第十話『鼓動』
「ごめんなさい!」
「すまなかった」
顔を合わせた瞬間、互いが同時に頭を下げて謝罪の言葉を述べた。
重なり合った台詞に驚いて顔を上げれば、黒鋼もまた同じように目を見開いていた。
立ち尽くすファイと、胡坐をかいた膝をそれぞれ両手で掴んでいる黒鋼。
暫し見詰め合って、思わずぷっと吹き出す。
もっとも、笑ってしまったのはファイだけで、黒鋼は僅かに表情を和らげただけだったのだが。
「ほ、本当にごめんね……。あの、ほっぺた平気……?」
ファイは羽織っていたコートも脱がずに、カバンだけを投げ出して黒鋼の側まで寄った。
膝をついて、恐る恐る顔を覗きこむ。腫れてもいなければ、赤くもなっていないのを確認すると、力が抜けた。
向き合うようにしてペッタリと座り込んで、深く安堵の息を吐き出した。
「良かったー……」
「あんなへなちょこビンタぐれぇ、どうってことねぇよ」
「へ、へなちょこってー……オレなんかずっと手の平が痛くて……」
上目使いで睨みつけると、黒鋼があのファイの好きな困り顔でカリカリと耳の裏を掻いていた。
「だから悪かった。あれは……俺の失言だ」
ファイは首を緩く左右に振って微笑んだ。
「うぅん。だって本当のことだもん……。黒たんは何も間違ってないよ。誤解されても仕方ないことだし……」
「いや……そうじゃねぇんだ……」
「?」
黒鋼は珍しく歯切れの悪い物言いをした。酷く言いにくそうに、一つ咳払いをする。
ファイはただ小首を傾げて、彼の次の言葉を待つ以外になかった。
「言っちまったもんは取り返しがつかねぇことは分かってるが……あれは、ただの勢いってやつで……。あんときはどうかしてた」
「黒たん……?」
「それだけは言っときたかった」
本当にすまなかった。そう言って、彼はもう一度、勢いよく頭を下げた。
ファイは慌てて膝立ちになると、黒鋼の肩に触れてブンブンと首を振った。
普段のふてぶてしい態度しか知らないせいで、なんだかとても悪いことをさせているような気がしてならない。
「い、いいよもう! 頭上げてくれないと……困るよ……」
彼が素直に顔を上げるのを見届けると、ファイは再び腰を下ろしてふにゃりと笑った。
ずっと落ち込んだままの気持ちが少しだけ軽くなって、安堵から涙が滲む。
「よかった……オレ、黒たんに本当はずっと嫌われてたのかと思っちゃったから……そうじゃないって分かって、本当によかった……」
彼に不快な思いをさせていたわけではないと分かって、またこうして話ができるのが心の底から嬉しい。
まだほんの短い期間でしかないし、始まりは最悪な形ではあったけれど、黒鋼と過ごす時間はファイにとって大切なものだったから。
だからこそもう一つだけ、どうしても確認したいことがあった。
「オレ、まだ君の先生でいてもいい? ぜんぜん頼りないのは分かってるけど……これからもここに来ていいかな……?」
黒鋼は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにふっと口元を綻ばせる。
「!」
それを見た瞬間、ファイは胸が大きく高鳴るのを感じながら一気に頬を赤らめた。
父親とはまるで違う笑い方。似ているけれど、似ていない。
こちらの静かで優しい微笑みの方が好きだなと、純粋にそう感じた。
「おまえさえ良けりゃ、俺からも頼む」
頬がどうしようもないくらい熱を上げてゆく。いっそ湯気が出そうなくらい。
「ありがとう黒たん……オレ、今までよりもっと頑張るから! あ、そ、そうだ!」
ファイは高鳴る心臓の音と燃えるように熱い頬を誤魔化すように、慌てて話題を変えることにした。
「あの痴漢! 捕まったんだって! きっと同じ人だと思うんだー! だからもう電車に乗っても安全だよねー!」
黒鋼はひょい、と僅かに眉を上げた。
それから、またあのファイの心を乱す小さな笑みを浮かべると「そうだな」と言う。どことなく、満足気な表情にも見える。
耳まで赤くなるのを感じて、このままではのぼせ上がって倒れてしまうと思った。
(な、なんだろう今日は……なんでこんなにドキドキするのかな……黒たんが笑うから……?)
「あ、あの、ちょっとトイレ行ってくる……!」
いよいよいてもたってもいられなくなったファイは、咄嗟に立ち上がると黒鋼の返事も待たずにそそくさと部屋を出た。
***
「はー……どうにか治まったかも……」
両手で頬をパンパンと叩きながら、ファイは黒鋼の部屋へと続く廊下をノロノロと猫背で歩いていた。
普段は笑わない人間がああやって笑うと、こうも破壊力満点なのか。
「女の子相手だってあんなにドキドキしたことないよ……」
これではあちらの気があるのかと疑われても、仕方がないような……。
(でも黒たんにしか、こんな風になったことないし……)
自分で自分のことがさっぱり分からない。
ユゥイにでも相談してみたら、何か納得のいく答えが見つかるだろうか。
そんな考えを巡らせていると、ちょうど反対側から見慣れた着物姿の美女が、空の盆を持ってやって来た。
「あら先生。今お茶をお運びしたところですのよ」
「あ、すみません、いつも気を遣っていただいて……」
黒鋼の母は、黒地に椿をあしらった模様の着物をしっとりと着こなしている。
着るもの一つで四季折々の彩を味わうことが出来るのだから、本当に着物という文化は素晴らしいと、彼女と会うたび常々思う。
「いいえ。このぐらいしかお手伝いできませんから」
花のような可憐な笑顔で、彼女は口元に手を当てると「うふふ」と何か思い出したように笑い声を上げた。
「あの子ったら、先生が来る日はいつもなんとなく落ち着きがないんです」
「え?」
「きっと待ち遠しくて仕方がないのね。この間も、先生はお風邪を召されて来られないと言ったら、とっても怖い顔をして……」
「す、すみませんでした……」
「お身体はもう大丈夫ですか?」
はぁ、と冴えない返事をしながら、思わず萎縮してしまう。
まさか大事な息子さんにビンタをかまして逃走し、家で腐ってましたなどと言えるわけがない。
それにしてもあの黒鋼が落ち着きない、というのは想像しにくかった。その反面、くすぐったいような気持ちがこみ上げて、また少し顔が熱くなった。
照れ臭さに頭を掻いていると、黒鋼の母は両手をポンと合わせて「そういえば」と言った。
「ファイ先生、これからの季節は電車で来られるのでしょう?」
「はい。そのつもりですけど」
「じゃあもう安心ですわね。先生、とってもお綺麗だから、狙われてもおかしくありませんもの」
「き、きれい……?」
察するに、例の電車の痴漢について言っているらしい。
目の前の人間がすでに餌食にされたことなど知りもしない彼女は、どこか誇らしげな笑顔でさらに続けた。
「あの子、先生には報告されたのかしら?」
「へ?」
その後、彼女の口から驚くべき真実が明かされた。
***
「く、く、黒わんこぉぉ!!!」
黒鋼の母から話を聞いたファイは、半ば廊下を滑るようにして全速力で駆けて、思い切り部屋の襖を開けた。
「な、なんだ?」
先に参考書に目を通していた黒鋼が、とてつもない勢いで戻ってきたファイに肩を揺らす。
「黒たんっ! 黒たんのバカ!」
「ああ?」
その凄まじい剣幕に、彼は見るからに戸惑いの表情を浮かべた。
畳の目に添って滑るように近づいたファイは、四つん這いのような姿勢で彼に迫った。
「お、おい、一体どうした?」
「なんで……なんで言ってくれなかったの!?」
「?」
「痴漢、捕まえたの黒たんだって……!!」
←戻る ・ 次へ→
「ごめんなさい!」
「すまなかった」
顔を合わせた瞬間、互いが同時に頭を下げて謝罪の言葉を述べた。
重なり合った台詞に驚いて顔を上げれば、黒鋼もまた同じように目を見開いていた。
立ち尽くすファイと、胡坐をかいた膝をそれぞれ両手で掴んでいる黒鋼。
暫し見詰め合って、思わずぷっと吹き出す。
もっとも、笑ってしまったのはファイだけで、黒鋼は僅かに表情を和らげただけだったのだが。
「ほ、本当にごめんね……。あの、ほっぺた平気……?」
ファイは羽織っていたコートも脱がずに、カバンだけを投げ出して黒鋼の側まで寄った。
膝をついて、恐る恐る顔を覗きこむ。腫れてもいなければ、赤くもなっていないのを確認すると、力が抜けた。
向き合うようにしてペッタリと座り込んで、深く安堵の息を吐き出した。
「良かったー……」
「あんなへなちょこビンタぐれぇ、どうってことねぇよ」
「へ、へなちょこってー……オレなんかずっと手の平が痛くて……」
上目使いで睨みつけると、黒鋼があのファイの好きな困り顔でカリカリと耳の裏を掻いていた。
「だから悪かった。あれは……俺の失言だ」
ファイは首を緩く左右に振って微笑んだ。
「うぅん。だって本当のことだもん……。黒たんは何も間違ってないよ。誤解されても仕方ないことだし……」
「いや……そうじゃねぇんだ……」
「?」
黒鋼は珍しく歯切れの悪い物言いをした。酷く言いにくそうに、一つ咳払いをする。
ファイはただ小首を傾げて、彼の次の言葉を待つ以外になかった。
「言っちまったもんは取り返しがつかねぇことは分かってるが……あれは、ただの勢いってやつで……。あんときはどうかしてた」
「黒たん……?」
「それだけは言っときたかった」
本当にすまなかった。そう言って、彼はもう一度、勢いよく頭を下げた。
ファイは慌てて膝立ちになると、黒鋼の肩に触れてブンブンと首を振った。
普段のふてぶてしい態度しか知らないせいで、なんだかとても悪いことをさせているような気がしてならない。
「い、いいよもう! 頭上げてくれないと……困るよ……」
彼が素直に顔を上げるのを見届けると、ファイは再び腰を下ろしてふにゃりと笑った。
ずっと落ち込んだままの気持ちが少しだけ軽くなって、安堵から涙が滲む。
「よかった……オレ、黒たんに本当はずっと嫌われてたのかと思っちゃったから……そうじゃないって分かって、本当によかった……」
彼に不快な思いをさせていたわけではないと分かって、またこうして話ができるのが心の底から嬉しい。
まだほんの短い期間でしかないし、始まりは最悪な形ではあったけれど、黒鋼と過ごす時間はファイにとって大切なものだったから。
だからこそもう一つだけ、どうしても確認したいことがあった。
「オレ、まだ君の先生でいてもいい? ぜんぜん頼りないのは分かってるけど……これからもここに来ていいかな……?」
黒鋼は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにふっと口元を綻ばせる。
「!」
それを見た瞬間、ファイは胸が大きく高鳴るのを感じながら一気に頬を赤らめた。
父親とはまるで違う笑い方。似ているけれど、似ていない。
こちらの静かで優しい微笑みの方が好きだなと、純粋にそう感じた。
「おまえさえ良けりゃ、俺からも頼む」
頬がどうしようもないくらい熱を上げてゆく。いっそ湯気が出そうなくらい。
「ありがとう黒たん……オレ、今までよりもっと頑張るから! あ、そ、そうだ!」
ファイは高鳴る心臓の音と燃えるように熱い頬を誤魔化すように、慌てて話題を変えることにした。
「あの痴漢! 捕まったんだって! きっと同じ人だと思うんだー! だからもう電車に乗っても安全だよねー!」
黒鋼はひょい、と僅かに眉を上げた。
それから、またあのファイの心を乱す小さな笑みを浮かべると「そうだな」と言う。どことなく、満足気な表情にも見える。
耳まで赤くなるのを感じて、このままではのぼせ上がって倒れてしまうと思った。
(な、なんだろう今日は……なんでこんなにドキドキするのかな……黒たんが笑うから……?)
「あ、あの、ちょっとトイレ行ってくる……!」
いよいよいてもたってもいられなくなったファイは、咄嗟に立ち上がると黒鋼の返事も待たずにそそくさと部屋を出た。
***
「はー……どうにか治まったかも……」
両手で頬をパンパンと叩きながら、ファイは黒鋼の部屋へと続く廊下をノロノロと猫背で歩いていた。
普段は笑わない人間がああやって笑うと、こうも破壊力満点なのか。
「女の子相手だってあんなにドキドキしたことないよ……」
これではあちらの気があるのかと疑われても、仕方がないような……。
(でも黒たんにしか、こんな風になったことないし……)
自分で自分のことがさっぱり分からない。
ユゥイにでも相談してみたら、何か納得のいく答えが見つかるだろうか。
そんな考えを巡らせていると、ちょうど反対側から見慣れた着物姿の美女が、空の盆を持ってやって来た。
「あら先生。今お茶をお運びしたところですのよ」
「あ、すみません、いつも気を遣っていただいて……」
黒鋼の母は、黒地に椿をあしらった模様の着物をしっとりと着こなしている。
着るもの一つで四季折々の彩を味わうことが出来るのだから、本当に着物という文化は素晴らしいと、彼女と会うたび常々思う。
「いいえ。このぐらいしかお手伝いできませんから」
花のような可憐な笑顔で、彼女は口元に手を当てると「うふふ」と何か思い出したように笑い声を上げた。
「あの子ったら、先生が来る日はいつもなんとなく落ち着きがないんです」
「え?」
「きっと待ち遠しくて仕方がないのね。この間も、先生はお風邪を召されて来られないと言ったら、とっても怖い顔をして……」
「す、すみませんでした……」
「お身体はもう大丈夫ですか?」
はぁ、と冴えない返事をしながら、思わず萎縮してしまう。
まさか大事な息子さんにビンタをかまして逃走し、家で腐ってましたなどと言えるわけがない。
それにしてもあの黒鋼が落ち着きない、というのは想像しにくかった。その反面、くすぐったいような気持ちがこみ上げて、また少し顔が熱くなった。
照れ臭さに頭を掻いていると、黒鋼の母は両手をポンと合わせて「そういえば」と言った。
「ファイ先生、これからの季節は電車で来られるのでしょう?」
「はい。そのつもりですけど」
「じゃあもう安心ですわね。先生、とってもお綺麗だから、狙われてもおかしくありませんもの」
「き、きれい……?」
察するに、例の電車の痴漢について言っているらしい。
目の前の人間がすでに餌食にされたことなど知りもしない彼女は、どこか誇らしげな笑顔でさらに続けた。
「あの子、先生には報告されたのかしら?」
「へ?」
その後、彼女の口から驚くべき真実が明かされた。
***
「く、く、黒わんこぉぉ!!!」
黒鋼の母から話を聞いたファイは、半ば廊下を滑るようにして全速力で駆けて、思い切り部屋の襖を開けた。
「な、なんだ?」
先に参考書に目を通していた黒鋼が、とてつもない勢いで戻ってきたファイに肩を揺らす。
「黒たんっ! 黒たんのバカ!」
「ああ?」
その凄まじい剣幕に、彼は見るからに戸惑いの表情を浮かべた。
畳の目に添って滑るように近づいたファイは、四つん這いのような姿勢で彼に迫った。
「お、おい、一体どうした?」
「なんで……なんで言ってくれなかったの!?」
「?」
「痴漢、捕まえたの黒たんだって……!!」
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第九話『携帯』
火曜日。
ファイは風邪を引いたと言って、その日のバイトを休んだ。
あながち嘘というわけではない。あの夜の出来事が関係しているかは分からないが、体調は最悪だった。
熱は怖くて測っていないが、身体全体がだるくて食欲が湧かない。それに加えて頭痛が酷かった。
ユゥイが心配して消化にいいものを作ってくれても、せいぜい薬を飲むためにほんの数口だけ口に運んで、あとは残してしまった。
すっかり気温が下がってからも、思いのほか自転車での移動が気に入ってしまったファイは、電車を利用していなかった。
考えられるとすれば、それが原因かもしれない。
***
明けて水曜日、ファイは大学にすら行く気になれず、リビングに毛布を持参してそれにくるまると、ソファにごろ寝しながら昼間のバラエティ番組をぼんやりと見つめていた。
テレビの中でお笑い芸人が身振り手振りで面白おかしい話をし、共演者やスタジオ全体が笑いに包まれても、ファイはただその映像を瞳に映しているだけで、何の感情も湧くことはなかった。
一人でいると、口から吐き出されるのは熱を帯びた溜息ばかり。
幾度目になるか分からないそれを、ファイは翳した右の手の平に向けて放った。
あの夜から、ずっとここは熱を持ったままだった。誰かを衝動的に殴るなんて、生まれて初めての経験だった。
「黒たん……許してくれないだろうな……」
ポツリと呟くと、もういい加減枯れてもいいくらいに泣きはらしたはずの瞳に涙が滲む。
黒鋼の赤くなった頬と、あの鋭い眼光を同時に思い出し、ファイは毛布でごしごしと両目を拭った。
(なんであんなことしちゃったんだろう……黒たんは悪くないよ……。だって黒たんが言ったことは、本当のことだもん……)
言われても仕方のないことだった。自分でもそう思っている。
いくら気を紛らわすだめだったとはいえ、どんなに妄想で補おうとしたって無理がありすぎる状況だった。
「でもオレ……男の人を好きになんか、なったことないよ……」
それでも黒鋼には誤解されていた。
ファイがヘラヘラとお喋りに夢中になっていたときも、勉強を教えているときも、彼は本当はいつもそういう目でこちらを見ていたのかもしれない。
『そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ』
冷たい表情と、突き放した棘のある言葉。
思い出すだけで怖くて、恥ずかしくて、自分がしでかしたことに身体が震えた。
多分、もう駄目だろうと思った。
勝手にはしゃいで仲良くなれたと勘違いして、気を遣ってくれているだけの相手に図々しく接して。
あげく、頭に来たからといって手まで上げてしまった。
「やっぱりオレって最低だなぁ……」
ただちょっとだけ、黒鋼の父のことは素敵だと思った。
けれどそれは、きっと黒鋼もこんな風に大人になるのだと思ったからで。家族と黒鋼が、どんな風に会話をしたり、どんな風に一緒の時間を過ごすのかが、気になったからで。
ファイはだるい身体を起こすと、ソファの脇に放り投げられていた携帯電話を拾い上げた。
点滅する小さなランプが、新着メールの有無を知らせている。
ぼんやりとそれを開いて見ると、幾つかは同じ大学の友人からの見舞いのメールと、ユゥイからは食事をちゃんとするようにという内容のものだった。
そして最後の一つ、差出人の名前を見て、ファイはドキリと心臓を高鳴らせた。
「黒たんから……?」
彼とは以前、ファイが寝坊して遅刻したときに個人的な連絡先を交換していた。
何かあったときは家にではなく、直接知らせろと言われたからだ。
ファイからは幾度かどうでもいい内容のメールを送ったことはあったが、黒鋼からの返信があった試しはない。
今回の身体の不調による休みの連絡は自宅の方に入れた。こちらからはとてもではないが、黒鋼に直で連絡を入れるなんて真似は出来なかった。
それが、どうして今……。
「め、メールで……クビ宣告……?」
予想できる内容はそれしか思い浮かばない。
こんな俄か家庭教師ごときが、そのバイト先であるお金持ちの家のお坊ちゃんに手を上げて、無事で済むはずがなかった。
口の中がカラカラに乾く。指先も震えて、携帯電話を落としそうになるのを両手でしっかりと持った。
すぐにメールを開く勇気が持てなくて、幾度か深呼吸をする。
ごくりと喉を鳴らすと「えいっ」という掛け声と共にぎゅっと目を閉じ、ボタンを押した。
そっと目を開く。そして、内容に目を通した。
差出人:黒わんこ
件名:non title
本文:
話がある。
来れそうだったら次は来い。
「はなし……」
ずしりと、さらに胸に重いものが圧し掛かったような感覚を覚える。
あんなことさえなければ、黒鋼から初めてメールをもらえたことを飛び跳ねて喜んでいたのかもしれない。
ファイは、これまでで一番大きくて深い溜息を零しながらテーブルに突っ伏した。
***
「おはようファイ。調子はどう?」
自室からリビングへ出ると、ユゥイがテーブルに広げていた新聞から顔を上げて、優しく微笑んだ。
「うん……もう平気ー」
「すぐ紅茶を淹れるね。ご飯は食べられそう?」
「……ごめん。ご飯はまだいいや……」
寝癖もそのままに力なく椅子に腰掛けると、ユゥイがキッチンへ向かうがてらファイの額に触れる。
ひんやりとした柔らかな感触が心地いい。
「熱はないんだけど……まだ顔色が悪いね……」
果物でもいいから食べてと、そう言いながらユゥイが側から離れると、ファイは手にしていた携帯を開き、再び黒鋼からのメールを見つめた。
今日は金曜日。来いと言われた以上、流石にサボるわけにもいかない。学校だっていつまでも休んではいられない。
「あ、そうだ。あのね、さっき新聞で見たんだけど」
こちらに背を向けたまま果物の皮を剥いているらしいユゥイが、手元からは目を離さずに話題を切り出した。
ファイは携帯をパチンと閉じて、キッチンの方に目を向ける。
「男の子ばかり狙って痴漢をしてた犯人がね、この近くの駅で捕まったんだって。もしかしたら、ファイに痴漢した人と一緒かもしれないね」
「……へぇ。そうなんだー」
男を相手に痴漢を働く人間が、そうそういては困りものだ。
それは女性が相手であっても同じだが、確率的にいえばあの時の男が捕まったと考えるのは、自然なことかもしれない。
「もう寒いし、そろそろ電車を使った方がいいんじゃないかな? ねぇ、ファイ」
「うん……そうだね……」
どうせあの路線に乗るのは今日で最後になる。
気分も身体も重たいが、逃げてばかりもいられない。いい加減、腹を括ろう。
ファイはぎゅっと拳を握って思い切り深呼吸すると、ユゥイが剥いてきたリンゴと紅茶を残さず腹に収めた。
←戻る ・ 次へ→
火曜日。
ファイは風邪を引いたと言って、その日のバイトを休んだ。
あながち嘘というわけではない。あの夜の出来事が関係しているかは分からないが、体調は最悪だった。
熱は怖くて測っていないが、身体全体がだるくて食欲が湧かない。それに加えて頭痛が酷かった。
ユゥイが心配して消化にいいものを作ってくれても、せいぜい薬を飲むためにほんの数口だけ口に運んで、あとは残してしまった。
すっかり気温が下がってからも、思いのほか自転車での移動が気に入ってしまったファイは、電車を利用していなかった。
考えられるとすれば、それが原因かもしれない。
***
明けて水曜日、ファイは大学にすら行く気になれず、リビングに毛布を持参してそれにくるまると、ソファにごろ寝しながら昼間のバラエティ番組をぼんやりと見つめていた。
テレビの中でお笑い芸人が身振り手振りで面白おかしい話をし、共演者やスタジオ全体が笑いに包まれても、ファイはただその映像を瞳に映しているだけで、何の感情も湧くことはなかった。
一人でいると、口から吐き出されるのは熱を帯びた溜息ばかり。
幾度目になるか分からないそれを、ファイは翳した右の手の平に向けて放った。
あの夜から、ずっとここは熱を持ったままだった。誰かを衝動的に殴るなんて、生まれて初めての経験だった。
「黒たん……許してくれないだろうな……」
ポツリと呟くと、もういい加減枯れてもいいくらいに泣きはらしたはずの瞳に涙が滲む。
黒鋼の赤くなった頬と、あの鋭い眼光を同時に思い出し、ファイは毛布でごしごしと両目を拭った。
(なんであんなことしちゃったんだろう……黒たんは悪くないよ……。だって黒たんが言ったことは、本当のことだもん……)
言われても仕方のないことだった。自分でもそう思っている。
いくら気を紛らわすだめだったとはいえ、どんなに妄想で補おうとしたって無理がありすぎる状況だった。
「でもオレ……男の人を好きになんか、なったことないよ……」
それでも黒鋼には誤解されていた。
ファイがヘラヘラとお喋りに夢中になっていたときも、勉強を教えているときも、彼は本当はいつもそういう目でこちらを見ていたのかもしれない。
『そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ』
冷たい表情と、突き放した棘のある言葉。
思い出すだけで怖くて、恥ずかしくて、自分がしでかしたことに身体が震えた。
多分、もう駄目だろうと思った。
勝手にはしゃいで仲良くなれたと勘違いして、気を遣ってくれているだけの相手に図々しく接して。
あげく、頭に来たからといって手まで上げてしまった。
「やっぱりオレって最低だなぁ……」
ただちょっとだけ、黒鋼の父のことは素敵だと思った。
けれどそれは、きっと黒鋼もこんな風に大人になるのだと思ったからで。家族と黒鋼が、どんな風に会話をしたり、どんな風に一緒の時間を過ごすのかが、気になったからで。
ファイはだるい身体を起こすと、ソファの脇に放り投げられていた携帯電話を拾い上げた。
点滅する小さなランプが、新着メールの有無を知らせている。
ぼんやりとそれを開いて見ると、幾つかは同じ大学の友人からの見舞いのメールと、ユゥイからは食事をちゃんとするようにという内容のものだった。
そして最後の一つ、差出人の名前を見て、ファイはドキリと心臓を高鳴らせた。
「黒たんから……?」
彼とは以前、ファイが寝坊して遅刻したときに個人的な連絡先を交換していた。
何かあったときは家にではなく、直接知らせろと言われたからだ。
ファイからは幾度かどうでもいい内容のメールを送ったことはあったが、黒鋼からの返信があった試しはない。
今回の身体の不調による休みの連絡は自宅の方に入れた。こちらからはとてもではないが、黒鋼に直で連絡を入れるなんて真似は出来なかった。
それが、どうして今……。
「め、メールで……クビ宣告……?」
予想できる内容はそれしか思い浮かばない。
こんな俄か家庭教師ごときが、そのバイト先であるお金持ちの家のお坊ちゃんに手を上げて、無事で済むはずがなかった。
口の中がカラカラに乾く。指先も震えて、携帯電話を落としそうになるのを両手でしっかりと持った。
すぐにメールを開く勇気が持てなくて、幾度か深呼吸をする。
ごくりと喉を鳴らすと「えいっ」という掛け声と共にぎゅっと目を閉じ、ボタンを押した。
そっと目を開く。そして、内容に目を通した。
差出人:黒わんこ
件名:non title
本文:
話がある。
来れそうだったら次は来い。
「はなし……」
ずしりと、さらに胸に重いものが圧し掛かったような感覚を覚える。
あんなことさえなければ、黒鋼から初めてメールをもらえたことを飛び跳ねて喜んでいたのかもしれない。
ファイは、これまでで一番大きくて深い溜息を零しながらテーブルに突っ伏した。
***
「おはようファイ。調子はどう?」
自室からリビングへ出ると、ユゥイがテーブルに広げていた新聞から顔を上げて、優しく微笑んだ。
「うん……もう平気ー」
「すぐ紅茶を淹れるね。ご飯は食べられそう?」
「……ごめん。ご飯はまだいいや……」
寝癖もそのままに力なく椅子に腰掛けると、ユゥイがキッチンへ向かうがてらファイの額に触れる。
ひんやりとした柔らかな感触が心地いい。
「熱はないんだけど……まだ顔色が悪いね……」
果物でもいいから食べてと、そう言いながらユゥイが側から離れると、ファイは手にしていた携帯を開き、再び黒鋼からのメールを見つめた。
今日は金曜日。来いと言われた以上、流石にサボるわけにもいかない。学校だっていつまでも休んではいられない。
「あ、そうだ。あのね、さっき新聞で見たんだけど」
こちらに背を向けたまま果物の皮を剥いているらしいユゥイが、手元からは目を離さずに話題を切り出した。
ファイは携帯をパチンと閉じて、キッチンの方に目を向ける。
「男の子ばかり狙って痴漢をしてた犯人がね、この近くの駅で捕まったんだって。もしかしたら、ファイに痴漢した人と一緒かもしれないね」
「……へぇ。そうなんだー」
男を相手に痴漢を働く人間が、そうそういては困りものだ。
それは女性が相手であっても同じだが、確率的にいえばあの時の男が捕まったと考えるのは、自然なことかもしれない。
「もう寒いし、そろそろ電車を使った方がいいんじゃないかな? ねぇ、ファイ」
「うん……そうだね……」
どうせあの路線に乗るのは今日で最後になる。
気分も身体も重たいが、逃げてばかりもいられない。いい加減、腹を括ろう。
ファイはぎゅっと拳を握って思い切り深呼吸すると、ユゥイが剥いてきたリンゴと紅茶を残さず腹に収めた。
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第八話『一号』
「おお、例の先生か! よく来てくれた!」
金曜日。
出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。
ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。
こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。
「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」
「い、いいえ!」
彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。
違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。
当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。
この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。
黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。
本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。
「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」
「あ、いえいえ、お構いなくー」
黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。
こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。
あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。
(ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー)
一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。
寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。
「どうだ先生、俺の息子は」
「…………ふえ?」
数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。
「ん? どうかしたか?」
「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」
ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。
「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」
「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」
そう言うと、一号は声を上げて笑った。
普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。
「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。
***
季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。
最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。
それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。
「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」
一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。
「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」
物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。
「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」
見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう?
黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。
「ねぇねぇ黒様ってばー」
矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。
それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。
「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」
文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。
一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。
「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」
傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。
黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。
だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。
俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。
そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。
「……おまえ、ああいうのが好みか」
「へ?」
思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。
「好みってー?」
「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」
ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。
「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」
思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。
態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。
もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。
ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。
また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。
次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。
「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。
それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。
ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。
「それ、どういう意味……?」
茫然と呟いた声が意図せず震えていた。
黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。
「……言った意味そのまんまだろ」
「……っ!!」
ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。
見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。
何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。
やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。
みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。
思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。
おそらく、このままでは泣いてしまう。
「ごめん……。オレ、帰る……」
鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。
ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。
ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。
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「おお、例の先生か! よく来てくれた!」
金曜日。
出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。
ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。
こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。
「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」
「い、いいえ!」
彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。
違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。
当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。
この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。
黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。
本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。
「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」
「あ、いえいえ、お構いなくー」
黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。
こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。
あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。
(ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー)
一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。
寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。
「どうだ先生、俺の息子は」
「…………ふえ?」
数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。
「ん? どうかしたか?」
「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」
ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。
「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」
「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」
そう言うと、一号は声を上げて笑った。
普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。
「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。
***
季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。
最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。
それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。
「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」
一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。
「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」
物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。
「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」
見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう?
黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。
「ねぇねぇ黒様ってばー」
矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。
それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。
「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」
文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。
一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。
「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」
傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。
黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。
だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。
俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。
そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。
「……おまえ、ああいうのが好みか」
「へ?」
思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。
「好みってー?」
「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」
ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。
「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」
思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。
態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。
もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。
ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。
また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。
次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。
「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。
それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。
ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。
「それ、どういう意味……?」
茫然と呟いた声が意図せず震えていた。
黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。
「……言った意味そのまんまだろ」
「……っ!!」
ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。
見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。
何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。
やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。
みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。
思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。
おそらく、このままでは泣いてしまう。
「ごめん……。オレ、帰る……」
鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。
ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。
ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。
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第七話『予感』
あれはいつのことだったろうか。
幾度となく繰り返しすぎて、もういちいち覚えているのもバカバカしい。
バイト先のカフェに、兄が最近付き合いはじめた彼女を連れてやって来た。
その女性を見て、ユゥイはニコリと微笑みながら心の中ではこっそり引いたのを覚えている。
異様に長すぎるつけ睫毛に、汗で崩れかかった濃いメイクと、目のやり場に困るほど胸元が開ききったノースリーブのミニワンピ。
一目で安物と分かるミュールが奏でる甲高い音が、静かな店内に雑音として響き渡った。
軽い挨拶を交わし、あくまでも社交辞令で「兄をよろしく」なんて心にもないことを言って。
ちょうど店内が込み合っていたことを理由にその場を離れ、黙々と仕事をこなしていたユゥイは、幾度も彼女の視線を感じた。
楽しそうに喋るファイに一応は相槌くらいは返しているようだが、意識は完全にこちらに向いている。
あえて真っ直ぐ見返し微笑んでやれば、彼女は一瞬肩を揺らし、赤く染まった目元を逸らした。
帰り際、会計を済ませているファイが気付かぬ間に、女はユゥイに連絡先を走り書きしたメモをこっそりと寄こした。
兄と自分は双子だが、纏う雰囲気が全く異なることは知っている。
そしてこういうことは、実はこれが初めてではない。
勘弁してくれよと内心鼻で笑いながら、ユゥイは確信していた。
今度の女もハズレか、と。
***
色々とゴタゴタはあったようだが、あれから一ヶ月。
ファイは家庭教師のバイト先の生徒とうまくやっているようだった。
帰宅後にお茶をしたり、空腹であれば軽食を取ったりしながら、いつも楽しげに彼とのことを話してくれる姿を見て、ユゥイはほっと胸を撫で下ろしていた。
夏休み前にそれまで付き合っていた彼女と別れて、休み中は毎日ほとんど休みなくバイトに没頭していたファイは、それが明けると廃人のようにぼんやりしていることが多かった。
気分転換になればと思い、たまたま常連客の女性との世間話の中で、彼女が息子の家庭教師を探していると話していたのを思い出し、それぞれに打診してみた。
その結果スムーズに事が運んだまではよかった。
が、ファイは初日にあらゆる意味で散々な目に遭ったらしい。
紹介した身としてはなんだか申し訳なくて、兄の精神面や向こうの息子の心境を思うと、こちらから早々に断りの連絡を入れるべきかと思っていた。
結果的に常連を失ったとしても、下手をすればそれによって自分がバイト先をクビになったとしても、優先すべきは可愛い兄の方だったからだ。
けれどファイは逃げることなくバイトを続けるために、自転車まで購入した。やはり、中途半端で投げ出すことはどうしても出来なかったらしい。
兄は少々甘えん坊で頼りない部分もあるが、あれで案外意思が強い。
へにゃへにゃしているので不真面目に見られることも多いようだが、彼はしっかりと中に一本芯の通った、誠実な人間だった。
それでもやはり、彼は主に恋愛面において誤解されることが多いらしい。
つい先日まで付き合っている彼女との惚気話をしていたかと思えば、それからたった数日後にはどんよりと沈んでいることがある。
破壊的なまでに女運がなさすぎると言えばそれまでだが、果たして兄の女性を見る目が悪いのか、それとも相手の目が性根ごと腐っているのか。
ユゥイとしては、その両方な気がしてならなかった。
恋愛を遊びやファッションの一部としてしか捉えていない人間は確かに存在して、ファイが捕まえてくる女はハッキリ言ってそういう人種ばかりだ。
容姿に優れていてノリがよければ、おのずと目立ってそういう輩が近づきやすい。
まるで光にたかる虫だ。
ユゥイはそれこそ虫も殺せぬような顔をしながらそう思う。
そしてそういった虫たちは、総じて飽きっぽく目移りが激しい。軽そうに見えて実は一途で愛情深いファイが、だんだん鬱陶しくなるのかもしれない。
浮気されればされたで目くじらを立てるくせに、深く気持ちを注げばそれを束縛と捉えて煙たがる。
だいたい、ファイもファイだ。
いつだって相手は慎重に選べと口が酸っぱくなるほど注意しているのに、その場のフィーリングだけで誰にでもすぐに懐いてしまうのは考え物だ。
もちろんそれが同時に彼の美点であることも承知した上で、弟としては胃に穴が開く思いだった。
だが本音を言えば、ファイが誰かに夢中になっているのを見ているのは、少し辛かったりもする。
要するにユゥイは思いっきり兄離れが出来ていないブラコンだった。
なので彼がフリーでいることは正直喜ばしいことだが、最近はその話題を全て黒鋼が独占しているような気がしてならない。
楽しくやっているのはユゥイとしても嬉しいけれど、なんとなく複雑だった。
「あのねーユゥイー、今日ねー、黒たんがー」
いつの間に渾名などで呼ぶようになったのか……。
そんなユゥイの気持ちなど知るよしもなく、ファイが上機嫌で語り出した内容は、以下である。
***
学校が終わってから真っ直ぐ帰宅して、まだ時間があるからとソファに寝転んだのが不味かった。
ちょっとの仮眠のはずが、気づけば家を出ていなければならない時間をとっくに過ぎていた。
これから準備をして全力で自転車を漕いだとしても、とてもではないが間に合いそうもない。
とりあえずは大慌てで寝癖を直したり準備をしたりして、やむなく駅へと全力で走って向かった。
黒鋼と打ち解けてからも、やはり電車は苦手だったけれど、遅刻をするよりはずっといい。
最近は時間よりも早くに行って、お茶をしながら色々なことを話すのが日課にもなっていた。
一方的に喋るのはファイの方だが、もともと無口な彼は聞き上手でもある。そして嫌なものは嫌と言うはっきりした性格でもあるので、そんな彼が何も言わないところを見るとついつい調子に乗って喋りすぎてしまう。
今日はそんな時間が取れなかったな、と思うと少し残念でもあった。
電車から降りて速攻で駅を出ると、さらに走った。
途中で躓いて転びそうになりながらも、チラリと時計を見やれば八時をとうに過ぎていて、ファイは情けない声で叫ぶ。
「うわー! もう最悪だよぉー!!」
それは自業自得なのだが、それによって迷惑をかけた挙句、信用を失くしてしまうかと思うと泣きたくなった。
やがて閑静な住宅街にたどり着いて、その頃にはもうすっかり肺が悲鳴を上げていた。
ゼェゼェと呼吸を乱し、胸元をぎゅっと押さえながら顔を上げる。
すると、前方にある門の前に人影が見えた。
「あ!」
思わず声を上げると、腕を組んでいたらしい影がピクリと反応する。
よろよろと走るファイに顔を上げたのは、教え子である黒鋼だった。
外灯の下、その表情は怒っているように見える。いや、実際に怒っているのだとは思うが。
「ご、ごめ、遅刻しちゃった……」
「そいつはいいが……何かあったのか……?」
「え?」
間近に向かいあった黒鋼は、僅かに身を屈めるようにしてファイの顔を覗きこんできた。思わず小首を傾げる。
「怒ってない?」
「別に怒っちゃいねぇが」
「よ、よかったー……。ちょっと居眠りして起きたら、もう七時半でー……」
「おまえ、電車で来たのか……?」
「あ、うん」
こっくりと頷くと、黒鋼は思い切り怖い顔をして、眉間の皺をさらに深くした。
「や、やっぱり怒ってるー!」
「だから怒ってねぇ! ただ……」
「?」
酷く言いにくそうにそっぽを向いて、黒鋼はボリボリと指先で頬を掻いた。
「……平気だったのか」
「え?」
なにが、と問い返そうとして、もしやと思った。
「もしかして、心配してくれてる?」
「あ!?」
薄ぼんやりとした外灯の下でも分かるほど、黒鋼は表情を赤らめた。
その珍しい光景に、ファイは信じられないものを見るような目で彼を見た。
「馬鹿か! なんで俺が!?」
「だってー、今だってわざわざ外で待っててくれたりして……」
「勘違いすんな!! たまたまだ! てめぇがなかなか来やがらねぇから、暇つぶしに食後の運動をだな!!」
「ふーん……そうなんだー」
にんまりと笑って上目使いで見ると、黒鋼は恐ろしい形相で「うるせぇ!!」と怒鳴り、先にズカズカと門の奥へと消えてしまった。
なんだか胸の中がむず痒くて、火が灯ったように温かかった。
最初は絡みにくい相手だとばかり思っていたのが嘘のように、最近では意地っ張りな黒鋼のことが分かるようになってきた気がする。
「素直じゃないとこが可愛いんだよねー……」
ファイはニヤけた顔を隠しもせず、その背に続いて門を潜った。
***
「って、ゆーことがあったんだー」
「ふぅん……」
兄はソファに深く腰掛けたまま、クッションを抱きしめてそれにグリグリと頬擦りをした。
「可愛いよねー! すっごい意地っ張りだけど、そこがたまんないよー! オレが来るの遅いからってわざわざ外に出て待っててくれたんだよー? 電車に乗ってまた変なのに襲われなかったかって、そこも心配してくれてさー」
ファイの頬がほんのりと薄紅に染まっているのを見て、ユゥイは複雑を通り越して不穏な予感がした。
黒鋼が彼を気遣い、心配してくれるのはありがたい。だがそんな黒鋼を語るときのファイは、彼女の惚気話をしていた姿とよく似ている。
もしくは、それ以上に……。
「ねぇファイ……?」
「んー? なぁにー?」
「一応言っておくけど……」
きょとん、という顔をしてクッションから顔を上げた兄に、弟は言った。
「高校生の、しかも男の子なんかたぶらかしちゃダメだよ……?」
「!?」
絶句したファイは、なぜか耳まで真っ赤に染めて、抱きしめていたクッションを後方に放り投げた。
「な、なに変なこと言ってんの!? そんなことするわけないでしょ!!」
手足をジタバタとさせて、大慌てで否定していたファイは、勢いでローテーブルの縁に足先をぶつけた。
ガンッと音がして、大きく傾いだカップから紅茶が零れる。
「い、いったーい!!」
「もうー……ファイってば……」
「ゆ、ユゥイが変なこと言うからだよー!!」
なおも真っ赤な顔で叫ぶファイを見て、ユゥイは今後についての不安がどうしようもなく膨らんでゆくのを感じていた。
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あれはいつのことだったろうか。
幾度となく繰り返しすぎて、もういちいち覚えているのもバカバカしい。
バイト先のカフェに、兄が最近付き合いはじめた彼女を連れてやって来た。
その女性を見て、ユゥイはニコリと微笑みながら心の中ではこっそり引いたのを覚えている。
異様に長すぎるつけ睫毛に、汗で崩れかかった濃いメイクと、目のやり場に困るほど胸元が開ききったノースリーブのミニワンピ。
一目で安物と分かるミュールが奏でる甲高い音が、静かな店内に雑音として響き渡った。
軽い挨拶を交わし、あくまでも社交辞令で「兄をよろしく」なんて心にもないことを言って。
ちょうど店内が込み合っていたことを理由にその場を離れ、黙々と仕事をこなしていたユゥイは、幾度も彼女の視線を感じた。
楽しそうに喋るファイに一応は相槌くらいは返しているようだが、意識は完全にこちらに向いている。
あえて真っ直ぐ見返し微笑んでやれば、彼女は一瞬肩を揺らし、赤く染まった目元を逸らした。
帰り際、会計を済ませているファイが気付かぬ間に、女はユゥイに連絡先を走り書きしたメモをこっそりと寄こした。
兄と自分は双子だが、纏う雰囲気が全く異なることは知っている。
そしてこういうことは、実はこれが初めてではない。
勘弁してくれよと内心鼻で笑いながら、ユゥイは確信していた。
今度の女もハズレか、と。
***
色々とゴタゴタはあったようだが、あれから一ヶ月。
ファイは家庭教師のバイト先の生徒とうまくやっているようだった。
帰宅後にお茶をしたり、空腹であれば軽食を取ったりしながら、いつも楽しげに彼とのことを話してくれる姿を見て、ユゥイはほっと胸を撫で下ろしていた。
夏休み前にそれまで付き合っていた彼女と別れて、休み中は毎日ほとんど休みなくバイトに没頭していたファイは、それが明けると廃人のようにぼんやりしていることが多かった。
気分転換になればと思い、たまたま常連客の女性との世間話の中で、彼女が息子の家庭教師を探していると話していたのを思い出し、それぞれに打診してみた。
その結果スムーズに事が運んだまではよかった。
が、ファイは初日にあらゆる意味で散々な目に遭ったらしい。
紹介した身としてはなんだか申し訳なくて、兄の精神面や向こうの息子の心境を思うと、こちらから早々に断りの連絡を入れるべきかと思っていた。
結果的に常連を失ったとしても、下手をすればそれによって自分がバイト先をクビになったとしても、優先すべきは可愛い兄の方だったからだ。
けれどファイは逃げることなくバイトを続けるために、自転車まで購入した。やはり、中途半端で投げ出すことはどうしても出来なかったらしい。
兄は少々甘えん坊で頼りない部分もあるが、あれで案外意思が強い。
へにゃへにゃしているので不真面目に見られることも多いようだが、彼はしっかりと中に一本芯の通った、誠実な人間だった。
それでもやはり、彼は主に恋愛面において誤解されることが多いらしい。
つい先日まで付き合っている彼女との惚気話をしていたかと思えば、それからたった数日後にはどんよりと沈んでいることがある。
破壊的なまでに女運がなさすぎると言えばそれまでだが、果たして兄の女性を見る目が悪いのか、それとも相手の目が性根ごと腐っているのか。
ユゥイとしては、その両方な気がしてならなかった。
恋愛を遊びやファッションの一部としてしか捉えていない人間は確かに存在して、ファイが捕まえてくる女はハッキリ言ってそういう人種ばかりだ。
容姿に優れていてノリがよければ、おのずと目立ってそういう輩が近づきやすい。
まるで光にたかる虫だ。
ユゥイはそれこそ虫も殺せぬような顔をしながらそう思う。
そしてそういった虫たちは、総じて飽きっぽく目移りが激しい。軽そうに見えて実は一途で愛情深いファイが、だんだん鬱陶しくなるのかもしれない。
浮気されればされたで目くじらを立てるくせに、深く気持ちを注げばそれを束縛と捉えて煙たがる。
だいたい、ファイもファイだ。
いつだって相手は慎重に選べと口が酸っぱくなるほど注意しているのに、その場のフィーリングだけで誰にでもすぐに懐いてしまうのは考え物だ。
もちろんそれが同時に彼の美点であることも承知した上で、弟としては胃に穴が開く思いだった。
だが本音を言えば、ファイが誰かに夢中になっているのを見ているのは、少し辛かったりもする。
要するにユゥイは思いっきり兄離れが出来ていないブラコンだった。
なので彼がフリーでいることは正直喜ばしいことだが、最近はその話題を全て黒鋼が独占しているような気がしてならない。
楽しくやっているのはユゥイとしても嬉しいけれど、なんとなく複雑だった。
「あのねーユゥイー、今日ねー、黒たんがー」
いつの間に渾名などで呼ぶようになったのか……。
そんなユゥイの気持ちなど知るよしもなく、ファイが上機嫌で語り出した内容は、以下である。
***
学校が終わってから真っ直ぐ帰宅して、まだ時間があるからとソファに寝転んだのが不味かった。
ちょっとの仮眠のはずが、気づけば家を出ていなければならない時間をとっくに過ぎていた。
これから準備をして全力で自転車を漕いだとしても、とてもではないが間に合いそうもない。
とりあえずは大慌てで寝癖を直したり準備をしたりして、やむなく駅へと全力で走って向かった。
黒鋼と打ち解けてからも、やはり電車は苦手だったけれど、遅刻をするよりはずっといい。
最近は時間よりも早くに行って、お茶をしながら色々なことを話すのが日課にもなっていた。
一方的に喋るのはファイの方だが、もともと無口な彼は聞き上手でもある。そして嫌なものは嫌と言うはっきりした性格でもあるので、そんな彼が何も言わないところを見るとついつい調子に乗って喋りすぎてしまう。
今日はそんな時間が取れなかったな、と思うと少し残念でもあった。
電車から降りて速攻で駅を出ると、さらに走った。
途中で躓いて転びそうになりながらも、チラリと時計を見やれば八時をとうに過ぎていて、ファイは情けない声で叫ぶ。
「うわー! もう最悪だよぉー!!」
それは自業自得なのだが、それによって迷惑をかけた挙句、信用を失くしてしまうかと思うと泣きたくなった。
やがて閑静な住宅街にたどり着いて、その頃にはもうすっかり肺が悲鳴を上げていた。
ゼェゼェと呼吸を乱し、胸元をぎゅっと押さえながら顔を上げる。
すると、前方にある門の前に人影が見えた。
「あ!」
思わず声を上げると、腕を組んでいたらしい影がピクリと反応する。
よろよろと走るファイに顔を上げたのは、教え子である黒鋼だった。
外灯の下、その表情は怒っているように見える。いや、実際に怒っているのだとは思うが。
「ご、ごめ、遅刻しちゃった……」
「そいつはいいが……何かあったのか……?」
「え?」
間近に向かいあった黒鋼は、僅かに身を屈めるようにしてファイの顔を覗きこんできた。思わず小首を傾げる。
「怒ってない?」
「別に怒っちゃいねぇが」
「よ、よかったー……。ちょっと居眠りして起きたら、もう七時半でー……」
「おまえ、電車で来たのか……?」
「あ、うん」
こっくりと頷くと、黒鋼は思い切り怖い顔をして、眉間の皺をさらに深くした。
「や、やっぱり怒ってるー!」
「だから怒ってねぇ! ただ……」
「?」
酷く言いにくそうにそっぽを向いて、黒鋼はボリボリと指先で頬を掻いた。
「……平気だったのか」
「え?」
なにが、と問い返そうとして、もしやと思った。
「もしかして、心配してくれてる?」
「あ!?」
薄ぼんやりとした外灯の下でも分かるほど、黒鋼は表情を赤らめた。
その珍しい光景に、ファイは信じられないものを見るような目で彼を見た。
「馬鹿か! なんで俺が!?」
「だってー、今だってわざわざ外で待っててくれたりして……」
「勘違いすんな!! たまたまだ! てめぇがなかなか来やがらねぇから、暇つぶしに食後の運動をだな!!」
「ふーん……そうなんだー」
にんまりと笑って上目使いで見ると、黒鋼は恐ろしい形相で「うるせぇ!!」と怒鳴り、先にズカズカと門の奥へと消えてしまった。
なんだか胸の中がむず痒くて、火が灯ったように温かかった。
最初は絡みにくい相手だとばかり思っていたのが嘘のように、最近では意地っ張りな黒鋼のことが分かるようになってきた気がする。
「素直じゃないとこが可愛いんだよねー……」
ファイはニヤけた顔を隠しもせず、その背に続いて門を潜った。
***
「って、ゆーことがあったんだー」
「ふぅん……」
兄はソファに深く腰掛けたまま、クッションを抱きしめてそれにグリグリと頬擦りをした。
「可愛いよねー! すっごい意地っ張りだけど、そこがたまんないよー! オレが来るの遅いからってわざわざ外に出て待っててくれたんだよー? 電車に乗ってまた変なのに襲われなかったかって、そこも心配してくれてさー」
ファイの頬がほんのりと薄紅に染まっているのを見て、ユゥイは複雑を通り越して不穏な予感がした。
黒鋼が彼を気遣い、心配してくれるのはありがたい。だがそんな黒鋼を語るときのファイは、彼女の惚気話をしていた姿とよく似ている。
もしくは、それ以上に……。
「ねぇファイ……?」
「んー? なぁにー?」
「一応言っておくけど……」
きょとん、という顔をしてクッションから顔を上げた兄に、弟は言った。
「高校生の、しかも男の子なんかたぶらかしちゃダメだよ……?」
「!?」
絶句したファイは、なぜか耳まで真っ赤に染めて、抱きしめていたクッションを後方に放り投げた。
「な、なに変なこと言ってんの!? そんなことするわけないでしょ!!」
手足をジタバタとさせて、大慌てで否定していたファイは、勢いでローテーブルの縁に足先をぶつけた。
ガンッと音がして、大きく傾いだカップから紅茶が零れる。
「い、いったーい!!」
「もうー……ファイってば……」
「ゆ、ユゥイが変なこと言うからだよー!!」
なおも真っ赤な顔で叫ぶファイを見て、ユゥイは今後についての不安がどうしようもなく膨らんでゆくのを感じていた。
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第六話 『錯乱』
しまった、と思ってももう遅く、それでも慌てて手の甲で目元を拭った。
「ご、ごめ」
黒鋼の顔など、やっぱりまともに見れやしなかった。
ただでさえ挙動不審なおかしな奴と思われているのに、さらにいきなり泣き出すだなんて、はっきり言って自分でも気持ちが悪い。
いや、むしろ出会ったときからすでにそう思われていたっておかしくなかった。
ダメだ。
ファイは諦めにも似た心境で感情を溢れさせた。
もう、なんだっていい。
「だ、だって……オレ、気持ち悪いなって……」
「あ?」
「だってさ! だって、男のくせに痴漢に遭って、それで、そのあと……き、君だって見たでしょ! オレのこと、トイレに連れてってくれたじゃない!」
声を張り上げて感情をぶちまけはじめると、不思議と黒鋼の視線を真っ直ぐに受け止めることが出来た。彼は、目を見開いてこちらを凝視していた。
けれどその表情も、溢れ出して止まらない涙によって微かにぼやけて見える。
「いっそのこと思いっきり笑ってバカにしてくれたら、オレだってこんなに悶々しなかったのに!」
「お、おい……」
黒鋼がテーブルに手をついて、僅かに腰を浮かせる。
ああ、思いっきり引かれてる。分かってはいても、なんだかもう止まらなかった。
一度爆発した思いはそのままの勢いを保ちながら、競りあがる嗚咽によってたどたどしくなってゆく。
「どうせオレは変態だよ……っ、普通あんな目に遭ったら、あんな風になんか、ならないしっ……!」
ズルズルと鼻水が流れ出しそうになるのを、必死で啜って堪えた。優しく鼻を拭ってくれる家族はここにはいない。
「なることも……あるんだろ…? 実際なっちまったもんは……」
「仕方なくない!!」
思い切り睨みつけると、相手はとりあえず押し黙った。ボリボリと頭を掻いている。
「言ってよ! おまえみたいな変態にっ、教わることなんか何もないって……!」
「別にそんなこたぁ……」
「オレの気持ちなんか絶対に分かんないくせに…! だって君みたいにカッコよかったら、オレだってもっとちゃんと、好きな子とずっと、一緒に……っ」
「?」
「オレに男としての魅力がないことくらい知ってるよ! でも……でもオレは軽い男なんかじゃない……!」
黒鋼がファイに向かって片手を翳した。待て、と指示しているらしい。
「なぁ、ちょっと待てよ。そいつは一体何の話だ? なんかおかしな流れになってねぇか?」
「おかしいよ……おかしいんだよ……でも、みんなはオレの方がおかしいって言うんだよ……」
「……確かに」
「うぅ……っ」
やっぱり肯定されてしまった。分かってはいたが、いざとなるとどうにも遣る瀬無い。
メソメソと両手で顔を覆って泣いていると、向かいの人物が立ち上がる気配がした。ガサゴソという音がして、すぐにその気配が傍らまで近づいてくるのが分かる。
怒鳴られるのだろうかと、ファイは意識のずっと遠い場所でぼんやりと思った。
自分でも色々なことがない混ぜになって、ほぼ錯乱状態にあったことを自覚している。
謝って礼を言うどころか、とんだことをしでかしてしまった。
それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、高ぶった神経に涙と嗚咽がどうしても止まらなかった。
こんなのはただの八つ当たりだ。全く関係のない赤の他人にぶつけて許される感情ではない。
思い切り殴られて、叩き出されてもおかしくなかった。むしろ、そうされるべきだと思う。
「ごめん……ごめ……」
「おら」
「!」
恐る恐る顔を上げると、目の前に白い手ぬぐいが差し出されていた。驚いてそのまま相手を見上げると、少し怒っているような、困ったような表情が近くにあった。
「ぁ……」
冷たく突き放したような顔しか見たことがなかったファイは、その複雑そうな表情に見覚えがあった。
そう、あれは初めて会った、あの駅ホームの階段上で。
ファイの様子を察した彼は、確かこんな顔をしてはいなかったか?
あの時は余裕がなくて、細部までは記憶に残っていなかった。けれど今、目の前で彼の困り顔を見た瞬間、ふと脳内にくっきりと鮮やかに蘇った。
「大の大人がビービー泣くんじゃねぇよ……。てめぇの事情は知らねぇが……ったく、面倒臭ぇな……」
差し出された手ぬぐいを受け取らないまま、ポカンと口を開けていると、彼は腹立たしげに舌打ちをした。
そして、思いっきりファイの頭を鷲掴みにすると、手ぬぐいで顔をグリグリと拭き始めた。
「うわっぷ!? ひぇ、いひゃいー!」
「うっせぇ! 黙ってろ!」
強い力で乱暴に拭かれて、ファイは身体ごとガクンガクンと揺れた。
やっと解放されたときには、僅かに目が回っていた。
「ら、らんぼうものー!」
「んっとにうっせぇ野郎だ……」
顔を真っ赤にしてキャンキャンと吼えるファイから、黒鋼は頬を掻きながら顔を背けた。
それを見て、おや、と小首を傾げる。
(怒ってるのに、怒ってない顔に見える……)
ぼけっとしたままでいると、黒鋼はどすんと胡坐をかいて、何かを諦めたような溜息を零した。
「知らん顔してる方がいいかと思った。俺なりに、気ぃ回したつもりだったんだが」
「!」
ふと、ユゥイに泣きついた夜のことを思い出す。
本当は優しい子なんじゃないかと、弟は言っていた。
そしてあのとき自分は、己のことしか考えていなかったことを恥じて、猛反省したはずだったことも思い出した。
またやっちゃった……と思い、ファイは真っ赤な顔で俯いた。
それを、再び泣き出すのかとでも思ったのか、黒鋼は少し慌てた様子で続けた。
「おい、泣くんじゃねぇぞ。俺の配慮が足りなかったのは……謝る」
悪かった……という小さな台詞に、はっとして顔を上げた。そして、首を左右に振る。
「ち、違うよ! オレが自分のことしか考えてなくて……君は助けてくれたのに……オレ、お礼も言えてなかったよね……。あの……ありがと……」
黒鋼に真っ直ぐ見つめられると、どうしても居心地が悪くて目を逸らしてしまいたくなる。
でも、きっと今しか言えない。そしてたった今やらかしてしまった馬鹿に関しても、この際まとめて謝らなければ。
「そ、その……さっき言っちゃったことも……わ、忘れて……。オレ、いろいろ混乱しちゃって……ごめんなさい……」
ファイの恋愛事情や、自身が抱えるコンプレックスなど、彼には何一つ関係ない。
それを混同させて一気に爆発させてしまうだなんて、冷静になることが出来た今だからこそ、いっそ死んでしまいたいほど恥ずかしい。
結局、気を遣ってくれていた相手を不快にさせるだけの結果になってしまった。
「今日でこのバイト辞めさせてもらうから……。もう君に、迷惑かけられないから……」
そしてもう一度「ごめん」と言った。黒鋼は何も言わない。
またしても俯いてしまったファイは、唇を噛み締めてただ耐えた。
すると、ふいに伸びてきた手がファイの金髪をクシャクシャと乱した。
「!」
顔を上げれば、やっぱり怒っているような困っているような、複雑そうな顔がそこにあった。
見ていると胸が温かくなるような、不思議な感覚に囚われて目が離せない。
困らせているし、怒らせてもいるかもしれない。それでも、なんとなく、優しい顔だと思った。
「あ、あの……オレ、犬じゃ、ないんだけど……」
だがいつまでも見惚れているわけにもいかず、撫でられたままでいるのもくすぐったい。
けれど黒鋼はそんなことはお構いなしのようだった。
「犬っつーより、猫っぽいな。この毛」
「あ、そう? ……じゃなくてー」
「勘違いすんなよ」
「え?」
一通り撫でて満足したのかは知らないが、すっと手が引いた。
ほっとしたような、残念なような、妙な気持ちでファイは瞬きを繰り返す。
「てめぇは何にも悪くねぇ。悪いのも変態なのも、あの痴漢野郎の方じゃねぇか」
だからあまり自分を責めてやるなと、黒鋼は言った。
言われてみれば、確かにその通りだと思った。
墓穴を掘ったことで自分ばかり責めてしまったし、黒鋼に八つ当たりまでしてしまったが、元を正せばあの痴漢が発端であり、一番の悪であることは確かだった。
「許してくれるの……? オレのこと……」
「だから、許すもなにもてめぇは悪くねぇだろ」
その瞬間、心の中に詰まっていたズッシリとした石のようなものが、砂になってサラサラと流れ出してゆくような気がした。
なんだか力が抜けて、また少し涙が滲む。
「だから泣くな」
男らしい節の目立つ指先が、ファイの目元を強引に掠める。少し痛かったが、ファイはそこでようやくふんにゃりと笑った。
それを見た黒鋼は、なぜかぐっと息を詰めたように唇を真一文字に結んだ。
「ありがとー……。君、本当に優しい子なんだね」
「あ?」
「だってオレ、いっぱいバカやったのにこんなに気遣ってくれるし、顔は怒ってるみたいに怖いのに、ホントはぜんぜん怒ってないんだもん。優しいよ、凄く」
黒鋼の眉間にどんどん皺が寄ってゆく。照れているのかと思うとなんだか可愛くて、親近感が湧いてきた。
「最初はねー、あんな恥ずかしいトコ見られちゃって、絶対にバカにされてるって思ったんだー。顔もヤクザみたいに怖いしー、でもイケメンだからなんだか悔しいしー、お金持ちのお坊ちゃんのくせして言葉も乱暴だしー。でもホントはこーんなに良い子だって分かったから、オレ安心しちゃったー」
ファイはニコニコ顔で拳を黒鋼の胸元にグリグリと押し付けた。
「もっと早くに優しいこと言ってくれればよかったのにー! このこのー! この男前ー! イケメンヤクザ高校生ー!」
ご機嫌で喋り続けていたファイだが、次の瞬間、ガツンという音と共に地面が縦に揺らいだ気がして、座った状態のまま僅かにピョンと跳ねた。
「……へ?」
見れば黒鋼が、ブルブルと激しく震わせた拳をテーブルの上で置いている。どうやら、あの一瞬の縦揺れは彼が拳を叩きつけた音だったらしい。
そして、そんな彼の顔を見たファイは、声なき悲鳴を上げた。
ホラー映画でも見たことのないような恐ろしい鬼の形相が、そこにはあった……。
「言わせておけば……ふざけんじゃねぇぞ……?」
「あ、あれ? なに? お、オレ、なにか言っちゃった……?」
ゆらりと立ち上がった黒鋼に、ファイは顔面を蒼白にして思った。
殺される……と……。
「てめぇは……」
そして次の瞬間、黒鋼の「クビだ!!」という、大地を揺るがすほどの叫びによって、巨大な日本家屋が大きく揺らいだ。
***
「と、いうわけでねー、ちょーっと危なかったけど、オレ家庭教師続けることになりましたー!」
ユゥイが作ってくれた焼鮭と昆布のおにぎりをモグモグと租借しながら、ファイはご機嫌で本日のことを語った。
「本当に危なかったね……。殺されなくてよかったよ……」
「うん!」
テーブルを挟んで向かいの席についていたユゥイが苦笑している。彼にも本当に心配をかけてしまった。
あのあと、ファイは生まれて初めての土下座をした。
そしてなんのかんのとやり取りがあって、結局は帰り際に「またな」と言ってもらえた。
それにしても一体自分の言ったことの何が不満だったのか、褒めると怒るなんて不思議な人もいるものだと思った。
「褒めてるのか貶してるのかのラインが微妙だったんじゃないかな……」
と、ユゥイは言うが、おそらく黒鋼は真正面から褒められるのが苦手なのではないかと、ファイは思う。
そして、そんなところがなんだかとっても可愛いとも思った。(あの形相はチビリそうなほど恐ろしかったが)
「とにかく、オレ頑張るよーユゥイー!」
「う、うん。頑張ってね」
きっと黒鋼とはもっと仲良くなれる。
そう思ったファイは、これからのことにウキウキと胸を弾ませるのだった。
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しまった、と思ってももう遅く、それでも慌てて手の甲で目元を拭った。
「ご、ごめ」
黒鋼の顔など、やっぱりまともに見れやしなかった。
ただでさえ挙動不審なおかしな奴と思われているのに、さらにいきなり泣き出すだなんて、はっきり言って自分でも気持ちが悪い。
いや、むしろ出会ったときからすでにそう思われていたっておかしくなかった。
ダメだ。
ファイは諦めにも似た心境で感情を溢れさせた。
もう、なんだっていい。
「だ、だって……オレ、気持ち悪いなって……」
「あ?」
「だってさ! だって、男のくせに痴漢に遭って、それで、そのあと……き、君だって見たでしょ! オレのこと、トイレに連れてってくれたじゃない!」
声を張り上げて感情をぶちまけはじめると、不思議と黒鋼の視線を真っ直ぐに受け止めることが出来た。彼は、目を見開いてこちらを凝視していた。
けれどその表情も、溢れ出して止まらない涙によって微かにぼやけて見える。
「いっそのこと思いっきり笑ってバカにしてくれたら、オレだってこんなに悶々しなかったのに!」
「お、おい……」
黒鋼がテーブルに手をついて、僅かに腰を浮かせる。
ああ、思いっきり引かれてる。分かってはいても、なんだかもう止まらなかった。
一度爆発した思いはそのままの勢いを保ちながら、競りあがる嗚咽によってたどたどしくなってゆく。
「どうせオレは変態だよ……っ、普通あんな目に遭ったら、あんな風になんか、ならないしっ……!」
ズルズルと鼻水が流れ出しそうになるのを、必死で啜って堪えた。優しく鼻を拭ってくれる家族はここにはいない。
「なることも……あるんだろ…? 実際なっちまったもんは……」
「仕方なくない!!」
思い切り睨みつけると、相手はとりあえず押し黙った。ボリボリと頭を掻いている。
「言ってよ! おまえみたいな変態にっ、教わることなんか何もないって……!」
「別にそんなこたぁ……」
「オレの気持ちなんか絶対に分かんないくせに…! だって君みたいにカッコよかったら、オレだってもっとちゃんと、好きな子とずっと、一緒に……っ」
「?」
「オレに男としての魅力がないことくらい知ってるよ! でも……でもオレは軽い男なんかじゃない……!」
黒鋼がファイに向かって片手を翳した。待て、と指示しているらしい。
「なぁ、ちょっと待てよ。そいつは一体何の話だ? なんかおかしな流れになってねぇか?」
「おかしいよ……おかしいんだよ……でも、みんなはオレの方がおかしいって言うんだよ……」
「……確かに」
「うぅ……っ」
やっぱり肯定されてしまった。分かってはいたが、いざとなるとどうにも遣る瀬無い。
メソメソと両手で顔を覆って泣いていると、向かいの人物が立ち上がる気配がした。ガサゴソという音がして、すぐにその気配が傍らまで近づいてくるのが分かる。
怒鳴られるのだろうかと、ファイは意識のずっと遠い場所でぼんやりと思った。
自分でも色々なことがない混ぜになって、ほぼ錯乱状態にあったことを自覚している。
謝って礼を言うどころか、とんだことをしでかしてしまった。
それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、高ぶった神経に涙と嗚咽がどうしても止まらなかった。
こんなのはただの八つ当たりだ。全く関係のない赤の他人にぶつけて許される感情ではない。
思い切り殴られて、叩き出されてもおかしくなかった。むしろ、そうされるべきだと思う。
「ごめん……ごめ……」
「おら」
「!」
恐る恐る顔を上げると、目の前に白い手ぬぐいが差し出されていた。驚いてそのまま相手を見上げると、少し怒っているような、困ったような表情が近くにあった。
「ぁ……」
冷たく突き放したような顔しか見たことがなかったファイは、その複雑そうな表情に見覚えがあった。
そう、あれは初めて会った、あの駅ホームの階段上で。
ファイの様子を察した彼は、確かこんな顔をしてはいなかったか?
あの時は余裕がなくて、細部までは記憶に残っていなかった。けれど今、目の前で彼の困り顔を見た瞬間、ふと脳内にくっきりと鮮やかに蘇った。
「大の大人がビービー泣くんじゃねぇよ……。てめぇの事情は知らねぇが……ったく、面倒臭ぇな……」
差し出された手ぬぐいを受け取らないまま、ポカンと口を開けていると、彼は腹立たしげに舌打ちをした。
そして、思いっきりファイの頭を鷲掴みにすると、手ぬぐいで顔をグリグリと拭き始めた。
「うわっぷ!? ひぇ、いひゃいー!」
「うっせぇ! 黙ってろ!」
強い力で乱暴に拭かれて、ファイは身体ごとガクンガクンと揺れた。
やっと解放されたときには、僅かに目が回っていた。
「ら、らんぼうものー!」
「んっとにうっせぇ野郎だ……」
顔を真っ赤にしてキャンキャンと吼えるファイから、黒鋼は頬を掻きながら顔を背けた。
それを見て、おや、と小首を傾げる。
(怒ってるのに、怒ってない顔に見える……)
ぼけっとしたままでいると、黒鋼はどすんと胡坐をかいて、何かを諦めたような溜息を零した。
「知らん顔してる方がいいかと思った。俺なりに、気ぃ回したつもりだったんだが」
「!」
ふと、ユゥイに泣きついた夜のことを思い出す。
本当は優しい子なんじゃないかと、弟は言っていた。
そしてあのとき自分は、己のことしか考えていなかったことを恥じて、猛反省したはずだったことも思い出した。
またやっちゃった……と思い、ファイは真っ赤な顔で俯いた。
それを、再び泣き出すのかとでも思ったのか、黒鋼は少し慌てた様子で続けた。
「おい、泣くんじゃねぇぞ。俺の配慮が足りなかったのは……謝る」
悪かった……という小さな台詞に、はっとして顔を上げた。そして、首を左右に振る。
「ち、違うよ! オレが自分のことしか考えてなくて……君は助けてくれたのに……オレ、お礼も言えてなかったよね……。あの……ありがと……」
黒鋼に真っ直ぐ見つめられると、どうしても居心地が悪くて目を逸らしてしまいたくなる。
でも、きっと今しか言えない。そしてたった今やらかしてしまった馬鹿に関しても、この際まとめて謝らなければ。
「そ、その……さっき言っちゃったことも……わ、忘れて……。オレ、いろいろ混乱しちゃって……ごめんなさい……」
ファイの恋愛事情や、自身が抱えるコンプレックスなど、彼には何一つ関係ない。
それを混同させて一気に爆発させてしまうだなんて、冷静になることが出来た今だからこそ、いっそ死んでしまいたいほど恥ずかしい。
結局、気を遣ってくれていた相手を不快にさせるだけの結果になってしまった。
「今日でこのバイト辞めさせてもらうから……。もう君に、迷惑かけられないから……」
そしてもう一度「ごめん」と言った。黒鋼は何も言わない。
またしても俯いてしまったファイは、唇を噛み締めてただ耐えた。
すると、ふいに伸びてきた手がファイの金髪をクシャクシャと乱した。
「!」
顔を上げれば、やっぱり怒っているような困っているような、複雑そうな顔がそこにあった。
見ていると胸が温かくなるような、不思議な感覚に囚われて目が離せない。
困らせているし、怒らせてもいるかもしれない。それでも、なんとなく、優しい顔だと思った。
「あ、あの……オレ、犬じゃ、ないんだけど……」
だがいつまでも見惚れているわけにもいかず、撫でられたままでいるのもくすぐったい。
けれど黒鋼はそんなことはお構いなしのようだった。
「犬っつーより、猫っぽいな。この毛」
「あ、そう? ……じゃなくてー」
「勘違いすんなよ」
「え?」
一通り撫でて満足したのかは知らないが、すっと手が引いた。
ほっとしたような、残念なような、妙な気持ちでファイは瞬きを繰り返す。
「てめぇは何にも悪くねぇ。悪いのも変態なのも、あの痴漢野郎の方じゃねぇか」
だからあまり自分を責めてやるなと、黒鋼は言った。
言われてみれば、確かにその通りだと思った。
墓穴を掘ったことで自分ばかり責めてしまったし、黒鋼に八つ当たりまでしてしまったが、元を正せばあの痴漢が発端であり、一番の悪であることは確かだった。
「許してくれるの……? オレのこと……」
「だから、許すもなにもてめぇは悪くねぇだろ」
その瞬間、心の中に詰まっていたズッシリとした石のようなものが、砂になってサラサラと流れ出してゆくような気がした。
なんだか力が抜けて、また少し涙が滲む。
「だから泣くな」
男らしい節の目立つ指先が、ファイの目元を強引に掠める。少し痛かったが、ファイはそこでようやくふんにゃりと笑った。
それを見た黒鋼は、なぜかぐっと息を詰めたように唇を真一文字に結んだ。
「ありがとー……。君、本当に優しい子なんだね」
「あ?」
「だってオレ、いっぱいバカやったのにこんなに気遣ってくれるし、顔は怒ってるみたいに怖いのに、ホントはぜんぜん怒ってないんだもん。優しいよ、凄く」
黒鋼の眉間にどんどん皺が寄ってゆく。照れているのかと思うとなんだか可愛くて、親近感が湧いてきた。
「最初はねー、あんな恥ずかしいトコ見られちゃって、絶対にバカにされてるって思ったんだー。顔もヤクザみたいに怖いしー、でもイケメンだからなんだか悔しいしー、お金持ちのお坊ちゃんのくせして言葉も乱暴だしー。でもホントはこーんなに良い子だって分かったから、オレ安心しちゃったー」
ファイはニコニコ顔で拳を黒鋼の胸元にグリグリと押し付けた。
「もっと早くに優しいこと言ってくれればよかったのにー! このこのー! この男前ー! イケメンヤクザ高校生ー!」
ご機嫌で喋り続けていたファイだが、次の瞬間、ガツンという音と共に地面が縦に揺らいだ気がして、座った状態のまま僅かにピョンと跳ねた。
「……へ?」
見れば黒鋼が、ブルブルと激しく震わせた拳をテーブルの上で置いている。どうやら、あの一瞬の縦揺れは彼が拳を叩きつけた音だったらしい。
そして、そんな彼の顔を見たファイは、声なき悲鳴を上げた。
ホラー映画でも見たことのないような恐ろしい鬼の形相が、そこにはあった……。
「言わせておけば……ふざけんじゃねぇぞ……?」
「あ、あれ? なに? お、オレ、なにか言っちゃった……?」
ゆらりと立ち上がった黒鋼に、ファイは顔面を蒼白にして思った。
殺される……と……。
「てめぇは……」
そして次の瞬間、黒鋼の「クビだ!!」という、大地を揺るがすほどの叫びによって、巨大な日本家屋が大きく揺らいだ。
***
「と、いうわけでねー、ちょーっと危なかったけど、オレ家庭教師続けることになりましたー!」
ユゥイが作ってくれた焼鮭と昆布のおにぎりをモグモグと租借しながら、ファイはご機嫌で本日のことを語った。
「本当に危なかったね……。殺されなくてよかったよ……」
「うん!」
テーブルを挟んで向かいの席についていたユゥイが苦笑している。彼にも本当に心配をかけてしまった。
あのあと、ファイは生まれて初めての土下座をした。
そしてなんのかんのとやり取りがあって、結局は帰り際に「またな」と言ってもらえた。
それにしても一体自分の言ったことの何が不満だったのか、褒めると怒るなんて不思議な人もいるものだと思った。
「褒めてるのか貶してるのかのラインが微妙だったんじゃないかな……」
と、ユゥイは言うが、おそらく黒鋼は真正面から褒められるのが苦手なのではないかと、ファイは思う。
そして、そんなところがなんだかとっても可愛いとも思った。(あの形相はチビリそうなほど恐ろしかったが)
「とにかく、オレ頑張るよーユゥイー!」
「う、うん。頑張ってね」
きっと黒鋼とはもっと仲良くなれる。
そう思ったファイは、これからのことにウキウキと胸を弾ませるのだった。
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第五話 『鬱屈』
ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。
だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。
これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。
***
いざとなると、やはり緊張する。
ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。
ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。
どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。
時計を見れば30分も早い。
「気合入れすぎちゃったかな……」
結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。
直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。
結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。
ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。
やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。
ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。
向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。
重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。
陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。
ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。
***
正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。
ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。
(あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……)
ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。
顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。
何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。
どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。
彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。
今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。
(ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!)
勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。
すると、背後で障子がするりと開かれた。
「!」
ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。
そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。
「ぁりが、と……」
「おい」
ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。
「な、なに、かな?」
「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」
「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」
「別に謝らなくていい」
「うっ……ごめん……」
縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。
まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。
ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。
これは本日最大の秘密兵器である。
「あのね! こ、これ……」
「あ?」
(だから! いちいちガラ悪いんだってばー!)
内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。
黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。
「よ、よければなんだけど……」
手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。
中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。
「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」
とりあえず一生懸命に喋った。
ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。
これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。
そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。
「あれ……?」
「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」
「え」
「俺はいいから、おまえが食え」
ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。
「い、いいよー! それだと意味ないし……!」
自分が食べるために持ってきたものではない。
だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。
(オレのバカー!!)
ドーンと影を纏いながら肩を落とした。
心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。
「ご……ごめんね……」
「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」
「うん……」
本当に、これではどちらが年上か分からない。
ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。
「それより、今日もとっとと始めるぞ」
そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。
それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。
***
いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。
ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。
結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。
このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。
が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。
いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。
(ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……)
今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。
キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。
彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。
わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。
せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。
それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。
あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。
年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。
これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。
(いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……)
考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。
見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。
(ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……)
完璧。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。
彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。
ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。
容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。
「…………」
なんだか猛烈に悲しくなった。
こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。
彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。
黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。
ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。
彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。
この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。
こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。
「おい、終わったぞ……って、おい?」
「……?」
「おまえ、何泣いてんだ……?」
「!」
指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。
信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。
←戻る ・ 次へ→
ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。
だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。
これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。
***
いざとなると、やはり緊張する。
ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。
ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。
どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。
時計を見れば30分も早い。
「気合入れすぎちゃったかな……」
結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。
直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。
結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。
ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。
やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。
ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。
向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。
重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。
陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。
ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。
***
正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。
ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。
(あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……)
ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。
顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。
何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。
どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。
彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。
今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。
(ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!)
勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。
すると、背後で障子がするりと開かれた。
「!」
ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。
そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。
「ぁりが、と……」
「おい」
ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。
「な、なに、かな?」
「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」
「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」
「別に謝らなくていい」
「うっ……ごめん……」
縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。
まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。
ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。
これは本日最大の秘密兵器である。
「あのね! こ、これ……」
「あ?」
(だから! いちいちガラ悪いんだってばー!)
内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。
黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。
「よ、よければなんだけど……」
手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。
中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。
「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」
とりあえず一生懸命に喋った。
ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。
これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。
そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。
「あれ……?」
「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」
「え」
「俺はいいから、おまえが食え」
ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。
「い、いいよー! それだと意味ないし……!」
自分が食べるために持ってきたものではない。
だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。
(オレのバカー!!)
ドーンと影を纏いながら肩を落とした。
心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。
「ご……ごめんね……」
「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」
「うん……」
本当に、これではどちらが年上か分からない。
ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。
「それより、今日もとっとと始めるぞ」
そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。
それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。
***
いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。
ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。
結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。
このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。
が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。
いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。
(ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……)
今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。
キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。
彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。
わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。
せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。
それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。
あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。
年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。
これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。
(いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……)
考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。
見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。
(ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……)
完璧。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。
彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。
ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。
容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。
「…………」
なんだか猛烈に悲しくなった。
こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。
彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。
黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。
ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。
彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。
この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。
こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。
「おい、終わったぞ……って、おい?」
「……?」
「おまえ、何泣いてんだ……?」
「!」
指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。
信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。
←戻る ・ 次へ→
「ああ、そのことか……」
黒鋼は、ずずいと身を乗り出してくるファイに僅かに身を引くと、そっけない返事をした。
「お袋か?」
「そうだよ! お母さんから聞かなかったら、オレずっと知らないままだったじゃんか!」
彼は外見だけならしなやかな猫を彷彿とさせるが、こうしてキャンキャン騒ぐのを見ると、まるで子犬のようだと思う。犬は好きだ。もちろん、猫も。
年上(には見えないが)の男を捕まえてそんな表現はどうかと思うが、その仕草や言動の無邪気さに、どうしても保護欲をそそられて仕方がない。
淡い金色の髪が、肩を怒らせる彼に合わせてふわふわと跳ねたり波打ったりする。
一度だけ触れたことがあるが、なかなか上質な手触りだった。
「別にわざわざ言うほどのもんでも」
「あるよ!!」
一体何がそこまで不満なのか、戸惑う黒鋼にファイは頬を染めたまま、目元にじんわりと涙を浮かべた。
「お、おい馬鹿……泣くなよ……?」
この男に泣かれるとどうも弱い。
出会った最初の頃、癇癪めいたものを起こしたファイに思い切り泣かれたときも、どうすればいいのか実はかなり焦ったものだ。
しかしファイは黒鋼の制止も聞かずに宝石のように美しい瞳から涙を零した。
ああクソ、と内心で舌打ちをして、思わずボリボリと頭を掻く。
彼は一度ぎゅうと両目を閉じたかと思うと、跳ねるようにして黒鋼の胸に飛びついてきた。
「黒たん!!」
「どわっ!?」
あまりの勢いに引っくり返りそうになって、なんとか腕をついて堪える。
この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強い力で、胴をぎゅうぎゅうと締め付けられた。
「お、おい……なんなんだよてめぇは……!」
「だって……なんか感動しちゃって……まるでドラマみたいな展開だったんだもん……!」
黒鋼にしみれば、ファイとは出会いからして現実味が薄かったように思える。
彼そのものにしたってそうだ。男のくせにすぐ泣くし、時々何を言っているのか意味不明なときがあるし、お喋りで鬱陶しいくせになぜか一緒にいると胸の中がふわふわとしてくるし……。
この男といると、こちらまで感情の振り幅が大きくなってゆく気がした。
目を離せばすぐ迷子になって、どこかで一人泣いていそうで、放っておけない。
少なくとも、彼は今まで自分の周りには決していないタイプの人間だった。
だから扱いに困る。泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。
かといって無邪気な笑顔を見ていると、落ち着かない気持ちにもなる。
(どうかしてんのは俺の方かもな)
細い身体がぴったりと胸にしがみついてくるのを、黒鋼は抱き返すべきかどうか激しく迷っていた。子供のように体温が高くて、砂糖のような甘い香りがする。
甘いものは食べるのも嗅ぐのも苦手だが、なぜか今は不快ではなかった。
ファイの背中のすぐ側で両手を宙に浮かせたまま、指先をにぎにぎとさせる。
一体どうすりゃいいんだと困り果てていると、ファイがおもむろに顔を上げた。
間近で見下ろす濡れた瞳や赤い頬を見て、胸に妙なざわめきが起こった。
「黒たん、オレのために危ないことしてくれたの……?」
やけに頬が熱く感じた。黒鋼は慌てて否定する。
「馬鹿か! 偶然だ、偶然」
それは本当のことで、帰宅時の込み合った車内にて、たまたま見覚えのある顔と遭遇したからだった。
あのときは一瞬ではあったが、チラリと見ただけの顔を黒鋼はよく覚えていた。
男は懲りずにまた悪さを働いていた。被害者が男性であることに気がついて、呆れと同時に憤りを覚えた。
当然、被害者が女性であっても決して許せる行いではないが、どうしても思い出されるのはファイのことだった。
身動きが取れない状態で俯いている被害者男性と、あの時のファイが重なって見えた。
その瞬間、一気に頭に血が上った黒鋼は、電車の扉が開いたと同時に痴漢の手首を掴むと、思い切り投げ飛ばしていた。
被害に遭っていた男性はまだ少年で、ファイよりも幾分か身体の小さな他校の生徒だった。
ファイのときは、咄嗟に彼自身の心境も考慮して派手な立ち振る舞いは控えたのだが、騒ぎになってしまったせいであの少年は逆に赤っ恥をかいたかもしれない。
当の黒鋼自身は、面倒にならないうちに慌ててその場を去ったのだが、結局はこの目立つ風貌が仇となり、目撃者の証言から学校共々特定されてしまった。
新聞でも小さく取り上げられたが、高校生だという情報以外は公表されなかった。
にも関わらず、なぜか近所中に噂は広まっている。おそらく犯人は母だろう……。
要するに、である。
思い切り否定はしたものの、結局はファイが引き金になったことは事実だった。
黒鋼はどこか諦めにも似た心境で、天井を見ながら溜息を零した。そしてすぐに泣き濡れたファイの顔を見下ろす。
「別にたいしたことしたわけじゃねぇんだ。おまえの時は、足踏んづけてやるくらいしか出来なかったからな」
だいたい黒鋼にしたって、あのような輩は存在しているだけも気分が悪い。
相手が身動き取れない弱みに付け込んで好き勝手に自分の性癖を満たすなど、被害者の性別を問わず同じ人間として不愉快極まりない。
「だから、とりあえずはもう安心だろ。あんな変態野郎、そうはいるもんじゃねぇだろうからな」
ファイの頬にかかる金糸に指先で触れた。やはり、この手触りが好きだと思った。
黒鋼の手がくすぐったいのか、ファイは潤んだ瞳でふんわりと微笑んだ。
なんだか、胸の奥がきゅっと疼くのを感じる。
「うん……。ありがとう黒たん。お礼、言わせてね」
「おう……」
小さく笑うと、ファイの頬がさらに染まった。そのまま、まるでうっとりとしたように見上げてくる青い瞳があまりにも澄んだ色をしていて、思わずその身体を引き寄せていた。
吸い込まれる、と思った瞬間には、その濡れた目元に唇を落としていた。
ファイもそっと目を閉じた。長い睫毛が唇に触れて、少しくすぐったい。
そしてゆっくりと唇を離し、暫しぼんやりと見つめ合った。
口の中に、僅かに涙の塩辛さを感じながら。
二人は、どのくらいそうしていたのだろうか。
どちらかともなくハッとして、同時に耳まで真っ赤にしながら慌てて離れた。
「ご、ごめん!」
「悪い……」
先刻ほぼ同時に謝罪の言葉を述べ合ったときと同様に、二つの声が重なった。
なんともいえない微妙な空気の中で、黒鋼は俯いて両手で赤い頬を隠しているファイから目を逸らした。
一体なにが起こったのか。なにをしたのか。
まともに思考が働かない。けれど、まるで後悔していない自分が存在することには気が付いている。
それが何よりの問題点である気がした。
唇にはまだファイの柔らかな睫毛の感触が残っていて、この舌は涙の味を忘れられないでいる。
自分は一体どうなってしまったのだろう。この空気をどうすればいいのだろう。
黒鋼が冷静さを取り戻そうと思考を回転させることに必死になっていると、ファイが勢いよく顔を上げた。
「べ、勉強!!」
「!」
「勉強しなきゃね! ほらほら、時計見て! もうこんな時間だよー!」
白い指先が柱にかかっている時計を指差した。黒鋼も同調するように、大きく頷いた。
「そうだな。わかった」
「い、いやー、時間食っちゃったねー。ええっとこないだはどこまでやったっけかなー」
慌ててカバンを漁ってノートや筆入れなどを取り出すファイの傍らで、黒鋼も散らばっていた問題集や参考書を黙々と広げた。
そして、いつも以上に大きなリアクションで忙しないファイを視界の横に納めながら、黒鋼は思った。
何かおかしいと感じつつも、決して嫌というわけではない。
けれどすんなり受け入れてしまうには、性別の壁や培ってきたモラルがそれを良しとしない。
それなのに、黒鋼はどこかで諦めと、そして予感めいたものを感じていた。
おそらく自分はこの男と、恋をするのだろうと。
あるいは、もう。
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