「だから私は最初から反対だったのよ! だけど貴方がどうしてもって言うから!」
「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」
「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」
「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」
ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。
苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。
甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。
しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。
あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。
裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。
店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。
怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。
帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。
なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。
その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。
用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。
それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。
光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。
ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。
晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。
彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。
けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。
そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。
やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。
ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。
家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。
その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。
けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。
翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。
翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。
まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。
夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。
跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。
彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。
けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。
人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。
厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。
翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。
どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。
どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。
甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。
「お前、死ぬのか」
薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。
「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」
母さん。
(ああ、君は──)
幸せなんだな。
*
どこをどうやってここまで辿り着いたのか。
とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。
広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。
時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。
甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。
『甲洋、もしかして海が好きなの?』
あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。
多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。
ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。
今は、どうだろう。
目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。
全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。
曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。
身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。
甲洋は操の顔を思いだしていた。
子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。
誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。
彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。
そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。
本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。
だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。
不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。
彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。
読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。
(また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた)
ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。
これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。
(俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない)
大きな音を立てて、風が吹き荒れた。
共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。
──甲洋
どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。
だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。
「甲洋ッ!!」
はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。
そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。
「やっと、見つけた……ッ」
どうして。
甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。
「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」
どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。
「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」
「……なんで」
呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。
男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。
甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。
「帰れない」
「なんで?」
「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」
本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。
もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。
「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」
操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。
それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。
「わかってるよ、そんなこと」
声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。
「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」
だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。
「翔子は、もうどこにもいないよ」
「ッ……!」
「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」
操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。
「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」
甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。
幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。
(翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ)
本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。
それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。
だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。
(だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか)
そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。
「ッ!?」
振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なに、してるの……?」
「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」
「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」
操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。
拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。
他の誰でもない、甲洋のために。
「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」
初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。
←戻る ・ 次へ→
「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」
「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」
「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」
ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。
苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。
甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。
しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。
あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。
裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。
店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。
怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。
帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。
なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。
その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。
用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。
それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。
光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。
ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。
晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。
彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。
けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。
そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。
やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。
ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。
家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。
その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。
けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。
翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。
翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。
まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。
夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。
跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。
彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。
けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。
人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。
厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。
翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。
どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。
どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。
甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。
「お前、死ぬのか」
薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。
「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」
母さん。
(ああ、君は──)
幸せなんだな。
*
どこをどうやってここまで辿り着いたのか。
とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。
広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。
時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。
甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。
『甲洋、もしかして海が好きなの?』
あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。
多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。
ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。
今は、どうだろう。
目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。
全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。
曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。
身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。
甲洋は操の顔を思いだしていた。
子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。
誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。
彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。
そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。
本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。
だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。
不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。
彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。
読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。
(また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた)
ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。
これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。
(俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない)
大きな音を立てて、風が吹き荒れた。
共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。
──甲洋
どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。
だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。
「甲洋ッ!!」
はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。
そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。
「やっと、見つけた……ッ」
どうして。
甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。
「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」
どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。
「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」
「……なんで」
呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。
男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。
甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。
「帰れない」
「なんで?」
「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」
本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。
もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。
「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」
操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。
それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。
「わかってるよ、そんなこと」
声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。
「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」
だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。
「翔子は、もうどこにもいないよ」
「ッ……!」
「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」
操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。
「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」
甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。
幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。
(翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ)
本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。
それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。
だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。
(だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか)
そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。
「ッ!?」
振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なに、してるの……?」
「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」
「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」
操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。
拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。
他の誰でもない、甲洋のために。
「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」
初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。
←戻る ・ 次へ→
甲洋がいなくなった。
彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。
操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。
外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。
どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。
何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。
「一騎!? 総士は!?」
『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』
尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。
しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。
「一騎、その声どうしたの……?」
彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。
『ちょっとな。風邪気味なんだ』
「風邪……」
『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』
「そ、っか」
『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』
明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。
しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。
「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」
『来主? 何かあるなら総士に』
「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」
受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。
操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。
彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。
「おれ、甲洋を傷つけた」
怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。
そこでふと、思いついた。
(まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?)
きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。
*
総士と操が卒業した竜宮中学校。
その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。
「本当に空っぽだ」
二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。
家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。
(甲洋、どこ行っちゃったんだよ……)
空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。
春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。
「あら? あなたひょっとして……来主くん?」
そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。
そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。
「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」
この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。
懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。
「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」
「ええそうよ。ほら、ここが私の家」
容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。
*
物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。
よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。
「ごめんなさいね、何も用意できなくて」
リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。
「うぅん、ありがとう。いただきます」
白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。
容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。
「落ち着いたかしら?」
口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。
ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。
けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。
「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」
操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。
「その子、あなたのおうちの子?」
「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」
「皆城くん?」
「うん」
容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。
「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」
「え!? 容子知ってるの!?」
「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」
「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」
つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。
「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」
容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。
「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」
「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」
「昔からのね。大学が同じだったの」
甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。
だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。
「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」
「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」
それを聞いて、容子は目を丸くした。
「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」
「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」
「そうなの」
「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」
操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。
(甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?)
元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。
「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」
「うん……ありがとう」
気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。
それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。
「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」
「……近くで見てもいい?」
「ええ、いいわよ」
操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。
写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。
「白猫だったんだ。綺麗な子だね」
「翔子っていうのよ」
「え……?」
隣に並んだ容子の顔を見る。
翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。
(偶然? でも……)
ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。
操は再び写真に視線を落とす。
(甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ)
飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。
きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。
「あらカノン? 戻ったの?」
そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。
「この子も、先生の娘?」
「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」
「ッ!」
カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。
「あ、行っちゃった」
「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」
操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。
幸せなんだなと、そう思う。
「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」
「そうだったんだ……!」
カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。
「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」
容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。
←戻る ・ 次へ→
彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。
操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。
外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。
どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。
何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。
「一騎!? 総士は!?」
『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』
尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。
しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。
「一騎、その声どうしたの……?」
彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。
『ちょっとな。風邪気味なんだ』
「風邪……」
『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』
「そ、っか」
『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』
明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。
しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。
「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」
『来主? 何かあるなら総士に』
「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」
受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。
操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。
彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。
「おれ、甲洋を傷つけた」
怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。
そこでふと、思いついた。
(まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?)
きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。
*
総士と操が卒業した竜宮中学校。
その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。
「本当に空っぽだ」
二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。
家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。
(甲洋、どこ行っちゃったんだよ……)
空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。
春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。
「あら? あなたひょっとして……来主くん?」
そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。
そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。
「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」
この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。
懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。
「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」
「ええそうよ。ほら、ここが私の家」
容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。
*
物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。
よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。
「ごめんなさいね、何も用意できなくて」
リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。
「うぅん、ありがとう。いただきます」
白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。
容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。
「落ち着いたかしら?」
口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。
ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。
けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。
「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」
操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。
「その子、あなたのおうちの子?」
「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」
「皆城くん?」
「うん」
容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。
「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」
「え!? 容子知ってるの!?」
「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」
「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」
つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。
「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」
容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。
「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」
「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」
「昔からのね。大学が同じだったの」
甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。
だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。
「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」
「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」
それを聞いて、容子は目を丸くした。
「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」
「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」
「そうなの」
「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」
操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。
(甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?)
元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。
「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」
「うん……ありがとう」
気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。
それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。
「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」
「……近くで見てもいい?」
「ええ、いいわよ」
操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。
写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。
「白猫だったんだ。綺麗な子だね」
「翔子っていうのよ」
「え……?」
隣に並んだ容子の顔を見る。
翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。
(偶然? でも……)
ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。
操は再び写真に視線を落とす。
(甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ)
飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。
きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。
「あらカノン? 戻ったの?」
そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。
「この子も、先生の娘?」
「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」
「ッ!」
カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。
「あ、行っちゃった」
「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」
操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。
幸せなんだなと、そう思う。
「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」
「そうだったんだ……!」
カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。
「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」
容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。
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甲洋が来てから半月ほどが経過して、三月も中旬を迎えていた。
一騎はまめに連絡をよこし、総士は時間を見つけては様子を見に訪れる。
だが子犬ならばまだしも、これだけ大きな成犬を引き取ってくれるという人間は、なかなか見つからないようだった。
総士はいつも「すまない」と言ってしょげているが、彼が多忙な中で尽力していることは知っている。
操は甲洋との暮らしを悪くないと思はじめていた。物理的な距離は縮められそうにないが、心の距離はどんどん近づいているのではないかと、勝手に思っていたりする。
最近は、操が「ただいま」と言って帰宅すると「おかえり」と言ってくれるようになった。ご飯を初めて「美味しいよ」と言ってくれたのは、つい昨日の晩のこと。
甲洋は自分から言葉を発することはないし、未だに笑った顔は見せてくれない。それでも1メートル半という半端な距離を決して越えないよう、常に操に注意を払っている。
一騎が言った通り、彼は優しいイヌだった。操はそれを肌で感じられるようになっていた。
だからだろうか。ふと思うことが多くなった。
あの柔らかそうな焦茶の髪に触れられたら、どんな心地だろう。尖った大きな耳や、少しずつ艶めいてきた長い尻尾はどんな感触なのだろうかと。甲洋を見ていると、そんなことをよく思う。
それは未だかつて一騎にすら抱いたことのない、不思議な欲求だった。
*
朝方ふと、目が覚めた。
昼間はだいぶ春めいてきたが、この時間はまだ幾らか冷える。操は毛布の中でいちど身を震わせると、目を擦りながら身を起こした。
少し空気が乾燥しているような気がして、喉の乾きを覚えた。水を求めて台所へ向かうつもりで、操はなんとなく隣室へ目を向ける。
居間として利用しているこの部屋と、寝室になっている隣の部屋は、寝ている間だけは引き戸がきっちりと閉められていた。
(そういえばおれ、甲洋が寝てるとこまだ一度も見たことないや)
彼の寝姿というものがいまいち想像できなくて、つい気になってしまう。操はこっそりと音をたてないよう近づくと、覗き込める程度に引き戸を開けた。
カーテンの隙間から差し込む薄青の光が、畳の室内をぼんやりと浮かび上がらせている。タンスとクローゼットと、パイプベッド。寝具が整っているそこはなぜか空っぽだった。
(あれ、いない?)
だがすぐにベッドの横に黒い塊があることに気がついた。
こちらに背を向けるようにして身体を丸めた甲洋が、毛布ひとつかけずに床で眠っている。
(え、なんで床で寝てるの?)
初日にベッドを使うように言ったはずなのだが。
彼が来たのは今よりもずっと朝晩の冷え込みが厳しい時期だった。今も十分に肌寒さを感じるというのに、今までもずっとこんな状態で寝ていたのだろうか。
操は慌てて、けれど慎重に寝室へ足を踏み入れる。起こしてしまうかもしれないと思ったが、せめて何かかけてやらなくてはと考えたのだ。
忍び足で息を殺しながら近づいていく。すると、丸まっている甲洋の身体がもぞりと動いた。
「ッ!」
ビクッ、と身を震わせて足を止める。甲洋は微かな寝息を立てたまま、それ以上動く気配はなかった。操は静かに震える息を吐き出し、胸を撫で下ろす。緊張感が半端ない。
なにせこれから操は、自分の限界ギリギリである1メートル半という壁を超えるのだ。もしかしたらその前に彼が起き出してしまうかもしれないが、なるべくその眠りを妨げたくはなかった。
こそ泥のような足取りで、時おり甲洋の様子をチラチラと覗いながらベッドに両手をつく。すぐ傍ではイヌが丸くなっている。すでに距離は1メートル以内で、多分こんなにイヌに近づいたのは初めてだ。心臓がバクバクと音を立てている。
(お、起きないでね? 絶対に起きないでね?)
逆にフラグを立てんばかりに念じながら、ふと、操の中で好奇心の虫が騒ぎ出す。
(寝顔……もうちょっとちゃんと……)
こんな機会はもう二度とないかもしれない。
甲洋はよほど深く眠っているのか、目を覚ます気配がなかった。もしかしたら、今なら彼に触れることだってできるかもしれない。
操はいてもたってもいられず、ベッドに四つん這いで乗り上げる。カーテンの隙間から青く仄白む朝日と街灯の光が射し込み、甲洋の身体をくっきりと浮かび上がらせていた。
(わぁ……甲洋が寝てる……!)
見下ろす寝顔は横からのアングルではあったが、睫毛が長くて綺麗に整っている。長く癖のある焦茶の髪が頬にかかって、なんだか少し、色気があった。
初めて見たときも思ったが、綺麗なイヌだなと改めて感じる。あのときは恐怖ばかりが先立って、じっくり眺める余裕はなかったけれど。
(なんかすっごく、ドキドキするな)
胸の高鳴りが、さっきまでとは違う意味合いに変わっていた。操は頬を赤らめて、その寝顔にしばし見惚れる。
そのとき、甲洋の肩が僅かに震えた。
「ッ!」
「ぅ……こ……」
(え……?)
彼は小さな声で、なにか呻いたようだった。丸まっていた背中をさらに丸めたかと思うと、少し苦しそうな表情を浮かべる。
怖い夢でも見ているのだろうか。竦めた肩が震えているのが痛々しくて、操は思わず身を乗り出すと彼の名を呼んだ。
「こ、甲洋?」
「しょ、ぅ……こ……」
「……しょうこ?」
女性の名前、だろうか。操には当然、心当たりがない。
声はか細く、泣き出しそうに掠れていた。何度も何度も、甲洋はその名を口にする。こんなに苦しそうに、そして悲しそうに彼が名前を呼ぶ存在。それが誰なのか、操にはまるで分からない。
(おれ、甲洋のことなにも知らないんだ)
たった半月。ほんの僅かな情報だけが全てで、彼が何を考えながら生きてきたのか、どんな想いを抱えているのか、操はなにも知らないのだ。勝手に距離が縮まったように思い込んでいただけで、その事実に打ちのめされたような気持ちになる。
操は勇気をだして甲洋に手を伸ばそうとした。震える指先がその肩に触れようとしたとき、ふと気づく。
彼の両手には鬱血したような痣が幾つもあった。目をこらせば指の関節部分にも割れて傷ついた跡が残されており、ほとんどは薄く消えかかってはいるが、同じものが足の先にも見られた。
(これって……?)
総士の話を思いだす。彼は真冬のベランダに長く放置されていたことがあると。おそらくこれはその時のものだ。彼の手足には酷い凍瘡とあかぎれの跡が残っている。この距離まで近づいて、初めて気がついた。
手間も暇も愛情もかけてもらえず、雪の降りしきるベランダで彼は何を思いながらいたのだろう。この傷がもっと深ければ、手足を切り落とすことになっていたかもしれない。むしろ死んでいたっておかしくはないのだ。
彼が虐待を受けていたという事実が、急に重たく伸し掛かってくる。話に聞いていたというだけで、操の中ではどこか現実味を帯びていなかったのかもしれない。こうして生々しい傷跡を直視するまでは。
「甲洋」
操はその名を呼びながら、再び彼に向かって手を伸ばした。
『しょうこ』という人が誰かは分からない。だけどきっと、甲洋の心はまだ真冬のベランダにある。
そんなのは嫌だ。ここには彼を傷つける人間なんかいない。もうどこにもいないのだ。その思いが操から恐怖心を遠ざける。
指先が、初めてその肩に触れた。
「ッ──!!」
瞬間、飛び起きた甲洋が低く唸りながら操の手を叩き落とした。素早く身を起こし、飛び退くように距離を取られる。甲洋の背を受け止めて、引き戸がガタンと音を立てた。
操は咄嗟のことに声なき悲鳴をあげて、無意識に反対側の壁へ身を寄せると肩をすくめる。
甲洋は耳や尻尾の毛を酷く逆立てながら肩を上下させ、我を失ったように唸り続けていた。床に両手をつく彼は、膨らんだ尻尾が内腿に巻き付くような形で丸くなっている。
「……ッ、ぁ」
息を荒げていた甲洋が、ようやく状況を飲み込んで小さな声をあげた。表情は呆然としたものへと変わり、耳をぺたりと後ろへ倒して震わせはじめる。尻尾は、丸まったままだ。
操もまたそれを呆然と見つめるだけだった。心臓が飛び出しそうなほど高鳴っていて、両手を握りしめると胸に押し当てる。身体の震えが止まらなかった。
違う。わかっている。無防備でいるところに、とつぜん触れてしまったから。総士のメモにもあったはずだ。不用意に近づいたり、触れたりはするなと。彼がそれを望まないと。そんなこと、今さら思いだしても遅かった。
驚かせて、怖い思いをさせてしまったのは操の方だ。なのに、初めて見た甲洋の様子にショックを受けて、恐怖が全身を支配してしまう。
ちっとも似ていないのに、あの日、血走った目で牙を剥きながら追いかけてきた猛犬と、彼が重なってしまって。
「こ、こうよ……ご、ごめ」
震える声を絞り出す。ちゃんと伝えたいのにうまくいかなくて、操はただ傷ついたように歪んでいく甲洋の顔を見ているしかできなかった。
甲洋は少しずつ探るように背後の戸に手のひらを這わせながら、身体を横に移動させた。瞬きもせず操を注視し続け、立ち上がると弾かれたように部屋から出ていってしまう。
「甲洋、待って!」
咄嗟に手を伸ばす。ベッドから転がり落ち、床に膝をつく操の耳に、玄関の扉が開いては閉じる音が無情にも響き渡った。
←戻る ・ 次へ→
一騎はまめに連絡をよこし、総士は時間を見つけては様子を見に訪れる。
だが子犬ならばまだしも、これだけ大きな成犬を引き取ってくれるという人間は、なかなか見つからないようだった。
総士はいつも「すまない」と言ってしょげているが、彼が多忙な中で尽力していることは知っている。
操は甲洋との暮らしを悪くないと思はじめていた。物理的な距離は縮められそうにないが、心の距離はどんどん近づいているのではないかと、勝手に思っていたりする。
最近は、操が「ただいま」と言って帰宅すると「おかえり」と言ってくれるようになった。ご飯を初めて「美味しいよ」と言ってくれたのは、つい昨日の晩のこと。
甲洋は自分から言葉を発することはないし、未だに笑った顔は見せてくれない。それでも1メートル半という半端な距離を決して越えないよう、常に操に注意を払っている。
一騎が言った通り、彼は優しいイヌだった。操はそれを肌で感じられるようになっていた。
だからだろうか。ふと思うことが多くなった。
あの柔らかそうな焦茶の髪に触れられたら、どんな心地だろう。尖った大きな耳や、少しずつ艶めいてきた長い尻尾はどんな感触なのだろうかと。甲洋を見ていると、そんなことをよく思う。
それは未だかつて一騎にすら抱いたことのない、不思議な欲求だった。
*
朝方ふと、目が覚めた。
昼間はだいぶ春めいてきたが、この時間はまだ幾らか冷える。操は毛布の中でいちど身を震わせると、目を擦りながら身を起こした。
少し空気が乾燥しているような気がして、喉の乾きを覚えた。水を求めて台所へ向かうつもりで、操はなんとなく隣室へ目を向ける。
居間として利用しているこの部屋と、寝室になっている隣の部屋は、寝ている間だけは引き戸がきっちりと閉められていた。
(そういえばおれ、甲洋が寝てるとこまだ一度も見たことないや)
彼の寝姿というものがいまいち想像できなくて、つい気になってしまう。操はこっそりと音をたてないよう近づくと、覗き込める程度に引き戸を開けた。
カーテンの隙間から差し込む薄青の光が、畳の室内をぼんやりと浮かび上がらせている。タンスとクローゼットと、パイプベッド。寝具が整っているそこはなぜか空っぽだった。
(あれ、いない?)
だがすぐにベッドの横に黒い塊があることに気がついた。
こちらに背を向けるようにして身体を丸めた甲洋が、毛布ひとつかけずに床で眠っている。
(え、なんで床で寝てるの?)
初日にベッドを使うように言ったはずなのだが。
彼が来たのは今よりもずっと朝晩の冷え込みが厳しい時期だった。今も十分に肌寒さを感じるというのに、今までもずっとこんな状態で寝ていたのだろうか。
操は慌てて、けれど慎重に寝室へ足を踏み入れる。起こしてしまうかもしれないと思ったが、せめて何かかけてやらなくてはと考えたのだ。
忍び足で息を殺しながら近づいていく。すると、丸まっている甲洋の身体がもぞりと動いた。
「ッ!」
ビクッ、と身を震わせて足を止める。甲洋は微かな寝息を立てたまま、それ以上動く気配はなかった。操は静かに震える息を吐き出し、胸を撫で下ろす。緊張感が半端ない。
なにせこれから操は、自分の限界ギリギリである1メートル半という壁を超えるのだ。もしかしたらその前に彼が起き出してしまうかもしれないが、なるべくその眠りを妨げたくはなかった。
こそ泥のような足取りで、時おり甲洋の様子をチラチラと覗いながらベッドに両手をつく。すぐ傍ではイヌが丸くなっている。すでに距離は1メートル以内で、多分こんなにイヌに近づいたのは初めてだ。心臓がバクバクと音を立てている。
(お、起きないでね? 絶対に起きないでね?)
逆にフラグを立てんばかりに念じながら、ふと、操の中で好奇心の虫が騒ぎ出す。
(寝顔……もうちょっとちゃんと……)
こんな機会はもう二度とないかもしれない。
甲洋はよほど深く眠っているのか、目を覚ます気配がなかった。もしかしたら、今なら彼に触れることだってできるかもしれない。
操はいてもたってもいられず、ベッドに四つん這いで乗り上げる。カーテンの隙間から青く仄白む朝日と街灯の光が射し込み、甲洋の身体をくっきりと浮かび上がらせていた。
(わぁ……甲洋が寝てる……!)
見下ろす寝顔は横からのアングルではあったが、睫毛が長くて綺麗に整っている。長く癖のある焦茶の髪が頬にかかって、なんだか少し、色気があった。
初めて見たときも思ったが、綺麗なイヌだなと改めて感じる。あのときは恐怖ばかりが先立って、じっくり眺める余裕はなかったけれど。
(なんかすっごく、ドキドキするな)
胸の高鳴りが、さっきまでとは違う意味合いに変わっていた。操は頬を赤らめて、その寝顔にしばし見惚れる。
そのとき、甲洋の肩が僅かに震えた。
「ッ!」
「ぅ……こ……」
(え……?)
彼は小さな声で、なにか呻いたようだった。丸まっていた背中をさらに丸めたかと思うと、少し苦しそうな表情を浮かべる。
怖い夢でも見ているのだろうか。竦めた肩が震えているのが痛々しくて、操は思わず身を乗り出すと彼の名を呼んだ。
「こ、甲洋?」
「しょ、ぅ……こ……」
「……しょうこ?」
女性の名前、だろうか。操には当然、心当たりがない。
声はか細く、泣き出しそうに掠れていた。何度も何度も、甲洋はその名を口にする。こんなに苦しそうに、そして悲しそうに彼が名前を呼ぶ存在。それが誰なのか、操にはまるで分からない。
(おれ、甲洋のことなにも知らないんだ)
たった半月。ほんの僅かな情報だけが全てで、彼が何を考えながら生きてきたのか、どんな想いを抱えているのか、操はなにも知らないのだ。勝手に距離が縮まったように思い込んでいただけで、その事実に打ちのめされたような気持ちになる。
操は勇気をだして甲洋に手を伸ばそうとした。震える指先がその肩に触れようとしたとき、ふと気づく。
彼の両手には鬱血したような痣が幾つもあった。目をこらせば指の関節部分にも割れて傷ついた跡が残されており、ほとんどは薄く消えかかってはいるが、同じものが足の先にも見られた。
(これって……?)
総士の話を思いだす。彼は真冬のベランダに長く放置されていたことがあると。おそらくこれはその時のものだ。彼の手足には酷い凍瘡とあかぎれの跡が残っている。この距離まで近づいて、初めて気がついた。
手間も暇も愛情もかけてもらえず、雪の降りしきるベランダで彼は何を思いながらいたのだろう。この傷がもっと深ければ、手足を切り落とすことになっていたかもしれない。むしろ死んでいたっておかしくはないのだ。
彼が虐待を受けていたという事実が、急に重たく伸し掛かってくる。話に聞いていたというだけで、操の中ではどこか現実味を帯びていなかったのかもしれない。こうして生々しい傷跡を直視するまでは。
「甲洋」
操はその名を呼びながら、再び彼に向かって手を伸ばした。
『しょうこ』という人が誰かは分からない。だけどきっと、甲洋の心はまだ真冬のベランダにある。
そんなのは嫌だ。ここには彼を傷つける人間なんかいない。もうどこにもいないのだ。その思いが操から恐怖心を遠ざける。
指先が、初めてその肩に触れた。
「ッ──!!」
瞬間、飛び起きた甲洋が低く唸りながら操の手を叩き落とした。素早く身を起こし、飛び退くように距離を取られる。甲洋の背を受け止めて、引き戸がガタンと音を立てた。
操は咄嗟のことに声なき悲鳴をあげて、無意識に反対側の壁へ身を寄せると肩をすくめる。
甲洋は耳や尻尾の毛を酷く逆立てながら肩を上下させ、我を失ったように唸り続けていた。床に両手をつく彼は、膨らんだ尻尾が内腿に巻き付くような形で丸くなっている。
「……ッ、ぁ」
息を荒げていた甲洋が、ようやく状況を飲み込んで小さな声をあげた。表情は呆然としたものへと変わり、耳をぺたりと後ろへ倒して震わせはじめる。尻尾は、丸まったままだ。
操もまたそれを呆然と見つめるだけだった。心臓が飛び出しそうなほど高鳴っていて、両手を握りしめると胸に押し当てる。身体の震えが止まらなかった。
違う。わかっている。無防備でいるところに、とつぜん触れてしまったから。総士のメモにもあったはずだ。不用意に近づいたり、触れたりはするなと。彼がそれを望まないと。そんなこと、今さら思いだしても遅かった。
驚かせて、怖い思いをさせてしまったのは操の方だ。なのに、初めて見た甲洋の様子にショックを受けて、恐怖が全身を支配してしまう。
ちっとも似ていないのに、あの日、血走った目で牙を剥きながら追いかけてきた猛犬と、彼が重なってしまって。
「こ、こうよ……ご、ごめ」
震える声を絞り出す。ちゃんと伝えたいのにうまくいかなくて、操はただ傷ついたように歪んでいく甲洋の顔を見ているしかできなかった。
甲洋は少しずつ探るように背後の戸に手のひらを這わせながら、身体を横に移動させた。瞬きもせず操を注視し続け、立ち上がると弾かれたように部屋から出ていってしまう。
「甲洋、待って!」
咄嗟に手を伸ばす。ベッドから転がり落ち、床に膝をつく操の耳に、玄関の扉が開いては閉じる音が無情にも響き渡った。
←戻る ・ 次へ→
操が甲洋を預かってから、一週間ほどが経過した。
一人と一匹の関係は、甲洋が初めて言葉を発したあの夜から少しずつ変化していった。
まず大きな変化として、甲洋は食事をするようになった。
一騎が持ってきてくれたレシピ本が功を奏し、操が失敗を繰り返すこともなくなった。相変わらず包丁の扱いは危なっかしいが、多少は気持ちに余裕が生まれたような気がする。
彼は相変わらず表情に動きはないし、滅多に口を開くことはなかったが、あの不安やストレスを訴える尻尾の動きはほとんど見せることがなくなった。
最近はただ黙ってそこにいるだけでなく、本棚の雑誌類を眺めて過ごすこともある。テレビをつければ一緒に見ているし、操が言ったことに対して短く返事をすることもあった。
けれど、気がつくと窓の外を眺めているのは相変わらずだった。
ここは一階だし、窓の向こう側はあまり手入れが行き届いていない生け垣と、フェンスがあるだけだ。そのさらに向こうには堀をはさんで道路が走っている。
通行人がいても全く見えないし、そもそも見ていて楽しい景色ではないはずなのに。
何度か聞いてみようと思ったことはある。
だけどそういうときの甲洋は、どこか壁が厚いように感じられた。操にはイヌの気持ちは分からないけれど、それだけはなぜかハッキリと伝わるのだった。
*
夕食のメニューは焼きコロッケ、ほうれん草とツナの和え物、そしてキノコと玉子のコンソメスープだ。
もちろん全てオーブンレンジを使って調理した。手順も味付けも本に書いてあるとおり行ったため、おそらく失敗はしていないはず。
コロッケの横に添えてあるキャベツが、千切りというよりぶつ切りに近い状態であることは、少々気になるところだが。
食事の際、操は居間の中央にあるローテーブルで、甲洋はいつもの本棚脇に腰を下ろす。盆に乗せてはいても床に食べ物を置くのは悪い気がして、普段ほとんど使用していないアイロン台をテーブル代わりに使ってもらっていた。
操は箸も取らずに僅かに身を乗り出し、コロッケを箸で割る甲洋をじっと見つめた。
口に放り込まれるのを見てまずは一安心し、それからさらに反応を窺う。が、彼は特に何も言わずに行儀よく食事を進めるだけだった。
「ねぇ甲洋~。たまにはさ、うんとかすんとか言ってよぉ」
最初こそ食べてくれるだけで十分だったが、やはりどうしても何かしらの反応を期待してしまう。ぶぅっと唇を尖らせた操をチラリと見た甲洋は、手にしていたご飯茶碗を盆に戻すと、たった一言「うん」と言った。
「うん、じゃなくてー!」
「……言えって言ったのに」
「ねぇ、君って実は、ちょっと意地悪だったりする?」
じっとりとした目で見ても、甲洋はそれ以上なにも言ってはくれなかった。ただ、少しだけ口元がピクリと動いたような気がする。もしかして、笑うのを堪えたのだろうか。
(ま、いっかー)
操はふにゃりと笑うと「いただきます」と言って、自分もようやく箸をとった。
まん丸のコロッケには一騎が持ってきてくれたジャガイモを使っている。ほくほくのそれを口に運ぶと、表面もさっくりとした仕上がりで十分美味しく出来上がっていた。
「うん、おいしー!」
ひき肉にもしっかり火が通っているし、ジャガイモはほのかに甘い。なんだかプロの料理人にでもなったような気分だ。
テレビ画面ではゴールデンタイムの賑やかなバラエティ番組が放送されていた。漁港から芸人とアイドルが船に乗り、沖に出て旬の青物を狙っている。
操はリスのように膨らませた頬をモゴモゴとさせながらそれを見ていたが、ふと甲洋が箸を止めてその様子を食い入るように見つめていることに気がついた。
「甲洋、もしかして海が好きなの?」
それとも釣りに興味があるのだろうか。
思えば甲洋という名の『洋』の字は、外海を表すものだ。どこまでも広く、満ち満ちた様を意味する言葉。
しかし、彼は特になにを言うでもなくテレビから目を逸らしてしまった。別に、というそっけない声が聞こえてきそうな気がして、操は少し残念な気持ちになる。
(もっといっぱい話せるようになったらいいのにな)
料理の感想を求める以上に、それは贅沢な望みなのかもしれない。
*
食後、少し休憩してから操は食器を洗って片す作業をしていた。
甲洋には食器だけ下げてもらい、すぐに居間に引っ込んでもらった。彼は操が近づけるギリギリのラインを決して超えようとしない。気を使わせるのは悪いと思うが、とても助かっている。
(海……海かぁ……。そういえばおれ、まだ一回も甲洋を散歩させてない……?)
気がついて愕然とした。
ヒト型のイヌは外で用を足すことはしない。しかしずっと家に引きこもった暮らしをさせるなんて、不健康にもほどがある。食事をさせることに手一杯だったとはいえ、これでは結局ストレスを溜めこませる結果になっているのではないか。
操は手にしていた食器をいったん流しに戻すと、居間にいる甲洋を振り返った。
「甲洋! 明日一緒に──」
そのときだった。
「……ん?」
何か黒いものが、足元を横切ったような気がした。
操は一瞬で身を硬直させ、その黒いものが向かった方向へ視線を走らせる。
板張りの床。食器棚のすぐ近くに、黒光りするそいつはいた。所詮、嫌われ者のあの虫だ。しかも、そこそこ大きい。触覚が小刻みに動いているのを見て、操は血の気が引いていくのを感じながら悲鳴をあげた。
「う、うわぁーッ!? な、なな、なんでこいつがいるの!? 今まで一度も出たことなかったのにぃ!!」
部屋の中は常に暖房がきいているからだろうか。それとも、最近ちゃんと自炊をしているため、生ごみが出るからなのか。
とにかく、どこからかやってきたそいつは我がもの顔で台所をウロチョロしはじめる。
「やだやだ! 動かないで! やだぁー!」
操はあまりの恐怖に腰を抜かし、その場で丸くなって頭を抱えた。全身に鳥肌が立ち、涙が滲む。
わかっている。奴は毒針を持つような生き物ではないし、害を加えてくることはない。だが、その見た目が完全に悪だ。ちょっと素早いカブトムシだと思おうとしても無理がある。というか、カブトムシに失礼だ。
ただ震えて喚くしかできないでいると、パァンという大きな音がした。
「ッ!?」
顔をあげる。居間から続く台所の入り口に、甲洋が片膝をついていた。
彼は手に丸めた雑誌を持っている。チョロチョロと動き回っていたヤツの姿はどこにもない。多分、雑誌の下で原型すら留めていないだろう。
「こ、甲洋ぉ……?」
操は全身から力が抜けるのを感じながら、ぽろぽろと涙を零していた。甲洋はふっと息をつきながら立ちあがり、ヤツが付着しているであろう面を隠すように雑誌を折りたたんだ。
「そこどいて。捨てるから」
ゴミ箱は流しの脇にある。操がいては安全圏を侵すことになってしまうと考え、甲洋は簡潔に指示を出すと目線だけで玄関側に合図を送る。
操は言われた通り移動した。玄関土間まですっかり逃げ込むと、しゃがみ込んで甲洋の動向を見守る。
彼はゴミ箱の蓋を開け、雑誌ごと中に放り込むとまた蓋をした。キッチンペーパーを何枚か取り、食器用洗剤の横に並べてある台所用洗剤を掴むと、ヤツを潰した飛沫が残る床に洗剤を大量に噴きかけた。そしてキッチリと拭き取る。
それから洗剤を元に戻し、汚れたペーパーをゴミ箱に捨てたところで甲洋が操を振り返った。
一連の動きを見届けた操は、目を潤ませながら深く感動する。
「甲洋……さっき意地悪って言ったのなし……甲洋は、名犬だよ……!」
もしここに彼がいなかったら、操は何もできずに泣きべそをかきながら、この部屋を飛び出していたに違いない。そして総士と一騎の暮らすマンションへ押しかけ、二度と戻らなかった自信がある。
「すごくカッコよかった……ありがとう……うぅ、甲洋がいてくれてよかったよぉ~!」
膝に顔を埋めて打ち震える操に少し困った顔をした甲洋は、指先で頬を掻きながら「それはどうも」と言って、足早に居間の方へと去って行ってしまう。
その頬は照れくさそうに、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
←戻る ・ 次へ→
一人と一匹の関係は、甲洋が初めて言葉を発したあの夜から少しずつ変化していった。
まず大きな変化として、甲洋は食事をするようになった。
一騎が持ってきてくれたレシピ本が功を奏し、操が失敗を繰り返すこともなくなった。相変わらず包丁の扱いは危なっかしいが、多少は気持ちに余裕が生まれたような気がする。
彼は相変わらず表情に動きはないし、滅多に口を開くことはなかったが、あの不安やストレスを訴える尻尾の動きはほとんど見せることがなくなった。
最近はただ黙ってそこにいるだけでなく、本棚の雑誌類を眺めて過ごすこともある。テレビをつければ一緒に見ているし、操が言ったことに対して短く返事をすることもあった。
けれど、気がつくと窓の外を眺めているのは相変わらずだった。
ここは一階だし、窓の向こう側はあまり手入れが行き届いていない生け垣と、フェンスがあるだけだ。そのさらに向こうには堀をはさんで道路が走っている。
通行人がいても全く見えないし、そもそも見ていて楽しい景色ではないはずなのに。
何度か聞いてみようと思ったことはある。
だけどそういうときの甲洋は、どこか壁が厚いように感じられた。操にはイヌの気持ちは分からないけれど、それだけはなぜかハッキリと伝わるのだった。
*
夕食のメニューは焼きコロッケ、ほうれん草とツナの和え物、そしてキノコと玉子のコンソメスープだ。
もちろん全てオーブンレンジを使って調理した。手順も味付けも本に書いてあるとおり行ったため、おそらく失敗はしていないはず。
コロッケの横に添えてあるキャベツが、千切りというよりぶつ切りに近い状態であることは、少々気になるところだが。
食事の際、操は居間の中央にあるローテーブルで、甲洋はいつもの本棚脇に腰を下ろす。盆に乗せてはいても床に食べ物を置くのは悪い気がして、普段ほとんど使用していないアイロン台をテーブル代わりに使ってもらっていた。
操は箸も取らずに僅かに身を乗り出し、コロッケを箸で割る甲洋をじっと見つめた。
口に放り込まれるのを見てまずは一安心し、それからさらに反応を窺う。が、彼は特に何も言わずに行儀よく食事を進めるだけだった。
「ねぇ甲洋~。たまにはさ、うんとかすんとか言ってよぉ」
最初こそ食べてくれるだけで十分だったが、やはりどうしても何かしらの反応を期待してしまう。ぶぅっと唇を尖らせた操をチラリと見た甲洋は、手にしていたご飯茶碗を盆に戻すと、たった一言「うん」と言った。
「うん、じゃなくてー!」
「……言えって言ったのに」
「ねぇ、君って実は、ちょっと意地悪だったりする?」
じっとりとした目で見ても、甲洋はそれ以上なにも言ってはくれなかった。ただ、少しだけ口元がピクリと動いたような気がする。もしかして、笑うのを堪えたのだろうか。
(ま、いっかー)
操はふにゃりと笑うと「いただきます」と言って、自分もようやく箸をとった。
まん丸のコロッケには一騎が持ってきてくれたジャガイモを使っている。ほくほくのそれを口に運ぶと、表面もさっくりとした仕上がりで十分美味しく出来上がっていた。
「うん、おいしー!」
ひき肉にもしっかり火が通っているし、ジャガイモはほのかに甘い。なんだかプロの料理人にでもなったような気分だ。
テレビ画面ではゴールデンタイムの賑やかなバラエティ番組が放送されていた。漁港から芸人とアイドルが船に乗り、沖に出て旬の青物を狙っている。
操はリスのように膨らませた頬をモゴモゴとさせながらそれを見ていたが、ふと甲洋が箸を止めてその様子を食い入るように見つめていることに気がついた。
「甲洋、もしかして海が好きなの?」
それとも釣りに興味があるのだろうか。
思えば甲洋という名の『洋』の字は、外海を表すものだ。どこまでも広く、満ち満ちた様を意味する言葉。
しかし、彼は特になにを言うでもなくテレビから目を逸らしてしまった。別に、というそっけない声が聞こえてきそうな気がして、操は少し残念な気持ちになる。
(もっといっぱい話せるようになったらいいのにな)
料理の感想を求める以上に、それは贅沢な望みなのかもしれない。
*
食後、少し休憩してから操は食器を洗って片す作業をしていた。
甲洋には食器だけ下げてもらい、すぐに居間に引っ込んでもらった。彼は操が近づけるギリギリのラインを決して超えようとしない。気を使わせるのは悪いと思うが、とても助かっている。
(海……海かぁ……。そういえばおれ、まだ一回も甲洋を散歩させてない……?)
気がついて愕然とした。
ヒト型のイヌは外で用を足すことはしない。しかしずっと家に引きこもった暮らしをさせるなんて、不健康にもほどがある。食事をさせることに手一杯だったとはいえ、これでは結局ストレスを溜めこませる結果になっているのではないか。
操は手にしていた食器をいったん流しに戻すと、居間にいる甲洋を振り返った。
「甲洋! 明日一緒に──」
そのときだった。
「……ん?」
何か黒いものが、足元を横切ったような気がした。
操は一瞬で身を硬直させ、その黒いものが向かった方向へ視線を走らせる。
板張りの床。食器棚のすぐ近くに、黒光りするそいつはいた。所詮、嫌われ者のあの虫だ。しかも、そこそこ大きい。触覚が小刻みに動いているのを見て、操は血の気が引いていくのを感じながら悲鳴をあげた。
「う、うわぁーッ!? な、なな、なんでこいつがいるの!? 今まで一度も出たことなかったのにぃ!!」
部屋の中は常に暖房がきいているからだろうか。それとも、最近ちゃんと自炊をしているため、生ごみが出るからなのか。
とにかく、どこからかやってきたそいつは我がもの顔で台所をウロチョロしはじめる。
「やだやだ! 動かないで! やだぁー!」
操はあまりの恐怖に腰を抜かし、その場で丸くなって頭を抱えた。全身に鳥肌が立ち、涙が滲む。
わかっている。奴は毒針を持つような生き物ではないし、害を加えてくることはない。だが、その見た目が完全に悪だ。ちょっと素早いカブトムシだと思おうとしても無理がある。というか、カブトムシに失礼だ。
ただ震えて喚くしかできないでいると、パァンという大きな音がした。
「ッ!?」
顔をあげる。居間から続く台所の入り口に、甲洋が片膝をついていた。
彼は手に丸めた雑誌を持っている。チョロチョロと動き回っていたヤツの姿はどこにもない。多分、雑誌の下で原型すら留めていないだろう。
「こ、甲洋ぉ……?」
操は全身から力が抜けるのを感じながら、ぽろぽろと涙を零していた。甲洋はふっと息をつきながら立ちあがり、ヤツが付着しているであろう面を隠すように雑誌を折りたたんだ。
「そこどいて。捨てるから」
ゴミ箱は流しの脇にある。操がいては安全圏を侵すことになってしまうと考え、甲洋は簡潔に指示を出すと目線だけで玄関側に合図を送る。
操は言われた通り移動した。玄関土間まですっかり逃げ込むと、しゃがみ込んで甲洋の動向を見守る。
彼はゴミ箱の蓋を開け、雑誌ごと中に放り込むとまた蓋をした。キッチンペーパーを何枚か取り、食器用洗剤の横に並べてある台所用洗剤を掴むと、ヤツを潰した飛沫が残る床に洗剤を大量に噴きかけた。そしてキッチリと拭き取る。
それから洗剤を元に戻し、汚れたペーパーをゴミ箱に捨てたところで甲洋が操を振り返った。
一連の動きを見届けた操は、目を潤ませながら深く感動する。
「甲洋……さっき意地悪って言ったのなし……甲洋は、名犬だよ……!」
もしここに彼がいなかったら、操は何もできずに泣きべそをかきながら、この部屋を飛び出していたに違いない。そして総士と一騎の暮らすマンションへ押しかけ、二度と戻らなかった自信がある。
「すごくカッコよかった……ありがとう……うぅ、甲洋がいてくれてよかったよぉ~!」
膝に顔を埋めて打ち震える操に少し困った顔をした甲洋は、指先で頬を掻きながら「それはどうも」と言って、足早に居間の方へと去って行ってしまう。
その頬は照れくさそうに、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
←戻る ・ 次へ→
「よし! 今日こそ美味しいご飯を作るぞ!」
その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。
まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。
鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。
「でも、がんばる」
甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。
するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。
「はーい?」
操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。
するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。
「うわぁ!? 一騎ぃ!?」
「よ、来主。なんか久しぶりだな」
反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。
「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」
「う、うん。わかった」
一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。
ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。
「一体どうしたの? 総士は?」
「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」
「うん」
操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。
「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」
「いいよ、気にしなくて」
そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。
「それなに?」
「確認してくれ」
言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。
「あ、これって……服?」
「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」
「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」
「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」
「ありがとう一騎!」
感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。
甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。
上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。
鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。
(そういえば甲洋、ノーパンだ……)
今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。
操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。
「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」
野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。
「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」
「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」
「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」
中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。
これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。
「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」
「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」
操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。
これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。
「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」
「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」
「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」
「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」
そうだと言って一騎が頷いた。
彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。
甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。
しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。
「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」
「……ありがとな、来主」
一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。
「甲洋は、今どうしてる?」
「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」
泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。
「……尻尾はどうだ?」
「尻尾?」
小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。
「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」
操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。
「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」
それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。
「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」
「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」
「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」
一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。
操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。
(悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって)
イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。
「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」
「……そう、かな」
「優しいよ。あいつは」
「それも、心を読んだからわかるの?」
一騎は小さく笑って首を振った。
「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」
*
一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。
操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。
「こ、甲洋」
ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。
操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。
距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。
「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」
甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。
「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」
それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。
操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。
自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。
ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。
「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」
大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」
一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。
「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」
「!」
一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。
それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。
「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」
甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。
三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。
「別にいい」
「え?」
操は耳を疑った。
「甲洋、いまなんて」
「……別に、気にしてないから」
少し硬いが、静かで優しい声だった。
操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。
(甲洋が……喋った……)
驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。
少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。
「うぅ……ぅ~……」
「?」
「やったー!!」
「ッ!」
込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。
「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」
万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。
←戻る ・ 次へ→
その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。
まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。
鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。
「でも、がんばる」
甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。
するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。
「はーい?」
操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。
するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。
「うわぁ!? 一騎ぃ!?」
「よ、来主。なんか久しぶりだな」
反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。
「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」
「う、うん。わかった」
一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。
ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。
「一体どうしたの? 総士は?」
「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」
「うん」
操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。
「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」
「いいよ、気にしなくて」
そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。
「それなに?」
「確認してくれ」
言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。
「あ、これって……服?」
「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」
「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」
「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」
「ありがとう一騎!」
感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。
甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。
上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。
鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。
(そういえば甲洋、ノーパンだ……)
今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。
操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。
「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」
野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。
「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」
「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」
「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」
中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。
これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。
「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」
「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」
操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。
これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。
「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」
「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」
「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」
「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」
そうだと言って一騎が頷いた。
彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。
甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。
しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。
「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」
「……ありがとな、来主」
一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。
「甲洋は、今どうしてる?」
「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」
泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。
「……尻尾はどうだ?」
「尻尾?」
小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。
「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」
操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。
「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」
それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。
「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」
「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」
「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」
一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。
操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。
(悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって)
イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。
「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」
「……そう、かな」
「優しいよ。あいつは」
「それも、心を読んだからわかるの?」
一騎は小さく笑って首を振った。
「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」
*
一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。
操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。
「こ、甲洋」
ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。
操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。
距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。
「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」
甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。
「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」
それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。
操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。
自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。
ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。
「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」
大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」
一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。
「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」
「!」
一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。
それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。
「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」
甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。
三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。
「別にいい」
「え?」
操は耳を疑った。
「甲洋、いまなんて」
「……別に、気にしてないから」
少し硬いが、静かで優しい声だった。
操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。
(甲洋が……喋った……)
驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。
少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。
「うぅ……ぅ~……」
「?」
「やったー!!」
「ッ!」
込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。
「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」
万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。
←戻る ・ 次へ→
三日後。
操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
←戻る ・ 次へ→
操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
←戻る ・ 次へ→
あと少しでも帰りが遅かったら、ふたりともずぶ濡れになっていただろう。
甲洋にはまず真っ先に風呂に入ってもらった。足の裏は幸い傷ついていなかったが、長いこと海風にさらされた身体が酷く冷え切っていたからだ。
彼が出てくるのを待ちながら、操は床に腰を落ち着けて自分の手の平をじっと見つめた。
(おれ、思いっきりイヌに触っちゃった)
今更だが、自分でも信じられない。1メートル半という距離を狭めたことすら驚きなのに、あんなふうに強引に手を引くなんて。
あのときは考える余裕がなかったからかもしれない。この機を逃せば、もう二度と彼を連れ戻すことはできないと思ったから。
ほっと息をついていると、風呂からあがった甲洋が居間に戻ってきた。紺のスウェット上下は一騎が持ってきてくれたもので、丈もぴったりだ。
しっかりドライヤーをかけるようにしつこく言ったからか、潮風でごわついていた髪と尻尾の毛も、ちゃんと乾いてふわふわになっている。
「肩まであったまった?」
「うん」
「いい子だね」
ホッとして笑う操に、甲洋は目をそらすだけで何も言わなかった。
操は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言って寝室へ向かった。ベッド脇にあるチェストの引き出しを漁り、目当てのものを見つけだすとまた居間に戻る。
甲洋は本棚の脇にあぐらをかいて、操が戻ってくるのを待っていた。
「近くに寄るよ。ビックリしないでね」
「?」
断りを入れてから、操は緊張を和らげるためにそっと深呼吸をした。それから、甲洋の目の前までゆっくり近づくと、その場にぺたりと座り込む。膝が触れそうなほど近い距離だ。
「な、なに?」
むしろ戸惑って身を引こうとしたのは甲洋の方だ。けれど背中が壁に当って、逃げ場がない。
操は持ってきた塗り薬の丸いケースの蓋を開けながら「手を出して」と言った。甲洋が探るような目を向けてくる。
「大丈夫。ねぇ、ほら早く」
おずおずと差し出された右手を取って、操はケースから指先ですくいあげた白いクリームを丁寧に塗り込めていく。未だに痣と傷が残る指の一本一本に。
「これ、消えるまで毎日するから。気づかなくて、ごめん」
操の指先は情けないほど震えていた。改めてこんなに近くで触れるとなると、本能的に刻み込まれた恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。
だけどそれは甲洋も同じなのかもしれない。こうしていると、触れられることに慣れていないのがよく分かる。彼は身を強張らせ、ずっと息を殺しているようだった。
右手が終わると、今度は左手だ。目で合図するだけで、甲洋は戸惑いながらもう片方を差し出してきた。
「……怖くないの?」
緊張した様子の声に問われて、操は少しだけ笑った。
「怖いよ、すごく」
「ならどうして」
「甲洋だから、だと思う」
左手にも軟膏を塗り込めながら言う。甲洋はわずかに息を呑んだだけだった。バタバタという雨音が、絶え間なく静かな空間に響き渡っている。
「だって甲洋は優しいもん」
優しすぎるから、傷つきやすい。
軽率な真似をして怯えさせてしまったのは操の方なのに、彼は自分を責めるのだ。もう傍にはいられないと言って、ひとりぼっちで雨に濡れようとしていた。
「あの公園で君を見つけたとき、君の背中が、海に消えてしまいそうで怖かった。君が部屋を飛び出してしまったときも、どうしたらいいか分からなくて」
容子の家を出たあと、海へ向かったのはイチかバチかの賭けだった。海が好きなのかと問いかけたとき、彼はほとんど反応を示さなかったけれど、あの食い入るような眼差しは印象深いものだった。
ここから比較的近い場所で海を臨める場所といえば、あの公園しかない。広大な敷地内を駆けずり回るのは骨が折れたが、彼がそこにいてくれて本当によかった。
「おれは、甲洋がいなくなることのほうがずっと怖い。それがわかったから、いいんだ」
子供の頃の体験は、決して忘れられるものではなかった。あと少しでも飼い主が駆けつけるのが遅ければ、どうなっていたか分からない。
初めて見た総士の泣き顔。傷ついて血が溢れ出す膝小僧。それでもなお吠え立て、飛びかかってこようとした犬の声。それは幼い操が、生まれて初めて『死』を意識させられた瞬間だった。
だけど甲洋は、操が抱えるものをただ静かに受け止めてくれた。こんな狭い家の中で、その領域を侵さないように注意を払ってくれた。
彼は操を怖がらせるような真似は絶対にしなかった。イヌというだけで無条件に恐れ、厚い壁を作っていたのは操自身だったのだ。
「おれ、甲洋のこと好きだよ。だからもう一人ぼっちにならないで。君が寂しいのは、嫌なんだ」
触れている甲洋の指が震えている。それは彼の心が震えているからなのだと思った。操は人間だから、読心能力は使えない。だけどなぜか、今はそれがハッキリと伝わってきたような気がした。
「……お前が、なぜそんなことを言うのか分からない」
声さえも震わせて、甲洋は言った。操はこの声を好きだと思った。柔らかで、とても繊細で。その心に、もっと触れてみたいと思う。
「俺にはそんな価値ないよ。役立たずで、なにも持ってない。優しいんじゃなくて、臆病なだけだ」
震えている甲洋の手を、操は両手で包み込んだ。しっとりとしたそれはとても温かい。骨ばっていて、大きな手だった。この手から、どれだけの幸せが通り抜けていったのだろう。
「それが君の心の中なんだね。話してくれて嬉しい。おれには、君たちのような力はないから」
ずっと無口だった彼が、初めて吐露した心情だ。
それがどんなに自己を否定するものだったとしても、何も言ってくれないよりずっといい。
「なにも持ってなくたっていいよ。それって、これから沢山なにかを掴めるってことでしょ? それにさ、おれは君に色んなものをもらったよ」
「もらった?」
「うん。誰かに食べてもらうためにご飯を作るのって、あんなに楽しいんだ。君がいなかったら、ずっと知らないままだった。台所にあの虫が出たときも、おれ一人だったらなにもできなかったし……あ、今そのくらいのことでって思った?」
「……少し」
正直な甲洋に、操は思わずムッとして唇を尖らせた。
「だってアイツ怖いじゃん。なんで平気なの?」
「なんでって言われても……別に無害だし」
「存在が有害だよ! なんであんなに黒くてテラテラしてなきゃいけないのぉ!?」
「わ、わかった。わかったから、泣かないで」
あの黒光りするフォルムを思いだすだけで涙が滲んでしまった操に、甲洋は珍しく焦ったように言った。
「じゃあ……またアイツが出たらやっつけてくれる?」
濡れた瞳で上目遣いに見ると、甲洋はなぜか目線を逸らしながら「いいよ」と言って頷いた。
操は安堵からふにゃりとした情けない笑みを浮かべる。
「よかったぁ。甲洋はカッコイイし優しいし、頼もしいね」
「よせ、俺はそんなんじゃ」
「おれはおれが思ったことを言ってるだけ。甲洋は綺麗な顔してるし、背も高くて手も足も長いし、虫もやっつけてくれるし、おれ甲洋の悪いとこ一個も言えないよ。だって思いつかないもん」
甲洋はいよいよ耐えきれなくなったとばかりに、空いている方の手で顔を覆い隠してしまった。それでも隠れきれていない頬や目元が、真っ赤に染まっている。
「甲洋?」
「……やめて」
蚊の鳴くような声だ。あまりにも見慣れない光景に、操はぽかんと口を開けてしまった。
そして気がつく。背にしている壁に挟まれて、その動きはだいぶ妨げられてはいるが、彼の黒く立派な尻尾が左右に大きく振られていることに。
総士と一緒にいるとき、一騎もよくこんなふうに尻尾を振っているのを思いだす。
「嬉しくなるから……それ以上は、言わないで……」
「ッ!」
操は一気に肌が粟立つような感覚に襲われた。釣られてこちらまで顔が熱くなってしまう。
なんだろうこれは。反則、という二文字が頭の中にぽかりと浮かんだ。
「……甲洋って、可愛いんだ」
これ以上は本気で嫌がるかもしれないと思いながら、つい口走ってしまう。
甲洋は指の隙間から揺れる瞳で操を睨みつけて「違う」と言った。それすらもなんだか可愛い。同時に、胸がやけに騒がしく跳ね上がるのを感じた。
(な、なんだこれ……なんか、ドキドキが止まらない……?)
朝方こっそりと彼の寝顔を覗き見たときに感じたものと、少し似ている。だけど、今はそれがより鮮明に感じられるような気がした。急に丸裸にされたみたいに、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
すると、なぜか甲洋の手に触れていることが恥ずかしくなってきた。離さなくちゃと、そう思った瞬間、窓の外が白い光に包まれる。
「ぴゃッ!?」
一瞬遅れて、遠くから太鼓を乱れ撃つような音が響き渡った。
操は突然の轟音に驚き、ぴょんっと跳あがる勢いで身体を揺らす。咄嗟に甲洋の左手を胸に引き寄せ、肩を竦めると薄暗い窓の外を見た。激しさを増した雨の雫が、絶え間なくガラスに爪を立てている。
「雷だ」
「は、春って雷鳴るのぉ!?」
「春雷だよ」
天井を見上げるようにして言った甲洋の言葉にかぶさるように、再び雷鳴が轟いた。
「うわあぁッ! な、なんだよもうー!」
甲洋の手を強く抱きしめて叫ぶ操を、揺れる瞳が戸惑ったように見つめてくる。
「怖いの?」
「なんで怖くないのぉ!?」
背中を丸め、涙目で見上げた操に目を瞬かせて、甲洋が笑った。
ふ、と小さく吹きだすことから始まり、しまいには肩をくつくつと震わせはじめる。
「こ、こうよお?」
笑っている。どんなときも決して笑顔を見せなかった甲洋が。
なぜか再び尻尾を振りながら、楽しそうに、嬉しそうに。
「ごめん」
目尻を指先で拭いながら、彼はそれでもまだ笑っている。
「怖いものが沢山あるんだな、来主は」
泣けばいいのか、笑えばいいのか、操にはもう何もわからなくなってしまった。
こんなに綺麗な笑顔を初めて見た。そして、初めて名前を呼ばれた。
胸が痛い。何かに刺し貫かれたように。息ができない。
(ああ、手を──)
離さなければと思っていたのに。
三度雷鳴が轟いたのを理由に、操は温かな手を殊さら強く、両手で握りしめた。
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