道祖神の傍らで
窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。
それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。
声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。
「おもしろーい」
ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。
「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」
そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。
*
夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。
黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。
ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。
そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。
「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」
なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。
「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」
そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。
だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。
『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』
ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。
だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。
この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。
黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。
「あれー?」
その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。
「わー! お祭だー!」
よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。
あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。
「黒たんもいるかな?」
そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。
行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。
それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。
ファイは一日中それを眺めて過ごした。
*
夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。
ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。
ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。
ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。
どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。
「んん?」
遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。
「あ!」
ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。
「黒るーだ!」
そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。
それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。
裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。
本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。
幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。
「黒たん」
「おう」
外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。
ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。
「おまえ、夜だぞ。これどうした」
黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。
「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」
彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。
「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」
「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」
黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。
「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」
ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。
「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」
「花火!?」
「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」
「ご、ごめんー」
ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。
「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」
「わ、わかったから離れろって」
「どうして赤いのー?」
「うるせぇな」
黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。
*
花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。
時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。
ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。
ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。
「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」
「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」
「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」
黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。
「きゃあ」
「エライよ、おまえは」
ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。
やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。
「黒たん、明日もずっといそがしいー?」
「すぐにまた遊べる」
「ほんとー?」
「ほんと」
「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」
黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。
「うれしい」
本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。
黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。
一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。
けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。
そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。
「わぁ!」
赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。
「キレイー!!」
「うん」
その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。
黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。
「……なんだよ?」
すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。
「見るとこ違ってんぞ」
「黒たんキレイだよー」
「は?」
「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」
そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。
クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。
――てめぇのほうが、ずっとキレイだ
それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。
ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。
ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。
だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。
黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。
手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。
祭の夜は、そうして終わりを告げた。
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窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。
それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。
声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。
「おもしろーい」
ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。
「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」
そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。
*
夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。
黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。
ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。
そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。
「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」
なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。
「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」
そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。
だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。
『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』
ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。
だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。
この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。
黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。
「あれー?」
その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。
「わー! お祭だー!」
よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。
あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。
「黒たんもいるかな?」
そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。
行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。
それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。
ファイは一日中それを眺めて過ごした。
*
夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。
ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。
ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。
ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。
どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。
「んん?」
遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。
「あ!」
ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。
「黒るーだ!」
そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。
それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。
裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。
本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。
幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。
「黒たん」
「おう」
外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。
ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。
「おまえ、夜だぞ。これどうした」
黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。
「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」
彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。
「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」
「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」
黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。
「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」
ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。
「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」
「花火!?」
「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」
「ご、ごめんー」
ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。
「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」
「わ、わかったから離れろって」
「どうして赤いのー?」
「うるせぇな」
黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。
*
花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。
時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。
ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。
ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。
「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」
「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」
「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」
黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。
「きゃあ」
「エライよ、おまえは」
ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。
やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。
「黒たん、明日もずっといそがしいー?」
「すぐにまた遊べる」
「ほんとー?」
「ほんと」
「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」
黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。
「うれしい」
本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。
黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。
一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。
けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。
そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。
「わぁ!」
赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。
「キレイー!!」
「うん」
その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。
黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。
「……なんだよ?」
すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。
「見るとこ違ってんぞ」
「黒たんキレイだよー」
「は?」
「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」
そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。
クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。
――てめぇのほうが、ずっとキレイだ
それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。
ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。
ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。
だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。
黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。
手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。
祭の夜は、そうして終わりを告げた。
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逃れの夢
真っ赤に染まっていた。
顔から大量に流れ出した血液が、白かったはずの肌も、シャツさえも汚して。
血塗れの小さなファイが担架で担がれる光景に、黒鋼はただ追い縋るようにして声を上げていた。泣かないでと、幾度も呟いては伸ばされる手を強く掴むと、黒鋼の手もまた赤に染まった。
『泣かないでね、泣いたらダメ。おなか痛いの?』
脆弱な呼吸の合間に紡がれる声は、弱りきっていたあの子猫を思い出させた。
置き去りにすれば死んでしまうのに。
手を離せば、もう戻らないかもしれないのに。
ぬるりとした感覚に手と手が引き離される頃には、黒鋼の足は縺れて、身体は地面に伏していた。
そのときになって自分が泣いていたことに気がついた。
そしてそのときになって初めて「おい」とか「おまえ」じゃなく、ファイの名を声に出して呼んでいたことに、気がついた。
*
それは黒鋼の知らない歌だった。
初めて耳にするメロディのはずなのに、なぜか酷く懐かしいような気持ちになる。小さく紡がれる声からは、歌詞を鮮明に聞き取ることは出来ない。ただ、同じフレーズを幾度も幾度も繰り返していること、そしてそれがこの国の言葉でないことだけは分かった。
黒鋼は小さな手を引きながら、何も言わずにただそれを聞いていた。
夕暮れに染まる田畑を横目に、ゆっくりと彼に歩調を合わせながら、真っ直ぐに伸びた道を行く。ファイの左手を握り締め、滅多に車通りのない道と分かっていても、ガードレール側を歩かせた。
自分の家とは逆の方向へと、ファイを自宅へ送り届けるために。
あの日、ファイの左目から光が消えた。
黒鋼が体調不良からその場を離れていた、ほんの数分の間に、あの出来事は起こってしまった。
いつもなら多少具合が悪かろうがなんだろうが、保健室になど足を運ぶことはないのに。どうしてあの日に限って、我慢が出来なかったのだろう。
今、ファイは顔の半分を白い包帯で覆われている。驚いたことに、あれからたったの数日で、彼はいつものように登校してきた。何事もなかったかのように、片目だけでふにゃりと笑って。
けれど何事もなかったかのように見えたのは、ファイだけではなかった。
あれだけの騒ぎになっておきながら、クラスメイトなど端から勿論、担任の教師さえなんの反応も見せず、普段通り授業を始めた。
だから。だから黒鋼は――。
「あ」
歌い続けていたファイが小さく声を上げた。すぐ近くで、夏の虫の声がする。
「カナカナだー」
「……ひぐらしだって教えたろ」
「でも、カナカナーって鳴いてるんだもん」
「他のセミはセミって呼ぶくせに」
そう言うと、ファイは「んー」と小さく唸った。それから、黒鋼を見上げて笑う。
「だって、セミは色んな鳴き方するんだもん。ミーンミーンとか、ジージーとか」
「ヘリクツって言うんだぜ、そーゆうの」
「へりくつかー」
知らない言葉だなーと呟きながら、ファイはどこまでも広がる田畑の方へ目を向けた。オレンジ色をした丸い夕陽に向かって右手を伸ばし、それを掴もうとでもするかのように、小さな手をグーパーさせながら「ミカンが食べたいねー」と言った。
表情は見えないけれど、きっと笑っているのだと思う。
いつもだったら、すぐに転ぶのだから余所見をするなと咎めている。けれど、もうそんな必要はないのだということを知っていた。
ファイの手は、こうして黒鋼が引いて歩くのだから。
足元に石があろうが、たとえ落とし穴があろうが、この手を離しさえしなければ、守ることが出来る。だからファイは好きなものを、好きなだけ眺めて歩いていればいい。歌いたければ歌えばいい。知らないものがあったら、自分がなんだって教えてやるのだから。
誰も彼を救えないのなら、そしてファイが誰も憎もうとしないのなら、自分だけは絶対に、忘れない。
あの悪夢の日のことは。
きっととてつもなく大事になるだろうと確信していた。
あれほどまでに行き過ぎたイジメが行われた記憶など、少なくとも黒鋼が物心ついたときから現在に至るまで、一度だって耳にしたことのない大事件だったのだから。
たとえそれが学校という枠内に限らずとも、これほどのことが起これば町中が大騒ぎになるはずだった。下手をすれば、死んでいたっておかしくないのだ。
黒鋼が制裁を加えずとも、あの生徒はきっと酷く叱られて、ひょっとすればもう学校へだって来られなくなるかもしれない。この町にだって、いられなくなるかもしれないと、そう信じていた。
けれど違った。
本当に何もなかったのかもしれないと、あれほど怒りに満ち満ちていた黒鋼さえも錯覚しそうなほど。
全て夢の中の出来事だったかのように、ファイを傷つけた生徒は翌日知らぬ顔で登校して来た。目が合うとバツが悪そうに顔を背けてはいたけれど、その表情がどこか誇らしげにも見えて、黒鋼は身体の中で血液が煮えたぎるのを感じた。
今、黒鋼の左の拳には、傷がついている。
人を本気で殴るのも、殺したいとさえ思うほど憎むことも、生まれて初めてだった。
それは友人同士のじゃれ合いや、昔はテンションが上がると聞き分けが無くなることがあった飼い犬を小突くものとは、大きく違った。殴った拳だって同じ様に傷つき、血を流すのだということを、黒鋼はそのとき知ったのだった。
黒鋼はその日のうちに、両親と連れ立ってその生徒の家へと足を運んだ。
玄関先で頭を下げる父と母に、謝罪された方の親は酷く腹を立てていたが、黒鋼は最後まで口を噤んで何も言わなかった。
帰り道で、両親は何も言わなかった。けれど、父は大きな手で黒鋼の頭をグリグリと撫でた。
弱いものや、小さなものは守ってやらなければいけない。そう教えてくれたのは父だった。
結果的に黒鋼は自分よりも小さなクラスメイトを殴りつけたけれど、父も母も黒鋼が何も言わずとも、事情はある程度把握していたようだった。
いや、むしろ本当はずっと知っていたのだと思う。
小さな町の中で、黒鋼が爪弾きを食らっているファイと仲良くしていることなど、両親の耳に入らないはずがなかったのだ。
黒鋼は、そこで涙を流した。この人たちの子供でよかった。心からそう思った。
「あ、おばあちゃんだー!」
数日前のことに思考が囚われていた黒鋼だったが、ファイのあっけらかんとした声に、我に返った。
顔を上げると、すでに目的地には到着していて、団子屋敷の門へと続く細長い坂の中腹に、ニコニコ顔のおばあちゃんが手を振っていた。
「黒ぽんありがとー! もうだいじょぶだよー」
「……ああ」
黒鋼は、優しいおばあちゃんの笑顔を正面から見ることが出来なかった。俯いて短く返すだけに留めると、右手からファイの手の感触が消えた。それからすぐに、あの生徒を殴って傷つけた左手が、温かなものに包まれる。
「っ」
顔を上げると、ファイが微笑んでいた。けれど、どこか弱々しく悲しそうにも見えたのは、なぜだろう。
黒鋼の傷ついた左手は、ファイの小さな両手にぎゅうと握られていた。
「もう、しないでね」
「…………!」
「黒たんの優しいおてて、キズつけたらダメなんだよ」
ああ、また泣いてしまいそうだ。
自分は優しくなどない。
きっとこの手は、何度だって人を傷つける。
ファイを悲しませても、両親に迷惑をかけても、大切なものを守るためならば、きっと。
「また明日ねー!」
そしてファイは、おぼつかない足取りで坂を登ると、おばあちゃんに抱き付いた。振り向いて無邪気に手を振るファイに、同じ様に手を振り返してやると、黒鋼は元来た道を歩き出した。
いつか。
この壊れた小さな世界から、ファイを連れ出そう。
もっと大きく強くなって、あの手を引いて。
どこへだって行ってやる。彼を傷つけるすべてのものから、彼を遠ざけるためならば。
(それができるのは、俺だけだ)
空に向かって手を伸ばし、ゆっくりと落ちてゆく夕日を掴むようにして、傷ついた拳を握ると、黒鋼は強く胸に誓った。
カナカナカナ、という切ない声と共に、どこか懐かしさを覚えたあの歌声が、いつまでも頭の中に残って消えることはなかった。
←戻る ・ 次へ→
真っ赤に染まっていた。
顔から大量に流れ出した血液が、白かったはずの肌も、シャツさえも汚して。
血塗れの小さなファイが担架で担がれる光景に、黒鋼はただ追い縋るようにして声を上げていた。泣かないでと、幾度も呟いては伸ばされる手を強く掴むと、黒鋼の手もまた赤に染まった。
『泣かないでね、泣いたらダメ。おなか痛いの?』
脆弱な呼吸の合間に紡がれる声は、弱りきっていたあの子猫を思い出させた。
置き去りにすれば死んでしまうのに。
手を離せば、もう戻らないかもしれないのに。
ぬるりとした感覚に手と手が引き離される頃には、黒鋼の足は縺れて、身体は地面に伏していた。
そのときになって自分が泣いていたことに気がついた。
そしてそのときになって初めて「おい」とか「おまえ」じゃなく、ファイの名を声に出して呼んでいたことに、気がついた。
*
それは黒鋼の知らない歌だった。
初めて耳にするメロディのはずなのに、なぜか酷く懐かしいような気持ちになる。小さく紡がれる声からは、歌詞を鮮明に聞き取ることは出来ない。ただ、同じフレーズを幾度も幾度も繰り返していること、そしてそれがこの国の言葉でないことだけは分かった。
黒鋼は小さな手を引きながら、何も言わずにただそれを聞いていた。
夕暮れに染まる田畑を横目に、ゆっくりと彼に歩調を合わせながら、真っ直ぐに伸びた道を行く。ファイの左手を握り締め、滅多に車通りのない道と分かっていても、ガードレール側を歩かせた。
自分の家とは逆の方向へと、ファイを自宅へ送り届けるために。
あの日、ファイの左目から光が消えた。
黒鋼が体調不良からその場を離れていた、ほんの数分の間に、あの出来事は起こってしまった。
いつもなら多少具合が悪かろうがなんだろうが、保健室になど足を運ぶことはないのに。どうしてあの日に限って、我慢が出来なかったのだろう。
今、ファイは顔の半分を白い包帯で覆われている。驚いたことに、あれからたったの数日で、彼はいつものように登校してきた。何事もなかったかのように、片目だけでふにゃりと笑って。
けれど何事もなかったかのように見えたのは、ファイだけではなかった。
あれだけの騒ぎになっておきながら、クラスメイトなど端から勿論、担任の教師さえなんの反応も見せず、普段通り授業を始めた。
だから。だから黒鋼は――。
「あ」
歌い続けていたファイが小さく声を上げた。すぐ近くで、夏の虫の声がする。
「カナカナだー」
「……ひぐらしだって教えたろ」
「でも、カナカナーって鳴いてるんだもん」
「他のセミはセミって呼ぶくせに」
そう言うと、ファイは「んー」と小さく唸った。それから、黒鋼を見上げて笑う。
「だって、セミは色んな鳴き方するんだもん。ミーンミーンとか、ジージーとか」
「ヘリクツって言うんだぜ、そーゆうの」
「へりくつかー」
知らない言葉だなーと呟きながら、ファイはどこまでも広がる田畑の方へ目を向けた。オレンジ色をした丸い夕陽に向かって右手を伸ばし、それを掴もうとでもするかのように、小さな手をグーパーさせながら「ミカンが食べたいねー」と言った。
表情は見えないけれど、きっと笑っているのだと思う。
いつもだったら、すぐに転ぶのだから余所見をするなと咎めている。けれど、もうそんな必要はないのだということを知っていた。
ファイの手は、こうして黒鋼が引いて歩くのだから。
足元に石があろうが、たとえ落とし穴があろうが、この手を離しさえしなければ、守ることが出来る。だからファイは好きなものを、好きなだけ眺めて歩いていればいい。歌いたければ歌えばいい。知らないものがあったら、自分がなんだって教えてやるのだから。
誰も彼を救えないのなら、そしてファイが誰も憎もうとしないのなら、自分だけは絶対に、忘れない。
あの悪夢の日のことは。
きっととてつもなく大事になるだろうと確信していた。
あれほどまでに行き過ぎたイジメが行われた記憶など、少なくとも黒鋼が物心ついたときから現在に至るまで、一度だって耳にしたことのない大事件だったのだから。
たとえそれが学校という枠内に限らずとも、これほどのことが起これば町中が大騒ぎになるはずだった。下手をすれば、死んでいたっておかしくないのだ。
黒鋼が制裁を加えずとも、あの生徒はきっと酷く叱られて、ひょっとすればもう学校へだって来られなくなるかもしれない。この町にだって、いられなくなるかもしれないと、そう信じていた。
けれど違った。
本当に何もなかったのかもしれないと、あれほど怒りに満ち満ちていた黒鋼さえも錯覚しそうなほど。
全て夢の中の出来事だったかのように、ファイを傷つけた生徒は翌日知らぬ顔で登校して来た。目が合うとバツが悪そうに顔を背けてはいたけれど、その表情がどこか誇らしげにも見えて、黒鋼は身体の中で血液が煮えたぎるのを感じた。
今、黒鋼の左の拳には、傷がついている。
人を本気で殴るのも、殺したいとさえ思うほど憎むことも、生まれて初めてだった。
それは友人同士のじゃれ合いや、昔はテンションが上がると聞き分けが無くなることがあった飼い犬を小突くものとは、大きく違った。殴った拳だって同じ様に傷つき、血を流すのだということを、黒鋼はそのとき知ったのだった。
黒鋼はその日のうちに、両親と連れ立ってその生徒の家へと足を運んだ。
玄関先で頭を下げる父と母に、謝罪された方の親は酷く腹を立てていたが、黒鋼は最後まで口を噤んで何も言わなかった。
帰り道で、両親は何も言わなかった。けれど、父は大きな手で黒鋼の頭をグリグリと撫でた。
弱いものや、小さなものは守ってやらなければいけない。そう教えてくれたのは父だった。
結果的に黒鋼は自分よりも小さなクラスメイトを殴りつけたけれど、父も母も黒鋼が何も言わずとも、事情はある程度把握していたようだった。
いや、むしろ本当はずっと知っていたのだと思う。
小さな町の中で、黒鋼が爪弾きを食らっているファイと仲良くしていることなど、両親の耳に入らないはずがなかったのだ。
黒鋼は、そこで涙を流した。この人たちの子供でよかった。心からそう思った。
「あ、おばあちゃんだー!」
数日前のことに思考が囚われていた黒鋼だったが、ファイのあっけらかんとした声に、我に返った。
顔を上げると、すでに目的地には到着していて、団子屋敷の門へと続く細長い坂の中腹に、ニコニコ顔のおばあちゃんが手を振っていた。
「黒ぽんありがとー! もうだいじょぶだよー」
「……ああ」
黒鋼は、優しいおばあちゃんの笑顔を正面から見ることが出来なかった。俯いて短く返すだけに留めると、右手からファイの手の感触が消えた。それからすぐに、あの生徒を殴って傷つけた左手が、温かなものに包まれる。
「っ」
顔を上げると、ファイが微笑んでいた。けれど、どこか弱々しく悲しそうにも見えたのは、なぜだろう。
黒鋼の傷ついた左手は、ファイの小さな両手にぎゅうと握られていた。
「もう、しないでね」
「…………!」
「黒たんの優しいおてて、キズつけたらダメなんだよ」
ああ、また泣いてしまいそうだ。
自分は優しくなどない。
きっとこの手は、何度だって人を傷つける。
ファイを悲しませても、両親に迷惑をかけても、大切なものを守るためならば、きっと。
「また明日ねー!」
そしてファイは、おぼつかない足取りで坂を登ると、おばあちゃんに抱き付いた。振り向いて無邪気に手を振るファイに、同じ様に手を振り返してやると、黒鋼は元来た道を歩き出した。
いつか。
この壊れた小さな世界から、ファイを連れ出そう。
もっと大きく強くなって、あの手を引いて。
どこへだって行ってやる。彼を傷つけるすべてのものから、彼を遠ざけるためならば。
(それができるのは、俺だけだ)
空に向かって手を伸ばし、ゆっくりと落ちてゆく夕日を掴むようにして、傷ついた拳を握ると、黒鋼は強く胸に誓った。
カナカナカナ、という切ない声と共に、どこか懐かしさを覚えたあの歌声が、いつまでも頭の中に残って消えることはなかった。
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光
黒たんは、いっつもキラキラに光っていたんだ。
たくさん友達に囲まれて、黒たんはあんまり笑わないけど、みんなはニコニコしていたよ。
オレはずっと見ていたから、知ってるんだよ。
みんな黒たんが大好きだよ。
だから。
だからおねがい。
そんなふうに、泣かないで。
*
はっきり言って、最初から気に入らなかった。
家族だって近所の人たちだって、みんなあの家の子供には近寄るなって言ってたし、余所者はただでさえ悪さをする奴がいるから、注意しなきゃいけないって。
最初はあの変わった色の目や髪とか、大きな街の方からやって来たアイツに興味深々な奴もいたけどさ。
でも、話しかけてもおかしなことばかり言うし、いっつもヘラヘラ馬鹿みたいに笑ってるのが、みんなだんだん気持ち悪くなっていったんだ。
だからやっぱり外から来た奴なんか、ろくなもんじゃないんだよ。
しかもたまに、アイツはぼんやりした顔でこっちを見ていることがあったんだ。
それは本当に時々なんだけど、おれたちが教室で固まって喋ってたり、校庭で走り回ってたりするときに、気がつくと見てる。
おれがにらみ返してるのに気づくと、やっぱりヘラヘラ笑ってから、どこか他を向いてしまうけど。
もしかしたら、大道寺くんを見ていたのかもしれないって、今になって思う。
大道寺くんはクラスで一番大きくて、足も速いし勉強もできるし、名前だって強そうで、すごくカッコいい。
大道寺くんが言うことはみんななんでも信じるし、大道寺くんがやることはなんでもマネした。
カリスマ、っていうのかな? とにかく、おれたちにとって大道寺くんは、憧れのリーダーなんだ。
生意気な女子共は目つきが恐いとか、怒ってるみたいだとか言って、大道寺くんのことをあまり良く思ってない。
どうせ女子なんかには分からないんだから、そんなことはどうでもいいんだけど。
そんなことよりもおれたちが、ってゆーかおれが一番ムカついたのは、最近になって大道寺くんと、あのチビ野郎が仲良くしてるってことなんだ。
ずっと興味なんかなさそうだったのに、大道寺くんはどうしていちいちあんな奴を構うようになったんだろう。
放課後なんて、二人してさっさとどっかに消えちゃうし、おれたちは大道寺くんとあんまり遊べなくなった。
教室にいても、校庭にいても、大道寺くんは必ずアイツを連れてくるようになった。
今までは影でこっそりアイツをイジメたりしてたから、みんなそんな奴と遊ぶのは、なんとなく気が引けてたんだ。
おれたちはみんな大道寺くんがイジメとか、そーゆうのが嫌いだってことを知っていたから、だから影でこっそりやってたんだけど。
大道寺くんとアイツが仲良くなってから、アイツが一人きりでいることはほとんどなくなったから、誰もちょっかいを出せる奴はいなくなった。
ただそれでもマシだったのは、あのチビは大道寺くんに金魚のフンみたいにくっついてはくるけど、おれたちの輪の中にまでは、入ってこないってことだった。
校庭でも他のどこかでも、ただ近くにいて、ニコニコしながらおれたちを眺めているだけ。
他の連中はそのうちだんだん気にならなくなったみたいだけど。
おれはそれでも十分、イヤだった。
その日は、体育の授業で先生が校庭で好きなことをしてもいいって言った。
だからおれたちは、みんな倉庫から持ってきたサッカーボールを転がして走り回ってた。
そうしたら、大道寺くんはもともと朝からあんまり調子がよくなかったみたいで、ひとしきり遊んだあと「腹がイテェ」って言って、保健室に行っちゃった。
行く前に、鉄棒に寄りかかっておれたちを眺めていたチビ野郎のところに行って、なんか声かけてたのを見て、おれはちょっといい機会だと思った。
アイツは最近いい気になってるから、せっかくだからちょっと脅かしてやろうぜってことになって、一人きりになったアイツのところに何人かで行って、取り囲んでやった。
「もうボールで遊ばないのー?」
楽しかったのに……なんて、一緒に遊んでたわけでもないのにチビは言った。
「お前さ、調子にのんなよ」
そう言ってやると、「オレ、なんにものってないよー?」なんてふざけたことを言う。
やっぱりコイツは馬鹿だ。
無性にムカついて、おれがちっこい肩に思い切りパンチを入れると、薄っぺらな身体は大きく揺れて、ペタリと崩れた。
女みたいに座り込んだ格好を見て、おれたちはゲラゲラ笑った。
でも、チビは不思議そうにおれたちの顔を見上げたあと、ヘラっと笑って「ころんじゃったぁ」と言った。
それから、まるで何事もなかったみたいにキョロキョロ辺りを見渡しはじめた。
「黒たんおそいねー? おなかイタイのかわいそう……」
おれは頭に血が上った。
きっとコイツは大道寺くんに助けを求めるつもりでいるんだ。
そうしたらおれたちが、大道寺くんに嫌われるってことを知ってるから。
前に放課後、コイツにちょっかいを出していたやつが、運悪く大道寺くんに見られて睨まれたって言ってた。
そいつらはしばらくの間、大道寺くんに無視されて青くなってたっけ。
「お前さ、ムカつくんだよ! もう大道寺くんについて歩くのやめろよ!」
同情されてるだけだって早く気づけよ。
見てると無性に腹立つんだよ。
余所者は早く出てけ。
いっそ死ねばいいんだ。
今すぐに。
おれもみんなも、そんなようなことを口々に言ったけど、笑ってないのはおれだけだった。
からかうとか、ちょっと脅かすとか、おれはもうそんなレベルじゃなくなってた。
馬鹿みたいに笑って、女みたいな顔して、おれたちの楽しい時間を奪って。
チビはポカンと口をあけて、青い眼をパチクリさせた。
そうだ、この眼が一番ムカつくんだ。
いつもおれたちを見てた。大道寺くんを。
おれは砂場の砂を蹴り上げてチビ野郎に吹っかけた。
白い体操着が薄茶色に汚れる。
何度も蹴り上げているうちに、おれは足先になにか固いものがぶつかったのを感じて、下を見た。
なんでこんなもんが砂場に埋まってるのか、きっと誰かの悪戯かなんかだったんだろう。
でもそんなことはどうでもよくて、おれはそれを勢いよく掴み上げた。
ちょうど野球ボールくらいの、真っ黒い石だった。
他のみんなが、驚いて「わっ」と声を上げた。
よせ、とかやめろ、って声も混ざっていた気がしたけど、おれの耳にはほとんど届いていなかった。
「死ね!!」
おれはそれを、相変わらず座り込んだままのチビ野郎の顔面に、叩き付けてやった。
*
黒たん、やっぱりお腹が痛いのかな。
泣かないでって言いたいけど、オレは上手に言えてるのかな?
どうしてだろう。
オレには君の声が聞こえないんだ。
もうすぐ顔も見えなくなるみたい。
目の中が赤くて、顔がとっても熱いんだ。
ねぇ黒たん。
みんな君が大好きだよ。
オレも君が大好きだよ。
だから黒たん。
――泣かないで。
←戻る ・ 次へ→
黒たんは、いっつもキラキラに光っていたんだ。
たくさん友達に囲まれて、黒たんはあんまり笑わないけど、みんなはニコニコしていたよ。
オレはずっと見ていたから、知ってるんだよ。
みんな黒たんが大好きだよ。
だから。
だからおねがい。
そんなふうに、泣かないで。
*
はっきり言って、最初から気に入らなかった。
家族だって近所の人たちだって、みんなあの家の子供には近寄るなって言ってたし、余所者はただでさえ悪さをする奴がいるから、注意しなきゃいけないって。
最初はあの変わった色の目や髪とか、大きな街の方からやって来たアイツに興味深々な奴もいたけどさ。
でも、話しかけてもおかしなことばかり言うし、いっつもヘラヘラ馬鹿みたいに笑ってるのが、みんなだんだん気持ち悪くなっていったんだ。
だからやっぱり外から来た奴なんか、ろくなもんじゃないんだよ。
しかもたまに、アイツはぼんやりした顔でこっちを見ていることがあったんだ。
それは本当に時々なんだけど、おれたちが教室で固まって喋ってたり、校庭で走り回ってたりするときに、気がつくと見てる。
おれがにらみ返してるのに気づくと、やっぱりヘラヘラ笑ってから、どこか他を向いてしまうけど。
もしかしたら、大道寺くんを見ていたのかもしれないって、今になって思う。
大道寺くんはクラスで一番大きくて、足も速いし勉強もできるし、名前だって強そうで、すごくカッコいい。
大道寺くんが言うことはみんななんでも信じるし、大道寺くんがやることはなんでもマネした。
カリスマ、っていうのかな? とにかく、おれたちにとって大道寺くんは、憧れのリーダーなんだ。
生意気な女子共は目つきが恐いとか、怒ってるみたいだとか言って、大道寺くんのことをあまり良く思ってない。
どうせ女子なんかには分からないんだから、そんなことはどうでもいいんだけど。
そんなことよりもおれたちが、ってゆーかおれが一番ムカついたのは、最近になって大道寺くんと、あのチビ野郎が仲良くしてるってことなんだ。
ずっと興味なんかなさそうだったのに、大道寺くんはどうしていちいちあんな奴を構うようになったんだろう。
放課後なんて、二人してさっさとどっかに消えちゃうし、おれたちは大道寺くんとあんまり遊べなくなった。
教室にいても、校庭にいても、大道寺くんは必ずアイツを連れてくるようになった。
今までは影でこっそりアイツをイジメたりしてたから、みんなそんな奴と遊ぶのは、なんとなく気が引けてたんだ。
おれたちはみんな大道寺くんがイジメとか、そーゆうのが嫌いだってことを知っていたから、だから影でこっそりやってたんだけど。
大道寺くんとアイツが仲良くなってから、アイツが一人きりでいることはほとんどなくなったから、誰もちょっかいを出せる奴はいなくなった。
ただそれでもマシだったのは、あのチビは大道寺くんに金魚のフンみたいにくっついてはくるけど、おれたちの輪の中にまでは、入ってこないってことだった。
校庭でも他のどこかでも、ただ近くにいて、ニコニコしながらおれたちを眺めているだけ。
他の連中はそのうちだんだん気にならなくなったみたいだけど。
おれはそれでも十分、イヤだった。
その日は、体育の授業で先生が校庭で好きなことをしてもいいって言った。
だからおれたちは、みんな倉庫から持ってきたサッカーボールを転がして走り回ってた。
そうしたら、大道寺くんはもともと朝からあんまり調子がよくなかったみたいで、ひとしきり遊んだあと「腹がイテェ」って言って、保健室に行っちゃった。
行く前に、鉄棒に寄りかかっておれたちを眺めていたチビ野郎のところに行って、なんか声かけてたのを見て、おれはちょっといい機会だと思った。
アイツは最近いい気になってるから、せっかくだからちょっと脅かしてやろうぜってことになって、一人きりになったアイツのところに何人かで行って、取り囲んでやった。
「もうボールで遊ばないのー?」
楽しかったのに……なんて、一緒に遊んでたわけでもないのにチビは言った。
「お前さ、調子にのんなよ」
そう言ってやると、「オレ、なんにものってないよー?」なんてふざけたことを言う。
やっぱりコイツは馬鹿だ。
無性にムカついて、おれがちっこい肩に思い切りパンチを入れると、薄っぺらな身体は大きく揺れて、ペタリと崩れた。
女みたいに座り込んだ格好を見て、おれたちはゲラゲラ笑った。
でも、チビは不思議そうにおれたちの顔を見上げたあと、ヘラっと笑って「ころんじゃったぁ」と言った。
それから、まるで何事もなかったみたいにキョロキョロ辺りを見渡しはじめた。
「黒たんおそいねー? おなかイタイのかわいそう……」
おれは頭に血が上った。
きっとコイツは大道寺くんに助けを求めるつもりでいるんだ。
そうしたらおれたちが、大道寺くんに嫌われるってことを知ってるから。
前に放課後、コイツにちょっかいを出していたやつが、運悪く大道寺くんに見られて睨まれたって言ってた。
そいつらはしばらくの間、大道寺くんに無視されて青くなってたっけ。
「お前さ、ムカつくんだよ! もう大道寺くんについて歩くのやめろよ!」
同情されてるだけだって早く気づけよ。
見てると無性に腹立つんだよ。
余所者は早く出てけ。
いっそ死ねばいいんだ。
今すぐに。
おれもみんなも、そんなようなことを口々に言ったけど、笑ってないのはおれだけだった。
からかうとか、ちょっと脅かすとか、おれはもうそんなレベルじゃなくなってた。
馬鹿みたいに笑って、女みたいな顔して、おれたちの楽しい時間を奪って。
チビはポカンと口をあけて、青い眼をパチクリさせた。
そうだ、この眼が一番ムカつくんだ。
いつもおれたちを見てた。大道寺くんを。
おれは砂場の砂を蹴り上げてチビ野郎に吹っかけた。
白い体操着が薄茶色に汚れる。
何度も蹴り上げているうちに、おれは足先になにか固いものがぶつかったのを感じて、下を見た。
なんでこんなもんが砂場に埋まってるのか、きっと誰かの悪戯かなんかだったんだろう。
でもそんなことはどうでもよくて、おれはそれを勢いよく掴み上げた。
ちょうど野球ボールくらいの、真っ黒い石だった。
他のみんなが、驚いて「わっ」と声を上げた。
よせ、とかやめろ、って声も混ざっていた気がしたけど、おれの耳にはほとんど届いていなかった。
「死ね!!」
おれはそれを、相変わらず座り込んだままのチビ野郎の顔面に、叩き付けてやった。
*
黒たん、やっぱりお腹が痛いのかな。
泣かないでって言いたいけど、オレは上手に言えてるのかな?
どうしてだろう。
オレには君の声が聞こえないんだ。
もうすぐ顔も見えなくなるみたい。
目の中が赤くて、顔がとっても熱いんだ。
ねぇ黒たん。
みんな君が大好きだよ。
オレも君が大好きだよ。
だから黒たん。
――泣かないで。
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こいぶみ
『せんせい、ぼくは、せんせいがすきです。
せんせいのえがおをみると、とてもうれしくなります。
ぼくはおとこだから、せんせいのことを、まもりたいです。
もうすぐおわかれだけど、せんせいのことは、わすれません。
せんせいも、ぼくのことを、わすれないでください。』
「ねぇねぇ黒たん、これなぁに?」
いつものように放課後、秘密基地で過ごしていたときのことだった。
それまで、また新たに黒鋼が持ってきた古い絵本に夢中になっていたはずのファイが、手に折り畳まれた紙を持って首を傾げた。
「なんだ?」
暇を持て余すのにもめっきり慣れた黒鋼は、持参した漫画本から顔を上げることなく、上の空で返事をする。
「えっとねー」
ファイが手元で何かをガサガサとさせて、黒鋼はそこでようやく顔を上げた。
「ぼ、く、は、せん、せい、が、す」
「うわ~~~っ!?」
「ひゃぁ!」
ファイがボロボロに黄ばんだ紙に書かれているものを読み上げはじめた瞬間、黒鋼は悲鳴を上げた。思いっきり飛び掛ってそれを奪い取る。
「んもー! イタイよ黒ぴっぴ~っ」
「ばっ、おま、これっ、どこに!?」
「絵本にはさまってたよー?」
心臓をバクバクと高鳴らせながら、嫌な汗をかく。なぜ、こんなものがここに……。
黒鋼は慌ててそれを手の中に握りこむと、額に滲んだ汗をぬぐった。季節は初夏。汗をかくくらいどうってことはないが、これはなんとも嫌な感じだ。
手の中でぐしゃぐしゃになっている古めかしい紙切れは、黒鋼が幼い頃に書いた、いわゆるラブレターというものだった。
あれは小学一年生の頃だったか。都会からやってきた教育実習生の女性だったと思う。長い黒髪を綺麗に一つにまとめて、いつも淡い桃色のカーディガンを着ていた。優しい笑顔を見るのが好きで、黒鋼は子供心に彼女に恋をしたのだ。思えばあれが初恋、というものだったのだと思う。
「お、おまえ……全部、読んだか……?」
「んん?」
「全部目ぇ通したかって聞いてんだよ!」
コトリと、ファイが首を傾げた。
黒鋼は返事を待つ間、その瞳をじっとりと睨みつける。やがて、不思議そうにしていた表情がへにゃ~んと間抜けた笑顔に変わる。
「ヒミツのことなのー?」
「答えになってねぇし」
「見ちゃおうかなー」
「ばっ、おいダメだって!」
ファイが小さな身体で飛び掛ってきて、黒鋼は咄嗟にそれを避けることが出来なかった。でん、と後方にひっくり返って、それでも伸びてくる手から手紙を守ろうともがく。
そのとき、唇の辺りにガツンと衝撃が走った。
「いっ!?」
「んあっ!」
一瞬、目の前に星が瞬いたような光景が広がって、すぐに頭が真っ白になった。何が起こったのか整理できないまま、とりあえず痛みに口を押えてのっそりと起き上がる。
「イタイよぅ~」
それはファイも同じだったようで、黒鋼の上から退くとペタリと女の子座りをして両手で口元を押えていた。
「っ!」
痛い痛いと涙ぐんでいるファイに、黒鋼は一気にクリアになる思考に衝撃を受けた。
今、触れたのは、ぶつかったのは、唇と唇ではないのか。実際には歯と歯がぶつかったという方が正しい気はするけれど。ガツンという痛みが走る直前、視界いっぱいにファイのニコニコ顔を見たような気がする。
「ま、マジかよ……」
カッと顔が熱くなってゆく。心臓がドクドクと脈打っていて、いきなりのことに痛み以外でもちょっと涙が出そうだった。
――ファイと、キスをした。
黒鋼が石のように固まっていると、ファイはぶぅと唇を尖らせる。今は、その尖った唇を真っ直ぐに見ていられない。目を泳がせて、頭をガリガリと掻いた。
「ジョーダンだったのにー……黒ぴーがイジワルだから、ガツンてなったー」
「……おう」
ファイの顔さえ見れない。キスをしたのだと、それを実感しているのが自分だけなのだと思うと、なんだかやるせないような、ホッとしたような、複雑な心境を持て余す。
黒鋼は鈍った思考を、それでも物凄い速さで回転させていた。そうだ、あれはちょっとした事故だ。幸か不幸かファイは子供だから、意味なんて分かっていないし。
別に女子でもないし、初めてだからどうとか、そんなのは関係ない。きっとカウントにすら入らないはずだ。そうじゃなきゃいけない、気がする。
短い時間でどうにか自分の中で処理をした瞬間、ファイが「あ」と間抜けな声を出した。
「ねぇねぇ、今のってチュウかなぁ? オレと黒たん、チュウしたのかなぁ?」
「ばっ、違う!」
「ちがうー?」
黒鋼は無意味に幾度か咳払いをした。
「そう、だ。ちがう。今のは、そーゆうんじゃない」
「ふぅん?」
そっかー、とファイは別段変わった様子もなく、へにゃりと笑った。思いっきり取り乱しているのは、やっぱり自分だけなのだ。
馬鹿馬鹿しいような気もしつつ、黒鋼は違う意味でなぜか安堵もしていた。
ファイが、嫌がらなくてよかった、と。
もし彼がたった今起こった不慮の事故に対して、少しでも嫌悪感を露にしていたのならば、多分、黒鋼はとても傷ついていただろうと思う。そして、あれだけ内心で否定しておいて、自分自身も嫌悪感を欠片も抱いていないことに、違和感を覚えた。
けれどそこで働き出したのは、一種の防衛本能だった。考えることを、とりあえずは止める。
だいたい話の主旨は、幼い頃の黒鋼が書いたラブレターなのだから。無機物に対して募る苛立ちに身を任せ、ただでさえシワシワなその紙切れを、さらに丸めてポケットに捻じ込んだ。
「と、とにかく、これはダメだ」
ゴホン、ともう一度咳払いをする。なんだって古い絵本になど挟まっていたのか、その辺りの記憶は曖昧だった。
これは帰ってから、庭の焼却炉ででもこっそり焼いてしまおう。そう決めたところで、ファイがまるで黒鋼の心を読んだかのように言った。
「ダメだよー」
「あ?」
「それ、すごく大事なものなんだよ」
「…………」
一瞬なにも言えないでいると、ファイは首を傾げて微笑みながら「ね?」と言った。
「……やっぱ見たんだろ」
そうに決まってる。
「見てないよ?」
だって黒たんだけのタカラモノでしょ、と言ってファイは笑った。
結局、黒鋼は渡せなかったラブレターを、燃やすことができなかった。
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『せんせい、ぼくは、せんせいがすきです。
せんせいのえがおをみると、とてもうれしくなります。
ぼくはおとこだから、せんせいのことを、まもりたいです。
もうすぐおわかれだけど、せんせいのことは、わすれません。
せんせいも、ぼくのことを、わすれないでください。』
「ねぇねぇ黒たん、これなぁに?」
いつものように放課後、秘密基地で過ごしていたときのことだった。
それまで、また新たに黒鋼が持ってきた古い絵本に夢中になっていたはずのファイが、手に折り畳まれた紙を持って首を傾げた。
「なんだ?」
暇を持て余すのにもめっきり慣れた黒鋼は、持参した漫画本から顔を上げることなく、上の空で返事をする。
「えっとねー」
ファイが手元で何かをガサガサとさせて、黒鋼はそこでようやく顔を上げた。
「ぼ、く、は、せん、せい、が、す」
「うわ~~~っ!?」
「ひゃぁ!」
ファイがボロボロに黄ばんだ紙に書かれているものを読み上げはじめた瞬間、黒鋼は悲鳴を上げた。思いっきり飛び掛ってそれを奪い取る。
「んもー! イタイよ黒ぴっぴ~っ」
「ばっ、おま、これっ、どこに!?」
「絵本にはさまってたよー?」
心臓をバクバクと高鳴らせながら、嫌な汗をかく。なぜ、こんなものがここに……。
黒鋼は慌ててそれを手の中に握りこむと、額に滲んだ汗をぬぐった。季節は初夏。汗をかくくらいどうってことはないが、これはなんとも嫌な感じだ。
手の中でぐしゃぐしゃになっている古めかしい紙切れは、黒鋼が幼い頃に書いた、いわゆるラブレターというものだった。
あれは小学一年生の頃だったか。都会からやってきた教育実習生の女性だったと思う。長い黒髪を綺麗に一つにまとめて、いつも淡い桃色のカーディガンを着ていた。優しい笑顔を見るのが好きで、黒鋼は子供心に彼女に恋をしたのだ。思えばあれが初恋、というものだったのだと思う。
「お、おまえ……全部、読んだか……?」
「んん?」
「全部目ぇ通したかって聞いてんだよ!」
コトリと、ファイが首を傾げた。
黒鋼は返事を待つ間、その瞳をじっとりと睨みつける。やがて、不思議そうにしていた表情がへにゃ~んと間抜けた笑顔に変わる。
「ヒミツのことなのー?」
「答えになってねぇし」
「見ちゃおうかなー」
「ばっ、おいダメだって!」
ファイが小さな身体で飛び掛ってきて、黒鋼は咄嗟にそれを避けることが出来なかった。でん、と後方にひっくり返って、それでも伸びてくる手から手紙を守ろうともがく。
そのとき、唇の辺りにガツンと衝撃が走った。
「いっ!?」
「んあっ!」
一瞬、目の前に星が瞬いたような光景が広がって、すぐに頭が真っ白になった。何が起こったのか整理できないまま、とりあえず痛みに口を押えてのっそりと起き上がる。
「イタイよぅ~」
それはファイも同じだったようで、黒鋼の上から退くとペタリと女の子座りをして両手で口元を押えていた。
「っ!」
痛い痛いと涙ぐんでいるファイに、黒鋼は一気にクリアになる思考に衝撃を受けた。
今、触れたのは、ぶつかったのは、唇と唇ではないのか。実際には歯と歯がぶつかったという方が正しい気はするけれど。ガツンという痛みが走る直前、視界いっぱいにファイのニコニコ顔を見たような気がする。
「ま、マジかよ……」
カッと顔が熱くなってゆく。心臓がドクドクと脈打っていて、いきなりのことに痛み以外でもちょっと涙が出そうだった。
――ファイと、キスをした。
黒鋼が石のように固まっていると、ファイはぶぅと唇を尖らせる。今は、その尖った唇を真っ直ぐに見ていられない。目を泳がせて、頭をガリガリと掻いた。
「ジョーダンだったのにー……黒ぴーがイジワルだから、ガツンてなったー」
「……おう」
ファイの顔さえ見れない。キスをしたのだと、それを実感しているのが自分だけなのだと思うと、なんだかやるせないような、ホッとしたような、複雑な心境を持て余す。
黒鋼は鈍った思考を、それでも物凄い速さで回転させていた。そうだ、あれはちょっとした事故だ。幸か不幸かファイは子供だから、意味なんて分かっていないし。
別に女子でもないし、初めてだからどうとか、そんなのは関係ない。きっとカウントにすら入らないはずだ。そうじゃなきゃいけない、気がする。
短い時間でどうにか自分の中で処理をした瞬間、ファイが「あ」と間抜けな声を出した。
「ねぇねぇ、今のってチュウかなぁ? オレと黒たん、チュウしたのかなぁ?」
「ばっ、違う!」
「ちがうー?」
黒鋼は無意味に幾度か咳払いをした。
「そう、だ。ちがう。今のは、そーゆうんじゃない」
「ふぅん?」
そっかー、とファイは別段変わった様子もなく、へにゃりと笑った。思いっきり取り乱しているのは、やっぱり自分だけなのだ。
馬鹿馬鹿しいような気もしつつ、黒鋼は違う意味でなぜか安堵もしていた。
ファイが、嫌がらなくてよかった、と。
もし彼がたった今起こった不慮の事故に対して、少しでも嫌悪感を露にしていたのならば、多分、黒鋼はとても傷ついていただろうと思う。そして、あれだけ内心で否定しておいて、自分自身も嫌悪感を欠片も抱いていないことに、違和感を覚えた。
けれどそこで働き出したのは、一種の防衛本能だった。考えることを、とりあえずは止める。
だいたい話の主旨は、幼い頃の黒鋼が書いたラブレターなのだから。無機物に対して募る苛立ちに身を任せ、ただでさえシワシワなその紙切れを、さらに丸めてポケットに捻じ込んだ。
「と、とにかく、これはダメだ」
ゴホン、ともう一度咳払いをする。なんだって古い絵本になど挟まっていたのか、その辺りの記憶は曖昧だった。
これは帰ってから、庭の焼却炉ででもこっそり焼いてしまおう。そう決めたところで、ファイがまるで黒鋼の心を読んだかのように言った。
「ダメだよー」
「あ?」
「それ、すごく大事なものなんだよ」
「…………」
一瞬なにも言えないでいると、ファイは首を傾げて微笑みながら「ね?」と言った。
「……やっぱ見たんだろ」
そうに決まってる。
「見てないよ?」
だって黒たんだけのタカラモノでしょ、と言ってファイは笑った。
結局、黒鋼は渡せなかったラブレターを、燃やすことができなかった。
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鬼の顔
「今日で三日目、か…」
窓際の一番後ろの席を眺めて、黒鋼はポツリと呟いた。
あの雨の日曜日から三日、ファイは風邪を引いて学校を休んでいる。
もともと一クラス二十数名程度の教室は、スペースがだいぶ余っている。けれど、彼がいないだけでやけに広いものに感じられるから不思議だった。ファイはあんなに小さいのに。
いつものように取り囲んでくる友人達とくだらないことを話していても、校庭で遊んでいても、傍にファイがいないというだけで、黒鋼は上の空だった。
*
田畑が一面に段々と広がる風景に沿うように、一本の細く長い国道が延びている。この沿線上に黒鋼の家もあるのだが、今向かっているのはいつも帰る方向とは真逆だった。
日曜日からずっと空はぐずついたままで、天気予報を見てようやく梅雨入りしたのだということを知った。降ったり降らなかったりの中途半端な天候は、ただでさえ気が滅入る。そんな中にあって、あの日曜日の出来事がずっと頭をチラついて、黒鋼はいてもたってもいられなくなった。
悶々としているだけは性に合わないと、そう思い立ち向かっているのは、ファイの住む大きなお屋敷である。
そこは昔から『団子屋敷』と冗談みたいな名前で呼ばれる、大きな日本家屋だった。理由はその家の老夫婦が以前、茶屋を経営していたからというものだった。
聞けば知る人ぞ知る和菓子の名店で、特に自家製の芋を使って作られた団子が観光客に人気だったというのが、屋敷の名前の由来になったという。
全盛期には市街地にある大きな駅でも、土産品売り場に店を出していたらしい。
だが、どういうわけか十年ほど前に、ぱったりと店を閉じてしまった。なぜかは知らないが、それほど繁盛していた店を急に畳んだとなると、よほどの理由があったのだろう。
昔、気になって父と母に訊ねてみたが、なぜか二人とも悲し気に睫毛を伏せるばかりで、情報は得られなかった。
思えばそれが、この町の人間達がファイを迫害する理由と結びつくのではないかと、ここのところ黒鋼は考えるようになっていた。ただ漠然とそう感じるだけなのだが、全くの無関係とは、なんとなく思えないのだ。
ぼんやりと思考を巡らせつつ長い道のりをひたすら歩き続けていると、一度は止んだと思われた雨が、ポツリポツリと冷たく頬を濡らした。ゆっくりと顔を上げて、雨雲に覆われた空を見上げる。手には傘をぶら下げていたけれど、なぜかわざわざさす気になれない。
頭の中に幾度もこだまして離れないのは、ファイの悲痛な叫び声だった。
『じゃあなんでオレは生きてるの!?』
彼の母は生きているのか、死んでいるのか。それだけでは分からないけれど、ただファイの側にいないことだけは、確かなようだ。
自分の家からは真逆にあるその屋敷へは、あの雨の日に傘を持たないファイを送り届けるのに、初めて足を踏み入れた。踏み入れたと言っても、屋敷の中にまで入ったわけではない。庭先に入っただけで、あとはほぼ逃げ出したと言っても過言ではなかった。
あの日。雨の団子屋敷で、黒鋼は、鬼を見たのだ。
あの顔を。声を。振り上げられた拳を思い出すだけで、背筋が寒くなる。
ファイを殴りつけて、あんな痛々しい傷を作ったのは、あの鬼の仕業だったのだ。
*
改めて見ると、本当に立派なお屋敷だった。
黒鋼の家は経営している民宿と隣接した位置にある、典型的な農家の家といった佇まいだが、ここはまさに『屋敷』と呼ぶにふさわしい外観だった。
国道から細く小さな坂が脇道のように逸れていて、やや小高い位置にその団子屋敷の塀と門がある。そしてその屋敷とは別に、木造建ての小さく粗末な家屋があるのに黒鋼は目を留めた。坂と隣接するようにしてあるそれは、はじめこの屋敷の離れかとも思ったが、塀の外にあるのを見ると、どうやら違うらしい。
これこそがその昔、茶屋を経営していた場所なのだと、ファイが教えてくれた。
観光客や地元の人間も足を運ぶほど繁盛していたというこの建物。当時はもっと立派な外観だったのだろうが、今はその面影を残すばかりで、すっかり寂れてしまっている。
古くなったガラスは埃や黴で濁り、そこかしこにヒビが入っていた。薄暗くてはっきりと中は見えないが、物置にでもしているのかもしれない。雑然と何かしらが詰め込まれているのだけは、ぼんやりと窺える。
その軒先に置かれた木造のベンチは所々が腐り、痛々しいまでに朽ちていた。剥がれ落ちた瓦が足元で粉々に割れて、石コロになり果てている。祭の後のような寂しさが、その小屋全体から立ち上っていて、どこか切ない気持ちになった。
黒鋼は目を逸らすようにして、砂利が敷き詰められた細い坂の上に再び目をやった。重々しい貫禄に満ちた大きな屋敷は、杉の木に囲まれて守られるようにして佇んでいる。
ここでファイは、一体どんな暮らしをしているのだろう。
黒鋼は、ファイをここへ送り届けた日のことを、ぼんやりと思い出した。
*
たとえボロでも、ブランケットを持参したのは正解だった。少しくすんだ白いそれは、子猫を温めるためには使えなかったけれど、ファイの細い肩を包むのには役に立っていた。
「大丈夫か?」
大きな黒い傘の下、二人寄り添うようにして歩きながら問いかけると、ファイは鼻を啜りながら幾度か「うん」と頷く。泣きはらした目元が赤く染まっていた。
ファイを家まで送る道すがら、雨が弱まってきたと同時に、ファイも少しずつ落ち着きを取り戻している。黒鋼は少しだけほっとして息をついた。
けれど、そんな中でどうしても目がいくのは、彼の頬の腫れ具合だった。紫色に変色しているそれは、あまりにもファイの白い肌と不釣合いだった。
少し迷ってから、黒鋼は手を伸ばした。指先で、腫れた頬の上にこびり付いていた泥を拭う。ファイの肩が、少しだけ揺れた。
「痛む、よな」
「……うん」
でも平気、とファイは顔を上げて小さく笑った。あれだけ彼の笑顔が見たいと思っていたはずなのに、今はただ苦しいだけだった。笑いたくないときは、笑わなくてもいいのに。
そう思っていたことが顔に出たのか、ファイはことりと首を傾げた。
聞いてもいいだろうか。黒鋼は迷っていた。だが見て見ぬふりなど出来なくて、歯切れ悪く切り出してみる。
「それ……」
「うん?」
誰かを深く詮索することに慣れていない。同じ歳くらいの子供なら、きっとズケズケと誰に対しても無邪気に追求するのかもしれない。けれど黒鋼にはそれが出来なかった。ときどき、母から『子供らしくない』などとからかわれることがあった。黒鋼にはその意味がよく分からなかったけれど、もしかすればこんなところがあるから、なのかもしれない。
「オレ、わるい子だったから」
口を閉ざしていた黒鋼の心中を察したのかは知らないが、ファイは足元を見つめながらポツリと呟いた。
「おばあちゃんをね、心配させちゃったから、おじいちゃんが怒ったの」
「……じいちゃんにぶたれた?」
「うん」
黒鋼はハッとした。昨日、日が長いのを言い訳にして、帰宅したのが随分と遅い時間だったことを思い出す。
「悪かった……」
「どうして黒たんがあやまるのー?」
「だってよ……」
自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのだと感じた。ファイがこんな目に遭ったのは、きっと自分の責任だ。
「ちがうよ、オレがわるい子だったの。オレ、もう大きいのに、ちゃんとしてなかったから」
「おまえは……」
まだ小さいよ、とは言えなかった。黒鋼はファイを自分よりも小さな子供のように思っているけれど、彼にそれを言うのは酷く失礼なことなのかもしれないと感じた。
「……じいちゃんとは、仲悪いの?」
話を逸らす意味で、咄嗟に問いかけた。それさえもまずかったか、と感じたけれど、もう遅い。ファイは小さな声で「うぅん」と唸った。
「……わかんない。でも、オレがわるいから」
「どうして」
「オレが、お母さんをとっちゃったから」
「……?」
「オレ、もっといっぱいおじいちゃんにごめんなさいって言わなきゃいけないの。でもおじいちゃん、あんまりオレとお話してくれないから……」
だからオレはわるい子なんだよ、とファイは言った。どうして、と聞きたかったけれど、その前にファイが「あ」と声をあげた。
「黒るーは? おうちの人に怒られた?」
「あ、ああ……俺も殴られた。げんこつ」
「そっかー」
黒鋼は、嘘をついているわけでもないのに、なぜか後ろめたい気持ちになって俯いた。
父の拳は、黒鋼を傷つけはしなかったのだ。そんなもののためには存在しない。ときどき、本当に悪いことをすれば本気でげんこつを食らうこともあるけれど、そんなときは父をとても恐ろしいと感じることもあるけれど、その戒めに愛情が込められていることくらい、黒鋼には理解できていたから。
唇を噛み締めて、黒鋼は口を閉ざした。ファイもそれ以上、とくに何も言いはしなかった。
弱まりかけていた雨が、再び強まりつつある。ファイの家はもうすぐそこだった。
「見て、黒りん」
「ん?」
そこでファイが声を上げて、ある方向を指差すので、黒鋼は顔を上げた。そこには、朽ちた小さな家があった。
「あそこでねー、オレがうまれる前に、おかしとかお茶とかだしてたんだよー」
「ああ、知ってる」
「オレいつかね、おかしの作り方べんきょーして、おばあちゃんとまたお店やるのー」
「へぇ?」
将来の夢を語るファイの笑顔は、いつも通りの柔らかでふにゃふにゃとしたものだった。
その後、玄関先まで送ると言った黒鋼の申し出を、ファイは一度断った。
でもその頃には雨足は再び強まっていて、実際はもうどうしようもないほど濡れてはいたけれど、これ以上彼を雨に曝したくはなかった。なにより、朝早い時間から飛び出して泥だらけで帰ってきたファイが、また殴られでもすれば堪らないと思った。そのときにはちゃんと事情を話して、それでも殴るというなら、自分がそれを受けるつもりだった。
そしてそこで、黒鋼は『鬼』の顔を見た。
ずぶ濡れで庭先まで足を踏み入れたふたりを迎えたのは、縁側から顔を出した一人の年老いた男性だった。鉢合わせたとき、傍らの小さな身体は僅かに強張っていたように思う。微かな声で、「おじいちゃん」という呟きを聞いた。
その男は老人にしては背が高く、そしてしゃきっと背筋が伸びていた。長く伸びた髭は立派なもので、白く濁った色をしていた。
彼はファイを見た途端に眼を吊り上げ、唾を幾つも飛ばしながら大声で怒鳴っていた。しゃがれた水っぽい声は、大雨が頭上の傘を叩く音に紛れて聞き取りにくかったが、ずぶ濡れで泥にまみれたファイに対して、酷く怒っていたようだ。
思い出したくもない。彼がファイへと放つ言葉の数々。断片的にしか聞き取れなかったけれど『醜い』という言葉だけでも、あの老人は一体幾度口にしただろうか。
ああ、本当に鬼には角もなければ牙もないのだと、黒鋼は思った。
テレビや絵本に出てくるような鬼のように、どこか憎めない、愛嬌のある顔をした生き物ではなくて。
『おじいちゃん』と呼ばれた男は、ファイを一通り罵ると、石のように固まっていた黒鋼を見て、さらに顔色を変えた。裸足で飛び出してきて、雨に濡れるのも構わずに拳を高く振り上げた。かろうじて聞き取れたのは、「帰れ」というと怒鳴り声だけだった。
そのとき、ファイが傘の中から飛び出して、黒鋼を守るように両手を広げた。ファイは青かった表情をさらに青くして、黒鋼に帰るように言った。肩にかけられていたブランケットが地面に落ちる。白かったはずのそれが、みるみるうちに黒く汚れていく。
黒鋼は老人の迫力に圧倒されて、事情を説明することも、ましてや言い返すことも出来ずに、ただおずおずと引き下がることしか出来なかった。
思えば、あそこで黒鋼が余計なことを言えば、その後ファイがどうなっていたか分からない。けれど、それでもただ怯えて固まってしまった自分があまりにも情けなくて、ファイに何ひとつ声をかけることも出来ず置き去りにしてしまったことが悔しくて、帰り道でまた少し涙が出た。
結局ファイは雨に濡れてしまったし、あのあとまた殴られたかもしれない。庇うつもりが庇われて、自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。
それから泥まみれで帰ってきた黒鋼を、母はやんわり咎め、父はどこか面白そうなものを見る表情で迎えてくれた。あきらかに様子の沈んだ黒鋼に、彼らは普段通りに接するだけで、何も聞こうとはしなかった。
家族なんているのが当たり前で、そんな家族がこんなにも温かいものだなんて、黒鋼は本当の意味で、そのときまで知りもしなかったように思う。
ファイには、そんな家族はいないのだろうか。事あるごとに、ああして頭ごなしに叱られるのか。そのほとんどが理不尽な罵りばかりで、時にはひどい痣を作って。そんなものが彼にとって日常茶飯事なのか。
黒鋼の知らないところで、彼はあんなふうに傷ついているのだろうか。いつだって笑っているけれど、本当は。
*
黒鋼は団子屋敷を見上げたまま、そのときの光景を思い出して握った拳を震わせた。足が竦んで、その先に進むことができない。勢いだけでここまで来てしまったが、一体どうすればいいのだろう。
それでも、ここで引き下がるのは嫌だった。ファイの病状を聞いて、せめて一目でいいから顔を見られたら、それで十分だった。あの陽だまりのような、柔らかな笑顔を見られれば、それで。
よっしゃ、と気合を入れて一歩踏み出そうとした、そのとき。
「あら、こんにちは」
「!」
目の前、坂道の中腹に腰の曲がった、年老いた女性が傘を差して立っていた。物思いに耽っていた黒鋼は、彼女の気配に全く気がついていなかった。
「もしかして、大道寺さんのところの息子さんかねぇ?」
羽根のように優しい、ゆったりとした声だった。
淡いピンクの花柄の割烹着を着て、透明なビニールの傘を差したその女性は、笑い皺に目元をくしゃりとさせて、曲がった腰で不自由そうに歩いてくる。
「あの、はい……」
返事をすると、彼女はさらに嬉しそうに微笑んだ。その柔らかな雰囲気と温かな笑顔は、どことなくファイに似ているような気がした。
「そうかいそうかい、お見舞いに来てくれたんだねぇ」
てっきり再びあの鬼のような年寄りと対峙するものと覚悟を決めていた黒鋼は、ポカンと口を開けるばかりだった。
さらに黒鋼が驚いたのは、彼女の話し方だった。ここらの年寄りは必ずと言っていいほど方言が強く、鈍った話し方をする。黒鋼は幼い頃から聞きなれているから気にならないが、この人の話し方はとても綺麗だ。そういえば、どこか気の抜けたような喋り方も、ファイとよく似ている。
それだけでも黒鋼の緊張は嘘のように解れて、肩から力が抜けてゆくようだった。
「ファイちゃんもう大分よくなってるんだよ。でもうつるといけないから、まだ会えないの」
「……そう、なんだ」
「ごめんねぇ」
黒鋼はぶるぶると首を振った。治りかけているということを確認できただけでも、来てよかった。
そしてふと、ファイのあの顔の腫れのことも気になった。
「あの……」
「なぁに?」
「怪我、は……」
殴られた痕、とはどうしてか言えなかった。それでもやはり十分伝わったようで、ふにゃふにゃだった笑顔が、少し悲しそうに歪められる。
「ごめんねぇ」
彼女は再び謝罪の言葉を述べた。黒鋼は慌ててまた首を振る。
「風邪ひいたのも、あいつが叱られたのも、俺のせいだと思うから。俺があいつを早く家に帰してやらなかったから……。それに、あの後も……」
何も出来ずに、ただ悔し涙を流しながら帰宅したあの後のこと。ファイは、無事だったのか。ファイの祖母は「うぅん」と言って首を振ると、にっこりと微笑んだ。
「だいじょぶだいじょぶ。心配しないで。いつもファイちゃんと遊んでくれて、ありがとうね」
そして「そうだ」と傘を掴む拳をもう片方の手の平でポンと叩き、割烹着のポケットをゴソゴソと漁ると、中から出て来てきたものを黒鋼に「はい」と言って差し出した。顔を上げて咄嗟に手を出すと、カサリと音を立てて手の平に薄荷の飴の包みが置かれる。
「これ……?」
「明日にはね、ファイちゃん元通りだから、また遊んでやってねぇ」
黒鋼は手の平の飴玉を見て、少しだけ視界がじんわりと滲んでくるのを感じていた。ファイの好きな、スースーする飴。
「ありがとおね」
大きく、コクリと頷いた。鼻の頭がツンと痛んだけれど、ぐっと堪える。そのときだった。
「くーろたーん!」
「!」
頭上で明るい声がして、見上げると屋敷の二階の窓から、ふわふわの金色が顔を覗かせ、大きく手を振っているのが見えた。
その肩にあの置き去りにしてきた白いブランケットをかけているのが、チラリと見える。
「黒るー! オレ、あしたはガッコ行くよー!」
ファイは白い歯を見せてニコニコと笑っていた。腫れていた頬には白い湿布が貼られてはいたけれど、その顔に新しい痣はなかった。じんわりと胸が熱くなって、黒鋼も大きく手を振り返した。
「こらー! また熱が上がっても、おばあちゃん知らないよー?」
ファイは「はーい」と返事をして、最後にまた黒鋼に手を振ると窓を閉めた。
「ねぇ? もう大丈夫でしょ?」
「うん、うん……」
熱くなった胸がいっぱいに溢れそうで、黒鋼はまともに言葉を話すことが出来なかった。けれどペコリと頭を下げて、どうにか「ありがとう」と言った。
おばあちゃんは、黒鋼が見えなくなるまでずっと手を振っていてくれた。
*
帰り道を歩きながら、黒鋼は包みを破いてポケットに入れると、飴を口に放り込んだ。苦くて、甘い。スースーとした感覚に鼻の通りがよくなる。苦手だったこの味が、今はとても優しくて、嬉しい。
ファイがああやっていつも笑っているのは、きっとあの優しいおばあちゃんがいてくれるからなんだと、そう思うと嬉しくて、涙が出そうだった。
そして何より、ファイの笑顔が見れて、声が聞けて、本当によかった。
明日には元通り。黒鋼は泣き止んだ曇り空を見上げる。明日は晴れるといいなと、そう思う。ファイのあの可愛い笑顔を、早くもっと傍で見たい。
そうしたら、もう一度ちゃんと謝ろう。おばあちゃんはああ言ってくれたけど、それで黒鋼は随分と気持ちが軽くはなったけど、それでもちゃんと、ファイに。
それから、もう一つ。彼に、『おまえは何も悪くない』と、そう言ってやりたい。
ファイはしきりに自分のことを『わるい子』だと言っていたけれど、黒鋼にはその意味は分からなかったけれど、例え何人もの人間がファイを指差して『お前は悪い子だ』と言ったとしても、黒鋼だけは彼の味方でいたかった。
きっと。きっと明日には。
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「今日で三日目、か…」
窓際の一番後ろの席を眺めて、黒鋼はポツリと呟いた。
あの雨の日曜日から三日、ファイは風邪を引いて学校を休んでいる。
もともと一クラス二十数名程度の教室は、スペースがだいぶ余っている。けれど、彼がいないだけでやけに広いものに感じられるから不思議だった。ファイはあんなに小さいのに。
いつものように取り囲んでくる友人達とくだらないことを話していても、校庭で遊んでいても、傍にファイがいないというだけで、黒鋼は上の空だった。
*
田畑が一面に段々と広がる風景に沿うように、一本の細く長い国道が延びている。この沿線上に黒鋼の家もあるのだが、今向かっているのはいつも帰る方向とは真逆だった。
日曜日からずっと空はぐずついたままで、天気予報を見てようやく梅雨入りしたのだということを知った。降ったり降らなかったりの中途半端な天候は、ただでさえ気が滅入る。そんな中にあって、あの日曜日の出来事がずっと頭をチラついて、黒鋼はいてもたってもいられなくなった。
悶々としているだけは性に合わないと、そう思い立ち向かっているのは、ファイの住む大きなお屋敷である。
そこは昔から『団子屋敷』と冗談みたいな名前で呼ばれる、大きな日本家屋だった。理由はその家の老夫婦が以前、茶屋を経営していたからというものだった。
聞けば知る人ぞ知る和菓子の名店で、特に自家製の芋を使って作られた団子が観光客に人気だったというのが、屋敷の名前の由来になったという。
全盛期には市街地にある大きな駅でも、土産品売り場に店を出していたらしい。
だが、どういうわけか十年ほど前に、ぱったりと店を閉じてしまった。なぜかは知らないが、それほど繁盛していた店を急に畳んだとなると、よほどの理由があったのだろう。
昔、気になって父と母に訊ねてみたが、なぜか二人とも悲し気に睫毛を伏せるばかりで、情報は得られなかった。
思えばそれが、この町の人間達がファイを迫害する理由と結びつくのではないかと、ここのところ黒鋼は考えるようになっていた。ただ漠然とそう感じるだけなのだが、全くの無関係とは、なんとなく思えないのだ。
ぼんやりと思考を巡らせつつ長い道のりをひたすら歩き続けていると、一度は止んだと思われた雨が、ポツリポツリと冷たく頬を濡らした。ゆっくりと顔を上げて、雨雲に覆われた空を見上げる。手には傘をぶら下げていたけれど、なぜかわざわざさす気になれない。
頭の中に幾度もこだまして離れないのは、ファイの悲痛な叫び声だった。
『じゃあなんでオレは生きてるの!?』
彼の母は生きているのか、死んでいるのか。それだけでは分からないけれど、ただファイの側にいないことだけは、確かなようだ。
自分の家からは真逆にあるその屋敷へは、あの雨の日に傘を持たないファイを送り届けるのに、初めて足を踏み入れた。踏み入れたと言っても、屋敷の中にまで入ったわけではない。庭先に入っただけで、あとはほぼ逃げ出したと言っても過言ではなかった。
あの日。雨の団子屋敷で、黒鋼は、鬼を見たのだ。
あの顔を。声を。振り上げられた拳を思い出すだけで、背筋が寒くなる。
ファイを殴りつけて、あんな痛々しい傷を作ったのは、あの鬼の仕業だったのだ。
*
改めて見ると、本当に立派なお屋敷だった。
黒鋼の家は経営している民宿と隣接した位置にある、典型的な農家の家といった佇まいだが、ここはまさに『屋敷』と呼ぶにふさわしい外観だった。
国道から細く小さな坂が脇道のように逸れていて、やや小高い位置にその団子屋敷の塀と門がある。そしてその屋敷とは別に、木造建ての小さく粗末な家屋があるのに黒鋼は目を留めた。坂と隣接するようにしてあるそれは、はじめこの屋敷の離れかとも思ったが、塀の外にあるのを見ると、どうやら違うらしい。
これこそがその昔、茶屋を経営していた場所なのだと、ファイが教えてくれた。
観光客や地元の人間も足を運ぶほど繁盛していたというこの建物。当時はもっと立派な外観だったのだろうが、今はその面影を残すばかりで、すっかり寂れてしまっている。
古くなったガラスは埃や黴で濁り、そこかしこにヒビが入っていた。薄暗くてはっきりと中は見えないが、物置にでもしているのかもしれない。雑然と何かしらが詰め込まれているのだけは、ぼんやりと窺える。
その軒先に置かれた木造のベンチは所々が腐り、痛々しいまでに朽ちていた。剥がれ落ちた瓦が足元で粉々に割れて、石コロになり果てている。祭の後のような寂しさが、その小屋全体から立ち上っていて、どこか切ない気持ちになった。
黒鋼は目を逸らすようにして、砂利が敷き詰められた細い坂の上に再び目をやった。重々しい貫禄に満ちた大きな屋敷は、杉の木に囲まれて守られるようにして佇んでいる。
ここでファイは、一体どんな暮らしをしているのだろう。
黒鋼は、ファイをここへ送り届けた日のことを、ぼんやりと思い出した。
*
たとえボロでも、ブランケットを持参したのは正解だった。少しくすんだ白いそれは、子猫を温めるためには使えなかったけれど、ファイの細い肩を包むのには役に立っていた。
「大丈夫か?」
大きな黒い傘の下、二人寄り添うようにして歩きながら問いかけると、ファイは鼻を啜りながら幾度か「うん」と頷く。泣きはらした目元が赤く染まっていた。
ファイを家まで送る道すがら、雨が弱まってきたと同時に、ファイも少しずつ落ち着きを取り戻している。黒鋼は少しだけほっとして息をついた。
けれど、そんな中でどうしても目がいくのは、彼の頬の腫れ具合だった。紫色に変色しているそれは、あまりにもファイの白い肌と不釣合いだった。
少し迷ってから、黒鋼は手を伸ばした。指先で、腫れた頬の上にこびり付いていた泥を拭う。ファイの肩が、少しだけ揺れた。
「痛む、よな」
「……うん」
でも平気、とファイは顔を上げて小さく笑った。あれだけ彼の笑顔が見たいと思っていたはずなのに、今はただ苦しいだけだった。笑いたくないときは、笑わなくてもいいのに。
そう思っていたことが顔に出たのか、ファイはことりと首を傾げた。
聞いてもいいだろうか。黒鋼は迷っていた。だが見て見ぬふりなど出来なくて、歯切れ悪く切り出してみる。
「それ……」
「うん?」
誰かを深く詮索することに慣れていない。同じ歳くらいの子供なら、きっとズケズケと誰に対しても無邪気に追求するのかもしれない。けれど黒鋼にはそれが出来なかった。ときどき、母から『子供らしくない』などとからかわれることがあった。黒鋼にはその意味がよく分からなかったけれど、もしかすればこんなところがあるから、なのかもしれない。
「オレ、わるい子だったから」
口を閉ざしていた黒鋼の心中を察したのかは知らないが、ファイは足元を見つめながらポツリと呟いた。
「おばあちゃんをね、心配させちゃったから、おじいちゃんが怒ったの」
「……じいちゃんにぶたれた?」
「うん」
黒鋼はハッとした。昨日、日が長いのを言い訳にして、帰宅したのが随分と遅い時間だったことを思い出す。
「悪かった……」
「どうして黒たんがあやまるのー?」
「だってよ……」
自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのだと感じた。ファイがこんな目に遭ったのは、きっと自分の責任だ。
「ちがうよ、オレがわるい子だったの。オレ、もう大きいのに、ちゃんとしてなかったから」
「おまえは……」
まだ小さいよ、とは言えなかった。黒鋼はファイを自分よりも小さな子供のように思っているけれど、彼にそれを言うのは酷く失礼なことなのかもしれないと感じた。
「……じいちゃんとは、仲悪いの?」
話を逸らす意味で、咄嗟に問いかけた。それさえもまずかったか、と感じたけれど、もう遅い。ファイは小さな声で「うぅん」と唸った。
「……わかんない。でも、オレがわるいから」
「どうして」
「オレが、お母さんをとっちゃったから」
「……?」
「オレ、もっといっぱいおじいちゃんにごめんなさいって言わなきゃいけないの。でもおじいちゃん、あんまりオレとお話してくれないから……」
だからオレはわるい子なんだよ、とファイは言った。どうして、と聞きたかったけれど、その前にファイが「あ」と声をあげた。
「黒るーは? おうちの人に怒られた?」
「あ、ああ……俺も殴られた。げんこつ」
「そっかー」
黒鋼は、嘘をついているわけでもないのに、なぜか後ろめたい気持ちになって俯いた。
父の拳は、黒鋼を傷つけはしなかったのだ。そんなもののためには存在しない。ときどき、本当に悪いことをすれば本気でげんこつを食らうこともあるけれど、そんなときは父をとても恐ろしいと感じることもあるけれど、その戒めに愛情が込められていることくらい、黒鋼には理解できていたから。
唇を噛み締めて、黒鋼は口を閉ざした。ファイもそれ以上、とくに何も言いはしなかった。
弱まりかけていた雨が、再び強まりつつある。ファイの家はもうすぐそこだった。
「見て、黒りん」
「ん?」
そこでファイが声を上げて、ある方向を指差すので、黒鋼は顔を上げた。そこには、朽ちた小さな家があった。
「あそこでねー、オレがうまれる前に、おかしとかお茶とかだしてたんだよー」
「ああ、知ってる」
「オレいつかね、おかしの作り方べんきょーして、おばあちゃんとまたお店やるのー」
「へぇ?」
将来の夢を語るファイの笑顔は、いつも通りの柔らかでふにゃふにゃとしたものだった。
その後、玄関先まで送ると言った黒鋼の申し出を、ファイは一度断った。
でもその頃には雨足は再び強まっていて、実際はもうどうしようもないほど濡れてはいたけれど、これ以上彼を雨に曝したくはなかった。なにより、朝早い時間から飛び出して泥だらけで帰ってきたファイが、また殴られでもすれば堪らないと思った。そのときにはちゃんと事情を話して、それでも殴るというなら、自分がそれを受けるつもりだった。
そしてそこで、黒鋼は『鬼』の顔を見た。
ずぶ濡れで庭先まで足を踏み入れたふたりを迎えたのは、縁側から顔を出した一人の年老いた男性だった。鉢合わせたとき、傍らの小さな身体は僅かに強張っていたように思う。微かな声で、「おじいちゃん」という呟きを聞いた。
その男は老人にしては背が高く、そしてしゃきっと背筋が伸びていた。長く伸びた髭は立派なもので、白く濁った色をしていた。
彼はファイを見た途端に眼を吊り上げ、唾を幾つも飛ばしながら大声で怒鳴っていた。しゃがれた水っぽい声は、大雨が頭上の傘を叩く音に紛れて聞き取りにくかったが、ずぶ濡れで泥にまみれたファイに対して、酷く怒っていたようだ。
思い出したくもない。彼がファイへと放つ言葉の数々。断片的にしか聞き取れなかったけれど『醜い』という言葉だけでも、あの老人は一体幾度口にしただろうか。
ああ、本当に鬼には角もなければ牙もないのだと、黒鋼は思った。
テレビや絵本に出てくるような鬼のように、どこか憎めない、愛嬌のある顔をした生き物ではなくて。
『おじいちゃん』と呼ばれた男は、ファイを一通り罵ると、石のように固まっていた黒鋼を見て、さらに顔色を変えた。裸足で飛び出してきて、雨に濡れるのも構わずに拳を高く振り上げた。かろうじて聞き取れたのは、「帰れ」というと怒鳴り声だけだった。
そのとき、ファイが傘の中から飛び出して、黒鋼を守るように両手を広げた。ファイは青かった表情をさらに青くして、黒鋼に帰るように言った。肩にかけられていたブランケットが地面に落ちる。白かったはずのそれが、みるみるうちに黒く汚れていく。
黒鋼は老人の迫力に圧倒されて、事情を説明することも、ましてや言い返すことも出来ずに、ただおずおずと引き下がることしか出来なかった。
思えば、あそこで黒鋼が余計なことを言えば、その後ファイがどうなっていたか分からない。けれど、それでもただ怯えて固まってしまった自分があまりにも情けなくて、ファイに何ひとつ声をかけることも出来ず置き去りにしてしまったことが悔しくて、帰り道でまた少し涙が出た。
結局ファイは雨に濡れてしまったし、あのあとまた殴られたかもしれない。庇うつもりが庇われて、自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。
それから泥まみれで帰ってきた黒鋼を、母はやんわり咎め、父はどこか面白そうなものを見る表情で迎えてくれた。あきらかに様子の沈んだ黒鋼に、彼らは普段通りに接するだけで、何も聞こうとはしなかった。
家族なんているのが当たり前で、そんな家族がこんなにも温かいものだなんて、黒鋼は本当の意味で、そのときまで知りもしなかったように思う。
ファイには、そんな家族はいないのだろうか。事あるごとに、ああして頭ごなしに叱られるのか。そのほとんどが理不尽な罵りばかりで、時にはひどい痣を作って。そんなものが彼にとって日常茶飯事なのか。
黒鋼の知らないところで、彼はあんなふうに傷ついているのだろうか。いつだって笑っているけれど、本当は。
*
黒鋼は団子屋敷を見上げたまま、そのときの光景を思い出して握った拳を震わせた。足が竦んで、その先に進むことができない。勢いだけでここまで来てしまったが、一体どうすればいいのだろう。
それでも、ここで引き下がるのは嫌だった。ファイの病状を聞いて、せめて一目でいいから顔を見られたら、それで十分だった。あの陽だまりのような、柔らかな笑顔を見られれば、それで。
よっしゃ、と気合を入れて一歩踏み出そうとした、そのとき。
「あら、こんにちは」
「!」
目の前、坂道の中腹に腰の曲がった、年老いた女性が傘を差して立っていた。物思いに耽っていた黒鋼は、彼女の気配に全く気がついていなかった。
「もしかして、大道寺さんのところの息子さんかねぇ?」
羽根のように優しい、ゆったりとした声だった。
淡いピンクの花柄の割烹着を着て、透明なビニールの傘を差したその女性は、笑い皺に目元をくしゃりとさせて、曲がった腰で不自由そうに歩いてくる。
「あの、はい……」
返事をすると、彼女はさらに嬉しそうに微笑んだ。その柔らかな雰囲気と温かな笑顔は、どことなくファイに似ているような気がした。
「そうかいそうかい、お見舞いに来てくれたんだねぇ」
てっきり再びあの鬼のような年寄りと対峙するものと覚悟を決めていた黒鋼は、ポカンと口を開けるばかりだった。
さらに黒鋼が驚いたのは、彼女の話し方だった。ここらの年寄りは必ずと言っていいほど方言が強く、鈍った話し方をする。黒鋼は幼い頃から聞きなれているから気にならないが、この人の話し方はとても綺麗だ。そういえば、どこか気の抜けたような喋り方も、ファイとよく似ている。
それだけでも黒鋼の緊張は嘘のように解れて、肩から力が抜けてゆくようだった。
「ファイちゃんもう大分よくなってるんだよ。でもうつるといけないから、まだ会えないの」
「……そう、なんだ」
「ごめんねぇ」
黒鋼はぶるぶると首を振った。治りかけているということを確認できただけでも、来てよかった。
そしてふと、ファイのあの顔の腫れのことも気になった。
「あの……」
「なぁに?」
「怪我、は……」
殴られた痕、とはどうしてか言えなかった。それでもやはり十分伝わったようで、ふにゃふにゃだった笑顔が、少し悲しそうに歪められる。
「ごめんねぇ」
彼女は再び謝罪の言葉を述べた。黒鋼は慌ててまた首を振る。
「風邪ひいたのも、あいつが叱られたのも、俺のせいだと思うから。俺があいつを早く家に帰してやらなかったから……。それに、あの後も……」
何も出来ずに、ただ悔し涙を流しながら帰宅したあの後のこと。ファイは、無事だったのか。ファイの祖母は「うぅん」と言って首を振ると、にっこりと微笑んだ。
「だいじょぶだいじょぶ。心配しないで。いつもファイちゃんと遊んでくれて、ありがとうね」
そして「そうだ」と傘を掴む拳をもう片方の手の平でポンと叩き、割烹着のポケットをゴソゴソと漁ると、中から出て来てきたものを黒鋼に「はい」と言って差し出した。顔を上げて咄嗟に手を出すと、カサリと音を立てて手の平に薄荷の飴の包みが置かれる。
「これ……?」
「明日にはね、ファイちゃん元通りだから、また遊んでやってねぇ」
黒鋼は手の平の飴玉を見て、少しだけ視界がじんわりと滲んでくるのを感じていた。ファイの好きな、スースーする飴。
「ありがとおね」
大きく、コクリと頷いた。鼻の頭がツンと痛んだけれど、ぐっと堪える。そのときだった。
「くーろたーん!」
「!」
頭上で明るい声がして、見上げると屋敷の二階の窓から、ふわふわの金色が顔を覗かせ、大きく手を振っているのが見えた。
その肩にあの置き去りにしてきた白いブランケットをかけているのが、チラリと見える。
「黒るー! オレ、あしたはガッコ行くよー!」
ファイは白い歯を見せてニコニコと笑っていた。腫れていた頬には白い湿布が貼られてはいたけれど、その顔に新しい痣はなかった。じんわりと胸が熱くなって、黒鋼も大きく手を振り返した。
「こらー! また熱が上がっても、おばあちゃん知らないよー?」
ファイは「はーい」と返事をして、最後にまた黒鋼に手を振ると窓を閉めた。
「ねぇ? もう大丈夫でしょ?」
「うん、うん……」
熱くなった胸がいっぱいに溢れそうで、黒鋼はまともに言葉を話すことが出来なかった。けれどペコリと頭を下げて、どうにか「ありがとう」と言った。
おばあちゃんは、黒鋼が見えなくなるまでずっと手を振っていてくれた。
*
帰り道を歩きながら、黒鋼は包みを破いてポケットに入れると、飴を口に放り込んだ。苦くて、甘い。スースーとした感覚に鼻の通りがよくなる。苦手だったこの味が、今はとても優しくて、嬉しい。
ファイがああやっていつも笑っているのは、きっとあの優しいおばあちゃんがいてくれるからなんだと、そう思うと嬉しくて、涙が出そうだった。
そして何より、ファイの笑顔が見れて、声が聞けて、本当によかった。
明日には元通り。黒鋼は泣き止んだ曇り空を見上げる。明日は晴れるといいなと、そう思う。ファイのあの可愛い笑顔を、早くもっと傍で見たい。
そうしたら、もう一度ちゃんと謝ろう。おばあちゃんはああ言ってくれたけど、それで黒鋼は随分と気持ちが軽くはなったけど、それでもちゃんと、ファイに。
それから、もう一つ。彼に、『おまえは何も悪くない』と、そう言ってやりたい。
ファイはしきりに自分のことを『わるい子』だと言っていたけれど、黒鋼にはその意味は分からなかったけれど、例え何人もの人間がファイを指差して『お前は悪い子だ』と言ったとしても、黒鋼だけは彼の味方でいたかった。
きっと。きっと明日には。
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雨の調べ
「みんな……死ぬの……?」
雨が降っていた。冷たい雨が。
彼は寒さに青褪めた肌をして、震える声は今にも掻き消えそうな儚さだった。駆け寄って抱きしめてやりたかったのに、黒鋼にはただ淡々と、真実を告げること以外に術はない。
「そうだよ」
そんなことくらい、子供だって分かる。けれどファイには分からないのだ。
彼は小さくて、可愛くて、可哀想な子だから。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言葉にならない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息をのみ込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
雨が。雨が。止むことなく、ずっと、ずっと。
*
土曜日。昼過ぎまで家の手伝いに駆り出されていた黒鋼は、そのあとファイと遊ぶために小学校の向かいにある、小さな商店の前で待ち合わせをしていた。
いつものように鞄に適当なものを詰め込んできた黒鋼が、軒先にポツンと佇んでいたファイに声をかけると、すっかり見慣れた笑顔が迎えてくれた。しかし、ファイの腕の中のものを見て、目を丸くした。
「なんだ、これ?」
「にゃんこだよ」
「それは分かるけどよ」
「にゃんこ、黒ぴっぴもだっこして」
はい、と手渡されたのは白い、けれど泥や埃にまみれて酷く汚れた、小さな子猫だった。
戸惑いながらも受け取ると、子猫は小さく「ミー」と鳴いたようだった。けれどその声は、ただ弱々しく息が吐き出されるだけで、音になっていない。顔を覗き込むとようやく目が開いたばかりと言った風で、目尻にグジュグジュとした汚れがこびり付いている。
見た目にも分かるほど、それは弱りきっていた。
「これどうしたんだよ」
「そこでねてたよ」
ファイが指差した方を見る。そこはゴミ捨て場で、汚らしいポリバケツが置いてあるだけだった。
「……捨て猫か」
「ちがうよ、あれの中でねてたんだよ」
「そういうのを捨てられてたっていうんだ、バカ」
「ちがうもん……」
ファイはどうしても納得がいかないようだったが、黒鋼はそれよりもこの子猫をどうするべきかと考えあぐねていた。
黒鋼の家には大きな犬がいる。鋼丸という黒いその犬は、黒鋼が生まれたときにはもう庭先で飼われていた。物静かで食が細く、今では散歩もままならないくらいの老犬だった。
彼を差し置いて他の生き物を連れ帰るのは、なんだか気が引ける。けれどそれより何より……。
「俺の親父……アレルギー持ちなんだよ……」
いわゆる猫アレルギーというやつである。大きくて優しくて力持ちで、黒鋼にとって自慢の父だが、たった一つの弱点がまさに猫だった。
「おまえんちは」
「あれまぁ! めごい(可愛い)の抱いてるっちゃね~」
「あ」
黒鋼がファイに問いかけようとしたのを遮るかのように、商店からニコニコ顔の婆さんが顔を出した。子供好きで優しいその人は、近所の子供たちからもよく慕われていて、買い物をするとちょっとした駄菓子のオマケなんかをつけてくれたりもする。黒鋼ももちろん、彼女が大好きだった。
「ばあちゃん、これ捨て猫なんだよ。どうすりゃいいかな」
黒鋼が駆け寄り、腕の中の子猫を見せると、彼女はただでさえシワシワな顔の細い目を、さらに細めた。皺とシミだらけの太い指が、子猫の小さな頭をそっと撫でる。
「もぞこい(かわいそう)なや……ちょっと待ってなぁ」
そう言うと、婆さんは曲がった腰でしんどそうに店の中へ戻っていった。ややしばらくして再び店の中から顔を出すと、黒鋼に手招きをする。腕の中にいた子猫をファイに託すと「ちょっと待ってろ」と言い残して店に入った。
少し薄暗い店内は酷く狭い。駄菓子をメインにその他食料品は勿論、雑誌や飲み物など、様々な生活用品が狭い空間に売り物として置かれている。
そんな店内の奥がレジになっていて、煙草の箱が積まれている場所に彼女はいた。
「これやんな。そすたら、あと構うなわ」
小さな青い牛乳パックを手渡される。それは給食で出てくるものと同じもので、よく冷えていた。
「これもやっから」
何か惣菜でも入っていたものなのか、プラスチックの透明な容器も手渡された。これにでも注げということなのだろう。
黒鋼はそれを受け取りながらも、少しショックを受けていた。つまりこれを飲ませたら、後は放っておけと言う、その無責任な言葉に納得がいかない。
「……でもさ、ばあちゃん」
「あのみったくなし(みにくい子)も、あと構うなわ」
「!」
ピシリと音を立てて、心にヒビが入ったような気がする。それは、ファイのことを指している言葉だった。彼女にとって、薄汚れて腹を空かせている子猫とファイは同じ存在なのかと思うと、ずっと慕ってきたはずの気持ちが、簡単に薄れてゆくのを感じた。
黒鋼は黙って容器を受け取ると、礼も言わずに背を向けた。やりきれない思いで胸がいっぱいだった。
店を出て、子猫に向かって笑っているファイの、シャツの袖を引いて歩き出す。ファイは上機嫌で「にゃんこかわいいねー」と幾度も歌うように言っていた。
*
秘密基地への道のりを、黒鋼は何も言わずにただ黙々と歩いた。どうしようもない苛立ちに息が詰まりそうだった。
ファイがクラスの中だけでなく、周りの大人たちからもよく思われていないことは、知っていた。狭い町の中では、会うもの皆が親戚も同然であり、ごく稀に知らない顔があれば、それが観光客などの余所者であることがすぐに分かる。
ファイと共にいて誰かしらと顔を合わせることがあると、大抵咎めるような眼差しを送られた。それでも、これまではずっと気がつかない振りをしていた。けれど面と向かって、しかもあのいつだって優しかった商店の婆さんの言葉を聞いたとき、その目の奥の暗いものを垣間見た気がして、黒鋼は酷く打ちのめされた気がした。
ファイはよく分からないことばかり言うし、何を考えているかも分からない変わった奴だけど、黒鋼のように悪戯もしなければ、ハメを外してガラスを割ったりもしない。上級生とケンカだってしないし、いつだってふにゃふにゃと笑って絵を描いたり、飴玉を口の中で転がしているだけだ。
何をしたというのだろう。
ただ、外からやって来たというだけで。
ただ、他の人間と違う色をしているというだけで。
何が違うのか、分からない。
両親はどう思うのだろうか。あの優しくて穏やかな父と母は、自分がファイといることを知ったら。あの婆さんと、同じことを言うのだろうか。他の者と同じ目で見るのだろうか……。
黒鋼はブルブルと首を振った。考えたくもなかった。
やがて見慣れた鳥居を潜り、神木が目の前に現れた。ファイが駆け出して、子猫を抱えたまま中に入り込んだ。冷たかった牛乳は、黒鋼の手の中ですっかり温くなっていた。
*
夕日が傾き始めた頃、神木の中の空洞にはオレンジ色の光の柱が射し込んでいた。
ぺったりと、女の子みたいな座り方をしたファイの膝の上には、子猫が丸くなっている。
「ちっちゃいねぇ、かわいいねぇ。どうしてこんなにちっちゃいのー?」
ファイが指でしきりに頭を撫でているけれど、やはり子猫はぐったりとしていて、呼吸をする度に苦しげに背中が大きく上下していた。
黒鋼は貰ってきたプラスチックの容器に、温くなった牛乳を注いで置いた。ファイの膝からそっと子猫を抱き上げて、容器の側に移動させる。
「ほら、飲めって」
「にゃんこー、のんでー」
子猫は弱々しく顔を上げて、自分の身体よりも大きなパックの縁に鼻をペタリと押し付けた。匂いを嗅いで、それからまた地面に顔を埋める。
「牛乳、キライなのかな? 黒たんとおんなじだー」
「うるせぇな……」
このくらいの子猫なら、まだ母猫にピタリとくっついて、お乳を貰わねばならないはずだ。自分だけの力では、まだ腹を満たすことが出来ないのかもしれない。知世だって、ほんの少し前までは母に抱かれてミルクを飲んでいた。母が乳房を出すのをなんとなく見ていられなくて、黒鋼はいつもそっぽを向いていたけれど。
「やっぱりダメか」
「ダメじゃないよー! にゃんこー、ほら、牛乳はおいしいよー」
ファイが小さな背中を撫でた。黒鋼はもうすっかり諦めの境地だったけれど、ファイに撫でられていた子猫がそろそろと顔を上げて、今にも折れそうな手足を震わせながら立ち上がった。
「お?」
「あ!」
探るように、牛乳の表面に鼻をつける。白い液体が鼻先について、それをキッカケに子猫はチロチロと牛乳を舐めた。砂漠で水を得たように、そのままの勢いで夢中になって舐め続けている。
ファイは「やったねー」と言ってバンザイをした。黒鋼もほっと胸を撫で下ろす。
「飯が食えるなら大丈夫なんだ。鋼丸だってそうだ。病院の先生が、いつもそう言ってるからな」
真っ黒な老犬の鋼丸は、昔に比べれば随分と食が細くはなったが、これといって大きな病気をすることもなく、毎日ちゃんとご飯を食べてくれる。それでも月に一度、父が運転する車で山を下りて市街地の動物病院へ行くのだが、黒鋼はいつもくっついて行っていた。
そこで頭がすっかりハゲてしまっている、眼鏡をかけた初老の男性医師が、鋼丸を撫でながらよく言うのだ。人間も動物も、食べられなくなったら終いだと。
「ねねね黒たん、にゃんこのおなか、ちょっとだけポッコリしてきたよー」
「ほんとだ」
ぺしゃんこだった腹が、ほんの僅かであるが膨らんできたように見えた。そこで黒鋼はようやく少し笑うことが出来て、ファイの金色の頭を撫でてやった。
「オレもおなかすいたよー、黒たん」
「だな」
ふと見ると、射し込んでいた暖色の光が弱まっていた。切り込みから少し顔を出すと、空山の境界線が僅かに青い。ここのところ随分と日が長くなってきたことを考えると、もうかなり遅い時間なのかもしれない。
「帰らないとまずいな」
「にゃんこどうするのー?」
「うん……」
夏が近いとは言っても、夜から朝にかけてはまだ冷え込む。このままではせっかく腹が満ちても意味がないだろう。とはいえ黒鋼の家には、どうしても連れて帰れない事情がある。
「おまえんちは?」
「オレのおうち?」
ファイは黒鋼の問いに小さく首を傾げた。薄暗くなってきた空洞の中で、ファイの大きくていつも濡れたように潤んでいる瞳が、少しだけ曇ったように見えた。そのまま口を噤んでしまった様子を見て、黒鋼は眉を寄せる。なんともいえない、不安を覚えた。
「仕方ねぇか」
黒鋼は空気を変えようと、なるべく何でもないことのように言って、おもむろにシャツを脱いだ。
「黒たん、なにしてるの? からだ、寒くてヒエヒエになっちゃうよー」
「寒くねぇよ、こんくらい」
上半身すっかり裸になった黒鋼は、悪戯っ子のような顔でニヤっと笑うと、地面に顔を埋めて眠りはじめた子猫を抱いて、シャツで包み込んだ。
「これなら大丈夫だろ」
その温かさに気分がいいのか、子猫が微かに喉を鳴らす。
「ひゃあ! ころころっていったよ!」
「しー、起きちまうだろうが」
「うん、うん、にゃんこおやすみー」
幾度も頷いているファイと、明日の朝早くにここにまた来ようと約束をして、神木を後にした。
そしてシャツを置き去りにして、裸でいつもより遅い時間に戻った黒鋼は、一体どんな悪戯をしてきたのかと呆れた父に、軽くゲンコツを食らった。
*
翌朝は小雨が降っていた。
天気予報では晴れだと言っていたはずなのに、ぜんぜん当たらねぇじゃねぇかと内心で愚痴りながら、黒鋼はいつものリュックの中に牛乳やら魚の缶詰やらボロのブランケットやら、思いつくものを片っ端から詰め込んで家を出た。
日曜日なのに学校へ行くよりも早起きをした黒鋼に、母は「だから雨が降ったのね」と笑っていた。正直、子猫のことが気になってほとんど眠れなかったのだ。
黒い大きな傘を差しながら、秘密基地への道を駆ける。おそらくファイはまだ来ていないだろうが、とにかく置き去りにした子猫が心配だった。今日もちゃんと牛乳を飲んでくれるといいのだが。もし万が一、昨日より弱っているようならば、父には悪いがいよいよ連れて帰るしかない。毎月通っている動物病院は、日曜でも診療を行っている。体質的には受け付けなくても、父ならきっと連れて行ってくれると思うから。
神木の側で傘を投げ出して、手や膝が水気を含んだ土で汚れるのもお構いなしに、薄暗い内部へと潜り込んだ。
するとそこには、まだいないと思っていたはずのファイの、ペタンと座り込んでいる背中があった。意外に思いつつ、中腰で側まで行って小さく笑いかける。
「なんだ、一番乗りじゃなかったな」
「黒たん」
子猫はファイの膝の上、シャツの中で昨日と同じ様に目を閉じていた。
けれど、何か違うような気がした。
「にゃんこ動かないよ」
「え……?」
「あのね、つめたくて、かたいの」
「…………」
「どうしたのかなぁ?」
「ッ、おい、おまえ……!?」
大きな目をパチクリとさせながら顔を向けてきたファイの左頬が、赤黒く腫れて変色しているのを見て、黒鋼は目を見開く。咄嗟に手を伸ばし頬に指を添えれば、あまりにも痛々しいそこは、信じられないほどの熱を孕んでいた。
「ど、どうしたんだよこれ……!?」
その殴られたような痕と、そして動かなくなった子猫を交互に見て、黒鋼は酷く混乱していた。なぜこんなことになっているのだろうか。この痛々しく腫れた皮膚はなんだ。一体なにが、どうして。
昨日まではあった命と、昨日まではなかった痣と。
一瞬にして身体が芯まで冷え切ったような感覚に陥る。底の見えない闇の中に、唐突に放り出されたみたいに、絶望が胸をいっぱいに満たして、今にも溢れてしまいそうだった。
ファイは黒鋼の問いには答えず、抱いていた子猫を近づけてくる。
「ね、さわってみて」
「…………っ」
触らなくとも、子猫がもう死んでいることくらい、見れば分かる。同じ寝顔でも、生きているのと死んでいるのとではまるで違う。説明は出来ないけれど、違うのだ。
それでも黒鋼は無意識に言われるままそれに触れた。ファイの顔のことを詳しく問い質したい思いはあったけれど、子猫の死もまた、あまりに大きすぎた。
指先で触れて、その氷のような感触に目を閉じると首を振った。
「黒たん?」
「よこせ」
「黒たん……」
ファイの膝の上から、シャツに包まれた躯を取り上げる。何も言わない黒鋼に、彼はようやく少し不安そうな顔になった。子猫を抱いたまま神木から抜け出せば、すぐにその後を追ってくる。
小振りだった雨が、少し強くなっていた。暗い曇天に覆われた空を見上げると、雨が目の中に入ってくる。今の、この空は。黒鋼の胸の中と、まるで同じだ。
「ねぇ、にゃんこ……」
見上げてくるファイの痛々しい顔を、悲痛な面持ちで見つめてから、黒鋼は神木の側で膝をついた。
「埋めるんだ」
「うめる……?」
死んでいるのだから。
なぜか、それをハッキリと告げるのは躊躇われた。言葉にするのが怖かった。言えば、きっと後悔に押し潰されてしまう。
なぜ迷惑をかけてでも、昨日のうちに連れて帰らなかったのか。ほんの少し牛乳を舐めたくらいで、安心してしまったのか。なぜファイに、これを先に見つけさせてしまったのか。考えても仕方のないことばかり。
黒鋼は亡骸を傍に置くと、手で土を掘りはじめた。幸い雨で地面は湿っていたから、すんなりと掘れる。小さな身体を納めるための、小さな穴を。深く。
背後で呆然と立ち尽くすファイが呟いた。
「どうしてうめるの?」
やっぱり。ファイは分かっていないのだ。
信じられないようなことだけれど、ファイはおつむが足りないから、だから知らない。
死ぬということを。
「ねぇ、どうして?」
分かっているのに、黒鋼はその悲しさに苛立ちを覚えた。
「うめたらよごれちゃうよ? どうしてそんなことするの?」
――もう、我慢できなかった。
「死んだからに決まってんだろうが!!」
声が大きく響き渡る。バサバサと、枝で雨宿りをしていた鳥達が飛び立つ。
空気が凍り付いて、ふいに、ここは一体何処だったろうかと、まるで迷子にでもなったような気持ちになった。世界がここだけ切り離されたように、時間が止まったような気がして。
後悔が次から次へと込み上げて、黒鋼は涙を流した。男は簡単に泣くもんじゃない。でも、雨がそれを隠してくれるから。だから今だけは。
ファイがどんな顔をしているのか、確かめるのが怖くて黙々と穴を掘る。小石や小枝が指先を傷つけても、ぐっと堪えた。こんな痛みは痛みなんかじゃない。死んでしまった子猫は、もう何も感じることができないのだから。
一人ぼっちで、夜の闇の中。最期まで、きっと寂しかったに違いない。
深い穴に、シャツごと子猫を納めた。ドロドロの土を上から被せ終わる頃には、雨はもっと強く二人の身体を叩いていた。震える息を吐き出すと、立ち上がって振り向く。雨に打たれたファイは呆然とした表情で、子猫が埋まっている場所を見つめている。金色の髪が頬に張り付いて、痛々しい傷を隠していた。
何か言おうとして、声が出ない。
優しい言葉をかけて、それから、その傷はどうしたのかを聞いて。またイジメられでもしたのなら、たとえこんな天気の中だろうがソイツの所へ行って、殴り返してやる。そう言ってやったら、またいつもみたいに笑ってくれるだろうか。
なのに言葉が出なかった。
一秒一秒、確かに時間は進んでいるはずなのに、まるでこの瞬間が永遠にも感じられるほど、重苦しい。やがて青褪めた唇が小さく動いた。
「どうして死ぬの?」
黒鋼に言ったというよりは、自らに問いかけているように聞こえた。虚ろな瞳は、もうどこを見ているのかさえ分からない。
胸が痛くて、張り割けそうだった。思い切り叫び出せたら、少しは楽になれるだろうか。こんな切り裂かれるような痛みは、知らない。
喉に何かが詰まっているみたいな感覚を押し殺して、黒鋼は声を絞り出した。
「……弱ってたから」
「牛乳、のんだよ」
「それでも」
「どうして……?」
「母猫がいなくて……捨てられたから……」
「じゃあなんで……」
ファイの肩や、強く握り締めた拳が震えた。
「じゃあなんでオレは生きてるの!?」
聞いたこともないような大きな声だった。ファイがこれほど感情的になる様を初めて見て、黒鋼は再び声を失った。
華奢な肩が激しく上下に揺れる。ファイは泣いていた。ぎゅうと閉じた目蓋から、大粒の涙が溢れて止まらないのを、降りしきる雨は隠してもくれない。
ファイの家庭の事情は知らない。彼が言うのはいつも『大好きなおばあちゃん』のことばかりで、他の誰かのことを口にしているのを聞いたことがないということに、今さら気がついた。
ファイのことを、何も知らないのだということを。
「みんな……死ぬの……?」
しゃくり上げながら、ファイはどうにか声を紡いでいるようだった。自分も同じように泣いてしまいたいと思ったけれど、必死で我慢する。
「そうだよ」
優しいことは言えなかった。嘘はつけない。ついては、いけない。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言いようのない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息を飲み込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
しくしくと、ファイは声を上げずに泣いていた。時折、悲鳴のように細くしゃくるだけで、その静かな泣き方が酷く悲しかった。
死なないよと、大丈夫だと、そう言ってやれたならどんなによかったろう。でもそれはとても残酷なことだと思ったから。
ふと、幼い頃に死んでしまった祖父のことを思い出した。まだ知世が産まれる前のこと、黒鋼は祖父が大好きだったから、声を上げて泣いていたのを覚えている。そのとき、父が言ったのだ。
『誰だって最初から、死ぬことは決まっているんだ。だから最期まで、後悔しないように精一杯生きるんだ』
おじいちゃんはそんな風に生きることが出来たのかと、幼い黒鋼は聞いた。父は笑って、『俺の親父だからな』と言って微笑んだ。
だから、生きているものは必ず死ぬ。
ファイだって、黒鋼だって、庭先で眠ってばかりの鋼丸だって。きっとあの小さな子猫だってそうだったのだ。光のような速さでしかなかった一瞬の生を、それでも全力で生きていた。
黒鋼はそれをファイに教えてやりたかったけれど、今は上手く言葉にするだけの自信がなかった。だから、ただ泣いているファイに近寄って、落ちている黒い傘を拾うと雨を遮りながら、細い身体を抱きしめた。
震える身体があまりにも冷たくて、可哀想で、悲しくて、黒鋼は唇を噛み締めた。
雨が、止むことなくずっと降り続いていた。
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「みんな……死ぬの……?」
雨が降っていた。冷たい雨が。
彼は寒さに青褪めた肌をして、震える声は今にも掻き消えそうな儚さだった。駆け寄って抱きしめてやりたかったのに、黒鋼にはただ淡々と、真実を告げること以外に術はない。
「そうだよ」
そんなことくらい、子供だって分かる。けれどファイには分からないのだ。
彼は小さくて、可愛くて、可哀想な子だから。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言葉にならない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息をのみ込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
雨が。雨が。止むことなく、ずっと、ずっと。
*
土曜日。昼過ぎまで家の手伝いに駆り出されていた黒鋼は、そのあとファイと遊ぶために小学校の向かいにある、小さな商店の前で待ち合わせをしていた。
いつものように鞄に適当なものを詰め込んできた黒鋼が、軒先にポツンと佇んでいたファイに声をかけると、すっかり見慣れた笑顔が迎えてくれた。しかし、ファイの腕の中のものを見て、目を丸くした。
「なんだ、これ?」
「にゃんこだよ」
「それは分かるけどよ」
「にゃんこ、黒ぴっぴもだっこして」
はい、と手渡されたのは白い、けれど泥や埃にまみれて酷く汚れた、小さな子猫だった。
戸惑いながらも受け取ると、子猫は小さく「ミー」と鳴いたようだった。けれどその声は、ただ弱々しく息が吐き出されるだけで、音になっていない。顔を覗き込むとようやく目が開いたばかりと言った風で、目尻にグジュグジュとした汚れがこびり付いている。
見た目にも分かるほど、それは弱りきっていた。
「これどうしたんだよ」
「そこでねてたよ」
ファイが指差した方を見る。そこはゴミ捨て場で、汚らしいポリバケツが置いてあるだけだった。
「……捨て猫か」
「ちがうよ、あれの中でねてたんだよ」
「そういうのを捨てられてたっていうんだ、バカ」
「ちがうもん……」
ファイはどうしても納得がいかないようだったが、黒鋼はそれよりもこの子猫をどうするべきかと考えあぐねていた。
黒鋼の家には大きな犬がいる。鋼丸という黒いその犬は、黒鋼が生まれたときにはもう庭先で飼われていた。物静かで食が細く、今では散歩もままならないくらいの老犬だった。
彼を差し置いて他の生き物を連れ帰るのは、なんだか気が引ける。けれどそれより何より……。
「俺の親父……アレルギー持ちなんだよ……」
いわゆる猫アレルギーというやつである。大きくて優しくて力持ちで、黒鋼にとって自慢の父だが、たった一つの弱点がまさに猫だった。
「おまえんちは」
「あれまぁ! めごい(可愛い)の抱いてるっちゃね~」
「あ」
黒鋼がファイに問いかけようとしたのを遮るかのように、商店からニコニコ顔の婆さんが顔を出した。子供好きで優しいその人は、近所の子供たちからもよく慕われていて、買い物をするとちょっとした駄菓子のオマケなんかをつけてくれたりもする。黒鋼ももちろん、彼女が大好きだった。
「ばあちゃん、これ捨て猫なんだよ。どうすりゃいいかな」
黒鋼が駆け寄り、腕の中の子猫を見せると、彼女はただでさえシワシワな顔の細い目を、さらに細めた。皺とシミだらけの太い指が、子猫の小さな頭をそっと撫でる。
「もぞこい(かわいそう)なや……ちょっと待ってなぁ」
そう言うと、婆さんは曲がった腰でしんどそうに店の中へ戻っていった。ややしばらくして再び店の中から顔を出すと、黒鋼に手招きをする。腕の中にいた子猫をファイに託すと「ちょっと待ってろ」と言い残して店に入った。
少し薄暗い店内は酷く狭い。駄菓子をメインにその他食料品は勿論、雑誌や飲み物など、様々な生活用品が狭い空間に売り物として置かれている。
そんな店内の奥がレジになっていて、煙草の箱が積まれている場所に彼女はいた。
「これやんな。そすたら、あと構うなわ」
小さな青い牛乳パックを手渡される。それは給食で出てくるものと同じもので、よく冷えていた。
「これもやっから」
何か惣菜でも入っていたものなのか、プラスチックの透明な容器も手渡された。これにでも注げということなのだろう。
黒鋼はそれを受け取りながらも、少しショックを受けていた。つまりこれを飲ませたら、後は放っておけと言う、その無責任な言葉に納得がいかない。
「……でもさ、ばあちゃん」
「あのみったくなし(みにくい子)も、あと構うなわ」
「!」
ピシリと音を立てて、心にヒビが入ったような気がする。それは、ファイのことを指している言葉だった。彼女にとって、薄汚れて腹を空かせている子猫とファイは同じ存在なのかと思うと、ずっと慕ってきたはずの気持ちが、簡単に薄れてゆくのを感じた。
黒鋼は黙って容器を受け取ると、礼も言わずに背を向けた。やりきれない思いで胸がいっぱいだった。
店を出て、子猫に向かって笑っているファイの、シャツの袖を引いて歩き出す。ファイは上機嫌で「にゃんこかわいいねー」と幾度も歌うように言っていた。
*
秘密基地への道のりを、黒鋼は何も言わずにただ黙々と歩いた。どうしようもない苛立ちに息が詰まりそうだった。
ファイがクラスの中だけでなく、周りの大人たちからもよく思われていないことは、知っていた。狭い町の中では、会うもの皆が親戚も同然であり、ごく稀に知らない顔があれば、それが観光客などの余所者であることがすぐに分かる。
ファイと共にいて誰かしらと顔を合わせることがあると、大抵咎めるような眼差しを送られた。それでも、これまではずっと気がつかない振りをしていた。けれど面と向かって、しかもあのいつだって優しかった商店の婆さんの言葉を聞いたとき、その目の奥の暗いものを垣間見た気がして、黒鋼は酷く打ちのめされた気がした。
ファイはよく分からないことばかり言うし、何を考えているかも分からない変わった奴だけど、黒鋼のように悪戯もしなければ、ハメを外してガラスを割ったりもしない。上級生とケンカだってしないし、いつだってふにゃふにゃと笑って絵を描いたり、飴玉を口の中で転がしているだけだ。
何をしたというのだろう。
ただ、外からやって来たというだけで。
ただ、他の人間と違う色をしているというだけで。
何が違うのか、分からない。
両親はどう思うのだろうか。あの優しくて穏やかな父と母は、自分がファイといることを知ったら。あの婆さんと、同じことを言うのだろうか。他の者と同じ目で見るのだろうか……。
黒鋼はブルブルと首を振った。考えたくもなかった。
やがて見慣れた鳥居を潜り、神木が目の前に現れた。ファイが駆け出して、子猫を抱えたまま中に入り込んだ。冷たかった牛乳は、黒鋼の手の中ですっかり温くなっていた。
*
夕日が傾き始めた頃、神木の中の空洞にはオレンジ色の光の柱が射し込んでいた。
ぺったりと、女の子みたいな座り方をしたファイの膝の上には、子猫が丸くなっている。
「ちっちゃいねぇ、かわいいねぇ。どうしてこんなにちっちゃいのー?」
ファイが指でしきりに頭を撫でているけれど、やはり子猫はぐったりとしていて、呼吸をする度に苦しげに背中が大きく上下していた。
黒鋼は貰ってきたプラスチックの容器に、温くなった牛乳を注いで置いた。ファイの膝からそっと子猫を抱き上げて、容器の側に移動させる。
「ほら、飲めって」
「にゃんこー、のんでー」
子猫は弱々しく顔を上げて、自分の身体よりも大きなパックの縁に鼻をペタリと押し付けた。匂いを嗅いで、それからまた地面に顔を埋める。
「牛乳、キライなのかな? 黒たんとおんなじだー」
「うるせぇな……」
このくらいの子猫なら、まだ母猫にピタリとくっついて、お乳を貰わねばならないはずだ。自分だけの力では、まだ腹を満たすことが出来ないのかもしれない。知世だって、ほんの少し前までは母に抱かれてミルクを飲んでいた。母が乳房を出すのをなんとなく見ていられなくて、黒鋼はいつもそっぽを向いていたけれど。
「やっぱりダメか」
「ダメじゃないよー! にゃんこー、ほら、牛乳はおいしいよー」
ファイが小さな背中を撫でた。黒鋼はもうすっかり諦めの境地だったけれど、ファイに撫でられていた子猫がそろそろと顔を上げて、今にも折れそうな手足を震わせながら立ち上がった。
「お?」
「あ!」
探るように、牛乳の表面に鼻をつける。白い液体が鼻先について、それをキッカケに子猫はチロチロと牛乳を舐めた。砂漠で水を得たように、そのままの勢いで夢中になって舐め続けている。
ファイは「やったねー」と言ってバンザイをした。黒鋼もほっと胸を撫で下ろす。
「飯が食えるなら大丈夫なんだ。鋼丸だってそうだ。病院の先生が、いつもそう言ってるからな」
真っ黒な老犬の鋼丸は、昔に比べれば随分と食が細くはなったが、これといって大きな病気をすることもなく、毎日ちゃんとご飯を食べてくれる。それでも月に一度、父が運転する車で山を下りて市街地の動物病院へ行くのだが、黒鋼はいつもくっついて行っていた。
そこで頭がすっかりハゲてしまっている、眼鏡をかけた初老の男性医師が、鋼丸を撫でながらよく言うのだ。人間も動物も、食べられなくなったら終いだと。
「ねねね黒たん、にゃんこのおなか、ちょっとだけポッコリしてきたよー」
「ほんとだ」
ぺしゃんこだった腹が、ほんの僅かであるが膨らんできたように見えた。そこで黒鋼はようやく少し笑うことが出来て、ファイの金色の頭を撫でてやった。
「オレもおなかすいたよー、黒たん」
「だな」
ふと見ると、射し込んでいた暖色の光が弱まっていた。切り込みから少し顔を出すと、空山の境界線が僅かに青い。ここのところ随分と日が長くなってきたことを考えると、もうかなり遅い時間なのかもしれない。
「帰らないとまずいな」
「にゃんこどうするのー?」
「うん……」
夏が近いとは言っても、夜から朝にかけてはまだ冷え込む。このままではせっかく腹が満ちても意味がないだろう。とはいえ黒鋼の家には、どうしても連れて帰れない事情がある。
「おまえんちは?」
「オレのおうち?」
ファイは黒鋼の問いに小さく首を傾げた。薄暗くなってきた空洞の中で、ファイの大きくていつも濡れたように潤んでいる瞳が、少しだけ曇ったように見えた。そのまま口を噤んでしまった様子を見て、黒鋼は眉を寄せる。なんともいえない、不安を覚えた。
「仕方ねぇか」
黒鋼は空気を変えようと、なるべく何でもないことのように言って、おもむろにシャツを脱いだ。
「黒たん、なにしてるの? からだ、寒くてヒエヒエになっちゃうよー」
「寒くねぇよ、こんくらい」
上半身すっかり裸になった黒鋼は、悪戯っ子のような顔でニヤっと笑うと、地面に顔を埋めて眠りはじめた子猫を抱いて、シャツで包み込んだ。
「これなら大丈夫だろ」
その温かさに気分がいいのか、子猫が微かに喉を鳴らす。
「ひゃあ! ころころっていったよ!」
「しー、起きちまうだろうが」
「うん、うん、にゃんこおやすみー」
幾度も頷いているファイと、明日の朝早くにここにまた来ようと約束をして、神木を後にした。
そしてシャツを置き去りにして、裸でいつもより遅い時間に戻った黒鋼は、一体どんな悪戯をしてきたのかと呆れた父に、軽くゲンコツを食らった。
*
翌朝は小雨が降っていた。
天気予報では晴れだと言っていたはずなのに、ぜんぜん当たらねぇじゃねぇかと内心で愚痴りながら、黒鋼はいつものリュックの中に牛乳やら魚の缶詰やらボロのブランケットやら、思いつくものを片っ端から詰め込んで家を出た。
日曜日なのに学校へ行くよりも早起きをした黒鋼に、母は「だから雨が降ったのね」と笑っていた。正直、子猫のことが気になってほとんど眠れなかったのだ。
黒い大きな傘を差しながら、秘密基地への道を駆ける。おそらくファイはまだ来ていないだろうが、とにかく置き去りにした子猫が心配だった。今日もちゃんと牛乳を飲んでくれるといいのだが。もし万が一、昨日より弱っているようならば、父には悪いがいよいよ連れて帰るしかない。毎月通っている動物病院は、日曜でも診療を行っている。体質的には受け付けなくても、父ならきっと連れて行ってくれると思うから。
神木の側で傘を投げ出して、手や膝が水気を含んだ土で汚れるのもお構いなしに、薄暗い内部へと潜り込んだ。
するとそこには、まだいないと思っていたはずのファイの、ペタンと座り込んでいる背中があった。意外に思いつつ、中腰で側まで行って小さく笑いかける。
「なんだ、一番乗りじゃなかったな」
「黒たん」
子猫はファイの膝の上、シャツの中で昨日と同じ様に目を閉じていた。
けれど、何か違うような気がした。
「にゃんこ動かないよ」
「え……?」
「あのね、つめたくて、かたいの」
「…………」
「どうしたのかなぁ?」
「ッ、おい、おまえ……!?」
大きな目をパチクリとさせながら顔を向けてきたファイの左頬が、赤黒く腫れて変色しているのを見て、黒鋼は目を見開く。咄嗟に手を伸ばし頬に指を添えれば、あまりにも痛々しいそこは、信じられないほどの熱を孕んでいた。
「ど、どうしたんだよこれ……!?」
その殴られたような痕と、そして動かなくなった子猫を交互に見て、黒鋼は酷く混乱していた。なぜこんなことになっているのだろうか。この痛々しく腫れた皮膚はなんだ。一体なにが、どうして。
昨日まではあった命と、昨日まではなかった痣と。
一瞬にして身体が芯まで冷え切ったような感覚に陥る。底の見えない闇の中に、唐突に放り出されたみたいに、絶望が胸をいっぱいに満たして、今にも溢れてしまいそうだった。
ファイは黒鋼の問いには答えず、抱いていた子猫を近づけてくる。
「ね、さわってみて」
「…………っ」
触らなくとも、子猫がもう死んでいることくらい、見れば分かる。同じ寝顔でも、生きているのと死んでいるのとではまるで違う。説明は出来ないけれど、違うのだ。
それでも黒鋼は無意識に言われるままそれに触れた。ファイの顔のことを詳しく問い質したい思いはあったけれど、子猫の死もまた、あまりに大きすぎた。
指先で触れて、その氷のような感触に目を閉じると首を振った。
「黒たん?」
「よこせ」
「黒たん……」
ファイの膝の上から、シャツに包まれた躯を取り上げる。何も言わない黒鋼に、彼はようやく少し不安そうな顔になった。子猫を抱いたまま神木から抜け出せば、すぐにその後を追ってくる。
小振りだった雨が、少し強くなっていた。暗い曇天に覆われた空を見上げると、雨が目の中に入ってくる。今の、この空は。黒鋼の胸の中と、まるで同じだ。
「ねぇ、にゃんこ……」
見上げてくるファイの痛々しい顔を、悲痛な面持ちで見つめてから、黒鋼は神木の側で膝をついた。
「埋めるんだ」
「うめる……?」
死んでいるのだから。
なぜか、それをハッキリと告げるのは躊躇われた。言葉にするのが怖かった。言えば、きっと後悔に押し潰されてしまう。
なぜ迷惑をかけてでも、昨日のうちに連れて帰らなかったのか。ほんの少し牛乳を舐めたくらいで、安心してしまったのか。なぜファイに、これを先に見つけさせてしまったのか。考えても仕方のないことばかり。
黒鋼は亡骸を傍に置くと、手で土を掘りはじめた。幸い雨で地面は湿っていたから、すんなりと掘れる。小さな身体を納めるための、小さな穴を。深く。
背後で呆然と立ち尽くすファイが呟いた。
「どうしてうめるの?」
やっぱり。ファイは分かっていないのだ。
信じられないようなことだけれど、ファイはおつむが足りないから、だから知らない。
死ぬということを。
「ねぇ、どうして?」
分かっているのに、黒鋼はその悲しさに苛立ちを覚えた。
「うめたらよごれちゃうよ? どうしてそんなことするの?」
――もう、我慢できなかった。
「死んだからに決まってんだろうが!!」
声が大きく響き渡る。バサバサと、枝で雨宿りをしていた鳥達が飛び立つ。
空気が凍り付いて、ふいに、ここは一体何処だったろうかと、まるで迷子にでもなったような気持ちになった。世界がここだけ切り離されたように、時間が止まったような気がして。
後悔が次から次へと込み上げて、黒鋼は涙を流した。男は簡単に泣くもんじゃない。でも、雨がそれを隠してくれるから。だから今だけは。
ファイがどんな顔をしているのか、確かめるのが怖くて黙々と穴を掘る。小石や小枝が指先を傷つけても、ぐっと堪えた。こんな痛みは痛みなんかじゃない。死んでしまった子猫は、もう何も感じることができないのだから。
一人ぼっちで、夜の闇の中。最期まで、きっと寂しかったに違いない。
深い穴に、シャツごと子猫を納めた。ドロドロの土を上から被せ終わる頃には、雨はもっと強く二人の身体を叩いていた。震える息を吐き出すと、立ち上がって振り向く。雨に打たれたファイは呆然とした表情で、子猫が埋まっている場所を見つめている。金色の髪が頬に張り付いて、痛々しい傷を隠していた。
何か言おうとして、声が出ない。
優しい言葉をかけて、それから、その傷はどうしたのかを聞いて。またイジメられでもしたのなら、たとえこんな天気の中だろうがソイツの所へ行って、殴り返してやる。そう言ってやったら、またいつもみたいに笑ってくれるだろうか。
なのに言葉が出なかった。
一秒一秒、確かに時間は進んでいるはずなのに、まるでこの瞬間が永遠にも感じられるほど、重苦しい。やがて青褪めた唇が小さく動いた。
「どうして死ぬの?」
黒鋼に言ったというよりは、自らに問いかけているように聞こえた。虚ろな瞳は、もうどこを見ているのかさえ分からない。
胸が痛くて、張り割けそうだった。思い切り叫び出せたら、少しは楽になれるだろうか。こんな切り裂かれるような痛みは、知らない。
喉に何かが詰まっているみたいな感覚を押し殺して、黒鋼は声を絞り出した。
「……弱ってたから」
「牛乳、のんだよ」
「それでも」
「どうして……?」
「母猫がいなくて……捨てられたから……」
「じゃあなんで……」
ファイの肩や、強く握り締めた拳が震えた。
「じゃあなんでオレは生きてるの!?」
聞いたこともないような大きな声だった。ファイがこれほど感情的になる様を初めて見て、黒鋼は再び声を失った。
華奢な肩が激しく上下に揺れる。ファイは泣いていた。ぎゅうと閉じた目蓋から、大粒の涙が溢れて止まらないのを、降りしきる雨は隠してもくれない。
ファイの家庭の事情は知らない。彼が言うのはいつも『大好きなおばあちゃん』のことばかりで、他の誰かのことを口にしているのを聞いたことがないということに、今さら気がついた。
ファイのことを、何も知らないのだということを。
「みんな……死ぬの……?」
しゃくり上げながら、ファイはどうにか声を紡いでいるようだった。自分も同じように泣いてしまいたいと思ったけれど、必死で我慢する。
「そうだよ」
優しいことは言えなかった。嘘はつけない。ついては、いけない。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言いようのない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息を飲み込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
しくしくと、ファイは声を上げずに泣いていた。時折、悲鳴のように細くしゃくるだけで、その静かな泣き方が酷く悲しかった。
死なないよと、大丈夫だと、そう言ってやれたならどんなによかったろう。でもそれはとても残酷なことだと思ったから。
ふと、幼い頃に死んでしまった祖父のことを思い出した。まだ知世が産まれる前のこと、黒鋼は祖父が大好きだったから、声を上げて泣いていたのを覚えている。そのとき、父が言ったのだ。
『誰だって最初から、死ぬことは決まっているんだ。だから最期まで、後悔しないように精一杯生きるんだ』
おじいちゃんはそんな風に生きることが出来たのかと、幼い黒鋼は聞いた。父は笑って、『俺の親父だからな』と言って微笑んだ。
だから、生きているものは必ず死ぬ。
ファイだって、黒鋼だって、庭先で眠ってばかりの鋼丸だって。きっとあの小さな子猫だってそうだったのだ。光のような速さでしかなかった一瞬の生を、それでも全力で生きていた。
黒鋼はそれをファイに教えてやりたかったけれど、今は上手く言葉にするだけの自信がなかった。だから、ただ泣いているファイに近寄って、落ちている黒い傘を拾うと雨を遮りながら、細い身体を抱きしめた。
震える身体があまりにも冷たくて、可哀想で、悲しくて、黒鋼は唇を噛み締めた。
雨が、止むことなくずっと降り続いていた。
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たからもの
「なぁ、それそんなに面白いか?」
黒鋼は実のところ暇を持て余していた。二人だけの秘密基地。ぽっかりと開いたその空間には、もう長いことずっと沈黙が流れ続けていた。
黒鋼の隣で、ファイは半ズボンから剥き出しになった素足を投げ出して、ただひたすら古ぼけた絵本を熱心に眺めている。あまりにも夢中な様に少しだけ面食らって、そして少しだけつまらないなと感じていた。
二人の周りには漫画本だってお菓子だってたくさんあるのに、ファイはそれに見向きもしないのだ。絵本を夢中で眺めて、時々「わぁ」とか「きゃあ」とかいう小さな悲鳴を上げていた。
「うん、これ、好きー」
「ガキのお古なんだぜ」
「うん、キレイだねー」
「そうか……?」
二人きりの秘密基地に、ファイと黒鋼はそれぞれ宝物を持ち込もうと約束をした。
黒鋼はどうしようかと悩みぬいた末に、結局は好きな漫画本とスナック菓子と、それからなんとなく、気紛れで絵本を数冊持ち込んだ。
その古びた絵本は黒鋼が幼い頃に読んでいたもので、他の新しいものを買い与えられた知世が、今ではすっかり飽きて見向きもしなくなり、物置に仕舞われていたものだった。
ファイは絵を描くのが好きだったから、もしかしたら興味があるかもしれないと思った。というよりは、黒鋼はファイをクラスメイトというよりは、知世と同じくまだ小さな子供なのだと思っていたから、きっと好きだろうなと、何の違和感もなくリュックに詰め込んだのである。
絵本は本当に古くて、所々ボロボロにささくれ立っていた。ずっと昔、もっと新しかった頃はページだって美しかったかもしれないが、今は煤けたように変色して、少し黴臭い。そんなもののどこが綺麗だと言うのか。
ファイの言うことはいつもズレているし、突然会話の流れが山の天気のようにガラリと変わってしまうことがある。突拍子もないように思えて、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしいけれど。
「ボロボロじゃねぇか」
「キラキラだよー」
「どこが?」
呆れたように呟くと、ファイはようやく絵本から顔を上げて黒鋼を見た。その表情があまりにもポカンとして間抜けなものだったので、黒鋼はまるで自分の方がチンプンカンプンなことを言っているような気になってしまう。
「な、なんだよ」
「だってキラキラなのに」
「わかんねぇなぁ……」
「だって、だってねー、これは黒ぽんのタカラモノなんだよー」
「それは……」
そんな上等なものではない。ただファイが喜ぶと思って持ってきただけだったし、漫画本だってスナック菓子だって同じだ。
本当は宝物なんて言って誇れるものなど何ひとつ持っていなかったから、なんとなく掻き集めて来たものばかりで。
「タカラモノはね、キラキラなんだよー」
「……そうかよ」
再び絵本に夢中になった、ファイの横顔を見つめる。キラキラに光っているのだとすれば、それはファイの方だ。差し込む陽の光を受けて、金色の髪が輝いている。その色は、母が大切に鏡台の引き出しにしまっている、べっ甲細工の髪飾りを思い出させた。
『これはね、お父さんが初めてくれた贈り物なの』
そう言って髪飾りを見せてくれた母は、黒鋼の知らない女の顔をしていた。懐かしそうにそれを撫でて、愛おしそうな眼差しをして。幸せそうなその表情に、黒鋼はなぜか酷く落ち着かない気持ちになった。照れ臭いような、恥ずかしいような、むずむずとした感覚。
母を綺麗だと思い、父に焦燥を覚えた、初めての瞬間。
もっと見ていたいような、もっと知りたいような、それでいて早く過ぎてほしいとも感じていた、あのひととき。ファイの金色は、そんな甘いような酸っぱいような、不思議な感情を思い出させた。どうしてか無性に、柔らかくてふわふわとしていて、綺麗なこの髪に触れたいと思った。
母の大切なあの髪飾りには、どうしてか手を伸ばすことが出来なかったけれど。今は、触れたい。そっと手を伸ばして、少し戸惑いがちに緩く撫でた。
ファイが顔を上げて、丸い目を瞬かせる。
「どうしてなでるのー?」
「……嫌かよ」
口元をひん曲げて、照れ臭さを隠しもせず、ぶっきらぼうに問うてみる。
なぜかなんて、黒鋼にだって分からない。ただキラキラしていて、綺麗だったから。思えば妹の頭だって撫でたことなどないし、されたことはあっても、するのはこれが初めてだった。
どうにも尻の座りが悪い気分になって、黒鋼はおずおずと手を引っ込めた。ファイはぽっかりと口を開けたまま、その手の動きを目で追いかけている。それから、ふんわりと微笑んだ。
「ヤじゃないよ」
「そうか」
「オレ、おばあちゃん大好きだもん」
「なんの話だよ」
俺はおまえのおばあちゃんじゃねぇよと吐き捨てながら、今更のように胸が高鳴っていた。一体なにをしているのかと、自分に呆れもする。
俯いてむっつりしていると、今度はファイの手が伸びてきて驚いた。
「な、なんだよ」
「いやかよー」
黒鋼の口真似をして笑うファイの白くて小さな手に、黒くてツンツンの頭を撫でられる。
「おかえしだよ、黒たん」
「やめろバカ。あと、その変な呼び方もやめろ」
するよりもされる方が、なんだか子供扱いされている気がして酷く照れ臭かった。頭をブルブル振るとファイが幼く甲高い声で笑う。
同じだ。
今のこの瞬間がとても大切なのに、早く過ぎればいいと感じている。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうから。
「おまえこそ、持ってきたのかよ。宝物ってやつ」
だから誤魔化すように慌てて聞いた。ファイは「あっ」と声を上げると、ポケットの中をゴソゴソと探り出す。そして出てきたものを手渡されて、素直に受け取った。
「おい……」
手の平に乗せられた、小さくて透明なビニールの包みは薄荷の飴玉だ。呆れたような目で見ると、ファイはニコニコ顔で包みを開けて、それを口に放り込んでしまった。ぎゅうと目を閉じて、身を震わせながら「スースーするー」と言っている。
「これがおまえの宝物なのか?」
仕方なく黒鋼も包みを開けるとその飴を口に放る。甘みと一緒に独特の苦味とスースーとした感覚が口いっぱいに広がって、やっぱり苦手だと感じた。ファイは嬉しそうに元気よく頷いた。
「だってオレ、おばあちゃん大好きなんだもん!」
「わかったよ……ったく」
ファイのおばあちゃん、とやらが持たせてくれたものなのだろう。一切の説明を省いて言いたい部分だけを言うのはファイの癖だ。それにもだんだん慣れてきたような気がする。
(ばあちゃん、か)
彼はこれまでも、会話の中によく「おばあちゃん」という単語をだしていた。よほど懐いているようで、ファイがおばあちゃん子であることが知れる。
「あのね、それにね」
――オレのタカラモノ、ここにあるからいいの。
「ッ!」
細められた青い瞳が、蕩けて零れ落ちそうに見えて、息をのんだ。彼の言葉は、この場所を指しているのだろうか。大切な秘密基地だから。ふたりの宝物だから。
それとも――。
不思議な言動にはすっかり慣れてきた、というのは、ただの勘違いだったのかもしれない。どうやらまだまだ、修行が足りないらしかった。
だけど感じる、あの尻の座りの悪い感じに、やけに頬が熱くて仕方が無かった。
薄荷の香りを纏いながら、幼い笑顔を見つめて。
今ならこのスースーとした苦味も、甘味も、好きになれそうな気がしていた。
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「なぁ、それそんなに面白いか?」
黒鋼は実のところ暇を持て余していた。二人だけの秘密基地。ぽっかりと開いたその空間には、もう長いことずっと沈黙が流れ続けていた。
黒鋼の隣で、ファイは半ズボンから剥き出しになった素足を投げ出して、ただひたすら古ぼけた絵本を熱心に眺めている。あまりにも夢中な様に少しだけ面食らって、そして少しだけつまらないなと感じていた。
二人の周りには漫画本だってお菓子だってたくさんあるのに、ファイはそれに見向きもしないのだ。絵本を夢中で眺めて、時々「わぁ」とか「きゃあ」とかいう小さな悲鳴を上げていた。
「うん、これ、好きー」
「ガキのお古なんだぜ」
「うん、キレイだねー」
「そうか……?」
二人きりの秘密基地に、ファイと黒鋼はそれぞれ宝物を持ち込もうと約束をした。
黒鋼はどうしようかと悩みぬいた末に、結局は好きな漫画本とスナック菓子と、それからなんとなく、気紛れで絵本を数冊持ち込んだ。
その古びた絵本は黒鋼が幼い頃に読んでいたもので、他の新しいものを買い与えられた知世が、今ではすっかり飽きて見向きもしなくなり、物置に仕舞われていたものだった。
ファイは絵を描くのが好きだったから、もしかしたら興味があるかもしれないと思った。というよりは、黒鋼はファイをクラスメイトというよりは、知世と同じくまだ小さな子供なのだと思っていたから、きっと好きだろうなと、何の違和感もなくリュックに詰め込んだのである。
絵本は本当に古くて、所々ボロボロにささくれ立っていた。ずっと昔、もっと新しかった頃はページだって美しかったかもしれないが、今は煤けたように変色して、少し黴臭い。そんなもののどこが綺麗だと言うのか。
ファイの言うことはいつもズレているし、突然会話の流れが山の天気のようにガラリと変わってしまうことがある。突拍子もないように思えて、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしいけれど。
「ボロボロじゃねぇか」
「キラキラだよー」
「どこが?」
呆れたように呟くと、ファイはようやく絵本から顔を上げて黒鋼を見た。その表情があまりにもポカンとして間抜けなものだったので、黒鋼はまるで自分の方がチンプンカンプンなことを言っているような気になってしまう。
「な、なんだよ」
「だってキラキラなのに」
「わかんねぇなぁ……」
「だって、だってねー、これは黒ぽんのタカラモノなんだよー」
「それは……」
そんな上等なものではない。ただファイが喜ぶと思って持ってきただけだったし、漫画本だってスナック菓子だって同じだ。
本当は宝物なんて言って誇れるものなど何ひとつ持っていなかったから、なんとなく掻き集めて来たものばかりで。
「タカラモノはね、キラキラなんだよー」
「……そうかよ」
再び絵本に夢中になった、ファイの横顔を見つめる。キラキラに光っているのだとすれば、それはファイの方だ。差し込む陽の光を受けて、金色の髪が輝いている。その色は、母が大切に鏡台の引き出しにしまっている、べっ甲細工の髪飾りを思い出させた。
『これはね、お父さんが初めてくれた贈り物なの』
そう言って髪飾りを見せてくれた母は、黒鋼の知らない女の顔をしていた。懐かしそうにそれを撫でて、愛おしそうな眼差しをして。幸せそうなその表情に、黒鋼はなぜか酷く落ち着かない気持ちになった。照れ臭いような、恥ずかしいような、むずむずとした感覚。
母を綺麗だと思い、父に焦燥を覚えた、初めての瞬間。
もっと見ていたいような、もっと知りたいような、それでいて早く過ぎてほしいとも感じていた、あのひととき。ファイの金色は、そんな甘いような酸っぱいような、不思議な感情を思い出させた。どうしてか無性に、柔らかくてふわふわとしていて、綺麗なこの髪に触れたいと思った。
母の大切なあの髪飾りには、どうしてか手を伸ばすことが出来なかったけれど。今は、触れたい。そっと手を伸ばして、少し戸惑いがちに緩く撫でた。
ファイが顔を上げて、丸い目を瞬かせる。
「どうしてなでるのー?」
「……嫌かよ」
口元をひん曲げて、照れ臭さを隠しもせず、ぶっきらぼうに問うてみる。
なぜかなんて、黒鋼にだって分からない。ただキラキラしていて、綺麗だったから。思えば妹の頭だって撫でたことなどないし、されたことはあっても、するのはこれが初めてだった。
どうにも尻の座りが悪い気分になって、黒鋼はおずおずと手を引っ込めた。ファイはぽっかりと口を開けたまま、その手の動きを目で追いかけている。それから、ふんわりと微笑んだ。
「ヤじゃないよ」
「そうか」
「オレ、おばあちゃん大好きだもん」
「なんの話だよ」
俺はおまえのおばあちゃんじゃねぇよと吐き捨てながら、今更のように胸が高鳴っていた。一体なにをしているのかと、自分に呆れもする。
俯いてむっつりしていると、今度はファイの手が伸びてきて驚いた。
「な、なんだよ」
「いやかよー」
黒鋼の口真似をして笑うファイの白くて小さな手に、黒くてツンツンの頭を撫でられる。
「おかえしだよ、黒たん」
「やめろバカ。あと、その変な呼び方もやめろ」
するよりもされる方が、なんだか子供扱いされている気がして酷く照れ臭かった。頭をブルブル振るとファイが幼く甲高い声で笑う。
同じだ。
今のこの瞬間がとても大切なのに、早く過ぎればいいと感じている。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうから。
「おまえこそ、持ってきたのかよ。宝物ってやつ」
だから誤魔化すように慌てて聞いた。ファイは「あっ」と声を上げると、ポケットの中をゴソゴソと探り出す。そして出てきたものを手渡されて、素直に受け取った。
「おい……」
手の平に乗せられた、小さくて透明なビニールの包みは薄荷の飴玉だ。呆れたような目で見ると、ファイはニコニコ顔で包みを開けて、それを口に放り込んでしまった。ぎゅうと目を閉じて、身を震わせながら「スースーするー」と言っている。
「これがおまえの宝物なのか?」
仕方なく黒鋼も包みを開けるとその飴を口に放る。甘みと一緒に独特の苦味とスースーとした感覚が口いっぱいに広がって、やっぱり苦手だと感じた。ファイは嬉しそうに元気よく頷いた。
「だってオレ、おばあちゃん大好きなんだもん!」
「わかったよ……ったく」
ファイのおばあちゃん、とやらが持たせてくれたものなのだろう。一切の説明を省いて言いたい部分だけを言うのはファイの癖だ。それにもだんだん慣れてきたような気がする。
(ばあちゃん、か)
彼はこれまでも、会話の中によく「おばあちゃん」という単語をだしていた。よほど懐いているようで、ファイがおばあちゃん子であることが知れる。
「あのね、それにね」
――オレのタカラモノ、ここにあるからいいの。
「ッ!」
細められた青い瞳が、蕩けて零れ落ちそうに見えて、息をのんだ。彼の言葉は、この場所を指しているのだろうか。大切な秘密基地だから。ふたりの宝物だから。
それとも――。
不思議な言動にはすっかり慣れてきた、というのは、ただの勘違いだったのかもしれない。どうやらまだまだ、修行が足りないらしかった。
だけど感じる、あの尻の座りの悪い感じに、やけに頬が熱くて仕方が無かった。
薄荷の香りを纏いながら、幼い笑顔を見つめて。
今ならこのスースーとした苦味も、甘味も、好きになれそうな気がしていた。
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森のヒミツ
この春、黒鋼は小学4年生になったばかりだった。
長閑で平坦で、何も無い町での暮らしは、一日があっという間に終わる。ボロボロで古臭い木造一階建ての小学校へ行って、勉強をして、友達と遊んで、悪戯をすれば叱られる。それだけの日々。
そんな黒鋼の家は、この辺りで唯一の小さな民宿を営んでいた。
諏倭荘という名の寂れた民宿は、それでもシーズンになるとそれなりに賑わっていて、黒鋼も幼いながらによく手伝わされていた。
山をずっと下りて行けばちょっとした温泉街があるけれど、そこも観光地として決して賑わっているというわけではない。昔からの由緒ある旅館やら何やらが軒を連ねているらしいが、テレビなんかで頻繁に取り上げられるほどの規模でもなかった。
こんな何もない場所のどこがいいのかと、民宿の手伝いで遊ぶ時間を削られる度に思ってしまう。山と川と、田んぼと畑。ここには特別なものなんか、何ひとつありはしない。
それが黒鋼の生まれ育った、小さな町だった。
*
ファイがやって来たのは、今から半年ほど前のことだった。
金色の髪と青い眼をしたその姿を初めて見たとき、随分と貧相なものだと感じたのを覚えている。クラスでも一番大きかった黒鋼とは反対に、ファイはクラスで一番痩せこけていて、小さな子供だった。
見慣れない容姿に聞き慣れない名前。子供達はファイに近づくこともできずに、ただ遠巻きに眺めるだけだった。声をかけられることがあればただ微笑んで、あとはずっと机に向かっている子供。今にして思えば、ファイは授業以外の時間、ずっと絵を描いていたのかもしれない。
黒鋼は、そもそもそんな転入生に対してあまり興味がなかった。一緒に遊びたいなら勝手に入ってくればいいし、一人で静かに過ごしたいなら、それでいいだろうし。
けれどあれから、黒鋼とファイはよく遊ぶようになった。
初めて声を交わしたあの放課後から、一人でぽつんといるファイのことが気になって、仕方がなくなってしまったからだ。最初は黙りこくって心を閉ざしていた彼も、絵について触れてやった途端に笑顔を浮かべた。それを見たとき、黒鋼は彼が決して好んでひとりぼっちでいるわけではないのだと、そう感じたのだ。
それを裏付けるかのように「行くぞ」と言って小さな白い手を引いてやると、最初はポカンとバカみたいに口を開けていたファイも、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
その砂糖菓子のような笑顔を見ると、なぜか少しだけ泣きたいような気持ちになって、それから胸の辺りがぽっと温かくなるから不思議だった。
*
桜の花は、全て散ってしまった。
今は青々とした葉が枝を覆い、吹く風に靡いてざわざわと揺らいでいる。木々の隙間から注す陽の光が、目を閉じていてさえ目蓋を赤く焼いていた。
黒鋼はそんな木々の間を、自分のものより一回りも小さな手に引かれて歩いている。かろうじて道と分かる程度の、細く長い山道だった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「なにがー?」
「先生にしかられるぞ?」
「そうなの?」
黒鋼の手を引いてずんずんと山の中へ分け入っていたファイが、クルリと振り向いた。すると思いっきり石とも木の根ともつかないものに躓いて前のめりになるから、強く手を引いて体勢を立て直してやる。
「わぁ」
「あぶねぇから前向いて歩けっての」
「えへへー」
手を引かれながらも、黒鋼は前を行くファイの足元に注意を払うのに精一杯だった。ファイは放って置くと何も無い平地ですらすぐに転ぶから、おちおち目が離せない。
そもそも、この場所は子供だけで無闇に入り込んでいい場所ではなかった。
小学校の裏手に位置する、小さな山の中。ここは子供が悪戯に入り込まないよう、校舎の裏にはロープだって張り巡らされているし、熊出没の看板だって立てられている。
それにも拘らず、ファイはなんの戸惑いもなくロープを潜って見せた。驚いた黒鋼はもちろん止めたが、ファイの「あのね、オレのヒミツの場所なんだー」という一言に、あっけなく撃沈した。
秘密、という響きに黒鋼の心は強く掻きたてられてしまった。しかも立ち入るのは禁じられた場所。これで胸が躍らない男は、いっそ男じゃない。
本当はずっと興味があった。大人が禁じる場所には、必ず何か凄いものがあるのではないかと、いつも考えていた。知られれば洒落で済まないくらい、こっぴどく叱られると分かっていたから、結局は足踏みしていたけれど。それは単に、強く背中を押されるような感覚が欠落していたに過ぎない。
黒鋼は誰よりも大きくて、遊びも悪戯も先頭になってやっていたけれど、こんな風に強く手を引かれるという経験はなかった。それがなんだかやけに新鮮に感じられて、浮き立つような気分を引き立てていたのかもしれない。
いざとなればこのちっこい身体を抱えて、一目散に逃げ出せばいい。足の速さだって、黒鋼はクラスで一番なのだから。
幾度も転びそうになるファイを気遣いながら、やがて二人は石造りの古びた鳥居をくぐった。こんなものがあったのかと感心していると、ファイが「うひゃぁ」と、上ずったおかしな悲鳴を上げた。黒鋼も、わ、と小さく声を上げた。
「黒たん、ね? ここだよ、ここー!」
満面の笑みを浮かべるファイは、そこにあるものを指差して、繋いでいる手をブンブンと振った。
そこには、見たこともないような、大きな大きな大木があった。太い幹には注連縄がほどこされ、その周りを苔にまみれた腐った木の柵が取り囲んでいる。
「ご神木ってやつか、これ……」
大きなその木をぽかんと間抜けた顔で見上げていた黒鋼は「変な呼び方するなよ」と、文句を垂れるのも忘れて見入ってしまう。
どこまでも広がる青々としたそれは、桜の葉だった。もっと早く来ていれば、きっととてつもない光景を拝むことが出来たに違いない。
黒鋼がそれに気を取られている間に、ファイは繋いでいた手を離して駆け出した。
「あ、おい」
「黒たん、ここ、ここ」
柵を飛び越えてしまったファイは、大木の根元にしゃがみ込むと、振り向いて黒鋼に手招きをした。そしてそのままズルズルと四つん這いになったかと思ったら、次の瞬間スッと消えてしまった。
「!?」
「黒ぽーん! ここ!」
ファイの声が、木の中からくぐもって聞こえる。慌てて同じく柵を飛び越え、ファイが消えた位置に駆け寄ると、そこからにゅっと白い手が出てきてまた手招いた。
「ここだよー」
「おまえ……こっから入ったのか……?」
よく見れば、子供がどうにか入り込めるような切込みがある。ファイはここから潜り込んで木の内部にいるのだ。
黒鋼の胸が激しく疼いた。堪らず膝をついて、小さな切込みに思いっきり頭を突っ込む。小さなファイに比べて、一回り以上大きな黒鋼の身体はスムーズには通らない。それでもどうにか押し入って、入り込むことに成功すると、そこにはぽっかりと丸い空間が広がっていた。
「すげぇ……」
見上げると闇がある。それでも所々に小さく歪な穴がある大木の空洞へは、光の柱が幾つも射し込んでいた。身体の奥底から込み上げる感動で、胸がいっぱいになった。まるで異世界だ。知らなかった。ありふれた日常から一歩足を踏み出しただけなのに、そこには新しい世界が広がっていた。
空洞の真ん中、枯葉や小さな枝の絨毯の上にぽつんと座って、ふにゃふにゃと笑っているファイの頬が、興奮しているのか少しだけ赤い。
ここはファイが見つけた、ファイだけの場所なのだ。今、この瞬間までは。
「こんな場所よく見つけたな」
ファイがこの町にやって来て、まだたったの半年だ。この領域に足を踏み込むことさえ躊躇っていた黒鋼にとって、衝撃は決して小さくない。
黒鋼は四つん這いのままファイの側へ近づいた。エヘヘと笑うファイはどこか誇らしげで、先を越されていたのがなんだか悔しい。
「オレね、いつかここを、ちゃんとしたおうちにするの」
「ああ?」
「あのねオレ、大人になったらね、ここに住むんだよー」
立ち上がったファイは、空洞の中をくるくると動き回った。
「ここにお布団しいて、テーブルはここでしょ、引き出しはここでいいかなー?」
そんなファイをしょうがないな、と苦笑しつつ眺めていた黒鋼だったが、込み上げてくるのはなんともいえない、もどかしさだった。
「ねぇ黒たん、あそびに来てくれるー?」
胡坐をかいていた黒鋼の正面までやってきて、ペタリと座り込んだファイに、ちょっとだけ困ってしまった。あと何年かすれば、この場所へ通じる穴は黒鋼だけじゃなく、ファイの身体をも拒むだろう。
今だけ。子供の自分達だけが入り込むことを許された小さな世界。考えずとも、そんなことくらいすぐに分かるはずなのに。
けれど今のファイは目の前の空間に夢中で、そこまで考えが回らない。『子供』だから、おつむが足りないから、先のことが少しも見通せない。一緒になって、無邪気にはしゃいでやれるほどの幼さを、黒鋼は持っていなかった。こんな時に、やけに冷静になってしまう自分の性格が、疎ましいとも思う。
「それまでここはオレと黒たんだけのヒミツ。ね?」
――秘密。
小さな唇から紡がれたその言葉が、沈みかけていた黒鋼の心に、まるで魔法のようにまた少しだけ、ワクワクとした気持ちを蘇らせた。
「秘密基地、だな?」
黒鋼がニヤリと悪戯っぽく笑えば、ファイは透き通るような瞳の青をキラキラと輝かせ「わぁ!」と声を上げた。
ここは二人だけの秘密の世界。今日からここは、ファイだけのものではなくて。そのことがバカみたいに嬉しい。
そうだ、大人になるのはまだずっと先なのだから。今はまだ、考えなくたっていいじゃないか。
「ヒミツキチ、かっこいいねー!」
光の柱に照らされたファイの眩しい笑顔に、黒鋼の胸はやっぱりほんの少しだけ、チクリと痛んだのだけれど。
←戻る ・ 次へ→
この春、黒鋼は小学4年生になったばかりだった。
長閑で平坦で、何も無い町での暮らしは、一日があっという間に終わる。ボロボロで古臭い木造一階建ての小学校へ行って、勉強をして、友達と遊んで、悪戯をすれば叱られる。それだけの日々。
そんな黒鋼の家は、この辺りで唯一の小さな民宿を営んでいた。
諏倭荘という名の寂れた民宿は、それでもシーズンになるとそれなりに賑わっていて、黒鋼も幼いながらによく手伝わされていた。
山をずっと下りて行けばちょっとした温泉街があるけれど、そこも観光地として決して賑わっているというわけではない。昔からの由緒ある旅館やら何やらが軒を連ねているらしいが、テレビなんかで頻繁に取り上げられるほどの規模でもなかった。
こんな何もない場所のどこがいいのかと、民宿の手伝いで遊ぶ時間を削られる度に思ってしまう。山と川と、田んぼと畑。ここには特別なものなんか、何ひとつありはしない。
それが黒鋼の生まれ育った、小さな町だった。
*
ファイがやって来たのは、今から半年ほど前のことだった。
金色の髪と青い眼をしたその姿を初めて見たとき、随分と貧相なものだと感じたのを覚えている。クラスでも一番大きかった黒鋼とは反対に、ファイはクラスで一番痩せこけていて、小さな子供だった。
見慣れない容姿に聞き慣れない名前。子供達はファイに近づくこともできずに、ただ遠巻きに眺めるだけだった。声をかけられることがあればただ微笑んで、あとはずっと机に向かっている子供。今にして思えば、ファイは授業以外の時間、ずっと絵を描いていたのかもしれない。
黒鋼は、そもそもそんな転入生に対してあまり興味がなかった。一緒に遊びたいなら勝手に入ってくればいいし、一人で静かに過ごしたいなら、それでいいだろうし。
けれどあれから、黒鋼とファイはよく遊ぶようになった。
初めて声を交わしたあの放課後から、一人でぽつんといるファイのことが気になって、仕方がなくなってしまったからだ。最初は黙りこくって心を閉ざしていた彼も、絵について触れてやった途端に笑顔を浮かべた。それを見たとき、黒鋼は彼が決して好んでひとりぼっちでいるわけではないのだと、そう感じたのだ。
それを裏付けるかのように「行くぞ」と言って小さな白い手を引いてやると、最初はポカンとバカみたいに口を開けていたファイも、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
その砂糖菓子のような笑顔を見ると、なぜか少しだけ泣きたいような気持ちになって、それから胸の辺りがぽっと温かくなるから不思議だった。
*
桜の花は、全て散ってしまった。
今は青々とした葉が枝を覆い、吹く風に靡いてざわざわと揺らいでいる。木々の隙間から注す陽の光が、目を閉じていてさえ目蓋を赤く焼いていた。
黒鋼はそんな木々の間を、自分のものより一回りも小さな手に引かれて歩いている。かろうじて道と分かる程度の、細く長い山道だった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「なにがー?」
「先生にしかられるぞ?」
「そうなの?」
黒鋼の手を引いてずんずんと山の中へ分け入っていたファイが、クルリと振り向いた。すると思いっきり石とも木の根ともつかないものに躓いて前のめりになるから、強く手を引いて体勢を立て直してやる。
「わぁ」
「あぶねぇから前向いて歩けっての」
「えへへー」
手を引かれながらも、黒鋼は前を行くファイの足元に注意を払うのに精一杯だった。ファイは放って置くと何も無い平地ですらすぐに転ぶから、おちおち目が離せない。
そもそも、この場所は子供だけで無闇に入り込んでいい場所ではなかった。
小学校の裏手に位置する、小さな山の中。ここは子供が悪戯に入り込まないよう、校舎の裏にはロープだって張り巡らされているし、熊出没の看板だって立てられている。
それにも拘らず、ファイはなんの戸惑いもなくロープを潜って見せた。驚いた黒鋼はもちろん止めたが、ファイの「あのね、オレのヒミツの場所なんだー」という一言に、あっけなく撃沈した。
秘密、という響きに黒鋼の心は強く掻きたてられてしまった。しかも立ち入るのは禁じられた場所。これで胸が躍らない男は、いっそ男じゃない。
本当はずっと興味があった。大人が禁じる場所には、必ず何か凄いものがあるのではないかと、いつも考えていた。知られれば洒落で済まないくらい、こっぴどく叱られると分かっていたから、結局は足踏みしていたけれど。それは単に、強く背中を押されるような感覚が欠落していたに過ぎない。
黒鋼は誰よりも大きくて、遊びも悪戯も先頭になってやっていたけれど、こんな風に強く手を引かれるという経験はなかった。それがなんだかやけに新鮮に感じられて、浮き立つような気分を引き立てていたのかもしれない。
いざとなればこのちっこい身体を抱えて、一目散に逃げ出せばいい。足の速さだって、黒鋼はクラスで一番なのだから。
幾度も転びそうになるファイを気遣いながら、やがて二人は石造りの古びた鳥居をくぐった。こんなものがあったのかと感心していると、ファイが「うひゃぁ」と、上ずったおかしな悲鳴を上げた。黒鋼も、わ、と小さく声を上げた。
「黒たん、ね? ここだよ、ここー!」
満面の笑みを浮かべるファイは、そこにあるものを指差して、繋いでいる手をブンブンと振った。
そこには、見たこともないような、大きな大きな大木があった。太い幹には注連縄がほどこされ、その周りを苔にまみれた腐った木の柵が取り囲んでいる。
「ご神木ってやつか、これ……」
大きなその木をぽかんと間抜けた顔で見上げていた黒鋼は「変な呼び方するなよ」と、文句を垂れるのも忘れて見入ってしまう。
どこまでも広がる青々としたそれは、桜の葉だった。もっと早く来ていれば、きっととてつもない光景を拝むことが出来たに違いない。
黒鋼がそれに気を取られている間に、ファイは繋いでいた手を離して駆け出した。
「あ、おい」
「黒たん、ここ、ここ」
柵を飛び越えてしまったファイは、大木の根元にしゃがみ込むと、振り向いて黒鋼に手招きをした。そしてそのままズルズルと四つん這いになったかと思ったら、次の瞬間スッと消えてしまった。
「!?」
「黒ぽーん! ここ!」
ファイの声が、木の中からくぐもって聞こえる。慌てて同じく柵を飛び越え、ファイが消えた位置に駆け寄ると、そこからにゅっと白い手が出てきてまた手招いた。
「ここだよー」
「おまえ……こっから入ったのか……?」
よく見れば、子供がどうにか入り込めるような切込みがある。ファイはここから潜り込んで木の内部にいるのだ。
黒鋼の胸が激しく疼いた。堪らず膝をついて、小さな切込みに思いっきり頭を突っ込む。小さなファイに比べて、一回り以上大きな黒鋼の身体はスムーズには通らない。それでもどうにか押し入って、入り込むことに成功すると、そこにはぽっかりと丸い空間が広がっていた。
「すげぇ……」
見上げると闇がある。それでも所々に小さく歪な穴がある大木の空洞へは、光の柱が幾つも射し込んでいた。身体の奥底から込み上げる感動で、胸がいっぱいになった。まるで異世界だ。知らなかった。ありふれた日常から一歩足を踏み出しただけなのに、そこには新しい世界が広がっていた。
空洞の真ん中、枯葉や小さな枝の絨毯の上にぽつんと座って、ふにゃふにゃと笑っているファイの頬が、興奮しているのか少しだけ赤い。
ここはファイが見つけた、ファイだけの場所なのだ。今、この瞬間までは。
「こんな場所よく見つけたな」
ファイがこの町にやって来て、まだたったの半年だ。この領域に足を踏み込むことさえ躊躇っていた黒鋼にとって、衝撃は決して小さくない。
黒鋼は四つん這いのままファイの側へ近づいた。エヘヘと笑うファイはどこか誇らしげで、先を越されていたのがなんだか悔しい。
「オレね、いつかここを、ちゃんとしたおうちにするの」
「ああ?」
「あのねオレ、大人になったらね、ここに住むんだよー」
立ち上がったファイは、空洞の中をくるくると動き回った。
「ここにお布団しいて、テーブルはここでしょ、引き出しはここでいいかなー?」
そんなファイをしょうがないな、と苦笑しつつ眺めていた黒鋼だったが、込み上げてくるのはなんともいえない、もどかしさだった。
「ねぇ黒たん、あそびに来てくれるー?」
胡坐をかいていた黒鋼の正面までやってきて、ペタリと座り込んだファイに、ちょっとだけ困ってしまった。あと何年かすれば、この場所へ通じる穴は黒鋼だけじゃなく、ファイの身体をも拒むだろう。
今だけ。子供の自分達だけが入り込むことを許された小さな世界。考えずとも、そんなことくらいすぐに分かるはずなのに。
けれど今のファイは目の前の空間に夢中で、そこまで考えが回らない。『子供』だから、おつむが足りないから、先のことが少しも見通せない。一緒になって、無邪気にはしゃいでやれるほどの幼さを、黒鋼は持っていなかった。こんな時に、やけに冷静になってしまう自分の性格が、疎ましいとも思う。
「それまでここはオレと黒たんだけのヒミツ。ね?」
――秘密。
小さな唇から紡がれたその言葉が、沈みかけていた黒鋼の心に、まるで魔法のようにまた少しだけ、ワクワクとした気持ちを蘇らせた。
「秘密基地、だな?」
黒鋼がニヤリと悪戯っぽく笑えば、ファイは透き通るような瞳の青をキラキラと輝かせ「わぁ!」と声を上げた。
ここは二人だけの秘密の世界。今日からここは、ファイだけのものではなくて。そのことがバカみたいに嬉しい。
そうだ、大人になるのはまだずっと先なのだから。今はまだ、考えなくたっていいじゃないか。
「ヒミツキチ、かっこいいねー!」
光の柱に照らされたファイの眩しい笑顔に、黒鋼の胸はやっぱりほんの少しだけ、チクリと痛んだのだけれど。
←戻る ・ 次へ→
青い目の人形
「おまえ、なんで何も言わなかったんだ?」
黒鋼が問うても、傍らにしゃがみ込んだ子供はピクリとも反応しなかった。
子供、と言っても黒鋼も変わらない。むしろ二人は同じ小学校へ通うクラスメイトである。けれど、黒鋼が彼に向かって口を利くことはおろか、こうして二人きりでいることさえも、これが初めてのことだった。
なんとなく彼を自分よりも『子供』だと思ってしまうのは、単純に身体の大きさからだった。クラスで一番大きな黒鋼とは逆に、彼はとても小さく、小枝のように痩せ細っていた。
黒鋼は面白くねぇな、と思った。不本意な沈黙が流れるなか、放課後の校庭にはポツリポツリと駆け回る生徒達の姿があって、甲高い声が遠くから聞こえる。
隣の子供が白く小さな指先で摘んでいるのは細い木の棒で、彼は俯き、熱心に地面にその先端を走らせていた。淡い金色の髪が、ゆるゆると風に靡いている。その緩やかな風はどこか生暖かく、二人の頭上で満開に咲き誇る桜の花びらを幾つも散らしてゆく。
桜の雨だと、ぼんやり思う。
それから黒鋼は、おそらくは自らの殻に閉じこもっているのであろう彼の、その不思議な色合いの髪をなんとなく見つめた。
「…………」
なぜ、何も言おうとしないのだろう。悔しくはないのか。あんなことを言われて、きっと自分だったら我慢ならない。
黒鋼が苛立ちを募らせているのは、何も自分に反応を示してくれない彼の態度に対してではなくて。
『目も髪も、へんてこな色。お前、日本人じゃないんだろ』
『いつもヘラヘラ笑ってるだけで、キモチ悪ぃんだよ』
『なんか言えよ。しゃべれないなら、自分の国に帰ればいいだろ』
『お前と遊ぶと叱られるんだ。よそ者はどっか消えろ』
消えろとか、帰れとか、気持ち悪いとか。そんな拙い暴言の数々を思い出して、黒鋼はまた腹が立った。
この小さな生き物を取り囲んで好き勝手言いたい放題だった彼らは、いきなり割って入ってきた黒鋼に目を見開いていた。そしてバツが悪そうに砂を蹴って、帰っていったのだ。
黒鋼は弱いものイジメが大嫌いだ。彼らが同じクラスメイトで、普段は当たり前のように自分の周りにいる友人達だったとしても、許せない。
「嫌なら嫌とか、ちゃんと言えよおまえも。それに」
なんだかんだで、結局のところ面白くはない。
人から良くしてもらったらきちんと礼を言えと、挨拶はちゃんとしろと、先生や親だっていつも煩いくらい言っているではないか。なぜそんな当たり前のことが出来ないのだろう。
けれどすぐに、黒鋼は諦めた。この子は黒鋼と同い年だけれど、身体だけではなくて、中身も本当に幼い子供なのかもしれない。なぜか漠然と、そう感じたからだ。
黒鋼は彼の指先よりも下へと視線をずらした。何を熱心になって描いているのだろうか。
「それ、なに?」
ぶっきらぼうに放ったその問いに、彼は初めて手を止めて顔を上げた。
初めて視線が交わった瞬間、ピリリと皮膚に何かが走った。まるで人形のようだと思った。青い眼の、金色の髪をした、真っ白な肌の異国のお人形。黒鋼はそこで初めて、そんなものをしきりに欲しがる女子達の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。
例えば公園で、空き地で、彼女達が群がる中心には自慢げに人形を抱いている子供がいたりする。あんなもののどこがいいのかと、いつだって冷めた目で遠くから眺めていたものだが。
だけどこんな綺麗な人形ならば、誰だって飾っておきたいと、自慢のひとつもしたくなるかもしれないと、純粋にそう思えた。
大きなクリクリとした瞳は透き通るような青で、それが夕日を吸い込んでさらに透明な輝きを放っている。今にも零れ落ちてしまうのではないかと、酷く落ち着かない気持ちにさせられた。
ふと、自分がこれに見惚れていたのだと気がついて、なんだか居心地が悪くなる。
何か言って誤魔化そうとして、出来なかった。青い瞳がすっと、猫のように細められたかと思うと、ふにゃりと笑ったのだ。情けないようにも見える柔らかい笑顔は、知らず肩に力を入れていた黒鋼の緊張を、すっかりと解してしまった。
黒鋼はふっと息を吐き出すと、彼のすぐ隣に同じ様にしゃがみ込んだ。そしてもう一度問う。
「これ、なんだ?」
「――鬼だよ」
鈴を転がすような可愛らしい声だった。隣の家の飼い猫がつけていた、金色の鈴の音を思いだした。その猫は確か、去年の夏に事故で死んだのだったか。
「おに?」
「うん、そうー」
「でもこれは……」
黒鋼にはその絵が、彼が言うものにはとても見えなかった。
そもそもなんだってそんなものを描いているのかという疑問はさて置き、この絵には足りないものが幾つもある。
「違うだろ、鬼ってのはこんなんじゃない」
だって角も牙もないじゃないか。そう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。綿飴のような髪がふわりと揺れると、はらはらと落ちてきた小さな花びらがそれに絡みつく。
「これは……そうだな、校長先生の顔だ」
今よりもっと幼い頃に絵本やテレビで見た鬼は、クルクルの黒髪に角があり、赤や青の肌をしていて、鋭い牙がチラリと覗いていたはずだ。豆まきの鬼の面だってそう。けれどそこに描かれているのは、どう見てもただの『人』の顔。本当にそうとしか表現できない。
拙い絵はそれが男なのか女なのかも判断がつかないほどだったけれど、黒鋼にはなんとなく、その顔がこの小学校の校長先生に見えたような気がした。
「な? そうだろ?」
問いかけると、彼はまたふんにゃりと笑った。
「オレ、校長先生好きだよー。だって、ナイショでおかしをくれたもの」
「ああ?」
小さく噛みあわなくなってしまった会話に黒鋼が戸惑っていると、彼は木の枝をポイと投げ出した。
「アメがなめたいなー」
「…………」
「スースーってするの、知ってる?」
「……ハッカか?」
「お鼻がね、スーってなって、ふわ~ってなるの。大好き」
無邪気な瞳が、黒鋼の顔を覗き込んでくる。黒鋼はやっぱり反応に困ってしまった。薄荷は、少し苦手だ。甘い味がするものも、正直好かない。
黒鋼は、ああそうか、と思った。
やっぱりこの子は『小さい子』なんだと。
こんな風に他人と上手に会話が出来なくて、不思議なことばかりを言う人間のことを、周りの大人は『おつむが足りない』と言う。
それは小さな子供と変わらないのだと思う。黒鋼の歳の離れた妹の知世だって、覚えたての言葉やなんかを、無闇に繰り返しては笑っていたりする。だからこの小さくて人形のような子供は、知世と同じなんだ。まだちょっと、おつむがたりないんだ。
可哀想な子なのだと思った。小さな子や可哀想な子には、優しくしてあげなくちゃならない。哀れむような目をした黒鋼に、彼はきょとんと不思議そうな顔をして、それからやっぱりまた笑った。
「あのね、鬼はね、きっとお豆じゃ退治できないよ」
「どうして?」
「お豆、おいしいからぜんぶ食べられちゃうもの。ね」
黒鋼は妙に納得して「そうだな」とだけ短く答えてやると、淡い金色の上に落ちた花びらを優しく払ってやった。
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「おまえ、なんで何も言わなかったんだ?」
黒鋼が問うても、傍らにしゃがみ込んだ子供はピクリとも反応しなかった。
子供、と言っても黒鋼も変わらない。むしろ二人は同じ小学校へ通うクラスメイトである。けれど、黒鋼が彼に向かって口を利くことはおろか、こうして二人きりでいることさえも、これが初めてのことだった。
なんとなく彼を自分よりも『子供』だと思ってしまうのは、単純に身体の大きさからだった。クラスで一番大きな黒鋼とは逆に、彼はとても小さく、小枝のように痩せ細っていた。
黒鋼は面白くねぇな、と思った。不本意な沈黙が流れるなか、放課後の校庭にはポツリポツリと駆け回る生徒達の姿があって、甲高い声が遠くから聞こえる。
隣の子供が白く小さな指先で摘んでいるのは細い木の棒で、彼は俯き、熱心に地面にその先端を走らせていた。淡い金色の髪が、ゆるゆると風に靡いている。その緩やかな風はどこか生暖かく、二人の頭上で満開に咲き誇る桜の花びらを幾つも散らしてゆく。
桜の雨だと、ぼんやり思う。
それから黒鋼は、おそらくは自らの殻に閉じこもっているのであろう彼の、その不思議な色合いの髪をなんとなく見つめた。
「…………」
なぜ、何も言おうとしないのだろう。悔しくはないのか。あんなことを言われて、きっと自分だったら我慢ならない。
黒鋼が苛立ちを募らせているのは、何も自分に反応を示してくれない彼の態度に対してではなくて。
『目も髪も、へんてこな色。お前、日本人じゃないんだろ』
『いつもヘラヘラ笑ってるだけで、キモチ悪ぃんだよ』
『なんか言えよ。しゃべれないなら、自分の国に帰ればいいだろ』
『お前と遊ぶと叱られるんだ。よそ者はどっか消えろ』
消えろとか、帰れとか、気持ち悪いとか。そんな拙い暴言の数々を思い出して、黒鋼はまた腹が立った。
この小さな生き物を取り囲んで好き勝手言いたい放題だった彼らは、いきなり割って入ってきた黒鋼に目を見開いていた。そしてバツが悪そうに砂を蹴って、帰っていったのだ。
黒鋼は弱いものイジメが大嫌いだ。彼らが同じクラスメイトで、普段は当たり前のように自分の周りにいる友人達だったとしても、許せない。
「嫌なら嫌とか、ちゃんと言えよおまえも。それに」
なんだかんだで、結局のところ面白くはない。
人から良くしてもらったらきちんと礼を言えと、挨拶はちゃんとしろと、先生や親だっていつも煩いくらい言っているではないか。なぜそんな当たり前のことが出来ないのだろう。
けれどすぐに、黒鋼は諦めた。この子は黒鋼と同い年だけれど、身体だけではなくて、中身も本当に幼い子供なのかもしれない。なぜか漠然と、そう感じたからだ。
黒鋼は彼の指先よりも下へと視線をずらした。何を熱心になって描いているのだろうか。
「それ、なに?」
ぶっきらぼうに放ったその問いに、彼は初めて手を止めて顔を上げた。
初めて視線が交わった瞬間、ピリリと皮膚に何かが走った。まるで人形のようだと思った。青い眼の、金色の髪をした、真っ白な肌の異国のお人形。黒鋼はそこで初めて、そんなものをしきりに欲しがる女子達の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。
例えば公園で、空き地で、彼女達が群がる中心には自慢げに人形を抱いている子供がいたりする。あんなもののどこがいいのかと、いつだって冷めた目で遠くから眺めていたものだが。
だけどこんな綺麗な人形ならば、誰だって飾っておきたいと、自慢のひとつもしたくなるかもしれないと、純粋にそう思えた。
大きなクリクリとした瞳は透き通るような青で、それが夕日を吸い込んでさらに透明な輝きを放っている。今にも零れ落ちてしまうのではないかと、酷く落ち着かない気持ちにさせられた。
ふと、自分がこれに見惚れていたのだと気がついて、なんだか居心地が悪くなる。
何か言って誤魔化そうとして、出来なかった。青い瞳がすっと、猫のように細められたかと思うと、ふにゃりと笑ったのだ。情けないようにも見える柔らかい笑顔は、知らず肩に力を入れていた黒鋼の緊張を、すっかりと解してしまった。
黒鋼はふっと息を吐き出すと、彼のすぐ隣に同じ様にしゃがみ込んだ。そしてもう一度問う。
「これ、なんだ?」
「――鬼だよ」
鈴を転がすような可愛らしい声だった。隣の家の飼い猫がつけていた、金色の鈴の音を思いだした。その猫は確か、去年の夏に事故で死んだのだったか。
「おに?」
「うん、そうー」
「でもこれは……」
黒鋼にはその絵が、彼が言うものにはとても見えなかった。
そもそもなんだってそんなものを描いているのかという疑問はさて置き、この絵には足りないものが幾つもある。
「違うだろ、鬼ってのはこんなんじゃない」
だって角も牙もないじゃないか。そう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。綿飴のような髪がふわりと揺れると、はらはらと落ちてきた小さな花びらがそれに絡みつく。
「これは……そうだな、校長先生の顔だ」
今よりもっと幼い頃に絵本やテレビで見た鬼は、クルクルの黒髪に角があり、赤や青の肌をしていて、鋭い牙がチラリと覗いていたはずだ。豆まきの鬼の面だってそう。けれどそこに描かれているのは、どう見てもただの『人』の顔。本当にそうとしか表現できない。
拙い絵はそれが男なのか女なのかも判断がつかないほどだったけれど、黒鋼にはなんとなく、その顔がこの小学校の校長先生に見えたような気がした。
「な? そうだろ?」
問いかけると、彼はまたふんにゃりと笑った。
「オレ、校長先生好きだよー。だって、ナイショでおかしをくれたもの」
「ああ?」
小さく噛みあわなくなってしまった会話に黒鋼が戸惑っていると、彼は木の枝をポイと投げ出した。
「アメがなめたいなー」
「…………」
「スースーってするの、知ってる?」
「……ハッカか?」
「お鼻がね、スーってなって、ふわ~ってなるの。大好き」
無邪気な瞳が、黒鋼の顔を覗き込んでくる。黒鋼はやっぱり反応に困ってしまった。薄荷は、少し苦手だ。甘い味がするものも、正直好かない。
黒鋼は、ああそうか、と思った。
やっぱりこの子は『小さい子』なんだと。
こんな風に他人と上手に会話が出来なくて、不思議なことばかりを言う人間のことを、周りの大人は『おつむが足りない』と言う。
それは小さな子供と変わらないのだと思う。黒鋼の歳の離れた妹の知世だって、覚えたての言葉やなんかを、無闇に繰り返しては笑っていたりする。だからこの小さくて人形のような子供は、知世と同じなんだ。まだちょっと、おつむがたりないんだ。
可哀想な子なのだと思った。小さな子や可哀想な子には、優しくしてあげなくちゃならない。哀れむような目をした黒鋼に、彼はきょとんと不思議そうな顔をして、それからやっぱりまた笑った。
「あのね、鬼はね、きっとお豆じゃ退治できないよ」
「どうして?」
「お豆、おいしいからぜんぶ食べられちゃうもの。ね」
黒鋼は妙に納得して「そうだな」とだけ短く答えてやると、淡い金色の上に落ちた花びらを優しく払ってやった。
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*なんでも許せる方向けです(魔法の言葉)
*操ちゃんが双子です。
*容子ママとショコラが亡くなっています。
*原作程度の甲→翔の表現あり。
未知の疫病が蔓延している架空の世界でのお話になります。
2019年に公式から魔法使い甲洋くん(ハロウィン甲操)が投下されたのを見て書き進めていたものですので、コロナをモチーフにしたお話ではありません。
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