記憶の行き場所
※黒鋼×蘇摩
黒鋼が住居を構えたのは、大学から程近い学生街の一角にある、寂れたアパートの一室だった。
築年数も相当なものになるその古い建物は、陽当たりがいいとは言えず、隣接する建物との間隔も狭い。おかげでまともに洗濯物も干せなければ、場合によっては換気もままならない。
トイレも風呂も、台所でさえも共同で、破格の安さ以外になんの取り得もないようなオンボロアパートだった。
だが黒鋼はこの学生街全体の、どこか時代錯誤も甚だしい風景がなんとなく気に入っていた。
古めかしい大衆食堂や駄菓子屋、昔ながらのコロッケという謳い文句で学生達に人気の肉屋に、どこか胡散臭げな中華料理屋など、ビルばかりが建ち並ぶ市の中心部の景色よりは、ずっと呼吸がしやすい気がした。
何より黒鋼が気に入っていたのは、この街に住む人々の気さくな人柄だった。
肉屋のおばちゃんは時々コロッケを一つオマケしてくれるし、怪しげだと感じられた中華料理屋にはお喋りで賑やかな中国人がいて、味も絶品だった。
もともと騒がしい場を好まない黒鋼だったが、長いこと実家を離れてみると多少は変わるもので、体調を気遣ってくれるお節介なおばちゃんだとか、昼間から酔っ払って誰彼かまわず酒をすすめるしょうもない親父だとか、そんな人間たちに絡まれるのにも、一年足らずであっという間に慣れてしまった。
それは実家にいて父や母に構われるのと、なんら変わりがないように思えたからだった。
学業に励みつつ、これまでよりも時間を随分と自由にやりくりすることも可能になった。
高校から電車を乗り継いで通っていた物流センターも、ここからだとアクセスがだいぶ楽だ。
アパートはあまりの有様で呼ぶことは出来ないが、もともとバイト先から近い蘇摩のいるマンションへも、顔を出しやすくなった。
以前は終末にわざわざ外泊届けを出して寝泊りしていたが、今ではそんな面倒なこともない。残業や、なんとなく帰りが面倒に感じたときには、彼女の元へ行った。
都合のいいホテルじゃありませんよ、と蘇摩は呆れていたが、無意味に訪れるのはなんとなく照れ臭かった。黒鋼なりの表現方法であることは、おそらく彼女も知っている。
そしてそれは、ある終末の夜の情事の後のことだった。
「駄菓子屋さん?」
黒鋼の腕の中で、普段は落ち着いた表情しか見せない蘇摩が、少しだけ少女のように目を輝かせた。
彼女は黒鋼の住む学生街について、いつも熱心に聞きたがった。なので、なんとなくぽつぽつと話して聞かせている間に、今夜はたまたま飛び出した駄菓子屋という単語で彼女は反応を示したのだ。
「私、一度も行ったことがないんです」
「ガキの頃に、そんなような店なかったのか?」
「ええ、子供の頃はずっと団地暮らしでしたし……コンビニやスーパーには、ちょっとした駄菓子スペースはありましたけど」
今もありますよね、と言って首を傾げる蘇摩に、黒鋼は暫し考え込んだ。
彼女はこれまでも黒鋼の住むアパートを見てみたいなどと口にはしていたが、男ばかりが暮らすあの場所は、とてもではないが清潔感があるとは言いがたい。
夏には親指よりも一回りは大きく育ったゴキブリなんかも出没するし、女性が好むとは決して思えない条件が揃い踏みなのだ。
あの街に連れて行けば、アパートにだって絶対に来たがるに違いない。
だが。
「行きてぇか」
思えば、彼女には世話になりっぱなしのうえ、デートらしいデートというのも、したことがない。付き合いはただの顔見知りだった頃も含めれば、そろそろ三年以上にもなるというのに。知世が知ればきっとあの生意気な口調で大いに馬鹿にされるだろう。
彼女は我侭や自己主張をしないぶん、黒鋼もつい甘えっぱなしだったことを自覚する。
「いいんですか?」
蘇摩が半身を起こした。短めに切り揃えられた黒髪が、サラリと流れ落ちるのを眺めながら、黒鋼は一つ頷いた。
*
次の終末、黒鋼は蘇摩を連れて自宅付近の町並みをブラリと歩いた。
普通の恋人同士ならば手を繋いだり、腕を組んだりして歩くのだろうが、二人はただ並んで歩くに留まっていた。
もともと互いに積極性に欠けることは承知していたが、なぜかそういった気分になれなかった。黒鋼は、ただ照れ臭いだけだと自分に言い聞かせ、深く考えることはあえてしなかった。
それでも男女が二人並んで歩いていれば嫌でも様になるようで、店に入れば顔なじみにからかわれるし、大学でそれなりに親しい間柄のものと擦れ違えば、実に羨ましそうな視線を食らった。
蘇摩はどこか育ちのよさそうな品のある女だったから、こういった環境には戸惑うだろうと予想していた。
だがそれは大きく外れて、彼女は終始楽しそうに微笑んでいた。その笑顔を見ていると、これからもこうして一緒に外を出歩く機会があってもいいかもしれないと思った。
「あ、ここですね」
やがて二人は目的地である駄菓子屋へ辿りついた。黒鋼も、ここへ足を踏み入れるのは初めてのことで、こんなことでもなければきっと生涯、訪れる機会もなかっただろう。
店内はどこか薄暗く、そして所狭しと子供が喜びそうな菓子類が驚きの価格で並べられている。どうしようもなく、懐かしさを覚えた。
「可愛い」
蘇摩は瞳を輝かせ、店内をじっくりと見て回った。黒鋼はそんな彼女の見せる無邪気な一面を、ただ眺めていた。
ふと視線を巡らせると、他にも数人の子供達が当たりのクジがどうとか、オマケがどうとか言い合ってはしゃいでいた。彼らの楽しそうにしている姿を見ると、自分の子供の頃と重なってさらに懐かしさが込み上げる。
自分も何人かの友人達と連れ立って、小学校の向かいにあった商店へ遊びに行ったものだ。
あるときを境にそういった付き合いもなくなり、優しいとばかり思っていた店の主人への見方も、変わってしまったけれど。
「…………」
黒鋼は、それ以上のことに思いを巡らせることを自ら拒んだ。ここはあまりにもあの場所と似すぎている。気を抜けば、思い出さなくていいことまで鮮明に蘇ってしまいそうだった。
けれど、本当は分かっていたのかもしれない。そんな風に意識している時点で、すでに囚われているのだということを。
そのとき、バタンという大きな音がして、地面に何かが派手に散らばる音がした。蘇摩が声を上げる。
「大丈夫ですか!?」
見れば、幼い少年が地面に腹這いになって倒れている。すぐに身を起こしたが、擦りむいた膝を見て涙を浮かべた。駆け寄って膝をついた蘇摩が、桃色のハンカチを取り出して血の滲んでいる膝を押さえた。店の主人も何事かと顔を出したが、黒鋼はぴくりとも動けずにその光景をただ見つめていた。
「大丈夫、かすり傷ですから。ね? 男の子でしょう?」
蘇摩が優しく語り掛ける。少年は泣き出したいのを我慢して、コクコクと頷いていた。彼の小さな手には、ドロップの缶が握られている。中身は、地面に散らばってしまったようだ。
黒鋼は、ゆっくりと自分の足元に視線を巡らせた。コロコロと、飴玉が転がってきて靴の先に当たる。白い、薄荷の飴だった。
ああ、どうして見てしまったのだろう。
押し殺してきた光景が、一瞬にしてフラッシュバックする。幼い頃の『彼』との記憶が、物凄い速さで脳裏に再生された。
忘れることが出来たと思っていた。あの切ないばかりの別れの日のことも、とっくに過去として処理できているものだと。
今、彼は何をしているのだろう。まだあの町にいるのか。まだ彼は疎外されているのか。笑いたくもないのに笑って、声を殺して、一人で泣いているのか。まだ、好きなのか。
そう、まだ。
忘れてなどいない。忘れられるはずがない。こんなにも後悔している。こんなにも。
「黒鋼?」
――さよなら、黒鋼。
様子のおかしい黒鋼に気づき、蘇摩が側へやって来た。黒鋼は足元の一点を見つめたまま、見動きが取れなかった。
「黒鋼、どうし」
「呼ぶな」
「え……?」
くろがね。
「そんな風に、俺を呼ぶなよ」
「くろ……」
目を大きく見開き、戸惑うばかりの蘇摩の細い手首を掴んだ。そのまま強引に引いて、店を飛び出す。
「黒鋼……ッ、一体どうしたんです!?」
蘇摩は幾度も転びそうになりながら、必死に黒鋼に向かって呼びかける。擦れ違う人々が、何事かと視線を浴びせかけるが、どうでもよかった。
やがて自宅のオンボロアパートへとやって来た。錆びた鉄の階段を上り、手前の自室へと向かう。ポケットを乱暴に漁ると鍵を開けた。
そして彼女の手を引いたまま室内に入った。どこか黴臭く、家具の少ない畳のワンルーム。その中心で、蘇摩の身体を掻き抱いた。
「く、くろがね……!?」
豹変した黒鋼に、蘇摩は怯えていた。けれど、すぐに背中に両腕が回った。小さな子供をあやすように、ゆっくりと擦られる。頼りない腕だった。
蘇摩は黒鋼が落ち着きを取り戻すまで、ただ静かに待つつもりのようだった。その優しさが黒鋼を追い詰めることになるなんて、彼女は知りもしないのだ。
分かっている。痛いほど。今も、たった一人だけを強く思っているということが。手と手を繋いで歩きたいと思っている相手が、誰であるかを。
そして、いまだに彼女を裏切り続けていたということが。
最低だ。本当に、最低な人間だ。だが、きっと忘れられるはずだ。現に今までも忘れていられた。彼女を愛している。愛せる。本当に、大切な人だから。
「蘇摩」
「大丈夫。私はここにいますから」
さらに強く抱きしめた。花の香りがする黒髪に顔を埋める。震えているのは、自分の方だった。
「子供、好きか」
「……?」
「好きか……?」
少年の膝に当てていたハンカチ。あれはどうしたろうか。あのまま置いてきてしまったのだろうか。傷ついた子供を労わる彼女は、まるで聖母のようだった。
暫しの沈黙のあと、胸の中で蘇摩は頷いた。
「ええ……好きよ」
吐息にも似た、囁くような声だった。黒鋼の胸から顔を上げた彼女は、何かを悟ったように微笑んでいた。額と額、そして鼻先が触れ合う。
「俺の……、俺との子供でも、か?」
「どうして聞くの……そんな当たり前のことを……」
陽の当たらない、薄暗い部屋。
今は微かな夕陽しか射さない、冷えた翳りの部屋。
黒鋼は、初めて一切の避妊具を使わずに、彼女を抱いた。
*
じきに朝を迎えるであろう室内には、薄ぼんやりとした青い闇が満ちていた。
夢と現を行き来しながら、黒鋼はただ床に転がり、柔らかな女の身体を腕に抱いていた。けれど胸に置かれた手がピクリと動いて、やがて温もりが遠ざかる。
蘇摩は身を起こすと、脱ぎ散らかされた服の中から黒鋼のシャツをどうにか探り当てたようだった。シーツの代わりのようにして、裸の前をそれで隠している。
黒鋼は、寝転んだままでスラリと美しい線を描くその背を眺めていた。褐色の肌は今にも闇に溶け込んで消えてしまいそうなほどに、儚く見えた。
あれから。
抱き合っては浅く眠り、目覚めるとまた抱き合うことを繰り返した。時間の感覚を見失うほどに、それは濃密な時間だった。
蘇摩は、何も聞かなかった。あの駄菓子屋で豹変した黒鋼のことを、何も。
「多分、大丈夫ですから」
痛々しく掠れた声が、薄暗い室内にコトリと落ちた。黒鋼には、何のことを言っているのか意味が分からなかった。
「赤ちゃん、出来ないと思いますから」
「……?」
僅かに目を見開いて、ようやく身を起こした。彼女の顔は、切り揃えられた髪に隠れてよく見えない。
「ずっと言えなくてごめんなさい。でも、どう言えばいいのか、分からなかったんです」
「なんのことだ……?」
「……今の貴方よりも、少しだけ若かった頃。私は、『そういう身体』になったんです」
蘇摩は顔を上げると、カーテンの隙間へと目をやった。隣の建物に遮られ、窓の外にはなにも見えない。それでもどこかずっと遠くを見つめているようだった。
「好きになった人と、結ばれました。年上の人。すぐに赤ちゃんが出来て。でも、私はまだ子供で、相手の人には……」
その先を、彼女は言わなかった。黒鋼も、なんとなくではあるが察した。けれど、その相手のことを酷い男だなどと言える資格は、自分にはなかった。
「お腹に子供がいることを知った途端、驚くほど簡単に捨てられてしまいました。だけど私は産みたいと思った。一人でも、ちゃんと育てていこうって。でも……うまくいかなかった」
蘇摩はその先を続けようとして、ただ唇を震わせるだけに終わった。彼女は言ったのだ。『そういう身体』になってしまったと。子供は、産まれてくることができなかったのだろう。彼女の心と身体に、大きな爪跡を残しながら。
蘇摩はゆっくりと首を動かすと、黒鋼を真っ直ぐに見つめた。辛い過去を吐き出していたはずなのに、その表情は悲しいほどに穏やかだった。
「覚えていますか? 私が、貴方を誘った夜のこと」
「ああ」
「あのときは雨が降っていて……貴方は傘も差さずに、駅まで走って行った」
「降るなんて、予報じゃ言ってなかったからな」
あまりにも自然に彼女が笑うから、黒鋼も気がつけば口元に微かな笑みを浮かべていた。懐かしかった。
あの日は、本当に雨が降るなんて思ってもみなかったのだ。思えば天気予報には子供の頃から裏切られてばかりだと思う。
定められた時刻のギリギリまで仕事をして、それから急げば電車に間に合うはずだった。けれど、その日は大雨のせいで電車が脱線事故を起こし、時間が大幅に遅れていた。間にあうどころか、待たされるハメになったのだ。
適当に時間を潰すより他になかった黒鋼だったが、外泊の届けを出していない以上、時間に遅れるのなら寮長に連絡をしなければならなかった。なのに、その日は本当に運がなかった。携帯電話を寮に忘れて来たのだ。
仕方なく駅の公衆電話から電話をかけようとして受話器を持ったとき、また運に見放された。小銭がなかった。つくづく嫌気がさして仕方がなかった。
そこに、すっと小銭が差し出された。百円玉が数枚。ふと見れば、そこに蘇摩がいた。
「事務所には、小さなテレビがいつもつけっ放しになっていたんです。私は、近くで脱線事故が起こっていることをニュースで見て知っていましたから、すぐに貴方を追いかけました。まともに会話もしたことがなかったのに、変ですよね」
しかも、そのまま部屋に誘うなんて。本当に今にして思えば、自分でも信じられないことをしたと、そう言って蘇摩は笑った。
彼女は戸惑うばかりだった黒鋼に一言、搾り出すように言ったのだ。もしよければ、私の家で雨宿りをして行きませんか、と。
だが、その誘いに乗った黒鋼も黒鋼だった。自分もまた、あのときはどうかしていたとしか思えない。だけどきっと寂しかったのだ。自分も、蘇摩も。
「私は、本当はずっと貴方に謝らなければならなかった」
蘇摩の表情から、穏やかな笑みが消えた。悲しげに目を伏せる。
「似ているところなんて少しもないはずなのに……あのとき、なぜか貴方が過去に私が好きになった人と重なって見えてしまった。あの人と出会ったのも雨の日だったから……そのせいかもしれませんね」
彼女に裏切りを働き、薄情にも見捨てていった男。酷い男。重なって見えたのは、あながちどうしようもないことだったのではないかと、黒鋼は自らを嘲笑するように口元を歪めた。
「貴方も、そうだったのではありませんか?」
蘇摩は再び視線を上げると微かに微笑んだ。
「私がそうだったように……」
「…………」
ああそうか。黒鋼はようやく気づいた。彼女と自分は、似ていたのだと。
蘇摩は愛していた男を黒鋼の中に見出した。そして、黒鋼は愛しているものが纏う色を、対極である彼女によって掻き消そうとしていた。褐色の肌と艶やかな黒髪に惹かれることで、あの淡く繊細な金色と透き通る瞳の青を、白い肌を、忘れようとした。
同じだ。ただ過去に縋りついて、立ち止まっていた者同士。
けれど結局、彼女はその相手を忘れることは出来なかったし、黒鋼もまた同じだった。
「謝るのは俺の方だ。おまえを利用してた。しかも、謝っても許されねぇことまで、やらかした」
もし彼女の身体に命が宿ったとしたら。いまだ人の子である以外、親になどなったことのない自分には計り知れないが、両親がどれほど自分や、そして知世に愛情を注いでくれているかは痛いほど理解している。
だからこそ、そんなものにまで縋りつこうとした己を深く恥じた。
「ねぇ黒鋼。私達は、本当の意味でお互いを思い合ってはいなかったんです。でも、それでも」
「ああ」
「私は、貴方が好きでした」
ごく自然な動作で、二人は唇を寄せ合った。蘇摩の口から「さようなら」という言葉が吐き出され、黒鋼は切なげに目を細める。
いつの間にか、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。なんて無意味な、けれど美しい別れの祝福だろうと、そう思った。
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※黒鋼×蘇摩
黒鋼が住居を構えたのは、大学から程近い学生街の一角にある、寂れたアパートの一室だった。
築年数も相当なものになるその古い建物は、陽当たりがいいとは言えず、隣接する建物との間隔も狭い。おかげでまともに洗濯物も干せなければ、場合によっては換気もままならない。
トイレも風呂も、台所でさえも共同で、破格の安さ以外になんの取り得もないようなオンボロアパートだった。
だが黒鋼はこの学生街全体の、どこか時代錯誤も甚だしい風景がなんとなく気に入っていた。
古めかしい大衆食堂や駄菓子屋、昔ながらのコロッケという謳い文句で学生達に人気の肉屋に、どこか胡散臭げな中華料理屋など、ビルばかりが建ち並ぶ市の中心部の景色よりは、ずっと呼吸がしやすい気がした。
何より黒鋼が気に入っていたのは、この街に住む人々の気さくな人柄だった。
肉屋のおばちゃんは時々コロッケを一つオマケしてくれるし、怪しげだと感じられた中華料理屋にはお喋りで賑やかな中国人がいて、味も絶品だった。
もともと騒がしい場を好まない黒鋼だったが、長いこと実家を離れてみると多少は変わるもので、体調を気遣ってくれるお節介なおばちゃんだとか、昼間から酔っ払って誰彼かまわず酒をすすめるしょうもない親父だとか、そんな人間たちに絡まれるのにも、一年足らずであっという間に慣れてしまった。
それは実家にいて父や母に構われるのと、なんら変わりがないように思えたからだった。
学業に励みつつ、これまでよりも時間を随分と自由にやりくりすることも可能になった。
高校から電車を乗り継いで通っていた物流センターも、ここからだとアクセスがだいぶ楽だ。
アパートはあまりの有様で呼ぶことは出来ないが、もともとバイト先から近い蘇摩のいるマンションへも、顔を出しやすくなった。
以前は終末にわざわざ外泊届けを出して寝泊りしていたが、今ではそんな面倒なこともない。残業や、なんとなく帰りが面倒に感じたときには、彼女の元へ行った。
都合のいいホテルじゃありませんよ、と蘇摩は呆れていたが、無意味に訪れるのはなんとなく照れ臭かった。黒鋼なりの表現方法であることは、おそらく彼女も知っている。
そしてそれは、ある終末の夜の情事の後のことだった。
「駄菓子屋さん?」
黒鋼の腕の中で、普段は落ち着いた表情しか見せない蘇摩が、少しだけ少女のように目を輝かせた。
彼女は黒鋼の住む学生街について、いつも熱心に聞きたがった。なので、なんとなくぽつぽつと話して聞かせている間に、今夜はたまたま飛び出した駄菓子屋という単語で彼女は反応を示したのだ。
「私、一度も行ったことがないんです」
「ガキの頃に、そんなような店なかったのか?」
「ええ、子供の頃はずっと団地暮らしでしたし……コンビニやスーパーには、ちょっとした駄菓子スペースはありましたけど」
今もありますよね、と言って首を傾げる蘇摩に、黒鋼は暫し考え込んだ。
彼女はこれまでも黒鋼の住むアパートを見てみたいなどと口にはしていたが、男ばかりが暮らすあの場所は、とてもではないが清潔感があるとは言いがたい。
夏には親指よりも一回りは大きく育ったゴキブリなんかも出没するし、女性が好むとは決して思えない条件が揃い踏みなのだ。
あの街に連れて行けば、アパートにだって絶対に来たがるに違いない。
だが。
「行きてぇか」
思えば、彼女には世話になりっぱなしのうえ、デートらしいデートというのも、したことがない。付き合いはただの顔見知りだった頃も含めれば、そろそろ三年以上にもなるというのに。知世が知ればきっとあの生意気な口調で大いに馬鹿にされるだろう。
彼女は我侭や自己主張をしないぶん、黒鋼もつい甘えっぱなしだったことを自覚する。
「いいんですか?」
蘇摩が半身を起こした。短めに切り揃えられた黒髪が、サラリと流れ落ちるのを眺めながら、黒鋼は一つ頷いた。
*
次の終末、黒鋼は蘇摩を連れて自宅付近の町並みをブラリと歩いた。
普通の恋人同士ならば手を繋いだり、腕を組んだりして歩くのだろうが、二人はただ並んで歩くに留まっていた。
もともと互いに積極性に欠けることは承知していたが、なぜかそういった気分になれなかった。黒鋼は、ただ照れ臭いだけだと自分に言い聞かせ、深く考えることはあえてしなかった。
それでも男女が二人並んで歩いていれば嫌でも様になるようで、店に入れば顔なじみにからかわれるし、大学でそれなりに親しい間柄のものと擦れ違えば、実に羨ましそうな視線を食らった。
蘇摩はどこか育ちのよさそうな品のある女だったから、こういった環境には戸惑うだろうと予想していた。
だがそれは大きく外れて、彼女は終始楽しそうに微笑んでいた。その笑顔を見ていると、これからもこうして一緒に外を出歩く機会があってもいいかもしれないと思った。
「あ、ここですね」
やがて二人は目的地である駄菓子屋へ辿りついた。黒鋼も、ここへ足を踏み入れるのは初めてのことで、こんなことでもなければきっと生涯、訪れる機会もなかっただろう。
店内はどこか薄暗く、そして所狭しと子供が喜びそうな菓子類が驚きの価格で並べられている。どうしようもなく、懐かしさを覚えた。
「可愛い」
蘇摩は瞳を輝かせ、店内をじっくりと見て回った。黒鋼はそんな彼女の見せる無邪気な一面を、ただ眺めていた。
ふと視線を巡らせると、他にも数人の子供達が当たりのクジがどうとか、オマケがどうとか言い合ってはしゃいでいた。彼らの楽しそうにしている姿を見ると、自分の子供の頃と重なってさらに懐かしさが込み上げる。
自分も何人かの友人達と連れ立って、小学校の向かいにあった商店へ遊びに行ったものだ。
あるときを境にそういった付き合いもなくなり、優しいとばかり思っていた店の主人への見方も、変わってしまったけれど。
「…………」
黒鋼は、それ以上のことに思いを巡らせることを自ら拒んだ。ここはあまりにもあの場所と似すぎている。気を抜けば、思い出さなくていいことまで鮮明に蘇ってしまいそうだった。
けれど、本当は分かっていたのかもしれない。そんな風に意識している時点で、すでに囚われているのだということを。
そのとき、バタンという大きな音がして、地面に何かが派手に散らばる音がした。蘇摩が声を上げる。
「大丈夫ですか!?」
見れば、幼い少年が地面に腹這いになって倒れている。すぐに身を起こしたが、擦りむいた膝を見て涙を浮かべた。駆け寄って膝をついた蘇摩が、桃色のハンカチを取り出して血の滲んでいる膝を押さえた。店の主人も何事かと顔を出したが、黒鋼はぴくりとも動けずにその光景をただ見つめていた。
「大丈夫、かすり傷ですから。ね? 男の子でしょう?」
蘇摩が優しく語り掛ける。少年は泣き出したいのを我慢して、コクコクと頷いていた。彼の小さな手には、ドロップの缶が握られている。中身は、地面に散らばってしまったようだ。
黒鋼は、ゆっくりと自分の足元に視線を巡らせた。コロコロと、飴玉が転がってきて靴の先に当たる。白い、薄荷の飴だった。
ああ、どうして見てしまったのだろう。
押し殺してきた光景が、一瞬にしてフラッシュバックする。幼い頃の『彼』との記憶が、物凄い速さで脳裏に再生された。
忘れることが出来たと思っていた。あの切ないばかりの別れの日のことも、とっくに過去として処理できているものだと。
今、彼は何をしているのだろう。まだあの町にいるのか。まだ彼は疎外されているのか。笑いたくもないのに笑って、声を殺して、一人で泣いているのか。まだ、好きなのか。
そう、まだ。
忘れてなどいない。忘れられるはずがない。こんなにも後悔している。こんなにも。
「黒鋼?」
――さよなら、黒鋼。
様子のおかしい黒鋼に気づき、蘇摩が側へやって来た。黒鋼は足元の一点を見つめたまま、見動きが取れなかった。
「黒鋼、どうし」
「呼ぶな」
「え……?」
くろがね。
「そんな風に、俺を呼ぶなよ」
「くろ……」
目を大きく見開き、戸惑うばかりの蘇摩の細い手首を掴んだ。そのまま強引に引いて、店を飛び出す。
「黒鋼……ッ、一体どうしたんです!?」
蘇摩は幾度も転びそうになりながら、必死に黒鋼に向かって呼びかける。擦れ違う人々が、何事かと視線を浴びせかけるが、どうでもよかった。
やがて自宅のオンボロアパートへとやって来た。錆びた鉄の階段を上り、手前の自室へと向かう。ポケットを乱暴に漁ると鍵を開けた。
そして彼女の手を引いたまま室内に入った。どこか黴臭く、家具の少ない畳のワンルーム。その中心で、蘇摩の身体を掻き抱いた。
「く、くろがね……!?」
豹変した黒鋼に、蘇摩は怯えていた。けれど、すぐに背中に両腕が回った。小さな子供をあやすように、ゆっくりと擦られる。頼りない腕だった。
蘇摩は黒鋼が落ち着きを取り戻すまで、ただ静かに待つつもりのようだった。その優しさが黒鋼を追い詰めることになるなんて、彼女は知りもしないのだ。
分かっている。痛いほど。今も、たった一人だけを強く思っているということが。手と手を繋いで歩きたいと思っている相手が、誰であるかを。
そして、いまだに彼女を裏切り続けていたということが。
最低だ。本当に、最低な人間だ。だが、きっと忘れられるはずだ。現に今までも忘れていられた。彼女を愛している。愛せる。本当に、大切な人だから。
「蘇摩」
「大丈夫。私はここにいますから」
さらに強く抱きしめた。花の香りがする黒髪に顔を埋める。震えているのは、自分の方だった。
「子供、好きか」
「……?」
「好きか……?」
少年の膝に当てていたハンカチ。あれはどうしたろうか。あのまま置いてきてしまったのだろうか。傷ついた子供を労わる彼女は、まるで聖母のようだった。
暫しの沈黙のあと、胸の中で蘇摩は頷いた。
「ええ……好きよ」
吐息にも似た、囁くような声だった。黒鋼の胸から顔を上げた彼女は、何かを悟ったように微笑んでいた。額と額、そして鼻先が触れ合う。
「俺の……、俺との子供でも、か?」
「どうして聞くの……そんな当たり前のことを……」
陽の当たらない、薄暗い部屋。
今は微かな夕陽しか射さない、冷えた翳りの部屋。
黒鋼は、初めて一切の避妊具を使わずに、彼女を抱いた。
*
じきに朝を迎えるであろう室内には、薄ぼんやりとした青い闇が満ちていた。
夢と現を行き来しながら、黒鋼はただ床に転がり、柔らかな女の身体を腕に抱いていた。けれど胸に置かれた手がピクリと動いて、やがて温もりが遠ざかる。
蘇摩は身を起こすと、脱ぎ散らかされた服の中から黒鋼のシャツをどうにか探り当てたようだった。シーツの代わりのようにして、裸の前をそれで隠している。
黒鋼は、寝転んだままでスラリと美しい線を描くその背を眺めていた。褐色の肌は今にも闇に溶け込んで消えてしまいそうなほどに、儚く見えた。
あれから。
抱き合っては浅く眠り、目覚めるとまた抱き合うことを繰り返した。時間の感覚を見失うほどに、それは濃密な時間だった。
蘇摩は、何も聞かなかった。あの駄菓子屋で豹変した黒鋼のことを、何も。
「多分、大丈夫ですから」
痛々しく掠れた声が、薄暗い室内にコトリと落ちた。黒鋼には、何のことを言っているのか意味が分からなかった。
「赤ちゃん、出来ないと思いますから」
「……?」
僅かに目を見開いて、ようやく身を起こした。彼女の顔は、切り揃えられた髪に隠れてよく見えない。
「ずっと言えなくてごめんなさい。でも、どう言えばいいのか、分からなかったんです」
「なんのことだ……?」
「……今の貴方よりも、少しだけ若かった頃。私は、『そういう身体』になったんです」
蘇摩は顔を上げると、カーテンの隙間へと目をやった。隣の建物に遮られ、窓の外にはなにも見えない。それでもどこかずっと遠くを見つめているようだった。
「好きになった人と、結ばれました。年上の人。すぐに赤ちゃんが出来て。でも、私はまだ子供で、相手の人には……」
その先を、彼女は言わなかった。黒鋼も、なんとなくではあるが察した。けれど、その相手のことを酷い男だなどと言える資格は、自分にはなかった。
「お腹に子供がいることを知った途端、驚くほど簡単に捨てられてしまいました。だけど私は産みたいと思った。一人でも、ちゃんと育てていこうって。でも……うまくいかなかった」
蘇摩はその先を続けようとして、ただ唇を震わせるだけに終わった。彼女は言ったのだ。『そういう身体』になってしまったと。子供は、産まれてくることができなかったのだろう。彼女の心と身体に、大きな爪跡を残しながら。
蘇摩はゆっくりと首を動かすと、黒鋼を真っ直ぐに見つめた。辛い過去を吐き出していたはずなのに、その表情は悲しいほどに穏やかだった。
「覚えていますか? 私が、貴方を誘った夜のこと」
「ああ」
「あのときは雨が降っていて……貴方は傘も差さずに、駅まで走って行った」
「降るなんて、予報じゃ言ってなかったからな」
あまりにも自然に彼女が笑うから、黒鋼も気がつけば口元に微かな笑みを浮かべていた。懐かしかった。
あの日は、本当に雨が降るなんて思ってもみなかったのだ。思えば天気予報には子供の頃から裏切られてばかりだと思う。
定められた時刻のギリギリまで仕事をして、それから急げば電車に間に合うはずだった。けれど、その日は大雨のせいで電車が脱線事故を起こし、時間が大幅に遅れていた。間にあうどころか、待たされるハメになったのだ。
適当に時間を潰すより他になかった黒鋼だったが、外泊の届けを出していない以上、時間に遅れるのなら寮長に連絡をしなければならなかった。なのに、その日は本当に運がなかった。携帯電話を寮に忘れて来たのだ。
仕方なく駅の公衆電話から電話をかけようとして受話器を持ったとき、また運に見放された。小銭がなかった。つくづく嫌気がさして仕方がなかった。
そこに、すっと小銭が差し出された。百円玉が数枚。ふと見れば、そこに蘇摩がいた。
「事務所には、小さなテレビがいつもつけっ放しになっていたんです。私は、近くで脱線事故が起こっていることをニュースで見て知っていましたから、すぐに貴方を追いかけました。まともに会話もしたことがなかったのに、変ですよね」
しかも、そのまま部屋に誘うなんて。本当に今にして思えば、自分でも信じられないことをしたと、そう言って蘇摩は笑った。
彼女は戸惑うばかりだった黒鋼に一言、搾り出すように言ったのだ。もしよければ、私の家で雨宿りをして行きませんか、と。
だが、その誘いに乗った黒鋼も黒鋼だった。自分もまた、あのときはどうかしていたとしか思えない。だけどきっと寂しかったのだ。自分も、蘇摩も。
「私は、本当はずっと貴方に謝らなければならなかった」
蘇摩の表情から、穏やかな笑みが消えた。悲しげに目を伏せる。
「似ているところなんて少しもないはずなのに……あのとき、なぜか貴方が過去に私が好きになった人と重なって見えてしまった。あの人と出会ったのも雨の日だったから……そのせいかもしれませんね」
彼女に裏切りを働き、薄情にも見捨てていった男。酷い男。重なって見えたのは、あながちどうしようもないことだったのではないかと、黒鋼は自らを嘲笑するように口元を歪めた。
「貴方も、そうだったのではありませんか?」
蘇摩は再び視線を上げると微かに微笑んだ。
「私がそうだったように……」
「…………」
ああそうか。黒鋼はようやく気づいた。彼女と自分は、似ていたのだと。
蘇摩は愛していた男を黒鋼の中に見出した。そして、黒鋼は愛しているものが纏う色を、対極である彼女によって掻き消そうとしていた。褐色の肌と艶やかな黒髪に惹かれることで、あの淡く繊細な金色と透き通る瞳の青を、白い肌を、忘れようとした。
同じだ。ただ過去に縋りついて、立ち止まっていた者同士。
けれど結局、彼女はその相手を忘れることは出来なかったし、黒鋼もまた同じだった。
「謝るのは俺の方だ。おまえを利用してた。しかも、謝っても許されねぇことまで、やらかした」
もし彼女の身体に命が宿ったとしたら。いまだ人の子である以外、親になどなったことのない自分には計り知れないが、両親がどれほど自分や、そして知世に愛情を注いでくれているかは痛いほど理解している。
だからこそ、そんなものにまで縋りつこうとした己を深く恥じた。
「ねぇ黒鋼。私達は、本当の意味でお互いを思い合ってはいなかったんです。でも、それでも」
「ああ」
「私は、貴方が好きでした」
ごく自然な動作で、二人は唇を寄せ合った。蘇摩の口から「さようなら」という言葉が吐き出され、黒鋼は切なげに目を細める。
いつの間にか、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。なんて無意味な、けれど美しい別れの祝福だろうと、そう思った。
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チィ
「そうかい、そんなことがあったのかい」
祖母の膝に縋りついて泣いているファイの頭を、綿菓子に触れるような優しさで撫でているのは、しわしわの優しい手だった。
ファイは祖父に殴られて痛む頬を祖母の膝に擦りつけながら「うん」と答えた。
「黒たんがね、にゃんこをうめたの」
身を起こしたファイの顔は涙ですっかり濡れていて、祖母はそれをそっと拭ってくれた。
「辛かったねぇ」
「かわいそうだった……」
「夏に生まれる猫はね、とても弱いんだよ。白い子は、もっと弱いの。もしお母さん猫が傍にいても、どうにもならないことだってあるんだよ」
その言葉を聞きながら、ファイはとても悲しかった。本当に悲しかった。そして恐かった。
「でも黒たんは、お母さんにゃんこがいないから死んだって、いってたよ」
母猫がいれば、あの子猫は助かったのではないか。結局は寂しくて死んでしまったのではないか。それなら、どんなに叱られても、殴られても、連れて帰ってくればよかった。そうしたら守れたかもしれないのに。雨の中で穴を掘る黒鋼が泣いていたことに、ファイは気がついていた。
自分がもっと勇気を出していれば、黒鋼にあんな悲しい思いをさせなくて済んだかもしれないのに。そう思うと、ファイの胸は今にも押しつぶされそうだった。
祖母はどこか悲しそうに、目尻の皺を一層深くした。涙を拭うのと一緒に、痛む頬も撫でてくれた。
「おばあちゃん、オレも死ぬの? お母さんとはなれちゃったから、オレも死んじゃうのかな?」
そうしたら、きっともう黒鋼とも遊べないし、こうして祖母に撫でてももらえなくなってしまう。もしそうなのだとしたら、母と別れなければいけなかったあの日、もっと我侭を言えばよかったのだろうか。傍にいてほしいと、離れたくないと、ちゃんと自分の心を声に出して言えばよかった。
祖母はそっと首を左右に振った。
「ファイちゃんは、死なないのよ」
「どうして?」
「ファイちゃんはね、強い子だから。だから、死なないの」
そう言って、祖母はファイを抱きしめてくれた。温かくて、少しだけ焦げた砂糖みたいな甘い香りがした。
ファイはそれを思いっきり鼻に吸い込みながら、また涙を流した。
「おばあちゃんは、死なないで。オレとずっといっしょにいてね」
祖母は、ただ静かにファイの背中を撫で続けた。
*
祖母が他界したのは、梅雨に入る少し前の時期のことだった。黒鋼と二年半ぶりに顔を合わせたとき、彼女はすでに天国へ旅立った後だった。
それ以前から物忘れが激しくなり、目もほとんど見えず、寝たきりの生活を送る状態が続いていた。
死ぬ間際には、彼女はもうファイをファイとして認識してはいなかった。不自由な目で、ただファイに向かって娘の名を呼んでいた。ファイにとっては、母にあたる人の名を。
緩やかに感覚を失い、穏やかに幼子に返りながら、祖母は寂しかったのだと思う。ファイは日に日に自分が母と似てくることを知っていた。そんな自分は、果たして最期の瞬間まで、彼女の孤独を埋めることは出来たのだろうか。
着替えや食事、入浴や排泄にいたるまで、ファイは祖母の面倒を見た。ただ、学業を疎かにするわけにはいかず、丸一日家に篭っているわけにもいかなかった。学校を辞める、という選択肢が浮かばないわけではなかったが、たとえもう何も分からなくなっていたとしても、祖母が悲しむような気がした。
そこで助けてくれたのが、黒鋼の母だったのだ。彼女は黒鋼が全寮制の学校へ入学してしまってから、漬物や煮物などを持って時折顔を出してくれるようになっていた。
せめて学校へ行っている間くらい任せてほしいと、決して楽ではない介護を代わりに引き受けてくれた。
田植えや収穫の時期になると、時間を作っては夫婦揃って手伝いにも来てくれた。
もともとは農業で生計を立てていたわけではなかったため、所有している田んぼそのものは範囲が小さかったが、せめて祖母が生きている間だけは何ひとつ手放したくなかったファイにとって、それがどれほどありがたかったか。言葉にし尽くせないほど感謝している。
なぜそこまでしてくれるのかと、あの黒鋼と瓜二つの父に聞いたことがある。彼はただ懐かしそうに瞳を細め「なにも気にするな」と言って頭をグリグリと乱暴に撫でてくれるだけだった。その仕草が黒鋼と重なって、正直少し辛かった。
農作業へは、時おり幼い少女も一緒にやって来た。それが知世だった。黒鋼が父と瓜二つならば、知世は母親と瓜二つだった。
知世は年齢にしては少しませていて、いつもふんわりとした可愛らしいワンピースに身を包んでいた。
小さな子供と接する機会がなかったファイだが、彼女の大人びた発想や話し方には少々戸惑った。知世はよく兄への不満や、幼い頃の兄弟喧嘩についてなどを話して聞かせてくれた。
兄の話をするときの彼女は、怒っているようにツンと唇を尖らせることがあった。けれど、それは黒鋼の眉間の皺と同じなのだと、ファイにはすぐに分かった。
怒っているように見えても、必ずしも怒っているわけではない。ただ、遠くへ行って以来、全く顔を出してくれない兄へ対して、彼女なりの寂しさの表現なのだろうと思った。
知世と仲良くなるにつれて、ファイは彼女が羨ましくて仕方が無くなった。それは彼の父母に対しても同じだった。
彼らには黒鋼と血の繋がりがある。どんなに長く離れ離れだったとしても、どんなに遠くにいたとしても、黒鋼の帰る場所は彼らの元以外にありえない。強い絆の糸が、彼らを永遠に繋ぎとめる。
果たしてそれが自分と、そして今は何処にいるのか、生きているかすら知れない母との間にも、意味のあるものとして存在するのかは分からないけれど。
分かっているのは、ファイと黒鋼にはそれがないということだけだった。
黒鋼が帰って来ないならそれに口を挟むことも出来ないし、彼がこの町へ帰って来たとしても、会いに行くキッカケも持てない。
ただの友達だったなら、きっともっと単純で簡単だった。けれど、ファイにとって黒鋼はただの友達でも幼馴染でもなかった。
好きだったのだ。ずっと気づけないままでいたけれど、黒鋼と離れてみて初めて、これが恋という感情であることに気がついた。男であるとか女であるとか、いつの間にか好きになっていたのと一緒で、そんなハードルなど知らず知らずの間に越えていた。
それでも、とファイは思う。自分や、もしくは黒鋼が女であったなら。もっと早くにこの気持ちに気づくことが出来たのではないか。黒鋼を傷つけることもなかったのではないか。
今でも思い出す。中三の夏休み。花火をした、あの後のことを。青褪めて茫然とした、彼の表情を。
あの時は訳も分からず、ただひたすらこの傷ついた左目を隠すことで必死だった。こんな傷さえなかったら。あそこで、彼を受け入れてさえいたら。
そして、彼を見送らなければならなかったあの日、離れたくないのだと強く本心を打ち明けていたら。
何かが、違っただろうか。
*
「ごめんねー。会いに来れないで」
子猫の墓にしゃがみ込むと、ファイは水分がたっぷり含まれている子猫用の猫缶と、庭で咲いた小さな向日葵を墓前に添えた。
暫く来られなかったのは、祖母の他界が尾を引いていたこともあったが、久しぶりに黒鋼と再会し、そこで別れを告げたことが響いていたからだった。
情けないとは思うが、暫くの間は何もする気になれなくて、ずっと家に篭っていた。
けれど気にかけて訪れてくれる黒鋼の母や、無邪気な笑顔を見せてくれる知世に励まされて、どうにか持ち直した。
女々しいと思うし、未練がましいとも思うけれど、血の繋がりがなくとも関わってくれる黒鋼の家族がいるからこそ、彼と少しでも繋がっていられるような気がして。
いつかは一人で歩いていかねばと思う反面、それによって救われているのもまた事実だった。
「ここに来る前にね、おばあちゃん達にもこの向日葵、手向けてきたんだー。小さいけど、可愛くてキレイでしょ?」
祖母は畑仕事も大好きだったが、それ以上に草花を心から愛していた。
屋敷の広い庭では、彼女が死したあとも季節ごとに色とりどりの花が咲き続けるだろう。この向日葵が、小さくともこうして美しく咲いたように、これからも彼女が愛した草花たちが、一人遺されたファイとの、確かな絆になってくれるような気がした。
いずれ田んぼは手放すことになるだろうが、祖母が愛した草花達や小さな畑くらいは、自分が生きている間、ずっと守り続けていくつもりだった。
そしてもう一つ。ファイには夢がある。
それは祖母や祖父が経営していたという茶屋を、再びこの手で復活させることだった。
何かと風当たりの強い中、それでも祖父母は自分を引き取ってくれた。祖父とは最後まで打ち解けることは出来なかったが、母と、そしてファイにとって父にあたる人のことを思えば、彼もまた複雑だったのだ。
そんな二人に、こんな自分でも少しは返せるものがあるかもしれない。
本当は祖母と二人でやるのが夢だったけれど、彼女にはもうそれが出来ないから。
「おばあちゃん達、きっと喜んでくれるよね」
祖母が他界したことは、黒鋼の家族全員に口止めをした。彼には、知らせないでほしいと。
もう自分のことで余計な心配はかけたくなかった。黒鋼はファイの祖母のことをとても慕ってくれていたから、なおさら耳に入れるのが辛かったのだ。
彼には彼の道だけを真っ直ぐに進んでほしい。大切な人がいるなら、なおさら選択は間違っていなかったと思う。いずれ知ることになるとしても、それはきっと当分先のことになるだろうから。
ファイには、黒鋼がまた暫くの間ここへ戻ってこないであろうことが、なんとなく分かっていた。
「でもさー、ちょっと酷いよねー。久しぶりなのに、ここに来る時間もないなんてさー?」
ここにはいない人間に対して、ファイはおどけて笑った。
たとえ時間があったとしても、きっと黒鋼はここへは来なかったし、ファイもまた、あれ以上彼といるのは辛かったから。
久しぶりに黒鋼と並んで歩きながら、ファイは彼がどれほど自分のせいで苦しんでいるのかが、痛いほど分かった。
だからこそ、大切な人がいるのだと知ったとき、胸が張り裂けそうになりながらもファイは安堵した。これでやっと、彼を解放できると思った。
さよならを告げながら初めて彼の『名』を呼んだとき、果たして自分は笑っていられただろうか。ファイには分からない。
ファイはそれから何気ないことを子猫の墓に向かって一言二言話をすると、立ち上がった。
「じゃあ行くね。また来るから」
そのときだった。
ミー、というか細い声がした。
「?」
辺りを見回しても、何もない。耳を澄ましてみるが、弱々しく蝉の声がするだけで何も聞こえなかった。再び背を向けようとして、また聞こえた。
「なんだろう?」
ファイはもしや、と思い、今はもう中を覗く程度しか出来ない神木の穴の中を覗き込んだ。すると、いた。
「あっ」
真っ黒の子猫たちが数匹、元気よくミーミーと鳴いている。ファイは思わず目尻を下げた。
「わぁ、可愛いー!」
丸々としたその子猫たちは、きっと母猫の帰りを待っているのだろう。まさかここを出産の場所に選ぶ猫がいたなんて。
しばらく眺めていると、彼らに埋もれるようにして、一匹の子猫が小さく丸まっているのに気がついた。他の兄弟達より目に見えて小さく、ぐったりとしている。
それは、黒猫ばかりの中に一匹だけ混ざった、白猫だった。
ファイは子猫たちを恐がらせないようにそっと手を伸ばした。一番痩せていて、一番元気のないその白猫を胸に抱いた。
骨と皮しかない小さな身体は、時折弱々しく震えていた。おそらくこの子は、もう長くはもたない。そっと指先で頭を撫でた。
すると、子猫は琥珀色の瞳を半分だけ開けて「ちぃ」と鳴いた。
「チィ?」
「ちぃー……」
ファイは、なぜだかどうしようもなく込み上げてくる涙をぐっと堪えた。今にも尽きかけている命。それでも甲高く鳴くその声は、必死で生きようとしているように聞こえた。そっと、土の香りがする痩せた身体に頬擦りをする。
「大丈夫だよ」
自分は、もう何も出来ない子供じゃない。この小さな命を、きっと救うことが出来る。母猫にそれが出来ずとも、この手でなら。
それはエゴかもしれない。たとえ命が尽きようとも、この子は母猫の傍にいたいかもしれない。それでも。
「さぁ行こう。オレも、凄く幸せだったんだ。お母さんがいなくても、とてもね」
ファイは、その白い子猫に『チィ』と名づけた。
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「そうかい、そんなことがあったのかい」
祖母の膝に縋りついて泣いているファイの頭を、綿菓子に触れるような優しさで撫でているのは、しわしわの優しい手だった。
ファイは祖父に殴られて痛む頬を祖母の膝に擦りつけながら「うん」と答えた。
「黒たんがね、にゃんこをうめたの」
身を起こしたファイの顔は涙ですっかり濡れていて、祖母はそれをそっと拭ってくれた。
「辛かったねぇ」
「かわいそうだった……」
「夏に生まれる猫はね、とても弱いんだよ。白い子は、もっと弱いの。もしお母さん猫が傍にいても、どうにもならないことだってあるんだよ」
その言葉を聞きながら、ファイはとても悲しかった。本当に悲しかった。そして恐かった。
「でも黒たんは、お母さんにゃんこがいないから死んだって、いってたよ」
母猫がいれば、あの子猫は助かったのではないか。結局は寂しくて死んでしまったのではないか。それなら、どんなに叱られても、殴られても、連れて帰ってくればよかった。そうしたら守れたかもしれないのに。雨の中で穴を掘る黒鋼が泣いていたことに、ファイは気がついていた。
自分がもっと勇気を出していれば、黒鋼にあんな悲しい思いをさせなくて済んだかもしれないのに。そう思うと、ファイの胸は今にも押しつぶされそうだった。
祖母はどこか悲しそうに、目尻の皺を一層深くした。涙を拭うのと一緒に、痛む頬も撫でてくれた。
「おばあちゃん、オレも死ぬの? お母さんとはなれちゃったから、オレも死んじゃうのかな?」
そうしたら、きっともう黒鋼とも遊べないし、こうして祖母に撫でてももらえなくなってしまう。もしそうなのだとしたら、母と別れなければいけなかったあの日、もっと我侭を言えばよかったのだろうか。傍にいてほしいと、離れたくないと、ちゃんと自分の心を声に出して言えばよかった。
祖母はそっと首を左右に振った。
「ファイちゃんは、死なないのよ」
「どうして?」
「ファイちゃんはね、強い子だから。だから、死なないの」
そう言って、祖母はファイを抱きしめてくれた。温かくて、少しだけ焦げた砂糖みたいな甘い香りがした。
ファイはそれを思いっきり鼻に吸い込みながら、また涙を流した。
「おばあちゃんは、死なないで。オレとずっといっしょにいてね」
祖母は、ただ静かにファイの背中を撫で続けた。
*
祖母が他界したのは、梅雨に入る少し前の時期のことだった。黒鋼と二年半ぶりに顔を合わせたとき、彼女はすでに天国へ旅立った後だった。
それ以前から物忘れが激しくなり、目もほとんど見えず、寝たきりの生活を送る状態が続いていた。
死ぬ間際には、彼女はもうファイをファイとして認識してはいなかった。不自由な目で、ただファイに向かって娘の名を呼んでいた。ファイにとっては、母にあたる人の名を。
緩やかに感覚を失い、穏やかに幼子に返りながら、祖母は寂しかったのだと思う。ファイは日に日に自分が母と似てくることを知っていた。そんな自分は、果たして最期の瞬間まで、彼女の孤独を埋めることは出来たのだろうか。
着替えや食事、入浴や排泄にいたるまで、ファイは祖母の面倒を見た。ただ、学業を疎かにするわけにはいかず、丸一日家に篭っているわけにもいかなかった。学校を辞める、という選択肢が浮かばないわけではなかったが、たとえもう何も分からなくなっていたとしても、祖母が悲しむような気がした。
そこで助けてくれたのが、黒鋼の母だったのだ。彼女は黒鋼が全寮制の学校へ入学してしまってから、漬物や煮物などを持って時折顔を出してくれるようになっていた。
せめて学校へ行っている間くらい任せてほしいと、決して楽ではない介護を代わりに引き受けてくれた。
田植えや収穫の時期になると、時間を作っては夫婦揃って手伝いにも来てくれた。
もともとは農業で生計を立てていたわけではなかったため、所有している田んぼそのものは範囲が小さかったが、せめて祖母が生きている間だけは何ひとつ手放したくなかったファイにとって、それがどれほどありがたかったか。言葉にし尽くせないほど感謝している。
なぜそこまでしてくれるのかと、あの黒鋼と瓜二つの父に聞いたことがある。彼はただ懐かしそうに瞳を細め「なにも気にするな」と言って頭をグリグリと乱暴に撫でてくれるだけだった。その仕草が黒鋼と重なって、正直少し辛かった。
農作業へは、時おり幼い少女も一緒にやって来た。それが知世だった。黒鋼が父と瓜二つならば、知世は母親と瓜二つだった。
知世は年齢にしては少しませていて、いつもふんわりとした可愛らしいワンピースに身を包んでいた。
小さな子供と接する機会がなかったファイだが、彼女の大人びた発想や話し方には少々戸惑った。知世はよく兄への不満や、幼い頃の兄弟喧嘩についてなどを話して聞かせてくれた。
兄の話をするときの彼女は、怒っているようにツンと唇を尖らせることがあった。けれど、それは黒鋼の眉間の皺と同じなのだと、ファイにはすぐに分かった。
怒っているように見えても、必ずしも怒っているわけではない。ただ、遠くへ行って以来、全く顔を出してくれない兄へ対して、彼女なりの寂しさの表現なのだろうと思った。
知世と仲良くなるにつれて、ファイは彼女が羨ましくて仕方が無くなった。それは彼の父母に対しても同じだった。
彼らには黒鋼と血の繋がりがある。どんなに長く離れ離れだったとしても、どんなに遠くにいたとしても、黒鋼の帰る場所は彼らの元以外にありえない。強い絆の糸が、彼らを永遠に繋ぎとめる。
果たしてそれが自分と、そして今は何処にいるのか、生きているかすら知れない母との間にも、意味のあるものとして存在するのかは分からないけれど。
分かっているのは、ファイと黒鋼にはそれがないということだけだった。
黒鋼が帰って来ないならそれに口を挟むことも出来ないし、彼がこの町へ帰って来たとしても、会いに行くキッカケも持てない。
ただの友達だったなら、きっともっと単純で簡単だった。けれど、ファイにとって黒鋼はただの友達でも幼馴染でもなかった。
好きだったのだ。ずっと気づけないままでいたけれど、黒鋼と離れてみて初めて、これが恋という感情であることに気がついた。男であるとか女であるとか、いつの間にか好きになっていたのと一緒で、そんなハードルなど知らず知らずの間に越えていた。
それでも、とファイは思う。自分や、もしくは黒鋼が女であったなら。もっと早くにこの気持ちに気づくことが出来たのではないか。黒鋼を傷つけることもなかったのではないか。
今でも思い出す。中三の夏休み。花火をした、あの後のことを。青褪めて茫然とした、彼の表情を。
あの時は訳も分からず、ただひたすらこの傷ついた左目を隠すことで必死だった。こんな傷さえなかったら。あそこで、彼を受け入れてさえいたら。
そして、彼を見送らなければならなかったあの日、離れたくないのだと強く本心を打ち明けていたら。
何かが、違っただろうか。
*
「ごめんねー。会いに来れないで」
子猫の墓にしゃがみ込むと、ファイは水分がたっぷり含まれている子猫用の猫缶と、庭で咲いた小さな向日葵を墓前に添えた。
暫く来られなかったのは、祖母の他界が尾を引いていたこともあったが、久しぶりに黒鋼と再会し、そこで別れを告げたことが響いていたからだった。
情けないとは思うが、暫くの間は何もする気になれなくて、ずっと家に篭っていた。
けれど気にかけて訪れてくれる黒鋼の母や、無邪気な笑顔を見せてくれる知世に励まされて、どうにか持ち直した。
女々しいと思うし、未練がましいとも思うけれど、血の繋がりがなくとも関わってくれる黒鋼の家族がいるからこそ、彼と少しでも繋がっていられるような気がして。
いつかは一人で歩いていかねばと思う反面、それによって救われているのもまた事実だった。
「ここに来る前にね、おばあちゃん達にもこの向日葵、手向けてきたんだー。小さいけど、可愛くてキレイでしょ?」
祖母は畑仕事も大好きだったが、それ以上に草花を心から愛していた。
屋敷の広い庭では、彼女が死したあとも季節ごとに色とりどりの花が咲き続けるだろう。この向日葵が、小さくともこうして美しく咲いたように、これからも彼女が愛した草花たちが、一人遺されたファイとの、確かな絆になってくれるような気がした。
いずれ田んぼは手放すことになるだろうが、祖母が愛した草花達や小さな畑くらいは、自分が生きている間、ずっと守り続けていくつもりだった。
そしてもう一つ。ファイには夢がある。
それは祖母や祖父が経営していたという茶屋を、再びこの手で復活させることだった。
何かと風当たりの強い中、それでも祖父母は自分を引き取ってくれた。祖父とは最後まで打ち解けることは出来なかったが、母と、そしてファイにとって父にあたる人のことを思えば、彼もまた複雑だったのだ。
そんな二人に、こんな自分でも少しは返せるものがあるかもしれない。
本当は祖母と二人でやるのが夢だったけれど、彼女にはもうそれが出来ないから。
「おばあちゃん達、きっと喜んでくれるよね」
祖母が他界したことは、黒鋼の家族全員に口止めをした。彼には、知らせないでほしいと。
もう自分のことで余計な心配はかけたくなかった。黒鋼はファイの祖母のことをとても慕ってくれていたから、なおさら耳に入れるのが辛かったのだ。
彼には彼の道だけを真っ直ぐに進んでほしい。大切な人がいるなら、なおさら選択は間違っていなかったと思う。いずれ知ることになるとしても、それはきっと当分先のことになるだろうから。
ファイには、黒鋼がまた暫くの間ここへ戻ってこないであろうことが、なんとなく分かっていた。
「でもさー、ちょっと酷いよねー。久しぶりなのに、ここに来る時間もないなんてさー?」
ここにはいない人間に対して、ファイはおどけて笑った。
たとえ時間があったとしても、きっと黒鋼はここへは来なかったし、ファイもまた、あれ以上彼といるのは辛かったから。
久しぶりに黒鋼と並んで歩きながら、ファイは彼がどれほど自分のせいで苦しんでいるのかが、痛いほど分かった。
だからこそ、大切な人がいるのだと知ったとき、胸が張り裂けそうになりながらもファイは安堵した。これでやっと、彼を解放できると思った。
さよならを告げながら初めて彼の『名』を呼んだとき、果たして自分は笑っていられただろうか。ファイには分からない。
ファイはそれから何気ないことを子猫の墓に向かって一言二言話をすると、立ち上がった。
「じゃあ行くね。また来るから」
そのときだった。
ミー、というか細い声がした。
「?」
辺りを見回しても、何もない。耳を澄ましてみるが、弱々しく蝉の声がするだけで何も聞こえなかった。再び背を向けようとして、また聞こえた。
「なんだろう?」
ファイはもしや、と思い、今はもう中を覗く程度しか出来ない神木の穴の中を覗き込んだ。すると、いた。
「あっ」
真っ黒の子猫たちが数匹、元気よくミーミーと鳴いている。ファイは思わず目尻を下げた。
「わぁ、可愛いー!」
丸々としたその子猫たちは、きっと母猫の帰りを待っているのだろう。まさかここを出産の場所に選ぶ猫がいたなんて。
しばらく眺めていると、彼らに埋もれるようにして、一匹の子猫が小さく丸まっているのに気がついた。他の兄弟達より目に見えて小さく、ぐったりとしている。
それは、黒猫ばかりの中に一匹だけ混ざった、白猫だった。
ファイは子猫たちを恐がらせないようにそっと手を伸ばした。一番痩せていて、一番元気のないその白猫を胸に抱いた。
骨と皮しかない小さな身体は、時折弱々しく震えていた。おそらくこの子は、もう長くはもたない。そっと指先で頭を撫でた。
すると、子猫は琥珀色の瞳を半分だけ開けて「ちぃ」と鳴いた。
「チィ?」
「ちぃー……」
ファイは、なぜだかどうしようもなく込み上げてくる涙をぐっと堪えた。今にも尽きかけている命。それでも甲高く鳴くその声は、必死で生きようとしているように聞こえた。そっと、土の香りがする痩せた身体に頬擦りをする。
「大丈夫だよ」
自分は、もう何も出来ない子供じゃない。この小さな命を、きっと救うことが出来る。母猫にそれが出来ずとも、この手でなら。
それはエゴかもしれない。たとえ命が尽きようとも、この子は母猫の傍にいたいかもしれない。それでも。
「さぁ行こう。オレも、凄く幸せだったんだ。お母さんがいなくても、とてもね」
ファイは、その白い子猫に『チィ』と名づけた。
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月の庭
「また飲んでんのかよ」
夜の薄暗い中を、月明かりがほのかに照らしていた。
黒鋼が縁側に顔を出すと、そこにどっかりと腰を落ち着けていた父が、酒の入ったグラスをひょいと持ち上げて笑った。
苦笑しつつ、その横に同じように胡坐をかいて腰を落ち着けた。
父の膝元には、知世が作ったクッキーの包みが置いてある。黒鋼も思い出したように、ポケットからそれを取り出した。
「やっちまった……」
それは見事に潰れて、粉々とまではいかないが相当食べやすいサイズにまで砕けている。父が笑う。
「知世に知れたら大事だな、これは」
妹なら、もう眠っているだろう。証拠を隠滅するには、今ここで食べてしまえばそれで済むことだ。
「言うなよ」
「さぁな……父親ってのは娘が一番可愛いからな」
黒鋼は舌打ちをすると、父と笑い合った。
ふんわりと蚊取り線香の香りが漂う庭では、気の早い鈴虫が涼やかな音色を奏でている。
「母さんがブツブツ言ってたぞ。もっと時間取れなかったのか」
父はグラスに新たな酒を注いでいた。黒鋼は砕けたクッキーを口に放り込む。本当に、甘みが少なく食べやすい。
「バイト入れちまってんだよ」
「小遣い、ほとんど使ってないな?」
「……ああ」
「まったく可愛げのない息子を持ったもんだ、俺たちは」
両親には、昼間の席で進路のことは話した。このまま向こうにいて、大学へ進学するつもりだった。必死に働いているのは、ただファイを忘れるためだけでなく、寮を出た後の生活を見越してのことだった。
自分にはまだ一人で生きていくだけの力がないことは、ちゃんと分かっている。大学の費用にしたってそうだ。けど、だからといって甘え続けるのは性に合わない。少しでも彼らの負担を軽減したかった。
本当は卒業したらすぐにでも家を継げば一番楽だし、家族も安心するということは分かっている。だが、黒鋼には黒鋼なりにやりたいこともある。反対されても無理に押し切るほど、それに賭けていたわけではなかったのだが。
子供の頃は、ただ漠然と父や母の手伝いをしたいと考えていたものだ。民宿を継ぐこと自体に異存はない。だがそれを昼間の席で言うと、父は中途半端なことを考えるなと、黒鋼を叱咤した。
おかげで、もやもやとしていたものが吹っ切れたような気がする。
「今日のは見事におまえ好みだ」
父はぼんやりと物思いに耽っていた黒鋼に向かって、満足そうに微笑むと言った。
知世の作ったクッキー。けれど、おそらくファイの計らいなのだろう。そうじゃなければ、きっとあの可愛げのない妹のことだ。胸焼けがするくらい甘いクッキーに仕上がっていたに違いなかった。
口の中に広がる甘さは、泣きたくなるくらい優しいものだった。
黒鋼はぼんやりと月を見上げた。心の中が空っぽだった。父も同じように、見事な丸い月を見上げていた。やがて、彼はおもむろに語り出した。
「今の知世よりも、もう少し子供の頃だった。母さんが、この田舎町に来たのは」
「母さん、ここの生まれじゃねぇのか」
父が頷いた。黒鋼は、そういえば父や母がここでどんな風に出会い、育ったのかをよくは知らない。ただ、幼馴染として幼い頃から共にあったということ以外は。
ふと、ファイと出会った校庭の桜の木を思い出した。薄紅の花びらの中、初めて会話をしたあの瞬間のことを。
「都会のお嬢様学校から来て、なかなか環境に馴染めなかった」
「じゃあ……」
「ああ、嫌な話だがな。余所者に、ここはあまり優しい土地じゃあない」
どこかで聞いたような話だと思った。それもそのはずで、父の話を聞けば聞くほど、重なるものを感じてしまう。
「今の知世にそっくりでな、初めて見たときは驚いた。人形かと思った。男も女も、鼻垂らした小汚いガキしかいない中にな、母さんは……」
父は、ふいに照れたように頭を掻いた。彼はきっと、初めて母を見た瞬間には恋に落ちていたのだろう。あのときの自分のように、小さな人形のような子供に、心から惹かれてしまったのだ。
黒鋼は、手の中で歪なクッキーを弄んだ。
「父さんは、母さんを守ったのか」
「どうだろうな。俺は必死だったが、俺の知らないところでは、辛い思いをしていたのかもしれないな」
「逃げようと思ったことは……」
父の懐かしそうに細められたその瞳の先には、やはり美しい月が神々しく光り輝いていた。
「何度もあった。母さんの手を引いて、山を降りて。だが、ガキが行けるところなんざ高が知れてる」
すぐに掴まって、たっぷり説教を食らった。そう父は言った。
黒鋼は、この父の息子として生まれて、初めて己を恥ずかしいと思った。自分にはそんな度胸はなかった。ただ胸に誓うだけで、いざ逃げ出したのは己一人だった。
父と母は、結婚に漕ぎつけるまでにも相当な苦労があったようだった。何年経ったとしても、母が他所からやって来た事実は変わらない。父の両親が、特に反対したそうだ。
黒鋼は優しかった祖父や祖母しか記憶になかった。だから、そんな彼らが父と母の仲を最後まで認めていなかったということに、少なからずショックを受けた。
だが、結局は根気と熱意で粘り勝ちしたのだという。
「俺は一人っ子だったからな。こんなボロ宿なんざ捨ててやるなんて言って、脅してやったのさ」
それに、俺たちには味方もいたからなと、父は悪戯が成功したような、誇らしげな顔で笑っていた。その味方とやらが一体誰であるかを問うよりも、黒鋼はそんな父の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
暫くはクッキーを噛み砕く音と、時おり父がグラスに酒を注ぐ音だけが辺りに響いていた。やがて、明るかった世界が黒に染まった。見上げれば、厚く大きな雲が月を隠していた。
なぜだろう。今更になって、黒鋼の中にも闇が満ちてゆく。ただ乾いた風が吹きぬけるだけだった心に、纏わりつくような混沌とした闇が。
底冷えするような喪失感が、今更のようにじわじわと足元から這い上がってくる。
「しょっちゅう帰って来い、と言いたいところだが……また、暫く戻らないつもりだろう?」
まだ逃げ続けるのかと、そう言われているような気がした。
父は、自分がまさかファイを相手に恋をして、そして逃げ出したなんてことは知らないはずだ。今日まさに、終わってしまったことも。
本当は互いに思い合っていたことなど、黒鋼でさえ知らなかった。一体何から、どれほど逃げることが出来たというのだろう。
黙ったままの息子に、父は言った。
「とりあえず、酒が飲める歳になったら一度は戻って来い」
「……わかった」
父の手が伸びてきた。昔は、もっと大きいと感じていた手だった。それが、黒鋼の髪をくしゃくしゃと乱す。
「そしたらまた俺の昔話に付き合え」
そして、彼はグラスと酒瓶を持って立ち上がった。早く寝ろよという一言を残して、行ってしまう。
黒鋼は空っぽになった包装紙を握りつぶした。それからまた空を見上げる。月は、雲に覆われたままだった。
あの厚い雲の向こうには、美しい月が確かに存在している。今すぐにでも会える距離にファイがいることと、それは同じことだった。
けれど黒鋼にはあの雲を吹き飛ばすだけの人知を超えた力もないし、父のように、真っ直ぐに愛するものへの思いを貫き通す強ささえもなかった。
思わず、くしゃりと髪を乱す。口元に自嘲的な笑みを浮かべ、震える息を吐き出した。
脳裏では、背中にかかったファイの言葉が幾度も再生されていた。
――君が好きだった。
月はまだ見えない。ファイに会いたいと思った。会えるときには会いに行かないで、会えなくなってから初めて、こんなにも切望している。もう戻れやしないことくらい嫌というほど知っているのに。
黒鋼は、いつまでもその黒い雲を見つめていた。せめて再び、微かであったとしても月が光を射すまでは。
どうせ今夜は眠れない。このまま朝を迎えて、そして帰るつもりだった。
きっと、帰りのバスの中で流れゆく景色を見つめながら、自分はあの優しい薄荷の味を思い出すのだろう。
←戻る ・ 次へ→
「また飲んでんのかよ」
夜の薄暗い中を、月明かりがほのかに照らしていた。
黒鋼が縁側に顔を出すと、そこにどっかりと腰を落ち着けていた父が、酒の入ったグラスをひょいと持ち上げて笑った。
苦笑しつつ、その横に同じように胡坐をかいて腰を落ち着けた。
父の膝元には、知世が作ったクッキーの包みが置いてある。黒鋼も思い出したように、ポケットからそれを取り出した。
「やっちまった……」
それは見事に潰れて、粉々とまではいかないが相当食べやすいサイズにまで砕けている。父が笑う。
「知世に知れたら大事だな、これは」
妹なら、もう眠っているだろう。証拠を隠滅するには、今ここで食べてしまえばそれで済むことだ。
「言うなよ」
「さぁな……父親ってのは娘が一番可愛いからな」
黒鋼は舌打ちをすると、父と笑い合った。
ふんわりと蚊取り線香の香りが漂う庭では、気の早い鈴虫が涼やかな音色を奏でている。
「母さんがブツブツ言ってたぞ。もっと時間取れなかったのか」
父はグラスに新たな酒を注いでいた。黒鋼は砕けたクッキーを口に放り込む。本当に、甘みが少なく食べやすい。
「バイト入れちまってんだよ」
「小遣い、ほとんど使ってないな?」
「……ああ」
「まったく可愛げのない息子を持ったもんだ、俺たちは」
両親には、昼間の席で進路のことは話した。このまま向こうにいて、大学へ進学するつもりだった。必死に働いているのは、ただファイを忘れるためだけでなく、寮を出た後の生活を見越してのことだった。
自分にはまだ一人で生きていくだけの力がないことは、ちゃんと分かっている。大学の費用にしたってそうだ。けど、だからといって甘え続けるのは性に合わない。少しでも彼らの負担を軽減したかった。
本当は卒業したらすぐにでも家を継げば一番楽だし、家族も安心するということは分かっている。だが、黒鋼には黒鋼なりにやりたいこともある。反対されても無理に押し切るほど、それに賭けていたわけではなかったのだが。
子供の頃は、ただ漠然と父や母の手伝いをしたいと考えていたものだ。民宿を継ぐこと自体に異存はない。だがそれを昼間の席で言うと、父は中途半端なことを考えるなと、黒鋼を叱咤した。
おかげで、もやもやとしていたものが吹っ切れたような気がする。
「今日のは見事におまえ好みだ」
父はぼんやりと物思いに耽っていた黒鋼に向かって、満足そうに微笑むと言った。
知世の作ったクッキー。けれど、おそらくファイの計らいなのだろう。そうじゃなければ、きっとあの可愛げのない妹のことだ。胸焼けがするくらい甘いクッキーに仕上がっていたに違いなかった。
口の中に広がる甘さは、泣きたくなるくらい優しいものだった。
黒鋼はぼんやりと月を見上げた。心の中が空っぽだった。父も同じように、見事な丸い月を見上げていた。やがて、彼はおもむろに語り出した。
「今の知世よりも、もう少し子供の頃だった。母さんが、この田舎町に来たのは」
「母さん、ここの生まれじゃねぇのか」
父が頷いた。黒鋼は、そういえば父や母がここでどんな風に出会い、育ったのかをよくは知らない。ただ、幼馴染として幼い頃から共にあったということ以外は。
ふと、ファイと出会った校庭の桜の木を思い出した。薄紅の花びらの中、初めて会話をしたあの瞬間のことを。
「都会のお嬢様学校から来て、なかなか環境に馴染めなかった」
「じゃあ……」
「ああ、嫌な話だがな。余所者に、ここはあまり優しい土地じゃあない」
どこかで聞いたような話だと思った。それもそのはずで、父の話を聞けば聞くほど、重なるものを感じてしまう。
「今の知世にそっくりでな、初めて見たときは驚いた。人形かと思った。男も女も、鼻垂らした小汚いガキしかいない中にな、母さんは……」
父は、ふいに照れたように頭を掻いた。彼はきっと、初めて母を見た瞬間には恋に落ちていたのだろう。あのときの自分のように、小さな人形のような子供に、心から惹かれてしまったのだ。
黒鋼は、手の中で歪なクッキーを弄んだ。
「父さんは、母さんを守ったのか」
「どうだろうな。俺は必死だったが、俺の知らないところでは、辛い思いをしていたのかもしれないな」
「逃げようと思ったことは……」
父の懐かしそうに細められたその瞳の先には、やはり美しい月が神々しく光り輝いていた。
「何度もあった。母さんの手を引いて、山を降りて。だが、ガキが行けるところなんざ高が知れてる」
すぐに掴まって、たっぷり説教を食らった。そう父は言った。
黒鋼は、この父の息子として生まれて、初めて己を恥ずかしいと思った。自分にはそんな度胸はなかった。ただ胸に誓うだけで、いざ逃げ出したのは己一人だった。
父と母は、結婚に漕ぎつけるまでにも相当な苦労があったようだった。何年経ったとしても、母が他所からやって来た事実は変わらない。父の両親が、特に反対したそうだ。
黒鋼は優しかった祖父や祖母しか記憶になかった。だから、そんな彼らが父と母の仲を最後まで認めていなかったということに、少なからずショックを受けた。
だが、結局は根気と熱意で粘り勝ちしたのだという。
「俺は一人っ子だったからな。こんなボロ宿なんざ捨ててやるなんて言って、脅してやったのさ」
それに、俺たちには味方もいたからなと、父は悪戯が成功したような、誇らしげな顔で笑っていた。その味方とやらが一体誰であるかを問うよりも、黒鋼はそんな父の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
暫くはクッキーを噛み砕く音と、時おり父がグラスに酒を注ぐ音だけが辺りに響いていた。やがて、明るかった世界が黒に染まった。見上げれば、厚く大きな雲が月を隠していた。
なぜだろう。今更になって、黒鋼の中にも闇が満ちてゆく。ただ乾いた風が吹きぬけるだけだった心に、纏わりつくような混沌とした闇が。
底冷えするような喪失感が、今更のようにじわじわと足元から這い上がってくる。
「しょっちゅう帰って来い、と言いたいところだが……また、暫く戻らないつもりだろう?」
まだ逃げ続けるのかと、そう言われているような気がした。
父は、自分がまさかファイを相手に恋をして、そして逃げ出したなんてことは知らないはずだ。今日まさに、終わってしまったことも。
本当は互いに思い合っていたことなど、黒鋼でさえ知らなかった。一体何から、どれほど逃げることが出来たというのだろう。
黙ったままの息子に、父は言った。
「とりあえず、酒が飲める歳になったら一度は戻って来い」
「……わかった」
父の手が伸びてきた。昔は、もっと大きいと感じていた手だった。それが、黒鋼の髪をくしゃくしゃと乱す。
「そしたらまた俺の昔話に付き合え」
そして、彼はグラスと酒瓶を持って立ち上がった。早く寝ろよという一言を残して、行ってしまう。
黒鋼は空っぽになった包装紙を握りつぶした。それからまた空を見上げる。月は、雲に覆われたままだった。
あの厚い雲の向こうには、美しい月が確かに存在している。今すぐにでも会える距離にファイがいることと、それは同じことだった。
けれど黒鋼にはあの雲を吹き飛ばすだけの人知を超えた力もないし、父のように、真っ直ぐに愛するものへの思いを貫き通す強ささえもなかった。
思わず、くしゃりと髪を乱す。口元に自嘲的な笑みを浮かべ、震える息を吐き出した。
脳裏では、背中にかかったファイの言葉が幾度も再生されていた。
――君が好きだった。
月はまだ見えない。ファイに会いたいと思った。会えるときには会いに行かないで、会えなくなってから初めて、こんなにも切望している。もう戻れやしないことくらい嫌というほど知っているのに。
黒鋼は、いつまでもその黒い雲を見つめていた。せめて再び、微かであったとしても月が光を射すまでは。
どうせ今夜は眠れない。このまま朝を迎えて、そして帰るつもりだった。
きっと、帰りのバスの中で流れゆく景色を見つめながら、自分はあの優しい薄荷の味を思い出すのだろう。
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永遠の日
ここはまるで、時間が止まってしまっているのではないかとさえ思う。たった一人で飛び出してしまったこの町は、あの頃のまま何もかもが、ただそこにあった。
古めかしいばかりだったバス停も、広がる田畑も、山々も、そして空さえも。
生まれてからここで育った年月の方がずっと長いはずなのに、もう何十年もの時間が流れてしまったかのような錯覚を抱いている。だからこそ、自分だけが随分と遠くへ行って変わってしまったような、そんな虚しさにも似た思いを抱く。
黒鋼はバス停から続く道のりを、ひたすら足元だけを見て自宅へ向かった。
*
当たり前といえば当たり前なのだが、自宅の方もまるで変わっていなかった。せいぜい農作業用のトラックが新しくなっていただとか、畑で育てる野菜の種類が増えていたとか、その程度だろうか。
出迎えてくれた母はさらに背が伸びた黒鋼を見て目を丸くすると「お父さんかと思ったわ」と言って笑っていた。
それからすぐに、黒鋼はまずは庭の鋼丸の墓前に手を合わせた。そこは毎日のように知世が花を供えているという。摘み取られた百日紅の花を見つめながら、あの秘密基地の子猫の墓へは、今もファイが行っているのだろうかと思った。
久しぶりに、行ってみようか。そう考えて、重苦しい息をつく。あの場所で過ごした時間を、決して忘れてしまいたいわけではなかった。けれど、もしやのことを考えると正直、怖かった。
会いたくないわけではない。かといって会いたいわけでも、ないような気がする。それら全てから逃げ出したという自責の念が、黒鋼を情けなくも臆病にさせていた。
「黒鋼ー、早く手を洗ってらっしゃいな。お父さんが待ってるわ」
「……わかった」
沈み込みそうになった黒鋼の思考を、縁側から顔を出した母の声が断ち切った。
*
茶の間に顔を出すと、すでにビールで一杯やっていた父が「おお!」と大きな声を上げた。母もだが、父もなんら変わりないようで安心する。
「なんだ、随分と久しぶりじゃないか。この親不孝者め」
豪快に笑う父と向かい合わせの形で胡坐をかく。テーブルの上には懐かしい料理が勢ぞろいしていた。煮物や厚焼き玉子、畑で収穫した野菜で作った漬物などに加え、中心にある丸い桶にはみっしりと散らし寿司が詰まっていた。何か祝い事やイベントがあると、この家では昔からこれと決まっている。
悪かったよ、と答える黒鋼に、父がふっと目元を和らげた。
「変わりはないか?」
「ああ。なんとかやってる」
「まぁ一杯やれ」
伏せてあったグラスをひっくり返し、ビールを注ごうとする父を手で制す。
「俺にはまだ早ぇよ」
「そうか? 見た目だけならもう立派に一人前の男だがなぁ」
「老けてんのはガキの頃からだよ」
「お父さんたら、悪ふざけばかりなのよ。黒鋼からもちゃんと言ってちょうだい」
苦笑いの母が、黒鋼の傍らに膝をつくと冷えた麦茶を注いでくれた。短く礼を言うと、母は忙しそうにまた台所へ消えてしまう。
「はしゃいでるのは母さんの方だ。おまえが戻ると言った日から、あの調子でずっと落ち着かないんだからな」
こっそりと耳打ちするような声のトーンで顔を寄せてくる父に、黒鋼は自然と笑みが込み上げる。要するに、二人とも心底喜んでくれているのだ。ずっと帰らないままでいたことを、今更ながらに申し訳なく感じた。
「知世はどうした?」
「お友達のところよ。お菓子を作るんですって、朝から飛び出して行っちゃったわ」
再び顔を出した母が、貝のお吸い物をよそった碗を盆に乗せてやってきた。母の顔にはハッキリと『しょうがない子なんだから』と書かれている。
「ちょっとはでかくなったのか、アイツは」
「なぁに、チビのまんまさ。ほら、腹が空いただろう。そろそろ始めよう」
「お父さんはもう始めちゃってるでしょう?」
「まぁまぁ、母さんも」
母の顔には、やっぱり『しょうがない人ね』という文字が書かれているような気がした。
*
そろそろ夕暮れも間近という時間帯になっても、知世は帰ってこなかった。
父はほろ酔いのおぼつかない足取りで、畑を見てくると言って出て行ってしまった。
黒鋼は台所で母の片付けの手伝いをしていた。小さい頃は頼んでもしてくれなかったのにね、などと言って母は嬉しそうに食器を洗っていた。
「お父さんたらご機嫌ね。いつもならお酒を飲んだらすぐに寝ちゃう人なのに」
よっぽど嬉しかったのよ、という言葉に黒鋼は笑った。照れ臭いような気持ちもあるけれど、離れてみなければ、本当の意味で家族のありがたみなど知らないままだったのかもしれない。
知世の分だけを残して、空になった食器を次から次へと運びながら、黒鋼は改めて横に並んだ母の小ささに少しだけ胸が痛んだ。
こんなに小さな人だったろうか。父だってそうだ。幼い頃は、もっともっと大きかった。
二年半という時間は決して長いものではなかったけれど、短いものでもなかったのだということを思い知らされた気がする。
彼はどう変わっただろう。記憶の中のまま、細くて幼いままだろうか。もしまた会うとしたら、あの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうか。おかしな呼び方で、この名を呼んでくれるだろうか。
俯いてぼんやりとしていると、母がひょい、と顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「……いや」
「ねぇ黒鋼。母さん、ちょっとお願いしたいことがあるの。いい?」
「ああ」
母は、知世を迎えに行って欲しいと言った。
黒鋼は窓の外へ目を向ける。夕暮れの空に、ひぐらしの声がこだましていた。漠然と、予感めいたものがしていた。
「……どこにいる?」
「お友達の家なの。あのね――」
母が告げた、妹のいる場所。
黒鋼は、悟られぬ程度に息を詰めた。
*
ここも、何一つ変わらない。
小高い位置にある、大きな屋敷。朽ちて物置と化している元茶屋の建物。一気に、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。
今にもこの砂利の敷詰められた坂道を、白くて小さな子供が腰の曲がった優しそうなおばあさんと手を繋いで降りてきそうで、黒鋼は茜色の空の下で瞳を細めた。
道々、ずっと胸が騒いでいた。迷いや葛藤や罪の意識が渦を巻いていた。
知世のことがなければ、おそらくここへ来ることはなかっただろう。迷い続けたまま、再びこの町を後にしていたに違いなかった。
知世は、いつからかここの住人に懐いてしまったらしい。よく遊びに行くのだと、母は笑っていた。
黒鋼は微かに震える息を吐き出した。ずっと昔にも、この屋敷を見上げながらこんな風に二の足を踏んでいたことがあった。そんなところも、変わらない。
一歩を踏み出そうとして、門の開く甲高い音がした。はっとして顔を上げる。
「あら、お兄さん」
ウェーブのかかった、母親譲りの長い黒髪の少女が笑顔で小さく手を振っていた。父の言った通り、まだチビのままだ。そしてその隣にはスラリと背の高い、左目に眼帯をした金髪の青年が立ち尽くしている。
彼は黒鋼を見ると宝石のような青い瞳を片方だけ、大きく見開いた。
「っ……」
黒鋼もまた目を見開き、息を飲む。胸騒ぎが忙しない鼓動へと移り変わった。
「久しぶりにお会いしましたのに、おかしな顔」
知世だけが、クスクスと可憐に笑っていた。傍らの青年に、ペコリと頭を下げる。
「ファイさん、とっても楽しかったですわ。またお菓子作り、教えてくださいな」
「あ、うん。オレも楽しかったよー。また遊びに来てね」
「ええ、もちろん」
ファイと知世は柔らかく微笑み合った。本当に、随分と仲がいいらしい。。
知世は立ち尽くすだけの黒鋼に向かって小走りで坂を下りてくると、ニコリと笑って小さな包みを差し出してきた。
「なんだ」
「クッキーを焼きましたから、お兄さんに」
ピンク色の和紙に可愛らしく包まれた小さなそれを、ずずいと押し付けられて咄嗟に受け取る。甘いものは嫌いだと言おうとして、先制された。
「甘さ控えめです。残したら承知しませんわ」
黒鋼に向けて人差し指をびしっと立てたあと、知世は再びファイの方を向くと手を振った。ファイも微笑みながら小さく手を振っている。
「私、先に帰ってますから。あとはごゆっくり」
「お、おい」
兄の呼びかけは丸無視の状態で、妹は淡いクリーム色のワンピースの裾を翻して、小走りに駆け出して行った。
残されたのは、いまだ一言も声をかけ合えないままでいる二人と、夏の虫の声だけだった。
*
本当に、大きくなったとしみじみ思った。
相変わらず身体は痩せていて、表情にも幼さが残ってはいたけれど、見違えるほどに背が伸びていた。
あれは中学の入学式だったか、彼が誇らしげに言っていた言葉を思い出した。
きっともっと大きくなるから。ぶかぶかの学生服の中で身体を泳がせながら、元気いっぱいに笑っていた少年の姿を思い浮かべては、目を閉じてそれを掻き消した。
隣を歩くファイが、おもむろに小さな笑い声を上げた。
「なんだよ」
「うぅん。お父さんが迎えに来たのかと思ったからー」
ぎこちない空気を感じていたのは黒鋼だけだったのだろうか。ファイはすっかり落ち着いた声で、相変わらずどこか間の抜けたような話し方をする。
「怒らないでよー。だって本当にそっくりだったんだもん、お父さんに」
ただ顔を顰めるだけだった黒鋼に、気を悪くしたと思ったのか、ファイは苦笑しながら肩をすくめた。それから、黒鋼の方を見上げて右目を細める。
「本当に久しぶりだねー。昔からおっきかったけど、こんなに伸びてるなんて思わなかったなー」
「てめぇもな」
「でもまだまだチビだって言わないのー?」
からかうような言い方に少しムッとして睨むと、ファイは声を上げて笑った。
子供の頃は、背が伸びないファイをからかって遊ぶのが好きだった。小さな唇を尖らせる様が可愛かったから。頭をグリグリと撫でてやると、高い声で嬉しそうに笑っていたっけ。
全てがもう遠い過去になってしまった。今ではもう、気軽に手を伸ばすことも出来ない。
しかしそれをきっかけに、二人は懐かしい思い出話をポツリポツリと語り合った。それは本当に何気ないことばかりで、決して確信には触れないけれど。
そうしているうちに、少しだけ昔に戻ったような気がしてきた。もしかしたら黒鋼だけが妙な罪悪感に苛まれていただけで、ファイにしてみれば何でもないことだったのかもしれない。そんな気すらしてしまう。
ふと、今ならばあの中三の夏の夜のことを、謝ることが出来るかもしれないとも思った。だが下手に蒸し返すのも、逆に愚かしいことのように思える。全ては終わってしまったことなのだと、そう感じた。
「ばあさんも、元気でやってんのか」
結局、口から出たのは当たり障りのない問いかけだった。ファイはほんの僅かの間を空けたあと、どことなくぼんやりと「うん」という答えを返してきた。何か他のことを考えているようにも見える素振りのあと、逆に問われる。
「ねぇ、学校どう? 勉強とか遊ぶ時間とか、やっぱ色々厳しいのー?」
少し違和感を覚える。考えすぎと言われればそれまでだったが、話をはぐらかされたような気がした。幼い頃は大好きなおばあちゃんのこととなれば、いつまでも夢中になって話していたのに。
ふと嫌な予感がしたが、もしその通りならば両親が真っ先に知らせてくるはずだと、自分に言い聞かせる。
「いや、割と普通だ。自由にやってる」
「へー、そうなんだー。あ、じゃあ……じゃあさ、好きな子とか、できたー?」
それはファイにとっては何気ない質問だったのだと思う。だが黒鋼にとっては違った。思わず押し黙ってしまったことに、舌打ちをしたい思いに駆られる。
隠すようなことなんて、何ひとつない。黒鋼一人が馬鹿みたいに意識していただけなのだ。ファイにとって、黒鋼はただの幼馴染に過ぎないのだから。
柔らかく微笑む、蘇摩の顔が思い浮かんだ。短く「ああ」と答える。ファイは細長く続く道の先をまっすぐに見詰めていた。
「昔からモテてたもんねー。きっと凄い美人さんだねぇ」
「……どうだろうな」
あまり長く続けていたい会話ではなかった。黒鋼は口を閉ざし、ファイが次に言葉を発するまで、暫くは沈黙が続いた。ひぐらしが鳴いている。
「ねぇ、そういえばいつまでこっちにいれるのー?」
黒鋼はまたしても「ああ」と短く返事をする。
「明日には戻る」
「え? もっとゆっくりしてけばいいのにー」
「いろいろな」
そっか、と短く返事をしたファイに少し胸が痛んだ。けれど、もともと長居をするつもりはなかったのは事実だった。
「ここでいい」
黒鋼の家までは、まだ少し距離があった。だがもうじき完全に日が暮れる。ファイは頷くと足を止めた。橙の下で見る彼の瞳は、やはり透き通っていて美しかった。これで本当に見納めのような、そんな気がする。
「じゃあね」
「ああ」
「元気で」
「おまえもな」
またね、とファイは言わないし、黒鋼も、またな、とは言わなかった。
会わない間に、心の距離は取り返しがつかないところまで広がっていたのかもしれない。あの頃のように近くにいてさえも、二人の間には計り知れない隔たりが確かに存在していた。こうして会おうと思えばいつだって会いに来られたはずなのに、それをしなかったことがその証拠になっている気がした。
ファイは、こんな自分を少しでも待っていてくれたのだろうか。
互いが互いの背を見送るでもなく、それぞれの家族が待つ家へと向けて歩み出す。振り返るか否かを、黒鋼は一歩一歩確かに足を進めながらも迷っていた。
そんな葛藤の最中、ふいに背中に声がかかる。
「黒たん」
懐かしい呼び方に、黒鋼は迷いを押しやり振り返ろうとした。だが、すかさずそれを制される。
「そのままでいいよ。振り向かないで」
そう言われてしまっては、黒鋼にはただ足を止めている以外に術はなかった。
「聞いても、いい?」
「……なんだ」
「その人のこと、大事?」
蘇摩のことだ。黒鋼は、やっぱり「ああ」と短く答える。
「大切だ」
「大好きなんだねー」
咄嗟に何も言えなかった。なぜ答えに窮してしまったのだろう。好きじゃなければ一緒にいたいとも思わないし、抱いたりもしない。
きっかけはどうあれ、黒鋼にとって今や彼女はとても大切な存在だった。
不自然な沈黙のあと、また短く返事をした。
「――好きだ」
それは事実だった。だけど、本当は。
「そっかぁ」
本当は、ファイに向けて言いたい言葉だったはずなのに。一番伝えたかった想いのはずなのに。それを自分は今、彼に背を向けながら他の人間に向けて告げている。滑稽だった。
もしかしたら、ファイの問いかけに答えることで、自分の中で決着をつけたかったのかもしれない。ここで本当に終わらせることが出来るなら、それでいいと。
「オレは」
風が吹いた。温い風だった。一瞬、虫の声が止んだ。
「君が好きだった」
黒鋼は目を見開き、己の耳を疑った。振り向こうとして、身体が動かない。ファイはなおも続けた。
「君に、恋をしていたよ」
再びひぐらしが切ない声を上げた。まるで全身を固く縛り付けられたように、身動きが取れなかった。
彼は今どんな顔をしているのか。笑っているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。なぜ、今この瞬間それを告げるのだろうか。
ファイにとって、自分はただのおせっかいで過保護な幼馴染であると同時に、嘘つきで薄情な人間に過ぎないのではなかったのか。彼の告白に対して、なにをどう答えてやればいいのだろうか。今更、何を言えばいいのだろうか。
けれどすぐに悟った。これで終わらせるためだ。今この瞬間、全てが終わるから。
本当は少しだけ疲れていた。ファイを想い続けることに。その想いの深さに。心をすり減らすことに。それはきっとファイも同じだったのだ。だから彼は真実を告げた。自分の気持ちに、決着をつけるために。
黒鋼は、知らず込められていた身体の力をふっと抜いた。金縛りのような感覚は消えていた。それでも振り返らなかった。自分の意思で。
「俺もおまえが好きだった。ガキの頃から、ずっと」
ファイが笑った気配がした。
「なーんだー。両思いだったんだねー、オレたち」
「……そうみてぇだな」
両思い。黒鋼も、自然と口元を緩めた。馬鹿みたいだと思った。
この恋は気がついた瞬間には自らの手で幕を引いたはずだった。けれど、もしかしたらまだ始まってすらいなかったのかと思う。結局はただの独りよがりだった。今、このときまでは。
黒鋼とファイ。二人の恋はたった今、明るみになったと同時に、終わってしまった。
「さよなら」
「ああ」
「さよなら、黒鋼」
――黒鋼。
その名は本当の意味で幕の下りる、最後の合図だったのかもしれない。
一度も振り返らないまま、黒鋼はただ彼の気配が消えて行くのを背中に感じていた。
何も変わっていないはずだった。家族も、景色も、虫の声や夕暮れの橙色さえも。幼かった自分達は、この景色の中を無邪気に手と手を繋いで歩いていたはずなのに。
黒鋼は、彼が完全に行ってしまったことを察すると、自らも足を踏み出した。どこまでも果てしなく、記憶の中と少しも変わらぬ景色の中。この懐かしさから、早く遠ざかりたいと思った。
季節は幾度も巡りながら繰り返してゆくけれど、この夏は一度きりだ。
儚く叫び続ける夏の虫達さえも、繰り返すように新しく生まれては、死んでゆく。同じ生が二度生まれることは決してない。たった一秒の時間でさえ、やり直すことは叶わない。
あの頃も、そして今も。永遠に、それはもう黒鋼の手の届かない場所にある。
――黒たん。
幼い声に、向日葵が咲いたような眩しい笑顔に、美しい思い出に。
黒鋼は、幕を下ろした。
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ここはまるで、時間が止まってしまっているのではないかとさえ思う。たった一人で飛び出してしまったこの町は、あの頃のまま何もかもが、ただそこにあった。
古めかしいばかりだったバス停も、広がる田畑も、山々も、そして空さえも。
生まれてからここで育った年月の方がずっと長いはずなのに、もう何十年もの時間が流れてしまったかのような錯覚を抱いている。だからこそ、自分だけが随分と遠くへ行って変わってしまったような、そんな虚しさにも似た思いを抱く。
黒鋼はバス停から続く道のりを、ひたすら足元だけを見て自宅へ向かった。
*
当たり前といえば当たり前なのだが、自宅の方もまるで変わっていなかった。せいぜい農作業用のトラックが新しくなっていただとか、畑で育てる野菜の種類が増えていたとか、その程度だろうか。
出迎えてくれた母はさらに背が伸びた黒鋼を見て目を丸くすると「お父さんかと思ったわ」と言って笑っていた。
それからすぐに、黒鋼はまずは庭の鋼丸の墓前に手を合わせた。そこは毎日のように知世が花を供えているという。摘み取られた百日紅の花を見つめながら、あの秘密基地の子猫の墓へは、今もファイが行っているのだろうかと思った。
久しぶりに、行ってみようか。そう考えて、重苦しい息をつく。あの場所で過ごした時間を、決して忘れてしまいたいわけではなかった。けれど、もしやのことを考えると正直、怖かった。
会いたくないわけではない。かといって会いたいわけでも、ないような気がする。それら全てから逃げ出したという自責の念が、黒鋼を情けなくも臆病にさせていた。
「黒鋼ー、早く手を洗ってらっしゃいな。お父さんが待ってるわ」
「……わかった」
沈み込みそうになった黒鋼の思考を、縁側から顔を出した母の声が断ち切った。
*
茶の間に顔を出すと、すでにビールで一杯やっていた父が「おお!」と大きな声を上げた。母もだが、父もなんら変わりないようで安心する。
「なんだ、随分と久しぶりじゃないか。この親不孝者め」
豪快に笑う父と向かい合わせの形で胡坐をかく。テーブルの上には懐かしい料理が勢ぞろいしていた。煮物や厚焼き玉子、畑で収穫した野菜で作った漬物などに加え、中心にある丸い桶にはみっしりと散らし寿司が詰まっていた。何か祝い事やイベントがあると、この家では昔からこれと決まっている。
悪かったよ、と答える黒鋼に、父がふっと目元を和らげた。
「変わりはないか?」
「ああ。なんとかやってる」
「まぁ一杯やれ」
伏せてあったグラスをひっくり返し、ビールを注ごうとする父を手で制す。
「俺にはまだ早ぇよ」
「そうか? 見た目だけならもう立派に一人前の男だがなぁ」
「老けてんのはガキの頃からだよ」
「お父さんたら、悪ふざけばかりなのよ。黒鋼からもちゃんと言ってちょうだい」
苦笑いの母が、黒鋼の傍らに膝をつくと冷えた麦茶を注いでくれた。短く礼を言うと、母は忙しそうにまた台所へ消えてしまう。
「はしゃいでるのは母さんの方だ。おまえが戻ると言った日から、あの調子でずっと落ち着かないんだからな」
こっそりと耳打ちするような声のトーンで顔を寄せてくる父に、黒鋼は自然と笑みが込み上げる。要するに、二人とも心底喜んでくれているのだ。ずっと帰らないままでいたことを、今更ながらに申し訳なく感じた。
「知世はどうした?」
「お友達のところよ。お菓子を作るんですって、朝から飛び出して行っちゃったわ」
再び顔を出した母が、貝のお吸い物をよそった碗を盆に乗せてやってきた。母の顔にはハッキリと『しょうがない子なんだから』と書かれている。
「ちょっとはでかくなったのか、アイツは」
「なぁに、チビのまんまさ。ほら、腹が空いただろう。そろそろ始めよう」
「お父さんはもう始めちゃってるでしょう?」
「まぁまぁ、母さんも」
母の顔には、やっぱり『しょうがない人ね』という文字が書かれているような気がした。
*
そろそろ夕暮れも間近という時間帯になっても、知世は帰ってこなかった。
父はほろ酔いのおぼつかない足取りで、畑を見てくると言って出て行ってしまった。
黒鋼は台所で母の片付けの手伝いをしていた。小さい頃は頼んでもしてくれなかったのにね、などと言って母は嬉しそうに食器を洗っていた。
「お父さんたらご機嫌ね。いつもならお酒を飲んだらすぐに寝ちゃう人なのに」
よっぽど嬉しかったのよ、という言葉に黒鋼は笑った。照れ臭いような気持ちもあるけれど、離れてみなければ、本当の意味で家族のありがたみなど知らないままだったのかもしれない。
知世の分だけを残して、空になった食器を次から次へと運びながら、黒鋼は改めて横に並んだ母の小ささに少しだけ胸が痛んだ。
こんなに小さな人だったろうか。父だってそうだ。幼い頃は、もっともっと大きかった。
二年半という時間は決して長いものではなかったけれど、短いものでもなかったのだということを思い知らされた気がする。
彼はどう変わっただろう。記憶の中のまま、細くて幼いままだろうか。もしまた会うとしたら、あの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうか。おかしな呼び方で、この名を呼んでくれるだろうか。
俯いてぼんやりとしていると、母がひょい、と顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「……いや」
「ねぇ黒鋼。母さん、ちょっとお願いしたいことがあるの。いい?」
「ああ」
母は、知世を迎えに行って欲しいと言った。
黒鋼は窓の外へ目を向ける。夕暮れの空に、ひぐらしの声がこだましていた。漠然と、予感めいたものがしていた。
「……どこにいる?」
「お友達の家なの。あのね――」
母が告げた、妹のいる場所。
黒鋼は、悟られぬ程度に息を詰めた。
*
ここも、何一つ変わらない。
小高い位置にある、大きな屋敷。朽ちて物置と化している元茶屋の建物。一気に、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。
今にもこの砂利の敷詰められた坂道を、白くて小さな子供が腰の曲がった優しそうなおばあさんと手を繋いで降りてきそうで、黒鋼は茜色の空の下で瞳を細めた。
道々、ずっと胸が騒いでいた。迷いや葛藤や罪の意識が渦を巻いていた。
知世のことがなければ、おそらくここへ来ることはなかっただろう。迷い続けたまま、再びこの町を後にしていたに違いなかった。
知世は、いつからかここの住人に懐いてしまったらしい。よく遊びに行くのだと、母は笑っていた。
黒鋼は微かに震える息を吐き出した。ずっと昔にも、この屋敷を見上げながらこんな風に二の足を踏んでいたことがあった。そんなところも、変わらない。
一歩を踏み出そうとして、門の開く甲高い音がした。はっとして顔を上げる。
「あら、お兄さん」
ウェーブのかかった、母親譲りの長い黒髪の少女が笑顔で小さく手を振っていた。父の言った通り、まだチビのままだ。そしてその隣にはスラリと背の高い、左目に眼帯をした金髪の青年が立ち尽くしている。
彼は黒鋼を見ると宝石のような青い瞳を片方だけ、大きく見開いた。
「っ……」
黒鋼もまた目を見開き、息を飲む。胸騒ぎが忙しない鼓動へと移り変わった。
「久しぶりにお会いしましたのに、おかしな顔」
知世だけが、クスクスと可憐に笑っていた。傍らの青年に、ペコリと頭を下げる。
「ファイさん、とっても楽しかったですわ。またお菓子作り、教えてくださいな」
「あ、うん。オレも楽しかったよー。また遊びに来てね」
「ええ、もちろん」
ファイと知世は柔らかく微笑み合った。本当に、随分と仲がいいらしい。。
知世は立ち尽くすだけの黒鋼に向かって小走りで坂を下りてくると、ニコリと笑って小さな包みを差し出してきた。
「なんだ」
「クッキーを焼きましたから、お兄さんに」
ピンク色の和紙に可愛らしく包まれた小さなそれを、ずずいと押し付けられて咄嗟に受け取る。甘いものは嫌いだと言おうとして、先制された。
「甘さ控えめです。残したら承知しませんわ」
黒鋼に向けて人差し指をびしっと立てたあと、知世は再びファイの方を向くと手を振った。ファイも微笑みながら小さく手を振っている。
「私、先に帰ってますから。あとはごゆっくり」
「お、おい」
兄の呼びかけは丸無視の状態で、妹は淡いクリーム色のワンピースの裾を翻して、小走りに駆け出して行った。
残されたのは、いまだ一言も声をかけ合えないままでいる二人と、夏の虫の声だけだった。
*
本当に、大きくなったとしみじみ思った。
相変わらず身体は痩せていて、表情にも幼さが残ってはいたけれど、見違えるほどに背が伸びていた。
あれは中学の入学式だったか、彼が誇らしげに言っていた言葉を思い出した。
きっともっと大きくなるから。ぶかぶかの学生服の中で身体を泳がせながら、元気いっぱいに笑っていた少年の姿を思い浮かべては、目を閉じてそれを掻き消した。
隣を歩くファイが、おもむろに小さな笑い声を上げた。
「なんだよ」
「うぅん。お父さんが迎えに来たのかと思ったからー」
ぎこちない空気を感じていたのは黒鋼だけだったのだろうか。ファイはすっかり落ち着いた声で、相変わらずどこか間の抜けたような話し方をする。
「怒らないでよー。だって本当にそっくりだったんだもん、お父さんに」
ただ顔を顰めるだけだった黒鋼に、気を悪くしたと思ったのか、ファイは苦笑しながら肩をすくめた。それから、黒鋼の方を見上げて右目を細める。
「本当に久しぶりだねー。昔からおっきかったけど、こんなに伸びてるなんて思わなかったなー」
「てめぇもな」
「でもまだまだチビだって言わないのー?」
からかうような言い方に少しムッとして睨むと、ファイは声を上げて笑った。
子供の頃は、背が伸びないファイをからかって遊ぶのが好きだった。小さな唇を尖らせる様が可愛かったから。頭をグリグリと撫でてやると、高い声で嬉しそうに笑っていたっけ。
全てがもう遠い過去になってしまった。今ではもう、気軽に手を伸ばすことも出来ない。
しかしそれをきっかけに、二人は懐かしい思い出話をポツリポツリと語り合った。それは本当に何気ないことばかりで、決して確信には触れないけれど。
そうしているうちに、少しだけ昔に戻ったような気がしてきた。もしかしたら黒鋼だけが妙な罪悪感に苛まれていただけで、ファイにしてみれば何でもないことだったのかもしれない。そんな気すらしてしまう。
ふと、今ならばあの中三の夏の夜のことを、謝ることが出来るかもしれないとも思った。だが下手に蒸し返すのも、逆に愚かしいことのように思える。全ては終わってしまったことなのだと、そう感じた。
「ばあさんも、元気でやってんのか」
結局、口から出たのは当たり障りのない問いかけだった。ファイはほんの僅かの間を空けたあと、どことなくぼんやりと「うん」という答えを返してきた。何か他のことを考えているようにも見える素振りのあと、逆に問われる。
「ねぇ、学校どう? 勉強とか遊ぶ時間とか、やっぱ色々厳しいのー?」
少し違和感を覚える。考えすぎと言われればそれまでだったが、話をはぐらかされたような気がした。幼い頃は大好きなおばあちゃんのこととなれば、いつまでも夢中になって話していたのに。
ふと嫌な予感がしたが、もしその通りならば両親が真っ先に知らせてくるはずだと、自分に言い聞かせる。
「いや、割と普通だ。自由にやってる」
「へー、そうなんだー。あ、じゃあ……じゃあさ、好きな子とか、できたー?」
それはファイにとっては何気ない質問だったのだと思う。だが黒鋼にとっては違った。思わず押し黙ってしまったことに、舌打ちをしたい思いに駆られる。
隠すようなことなんて、何ひとつない。黒鋼一人が馬鹿みたいに意識していただけなのだ。ファイにとって、黒鋼はただの幼馴染に過ぎないのだから。
柔らかく微笑む、蘇摩の顔が思い浮かんだ。短く「ああ」と答える。ファイは細長く続く道の先をまっすぐに見詰めていた。
「昔からモテてたもんねー。きっと凄い美人さんだねぇ」
「……どうだろうな」
あまり長く続けていたい会話ではなかった。黒鋼は口を閉ざし、ファイが次に言葉を発するまで、暫くは沈黙が続いた。ひぐらしが鳴いている。
「ねぇ、そういえばいつまでこっちにいれるのー?」
黒鋼はまたしても「ああ」と短く返事をする。
「明日には戻る」
「え? もっとゆっくりしてけばいいのにー」
「いろいろな」
そっか、と短く返事をしたファイに少し胸が痛んだ。けれど、もともと長居をするつもりはなかったのは事実だった。
「ここでいい」
黒鋼の家までは、まだ少し距離があった。だがもうじき完全に日が暮れる。ファイは頷くと足を止めた。橙の下で見る彼の瞳は、やはり透き通っていて美しかった。これで本当に見納めのような、そんな気がする。
「じゃあね」
「ああ」
「元気で」
「おまえもな」
またね、とファイは言わないし、黒鋼も、またな、とは言わなかった。
会わない間に、心の距離は取り返しがつかないところまで広がっていたのかもしれない。あの頃のように近くにいてさえも、二人の間には計り知れない隔たりが確かに存在していた。こうして会おうと思えばいつだって会いに来られたはずなのに、それをしなかったことがその証拠になっている気がした。
ファイは、こんな自分を少しでも待っていてくれたのだろうか。
互いが互いの背を見送るでもなく、それぞれの家族が待つ家へと向けて歩み出す。振り返るか否かを、黒鋼は一歩一歩確かに足を進めながらも迷っていた。
そんな葛藤の最中、ふいに背中に声がかかる。
「黒たん」
懐かしい呼び方に、黒鋼は迷いを押しやり振り返ろうとした。だが、すかさずそれを制される。
「そのままでいいよ。振り向かないで」
そう言われてしまっては、黒鋼にはただ足を止めている以外に術はなかった。
「聞いても、いい?」
「……なんだ」
「その人のこと、大事?」
蘇摩のことだ。黒鋼は、やっぱり「ああ」と短く答える。
「大切だ」
「大好きなんだねー」
咄嗟に何も言えなかった。なぜ答えに窮してしまったのだろう。好きじゃなければ一緒にいたいとも思わないし、抱いたりもしない。
きっかけはどうあれ、黒鋼にとって今や彼女はとても大切な存在だった。
不自然な沈黙のあと、また短く返事をした。
「――好きだ」
それは事実だった。だけど、本当は。
「そっかぁ」
本当は、ファイに向けて言いたい言葉だったはずなのに。一番伝えたかった想いのはずなのに。それを自分は今、彼に背を向けながら他の人間に向けて告げている。滑稽だった。
もしかしたら、ファイの問いかけに答えることで、自分の中で決着をつけたかったのかもしれない。ここで本当に終わらせることが出来るなら、それでいいと。
「オレは」
風が吹いた。温い風だった。一瞬、虫の声が止んだ。
「君が好きだった」
黒鋼は目を見開き、己の耳を疑った。振り向こうとして、身体が動かない。ファイはなおも続けた。
「君に、恋をしていたよ」
再びひぐらしが切ない声を上げた。まるで全身を固く縛り付けられたように、身動きが取れなかった。
彼は今どんな顔をしているのか。笑っているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。なぜ、今この瞬間それを告げるのだろうか。
ファイにとって、自分はただのおせっかいで過保護な幼馴染であると同時に、嘘つきで薄情な人間に過ぎないのではなかったのか。彼の告白に対して、なにをどう答えてやればいいのだろうか。今更、何を言えばいいのだろうか。
けれどすぐに悟った。これで終わらせるためだ。今この瞬間、全てが終わるから。
本当は少しだけ疲れていた。ファイを想い続けることに。その想いの深さに。心をすり減らすことに。それはきっとファイも同じだったのだ。だから彼は真実を告げた。自分の気持ちに、決着をつけるために。
黒鋼は、知らず込められていた身体の力をふっと抜いた。金縛りのような感覚は消えていた。それでも振り返らなかった。自分の意思で。
「俺もおまえが好きだった。ガキの頃から、ずっと」
ファイが笑った気配がした。
「なーんだー。両思いだったんだねー、オレたち」
「……そうみてぇだな」
両思い。黒鋼も、自然と口元を緩めた。馬鹿みたいだと思った。
この恋は気がついた瞬間には自らの手で幕を引いたはずだった。けれど、もしかしたらまだ始まってすらいなかったのかと思う。結局はただの独りよがりだった。今、このときまでは。
黒鋼とファイ。二人の恋はたった今、明るみになったと同時に、終わってしまった。
「さよなら」
「ああ」
「さよなら、黒鋼」
――黒鋼。
その名は本当の意味で幕の下りる、最後の合図だったのかもしれない。
一度も振り返らないまま、黒鋼はただ彼の気配が消えて行くのを背中に感じていた。
何も変わっていないはずだった。家族も、景色も、虫の声や夕暮れの橙色さえも。幼かった自分達は、この景色の中を無邪気に手と手を繋いで歩いていたはずなのに。
黒鋼は、彼が完全に行ってしまったことを察すると、自らも足を踏み出した。どこまでも果てしなく、記憶の中と少しも変わらぬ景色の中。この懐かしさから、早く遠ざかりたいと思った。
季節は幾度も巡りながら繰り返してゆくけれど、この夏は一度きりだ。
儚く叫び続ける夏の虫達さえも、繰り返すように新しく生まれては、死んでゆく。同じ生が二度生まれることは決してない。たった一秒の時間でさえ、やり直すことは叶わない。
あの頃も、そして今も。永遠に、それはもう黒鋼の手の届かない場所にある。
――黒たん。
幼い声に、向日葵が咲いたような眩しい笑顔に、美しい思い出に。
黒鋼は、幕を下ろした。
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着信
※黒鋼×蘇摩
地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。
もうじき、三年目の夏が来る。
*
全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。
きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。
遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。
好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。
*
機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。
かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。
三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。
「電話、これで三度目ですよ」
気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。
ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。
『黒鋼? お母さんだけど』
「ああ」
『寝てた?』
「……いや」
女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。
褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。
『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』
「ああ、そうだな」
『一度、帰って来たら?』
黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。
だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。
「何かあったのか?」
『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』
進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。
「わかった。休みに入ったら、一度帰る」
『そう? 知世も喜ぶわ』
「どうだかな」
あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。
母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。
「母さん」
『なぁに?』
「本当に何も変わったことはないのか」
先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。
*
「おうちの方?」
「ああ」
濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。
ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。
彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。
蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。
互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。
手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。
「今夜は、もういけませんよ」
「わかってる」
「じゃあこの手はなんです?」
黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「さぁな」
「もう……」
呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。
最低だと思う。
あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。
彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。
大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。
それでも、黒鋼には他に術がない。
息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。
けれど。
母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。
帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。
結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。
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※黒鋼×蘇摩
地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。
もうじき、三年目の夏が来る。
*
全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。
きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。
遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。
好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。
*
機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。
かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。
三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。
「電話、これで三度目ですよ」
気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。
ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。
『黒鋼? お母さんだけど』
「ああ」
『寝てた?』
「……いや」
女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。
褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。
『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』
「ああ、そうだな」
『一度、帰って来たら?』
黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。
だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。
「何かあったのか?」
『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』
進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。
「わかった。休みに入ったら、一度帰る」
『そう? 知世も喜ぶわ』
「どうだかな」
あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。
母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。
「母さん」
『なぁに?』
「本当に何も変わったことはないのか」
先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。
*
「おうちの方?」
「ああ」
濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。
ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。
彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。
蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。
互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。
手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。
「今夜は、もういけませんよ」
「わかってる」
「じゃあこの手はなんです?」
黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「さぁな」
「もう……」
呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。
最低だと思う。
あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。
彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。
大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。
それでも、黒鋼には他に術がない。
息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。
けれど。
母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。
帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。
結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。
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薄荷
夢も未来も約束も、全てが錆びつき、見る影を失くしてしまったかのように。
剥がれ落ちた誓いを、走り出してしまった今更になって真実だったとは、決して言えない。
「本当に大丈夫なのかしら……」
玄関先でしきりにそう繰り返す母に、黒鋼は照れ臭さと煙たさを同時に感じながらも靴を履き、大した荷物も入っていないショルダーバッグを肩に担いだ。
「ねぇ、やっぱり一緒に……」
「いいって。荷物だってほとんど送っちまって軽いし」
「相変わらず心配性だな母さんは。男の旅立ちは黙って見送るもんだ。なぁ?」
父が腕を組んで「うんうん」と頷いている。思えば、全寮制高校に進学を決めた際、最後まで反対していた母を最終的に説得してくれたのは父だった。
そのとき、母の腰にしがみつきながら長い黒髪を揺らして、知世がひょっこりと顔を出した。
「どうせすぐに寂しくなって、帰ってくるに決まってますわ」
それまでは多少後ろ髪を引かれていた黒鋼だったが、笑顔で嫌味を放つ生意気な妹のお陰で、完全に吹っ切れた。
「うるせぇよ。てめぇの顔見ないで済むと思うとせいせいすらぁ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ!」
「んだとこのガキ!」
「もう! こんなときにまで! あなたたちはいっつもそうなんだから……」
今度は身体の大きな父に隠れて、知世がべーと舌を出す。黒鋼は可愛げのない生意気盛りの妹に小さく舌打ちするだけで、あとはどうにか引き下がった。
「じゃあ、行って来る」
「入学式には行くからね。ついたら必ず連絡してちょうだいよ」
「わかってる」
背を向けて引き戸を開けた黒鋼の背に、父が「しっかりな」と力強く声をかけた。振り切るように外へと一歩を踏み出し、後手に扉を閉めてから空を見上げる。春の香りと、澄み切った空。思い切り息を吸い込んで、それから前へ踏み出した。そのとき。
「黒たーん!」
声がしたほうへ目を向けると、そこには。
見るからにボロボロの自転車を引きずるファイが、大きく手を振って笑っていた。
*
「おもーいぃ……」
「だからいいっつってんのに……これで分かったろ」
「あっ! ダメダメダメー! おりないでー!」
キシキシと、ペダルが重さに耐えかねるように軋んだ音を立てていた。自転車を漕いでいるのはファイで、荷台に腰掛けているのは黒鋼だった。
「黒わんこ一匹ぐらい、朝飯前なんだからー!」
「……ったく」
初めて見るその黒い旧式の自転車は、あの母から譲り受けた自転車を上回るほどの古さとボロさだった。醜く鉄錆が浮き、いちいち酷い音がする。
おじいちゃんの壊れてたやつ、オレが直したんだよー、と自慢げに笑ったファイは、黒鋼に荷台へ乗るように言った。勿論拒んだけれど、思った以上の強引さで迫られて、仕方なく乗った。ファイの身体に腕は回さず、浅く座った荷台に手をかけて。
まさかファイが姿を現すとは夢にも思っていなかった黒鋼は、激しく戸惑っていた。会いたくなかったのと、反対の思いが半々。むしろ合わせる顔がなかったと言うほうが正しい。
桜都学園に進学を決めたと告げたあの日から、ファイとはさらに微妙な関係だったため、今のこの状況はまるで昔に戻ったみたいで不思議な気分だった。
それこそ、全てが夢だったみたいに。
ファイはまるで変わらぬかのようによく喋り、笑い、黒鋼も少しだけ笑った。
一回り以上も身体の大きな黒鋼を乗せたファイの自転車は、ヨロヨロと不安定で、けれど確実に前へと進んでいた。普通なら十分とかからないだろうに、やはり時間よりも早めに出てきたのは正解だったと思う。このような事態は勿論、予測していなかったけれど。
「黒たんはこうやって、いっつもオレを運んでくれてたんだねー」
必死でペダルを踏み込むファイが、息を乱しつつもしみじみと言う。黒鋼はただ、その背と金色の頭を見つめた。
「こんなに重いなんて知らなかったー」
「てめぇはチビだったから、なんてこたねぇよ」
「酷いなー! もうチビじゃないよー!」
「俺にとっちゃいつまでもチビなんだ」
「もう! 黒ぷーがおっきすぎなんだよー」
ひぃふぅ、と苦しそうに呼吸して踏ん張っているファイに、そろそろ潮時かと感じた。
「もういい。歩いた方が早ぇよ」
「いいのー。まだ時間あるもん」
「おい」
「お願い」
ファイは落ち着いた声で黒鋼に懇願する。
「ずっと一緒にいてくれたお礼。オレは何もできなかったから、今日だけは……ね?」
「別に……」
胸がいっぱいになって、もう何も言えなかった。
いてくれるだけでどんなに幸せだったか、楽しかったか。何も出来ないなんてことは決してなかった。ただ微笑んでくれるだけで、それだけでよかった。
いっそのこともっと責めてくれたなら、どんなによかったろう。嘘つきとなじってくれたら、もっと気持ちは軽かったろうに。そんな真似がファイに出来るわけがないと、分かっているはずなのに。ただ許されたいだけのくせに。
やがて二車線しかない狭い道路沿いにある、木造作りで煤けた屋根のバス停に到着した。他に待っている人間はいない。時間にも間にあったようだ。
先に自転車を降りた黒鋼の横で、ファイがみすぼらしいバス停にそれを立てかける。彼は汗だくになって笑った。
「ね、オレ力持ちだったでしょー?」
「そうだな」
咄嗟にその頭に手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。犬猫にするみたいに撫でてやったら、ファイはきっとキャアキャアと大声ではしゃぐに違いなかった。けれどもう、そんな風に触れてはいけない。
ファイは僅かに道路に足を踏み出し、バスが来ないことを確かめた。間にあったね、と誇らしげに言う。しなやかに伸びた手足は、確かに彼が言うとおり、もうチビではなかった。
「黒りん」
「……ん」
ポケットに手を入れて立っている黒鋼の横で、ファイは両手を後に回して足元の石を蹴った。
「ちょっとの間だけの、お別れだよね?」
「……ああ」
「一生、会えないわけじゃないよね?」
「……そうだな」
「たまには、会いに来てくれる?」
「……わからねぇ」
ファイが顔を上げて黒鋼を見る。けれど、黒鋼は真っ直ぐ前を向いて、ファイが蹴り飛ばした小石を見ていた。出来れば、自分の中でこの感情が消えて無くなるまでは、ここへ戻りたくなかった。
「そう……」
俯いたファイは悲しげに目を伏せて、それからすぐに「あのね」と切り出す。だが、遠くから聞こえるバスのエンジン音がそれを遮った。黒鋼は咄嗟にファイを見たけれど、ファイは笑って首を振る。
「いってらっしゃい」
「ああ」
「あ、そうだこれー」
バスがもう目の前だった。ファイはポケットを探って何かを掴むと、黒鋼に差し出した。
「なんだ……?」
「早くー」
おずおずと手の平を差し出すと、そこには懐かしいものが三つ、カサリと音を立てて置かれた。
「これ……」
それは薄荷の白い飴玉の袋だった。
「オレ知ってたよ。黒たんがこれ苦手だったの」
バスが、ビーッという音を鳴らして到着し、乗り口のドアが開いた。
「でも、あげられるものが他になかった」
「乗るの? 乗らないのー?」
運転手が苛立ったように声を上げた。黒鋼はファイから視線を逸らさないまま、乗り口に足をかけた。ファイは笑っていた。
「俺は」
何かが欲しくて側にいたんじゃない。
おまえが笑ってくれればそれでよかった。
あの誓いも約束も、嘘なんかじゃなくて。
だけど、俺は俺が恐いんだ。
おまえのためだなんて言い訳をして、俺はただ、逃げ出すだけなんだ。
口を開きかけて、だけど一瞬の迷いから息を呑むうちに、ドアの閉まる音がした。汚れたガラスに隔たれて、もう互いの声さえ聞こえない。
バスが発車する寸前、ファイは穏やかに微笑みながら、小さく手を振っていた。
*
口の中で、飴が転がる音がした。
頬が膨らむほど大きな飴玉からは、ひたすら懐かしい味がして、移り変わる緑色の景色が僅かに滲んだ。
古い木造校舎、ロープで遮られた立ち入り禁止の細い山道、石の鳥居と、二人だけの大きな桜の神木、子猫の墓。風に踊る、淡いべっ甲のような色の髪も、透き通るような優しい瞳の青も、白い肌も、柔らかな手も。
木漏れ日の下で歌いながら絵本を眺めていたファイからは、いつも薄荷の香りがして。
遠い夏の、あの道祖神の傍らで見上げた美しい花火。古ぼけた麦わら帽子。頬を染めながら歩いた、雪の積もった帰り道を。
今も鮮明に思い描くことが出来る。
ファイが言った通り、この甘さと独特の苦味は苦手だった。
けれど大好きだった。恋をしていた。
その全てが、今も。
心の底から、愛しかった――。
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夢も未来も約束も、全てが錆びつき、見る影を失くしてしまったかのように。
剥がれ落ちた誓いを、走り出してしまった今更になって真実だったとは、決して言えない。
「本当に大丈夫なのかしら……」
玄関先でしきりにそう繰り返す母に、黒鋼は照れ臭さと煙たさを同時に感じながらも靴を履き、大した荷物も入っていないショルダーバッグを肩に担いだ。
「ねぇ、やっぱり一緒に……」
「いいって。荷物だってほとんど送っちまって軽いし」
「相変わらず心配性だな母さんは。男の旅立ちは黙って見送るもんだ。なぁ?」
父が腕を組んで「うんうん」と頷いている。思えば、全寮制高校に進学を決めた際、最後まで反対していた母を最終的に説得してくれたのは父だった。
そのとき、母の腰にしがみつきながら長い黒髪を揺らして、知世がひょっこりと顔を出した。
「どうせすぐに寂しくなって、帰ってくるに決まってますわ」
それまでは多少後ろ髪を引かれていた黒鋼だったが、笑顔で嫌味を放つ生意気な妹のお陰で、完全に吹っ切れた。
「うるせぇよ。てめぇの顔見ないで済むと思うとせいせいすらぁ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ!」
「んだとこのガキ!」
「もう! こんなときにまで! あなたたちはいっつもそうなんだから……」
今度は身体の大きな父に隠れて、知世がべーと舌を出す。黒鋼は可愛げのない生意気盛りの妹に小さく舌打ちするだけで、あとはどうにか引き下がった。
「じゃあ、行って来る」
「入学式には行くからね。ついたら必ず連絡してちょうだいよ」
「わかってる」
背を向けて引き戸を開けた黒鋼の背に、父が「しっかりな」と力強く声をかけた。振り切るように外へと一歩を踏み出し、後手に扉を閉めてから空を見上げる。春の香りと、澄み切った空。思い切り息を吸い込んで、それから前へ踏み出した。そのとき。
「黒たーん!」
声がしたほうへ目を向けると、そこには。
見るからにボロボロの自転車を引きずるファイが、大きく手を振って笑っていた。
*
「おもーいぃ……」
「だからいいっつってんのに……これで分かったろ」
「あっ! ダメダメダメー! おりないでー!」
キシキシと、ペダルが重さに耐えかねるように軋んだ音を立てていた。自転車を漕いでいるのはファイで、荷台に腰掛けているのは黒鋼だった。
「黒わんこ一匹ぐらい、朝飯前なんだからー!」
「……ったく」
初めて見るその黒い旧式の自転車は、あの母から譲り受けた自転車を上回るほどの古さとボロさだった。醜く鉄錆が浮き、いちいち酷い音がする。
おじいちゃんの壊れてたやつ、オレが直したんだよー、と自慢げに笑ったファイは、黒鋼に荷台へ乗るように言った。勿論拒んだけれど、思った以上の強引さで迫られて、仕方なく乗った。ファイの身体に腕は回さず、浅く座った荷台に手をかけて。
まさかファイが姿を現すとは夢にも思っていなかった黒鋼は、激しく戸惑っていた。会いたくなかったのと、反対の思いが半々。むしろ合わせる顔がなかったと言うほうが正しい。
桜都学園に進学を決めたと告げたあの日から、ファイとはさらに微妙な関係だったため、今のこの状況はまるで昔に戻ったみたいで不思議な気分だった。
それこそ、全てが夢だったみたいに。
ファイはまるで変わらぬかのようによく喋り、笑い、黒鋼も少しだけ笑った。
一回り以上も身体の大きな黒鋼を乗せたファイの自転車は、ヨロヨロと不安定で、けれど確実に前へと進んでいた。普通なら十分とかからないだろうに、やはり時間よりも早めに出てきたのは正解だったと思う。このような事態は勿論、予測していなかったけれど。
「黒たんはこうやって、いっつもオレを運んでくれてたんだねー」
必死でペダルを踏み込むファイが、息を乱しつつもしみじみと言う。黒鋼はただ、その背と金色の頭を見つめた。
「こんなに重いなんて知らなかったー」
「てめぇはチビだったから、なんてこたねぇよ」
「酷いなー! もうチビじゃないよー!」
「俺にとっちゃいつまでもチビなんだ」
「もう! 黒ぷーがおっきすぎなんだよー」
ひぃふぅ、と苦しそうに呼吸して踏ん張っているファイに、そろそろ潮時かと感じた。
「もういい。歩いた方が早ぇよ」
「いいのー。まだ時間あるもん」
「おい」
「お願い」
ファイは落ち着いた声で黒鋼に懇願する。
「ずっと一緒にいてくれたお礼。オレは何もできなかったから、今日だけは……ね?」
「別に……」
胸がいっぱいになって、もう何も言えなかった。
いてくれるだけでどんなに幸せだったか、楽しかったか。何も出来ないなんてことは決してなかった。ただ微笑んでくれるだけで、それだけでよかった。
いっそのこともっと責めてくれたなら、どんなによかったろう。嘘つきとなじってくれたら、もっと気持ちは軽かったろうに。そんな真似がファイに出来るわけがないと、分かっているはずなのに。ただ許されたいだけのくせに。
やがて二車線しかない狭い道路沿いにある、木造作りで煤けた屋根のバス停に到着した。他に待っている人間はいない。時間にも間にあったようだ。
先に自転車を降りた黒鋼の横で、ファイがみすぼらしいバス停にそれを立てかける。彼は汗だくになって笑った。
「ね、オレ力持ちだったでしょー?」
「そうだな」
咄嗟にその頭に手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。犬猫にするみたいに撫でてやったら、ファイはきっとキャアキャアと大声ではしゃぐに違いなかった。けれどもう、そんな風に触れてはいけない。
ファイは僅かに道路に足を踏み出し、バスが来ないことを確かめた。間にあったね、と誇らしげに言う。しなやかに伸びた手足は、確かに彼が言うとおり、もうチビではなかった。
「黒りん」
「……ん」
ポケットに手を入れて立っている黒鋼の横で、ファイは両手を後に回して足元の石を蹴った。
「ちょっとの間だけの、お別れだよね?」
「……ああ」
「一生、会えないわけじゃないよね?」
「……そうだな」
「たまには、会いに来てくれる?」
「……わからねぇ」
ファイが顔を上げて黒鋼を見る。けれど、黒鋼は真っ直ぐ前を向いて、ファイが蹴り飛ばした小石を見ていた。出来れば、自分の中でこの感情が消えて無くなるまでは、ここへ戻りたくなかった。
「そう……」
俯いたファイは悲しげに目を伏せて、それからすぐに「あのね」と切り出す。だが、遠くから聞こえるバスのエンジン音がそれを遮った。黒鋼は咄嗟にファイを見たけれど、ファイは笑って首を振る。
「いってらっしゃい」
「ああ」
「あ、そうだこれー」
バスがもう目の前だった。ファイはポケットを探って何かを掴むと、黒鋼に差し出した。
「なんだ……?」
「早くー」
おずおずと手の平を差し出すと、そこには懐かしいものが三つ、カサリと音を立てて置かれた。
「これ……」
それは薄荷の白い飴玉の袋だった。
「オレ知ってたよ。黒たんがこれ苦手だったの」
バスが、ビーッという音を鳴らして到着し、乗り口のドアが開いた。
「でも、あげられるものが他になかった」
「乗るの? 乗らないのー?」
運転手が苛立ったように声を上げた。黒鋼はファイから視線を逸らさないまま、乗り口に足をかけた。ファイは笑っていた。
「俺は」
何かが欲しくて側にいたんじゃない。
おまえが笑ってくれればそれでよかった。
あの誓いも約束も、嘘なんかじゃなくて。
だけど、俺は俺が恐いんだ。
おまえのためだなんて言い訳をして、俺はただ、逃げ出すだけなんだ。
口を開きかけて、だけど一瞬の迷いから息を呑むうちに、ドアの閉まる音がした。汚れたガラスに隔たれて、もう互いの声さえ聞こえない。
バスが発車する寸前、ファイは穏やかに微笑みながら、小さく手を振っていた。
*
口の中で、飴が転がる音がした。
頬が膨らむほど大きな飴玉からは、ひたすら懐かしい味がして、移り変わる緑色の景色が僅かに滲んだ。
古い木造校舎、ロープで遮られた立ち入り禁止の細い山道、石の鳥居と、二人だけの大きな桜の神木、子猫の墓。風に踊る、淡いべっ甲のような色の髪も、透き通るような優しい瞳の青も、白い肌も、柔らかな手も。
木漏れ日の下で歌いながら絵本を眺めていたファイからは、いつも薄荷の香りがして。
遠い夏の、あの道祖神の傍らで見上げた美しい花火。古ぼけた麦わら帽子。頬を染めながら歩いた、雪の積もった帰り道を。
今も鮮明に思い描くことが出来る。
ファイが言った通り、この甘さと独特の苦味は苦手だった。
けれど大好きだった。恋をしていた。
その全てが、今も。
心の底から、愛しかった――。
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距離
決して離さないと決めていたはずのその手を。
振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。
「はい!」
朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。
けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。
夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「?」
ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。
ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。
本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。
だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。
もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。
不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。
「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」
押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。
「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」
ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。
*
それから。
黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。
手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。
少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。
これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。
自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。
何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。
でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。
黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。
*
長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。
トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。
「黒たん」
どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。
「……なんだ」
戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。
やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。
「学校、決めた?」
ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。
「……おまえは?」
「うん……」
質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。
「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」
「……そうか」
現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。
「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」
「…………」
まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。
黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。
「俺は」
ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。
透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。
「桜都に行く」
「え?」
「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」
そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。
ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。
「……そっか……そうなんだ」
ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。
「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」
「…………」
「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」
これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。
頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。
*
一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。
幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。
今も終わらない、夜毎の悪夢。
声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。
いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。
ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。
幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。
黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。
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決して離さないと決めていたはずのその手を。
振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。
「はい!」
朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。
けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。
夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「?」
ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。
ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。
本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。
だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。
もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。
不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。
「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」
押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。
「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」
ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。
*
それから。
黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。
手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。
少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。
これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。
自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。
何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。
でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。
黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。
*
長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。
トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。
「黒たん」
どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。
「……なんだ」
戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。
やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。
「学校、決めた?」
ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。
「……おまえは?」
「うん……」
質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。
「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」
「……そうか」
現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。
「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」
「…………」
まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。
黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。
「俺は」
ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。
透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。
「桜都に行く」
「え?」
「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」
そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。
ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。
「……そっか……そうなんだ」
ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。
「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」
「…………」
「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」
これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。
頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。
*
一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。
幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。
今も終わらない、夜毎の悪夢。
声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。
いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。
ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。
幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。
黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。
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落ちる花
「あーん、また落ちちゃったよー」
ポトリと、ファイが持つ線香花火の先端から赤い玉が落ちた。もうこれで何度目か分からない。
「下手くそだな、おまえ」
「なんか手が震えちゃうんだよねー……」
そう言って、ファイはしょんぼりしつつ、足元のバケツに残された部分だけを放った。
黒鋼はまだ残っている線香花火の一本を摘み取ると、台紙の上の燃えかけの蝋燭にそれを近づけた。すぐに先端に火花が散り、赤い玉が出来る。落とさないように、慎重に。
ファイがゴクリと息を呑んだ。やがて、小さな糸のような火花がパチパチと弾け出した。
「わ、キレイ!」
「簡単だ、こんなもん」
「キレイで可愛いねぇ……」
ファイがうっとりと呟いた。けれど、それは一瞬で終わり、役目を終え、小さく萎んだ玉が静かに消えた。
「ずっと見てたいのにー。なんかしんみりしちゃう……」
もっとやってとせがまれて、残りの数本を一本一本片付けてゆく。ファイは花火が散っては目を輝かせ、終わってしまえばしょんぼりして唇を尖らせる。彼の表情はめまぐるしく変化した。
「これが最後だな」
カエルの大合唱が響き渡る公園の一角。小さな花火大会も、これでラストだ。派手に散るものは最初に全て片付けてしまったから、あとはファイの言うようにしんみりする以外なかった。
最後の一本に火をつけると、ファイが息を呑む。けれど。
「あ」
赤い玉が、最後の最後で不発のまま地に落ちてしまった。
「やっちまった」
「もー、黒たんの下手くそー」
「てめぇが言うか……?」
不満を口にするファイの額を指先で小突いた。不機嫌になったかと思ったが、ファイは笑った。
「楽しかったー。またやろうねー」
「そうだな」
黒鋼は、足元で揺らめいていた蝋燭を吹き消そうとした。だが、それをファイが「もうちょっと」と言って制した。どうせ放っておけば、あと数分もしない間に燃え尽きてしまうだろう。それでもファイはしゃがみ込んだまま、それをうっとりと見つめていた。
「火ってキレイ」
「そうか?」
「うん、花火もキレイだけど、ただの火もキレイだよ。ちゃんと気をつけてないと危ないけど……火がなかったら、花火だって出来ないでしょー?」
「まぁ、そうだな」
黒鋼は、自分の目線よりも少し下にあるファイの横顔を眺めた。肌も髪も目も、仄かなオレンジ色に揺らめいていた。
ファイは火を美しいと言うけれど、彼にはなんとなく似合わない。そんな気がした。
「黒たんの目も、真っ赤でキレイなんだよ。ウサギさんみたいで可愛いね」
「ああ?」
蝋燭の火から目線を黒鋼に向けて、ファイはへにゃりと笑う。思わず視線を逸らした。こうやって真っ直ぐに顔を合わせられなくなってから、どれだけ時間が経つだろう。綺麗も可愛いも、自分には似合わない。むしろファイの澄んだ空のような瞳の方こそ、よっぽど美しいと思う。柔らかくて可愛い笑顔も、ずっとずっと変わらない。
思えば子供の頃から、ファイはよく黒鋼をキレイだとかキラキラしているだとか、そんな恥ずかしいことばかりを口にしていた気がする。
「俺はキレイでもなんでもねぇよ」
むしろ穢らわしいとさえ、思う。こうして変わらない風を装いながら、黒鋼はファイの傍にいることに苦痛を覚えていた。彼を傷つける夢は、今も頻繁に黒鋼から眠りを奪い続けている。同時に、気持ちを自覚してしまってからというもの、ファイへの思いは日増しに膨らんでいくようだった。
友達としてでなく、恋愛の対象として。欲望の対象として。
そんなことを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。気持ちが悪いと言って嫌悪するだろうか。恐ろしいと怯えて、逃げ出すだろうか。
拳を握って、今にも消えそうな炎を見た。これが燃え尽きたとき、この思いも消えてしまえばいいのに。そうすればまた元に戻れる。夢だって消えてなくなる。これまで通り、変わらずにいられる。
「ねぇ、黒たん」
「……なんだ?」
「楽しかった?」
横顔に視線を感じていた。それでも、やはり蝋燭から目を離すことが出来ない。ファイの声は、微かに沈んでいた。
「花火、ホントに楽しかった?」
「……ああ」
「本当に?」
もう一度、「ああ」と答えた。花火をしようと、そう持ちかけてきたのはファイだった。今年の夏祭りは、忙しいからという理由で打ち上げ花火を見に連れて行かなかったから。
きっとファイは、一人きりで家の窓から打ち上げられる花々を眺めていたのだろう。
「よかったー。オレ、わがまま言っちゃったから……迷惑だったかと思っちゃったよー」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、火が消えた。終わっちゃったね、とファイが寂しげに呟く。けれど、やはり黒鋼の中の歪な感情が消え去ることはなかった。
台紙を拾ってバケツに放ると持ち上げ、先に立ち上がったのはファイだった。黒鋼は、ただなんとなくそのまましゃがみ込んで、側を流れる小さな小川を見つめていた。カエルの声と水の音。そこに満ちる二人の沈黙が、蒸し暑さに反してどこか寒々しい。
「遠いね……」
ファイがポツリと口にした。やはり、黒鋼はファイを見ることができない。
「なんかね、なんか……すごく、遠いんだー……」
「なにが」
「……わかんない。なんて言ったらいいか、わからないの。でも……」
遠いね、とファイは再び言った。黒鋼には、彼の伝えたい言葉の意味が本当はちゃんと分かっている。寂しいと、彼はそう言いたいのだ。
夏休みなどの長期の休暇に入れば、毎度のように家の手伝いがある。それでも時間をやりくりして、黒鋼はファイに会いに行っていた。けれど、今年の夏はそれをしていない。もちろん家のこともあるし、受験勉強だってある。それでもきっと以前の黒鋼なら、隙あらばファイとの時間を作っていただろう。それが今では時間があっても無くても、彼に会いには行かない。行けない。一緒にいても、目さえ合わせない。
ファイは勘がいいから、理由までは分からずとも黒鋼の中に何がしかの変化が起こったことに、気がついているのだろう。距離を置かれていることに。だが今の黒鋼には、彼を気遣うだけの余裕がない。
傍にいると狂いそうになる。あれは夢なのだと、ここは現実なのだと、そう言い聞かせても結局は、どこであろうが自分は自分。いつこの気持ちに抑えがきかなくなって、境界が分からなくなるかと思うと、恐い。
今だって。
「帰ろっかー。黒たん、お手伝いで疲れてるんだよねー」
気を取り直すかのように、ファイの手が元気よく差し出された。このままこの手を取って、彼を送り届けてしまえばそれで解放される。黒鋼は、手を伸ばしてそれに触れた。
ファイが真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、薄ぼんやりとした外灯の下、避け続けていた青い瞳と目が合ってしまった。
「っ……」
息を呑んだときには、もう視線を外すことが出来なかった。ファイは笑っていなかった。ただ、寂しそうだった。透き通っているはずの瞳が、薄暗い中で濁って見える。夢の中と、同じだと思った。
止せ、と思うより先に、黒鋼の手はファイの頬に触れていた。咄嗟のことに驚いて跳ね上がった細い肩。ゾクリとする。音を立てて、喉を鳴らした。
「ど、どうしたのー? オレの顔、なんかついてたかな?」
上ずったファイの声が、少しだけ震えていた。全身の血が沸き立つ。このまま強く抱いて、奪って、自分のものにしてしまおうか。
出来る。今なら、それが出来る。
触れていた方の手を離すと、もう片方の肩に触れ、強く掴んだ。一つしかない瞳が、大きく見開かれる。黒鋼は、頬に這わせていた手をゆっくりと動かした。親指が白い眼帯に触れる。そしてそのまま強く引き寄せようとした。でも。
「やだ……っ!!」
強い力で突き飛ばされた。ファイの手からバケツが落ちて、大きな音を立てながら地に落ちる。水が零れ、花火の残骸が地面に散らばった。黒鋼の身体は大きく傾いだが、倒れ込むまではいかず、よろめきながら数歩だけ後退した。
その瞬間、ハッとして我に返った。自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思い出せない。
ファイを見ると、彼は一歩一歩、黒鋼から距離を取っていた。左手が、眼帯を押さえ込んでいる。震えている。怯えている。自分がしでかしたことの重大さに、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ぁ……オレ……違うの……ごめん……」
ファイはその声までも震わせて、大きな瞳に涙が滲ませていた。ゆらゆらと、今にも零れ落ちてしまいそうだった。思わず手を伸ばしかけて、けれどファイがビクリと肩を震わせるのを見て、動けなくなる。
傷つけてしまった。怯えさせてしまった。いつだって優しくしてやりたかったのに。守ってやりたかったのに。大切なものを、この手で壊してしまった。自分を、抑えることができなかった……。
「ごめんなさい……黒たん、違うの……」
何ひとつ声を発することが出来なかった。また夢を見ているのだろうか。夢だったら、どんなにいいだろうか。
ファイはそれからも「違う」だとか「ごめん」という言葉を、どこか虚ろな調子で口にしていた。けれど、耐え切れなくなったのか、背を向けて走り出してしまった。
黒鋼は、その背中を追いかけることが出来なかった。
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「あーん、また落ちちゃったよー」
ポトリと、ファイが持つ線香花火の先端から赤い玉が落ちた。もうこれで何度目か分からない。
「下手くそだな、おまえ」
「なんか手が震えちゃうんだよねー……」
そう言って、ファイはしょんぼりしつつ、足元のバケツに残された部分だけを放った。
黒鋼はまだ残っている線香花火の一本を摘み取ると、台紙の上の燃えかけの蝋燭にそれを近づけた。すぐに先端に火花が散り、赤い玉が出来る。落とさないように、慎重に。
ファイがゴクリと息を呑んだ。やがて、小さな糸のような火花がパチパチと弾け出した。
「わ、キレイ!」
「簡単だ、こんなもん」
「キレイで可愛いねぇ……」
ファイがうっとりと呟いた。けれど、それは一瞬で終わり、役目を終え、小さく萎んだ玉が静かに消えた。
「ずっと見てたいのにー。なんかしんみりしちゃう……」
もっとやってとせがまれて、残りの数本を一本一本片付けてゆく。ファイは花火が散っては目を輝かせ、終わってしまえばしょんぼりして唇を尖らせる。彼の表情はめまぐるしく変化した。
「これが最後だな」
カエルの大合唱が響き渡る公園の一角。小さな花火大会も、これでラストだ。派手に散るものは最初に全て片付けてしまったから、あとはファイの言うようにしんみりする以外なかった。
最後の一本に火をつけると、ファイが息を呑む。けれど。
「あ」
赤い玉が、最後の最後で不発のまま地に落ちてしまった。
「やっちまった」
「もー、黒たんの下手くそー」
「てめぇが言うか……?」
不満を口にするファイの額を指先で小突いた。不機嫌になったかと思ったが、ファイは笑った。
「楽しかったー。またやろうねー」
「そうだな」
黒鋼は、足元で揺らめいていた蝋燭を吹き消そうとした。だが、それをファイが「もうちょっと」と言って制した。どうせ放っておけば、あと数分もしない間に燃え尽きてしまうだろう。それでもファイはしゃがみ込んだまま、それをうっとりと見つめていた。
「火ってキレイ」
「そうか?」
「うん、花火もキレイだけど、ただの火もキレイだよ。ちゃんと気をつけてないと危ないけど……火がなかったら、花火だって出来ないでしょー?」
「まぁ、そうだな」
黒鋼は、自分の目線よりも少し下にあるファイの横顔を眺めた。肌も髪も目も、仄かなオレンジ色に揺らめいていた。
ファイは火を美しいと言うけれど、彼にはなんとなく似合わない。そんな気がした。
「黒たんの目も、真っ赤でキレイなんだよ。ウサギさんみたいで可愛いね」
「ああ?」
蝋燭の火から目線を黒鋼に向けて、ファイはへにゃりと笑う。思わず視線を逸らした。こうやって真っ直ぐに顔を合わせられなくなってから、どれだけ時間が経つだろう。綺麗も可愛いも、自分には似合わない。むしろファイの澄んだ空のような瞳の方こそ、よっぽど美しいと思う。柔らかくて可愛い笑顔も、ずっとずっと変わらない。
思えば子供の頃から、ファイはよく黒鋼をキレイだとかキラキラしているだとか、そんな恥ずかしいことばかりを口にしていた気がする。
「俺はキレイでもなんでもねぇよ」
むしろ穢らわしいとさえ、思う。こうして変わらない風を装いながら、黒鋼はファイの傍にいることに苦痛を覚えていた。彼を傷つける夢は、今も頻繁に黒鋼から眠りを奪い続けている。同時に、気持ちを自覚してしまってからというもの、ファイへの思いは日増しに膨らんでいくようだった。
友達としてでなく、恋愛の対象として。欲望の対象として。
そんなことを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。気持ちが悪いと言って嫌悪するだろうか。恐ろしいと怯えて、逃げ出すだろうか。
拳を握って、今にも消えそうな炎を見た。これが燃え尽きたとき、この思いも消えてしまえばいいのに。そうすればまた元に戻れる。夢だって消えてなくなる。これまで通り、変わらずにいられる。
「ねぇ、黒たん」
「……なんだ?」
「楽しかった?」
横顔に視線を感じていた。それでも、やはり蝋燭から目を離すことが出来ない。ファイの声は、微かに沈んでいた。
「花火、ホントに楽しかった?」
「……ああ」
「本当に?」
もう一度、「ああ」と答えた。花火をしようと、そう持ちかけてきたのはファイだった。今年の夏祭りは、忙しいからという理由で打ち上げ花火を見に連れて行かなかったから。
きっとファイは、一人きりで家の窓から打ち上げられる花々を眺めていたのだろう。
「よかったー。オレ、わがまま言っちゃったから……迷惑だったかと思っちゃったよー」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、火が消えた。終わっちゃったね、とファイが寂しげに呟く。けれど、やはり黒鋼の中の歪な感情が消え去ることはなかった。
台紙を拾ってバケツに放ると持ち上げ、先に立ち上がったのはファイだった。黒鋼は、ただなんとなくそのまましゃがみ込んで、側を流れる小さな小川を見つめていた。カエルの声と水の音。そこに満ちる二人の沈黙が、蒸し暑さに反してどこか寒々しい。
「遠いね……」
ファイがポツリと口にした。やはり、黒鋼はファイを見ることができない。
「なんかね、なんか……すごく、遠いんだー……」
「なにが」
「……わかんない。なんて言ったらいいか、わからないの。でも……」
遠いね、とファイは再び言った。黒鋼には、彼の伝えたい言葉の意味が本当はちゃんと分かっている。寂しいと、彼はそう言いたいのだ。
夏休みなどの長期の休暇に入れば、毎度のように家の手伝いがある。それでも時間をやりくりして、黒鋼はファイに会いに行っていた。けれど、今年の夏はそれをしていない。もちろん家のこともあるし、受験勉強だってある。それでもきっと以前の黒鋼なら、隙あらばファイとの時間を作っていただろう。それが今では時間があっても無くても、彼に会いには行かない。行けない。一緒にいても、目さえ合わせない。
ファイは勘がいいから、理由までは分からずとも黒鋼の中に何がしかの変化が起こったことに、気がついているのだろう。距離を置かれていることに。だが今の黒鋼には、彼を気遣うだけの余裕がない。
傍にいると狂いそうになる。あれは夢なのだと、ここは現実なのだと、そう言い聞かせても結局は、どこであろうが自分は自分。いつこの気持ちに抑えがきかなくなって、境界が分からなくなるかと思うと、恐い。
今だって。
「帰ろっかー。黒たん、お手伝いで疲れてるんだよねー」
気を取り直すかのように、ファイの手が元気よく差し出された。このままこの手を取って、彼を送り届けてしまえばそれで解放される。黒鋼は、手を伸ばしてそれに触れた。
ファイが真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、薄ぼんやりとした外灯の下、避け続けていた青い瞳と目が合ってしまった。
「っ……」
息を呑んだときには、もう視線を外すことが出来なかった。ファイは笑っていなかった。ただ、寂しそうだった。透き通っているはずの瞳が、薄暗い中で濁って見える。夢の中と、同じだと思った。
止せ、と思うより先に、黒鋼の手はファイの頬に触れていた。咄嗟のことに驚いて跳ね上がった細い肩。ゾクリとする。音を立てて、喉を鳴らした。
「ど、どうしたのー? オレの顔、なんかついてたかな?」
上ずったファイの声が、少しだけ震えていた。全身の血が沸き立つ。このまま強く抱いて、奪って、自分のものにしてしまおうか。
出来る。今なら、それが出来る。
触れていた方の手を離すと、もう片方の肩に触れ、強く掴んだ。一つしかない瞳が、大きく見開かれる。黒鋼は、頬に這わせていた手をゆっくりと動かした。親指が白い眼帯に触れる。そしてそのまま強く引き寄せようとした。でも。
「やだ……っ!!」
強い力で突き飛ばされた。ファイの手からバケツが落ちて、大きな音を立てながら地に落ちる。水が零れ、花火の残骸が地面に散らばった。黒鋼の身体は大きく傾いだが、倒れ込むまではいかず、よろめきながら数歩だけ後退した。
その瞬間、ハッとして我に返った。自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思い出せない。
ファイを見ると、彼は一歩一歩、黒鋼から距離を取っていた。左手が、眼帯を押さえ込んでいる。震えている。怯えている。自分がしでかしたことの重大さに、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ぁ……オレ……違うの……ごめん……」
ファイはその声までも震わせて、大きな瞳に涙が滲ませていた。ゆらゆらと、今にも零れ落ちてしまいそうだった。思わず手を伸ばしかけて、けれどファイがビクリと肩を震わせるのを見て、動けなくなる。
傷つけてしまった。怯えさせてしまった。いつだって優しくしてやりたかったのに。守ってやりたかったのに。大切なものを、この手で壊してしまった。自分を、抑えることができなかった……。
「ごめんなさい……黒たん、違うの……」
何ひとつ声を発することが出来なかった。また夢を見ているのだろうか。夢だったら、どんなにいいだろうか。
ファイはそれからも「違う」だとか「ごめん」という言葉を、どこか虚ろな調子で口にしていた。けれど、耐え切れなくなったのか、背を向けて走り出してしまった。
黒鋼は、その背中を追いかけることが出来なかった。
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うつつのこと
気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
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気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
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大好きだった勉強が、退屈なものに思えるようになったのはいつからだろう。
好きが高じて先へ先へと一人で進んでいくうちに、学校での授業がつまらなくなってしまったのは。
友達はいるし、皆のことは大好きだけれど、それでも時々どうしようもなく一人ぼっちのような気がする。
だから知世はふと、口を閉ざすことがあった。友達の話を聞いて、ただニコニコ笑って相槌を打っているのは退屈だけれど、とても楽だったから。
そんな知世の心の隙間を埋めてくれるのは、大きなお屋敷に暮らす、一人の孤独な青年だった。
「すっかり元気になりましたわね、チィちゃん」
玄関から入らず庭から直接縁側に顔を出すと、白い子猫が小さな赤いゴムボールを追いかけて、廊下を走り回っていた。知世がやってきたことにも気づかずに、一心不乱に追い掛け回してはボールと一緒にコロコロと転げ回っている。
「いらっしゃーい。おかえりー」
すぐに笑顔で室内から顔を出したファイが出迎えてくれると、知世もニッコリ笑って「こんにちは」と言った。
「ねー? 動くもの全部が楽しくて仕方ないみたいでね、結構ヤンチャだよー」
「うふふ、興奮してますわね」
見ればチィのすらっと伸びた尻尾が倍にまで膨れ上がっている。心なしか、鼻息も荒い。普段はおっとりしていて大人しいだけに、まるで何かに取り憑かれたかのようだった。
「スイッチ入っちゃうといつもこんな感じなんだー」
ファイは「しょうがないねぇ」と言って苦笑した。知世も笑う。
元気がいいことは何よりだと思った。最初にファイがチィを拾ってきたときは、痩せ細っていて見ていられないくらいに弱りきっていたのだ。たった二ヶ月あまりで身体もだいぶ大きくなり、こんなにも走り回れるようになったのだから、喜ばしいことだと思う。白いフリルと金の鈴がついた、ピンク色の首輪がよく似合っている。
「両手にすっぽり納まるくらい小さかったのに、大きくなるのはあっという間ですわね」
「まだもうちょっと大きくなると思うけどねー。あ、どうぞ座って」
それから、ちょっと待ってて、と言い残してファイは家の中に姿を消した。
知世は背負っていた赤いランドセルを下ろして縁側に置くと、ファイが用意してくれた小豆色の座布団にちょこんと座った。
季節は秋を迎えて、すっかり色づいた庭の草花達を眺めていると、ボールに飽きたチィがようやく知世の傍までやってくる。膝に乗せ、指先でじゃれつかせていると、ファイが盆を持ってやってきた。
「お茶とお菓子はいかがですかー? 知世姫ー」
「まぁ! もちろんいただきますわ!」
知世は思わずパチンと両手を合わせて、キラキラと目を輝かせた。
ファイの作る菓子は、お歳暮に送られてくる高価なゼリーだとか、山を下りた先の温泉街にある小さなケーキ屋さんで買うものよりも、ずっと美味しかった。
知世はここへ来る度にご馳走になったり、ときには一緒にキッチンに並んで作り方を習ったりしている。
彼の作るものは父や母も大好物で、よくお土産にと持たせてくれるものを二人も楽しみにしていた。
「ファイさんの作ったものを食べたら、もう他では食べられませんわ」
本心から言ったのだが、ファイはブンブンと両手を振って苦笑した。
「知世ちゃんてば言いすぎだよー。今日のは簡単だったし……まだまだ修行中の身なんだからー」
「いいえ! 私、ファイさんがお店を始めたら絶対に毎日通いますわ! お手伝いもさせてくださいね!」
ずずい、と身を乗り出して言うと、ファイは少し驚いたようだったが嬉しそうに微笑んだ。
「ほんとー? 嬉しいなぁ。じゃあ知世ちゃんとチィで看板娘だねー」
縁側に並んで腰掛けながら、二人は頷くと笑い合った。
*
それから、知世はファイが作ってくれたチョコレートマフィンとミルクティを堪能しながらお喋りに夢中になった。
知世は、学校であまり話をしない代わりに、ファイにはどんなことでも楽しく話すことが出来た。好きな花や歌のことだとか、勉強のこと、クラスの男子に髪を引っ張られたこと。
ファイはニコニコしながら相槌を打ち、先を促し、楽しそうに耳を傾けてくれる。知世は、それが嬉しくて仕方がなかった。
けれどふと会話が途切れた瞬間、知世は温くなったミルクティのカップを手に取り、紅葉の茂る庭を眺めた。どうして、自分は学校で同じ歳の友人といるよりも、こうしてファイと一緒にいる方が楽しいのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えた。
けれどよくよく思い返せば、こうやっていつもお喋りばかりしているのは自分だけのような気もする。どちらかと言えば、ファイはただ付き合ってくれているだけだ。
そう思ったら、なんだか少し悲しくなった。自分は学校の友達といると、時々とても退屈で寂しいような気持ちになる。ファイにもそう感じさせていたらと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだ。
知らず俯きがちになっていた知世の顔を、ファイは身を屈めて覗き込んできた。咄嗟に顔を上げると目が合って、彼はふんわりと優しく微笑んだ。
「ねぇ知世ちゃん」
「……?」
「学校、楽しい?」
「え……?」
ドキリとした。何も言っていないのに、まるで心の中身を見透かされたみたいな気がして、知世は咄嗟に笑うことも出来ずに目を見開いた。
「……なぜ、ファイさんはそれを聞こうと思ったのでしょうか?」
「んー、そうだなぁ。知世ちゃんは色々お話してくれるけど、友達とどんな風に過ごしたかって話は、一度も聞いたことないなって。それに、やっぱり似てるから、かなー?」
「似てる……?」
ファイは、知世の膝から自分の膝に移動してきたチィの喉を撫でながら、やっぱり笑っていた。
「似てるよー。君のお兄さんもね、嫌なこととか悩んでることがあると、ただ静かに俯いてることがあったから。眉間にぎゅうって皺を寄せてね、怒ったような顔して、何も言わなくなっちゃうの」
笑っていたはずの横顔が、なぜかとても寂しそうに感じられてしまったのはなぜだろう。時々、兄のことを話すときのファイは酷く悲しそうに見えることがある。
そして同時に、兄はいつだって不遜な態度でむっつりとした顔をしていたけれど、ファイの前ではそうやって素直に表情を見せることがあったのかと、少し驚いた。
そういえば鋼丸が死んだ日、兄は何も言わずにフラリと家を飛び出してしまった。もしかしたら、ファイに会いに行ったのではないかと、ぼんやり思う。
「案外わかりやすいんだよー、知世ちゃんのお兄さんって」
顔を上げたファイの表情からは、寂しげなものは消えていた。やはり、気のせいだったのだろうか。
知世はなぜだか少し、泣きたいような気持ちになった。チクリと、胸に棘が刺さっているような気がする。そして、きっと彼には何か不思議な力もあるのだろうと思った。人の気持ちが、分かる力。
「兄に似てるなんて言われたの、初めてですわ」
「そう?」
「ええ」
知世は、そこでようやく笑うことが出来た。でも、あの偉そうで自分勝手な兄に似てると言われたことは、あまり嬉しくない。そう思っていると、やっぱりファイは見透かした。
「あ、嬉しくないかー。だって知世ちゃんの方が何倍も可愛いもんね。いっぱいお話聞かせてくれるし」
「え?」
また、心臓が驚いて大きく跳ねた。やっぱりファイには不思議な力があると思う。
「知世ちゃんとのお喋り、楽しくて大好きだよー」
目をパチクリさせていた知世だが、やがて込み上げてくる感情のままに声を上げて笑った。つまらないことを気にしていた自分が、なんだか可笑しかった。
「ファイさんが私の兄だったらよかったのに」
「オレ? オレが知世ちゃんのお兄さん?」
「ええ」
ファイは、ただ肩を竦めて笑っただけで何も答えなかった。そして、やっぱりその笑顔はどこか寂しげだった。なぜそう思うのか、知世にはどうしても分からない。
ふと、ファイは赤く色づく庭を眺めた。穏やかな横顔が、とても綺麗だと感じた。
「あのね」
ファイは腕を伸ばすと人さし指をゆっくりと立て、自分の目線と同じくらいの高さに掲げた。すぐに真っ赤なトンボがその辺りを探るようにして飛びまわり、やがて指先に止まった。知世は、ひたすらその横顔を見つめる。見惚れていたといってもいいかもしれない。
「色んなこと、話すといいよ。友達とか……大切な人に。自分の気持ち、上手に伝えられるかどうかって自信ないよね。でも、殺しちゃ駄目なんだ」
「いろんなこと……?」
「うん。後悔してからじゃ遅いから」
指先に向けられていた視線が、知世に真っ直ぐ向けられた。トンボが飛び立つ。片方しかない瞳は、澄んだ冬空のように美しかった。
トンボの止まり木としての役目を終えた指先が、そっと知世の頭に触れた。幾度か優しく撫でたあと、下ろされる。
その仕草をぼんやりと眺めながら、知世はなんとなく気がついた。
きっと彼にとって、自分はチィと同じなのだ。小さくて、可愛くて、思わず手を伸ばして撫でてやりたくなるような。
そう思ったとき、なぜか再び胸がチクリと痛んだ。
「オレね、知世ちゃんがたくさんお話してくれるの、凄く嬉しくて楽しいんだ。オレだけが独り占めしてるの、勿体無いと思わない?」
「!」
ああ、本当に、どうしてこの人には全て分かってしまうのだろう。不思議な人。綺麗で優しくて、そしてどこか寂しい人。知世はそっと目を閉じ、頷いた。
明日から、自分は少しずつ変われるような気がした。自分から心を閉ざしたままでは、きっと誰も分かってくれないし、分かってあげることもできない。
ファイの膝の上で眠っていた子猫が、起き上がって伸びをする。何もないはずの空間にじゃれついて、家の中に走って消えてしまった。彼女にだけ、見えている何かがあるのかもしれない。
そしてファイもまた、どこか遠くを見つめている。その視線の先には誰がいるのだろうか。彼がそこに思い描く人は、今どこにいるのだろう。
「ファイさんは……後悔したことがあるのですか?」
知世は少しだけ迷ってから、問いかけた。してはいけない質問のような気がしたけれど、なぜか聞かずにはいられなかった。ファイはニッコリと笑いながら、言った。
「したよ。いっぱい」
ふと、よく知るあのむっつりとした顔が浮かんだのは、なぜだったのだろう。
――それは、幼い頃の懐かしい思い出。
暖かな風が、春の陽気を乗せて少女の柔らかな黒髪を揺らした。
晴れた空を縁側に腰を下ろして見上げながら、その季節の香りを思い切り吸い込む。あまりにも気持ちのいい陽気だったから、知世は日課である鋼丸の墓に手を合わせたあと、縁側で日向ぼっこをしていたのだ。
何がきっかけ、というわけではないけれど、ふと幼い頃のことを思い出していた。
高校入学を間近に控えた今も、知世はファイの家によく顔を出し、今では約束通り店の手伝いもさせてもらっている。
数年前から開店したファイの店は、今ではこんな片田舎にひっそり佇んでいるとは思えないほどに繁盛していた。
初めは受け取れないと言って断ったものの、ファイはただ手伝わせるのは申し訳ないと言って、アルバイト代を知世に手渡してくれるようになった。
なんとなく使うのが勿体無くて、貰った分は全て溜め込んでいるのだけれど。
知世は、空を見上げていた視線を再び鋼丸の墓へと向けた。ボロボロの板に、下手くそな字で「はがねまる」と書いてある。子供の頃に、兄が書いたものだった。思わず笑ってしまう。
今の知世には、あの頃ファイの笑顔に付き纏う微かな翳りの正体が、なんとなく理解できている。
彼にあんな顔をさせているのが誰なのか。どうしてあのとき、兄の顔が思い浮かんだのか。ファイが誰を見ていたのか。
そして何より。
「やっぱり血の繋がった兄妹ですわね。なんだか釈然としませんけれど」
彼への憧れは、知世にとっての淡い初恋の思い出だった。ほんのりと甘い氷菓子のように、触れれば溶けて消えてしまいそうな、切ない記憶。それは今も知世の中に大切に仕舞ってある。
やがて一陣の強い風が吹きぬけて、激しく踊る母譲りの黒髪をそっと押さえた。遠くから、車のエンジン音が近づいてくる。この家のすぐ側で停車したのが分かった。
前触れもなく訪れた、地面を踏み鳴らすその少し乱暴な足音が懐かしくて、知世はそっと目を閉じた。
「鋼丸、どうしようもない飼い主が、ようやく戻ってきたようですわね」
ガラリと、玄関の引き戸が乱暴に開かれる音がした。
*
「帰ってこないよ。彼は、きっとね」
それはいつのことだったか。
淡い金色の髪を持ち、その美しい瞳の青を半分だけ失ってしまったその人は、キッチンで作業を繰り返す手元から目を離すことなくそう言った。
なぜそう思うのかと訪ねれば、その人は少しだけ寂しそうに微笑んだだけだった。
「でも……兄は昔から家を継ぐつもりでいましたわ」
きっと遅かれ早かれ必ず戻ってくる。兄は両親を心から愛しているし、もう子供ではないのだから。
そう思いはしても、知世はすぐに自信なさげに俯いてしまった。香ばしい砂糖の香りに、泣きたいような気持ちになったのはなぜだろう。
飼い主の足元に行儀よく座って知世を観察していた白猫が、冷たくそっぽを向いた。
*
「まったく貴方って人は……いくらお父さんが好きにしていいと言ったからって、限度ってものがあるでしょう?」
知世が抹茶とお茶請けを盆に乗せて茶の間へ顔を出したとき、ちょうど母が呆れたような声を兄に浴びせかけていた。
「しかも帰ってくるんだったら連絡くらいしてくれなくちゃ……何も用意できてなかったじゃない」
「悪かったよ」
どこか面倒臭そうに頭を掻いている兄に、母の小言は止まるところを知らないようだった。知世は母の言うことはもっともだと思いつつも、とりあえずはテーブルの脇に膝をつくと盆を乗せ、助け舟を出してやった。
「まぁまぁお母さん。お兄さんがグレてどうしようもない男になって戻って来たわけではないのですから」
「おい、フォローするならもうちょっとマシな言い方をしろ」
ここ数年でさらに目付きの悪さが悪化した様子の兄が、人ひとりくらいなら平気で殺せそうな、鋭い眼差しを送ってきた。けれど知世はどこ吹く風で、お茶と和菓子を兄の前に置く。
「ああ、そうでしたわね。お兄さんは元々どうしようもない男でした。訂正しますわ」
「てめぇ……」
そいつはどういう意味だ、と食いついてくる兄と、それを軽くあしらう知世を、母がまた呆れ顔で咎めた。
「もう……久しぶりに会っても貴方達は口喧嘩ばかりなんだから……その辺りになさいな」
「ふふ、でもお母さん、お兄さんにはまだまだ言いたいこともおありでしょう?」
「それはそうよ。本当にいきなりなんだから……」
母は呆れ半分、嬉しさ半分といった複雑そうな眼差しで微笑んでいた。彼女の言う通り、本当に兄の帰省は唐突のことだった。
彼がここへ顔を出したのは、驚いたことに三年も前のことだった。
確かあの時、兄は酷く面倒臭がっていたが、成人式なのだからという理由から母が無理矢理に連れ戻したのだ。
けれど彼は式になど出ず、家の前で家族写真だけを撮影してさっさと帰ってしまった。成人を迎えたら一緒に酒が飲めると思っていた父は、かなりヘコんでいたようだった。
そんな兄ではあるが、こういった田舎町ではさほど珍しいことではなかった。
進学や就職で一度家を出たが最後、酷いものでは身内に何かあって、ようやく顔を出すものもいる。その多くは間に合わないことの方が圧倒的に多い。みな、失ってみなければ分からないのだ。
それにしても、と知世は久しぶりに再会した兄を改めて見る。
ネクタイをだらしなく緩めたスーツ姿の兄は、もともと体格はよかったが見違えるようだった。スーツ姿は成人式の日に見たけれど、あの頃よりも随分と様になって見えるのは気のせいだろうか。
ケンカばかりの兄と妹であったが、知世は初めて兄に『大人の男』を感じていた。
「おい、なんか他にねぇのかよ。俺が甘いもん苦手だって知ってんだろ」
と、思ったのは束の間のことであった。
兄はお茶請けにと出した和菓子をじっとりと睨みつけて、文句を垂れた。母がぱっと表情を明るくして、ポンと両手を合わせる。
「ああ、それね。今うちでお客様にお茶請けとして出してるお菓子なの。とっても美味しいのよ」
それは春らしく、菜の花畑を模した形の菜種きんとんだった。黄色い花のアクセントがきいたその菓子は、はっきり言って悪人顔の兄には似合わない。
「茶だけ貰っとく」
それを口にすることを頑なに拒み、湯飲みだけを手にぐいっと煽る兄に、知世は思わずカチンと来た。
「お兄さん」
「あ?」
「出されたものは文句を言わずにお食べくださいな。もういい歳をした大人でしょう?」
知世が厳しい表情を見せ、棘のある言葉を発すると、母は少しだけ困ったように笑った。むっとしている息子に向かってフォローを入れる。
「黒鋼の口にもきっと合うわ。甘いものが苦手なお客様も中にはいるけど、お帰りになるときには何処で売られているのか、聞いて行かれる方が大勢いるのよ」
兄は半信半疑といった様子だったが、母に強く勧められてはそれ以上文句は言えず、結局は丸ごと一気に口に放った。品のある和菓子が台無しだと、知世はやっぱりカチンときてしまう。
けれど、もさもさと租借していた兄が眉間にさらに皺を寄せることはなかった。僅かに驚いたような顔をするから、今度は少し気分がよかった。
「美味しいでしょう?」
そう訪ねると、兄は面白くなさそうに「まぁまぁだ」と吐き捨てた。本当に可愛げのない男だ。
この菓子が兄の口に合うのは当然だ。誰よりもこの男のことを思っている人間が、丹精込めて作っているものなのだから。
「そうそう、黒鋼。今日は泊まっていくでしょう? 就職のお祝いだってしなくちゃいけないし」
お父さんもすぐに帰ってくるわ、と母が伺うような眼差しで兄の顔を覗き込んでいる。知世も気になってその顔を見た。
だが兄は幾度か首を左右に振った。
「いや……報告しにちょっと顔出し」
「泊まっていくわよね?」
兄の言葉を遮るように、母がニッコリと笑みを深くした。なぜか少し肝の冷えるような微笑だった。こんな風に笑う母には、なるべく逆らわない方がいい。
この母は怒らせれば父などよりも、よっぽど怖いのだ。
「……わかった」
見事に折れてしまった兄に、知世は口元を押さえて笑い声を噛み殺した。
*
兄はこの春から、市内のとある小学校へ体育教師としての赴任が決まった。
知世は兄が教師になるなんて夢を抱いていることなど微塵も知らず、大学を出ればこの町に戻ってくるものだとばかり思っていた。
いや、そうあって欲しいと願っていたに過ぎない。
それは知世が兄に傍にいて欲しいからだとか、そんな可愛らしい思いからではなかった。
父と母は、本来なら跡継ぎになるはずの息子が他所へ仕事を決めてしまったというのに、それをとても喜んだ。
兄も知世も、幼い頃からずっと家のことなど気にせずに、自分の好きな道を行くようにと言われて育ってきたし、知世とて無論、そうするつもりでいる。けれど兄は。
「知世か」
兄は――。
「本当にすぐ分かってしまうんですから。つまりませんわ」
何処に隠れていようと、すぐに知世を見つけてしまうのだ。幼い頃からずっと。
驚かせてやろうとそっと足音を立てずに近づいたのに、やっぱり兄には分かってしまった。
「何時だと思ってる。とっとと寝ろ」
「なんだか学校の先生みたいですわね」
肩を竦めながらも部屋の中へ入ってきた知世に、兄は呆れたように溜息を零した。月明かりの注ぐ室内で、兄はベッドの上に胡坐をかいていた。父から譲り受けた紺の着流しが、やけに様になっている。
足音を立てずに近づいて、知世はベッドのすぐ脇の床に腰を下ろした。
暫くの間、兄と妹は何も言わずに窓の外の月を眺めた。やがて意外にも、先に沈黙を破ったのは兄の方だった。
「あいつは」
彼は月から目線を外さない。小さな声だった。
「夢を……叶えたんだな」
知世は、そっと目を閉じた。
「ええ」
再び目を開ければ、月明かりに背を向けた兄がこちらを見下ろしている。知世は微笑んだ。
「お兄さんと同じように」
教師になった兄。幼い頃からの夢を叶えた、その幼馴染。兄は、少し複雑そうな顔をした。
「嬉しくありませんか?」
「……いや」
兄は昼間、あの美しい菓子を口に入れたときにはもう気がついていたのだろう。あの味の優しさと、切なさに。
「猫の目、という名前のお店です。あの方がつけたんですよ」
知世は、そこへよく遊びに行くがてら手伝いをさせてもらっていることや、真っ白の綺麗な猫が看板猫として人気があること、店主は和菓子に留まらず、気紛れでパイを焼く日もあればケーキを焼いたりもするなど、おそらくは兄が聞きたくとも聞けないでいるのであろうことを、全て話して聞かせた。
今から二年ほど前に開店した猫の目は、諏倭荘でお茶請けとして菓子を仕入れるようになったのを切欠に、徐々に口コミが広がった。その威力は微々たるものであったが、つい最近、なんと地元のローカルテレビ局が取材に訪れたのだ。それがまた切欠となり、評判はさらにあっという間に広がりつつある。
そして実は店の店主もまた、主に女性客に人気であるのだが、そこはなんとなく伏せた。
「そうか……」
一通りの話を聞き終えた後、懐かしげに目を細める兄に、知世はほんの少しだけ、胸に刺すような痛みを感じた。少々大袈裟にはしゃぎすぎたかとも思う。
知世はファイの傍にいる機会が多いから。だから嫌でも分かってしまう。帰ってこないと言いながら、彼は今も心のどこかで、この兄を待っているような気がしていた。
決して口に出して告げられたわけではないけれど。いつからか、知世には分かっていた。
「あの方は……」
貴方を待っているのだと、言いかけて口を噤んだ。自分が口出ししたところで、兄はもう自分の進む道を確かなものにしてしまった。
それを今さら捻じ曲げてでも戻って来て欲しいなどと、言える立場ではなかった。
例えばその我侭を兄が聞き入れるかどうかは別として、それを口に出来るのはファイでなければならない気もした。
言いかけた言葉を残したまま俯いた知世から、兄は視線を逸らして再び窓の外を見やった。今、兄は何を考えているのだろうか。淡く金色に輝く月の光を見つめながら、何を。
切なさと、もどかしさと、ほんの少しの苛立ちと。知世はそれらを持て余しながら微かに笑った。
「本当に、どうしようもない男ですわ。私の兄は」
自分のことなど見つけてくれなくていい。たった一人を見失ったままのくせに。
今だって痛いくらい分かってしまう。兄に妹のことが分かるように、妹にだって、本当は兄のことなどお見通しなのだから。
兄は生意気な口を利く妹に向かって、昼間のように食いついては来なかった。ただ一言、「承知の上だ」とだけ言って、口元を歪めるだけだった。
*
黒鋼は、朝早く家族全員で朝食を摂った後、帰って行った。
知世は道路脇まで見送りに出た父と母と並んで、兄の運転する車を見送った。両親が先に戻ってからも、ただそこに立ち尽くしてその方向をいつまでも眺めていた。
結局、最後までファイの店へ一緒に行かないかと、誘うことが出来なかった。
何気なさを装うには知世は察しすぎていたし、兄にもそれが伝わってしまったのだろう。何も言うなとその瞳が静かに語っていた。
彼らに何があったのかまでは分からない。だからこそのもどかしさだった。
知世はふと、思うことがある。
もし自分が兄の立場であったなら。あの柔らかくて優しい、月の光のように美しいあの人を、決して一人になどしない。
今にもポキリと折れて、地に伏してしまうのではないかとすら思えるような、儚いあの人を。彼はそんなものを微塵も感じさせないようにいつでも笑っているから、だからこそこんなにも知世の胸は軋むのだ。
それを置き去りにしてまで背を向け続ける兄の気持ちなど、知りたくもないと思った。
彼の孤独を。寂しさを。埋めることが出来るのはたった一人しかいないのに。
「私にも誰にも……それは出来ないのです。お兄さん」
一人残された知世は、今はいない兄へ向けてポツリと呟いた。
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