内にあまりにも不釣り合いなBGMになっていた。
(なんだこれ……一体どうなってるんだ……!?)
夢の続きでも見ているのだろうか。いや、それにしては飛躍しすぎている。今の今まで甲洋が見ていた夢は、過去に実際に起こった出来事を再現したものだった。
執拗ににゃんたまを狙う操と、必死で逃げ惑う自分。もう駄目だと思った矢先、目が覚めて助かったと思ったらこの有様だ。混乱しない方がおかしい。
「くっ、来主! 待って、まっ、うァッ……!」
操がバツンと腰を落とすと、熱く濡れた肉壁に性器がキツく締めつけられる。脳天まで響くような快感に、甲洋は目を白黒させながらも歯を食いしばった。起き抜けにこの刺激はいささか強すぎる。
「こよっ、勃起しちゃったの……っ、ぼくのッ、あっ、せい、だからぁ……んッ、ぼくがっ、なんとかしてあげないと……っ、ぁッ……奥、奥あたる……ッ!」
すっかり蕩けたようになっている操が、全体重をかけて深くまで甲洋を飲み込んだ。そのまま腹の奥をゴリゴリと刺激するように、腰を前後に揺すりはじめる。細い腰が柔軟に蠢くさまは、目を剥くほどに卑猥な光景だった。
できればもう少し詳しく状況を説明してほしいところだが、ここはいったん彼の好きにさせるしかなさそうだ。というより、甲洋自身も荒波のような快感に飲まれて、それどころではなくなっている。
「こよ、は……っ、寝てて、いいからねっ……、ぼくが、全部、するから……!」
「あっ、ぅ……ッ、くる、す……!」
「はぁっ、ぁん、ぁ……ッ、きもち、ぃ……ッ、こよのにゃんたま、ビクビクしてて、あっついの……ッ、これ好きっ、好きなのぉ……っ」
彼が好き勝手に腰を揺するたび、濃桃に色づく性器もぷるぷると跳ねて蜜を撒き散らす。薄い胸では膨らんだ二つの粒が、Tシャツの薄い生地を押し上げて存在を主張していた。
こんなものを見せつけられて、ただ寝ているなんて無理な話だ。苛立ちにも似たチリチリとした激情に、甲洋はほとんど無意識のうちに舌打ちしていた。
「来主……ッ!」
「ッ、え? あっ、だ、ダメ! ひぃっ、あッ、あぁぁ……ッ!」
浅くくびれた細腰を両手でガッチリ掴み上げると、甲洋は大きく腰を突き上げた。自由奔放に快感を貪っていた操が、目をひん剥いて悲鳴をあげる。
「やだやだッ、あっ、アッ……! ぼくがするのぉっ! 甲洋のにゃんたま、いい子いい子してあげるんだぁっ!」
「逆に来主は悪い子だね。寝込みを襲うなんて、さっ」
「ゃ、ぅあぁ……ッ!? アッ、ぁ、あぁ──……ッ!!」
両膝をゆるく立てると、ベッドのスプリングの力も借りてさらに激しく突き上げた。すると甲洋の上で弓なりに背を反らした操が、ビクビクッと大きく身を震わせて射精する。
甲洋をイカせるまではと、おそらくずっと我慢していたのだろう。自分で動きたがったのも、快感をコントロールするためだったのだ。しかし強制的に絶頂させられた彼は、途方に暮れたように口をぽっかり開けて痙攣している。
「ぁー、……ッ、ぁ、あぁ、ァ……」
力尽きて後ろへ倒れていこうとする身体を、腕を掴んで引き寄せる。くったりと胸に落ちてきた操は、肩で息をしながらグスンと鼻をすすった。
「ぅ……ダメなのに、イッちゃった……」
「ダメじゃないから」
思わず苦笑して、腕の中の身体を抱きしめると頭を撫でる。ほんのり汗ばんだ髪に頬ずりをして、コロコロと小さく喉を鳴らした。
やがて息が整ってきた操が、わずかに伸び上がって甲洋の鼻先にキスをする。
「甲洋、まだイッてないでしょ。ぼく、まだがんばれるよ」
「そう?」
「うん! ちゃんと責任とるからね!」
「責任って、なんの?」
確かさっきも、甲洋が勃起したのはぼくのせいだ、とかなんとか言っていたような。自分が眠っているあいだに、一体なにが起こっていたというのだろうか。
「それはね──」
操から簡単に経緯を聞いて、甲洋はようやく納得することができた。過去の夢を見たのも、彼に股間を刺激されたことで記憶を掘り起こされたからだったのかもしれない。
「あのときはごめんね甲洋。ぼく、どうしてもにゃんたまぷりぷりしたくって……怖がらせちゃったよね……」
「いや、まぁ……うん。怖かったというか、なんというか……」
まだ正体を明かす前だったが、あの頃すでに甲洋は操に恋をしていた。好きな子に大事な場所を触られたら、どうなってしまうかなんて分かりきっている。
にゃんたまは確かに愛らしい形状をしているかもしれないが、刺激されると出てきてしまうのだ。エグめの本体が、ニョキニョキと。そんな痴態を見せてなるものかと、あのときの甲洋は必死だった。
しかしその出来事があったからこそ、この衝撃的な朝があるのだと思うと感慨深い。おかげでいい思い出として昇華できそうだ。
「俺は気にしてないから。責任なんて感じなくていいよ」
「でもさ、今のこれは……やっぱりぼくのせいじゃない?」
「あッ、ちょ……っ!」
イタズラっ子のように笑った操が、きゅうっと尻に力を込めて締めつけてきた。電流のような快感が、尖った耳から長いしっぽの先まで駆け抜ける。ただでさえ達する手前で打ち止められていたのだ。涼しい顔をして装っていたが、実はまったくもって余裕がない。甲洋はお手上げだとばかりに大きく息を漏らした。
「じゃあ、遠慮なくお願いしようかな」
「えへへー、任せてよ!」
確かに、この責任はしっかり取ってもらう必要がありそうだ。猫としての生き方を捨ててしまうくらい、夢中にさせてくれたのだから。
「好きだよ、来主」
蕩けたように目を細め、鼻と鼻をコツンと合わせる。
操はもともと赤かった頬をいっそう赤らめると、砂糖を溶かしたように甘ったるい笑みを浮かべて、「ぼくも!」と言った。
にゃんたまωチャレンジ / 了
←戻る ・ Wavebox👏
(鈴カステラみたいだなぁ……)
くてん、と横倒しで寝転がるコーヒーのお尻を見て、操は鈴のようにコロコロとした焼き菓子を思い浮かべていた。ふっくらしていて齧ると弾力があり、ほろりと口の中で優しくほどける、まぁるいカステラ。
それと瓜二つのものが、コーヒーの股にぷくっと生息している。まんまるのフォルムとふわふわの被毛に覆われた球体、猫のふぐり──通称『にゃんたま』だ。
(コーヒーのにゃんたま、触ってぷにぷにしたいなぁ……)
食べちゃいたいくらい可愛いとは、まさにこのことだ。思わずうっとりとした息が漏れるほど、オス猫のふぐりは猫好きの心を魅了する。
しかし調子に乗って触りすぎると、角のようなナニかがニョキッと「こんにちは」する場合がある──あるいはめちゃくちゃ怒られる──ため、取り扱いには注意が必要だ。あくまでも性器であるということを忘れてはいけない。
(でも、ちょっとツンツンするくらいなら許されるよね)
にゃんたまの誘惑に抗えなくなった操は、コーヒーに向かって四つん這いでにじり寄った。いつものように窓枠を引っ掻いて遊びに来た彼は、おやつを食べたあと満足して寝そべっている。
操は土下座するように体勢を低くして、至近距離から彼のふぐりをじっくり眺めた。身体は長毛に覆われているが、まん丸のそれは短い毛に包まれている。まるでヒヨコの産毛のようだ。
(わあぁ、可愛い! こんなの我慢できないよ……!)
たまらない気持ちになりながら、右手の人差し指をそっとふぐりに近づけた。しかし今にも触れようとしたところで、コーヒーが顔をあげて背後を振り向く。危険を察知したのだろうか。操はその警戒を解くようにニッコリ笑いかけると、軽くふぐりをつっついた。丸々とした球体が、はずみでぷりんっと揺れ動く。
「ッ!?」
「ふわあぁ思った通りぷりぷりだぁー! 可愛いー!!」
「フ、フギャーッ!!」
さらにつっつこうとした矢先、悲鳴をあげたコーヒーが飛び上がって逃げだした。彼が走ると、にゃんたまも一緒にぽよぽよ跳ねる。逃がすものかと、操はすかさず四つん這いのまま追いかけた。
「待ってコーヒー! お願いだから、にゃんたまもっとぷりぷりさせて!」
「いにゃぁーっ!」
まるで「いや!」と叫んでいるかのようだ。しかしすぐに部屋の隅に追いつめられたコーヒーは、しっぽを内側に丸めながらプルプルと身を震わせた。耳もペタリと寝てしまっている。もし彼が人間だったなら、今ごろ青ざめて引きつった表情をしているに違いない。
「はぁ、はぁ……いい子だねコーヒー……ほら、にゃんたまもいい子いい子してあげるから……」
操は取り憑かれたように息を荒げ、よだれを垂らしそうなほど恍惚とした表情で両手をわきわきと蠢かせる。どこからどう見ても不審者にしか見えない。これがにゃんたまに狂わされた人間の末路だ。
見開かれたビー玉のような瞳が、恐怖と絶望に見開かれている。
「にゃッ、にゃヒィィィ……ッ!!」
学生寮の一室に、コーヒーの悲痛な叫びが響き渡った──
……。
…………。
「ふふっ、うふふ……ぷりぷりだぁ……あったかぁい……」
温かな感触に頬ずりをして、右手でそこにあるものを揉みしだく。強く握りすぎないように、優しくゆっくり慎重に。するとにゃんたまは操の手のなかで熱を持ち、どんどん育って手に余るほど大きくなった。
「コーヒーのにゃんたまは立派だね……なんか、人間のおちんちんみた……い……? んぁ……?」
違和感を覚え、閉じていた目をぱっちり見開く。幾度かまばたきをしたあと、操は自分が夢を見ていたことに気がついた。
「あれぇ? なぁんだ、夢かぁ」
ここは学生寮ではなく、実家の自室にあるベッドの上だ。カーテン越しにうっすらと朝の光が差し込み、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
あと少しでふわふわのにゃんたまを堪能できたはずなのに──と残念な気持ちになったが、操は夢の続きを知っている。なにせあれは、過去に実際あった出来事なのだ。あのあと激しく抵抗されて、結局は逃げられてしまったのだった。
「懐かしいなぁ。あの頃は甲洋のこと、普通の猫だと思ってたっけ」
まだほんの数ヶ月前の出来事だが、ずいぶん昔のことのように感じる。現在の甲洋は猫の姿に戻れなくなってしまったため、二度と可愛いにゃんたまを拝むことはできない。最後に思いっきりツンツンしてみたかった、という叶わぬ願いが、夢となって現れたのだろうか。
はぁ、とため息をつきながら、操は右手で触れているものをモミモミする。
「今じゃこんなだもんな。これもこれで好きだけど……ん?」
そういえばさっきから自分が触っているこれは、一体なんだろう。やたらと熱くて、肉感的で、不思議とよく手に馴染む。疑問に思いながらもさらにモミモミすると、頭上から「うーん……」という苦しげなうめき声が聞こえてきた。
「……え?」
そこでようやく、自分が今どんな体勢でいるかに気がついた。横向きで身体を丸めているが、問題はそのポジションだ。操は仰向けで寝ている甲洋の股間に頬を擦りつけ、右手で思いっきりブツに触れていた。
そりゃあよく手に馴染むはずだ。操はこれにしょっちゅう触れているし、大きさは違えど、自分だって同じものを持っているのだから。
「わっ、ごめん甲洋!」
うーんうーんと苦しそうに唸っている甲洋の上から、操は慌てて半身を起こした。にゃんたまを求めるあまり、寝ながらにして寝込みを襲う状態になっていたらしい。スウェットの上からではあるものの、頬ずりしたりモミモミしたり、ずいぶん刺激してしまったようだ。
しかし彼はよほど深く眠っているのか、目を覚ます気配がない。だが中心はテントが張ったようになっており、心なしかその表情は苦しげだ。
(わぁ、すっかり元気になっちゃってる。これってぼくのせいだよね……?)
操は右手の人差し指で、ツンっと盛り上がるテントをつついてみた。すると甲洋がピクンと震え、「んっ」とかすかに声をあげる。さすがに起きるかと思ったが、彼は深く息を漏らしただけで眠ったままだ。
しかし何か夢でも見ているのか、長いしっぽがパタンパタンとシーツを叩いている。そしてむにゃむにゃと口を動かしはじめた。
「ダメだ、来主……そこは触っちゃ、ダメなんだ……」
「え?」
「にゃんたまは……オモチャじゃ、ない……」
「!」
そこでピンと来てしまった。もしや彼も、同じ夢を見ているのではないかと。
夢の中の甲洋は、迫りくる魔の手から必死で逃げ惑っているのだろう。自分で言うのも何だが、あのときの操はにゃんたまに狂った変質者も同然だった。
彼はしきりに「やめて」とか「頼むから」などと口走り、うんうん唸っている。額に汗も滲んでいるし、これではさすがに気の毒だ。
「ごめんね甲洋。ぼくのせいで……それにこっちも……」
股間の膨らみも相変わらずで、元気に布を押し上げている。こっちもこっちでかなり苦しそうだ。軽く触れてさすってやると、「うぅ」というくぐもった声が聞こえてくる。
「大変だ。ちゃんと責任とらないと。待ってて甲洋、いま楽にしてあげるから!」
確か母は朝早くから仕事があると言っていた。時刻は8時を回っているし、すでに家を出ているだろう。
実家暮らしのセックスは、何かと気を使うのだ。いつもうまいことタイミングを見計らい、バレないように注意を払っているが、今ならいっさい遠慮はいらない。
操は甲洋のシャツを軽くめくって、ウエスト部分に手をかけた。少し下にズラしただけで、立派に勃起した男性器が弾むように姿を現す。
元気に脈打つそれを見て、思わずこくんと喉を鳴らした。ふわふわのにゃんたまは可愛いだけだが、今の甲洋のにゃんたまは生々しくてとにかく卑猥だ。
ふわりと立ち込める性の香りに、腹の奥がキュンとうずいてくる。
「おっきくなったおちんちん、朝から見るの初めてだ。こんなのがいつもぼくのお尻に挿ってるなんて、なんか凄いや」
操は右手を肉棒の根元に添え、左手で髪を耳にかけながら顔を近づけた。躊躇いなく先端にキスをすると、甲洋が小さくうめいて腰を揺らす。それに合わせてピクピクと性器が跳ねて、先端から先走りを滲ませる。キスをするたび、どんどん硬さが増して反り返っていくようだった。
(甲洋のにゃんたま、やっぱり可愛い……)
高揚する気持ちと一緒に、愛おしさが膨らんでいく。ぜんぜん可愛くない形をしているはずなのに、どうしてこんなに可愛いんだろう。
両手を竿に添えると、操は「いただきます」と言って膨らんだ先端をぱっくりと口に咥え込んだ。
*
「……ッ、え!?」
意識が覚醒した途端、甲洋は頭が真っ白になるのを感じた。
ギシギシとベッドが軋む音。なぜか剥き出しになっている下半身と、それにまたがって腰を振る操の姿。彼もまたシャツだけの姿で、下には何もまとっていない。
「あぁッ、ん……っ、あ、こよ、アッアッ、おき、たぁ……?」
「く、くる……来主、ッ、な、なに? なにして……?」
「なにってぇ、んあぁっ、ぁっ、……責任、とってるのぉ……」
「はぁ!?」
甲洋の腹に手をついて、操が激しく上下に腰を振りたくっている。結合部から響く水音が、朝の室内にあまりにも不釣り合いなBGMになっていた。
(なんだこれ……一体どうなってるんだ……!?)
夢の続きでも見ているのだろうか。いや、それにしては飛躍しすぎている。今の今まで甲洋が見ていた夢は、過去に実際に起こった出来事を再現したものだった。
執拗ににゃんたまを狙う操と、必死で逃げ惑う自分。もう駄目だと思った矢先、目が覚めて助かったと思ったらこの有様だ。混乱しない方がおかしい。
「くっ、来主! 待って、まっ、うァッ……!」
操がバツンと腰を落とすと、熱く濡れた肉壁に性器がキツく締めつけられる。脳天まで響くような快感に、甲洋は目を白黒させながらも歯を食いしばった。起き抜けにこの刺激はいささか強すぎる。
「こよっ、勃起しちゃったの……っ、ぼくのッ、あっ、せい、だからぁ……んッ、ぼくがっ、なんとかしてあげないと……っ、ぁッ……奥、奥あたる……ッ!」
すっかり蕩けたようになっている操が、全体重をかけて深くまで甲洋を飲み込んだ。そのまま腹の奥をゴリゴリと刺激するように、腰を前後に揺すりはじめる。細い腰が柔軟に蠢くさまは、目を剥くほどに卑猥な光景だった。
できればもう少し詳しく状況を説明してほしいところだが、ここはいったん彼の好きにさせるしかなさそうだ。というより、甲洋自身も荒波のような快感に飲まれて、それどころではなくなっている。
「こよ、は……っ、寝てて、いいからねっ……、ぼくが、全部、するから……!」
「あっ、ぅ……ッ、くる、す……!」
「はぁっ、ぁん、ぁ……ッ、きもち、ぃ……ッ、こよのにゃんたま、ビクビクしてて、あっついの……ッ、これ好きっ、好きなのぉ……っ」
彼が好き勝手に腰を揺するたび、濃桃に色づく性器もぷるぷると跳ねて蜜を撒き散らす。薄い胸では膨らんだ二つの粒が、Tシャツの薄い生地を押し上げて存在を主張していた。
こんなものを見せつけられて、ただ寝ているなんて無理な話だ。苛立ちにも似たチリチリとした激情に、甲洋はほとんど無意識のうちに舌打ちしていた。
「来主……ッ!」
「ッ、え? あっ、だ、ダメ! ひぃっ、あッ、あぁぁ……ッ!」
浅くくびれた細腰を両手でガッチリ掴み上げると、甲洋は大きく腰を突き上げた。自由奔放に快感を貪っていた操が、目をひん剥いて悲鳴をあげる。
「やだやだッ、あっ、アッ……! ぼくがするのぉっ! 甲洋のにゃんたま、いい子いい子してあげるんだぁっ!」
「逆に来主は悪い子だね。寝込みを襲うなんて、さっ」
「ゃ、ぅあぁ……ッ!? アッ、ぁ、あぁ──……ッ!!」
両膝をゆるく立てると、ベッドのスプリングの力も借りてさらに激しく突き上げた。すると甲洋の上で弓なりに背を反らした操が、ビクビクッと大きく身を震わせて射精する。
甲洋をイカせるまではと、おそらくずっと我慢していたのだろう。自分で動きたがったのも、快感をコントロールするためだったのだ。しかし強制的に絶頂させられた彼は、途方に暮れたように口をぽっかり開けて痙攣している。
「ぁー、……ッ、ぁ、あぁ、ァ……」
力尽きて後ろへ倒れていこうとする身体を、腕を掴んで引き寄せる。くったりと胸に落ちてきた操は、肩で息をしながらグスンと鼻をすすった。
「ぅ……ダメなのに、イッちゃった……」
「ダメじゃないから」
思わず苦笑して、腕の中の身体を抱きしめると頭を撫でる。ほんのり汗ばんだ髪に頬ずりをして、コロコロと小さく喉を鳴らした。
やがて息が整ってきた操が、わずかに伸び上がって甲洋の鼻先にキスをする。
「甲洋、まだイッてないでしょ。ぼく、まだがんばれるよ」
「そう?」
「うん! ちゃんと責任とるからね!」
「責任って、なんの?」
確かさっきも、甲洋が勃起したのはぼくのせいだ、とかなんとか言っていたような。自分が眠っているあいだに、一体なにが起こっていたというのだろうか。
「それはね──」
操から簡単に経緯を聞いて、甲洋はようやく納得することができた。過去の夢を見たのも、彼に股間を刺激されたことで記憶を掘り起こされたからだったのかもしれない。
「あのときはごめんね甲洋。ぼく、どうしてもにゃんたまぷりぷりしたくって……怖がらせちゃったよね……」
「いや、まぁ……うん。怖かったというか、なんというか……」
まだ正体を明かす前だったが、あの頃すでに甲洋は操に恋をしていた。好きな子に大事な場所を触られたら、どうなってしまうかなんて分かりきっている。
にゃんたまは確かに愛らしい形状をしているかもしれないが、刺激されると出てきてしまうのだ。エグめの本体が、ニョキニョキと。そんな痴態を見せてなるものかと、あのときの甲洋は必死だった。
しかしその出来事があったからこそ、この衝撃的な朝があるのだと思うと感慨深い。おかげでいい思い出として昇華できそうだ。
「俺は気にしてないから。責任なんて感じなくていいよ」
「でもさ、今のこれは……やっぱりぼくのせいじゃない?」
「あッ、ちょ……っ!」
イタズラっ子のように笑った操が、きゅうっと尻に力を込めて締めつけてきた。電流のような快感が、尖った耳から長いしっぽの先まで駆け抜ける。ただでさえ達する手前で打ち止められていたのだ。涼しい顔をして装っていたが、実はまったくもって余裕がない。甲洋はお手上げだとばかりに大きく息を漏らした。
「じゃあ、遠慮なくお願いしようかな」
「えへへー、任せてよ!」
確かに、この責任はしっかり取ってもらう必要がありそうだ。猫としての生き方を捨ててしまうくらい、夢中にさせてくれたのだから。
「好きだよ、来主」
蕩けたように目を細め、鼻と鼻をコツンと合わせる。
操はもともと赤かった頬をいっそう赤らめると、砂糖を溶かしたように甘ったるい笑みを浮かべて、「ぼくも!」と言った。
にゃんたまωチャレンジ / 了
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ふかふかのふわふわ。この感覚には覚えがある。まるで雲の上にいるみたいな心地よさ。ソファの感触だ。
加えて頬にザラザラとしたものが触れている。ほんのり濡れているそれは、何度も何度も操の頬を行き来していた。
「う~ん……くすぐったいよ~……」
むずがりながら寝返りを打った操は、その瞬間ハッとして飛び起きた。まさかまたあの店に逆戻りしてしまったのかと思ったが、そこはまったく見覚えのない場所だった。
温かみのあるカーテンに、小綺麗な家具類が並ぶ室内。一つだけ置かれたテーブルセットの向こう側はキッチンになっており、全体的に生活感が漂っている。
(人間の匂い……でも、甲洋のじゃない。知らない匂いだ……)
不安に駆られながらも、とっさに自分の身体に目をやった。操の変化は未だ解けずに、フサフサの耳としっぽだけが生えたタヌキ人間のままだった。あの店で目を覚ましたときのように、てっきりタヌキの姿に戻っているものとばかり思っていたのに。
違和感を覚えつつも、ふいに視線を感じてソファの足元に目をやった。そこには真っ白い猫が行儀よく座って、こちらを見上げている姿がある。
「にゃぁん」
猫は丸い瞳をくるくるとさせ、ひと鳴きすると操の膝に飛び乗ってきた。ちょこん、と腰を落ち着かせ、不思議そうに小首を傾げて見せる。操もまた同じように首を傾げた。
「ここ、君んち? もしかして、君がぼくを助けてくれたの?」
「んにゃ~ん?」
「わぁ……ぼく、猫って初めて。可愛いね」
指先を口元に持っていくと、匂いをかがれたあとペロンと舐められた。ザラついた舌の感触は、さっき頬に感じたものと同じだった。
操は肩をすくめながら思わず笑って、その頭を幾度か撫でた。猫がゴロゴロと喉を鳴らしはじめる。もっと触れていたかったが、今はそんなことをしている場合じゃない。
「ごめんね。よく分かんないけど、ぼくもう行かなきゃ」
状況はまったく飲み込めないが、このままここにい続けるのは絶対マズい。甲洋がたまたまお人好しだったというだけで、他の人間もそうとは限らないのだ。これ以上余計に人と関わりを持つことは、なるべく避けたい事態だった。
早く逃げだそうとして、操はタヌキの姿に戻ろうとした。人間の身体では小回りがきかないし、脚力も弱いからだ。が、なぜか変化が解けてくれない。
「え、な、なんで!?」
「にゃん?」
何度も試したが、どんなに集中して念じてもダメだった。どうしたらいいか分からず、頭が混乱してしまう。
「どうして!? なんで元に戻れないの!?」
「あら、目が覚めたのね」
「ッ!?」
そのときふいに声がして、操は悲鳴すら上げられないほど驚いた。膝から飛びおりた猫が、声の主の足元へとすり寄っていく。
そこにはワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、見知らぬ女性の姿があった。
「驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね」
「ぁ、あ……だ、誰……?」
怯えながら恐る恐る口を開いた操に、女性はにっこりと穏やかな笑みを浮かべた。
*
女性は羽佐間容子と名乗った。
飼い猫のクーが窓の外を見てやけに騒ぐので、気になって様子を見に庭へ出たところ、倒れていた操を発見したのだと教えてくれた。
彼女は操の姿にまるで動じる気配がなかった。それどころか、キッチン横のテーブルに招くと、料理を振る舞ってくれた。
「い、いいの? ぼく、これ食べていいの?」
目の前には容子が準備してくれた食事がある。塩焼きのタラと薬味がたっぷりの冷奴、白菜の漬物にワカメとじゃがいものお味噌汁。操にとってはどれもこれもが初めてのものだった。
「どうぞ、召し上がれ」
「わあぁ……ありがとう! いただきまーす!」
操は大喜びでそれを食べた。箸がどうしても上手く使えず、途中で容子がスプーンとフォークを出してくれた。
彼女は向かい側の席につき、がっつく操に時おり苦笑しながら自らも食事に手をつけた。その足元では、クーも専用のご飯をカリカリと食べている。
「これ! これ美味しい! この葉っぱ、しょっぱくていい匂いがする!」
「白菜よ。柚子と一緒に漬けてあるの」
「じゃあこれは? このお魚、ふわふわしてて柔らかい」
「タラを塩焼きにしたものよ。骨が刺さらないように気をつけて」
「うん! 気をつけるね!」
初めの警戒心が嘘のように、操は満面の笑顔で次から次へと食べ物を口に運んだ。木の実や樹液とはまったく違う。温かくて、塩気があったり甘みがあったり、香りも豊かですべてが初めての味だった。
夢中で食べているうちに、なぜだか涙が溢れてきた。お腹いっぱい食べられることが、こんなに幸せなことだなんて。そんなことすら初めて知った。
グスングスンと鼻をすすりながら食べる操を、容子はずっと優しく見守っていた。
*
「ねぇ、あなたはぼくが怖くないの?」
食後、容子が淹れてくれたアイスティーというものを飲みながら、操はおずおずと問いかけた。
「どうしてそう思うのかしら」
「……だって、ぼく本当はタヌキなんだよ。ほら、耳としっぽがあるでしょ?」
甲洋もそうだったが、人間である彼女が化け狸を恐れたり、気味悪がったりしないのが不思議でならない。まるでごく普通の、人間の子供にするかのように扱うのだから。
すると容子は持ち上げていた自分のグラスをテーブルに戻し、「怖くないわよ」と言った。
「小さい頃、祖父母から化け狸やキツネの話をよく聞いたわ。今よりもずっと、あなたのような存在はごく身近なものだったんでしょうね。それに──」
容子は部屋の片隅へと目をやった。棚に飾られた写真立ての中には、黒髪の可愛らしい少女が笑顔で収まっている。
小首を傾げる操に、容子は「私の娘よ」と言って淋しげに笑った。
「幽霊だとか妖精だとか、目には見えないものを視ることができる子だったの。そういう力があったのよ。私にはそんな力はなかったけれど……。だからかしらね。あなたの姿を見たとき、少しも不思議に思わなかったわ」
「その子、もういないの?」
「ええ……まだ子供の頃に、病気でね」
「……そうなんだ」
うつむきながら、操は情けない気持ちが込み上げてくるのを感じた。
人間なんて、ちょっと本気を出せばいくらでも化かしてやれると思っていた。はなからバカにしきっていたのだ。だけどいざやってみると、ひとつも上手くいきやしない。
それどころか、半妖の姿を晒してさえ容子にはたやすく受け入れられてしまった。甲洋にいたっては、むしろこっちが化かされているような気にさせられる。
「ぼく、ぜんぜん天才なんかじゃないや」
里の悪ガキたちに言われた通りだ。人間の一人も化かせない。それどころか助けられてばかりいる、ただのポンコツ。
操はすっかり自信をなくしてしまった。さっきさんざん泣いたのに、凝りもせずまた涙が溢れる。
「だけどぼく、こんなんじゃもう帰れないよぅ……」
勝手に人里におりるだけでも掟破りなのに、操はそれ以上の失態を犯している。そのあげく、元の姿に戻ることすらできなくなってしまった。
こんな中途半端な姿の自分を、里の仲間たちが以前のように受け入れてくれるとは思えない。そもそもこのか弱い人間の足腰では、里までの山道をろくに越えることすらできないだろう。
「うぅ……うっ……ひっ、く……うぅ……」
両手で目尻をこすりながら、操は肩を震わせて泣いた。足元でくつろいでいたはずのクーが、何事かと目を丸くして操の様子をじっと見上げる。
容子は痛ましそうな表情を浮かべていたが、やがてゆっくりと席を立った。すぐそばまでやってきて、そっと操の肩に手を置いた。
「娘がいなくなってから、この家はずっと私とクーの二人きりなの。なにがあったのかは分からないけど……あなたさえよければ、好きなだけここにいればいいわ」
「ッ、いいの……?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、容子が目を細めるようにして優しく笑った。胸の奥が熱く痺れたようになって、ますます涙が込み上げる。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。操は人間をバカにしていたし、困らせてやったところで、どうということはないと思っていた。こうなってしまったのだって、ぜんぶ自業自得でしかないのに。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
干からびて空っぽになってしまうんじゃないかと思うくらい、操はその後もしばらくの間、ずっとメソメソと泣いてしまった。容子はそんな操に寄り添って、ときどき困ったように笑いながら涙と鼻水を拭いてくれた。
(なんだかお母さんみたい)
操には母親の記憶がない。物心ついた頃には、すでにいなかった。だけど美羽や里の仲間たちがいたから、寂しい思いをせずにすんでいた。あそこでは、みんなが家族のようなものだったから。だから母親の存在を気にしたことすらなかった。
けれど容子の優しさに触れているうちに、こんな人が母親だったらいいなと、操はふとそんなことを思ってしまった。
「ねぇ、あなたのこと、お母さんって呼んでもいい?」
少しずつ涙が引いてきたころ、真っ赤な目と鼻をしながらそう言った操に、容子は一瞬だけ目を丸くした。
会ったばかりの、しかも中途半端な化け狸にそんなことを言われて、戸惑うのは当たり前だ。けれど容子は少しだけ切なそうに、そしてどこかくすぐったそうに笑いながら、
「いいわよ」
と言って、ふわふわの耳が生えた操の頭を優しく撫でた。
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